僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十三話「母親殺害事件」

 

第一幕 殺人事件は、被害者が生まれる前に始まった

 緑谷出久は、自分の母親を殺す未来を見せられていた。

 

 正確には、未来ではない。

 

 事件記録だった。

 

 発生予定時刻、午前二時十三分。

 

 被害者、緑谷引子。

 

 加害者、緑谷出久。

 

 事件名、母親殺害事件。

 

 ただし、被害者はまだ生まれていません。

 

 その一文が、出久の頭から離れなかった。

 

「……どういうことだよ」

 

 声が震えた。

 

 目の前には、二人の母親がいる。

 

 一人は、出久を育ててきた母親。

 

 もう一人は、出久を産んだと主張する、もう一人の母親。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 同じ名前。

 

 けれど、二人の記憶は違っている。

 

 一人は、出久を一人息子として育ててきた。

 

 もう一人は、最初に生まれた息子を失い、その喪失を何度も繰り返してきた。

 

 そして二人とも、出久の兄を殺したのは自分だと言った。

 

「……お母さん」

 

 出久は、目の前の二人を見つめた。

 

「僕は……何をすればいいの?」

 

 引子は、答えられなかった。

 

 もう一人の引子も、答えられなかった。

 

 出久は、泣きそうな顔で笑った。

 

「僕、ヒーローになりたかったんだ」

 

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 

「誰かを助けられる人になりたかった。困ってる人を見たら、手を伸ばせる人になりたかった。誰かが泣いていたら、笑ってもらえるまで頑張れる人になりたかった」

 

 彼は、自分の手を見た。

 

「でも、僕は……」

 

 指先が震える。

 

「僕は、何度も世界を壊したんだね」

 

 麗日お茶子は、出久の隣に立っていた。

 

 彼女は、彼の手を握ろうとした。

 

 けれど、出久はそれに気づかなかった。

 

 彼の視線は、二人の母親から離れない。

 

「僕は、何度もお兄ちゃんを殺した」

 

 その言葉に、二人の引子が同時に顔を歪めた。

 

「そして今度は……お母さんを殺すの?」

 

 その瞬間。

 

 部屋の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『事件発生まで、残り十三時間』

 

 出久は、時計を見た。

 

 午前二時十三分。

 

 秒針は動いていない。

 

 けれど、文字だけが変化していた。

 

『残り十二時間五十九分』

 

『残り十二時間五十八分』

 

『残り十二時間五十七分』

 

 カウントダウンが始まっていた。

 

 世界は、事件が起きることを知っている。

 

 事件の犯人も、被害者も知っている。

 

 そして、事件が起きる時刻も。

 

 ただ一つだけ。

 

 誰も知らないことがあった。

 

 なぜ、母親がまだ生まれていないのか。

 

 なぜ、息子が母親を殺すことになっているのか。

 

 そして。

 

 なぜ、その事件を止めるために、緑谷出久自身が動かなければならないのか。

 

「……先生」

 

 出久は、ようやく麗日の手を握り返した。

 

「相澤先生に、連絡して」

 

「うん」

 

「塚内さんにも。爆豪くんにも。みんなに……」

 

 彼は、息を吸った。

 

「僕が何をしたのか、全部調べたい」

 

 麗日は頷いた。

 

「うん。一緒に調べよう」

 

「それから……」

 

 出久は、二人の母親を見た。

 

「お母さんたちを、守りたい」

 

 その言葉に。

 

 もう一人の引子が、初めて声を上げて泣いた。

 

「……ああ」

 

 彼女は、口元を押さえた。

 

「やっぱり、あなたは……」

 

 言葉が続かない。

 

 彼女は、出久を見つめていた。

 

 その顔に浮かんでいたのは、恐怖だった。

 

 息子に殺されることへの恐怖ではない。

 

 息子が、また同じことを繰り返そうとしていることへの恐怖だった。

 

「……お願い」

 

 彼女は、震える声で言った。

 

「もう、私を助けないで」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「私を助けようとしないで、出久」

 

 彼女は、涙を流しながら笑った。

 

「あなたが私を助けようとするたびに、あなたは誰かを犠牲にする」

 

 その言葉に、引子が顔を上げた。

 

「……違うわ」

 

 もう一人の引子が、振り返る。

 

 引子は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「この子は、誰も犠牲にしない」

 

「あなたに何が分かるの?」

 

「分からないわ」

 

 引子は、正直に答えた。

 

「この子が何をしたのか、まだ全部は分からない。あなたが誰なのかも、私が何を忘れていたのかも、何も分からない」

 

 彼女は、出久の肩に手を置いた。

 

「でも、私はこの子の母親よ」

 

 もう一人の引子の表情が揺れた。

 

「……だから?」

 

「だから、この子が間違えたら、間違えたと言う」

 

 引子は、息子を見つめた。

 

「この子が誰かを傷つけたら、そのことから目を背けない」

 

 そして。

 

「この子が、自分を犠牲にして誰かを助けようとしたら……私は、この子を止める」

 

 出久は、母親を見上げた。

 

「……お母さん」

 

「出久」

 

 引子は、息子の頬に触れた。

 

「あなたは、私の息子よ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 もう一人の引子が、目を閉じた。

 

 そして、かすかに呟いた。

 

「……ずるいわね」

 

 引子が顔を向ける。

 

 彼女は、涙を拭っていた。

 

「そんなことを言われたら……私だって、もう一度、母親になりたくなるじゃない」

 

 その瞬間。

 

 壁のカウントダウンが止まった。

 

『残り十二時間五十七分』

 

 数字が、ぴたりと固定される。

 

 そして、その下に、新しい文字が浮かんだ。

 

『被害者の意思を確認しました』

 

『事件の成立条件が変化しています』

 

『新たな被害者候補を登録します』

 

 出久の顔が青ざめた。

 

「……新たな被害者?」

 

 文字が変わる。

 

『被害者候補A:緑谷引子』

 

『被害者候補B:緑谷引子』

 

『被害者候補C:緑谷出久』

 

 出久は、息を止めた。

 

 そして。

 

『被害者候補D:麗日お茶子』

 

 麗日の名前が表示された瞬間、出久は彼女の前に立った。

 

「……やめろ」

 

 低い声だった。

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 世界か。

 

 記録か。

 

 それとも、自分自身か。

 

「麗日さんは、関係ない」

 

 文字が、ゆっくりと変わった。

 

『訂正』

 

『麗日お茶子は、事件の成立に不可欠な人物です』

 

 出久の呼吸が止まった。

 

『彼女が存在しなければ、緑谷出久は母親を殺害しません』

 

『彼女が存在すれば、緑谷出久は母親を殺害します』

 

『したがって――』

 

 文字が、黒く塗り潰された。

 

 その下から、別の文章が浮かび上がった。

 

『麗日お茶子を消去すれば、事件は成立しません』

 

 部屋の空気が、凍りついた。

 

 出久は、麗日の手を握りしめた。

 

「……絶対に、そんなことはさせない」

 

 彼は、壁を睨みつけた。

 

「僕は、もう誰も選ばない」

 

 文字は、答えなかった。

 

 ただ、最後に一行だけ、表示された。

 

『その選択は、すでに十三年前に実行されています』

 

     *

第二幕 警察は、存在しない事件を捜査する

 午前二時十三分。

 

 塚内直正は、警察署の会議室にいた。

 

 机の上には、三つのファイルが並んでいる。

 

 一つ目は、緑谷出久に関する記録。

 

 二つ目は、緑谷久志に関する記録。

 

 三つ目は、緑谷引子に関する記録。

 

