午前二時十三分。
世界から、音が消えた。
風が止まったわけではない。
時計が壊れたわけでもない。
相澤消太の耳には、自分の呼吸が聞こえていた。爆豪勝己の舌打ちも、麗日お茶子が握り締めたノートの表紙が軋む音も、確かに存在していた。
それなのに。
その場にいる全員が、同じことを理解していた。
世界が、何かを聞かせないようにしている。
塚内直正は、机の上に置かれた一枚の書類を見下ろしていた。
黒い紙。
白い文字。
書類の左上には、警察の管理番号らしきものが印字されている。
その下に、事件名。
――母親殺害事件。
さらにその下には、被害者の氏名が記されていた。
ただし、その名前は読めない。
文字が消されているのではない。
黒塗りでもない。
最初から、その場所には何も書かれていなかったように見える。
しかし塚内には、そこに名前があるとしか思えなかった。
見えない。
読めない。
それなのに、確かに誰かの名前があった。
「……相澤先生」
塚内は、乾いた声で言った。
「これを、どう解釈しますか」
「事件として扱う」
相澤は即答した。
「少なくとも、誰かが事件として記録した。記録した人間が誰であろうと、何を証明するための書類であろうと、最初はそこからだ」
「被害者の名前がありません」
「だから何だ」
「死亡日時もありません。死亡場所も、死因も、遺体の発見状況もない」
塚内は、書類をめくった。
二枚目。
三枚目。
四枚目。
そこには、通常の殺人事件ならば記載されるべき情報が、ことごとく欠落していた。
代わりに、同じ文章だけが何度も繰り返されている。
被害者は、出生前に死亡した。
加害者は、被害者の子である。
加害者の出生は、被害者の死亡より後である。
そして、最後の一文。
本件は、時間的因果関係の矛盾を含むため、通常の刑事事件として処理してはならない。
「……冗談じゃねえ」
爆豪が吐き捨てた。
「殺人事件なら、犯人を捕まえる。被害者が死んでるなら、死んだ理由を調べる。死んでねえなら、生きてるかどうかを調べる。それだけだろうが」
「そうだな」
相澤は肯定した。
「だが、今回の問題はそこじゃない」
「わかってる」
爆豪の視線が、書類の末尾に向けられる。
「こいつら、最初から俺たちに答えを教える気がねえんだ」
お茶子は、何も言わなかった。
彼女の手には、一冊のノートがあった。
御影出久のために作ったノート。
最初は、誰も覚えていなかった少年の存在を記録するためのものだった。
名前。
癖。
好きだったもの。
苦手だったもの。
誰かと交わした言葉。
誰にも知られなかった思い出。
そうした小さなものを一つずつ書き留めていけば、いつか世界のほうが間違っていたと証明できるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、最近になって気づいたことがある。
このノートには、御影出久の記録だけではないものが増えていた。
知らない筆跡。
知らない記憶。
そして、彼女自身が書いたはずのない言葉。
お茶子は、ゆっくりとページを開いた。
最後のページ。
そこに、見覚えのない文字があった。
震えた筆跡。
幼い子どもが、必死に書いたような文字。
『お母さんを殺したのは、僕です』
お茶子の指が止まった。
「……これ」
相澤が顔を上げる。
「どうした」
「今、増えました」
「何が」
「ノートの文字が」
彼女は、ページを全員に見せた。
塚内の表情が変わった。
爆豪が一歩、近づく。
相澤は、文字を見つめたまま動かなかった。
そして。
ページの下に、もう一行が浮かび上がった。
『でも、僕は、まだ生まれていませんでした』
続けて、三行目。
『だから、お母さんを殺したのは、僕が生まれる前の僕です』
最後の一文が書き終わった瞬間。
机の上の黒い書類が、ひとりでに裏返った。
その裏面には、たった一つの数字があった。
零。
*
1 存在しない被害者
「現場を調べる」
相澤は立ち上がった。
「塚内、警察の記録と照合できるか」
「やってみます。ただし、普通のデータベースに残っているとは思えません」
「残っていなくても構わない。消された痕跡を探せ」
「わかりました」
「爆豪、麗日。お前たちは俺と来い」
「どこへ?」
お茶子が尋ねる。
相澤は、黒い書類を持ち上げた。
「ここに記載されている唯一の手掛かりだ」
書類の最終ページ。
事件発生場所の欄には、こう記されていた。
緑谷家、旧住所。
そして、その下に。
ただし、当該住所には該当する建築物が存在しない。
爆豪が眉間に皺を寄せた。
「緑谷の家だと?」
「ああ」
「待て」
爆豪は、書類を奪い取るようにして確認した。
「緑谷の家なら、俺も知ってる。何度か行ったことがある。家が存在しねえってのは、どういう意味だ」
「そのままの意味だろう」
「ふざけんな。あいつの家は存在してる」
「現在はな」
相澤は、静かに言った。
「この書類が指しているのは、現在の緑谷家じゃない。事件当時の住所だ。十三年前、あるいは、それより前に存在した可能性がある場所だ」
「十三年前……」
お茶子が呟いた。
緑谷出久が生まれた年。
御影出久が、存在を消されたとされる年。
そして、何度も繰り返される午前二時十三分。
全てが、そこに繋がっている。
「行けばわかるんですか?」
「行かなければわからない」
相澤は、扉へ向かった。
「だが、ひとつだけ覚えておけ」
振り返った彼の目は、いつも以上に鋭かった。
「この事件は、誰かが誰かを殺したという話だけではないかもしれない」
「……どういうことだよ」
爆豪が問い返す。
「誰かを殺した結果、その人間が死んだんじゃない。誰かを殺したことにするために、その人間が存在できなくなった可能性がある」
沈黙。
「その場合、俺たちが探すべきものは遺体じゃない」
相澤は言った。
「被害者が、かつて存在していたという証拠だ。」
*
緑谷家の旧住所は、地図上には存在しなかった。
正確には、住所そのものは存在していた。
道路もある。
隣接する建物もある。
電柱には番地が記され、郵便配達の経路にも登録されている。
しかし、該当する敷地だけが空白だった。
そこには、何もなかった。
空き地ですらない。
地面は周囲と繋がっているのに、その場所だけが、建物を建てるための土地として認識されていない。
雑草が生えていない。
土の色も、周囲と違う。
誰かが整地した痕跡もない。
まるで、世界がそこに土地を用意することを忘れたようだった。
「……気味悪ぃな」
爆豪が言った。
「地面はあるのに、土地じゃねえみてえだ」
「近い表現かもしれない」
相澤は、敷地の境界に立った。
その瞬間、視界の端で何かが動いた。
建物。
木造の、小さな家。
玄関先に置かれた植木鉢。
洗濯物。
窓辺のカーテン。
そして、二階の窓から顔を出す少年。
緑谷出久。
いや。
顔は同じでも、彼ではなかった。
その少年は、現在の出久よりも幼く見えた。
まだ幼稚園に入る前くらいの年齢。
柔らかな緑色の髪。
大きな目。
その目だけが、ひどく大人びていた。
少年は、相澤たちを見つめた。
そして、口を動かした。
声は聞こえない。
それでも、何を言ったのかは理解できた。
――来てはいけない。
次の瞬間、少年の背後に女が現れた。
顔は見えなかった。
女は少年の肩を抱き、窓から離れさせようとした。
だが少年は、窓枠にしがみついた。
そして、もう一度、こちらを見た。
今度は、はっきりとわかった。
少年は助けを求めていた。
声にならない声で。
誰にも聞こえない声で。
――お母さんを、助けて。
映像が消えた。
空き地が戻ってくる。
「……今の、見えましたか」
お茶子が言った。
「ああ」
相澤は即答した。
「俺にも見えた」
「俺もだ」
爆豪は、空き地の奥を睨みつけていた。
「ガキがいた。緑谷のガキの頃みてえな顔した奴が」
「でも、出久くんじゃない」
お茶子は、ノートを抱きしめた。
「同じ顔でも、違う人だと思う」
「根拠は?」
相澤が尋ねる。
「わかりません。でも……」
お茶子は、目を閉じた。
「出久くんが助けてって言うとき、あんな顔をしないから」
彼女は目を開いた。
「出久くんは、助けてほしいときでも、自分より先に誰かのことを考えるんです。あの子は……自分が助けてほしいんじゃなかった」
「母親を助けてほしい、か」
「はい」
お茶子の声が震えた。
「あの子は、自分がどうなってもいいから、お母さんを助けてほしいって言ってた」
爆豪が舌打ちした。
「クソが」
彼は空き地に向かって一歩踏み出した。
「だったら、助けに行くぞ」
「どこへだ」
「決まってんだろ。あのガキがいた場所だ」
「今は何もない」
「だから何だ」
爆豪は振り返った。
「存在しねえなら、存在するまで探せ。消されたなら、消した奴を見つけろ。俺たちが知ってる緑谷は、そういうことをやる奴だ」
その言葉に、相澤は一瞬だけ目を伏せた。
そして、頷いた。
「そうだな」
相澤は、敷地の中央へ歩いた。
「全員、俺から離れるな。何が起きても、互いの名前を呼び続けろ」
「名前?」
「この場所では、名前が存在の証拠になっている可能性がある」
