最初に聞こえたのは、雨の音だった。
窓を叩く雨ではない。
屋根を打つ雨でもない。
もっと近い。
もっと重い。
誰かの身体を、何度も何度も叩き続けるような音だった。
ざあ、ざあ、ざあ。
雨は降っている。
それなのに、世界のどこにも水たまりがなかった。
地面は乾いている。
道路も、塀も、街路樹も、雨に濡れていない。
ただ、空から落ちてくる雨粒だけが、地面に触れる直前に消えていた。
まるで世界そのものが、雨に濡れることを拒んでいるようだった。
緑谷出久は、そこに立っていた。
裸足だった。
手には、赤いものがついていた。
血だ。
自分の血ではない。
そう理解した瞬間、出久は自分の両手を見つめた。
指の隙間に入り込んだ赤黒い液体。
爪の間に残る、乾きかけた血。
手のひらに刻まれた、誰かの指の跡。
その手を、誰かが握っていたのだ。
ついさっきまで。
出久は顔を上げた。
目の前に、少年が倒れていた。
緑色の髪。
出久とよく似た顔。
けれど、少しだけ違う。
目元が、ほんの少しだけ優しい。
笑うとき、右側の口角が先に上がる。
泣くときは、決して声を出さない。
そんな、出久が知らないはずの特徴を、出久は知っていた。
知っている。
知っているのに。
名前が出てこない。
少年は仰向けに倒れ、空を見上げていた。
雨粒は彼の身体にも触れなかった。
少年の胸元には、小さな穴が開いていた。
そこから血が流れているはずなのに、血は地面に広がっていない。
傷口から溢れた赤いものは、落ちる途中で消えていた。
世界が、彼の死を認めていない。
いや。
違う。
世界は、彼が死んだことを認めている。
認めているからこそ、彼が存在した痕跡を消しているのだ。
出久は、ゆっくりと膝をついた。
「……ねえ」
少年に呼びかける。
返事はない。
「ねえ、起きてよ」
肩に触れる。
冷たい。
「ねえってば」
揺さぶる。
少年の頭が、わずかに傾いた。
その拍子に、少年のポケットから何かが落ちた。
小さな紙片だった。
雨に濡れない紙。
そこには、子どもの字で一文だけ書かれていた。
『出久が大きくなったら、一緒にヒーローになろう』
出久は息を止めた。
紙片の裏には、もう一つの文字があった。
『兄さん』
その瞬間。
出久の脳裏に、声が響いた。
『出久』
知らない声だった。
知らないはずなのに、懐かしかった。
『僕を殺して』
出久は顔を上げた。
少年が、目を開けていた。
いや。
開けたのではない。
少年の目は、最初から開いていたのだ。
空を見つめたまま。
何も映さない瞳で。
少年は、出久に笑いかけた。
『僕を殺して』
出久は叫んだ。
そして――
目を覚ました。
*
「――緑谷!」
誰かに肩をつかまれていた。
出久は激しく息を吸い込んだ。
喉が痛い。
胸が痛い。
自分の心臓が、自分の身体の中で暴れている。
視界が揺れていた。
目の前にいたのは、相澤消太だった。
「おい。聞こえるか」
「……先生」
「聞こえているなら答えろ。ここがどこかわかるか」
「……雄英、です」
「そうだ」
相澤は、出久の肩をつかんだまま、彼の目を見ていた。
いつもの眠そうな目ではない。
わずかな異変も見逃さない、教師としての目だった。
「夢を見ていたのか」
「……はい」
「どんな夢だ」
出久は答えようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
手を見た。
血はついていない。
指も、爪も、手のひらも、いつもどおりだった。
それなのに。
指先に、まだ感触が残っている。
誰かの手を握った感触。
その手が、自分の手から滑り落ちた感触。
最後に、相手が笑った感触。
「……人を、殺しました」
声が震えた。
相澤の表情が変わった。
隣にいた爆豪勝己が、壁から背中を離す。
麗日お茶子は、出久の顔を見たまま息を呑んだ。
轟焦凍は、何も言わずに一歩だけ近づいた。
飯田天哉は、机の上に置かれた記録用紙を握りしめた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
出久は続けた。
「……僕が、殺したんです」
「緑谷」
「僕が……兄さんを」
その言葉を口にした瞬間。
部屋の壁に掛けられていた時計が、止まった。
秒針が、十二の位置で固まる。
デジタル時計の表示が消える。
スマートフォンの画面が、一斉に黒くなる。
廊下から聞こえていた足音が消えた。
換気扇の音も。
遠くの話し声も。
世界から、音が失われた。
そして、壁に掛けられていた時計の文字盤に、見覚えのある数字が浮かび上がった。
02:13。
相澤が、ゆっくりと出久の肩から手を離した。
「……またか」
爆豪が舌打ちした。
「クソが。今度は何だ」
答えはなかった。
ただ、出久の目の前に置かれていたノートが、ひとりでに開いた。
誰も触れていない。
風もない。
ページが一枚、めくられた。
さらに一枚。
さらに一枚。
そして、白紙のページで止まった。
そこに、文字が浮かび上がった。
『第二十八回記録』
その下に、もう一文。
『僕が、兄さんを殺した日』
お茶子が、口元を押さえた。
「……出久くん」
出久は、ノートを見つめていた。
文字を見た瞬間、夢の中の少年の顔が脳裏に蘇る。
優しい目。
少しだけ上がる右側の口角。
声を出さずに泣く癖。
知らないはずの、兄の顔。
「……僕は」
出久は唇を噛んだ。
「僕は、兄さんを殺したことがあるんですか」
誰も答えられなかった。
答えられる者が、いなかった。
ただ一人。
部屋の隅に置かれていた、意識不明の少年を除いて。
*
少年が目を覚ましたのは、それから三秒後だった。
正確には、三秒後に目を覚ましたと、そこにいた全員が認識した。
しかし、後に記録を確認したところ、時計は止まったままだった。
秒数を計測することは不可能だった。
それでも、全員が同じ証言をした。
少年は三秒後に目を覚ました。
まるで、世界が彼の目覚めだけを許したかのように。
「……出久」
少年の声は、ひどく掠れていた。
ベッドの上で、少年が身を起こす。
相澤がすぐに近づいた。
「動くな。まだ身体が――」
「出久」