 どれも、通常の捜査資料ではなかった。

 

 記録の一部が欠落している。

 

 ページをめくるたびに、文章が変わる。

 

 写真の人物が、別の人物に置き換わる。

 

 そして、記録の最終ページには、必ず同じ文章が記載されていた。

 

『本件は、存在しません』

 

 塚内は、その文章を見つめた。

 

「……存在しない事件を捜査しろ、か」

 

 相澤消太は、壁にもたれたまま答えた。

 

「警察の仕事としては、最悪の部類だな」

 

「同感です」

 

 塚内はファイルを閉じた。

 

「ですが、存在しないからといって、被害者が存在しないとは限りません」

 

「そうだな」

 

 相澤は、机の上の写真を見た。

 

 写真には、緑谷家の玄関が写っていた。

 

 撮影日時は十三年前。

 

 しかし、写真の中の玄関には、現在の緑谷家には存在しない扉がある。

 

 その扉の前に、一人の少年が立っていた。

 

 顔は見えない。

 

 ただ、少年の足元に、小さな靴が二足並んでいる。

 

 子どもの靴だった。

 

 片方は、緑色。

 

 もう片方は、黒色。

 

 写真の裏には、こう記されていた。

 

『第一子、帰宅』

 

『第二子、帰宅』

 

『第三子、帰宅せず』

 

 塚内は、写真を裏返した。

 

「……この写真は、どこから?」

 

「緑谷久志の家から押収した資料の中にあった」

 

 相澤が答えた。

 

「ただし、本人は写真を見たことがないと言っている」

 

「記憶の改変ですか」

 

「可能性はある。だが、もう一つ考えられる」

 

 相澤は、写真の端を指した。

 

「この写真は、撮影されたあとで、過去そのものが変更されている」

 

 塚内は眉をひそめた。

 

「写真の記録が改変されたのではなく、撮影された過去が変わった、と?」

 

「そうだ」

 

「……そんなことが可能だと?」

 

「可能かどうかを議論する段階は、もう過ぎている」

 

 相澤は、淡々と言った。

 

「現実に起きていることを、どう捜査するかだ」

 

 塚内は、しばらく黙っていた。

 

 そして、別のファイルを開いた。

 

「緑谷引子さんの記録について、気になる点があります」

 

「何だ」

 

「出産記録です」

 

 ファイルには、病院から取り寄せた記録が添付されていた。

 

 出産日時。

 

 母体の状態。

 

 医師の所見。

 

 新生児の体重。

 

 通常の記録が並んでいる。

 

 しかし、出生児の欄だけが、異常だった。

 

 最初の記録には、こう書かれている。

 

『出生児:一名』

 

 その下に、別の筆跡で。

 

『出生児:二名』

 

 さらに別の筆跡で。

 

『出生児:一名』

 

 最後に、赤い印字。

 

『出生児:登録対象外』

 

 塚内は、記録を指した。

 

「同じ出産に対して、四つの異なる結果が残っています」

 

「医療記録の改竄か?」

 

「それなら、筆跡や記載時刻に説明がつくはずです。しかし、この記録は……」

 

 塚内は、ページをめくった。

 

「記載された順番そのものが、逆転しています」

 

「逆転?」

 

「最初に書かれたはずの記録が、最後に作成されたことになっている。最後に書かれた記録が、最初の記録として登録されている」

 

 相澤は、眉を寄せた。

 

「……時間の順番が変わっているのか」

 

「はい。そして、もう一つ」

 

 塚内は、出生記録の添付資料を取り出した。

 

 そこには、赤ん坊の足形が二つ並んでいた。

 

 一つは、一般的な新生児の足形。

 

 もう一つは、足形の中央部分が黒く塗り潰されていた。

 

 その下に、記録がある。

 

『第一児、男児』

 

『第二児、男児』

 

『第三児、男児』

 

『第四児、男児』

 

 そして。

 

『第五児、男児』

 

 相澤は、目を細めた。

 

「……五人?」

 

「少なくとも、記録上は」

 

「だが、実際に生まれた子どもの数とは限らない」

 

「ええ」

 

 塚内は頷いた。

 

「この数字は、出生順ではなく、観測順なのかもしれません」

 

 相澤は、椅子に腰を下ろした。

 

「……第一子が最初に生まれた子どもだとは限らない。第二子が二番目に生まれた子どもだとも限らない」

 

「はい」

 

「なら、事件記録の『被害者はまだ生まれていません』という一文も……」

 

 塚内は、続きを引き取った。

 

「出生そのものが、事件の成立条件になっている可能性があります」

 

 相澤は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「母親が生まれる前に、母親を殺す」

 

「あるいは、母親が母親になる前に、母親を殺す」

 

 塚内は、ファイルを閉じた。

 

「そう考えると、少しだけ意味が見えてきます」

 

「どういう意味だ」

 

「緑谷出久が殺すのは、緑谷引子という人間ではないのかもしれません」

 

 相澤は、塚内を見た。

 

「……母親という役割か」

 

「はい」

 

 塚内は、静かに答えた。

 

「母親になる前の緑谷引子。つまり、最初の子どもを産む前の彼女です」

 

 相澤は、黙り込んだ。

 

 もし、それが正しいのなら。

 

 事件の被害者は、まだ母親ではない。

 

 息子を産んでいない。

 

 息子を愛した記憶もない。

 

 そして、息子に殺される理由も、まだ存在していない。

 

 では、なぜ出久は、その女性を殺すのか。

 

 彼女が母親になることを阻止するためか。

 

 それとも、彼女が母親になった結果、誰かが死ぬからか。

 

 あるいは。

 

 最初の子どもが生まれなければ、世界そのものが成立しないからか。

 

「……一つ、仮説がある」

 

 相澤は言った。

 

 塚内が顔を上げる。

 

「緑谷出久が母親を殺すことで、最初の子どもが生まれなくなる」

 

「はい」

 

「最初の子どもが生まれなければ、第二子も第三子も存在しない」

 

「はい」

 

「つまり、緑谷出久自身も存在しなくなる」

 

 塚内は、静かに頷いた。

 

「事件の目的は、自分自身の消去……ということですね」

 

「だが、そうだとしたら、説明がつかないことがある」

 

 相澤は、写真を見つめた。

 

「なぜ、事件の記録に麗日お茶子の名前がある?」

 

 塚内の表情が変わった。

 

「……確かに」

 

「緑谷が存在しなくなれば、麗日もまた、緑谷と出会わない可能性がある。だが、事件記録は、彼女を直接の成立条件としている」

 

 相澤は、指先で机を叩いた。

 

「緑谷が母親を殺すために、麗日が必要なのか」

 

 彼は、顔を上げた。

 

「それとも、麗日がいるから、緑谷は母親を殺すのか」

 

 会議室に沈黙が落ちた。

 

 そのとき。

 

 塚内の携帯電話が鳴った。

 

 発信者は、麗日お茶子。

 

「……はい、塚内です」

 

『塚内さん! 大変なんです!』

 

 電話の向こうから、麗日の切迫した声が聞こえた。

 

『出久くんが……!』

 

 塚内は立ち上がった。

 

「緑谷くんに何かあったのか!?」

 

『違うんです! 出久くんは無事なんですけど……』

 

 麗日は、息を吸った。

 

『出久くんのお母さんが、いなくなりました!』

 

 相澤の表情が変わった。

 

「……何だと?」

 

『二人ともです! 二人とも、いなくなったんです!』

 

 塚内は、相澤を見た。

 

 相澤は、すでに動き出していた。

 

