午前二時十三分。
緑谷家の時計は、また止まっていた。
秒針は十二の数字を指したまま動かない。
壁掛け時計も、電子レンジの表示も、相澤消太の腕時計も、塚内直正が持ち込んだ捜査用端末の時計も、すべてが同じ時刻を示していた。
ただ一つ。
緑谷久志の心臓だけが、その時刻に逆らうように動いていた。
生きている。
少なくとも、今は。
相澤は床に膝をつき、倒れている男の首筋に指を当てていた。
「……脈はある」
「本当に?」
麗日お茶子の声はかすれていた。
彼女は久志の顔を見つめていた。
先ほどまで、彼は確かにそこにいた。
自分の罪を語り、二人の息子について語り、十三年前の選択について語った。
そして、母親殺害事件の記録が開かれた瞬間。
久志は何かを思い出したように目を見開き、胸を押さえ、そのまま倒れた。
その直前。
彼は、誰もいない廊下に向かって言ったのだ。
『……来たのか』
まるで、死んだはずの誰かを出迎えるように。
まるで、ずっと帰りを待っていた相手に、ようやく会えたかのように。
「救急車は?」
爆豪勝己が低く尋ねた。
「呼んだ。だが、まだ来ない」
塚内はスマートフォンを見た。
画面には通話履歴が残っている。
救急要請。
発信時刻、午前二時十三分。
通話時間、零秒。
「通信障害か?」
「違う」
相澤は久志の手首を取ったまま答えた。
「こいつの脈が、時々消える」
「消える?」
「止まるんじゃない。消えるんだ」
相澤は言葉を選んだ。
「脈が弱くなるとか、そういう話じゃない。脈を取っている指先から、こいつの存在そのものが抜け落ちるような感覚がある」
「そんな馬鹿なことがあるかよ」
爆豪は吐き捨てた。
しかし、否定する声には力がなかった。
彼も感じていたのだ。
この家の中にいる人間の数が、時折、合わなくなる。
目を向ければ全員いる。
だが、目を離した瞬間、誰かが最初からいなかったような感覚が生まれる。
その違和感は、母親殺害事件の記録を読んでから、明らかに強くなっていた。
塚内は床に落ちた書類を拾い上げた。
そこには、先ほどまで表示されていた記録の一部が印字されていた。
電子記録が消える直前、彼は証拠保全のために紙へ出力していたのだ。
その判断は正しかった。
問題は、印刷された内容が、画面に表示されていたものと違っていたことだった。
「……相澤先生」
「何だ」
「これを見てください」
塚内は紙を差し出した。
相澤は片手で受け取り、視線を落とした。
そして、顔を上げた。
「これは……」
紙面の上部には、こう記されていた。
――母親殺害事件。
事件番号、零。
被害者、緑谷――。
氏名、欠落。
死亡推定時刻、午前二時十三分。
加害者、緑谷出久。
ただし、事件発生時刻において、加害者は未出生。
捜査担当者、緑谷久志。
捜査終了理由、被害者不存在。
そして、一番下。
そこには、黒い文字で、異様に大きく書かれていた。
父親は、まだ死んでいない。
「……どういうことだ」
相澤が呟いた。
塚内は答えられなかった。
その文字は、印刷された記録の一部ではなかった。
誰かが、紙の上に書き加えたものだった。
黒いインク。
筆圧の強い、震えた文字。
そして、その筆跡は。
「緑谷久志のものです」
塚内が言った。
「間違いありません。以前の供述書と一致します」
「本人は倒れている」
「ええ」
「じゃあ、誰が書いた?」
誰も答えなかった。
そのとき。
床に横たわっていた久志の右手が、わずかに動いた。
お茶子が息を呑む。
「緑谷さん……?」
久志の唇が震えた。
声は出ない。
しかし、何かを伝えようとしていることだけは分かった。
相澤が耳を近づける。
「緑谷。聞こえるか」
久志の唇が、もう一度動いた。
「……し……」
「何だ?」
「……しん……」
相澤は眉を寄せた。
久志の目が開いた。
焦点は合っていない。
彼は相澤を見ていなかった。
相澤の背後。
誰もいない廊下。
そこにいる何かを見ていた。
「……死んだ……」
久志の目から、涙が流れた。
「……死んだはず、なんだ……」
そして。
彼は、震える声で言った。
「……俺は、あの子を殺した」
*
一 父親の死体
「緑谷さん!」
お茶子が駆け寄った。
久志は彼女の声に反応しなかった。
呼吸はある。
脈もある。
しかし、その顔からは生気が失われていた。
まるで、今にも死にそうな人間ではなく。
すでに死んだ人間が、死ぬ前の姿を思い出しているようだった。
「塚内、救急車をもう一度呼べ」
「やっています。しかし、先ほどから同じです」
「何がだ」
「繋がらないんじゃない。電話口に、誰かが出るんです」
塚内の顔色は悪かった。
「その相手が、こちらの話を聞いてくれない」
「何と言っている?」
塚内は、一瞬だけ言い淀んだ。
「……『緑谷久志は、十三年前に死亡しています』と」
沈黙。
相澤は久志を見下ろした。
「十三年前?」
「はい。住所も名前も一致しています。救急要請を受け付けようとすると、必ずその記録が出てくる」
「死亡診断書は?」
「存在します」
「誰が書いた?」
「緑谷久志本人です」
塚内は、別の紙を差し出した。
それは、死亡診断書の写しだった。
死亡者、緑谷久志。
死亡時刻、午前二時十三分。
死亡場所、緑谷家。
死因、記載なし。
死亡確認者、緑谷久志。
相澤は、しばらく文字を見つめていた。
「……自分で自分の死亡を確認したのか」
「そういうことになります」
「馬鹿げている」
爆豪が吐き捨てた。
「死んでる奴が、どうやって自分の死亡診断書を書くんだよ」
「その通りだ」
相澤は立ち上がった。
「だから、確認する」
「何をです?」
「十三年前、緑谷久志が本当に死んだのかどうか」
相澤は久志の顔を見た。
「こいつが生きているのなら、なぜ世界は死んだことにしている?」
その問いに答えるように。
廊下の奥で、何かが落ちる音がした。
全員が振り返った。
廊下の突き当たり。
玄関の脇に置かれた小さな棚。
その上に、古い写真立てが倒れていた。
写真立ての中には、家族写真が入っている。
緑谷久志。
緑谷出久。
そして、もう一人。
顔の部分だけが、黒く塗り潰されていた。
お茶子は、その写真を見た瞬間、胸を押さえた。
「……違う」
彼女は呟いた。
「これ、違うよ……」
爆豪が振り返る。
「何がだ」
「さっきまで、ここには二人しかいなかった」
「は?」
「緑谷さんと出久くん。二人の写真だった。少なくとも、私はそう覚えてる」
お茶子は写真立てに近づいた。
震える指で、黒く塗り潰された部分に触れる。
「でも、今は……」
そこには、三人がいた。
いや。
四人だった。
写真の右端。
誰かの肩だけが写っている。
頭も顔もない。
身体の半分が、写真の外側へ切り取られている。
それなのに。
お茶子には分かった。
その人物が、誰なのか。
「……出久くん」
彼女は、背後を振り返った。
「これ、あなたの写真じゃない?」
「え?」
「あなたが、小さい頃に撮った家族写真」
お茶子は写真立てを抱えた。
「でも、あなたの家族って……お父さんとお母さんの三人だったよね?」
出久は答えなかった。
彼の顔から、血の気が引いていた。
「……おかしい」
出久は写真を見つめた。
「僕、この写真を知ってる」
「本当?」
「うん。でも……」
彼は額に手を当てた。
頭の中で、何かが軋んでいる。
記憶がある。
この写真を撮った日の記憶がある。
まだ幼かった自分。
父親に抱き上げられ、母親に笑いかけられている。
そして。
その二人の間に立っている、もう一人の子ども。
自分と同じ顔。
自分と同じ髪。
