僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十九話「兄は、弟を殺す」

 

Ⅰ.兄が弟を殺すための、十三の手順

 御影出久は、殺し方を知らなかった。

 

 人を殺す方法なら、いくらでも知っていた。

 

 首を絞めれば、人は呼吸ができなくなる。

 

 刃物で胸を刺せば、心臓が傷つく。

 

 高所から落とせば、身体は壊れる。

 

 個性で肉体を破壊することもできる。

 

 ヒーロー社会に生きる人間なら、誰だって知っている。

 

 悪意を持つ人間なら、もっと詳しく知っている。

 

 けれど、御影出久が殺そうとしているのは、肉体だけの存在ではなかった。

 

 彼が殺さなければならないのは、弟の身体ではない。

 

 緑谷出久という名前でもない。

 

 弟を弟たらしめているもの。

 

 弟を世界に結びつけているもの。

 

 弟が生きていることを、世界が正しいと認めてしまう、その仕組みそのものだった。

 

 それを壊さなければ、弟は死ねない。

 

 そして、弟が死ななければ。

 

 兄は、永遠に生きられない。

 

「……ひどい話だよね」

 

 御影出久は、誰もいない部屋で呟いた。

 

 出生管理室。

 

 壁も床も天井も、材質がわからない白い空間だった。

 

 窓はない。

 

 扉もない。

 

 部屋の中央に、巨大な黒い柱が立っている。

 

 柱には無数の文字列が流れていた。

 

 人間の名前。

 

 出生時刻。

 

 死亡時刻。

 

 親子関係。

 

 個性の有無。

 

 生存確率。

 

 そして、それらの項目の隣に、同じ文字が何度も繰り返されていた。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 名前の後ろに付随する識別番号は、どれも違っていた。

 

 しかし、表示されている名前は同じだった。

 

 御影は柱に手を触れた。

 

『対象個体、御影出久』

 

『生存意思を確認』

 

『世界構造との不整合を検知』

 

『削除処理を開始します』

 

「断る」

 

『削除処理を開始します』

 

「だから、断るって言ってるんだよ」

 

 柱の表面に、黒い亀裂が走った。

 

 御影の手のひらから、血が流れていた。

 

 いつ傷ついたのか、わからない。

 

 ここには刃物もない。

 

 傷つけるようなものもない。

 

 それでも血は流れていた。

 

 出生管理室では、存在しないはずのものほど、確かな傷を負う。

 

 御影は手を離した。

 

 血は、床に落ちなかった。

 

 空中で止まり、赤い文字へと変わった。

 

『個体の生存を認めるには、代替条件が必要です』

 

「代替条件?」

 

『緑谷出久の死亡』

 

 御影は、目を閉じた。

 

 予想していた答えだった。

 

 けれど、実際に突きつけられると、胸の奥がひどく痛んだ。

 

「……わかってる」

 

『対象個体の存在を維持するためには、緑谷出久の存在を停止する必要があります』

 

「わかってるってば」

 

『緑谷出久を削除しますか』

 

「……」

 

『はい/いいえ』

 

 御影は、目の前に浮かぶ二つの選択肢を見つめた。

 

 はい。

 

 いいえ。

 

 たった二文字で、すべてが決まる。

 

 弟が死ぬ。

 

 自分が生きる。

 

 あるいは。

 

 自分が消える。

 

 弟が生きる。

 

 世界は、何度だってこの選択を突きつけてきた。

 

 父親に。

 

 母親に。

 

 弟に。

 

 そして、兄自身に。

 

 まるで、誰かが犠牲にならなければ、世界は一秒たりとも動けないかのように。

 

「……君たちは」

 

 御影は、柱を睨んだ。

 

「本当に、それしか考えられないんだね」

 

『質問の意味が不明です』

 

「僕が生きるためには、出久が死ななきゃいけない。出久が生きるためには、僕が死ななきゃいけない。そういう仕組みを作っておいて、どちらを殺しますかって聞く」

 

 御影は笑った。

 

 乾いた笑いだった。

 

「それで、どっちかが自分を犠牲にすれば、世界は正しくなりました、って?」

 

『世界構造の安定を優先します』

 

「その世界構造が間違っているんだよ」

 

 御影は、拳を握りしめた。

 

「僕は、出久を殺したくない」

 

 言葉にした途端、身体の奥が震えた。

 

 嘘ではない。

 

 綺麗事でもない。

 

 御影は本当に、弟を殺したくなかった。

 

 弟と一緒に生きたかった。

 

