僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十八話「僕が、兄さんを殺した日」

 

 最初に聞こえたのは、雨の音だった。

 

 窓を叩く雨ではない。

 

 屋根を打つ雨でもない。

 

 もっと近い。

 

 もっと重い。

 

 誰かの身体を、何度も何度も叩き続けるような音だった。

 

 ざあ、ざあ、ざあ。

 

 雨は降っている。

 

 それなのに、世界のどこにも水たまりがなかった。

 

 地面は乾いている。

 

 道路も、塀も、街路樹も、雨に濡れていない。

 

 ただ、空から落ちてくる雨粒だけが、地面に触れる直前に消えていた。

 

 まるで世界そのものが、雨に濡れることを拒んでいるようだった。

 

 緑谷出久は、そこに立っていた。

 

 裸足だった。

 

 手には、赤いものがついていた。

 

 血だ。

 

 自分の血ではない。

 

 そう理解した瞬間、出久は自分の両手を見つめた。

 

 指の隙間に入り込んだ赤黒い液体。

 

 爪の間に残る、乾きかけた血。

 

 手のひらに刻まれた、誰かの指の跡。

 

 その手を、誰かが握っていたのだ。

 

 ついさっきまで。

 

 出久は顔を上げた。

 

 目の前に、少年が倒れていた。

 

 緑色の髪。

 

 出久とよく似た顔。

 

 けれど、少しだけ違う。

 

 目元が、ほんの少しだけ優しい。

 

 笑うとき、右側の口角が先に上がる。

 

 泣くときは、決して声を出さない。

 

 そんな、出久が知らないはずの特徴を、出久は知っていた。

 

 知っている。

 

 知っているのに。

 

 名前が出てこない。

 

 少年は仰向けに倒れ、空を見上げていた。

 

 雨粒は彼の身体にも触れなかった。

 

 少年の胸元には、小さな穴が開いていた。

 

 そこから血が流れているはずなのに、血は地面に広がっていない。

 

 傷口から溢れた赤いものは、落ちる途中で消えていた。

 

 世界が、彼の死を認めていない。

 

 いや。

 

 違う。

 

 世界は、彼が死んだことを認めている。

 

 認めているからこそ、彼が存在した痕跡を消しているのだ。

 

 出久は、ゆっくりと膝をついた。

 

「……ねえ」

 

 少年に呼びかける。

 

 返事はない。

 

「ねえ、起きてよ」

 

 肩に触れる。

 

 冷たい。

 

「ねえってば」

 

 揺さぶる。

 

 少年の頭が、わずかに傾いた。

 

 その拍子に、少年のポケットから何かが落ちた。

 

 小さな紙片だった。

 

 雨に濡れない紙。

 

 そこには、子どもの字で一文だけ書かれていた。

 

『出久が大きくなったら、一緒にヒーローになろう』

 

 出久は息を止めた。

 

 紙片の裏には、もう一つの文字があった。

 

『兄さん』

 

 その瞬間。

 

 出久の脳裏に、声が響いた。

 

『出久』

 

 知らない声だった。

 

 知らないはずなのに、懐かしかった。

 

『僕を殺して』

 

 出久は顔を上げた。

 

 少年が、目を開けていた。

 

 いや。

 

 開けたのではない。

 

 少年の目は、最初から開いていたのだ。

 

 空を見つめたまま。

 

 何も映さない瞳で。

 

 少年は、出久に笑いかけた。

 

『僕を殺して』

 

 出久は叫んだ。

 

 そして――

 

 目を覚ました。

 

     *

 

「――緑谷!」

 

 誰かに肩をつかまれていた。

 

 出久は激しく息を吸い込んだ。

 

 喉が痛い。

 

 胸が痛い。

 

 自分の心臓が、自分の身体の中で暴れている。

 

 視界が揺れていた。

 

 目の前にいたのは、相澤消太だった。

 

「おい。聞こえるか」

 

「……先生」

 

「聞こえているなら答えろ。ここがどこかわかるか」

 

「……雄英、です」

 

「そうだ」

 

 相澤は、出久の肩をつかんだまま、彼の目を見ていた。

 

 いつもの眠そうな目ではない。

 

 わずかな異変も見逃さない、教師としての目だった。

 

「夢を見ていたのか」

 

「……はい」

 

「どんな夢だ」

 

 出久は答えようとした。

 

 けれど、言葉が出てこなかった。

 

 手を見た。

 

 血はついていない。

 

 指も、爪も、手のひらも、いつもどおりだった。

 

 それなのに。

 

 指先に、まだ感触が残っている。

 

 誰かの手を握った感触。

 

 その手が、自分の手から滑り落ちた感触。

 

 最後に、相手が笑った感触。

 

「……人を、殺しました」

 

 声が震えた。

 

 相澤の表情が変わった。

 

 隣にいた爆豪勝己が、壁から背中を離す。

 

 麗日お茶子は、出久の顔を見たまま息を呑んだ。

 

 轟焦凍は、何も言わずに一歩だけ近づいた。

 

 飯田天哉は、机の上に置かれた記録用紙を握りしめた。

 

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 

 出久は続けた。

 

「……僕が、殺したんです」

 

「緑谷」

 

「僕が……兄さんを」

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 部屋の壁に掛けられていた時計が、止まった。

 

 秒針が、十二の位置で固まる。

 

 デジタル時計の表示が消える。

 

 スマートフォンの画面が、一斉に黒くなる。

 

 廊下から聞こえていた足音が消えた。

 

 換気扇の音も。

 

 遠くの話し声も。

 

 世界から、音が失われた。

 

 そして、壁に掛けられていた時計の文字盤に、見覚えのある数字が浮かび上がった。

 

 02:13。

 

 相澤が、ゆっくりと出久の肩から手を離した。

 

「……またか」

 

 爆豪が舌打ちした。

 

「クソが。今度は何だ」

 

 答えはなかった。

 

 ただ、出久の目の前に置かれていたノートが、ひとりでに開いた。

 

 誰も触れていない。

 

 風もない。

 

 ページが一枚、めくられた。

 

 さらに一枚。

 

 さらに一枚。

 

 そして、白紙のページで止まった。

 

 そこに、文字が浮かび上がった。

 

『第二十八回記録』

 

 その下に、もう一文。

 

『僕が、兄さんを殺した日』

 

 お茶子が、口元を押さえた。

 

「……出久くん」

 

 出久は、ノートを見つめていた。

 

 文字を見た瞬間、夢の中の少年の顔が脳裏に蘇る。

 

 優しい目。

 

 少しだけ上がる右側の口角。

 

 声を出さずに泣く癖。

 

 知らないはずの、兄の顔。

 

「……僕は」

 

 出久は唇を噛んだ。

 

「僕は、兄さんを殺したことがあるんですか」

 

 誰も答えられなかった。

 

 答えられる者が、いなかった。

 

 ただ一人。

 

 部屋の隅に置かれていた、意識不明の少年を除いて。

 

     *

 

 少年が目を覚ましたのは、それから三秒後だった。

 

 正確には、三秒後に目を覚ましたと、そこにいた全員が認識した。

 

 しかし、後に記録を確認したところ、時計は止まったままだった。

 

 秒数を計測することは不可能だった。

 

 それでも、全員が同じ証言をした。

 