相澤は説明した。
「記憶が消されるなら、名前を呼ぶ。姿が見えなくなるなら、声を聞く。誰かが消えそうになったら、そいつがここにいることを、俺たち自身が証明する」
お茶子はノートを開いた。
最初のページに書かれた名前。
御影出久。
彼女は、その文字を指でなぞった。
「……御影くん」
その瞬間。
地面の下から、鈍い音がした。
ごん。
ごん。
ごん。
まるで、誰かが地下室の扉を叩いているような音だった。
相澤は、足元を見た。
空き地の中央に、黒い線が現れていた。
四角形。
玄関の輪郭。
やがて、その線が地面を走り、家の形を描き始める。
壁。
窓。
屋根。
そして、玄関の扉。
空き地に、家が戻ってきた。
だが、家の中から聞こえてきたのは、子どもの笑い声ではなかった。
女の悲鳴だった。
*
2 十三年前の母親
玄関の扉は、鍵がかかっていなかった。
相澤が手をかけると、音もなく開いた。
その向こうには、古びた廊下が続いていた。
木の床。
壁に飾られた写真。
小さな靴。
そして、廊下の奥に置かれた子ども用の椅子。
家の中は、時間が止まっていた。
埃がない。
腐食もない。
生活の痕跡が残っているのに、誰かが暮らしている気配だけが欠けていた。
「……ここ、本当に緑谷の家か?」
爆豪が呟いた。
「少なくとも、緑谷家として認識されていた場所だろう」
相澤は壁の写真に目を向けた。
写真には、若い女性が写っていた。
緑谷出久の母親、緑谷引子。
その隣には、緑谷久志と思われる男性。
二人の間には、小さな男の子がいた。
緑色の髪。
丸い頬。
笑顔。
そして、その隣には。
もう一人、少年がいた。
同じ顔。
同じ髪。
同じ年頃。
しかし、二人は同じ服を着ていなかった。
片方は青いシャツ。
もう片方は、白いシャツ。
写真の裏側には、日付が記されていた。
――十三年前。
その下には、手書きの文字。
『家族四人で、初めて撮った写真』
お茶子が息を呑んだ。
「四人……」
写真に写っているのは、確かに四人だった。
父親。
母親。
二人の子ども。
ところが。
写真の端には、不自然な空白があった。
四人目の人物のさらに隣。
そこにも、人が立っていたような隙間がある。
肩の輪郭。
髪の影。
写真の光の反射。
それらは、人間がそこにいたことを示していた。
だが、誰の姿も写っていない。
まるで、五人目の家族がいたかのようだった。
「……五人いたのか?」
爆豪が呟く。
「いや」
相澤は、写真を慎重に外した。
「写真の構図から考えれば、撮影者を含めて五人という可能性もある。だが、ここで人数を決めつけるな」
「じゃあ、何を見りゃいい」
「写っているものじゃない。写っていないものだ」
相澤は写真を光に透かした。
「この写真は、誰かが加工した形跡がない。なのに、空白がある。つまり、写真から人間が消されたのではなく、撮影した時点で、その人間を撮影者が認識できていなかった可能性がある」
「認識できねえ人間を、どうやって写真に撮るんだよ」
「それを調べるんだ」
相澤は写真を塚内に送るため、端末を取り出した。
だが、画面は真っ黒だった。
電源が入っている。
バッテリーも十分に残っている。
それなのに、画面には何も映らない。
代わりに、黒い画面の中央に白い文字が浮かび上がった。
事件現場に、加害者が到着しました。
続けて。
被害者の死亡を確認してください。
そして。
加害者の名前を入力してください。
爆豪が端末を叩き壊そうとした。
「待て」
相澤が止めた。
「入力しなければいい」
その直後。
画面の文字が変わった。
加害者の名前を入力してください。
加害者の名前を入力してください。
加害者の名前を入力してください。
同じ文字が、画面を埋め尽くしていく。
やがて、一つの名前だけが残った。
緑谷出久。
「……は?」
爆豪の顔から、表情が消えた。
お茶子は、息をするのを忘れたように画面を見つめていた。
相澤は端末を伏せた。
「ここにいる緑谷出久ではない」
自分に言い聞かせるように、彼は言った。
「そうだろう?」
返事はない。
だが、端末の裏側から、かすかな音が聞こえてきた。
こつ。
こつ。
こつ。
内側から、誰かが画面を叩いている。
そして。
相澤の耳元で、少年の声がした。
『先生』
相澤は動きを止めた。
その声は、聞き覚えがあった。
何度も聞いた声。
職員室で。
訓練場で。
保健室で。
泣きそうになりながら、それでも誰かを助けようとする少年の声。
『先生、僕は……』
声が震えた。
『僕は、お母さんを殺したんですか?』
相澤の喉が、わずかに動いた。
「……違う」
彼は、はっきりと言った。
「まだ何もわかっていない」
『でも、記録に書いてあります』
「記録が正しいとは限らない」
『お父さんも、僕を殺したって言いました』
「……」
『僕が、誰かを殺したからですか?』
相澤は、目を閉じた。
十三年前。
出生前。
母親殺害事件。
存在しない被害者。
加害者、緑谷出久。
そして、誰かを救うために、自分を殺すことを選んだ少年たち。
ここにいるのは、本当に過去の事件なのだろうか。
それとも、現在の緑谷出久がいつか犯すことになる事件なのだろうか。
相澤は、答えを出さなかった。
答えを出すこと自体が、罠である可能性があった。
「緑谷」
彼は、声を張った。
「聞こえているなら、答えろ」
『……はい』
「お前は、誰だ」
沈黙。
数秒。
そして、少年の声が返ってきた。
『僕は……』
その声は、泣いていた。
『僕は、まだ生まれていない緑谷出久です』
端末の画面が、真っ白になった。
*
3 母親は二人ではなかった
廊下の奥で、扉が開いた。
誰も触れていない。
蝶番の音もなかった。
ただ、最初からそこに開いた扉が存在していたかのように、部屋の入口が現れた。
相澤は先頭に立ち、部屋へ入った。
そこは、寝室だった。
ベッド。
白いシーツ。
小さなタンス。
窓辺に置かれた花瓶。
そして、ベッドの上に横たわる女性。
緑谷引子に似ていた。
しかし、違う。
顔の輪郭も、髪の色も、目元も、よく似ているのに、別人だとわかる。
彼女は若かった。
引子よりも、ずっと若い。
おそらく二十歳にもなっていない。
その腹部は、大きく膨らんでいた。
妊婦だった。
女性の顔は、苦痛に歪んでいる。
唇が動いていた。
声は聞こえない。
しかし、お茶子は、その言葉を理解した。
――この子を、お願い。
女性は腹部を押さえていた。
その手が震える。
苦しそうに呼吸する。
そして、突然、目を見開いた。
彼女はベッドの傍らに立つ誰かを見ていた。
その人物の顔は、見えない。
黒い影に覆われている。
だが、その身長と輪郭は、どう見ても大人ではなかった。
子どもだった。
女性の前に立っていたのは、一人の少年だった。
緑色の髪。
緑色の目。
見慣れた顔。
少年は、母親を見下ろしていた。
その手には、小さなナイフが握られていた。
お茶子が息を呑んだ。
「……嘘」
女性が何かを言った。
少年が首を振った。
そして、ナイフを持つ手を上げた。
次の瞬間。
映像が乱れた。
音が戻ってくる。
女性の悲鳴。
何かが床に落ちる音。
そして、少年の泣き声。
『ごめんなさい』
少年は、何度も繰り返していた。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
彼はナイフを床に落とした。
血に濡れた手で、自分の顔を覆った。
『僕が生まれなければ』
その言葉を聞いた瞬間、お茶子は駆け出していた。
「待って!」
映像の中の少年に向かって叫ぶ。
「違う! それは、あなたが悪いんじゃない!」
少年は振り返らない。
女性は、もう動かなかった。
ベッドの上で、静かに横たわっている。
少年が、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、涙が溢れていた。
『でも、僕が殺したんです』
「違う!」
『僕が生まれるから、お母さんは死ぬんです』
「違うよ!」
お茶子の声が裏返った。
「あなたが生まれることと、お母さんが死ぬことは、同じじゃない!」
少年が、ようやくこちらを向いた。
その顔は。
緑谷出久だった。
現在の出久と、まったく同じ顔だった。
いや。
同じ顔をした少年が、二人いた。
映像の中で、ナイフを持っていた少年。
そして、ベッドの傍らで泣いている少年。
さらに、部屋の隅に立つ少年。
三人。
全員が、同じ顔だった。
全員が、緑谷出久だった。
だが、三人の目は違っていた。
一人目は、絶望していた。
二人目は、何かを諦めていた。
三人目は、ただ静かに、女性を見つめていた。
そして、三人目の少年が口を開いた。
『お母さんを殺したのは、僕です』
ナイフを持っていた少年が、顔を上げる。
『違う』
泣いていた少年が、首を振る。
『僕が殺したんだ』
部屋の隅の少年が、静かに言った。
『違うよ』
彼は、一歩前に出た。
『お母さんを殺したのは、僕じゃない』
そして。
『お母さんを殺したのは、僕たちが生まれる前に、僕たちを生まれさせた人だ。』
映像が、停止した。