「緑谷家に向かう。塚内、警察に連絡しろ。爆豪にも伝えろ」

 

「了解!」

 

 相澤は、扉に手をかけた。

 

 その瞬間。

 

 会議室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『事件の第一段階が完了しました』

 

 相澤は、足を止めた。

 

『被害者の移動を確認』

 

『加害者の追跡を確認』

 

『観測者の介入を確認』

 

 文字が変わる。

 

『第二段階を開始します』

 

 最後に。

 

『母親殺害事件は、緑谷出久が母親を殺害することで完了します』

 

 相澤は、壁を睨みつけた。

 

「……させるか」

 

 低い声だった。

 

「誰が決めたか知らんが、そんな結末を、俺たちが認めると思うな」

 

 文字は、答えなかった。

 

 ただ、壁の隅に、小さな文字が浮かび上がった。

 

『先生』

 

 相澤の動きが止まる。

 

『今度は、間に合いますか?』

 

 相澤は、息をのんだ。

 

 その言葉を、知っていた。

 

 知らないはずなのに。

 

 何度も聞いたことがあるような気がした。

 

 そして、文字は消えた。

 

 残ったのは、壁の傷だけだった。

 

     *

第三幕 いなくなった母親たち

 緑谷家の居間には、二つのカップが置かれていた。

 

 どちらも、まだ温かかった。

 

 出久は、カップの前に立ち尽くしていた。

 

「……お母さん」

 

 呼んでも、返事はない。

 

 家の中を探した。

 

 台所。

 

 寝室。

 

 浴室。

 

 庭。

 

 どこにも、母親たちはいなかった。

 

 玄関の鍵は、内側からかかっていた。

 

 窓も閉まっていた。

 

 外へ出た形跡はない。

 

 それなのに。

 

 二人とも、消えていた。

 

「……どうして」

 

 出久は、両手を握りしめた。

 

「どうして、僕の周りから……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 麗日が、そっと近づいた。

 

「出久くん」

 

「……僕が、何かしたのかな」

 

「そんなことないよ」

 

「でも、僕がここに来てから……」

 

 出久は、顔を覆った。

 

「僕が、お母さんたちに会ったから……」

 

 そのとき。

 

 背後から声がした。

 

「違う」

 

 二人が振り返る。

 

 玄関の近くに、一人の少年が立っていた。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 ただし、その瞳には、ひどく疲れた色があった。

 

 少年は、居間の二つのカップを見た。

 

「君が来たからじゃない」

 

 出久は、彼を見つめた。

 

「……君は、誰?」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「それを、僕に聞くんだね」

 

「……ごめん」

 

「謝らなくていいよ」

 

 少年は、出久の前に立った。

 

「君は、僕のことを忘れたんじゃない」

 

「……え?」

 

「君は、僕のことを思い出すと、別の誰かを忘れてしまうんだ」

 

 出久の顔が強張った。

 

 少年は、静かに続けた。

 

「だから、君は僕を思い出さないようにしてきた。僕を思い出すたびに、誰かが消えてしまうから」

 

「……そんな」

 

「でも、もう無理だよ」

 

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「僕たちは、もう一つになり始めている」

 

 出久は、後ずさった。

 

「……一つに?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君が僕を思い出すたびに、僕の記憶が君に流れ込む。君が僕の記憶を受け取るたびに、僕の存在は少しずつ薄くなる」

 

 彼は、悲しそうに笑った。

 

「そして、最後には、僕が君になる」

 

 麗日は、出久の腕をつかんだ。

 

「……そんなこと、させない」

 

 少年は、麗日を見つめた。

 

「君は、そう言うと思った」

 

「当たり前や!」

 

 麗日の声が震えた。

 

「出久くんが誰かと一つにならなきゃいけないなんて、そんなの……!」

 

「でも、そうしなければ、世界が壊れる」

 

 少年は、穏やかに言った。

 

「君たちも、もう知っているはずだよ。僕たちは、本来、一つの存在として登録されている。複数の緑谷出久が同時に存在すると、世界は矛盾を解消しようとする」

 

「だからって!」

 

「分かっている」

 

 少年は、麗日の言葉を遮らなかった。

 

「分かっているよ。君が何を言いたいのか」

 

 彼は、出久に目を向けた。

 

「でも、僕は、もう一度、君を殺したくない」

 

 出久は、息をのんだ。

 

「……君が、僕を?」

 

 少年は、頷いた。

 

「うん」

 

 その目に、涙が浮かんだ。

 

「僕は、君を殺したことがある」

 

 彼は、震える声で言った。

 

「君が生まれる前に」

 

 出久の頭の中で、何かが弾けた。

 

 白い部屋。

 

 無数の扉。

 

 誰かの泣き声。

 

 そして、自分と同じ顔をした少年が、血に染まった手を見つめている光景。

 

「……ああ」

 

 出久は、頭を押さえた。

 

「……君が」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「そうだよ」

 

「君が、僕を……」

 

「うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「でも、君も僕を殺した」

 

 出久は、息を止めた。

 

「僕たちは、何度も、お互いを殺したんだ」

 

 少年は、出久の手を取った。

 

「だから、もう、やめよう」

 

 出久は、彼を見つめた。

 

「……何を?」

 

「お互いを救おうとすることを」

 

 少年は、笑った。

 

「君は、僕を救おうとする。僕は、君を救おうとする。そのたびに、どちらかが死ぬ。どちらかが忘れられる。どちらかが世界を壊す」

 

 彼は、手を握りしめた。

 

「だから、もう、やめよう」

 

 出久は、首を横に振った。

 

「……違う」

 

 少年の表情が揺れた。

 

「……何が?」

 

「僕たちが、間違えたのは……」

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「お互いを救おうとしたことじゃない」

 

 少年は、黙っていた。

 

「誰かを救うために、別の誰かを犠牲にしてもいいと思ったことだ」

 

 出久は、彼の手を握り返した。

 

「君を救うために、僕が消える必要なんてない。僕を救うために、君が消える必要もない」

 

 彼は、涙を拭った。

 

「……僕は、そう思いたい」

 

 少年の目が見開かれた。

 

「でも、君が間違っている可能性もある」

 

 出久は、正直に言った。

 

「僕が間違っている可能性もある。僕たちが、何もかもを壊してしまうかもしれない」

 

 彼は、少年を見つめた。

 

「それでも、誰かを殺すことを最初から正解にするのは、やめたいんだ」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 やがて。

 

 彼は、笑った。

 

「……そうか」

 

 その声には、どこか懐かしい響きがあった。

 

「君は、そういう人だったね」

 

 そして。

 

 少年の身体が、少しだけ透けた。

 

 出久は、彼の手を強く握った。

 

「待って!」

 

「大丈夫」

 

 少年は、穏やかに答えた。

 

「僕は、まだ消えないよ」

 

 彼は、玄関の向こうを見た。

 

「でも、時間がない」

 

「……何が起きるの?」

 

「お母さんが、母親になる前の場所へ連れていかれた」

 

 出久は、息をのんだ。

 

「……母親になる前?」

 

「うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「そこには、まだ、君も、お兄ちゃんも存在していない」

 

 彼は、出久を見つめた。

 

「そして、そこにいるお母さんを殺すと、君たちの存在は最初からなかったことになる」

 

 麗日が、息をのんだ。

 

「……そんなの、絶対に止めなきゃ!」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「でも、君たちが行けば、同じことが起きる」

 

 出久は、眉を寄せた。

 

「どういう意味?」

 

「君たちは、母親を救おうとする。母親を救うために、過去に介入する。過去に介入すれば、世界は君たちを排除しようとする」

 