 少年は三秒後に目を覚ました。

 

 まるで、世界が彼の目覚めだけを許したかのように。

 

「……出久」

 

 少年の声は、ひどく掠れていた。

 

 ベッドの上で、少年が身を起こす。

 

 相澤がすぐに近づいた。

 

「動くな。まだ身体が――」

 

「出久」

 

 少年は相澤の言葉を聞いていなかった。

 

 視線は、まっすぐに緑谷出久へ向けられていた。

 

 出久も、少年を見ていた。

 

 二人の視線が交差する。

 

 その瞬間、少年の顔から血の気が引いた。

 

「……ああ」

 

 少年は、笑った。

 

 ひどく悲しそうな笑みだった。

 

「思い出したんだね」

 

 出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……何を?」

 

「僕のこと」

 

「……君は」

 

 出久は言葉を探した。

 

 目の前の少年。

 

 自分と似た顔。

 

 自分と似た声。

 

 そして、夢の中の少年と重なる輪郭。

 

「君は……誰なの?」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 その沈黙の間に、世界のあちこちで何かが軋んだ。

 

 壁の向こうから、子どもの泣き声が聞こえた。

 

 誰もいない廊下から、扉を叩く音がした。

 

 遠くで、誰かが名前を呼んでいる。

 

 そのすべてが、少年の返答を待っていた。

 

 やがて少年は、口を開いた。

 

「僕は、君のお兄ちゃんだよ」

 

 お茶子が息を呑んだ。

 

 飯田の手から、記録用紙が落ちた。

 

 轟の目が、わずかに見開かれる。

 

 爆豪だけが、少年を睨みつけたまま動かなかった。

 

「……ふざけんな」

 

 爆豪が低く言った。

 

「いきなり出てきて、兄貴だと? 寝言は寝て言え」

 

「うん」

 

 少年は、爆豪を見た。

 

「そうだね。君からしたら、そうなるよね」

 

「テメェ……」

 

「ごめん」

 

 少年は、素直に頭を下げた。

 

「でも、僕は嘘をついていない」

 

 爆豪が一歩踏み出す。

 

 相澤が片手を上げ、制止した。

 

「緑谷。お前はどう思う」

 

 相澤は、出久に尋ねた。

 

「こいつの言葉を信じるのか」

 

 出久は答えられなかった。

 

 信じたいわけではない。

 

 信じたくないわけでもない。

 

 ただ、胸の奥が痛かった。

 

 少年を見ていると、理由もなく泣きたくなる。

 

 謝らなければならない気がする。

 

 謝っても、許されない気がする。

 

 それなのに。

 

 彼にもう一度会いたかったような気がする。

 

「……わからないです」

 

 出久は、正直に答えた。

 

「でも」

 

 少年を見つめる。

 

「君が、僕のお兄ちゃんだっていうなら」

 

 声が震えた。

 

「どうして、僕は君を覚えていないんですか」

 

 少年は目を閉じた。

 

「……僕が、忘れさせたからだよ」

 

     *

 

 その言葉を聞いた瞬間、部屋の壁が透けた。

 

 壁の向こうに、別の部屋が見えた。

 

 白い壁。

 

 白い天井。

 

 白い床。

 

 病院だった。

 

 だが、雄英の医務室ではない。

 

 もっと古い。

 

 もっと小さい。

 

 壁の隅に、色褪せた動物のシールが貼られていた。

 

 窓辺には、小さな花瓶。

 

 枯れた花が一本だけ挿さっている。

 

 ベッドが二つ。

 

 片方には、赤ん坊が眠っていた。

 

 もう片方には、誰もいなかった。

 

 壁の向こうの景色は、過去の記憶のようだった。

 

 それとも、世界が作り直される前の風景なのか。

 

 誰にもわからなかった。

 

 少年は、その景色を見ていた。

 

「……あの日の病室だ」

 

 小さく呟いた。

 

 出久は、壁の向こうを見つめる。

 

「……あの日?」

 

「僕が生まれた日」

 

 少年は、ゆっくりと話し始めた。

 

「正確には、僕と君が生まれた日」

 

 病室のベッドで、赤ん坊が泣いた。

 

 もう一つのベッドには、赤ん坊がいなかった。

 

 だが、少年は続けた。

 

「僕たちは、同じ日に生まれたわけじゃない」

 

 出久が顔を上げる。

 

「……え?」

 

「同じ日に生まれたことにされたんだ」

 

 少年の声は静かだった。

 

「君は二時十三分に生まれた。僕も、二時十三分に生まれた。記録にはそう書いてある。でも、本当は違う」

 

「何が……違うんだ?」

 

 爆豪の声が割り込んだ。

 

 少年は彼を見た。

 

「僕が先に生まれたんだ」

 

 病室の景色が揺れる。

 

 ベッドの横に立つ若い女性の姿が浮かび上がった。

 

 疲れ切った顔。

 

 震える手。

 

 涙で濡れた頬。

 

 母親だった。

 

 誰の母親なのか。

 

 出久には、まだわからなかった。

 

 女性は、腕の中の赤ん坊を見つめていた。

 

 その子は泣いていなかった。

 

 ただ、小さな手を握りしめていた。

 

 女性は、赤ん坊の額に唇を寄せた。

 

『ごめんね』

 

 声が聞こえた。

 

『ごめんね、ごめんね』

 

 何度も。

 

 何度も。

 

『あなたを産んでしまって、ごめんね』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その言葉は、あまりにも残酷だった。

 

 母親が、生まれたばかりの子どもに向ける言葉ではない。

 

 けれど女性は、泣きながら繰り返していた。

 

『あなたは、ここに生まれてはいけなかった』

 

 赤ん坊が、小さな声を上げた。

 

 女性は、赤ん坊を抱きしめた。

 

『それでも……』

 

 彼女は、顔を歪めた。

 

『それでも、あなたは私の子どもよ』

 

 病室の景色が、白く染まった。

 

 少年は、目を伏せた。

 

「僕は、生まれてはいけなかったんだ」

 

「違う」

 

 出久は、即座に言った。

 

 自分でも驚くほど、強い声だった。

 

「それは違うよ」

 

 少年が顔を上げる。

 

「生まれてはいけない子どもなんて、いない」

 

「……出久」

 

「どんな理由があっても、そんなことはない」

 

 出久は拳を握った。

 

「君がどんな存在だったとしても。世界にとって、どんな意味があったとしても。君が生まれたことを、誰かが間違いだって決めることはできない」

 

 少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと笑った。

 

「……そう言うと思った」

 

 その笑みを見た瞬間、出久の胸が締めつけられた。

 

 まるで、何度も同じ会話を繰り返してきたような感覚。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 そのたびに、同じ結末に辿り着いてしまったような感覚。

 

「でもね、出久」

 

 少年は言った。

 

「僕は、君にそう言ってほしかったんじゃないんだ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「僕が生まれてはいけなかった理由を、君に知ってほしかったんだ」

 

 壁の向こうで、母親が泣いていた。

 

 赤ん坊を抱きしめたまま。

 

 まるで、誰かが扉の向こうから迫ってくるのを恐れているかのように。

 

 そして、病室の扉が開いた。

 

 入ってきたのは、一人の男だった。

 

 緑谷久志。

 