自分と同じ緑色の瞳。
けれど、自分よりも少しだけ年上に見える少年。
少年は、出久の頭に手を置いていた。
優しく。
大切そうに。
まるで、自分が兄であることを確かめるように。
「……兄さん」
出久の口から、その言葉が零れた。
その瞬間。
写真の中の少年が、顔を上げた。
写真の中で。
確かに。
少年が、出久を見た。
そして、笑った。
*
二 父親は、二人の息子を殺した
「出久くん、下がって!」
お茶子が叫んだ。
出久は反応しなかった。
写真の中の少年を見つめたまま、立ち尽くしている。
少年の口が動いた。
声は聞こえない。
けれど、出久には分かった。
少年は、こう言ったのだ。
――忘れていいよ。
出久の胸が、鋭く痛んだ。
「……違う」
出久は首を振った。
「違うよ、兄さん」
写真の中の少年は、また笑った。
そして、今度は。
自分の首に手を当てた。
喉を押さえるように。
何かに絞められているように。
出久は息を呑んだ。
次の瞬間、写真の中の少年の首に、黒い痕が浮かんだ。
指の跡。
五本。
誰かが、少年の首を絞めた跡だった。
「……っ!」
出久が写真立てを落としかけた。
お茶子が慌てて支える。
「出久くん!」
「僕が……」
出久の唇が震えた。
「僕が、殺した……?」
その言葉に、爆豪が振り返った。
「おい、クソデク。何を言ってやがる」
「僕が、兄さんを……」
「おい!」
爆豪が出久の肩を掴んだ。
「てめぇ、勝手に決めつけんな!」
「でも、記憶が……」
「記憶が何だ!」
「僕が、兄さんの首を……!」
「見たのかよ!」
爆豪の怒鳴り声が、廊下に響いた。
出久は言葉を失った。
「実際に見たのか。てめぇが殺したところを。誰かが殺したところを。今ここにいるお前がやったって証拠を!」
「……」
「ねえなら、勝手に自分を犯人にすんじゃねぇ!」
爆豪は、出久の肩を掴んだまま睨みつけた。
「この世界は、さっきからずっと同じことをやってやがる。誰かが消えた。誰かが死んだ。だから、お前が殺した。だから、お前が責任を取れ。だから、お前が死ね。――ふざけんな」
その目には、怒りがあった。
しかし、その怒りは出久に向けられたものではなかった。
「誰が決めたんだよ。そんなこと」
爆豪は写真を睨みつけた。
「死んだ奴がいるなら、そいつを殺した奴がいる。そんな単純な話なら、俺たちはとっくに全部解決してる」
彼は出久の肩から手を離した。
「犯人を探す。証拠を探す。ぶっ殺してでも真相を引きずり出す。……それが俺たちの仕事だろうが」
「爆豪くん……」
「勘違いすんな。俺はお前を慰めてるんじゃねぇ」
爆豪は舌打ちした。
「てめぇが勝手に犯人になって、勝手に死のうとするのがムカつくだけだ」
出久は、何も言えなかった。
ただ。
写真の中の少年は、もう笑っていなかった。
その目から、涙が流れていた。
*
相澤は写真立てを慎重に回収した。
そして、裏面を確認する。
写真立ての裏側には、小さな紙が貼りつけられていた。
古い紙だった。
端が黄ばんでいる。
しかし、文字は鮮明だった。
――家族写真。
撮影日、十三年前。
撮影者、緑谷久志。
被写体、緑谷久志。
被写体、緑谷出久。
被写体、緑谷――。
最後の名前だけが、削られていた。
その下には、別の文字がある。
筆跡は違った。
細く、震えた文字。
まるで、泣きながら書いたような文字だった。
この写真に写っている人間は、全員、死んでいる。
相澤は、顔を上げた。
「……塚内」
「はい」
「この写真を撮影した日付を調べろ」
「すでに確認しています」
塚内は別の資料を取り出した。
「写真の記録にある撮影日は、十三年前の十月二十二日です」
「今日と同じ日付か」
「はい」
「撮影時刻は?」
「午前二時十三分」
誰も動かなかった。
十月二十二日。
午前二時十三分。
十三年前。
そして、今日。
すべてが同じ場所に収束していた。
「……この写真が撮影されたとき」
相澤は、ゆっくりと言った。
「この家族は、全員死んでいた」
その言葉が落ちた瞬間。
背後で、床が軋んだ。
振り返る。
緑谷久志が、立っていた。
*
三 死んだ父親の証言
「緑谷さん!」
お茶子が声を上げた。
久志は、何事もなかったように立っていた。
顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、確かに立っていた。
彼は、床に散らばった書類を見下ろしていた。
そして、写真立てを見た。
「……見つけたのか」
その声には、驚きがなかった。
むしろ、長い間、待ち続けた人間のような諦めがあった。
「緑谷さん」
相澤が一歩前に出た。
「説明してもらいます」
「……何をだ」
「十三年前、あなたは死んだことになっている」
久志の表情が変わった。
「誰から聞いた」
「死亡診断書を見ました。あなた自身が書いたものです」
「……そうか」
「あなたは生きている。だが、世界の記録では死んでいる。なぜです」
久志は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は答えた。
「俺は、一度死んだ」
お茶子が息を呑む。
「……本当に?」
「ああ」
久志は、自分の胸に手を当てた。
「十三年前。午前二時十三分。俺は、この家で死んだ」
「死因は?」
「自殺だ」
相澤の目が細くなった。
「自殺……?」
「正確には、俺が俺を殺した」
久志は淡々と言った。
「この世界から、俺という人間を消そうとした」
「なぜです」
「息子を救うためだ」
その言葉に、出久の身体が強張った。
「……息子?」
久志は出久を見た。
「お前のことだ、出久」
出久は、何も言わなかった。
「いや」
久志は首を振った。
「お前だけじゃない」
彼は、誰もいない廊下へ目を向けた。
「俺には、息子が二人いた」
相澤たちは黙って聞いていた。
「二人とも、俺の息子だった。二人とも、俺の子どもだった。二人とも、俺の腕の中で泣いた。……いや、片方は泣かなかった」
久志の声が震えた。
「片方は、最初から死んでいたことになっていた」
彼は、写真の中の少年を見た。
「御影出久」
その名を口にした瞬間。
家の中の空気が変わった。
時計の秒針が、ほんのわずかに動いた。
午前二時十三分。
その一秒先へ進もうとした。
しかし、動きは途中で止まった。
まるで、何かが秒針を押さえつけているようだった。
「……御影出久は、俺が殺した」
久志は言った。
「俺が、二人のうち一人を選んだ。世界に残す子どもを選んだ。残せなかった方を、世界から消した」
「でも」
お茶子が震える声で言った。
「御影くんは、消えたんじゃなくて……」
「そうだ」
久志は頷いた。
「消えたんじゃない。消されたんだ」
「誰に?」
塚内が尋ねた。
久志は、ゆっくりと首を振った。
「……俺だ」
彼は自分の胸を叩いた。
「俺が、消した。俺が選んだ。俺が、あの子を殺した」
その目から、涙が落ちた。
「だが、それは十三年前の話だ」
久志は顔を上げた。
「問題は、その後だ」
彼の声が、低くなった。
「俺が死んだ後、誰が俺を生き返らせたのか」
沈黙が落ちた。
「……は?」
爆豪が顔をしかめた。
久志は続けた。
「俺は、自分を殺した。自分の存在を消そうとした。俺が存在しなければ、俺が選んだという事実も消える。父親が息子を殺したという記録も、世界からなくなる。……そう考えた」
「しかし、現実にはあなたが生きている」
相澤が言った。
「そうだ」
「誰が復元した?」
「分からない」
「あなた自身では?」
「違う」
