午前二時十三分。
世界中の時計が、また止まった。
壁掛け時計も。
腕時計も。
病院のモニターに表示されたデジタル時計も。
雄英高校の職員室に置かれた古い時計も。
警察署の壁に掛かった時計も。
そして、緑谷出久の心臓の動きさえも。
――一瞬だけ。
心電図の波形が、平坦になった。
「出久くん!」
麗日お茶子の叫びが、誰もいない病室に響いた。
次の瞬間、心臓は再び動き始めた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
何事もなかったかのように、モニターは生命の証明を再開する。
しかし、お茶子には分かっていた。
今の一瞬。
出久は、死んだ。
そして。
何かが、出久を生き返らせた。
「……今の、見た?」
お茶子は振り返った。
病室には、相澤消太、爆豪勝己、塚内直正、轟焦凍、飯田天哉がいた。
全員が、同じものを見ていた。
心電図が止まったこと。
そして、誰も触れていないのに、ベッド脇のノートが勝手に開いたことを。
ノートのページには、見覚えのない文字が浮かび上がっていた。
『第二十六回観測記録』
その下に、さらに一行。
『母親が産んだ、最初の子ども』
「……第二十六回?」
飯田が眼鏡を押し上げた。
「待て。これまでの記録は、第一、第二、第三という順番で、個体の存在を管理していたはずだ。だが、これは個体番号ではない。観測そのものの回数を示しているのか?」
「そう考えるのが自然だな」
相澤はノートから目を離さなかった。
「問題は、誰が観測しているのか、ということだ」
「それもあるけど」
お茶子は、ノートに手を伸ばした。
指先が触れる直前、文字が変わった。
『母親が産んだ、最初の子ども』
『母親が、産まなかったことにした子ども』
『母親が、殺した子ども』
三行。
三つの文章。
そして、最後の一行がゆっくりと現れた。
『母親は、まだ自分の子どもを見つけていない』
お茶子は息を呑んだ。
「……お母さん」
彼女の脳裏に、あの女性の顔が浮かんだ。
緑谷久志の前に現れた女。
出久を見て、こう告げた女。
――あなたは、私の息子を二度殺したんです。
あの女は、確かに言った。
自分の息子だと。
しかし、久志もまた、自分の息子だと言った。
御影出久を。
緑谷出久を。
そして、世界が存在を認めなかった、もう一人の子どもを。
「……お父さんは、どこにいるんだろう」
お茶子の呟きに、誰も答えなかった。
緑谷久志は、死んだはずだった。
少なくとも、彼らが最後に確認した時点では。
彼の記録は消えていた。
住所も、戸籍も、勤務記録も。
彼を知る人間の記憶さえも、少しずつ欠落し始めていた。
それでも。
お茶子は覚えている。
あの男が、息子たちを守ろうとしていたことを。
そして、守ろうとするたびに、彼らの人生を壊してきたことを。
「相澤先生」
彼女は顔を上げた。
「私、あの人に会いたいです」
「……どこにいるか分からない」
「それでもです」
お茶子はノートを閉じた。
「だって、あの人がいないと、誰も答えを知らないままになっちゃう」
爆豪が舌打ちした。
「違ぇよ」
「え?」
「答えを知ってるかどうかじゃねぇ」
彼は病室のベッドに横たわる出久を見た。
「また勝手に一人で死のうとしてんだよ、あいつが」
出久は目を閉じている。
眠っているように見える。
だが、爆豪は知っていた。
こいつは眠っている時でさえ、誰かを助ける方法を考えている。
自分が壊れることを前提に。
自分が消えることを前提に。
自分が、誰かの代わりに死ぬことを前提に。
「クソナードが起きたら、ぶん殴る」
「爆豪くん、それは……」
「起きたら、だ」
爆豪はそれ以上、何も言わなかった。
相澤が静かに告げた。
「全員、準備しろ」
「先生?」
「緑谷の父親がどこにいるか分からなくても、手掛かりはある」
彼はノートの最後のページを指差した。
そこには、小さな文字で住所が書かれていた。
誰も知らない住所。
しかし、塚内だけは違った。
「……ここは」
彼の表情が変わった。
「十三年前、緑谷久志が失踪したとされる場所だ」
相澤が顔を上げる。
「失踪?」
「公式記録では、緑谷久志は十三年前に死亡している。遺体は発見されていない。死因も不明。ただし、当時の捜査記録には妙な記載がある」
塚内は端末を取り出した。
「現場にいた警察官が、全員、同じ証言をしている」
「どんな?」
「……そこには、父親が二人いた、と」
病室の空気が凍りついた。
「一人は、緑谷久志本人」
塚内は言った。
「もう一人は――」
端末に映った記録の一部が、黒く塗りつぶされていた。
その下に、かろうじて文字が残っている。
『緑谷久志・同一人物』
『死亡時刻:02時13分』
『死亡者の年齢:十三歳』
轟が目を細めた。
「十三歳……?」
「父親が十三歳の時に死んだ、という意味じゃない」
塚内の声が低くなる。
「死亡したのは、緑谷久志本人ではない。緑谷久志という名前を持つ、十三歳の子どもだ」
飯田が息を呑んだ。
「まさか……」
相澤は、ゆっくりとノートを見た。
「父親が二人いたんじゃない」
「……先生?」
「父親になる前の緑谷久志と、父親になった後の緑谷久志だ」
その言葉の意味を理解した瞬間。
お茶子の背筋に、冷たいものが走った。
もし、それが正しいなら。
十三年前に死んだのは、緑谷久志ではない。
緑谷久志になるはずだった、十三歳の少年だ。
そして、その少年が死んだ時刻は。
午前二時十三分。
出久たちの出生時刻と、同じだった。
1 母親は、二人いた
緑谷久志は、自分が父親になった日のことを覚えている。
覚えているはずだった。
妻の手を握り、分娩室の外で待ち続けたこと。
医師が出てきて、子どもが生まれたと告げたこと。
最初の泣き声を聞いたこと。
その瞬間、世界が変わったと思ったこと。
どれも、確かな記憶だった。
しかし、今。
久志は、十三年前の病院の廊下に立っていた。
目の前には、分娩室がある。
壁には時計が掛かっている。
午前二時十二分。