 出久の父親だった。

 

 だが、出久が知っている父親よりも若い。

 

 頬がこけ、目の下に濃い隈があった。

 

 彼は女性を見た。

 

 女性は、赤ん坊を抱きしめたまま首を振った。

 

『駄目です』

 

 久志は、何も言わなかった。

 

『この子を連れていかないで』

 

 女性は懇願した。

 

『お願いです。この子は、私の子どもです』

 

 久志は、ようやく口を開いた。

 

『……わかっている』

 

『なら、どうして』

 

『この子が生きていると、もう一人の子どもが死ぬ』

 

 出久の心臓が、嫌な音を立てた。

 

 父親の言葉。

 

 聞き覚えがあった。

 

 あの封筒。

 

 二枚の出生証明書。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 同じ時刻。

 

 同じ両親。

 

 そして、片方にだけ記された死亡の文字。

 

 久志は、赤ん坊を見つめた。

 

『この子が生きている限り、もう一人は生まれられない』

 

 女性は首を振った。

 

『違います』

 

『何が違う』

 

『この子が生まれたから、あの子が生まれられなくなったんじゃない』

 

 女性の声が震えた。

 

『あの子が生まれられない世界だから、この子が生まれたことにされたんです』

 

 沈黙が落ちた。

 

 久志の顔が、凍りついた。

 

 出久は、その言葉の意味を理解できなかった。

 

 いや。

 

 理解したくなかった。

 

 女性は、赤ん坊の顔を見た。

 

『この子は、代わりなんかじゃない』

 

 彼女は、久志を見据えた。

 

『この子は、この子です』

 

 病室の景色が激しく揺れた。

 

 白い壁に、黒い文字が浮かび上がる。

 

『個体識別:不成立』

 

『出生順位:矛盾』

 

『親子関係:重複』

 

『生存許可:保留』

 

 文字が増えていく。

 

 壁も、天井も、床も。

 

 病室全体が、巨大な記録装置へと変わっていった。

 

『第一個体の存在が確認されました』

 

『第二個体の出生を確認しました』

 

『第三個体の出生記録を確認しました』

 

『矛盾が発生しました』

 

 久志が、頭を抱えた。

 

 女性は、赤ん坊を抱きしめた。

 

 そして、病室の隅に立つ何かを見た。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 誰もいないはずだった。

 

 だが、女性は確かに、そこにいる何者かに向かって言った。

 

『……この子だけは、連れていかないで』

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、機械のような声が響いた。

 

『対象個体の存在は、世界構造と両立しません』

 

『修正が必要です』

 

『削除対象を選択してください』

 

 久志が、震える声で尋ねた。

 

『……削除、だと?』

 

『選択肢は三つです』

 

 壁に、三つの名前が浮かび上がった。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 そして――

 

 名前のない、三つ目の欄。

 

『未登録個体』

 

 出久の視界が、真っ暗になった。

 

     *

 

「……っ!」

 

 出久は、頭を押さえた。

 

 頭蓋骨の内側を、無数の針で刺されているようだった。

 

 映像が流れ込んでくる。

 

 病室。

 

 赤ん坊。

 

 母親。

 

 父親。

 

 名前のない欄。

 

 そして。

 

 自分の手。

 

 小さな手。

 

 血に濡れた手。

 

「緑谷!」

 

 相澤の声が聞こえた。

 

 しかし、出久は返事をできなかった。

 

 視界の端に、別の光景が浮かび上がっていた。

 

 病室ではない。

 

 家だった。

 

 小さな一軒家。

 

 窓の外に、庭がある。

 

 庭には、二人の子どもがいた。

 

 一人は、緑色の髪。

 

 もう一人も、緑色の髪。

 

 年齢は、少しだけ違っていた。

 

 年上の少年が、年下の少年の手を引いていた。

 

『ほら、出久。こっちだよ』

 

『待ってよ、兄さん!』

 

 年下の少年が笑う。

 

 年上の少年も笑う。

 

 その顔を見て、出久は泣きそうになった。

 

 あれは。

 

 あの子どもたちは。

 

 自分と。

 

 自分の兄だった。

 

 いや。

 

 違う。

 

 もっと正確に言うなら。

 

 自分が、兄と呼んでいた少年だった。

 

 庭の隅に、小さな木が植えられていた。

 

 まだ細い幹。

 

 頼りない枝。

 

 少年たちは、その木の前にしゃがみ込んでいた。

 

『大きくなったら、何になりたい?』

 

 兄が尋ねる。

 

『ヒーロー!』

 

 弟は即答した。

 

『どんなヒーロー?』

 

『みんなを助けるヒーロー!』

 

『みんなって、誰?』

 

『みんなは、みんなだよ!』

 

 弟は胸を張った。

 

『誰も死なせないんだ!』

 

 兄は、少しだけ困った顔をした。

 

『……それは、難しいかもしれないね』

 

『どうして?』

 

『だって、出久は一人しかいないから』

 

 弟は首を傾げた。

 

『一人じゃ、駄目なの?』

 

『ううん』

 

 兄は笑った。

 

『一人じゃないよ』

 

 兄は弟の手を握った。

 

『僕がいるから』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その言葉。

 

 その表情。

 

 その手の温かさ。

 

 全部、知っていた。

 

 忘れていた。

 

 けれど、知っていた。

 

『だからね、出久』

 

 兄は弟の目を見つめた。

 

『もし、いつか世界が君に、誰かを選べって言ってきたら』

 

 弟は首を傾げた。

 

『誰かを選ぶ?』

 

『うん。誰か一人を助けるために、誰か一人を諦めろって言われたら』

 

 兄は、弟の頭を撫でた。

 

『そのときは、僕を選ばなくていいよ』

 

『……え?』

 

『僕を助けなくていい』

 

 弟の顔が、曇った。

 

『どうして?』

 

『君には、君の人生があるから』

 

 兄は笑った。

 

『僕は、君が生きていてくれたら、それでいい』

 

 弟は、泣きそうな顔になった。

 

『……やだ』

 

『出久』

 

『やだ! そんなの、やだよ!』

 

 兄は、弟を抱きしめた。

 

『大丈夫』

 

 その声は優しかった。

 

『大丈夫だよ』

 

 兄は、何度も弟の背中を撫でた。

 

『僕は、君を守るから』

 

 その言葉が。

 

 その約束が。

 

 世界の底に、深く刻まれていった。

 

 そして。

 

 出久の記憶は、そこで途切れた。

 

     *

 

「……僕は」

 

 出久の口から、声が漏れた。

 

「僕は、兄さんを殺した」

 

 少年が、静かに頷いた。

 

「うん」

 

 その肯定は、あまりにもあっさりしていた。

 

 責める声ではない。

 

 恨む声でもない。

 

 ただ、事実を認める声だった。

 

 出久は、少年を見つめた。

 

「……どうして」

 

「何が?」

 

「どうして、僕が……兄さんを殺したの?」

 

 少年は答えなかった。

 

 代わりに、ベッドから足を下ろした。

 

 相澤が止めようとする。

 

「待て。まだ動くな」

 

「すみません、先生」

 

 少年は、相澤に頭を下げた。

 

「でも、これだけは、僕の口から話さないといけないんです」

 

 少年は出久の前まで歩いてきた。

 