久志は即答した。
「俺は、戻りたくなかった」
彼は拳を握りしめた。
「戻れば、また選ばなければならない。誰かを生かすために、誰かを殺す。誰かを救うために、誰かの存在を消す。……そんな世界に、俺は戻りたくなかった」
久志は目を閉じた。
「だが、俺は戻ってきた」
その声は、ひどく疲れていた。
「妻も、息子も、いない世界に」
出久が顔を上げた。
「……お母さん?」
久志の目が揺れた。
「お前の母親は、死んだ」
「いつ?」
「十三年前だ」
「……何で?」
「俺が、殺した」
今度こそ。
誰も言葉を発せなかった。
久志は、ゆっくりと首を振った。
「いや……違う。俺が殺したのは、妻だけじゃない」
彼は、出久を見つめた。
「俺は、妻を殺した後、妻が存在しなかった世界を作った」
*
四 母親が存在しない世界
「……待ってください」
塚内が口を挟んだ。
「今の話を整理させてください」
「整理などできる話ではない」
「それでもです。あなたは十三年前に自殺した。妻を殺した。息子を殺した。そして、世界から自分の存在を消そうとした。……そういうことですか?」
「違う」
久志は首を振った。
「妻を殺したのは、俺じゃない」
相澤の表情が険しくなる。
「先ほど、あなたが殺したと言った」
「そうだ。俺が殺した。だが、俺は妻を殺した記憶がない」
「どういう意味です」
「妻は、俺が殺す前に死んでいた」
久志は言った。
「俺が妻を殺したのは、妻が死んだ後だ」
爆豪が顔をしかめた。
「意味が分かんねぇよ」
「……そうだろうな」
久志は苦笑した。
「俺にも分からない」
彼は、家の奥へ目を向けた。
「妻は、十三年前の十月二十二日、午前二時十三分に死んだ」
「死亡記録は?」
「存在しない」
「遺体は?」
「存在しない」
「では、どうして死亡したと?」
「俺が見たからだ」
久志の声が掠れた。
「俺は、妻が死ぬところを見た。妻は俺の腕の中で、俺に謝っていた」
「何を謝ったんですか」
「……息子を、救えなかったことを」
出久の胸が痛んだ。
母親。
緑谷引子。
自分を産んだ人。
自分を抱きしめてくれた人。
自分のことを、何よりも大切にしてくれた人。
その母親が。
十三年前に死んでいた?
自分が生まれる前に?
「……そんなの」
出久は首を振った。
「そんなの、おかしいよ」
久志は出久を見た。
「そうだ。おかしい」
「母さんは生きてる」
「ああ」
「僕は、母さんと話したことがある。母さんに抱きしめてもらった。母さんは、僕のことを……」
言葉が途切れた。
記憶がある。
母親の手の温かさ。
食卓の匂い。
自分が失敗したとき、何度でも励ましてくれた声。
夢に見たこともある。
母親に抱きしめられて、泣きながら謝る夢。
けれど。
その記憶の中に、奇妙な空白があった。
母親の顔は覚えている。
声も覚えている。
だが。
母親が自分を抱きしめていたとき、そこにいたはずの父親の姿が思い出せない。
父親が帰宅した日の記憶。
父親が電話をかけてきた日の記憶。
父親が自分の誕生日を祝ってくれた記憶。
何一つ、浮かんでこない。
「……僕」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「僕のお父さんって、どんな人だったっけ」
久志の表情が崩れた。
「出久……」
「僕、父さんの顔を知ってる。声も知ってる。でも、父さんと一緒に過ごした記憶が……」
出久は頭を抱えた。
「……ない」
お茶子が、彼の手を握った。
「出久くん」
「母さんの記憶はあるんだ。いっぱいある。だけど、父さんの記憶が……父さんが、僕の隣にいた記憶が……」
出久は久志を見た。
「……ないんだ」
久志は、唇を噛んだ。
その目には、絶望が浮かんでいた。
「そうか」
彼は、かすかに笑った。
「そうか……。もう、そこまで来たのか」
「何がですか」
相澤が問う。
久志は答えた。
「俺が死んだ世界が、戻ってきたんだ」
*
五 父親のいない世界
久志は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その動作は、ひどく年老いた人間のようだった。
「十三年前、俺が死んだ後、世界は一度、作り直された」
「誰が?」
「……俺の息子だ」
久志は出久を見た。
「緑谷出久」
出久は息を呑んだ。
「僕が?」
「いや。お前であって、お前ではない」
久志は首を振った。
「俺が知っているお前は、もっと小さかった。お前は、俺が死ぬ直前に、俺のところへ来た」
「……どういうことですか」
「お前は言った」
久志の声が震えた。
「『お父さん。僕を殺して』と」
出久の顔から血の気が引いた。
それは、以前にも聞いた言葉だった。
病院の廊下。
まだ誰も生まれていなかったはずの時間。
父親の前に現れた、出久と同じ顔の少年。
彼は、父親に向かって言った。
――お父さん。僕を殺して。
「……僕じゃない」
出久は呟いた。
「僕じゃない、はずだ……」
「分かっている」
久志は頷いた。
「お前ではない。だが、お前だった」
「そんな……」
「俺にも、最初は分からなかった。だが、あの子は俺に言った」
久志は目を閉じた。
「『僕を殺せば、兄さんが生きられる』と」
写真の中の少年。
御影出久。
あるいは、それとは別の誰か。
名前を奪われた少年。
世界を壊し、作り直した少年。
兄を救うために、何度も自分を殺した少年。
久志は、彼らを一つの記憶として語っているのか。
それとも。
彼らは、すべて同じ少年なのか。
「俺は、あの子を殺した」
久志は言った。
「そして、自分も死んだ」
彼は自分の手を見つめた。
「だが、世界は俺を死なせてくれなかった」
「なぜです」
「俺が死ねば、父親がいなくなるからだ」
相澤は眉を寄せた。
「父親がいなくなることが、世界の崩壊に繋がると?」
「違う」
久志は首を振った。
「俺がいなくなれば、俺の罪を誰も覚えていられなくなる」
彼は、出久を見つめた。
「父親が息子を殺したという事実。父親が妻を殺したという事実。父親が世界のために子どもを選んだという事実。……そのすべてを覚えている人間が、いなくなる」
「それで?」
「世界は、俺を復元した」
久志の声が、少しずつ低くなった。
「俺が罪を忘れないように。俺が罪を償い続けるように。俺が、二度と同じ選択をしないように」
彼は、笑った。
ひどく悲しい笑みだった。
「俺は、死んだ後も父親でいなければならなかった」
お茶子が、そっと口を開いた。
「……でも」
久志は彼女を見た。
「お父さんがいなければ、子どもは生きられないんですか?」
その問いに、久志は答えられなかった。
「出久くんには、お母さんがいた。先生たちがいた。友達がいた。……御影くんにも、きっと誰かがいたはずです」
お茶子は、写真の中の少年を見た。
「誰かが父親でなくなったからって、その人が生きられなくなるわけじゃない」
「……そうだな」
「だったら」
お茶子は、久志を見つめた。
「どうして、緑谷さんは、まだ父親でいようとするんですか?」
久志の表情が凍った。
「……何?」
「だって、あなたは死んだんでしょう?」
お茶子は、静かに言った。
「十三年前に、一度死んだ。自分で自分を殺した。だったら、今ここにいるあなたは、誰なんですか?」
沈黙。
相澤が、お茶子を見た。
塚内も、爆豪も、何も言わなかった。
お茶子は、もう一度尋ねた。
「緑谷さん。あなたは、本当に緑谷久志なんですか?」
その瞬間。
久志の顔から、すべての表情が消えた。
*
六 父親の名前
「……違う」
久志は、呟いた。