 弟と喧嘩したかった。

 

 弟に怒りたかった。

 

 弟から怒られたかった。

 

 弟が成長して、自分より強くなって、いつか自分を追い越していくところを見たかった。

 

 弟が誰かを救う姿を見たかった。

 

 弟が失敗して、泣いて、悔しがって、それでも立ち上がるところを見たかった。

 

 弟が、自分の知らない誰かを好きになって。

 

 自分の知らない友達を作って。

 

 自分の知らない世界へ飛び出していくところを見たかった。

 

 兄として。

 

 ただの兄として。

 

 そういう人生を、送りたかった。

 

 けれど。

 

「……それでも」

 

 御影は、目を開いた。

 

「僕は、生きたいんだ」

 

 その言葉は、部屋に響かなかった。

 

 出生管理室は、音すら記録している。

 

 彼の声を、誰かの意思として認めるつもりはないらしかった。

 

「僕は、生きたい」

 

 もう一度、言った。

 

「僕は、僕の人生を生きたい」

 

 柱の文字列が、激しく明滅した。

 

『生存意思を再確認』

 

『対象個体の意思を受理』

 

『緑谷出久の死亡を条件として、生存権を付与します』

 

 御影は、笑った。

 

「……そうか」

 

 ゆっくりと、手を伸ばす。

 

 選択肢が現れた。

 

『緑谷出久を削除しますか』

 

 御影は、指先で「はい」に触れた。

 

 その瞬間。

 

 出生管理室が、真っ赤に染まった。

 

『警告』

 

『警告』

 

『警告』

 

『対象個体による選択が、既存記録と矛盾しています』

 

『緑谷出久の削除を確認できません』

 

『緑谷出久の死亡を確認できません』

 

『緑谷出久の存在が、複数の記録に同時に登録されています』

 

 御影の指が止まった。

 

「……どういうこと?」

 

 柱に、無数の映像が浮かび上がる。

 

 少年時代の緑谷出久。

 

 病室の緑谷出久。

 

 雨の中で泣く緑谷出久。

 

 白い世界で膝をつく緑谷出久。

 

 ヒーローとして戦う緑谷出久。

 

 誰かの手を握る緑谷出久。

 

 誰かの命を救う緑谷出久。

 

 誰かの死を見届ける緑谷出久。

 

 そして。

 

 自分の手で、兄を殺す緑谷出久。

 

 それらの映像が、一斉にこちらを向いた。

 

 映像の中の出久たちが、同じ言葉を口にする。

 

『僕は、緑谷出久だ』

 

『僕は、緑谷出久だ』

 

『僕は、緑谷出久だ』

 

『僕は、緑谷出久だ』

 

 御影は、後ずさった。

 

 柱の中央に、ひとつの識別情報が浮かび上がる。

 

『本来の対象:未登録個体』

 

 その下に。

 

『登録名:緑谷出久』

 

 さらに、その下に。

 

『現在の緑谷出久は、第三子です』

 

 御影は、目を見開いた。

 

「……違う」

 

 声が震えた。

 

「違う、そんなはずない」

 

 柱の文字が変わる。

 

『第一子:死亡』

 

『第二子:死亡』

 

『第三子:生存』

 

『第一子の死亡原因:緑谷出久』

 

『第二子の死亡原因:緑谷出久』

 

『第三子の死亡原因:未確定』

 

 御影は、息を止めた。

 

 第一子。

 

 第二子。

 

 第三子。

 

 その記録は、これまで何度も見てきた。

 

 だが、今回は違った。

 

 名前がない。

 

 第一子にも、第二子にも、名前が記録されていない。

 

 ただ、死亡原因の欄にだけ、同じ名前が書かれていた。

 

 緑谷出久。

 

 御影は、ゆっくりと首を振った。

 

「……出久が、二人を殺した?」

 

 その問いに、出生管理室は答えなかった。

 

 代わりに、柱の裏側から、一つの記録が浮かび上がった。

 

『第零回観測記録』

 

『三人とも、生きている』

 

 御影は、記録を見つめた。

 

 そして、その下に続く手書きの文字を読んだ。

 

『誰かが、最初に死ななければならなかった』

 

『僕は、僕を殺した』

 

『僕が死ねば、二人は生きられる』

 

『でも、僕が死んだら、二人は僕を忘れる』

 

 御影の顔から、表情が消えた。

 

 その筆跡には、見覚えがあった。

 

 自分のものだった。

 

 いや。

 

 自分のものではない。

 