 足取りは不安定だった。

 

 身体はまだ、完全に回復していない。

 

 それでも彼は、出久の前に立った。

 

「僕たちが生まれたとき、世界は僕を認めなかった」

 

 少年は言った。

 

「僕が生きていると、君が生まれられない。僕が生まれていると、君の存在が成立しない。世界はそう判断した」

 

「……そんな」

 

「でも、母さんは僕を生かそうとした」

 

 少年は目を伏せた。

 

「父さんも、最初はそうだったんだ」

 

 久志の名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。

 

 出久は、父親の顔を思い浮かべた。

 

 あの封筒。

 

 あの黒い電話。

 

 あの告白。

 

 父は、二人の息子を殺した。

 

 そう語られた。

 

 しかし、それだけではない。

 

 父は、二人を生かそうとしていた。

 

 生かそうとして。

 

 選ばされて。

 

 選んでしまった。

 

「父さんは、僕を殺したんじゃない」

 

 少年は、はっきりと言った。

 

「少なくとも、最初はね」

 

 出久は息を呑んだ。

 

「……じゃあ」

 

「僕を殺したのは、世界だよ」

 

 少年は答えた。

 

「そして、その世界を作り直したのが、君だった」

 

 静寂が落ちた。

 

 出久は、言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

「僕が、世界を?」

 

「そうだよ」

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「君は、僕を助けたかった」

 

 その声が、少しだけ震えた。

 

「君は、僕がいなくなることを認めなかった」

 

 少年は笑った。

 

「だから、世界を壊したんだ」

 

     *

 

 最初の世界は、何もおかしくなかった。

 

 少なくとも、出久はそう思っていた。

 

 家があり、家族がいて、学校があった。

 

 兄がいて、弟がいた。

 

 母がいて、父がいた。

 

 食卓には四人分の食器が並び、庭には小さな木が育っていた。

 

 兄は、出久の面倒をよく見てくれた。

 

 出久が転べば、手を差し伸べた。

 

 出久が泣けば、そばに座った。

 

 出久が失敗すれば、一緒に怒られた。

 

 出久が夢を語れば、誰よりも真剣に聞いてくれた。

 

 その世界で、兄は出久のすべてだった。

 

 そして、世界はある日、兄を殺そうとした。

 

 それは、何の前触れもなく始まった。

 

 兄の名前が、学校の名簿から消えた。

 

 兄の席が、最初からなかったことになった。

 

 家族写真から、兄の姿が消えた。

 

 母親は、兄の名前を呼べなくなった。

 

 父親は、兄が使っていた部屋を見ても、そこに何があったのか思い出せなくなった。

 

 世界は、兄を消し始めた。

 

 出久だけが、覚えていた。

 

 兄がいたこと。

 

 兄と笑ったこと。

 

 兄に守られたこと。

 

 兄が、自分の手を握ってくれたこと。

 

 出久は、何度も大人たちに訴えた。

 

『兄さんがいない!』

 

『僕のお兄ちゃんが、いなくなったんだ!』

 

 誰も信じなかった。

 

 誰も、彼を覚えていなかった。

 

 そして、ある日。

 

 兄は、出久の目の前から消えた。

 

 消える直前、兄は笑っていた。

 

『出久』

 

 兄は、いつものように弟の頭を撫でた。

 

『ごめんね』

 

『……兄さん?』

 

『君は、何も悪くないよ』

 

 兄の身体が、白い光に包まれた。

 

『兄さん!』

 

 出久は、手を伸ばした。

 

『待って!』

 

 兄は、手を伸ばし返した。

 

『僕のことを、忘れていいんだよ』

 

『やだ!』

 

『出久』

 

『やだ! やだよ!』

 

 兄の指先が、消えた。

 

 手のひらが消えた。

 

 腕が消えた。

 

 胸が消えた。

 

 最後に、兄の顔が消えた。

 

 それでも、口だけは動いていた。

 

『生きて』

 

 兄は、そう言った。

 

 そして。

 

 世界から、兄が消えた。

 

 出久は、ひとりになった。

 

 ひとりになった瞬間、世界が完成した。

 

 兄のいない世界として。

 

 最初から、兄などいなかった世界として。

 

 学校の名簿には、出久の名前だけがあった。

 

 家族写真には、三人しか写っていなかった。

 

 食卓には、三人分の食器が並んでいた。

 

 兄の部屋は、最初から物置だった。

 

 母は笑っていた。

 

 父は新聞を読んでいた。

 

 世界は、何も問題がないように回り続けた。

 

 ただ一人。

 

 緑谷出久だけが、世界の間違いを覚えていた。

 

 出久は、泣いた。

 

 泣き続けた。

 

 眠れなかった。

 

 食べられなかった。

 

 何度も、兄を探した。

 

 何度も、名前を呼んだ。

 

 何度も、神様に願った。

 

 けれど、誰も答えなかった。

 

 だから、出久は決めた。

 

 世界が兄を消したのなら。

 

 兄を消した世界を、作り直せばいい。

 

 そうすれば、兄は戻ってくる。

 

 そうすれば、また四人で暮らせる。

 

 そうすれば、もう一度、兄の手を握れる。

 

 出久は、世界を壊した。

 

 その瞬間、世界は白く染まった。

 

 時計は02:13で止まった。

 

 すべての音が消えた。

 

 そして、出久の目の前に、巨大な記録装置が現れた。

 

『再構築要求を確認しました』

 

『対象:緑谷出久』

 

『目的:消失個体の復元』

 

『復元対象の名称を入力してください』

 

 出久は、泣きながら答えた。

 

『……兄さん』

 

 記録装置は沈黙した。

 

『名称が不正です』

 

『……兄さんだよ』

 

『対象個体の識別情報を入力してください』

 

『僕の、お兄ちゃんだ!』

 

 出久は叫んだ。

 

『僕を守ってくれた人なんだ!』

 

 記録装置は、再び沈黙した。

 

『該当する個体は存在しません』

 

 出久は、膝をついた。

 

 世界は、兄を認めなかった。

 

 ならば。

 

 認めるまで、やり直せばいい。

 

 出久は、世界を再構築した。

 

 そして、もう一度、兄を探した。

 

 見つからなかった。

 

 また、世界を壊した。

 

 また、作り直した。

 

 また、探した。

 

 また、見つからなかった。

 

 その繰り返しだった。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 十回。

 

 百回。

 

 千回。

 

 世界は何度も生まれ、何度も滅びた。

 

 そのたびに、出久は兄を探した。

 

 そのたびに、兄は見つからなかった。

 

 それでも出久は、諦めなかった。

 

 世界を作り直せば、いつか。

 

 世界を作り直せば、きっと。

 

 世界を作り直せば――

 

 やがて、出久は気づいた。

 

 自分が何をしているのか。

 

 世界がどれほどの命を抱えているのか。

 

 自分が世界を壊すたび、何が失われているのか。

 

 それでも、出久は止まれなかった。

 

 止まれば、兄がいなくなった世界を認めることになる。

 

 止まれば、兄を忘れることになる。

 

 止まれば、兄が死んだことを受け入れることになる。

 

 そんなことはできなかった。

 

 できるはずがなかった。

 

 だから、出久は世界を壊し続けた。

 

 兄を救うために。

 