「俺は、緑谷久志じゃない」
その声を聞いた瞬間、塚内が立ち上がった。
「どういうことですか」
「俺は……」
久志は額を押さえた。
「俺は、緑谷久志として復元された」
「復元?」
「そうだ」
彼は、自分の手を見つめた。
「十三年前、俺は死んだ。俺の身体も、記憶も、家族も、すべて消えた。だが、世界は父親を必要とした」
「誰が必要としたんです?」
「……世界だ」
久志は答えた。
「世界は、父親という役割を必要とした。二人の息子のうち、どちらかを選ぶ人間。罪を背負う人間。自分の選択を正当化する人間。……そういう父親が、必要だった」
「だから、あなたを作ったと?」
「そうだ」
久志は頷いた。
「俺は、緑谷久志の記憶を持っている。緑谷久志の顔をしている。緑谷久志の声で話す。だが、俺は……」
彼は言葉を切った。
「俺は、あの男が死んだ後に作られた、別の存在なのかもしれない」
出久は、父親を見つめていた。
いや。
父親だと思っていた男を。
「……じゃあ」
出久は、ゆっくりと言った。
「あなたは、僕のお父さんじゃないんですか」
久志の顔が歪んだ。
「……分からない」
「分からないって……」
「俺には、お前を愛している記憶がある」
久志は言った。
「お前が生まれたとき、嬉しかった。お前が泣いたとき、抱き上げた。お前が初めて歩いたとき、何度も転びながら俺のところへ来た。……俺は、お前を愛していた」
彼の声が震えた。
「御影も、愛していた」
久志は、写真の中の少年を見た。
「俺は二人とも愛していた。どちらか一人を選ぶことなど、本当はできなかった」
「……」
「だが、俺は選んだ」
久志は拳を握りしめた。
「愛していたから、選んだ。守りたかったから、選んだ。……そして、選んだことを後悔し続けた」
彼は、出久を見た。
「だから、俺が本物の父親なのかどうかなんて、もうどうでもいい」
「……どうでもよくないです」
出久は言った。
久志が顔を上げる。
「僕にとっては、どうでもよくない」
出久は、拳を握った。
「あなたが本物のお父さんじゃないなら、僕が覚えている父さんは誰なんですか。あなたが復元された存在なら、僕があなたを父さんだと思っていた時間は、何だったんですか」
声が震えた。
「あなたが僕を愛していた記憶を持っているなら、それは……偽物なんですか?」
久志は答えられなかった。
「僕は、あなたが誰なのか知りたい」
出久は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「でも、それ以上に知りたいことがある」
「……何だ」
「あなたが、僕をどう思っていたのか」
久志の目が揺れた。
「僕を、息子だと思っていたのか。それとも、世界に必要な役割だと思っていたのか」
出久の声が、低くなった。
「僕を生かすために御影を殺したのか。それとも、御影を殺すことで、自分が父親でいられると思ったのか」
久志は、何も答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙こそが、彼の答えだった。
少なくとも、今の彼には。
自分が何を愛していたのか、もう分からなくなっていた。
息子を愛していたのか。
父親である自分を愛していたのか。
息子を救うことで、罪を償った気になりたかったのか。
それとも。
息子を救うことを理由に、何度でも誰かを殺せる自分を、許していたのか。
久志は、震える手で顔を覆った。
「……俺は」
声が途切れた。
「俺は、何だったんだろうな」
その問いに、誰も答えられなかった。
*
七 死亡した父親の捜査記録
「……話を戻しましょう」
塚内が、沈黙を破った。
「緑谷さんが復元された存在だとしても、十三年前の事件そのものは残っています」
彼は、先ほどの書類を広げた。
「母親殺害事件。被害者は緑谷――。加害者は緑谷出久。事件番号は零。捜査担当者は緑谷久志」
塚内は、一つずつ指で示した。
「そして、今回の死亡診断書。死亡者は緑谷久志。死亡時刻は十三年前の午前二時十三分。死亡確認者も、緑谷久志」
「何が言いたい」
相澤が尋ねた。
「捜査担当者が、自分の死を記録している。これは単なる矛盾ではありません」
塚内は言った。
「この事件は、最初から、死んだ人間によって捜査されていた可能性がある」
「……つまり」
相澤は、ゆっくりと理解した。
「十三年前に死んだ緑谷久志が、自分の死後も捜査を続けていた?」
「あるいは」
塚内は、久志を見た。
「復元された緑谷久志が、死んだ自分の事件を捜査していた」
久志は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ」
「認めるんですか」
「俺は、十三年前からずっと、自分が何者なのか調べていた」
久志は言った。
「この家の中に、俺の記憶がある。妻の記憶がある。息子たちの記憶がある。だが、そのどれもが、少しずつ違っていた」
「違う?」
「ああ。ある記憶では、妻は二人いた。ある記憶では、妻は一人だった。ある記憶では、俺には息子が一人しかいなかった。ある記憶では、息子は三人いた」
彼は、出久を見た。
「そして、ある記憶では」
久志は言葉を切った。
「俺には、息子など一人もいなかった」
出久の胸が、強く締めつけられた。
「……じゃあ、御影は?」
「いた」
久志は答えた。
「確かに、いた」
「母さんは?」
「いた」
「あなたは?」
「……いた」
久志は、自分の胸に手を当てた。
「だが、そのすべてが、同じ世界にいたとは限らない」
相澤は目を細めた。
「並行した世界、あるいは再構築された世界の記憶が混ざっている?」
「そうかもしれない」
「では、今ここにいるあなたは、どの世界の人間なんです」
「分からない」
久志は首を振った。
「だが、一つだけ確かなことがある」
彼は、死亡診断書を指さした。
「この記録を書いた俺は、死んでいた」
塚内が息を呑む。
「そして、今ここにいる俺は、その死んだ俺の記憶を持っている」
久志は、静かに言った。
「俺は、死んだ父親の続きを生きている」
そのときだった。
塚内の手元にあった端末が、突然、震えた。
画面に、新しい記録が表示される。
誰も操作していない。
入力もされていない。
ただ、文字が一行ずつ浮かび上がっていく。
――捜査記録を更新します。
――事件名、父親死亡事件。
――被疑者、緑谷久志。
――被害者、緑谷久志。
――死亡時刻、現在。
「……おい」
爆豪が、端末を睨んだ。
「何だ、これ」
文字は、止まらなかった。
――死亡確認者、緑谷出久。
――証言者、緑谷御影。
――事件の真相を知る者、緑谷引子。
そして、最後に。
――父親は、まだ死んでいない。
その文字が表示された瞬間。
久志が、苦しそうに胸を押さえた。
「……始まった」
彼は呟いた。
「何がですか!」
お茶子が叫んだ。
久志は、苦痛に歪む顔を上げた。
「……二度目の殺人だ」
*
八 誰が父親を殺したのか
久志の身体が、揺れた。
相澤が腕を伸ばす。
しかし、触れる直前に、その手が空を切った。
「……何?」
相澤は、自分の手を見た。
そこにあるはずの久志の腕が、一瞬だけ透明になっていた。
皮膚が透けたのではない。
腕そのものが、そこに存在していなかった。
次の瞬間には、元に戻っている。
「緑谷!」
相澤が叫ぶ。
「何が起きている!」
「……俺が」
久志は、息を荒くしながら答えた。
「俺が、殺されている」
「誰にだ!」
「……分からない」
久志の身体が、再び揺らいだ。
今度は、顔だった。