少年は相澤の言葉を聞いていなかった。
視線は、まっすぐに緑谷出久へ向けられていた。
出久も、少年を見ていた。
二人の視線が交差する。
その瞬間、少年の顔から血の気が引いた。
「……ああ」
少年は、笑った。
ひどく悲しそうな笑みだった。
「思い出したんだね」
出久の背筋に、冷たいものが走った。
「……何を?」
「僕のこと」
「……君は」
出久は言葉を探した。
目の前の少年。
自分と似た顔。
自分と似た声。
そして、夢の中の少年と重なる輪郭。
「君は……誰なの?」
少年は、しばらく黙っていた。
その沈黙の間に、世界のあちこちで何かが軋んだ。
壁の向こうから、子どもの泣き声が聞こえた。
誰もいない廊下から、扉を叩く音がした。
遠くで、誰かが名前を呼んでいる。
そのすべてが、少年の返答を待っていた。
やがて少年は、口を開いた。
「僕は、君のお兄ちゃんだよ」
お茶子が息を呑んだ。
飯田の手から、記録用紙が落ちた。
轟の目が、わずかに見開かれる。
爆豪だけが、少年を睨みつけたまま動かなかった。
「……ふざけんな」
爆豪が低く言った。
「いきなり出てきて、兄貴だと? 寝言は寝て言え」
「うん」
少年は、爆豪を見た。
「そうだね。君からしたら、そうなるよね」
「テメェ……」
「ごめん」
少年は、素直に頭を下げた。
「でも、僕は嘘をついていない」
爆豪が一歩踏み出す。
相澤が片手を上げ、制止した。
「緑谷。お前はどう思う」
相澤は、出久に尋ねた。
「こいつの言葉を信じるのか」
出久は答えられなかった。
信じたいわけではない。
信じたくないわけでもない。
ただ、胸の奥が痛かった。
少年を見ていると、理由もなく泣きたくなる。
謝らなければならない気がする。
謝っても、許されない気がする。
それなのに。
彼にもう一度会いたかったような気がする。
「……わからないです」
出久は、正直に答えた。
「でも」
少年を見つめる。
「君が、僕のお兄ちゃんだっていうなら」
声が震えた。
「どうして、僕は君を覚えていないんですか」
少年は目を閉じた。
「……僕が、忘れさせたからだよ」
*
その言葉を聞いた瞬間、部屋の壁が透けた。
壁の向こうに、別の部屋が見えた。
白い壁。
白い天井。
白い床。
病院だった。
だが、雄英の医務室ではない。
もっと古い。
もっと小さい。
壁の隅に、色褪せた動物のシールが貼られていた。
窓辺には、小さな花瓶。
枯れた花が一本だけ挿さっている。
ベッドが二つ。
片方には、赤ん坊が眠っていた。
もう片方には、誰もいなかった。
壁の向こうの景色は、過去の記憶のようだった。
それとも、世界が作り直される前の風景なのか。
誰にもわからなかった。
少年は、その景色を見ていた。
「……あの日の病室だ」
小さく呟いた。
出久は、壁の向こうを見つめる。
「……あの日?」
「僕が生まれた日」
少年は、ゆっくりと話し始めた。
「正確には、僕と君が生まれた日」
病室のベッドで、赤ん坊が泣いた。
もう一つのベッドには、赤ん坊がいなかった。
だが、少年は続けた。
「僕たちは、同じ日に生まれたわけじゃない」
出久が顔を上げる。
「……え?」
「同じ日に生まれたことにされたんだ」
少年の声は静かだった。
「君は二時十三分に生まれた。僕も、二時十三分に生まれた。記録にはそう書いてある。でも、本当は違う」
「何が……違うんだ?」
爆豪の声が割り込んだ。
少年は彼を見た。
「僕が先に生まれたんだ」
病室の景色が揺れる。
ベッドの横に立つ若い女性の姿が浮かび上がった。
疲れ切った顔。
震える手。
涙で濡れた頬。
母親だった。
誰の母親なのか。
出久には、まだわからなかった。
女性は、腕の中の赤ん坊を見つめていた。
その子は泣いていなかった。
ただ、小さな手を握りしめていた。
女性は、赤ん坊の額に唇を寄せた。
『ごめんね』
声が聞こえた。
『ごめんね、ごめんね』
何度も。
何度も。
『あなたを産んでしまって、ごめんね』
出久は、息を呑んだ。
その言葉は、あまりにも残酷だった。
母親が、生まれたばかりの子どもに向ける言葉ではない。
けれど女性は、泣きながら繰り返していた。
『あなたは、ここに生まれてはいけなかった』
赤ん坊が、小さな声を上げた。
女性は、赤ん坊を抱きしめた。
『それでも……』
彼女は、顔を歪めた。
『それでも、あなたは私の子どもよ』
病室の景色が、白く染まった。
少年は、目を伏せた。
「僕は、生まれてはいけなかったんだ」
「違う」
出久は、即座に言った。
自分でも驚くほど、強い声だった。
「それは違うよ」
少年が顔を上げる。
「生まれてはいけない子どもなんて、いない」
「……出久」
「どんな理由があっても、そんなことはない」
出久は拳を握った。
「君がどんな存在だったとしても。世界にとって、どんな意味があったとしても。君が生まれたことを、誰かが間違いだって決めることはできない」
少年は、しばらく出久を見つめていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そう言うと思った」
その笑みを見た瞬間、出久の胸が締めつけられた。
まるで、何度も同じ会話を繰り返してきたような感覚。
何度も。
何度も。
何度も。
そのたびに、同じ結末に辿り着いてしまったような感覚。
「でもね、出久」
少年は言った。
「僕は、君にそう言ってほしかったんじゃないんだ」
出久は、言葉を失った。
「僕が生まれてはいけなかった理由を、君に知ってほしかったんだ」
壁の向こうで、母親が泣いていた。
赤ん坊を抱きしめたまま。
まるで、誰かが扉の向こうから迫ってくるのを恐れているかのように。
そして、病室の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の男だった。
緑谷久志。
出久の父親だった。
だが、出久が知っている父親よりも若い。
頬がこけ、目の下に濃い隈があった。
彼は女性を見た。
女性は、赤ん坊を抱きしめたまま首を振った。
『駄目です』
久志は、何も言わなかった。
『この子を連れていかないで』
女性は懇願した。
