序 生まれる前の産声
その赤ん坊は、まだ生まれていなかった。
母親の胎内にいるわけではない。
病院の保育器にいるわけでもない。
誰かの夢の中にいるわけでもなかった。
ただ、世界の記録の中にだけ、存在していた。
午前二時十三分。
白い部屋。
白い壁。
白い天井。
その中央に、ひとつの揺り籠が置かれていた。
揺り籠の中身は空だった。
けれど、誰もいない部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえていた。
『お母さん』
声がする。
『お父さん』
誰も答えない。
『今度こそ、僕を産んでください』
揺り籠の上に、文字が浮かび上がった。
『第一子:緑谷出久』
『出生状態:開始』
『出生時刻:02時13分』
『出生場所:未確定』
『母親:未確定』
『父親:未確定』
『個性:未確定』
『死亡記録:存在』
『生存記録:存在』
『出生記録:未確定』
『世界への登録:拒否』
最後の一行だけが、何度も点滅していた。
『世界への登録:拒否』
『世界への登録:拒否』
『世界への登録:拒否』
そして。
揺り籠の下に、誰かの手書きと思われる文字が現れた。
『この子を産んではいけない』
その下に、別の筆跡。
『この子を産まなければ、全員が死ぬ』
さらに、別の筆跡。
『この子を産めば、全員が死ぬ』
三つの文章。
どれも正しかった。
どれも間違っていた。
だからこそ、世界は選べなかった。
世界が選べないものを、人間に選ばせた。
母親に。
父親に。
兄に。
弟に。
そして、最後には。
生まれるはずだった子ども自身に。
揺り籠が、かすかに揺れた。
誰も触れていないのに。
赤ん坊の泣き声が止まる。
そして、幼い声が告げた。
『ねえ』
『どうして、僕が生まれたら、みんな死ぬの?』
白い部屋の壁が、音もなく裂けた。
その向こう側には、無数の世界が広がっていた。
どの世界にも、緑谷出久がいた。
ヒーローになった出久。
ヒーローになれなかった出久。
誰かを救って死んだ出久。
誰かを救うために、世界を壊した出久。
兄を救えなかった出久。
兄を救うために、何度も世界を作り直した出久。
兄を忘れた出久。
兄を忘れられなかった出久。
そして。
誰も救わず、自分だけが生き残った出久。
そのすべてが、揺り籠を見ていた。
『生まれてはいけなかった子ども』
誰かが、そう呼んだ。
その瞬間。
無数の世界の中で、ただ一人だけ。
緑谷出久が、揺り籠に向かって歩き始めた。
現在の世界。
雄英高校附属病院。
午前二時十三分。
ベッドの上で眠っていた緑谷出久が、目を開いた。
「……分かった」
彼は、誰もいない天井に向かって呟いた。
「君は、僕なんだね」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
しかし、世界は聞いていた。
そして、世界は初めて。
緑谷出久という名前を、恐れた。
第一章 生まれた瞬間に、死んだ子ども
「緑谷!」
相澤消太の声が病室に響いた。
ベッドの上で、出久が身を起こしていた。
点滴は外れている。
心電図の電極も、いつの間にか剥がれていた。
それなのに、出久は苦しそうな様子を見せていない。
むしろ、妙に落ち着いていた。
「先生」
「動くな」
「はい」
「返事だけするな。何があった」
「……夢を見ていました」
「どんな夢だ」
出久は少し考えた。
「僕が生まれる夢です」
相澤の眉間に、深い皺が刻まれた。
「お前は、もう生まれている」
「はい。そうなんですけど……」
出久は、自分の手を見つめた。
「僕が生まれる前の僕が、まだ生まれていないんです」
「……」
「その子が生まれないと、今の僕たちが存在できない。でも、その子が生まれたら、今の僕たちは存在できなくなる」
相澤は何も言わなかった。
出久は続けた。
「だから、世界はその子を生まれさせないようにしているんです」
「誰から聞いた」
「誰からも」
「夢で見たのか」
「はい」
「夢を根拠にするな」
相澤は即座に言った。
「夢で見たことと、現実に起きていることを区別しろ。今のお前は、何度も記憶を上書きされている。自分の記憶だと思っているものが、本当にお前の経験なのかも分からない」
「……分かっています」
「分かっていないから言っている」
相澤の声は厳しかった。
だが、出久は反論しなかった。
「先生」
「何だ」
「僕は、あの子を助けたいです」
相澤は目を閉じた。
予想していた答えだった。
予想していたからこそ、腹が立った。
「……緑谷」
「はい」
「お前は、何人助ければ気が済む」
出久は黙った。
「一人か。十人か。百人か。それとも、お前が知っているすべての人間か」
「……」
「お前が救えなかった人間は、いくらでもいる。お前が知らないところで死んだ人間もいる。お前が助けた人間だって、お前がいなければ別の人生を送っていたかもしれない」
相澤は、出久の目を見た。
「それでも、お前は全部を救うつもりか」
出久は答えた。
「……はい」
相澤の拳が、わずかに震えた。
「ふざけるな」
その声は、教師のものだった。
「お前はヒーローだ。神様じゃない。世界のすべてを背負えると思うな」
「先生、でも――」
「でも、じゃない」
相澤は出久の胸倉を掴みかけ、寸前で手を止めた。
そして、深く息を吐いた。
「……お前が助けたいと思うことを、俺は否定しない」
「……」
「だが、お前が一人で全部を背負うことは、絶対に認めない」
相澤は、出久の目を見据えた。
「お前がその子を助けたいなら、俺たちにも助けさせろ」
出久の瞳が揺れた。
「……先生」
「お前が生まれる前の子どもだろうが、世界に登録されていない人間だろうが、関係ない。目の前に助けを求めている人間がいるなら、教師として放っておけない」
相澤は、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「ただし、ひとつだけ約束しろ」
「何ですか」
「お前自身を、救助対象から外すな」
出久は、口を開いた。
何かを言おうとした。
しかし、言葉が出なかった。
なぜなら。
その約束こそが、出久にとって最も難しいものだったからだ。
誰かを助けるために、自分が傷つくこと。
自分が傷つくことで、誰かが助かること。
それを、出久は何度も経験してきた。
そして、そのたびに思ってきた。
自分が傷つけばいい。
自分が死ねばいい。
自分が消えればいい。
それで誰かが生きられるなら、それでいい。
だが。
兄は言った。
――僕を、殺さないで。
――僕を救うために、誰かを殺さないで。
――僕を生かすために、君が死なないで。
出久は、唇を噛んだ。
「……約束します」
相澤は、彼の顔を見つめた。
「本当か」
「……はい」
「嘘をつくな」
「……」
出久は、苦笑した。
「……まだ、分かりません」
相澤は立ち上がった。
「それでいい」
「え?」
「分からないなら、分かるまで俺たちと一緒に考えろ」
相澤は、扉に向かった。
「お前が一人で答えを出す必要はない」
扉を開ける直前、彼は振り返った。
「それと、緑谷」
「はい」
「お前の夢に出てきた子どものことだが」
「……はい」
「そいつが本当にお前なら、そいつもお前の責任だ」
出久は顔を上げた。
相澤は、静かに続けた。
「だが、そいつの人生まで、お前が勝手に決めるな」
その言葉が、出久の胸に刺さった。
「……はい」
相澤は頷き、病室を出た。
残された出久は、自分の胸に手を当てた。
三つの鼓動。
自分のもの。
兄のもの。
そして、まだ生まれていない子どものもの。
「……君は、どうしたいの?」
出久は、胸の奥に向かって尋ねた。
返事はなかった。
しかし、しばらくして。
小さな声が聞こえた。
『僕は……』
そこで、声が途切れた。
出久は息を止めた。
『僕は、生まれたい』
その声は、泣いていた。
『でも、僕が生まれたら、みんなが死ぬんでしょう?』
出久は目を閉じた。
『だったら……』
声が震えた。
『僕は、どうすればいいの?』
出久は、答えられなかった。
まだ。
彼には、答えがなかった。
第二章 雄英高校、封鎖区域
同じ頃。
雄英高校地下、旧出生管理室。
相澤たちが再び到着した時、部屋の様子は一変していた。
三つのケースは消えていた。