目。
鼻。
口。
それらの輪郭が、紙に描かれた鉛筆の線を消すように薄くなっていく。
「……緑谷さん!」
お茶子が駆け寄った。
しかし、彼女の手は久志の肩をすり抜けた。
「そんな……!」
「触るな!」
相澤が叫んだ。
「存在が不安定になっている。無理に触れば、お前まで巻き込まれる!」
「でも!」
「麗日!」
相澤の声に、お茶子は足を止めた。
久志は彼女を見た。
その顔には、奇妙な安堵が浮かんでいた。
「……ありがとう」
「え……?」
「俺のことを、父親として見てくれて」
久志は、かすかに笑った。
「俺が本物かどうかなんて、分からない。それでも、お前は俺を……出久の父親として見てくれた」
「そんなの……!」
お茶子の目に涙が浮かんだ。
「そんなの、今言うことじゃないです!」
「……そうだな」
「消えないでください!」
彼女は叫んだ。
「あなたが誰なのか分からないなら、これから調べればいい! 御影くんのことも、お母さんのことも、全部、これから確かめればいいじゃないですか!」
久志は、目を閉じた。
「……そうだな」
「だったら……!」
「だが」
久志は、ゆっくりと目を開いた。
「俺は、もう一度、同じ選択をしなければならない」
相澤の表情が変わった。
「何だと?」
「十三年前と同じだ」
久志は、出久を見た。
「二人の息子のうち、一人を選ぶ」
「ふざけるな!」
爆豪が怒鳴った。
「まだそんなことを言ってやがんのか!」
「……俺が選ばなければ、世界が選ぶ」
「なら世界をぶっ壊せ!」
爆豪の声が響いた。
「何度言わせりゃ分かる! 誰かを殺さなきゃ成立しねぇ世界なんざ、成立させる必要ねぇだろうが!」
久志は、爆豪を見た。
そして。
初めて、少しだけ笑った。
「……お前は、昔から変わらないな」
「昔から?」
爆豪の眉が動いた。
「俺は、てめぇと会ったことなんかねぇぞ」
「そうだったな」
久志は頷いた。
「この世界では、まだ会っていない」
爆豪は、何か言い返そうとした。
だが、その言葉は出なかった。
久志の声に、妙な懐かしさがあったからだ。
まるで、久志は爆豪と何度も出会い、何度も別れ、何度も同じ会話を繰り返してきたかのようだった。
「……おい、緑谷の親父」
爆豪は、低く尋ねた。
「お前、何回この世界をやり直した?」
久志は答えなかった。
しかし。
その沈黙は、否定ではなかった。
*
九 父親の告白
「……俺は、世界を作り直したことはない」
久志は、ようやく口を開いた。
「少なくとも、俺自身の意思では」
「なら、誰がやった」
「……息子だ」
久志は、出久を見た。
「お前の中にいる、もう一人の出久」
出久の呼吸が止まった。
自分の中にいる、もう一人の自分。
かつて、別の未来から来た少年が言った言葉が蘇る。
――君が僕を救ったら、君は僕になる。
――僕が君になったら、世界は終わる。
「……彼が?」
出久は、かすれた声で尋ねた。
「彼が、世界を作り直したんですか?」
「そうだ」
「何のために?」
「兄を救うためだ」
久志は答えた。
「何度も、何度も、世界を作り直した。兄が死なない未来を探して。兄が生きている世界を探して。……それでも、兄は戻らなかった」
出久は目を閉じた。
胸の奥で、何かが疼いた。
それは、悲しみだった。
自分のものではないはずの悲しみ。
しかし、確かに自分の中にある悲しみ。
何度も誰かを失い。
何度も世界を壊し。
何度も、やり直し。
それでも、救えなかった。
その絶望が、出久の胸の奥に刻まれている。
「……それで」
出久は言った。
「あなたは、何をしたんですか」
久志は、目を伏せた。
「俺は、あの子を止めようとした」
「どうやって?」
「殺そうとした」
沈黙。
「……また?」
出久の声が震えた。
「また、殺そうとしたんですか?」
「ああ」
久志は頷いた。
「俺は、あの子を殺せば、世界の再構築が止まると思った」
「……」
「だが、あの子は俺に言った」
久志は、ゆっくりと目を閉じた。
「『お父さん。僕を殺しても、世界は止まらないよ』と」
彼の頬を、涙が伝った。
「『だって、僕が死ぬたびに、世界は僕を作り直すんだから』」
出久の背筋が冷たくなった。
死ぬたびに、世界が作り直す。
存在が消えるたびに、別の個体が復元される。
誰かが死ねば、その死をなかったことにするため、世界が再構築される。
そして、再構築された世界では。
誰かが、また死ぬ。
それは、終わりのない循環だった。
「……俺は、あの子に言った」
久志は続けた。
「『ならば、どうすればいい』と」
彼は、震える声で答えた。
「すると、あの子は……」
久志の口が、動いた。
「『お父さんが死ねばいいんだよ』と」
その言葉が、家の中に落ちた。
出久は、息を呑んだ。
「……父さんが?」
「ああ」
「あなたが死ねば、世界が止まる?」
「……そう言われた」
「誰に?」
「お前の中にいる、もう一人の出久に」
久志は、苦しそうに笑った。
「俺は、あの子を殺せなかった」
彼は自分の手を見つめた。
「だから、今度こそ自分が死のうとした」
「……でも、復元された」
「そうだ」
「誰が?」
久志は、出久を見た。
「……お前だ」
出久の目が見開かれた。
「僕が、あなたを復元した?」
「正確には、お前の中にいる、もう一人の出久だ」
久志は言った。
「だが、あの子はお前の中にいる。お前とあの子は、完全に切り離せない」
出久は、後ずさった。
「……そんな」
「お前が生きている限り、あの子も生きている」
久志は言った。
「そして、あの子が生きている限り、俺は死ねない」
相澤が、鋭く尋ねた。
「なぜだ」
「俺が死ねば、あの子が父親を失うからだ」
久志は、ゆっくりと答えた。
「そして、あの子は、父親を失った世界を何度でも作り直す」
彼は出久を見つめた。
「……あの子は、父親を救おうとしている」
出久の喉が、詰まった。
「僕の……中の、出久が……?」
「そうだ」
「僕を救うためじゃなくて?」
「違う」
久志は、静かに言った。
「お前を救うためでもある。兄を救うためでもある。母親を救うためでもある。……だが、最後には、父親を救おうとしている」
彼は、自分の胸を押さえた。
「俺が死ねば、あの子はまた世界を作り直す。俺が生きていれば、あの子は父親を救うために世界を壊し続ける」
久志は、目を閉じた。
「だから、俺は……」
その言葉が、途切れた。
彼の身体が、完全に透明になった。
*
十 父親のいない世界を選ぶ
「緑谷さん!」
お茶子が叫んだ。
しかし、今度は誰も彼に触れることができなかった。
久志は、そこにいる。
声も聞こえる。
だが、姿が薄れていく。
輪郭が失われていく。
まるで、世界そのものが、彼を消そうとしているようだった。
「……相澤先生!」
塚内が叫ぶ。
「何か方法は!」
「分からん!」
相澤は、歯を食いしばった。
「緑谷! 消えるな!」
久志は、かすかに笑った。
「……先生」
「何だ!」
「俺は……」
彼は、出久を見た。
「出久に、謝らなければならないことがある」
「……父さん」
「俺は、お前を守りたかった」
久志の声が、少しずつ遠ざかっていく。
「お前が笑っていられる世界を作りたかった。お前が誰かを救える世界を作りたかった。……だから、俺は選んだ」
彼は、目を閉じた。
「だが、俺は間違えた」
出久の目から、涙が落ちた。
「……父さん」
「俺は、お前を守るために、お前から選択する権利を奪った」
久志は言った。