 兄を取り戻すために。

 

 兄を忘れないために。

 

 そして、最後の再構築が始まった。

 

 出久は、ひとつの世界を選んだ。

 

 兄が存在しない代わりに、兄を殺した原因も存在しない世界。

 

 兄が生まれなかった代わりに、誰も兄を消さない世界。

 

 兄が生きていたという記録も。

 

 兄が死んだという記録も。

 

 最初から存在しない世界。

 

 そこなら、兄は苦しまない。

 

 そこなら、兄は消されない。

 

 そこなら、兄は世界に殺されない。

 

 出久は、最後に一つだけ願った。

 

 兄が、自分のために苦しむことのない世界を。

 

 兄が、自分のために死ぬことのない世界を。

 

 兄が、自分を守るために、何かを犠牲にしなくていい世界を。

 

 その代償として。

 

 出久自身が、世界から消えることを選んだ。

 

 自分がいなければ、世界は安定する。

 

 自分がいなければ、兄は生まれなくても苦しまない。

 

 自分がいなければ、世界は誰かを選ぶ必要がない。

 

 そう思った。

 

 だから、出久は消えた。

 

 緑谷出久という個体を、世界の記録から削除した。

 

 そして、世界は再構築された。

 

 その世界には、兄がいた。

 

 母がいた。

 

 父がいた。

 

 誰も、死ななかった。

 

 誰も、消されなかった。

 

 そして。

 

 緑谷出久という少年だけが、存在しなかった。

 

     *

 

「……でも」

 

 現在の緑谷出久は、震える声で尋ねた。

 

「それなら、どうして僕はここにいるの?」

 

 少年は、静かに答えた。

 

「君が、戻ってきたからだよ」

 

「……戻ってきた?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君は、世界から消えた。君が存在しない世界を作った。僕が君を守る必要のない世界を選んだ」

 

「……なのに」

 

「なのに、世界は君を必要とした」

 

 少年の顔に、苦い笑みが浮かんだ。

 

「いや、正確には……君がいない世界を、世界自身が維持できなかったんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「君が世界を作り直したとき、君は自分の存在を消した。でも、君が世界を作り直したという事実までは消せなかった」

 

「……」

 

「君がいなければ、再構築は起きなかった。君がいなければ、世界はあの世界にならなかった。君がいなければ、僕は君の兄として存在することすらできなかった」

 

 少年は、出久の胸元を指さした。

 

「君は、世界の外に出たつもりだった。でも、君は世界を作り直した原因そのものだった」

 

 出久の身体が、震えた。

 

「だから、世界は君を戻した」

 

 少年は、目を伏せた。

 

「君を、緑谷出久として」

 

「……じゃあ」

 

 出久は、言葉を絞り出した。

 

「君は……どうなったの?」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 そして、答えた。

 

「僕は、君がいない世界で生きていたよ」

 

 出久の顔が、歪んだ。

 

「……生きていた?」

 

「うん」

 

「……僕が、いない世界で?」

 

「そうだよ」

 

 少年は笑った。

 

「最初は、寂しかった」

 

 彼は窓の外を見た。

 

「何かが足りない気がした。家族が一人少ないような気がした。食卓に並ぶ食器の数が、どうしても気になった」

 

「……」

 

「でも、誰もそのことを不思議に思わなかった。僕自身も、理由がわからなかった」

 

 少年は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「僕は、君を知らなかった」

 

 出久の喉が詰まった。

 

「君が生まれなかった世界で、僕は君を知らずに生きていた」

 

 少年は、淡々と語った。

 

「僕は学校に行って、友達を作って、ヒーローに憧れた。君が夢見ていたことを、僕が一人でやっていた」

 

 彼は、少しだけ笑った。

 

「でも、ずっと何かを探していたんだ」

 

「……何を?」

 

「わからない」

 

 少年は首を振った。

 

「ただ、誰かを助けなければいけない気がした。誰かを、忘れてはいけない気がした」

 

 彼の目から、涙が落ちた。

 

「それが、君だったんだ」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「君がいない世界で、僕は君を探していた」

 

 少年は続けた。

 

「存在しない弟を。会ったことのない弟を。名前も知らない弟を」

 

 彼は、涙を拭った。

 

「そして、ある日」

 

 少年の声が、低くなった。

 

「僕は、夢を見た」

 

 出久は息を止めた。

 

「夢の中で、君が泣いていた」

 

 少年は、出久を見た。

 

「君は、僕に言ったんだ」

 

 その顔が、夢の中の少年と重なった。

 

「『兄さんを助けて』って」

 

 出久の頭の中で、何かが弾けた。

 

 知らない記憶が、溢れ出す。

 

 夜。

 

 雨。

 

 白い光。

 

 そして、兄の声。

 

『出久』

 

『君は、僕を助けなくていい』

 

『僕を忘れていい』

 

『生きて』

 

 出久は、頭を抱えた。

 

「……違う」

 

 声が漏れた。

 

「違う、違う、違う……!」

 

 少年は、何も言わなかった。

 

「僕は……僕は、兄さんを助けたかったんだ……!」

 

「うん」

 

「兄さんがいなくなるのが嫌だったんだ!」

 

「うん」

 

「だから、世界を作り直したんだ……!」

 

「うん」

 

「なのに、どうして……!」

 

 出久は顔を上げた。

 

 涙が止まらなかった。

 

「どうして、僕が兄さんを殺したことになるんだよ!」

 

 少年は、目を伏せた。

 

「……君が、僕を殺したからだよ」

 

     *

 

 その言葉は、刃物のように出久の胸に突き刺さった。

 

 少年は続けた。

 

「君は、世界を作り直すたびに、僕を探した。僕を取り戻そうとした。僕が存在する世界を探し続けた」

 

「……そうだよ」

 

「でも、世界は僕を認めなかった」

 

「……」

 

「だから、君は最後に、僕が存在しない世界を選んだ」

 

 少年は、出久の目を見た。

 

「それが、君の選択だった」

 

 出久は首を振った。

 

「違う……僕は、兄さんを助けるために……」

 

「わかってる」

 

 少年は、優しく言った。

 

「君が僕を殺したかったわけじゃないことは、わかってる」

 

 その優しさが、出久を追い詰めた。

 

「……じゃあ、どうして」

 

「でもね、出久」

 

 少年は、一歩近づいた。

 

「君が僕を助けようとしたことと、僕が死んだことは、別の話なんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「君が僕を愛してくれたことは、本当だよ」

 

 少年の声が震えた。

 

「君が僕を取り戻したかったことも、本当だよ」

 

 少年は、出久の肩に手を置いた。

 

「でも、君が世界を作り直すたびに、僕は違う形で死んでいった」

 

 出久の視界が滲んだ。

 

「僕は、君に見つけてもらえなかった」

 

 少年は言った。

 

「僕は、君に覚えてもらえなかった」

 

「……」

 

「僕は、君が僕を探していることすら知らない世界で、君のことを知らずに生きていた」

 

 少年は、微笑んだ。

 

「それでも、僕は君を責めていないよ」

 

「……やめて」

 

「君は、僕を助けたかったんだ」

 

「やめてよ……」

 

「君は、僕を失いたくなかったんだ」

 

「やめて!」

 

 出久は叫んだ。

 