『お願いです。この子は、私の子どもです』
久志は、ようやく口を開いた。
『……わかっている』
『なら、どうして』
『この子が生きていると、もう一人の子どもが死ぬ』
出久の心臓が、嫌な音を立てた。
父親の言葉。
聞き覚えがあった。
あの封筒。
二枚の出生証明書。
緑谷出久。
御影出久。
同じ時刻。
同じ両親。
そして、片方にだけ記された死亡の文字。
久志は、赤ん坊を見つめた。
『この子が生きている限り、もう一人は生まれられない』
女性は首を振った。
『違います』
『何が違う』
『この子が生まれたから、あの子が生まれられなくなったんじゃない』
女性の声が震えた。
『あの子が生まれられない世界だから、この子が生まれたことにされたんです』
沈黙が落ちた。
久志の顔が、凍りついた。
出久は、その言葉の意味を理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
女性は、赤ん坊の顔を見た。
『この子は、代わりなんかじゃない』
彼女は、久志を見据えた。
『この子は、この子です』
病室の景色が激しく揺れた。
白い壁に、黒い文字が浮かび上がる。
『個体識別:不成立』
『出生順位:矛盾』
『親子関係:重複』
『生存許可:保留』
文字が増えていく。
壁も、天井も、床も。
病室全体が、巨大な記録装置へと変わっていった。
『第一個体の存在が確認されました』
『第二個体の出生を確認しました』
『第三個体の出生記録を確認しました』
『矛盾が発生しました』
久志が、頭を抱えた。
女性は、赤ん坊を抱きしめた。
そして、病室の隅に立つ何かを見た。
そこには、誰もいなかった。
誰もいないはずだった。
だが、女性は確かに、そこにいる何者かに向かって言った。
『……この子だけは、連れていかないで』
返事はなかった。
代わりに、機械のような声が響いた。
『対象個体の存在は、世界構造と両立しません』
『修正が必要です』
『削除対象を選択してください』
久志が、震える声で尋ねた。
『……削除、だと?』
『選択肢は三つです』
壁に、三つの名前が浮かび上がった。
緑谷出久。
御影出久。
そして――
名前のない、三つ目の欄。
『未登録個体』
出久の視界が、真っ暗になった。
*
「……っ!」
出久は、頭を押さえた。
頭蓋骨の内側を、無数の針で刺されているようだった。
映像が流れ込んでくる。
病室。
赤ん坊。
母親。
父親。
名前のない欄。
そして。
自分の手。
小さな手。
血に濡れた手。
「緑谷!」
相澤の声が聞こえた。
しかし、出久は返事をできなかった。
視界の端に、別の光景が浮かび上がっていた。
病室ではない。
家だった。
小さな一軒家。
窓の外に、庭がある。
庭には、二人の子どもがいた。
一人は、緑色の髪。
もう一人も、緑色の髪。
年齢は、少しだけ違っていた。
年上の少年が、年下の少年の手を引いていた。
『ほら、出久。こっちだよ』
『待ってよ、兄さん!』
年下の少年が笑う。
年上の少年も笑う。
その顔を見て、出久は泣きそうになった。
あれは。
あの子どもたちは。
自分と。
自分の兄だった。
いや。
違う。
もっと正確に言うなら。
自分が、兄と呼んでいた少年だった。
庭の隅に、小さな木が植えられていた。
まだ細い幹。
頼りない枝。
少年たちは、その木の前にしゃがみ込んでいた。
『大きくなったら、何になりたい?』
兄が尋ねる。
『ヒーロー!』
弟は即答した。
『どんなヒーロー?』
『みんなを助けるヒーロー!』
『みんなって、誰?』
『みんなは、みんなだよ!』
弟は胸を張った。
『誰も死なせないんだ!』
兄は、少しだけ困った顔をした。
『……それは、難しいかもしれないね』
『どうして?』
『だって、出久は一人しかいないから』
弟は首を傾げた。
『一人じゃ、駄目なの?』
『ううん』
兄は笑った。
『一人じゃないよ』
兄は弟の手を握った。
『僕がいるから』
出久は、息を呑んだ。
その言葉。
その表情。
その手の温かさ。
全部、知っていた。
忘れていた。
けれど、知っていた。
『だからね、出久』
兄は弟の目を見つめた。
『もし、いつか世界が君に、誰かを選べって言ってきたら』
弟は首を傾げた。
『誰かを選ぶ?』
『うん。誰か一人を助けるために、誰か一人を諦めろって言われたら』
兄は、弟の頭を撫でた。
『そのときは、僕を選ばなくていいよ』
『……え?』
『僕を助けなくていい』
弟の顔が、曇った。
『どうして?』
『君には、君の人生があるから』
兄は笑った。
『僕は、君が生きていてくれたら、それでいい』
弟は、泣きそうな顔になった。
『……やだ』
『出久』
『やだ! そんなの、やだよ!』
兄は、弟を抱きしめた。
『大丈夫』
その声は優しかった。
『大丈夫だよ』
兄は、何度も弟の背中を撫でた。
『僕は、君を守るから』
その言葉が。
その約束が。
世界の底に、深く刻まれていった。
そして。
出久の記憶は、そこで途切れた。
*
「……僕は」
出久の口から、声が漏れた。
「僕は、兄さんを殺した」
少年が、静かに頷いた。
「うん」
その肯定は、あまりにもあっさりしていた。
責める声ではない。
恨む声でもない。
ただ、事実を認める声だった。
出久は、少年を見つめた。
「……どうして」
「何が?」
「どうして、僕が……兄さんを殺したの?」
少年は答えなかった。
代わりに、ベッドから足を下ろした。
相澤が止めようとする。
「待て。まだ動くな」
「すみません、先生」
少年は、相澤に頭を下げた。
「でも、これだけは、僕の口から話さないといけないんです」
少年は出久の前まで歩いてきた。
足取りは不安定だった。
身体はまだ、完全に回復していない。
それでも彼は、出久の前に立った。
「僕たちが生まれたとき、世界は僕を認めなかった」
少年は言った。
「僕が生きていると、君が生まれられない。僕が生まれていると、君の存在が成立しない。世界はそう判断した」
「……そんな」
「でも、母さんは僕を生かそうとした」
少年は目を伏せた。
「父さんも、最初はそうだったんだ」