 少年は、静かに言った。

 

「その結果、君たちは、母親を殺すことになる」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「……そんな」

 

「記録は、未来を予言しているんじゃない」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「記録は、君たちが何度も繰り返してきた結末を、保存しているだけなんだ」

 

 その言葉が、出久の胸に突き刺さった。

 

 母親殺害事件。

 

 それは、未来の予言ではない。

 

 過去の記録。

 

 何度も繰り返された、失敗の記録。

 

 出久は、震える声で尋ねた。

 

「……僕は、何回、お母さんを殺したの?」

 

 少年は、答えなかった。

 

「……何回?」

 

「……覚えていない」

 

 少年は、目を伏せた。

 

「僕たちが、世界を作り直した回数と同じくらい」

 

 出久は、膝から崩れ落ちた。

 

 麗日が、彼を支えた。

 

「……出久くん!」

 

 出久は、泣いていた。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 

 母親に。

 

 兄に。

 

 世界に。

 

 そして、自分自身に。

 

「……ごめんなさい……」

 

 少年は、出久の前にしゃがみ込んだ。

 

「謝らなくていいよ」

 

「……でも」

 

「謝るなら、今度は、違うことをしよう」

 

 少年は、出久の目を見つめた。

 

「今度は、母親を殺さない」

 

 彼は、ゆっくりと言った。

 

「今度は、兄を殺さない」

 

 そして。

 

「今度は、自分自身を殺さない」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 少年は、微笑んだ。

 

「……それが、僕たちにできる、最初の一歩だよ」

 

     *

第四幕 母親になる前の女

 引子が目を覚ましたとき、そこは病院だった。

 

 ただし、彼女が知っている病院ではなかった。

 

 壁は白い。

 

 床も白い。

 

 天井には、蛍光灯が並んでいる。

 

 どこからか、消毒液の匂いがする。

 

 けれど、窓の外には何もなかった。

 

 空も。

 

 街も。

 

 建物も。

 

 ただ、白い空間が広がっている。

 

「……ここは」

 

 引子は、身体を起こした。

 

 隣のベッドに、もう一人の自分が眠っていた。

 

「……あなた」

 

 彼女は、手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 

「触れないほうがいい」

 

 背後から声がした。

 

 引子は振り返った。

 

 そこに立っていたのは、白衣を着た男だった。

 

 顔がない。

 

 正確には、顔があるはずの場所に、何もなかった。

 

 目も。

 

 鼻も。

 

 口も。

 

 それでも、男の声は聞こえた。

 

「あなたが彼女に触れると、二人の記憶が混ざる」

 

 引子は、ベッドから降りた。

 

「……あなたは誰?」

 

「管理者です」

 

「何の?」

 

「出生の」

 

 引子は、眉をひそめた。

 

「……出生管理室?」

 

「はい」

 

 男は、淡々と答えた。

 

「あなたは、ここに来るべきではありませんでした」

 

「私を、ここへ連れてきたのは誰?」

 

「あなた自身です」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……私が?」

 

「正確には、あなたの別個体です」

 

 男は、眠っているもう一人の引子を指した。

 

「彼女が、あなたをここへ呼びました」

 

「どうして?」

 

「あなたに、思い出してもらうためです」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「……何を?」

 

 男は、答えた。

 

「最初の子どものことを」

 

 その言葉を聞いた瞬間、引子の頭の中に、記憶が流れ込んできた。

 

 分娩室。

 

 医師の声。

 

 二つの泣き声。

 

 最初に生まれた赤ん坊。

 

 その子を抱いた瞬間の、温かさ。

 

 そして、彼女は思い出した。

 

 最初の子どもには、名前があった。

 

 自分が、つけた名前があった。

 

 夫と一緒に考えた名前。

 

 何度も呼んだ名前。

 

 生まれる前から、ずっと大切にしていた名前。

 

 なのに。

 

 その名前だけが、思い出せなかった。

 

「……名前を」

 

 引子は、額を押さえた。

 

「名前を、思い出せない……」

 

「当然です」

 

 管理者は答えた。

 

「その名前は、あなたの記憶から削除されました」

 

「……誰が?」

 

「あなたです」

 

 引子は、顔を上げた。

 

「……私が?」

 

「はい」

 

 管理者は、淡々と続けた。

 

「あなたは、最初の子どもを失ったあと、その存在を否定しました」

 

「……そんなこと、するはずがない!」

 

「あなたは、そうしなければ、生きていられなかった」

 

 引子は、言葉を失った。

 

「最初の子どもが死亡したことで、あなたの世界は崩壊しました。あなたは、子どもを失ったという事実を受け入れられなかった」

 

 管理者は、白い壁を指した。

 

「そこで、あなたは、世界に願いました」

 

 壁に、文字が浮かび上がった。

 

『あの子が生まれなかったことにしてください』

 

 引子は、息をのんだ。

 

『あの子が生まれていなければ、私は、あの子を失わずに済んだ』

 

『あの子が生まれていなければ、あの子は、死なずに済んだ』

 

『あの子が生まれていなければ――』

 

 最後の一文が、ゆっくりと変わった。

 

『私は、母親にならずに済んだ』

 

 引子は、口を押さえた。

 

「……違う」

 

 彼女は、首を振った。

 

「私は……そんなこと……」

 

「あなたは、願いました」

 

 管理者は、言った。

 

「そして、願いは叶えられました」

 

 白い壁が、波打った。

 

「最初の子どもは、生まれなかったことになった」

 

 別の文字が浮かぶ。

 

『出生記録:抹消』

 

『母子関係:抹消』

 

『家族記録:再構築』

 

『緑谷出久:登録』

 

 引子は、膝をついた。

 

「……ああ」

 

 記憶が戻ってくる。

 

 自分は、息子を失った。

 

 その喪失に耐えられなかった。

 

 だから、願った。

 

 息子が生まれなかったことにしてほしい。

 

 息子を失わずに済む世界にしてほしい。

 

 そして。

 

 世界は、その願いを叶えた。

 

 最初の子どもを消した。

 

 だが、子どもを消しただけでは、世界は成立しなかった。

 

 母親が存在するなら、子どもが必要になる。

 

 子どもが存在するなら、母親が必要になる。

 

 そこで、世界は新たな子どもを生成した。

 

 緑谷出久。

 

 最初の子どもと同じ顔。

 

 同じ名前。

 

 同じ父親。

 

 同じ母親。

 

 しかし、別の存在。

 

 引子は、その子どもを愛した。

 

 心から愛した。

 

 だからこそ。

 

 最初の子どもが存在していたことを、忘れてしまった。

 

 忘れることが、世界を維持する条件だったからだ。

 

「……私は」

 

 引子は、震える声で言った。

 

「私は、あの子を……」

 

「殺したのではありません」

 

 管理者は、静かに言った。

 

「あなたは、あの子を生まれなかったことにしたのです」

 

 引子は、顔を上げた。

 

「……それが、違うとでも?」

 

「いいえ」

 

 管理者は答えた。

 

「世界の記録上、あなたは殺していません」

 

 そして。

 

「しかし、最初の子どもは、あなたの願いによって消滅しました」

 

 引子は、目を閉じた。

 

 それは、殺人と何が違うのだろう。

 

 自分の手で命を奪わなかった。

 

 刃物を持ったわけでもない。

 

 首を絞めたわけでもない。

 

 ただ、願っただけだ。

 

 息子が生まれなかったことにしてほしいと。

 

 その願いによって、息子は消えた。

 

 ならば。

 

 それは、自分が息子を殺したのと、何が違うのだろう。

 