あと一分で、すべてが始まる。
いや。
違う。
すべては、すでに始まっていた。
「……また、ここか」
久志は呟いた。
足元に、血が落ちていた。
自分の血ではない。
子どもの血でもない。
誰かの影が、床に広がっている。
影は、廊下の壁を這い、天井へと伸びていた。
その先に、人が立っていた。
白い服を着た女だった。
顔は見えない。
しかし、久志には分かった。
彼女が誰なのか。
「……君か」
女は答えなかった。
「君が、あの子を殺したのか」
沈黙。
「君が、最初の子どもを……」
「違います」
女が言った。
久志は顔を上げた。
「私は、あの子を産みました」
その声は、震えていた。
「私は、あの子を抱きました。あの子の名前を呼びました。あの子が泣くのを聞きました。あの子が生きていることを、確かに知っていました」
女は、一歩近づいた。
「だから、私は知っています」
「……何を」
「あなたが、誰を殺したのか」
久志の喉が詰まった。
女の顔が、少しずつ見えてくる。
緑谷出久の母親――緑谷引子に似ていた。
だが、違う。
目元が違う。
髪の色が違う。
そして何より、その瞳には、十三年分の時間がなかった。
まるで、十三年前のその日に、時間が止まったままの人間のようだった。
「あなたは、私の息子を殺した」
女は言った。
「一度目は、私の知らないところで」
「……」
「二度目は、私の目の前で」
久志は目を閉じた。
「……そうだ」
否定できなかった。
「私は、あの子を殺した」
「いいえ」
女は首を振った。
「あなたは、あの子を殺していません」
久志は目を開いた。
「……何?」
「あなたが殺したのは、二人目の子どもです」
女は、分娩室の扉を見た。
「最初の子どもは、あなたが父親になる前に死んでいます」
時計の針が動いた。
午前二時十三分。
分娩室の中から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
一人分。
いや。
二人分。
泣き声は、重なっていた。
片方は高く、弱々しい。
もう片方は、驚くほど静かだった。
「……二人、生まれたのか」
久志の声が震えた。
女は答えない。
扉の向こうで、誰かが叫んだ。
医師の声。
看護師の声。
そして。
赤ん坊ではない、子どもの声。
『お母さん』
久志は息を止めた。
その声を知っていた。
知っているはずがなかった。
十三年前、まだ生まれていない子どもの声なのだから。
『お母さん。僕を殺して』
女の表情が歪んだ。
「……あの子は、そう言いました」
「何を……」
「生まれる前に。私の、お腹の中で」
久志は動けなかった。
女は、扉に手を伸ばした。
「私は、あの子を産みました」
その声には、母親としての誇りがあった。
「私は、あの子を産みたかった。生まれてきてほしかった。生まれてきたら、抱きしめて、名前を呼んで、育てたかった」
彼女の手が、扉に触れる。
「でも、あの子は言ったんです」
『お母さん。僕が生まれたら、兄さんが死ぬ』
久志の目の前が暗くなった。
「……兄さん?」
「はい」
女は振り返った。
「あなたの息子です」
「……出久?」
「いいえ」
女は、静かに告げた。
「出久が生まれる前に、出久を救おうとした子どもです」
久志の耳鳴りがひどくなった。
頭の中で、何かが崩れていく。
十三年前。
自分は、未来の自分に会った。
二人の息子が生まれると告げられた。
一人は世界を救い、一人は世界を壊す。
だから、どちらかを選べ、と。
だが。
もし、それよりも前に。
もし、未来の自分が会いに来るよりも前に。
すでに、誰かが子どもを産んでいたのだとしたら。
もし、最初の子どもが死んでいたのだとしたら。
その後に生まれた二人は、一体何なのだ。
「……君は、誰なんだ」
久志は尋ねた。
女は答えた。
「私は、あの子の母親です」
「それは分かっている!」
久志の声が、廊下に響いた。
「そうじゃない! 私は、君を知らない! 妻ではない! 引子でもない! なのに、君は私の息子だと言う!」
女は、悲しそうに笑った。
「あなたは、知らなくていいんです」
「……何?」
「あなたが知らないから、あの子は生まれられた」
女の背後で、分娩室の扉が開いた。
中から、医師が出てくる。
白衣に血がついていた。
医師は久志を見ると、青ざめた。
「……あなたは、ここにいてはいけない」
「誰だ、あんたは」
「あなたは、まだ父親ではない」
医師は言った。
「あなたは、まだ一人の子どもも救っていない」
その言葉と同時に、廊下の壁が裂けた。
壁の向こうには、真っ暗な空間が広がっていた。
そこに、無数の記録が浮かんでいる。
『第一子:死亡』
『第二子:死亡』
『第三子:登録』
『第四子:未登録』
『第五子:観測中』
『第零個体:統合失敗』
記録は、次々と書き換わっていった。
『第一子:死亡』
『第一子:生存』
『第一子:未出生』
『第一子:存在しない』
『第一子:母親による殺害』
『第一子:父親による殺害』
『第一子:緑谷出久による殺害』
久志は叫んだ。
「やめろ!」
記録が止まる。
暗闇の奥から、声が聞こえた。
『どの記録を残しますか』
『父親』
『母親』
『兄』
『弟』
『あるいは――』
声が、笑った。
『子ども自身に、選ばせますか』
2 最初の産声
その頃。
雄英高校の地下にある、封鎖された資料保管室。
相澤たちは、ノートに記されていた住所へ向かう途中で、塚内から連絡を受けた。
「……緑谷の父親に関する記録が見つかった」
通信機越しの塚内の声は、いつになく硬かった。
「ただし、警察のデータベースじゃない。病院の旧記録でもない。もっと古いものだ」
「どこにあった?」
相澤が尋ねる。
「雄英の地下だ」
「……何?」
「正確には、雄英が設立される前から存在していた施設の記録だ。現在の建物の地下に、旧式の記録室が埋まっている。そこに、緑谷久志の名前があった」
「雄英の地下に、何があるんですか?」
飯田が尋ねた。
塚内は、少し間を置いてから答えた。