久志の名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
出久は、父親の顔を思い浮かべた。
あの封筒。
あの黒い電話。
あの告白。
父は、二人の息子を殺した。
そう語られた。
しかし、それだけではない。
父は、二人を生かそうとしていた。
生かそうとして。
選ばされて。
選んでしまった。
「父さんは、僕を殺したんじゃない」
少年は、はっきりと言った。
「少なくとも、最初はね」
出久は息を呑んだ。
「……じゃあ」
「僕を殺したのは、世界だよ」
少年は答えた。
「そして、その世界を作り直したのが、君だった」
静寂が落ちた。
出久は、言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。
「……僕が?」
「うん」
「僕が、世界を?」
「そうだよ」
少年は、出久を見つめた。
「君は、僕を助けたかった」
その声が、少しだけ震えた。
「君は、僕がいなくなることを認めなかった」
少年は笑った。
「だから、世界を壊したんだ」
*
最初の世界は、何もおかしくなかった。
少なくとも、出久はそう思っていた。
家があり、家族がいて、学校があった。
兄がいて、弟がいた。
母がいて、父がいた。
食卓には四人分の食器が並び、庭には小さな木が育っていた。
兄は、出久の面倒をよく見てくれた。
出久が転べば、手を差し伸べた。
出久が泣けば、そばに座った。
出久が失敗すれば、一緒に怒られた。
出久が夢を語れば、誰よりも真剣に聞いてくれた。
その世界で、兄は出久のすべてだった。
そして、世界はある日、兄を殺そうとした。
それは、何の前触れもなく始まった。
兄の名前が、学校の名簿から消えた。
兄の席が、最初からなかったことになった。
家族写真から、兄の姿が消えた。
母親は、兄の名前を呼べなくなった。
父親は、兄が使っていた部屋を見ても、そこに何があったのか思い出せなくなった。
世界は、兄を消し始めた。
出久だけが、覚えていた。
兄がいたこと。
兄と笑ったこと。
兄に守られたこと。
兄が、自分の手を握ってくれたこと。
出久は、何度も大人たちに訴えた。
『兄さんがいない!』
『僕のお兄ちゃんが、いなくなったんだ!』
誰も信じなかった。
誰も、彼を覚えていなかった。
そして、ある日。
兄は、出久の目の前から消えた。
消える直前、兄は笑っていた。
『出久』
兄は、いつものように弟の頭を撫でた。
『ごめんね』
『……兄さん?』
『君は、何も悪くないよ』
兄の身体が、白い光に包まれた。
『兄さん!』
出久は、手を伸ばした。
『待って!』
兄は、手を伸ばし返した。
『僕のことを、忘れていいんだよ』
『やだ!』
『出久』
『やだ! やだよ!』
兄の指先が、消えた。
手のひらが消えた。
腕が消えた。
胸が消えた。
最後に、兄の顔が消えた。
それでも、口だけは動いていた。
『生きて』
兄は、そう言った。
そして。
世界から、兄が消えた。
出久は、ひとりになった。
ひとりになった瞬間、世界が完成した。
兄のいない世界として。
最初から、兄などいなかった世界として。
学校の名簿には、出久の名前だけがあった。
家族写真には、三人しか写っていなかった。
食卓には、三人分の食器が並んでいた。
兄の部屋は、最初から物置だった。
母は笑っていた。
父は新聞を読んでいた。
世界は、何も問題がないように回り続けた。
ただ一人。
緑谷出久だけが、世界の間違いを覚えていた。
出久は、泣いた。
泣き続けた。
眠れなかった。
食べられなかった。
何度も、兄を探した。
何度も、名前を呼んだ。
何度も、神様に願った。
けれど、誰も答えなかった。
だから、出久は決めた。
世界が兄を消したのなら。
兄を消した世界を、作り直せばいい。
そうすれば、兄は戻ってくる。
そうすれば、また四人で暮らせる。
そうすれば、もう一度、兄の手を握れる。
出久は、世界を壊した。
その瞬間、世界は白く染まった。
時計は02:13で止まった。
すべての音が消えた。
そして、出久の目の前に、巨大な記録装置が現れた。
『再構築要求を確認しました』
『対象:緑谷出久』
『目的:消失個体の復元』
『復元対象の名称を入力してください』
出久は、泣きながら答えた。
『……兄さん』
記録装置は沈黙した。
『名称が不正です』
『……兄さんだよ』
『対象個体の識別情報を入力してください』
『僕の、お兄ちゃんだ!』
出久は叫んだ。
『僕を守ってくれた人なんだ!』
記録装置は、再び沈黙した。
『該当する個体は存在しません』
出久は、膝をついた。
世界は、兄を認めなかった。
ならば。
認めるまで、やり直せばいい。
出久は、世界を再構築した。
そして、もう一度、兄を探した。
見つからなかった。
また、世界を壊した。
また、作り直した。
また、探した。
また、見つからなかった。
その繰り返しだった。
一回。
二回。
三回。
十回。
百回。
千回。
世界は何度も生まれ、何度も滅びた。
そのたびに、出久は兄を探した。
そのたびに、兄は見つからなかった。
それでも出久は、諦めなかった。
世界を作り直せば、いつか。
世界を作り直せば、きっと。
世界を作り直せば――
やがて、出久は気づいた。
自分が何をしているのか。
世界がどれほどの命を抱えているのか。
自分が世界を壊すたび、何が失われているのか。
それでも、出久は止まれなかった。
止まれば、兄がいなくなった世界を認めることになる。
止まれば、兄を忘れることになる。
止まれば、兄が死んだことを受け入れることになる。
そんなことはできなかった。
できるはずがなかった。
だから、出久は世界を壊し続けた。
兄を救うために。
兄を取り戻すために。
兄を忘れないために。
そして、最後の再構築が始まった。
出久は、ひとつの世界を選んだ。
兄が存在しない代わりに、兄を殺した原因も存在しない世界。
兄が生まれなかった代わりに、誰も兄を消さない世界。
兄が生きていたという記録も。
兄が死んだという記録も。
最初から存在しない世界。
そこなら、兄は苦しまない。
そこなら、兄は消されない。