相澤は、歯を食いしばった。
爆豪は、拳を握り締めていた。
お茶子は、ノートを抱きしめていた。
彼女は、ようやく理解し始めていた。
この事件には、複数の母親が関わっている。
緑谷引子。
御影出久の母親とされる女性。
そして、彼らが生まれる前に、彼らを生まれさせた誰か。
しかし。
それだけではない。
部屋の中には、もう一つのベッドがあった。
その上には、小さな赤ん坊が寝かされていた。
緑色の髪。
閉じた瞼。
小さな手。
赤ん坊は、静かに眠っている。
その胸は、上下していなかった。
「……死んでるのか」
爆豪が呟いた。
相澤は答えなかった。
お茶子が、ゆっくりと近づく。
赤ん坊の顔を覗き込む。
そして。
泣きそうな顔で、呟いた。
「この子……」
赤ん坊の首には、小さな札が掛けられていた。
そこに記された名前は。
緑谷出久。
その下には、出生時刻。
午前二時十三分。
さらに、死亡時刻。
午前二時十三分。
生まれた瞬間に、死んでいた。
いや。
正確には。
生まれる前から、死んでいた。
*
4 死んだ子どもが、母親を殺した
「塚内に連絡する」
相澤は、端末を取り出した。
今度は画面が点灯した。
だが、通話先の一覧に塚内の名前はなかった。
代わりに、一つの名前が表示されている。
緑谷出久。
相澤は、画面を見つめた。
「……出ろ」
発信ボタンを押す。
呼び出し音は鳴らなかった。
すぐに、通話が繋がった。
『先生?』
現在の緑谷出久の声だった。
相澤の胸に、わずかな安堵が広がる。
「緑谷、今どこにいる」
『雄英です。寮にいますけど……どうしたんですか?』
「今から質問する。正直に答えろ」
『はい』
「お前は、自分が生まれる前に、誰かを殺したことがあるか」
電話の向こうで、息が止まった。
長い沈黙。
相澤は、声を荒らげなかった。
急かすこともしなかった。
ただ、待った。
『……先生』
ようやく、出久が口を開いた。
『僕は』
声が震えていた。
『僕は、誰かを殺したことがあります』
お茶子が、目を見開いた。
爆豪が、相澤の手から端末を奪いかけた。
相澤は、片手で制した。
「誰をだ」
『わかりません』
「わからない?」
『はい。でも……』
出久の声が、さらに小さくなる。
『僕は、何度も夢で見ました』
「夢?」
『知らない部屋です。白い壁で、時計が止まっていて……ベッドの上に、女の人が寝ているんです』
相澤は、目の前のベッドを見た。
『その人は、僕を見て、泣いているんです』
「何と言っている」
『……』
沈黙。
そして。
『「あなたは、私の息子を二度殺したんです」って』
相澤は、目を閉じた。
あの女の声。
あの写真。
御影出久の母親だと名乗った女性。
彼女は、緑谷出久にそう言った。
あなたは、私の息子を二度殺した。
あの言葉は、単なる恨み言ではなかったのかもしれない。
実際に、出久が彼女の息子を殺した可能性。
あるいは。
彼女の息子を殺したことにされている、別の出久が存在する可能性。
そのどちらも、否定できなかった。
「緑谷」
相澤は、慎重に尋ねた。
「その女性の顔は覚えているか」
『はい』
「今、思い出せるか」
『……できます』
「特徴を言え」
電話の向こうで、出久が息を吸った。
『緑色の髪でした』
相澤は、眉を寄せた。
『僕と同じ色です。でも、僕よりも少し暗くて……目の色も、少し違いました』
「……」
『それから、右手の薬指に、指輪をしていました』
相澤は、目の前の女性を見た。
ベッドの上に横たわる彼女。
右手の薬指には、指輪があった。
古びた銀色の指輪。
中央に、小さな石が埋め込まれている。
その石は、光を受けても輝かなかった。
まるで、色そのものを失ったような石だった。
「緑谷」
相澤の声が低くなる。
「お前は、その女性を殺したのか」
『……わかりません』
「わからないなら、わからないと答えろ。推測で自分を裁くな」
『でも、先生』
出久の声に、苦痛が滲んだ。
『もし、本当に僕が殺したんだとしたら』
「そのときは、その事実を確かめる」
『……』
「だが、今のお前が自分を犯人だと決めつけても、死んだ人間は戻らない。生きている人間を救うことにもならない」
相澤は、静かに続けた。
「俺は、お前が何をしたのかを知りたい。お前がどんな人間なのかを決めつけるためじゃない」
電話の向こうから、小さな呼吸音が聞こえた。
『先生』
「何だ」
『僕……今、寮の鏡を見たんです』
相澤の背筋が冷えた。
「それで?」
『鏡の中に、僕が三人いました』
部屋の空気が凍った。
『一人は、僕と同じ顔でした』
出久の声が、震える。
『もう一人は、泣いていました』
電話の向こうで、何かが倒れる音がした。
『そして、最後の一人は……』
出久が、息を呑んだ。
『僕の後ろに立っていました』
相澤は、すぐに言った。
「振り返るな」
『え?』
「絶対に振り返るな。鏡から目を離すな」
『せ、先生……』
「今、俺たちがそっちへ向かう。動くな」
そのとき。
電話の向こうから、別の声が聞こえた。
『出久』
女の声だった。
優しい声。
子どもを呼ぶ母親の声。
『出久、こっちへおいで』
出久が、息を止めた。
『……お母さん?』
その言葉を聞いた瞬間、相澤は叫んだ。
「緑谷! 返事をするな!」
しかし、遅かった。
電話の向こうで、女が笑った。
『いい子ね』
そして、こう言った。
『あなたは、私を殺してくれたのね』
*
5 母親の遺言
通話が切れた。
相澤は、すぐに掛け直した。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
画面には、発信中の文字だけが表示されていた。
「戻るぞ」
相澤は、即座に踵を返した。
「緑谷が危ない」
「待て」
爆豪が、部屋の奥を指差した。
「まだ終わってねえ」
ベッドの上の女性が、動いていた。
いや。
死体が動いているのではない。
女性の身体は、そのまま横たわっている。
だが、彼女の影が起き上がっていた。
壁に映る影。
女性の身体が動いていないのに、影だけがゆっくりと上体を起こしている。
影は、ベッドから降りた。
足元に落ちていたナイフを拾う。
そして、部屋の中央に立った。
影の顔には、目も鼻も口もなかった。
それでも、彼女がこちらを見ているとわかった。
影は、口のない顔で言った。
『事件の記録を、開始します』
塚内の声だった。
いや、違う。
塚内の声を模倣しているだけだ。
『被害者。氏名、未登録』
『年齢、未登録』
『出生記録、未登録』
『死亡記録、未登録』
『加害者。氏名、緑谷出久』
『出生日時、未登録』
『死亡日時、未登録』
『動機、未登録』
影は、ナイフを床に置いた。
『以上をもって、母親殺害事件の記録を終了します』
「ふざけるな」
爆豪が、影に向かって踏み出した。
「何もわかってねえじゃねえか!」
『記録は終了しました』
「誰が終了していいっつった!」
爆豪の拳が、影を殴りつけた。
何の手応えもなかった。
拳は影を通り抜け、壁にぶつかった。
衝撃で壁が揺れる。
だが、影は消えなかった。
『記録は終了しました』
「黙れ!」
『記録は終了しました』
「黙れっつってんだろうが!」
爆豪の手のひらで、小さな爆発が起こった。
衝撃波が部屋を走る。
カーテンが舞い上がり、花瓶が床に落ちて割れた。
それでも、影は消えなかった。
相澤は、爆豪の肩を掴んだ。
「やめろ。そいつは敵じゃない」
「じゃあ何だ!」
「記録だ」
相澤は、影を睨んだ。
「事件を記録するための何かだ。こいつを壊しても、事件の真相には近づけない」
「なら、どうすりゃいい!」
「記録にないものを探す」
相澤は、ベッドへ向かった。
女性の右手。
銀色の指輪。
指輪の内側に、何かが刻まれている。
相澤は、指輪を確認した。
小さな文字。
その文字は、かろうじて読めた。
出久へ。あなたが生まれたら、私はあなたを愛しています。
相澤の指が止まった。
その下には、さらに小さな文字があった。
生まれなかったあなたにも。
お茶子が、口元を押さえた。
彼女の目から、涙が零れた。
「……この人」
声が震える。
「この人は、どっちの出久くんも、愛してたんだ」
影が、初めて反応した。
顔のない頭が、お茶子へ向く。
『訂正します』
声が変わった。
今度は、緑谷出久の声だった。
『母親は、一人です』
お茶子が顔を上げる。
『訂正します』
『母親は、二人です』
影の身体に亀裂が走った。
『訂正します』
『母親は、三人です』
亀裂が広がる。
『訂正します』
『母親は――』
そこで、声が途切れた。
影は、しばらく沈黙した。
そして、ひどく苦しそうな声で言った。
『……母親は、何人いてもよかったんです』
相澤たちは動かなかった。
『母親は、子どもを愛していました』
影の足元に、黒い染みが広がっていく。
『だから、子どもを殺しました』
「……何だと?」
相澤が問い返す。
『母親は、子どもを愛していました』
影は、繰り返した。
『だから、子どもを殺しました』
「理由を言え」
『その子どもが、生まれたら』
影が、顔を上げた。
『別の子どもが死ぬからです』