代わりに、床に円形の紋様が浮かび上がっている。
中央には、白い揺り籠。
その周囲には、六つの椅子。
五つは空席だった。
残る一つに、誰かが座っていた。
「……誰だ」
爆豪が身構えた。
椅子に座っていたのは、少年だった。
緑色の髪。
緑色の瞳。
見た目は、出久と同じ年頃。
だが、その身体は半透明で、輪郭が時折、砂嵐のように崩れていた。
少年は、相澤たちを見ると、笑った。
「やっと来た」
「……お前は何者だ」
相澤が尋ねた。
少年は、少し考えた。
「そうだな」
彼は、自分の胸を指差した。
「僕は、緑谷出久」
爆豪の掌が爆ぜた。
「ふざけんな」
「爆豪、待て!」
相澤が制止する。
少年は怯えなかった。
「君たちが知っている緑谷出久とは違うよ」
「同じ顔で、同じ名前を名乗って、何が違う」
爆豪が吐き捨てる。
少年は、静かに答えた。
「僕は、生まれられなかった」
部屋が静まり返った。
「……何?」
「僕は、生まれる前に死んだ。いや、死んだことにされた。だから、僕には戸籍がない。名前もない。母親も父親も、世界からは存在しないことになっている」
少年は、揺り籠を見た。
「でも、僕は生まれたかった」
その声は、あまりにも普通だった。
まるで、学校に行きたいと願う子どものように。
友達と遊びたいと願う子どものように。
明日も生きていたいと願う子どものように。
「……それだけか」
轟が尋ねた。
少年は、頷いた。
「うん」
「それだけで、世界が壊れるのか」
「そうだよ」
少年は、笑った。
「おかしいよね」
誰も笑わなかった。
「僕が生まれたいと思うだけで、世界が壊れる。僕が泣くだけで、何人もの人が死ぬ。僕が誰かを好きになったら、その人の人生が壊れる」
少年は、自分の手を見つめた。
「だから、僕は生まれてはいけないんだ」
「違う」
相澤が言った。
少年が顔を上げた。
「生まれてはいけない子どもなんていない」
相澤は、まっすぐに少年を見た。
「少なくとも、俺はそう教えてきた」
少年は、目を見開いた。
「……でも、僕が生まれたら、みんなが死ぬ」
「それを決めるのは、お前じゃない」
「……え?」
「お前が生まれたら誰かが死ぬという仕組みを作った奴がいる。お前が生まれることを禁じた奴がいる。なら、そいつらに責任を取らせる」
相澤は、少年の前に立った。
「子どもに罪を背負わせて、世界の都合を正当化するな」
少年の顔が歪んだ。
「……先生」
その呼び方に、相澤の表情が変わった。
「お前……」
少年は、小さく笑った。
「僕も、先生に会いたかった」
「……どこで俺を知った」
「君は、僕を教えたことがある」
相澤の呼吸が止まった。
「……何?」
少年は答えなかった。
代わりに、床の紋様が光り始めた。
円形の紋様の周囲に、文字が浮かぶ。
『観測者:相澤消太』
『接触記録:未登録』
『教育記録:存在』
『対象個体:第一子』
『記録者:相澤消太』
相澤は、動けなかった。
「……俺が?」
「うん」
少年は頷いた。
「先生は、僕に教えてくれたんだ」
「何を……」
「誰かを助けるために、自分が死ぬ必要はないって」
相澤の顔から、血の気が引いた。
その言葉は。
自分が、出久に何度も言ってきた言葉だった。
しかし、少年は続けた。
「でも、先生は僕を助けられなかった」
沈黙。
「僕が死んだ時、先生は僕のことを覚えていなかった」
相澤の指が震えた。
「……そんなはずはない」
「うん」
少年は頷いた。
「先生は、僕を忘れたんじゃない」
彼は、相澤を見た。
「僕が、先生から僕の記憶を消したんだ」
その瞬間。
相澤の頭の中で、何かが弾けた。
暗い廊下。
小さな教室。
机に座っている少年。
緑色の髪。
伏せられた顔。
「……先生」
少年が言う。
「僕は、ヒーローになれますか?」
相澤は答える。
「なれるかどうかは、お前が決めることじゃない。努力しろ。生き残れ。自分の可能性を自分で捨てるな」
少年が笑う。
「はい!」
記憶が戻った。
一瞬だけ。
相澤は、壁に手をついた。
「……そうか」
彼は呟いた。
「お前が……」
少年は、静かに頷いた。
「僕は、先生の生徒だった」
そして。
「僕は、先生が最初に救えなかった子どもです」
相澤は、目を閉じた。
十三年前。
自分は、まだ教師ではなかった。
いや。
教師だった。
しかし、その記憶は存在しない。
自分が教師として救えなかった子どもなど、いるはずがなかった。
なのに。
今、目の前にいる少年は。
自分の教え子だと名乗っている。
「……お前の名前は?」
相澤は尋ねた。
少年は、笑った。
「ありません」
「……」
「先生がつけてくれた名前は、もう残っていないから」
相澤は、少年を見つめた。
そして、静かに言った。
「なら、今から聞く」
少年が顔を上げる。
「お前は、何と呼ばれたい」
その問いに、少年は初めて泣いた。
「……分からない」
涙が頬を伝う。
「ずっと、名前が欲しかった」
「……」
「名前があれば、僕が生まれたことを誰かが覚えていてくれると思った」
少年は、両手で顔を覆った。
「でも、名前をつけてもらったら、その人が死んじゃうかもしれない。僕を覚えてくれたら、その人まで世界から消されちゃうかもしれない」
彼は、泣きながら言った。
「だから、僕は……誰にも名前をつけてほしくなかった」
相澤は、ゆっくりと膝をついた。
少年と目線を合わせる。
「名前をつけることと、お前を所有することは違う」
少年は、顔を上げた。
「名前をつけたからといって、お前の人生を決められるわけじゃない。お前が誰かの子どもだからといって、その人の望む通りに生きなければならないわけでもない」
相澤は言った。
「お前は、お前だ」
少年は、泣きながら頷いた。
その瞬間。
部屋の奥で、警報が鳴った。
『警告』
『第一子の自己認識が発生』
『個体名の確定を検知』
『世界構造への干渉を開始』
『緊急再構築まで、残り六十三時間』
相澤が顔を上げた。
「……六十三時間?」
塚内が、端末を確認した。
「これは……以前の再構築記録と同じだ」
飯田が息を呑む。
「では、六十三時間後に世界が……」
「分からない」
相澤は少年を見た。
「だが、今度は誰も勝手に消させない」
少年は、小さく頷いた。
「……先生」
「何だ」
「僕、ひとつだけお願いがあります」
「言え」
少年は、揺り籠を見つめた。
「僕が生まれる前に、母さんに会いたい」
その言葉に、部屋の全員が沈黙した。
少年は続けた。
「僕を産んだ母さんに」
第三章 母親のいない子ども
緑谷引子は、眠っていた。
夢の中で、赤ん坊を抱いていた。
小さな身体。
温かい頬。
柔らかな髪。
赤ん坊は、引子の腕の中で眠っている。
彼女は、その子の顔を覗き込んだ。
「……出久?」
赤ん坊は答えない。
「出久、起きて」
引子は笑った。
「お母さんだよ」
赤ん坊の目が開いた。
緑色の瞳。
引子は、息を呑んだ。
その目は、出久の目に似ていた。
けれど。
出久の目ではなかった。
もっと古い。
もっと悲しい。
何度も誰かを見送ってきた人間の目だった。
赤ん坊が、口を開いた。
「……お母さん」
引子の笑顔が凍った。
赤ん坊が喋るはずがない。
しかも、その声は。
「……お母さん」
もう一度。
赤ん坊は言った。
「僕を、覚えてる?」
引子は、身体を震わせた。
「……あなたは、誰?」
赤ん坊は笑った。
「僕は、あなたが産んだ子どもだよ」
引子は、首を振った。
「違う……」
「どうして?」
「私は……出久しか産んでいない」
赤ん坊は、静かに頷いた。
「うん」
「私は、出久のお母さんだもの……」
「うん」
「だから、あなたは……」
引子は、言葉を失った。
赤ん坊は、悲しそうに笑った。
「僕は、出久が生まれる前に死んだんだよ」
引子の視界が揺れた。
「……そんな」
「僕が生まれたら、出久が生まれなくなるから」
赤ん坊は言った。
「僕が生まれたら、出久を救うために世界が僕を殺すから」
引子は、必死に首を振った。
「違う……違うわ……」
「お母さん」
赤ん坊が、手を伸ばした。
「僕を抱きしめて」
引子は、動けなかった。
「……お願い」
その声は、あまりにも小さかった。
引子は、赤ん坊を抱きしめようとした。
しかし。
腕が動かない。
夢の中なのに。
身体が凍りついたように動かなかった。