 少年の手を振り払った。

 

「そんな言い方、しないでよ!」

 

 声が裏返った。

 

「責めてよ! 怒ってよ! 僕を殴ってよ!」

 

 出久は、少年を睨んだ。

 

「僕が君を殺したんだろ! だったら、どうしてそんな顔をするんだよ!」

 

 少年は、悲しそうに笑った。

 

「……僕は、君のお兄ちゃんだから」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君が僕を殺した日も」

 

 少年は言った。

 

「君が僕を忘れた日も」

 

 さらに一歩、近づく。

 

「君が僕を取り戻そうとして、何度も世界を壊した日も」

 

 彼は、出久の手を取った。

 

「僕は、君のお兄ちゃんだったんだ」

 

 出久は、その手を振りほどけなかった。

 

 温かかった。

 

 夢の中で握った手と、同じ温度だった。

 

「……兄さん」

 

 声が漏れた。

 

 その瞬間、少年の顔が歪んだ。

 

 笑顔が崩れた。

 

 彼は、初めて泣いた。

 

「……やっと」

 

 少年は、声を詰まらせた。

 

「やっと、呼んでくれたね」

 

 出久の目から、涙が溢れた。

 

 何も覚えていなかった。

 

 名前も。

 

 顔も。

 

 声も。

 

 約束も。

 

 何もかも忘れていた。

 

 それでも、心の奥底に残っていた。

 

 兄がいた。

 

 兄が、自分を守ってくれた。

 

 兄が、自分を愛してくれた。

 

 そして、自分は。

 

 その兄を、殺した。

 

 出久は、膝から崩れ落ちた。

 

「……ごめんなさい」

 

 声が震えた。

 

「ごめんなさい、兄さん……!」

 

 少年は、出久を抱きしめた。

 

「……うん」

 

「ごめんなさい……!」

 

「うん」

 

「僕が……僕が、君を……!」

 

「うん」

 

 少年は、弟の背中を撫でた。

 

 かつて自分が、何度も何度も撫でてきたように。

 

「もういいよ、出久」

 

 彼は囁いた。

 

「もう、いいんだよ」

 

 その言葉に、出久は首を振った。

 

「……よくない」

 

 少年の腕の中で、出久は泣き続けた。

 

「よくないよ……」

 

「……」

 

「だって、僕は……」

 

 出久は、少年の服を握りしめた。

 

「君を、覚えていなかった……」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「……うん」

 

「君が死んだことも……君が、僕のために……」

 

 声が途切れる。

 

「何も、知らなかった……」

 

 少年は、出久を抱きしめる腕に力を込めた。

 

「それでいいんだよ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……え?」

 

「君が生きていてくれたなら、それでいい」

 

 少年は、涙を流しながら笑った。

 

「僕は、そう思っていたんだ」

 

 出久は、首を振った。

 

「……僕は、そんなの嫌だ」

 

「出久」

 

「君が死んで、僕だけが生きているなんて、そんなの……!」

 

「うん」

 

「君が僕のために犠牲になって、僕だけがヒーローになって、そんなの……!」

 

 出久は、兄の胸を叩いた。

 

「僕は、そんな世界を望んでいない!」

 

 少年は、何も言わなかった。

 

 ただ、弟を抱きしめていた。

 

 そのとき。

 

 少年の身体が、淡い光を放ち始めた。

 

 出久が顔を上げる。

 

「……兄さん?」

 

 少年の指先が、透けていた。

 

 身体の輪郭が、少しずつ崩れていく。

 

 まるで、世界が再び彼を消そうとしているかのように。

 

「……ああ」

 

 少年は、自分の手を見た。

 

「そろそろ、時間みたいだ」

 

「……何が?」

 

「僕が、ここにいられる時間」

 

 出久は、少年の腕をつかんだ。

 

「待って!」

 

「出久」

 

「待ってよ! また消えるの? また、僕の前からいなくなるの?」

 

 少年は、困ったように笑った。

 

「……ごめんね」

 

「嫌だ!」

 

 出久は叫んだ。

 

「もう、嫌だ! もう誰も消えないでよ!」

 

 世界が軋んだ。

 

 時計の針が、わずかに震える。

 

 壁に浮かぶ文字が、次々と書き換わっていく。

 

『個体識別:不成立』

 

『存在維持:不能』

 

『再構築対象:緑谷出久』

 

『再構築対象:御影出久』

 

『統合処理を開始します』

 

 相澤が顔を上げた。

 

「……統合?」

 

 少年の身体が、さらに透けていく。

 

「……っ!」

 

 出久は、兄の手を強く握った。

 

「離さない!」

 

 少年が驚いたように目を見開いた。

 

「出久……」

 

「僕は、もう君を忘れない!」

 

 出久は叫んだ。

 

「君が誰だったのか、全部思い出す! 君が何をしたのか、何を失ったのか、全部知る!」

 

 涙で視界が滲んでいた。

 

 それでも、出久は兄の目を見た。

 

「だから、消えないでよ……!」

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「……本当に、君は」

 

 彼の声が途切れる。

 

 身体が、白い光に包まれた。

 

「……僕の弟だね」

 

 そして。

 

 少年の姿が、消えた。

 

     *

 

 出久の手の中には、何も残らなかった。

 

 温もりも。

 

 感触も。

 

 指先の形も。

 

 すべてが消えていた。

 

 出久は、呆然と自分の手を見つめた。

 

「……兄さん?」

 

 返事はない。

 

「……兄さん」

 

 もう一度、呼んだ。

 

 誰も答えなかった。

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 時計は02:13を示していた。

 

 壁の文字は、すべて消えていた。

 

 医務室は、元の姿を取り戻していた。

 

 相澤が、出久の肩に手を置いた。

 

「……緑谷」

 

 出久は、答えなかった。

 

 爆豪は、拳を握りしめていた。

 

 轟は、目を伏せていた。

 

 飯田は、何かを言おうとして、結局口を閉じた。

 

 お茶子は、出久のそばに膝をついた。

 

「……出久くん」

 

 彼女は、そっと手を伸ばした。

 

 出久は、その手を握った。

 

 強く。

 

 まるで、離せばまた誰かが消えてしまうかのように。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「僕……」

 

 声が震えた。

 

「僕、兄さんを殺したんだ」

 

 お茶子は、出久の手を握り返した。

 

「……うん」

 

「僕が、世界を壊したんだ」

 

「……うん」

 

「僕は、兄さんを助けたかった」

 

「うん」

 

「でも、僕が……僕が、兄さんを……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 お茶子は、出久を抱きしめた。

 

「……わかってるよ」

 

 その声は震えていた。

 

「出久くんが、どれだけ苦しかったかなんて、私には全部わからない」

 

 彼女は、出久の背中に手を回した。

 

「でも、出久くんが一人で背負わなきゃいけないことじゃないよ」

 

「……」

 

「出久くんが何をしたのか、これから何をしなきゃいけないのか。私たちも、一緒に考えるから」

 

 出久は、目を閉じた。

 

 優しい言葉だった。

 

 救われるような言葉だった。

 

 それなのに。

 

 胸の奥に、どうしても消えない痛みがあった。

 

 兄の手の温もり。

 

 兄の笑顔。

 

 兄が最後に言った言葉。

 