そこなら、兄は世界に殺されない。
出久は、最後に一つだけ願った。
兄が、自分のために苦しむことのない世界を。
兄が、自分のために死ぬことのない世界を。
兄が、自分を守るために、何かを犠牲にしなくていい世界を。
その代償として。
出久自身が、世界から消えることを選んだ。
自分がいなければ、世界は安定する。
自分がいなければ、兄は生まれなくても苦しまない。
自分がいなければ、世界は誰かを選ぶ必要がない。
そう思った。
だから、出久は消えた。
緑谷出久という個体を、世界の記録から削除した。
そして、世界は再構築された。
その世界には、兄がいた。
母がいた。
父がいた。
誰も、死ななかった。
誰も、消されなかった。
そして。
緑谷出久という少年だけが、存在しなかった。
*
「……でも」
現在の緑谷出久は、震える声で尋ねた。
「それなら、どうして僕はここにいるの?」
少年は、静かに答えた。
「君が、戻ってきたからだよ」
「……戻ってきた?」
「うん」
少年は頷いた。
「君は、世界から消えた。君が存在しない世界を作った。僕が君を守る必要のない世界を選んだ」
「……なのに」
「なのに、世界は君を必要とした」
少年の顔に、苦い笑みが浮かんだ。
「いや、正確には……君がいない世界を、世界自身が維持できなかったんだ」
出久は、息を呑んだ。
「君が世界を作り直したとき、君は自分の存在を消した。でも、君が世界を作り直したという事実までは消せなかった」
「……」
「君がいなければ、再構築は起きなかった。君がいなければ、世界はあの世界にならなかった。君がいなければ、僕は君の兄として存在することすらできなかった」
少年は、出久の胸元を指さした。
「君は、世界の外に出たつもりだった。でも、君は世界を作り直した原因そのものだった」
出久の身体が、震えた。
「だから、世界は君を戻した」
少年は、目を伏せた。
「君を、緑谷出久として」
「……じゃあ」
出久は、言葉を絞り出した。
「君は……どうなったの?」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「僕は、君がいない世界で生きていたよ」
出久の顔が、歪んだ。
「……生きていた?」
「うん」
「……僕が、いない世界で?」
「そうだよ」
少年は笑った。
「最初は、寂しかった」
彼は窓の外を見た。
「何かが足りない気がした。家族が一人少ないような気がした。食卓に並ぶ食器の数が、どうしても気になった」
「……」
「でも、誰もそのことを不思議に思わなかった。僕自身も、理由がわからなかった」
少年は、ゆっくりと目を閉じた。
「僕は、君を知らなかった」
出久の喉が詰まった。
「君が生まれなかった世界で、僕は君を知らずに生きていた」
少年は、淡々と語った。
「僕は学校に行って、友達を作って、ヒーローに憧れた。君が夢見ていたことを、僕が一人でやっていた」
彼は、少しだけ笑った。
「でも、ずっと何かを探していたんだ」
「……何を?」
「わからない」
少年は首を振った。
「ただ、誰かを助けなければいけない気がした。誰かを、忘れてはいけない気がした」
彼の目から、涙が落ちた。
「それが、君だったんだ」
出久は、何も言えなかった。
「君がいない世界で、僕は君を探していた」
少年は続けた。
「存在しない弟を。会ったことのない弟を。名前も知らない弟を」
彼は、涙を拭った。
「そして、ある日」
少年の声が、低くなった。
「僕は、夢を見た」
出久は息を止めた。
「夢の中で、君が泣いていた」
少年は、出久を見た。
「君は、僕に言ったんだ」
その顔が、夢の中の少年と重なった。
「『兄さんを助けて』って」
出久の頭の中で、何かが弾けた。
知らない記憶が、溢れ出す。
夜。
雨。
白い光。
そして、兄の声。
『出久』
『君は、僕を助けなくていい』
『僕を忘れていい』
『生きて』
出久は、頭を抱えた。
「……違う」
声が漏れた。
「違う、違う、違う……!」
少年は、何も言わなかった。
「僕は……僕は、兄さんを助けたかったんだ……!」
「うん」
「兄さんがいなくなるのが嫌だったんだ!」
「うん」
「だから、世界を作り直したんだ……!」
「うん」
「なのに、どうして……!」
出久は顔を上げた。
涙が止まらなかった。
「どうして、僕が兄さんを殺したことになるんだよ!」
少年は、目を伏せた。
「……君が、僕を殺したからだよ」
*
その言葉は、刃物のように出久の胸に突き刺さった。
少年は続けた。
「君は、世界を作り直すたびに、僕を探した。僕を取り戻そうとした。僕が存在する世界を探し続けた」
「……そうだよ」
「でも、世界は僕を認めなかった」
「……」
「だから、君は最後に、僕が存在しない世界を選んだ」
少年は、出久の目を見た。
「それが、君の選択だった」
出久は首を振った。
「違う……僕は、兄さんを助けるために……」
「わかってる」
少年は、優しく言った。
「君が僕を殺したかったわけじゃないことは、わかってる」
その優しさが、出久を追い詰めた。
「……じゃあ、どうして」
「でもね、出久」
少年は、一歩近づいた。
「君が僕を助けようとしたことと、僕が死んだことは、別の話なんだ」
出久は、息を呑んだ。
「君が僕を愛してくれたことは、本当だよ」
少年の声が震えた。
「君が僕を取り戻したかったことも、本当だよ」
少年は、出久の肩に手を置いた。
「でも、君が世界を作り直すたびに、僕は違う形で死んでいった」
出久の視界が滲んだ。
「僕は、君に見つけてもらえなかった」
少年は言った。
「僕は、君に覚えてもらえなかった」
「……」
「僕は、君が僕を探していることすら知らない世界で、君のことを知らずに生きていた」
少年は、微笑んだ。
「それでも、僕は君を責めていないよ」
「……やめて」
「君は、僕を助けたかったんだ」
「やめてよ……」
「君は、僕を失いたくなかったんだ」
「やめて!」
出久は叫んだ。
少年の手を振り払った。
「そんな言い方、しないでよ!」
声が裏返った。
「責めてよ! 怒ってよ! 僕を殴ってよ!」
出久は、少年を睨んだ。