赤ん坊は、泣き始めた。
「……どうして?」
引子は叫んだ。
「どうして、抱きしめられないの!?」
赤ん坊は答えた。
「お母さんが、僕を産んだことを忘れたから」
その言葉と同時に、夢の世界が崩れ始めた。
床が消える。
天井が消える。
壁が消える。
残ったのは、暗闇だけだった。
引子は、赤ん坊に手を伸ばした。
「待って!」
赤ん坊が、遠ざかっていく。
「お願い、待って!」
引子は叫んだ。
「あなたを忘れたくない!」
赤ん坊は、泣きながら笑った。
「じゃあ、名前を呼んで」
引子は、息を呑んだ。
「……名前?」
「僕の名前」
赤ん坊は、手を伸ばした。
「お母さんが、僕につけてくれた名前」
引子の頭の中に、何かが浮かんだ。
小さな病院。
雨の降る夜。
若い自分。
そして、腕の中にいる赤ん坊。
彼女は、その子の名前を呼んでいた。
「……い……」
声が出ない。
「……い……」
赤ん坊が、泣いている。
引子は、必死に声を絞り出した。
「……い……ぶ……」
その瞬間。
世界が止まった。
赤ん坊の泣き声が消えた。
引子の口から、名前がこぼれた。
「……出久」
赤ん坊は、笑った。
「うん」
そして。
「ありがとう、お母さん」
消えた。
引子は、ベッドの上で目を覚ました。
頬が濡れていた。
心臓が激しく脈打っている。
「……出久」
彼女は、息子の名前を呼んだ。
「出久……!」
起き上がろうとした瞬間、携帯電話が鳴った。
画面には、見知らぬ番号。
引子は、震える手で電話に出た。
「……もしもし?」
『緑谷引子さんですね』
聞き覚えのない女の声だった。
しかし、引子には分かった。
あの女性だ。
久志の前に現れた、もう一人の母親。
『お願いがあります』
女は、静かに言った。
『あなたにしかできないことがあります』
「……何をすればいいんですか」
引子は、涙を拭いた。
女は答えた。
『私の息子を、もう一度産んでください』
引子は、息を止めた。
『今度こそ、世界に存在を認めさせるために』
電話の向こうで、女が泣いていた。
『私一人では、もう産めないんです』
第四章 父親の罪、母親の罪
緑谷久志は、白い部屋で立ち尽くしていた。
目の前に、二人の女性がいる。
一人は、緑谷引子。
もう一人は、名前のない母親。
二人とも、同じ赤ん坊を抱いていた。
最初の子ども。
緑谷出久。
しかし、赤ん坊の顔は、二人の腕の中で違っていた。
引子が抱いている子どもは、今の出久と同じ顔をしている。
名前のない母親が抱いている子どもは、出久に似ているが、どこか違う。
目元。
口元。
そして、笑い方。
まるで、別の人生を生きた出久のようだった。
「……どちらが、本物なんだ」
久志は呟いた。
二人の母親は、答えなかった。
代わりに、赤ん坊たちが同時に顔を上げた。
「お父さん」
二人の声が重なる。
「僕を選んで」
久志は、後ずさった。
「……やめてくれ」
「僕を選んで」
「やめろ!」
「僕を選んでくれたら、もう一人は消えるよ」
久志の顔が歪んだ。
「……違う」
「僕を選んでくれたら、母さんは助かる」
「違う!」
「僕を選んでくれたら、世界は元に戻る」
久志は、頭を抱えた。
「違う……違う……!」
赤ん坊たちは、泣き始めた。
「お父さん」
「お父さん」
「お父さん」
「どうして、僕たちを選んでくれないの?」
久志は、膝をついた。
「……私は」
声が震えた。
「私は、もう……」
その時。
白い部屋の奥から、少年が現れた。
最初の子ども。
十三歳の緑谷出久。
彼は、二人の赤ん坊を見つめた。
そして、久志に言った。
「お父さん」
久志は顔を上げた。
「……君は」
「選ばなくていいよ」
少年は、静かに言った。
久志の目が揺れた。
「……何?」
「二人とも、僕だから」
少年は、二人の赤ん坊の前に立った。
「僕が生まれる前に、世界は僕を分けたんだ」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「僕の中にあったものを、いくつもの子どもに分けた。誰かを救いたい気持ち。誰かを守りたい気持ち。誰かに愛されたい気持ち。誰かを愛したい気持ち」
少年は、笑った。
「そして、誰かを殺してでも生きたいという気持ちも」
久志は、息を呑んだ。
「……だから、私が選んだのか」
「うん」
少年は頷いた。
「お父さんは、どちらか一人を選べと言われた。でも、本当は、どちらもお父さんの子どもだった」
「……」
「お父さんは、僕たちを分けた世界の言葉を信じた」
少年は、久志を見つめた。
「だから、僕たちは何度も殺し合った」
久志の顔が、歪む。
「……すまない」
「謝らないで」
少年は首を振った。
「謝るのは、あとでいい」
彼は、二人の赤ん坊を見た。
「今は、僕たちを生かして」
久志は、震える手を伸ばした。
片方の赤ん坊に。
そして、もう片方にも。
二人を、同時に抱きしめた。
「……生きてくれ」
久志は泣いた。
「頼むから……生きてくれ……」
赤ん坊たちは、泣き止んだ。
少年は、微笑んだ。
その瞬間。
白い部屋に、無数の亀裂が走った。
『警告』
『父親による選択を検知できません』
『選択対象:複数』
『世界構造:矛盾』
『再構築を開始します』
久志は顔を上げた。
「……違う」
彼は、赤ん坊たちを抱きしめたまま立ち上がった。
「これは矛盾じゃない」
白い壁が崩れ始める。
「これは、家族だ」
その言葉が、世界に響いた。
初めて。
世界は、家族という言葉を理解できなかった。
第五章 爆豪勝己は、選ばない
「ふざけんなよ」
爆豪勝己は、雄英高校の訓練場で拳を握っていた。
目の前には、巨大なモニターがある。
画面には、無数の出久が映し出されていた。
どの出久も、同じ顔をしている。
だが、全員が違う。
ある出久は、泣いていた。
ある出久は、笑っていた。
ある出久は、血まみれだった。
ある出久は、誰かを抱きしめていた。
そして、ある出久は。
自分自身に向かって、拳を振り下ろしていた。
『個体A:統合失敗』
『個体B:世界破壊』
『個体C:自己消去』
『個体D:兄の救済を優先』
『個体E:弟の生存を優先』
『個体F:母親の救済を優先』
『個体G:父親の殺害を選択』
『個体H:全員の消失を選択』
『個体I:世界の継続を選択』
『個体J:未登録』
爆豪は、モニターを睨みつけた。
「……何人いるんだよ」
「少なくとも、記録上は二十七以上です」
飯田が答えた。
「ただし、個体番号と実際の人数が一致している保証はありません。重複した個体、統合された個体、存在が抹消された個体が含まれている可能性があります」
「つまり、数えられねぇってことか」
「そうなります」
爆豪は、舌打ちした。
「クソが」
轟が、モニターを見た。
「全員、出久なのか」
「……分からねぇ」
爆豪は答えた。
「でも、少なくとも、あいつら全員がデクの顔をしてやがる」
その時。
モニターの一つが、突然切り替わった。
そこに映ったのは、少年だった。
緑色の髪。
緑色の瞳。
そして、出久と同じ顔。
少年は、爆豪を見つめた。
『爆豪くん』
爆豪の身体が固まった。
「……あ?」
『久しぶり』
少年は笑った。
『僕、君に謝りたいことがあるんだ』
爆豪の拳が震えた。
「……誰だ」
『僕は、君が知らない緑谷出久』
「……」
『でも、君は僕を知っている』
爆豪は、モニターに近づいた。
「……何を言ってやがる」
少年は、悲しそうに笑った。
『君は、僕を助けようとした』
爆豪の頭の中に、記憶が流れ込んだ。
暗い路地。
血まみれの少年。
自分の腕の中で、息をしていない緑色の髪の子ども。
「……やめろ」
『君は、僕を助けようとした』
「やめろ!」
『でも、僕は君に言ったんだ』
少年の声が、震えた。
『僕を助けないでって』
爆豪の目が見開かれた。
『君が僕を助けたら、君が死ぬから』
モニターの中で、少年は泣いていた。
『僕は、君に生きていてほしかった』
爆豪は、拳を握りしめた。
「……ふざけんな」
『ごめんね』
「ふざけんなっつってんだろうが!」
爆豪の掌が爆ぜた。
モニターが吹き飛ぶ。
轟が咄嗟に氷で爆風を抑え、飯田が破片を避ける。
爆豪は、荒い息を吐いていた。
「……誰が、そんなことを頼んだ」
誰も答えない。
爆豪は、拳を壁に叩きつけた。