『僕が、君を守るから』

 

 そして。

 

『僕は、君のお兄ちゃんだったんだ』

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 忘れたくない。

 

 もう二度と。

 

 誰にも、忘れさせたくない。

 

 たとえ世界がそれを拒んでも。

 

 たとえ自分がどれだけ傷ついても。

 

 兄が存在したことを、なかったことにはさせない。

 

 その決意が生まれた瞬間。

 

 医務室の机の上で、一冊のノートが開いた。

 

 誰も触れていない。

 

 白紙だったページに、文字が浮かび上がる。

 

『第一記録』

 

『対象:緑谷出久』

 

『事象:兄の殺害』

 

『動機:救済』

 

『結果:世界再構築』

 

 そこまで書かれたところで、文字が止まった。

 

 次の行が、ゆっくりと浮かび上がる。

 

『被害者:御影出久』

 

 出久が顔を上げた。

 

 その名前を見た瞬間、胸の奥に、別の記憶が蘇った。

 

 兄の名前。

 

 自分が、何度も呼んでいた名前。

 

 自分が、何度も忘れた名前。

 

 そして、自分が最後に選んだ名前。

 

「……御影」

 

 出久は、震える声で呟いた。

 

「……御影、出久」

 

 ノートの文字が、一瞬だけ光った。

 

 次の行に、もう一つの記録が現れた。

 

『殺害時刻:02:13』

 

 その下に。

 

『殺害者:緑谷出久』

 

 そして、最後の一行。

 

『なお、当該殺害は――』

 

 文字が乱れた。

 

 ノートが激しく震えた。

 

 ページが、風もないのにめくれていく。

 

 壁の時計が、音を立てて動き始めた。

 

 02:13。

 

 02:14。

 

 02:15。

 

 時間が、再び進み始めた。

 

 相澤が、時計を見上げた。

 

「……進んだ?」

 

 だが、次の瞬間。

 

 時計の針が、逆回転した。

 

 02:14から02:13へ。

 

 02:13から02:12へ。

 

 そして、文字盤そのものが真っ黒に染まった。

 

 ノートの最後の一行が、完成した。

 

『なお、当該殺害は、被害者本人の要請によるものではない』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……え?」

 

 続けて、もう一行。

 

『被害者は、殺害を望んでいなかった』

 

 お茶子が、ノートを見つめた。

 

 相澤の表情が険しくなる。

 

 爆豪が低く唸った。

 

「……待てよ」

 

 彼はノートに近づいた。

 

「さっきの野郎は、自分で死ぬことを選んだんじゃねえのか?」

 

 誰も答えられなかった。

 

 ノートに、さらに文字が浮かび上がる。

 

『被害者は、生存を望んでいた』

 

『被害者は、弟との共存を望んでいた』

 

『被害者は、世界の消滅を望んでいなかった』

 

 出久は、呆然とした。

 

 兄の声が、頭の中で響いた。

 

『僕は、君を責めていないよ』

 

『僕は、君のお兄ちゃんだったんだ』

 

 それは、確かに本当だった。

 

 兄は、出久を責めなかった。

 

 けれど。

 

 責めなかったことと。

 

 死にたかったことは。

 

 同じではない。

 

 出久は、震える手でノートをつかんだ。

 

「……じゃあ」

 

 喉が、ひどく痛かった。

 

「じゃあ、僕は……」

 

 言葉を続けられなかった。

 

 そのとき。

 

 ノートのページが、最後に一度だけめくられた。

 

 そこには、これまでの記録とは違う文字があった。

 

 機械的な書体ではない。

 

 子どもの手で書かれたような、不揃いな文字。

 

『出久へ』

 

 出久の心臓が止まりそうになった。

 

 兄の字だった。

 

 夢の中で見た、あの紙片と同じ筆跡。

 

 文字は、少しずつ浮かび上がっていく。

 

『もし、君がこの記録を読んでいるなら』

 

『僕は、もう君のそばにいないんだろうね』

 

『ごめんね』

 

『本当は、ずっと一緒にいたかった』

 

 出久の目から、涙が落ちた。

 

『僕は、君を守るために生まれたんじゃない』

 

 その一文を読んで、出久は息を止めた。

 

『君に守ってもらうために、生まれたかった』

 

 文字が滲んだ。

 

 出久は、ノートを抱きしめた。

 

 兄の言葉を、一文字も失いたくなかった。

 

『君が僕を守ってくれる世界を、見てみたかった』

 

『君と一緒に大きくなりたかった』

 

『君と喧嘩したかった』

 

『君に怒りたかった』

 

『君に、兄さんなんて大嫌いだって言われても、次の日にはまた一緒にご飯を食べたかった』

 

 出久は、声を押し殺して泣いた。

 

『僕は、生きたかった』

 

 最後の一文が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

『だから、出久』

 

『君が僕を殺したことを、忘れないで』

 

 出久は、顔を上げた。

 

 その言葉は、呪いだった。

 

 けれど、ただの呪いではなかった。

 

 兄は、出久に罪を背負わせたいのではない。

 

 自分の死を、なかったことにされたくなかったのだ。

 

 自分が生きたかったことを。

 

 自分が苦しかったことを。

 

 自分が、弟と一緒に生きたかったことを。

 

 世界に、忘れられたくなかったのだ。

 

 そして、最後の文字が浮かび上がった。

 

『それでも、君が生きていることを、僕は嬉しく思う』

 

 出久は、ノートを抱きしめたまま泣いた。

 

 兄の言葉が、胸の奥に刺さっていた。

 

 優しさも。

 

 悲しみも。

 

 怒りも。

 

 後悔も。

 

 そのすべてが、そこにあった。

 

 そのとき。

 

 医務室の扉が、ゆっくりと開いた。

 

 誰も、扉を開けていなかった。

 

 廊下には、誰もいなかった。

 

 ただ、扉の向こうの暗闇に、一人の女性が立っていた。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、出久にはわかった。

 

 彼女は、あの病室にいた母親だ。

 

 赤ん坊を抱きしめて、泣いていた女性。

 

 生まれてはいけなかった子どもに、謝り続けていた女性。

 

 女性は、出久を見つめた。

 

 そして、言った。

 

「……思い出したのね」

 

 出久は、ノートを抱きしめたまま立ち上がった。

 

「……あなたは」

 

 女性は、答えなかった。

 

 代わりに、ゆっくりと一歩、医務室へ入ってきた。

 

「あなたは、あの子を殺した」

 

 声は静かだった。

 

 怒鳴ってはいなかった。

 

 責め立ててもいなかった。

 

 ただ、事実を告げていた。

 

「あなたは、あの子を忘れた」

 

 出久の身体が震えた。

 

「そして、あなたは、あの子をもう一度殺した」

 

「……違う」

 

 出久は、かすれた声で言った。

 

 女性は、首を振った。

 

「いいえ」

 

 彼女は、出久の前に立った。

 

「あなたは、あの子を助けようとした」

 

「……」

 

「あなたは、あの子を愛していた」

 

「……」

 

「それでも、あなたはあの子を殺した」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 何も言い返せなかった。

 

 女性の目から、涙が落ちた。

 

「……でも」

 

 彼女は、震える声で続けた。

 

「私には、あなたを憎むことすらできないの」

 