「出生記録だ」
「出生記録?」
「緑谷出久のものではない」
塚内の声が低くなる。
「緑谷出久が生まれる前の、出生記録だ」
相澤は足を止めた。
「……全員、予定変更だ」
「先生、まさか雄英に戻るんですか?」
「そうだ」
相澤は端末を見た。
画面には、ひとつのファイルが表示されている。
タイトルは、こうだった。
『出生管理室・最初の母親』
「緑谷の父親が死んだ場所に行くのは、その後だ」
彼は言った。
「先に、緑谷が生まれる前に何があったのかを確認する」
爆豪が舌打ちした。
「面倒くせぇ。最初から全部まとめてぶっ壊せばいいだろ」
「お前は、何でも壊せば解決すると思っているのか」
「壊さなきゃ進まねぇもんがあるだろうが」
爆豪は、端末の画面を睨んだ。
「こいつら、ずっと同じことやってんだよ。人間を番号で分けて、誰かを消して、残った奴を生かしたことにする」
彼は拳を握った。
「そんなもん、ぶっ壊さなきゃ終わんねぇ」
相澤は否定しなかった。
「……そうだな」
その時だった。
轟が、ふと足を止めた。
「待ってくれ」
「どうした、轟」
「今、声が聞こえなかったか?」
全員が沈黙した。
最初は、誰も気づかなかった。
遠くから聞こえる、かすかな音。
赤ん坊の泣き声。
一人ではない。
二人でもない。
少なくとも、三人。
そして、そのうちの一人は、泣いていなかった。
「……こっちだ」
轟が走り出した。
廊下の奥。
普段は壁になっているはずの場所に、扉が現れていた。
扉には、古いプレートが掛かっている。
『出生管理室』
その下に、手書きの文字。
『母親以外、入室禁止』
爆豪が笑った。
「上等だ」
彼は扉に手をかけた。
「爆豪、待て!」
相澤の制止よりも早く、爆豪の掌が爆ぜた。
轟が冷気で爆風を抑え、扉の周囲だけを破壊する。
金属が歪む。
鍵が砕ける。
扉が開いた。
その瞬間。
赤ん坊の泣き声が、ぴたりと止まった。
室内は、真っ白だった。
壁も床も天井も、何もかもが白い。
部屋の中央には、透明なケースが三つ並んでいた。
一つ目のケースには、何も入っていない。
二つ目のケースにも、何も入っていない。
三つ目のケースには、小さな毛布が入っていた。
毛布の上には、紙が一枚置かれている。
『第一子』
『母親:未登録』
『父親:未登録』
『出生時刻:02時13分』
『生死:死亡』
その下に、赤い文字があった。
『死亡原因:兄を救うため』
「……ふざけんな」
爆豪の声が、低く響いた。
相澤はケースの前に立った。
「未登録の母親……」
彼は、記録を見つめた。
「父親も未登録。だが、出生時刻は緑谷たちと同じだ」
飯田が、別のケースを確認した。
「こちらにも記録があります!」
二つ目のケース。
『第二子』
『母親:緑谷引子』
『父親:緑谷久志』
『出生時刻:02時13分』
『生死:死亡』
『死亡原因:第一子の消失による存在不安定化』
轟が顔を上げた。
「第二子が……出久なのか?」
「違う」
相澤は即座に答えた。
「緑谷出久は第三子だ。少なくとも、今までの記録ではそうなっていた」
「じゃあ、この第二子は誰なんだよ」
爆豪が、ケースを睨みつける。
その時。
三つ目のケースの中で、毛布が動いた。
誰も触れていない。
風もない。
それなのに。
毛布の端が、ゆっくりと持ち上がった。
中から、小さな手が出てきた。
赤ん坊の手だった。
指が、何かを探すように動いている。
お茶子が息を呑んだ。
「……生きてる?」
相澤がケースに近づく。
「下がれ」
「でも……!」
「麗日、下がれ」
彼はケースの前に立った。
その時、赤ん坊の手が止まった。
小さな指が、相澤の方へ向く。
そして。
室内に、声が響いた。
『先生』
相澤の顔が凍りついた。
その声は、赤ん坊のものではなかった。
十三歳の少年の声。
聞き覚えがある。
いや。
忘れられるはずがない。
「……緑谷?」
相澤は、掠れた声で呟いた。
『先生。約束を破ってごめんなさい』
ケースの表面に、文字が浮かび上がる。
『第一子』
『個体名:未登録』
『通称:兄』
『本来の名前:緑谷出久』
室内の全員が、息を止めた。
「……緑谷出久?」
飯田が呟いた。
「しかし、緑谷君は現在、病室に……」
「名前が同じなんだ」
相澤は、ケースを見つめていた。
「同じ名前を持つ、別の個体がいた」
その瞬間、ケースの中の毛布が消えた。
小さな手も。
赤ん坊の姿も。
何もかもが、跡形もなく消え去った。
残ったのは、紙一枚だけ。
そこに、新しい文字が浮かんだ。
『母親が産んだ最初の子どもは、緑谷出久ではない』
一拍。
次の文字。
『緑谷出久が、最初の子どもだった』
そして、最後に。
『母親は、子どもを産んだのではない』
『子どもが、母親を選んだ』
3 産んだ母親と、選ばれた母親
「……意味が分からない」
轟が言った。
誰も反論しなかった。
記録は矛盾している。
最初の子どもは、緑谷出久ではない。
しかし、最初の子どもこそが、緑谷出久だった。
母親が子どもを産んだ。
しかし、子どもが母親を選んだ。
普通に考えれば、どちらも成立しない。
だが、この世界では。
成立しないはずのものが、何度も成立している。
「相澤先生」
お茶子は、ケースの前に立った。
「この記録、誰が書いたんでしょうか」
「分からない」
「でも、ここに書いてあることが本当なら……」
彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「出久くんには、最初に産んでくれたお母さんと、出久くんが選んだお母さんがいるってことですか?」
相澤は答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりだった。
お茶子は、引子の顔を思い浮かべた。
出久の母親。
出久を抱きしめ、心配し、謝り、何度も「ごめんね」と言ってきた人。
あの人は、確かに出久を愛している。
出久もまた、母親を愛している。
では。
もう一人の母親は?