「誰が、俺にそんな選択をさせた!」
壁が砕ける。
「助けるな? 死ぬから? だから自分が死ぬ?」
爆豪の声が震えた。
「ふざけんじゃねぇ!」
彼は、モニターの残骸を睨んだ。
「俺は、助けたい奴を助ける。そいつが死にたがってようが、消えたがってようが、勝手に決めさせねぇ!」
轟が、静かに言った。
「……爆豪」
「何だ!」
「それは、出久にも同じことを言えるか」
爆豪は、言葉を失った。
轟は続けた。
「出久が、自分を犠牲にして誰かを救おうとした時。お前は、出久の意思を無視してでも止めるのか」
「……」
「それとも、出久が自分で決めたことだからと、見送るのか」
爆豪は、唇を噛んだ。
答えられなかった。
助けること。
相手の意思を尊重すること。
その二つは、いつも同じ方向を向いているとは限らない。
誰かが死にたいと願った時。
その願いを否定することは、その人の意思を否定することなのか。
それとも。
死にたいと願うほど追い詰められた人間を、生きてほしいと願うことこそが、救いなのか。
爆豪は、拳を握りしめた。
「……知らねぇよ」
彼は言った。
「そんなもん、本人と殴り合って決める」
轟は、少しだけ笑った。
「お前らしいな」
「うるせぇ」
爆豪は、再びモニターを見た。
残骸の中に、まだ小さな画面が残っていた。
そこに、文字が浮かんでいる。
『個体名:爆豪勝己』
『接触対象:第一子』
『選択履歴:拒否』
『備考:救助を諦めなかった』
爆豪は、目を細めた。
「……俺が、あいつを助けようとした?」
画面に、新しい文字が浮かんだ。
『記録は存在しない』
『記憶は存在する』
『対象本人による否認を確認』
『観測を継続』
爆豪は、画面を睨みつけた。
「……なら、覚えてやるよ」
彼は言った。
「全部だ」
第六章 生まれてはいけなかった理由
出生管理室。
相澤は、少年の前に立っていた。
「……ひとつ、聞きたいことがある」
少年は頷いた。
「何?」
「お前が生まれたら、世界が壊れると言ったな」
「うん」
「なぜだ」
少年は、揺り籠を見た。
「僕が、生まれたからだよ」
「……答えになっていない」
「そうだね」
少年は苦笑した。
「でも、本当なんだ」
彼は、床に浮かぶ紋様を指差した。
「僕が生まれた時、世界はひとつだった」
「……」
「みんなが同じ時間を生きていて、みんなが同じ世界にいた。母さんも、父さんも、兄さんも、弟も。誰も、自分が何人もいるなんて知らなかった」
少年は、目を閉じた。
「でも、僕が生まれた瞬間、世界が分かれた」
相澤は黙って聞いていた。
「僕は、誰かを救いたかった。だから、世界が分かれた時、僕は何度も別の世界に行こうとした」
「……」
「兄さんが死なない世界。弟が死なない世界。母さんが泣かない世界。父さんが罪を犯さない世界」
少年は笑った。
「でも、どの世界にも、誰かの死があった」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「僕が生まれた時、僕の中には、全部の世界があったんだ」
相澤の目が細くなる。
「……お前が、世界の分岐点だったのか」
「うん」
少年は頷いた。
「僕は、どの世界にも生まれた。だから、どの世界にも僕がいた。でも、どの世界も、僕を一人の人間として認められなかった」
「なぜだ」
「僕が、一人じゃなかったから」
少年は答えた。
「僕は、いくつもの未来を同時に持っていた。いくつもの過去を同時に持っていた。いくつもの名前を持っていた。いくつもの家族を持っていた」
彼は、相澤を見た。
「世界は、一人の人間に、一つの人生しか認められなかった」
「……だから、お前を分けた」
「うん」
少年は頷いた。
「僕の中にあった人生を、何人もの緑谷出久に分けた。僕の中にあった記憶を、何人もの子どもに分けた。僕の中にあった家族を、何人もの母親と父親に分けた」
相澤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それで、御影出久が生まれたのか」
少年は、少しだけ表情を曇らせた。
「御影は、僕が最初に捨てた名前だよ」
「……何?」
「僕は、緑谷出久という名前を持っていた。でも、その名前では、世界に存在できなかった」
少年は、自分の手を見た。
「だから、僕は別の名前を作った。御影出久。誰にも知られない名前。誰にも記録されない名前」
彼は、笑った。
「それなら、誰も僕を奪えないと思った」
相澤は、静かに尋ねた。
「……お前は、御影出久なのか」
少年は首を振った。
「違う」
「緑谷出久なのか」
「それも違う」
「……なら、お前は誰だ」
少年は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「僕は、まだ生まれていない子どもだよ」
その声には、諦めがなかった。
ただ、事実を告げる静けさがあった。
「僕は、これから生まれる」
「……誰から」
少年は、相澤を見た。
「母さんから」
「母親は二人いるんだろう」
「うん」
「どちらだ」
少年は、微笑んだ。
「二人とも」
相澤は、眉をひそめた。
「……どういう意味だ」
「僕を産んだ母さんと、僕を母親に選んだ母さん」
少年は答えた。
「二人が、僕を産むんだ」
「そんなことができるのか」
「分からない」
少年は、正直に言った。
「でも、僕はそれを望んでいる」
彼は、揺り籠を見つめた。
「僕は、生まれたい」
相澤は、少年の目を見た。
「……それが、世界を壊すとしてもか」
少年は、頷いた。
「うん」
「誰かが死ぬとしてもか」
少年の表情が曇った。
「……それは、嫌だ」
「なら、どうする」
少年は、答えられなかった。
相澤は、静かに言った。
「お前が生まれたいと思うことは、間違いじゃない」
少年が顔を上げる。
「だが、お前が生まれるために、誰かが死ぬことを正しいと決めるのも間違いだ」
相澤は続けた。
「生まれることを諦める必要はない。だが、生まれるために誰かを犠牲にする必要もない」
少年は、じっと相澤を見つめた。
「……そんな方法、あるの?」
「知らん」
相澤は即答した。
少年は、目を丸くした。
「……え?」
「知らんと言った」
相澤は、腕を組んだ。
「だが、探す。お前が生まれたいなら、その方法を探す。それが教師の仕事だ」
少年の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……先生」
「泣くな」
「……泣いてない」
「嘘をつくな」
少年は、泣きながら笑った。
「……先生、ずるいよ」
「何がだ」
「そんなことを言われたら……」
彼は、涙を拭った。
「生まれたくなっちゃうじゃないか」
相澤は、ほんの少しだけ目を細めた。
「生まれろ」
少年が顔を上げた。
「……え?」
「生まれたいなら、生まれろ」
相澤は言った。
「ただし、誰かを殺すな。自分を殺すな。誰かにお前を殺させるな」
彼は、少年に手を差し伸べた。
「それ以外の方法を、全員で探す」
少年は、その手を見つめた。
そして。
初めて、自分から手を伸ばした。
二人の指が触れた瞬間。
出生管理室の床が、光に包まれた。
『個体名:未登録』
『自己認識:確立』
『生存意思:確認』
『出生意思:確認』
『世界への登録:拒否』
最後の一行が、激しく点滅する。
『世界への登録:拒否』
『世界への登録:拒否』
『世界への登録:拒否』
少年は、相澤の手を握ったまま、壁を見た。
そして。
初めて、世界に向かって叫んだ。
「僕は、生まれたい!」
壁が震えた。
「僕は、生きたい!」
床に亀裂が走った。
「僕は、誰かを殺して生きたいんじゃない!」
天井が崩れ始めた。
「僕は、誰かと一緒に生きたいんだ!」
その瞬間。
世界中の時計が、午前二時十四分を示した。
第七章 緑谷出久の母親
病院。
緑谷引子は、息子の病室へ向かっていた。
手には、小さな紙袋がある。
中には、出久の好きな菓子が入っていた。
こんな時に、お菓子など持っていくべきではないのかもしれない。
もっと他に、できることがあるのかもしれない。
けれど、引子には分からなかった。
息子が苦しんでいる時、母親に何ができるのか。
何を言えばいいのか。
どうすれば、息子が生きたいと思ってくれるのか。