「……あの子は」

 

 引子は、顔を上げた。

 

「今、どこにいるの?」

 

 管理者は、答えなかった。

 

「お願い。教えて」

 

「……現在、第一個体は観測されています」

 

「どこで?」

 

「複数の場所で」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……複数?」

 

「はい」

 

 管理者は、壁に手をかざした。

 

 そこに、無数の映像が浮かび上がった。

 

 幼い少年。

 

 病院の廊下に立つ少年。

 

 崩壊した世界で、誰かを抱きしめる少年。

 

 血に染まった手を見つめる少年。

 

 そして。

 

 緑谷出久と同じ顔をした少年。

 

 それぞれが、異なる場所にいた。

 

 それぞれが、異なる時間を生きていた。

 

 それぞれが、同じ名前を持っていた。

 

「……どうして」

 

 引子は、涙を流した。

 

「どうして、こんなことに……」

 

「あなたが、願ったからです」

 

 管理者は答えた。

 

「あなたの願いは、最初の子どもを消すことでした。しかし、最初の子どもを消すことは、世界の構造そのものを破壊することだった」

 

 壁に、新しい文字が浮かんだ。

 

『第一個体の消去』

 

『世界の矛盾発生』

 

『第二個体の生成』

 

『矛盾の再発生』

 

『第三個体の再構築』

 

『矛盾の再発生』

 

『第四個体の生成』

 

『矛盾の再発生』

 

『第五個体の再構築』

 

 そして。

 

『以後、観測を継続』

 

 引子は、顔を覆った。

 

「……私が、全部の始まりだったの?」

 

 管理者は、しばらく黙っていた。

 

 そして、答えた。

 

「いいえ」

 

 引子が顔を上げる。

 

「あなたが、始まりではありません」

 

 管理者は、壁の一番上を指した。

 

 そこには、何も書かれていなかった。

 

 文字も。

 

 数字も。

 

 記録番号も。

 

 ただ、白い空白があるだけだった。

 

「あなたの願いが成立する前に、すでに第一個体は死亡していました」

 

 引子の顔が凍りついた。

 

「……何?」

 

「あなたが願ったから、第一個体が死んだのではありません」

 

 管理者は、静かに言った。

 

「第一個体が死んでいたからこそ、あなたは願ったのです」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……じゃあ」

 

 彼女は、震える声で尋ねた。

 

「最初に、あの子を殺したのは……誰なの?」

 

 管理者は、答えなかった。

 

 ただ、壁に一行だけ、文字を浮かび上がらせた。

 

『第一個体の死亡原因は、未登録です』

 

 引子は、その文字を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……なら」

 

 彼女は、管理者を見つめた。

 

「私は、あの子に会いに行く」

 

「不可能です」

 

「どうして?」

 

「第一個体は、あなたを認識できません」

 

「それでもいい」

 

「あなたが接触すれば、世界が崩壊する可能性があります」

 

「それでもいい!」

 

 引子の声が、白い部屋に響いた。

 

「私は、もう一度、あの子に会いたい!」

 

 涙が、頬を伝う。

 

「謝りたいの! あの子が生まれなかったことにしたことを! あの子の名前を忘れたことを! あの子が生きていたことを、なかったことにしたことを!」

 

 彼女は、胸を押さえた。

 

「私は、母親だったのよ!」

 

 管理者は、黙っていた。

 

「母親だったのに……!」

 

 引子は、泣き崩れた。

 

「私は、あの子を……一人にしてしまった……!」

 

 その瞬間。

 

 隣のベッドで眠っていた、もう一人の引子が目を覚ました。

 

「……いいえ」

 

 彼女は、ゆっくりと起き上がった。

 

「あなたは、一人にしていないわ」

 

 引子は、顔を上げた。

 

 もう一人の自分が、微笑んでいた。

 

「だって、あの子は……ずっと、あなたを待っていたんだもの」

 

     *

第五幕 第一個体は、母親を待っていた

 白い部屋の奥に、扉があった。

 

 そこには、鍵穴も、取っ手もなかった。

 

 ただ、扉の表面に、小さな文字が刻まれていた。

 

『母親専用』

 

 引子は、その文字を見つめた。

 

「……ここに、あの子がいるの?」

 

「はい」

 

 管理者が答えた。

 

「ただし、あなたが知っているあの子ではありません」

 

「……どういう意味?」

 

「第一個体は、あなたの記憶の中に存在する子どもとは異なります」

 

 管理者は、淡々と説明した。

 

「あなたが覚えているのは、最初に生まれた子どもの一部です。彼の記憶、人格、感情は、何度も再構築され、複数の個体に分散しています」

 

「……それでも」

 

 引子は、扉に手を伸ばした。

 

「それでも、あの子は、あの子でしょう?」

 

 管理者は、答えなかった。

 

 引子は、扉に触れた。

 

 すると。

 

 扉が、ゆっくりと開いた。

 

 その向こうには、何もなかった。

 

 白い空間。

 

 ただ、中央に一人の少年が座っていた。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 しかし、彼は、出久よりも幼く見えた。

 

 少年は、膝を抱えていた。

 

 そして、扉が開くと、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……お母さん?」

 

 引子は、息をのんだ。

 

 その声を知っていた。

 

 その顔を知っていた。

 

 その目を知っていた。

 

 忘れていたはずなのに。

 

 忘れさせられたはずなのに。

 

 彼女は、その少年を覚えていた。

 

「……ああ」

 

 引子は、涙を流した。

 

「……ああ、ああ……!」

 

 彼女は、少年に駆け寄った。

 

 そして、抱きしめようとした。

 

 しかし。

 

 少年の身体は、彼女の腕をすり抜けた。

 

 引子は、凍りついた。

 

 少年は、困ったように笑った。

 

「……ごめんね」

 

 彼は、自分の手を見た。

 

「僕、まだ、ちゃんと生まれていないんだ」

 

 引子は、口を押さえた。

 

「……そんな」

 

「だから、触れないんだ」

 

 少年は、穏やかに答えた。

 

「でも、声は聞こえるよ」

 

 彼は、引子を見つめた。

 

「お母さんの声、ずっと聞こえていたんだ」

 

 引子は、膝をついた。

 

「……ずっと?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「お母さんが、僕を忘れたあとも」

 

 彼は、少しだけ笑った。

 

「お母さんが、僕を生まれなかったことにしたあとも」

 

 そして。

 

「お母さんが、別の僕を愛していたときも」

 

 引子は、泣き崩れた。

 

「……ごめんね」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

「ごめんね……!」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「謝らないで」

 

「……でも」

 

「お母さんは、僕を愛していたんでしょう?」

 

 引子は、顔を上げた。

 

 少年は、微笑んでいた。

 

「なら、いいんだよ」

 

 その言葉に。

 

 引子は、声を上げて泣いた。

 

「……よくない!」

 

 彼女は、首を横に振った。

 

「よくなんか、ないのよ……!」

 

 少年は、驚いたように目を見開いた。

 

「私は、あなたを愛していた! でも、あなたを忘れた! あなたが生まれなかったことにした! あなたの名前を、思い出せなくなった!」

 

 彼女は、少年を見つめた。

 

「それで、どうして、いいなんて言えるの!?」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 そして、静かに答えた。

 

「……僕は、お母さんに、幸せになってほしかったから」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「お母さんが、ずっと泣いているのは、嫌だった」

 

 少年は、自分の膝を抱えた。

 

「お母さんが、僕を思い出すたびに苦しくなるのも、嫌だった」

 

 彼は、顔を上げた。

 

「だから、僕は……お母さんに、僕を忘れてほしかった」

 