「僕が君を殺したんだろ! だったら、どうしてそんな顔をするんだよ!」
少年は、悲しそうに笑った。
「……僕は、君のお兄ちゃんだから」
出久は、言葉を失った。
「君が僕を殺した日も」
少年は言った。
「君が僕を忘れた日も」
さらに一歩、近づく。
「君が僕を取り戻そうとして、何度も世界を壊した日も」
彼は、出久の手を取った。
「僕は、君のお兄ちゃんだったんだ」
出久は、その手を振りほどけなかった。
温かかった。
夢の中で握った手と、同じ温度だった。
「……兄さん」
声が漏れた。
その瞬間、少年の顔が歪んだ。
笑顔が崩れた。
彼は、初めて泣いた。
「……やっと」
少年は、声を詰まらせた。
「やっと、呼んでくれたね」
出久の目から、涙が溢れた。
何も覚えていなかった。
名前も。
顔も。
声も。
約束も。
何もかも忘れていた。
それでも、心の奥底に残っていた。
兄がいた。
兄が、自分を守ってくれた。
兄が、自分を愛してくれた。
そして、自分は。
その兄を、殺した。
出久は、膝から崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
声が震えた。
「ごめんなさい、兄さん……!」
少年は、出久を抱きしめた。
「……うん」
「ごめんなさい……!」
「うん」
「僕が……僕が、君を……!」
「うん」
少年は、弟の背中を撫でた。
かつて自分が、何度も何度も撫でてきたように。
「もういいよ、出久」
彼は囁いた。
「もう、いいんだよ」
その言葉に、出久は首を振った。
「……よくない」
少年の腕の中で、出久は泣き続けた。
「よくないよ……」
「……」
「だって、僕は……」
出久は、少年の服を握りしめた。
「君を、覚えていなかった……」
少年は、目を閉じた。
「……うん」
「君が死んだことも……君が、僕のために……」
声が途切れる。
「何も、知らなかった……」
少年は、出久を抱きしめる腕に力を込めた。
「それでいいんだよ」
出久は、顔を上げた。
「……え?」
「君が生きていてくれたなら、それでいい」
少年は、涙を流しながら笑った。
「僕は、そう思っていたんだ」
出久は、首を振った。
「……僕は、そんなの嫌だ」
「出久」
「君が死んで、僕だけが生きているなんて、そんなの……!」
「うん」
「君が僕のために犠牲になって、僕だけがヒーローになって、そんなの……!」
出久は、兄の胸を叩いた。
「僕は、そんな世界を望んでいない!」
少年は、何も言わなかった。
ただ、弟を抱きしめていた。
そのとき。
少年の身体が、淡い光を放ち始めた。
出久が顔を上げる。
「……兄さん?」
少年の指先が、透けていた。
身体の輪郭が、少しずつ崩れていく。
まるで、世界が再び彼を消そうとしているかのように。
「……ああ」
少年は、自分の手を見た。
「そろそろ、時間みたいだ」
「……何が?」
「僕が、ここにいられる時間」
出久は、少年の腕をつかんだ。
「待って!」
「出久」
「待ってよ! また消えるの? また、僕の前からいなくなるの?」
少年は、困ったように笑った。
「……ごめんね」
「嫌だ!」
出久は叫んだ。
「もう、嫌だ! もう誰も消えないでよ!」
世界が軋んだ。
時計の針が、わずかに震える。
壁に浮かぶ文字が、次々と書き換わっていく。
『個体識別:不成立』
『存在維持:不能』
『再構築対象:緑谷出久』
『再構築対象:御影出久』
『統合処理を開始します』
相澤が顔を上げた。
「……統合?」
少年の身体が、さらに透けていく。
「……っ!」
出久は、兄の手を強く握った。
「離さない!」
少年が驚いたように目を見開いた。
「出久……」
「僕は、もう君を忘れない!」
出久は叫んだ。
「君が誰だったのか、全部思い出す! 君が何をしたのか、何を失ったのか、全部知る!」
涙で視界が滲んでいた。
それでも、出久は兄の目を見た。
「だから、消えないでよ……!」
少年は、泣きながら笑った。
「……本当に、君は」
彼の声が途切れる。
身体が、白い光に包まれた。
「……僕の弟だね」
そして。
少年の姿が、消えた。
*
出久の手の中には、何も残らなかった。
温もりも。
感触も。
指先の形も。
すべてが消えていた。
出久は、呆然と自分の手を見つめた。
「……兄さん?」
返事はない。
「……兄さん」
もう一度、呼んだ。
誰も答えなかった。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
時計は02:13を示していた。
壁の文字は、すべて消えていた。
医務室は、元の姿を取り戻していた。
相澤が、出久の肩に手を置いた。
「……緑谷」
出久は、答えなかった。
爆豪は、拳を握りしめていた。
轟は、目を伏せていた。
飯田は、何かを言おうとして、結局口を閉じた。
お茶子は、出久のそばに膝をついた。
「……出久くん」
彼女は、そっと手を伸ばした。
出久は、その手を握った。
強く。
まるで、離せばまた誰かが消えてしまうかのように。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕……」
声が震えた。
「僕、兄さんを殺したんだ」
お茶子は、出久の手を握り返した。
「……うん」
「僕が、世界を壊したんだ」
「……うん」
「僕は、兄さんを助けたかった」
「うん」
「でも、僕が……僕が、兄さんを……」
言葉が続かなかった。
お茶子は、出久を抱きしめた。
「……わかってるよ」
その声は震えていた。
「出久くんが、どれだけ苦しかったかなんて、私には全部わからない」
彼女は、出久の背中に手を回した。
「でも、出久くんが一人で背負わなきゃいけないことじゃないよ」
「……」
「出久くんが何をしたのか、これから何をしなきゃいけないのか。私たちも、一緒に考えるから」
出久は、目を閉じた。
優しい言葉だった。
救われるような言葉だった。
それなのに。
胸の奥に、どうしても消えない痛みがあった。
兄の手の温もり。
兄の笑顔。
兄が最後に言った言葉。
『僕が、君を守るから』
そして。
『僕は、君のお兄ちゃんだったんだ』