 自分が知っている、誰かのものだった。

 

 御影は、震える指で最後の一文に触れた。

 

『兄さん、ごめんね』

 

 彼は、そこで初めて理解した。

 

 自分が殺そうとしている弟は。

 

 ただの弟ではない。

 

 自分が知っている弟ですら、ないのかもしれない。

 

 そして、自分自身も。

 

 ただの兄ではないのかもしれない。

 

「……出久」

 

 御影は、呟いた。

 

「君は、一体……何人いるんだ?」

 

 出生管理室が、答えた。

 

『識別不能』

 

『識別不能』

 

『識別不能』

 

 そして、最後に。

 

『緑谷出久は、緑谷出久を殺した』

 

 御影は、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

 ゆっくりと息を吐く。

 

「じゃあ、僕が殺すのは、君一人じゃないんだね」

 

 彼は、再び選択肢に手を伸ばした。

 

 今度は「はい」ではない。

 

 どちらにも触れなかった。

 

「僕は、出久を殺さない」

 

 御影は、はっきりと言った。

 

「でも、出久が生きるために、僕が死ぬことも拒否する」

 

 柱の文字列が、一斉に停止した。

 

「僕は、僕の意思で生きる」

 

 その瞬間。

 

 出生管理室の天井に、巨大な亀裂が走った。

 

 御影は、顔を上げた。

 

「……さあ」

 

 その目に、涙はなかった。

 

「今度こそ、僕たちの人生を返してもらうよ」

 

     *

Ⅱ.弟が兄を忘れるまで

 緑谷出久は、眠れなかった。

 

 夜が明けても。

 

 朝になっても。

 

 時計が動いても。

 

 ずっと、同じ言葉が頭の中を回っていた。

 

 ――僕が、兄さんを殺した。

 

 ――兄さんは、生きたかった。

 

 ――兄さんは、僕と一緒に生きたかった。

 

 ベッドの上で膝を抱え、出久は自分の指を見つめていた。

 

 あの手。

 

 夢の中で、兄の手を握っていた手。

 

 自分は確かに、兄を殺した。

 

 その記憶が、どこまで本物なのかはわからない。

 

 世界が再構築されたことで、過去そのものが変わっている可能性もある。

 

 記憶が複数の個体の間で混ざっている可能性もある。

 

 あるいは、自分が見たものすべてが、誰かによって見せられた偽りなのかもしれない。

 

 それでも。

 

 兄が生きたかったことだけは、嘘ではないと思えた。

 

 ノートに残された文字。

 

『僕は、生きたかった』

 

 あの一文だけは。

 

 誰にも、否定させたくなかった。

 

 コンコン、と扉が鳴った。

 

「……入っていいか」

 

 相澤の声だった。

 

「はい」

 

 扉が開く。

 

 相澤は、いつものように眠そうな顔をしていた。

 

 だが、手には紙の束を持っていた。

 

「お前に見せたいものがある」

 

 出久は、ベッドから降りた。

 

「……兄さんのことですか?」

 

「それもある」

 

 相澤は、紙を机の上に置いた。

 

「だが、先に確認しておきたいことがある」

 

「何でしょうか」

 

「お前は、今の自分をどこまで信用している」

 

 出久は、答えに詰まった。

 

 自分を信用しているか。

 

 その問いは、あまりにも難しかった。

 

 自分は緑谷出久なのか。

 

 何人目の緑谷出久なのか。

 

 兄を殺した緑谷出久なのか。

 

 兄を救おうとして世界を壊した緑谷出久なのか。

 

 あるいは。

 

 それらのすべてを継ぎ接ぎされた、別の何かなのか。

 

「……わかりません」

 

 出久は答えた。

 

「でも、僕は……僕がしたことから逃げたくありません」

 

 相澤は、しばらく彼を見つめていた。

 

「そうか」

 

 短く答えた。

 

 それから、机の上の書類を一枚、出久の前に差し出した。

 

「これは、昨日の夜に発見された記録だ」

 

 出久は紙を受け取った。

 

 そこには、見覚えのある形式の文字が並んでいた。

 

 出生管理室の記録。

 

 しかし、これまで見たものとは少し違っていた。

 

 記録の一番上には、こう書かれていた。

 

『緑谷出久 生存記録』

 

 その下に、三つの欄があった。

 

『肉体:生存』

 

『記憶:不安定』

 

『存在:複数』

 

 出久は、紙を握りしめた。

 

「……存在、複数?」

 