 引子は、言葉を失った。

 

「……あなたが?」

 

「うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「僕が、お母さんに願ったんだ」

 

 引子の顔が、凍りついた。

 

「……何を?」

 

「僕を、忘れてって」

 

 少年は、笑った。

 

「僕のことを忘れて、別の僕を愛してって」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 引子は、崩れ落ちた。

 

 彼女が、息子を忘れたのは。

 

 自分の願いだけではなかった。

 

 息子自身もまた、母親を苦しみから解放するために、母親に自分を忘れるよう願っていたのだ。

 

 それが、どれほど残酷な願いだったのか。

 

 少年は、まだ理解していなかった。

 

「……お母さん」

 

 少年は、引子を見つめた。

 

「僕、間違っていたのかな?」

 

 引子は、顔を上げた。

 

「……え?」

 

「僕が、お母さんに忘れてほしいって願ったから……お母さんは、僕を忘れちゃったんだよね」

 

 少年の目から、涙が落ちた。

 

「僕が、お母さんを苦しめたくなかったから……お母さんは、僕を生まれなかったことにしたんだよね」

 

 彼は、震える声で言った。

 

「……僕が、悪かったのかな?」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「違う!」

 

 彼女は、叫んだ。

 

「あなたは、悪くない!」

 

 少年が、目を見開く。

 

「あなたは、何も悪くないの!」

 

 引子は、涙を流しながら続けた。

 

「あなたは、私の息子よ! 私が、あなたを守るべきだった! あなたが、私を守ろうとする必要なんてなかった!」

 

 彼女は、少年に手を伸ばした。

 

 触れられないと分かっていても。

 

「……お願い」

 

 引子は、震える声で言った。

 

「今度は、私に守らせて」

 

 少年は、黙っていた。

 

「今度は、私が、あなたを忘れない」

 

 引子は、少年を見つめた。

 

「今度は、私が、あなたの名前を覚えている」

 

 少年の顔が、歪んだ。

 

「……でも」

 

 彼は、首を横に振った。

 

「僕の名前は、もうないんだ」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……名前がない?」

 

「うん」

 

 少年は、自分の胸を押さえた。

 

「僕は、最初に生まれた子どもだった。でも、僕が死んだあと、僕の名前は消された」

 

 彼は、悲しそうに笑った。

 

「だから、僕は、誰でもないんだ」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「……そんなこと、ない」

 

「あるよ」

 

「ない!」

 

 引子は、涙を拭った。

 

「名前がなくたって、あなたは、私の息子よ!」

 

 少年は、目を見開いた。

 

「……お母さん」

 

「あなたが何番目でも、どんな名前を持っていても、あなたは私の息子なの!」

 

 彼女は、胸を押さえた。

 

「私は、あなたを産んだ。あなたを抱いた。あなたの泣き声を聞いた。あなたの名前を呼んだ!」

 

 そして。

 

「だから、あなたは、ここにいる!」

 

 その瞬間。

 

 少年の身体が、わずかに光った。

 

 白い空間に、風が吹いた。

 

 何もないはずの場所に、小さな音が響いた。

 

 赤ん坊の泣き声だった。

 

 引子は、息をのんだ。

 

 少年もまた、顔を上げた。

 

 そして、彼の胸元に、文字が浮かび上がった。

 

『第一個体』

 

 次の瞬間。

 

『母親による認識を確認』

 

 さらに。

 

『名前の再登録を開始します』

 

 引子は、少年を見つめた。

 

「……名前を」

 

 彼女は、震える声で言った。

 

「名前を、つけてもいい?」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、彼は頷いた。

 

「……うん」

 

 引子は、目を閉じた。

 

 自分が最初に、その子のために考えた名前。

 

 夫と一緒に考えた名前。

 

 生まれる前から、何度も呼んだ名前。

 

 その名前を、思い出そうとした。

 

 だが。

 

 頭の中は、真っ白だった。

 

 何も浮かばない。

 

 どんな音だったのか。

 

 どんな文字だったのか。

 

 どんな意味を込めたのか。

 

 思い出せない。

 

 引子は、涙を流した。

 

「……ごめんね」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「ううん」

 

 彼は、微笑んだ。

 

「大丈夫」

 

 引子は、唇を噛んだ。

 

「……私、あなたの名前を忘れちゃった」

 

「うん」

 

「でも……」

 

 彼女は、少年を見つめた。

 

「今度は、あなたの名前を、私が一緒に探す」

 

 少年は、目を見開いた。

 

「……一緒に?」

 

「ええ」

 

 引子は、頷いた。

 

「あなたが自分の名前を思い出すまで、私は何度でも、あなたの名前を呼ぶ」

 

 彼女は、微笑んだ。

 

「たとえ、何百回、何千回かかっても」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

 泣きながら、笑った。

 

「……うん」

 

 その瞬間。

 

 白い部屋の天井に、亀裂が走った。

 

 管理者が、初めて後ずさった。

 

「……これは」

 

 彼の声が、かすかに震えた。

 

「記録にない……」

 

 壁に、黒い文字が浮かび上がる。

 

『第一個体の名前が、再登録されました』

 

『登録名――』

 

 文字が、止まった。

 

 次の瞬間、部屋全体が激しく揺れた。

 

『登録エラー』

 

『登録エラー』

 

『登録エラー』

 

『登録エラー』

 

 管理者が、両手を広げた。

 

「名前を登録してはならない!」

 

 その声は、初めて感情を帯びていた。

 

「第一個体に名前が戻れば、すべての個体の区別が崩壊する!」

 

 引子は、少年を見つめた。

 

「……どういうこと?」

 

「第一個体は、すべての緑谷出久の原型です!」

 

 管理者が叫ぶ。

 

「その名前が戻れば、第二個体も第三個体も第四個体も第五個体も、すべて第一個体に統合される!」

 

 白い壁に、無数の映像が浮かび上がった。

 

 それぞれの緑谷出久が、同時に顔を上げる。

 

 泣いている出久。

 

 怒っている出久。

 

 絶望している出久。

 

 誰かを抱きしめている出久。

 

 そして。

 

 今、雄英高校の保健室にいる出久。

 

 彼らの瞳が、同時に同じ方向を向いた。

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……この子たちは」

 

 管理者は、答えた。

 

「全員、第一個体の名前を求めています」

 

 少年は、母親を見つめた。

 

「……お母さん」

 

 引子は、彼の手を取ろうとした。

 

 今度は。

 

 指先が、触れた。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、確かに。

 

 少年の手の温度が、引子の手に伝わった。

 

 引子は、涙を流した。

 

「……ああ」

 

 彼女は、少年を抱きしめた。

 

 今度は、すり抜けなかった。

 

 少年の身体は、まだ少し透けていた。

 

 それでも。

 

 確かに、そこにいた。

 

 引子は、息子を抱きしめた。

 

「……おかえり」

 

 少年は、母親の胸に顔を埋めた。

 

「……ただいま」

 

 その瞬間。

 

 世界が、ひび割れた。

 

     *

第六幕 事件の真犯人

 雄英高校の保健室。

 

 緑谷出久は、突然、胸を押さえた。

 

「……っ!」

 

 激痛が走る。

 

 頭の中に、無数の記憶が流れ込んでくる。

 

 知らないはずの家。

 

 知らないはずの病院。

 

 知らないはずの母親。

 

 そして。

 

 自分と同じ顔をした、無数の少年たち。

 

「……やめろ……!」

 

 出久は、ベッドから転げ落ちた。

 

 麗日が、駆け寄る。

 

「出久くん!」

 