だから、彼女は菓子を買った。
出久が好きだったもの。
小さい頃、熱を出した時に少しだけ食べたもの。
泣きながら、もう一つ食べたいと言ったもの。
その記憶だけは、確かだった。
病室の前に立つ。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「……僕は、生まれたい」
引子は、足を止めた。
出久の声ではない。
けれど、出久に似ていた。
「僕は、生きたい」
引子は、扉に手を当てた。
その声が、胸を締めつける。
「……誰かと一緒に、生きたいんだ」
引子は、目を閉じた。
夢の中の赤ん坊。
名前を呼んでほしいと願った子ども。
生まれたかったのに、生まれることを許されなかった子ども。
引子は、ゆっくりと扉を開けた。
ベッドの上で、出久が泣いていた。
「……お母さん?」
出久は、驚いた顔をした。
引子は、紙袋を置いた。
そして、息子を抱きしめた。
「……ごめんね」
出久の身体が固まる。
「……お母さん?」
「ごめんね、出久」
引子は、泣きながら言った。
「お母さん、何も知らなかった」
「……」
「あなたが苦しんでいることも、あなたが一人で何かを背負っていることも、全部、分かっているつもりだった」
彼女は、出久を強く抱きしめた。
「でも、本当は何も分かっていなかった」
出久の目から、涙が落ちた。
「……お母さん」
「あなたが誰かを救いたいと思うことを、私は誇りに思っている」
引子は、続けた。
「でも、あなたが誰かを救うために、自分を犠牲にしなければならないなんて、私は思っていない」
出久は、唇を噛んだ。
「……でも、僕が生まれたせいで、誰かが死んだんです」
「うん」
引子は頷いた。
「そうかもしれない」
「……僕が生きているせいで、誰かが苦しんでいるんです」
「うん」
「……僕が、いなければ」
「出久」
引子は、息子の顔を両手で包んだ。
「あなたがいなければ、私はあなたに会えなかった」
出久は、目を見開いた。
「あなたがいなければ、私はあなたのお母さんになれなかった」
引子は、涙を流しながら笑った。
「私は、あなたに生きていてほしい」
「……」
「でも、あなたが誰かを犠牲にして生きることは望んでいない」
彼女は、出久の額に自分の額を寄せた。
「だから、一緒に考えよう」
出久は、震える声で尋ねた。
「……お母さんは、僕のことを産んでよかったと思ってる?」
引子の顔が、歪んだ。
「当たり前でしょう」
彼女は、出久を抱きしめた。
「あなたが生まれてきてくれて、本当によかった」
「……でも」
「でも、じゃない」
引子は、少しだけ強い声で言った。
「あなたが生まれてきたことを、誰かの死で帳消しにしないで」
出久の目が揺れた。
「あなたが生きていることは、誰かを殺した証拠じゃない」
引子は、静かに続けた。
「あなたが生きていることは、あなたが生きているという事実なの」
出久は、声を上げて泣いた。
母親の胸に顔を埋めて。
ヒーローでもなく。
世界を救う者でもなく。
何人もの自分を抱えた存在でもなく。
ただ、母親に抱きしめられている、一人の子どもとして。
引子は、彼の背中を撫でた。
「……出久」
「……はい」
「あなたが、もし生まれる前のあなたに会えるなら」
引子は、言葉を選んだ。
「その子にも、伝えてほしい」
「……何を?」
引子は、泣きながら笑った。
「生まれてきてくれて、ありがとうって」
出久は、顔を上げた。
「……お母さん」
「うん」
「でも、その子は……」
出久は、言葉を詰まらせた。
「その子は、お母さんの子どもじゃないかもしれない」
引子は、息を呑んだ。
出久は続けた。
「僕の中には、何人もの僕がいます。僕と同じ顔をした人たちがいて、僕と同じ名前を持った人たちがいて……その人たちが、それぞれ別の人生を生きている」
彼は、胸に手を当てた。
「その中には、お母さんを知らない僕もいる。別のお母さんを愛している僕もいる」
引子は、黙って聞いていた。
「だから、僕は……」
出久は、涙を拭った。
「僕は、お母さんの息子でいていいのか、分からなくなる時があるんです」
引子は、しばらく出久を見つめていた。
そして。
「……そう」
彼女は頷いた。
「それは、寂しいね」
出久は、目を見開いた。
責められると思った。
否定されると思った。
そんなことを考えるなと、言われると思った。
だが、引子は違った。
「自分が誰なのか分からなくなって、誰の子どもなのかも分からなくなって……きっと、すごく怖いんだね」
出久は、頷いた。
引子は、彼の手を握った。
「でもね、出久」
彼女は微笑んだ。
「あなたが誰の子どもなのか、あなたが決めなくてもいいのよ」
「……え?」
「あなたが私の子どもであることと、他の誰かの子どもであることは、必ずしも矛盾しないでしょう?」
引子は、静かに言った。
「私は、あなたを産んだ。あなたを育てた。あなたが笑うのを見て、泣くのを見て、転ぶのを見て、立ち上がるのを見てきた」
彼女は、出久の頬を撫でた。
「それは、誰にも奪えないわ」
出久は、声を失った。
「あなたに、他のお母さんがいたとしても」
引子は続けた。
「その人があなたを愛していたとしても」
彼女は、息子を抱きしめた。
「私は、あなたのお母さんでいたい」
その言葉に、出久は目を閉じた。
胸の奥で、三つ目の鼓動が強くなった。
そして。
初めて、その鼓動が、穏やかになった。
第八章 生まれてはいけなかった子どもが、怒った日
白い部屋。
揺り籠の前に、少年が立っていた。
相澤は、その隣にいる。
「……先生」
少年が言った。
「僕、怒ってもいいのかな」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「何にだ」
「世界に」
少年は、揺り籠を見つめた。
「僕を生まれさせなかった世界に」
相澤は答えた。
「怒る理由があるなら、怒ればいい」
「……でも」
「怒ることと、誰かを傷つけることは違う」
少年は、顔を上げた。
「怒っても、誰かを殺さなくていいの?」
「当たり前だ」
相澤は即答した。
少年は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……僕は、ずっと怒っていたんだ」
小さな声だった。
「僕を殺した人に。僕を忘れた人に。僕の名前を消した人に。僕が生まれたことをなかったことにした人に」
少年は、拳を握った。
「でも、僕が怒ったら、誰かが死ぬと思っていた」
「……」
「僕が怒ったら、母さんが苦しむ。父さんが罪を犯す。兄さんが死ぬ。弟が世界を壊す」
彼は、涙を流した。
「だから、僕は怒らないことにした」
相澤は、黙って聞いていた。
「僕は、誰も恨まないことにした。誰も責めないことにした。僕が我慢すれば、みんなが幸せになれると思った」
少年は、顔を上げた。
「でも、誰も幸せにならなかった」
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
「だから、僕は……」
少年は、声を震わせた。
「僕は、怒りたい」
その瞬間。
白い部屋の壁が、赤く染まった。
『危険』
『第一子の感情変化を検知』
『怒り:確認』
『世界構造への敵対意思:確認』
『再構築を開始します』
相澤が舌打ちした。
「……感情まで管理しているのか」
少年は、壁を見つめた。
『怒りを停止してください』
『怒りを停止してください』
『怒りを停止してください』
「……嫌だ」
少年が言った。
壁の文字が止まる。
「僕は、怒る」
少年は、揺り籠を見つめた。
「僕は、生まれたかった」
床が震えた。
「僕は、誰かに抱きしめてほしかった」
天井が軋んだ。
「僕は、母さんに名前を呼んでほしかった」
壁に亀裂が走った。
「僕は、父さんに覚えていてほしかった」
白い光が、部屋を包んだ。
「僕は、兄さんと一緒に生きたかった!」
揺り籠が、激しく揺れた。
「僕は、弟と一緒に笑いたかった!」
床が崩れ始める。
「僕は、友達が欲しかった!」
壁が砕ける。
「僕は、ヒーローになりたかった!」
世界が軋んだ。
「僕は……!」
少年は、声を上げた。
「僕は、生きたかったんだ!」
その瞬間。
白い部屋が、完全に崩壊した。