「俺たちが把握している範囲では、お前と同じ名前を持つ記録が、少なくとも複数存在している」

 

 相澤は、慎重に言葉を選んだ。

 

「ただし、同一人物の過去の記録なのか、別の世界に存在した個体なのか、あるいは同じ個体が複数に分裂したのかは、まだわからない」

 

「……」

 

「それと、もう一つ」

 

 相澤は、別の紙を差し出した。

 

 そこには、手書きの文字があった。

 

『兄さんを救うために、世界を壊した』

 

『兄さんを救えなかった僕は、何度でも世界を作り直した』

 

『それでも、兄さんは戻らなかった』

 

『だから、僕は最後に一つだけ決めた』

 

『兄さんを殺した世界そのものを、僕が殺す』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 自分の字だった。

 

 けれど、書いた記憶はない。

 

 その下に、別の文字が続いていた。

 

『先生、約束を破ってごめんなさい』

 

 出久の手が震えた。

 

「……先生」

 

 相澤は、紙を見つめたまま答えた。

 

「俺に宛てたものかどうかは、わからない」

 

「でも……」

 

「俺の名前が記録に含まれていた。それだけだ」

 

 相澤は、目を伏せた。

 

「お前が本当に俺に宛てたものなら、聞きたいことは山ほどある」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……すみません」

 

「謝るな」

 

 相澤は即座に言った。

 

「お前が何をしたのか、まだ全部わかっていない。わかっていないことに対して、謝罪を求めるつもりはない」

 

 その言葉に、出久は顔を上げた。

 

「だが」

 

 相澤の声が、少しだけ低くなる。

 

「お前が何をしたのかがわかったとき、俺はそれをなかったことにはしない」

 

「……はい」

 

「同時に、お前自身を、過去の記録だけで判断するつもりもない」

 

 出久は、息を止めた。

 

 相澤は、彼の目を見ていた。

 

「お前が今、何を選ぶのか。それを見て判断する」

 

 その言葉は、救いだった。

 

 けれど、簡単に安心できるほど、出久の心は軽くなかった。

 

 自分がしたことは、消えない。

 

 兄を殺した記録も。

 

 世界を壊した記録も。

 

 それでも。

 

 今、何を選ぶかは、自分に残されている。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

「僕は、兄さんを救いたいです」

 

 相澤は、頷いた。

 

「だろうな」

 

「でも、今度は……誰かを犠牲にして救うんじゃなくて」

 

 出久は、拳を握った。

 

「兄さん自身が、生きたいと思える世界で、生きてほしいんです」

 

 相澤は、わずかに目を細めた。

 

「それなら、まずはお前が死ぬな」

 

「……はい」

 

「それから、一人で何とかしようとするな」

 

「……はい」

 

「最後に」

 

 相澤は、出久の額を指で軽く弾いた。

 

「わからないことを、わかったふりするな」

 

「い、痛っ……!」

 

「お前の悪い癖だ。自分の分析に自信があるのはいいが、情報が足りないときまで、無理に答えを出そうとする」

 

 出久は、額を押さえた。

 

 少しだけ、笑いそうになった。

 

「……すみません」

 

「謝るなと言った」

 

「はい……」

 

 相澤は立ち上がった。

 

「準備しろ。これから全員で記録を調べる」

 

「全員?」

 

「お前の仲間だ」

 

 出久の胸が、少しだけ温かくなった。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼もいらん」

 

 相澤は扉へ向かった。

 

 その背中に、出久は声をかけた。

 

「先生」

 

「今度は何だ」

 

「……もし、僕が本当に兄さんを殺したんだとして」

 

 相澤は、振り返らなかった。

 

「それでも、僕はヒーローを目指していいんでしょうか」

 

 沈黙が落ちた。

 

 長い沈黙だった。

 

 やがて相澤は、扉に手をかけたまま答えた。

 

「ヒーローを目指すことと、罪がないことは別だ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「罪がある人間は、誰かを救ってはいけないのか」

 

 相澤は振り返った。

 

「違うだろう」

 

 その目は、まっすぐだった。

 

「罪があるなら、向き合え。間違えたなら、正せ。救えなかったなら、次に何ができるか考えろ」

 

 相澤は、淡々と続けた。

 

「ただし、自分が罪を背負っているからといって、他人の人生まで勝手に決めるな」

 

 出久の心臓が、強く打った。

 

「お前が兄を救いたいと思うのは構わん」

 

 相澤は言った。

 

「だが、兄がどう生きたいかまで、お前が決めるな」

 