 出久が顔を上げた。

 

「……どうして」

 

 女性は、出久を見つめた。

 

 その目には、深い悲しみがあった。

 

 そして、出久がまだ知らない、別の何かがあった。

 

「だって」

 

 女性は言った。

 

「あの子を殺したのは、あなた一人じゃないから」

 

 医務室の空気が凍りついた。

 

 女性は、出久の背後を見た。

 

 誰もいないはずの空間を。

 

 そこにいる何かを、確かに見つめていた。

 

「あなたがあの子を殺した日」

 

 女性の声が、低くなる。

 

「あなたの兄さんは、まだ生きていた」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……え?」

 

「あなたが世界を作り直す前」

 

 女性は、涙を拭わなかった。

 

「あなたが、自分の存在を消すと決める前」

 

「……」

 

「あなたの兄さんは、あなたの前で、確かに生きていた」

 

 女性は、ゆっくりと出久に近づいた。

 

「そして、あの子を殺したのは――」

 

 その瞬間、女性の顔が歪んだ。

 

 何かに妨害されたかのように、声が途切れる。

 

 医務室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『警告』

 

『未登録情報への接触を検知』

 

『観測者権限による記録改竄を開始』

 

 女性は、顔を上げた。

 

 初めて、怒りを露わにした。

 

「……まだ、隠すつもりなの?」

 

 壁の文字が、増えていく。

 

『当該情報は、世界維持に必要です』

 

「世界維持?」

 

 女性は、笑った。

 

 悲しげで、恐ろしい笑みだった。

 

「この子たちを何度殺せば、あなたたちは満足するの?」

 

『記録を保護します』

 

「何度、母親から子どもを奪えばいいの?」

 

『観測を継続します』

 

「何度、子どもに選ばせればいいの?」

 

 女性は、声を張り上げた。

 

「何度、愛する者を殺させればいいの!」

 

 壁が、ひび割れた。

 

 時計が、再び02:13を示した。

 

 そして、女性の背後に、巨大な影が現れた。

 

 顔がない。

 

 輪郭が定まらない。

 

 ただ、そこに存在している。

 

 あの影。

 

 何度も、出久たちの前に現れた存在。

 

 第零個体。

 

 影は、女性の背後に立ち、淡々と告げた。

 

『記録の改竄を完了しました』

 

 女性の姿が、薄くなり始めた。

 

 彼女は、出久を見つめた。

 

「……出久」

 

 初めて、彼女は彼の名前を呼んだ。

 

「あなたは、あの子を殺した」

 

 出久は、頷くことも、首を振ることもできなかった。

 

「でも」

 

 女性は、消えかけた手を伸ばした。

 

「あなたは、あの子を生かすこともできる」

 

 出久の目が見開かれた。

 

「……どうすれば」

 

 女性は、答えようとした。

 

 だが、影が一歩前に出た。

 

『接触を終了します』

 

「待って!」

 

 出久は叫んだ。

 

「教えてください!」

 

 女性の輪郭が崩れていく。

 

「どうすれば、兄さんを生かせるんですか!」

 

 女性は、最後に微笑んだ。

 

「……あなたが、あの子に殺されることよ」

 

 出久の世界が、止まった。

 

 女性は消えた。

 

 影も消えた。

 

 医務室は、静寂に包まれた。

 

 誰も、動けなかった。

 

 ただ、出久の腕の中で、ノートが震えていた。

 

 新しい文字が、浮かび上がる。

 

『第二十九回記録』

 

 その下に。

 

『被害者:緑谷出久』

 

 そして。

 

『加害者:御影出久』

 

 最後の一行が、ゆっくりと完成した。

 

『兄は、弟を殺す』

 

 出久は、その文字を見つめていた。

 

 涙は、もう出なかった。

 

 ただ、胸の奥で、何かが静かに壊れていく音がした。

 

 自分は、兄を殺した。

 

 それは、変えられない過去なのかもしれない。

 

 けれど。

 

 兄は、生きたかった。

 

 兄は、自分と一緒に生きたかった。

 

 そして今。

 

 兄は、自分を殺すことになる。

 

 出久は、ゆっくりとノートを閉じた。

 

 顔を上げる。

 

 目の前には、お茶子がいた。

 

 相澤がいた。

 

 爆豪がいた。

 

 轟がいた。

 

 自分を信じてくれる人たちがいた。

 

 もう、誰か一人を選ぶつもりはなかった。

 

 もう、誰か一人を犠牲にして世界を守るつもりもなかった。

 

 たとえそれが、兄であっても。

 

 たとえそれが、自分自身であっても。

 

「……僕は」

 

 出久は、震える声で言った。

 

「今度こそ、兄さんを救う」

 

 その言葉に、時計の秒針が一度だけ動いた。

 

 02:13。

 

 そして、02:14。

 

 世界は、確かに一秒だけ進んだ。

 

 だが、その一秒の向こう側で。

 

 誰かが、静かに笑っていた。

 

 少年の声が、どこからともなく響く。

 

『……出久』

 

 懐かしい声だった。

 

 優しい声だった。

 

 けれど、今度の声には、確かな殺意が宿っていた。

 

『次は、僕が君を殺す番だよ』

 

 そして、世界のどこかで。

 

 もう一つの時計が、02:13を指した。

 

 その時計の前に、一人の少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 出久と同じ顔。

 

 少しだけ優しい目。

 

 右側の口角が、わずかに上がる。

 

 少年は、手の中の写真を見つめていた。

 

 写真には、二人の子どもが写っていた。

 

 兄と弟。

 

 並んで笑う、二人の少年。

 

 少年は、写真の中の弟を指でなぞった。

 

「……今度は」

 

 彼は、静かに呟いた。

 

「僕が、君を忘れない」

 

 その顔から、笑みが消えた。

 

「だから、今度こそ――」

 

 少年は、写真を握りしめた。

 

「君を殺してでも、僕は生きる」

 

 雨が降り始めた。

 

 今度は、地面が濡れた。

 

 雨粒が、少年の頬を伝って落ちていく。

 

 それが涙なのか、雨なのか。

 

 少年自身にも、わからなかった。

 

 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 

 彼はもう、弟を守るためだけに生きているのではない。

 

 彼は、生きたいのだ。

 

 兄としてではなく。

 

 犠牲者としてでもなく。

 

 誰かのために消える存在としてでもなく。

 

 一人の人間として。

 

 緑谷出久の兄として。

 

 そして――

 

 御影出久として。

 

 少年は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 雨の向こうに、白い建物が見える。

 

 その建物の入口には、見覚えのある文字が刻まれていた。

 

『出生管理室』

 

 少年は、扉に手をかけた。

 

「……もう、選ばせない」

 

 扉が開く。

 

 暗闇の中から、機械の声が響いた。

 

『対象個体、御影出久』

 

『生存意思を確認』

 

『世界構造との不整合を検知』

 

『削除処理を開始します』

 

 少年は笑った。

 

 今度は、優しくなかった。

 

「やってみろよ」

 

 彼は、一歩、暗闇へ踏み込んだ。

 

「今度は、僕が世界を殺す番だ」

 

 扉が閉じた。

 

 時計は、02:13を指していた。

 

 そして、誰も知らない場所で。

 

 第三十回目の記録が、静かに始まった。

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