だが、崩れた世界の向こう側には、何もなかった。
ただ、暗闇。
その暗闇の中で。
無数の声が、少年に語りかけた。
『生まれてはいけなかった』
『生まれたら、世界が壊れる』
『生まれたら、誰かが死ぬ』
『生まれたら、母親が苦しむ』
『生まれたら、父親が罪を犯す』
『生まれたら、兄が死ぬ』
『生まれたら、弟が世界を壊す』
少年は、泣きながら叫んだ。
「それでも!」
声が止まった。
「それでも、僕は生まれたい!」
暗闇に、ひとつの光が灯った。
それは、小さな光だった。
誰かの手のひらほどの大きさ。
だが、その光は、確かに存在していた。
少年は、光に向かって歩き出した。
相澤が、その後ろを追う。
「待て!」
少年は振り返った。
「先生」
「何だ!」
少年は、涙を拭った。
「僕、名前が欲しい」
相澤は、足を止めた。
少年は続けた。
「僕が自分で決めたい」
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
「僕は、誰かに所有されるために名前が欲しいんじゃない」
少年は、光を見つめた。
「僕が生きていたことを、僕自身が覚えているために、名前が欲しい」
相澤は、微笑んだ。
ほんのわずかに。
「なら、自分で決めろ」
少年は、光に手を伸ばした。
「……僕は」
その瞬間。
世界が、再び動き始めた。
午前二時十五分。
時計の針が進む。
病院のモニターが鳴る。
雄英高校の窓から、夜明け前の風が吹き込む。
そして。
少年の声が、世界中に響いた。
「僕の名前は――」
そこで、声が途切れた。
名前を告げる直前。
世界が、その声を遮ったのだ。
『個体名の確定を禁止します』
少年の手が止まる。
『個体名を確定した場合、世界の再構築が不可逆となります』
相澤が叫んだ。
「無視しろ!」
少年は、顔を上げた。
『個体名を確定した場合、現在の緑谷出久が消失します』
少年の表情が凍りついた。
『個体名を確定した場合、御影出久が消失します』
『個体名を確定した場合、すべての緑谷出久が消失します』
少年は、手を下ろした。
相澤が叫ぶ。
「聞くな!」
『個体名を確定した場合、母親が死亡します』
少年は、目を閉じた。
『個体名を確定した場合、父親が死亡します』
少年の身体が震えた。
『個体名を確定した場合、世界が崩壊します』
相澤は、少年の肩を掴んだ。
「そいつは、お前を脅しているだけだ!」
少年は、震える声で言った。
「……でも、もし本当だったら?」
相澤は答えられなかった。
「もし、本当にみんなが死んだら?」
少年は、泣きながら笑った。
「僕は、また誰かを殺すことになる」
相澤は、少年を見つめた。
そして、ゆっくりと言った。
「……それでも、決めるのはお前だ」
少年が顔を上げる。
「世界が何を言おうと、お前が何を望むのか。それを決めるのは、お前自身だ」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて。
彼は、もう一度、光に手を伸ばした。
「……僕は」
世界が震えた。
「僕は、生きたい」
光が強くなる。
「僕は、生まれたい」
壁の向こうで、無数の時計が進む。
「僕は、名前が欲しい」
世界が軋む。
そして。
少年は、最後まで言い切った。
「僕は、緑谷出久じゃない!」
その瞬間。
すべての記録が、停止した。
第九章 名前を奪われた世界
午前二時十六分。
世界中の人間が、一斉に目を覚ました。
夢を見ていた者。
眠れずにいた者。
仕事をしていた者。
誰かと話していた者。
全員が、同じ違和感を覚えた。
自分が誰かの名前を忘れている。
誰かの顔を思い出せない。
誰かの声を思い出せない。
それなのに。
その誰かを、どうしても忘れてはいけない気がする。
ある老人は、亡くなった妻の名前を思い出せなくなった。
ある母親は、子どもの名前を呼ぼうとして、声が出なくなった。
ある教師は、教室の空席を見つめて、涙を流した。
ある警察官は、十三年前の未解決事件の記録を開き、机に突っ伏した。
あるヒーローは、誰もいない路地で、知らない少年の名を叫んだ。
「……出久!」
その名前を呼んだのは、爆豪勝己だった。
彼は、夜の街に立っていた。
目の前には、誰もいない。
だが、確かに誰かがいた。
自分が助けられなかった誰か。
自分が忘れていた誰か。
自分が、ずっと覚えていたかった誰か。
爆豪は、拳を握りしめた。
「……ふざけんな」
彼は、空を見上げた。
「誰だろうが、何人いようが、関係ねぇ」
声が震えた。
「俺は、助ける」
その瞬間。
爆豪の目の前に、少年が現れた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
少年は、泣きながら笑った。
「……ありがとう」
爆豪は、目を見開いた。
「……お前」
少年は、頭を下げた。
「僕を覚えていてくれて、ありがとう」
爆豪は、拳を握りしめた。
「……名前を言え」
少年は顔を上げた。
「……え?」
「名前だ」
爆豪は、まっすぐに少年を見た。
「お前の名前を言え」
少年は、口を開いた。
だが。
声が出なかった。
彼の身体が、少しずつ透明になっていく。
「……くそっ!」
爆豪は、少年の腕を掴もうとした。
しかし、指がすり抜ける。
少年は、泣きながら笑った。
「……まだ、言えないんだ」
「ふざけんな! 言え!」
「ごめんね」
少年は、消えかけた手を伸ばした。
爆豪の指先に、ほんの一瞬だけ触れる。
「でも、僕は……」
彼は、最後に言った。
「僕は、もう一人じゃない」
そして、消えた。
爆豪は、しばらく動かなかった。
やがて。
彼は、空に向かって叫んだ。
「だったら、何度でも覚えてやる!」
声が、夜の街に響いた。
「何度消されようが、何度忘れさせられようが、何度でも覚えてやる!」
爆豪は、涙を拭わなかった。
「だから、次は逃げんな!」
その言葉を、世界は記録した。
『接触記録:爆豪勝己』
『対象個体:未登録』
『結果:名前の確定に失敗』
『備考:救助意思は継続』
そして。
記録の一番下に、誰かが手書きで書き足した。
『彼は、僕を友達と呼んだ』
第十章 誰も選ばないという選択
雄英高校。
相澤は、旧出生管理室の崩壊した床に立っていた。
少年は消えていた。
揺り籠も、光も、記録も。
残っているのは、白い部屋の壁に刻まれた一文だけだった。
『僕は、緑谷出久じゃない』
相澤は、その文字を見つめた。
「……そうか」
彼は、静かに呟いた。
「お前は、お前だったんだな」
塚内が、端末を操作していた。
「相澤先生。大変なことになっています」
「何だ」
「世界中で、記憶の欠落が発生しています。しかも、単純な記憶喪失ではありません。複数の人間が、同じ人物について異なる記憶を持っている」
「……具体的には」
「ある人間は、緑谷出久を一人っ子だと認識しています。別の人間は、二人兄弟だったと認識している。さらに別の人間は、緑谷出久という人物が存在しなかったと証言しています」
相澤は、壁を見つめたまま言った。
「……世界が、緑谷出久という存在を分けている」
「はい」
塚内は頷いた。
「そして、今まで一つにまとめられていた記録が、再び分離し始めています」
「それは、悪いことなのか」
塚内は、答えに迷った。
「……分かりません」
相澤は、短く息を吐いた。
「そうか」
その時、携帯電話が鳴った。
画面には、見知らぬ番号。
相澤は、通話に出た。
「……相澤だ」
『先生』
聞き覚えのある声だった。
緑谷出久。
「緑谷?」
『はい』
「どうした」
『先生、僕……』
声が震えていた。
『僕、分かったかもしれません』
相澤は、姿勢を正した。
「何がだ」
『どうして、あの子が生まれられなかったのか』
「……話せ」
電話の向こうで、出久が息を吸った。
『あの子が生まれたら、世界が壊れるんじゃないんです』
相澤は、目を細めた。
「……何?」
『逆なんです』
出久の声が、低くなる。
『世界が壊れたから、あの子が生まれられなかったんです』
相澤は、黙って聞いていた。
『本当は、あの子が最初だったんです』
出久は続けた。
『あの子が生まれて、僕たちが生まれた。あの子がいたから、僕たちは存在できた』
「……」
『でも、世界は、あの子を受け入れられなかった』
出久の声が震えた。