部屋の時計が動き始めた。
午前二時十三分。
二時十四分。
二時十五分。
秒針が進んでいく。
それと同時に、ベッドの上の女性の身体が薄くなり始めた。
指先。
腕。
肩。
彼女の身体が、少しずつ透けていく。
「待て!」
お茶子が駆け寄った。
「まだ、話を聞いてない!」
『記録は終了しました』
「終わってない!」
お茶子は、女性の手を掴もうとした。
しかし、指はすり抜けた。
女性の手は、そこにある。
触れられない。
存在しているのに、触れることができない。
まるで、御影出久のようだった。
「お願い……!」
お茶子は、涙を流しながら叫んだ。
「あなたが誰なのか、教えてください!」
女性の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔が、初めてはっきりと見えた。
緑谷引子ではない。
先ほどの写真に写っていた女性でもない。
だが、お茶子は、その顔を知っていた。
緑谷出久の顔だった。
少年の顔ではない。
青年の顔でもない。
年齢という概念が、そもそも当てはまらない顔。
緑谷出久と同じ目。
同じ鼻。
同じ口。
ただし、その目には、無数の死が刻まれていた。
女性は、お茶子を見て微笑んだ。
『私の名前を、覚えていますか』
お茶子は答えられなかった。
名前が、わからない。
思い出せない。
知っていたはずなのに、名前だけが頭から抜け落ちている。
『そう』
女性は、寂しそうに笑った。
『それでいいの』
彼女の身体が、さらに薄くなる。
『私の名前を覚えていたら、あなたも私を殺してしまうから』
「どういうこと……?」
『あなたは、出久を愛しているでしょう』
お茶子の心臓が跳ねた。
『なら、いつか選ばなければならない』
女性は言った。
『出久を生かすために、誰かを殺すのか』
『誰かを生かすために、出久を殺すのか』
彼女は、少しだけ目を細めた。
『それとも、誰も殺さないために、世界を殺すのか』
その言葉を最後に。
女性の姿は消えた。
ベッドには、白いシーツだけが残った。
ナイフも、指輪も、花瓶の破片も。
全てが消えていた。
何もなかった。
最初から、誰もいなかったかのように。
ただ一つだけ。
床に、紙片が落ちていた。
お茶子が拾い上げる。
そこには、短い文章が書かれていた。
『出久へ』
『あなたを殺したのは、私です』
『あなたを生かしたのも、私です』
『だから、どうか』
『私を、母親だと思わないでください』
紙片の裏側には、さらに一文。
『あなたが私を母親だと思う限り、私は何度でもあなたを殺さなければならない』
*
6 生まれる前の殺人
緑谷出久は、鏡の前に立っていた。
雄英高校の寮。
自室。
時計は午前二時十五分を指している。
相澤からの電話は切れたままだった。
画面には、圏外の文字が表示されている。
出久は、鏡から目を離さなかった。
鏡の中には、三人の自分がいた。
中央に、現在の出久。
左側に、泣いている出久。
右側に、無表情の出久。
そして。
自分の背後に、もう一人。
四人目の出久が立っていた。
彼は、鏡の中でだけ存在していた。
振り返っても、誰もいない。
しかし、鏡を見ると、確かにそこに立っている。
四人目の出久は、ゆっくりと手を伸ばした。
鏡の内側から。
ガラスの表面に指先を触れる。
そして、口を開いた。
『やっと、思い出したね』
「……君は、誰?」
『君だよ』
「僕じゃない」
『そうだね』
四人目は、微笑んだ。
『君じゃない』
左側の出久が、泣きながら首を振った。
『違うんだ』
右側の出久が、静かに言った。
『違うから、君が生きている』
中央の出久は、両手を握り締めた。
「……何の話なんだ」
『お母さんの話』
四人目が答えた。
『僕たちの、お母さんの話』
「緑谷引子さんのこと?」
『違う』
「じゃあ、あの女性?」
『違う』
「……じゃあ、誰なんだよ」
四人目は、少しだけ悲しそうな顔をした。
『君が、まだ生まれていなかった頃の話だよ』
鏡の中の景色が変わった。
白い部屋。
止まった時計。
ベッドの上の女性。
そして、小さな赤ん坊。
赤ん坊は、泣いていなかった。
女性は、赤ん坊を抱きしめていた。
涙を流しながら。
『ごめんね』
女性は言った。
『ごめんね、ごめんね』
赤ん坊は、動かなかった。
女性は、その額にキスをした。
『あなたを愛しているから』
女性は、赤ん坊の首に手を伸ばした。
その手には、ナイフが握られていた。
『あなたを殺すね』
出久は、息を呑んだ。
「やめろ!」
鏡に手をつく。
「やめてよ!」
女性は、振り返らなかった。
『あなたが生まれたら、あなたのお兄ちゃんが死ぬの』
女性の声は、優しかった。
『だから、あなたを生まれさせない』
「やめろ!」
『あなたを生かしたら、別のあなたが死ぬ』
ナイフが、ゆっくりと持ち上がる。
『あなたを殺したら、別のあなたが生きる』
「やめろおおおおっ!」
出久が叫んだ瞬間。
鏡が割れた。
いや。
割れたように見えた。
実際には、鏡の表面に無数の亀裂が走っただけだった。
破片は落ちない。
鏡は壊れない。
亀裂の一つ一つに、別々の出久が映っていた。
泣いている出久。
笑っている出久。
血まみれの出久。
目を閉じている出久。
そして。
ナイフを持った出久。
その少年は、女性を見下ろしていた。
女性は、ベッドの上で動かなくなっていた。
少年は、震える手でナイフを落とした。
『……僕が殺した』
少年が呟いた。
『僕が、お母さんを殺した』
出久は、首を振った。
「違う……」
『僕が殺した』
「違う!」
『僕が、生まれる前に』
少年が顔を上げた。
その顔は、出久自身だった。
『僕が、お母さんを殺したんだ』
出久は、床に膝をついた。
呼吸ができない。
胸が痛い。
頭の中に、知らない記憶が流れ込んでくる。
赤ん坊の泣き声。
母親の悲鳴。
血の匂い。
白い部屋。
止まった時計。
そして、何度も繰り返される選択。
誰かを生かすために、誰かを殺す。
誰かを救うために、別の誰かを犠牲にする。
世界を守るために、世界の一部を消す。
そのたびに、誰かが泣いた。
そのたびに、誰かが死んだ。
そのたびに、緑谷出久が生まれた。
そして、緑谷出久が殺した。
「……僕は」
出久は、震える手を見つめた。
「僕は、何人いるんだ……?」
鏡の中の四人目が、静かに答えた。
『わからない』
「……」
『数えようとしたんだ』
四人目は、鏡の亀裂に手を添えた。
『一人目。二人目。三人目。四人目』
『五人目』
『六人目』
『七人目』
数えるたびに、鏡の中に出久が増えていく。
十人。
二十人。
五十人。
百人。
鏡の中が、緑色の髪で埋め尽くされる。
『数えたんだよ』
四人目は、泣きそうな顔で笑った。
『でも、途中でやめた』
「どうして……?」
『だって』
彼は答えた。
『数えるたびに、誰かが死ぬんだ』
鏡の中の出久たちが、一斉に顔を上げた。
『僕たちは、死んだ数だけ生まれた』
『生まれた数だけ、誰かを殺した』
『誰かを殺した数だけ、世界を作り直した』
『そして、世界を作り直すたびに』
全員が、同時に口を開いた。
『お母さんが、僕たちを産んだことになった。』
出久の身体が、凍りついた。
「……何を、言ってるんだ」
『母親殺害事件』
四人目が、告げた。
『あの事件は、君が生まれる前に起きた』
『でも、君が生まれたから起きたんだ』
『だから、君は犯人なんだ』
出久は、頭を抱えた。
「違う……」
『君は、被害者でもある』
「違う!」
『君は、加害者でもある』
「違う!」
『君は、まだ生まれていない』
四人目が、静かに言った。
『それなのに、君はもう、母親を殺している』
その瞬間。
鏡の亀裂が、一斉に黒く染まった。
中央に映っていた出久の姿が消えた。
代わりに、白い部屋が映る。
ベッドの上には、女性が横たわっている。
その傍らに、小さな少年が立っている。
少年は、泣いていた。
『お母さん』
少年が呼んだ。
『僕を、産んで』
女性は、動かない。
『お願い』
少年は、膝をついた。
『僕は、ちゃんと生きるから』
『誰も殺さないから』
『誰も選ばないから』
『だから』
少年は、顔を上げた。
『僕を、産んでよ』
女性の指先が、かすかに動いた。
そして。
彼女は、目を開いた。
『……出久』
出久は、息を呑んだ。
その声は。
緑谷引子の声だった。
『ごめんね』
母親は、泣いていた。
『あなたを産んで、ごめんね』
少年が、首を振る。
『違う』
『あなたを生かして、ごめんね』
『違うよ』
『あなたのお兄ちゃんを、死なせてごめんね』
『違う!』
少年は、母親の手を握った。
『お母さんは、悪くない!』
母親は、泣きながら微笑んだ。
『それでも』
彼女は言った。
『私は、あなたを殺したの』
少年の手が止まった。
『あなたが生まれる前に』
母親は、目を閉じた。
『私は、あなたを殺したの』
出久の視界が、真っ白になった。
そして、世界が止まった。
*
7 母親を殺したのは誰か
午前二時十三分。
相澤たちは、再び寝室にいた。
時計の針が、元の位置に戻っていた。
家の外からは、何も聞こえない。