「……来ないで!」

 

 出久は、叫んだ。

 

「来ちゃ駄目だ!」

 

 麗日は、足を止めなかった。

 

「そんなの、できるわけないやろ!」

 

 彼女は、出久を抱きしめた。

 

 出久の身体が、激しく震えていた。

 

「……僕が……」

 

 彼は、涙を流しながら言った。

 

「僕が、殺したんだ……!」

 

「出久くん!」

 

「僕が、最初の子どもを殺した!」

 

 麗日は、息をのんだ。

 

「僕が、お兄ちゃんを殺した! 僕が、お母さんを殺した! 僕が……僕が……!」

 

 出久は、頭を抱えた。

 

「僕が、全部の始まりなんだ……!」

 

 その瞬間。

 

 保健室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『第一個体の死亡原因が確定しました』

 

 麗日は、顔を上げた。

 

『被害者:第一個体』

 

『加害者:緑谷出久』

 

『動機:母親の救済』

 

『手段:自己消去』

 

『結果:第一個体の死亡』

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……違う」

 

 文字が続く。

 

『緑谷出久は、第一個体を救うために、第一個体を殺害しました』

 

『第一個体は、緑谷出久を救うために、緑谷出久を殺害しました』

 

『両者の行為は、同一の事件として登録されています』

 

 麗日は、唇を噛んだ。

 

「……そんなの」

 

 彼女は、壁を睨みつけた。

 

「そんなの、事件じゃない!」

 

 文字が止まった。

 

「お互いを助けようとしていたんでしょう!?」

 

 麗日の声が、保健室に響いた。

 

「どっちも、誰かを助けたかったんでしょう!?」

 

 彼女は、出久を抱きしめた。

 

「だったら、どうして、どっちかが殺したことになるの!?」

 

 文字は、答えなかった。

 

 代わりに、別の記録が浮かび上がった。

 

『事件の真犯人を登録します』

 

 出久は、顔を上げた。

 

 麗日は、息を止めた。

 

 文字が、一文字ずつ現れる。

 

『真犯人:緑谷出久』

 

 その下に。

 

『真犯人:緑谷引子』

 

 さらに。

 

『真犯人:緑谷久志』

 

 そして。

 

『真犯人:観測者』

 

 最後に。

 

『真犯人:世界』

 

 出久は、呆然と文字を見つめた。

 

 世界が、真犯人。

 

 それは、誰か一人に罪を押しつけることを拒否しているようにも見えた。

 

 あるいは。

 

 誰にも罪を負わせず、すべてを仕組みのせいにしようとしているようにも見えた。

 

 そのとき。

 

 壁に、最後の一行が浮かび上がった。

 

『ただし、事件を終わらせるためには、緑谷出久が母親を殺害する必要があります』

 

 出久は、立ち上がった。

 

 震える足で。

 

 けれど、確かな意志を持って。

 

「……嫌だ」

 

 彼は、壁を見つめた。

 

「僕は、母親を殺さない」

 

 文字が変わる。

 

『事件は完了しません』

 

「それでもいい」

 

『世界は崩壊します』

 

「それでもいい!」

 

 出久の声が、保健室に響いた。

 

「僕は、もう、誰かを殺すことで誰かを救うなんて、したくない!」

 

 彼は、拳を握りしめた。

 

「世界が壊れるなら、壊れない方法を探す!」

 

 麗日は、彼の隣に立った。

 

「私も、一緒に探す」

 

 出久は、彼女を見た。

 

 麗日は、微笑んだ。

 

「何度でも」

 

 その瞬間。

 

 壁の文字が、すべて消えた。

 

 そして、新たな文字が浮かび上がる。

 

『選択を拒否しました』

 

『予測不能な分岐を確認』

 

『観測を再開します』

 

 最後に。

 

『母親殺害事件は、未解決となりました』

 

 出久は、息を吐いた。

 

 まだ、何も解決していない。

 

 母親たちは、消えたままだ。

 

 兄の名前も、分からない。

 

 自分が何度、世界を作り直したのかも。

 

 それでも。

 

 初めて、記録が「未解決」と認めた。

 

 それは、事件を終わらせるために、母親を殺す必要がなくなったということなのか。

 

 それとも。

 

 世界が、次の手段を探し始めただけなのか。

 

 出久には、まだ分からなかった。

 

 ただ、彼は麗日の手を握りしめた。

 

「……ありがとう」

 

「うん」

 

 麗日は、頷いた。

 

「でも、まだ終わってないよ」

 

「……うん」

 

「お母さんたちを、探そう」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「うん」

 

 その瞬間。

 

 保健室の扉が、ゆっくりと開いた。

 

 そこに立っていたのは、相澤消太だった。

 

 その後ろに、塚内直正と爆豪勝己がいる。

 

 相澤は、出久の顔を見た。

 

「……緑谷」

 

「先生……!」

 

「話は聞いた」

 

 相澤は、短く言った。

 

「お前が何をしたのか、何をしようとしているのか。まだ全部は分からん」

 

 彼は、出久の前に立った。

 

「だが、一つだけ言っておく」

 

 相澤の目が、鋭くなる。

 

「俺たちは、お前に誰かを殺させるために教師をやっているわけじゃない」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……先生」

 

「お前が間違えたなら、その責任は取らせる。お前が誰かを傷つけたなら、その事実から逃がさない」

 

 相澤は、淡々と続けた。

 

「だが、まだ起きていない事件を、起こすことが決まっている事件として扱うつもりもない」

 

 彼は、壁の文字が消えた場所を見た。

 

「事件は未解決なんだろう?」

 

 出久は、頷いた。

 

「……はい」

 

「なら、捜査を続ける」

 

 相澤は、踵を返した。

 

「緑谷。お前の母親を探すぞ」

 

 塚内が頷く。

 

「警察も全面的に協力します」

 

 爆豪は、腕を組んだ。

 

「当然だろうが」

 

 彼は、出久を睨んだ。

 

「おい、デク」

 

「……何?」

 

「勝手に一人で背負い込むな」

 

 出久は、息をのんだ。

 

「お前が何人分の罪を背負ってようが、俺は知らねえ。だが、今ここにいるお前が何をするかは、お前自身が決めろ」

 

 爆豪は、目を逸らした。

 

「……誰かに決められた結末なんざ、クソ食らえだ」

 

 出久は、涙を拭った。

 

「……うん」

 

 そして。

 

 彼は、初めて、自分の足で立ち上がった。

 

 母親を殺すためではない。

 

 兄を救うために世界を壊すためでもない。

 

 自分が消えることで、誰かを救うためでもない。

 

 ただ。

 

 生きている人たちを、探しに行くために。

 

     *

第七幕 母親殺害事件、第二の被害者

 白い部屋。

 

 第一個体を抱きしめた引子は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……この子を、連れて帰りたい」

 

 管理者は、首を横に振った。

 

「不可能です」

 

「どうして?」

 

「第一個体は、まだ出生していません」

 

「でも、ここにいるわ」

 

「ここにいることと、出生していることは別です」

 

 管理者は、淡々と答えた。

 

「第一個体は、世界の外側に存在しています。あなたが認識しているため、現在は一時的に実体化しています。しかし、この状態を維持することはできません」

 

「……なら、どうすればいいの?」

 

「第一個体を、世界に登録する必要があります」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……名前を?」

 

「はい」

 

「さっき、名前を登録しようとしたら、世界が壊れかけたじゃない!」

 

「その通りです」

 

 管理者は、頷いた。

 