出久が生まれる前から存在し、出久が生まれることによって何かを失い、出久を殺したと告げた女は?
彼女もまた、出久を愛していたのだろうか。
それとも。
彼女が愛していたのは、出久ではない別の子どもなのだろうか。
「……私、あの人に会った時」
お茶子は、ぽつりと呟いた。
「怖かったんです」
誰も口を挟まなかった。
「出久くんを憎んでいるように見えたから。でも、今思うと……」
彼女は唇を噛んだ。
「あの人、出久くんを見ていたんじゃない」
「……何を見ていた?」
相澤が尋ねた。
「出久くんの中にいる、誰かを見ていたんだと思います」
病室の出久。
その身体の中にいる、別の出久。
あるいは、出久という名前を持つ、何人もの子どもたち。
お茶子は、ようやく気づいた。
あの女は、出久を見て泣いていたのではない。
出久の中にいる、もう二度と会えない息子を見ていたのだ。
その時、資料室の奥で音がした。
ガタン。
全員が振り返る。
一番奥にある、金属製の棚。
そこに、見覚えのないファイルが一冊置かれていた。
表紙には、こう書かれている。
『母親一覧』
相澤がファイルを開いた。
最初のページ。
『母親A:緑谷引子』
『出産した子ども:緑谷出久』
『出生時刻:02時13分』
『備考:本人の記憶と世界の記録が一致』
二ページ目。
『母親B:未登録』
『出産した子ども:御影出久』
『出生時刻:02時13分』
『備考:世界の記録には存在しない』
三ページ目。
『母親C:未登録』
『出産した子ども:緑谷出久』
『出生時刻:02時13分』
『備考:母親本人が、子どもの存在を否定』
四ページ目。
『母親D:未登録』
『出産した子ども:未登録』
『出生時刻:02時13分』
『備考:子どもが母親を選択』
五ページ目。
『母親E:緑谷引子』
『出産した子ども:緑谷出久』
『出生時刻:02時13分』
『備考:母親は、第一子の存在を知らない』
相澤の指が止まった。
「……何人いるんだ」
ファイルのページは、まだ続いている。
母親F。
母親G。
母親H。
そして、番号のつかないページ。
そこには、たった一行しか書かれていなかった。
『母親は、一人しかいない』
その下に、別の筆跡で文字が書き足されていた。
『だから、何人もの母親を作った』
さらに、その下。
『一人の母親が、何人もの子どもを愛せるように』
お茶子は、思わず口元を押さえた。
「……誰が、こんなことを」
「愛するために、母親を増やした?」
轟が眉をひそめる。
「いや。逆だ」
相澤が、ファイルを閉じた。
「母親を増やすことで、子どもを分けたんだ」
「……どういう意味だよ」
爆豪が尋ねる。
相澤は答えた。
「一人の母親に、何人もの子どもを愛させることができなかった。だから、母親を分けた。子どもを分けた。記憶を分けた」
彼は、最後のページを見つめた。
「そして、誰かが誰かを殺したことにした」
沈黙が落ちた。
「本当は、一人の母親が、全員を愛していたのかもしれない」
相澤の声は、静かだった。
「それでも、世界は一人しか残せなかった」
4 緑谷出久は、誰の子どもなのか
病室では、緑谷出久が目を覚ましていた。
「……お茶子ちゃん?」
声は掠れていた。
目を開けた瞬間、彼が見たのは、見慣れた天井だった。
消毒液の匂い。
白い壁。
点滴。
心電図。
そして、誰もいない椅子。
「……あれ?」
彼は身体を起こそうとした。
だが、腕に力が入らない。
身体が重い。
まるで、自分の身体ではないようだった。
「……また、か」
出久は呟いた。
自分が何度も、こうして目を覚ましてきたことを覚えている。
そのたびに、何かが失われていた。
記憶。
名前。
誰かの顔。
そして、時には、自分自身。
「……僕は」
彼は、胸に手を当てた。
そこに、もう一つの鼓動がある。
自分の心臓の音に重なって、もう一つ。
弱く。
不規則で。
しかし、確かに生きている音。
「……君は、誰なの?」
返事はなかった。
けれど、胸の奥で何かが動いた。
声ではない。
記憶でもない。
ただ、感情が流れ込んでくる。
寂しさ。
恐怖。
怒り。
そして、どうしようもないほどの愛情。
出久は目を閉じた。
「……兄さん?」
その言葉を口にした瞬間。
病室の照明が消えた。
心電図の音が止まる。
点滴の液体が、管の中で逆流した。
壁の時計が、午前二時十三分を示した。
出久は、ベッドの上で息を呑んだ。
目の前に、少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
ただし、少しだけ年上に見える。
その少年は、出久を見ていた。
泣いてはいなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「……やっと、会えた」
少年が言った。
出久は、震える声で尋ねた。
「君は……誰?」
少年は少しだけ目を伏せた。
「僕は、君の兄さんだよ」
「……兄さん?」
「うん」
少年は頷いた。
「でも、君の知っている兄さんじゃない」
出久は息を止めた。
「君の中にいる僕でもない」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「君が何度も世界を作り直した時、君が助けようとした僕でもない」
「……じゃあ」
「僕は、最初の僕だ」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、残酷だった。
「最初に生まれた僕」
少年は言った。
「最初に死んだ僕」
「……」
「そして、君が生まれるために、存在しなかったことにされた僕」
出久は首を振った。
「そんな……」
「知っているよ。君は、僕を知らない」
少年は笑った。
「知らなくていいように、世界が作られたんだから」
「でも……!」
「君は悪くない」