「御影を殺すことで、お前を生かした。お前を生かすことで、御影が望んだ未来を奪った。……そして、俺は、その選択を愛と呼んだ」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「すまなかった」
出久は、唇を噛んだ。
何か言いたかった。
許せるのか。
許せないのか。
自分には分からない。
父親の罪は、あまりにも重い。
御影が生きていた時間。
御影が失った未来。
母親が失った命。
何度も作り直された世界。
そこに残された、無数の死。
それらを、たった一言で許すことなどできない。
けれど。
目の前の男が、苦しんでいることも分かった。
彼が、自分の罪から逃げられずにいることも。
「……父さん」
出久は、ゆっくりと言った。
「僕は、あなたを許せるかどうか、まだ分からない」
久志は頷いた。
「……そうだな」
「御影のことも、お母さんのことも、全部知りたい」
「ああ」
「だから、勝手に死なないでください」
久志の目が、見開かれた。
「……何?」
「あなたが死んだら、真実が分からなくなる」
出久は、涙を拭った。
「あなたが本物のお父さんなのか、復元された存在なのか。僕の母さんを誰が殺したのか。御影が本当は誰だったのか。……全部、あなたが生きているうちに聞きたい」
出久は、一歩前に出た。
「あなたが父さんなら、父さんとして、僕に答えてください」
久志は、唇を震わせた。
そして。
彼は、初めて、声を上げて泣いた。
「……ああ」
久志は、頷いた。
「ああ……そうだな」
彼は、出久に手を伸ばした。
しかし、その手は、彼自身の身体をすり抜けた。
「……もう、触れられないのか」
久志は、悲しそうに笑った。
その瞬間。
家の中のすべての時計が、一斉に動き始めた。
午前二時十四分。
午前二時十五分。
午前二時十六分。
止まっていた時間が、動き出した。
世界が、再び流れ始めた。
久志の身体は、少しずつ薄れていく。
だが。
消えなかった。
完全には。
彼の手が、まだそこにあった。
彼の声が、まだ聞こえていた。
彼の心臓が、まだ動いていた。
そのとき。
誰もいない廊下から、声がした。
「……お父さん」
出久と同じ声。
けれど、出久のものではない。
久志は、顔を上げた。
廊下の奥。
そこに、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
しかし、その目には、長い時間を生きてきた人間の疲労が刻まれていた。
少年は、久志を見つめていた。
「……迎えに来たよ」
久志の顔が、青ざめた。
「……お前は」
少年は、悲しそうに笑った。
「久しぶりだね、お父さん」
そして。
彼は、静かに告げた。
「今度こそ、僕があなたを殺す」
*
十一 もう一人の緑谷出久
「……待て」
相澤が、少年の前に立ちはだかった。
「お前は誰だ」
少年は、相澤を見た。
その瞳には、驚きも恐怖もなかった。
ただ、疲労だけがあった。
「……相澤先生」
彼は、静かに言った。
「あなたは、僕を覚えていないんですね」
「初対面だ」
「そうだね」
少年は頷いた。
「この世界では、初対面だ」
相澤の表情が険しくなる。
「この世界では、だと?」
「はい」
少年は、久志を見た。
「僕は、何度もあなたに会いました」
「……」
「何度も、あなたを助けようとしました。何度も、あなたを殺そうとしました。何度も、あなたに殺されました」
少年は、笑った。
「何度も、何度も、何度も」
その声には、感情がなかった。
まるで、何百回も繰り返した出来事を、記録として読み上げているようだった。
「でも、どの世界でも、あなたは死んでしまう」
少年は、久志を見つめた。
「僕が救おうとするたびに、あなたは死ぬ。僕が世界を作り直すたびに、あなたは死ぬ。……だから、僕は考えた」
彼は、一歩前に出た。
「あなたが死なない世界を作るのではなく」
もう一歩。
「あなたが、最初から存在しない世界を作ればいい」
出久の背筋が冷たくなった。
「……何?」
少年は、出久を見た。
その瞬間。
出久の頭の中に、無数の記憶が流れ込んだ。
知らない家。
知らない病院。
知らない墓地。
何度も、何度も、父親の死を見届ける記憶。
父親が血を流して倒れている。
父親が自分を抱きしめている。
父親が笑っている。
父親が泣いている。
父親が、息子に向かって言う。
――すまなかった。
そして。
どの記憶でも、最後には同じことが起きる。
午前二時十三分。
父親が死ぬ。
世界が壊れる。
息子が世界を作り直す。
父親が、また死ぬ。
「……やめて」
出久は、頭を押さえた。
「やめて……!」
少年は、悲しそうに目を細めた。
「ごめんね」
彼は言った。
「でも、君も知るべきなんだ」
「……何を」
「この世界が、何を繰り返してきたのか」
少年は、久志を見た。
「お父さんは、死んでいる」
そして、静かに続けた。
「今ここにいる人は、父親の記憶を持った、別の何かだ」
久志は、目を閉じた。
「……ああ」
「お父さんは、十三年前に死んだ」
「ああ」
「それなのに、世界はお父さんを復元した」
「ああ」
「だから、僕は……」
少年は、拳を握った。
「今度こそ、復元を止める」
彼は、久志に向かって手を伸ばした。
その手のひらには、黒い文字が刻まれていた。
――死亡処理。
――対象、緑谷久志。
――実行者、緑谷出久。
――承認者、緑谷出久。
――拒否権、なし。
「……待て!」
出久が叫んだ。
少年は、動きを止めた。
「父さんを殺すな!」
少年の顔が、わずかに歪んだ。
「……君は、まだ分かっていない」
「何がだ!」
「お父さんは、死んでいるんだ」
少年は、静かに言った。
「今ここにいるのは、お父さんじゃない」
「それでも!」
出久は叫んだ。
「それでも、僕は……!」
言葉が、途切れた。
少年は、出久を見つめた。
そして、ひどく悲しそうに言った。
「……君は、僕と同じことを言うんだね」
その言葉に、出久の胸が痛んだ。
「君も、父親を救いたいんだ」
少年は言った。
「君も、兄を救いたいんだ。母親を救いたいんだ。御影を救いたいんだ。……君は、誰も失いたくない」
彼は、微笑んだ。
「僕もそうだった」
その瞬間。
少年の背後に、無数の影が浮かび上がった。
子どもたち。
大人たち。
顔のない人々。
全員が、緑谷出久と同じ顔をしていた。
ある者は泣いていた。
ある者は怒っていた。
ある者は笑っていた。
ある者は、ただ虚ろな目でこちらを見つめていた。
「……僕は、全部救おうとした」
少年は言った。
「でも、全部は救えなかった」
彼は、手を握りしめた。
「だから、僕は世界を作り直した」
背後の影が、一斉に口を開いた。
声が重なる。
何百もの声。
何千もの声。
すべてが、同じ言葉を告げた。
「「「僕は、僕を殺した」」」
出久は、息を呑んだ。
「「「僕が死ねば、二人は生きられる」」」
お茶子が、出久の手を握った。
「「「でも、僕が死んだら、二人は僕を忘れる」」」
相澤は、身構えた。
爆豪は、拳を握った。
塚内は、震える手で端末を構えた。
そして。
少年は、静かに言った。
「お父さんを殺せば、すべてが終わる」
*
十二 父親は、まだ死んでいない
「……違う」
出久が、呟いた。
少年は、顔を上げた。
「何が?」
「それじゃ、終わらない」
出久は、震える手を握りしめた。
「父さんを殺しても、世界が終わるとは限らない」
「終わるよ」
「違う!」
出久は叫んだ。
「君は、何度も世界を作り直したんだろう! 何度も父さんを救おうとして、何度も失敗したんだろう!」
少年は、黙っていた。