時間が巻き戻ったのか。
あるいは、時間そのものが、午前二時十三分以外の瞬間を拒絶しているのか。
誰にもわからなかった。
塚内からの連絡もない。
相澤は、携帯電話を見下ろした。
画面には、通知が一件届いていた。
差出人は、塚内。
本文は、たった一行だった。
『先生、警察の記録が見つかりました。母親殺害事件の被害者は、緑谷引子です』
相澤は、目を見開いた。
続けて、もう一件。
『訂正します。被害者は、緑谷引子ではありません』
さらに、三件目。
『訂正します。被害者は、緑谷引子の母親です』
四件目。
『訂正します。被害者は、緑谷出久の母親です』
五件目。
『訂正します。被害者は、緑谷出久です』
六件目。
『訂正します。被害者は、緑谷出久の兄です』
七件目。
『訂正します。被害者は、未登録個体です』
八件目。
『訂正します。被害者は、存在しません』
最後の通知が届いた。
『先生』
『この事件の被害者は、記録を確認するたびに変わっています』
『ただし、加害者だけは変わりません』
『どの記録にも、同じ名前が記されています』
その下に、画像が添付されていた。
相澤は、画像を開いた。
警察の事件記録。
黒い紙。
白い文字。
事件名。
母親殺害事件。
加害者。
緑谷出久。
そして、被害者の欄。
そこには、誰の名前もなかった。
代わりに、手書きの文章が記されていた。
『被害者は、母親である』
『母親は、子どもである』
『子どもは、加害者である』
『加害者は、被害者である』
『被害者は、母親である』
終わりのない循環。
誰が誰を殺したのか。
誰が誰を産んだのか。
誰が最初に生まれ、誰が最初に死んだのか。
その答えは、記録の中で何度も入れ替わっていた。
ただ一つだけ。
どの記録にも、変わらず残っているものがあった。
事件発生日。
午前二時十三分。
相澤は、画像を拡大した。
その隅に、小さな文字が記されている。
本事件の発生は、出生よりも前である。
さらに、その下。
被害者の出生を確認すること。
相澤は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そういうことか」
「何がだよ」
爆豪が尋ねる。
「この事件は、過去に起きた殺人事件じゃない」
相澤は、画面を見つめたまま言った。
「現在の緑谷が生まれる前に、誰かが緑谷を殺した事件でもない」
「じゃあ、何だ」
「緑谷が生まれるために、誰かが母親を殺さなければならなかった事件だ。」
お茶子が、息を呑んだ。
「……生まれるために?」
「ああ」
相澤は続けた。
「緑谷が生まれるためには、ある人物が死ななければならなかった。だが、その人物が死ぬためには、緑谷が生まれなければならなかった」
「……」
「つまり、原因と結果が逆転している」
相澤は、事件記録を閉じた。
「誰かが死んだから緑谷が生まれたんじゃない。緑谷が生まれたから、その人物が死んだことになった」
爆豪は、拳を握り締めた。
「だったら、そいつを生き返らせりゃいい」
「そう簡単にはいかない」
「やってみなきゃわかんねえだろうが!」
「その人物が生き返ったら、緑谷が生まれなかったことになる可能性がある」
「だから何だ!」
爆豪の声が、部屋に響いた。
「生まれなかったことになるなら、そうなる前にそいつを助ける方法を探せ! どっちか一人を殺すしかねえなんて、誰が決めた!」
相澤は、爆豪を見た。
爆豪は、睨み返した。
「俺は、緑谷が誰かを殺したなんて認めねえ」
「事実なら?」
「事実かどうかを調べる」
「もし、本当に殺していたら?」
「それでも、調べる」
爆豪は、一歩も引かなかった。
「緑谷がやったことなら、緑谷に向き合わせる。だが、誰かが緑谷を犯人に仕立て上げてるなら、そいつをぶっ飛ばす」
彼は、歯を剥いた。
「勝手に死んだことにされて、勝手に殺したことにされて、勝手に生まれなかったことにされる。そんなクソみてえな話、俺は認めねえ」
お茶子は、ノートを胸に抱いた。
「……私も」
彼女は、小さく言った。
「私は、出久くんが何人いたとしても、その誰かが誰かを殺したとしても、最初から全部なかったことにしたくない」
涙を拭う。
「御影くんがいたことも、いなかったことも。出久くんが誰かを救おうとしたことも、誰かを傷つけてしまったことも。全部、ちゃんと知りたい」
彼女は、顔を上げた。
「だって、知らないまま誰かを裁いたら、私たちも同じことをするから」
相澤は、静かに頷いた。
「……そうだな」
そのとき。
部屋の中央に、白い光が生まれた。
光は球体となり、ゆっくりと膨張していく。
そして、その中から一人の女性が現れた。
緑谷引子だった。
彼女は、十三年前の姿をしていた。
まだ若く、頬には涙の跡がある。
その腕には、赤ん坊が抱かれていた。
緑色の髪。
小さな手。
閉じた瞼。
赤ん坊は、泣いていなかった。
引子は、相澤たちを見た。
そして、悲しそうに微笑んだ。
「……やっと、ここまで来てくれたんですね」
相澤は、息を呑んだ。
「緑谷引子さん……?」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「私は、緑谷引子ではありません」
「……何?」
「私は、緑谷引子になる前の人間です」
爆豪が、眉を寄せる。
「どういう意味だ」
女性は、腕の中の赤ん坊を見下ろした。
「私は、この子の母親でした」
相澤は、目の前の赤ん坊を見た。
「……緑谷出久か」
「いいえ」
女性は、首を振った。
「この子は、緑谷出久ではありません」
彼女は、赤ん坊の額にそっと口づけた。
「この子が、最初の緑谷出久です」
沈黙。
時計の秒針が、かすかに動いた。
女性は、赤ん坊を抱きしめた。
「この子は、十三年前に死にました」
彼女の声が震えた。
「私が、殺したんです」
*
8 最初の母親
「……あなたが?」
相澤は、慎重に尋ねた。
「はい」
女性は頷いた。
「私が、この子を殺しました」
「なぜです」
「この子が、生まれてしまったからです」
その言葉に、お茶子が顔を歪めた。
「そんな……」
「わかっています」
女性は、悲しそうに笑った。
「あなたが、そう思うのは当然です」
彼女は赤ん坊を見下ろした。
「私も、最初はそう思いました。生まれてきた子どもを殺すなんて、母親がすることではない。どんな理由があっても、許されないことだと」
彼女は、赤ん坊の小さな手を握った。
「でも、この子が生まれた瞬間、世界は壊れ始めたんです」
相澤は、眉を寄せた。
「詳しく話してください」
「この子には、お兄さんがいました」
女性は言った。
「生まれる前から、兄がいたんです」
「生まれる前から?」
「はい。この子が生まれるより前に、兄は存在していました」
女性は、言葉を選びながら続けた。
「でも、その兄は、世界に存在してはいけない子どもでした」
爆豪が舌打ちした。
「また、それか」
「私は、その兄を愛していました」
女性は、爆豪を見た。
「だから、兄を生かしたかった」
彼女は、赤ん坊を抱きしめた。
「でも、この子が生まれると、兄が消えてしまう」
「……」
「この子が生まれなければ、兄は生きられる」
女性は目を閉じた。
「だから、私は、この子を殺しました」
お茶子は、首を振った。
「……でも、それで本当に、お兄さんは助かったんですか?」
女性の表情が変わった。
長い沈黙。
そして。
「いいえ」
彼女は、答えた。
「助かりませんでした」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「私は、この子を殺しました。兄を生かすために、この子を殺したんです」
女性は、泣きながら笑った。
「でも、兄は戻ってこなかった」
彼女の腕の中で、赤ん坊が動いた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
緑色の瞳。
その目が、女性を見つめた。
「……だから」
女性は、赤ん坊を見つめ返した。
「私は、世界を作り直しました」
相澤の背筋が冷えた。
「あなたが……?」
「はい」
「世界を、作り直した?」
「一度ではありません」
女性は、赤ん坊の頬を撫でた。
「何度もです」
部屋の壁に、無数の映像が浮かび上がった。
白い部屋。
病院。
火災。
瓦礫の山。
泣き叫ぶ子ども。
倒れたヒーロー。
血に濡れた手。
そして、何度も繰り返される午前二時十三分。
そのたびに、世界が壊れた。
そのたびに、世界が作り直された。
そのたびに、女性は赤ん坊を抱きしめた。
そして、そのたびに、誰かが死んだ。
「私は、兄を救おうとしました」
女性は言った。
「兄が生きている世界を探したんです」
映像の一つに、少年が映った。
緑色の髪。
赤ん坊よりも、少しだけ年上の少年。
少年は、瓦礫の下で誰かを抱きしめていた。
その腕の中には、別の少年がいた。
兄は、弟を守るために死んでいた。
弟は、兄を抱きしめて泣いていた。
女性は、その映像から目を逸らした。
「何度やり直しても、兄は死にました」
声が震える。
「私が何をしても、兄は死んだんです」