その言葉に、出久は顔を上げた。
少年は、まっすぐに出久を見ていた。
「君は、僕を殺していない」
「……でも、記録には……」
「記録は、いつも誰かの都合で書き換えられる」
少年は、ベッドの端に腰掛けた。
「僕は、君を恨んでいない」
「……どうして?」
「君も、僕と同じだから」
少年の声が、少しだけ震えた。
「君も、誰かを救いたかったんだろう?」
出久は答えられなかった。
「僕もそうだった」
少年は続けた。
「僕は、兄さんを救いたかった」
「……」
「僕は、弟を救いたかった」
「……」
「僕は、母さんを救いたかった」
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
「そして、僕は世界を壊した」
出久の心臓が、強く脈打った。
「何度も、何度も。世界を作り直して、記憶を消して、誰かの名前を奪って。それでも、救えなかった」
少年は自分の手を見つめた。
「最後に僕は、ひとつだけ願った」
「……何を?」
「君に、生きてほしかった」
出久の目から、涙が落ちた。
少年は、静かに続けた。
「君が生きていれば、僕が死んでもいいと思った」
「……」
「でも、それは間違いだった」
少年は顔を上げた。
「僕が死んだら、君は僕を忘れる。君が僕を忘れたら、僕が生きていた証拠も消える。僕が消えたら、君は僕を救えなかったことさえ知らないまま、同じことを繰り返す」
彼は、出久の手を取った。
「だから、君に頼みたい」
出久は、涙を拭うこともできなかった。
「……何を?」
「僕を、殺さないで」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
少年は、続けた。
「僕を救うために、誰かを殺さないで」
「……」
「僕を忘れないために、世界を壊さないで」
「……」
「僕を生かすために、君が死なないで」
少年は、出久の手を握った。
「僕は、君と一緒に生きたい」
出久は、嗚咽を漏らした。
「……僕も」
「うん」
「僕も、君と……」
その瞬間。
少年の身体が、透け始めた。
出久は慌てて手を握りしめた。
「待って! まだ、話したいことがある! 君の名前も、何も知らない! 君が何をしたのか、どうして死んだのか、僕は……!」
「大丈夫」
少年は、穏やかに笑った。
「今度は、君が僕を見つけてくれた」
「……でも!」
「次は、母さんを見つけて」
少年の姿が、さらに薄くなる。
「僕を産んだ母さんを」
出久は、必死に手を伸ばした。
「君のお母さんは、誰なんだよ!」
少年は答えた。
「君が、ずっと知っている人だよ」
「……え?」
「でも、君が知っている母さんは、僕を産んだ母さんじゃない」
少年は、最後に微笑んだ。
「君が母さんと呼んでいる人は、僕が母さんに選んだ人なんだ」
そして。
彼は消えた。
病室の照明が戻る。
心電図が再び動き始める。
午前二時十四分。
時計の針が、一分進んでいた。
出久は、ベッドの上で泣いていた。
誰もいない病室で。
初めて会ったはずの兄のために。
そして。
自分が、何を忘れているのかを知ってしまったために。
5 母親が子どもを選ぶ時
出生管理室。
相澤たちが戻った時、部屋の中央に一人の女性が立っていた。
緑谷引子だった。
「……緑谷?」
相澤が声をかける。
しかし、引子は振り返らなかった。
彼女は、三つのケースを見つめていた。
空になったケース。
消えた毛布。
何も入っていないはずの場所。
そこに、何かを抱くように両腕を広げていた。
「……お母さん?」
お茶子が近づいた。
引子は、ようやく振り返った。
その顔には、涙が流れていた。
「……お茶子ちゃん」
「どうして、ここに?」
「分からないの」
引子は首を振った。
「気づいたら、ここにいたの。誰かに呼ばれたような気がして……」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「ずっと、夢を見ていたの」
「夢?」
「小さな男の子が、泣いている夢」
引子は、言葉を詰まらせた。
「私、その子を抱きしめていたの。何度も、何度も。大丈夫だよって。ここにいるよって。あなたは一人じゃないよって」
お茶子の目が揺れた。
「……その子、どんな子でした?」
「緑色の髪をしていたわ」
引子は、微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「出久に、そっくりだった」
その瞬間。
部屋の奥から、声が聞こえた。
「違います」
全員が振り返った。
白い服の女が、立っていた。
十三年前から時間が止まっているような女。
久志の前に現れた、もう一人の母親。
彼女は引子を見つめていた。
「あなたは、その子を抱きしめていない」
引子は、目を見開いた。
「……あなたは?」
「私は、あの子を産んだ母親です」
女は答えた。
「あなたは、あの子を産んでいない」
引子の表情から、血の気が引いた。
「……そんな」
「あなたは、あの子を選んだだけです」
女の声は、冷たかった。
「私が産んだ子どもを、あなたが選んだ」
引子は、首を振った。
「私は……」
「あなたが選んだ子どもは、緑谷出久ではありません」
女は、一歩近づいた。
「あなたが選んだのは、私の息子です」
引子は、何かを言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
「あなたは、あの子を愛した」
女の声が震えた。
「だから、私はあの子を失った」
「……違う」
引子は、掠れた声で言った。
「私は、誰も奪っていない」
「あなたは、奪ったんです」
「違う!」
引子の叫びが、部屋に響いた。
「私は、あの子を愛しただけ!」
女は黙った。
引子は涙を流しながら続けた。