「だったら、どうして、まだ同じことを繰り返そうとするんだ!」
「……」
「父さんを殺せば終わる。父さんがいなければ終わる。父さんが死ねば、世界が救われる。……それは、本当に君が確かめた答えなのか?」
少年の表情が、揺れた。
「……確かめたよ」
「何回?」
「……」
「何回、確かめたんだ!」
出久の声が、廊下に響いた。
「十回? 百回? 千回? それとも、数えられなくなるまで?」
少年は、唇を噛んだ。
「……数えられない」
「だったら!」
出久は、一歩前に出た。
「それだけやっても、まだ終わっていないんじゃないか!」
少年の目が見開かれた。
「君は、父さんを殺せば終わると思っている。でも、父さんは十三年前に一度死んでいる。それなのに、世界は終わらなかった。父さんがいない世界でも、君は世界を作り直した。……そうなんだろう?」
少年は、答えなかった。
それが、答えだった。
「だったら、父さんを殺しても、終わらない」
出久は言った。
「君が本当に終わらせたいのは、父さんじゃない」
少年の顔が歪んだ。
「……やめて」
「君が終わらせたいのは、父さんを殺さなければ誰かを救えない世界だ」
「やめて!」
「君が終わらせたいのは、誰かが死ぬたびに、別の誰かが責任を負わされる世界だ!」
「やめろ!」
少年の声が、初めて荒れた。
その瞬間。
廊下の壁に亀裂が走った。
写真立てが震えた。
時計の秒針が、逆回転を始めた。
午前二時十六分。
午前二時十五分。
午前二時十四分。
時間が、逆戻りしていく。
出久は、それでも言葉を止めなかった。
「君は、誰かを殺さなければ救えない世界を、何度も作り直した。だから、今度は父さんを殺そうとしている。でも、君がやっていることは……」
彼は、少年を見つめた。
「君が嫌っていた世界と、同じことなんだ」
少年の顔から、すべての表情が消えた。
「……違う」
「同じだよ」
「違う!」
「君は、父さんの選択を否定している。父さんが御影を殺したことを許せない。母さんを殺した世界を許せない。……だから、父さんを殺そうとしている」
出久は、涙を流しながら言った。
「でも、父さんを殺すことで、君はまた、誰かの生きる権利を奪おうとしている」
少年は、震えていた。
「……僕は」
その声は、ひどく幼かった。
「僕は、どうすればよかったんだよ」
出久は、答えられなかった。
「兄さんが死んだんだ」
少年の頬を、涙が伝った。
「僕のせいで、兄さんが死んだ。僕が生まれたから、兄さんが死んだ。僕が生きていたから、兄さんが死んだ。……だから、僕は何度も世界を作り直した」
少年は、胸を押さえた。
「兄さんが生きている世界が欲しかった。お父さんが生きている世界が欲しかった。お母さんが笑っている世界が欲しかった」
声が震える。
「誰も死なない世界が欲しかった」
少年は、出久を見た。
「……でも、そんな世界はなかった」
沈黙。
彼は、笑った。
泣きながら。
「だから、僕は最後に決めたんだ」
少年の手のひらに、黒い文字が浮かび上がった。
――世界再構築、最終手順。
――対象、緑谷久志。
――削除対象、父親。
――削除後、再構築実行。
――再構築後、父親の存在を永久に禁止する。
「……今度こそ」
少年は、久志に手を伸ばした。
「お父さんのいない世界を作る」
その瞬間。
久志が、少年の手を掴んだ。
誰にも触れられなかったはずの身体が。
透明になりかけていた手が。
確かに、少年の手を掴んだ。
「……駄目だ」
久志は、言った。
少年の目が見開かれた。
「……お父さん?」
「それは、俺が選ぶことじゃない」
久志は、少年を見つめた。
「お前が選ぶことでもない」
「でも……!」
「俺は、死ぬ」
久志は、静かに言った。
「俺は、十三年前に死んだ。今ここにいる俺が、緑谷久志の記憶を持った別の存在だというなら、俺はもう一度死んでもいい」
「だったら!」
「だが」
久志は、少年の手を握りしめた。
「俺が死ぬことで、お前が世界を作り直すのなら」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「俺は、死ねない」
少年の目から、涙が落ちた。
「……どうして?」
「お前が、俺を殺すことでしか救われないと思っているからだ」
久志は、少年を見つめた。
「俺は、お前をそんな子どもにしたくなかった」
「……もう、遅いよ」
少年は、笑った。
「僕は、もう何人も殺した」
「ああ」
「世界を何度も壊した」
「ああ」
「戻せないものが、たくさんある」
「ああ」
久志は、頷いた。
「だからこそ」
彼は、少年の手を離さなかった。
「これ以上、増やすな」
その言葉が、少年の胸に突き刺さった。
「……っ」
「お前が殺した人間は、戻らないかもしれない。お前が壊した世界も、元には戻らないかもしれない。……だが、だからといって、これから誰かを殺していい理由にはならない」
久志は、息を吐いた。
「俺も、そうだった」
彼は、出久を見た。
「俺は、過去の罪を償うために、未来の誰かを犠牲にしようとした」
そして、少年に向き直った。
「お前は、俺と同じだ」
少年の顔が、歪んだ。
「……違う」
「同じだ」
「違う!」
「お前も、俺も、誰かを救うために誰かを殺そうとした」
久志は、目を閉じた。
「だから、今度こそ、誰も選ばない」
*
十三 母親の声
そのとき。
家の奥から、女の声が聞こえた。
「……久志さん」
全員が、振り返った。
声は、台所から聞こえた。
そこには、誰もいないはずだった。
しかし。
台所の明かりが、ゆっくりと点灯した。
そして、そこに一人の女性が立っていた。
緑色の髪。
優しい顔。
小柄な身体。
出久が、何度も夢に見た人。
「……母さん?」
出久の声が、震えた。
緑谷引子。
彼の母親だった。
引子は、ゆっくりと顔を上げた。
「……出久」
その声を聞いた瞬間。
出久の身体から、力が抜けた。
「母さん……!」
駆け寄ろうとする。
しかし、相澤が腕を伸ばして制止した。
「待て、緑谷!」
「でも!」
「まだ確認できていない!」
引子は、二人を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……相澤先生」
相澤の表情が変わった。
「……俺を知っているのか」
「ええ」
引子は頷いた。
「何度も、お会いしました」
その言葉に、相澤は動きを止めた。
「……何度も?」
「はい」
引子は、久志を見た。
「久志さん。あなたは、まだ……」
言葉が途切れた。
引子の顔に、深い悲しみが浮かんだ。
「……まだ、生きていたんですね」
久志は、何も言わなかった。
ただ、妻を見つめていた。
その目には、驚きと、恐怖と、そして。
何よりも深い愛情があった。
「……引子」
久志は、震える声で言った。
「お前は……」
「私は、死にました」
引子は答えた。
あまりにも静かな声だった。
「十三年前の、午前二時十三分に」
出久は、息を呑んだ。
「……母さん」
「でも」
引子は、微笑んだ。
「私も、まだ死んでいないんです」
その瞬間。
写真立ての中の少年が、顔を上げた。
黒く塗り潰されていた顔の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていく。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
そして、その隣に。
もう一人の女性が写っていた。
引子と、まったく同じ顔をした女性。
だが、二人の表情は違っていた。
一人は、優しく微笑んでいる。