出久は、唇を噛んだ。
忘れたくない。
もう二度と。
誰にも、忘れさせたくない。
たとえ世界がそれを拒んでも。
たとえ自分がどれだけ傷ついても。
兄が存在したことを、なかったことにはさせない。
その決意が生まれた瞬間。
医務室の机の上で、一冊のノートが開いた。
誰も触れていない。
白紙だったページに、文字が浮かび上がる。
『第一記録』
『対象:緑谷出久』
『事象:兄の殺害』
『動機:救済』
『結果:世界再構築』
そこまで書かれたところで、文字が止まった。
次の行が、ゆっくりと浮かび上がる。
『被害者:御影出久』
出久が顔を上げた。
その名前を見た瞬間、胸の奥に、別の記憶が蘇った。
兄の名前。
自分が、何度も呼んでいた名前。
自分が、何度も忘れた名前。
そして、自分が最後に選んだ名前。
「……御影」
出久は、震える声で呟いた。
「……御影、出久」
ノートの文字が、一瞬だけ光った。
次の行に、もう一つの記録が現れた。
『殺害時刻:02:13』
その下に。
『殺害者:緑谷出久』
そして、最後の一行。
『なお、当該殺害は――』
文字が乱れた。
ノートが激しく震えた。
ページが、風もないのにめくれていく。
壁の時計が、音を立てて動き始めた。
02:13。
02:14。
02:15。
時間が、再び進み始めた。
相澤が、時計を見上げた。
「……進んだ?」
だが、次の瞬間。
時計の針が、逆回転した。
02:14から02:13へ。
02:13から02:12へ。
そして、文字盤そのものが真っ黒に染まった。
ノートの最後の一行が、完成した。
『なお、当該殺害は、被害者本人の要請によるものではない』
出久は、息を呑んだ。
「……え?」
続けて、もう一行。
『被害者は、殺害を望んでいなかった』
お茶子が、ノートを見つめた。
相澤の表情が険しくなる。
爆豪が低く唸った。
「……待てよ」
彼はノートに近づいた。
「さっきの野郎は、自分で死ぬことを選んだんじゃねえのか?」
誰も答えられなかった。
ノートに、さらに文字が浮かび上がる。
『被害者は、生存を望んでいた』
『被害者は、弟との共存を望んでいた』
『被害者は、世界の消滅を望んでいなかった』
出久は、呆然とした。
兄の声が、頭の中で響いた。
『僕は、君を責めていないよ』
『僕は、君のお兄ちゃんだったんだ』
それは、確かに本当だった。
兄は、出久を責めなかった。
けれど。
責めなかったことと。
死にたかったことは。
同じではない。
出久は、震える手でノートをつかんだ。
「……じゃあ」
喉が、ひどく痛かった。
「じゃあ、僕は……」
言葉を続けられなかった。
そのとき。
ノートのページが、最後に一度だけめくられた。
そこには、これまでの記録とは違う文字があった。
機械的な書体ではない。
子どもの手で書かれたような、不揃いな文字。
『出久へ』
出久の心臓が止まりそうになった。
兄の字だった。
夢の中で見た、あの紙片と同じ筆跡。
文字は、少しずつ浮かび上がっていく。
『もし、君がこの記録を読んでいるなら』
『僕は、もう君のそばにいないんだろうね』
『ごめんね』
『本当は、ずっと一緒にいたかった』
出久の目から、涙が落ちた。
『僕は、君を守るために生まれたんじゃない』
その一文を読んで、出久は息を止めた。
『君に守ってもらうために、生まれたかった』
文字が滲んだ。
出久は、ノートを抱きしめた。
兄の言葉を、一文字も失いたくなかった。
『君が僕を守ってくれる世界を、見てみたかった』
『君と一緒に大きくなりたかった』
『君と喧嘩したかった』
『君に怒りたかった』
『君に、兄さんなんて大嫌いだって言われても、次の日にはまた一緒にご飯を食べたかった』
出久は、声を押し殺して泣いた。
『僕は、生きたかった』
最後の一文が、ゆっくりと浮かび上がった。
『だから、出久』
『君が僕を殺したことを、忘れないで』
出久は、顔を上げた。
その言葉は、呪いだった。
けれど、ただの呪いではなかった。
兄は、出久に罪を背負わせたいのではない。
自分の死を、なかったことにされたくなかったのだ。
自分が生きたかったことを。
自分が苦しかったことを。
自分が、弟と一緒に生きたかったことを。
世界に、忘れられたくなかったのだ。
そして、最後の文字が浮かび上がった。
『それでも、君が生きていることを、僕は嬉しく思う』
出久は、ノートを抱きしめたまま泣いた。
兄の言葉が、胸の奥に刺さっていた。
優しさも。
悲しみも。
怒りも。
後悔も。
そのすべてが、そこにあった。
そのとき。
医務室の扉が、ゆっくりと開いた。
誰も、扉を開けていなかった。
廊下には、誰もいなかった。
ただ、扉の向こうの暗闇に、一人の女性が立っていた。
顔は見えない。
けれど、出久にはわかった。
彼女は、あの病室にいた母親だ。
赤ん坊を抱きしめて、泣いていた女性。
生まれてはいけなかった子どもに、謝り続けていた女性。
女性は、出久を見つめた。
そして、言った。
「……思い出したのね」
出久は、ノートを抱きしめたまま立ち上がった。
「……あなたは」
女性は、答えなかった。
代わりに、ゆっくりと一歩、医務室へ入ってきた。
「あなたは、あの子を殺した」
声は静かだった。
怒鳴ってはいなかった。
責め立ててもいなかった。
ただ、事実を告げていた。
「あなたは、あの子を忘れた」
出久の身体が震えた。
「そして、あなたは、あの子をもう一度殺した」
「……違う」
出久は、かすれた声で言った。
女性は、首を振った。
「いいえ」
彼女は、出久の前に立った。
「あなたは、あの子を助けようとした」
「……」
「あなたは、あの子を愛していた」
「……」
「それでも、あなたはあの子を殺した」
出久は、唇を噛んだ。
何も言い返せなかった。
女性の目から、涙が落ちた。
「……でも」
彼女は、震える声で続けた。
「私には、あなたを憎むことすらできないの」
出久が顔を上げた。
「……どうして」
女性は、出久を見つめた。
その目には、深い悲しみがあった。
そして、出久がまだ知らない、別の何かがあった。
「だって」
女性は言った。