「私は、あの子が生まれた時、何も知らなかった! あの子が何人いるのかも、誰が死んだのかも、誰が消されたのかも知らなかった!」
彼女は胸を押さえた。
「ただ、あの子が泣いていたから、抱きしめたの!」
その声には、母親の必死さがあった。
「怖かったから。苦しそうだったから。誰も助けてくれないように見えたから。だから、私は……」
引子は、声を詰まらせた。
「私は、あの子に生きてほしかった」
女の顔が歪んだ。
「……私もです」
初めて。
女の声に、怒り以外の感情が混じった。
「私も、あの子に生きてほしかった」
彼女は、胸に手を当てた。
「私も、あの子を抱きしめたかった。名前を呼びたかった。大きくなった姿を見たかった。あの子が初めて歩くところを、初めて笑うところを、初めて誰かを好きになるところを……見たかった」
涙が落ちた。
「でも、あの子は私を選ばなかった」
沈黙。
「……え?」
引子が、顔を上げた。
女は笑った。
ひどく悲しい笑みだった。
「私は、あの子を産みました。でも、あの子は私を母親に選ばなかった」
女は、引子を見つめた。
「あなたを選んだんです」
引子の瞳が揺れた。
「……私を?」
「はい」
女は頷いた。
「あなたなら、あの子を愛してくれると思ったから」
引子は、何も言えなかった。
「私では、あの子を救えなかった」
女は続けた。
「私があの子を抱きしめれば、あの子は私を救おうとする。私が泣けば、あの子は自分を犠牲にする。私が生きていてほしいと言えば、あの子は私のために世界を壊す」
女は、ゆっくりと目を閉じた。
「だから、あの子は私を捨てた」
その言葉は、刃物のように鋭かった。
「そして、あなたを選んだ」
引子の頬を、涙が伝った。
「……どうして、そんなことを」
「あなたなら、あの子に普通の人生を与えられると思ったからです」
女は答えた。
「名前を呼んで。ご飯を作って。学校へ送り出して。失敗したら叱って。泣いたら抱きしめて。誰かを救えなくても、あなたは生きていていいのだと教えてくれると思ったから」
女は、引子の手を取った。
「私は、あなたに嫉妬していました」
引子は、息を止めた。
「あなたがあの子の母親として愛されていることが、羨ましかった。あなたが、あの子の隣で笑っていることが、許せなかった」
女の指が震える。
「でも、それ以上に……」
彼女は泣いた。
「あなたが、あの子を愛してくれたことが、嬉しかった」
引子は、声を上げて泣いた。
二人の母親が、手を取り合っていた。
一人は、子どもを産んだ母親。
もう一人は、子どもに選ばれた母親。
どちらも、子どもを愛していた。
どちらも、子どもを失っていた。
そして、どちらも。
子どもが自分のために死ぬことを、望んではいなかった。
「……あの子は、どこにいるんですか」
引子が尋ねた。
女は答えなかった。
代わりに、部屋の壁に文字が浮かび上がった。
『第一子:所在不明』
『第二子:死亡』
『第三子:生存』
『第四子:統合中』
『第五子:観測継続』
『第零個体:母親選択済み』
最後の行が、赤く染まった。
『母親選択:拒否』
女が顔を上げた。
「……そんな」
引子は、壁を見つめた。
『母親選択:拒否』
「どういうこと……?」
女の顔から、表情が消えた。
「……あの子が」
彼女は、呟いた。
「あの子が、私たちを拒絶した?」
次の瞬間。
壁の文字が、書き換わった。
『訂正』
『母親選択:拒否』
『拒否対象:母親ではない』
『拒否対象:母親を必要とする世界』
引子は、息を呑んだ。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あの子は、まだ世界を許していない」
6 父親は、どこで死んだのか
緑谷久志は、白い部屋にいた。
周囲には、無数の扉がある。
それぞれの扉に、同じ名前が書かれていた。
緑谷出久。
御影出久。
緑谷久志。
そして、名前のない扉。
久志は、一番手前の扉に手を伸ばした。
その向こうから、声が聞こえた。
『お父さん』
久志は手を止めた。
『僕を、殺して』
十三年前に聞いた声。
未来の自分に会う前に聞いた声。
息子が生まれる前に、すでに聞いていた声。
久志は、扉を開けた。
そこには、十三歳の少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
しかし、その目には、まだ何も諦めていない光があった。
「……君が」
久志は、震える声で尋ねた。
「君が、最初の子どもなのか」
少年は答えなかった。
「君が、最初に生まれた……」
「違うよ」
少年が言った。
久志は顔を上げた。
「僕は、最初に生まれた子どもじゃない」
少年は、ゆっくりと首を振った。
「僕は、最初に死んだ子どもだ」
久志は息を止めた。
「……同じことじゃないのか」
「違う」
少年は、はっきりと答えた。
「生まれることと、死ぬことは違う。僕は生まれた。でも、僕が生まれたことを世界が認めなかった」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「だから、僕は死んだことにされた」
久志は、膝をついた。
「……すまない」
少年は首を振った。
「謝らないで」
「私は……」
「お父さんは、僕を殺していない」
少年の声は、優しかった。
「でも、お父さんは、僕を救ってもくれなかった」
久志は、何も言えなかった。
「僕が死んだ時、お父さんはまだ僕のことを知らなかった。僕がいたことも、僕が苦しんでいたことも、僕が誰を救おうとしていたのかも知らなかった」
少年は、扉の向こうを見た。
「だから、お父さんが僕を殺したわけじゃない」
そして。
「僕を殺したのは、僕だよ」
久志は、顔を上げた。
「……何?」
「僕が、僕を殺した」
少年は、静かに言った。
「僕が死ねば、弟が生きられると思った。僕がいなくなれば、母さんが苦しまなくて済むと思った。僕が世界から消えれば、誰も僕を救おうとして死ななくて済むと思った」