『だから、世界はあの子を消した』
相澤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そして、残ったお前たちが、あの子の代わりになった」
『はい』
「だから、あの子が生まれると、今までの世界が維持できなくなる」
『……はい』
相澤は、目を閉じた。
「……緑谷」
『はい』
「それでも、お前は、あの子を生まれさせたいのか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
そして。
『はい』
出久は答えた。
『でも、今度は違います』
「……何が違う」
『僕は、あの子のために、誰かを消したくない』
出久の声が、はっきりと響いた。
『あの子を生まれさせるために、今いる誰かを犠牲にするんじゃない』
『今いる誰かを守りながら、あの子が生まれられる世界を作りたいんです』
相澤は、微かに笑った。
「……無茶を言う」
『はい』
「できると思っているのか」
『……分かりません』
出久は、正直に答えた。
『でも、やってみたいんです』
相澤は、頷いた。
「そうか」
彼は、窓の外を見た。
夜明けが近づいていた。
「なら、やれ」
『……はい!』
「ただし、一人でやるな」
『はい!』
「それと、死ぬな」
電話の向こうで、出久が息を呑んだ。
そして。
『……はい』
その返事は、今までで一番小さかった。
しかし、相澤には分かった。
今の出久は、ただ返事をしたのではない。
本当に、その約束を守ろうとしている。
電話が切れた。
相澤は、携帯電話をポケットにしまった。
そして、壁に刻まれた文字を見た。
『僕は、緑谷出久じゃない』
「……違うな」
相澤は、呟いた。
「お前は、緑谷出久じゃない」
彼は、壁に手を当てた。
「だが、お前は、誰かの代わりでもない」
壁の文字が、かすかに光った。
相澤は続けた。
「お前は、お前だ」
その瞬間。
文字の下に、新しい一文が浮かび上がった。
『僕は、僕だ』
相澤は、静かに頷いた。
「……そうだ」
そして。
彼は、誰もいない部屋に向かって言った。
「生まれてこい」
第十一章 最初の子どもが、選んだ名前
病室。
出久は、窓の外を見ていた。
夜明け前の空。
まだ暗い。
けれど、遠くの地平線が、ほんの少しだけ明るくなっている。
お茶子は、隣の椅子に座っていた。
「……出久くん」
「うん?」
「さっき、誰と話してたの?」
出久は、少しだけ考えた。
「……先生」
「相澤先生?」
「うん」
「何を話してたの?」
出久は、窓の外を見た。
「僕が、これからどうしたいのか」
お茶子は、頷いた。
「……そっか」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、出久が口を開いた。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕、怖いんだ」
お茶子は、出久を見た。
「……うん」
「僕が、あの子を生まれさせたら、今の世界が壊れるかもしれない」
「うん」
「僕が、あの子を生まれさせなかったら、あの子は永遠に生まれられないかもしれない」
「うん」
「どっちを選んでも、誰かが傷つくかもしれない」
出久は、唇を噛んだ。
「……また、同じことを繰り返すのかもしれない」
お茶子は、彼の手を握った。
「出久くん」
「……うん」
「怖いなら、怖いって言っていいんだよ」
出久は、顔を上げた。
「……え?」
「今まで、ずっと一人で頑張ってきたんでしょう?」
お茶子は、微笑んだ。
「誰かを助けたいって思うことも、自分が傷つくことも、誰にも言えなかったことも、いっぱいあったんでしょう?」
出久は、答えられなかった。
「だったら、今は怖いって言っていい」
お茶子は、彼の手を強く握った。
「私も怖いよ」
「……お茶子ちゃん?」
「出久くんが、またいなくなっちゃうんじゃないかって」
彼女は、目を伏せた。
「出久くんが、誰かを助けるために、自分を犠牲にしちゃうんじゃないかって」
涙が落ちた。
「私、出久くんに生きていてほしい」
出久の目が揺れた。
「……うん」
「誰かを救えなくてもいいから。誰かに恨まれてもいいから。世界を全部救えなくてもいいから」
お茶子は、泣きながら笑った。
「私と一緒に、生きていてほしい」
出久は、彼女を抱きしめた。
「……うん」
声が震えた。
「僕も、お茶子ちゃんと一緒に生きたい」
お茶子は、彼の胸に顔を埋めた。
「……約束して」
「うん」
「自分を犠牲にしないって」
出久は、目を閉じた。
「……約束する」
「本当に?」
「……うん」
お茶子は、顔を上げた。
「嘘だったら、怒るからね」
出久は、少しだけ笑った。
「……うん」
その瞬間。
出久の胸の奥で、三つ目の鼓動が動いた。
今までよりも、はっきりと。
そして。
声が聞こえた。
『……お兄ちゃん』
出久は、息を止めた。
お茶子が、顔を上げる。
「……どうしたの?」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「……今、声が」
『お兄ちゃん』
今度は、はっきり聞こえた。
幼い声。
まだ、生まれていない子どもの声。
『僕、名前を決めたよ』
出久は、目を閉じた。
「……どんな名前?」
『……まだ、秘密』
声が、少しだけ笑った。
『生まれたら、自分で言う』
出久は、涙を流した。
「……うん」
『お兄ちゃん』
「うん」
『僕が生まれたら、僕のことを覚えていてくれる?』
出久は、胸に手を当てた。
「……もちろん」
『僕が、誰かを傷つけてしまっても?』
「うん」
『僕が、間違えてしまっても?』
「うん」
『僕が、世界を壊してしまっても?』
出久は、少しだけ息を吸った。
「……その時は、一緒に直そう」
沈黙。
そして。
『……ありがとう』
声が震えた。
『お兄ちゃん』
『僕、生まれたい』
出久は、涙を拭った。
「……うん」
彼は、胸の奥に向かって言った。
「生まれておいで」
その瞬間。
病室の時計が、午前二時十七分を示した。
世界は、再び一分進んだ。
そして、出久の胸の奥で。
三つ目の鼓動が、初めて自分のリズムで鳴り始めた。
終章 出生予定時刻
世界の外側。
そこには、時間も空間もなかった。
無数の世界が、巨大な海のように広がっている。
その海の中心に、ひとつの記録が浮かんでいた。
『出生管理室』
『第一子:緑谷出久』
『出生状態:開始』
『個体名:未確定』
『出生予定時刻:02時13分』
『現在時刻:02時17分』
記録の下に、警告が表示されていた。
『出生予定時刻を超過しています』
『出生処理を継続しますか?』
誰も答えない。
『出生処理を継続しますか?』
沈黙。
『出生処理を継続しますか?』
その時。
記録の前に、誰かが現れた。
黒い影。
顔はない。
身体も定まっていない。
ただ、そこに存在しているという事実だけがあった。
影は、記録を見つめた。
『出生処理を継続しますか?』
影は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして。
『いいえ』
そう答えた。
記録が停止する。
『出生処理を中断します』
『第一子:未出生』
『現在の世界構造を維持します』
影は、静かに頷いた。
「……そうだ」
声がした。
人間の声だった。
「この子は、生まれてはいけない」
影は、記録を閉じようとした。
しかし。
その瞬間。
記録の向こう側から、別の声が聞こえた。
『どうして?』
影の手が止まった。
『どうして、僕は生まれてはいけないの?』
影は答えない。
『僕が生まれたら、世界が壊れるから?』
沈黙。
『僕が生まれたら、誰かが死ぬから?』
影の指が震えた。
『それとも……』
声が、少しだけ低くなった。
『僕が生まれたら、あなたが消えるから?』
影は、動けなくなった。
記録の奥から、少年が現れた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
だが、その表情には、今まで誰も見たことのないものがあった。
怒り。
悲しみ。
そして。
自分が存在していいと信じ始めた者の、強い意志。
少年は、影を見つめた。
「……あなたは、誰?」