お茶子は、唇を噛んだ。
「……それで、あなたは」
「最後に、私は決めました」
女性は、赤ん坊を抱きしめた。
「兄を救うために、弟を生まれなかったことにしようと」
相澤は、静かに尋ねた。
「その弟が、あなたの腕の中にいる子どもですか」
「はい」
「そして、その子どもが、緑谷出久になった」
「……そうです」
女性は、目を伏せた。
「でも、世界は、私が思っていたようには変わりませんでした」
壁に浮かぶ映像が、切り替わる。
女性が赤ん坊を殺す。
世界が止まる。
兄が消える。
弟が消える。
女性が泣く。
そして、別の女性が現れる。
緑谷引子だった。
彼女は、病院のベッドの上で、赤ん坊を抱いている。
その隣には、緑谷久志がいた。
二人は笑っていた。
赤ん坊も泣いていた。
幸せな家族の風景。
だが、その窓の外に。
一人の少年が立っていた。
少年は、病室の中を見つめていた。
緑谷出久と、同じ顔。
彼は、窓に手をついた。
そして、声にならない声で言った。
――お母さん。
女性は、その映像を見つめた。
「世界は、私が殺した子どもを、もう一度生まれさせたんです」
彼女は、静かに言った。
「別の母親の子どもとして」
相澤は、ようやく理解し始めていた。
緑谷引子は、確かに出久を産んだ。
しかし、彼女が産んだ子どもは、最初の出久ではない。
最初の出久は、別の母親から生まれた。
その母親が、彼を殺した。
そして世界は、彼を緑谷出久として再構成した。
だが。
「……あなたは、なぜ緑谷引子にならなかったんですか」
相澤が尋ねた。
女性は、目を閉じた。
「私は、母親であることをやめたんです」
「……」
「私が母親である限り、私は、何度でもこの子を殺してしまう」
彼女は、赤ん坊の頬を撫でた。
「だから、私は、自分の名前を捨てました」
「名前を……?」
「母親としての名前を」
女性は、顔を上げた。
「私が母親でなくなれば、この子を殺さなくて済むかもしれないと思ったんです」
彼女は、悲しそうに笑った。
「でも、世界は、私を母親として記録し続けました」
彼女の身体に、亀裂が走った。
「私が母親をやめても、この子は私の子どもだった」
亀裂が広がる。
「私がこの子を忘れても、この子は私を覚えていた」
彼女は、赤ん坊を抱きしめた。
「そして、私がこの子を殺しても、この子は何度でも生まれてきた」
女性の声が、途切れた。
「……だから、私は」
彼女は、相澤たちを見た。
「もう一度だけ、この子を殺さなければならないんです」
爆豪が、すぐに前へ出た。
「ふざけんな」
女性は、目を見開いた。
「……何?」
「何度殺しても生まれてくるなら、殺すのをやめろ」
爆豪は、言い切った。
「それだけだろうが」
「それでは、兄が……」
「兄がどうした」
「兄は、死んでしまう!」
「だったら、兄も助けろ!」
爆豪の声が、部屋を震わせた。
「弟を殺さなきゃ兄が助からねえなんて、誰が決めた!」
「世界が……!」
「世界が何だ!」
爆豪は、拳を握り締めた。
「世界がそう決めたなら、世界のほうをぶっ壊せ!」
女性は、息を呑んだ。
相澤は、目を閉じた。
無茶苦茶だ。
あまりにも無茶苦茶な主張だった。
だが。
それは、ここにいる誰もが、心のどこかで求めていた答えでもあった。
誰かを殺さなければ、誰かが救えない。
誰かを忘れなければ、誰かが生きられない。
誰かを犠牲にしなければ、世界が維持できない。
そんな理屈を、これ以上受け入れたくなかった。
お茶子が、一歩前に出た。
「……あなたは、この子を愛していたんですよね」
女性は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
「じゃあ、どうして、この子が生きる未来を諦めたんですか」
「……」
「この子が生きたら、お兄さんが死ぬかもしれない。お兄さんが生きたら、この子が死ぬかもしれない」
お茶子は、涙を拭った。
「でも、どちらかが死ぬ未来しかないって、どうして決めたんですか?」
女性は、答えなかった。
「誰かが、そう言ったんですか?」
沈黙。
「世界が、そう言ったんですか?」
女性の手が震えた。
「それとも……」
お茶子は、声を落とした。
「あなたが、そう思い込んでしまったんですか?」
女性の瞳から、涙が落ちた。
赤ん坊の額に、涙が触れる。
その瞬間。
赤ん坊が、泣いた。
小さな声。
弱々しい声。
けれど、確かな命の声。
女性は、息を呑んだ。
彼女の腕の中で、赤ん坊が泣いていた。
世界が止まった。
壁の映像が消える。
時計の針が動かなくなる。
相澤たちの呼吸さえ、一瞬だけ止まった。
女性は、震える手で赤ん坊を抱き直した。
「……泣いた」
彼女は、呟いた。
「この子が……泣いた」
赤ん坊は、もう一度、泣いた。
女性は、顔を覆った。
「……ごめんなさい」
その声は、十三年間、誰にも届かなかった母親の声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼女は、泣きながら赤ん坊を抱きしめた。
「生まれてきて、ごめんなさいなんて、言わせたくなかったのに」
その瞬間。
部屋の扉が開いた。
そこに立っていたのは。
緑谷出久だった。
*
9 息子
「……お母さん」
出久は、部屋の入口に立っていた。
相澤たちは、驚いて振り返った。
「緑谷!」
相澤が叫ぶ。
「どうやってここに来た!」
出久は答えなかった。
彼の視線は、女性に向けられていた。
女性は、赤ん坊を抱いたまま、出久を見つめていた。
二人の顔は、よく似ていた。
似ているという言葉では足りない。
同じ顔だった。
同じ目。
同じ鼻。
同じ口。
ただ、女性の顔には、出久が持っていないものがあった。
数えきれないほどの後悔。
そして、数えきれないほどの殺意。
出久は、一歩前に出た。
「……あなたが」
声が震える。
「あなたが、僕のお母さんなんですか」
女性は、首を振った。
「いいえ」
「……」
「私は、あなたのお母さんではありません」
出久は、目を伏せた。
「そう、ですか」
「あなたを産んだのは、緑谷引子です」
「……はい」
「あなたを育てたのも、緑谷引子です」
「……はい」
「あなたを愛しているのも、緑谷引子です」
女性の声が、震えた。
「だから、私はあなたのお母さんではありません」
出久は、しばらく黙っていた。
そして。
「……それでも」
彼は、顔を上げた。
「あなたは、僕を産んだことがあるんですよね」
女性は、答えなかった。
「僕を殺したことがあるんですよね」
女性の目から、涙が落ちた。
「……はい」
「僕を生かしたことも、あるんですよね」
「……はい」
「僕が生まれなかった世界を、何度も作ったことがあるんですよね」
「……はい」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ」
彼は、一歩近づいた。
「僕は、あなたの息子だったことがあるんですね」
女性の顔が、歪んだ。
その言葉を、どれほど恐れていたのだろう。
どれほど、聞きたくなかったのだろう。
どれほど、聞きたかったのだろう。
「……やめて」
女性は、首を振った。
「お願いだから、そんなことを言わないで」
「どうしてですか」
「私は、あなたを殺したのよ」
「……はい」
「あなたを殺して、あなたのお兄さんを救おうとしたの」
「……はい」
「それでも、あなたは、私を母親だと思うの?」
出久は、答えなかった。
彼は、女性の腕の中にいる赤ん坊を見た。
小さな手。
閉じかけた瞼。
そして、胸の上下。
生きている。
この子は、生きている。
生まれる前に殺されたはずの子どもが、今、目の前で泣いている。
出久は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……抱いてもいいですか」
女性は、息を呑んだ。
「……何ですって?」
「その子を、抱いてもいいですか」
「どうして……」
「僕だからです」
出久は、微笑んだ。
泣きそうな顔で。
「僕が、僕を抱いてあげたいんです」
女性の手が震えた。
彼女は、赤ん坊を見下ろした。
そして、出久を見た。
長い沈黙の後。
女性は、赤ん坊を差し出した。
出久は、慎重に受け取った。
小さな身体。
温かい体温。
柔らかな髪。
赤ん坊は、出久の胸に顔を埋めた。
そして。
泣き止んだ。
出久は、赤ん坊を抱きしめた。
「……ごめんね」
彼は、囁いた。
「生まれる前から、こんなに苦しい思いをさせて、ごめんね」
赤ん坊は、眠そうに目を閉じた。
「君が生まれてきたことは、間違いじゃないよ」
出久は、涙を流した。
「君が生まれたせいで、誰かが死んだとしても」
女性が、顔を上げた。
「君が誰かを救えなかったとしても」
出久は、赤ん坊の額に頬を寄せた。
「君が生きていてはいけない理由にはならない」
その言葉が、部屋に響いた。
女性は、何も言わなかった。
ただ、泣いていた。
出久は、赤ん坊を抱いたまま、女性を見つめた。
「……でも」
彼の表情が変わった。
「僕は、あなたを許せるかどうか、まだわかりません」