彼は、笑った。
「だから、僕は自分を消した」
久志の目から、涙が落ちた。
「……そんなことを、十三歳の子どもが」
「十三歳だったからだよ」
少年は答えた。
「大人になれば、もっと賢くなれたのかもしれない。誰かに相談できたのかもしれない。自分が死ぬ以外の方法を考えられたのかもしれない」
少年は、自分の手を見つめた。
「でも、僕は十三歳だった」
その言葉に、久志は崩れ落ちた。
「……そうだ」
彼は、泣いた。
「そうだ……君は、子どもだった……」
自分が何をしてきたのか。
ようやく、分かり始めていた。
自分は、息子たちを選んだのではない。
息子たちが選ぶしかない状況を、何度も受け入れてきたのだ。
一人を救うために、もう一人を犠牲にする。
一人を残すために、もう一人を消す。
そして、その選択を「愛」と呼んできた。
「……私は、父親になってはいけなかった」
久志は言った。
少年は、首を振った。
「違うよ」
「……」
「お父さんは、父親になりたかったんだ」
少年は、久志に手を差し伸べた。
「だから、間違えたんだよ」
久志は、その手を見つめた。
「……君を抱きしめてもいいのか」
少年は、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「今さら、聞くんだね」
久志は泣きながら、少年を抱きしめた。
少年は、しばらく動かなかった。
やがて、小さな手で、久志の背中に触れた。
「……お父さん」
「ああ」
「僕は、生きたかった」
久志は、息を止めた。
「……ああ」
「僕は、死にたくなかった」
「……ああ」
「僕は、弟と一緒に生きたかった」
久志は、少年を強く抱きしめた。
「……ああ。すまない。すまない……」
少年は、久志の胸に顔を埋めた。
「でも、僕はもう、あの時の僕じゃない」
久志の腕の中で、少年の身体が透け始めた。
「……待て」
久志は、慌てて抱きしめる。
「待ってくれ! まだ……!」
「大丈夫」
少年は言った。
「僕は、もう消えない」
「……何?」
少年は、久志の胸に手を当てた。
「お父さんが、僕を覚えてくれたから」
その瞬間。
久志の胸に、熱が広がった。
忘れていた記憶が戻ってくる。
小さな手。
泣き声。
生まれたばかりの子ども。
自分が知らないはずの、最初の息子。
そして。
その子を抱きしめていた女の姿。
「……君の母親は」
久志は、震える声で尋ねた。
「誰なんだ」
少年は答えた。
「お父さんが、最初に愛した人だよ」
久志の世界が、止まった。
「……そんな人は、いない」
「ううん」
少年は首を振った。
「お父さんは、忘れたんだ」
「私は……」
「お父さんが、僕の母さんを忘れたから、僕は生まれられなくなった」
少年は、久志を見つめた。
「お父さんが、母さんを忘れたから、母さんは僕を産んだことを忘れた」
久志は、頭を抱えた。
「……違う。私は、誰も忘れてなど……」
その時。
久志の頭の中に、ひとつの光景が浮かんだ。
十三年前より、さらに昔。
まだ若かった自分。
小さな病院。
雨の降る夜。
白い服を着た女性。
そして、彼女の腕の中にいた赤ん坊。
久志は、その子を抱きしめていた。
「……名前を、つけてあげたい」
若い久志が言った。
女性は、笑った。
「あなたが決めて」
久志は、赤ん坊の顔を見つめた。
そして、名前を呼んだ。
「……出久」
記憶が、そこで途切れた。
久志は、呆然とした。
「……私は」
少年が、静かに言った。
「お父さんは、僕に名前をくれたんだよ」
「……」
「僕が最初の緑谷出久だった」
少年は微笑んだ。
「でも、お父さんが僕の母さんを忘れた時、僕の名前も、僕の存在も、世界から消えた」
久志は、震える手で顔を覆った。
「……私は、君を」
「うん」
少年は頷いた。
「お父さんは、僕を忘れた」
そして。
少年は、最後にこう告げた。
「でも、僕を忘れたのは、お父さんだけじゃない」
白い部屋の壁が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに、巨大な影があった。
影の中心には、無数の顔が浮かんでいる。
出久。
御影出久。
名もない少年。
何度も世界を作り直した少年。
世界を壊した少年。
そして、まだ生まれていない少年。
全員が、同じ顔をしていた。
全員が、久志を見ていた。
その中の一人が、言った。
『母親も、父親も、子どもも』
『誰も、最初の子どもを覚えていない』
影が笑った。
『だから、最初の子どもは、何度でも生まれる』
久志は、少年を抱きしめたまま叫んだ。
「……やめろ!」
影は答えた。
『父親』
『あなたは、もう一度選ばなければならない』
久志の目の前に、二つの扉が現れた。
一つには、緑谷出久。
もう一つには、御影出久。
その間に、小さな扉があった。
名前がない。
久志は、その扉を見た。
影が告げた。
『今度こそ、最初の子どもを選びなさい』
久志は、少年を抱きしめた。
「……選ばない」
影が沈黙した。
「私は、もう誰も選ばない」
久志は立ち上がった。
「私は、誰かを殺すことで、誰かを救ったことにするのをやめる」
影の顔が、歪んだ。
『それでは、全員が死ぬ』
「ならば、全員を救う方法を探す」
『それでは、世界が壊れる』
「ならば、世界を作り直すんじゃない」
久志は、少年の手を握った。
「世界が間違えたことを、認めさせる」
その瞬間。
白い部屋に、亀裂が走った。
初めて。
世界の方が、怯えた。
7 最初の名前
病室の扉が開いた。
「出久くん!」
お茶子が駆け寄った。
ベッドの上で、出久は泣いていた。
声を殺して。
誰にも気づかれないように。
だが、お茶子はすぐに気づいた。
彼の手が、何かを握りしめている。
「……何を持ってるの?」