影は答えなかった。
少年は、一歩近づいた。
「僕を生まれさせないようにしているのは、あなたなの?」
沈黙。
少年は、もう一歩近づいた。
「僕の名前を消したのは、あなた?」
影の身体が、わずかに揺れた。
「僕の母さんを、僕のことを忘れさせたのは、あなた?」
影は、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
初めて、声を発した。
『違う』
少年は、目を細めた。
「……じゃあ、誰が?」
影は答えた。
『お前だ』
少年の表情が凍りついた。
『お前自身が、お前の出生を拒否した』
『お前自身が、お前の名前を消した』
『お前自身が、お前の母親を忘れさせた』
少年は、首を振った。
「……そんなこと、していない」
『した』
影は続けた。
『お前は、最初の世界で、すべてを失った』
『お前は、誰も救えなかった』
『お前は、世界を作り直した』
『そして、最後に決めた』
影の声が、重く響いた。
『もう二度と、生まれないと』
少年は、息を呑んだ。
記憶が流れ込んでくる。
最初の世界。
母親の泣き声。
父親の背中。
兄の手。
弟の笑顔。
そして。
何もかもが、崩れていく光景。
少年は、泣きながら叫んだ。
「……違う!」
『お前は、もう一度生まれれば、同じことを繰り返す』
「違う!」
『お前は、また誰かを救おうとする』
「違う!」
『お前は、また誰かを犠牲にする』
少年は、頭を抱えた。
「……やめて!」
『お前は、また世界を壊す』
「やめて!」
『お前は、また自分を殺す』
少年は、膝をついた。
「……やめてよ……!」
影は、静かに告げた。
『だから、お前は生まれてはいけない』
少年は、泣いていた。
しかし。
やがて。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも」
影が沈黙する。
少年は、立ち上がった。
「それでも、僕は生まれたい」
影の輪郭が揺れた。
「僕は、もう一度、誰かを救おうとするかもしれない」
少年は言った。
「また間違えるかもしれない」
一歩。
「誰かを傷つけるかもしれない」
もう一歩。
「世界を壊してしまうかもしれない」
少年は、影の目の前に立った。
「でも、だからって……」
彼は、涙を拭った。
「生まれないことを、正解にしないでよ」
影は、動かなかった。
少年は続けた。
「僕が間違えるかもしれないなら、間違えた時に、やり直せばいい」
「……」
「誰かを傷つけたら、謝ればいい」
「……」
「誰かを失ったら、悲しめばいい」
少年は、拳を握った。
「でも、最初から全部なかったことにするのは、違う!」
その瞬間。
世界の外側に、亀裂が走った。
影の身体が、少しずつ崩れ始める。
『……お前が生まれれば』
影は言った。
『私は、消える』
少年は、目を見開いた。
「……あなたは」
『私は、お前が生まれない世界だ』
影は、静かに告げた。
『お前が存在しないことで、成立している世界そのものだ』
少年は、息を呑んだ。
『お前が生まれれば、私は消える』
影は、初めて悲しそうな声を出した。
『私は、消えたくない』
少年は、動けなかった。
世界が、自分の命を守ろうとしている。
世界が、自分の存在を否定している。
そして。
その世界もまた、消えたくないと願っていた。
少年は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……じゃあ」
影が、顔を上げる。
少年は、言った。
「一緒に生きよう」
沈黙。
「僕が生まれても、あなたが消えない方法を探そう」
影は、動かなかった。
「僕は、あなたを殺したいわけじゃない」
少年は、微笑んだ。
「僕は、あなたと一緒に生きたい」
その瞬間。
世界の外側に、無数の光が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、数えきれないほどの光が、影と少年を包み込んだ。
『出生管理室』
『第一子:緑谷出久』
『出生状態:開始』
『個体名:未確定』
『世界への登録:拒否』
記録が、再び動き始める。
『出生処理を継続しますか?』
今度は、誰も答えなかった。
少年と影が、同時に手を伸ばした。
そして。
二人の指が触れた瞬間。
記録が、書き換わった。
『出生処理:継続』
『第一子:出生準備中』
『世界構造:未確定』
『母親:二名』
『父親:一名』
『兄:複数』
『弟:複数』
『観測者:複数』
『破壊者:複数』
『生存者:複数』
最後の一行。
そこに、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
『出生予定時刻:02時13分』
『出生予定日:十三年前』
そして。
『出生場所:最初の世界』
記録の下に、もう一行。
『出生に必要な条件』
その文字が、ゆっくりと書き換わった。
『母親が、子どもを産むこと』
『父親が、子どもを覚えていること』
『兄が、弟を殺さないこと』
『弟が、兄を忘れないこと』
『世界が、子どもを拒まないこと』
一拍。
最後の条件が、浮かび上がった。
『そして――』
文字が止まる。
世界の外側で、誰かが笑った。
それは、少年の声だった。
『生まれてはいけなかった子どもが』
『生まれてもいいと、信じること』
その時。
雄英高校附属病院。
午前二時十八分。
緑谷出久の胸の奥で、三つ目の鼓動が止まった。
出久は、息を呑んだ。
「……え?」
お茶子が、彼の手を握る。
「出久くん?」
出久は、自分の胸に手を当てた。
そこには、二つの鼓動しかなかった。
自分のもの。
そして、兄のもの。
三つ目の鼓動は、消えていた。
「……そんな」
出久の顔から、血の気が引く。
「待って……」
彼は、胸に手を押し当てた。
「待ってよ……!」
返事はない。
「……まだ、名前も聞いてないんだ」
出久は、泣きながら呟いた。
「君が、どんな顔をしているのかも、どんな声なのかも、どんな名前を選んだのかも……僕は、まだ……!」
その瞬間。
心電図のモニターに、文字が浮かび上がった。
『第一子:出生準備中』
『個体名:未確定』
『生存状態:未確定』
出久は、息を止めた。
「……生きてる」
お茶子が、モニターを見た。
「……出久くん」
出久は、涙を拭った。
「……まだ、生まれていないだけなんだ」
彼は、顔を上げた。
「だから、僕が迎えに行く」
お茶子は、彼の手を握りしめた。
「……うん」
「先生にも、爆豪くんにも、みんなにも協力してもらう」
出久は、まっすぐに前を見た。
「僕は、あの子を生まれさせる」
一拍。
「でも、誰も犠牲にしない」
その言葉に、モニターが反応した。
『条件を確認』
『出生処理:継続』
『残り時間:六十三時間』
出久は、表示された数字を見つめた。
六十三時間。
以前、世界の再構築が始まった時と同じ数字。
だが、今度は違う。
世界が壊れるまでの時間ではない。
世界が、ひとつの命を受け入れるまでの時間だ。
出久は、ゆっくりと目を閉じた。
「……待っていて」
彼は、胸の奥に向かって語りかけた。
「今度こそ、君を迎えに行くから」
そして。
モニターの文字が、最後に一度だけ点滅した。
『第一子:出生準備中』
『個体名:未確定』
『母親:緑谷引子』
『母親:未登録』
『父親:緑谷久志』
『出生予定時刻:十三年前、午前二時十三分』
その下に、誰も予想していなかった一行が浮かび上がった。
『出生を阻止している人物:緑谷出久』
出久は、目を見開いた。
「……僕?」
そして、モニターに、新しい記録が追加された。
『第一子が生まれなかった理由』
『現在の緑谷出久が、最初の子どもを殺したから』
病室の時計が、午前二時十九分を示した。
出久は、動けなかった。
世界が、再び彼に問いかけていた。
――君は、本当に、その子を生まれさせたいのか。
そして、もっと残酷な問いが、そのすぐ後に続いた。
――その子が生まれるために、君自身が消えなければならないとしても。
出久は、答えられなかった。
まだ。
彼は、まだ知らなかったのだ。
十三年前。
最初の子どもが生まれようとした時。
最後に、その子の出生を拒んだのが。
世界でも、父親でも、母親でもなく。
緑谷出久自身だったということを。