女性は、目を見開いた。
「……」
「あなたが僕を殺したことも、兄さんを救おうとしたことも、全部知りたいです」
出久は、静かに言った。
「あなたが何を考えて、何を選んで、何を失ったのか。全部知りたい」
「……どうして?」
「知らないまま、あなたを許したくないからです」
女性の唇が震えた。
「……」
「でも」
出久は、赤ん坊を見下ろした。
「知らないまま、あなたを憎むこともしたくない」
女性は、とうとう泣き崩れた。
それは、誰かに裁かれることを恐れていた母親の涙ではなかった。
許されることを恐れていた母親の涙でもなかった。
ようやく、自分のしたことを、誰かに聞いてもらえた人間の涙だった。
「……ごめんなさい」
女性は、繰り返した。
「ごめんなさい……」
出久は、赤ん坊を抱きしめたまま、彼女の前に膝をついた。
「……お母さん」
その言葉を聞いた瞬間。
女性の身体が、崩れ始めた。
輪郭が薄くなる。
指先が透ける。
髪が光の粒になって散っていく。
「……ああ」
女性は、泣きながら微笑んだ。
「やっぱり、あなたは……」
言葉が途切れる。
彼女は、出久の顔を見つめた。
「あなたは、私の息子だったのね」
その瞬間。
女性の身体が消えた。
部屋には、出久と、赤ん坊だけが残った。
そして、壁に一つの文字が浮かび上がった。
第一母親、消失。
続けて。
第二母親、存在確認。
さらに。
第三母親、観測開始。
相澤は、文字を睨みつけた。
「……第三母親だと?」
その瞬間、出久の腕の中で、赤ん坊が泣いた。
赤ん坊の胸元に、黒い文字が浮かび上がる。
被害者:緑谷出久。
その下に、新しい文字。
加害者:緑谷出久。
そして、最後に。
次の殺害予定時刻。
午前二時十三分。
十三年後。
つまり。
今夜。
*
10 殺人予告
「全員、ここから出ろ!」
相澤の声が、部屋を切り裂いた。
爆豪が出久の腕を掴もうとする。
「緑谷! こっちだ!」
だが、出久は動かなかった。
腕の中の赤ん坊を見つめている。
赤ん坊の胸に浮かんだ文字。
被害者。
加害者。
次の殺害予定時刻。
午前二時十三分。
十三年後。
「……先生」
出久が、呟いた。
「僕は……」
「今は何も考えるな!」
相澤は、出久の肩を掴んだ。
「ここから出る。話はそれからだ」
「でも、この子が……」
「その子も連れていく」
「……」
「絶対に離すな」
相澤は、出久の目を見た。
「お前が何者だろうと、この子が何者だろうと、今ここにいるなら、俺たちが連れて帰る」
出久は、ゆっくりと頷いた。
爆豪が先頭に立つ。
お茶子が出久の隣に寄り添う。
相澤が最後尾についた。
全員で、部屋を出る。
廊下を走る。
玄関へ向かう。
だが。
玄関の扉が、遠ざかっていった。
「……は?」
爆豪が足を止める。
玄関は、廊下の向こうにある。
それなのに、走っても近づかない。
床が伸びている。
壁が遠ざかっている。
家そのものが、出口を遠ざけている。
「クソッ!」
爆豪が爆発を起こした。
廊下の壁が吹き飛ぶ。
その向こうには。
同じ廊下があった。
同じ床。
同じ壁。
同じ写真。
そして、同じ玄関。
無限に続く廊下。
相澤は、即座に判断した。
「戻れ!」
「どこに!」
「部屋だ!」
全員が引き返した。
だが、今度は部屋が見つからなかった。
廊下の壁には、無数の扉が並んでいた。
どれも同じ形。
どれも同じ色。
どれも同じ取っ手。
そして、すべての扉に、同じ札が掛けられている。
母親。
母親。
母親。
母親。
扉の数は、数えきれなかった。
そのうちの一つが、ゆっくりと開いた。
中から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
別の扉が開いた。
今度は、女性の笑い声。
さらに別の扉。
男の怒鳴り声。
そして、何百もの声が、同時に響き始めた。
『この子を生かせば、もう一人の子どもが死ぬ』
『あなたが殺したんです』
『お母さんを殺したのは、僕です』
『僕が生まれなければ』
『兄さんを返して』
『僕を忘れてください』
『僕を殺して』
『僕を産んで』
出久は、耳を塞いだ。
「やめて……!」
声が重なる。
『僕を殺して』
『僕を産んで』
『僕を忘れて』
『僕を覚えて』
『僕を生かして』
『僕を殺して』
「やめてくれ!」
出久の腕の中で、赤ん坊が泣き始めた。
出久は、赤ん坊を抱きしめた。
「大丈夫……!」
涙が零れる。
「大丈夫だから……!」
だが、赤ん坊の泣き声は止まらなかった。
その声が、少しずつ変わっていく。
赤ん坊の声。
少年の声。
青年の声。
そして。
出久自身の声。
『お母さん』
出久は、息を呑んだ。
『僕を、殺して』
赤ん坊が、目を開いた。
その瞳は、緑色ではなかった。
黒かった。
深い闇のような黒。
その瞳の奥に、無数の時計が映っている。
午前二時十三分。
午前二時十三分。
午前二時十三分。
赤ん坊は、出久を見つめた。
そして、口を開いた。
『お兄ちゃん』
出久の心臓が、止まりかけた。
『今度こそ、僕を殺して』
「……君は」
出久の声が震えた。
「君は、誰なんだ」
赤ん坊は、笑った。
『僕は、君のお兄ちゃんだよ』
世界が、反転した。
*
11 兄は、母親を殺した
そこは、病院だった。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓の外には、夜の街。
ベッドの上に、女性が横たわっていた。
その傍らに、二人の子どもがいた。
一人は、緑色の髪をした少年。
もう一人も、緑色の髪をした少年。
同じ顔。
同じ目。
同じ年頃。
だが、片方の少年は、もう片方を庇うように立っていた。
「……兄さん」
弟が、呟いた。
「お母さん、死んじゃうの?」
兄は、答えなかった。
彼は、母親の手を握っていた。
その手は冷たかった。
母親は、苦しそうに呼吸していた。
「……ごめんね」
母親が、呟いた。
「ごめんね……」
兄は、首を振った。
「謝らないで」
「あなたたちを……」
母親の声が震えた。
「二人とも、生かしてあげられなくて、ごめんね」
弟が、泣き始めた。
「お母さん……!」
兄は、弟を抱きしめた。
「大丈夫」
彼は、弟の耳元で囁いた。
「大丈夫だから」
だが、兄の手も震えていた。
彼は、母親を見つめた。
「……お母さん」
母親が、ゆっくりと目を開く。
「……なあに?」
「僕が死ねば、弟は生きられる?」
母親は、答えなかった。
「僕がいなくなれば、弟は生まれられる?」
「……やめて」
「僕が死ねば、お母さんは、弟を産める?」
「やめて!」
母親は、叫んだ。
兄は、微笑んだ。
「……そっか」
彼は、母親の額にキスをした。
「じゃあ、僕が死ぬね」
母親が、手を伸ばした。
だが、間に合わなかった。
兄は、ベッドから離れた。
弟が、その背中にしがみつく。
「兄さん!」
「大丈夫だよ」
「行かないで!」
「大丈夫」
兄は、振り返った。
「僕は、君を愛しているから」
その言葉を最後に。
兄の姿が消えた。
弟は、床に崩れ落ちた。
「……兄さん?」
母親は、泣き叫んだ。
「いやあああああああっ!」
その瞬間。
病院の時計が止まった。
午前二時十三分。
弟は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には、涙がなかった。
代わりに、深い絶望があった。
「……お母さん」
弟が、呟いた。
「兄さんは、どこ?」
母親は、答えられなかった。
「……お母さん」
弟は、立ち上がった。
「兄さんを、返して」
「……」
「兄さんを、返してよ」
母親は、泣きながら首を振った。
「……ごめんね」
弟は、母親を見つめた。
その目から、何かが消えた。
「……そっか」
彼は、微笑んだ。
「お母さんが、兄さんを殺したんだね」
母親が、息を呑んだ。
「違う……!」
「お母さんが、兄さんを殺したんだ」
「違うの!」
「兄さんは、僕を生かすために死んだ」
弟は、母親に近づいた。
「お母さんが、僕を産もうとしたから」
「やめて……」
「お母さんが、僕を愛していたから」
「やめて!」
「お母さんが、僕を生かそうとしたから」
弟は、母親の手を握った。
「兄さんが、死んだんだ」
母親は、泣きながら首を振った。
「……お願い」
彼女は、弟を見つめた。
「あなたまで、私を殺さないで」
弟は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ごめんね」
彼は、母親を抱きしめた。
「僕も、兄さんのところへ行くね」
病室の時計が、逆回転を始めた。
母親が叫ぶ。
弟が泣く。
兄の姿が、窓の外に現れる。
そして、三人の姿が、同時に消えた。
*
12 最初に殺したのは、誰だったのか
出久は、床に膝をついていた。
腕の中に、赤ん坊はいなかった。
周囲には、誰もいない。
相澤も。
爆豪も。
お茶子も。
家も、廊下も、扉も。
何もなかった。
ただ、白い空間が広がっていた。
その中央に、一本の木が立っていた。
枝には、無数の時計がぶら下がっている。
すべての時計が、午前二時十三分を指していた。