もう一人は、泣いていた。
写真の裏側に、文字が浮かび上がった。
――被害者、緑谷引子。
――被害者、緑谷引子。
――死亡者、緑谷引子。
――生存者、緑谷引子。
――母親は、二人。
そして、その下に。
新しい文字が刻まれた。
殺害実行者、緑谷久志。
久志の顔が、青ざめた。
「……違う」
彼は、首を振った。
「俺は……」
引子は、静かに彼を見つめた。
「久志さん」
「違うんだ、引子……!」
「あなたは、私を殺しました」
引子は、淡々と言った。
「あなたは、私を二度殺した」
出久の胸が、凍りついた。
以前、別の女性が言った言葉。
――あなたは、私の息子を二度殺したんです。
今度は、母親が。
父親に向かって。
同じ言葉を告げていた。
「……どうして」
久志は、震える声で尋ねた。
「どうして、お前がここにいる……?」
引子は、悲しそうに笑った。
「あなたが、私を忘れなかったからです」
久志の目が見開かれた。
「……何?」
「あなたは、私を殺した。世界から消した。私が存在しなかったことにした。……でも、あなたは私を忘れなかった」
引子は、自分の胸に手を当てた。
「だから、私は戻ってこられた」
「……そんな」
「あなたが私を覚えている限り、私は完全には消えない」
引子は、久志に向かって手を伸ばした。
「でも、久志さん」
その声が、震えた。
「あなたが私を覚えている限り、私は、あなたを許せない」
久志は、崩れ落ちた。
膝をつき、顔を覆った。
その身体は、まだ消えていなかった。
しかし。
彼の存在を繋ぎ止めていた何かが、音を立てて崩れ始めた。
*
十四 父親が殺した母親
「……引子」
久志は、床に膝をついたまま、妻の名を呼んだ。
「俺は……お前を、殺したのか」
「はい」
「どうやって……?」
引子は、答えなかった。
その代わりに、台所の奥を指さした。
そこには、古い扉があった。
緑谷家の間取りには、存在しないはずの扉だった。
出久は、その扉を見つめた。
記憶が、疼いた。
あの扉を知っている。
子どもの頃、何度も近づこうとした。
けれど、母親に止められた。
――そこには入っちゃ駄目よ。
――どうして?
――あなたが、まだ知らなくていいことがあるから。
そんな記憶が、蘇った。
「……あそこに」
出久は、呟いた。
「何があるの?」
引子は、彼を見た。
「あなたが生まれる前の、記録です」
久志が顔を上げた。
「……やめろ」
その声は、必死だった。
「引子、頼む……。それだけは……」
「もう、隠せません」
引子は、静かに言った。
「あなたが死んだ世界も、あなたが復元された世界も、あなたが息子を殺した世界も。……すべてが、ここに繋がっている」
彼女は、出久を見つめた。
「出久。あなたは、知る必要があります」
「……何を?」
「あなたが生まれる前に、何があったのか」
引子は、扉に向かって歩き始めた。
しかし、三歩進んだところで、彼女の身体が止まった。
足が動かない。
まるで、見えない鎖で縛られているようだった。
「……っ」
引子は、苦しそうに顔を歪めた。
久志が立ち上がろうとする。
「引子!」
「来ないで!」
引子の叫びが、家の中に響いた。
久志は、動きを止めた。
引子は、震える手で自分の胸を押さえた。
「……私は、そこへ行けない」
「なぜだ!」
「そこに、私を殺した人がいるからです」
沈黙。
引子は、ゆっくりと振り返った。
その目は、久志を見ていた。
「……あなたではありません」
久志の表情が、凍りついた。
「……何?」
「私を殺したのは、緑谷久志ではない」
引子は、言った。
「少なくとも、あなたが覚えている緑谷久志ではない」
その瞬間。
台所の扉が、内側から開いた。
暗闇の中から、誰かが歩いてきた。
小さな足音。
ゆっくりと近づく影。
そして。
扉の向こうから、一人の少年が現れた。
出久と同じ顔。
久志と同じ緑色の瞳。
そして、引子と同じ笑顔。
少年は、出久を見た。
その顔には、懐かしさがあった。
悲しみがあった。
そして、深い憎しみがあった。
「……やっと、会えたね」
少年は、出久に向かって微笑んだ。
「僕の弟」
出久の呼吸が止まった。
「……兄さん?」
少年は、首を振った。
「違うよ」
そして。
彼は、父親を見た。
「僕を殺したのは、父さんじゃない」
久志の顔が、真っ白になった。
少年は、笑った。
「僕を殺したのは――」
その目が、出久へ向けられる。
「母さんだよ、出久。」
*
十五 次の事件
午前二時十七分。
時計が、進んでいた。
世界は、動いていた。
それなのに。
緑谷家の中だけは、何かが止まっていた。
母親は二人。
父親は一度死んでいる。
息子は、何度も死んでいる。
そして。
最初に殺された子どもは、父親ではなく、母親によって殺されたという。
「……嘘だ」
出久は、呟いた。
少年は、首を振った。
「嘘じゃないよ」
「……だって、母さんは……」
「優しかった?」
少年は、笑った。
「僕にも、優しかったよ」
出久は、言葉を失った。
「母さんは、僕を抱きしめてくれた。僕が泣いたら、頭を撫でてくれた。僕が怖がったら、大丈夫だよって言ってくれた」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「……だから、僕は、母さんを信じていた」
その声が、震えた。
「母さんが、僕を殺すまでは」
久志は、何も言えなかった。
引子は、目を閉じた。
相澤は、少年を見つめていた。
塚内は、震える手で端末を握っていた。
爆豪は、拳を握りしめていた。
そして、お茶子は。
出久の手を、強く握っていた。
少年は、出久を見た。
「……出久」
その声は、優しかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「君は、母さんを信じているんだね」
「……」
「父さんも信じたいんだね」
少年は、微笑んだ。
「御影も救いたい。兄さんも救いたい。誰も死なせたくない」
彼は、一歩前に出た。
「でも、出久」
その目が、わずかに細くなった。
「君は、まだ知らない」
少年は、静かに告げた。
「母さんが、何人の子どもを殺したのか」
その瞬間。
塚内の端末に、新しい記録が表示された。
――事件名、母親殺害事件。
――被害者、緑谷御影。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
――被害者、緑谷出久。
名前が、増えていく。
何十件。
何百件。
何千件。
そのすべてが、緑谷出久だった。
塚内の手から、端末が落ちた。
「……これは」
相澤が、画面を覗き込んだ。
そこには、最後の一行が表示されていた。
――殺害実行者、緑谷引子。
――被害者総数、記録不能。
――事件継続中。
そして。
――次の被害者、緑谷出久。
出久の背後で、何かが動いた。
振り返る。
そこには、誰もいなかった。
ただ。
鏡に映った自分の姿だけが、違っていた。
鏡の中の出久は、笑っていた。
そして、ゆっくりと口を動かした。
――次は、君だ。
午前二時十八分。
時計が、また止まった。
今度は、二時十三分ではなかった。
午前二時十八分。
その時刻で。
世界は、再び静止した。
そして、誰もいないはずの家の中に、最後の声が響いた。
『――父親は、まだ死んでいない』
『――母親も、まだ死んでいない』
『――そして、最初の子どもは、まだ生まれていない』
暗闇の中。
誰かが、笑った。
それは、緑谷出久の声だった。
あるいは。
緑谷出久ではない、誰かの声だった。