出久は、ゆっくりと手を開いた。
そこには、小さな紙片があった。
古びた紙。
赤ん坊の手形。
そして、名前。
『緑谷出久』
お茶子は、息を呑んだ。
「……これ」
「兄さんが、くれたんだ」
出久は、涙を拭った。
「最初の兄さんが」
相澤が、ベッドの傍らに立った。
「緑谷。どこまで覚えている?」
出久は、しばらく考えた。
「……全部じゃないです」
彼は答えた。
「でも、少しだけ」
「何を?」
「僕が生まれる前に、誰かが僕を守ろうとしたこと」
出久は、紙片を見つめた。
「僕が生まれた時、誰かが死んだこと」
「……」
「そして、その人が……」
彼は言葉を詰まらせた。
「その人が、僕のお兄ちゃんだったこと」
お茶子は、彼の手を握った。
出久は、彼女の手を握り返した。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕は、ずっと間違えてた」
彼は言った。
「誰かを救うためには、誰かが犠牲にならなきゃいけないと思ってた」
「……」
「でも、兄さんは違った」
出久の声が震えた。
「兄さんは、僕に生きてほしかった。でも、僕のために死にたかったわけじゃなかった」
彼は、紙片を胸に抱いた。
「兄さんは、僕と一緒に生きたかったんだ」
お茶子は、頷いた。
「うん」
「だから、僕は……」
出久は顔を上げた。
「もう、誰かを犠牲にして生きるのはやめる」
相澤が、静かに尋ねた。
「それが、どれほど難しいことか分かっているか」
「はい」
「お前が何もしなければ、誰かが死ぬかもしれない」
「はい」
「お前が何かをすれば、別の誰かが死ぬかもしれない」
「……はい」
「それでも、選ばないのか」
出久は、目を閉じた。
そして。
「いいえ」
相澤が眉を動かした。
「……いいえ?」
出久は、首を振った。
「僕は、選ばないんじゃありません」
彼は、ゆっくりと目を開いた。
「誰かを死なせることを、最初から正解にしないんです」
沈黙。
相澤は、しばらく出久を見つめていた。
やがて、短く息を吐いた。
「……そうか」
爆豪なら、きっとこう言うだろう。
甘い。
現実を知らない。
そんなことができるはずがない。
しかし、相澤は言わなかった。
ただ、出久の頭に手を置いた。
「なら、最後までやれ」
出久は頷いた。
「はい」
その時。
病室の時計が、午前二時十五分を示した。
二時十三分で止まっていた世界が、さらに二分進んだ。
だが、誰も喜ばなかった。
なぜなら。
時計の針が進むたびに、病室の壁に文字が浮かび上がっていたからだ。
『第一子:確認』
『第二子:確認』
『第三子:確認』
『第四子:確認』
『第五子:確認』
『第零個体:確認』
その下に、新しい文字が現れた。
『母親:確認』
『父親:確認』
『観測者:確認』
『破壊者:確認』
そして。
『最初の子ども:未確認』
出久は、その文字を見つめた。
「……まだ、見つかってないんだ」
相澤が頷いた。
「そうらしいな」
「でも、僕は会いました」
「誰に?」
出久は、胸に手を当てた。
「最初のお兄ちゃんに」
その瞬間。
壁の文字が、激しく点滅した。
『矛盾』
『矛盾』
『矛盾』
『最初の子どもは、存在しない』
『最初の子どもは、緑谷出久である』
『最初の子どもは、緑谷出久ではない』
『最初の子どもは、母親に殺された』
『最初の子どもは、父親に殺された』
『最初の子どもは、自分自身を殺した』
『最初の子どもは――』
すべての文字が消えた。
真っ白な壁に、一行だけが残った。
『最初の子どもは、まだ生まれていない』
出久は、息を止めた。
「……え?」
お茶子が、彼の手を握り直す。
相澤は、壁を睨んでいた。
そして。
病室のスピーカーから、聞き覚えのない声が流れた。
それは、男の声でも、女の声でもなかった。
大人の声でも、子どもの声でもなかった。
世界そのものが、人間の言葉を借りて喋っているような声だった。
『観測を再開します』
『母親が産んだ、最初の子ども』
『出生予定時刻:02時13分』
『出生予定日:未確定』
『母親:未確定』
『父親:未確定』
『名前:緑谷出久』
出久の顔から、血の気が引いた。
「……僕?」
声が続く。
『なお、当該個体の出生を阻止した場合』
『現在の世界に存在する、すべての緑谷出久が消失します』
お茶子が叫んだ。
「待って! どういうこと!?」
スピーカーは、答えない。
ただ、最後の一文だけを繰り返した。
『最初の子どもを、産ませてください』
『最初の子どもを、産ませてください』
『最初の子どもを、産ませてください』
出久は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
そこには、二つの鼓動があった。
自分の鼓動。
そして、もう一つ。
最初の兄の鼓動。
だが、今。
その奥から、さらに別の鼓動が聞こえていた。
三つ目の鼓動。
それは、まだ生まれていない子どものものだった。
出久は、震える声で呟いた。
「……僕の中に、まだ誰かいる」
その瞬間。
世界中の時計が、午前二時十三分を示した。
そして。
誰もいないはずの分娩室で、赤ん坊が泣いた。
一人分の泣き声。
しかし、その泣き声を聞いたすべての人間が、同じ名前を思い浮かべた。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
その名前が、世界中に響いていく。
やがて、泣き声が止まった。
代わりに。
赤ん坊ではない、十三歳の少年の声が聞こえた。
『お母さん』
『お父さん』
『今度は、僕を産んでください』
その声は、泣いていた。
『今度こそ』
『僕を、殺さないで』
そして、最後に。
世界のどこにも存在しないはずの、ひとつの名前が記録された。
『第一子:緑谷出久』
その下に、赤い文字が浮かび上がった。
『出生、開始』