木の根元に、一人の少年が座っていた。
緑色の髪。
緑色の目。
出久と同じ顔。
少年は、膝を抱えていた。
「……君が」
出久は、立ち上がった。
「君が、僕のお兄ちゃん?」
少年は、顔を上げた。
「……うん」
その声は、穏やかだった。
「そうだよ」
「……君が、母親を殺したの?」
少年は、目を伏せた。
「……うん」
出久は、息を呑んだ。
「どうして……?」
「弟を生かすためだよ」
「……」
「僕が生きていたら、弟は生まれなかった」
少年は、木の枝を見上げた。
「僕が生きていたら、弟は死んでいた」
「……だから、君が死んだの?」
「ううん」
少年は、首を振った。
「最初は、僕が死んだんだ」
「……最初?」
「そのあと、弟が生まれた」
少年は、出久を見た。
「でも、弟は僕が死んだことを許せなかった」
出久の喉が詰まった。
「弟は、何度も世界を作り直した」
少年は、静かに続けた。
「僕を生き返らせるために」
「……」
「でも、僕が生き返ると、弟が死んだ」
「……」
「だから、弟は、また世界を作り直した」
少年は、悲しそうに笑った。
「何度も、何度も」
木の枝から、一つの時計が落ちた。
音もなく、地面に沈む。
「そのうち、弟は考えた」
少年は、言った。
「僕が死んだ世界が間違っているなら、世界そのものを作り直せばいい」
出久は、何も言えなかった。
「だから、弟は世界を壊した」
少年は、目を閉じた。
「僕を生かすために」
「……」
「でも、世界を壊しても、僕は戻らなかった」
少年の声が、震えた。
「僕は、もう死んでいたから」
出久は、ゆっくりと膝をついた。
「……それで」
声が掠れた。
「それで、君は……」
「僕は、弟に言ったんだ」
少年は、顔を上げた。
「もう、僕を探さなくていいって」
出久の目から、涙が零れた。
「……」
「僕を生き返らせるために、誰かを殺さなくていいって」
少年は、微笑んだ。
「僕が死んだことを、許さなくてもいいって」
出久は、首を振った。
「……そんなの」
「うん」
少年は、頷いた。
「そんなの、難しいよね」
彼は、出久の隣に座った。
「僕だって、君が死んだら、きっと許せない」
出久は、顔を覆った。
「……僕は、君を知らなかった」
「うん」
「君がいたことも、知らなかった」
「うん」
「君が死んだことも、知らなかった」
「うん」
「なのに……」
出久の声が、震えた。
「なのに、僕は、君を殺したことになっている」
少年は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうだね」
出久は、顔を上げた。
「どうして?」
少年は、木を見上げた。
「僕が、君を殺したからだよ」
「……え?」
「僕が、君を殺した」
少年は、出久を見た。
「僕が、君を生まれさせた」
「……」
「僕が、君を生かした」
「……」
「そして、僕が、君を殺した」
少年は、静かに言った。
「君が僕を殺したことになっているのは、僕が君を殺したことを、世界に認めさせたからだ」
出久の背筋が冷えた。
「……どういうこと?」
「世界には、誰かが最初に死ななければならない」
少年は、木の根元を指差した。
そこには、小さな墓標があった。
名前はない。
ただ、日付だけが刻まれていた。
十三年前。
午前二時十三分。
「最初に死んだのは、僕だった」
少年は、言った。
「でも、僕が死んだ理由を世界は理解できなかった」
「……」
「だから、世界は理由を探した」
少年は、出久の胸に手を置いた。
「そして、君を見つけた」
出久は、息を呑んだ。
「君が生まれたから、僕が死んだ」
「……」
「君が生きているから、僕がいなかったことになった」
少年は、微笑んだ。
「だから、世界は、君を犯人にした」
出久は、何も言えなかった。
少年は、立ち上がった。
「でもね、出久」
彼は、出久の前に立った。
「僕は、君を恨んでいないよ」
「……どうして?」
「だって、君は何も知らなかったから」
少年は、優しく笑った。
「君は、ただ生まれてきただけだ」
出久の目から、涙が溢れた。
「……でも、君は死んだ」
「うん」
「僕が生まれたせいで」
「そうかもしれない」
「……僕は、どうすればいいんだよ」
出久は、少年の服を掴んだ。
「君が死んだことを、どうすればいいんだよ!」
少年は、答えなかった。
ただ、出久の頭を撫でた。
「……生きて」
彼は、言った。
「僕が死んだことを、理由にしないで」
「……」
「僕が死んだことを、誰かを殺す理由にしないで」
「……」
「僕が死んだことを、君が死ぬ理由にしないで」
少年は、出久を抱きしめた。
「僕は、君に生きてほしい」
出久は、泣きながら首を振った。
「……君も、生きてよ」
少年の手が止まった。
「……」
「君も、生きてよ……」
出久は、彼を抱きしめた。
「僕だけじゃなくて、君も……!」
少年は、目を閉じた。
「……ごめんね」
その瞬間。
木の枝にぶら下がっていた時計が、一斉に動き始めた。
午前二時十四分。
二時十五分。
二時十六分。
世界の時間が、進み始める。
少年の身体が、少しずつ透けていく。
「……待って!」
出久が叫んだ。
「待ってよ!」
少年は、微笑んだ。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「……そうだね」
少年は、少しだけ困った顔をした。
「大丈夫じゃないね」
彼は、出久の手を握った。
「だから、今度は」
少年は言った。
「君が、僕を助けて」
出久は、息を呑んだ。
「……どうやって?」
「わからない」
「……」
「でも、君はヒーローになりたいんでしょう?」
少年は、微笑んだ。
「だったら、考えてよ」
その言葉を最後に。
少年の身体が消えた。
出久の手には、何も残らなかった。
ただ、木の根元に、一枚の紙片が落ちていた。
出久は、それを拾った。
そこには、見覚えのある筆跡で、こう書かれていた。
『母親を殺したのは、僕です』
その下に、もう一文。
『でも、僕を殺したのは、世界です』
さらに、その下。
『そして、世界を殺したのは――』
文字が、そこで途切れていた。
出久は、紙片を握り締めた。
その瞬間。
背後から、声がした。
「……ようやく、ここまで来たね」
振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
緑色の髪。
緑色の目。
出久と同じ顔。
ただし、彼は少年ではなかった。
大人の姿をしていた。
顔には、無数の傷があった。
その目には、何度も世界を壊した者だけが持つ、深い疲労が刻まれていた。
男は、出久を見つめた。
「君は、まだ何も知らない」
男は言った。
「君が、誰を殺したのかも」
「……」
「君が、誰に殺されたのかも」
「……」
「君が、誰を生かすために生まれたのかも」
男は、ゆっくりと近づいた。
「だから、教えてあげる」
出久は、後ずさった。
「……君は、誰なんだ」
男は、微笑んだ。
「僕は」
その瞬間、世界が暗転した。
「君が、母親を殺した日の緑谷出久だ。」
*
13 第二十四話・終
午前二時十三分。
雄英高校の寮。
緑谷出久の部屋。
鏡は、元に戻っていた。
亀裂もない。
血の跡もない。
何も起きていなかったかのように、静かな部屋が広がっていた。
ただ、机の上に一枚の紙が置かれていた。
相澤からの連絡記録。
塚内からの事件資料。
そして、見覚えのない出生証明書。
出生証明書には、三つの名前が記されていた。
第一子。
緑谷出久。
第二子。
緑谷出久。
第三子。
緑谷出久。
それぞれの出生時刻は、午前二時十三分。
だが、死亡記録は異なっていた。
第一子。
死亡時刻、出生前。
第二子。
死亡時刻、午前二時十三分。
第三子。
死亡時刻、未登録。
その下に、手書きの文字があった。
『三人とも、生きている』
さらに、その下。
『三人とも、死んでいる』
そして、最後に。
『母親殺害事件の真犯人は、緑谷出久』
文字が、ゆっくりと書き換わっていく。
『母親殺害事件の真犯人は、緑谷出久ではない』
さらに。
『母親殺害事件の真犯人は、緑谷出久を生んだ母親である』
最後に。
『母親殺害事件の真犯人は――』
文字が止まった。
紙の下から、黒い染みが広がっていく。
その染みは、ゆっくりと人間の顔を形作った。
緑谷出久の顔。
その口が、動いた。
『……次は、父親を殺す』
時計が止まった。
午前二時十三分。
そして、世界のどこかで。
緑谷久志が、目を覚ました。
彼の寝室には、誰もいなかった。
机の上には、古い写真が一枚置かれている。
十三年前。
家族四人で撮った写真。
緑谷久志。
緑谷引子。
緑谷出久。
そして、もう一人の少年。
写真の裏側には、文字が記されていた。
『父親殺害事件』
『被害者:緑谷久志』
『加害者:緑谷出久』
『犯行時刻:午前二時十三分』
その下に、赤い文字で、こう書かれていた。
『父親は、まだ殺されていない。』
そして、写真の中の少年が、ゆっくりと笑った。
全7章構成で本日二章完結まで描く予定なので残り5章の予定になります