「あの子を殺したのは、あなた一人じゃないから」
医務室の空気が凍りついた。
女性は、出久の背後を見た。
誰もいないはずの空間を。
そこにいる何かを、確かに見つめていた。
「あなたがあの子を殺した日」
女性の声が、低くなる。
「あなたの兄さんは、まだ生きていた」
出久は、息を呑んだ。
「……え?」
「あなたが世界を作り直す前」
女性は、涙を拭わなかった。
「あなたが、自分の存在を消すと決める前」
「……」
「あなたの兄さんは、あなたの前で、確かに生きていた」
女性は、ゆっくりと出久に近づいた。
「そして、あの子を殺したのは――」
その瞬間、女性の顔が歪んだ。
何かに妨害されたかのように、声が途切れる。
医務室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。
『警告』
『未登録情報への接触を検知』
『観測者権限による記録改竄を開始』
女性は、顔を上げた。
初めて、怒りを露わにした。
「……まだ、隠すつもりなの?」
壁の文字が、増えていく。
『当該情報は、世界維持に必要です』
「世界維持?」
女性は、笑った。
悲しげで、恐ろしい笑みだった。
「この子たちを何度殺せば、あなたたちは満足するの?」
『記録を保護します』
「何度、母親から子どもを奪えばいいの?」
『観測を継続します』
「何度、子どもに選ばせればいいの?」
女性は、声を張り上げた。
「何度、愛する者を殺させればいいの!」
壁が、ひび割れた。
時計が、再び02:13を示した。
そして、女性の背後に、巨大な影が現れた。
顔がない。
輪郭が定まらない。
ただ、そこに存在している。
あの影。
何度も、出久たちの前に現れた存在。
第零個体。
影は、女性の背後に立ち、淡々と告げた。
『記録の改竄を完了しました』
女性の姿が、薄くなり始めた。
彼女は、出久を見つめた。
「……出久」
初めて、彼女は彼の名前を呼んだ。
「あなたは、あの子を殺した」
出久は、頷くことも、首を振ることもできなかった。
「でも」
女性は、消えかけた手を伸ばした。
「あなたは、あの子を生かすこともできる」
出久の目が見開かれた。
「……どうすれば」
女性は、答えようとした。
だが、影が一歩前に出た。
『接触を終了します』
「待って!」
出久は叫んだ。
「教えてください!」
女性の輪郭が崩れていく。
「どうすれば、兄さんを生かせるんですか!」
女性は、最後に微笑んだ。
「……あなたが、あの子に殺されることよ」
出久の世界が、止まった。
女性は消えた。
影も消えた。
医務室は、静寂に包まれた。
誰も、動けなかった。
ただ、出久の腕の中で、ノートが震えていた。
新しい文字が、浮かび上がる。
『第二十九回記録』
その下に。
『被害者:緑谷出久』
そして。
『加害者:御影出久』
最後の一行が、ゆっくりと完成した。
『兄は、弟を殺す』
出久は、その文字を見つめていた。
涙は、もう出なかった。
ただ、胸の奥で、何かが静かに壊れていく音がした。
自分は、兄を殺した。
それは、変えられない過去なのかもしれない。
けれど。
兄は、生きたかった。
兄は、自分と一緒に生きたかった。
そして今。
兄は、自分を殺すことになる。
出久は、ゆっくりとノートを閉じた。
顔を上げる。
目の前には、お茶子がいた。
相澤がいた。
爆豪がいた。
轟がいた。
自分を信じてくれる人たちがいた。
もう、誰か一人を選ぶつもりはなかった。
もう、誰か一人を犠牲にして世界を守るつもりもなかった。
たとえそれが、兄であっても。
たとえそれが、自分自身であっても。
「……僕は」
出久は、震える声で言った。
「今度こそ、兄さんを救う」
その言葉に、時計の秒針が一度だけ動いた。
02:13。
そして、02:14。
世界は、確かに一秒だけ進んだ。
だが、その一秒の向こう側で。
誰かが、静かに笑っていた。
少年の声が、どこからともなく響く。
『……出久』
懐かしい声だった。
優しい声だった。
けれど、今度の声には、確かな殺意が宿っていた。
『次は、僕が君を殺す番だよ』
そして、世界のどこかで。
もう一つの時計が、02:13を指した。
その時計の前に、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
出久と同じ顔。
少しだけ優しい目。
右側の口角が、わずかに上がる。
少年は、手の中の写真を見つめていた。
写真には、二人の子どもが写っていた。
兄と弟。
並んで笑う、二人の少年。
少年は、写真の中の弟を指でなぞった。
「……今度は」
彼は、静かに呟いた。
「僕が、君を忘れない」
その顔から、笑みが消えた。
「だから、今度こそ――」
少年は、写真を握りしめた。
「君を殺してでも、僕は生きる」
雨が降り始めた。
今度は、地面が濡れた。
雨粒が、少年の頬を伝って落ちていく。
それが涙なのか、雨なのか。
少年自身にも、わからなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
彼はもう、弟を守るためだけに生きているのではない。
彼は、生きたいのだ。
兄としてではなく。
犠牲者としてでもなく。
誰かのために消える存在としてでもなく。
一人の人間として。
緑谷出久の兄として。
そして――
御影出久として。
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
雨の向こうに、白い建物が見える。
その建物の入口には、見覚えのある文字が刻まれていた。
『出生管理室』
少年は、扉に手をかけた。
「……もう、選ばせない」
扉が開く。
暗闇の中から、機械の声が響いた。
『対象個体、御影出久』
『生存意思を確認』
『世界構造との不整合を検知』
『削除処理を開始します』
少年は笑った。
今度は、優しくなかった。
「やってみろよ」
彼は、一歩、暗闇へ踏み込んだ。
「今度は、僕が世界を殺す番だ」
扉が閉じた。
時計は、02:13を指していた。
そして、誰も知らない場所で。
第三十回目の記録が、静かに始まった。