「第一個体の名前を登録すると、すべての緑谷出久が統合されます。現在の緑谷出久も、御影出久も、その他の個体も、すべて第一個体に吸収される可能性があります」

 

 引子は、少年を抱きしめた。

 

「……そんなこと、させない」

 

「ならば、第一個体をこの場所に留めてください」

 

「……どうやって?」

 

 管理者は、答えた。

 

「母親として、彼を認識し続けることです」

 

 引子は、目を見開いた。

 

「……私が?」

 

「はい」

 

「私が、この子を覚えていれば……この子は、ここにいられるの?」

 

「一時的には」

 

 管理者は、続けた。

 

「ただし、あなたが彼を認識し続けるほど、あなたの現在の記憶は失われていきます」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……現在の記憶?」

 

「あなたが、現在の緑谷出久を育てた記憶です」

 

 引子の顔が青ざめた。

 

「……出久を?」

 

「はい」

 

 管理者は、淡々と説明した。

 

「第一個体を認識するためには、彼の存在を成立させる必要があります。そのためには、第一個体と矛盾する記憶を消去しなければなりません」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「……そんな」

 

「第一個体を覚えていれば、第二個体を忘れる」

 

「……嫌」

 

「第一個体を世界に登録すれば、現在の緑谷出久の存在は不安定になります」

 

「嫌よ!」

 

 引子は、叫んだ。

 

「そんなの、選べるわけないじゃない!」

 

 管理者は、沈黙した。

 

 引子は、少年を抱きしめた。

 

「私は、この子を忘れたくない!」

 

 涙が、頬を伝う。

 

「でも、出久も忘れたくない!」

 

 彼女は、少年の頭を撫でた。

 

「二人とも、私の息子なの!」

 

 少年は、母親を見つめた。

 

 そして。

 

 ゆっくりと、首を横に振った。

 

「……お母さん」

 

「……何?」

 

「僕を、忘れて」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……嫌よ」

 

「お願い」

 

 少年は、微笑んだ。

 

「出久くんを、忘れないで」

 

「……そんな」

 

「僕は、もう一度、いなくなってもいい」

 

 少年は、静かに言った。

 

「でも、出久くんには、生きていてほしい」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「……あなたも、生きていていいのよ」

 

 少年は、少しだけ目を見開いた。

 

「……え?」

 

「あなたも、生きていていいの」

 

 引子は、彼の頬に触れた。

 

「出久だけじゃない。あなたも。御影出久も。名前のない子も。誰も、誰かの代わりになるために生まれてきたんじゃない」

 

 彼女は、涙を流しながら言った。

 

「あなたたちは、みんな、生きていていいのよ」

 

 少年は、何も言えなかった。

 

 その言葉は、彼が何度も求めてきたものだった。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 誰かに言ってほしかった言葉だった。

 

 自分は、生きていていい。

 

 誰かを救うために死ななくてもいい。

 

 誰かの代わりにならなくてもいい。

 

 誰かに忘れられなくてもいい。

 

 ただ、自分として、生きていていい。

 

 少年は、涙を流した。

 

「……お母さん」

 

 彼は、母親の胸に顔を埋めた。

 

「……僕、生きたい」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「……うん」

 

「僕、まだ……生きたい」

 

「うん」

 

「出久くんと、一緒に生きたい」

 

 引子は、彼を強く抱きしめた。

 

「……うん」

 

 その瞬間。

 

 白い部屋の壁に、無数の文字が浮かび上がった。

 

『第一個体、生存意思を確認』

 

『母親による認識を確認』

 

『生存権の再登録を開始』

 

 管理者が、後ずさった。

 

「……あり得ない」

 

 文字が、次々に増えていく。

 

『第一個体の生存は、他個体の消去を必要としません』

 

『第一個体の登録は、他個体の統合を必要としません』

 

『第一個体の存在は、他個体の代替を必要としません』

 

 そして。

 

『新たな存在条件を確認』

 

 管理者の声が震えた。

 

「……そんな条件は、登録されていない」

 

 少年は、顔を上げた。

 

「なら、今、登録すればいい」

 

 管理者は、動きを止めた。

 

「……何?」

 

 少年は、母親の手を握った。

 

「僕たちが、自分で決めるんだ」

 

 その言葉に、白い部屋が震えた。

 

 壁に、最後の文章が浮かび上がる。

 

『第一個体は、他個体を消去せずに存在することができます』

 

 その下に。

 

『ただし、第一個体の出生を成立させるためには、母親の死亡が必要です』

 

 引子の顔が凍りついた。

 

 少年は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……そうか」

 

 彼は、管理者を見た。

 

「だから、僕は、まだ生まれていないんだね」

 

 管理者は、答えなかった。

 

 少年は、母親を見つめた。

 

「お母さん」

 

 引子は、彼の手を握った。

 

「……何?」

 

 少年は、微笑んだ。

 

「今度は、僕が、お母さんを助けるよ」

 

 その瞬間。

 

 白い部屋の扉が、開いた。

 

 向こう側に立っていたのは。

 

 緑谷出久だった。

 

 現在の出久。

 

 麗日お茶子を伴い、相澤消太、塚内直正、爆豪勝己とともに、世界の外側へと辿り着いた出久だった。

 

 彼は、目の前の光景を見た。

 

 母親。

 

 もう一人の母親。

 

 そして。

 

 自分と同じ顔をした、最初の子ども。

 

 出久は、息をのんだ。

 

「……兄さん」

 

 少年が、顔を上げた。

 

 そして。

 

 微笑んだ。

 

「……おかえり、出久くん」

 

 その瞬間。

 

 壁の記録が、すべて書き換わった。

 

『母親殺害事件』

 

『被害者:緑谷引子』

 

『加害者:緑谷出久』

 

『事件発生予定時刻:午前二時十三分』

 

 その文字が、ゆっくりと消えていく。

 

 代わりに、新しい記録が浮かび上がった。

 

『母親救出事件』

 

『被害者:緑谷引子』

 

『加害者:未登録』

 

『事件発生予定時刻:午前二時十三分』

 

 そして、最後に。

 

『本事件の成立には、第一個体の出生が必要です』

 

 出久は、壁を見つめた。

 

 少年は、出久の手を取った。

 

「……出久くん」

 

「……うん」

 

「僕、名前を思い出したい」

 

 出久は、涙を流した。

 

「……うん」

 

「僕、自分の名前で、生きたい」

 

「……うん」

 

「だから……」

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「一緒に、探してくれる?」

 

 出久は、頷いた。

 

「……もちろん」

 

 そして、二人は。

 

 同じ顔をした兄弟は。

 

 初めて、互いの手を握り合った。

 

 どちらかが、どちらかの代わりになるためではない。

 

 どちらかが、どちらかを救うために死ぬためでもない。

 

 ただ、二人とも、生きるために。

 

 その瞬間。

 

 世界の外側で、誰かが呟いた。

 

「……ならば」

 

 声は、どこからともなく響いた。

 

「観測条件を変更しよう」

 

 白い部屋の天井が、真っ黒に染まった。

 

「第一個体が生きる世界を、観測する」

 

 そして。

 

「その世界で、誰が最初に死ぬのか」

 

 暗闇の中で、無数の目が開いた。

 

「……見せてもらおう」

 

 午前二時十三分。

 

 止まっていた時計の秒針が、再び動いた。

 

 しかし。

 

 その針が指した時刻は、二時十四分ではなかった。

 

 時計の文字盤に、新しい数字が浮かび上がっていた。

 

午前二時十三分、零秒前。

 

 世界は、まだ始まっていなかった。

 

 そして、最初の子どもは。

 

 まだ、生まれていなかった。

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