 その言葉は。

 

 出久が、これまで何度も見失ってきたものだった。

 

 救いたい。

 

 助けたい。

 

 失いたくない。

 

 その気持ちは、本物だった。

 

 けれど、その気持ちが強すぎるあまり、出久はいつしか、相手の意思よりも、自分の願いを優先していたのかもしれない。

 

 兄を取り戻したい。

 

 だから、世界を作り直す。

 

 兄を生かしたい。

 

 だから、自分が消える。

 

 兄を守りたい。

 

 だから、兄が何を望むかを聞く前に、すべてを決める。

 

 それは、救いだったのだろうか。

 

 それとも。

 

 兄を、もう一度殺すことだったのだろうか。

 

「……はい」

 

 出久は、深く頷いた。

 

「今度は、兄さん自身の言葉を聞きます」

 

 相澤は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、扉を開けた。

 

「なら、行くぞ」

 

     *

Ⅲ.爆豪勝己は、弟を殴る

「で?」

 

 第一声から、爆豪勝己は容赦がなかった。

 

「テメェは、兄貴を助けるために世界をぶっ壊した。何回も。そんで、最後は自分が消えた。そういうことか?」

 

「……記録上は、そうみたいだ」

 

「記録上は、だぁ?」

 

 爆豪が机を叩いた。

 

「自分の頭ん中に残ってる記憶はどうなんだよ」

 

「……まだ、断片的で」

 

「じゃあ、何もわかってねえじゃねえか!」

 

 出久は、黙った。

 

 爆豪は苛立ったように髪をかきむしった。

 

「クソが……!」

 

「かっちゃん」

 

「うるせえ!」

 

 爆豪は出久を睨んだ。

 

「テメェ、また一人で背負うつもりだろ」

 

「……」

 

「また自分が悪いってことにして、全部自分で何とかしようとしてんだろ」

 

「……違うよ」

 

「何が違う!」

 

 爆豪の声が響いた。

 

「昨日からずっと、そんな顔してんじゃねえか!」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「自分が兄貴を殺した。自分が世界を壊した。自分が全部悪い。だから自分がどうにかしなきゃいけない。そうやって、また勝手に結論出してんじゃねえ!」

 

 爆豪は、出久の胸ぐらをつかんだ。

 

 相澤が止めようとしたが、爆豪は振り返らなかった。

 

「……お前、何が怖えんだ」

 

 声が低くなった。

 

「兄貴が死ぬことか?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

「兄貴が、お前を恨むことか?」

 

「……」

 

「それとも」

 

 爆豪の目が、鋭くなった。

 

「兄貴が生きて、お前の知らねえ人間になることか?」

 

 出久の顔が、強張った。

 

 その問いは。

 

 あまりにも、核心に近かった。

 

 兄が生きていたら。

 

 兄が戻ってきたら。

 

 自分の知らない兄だったら、どうする。

 

 自分を恨んでいたら。

 

 自分を許さなかったら。

 

 自分とは違う道を選んだら。

 

 自分を必要としていなかったら。

 

 それでも、自分は兄を救いたいと思えるのだろうか。

 

 兄が自分を愛してくれなくても。

 

 兄が自分と一緒に生きたいと思わなくても。

 

 兄が、自分の手を振り払ったとしても。

 

 それでも。

 

 兄が生きていることを、喜べるのだろうか。

 

「……僕は」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「兄さんに、生きていてほしい」

 

「それは聞いた」

 

 爆豪は、手を離した。

 

「じゃあ、兄貴がお前を殺そうとしてきたらどうする」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……え?」

 

「聞こえなかったか?」

 

 爆豪は、冷たく言った。

 

「兄貴がお前を殺そうとしてきたら、どうする」

 

 出久は、答えられなかった。

 

「お前は兄貴を救いたい。兄貴は生きたい。そのためにお前が死ななきゃいけない。世界はそう言ってる。だったら、兄貴がお前を殺しに来る可能性はあるだろ」

 

「……」

 

「そのとき、テメェは抵抗すんのか?」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「兄貴だから、殺せない?」

 

「……」

 

「兄貴が生きたいなら、自分が死ねばいい?」

 

 爆豪は、出久の胸を指で突いた。

 

「答えろ、デク」

 

 出久は、目を閉じた。

 

 そして。

 

「……抵抗する」

 

 爆豪が、わずかに目を見開いた。

 

「兄さんが僕を殺そうとしても、僕は抵抗する」

 

 出久は、震える声で言った。

 

「兄さんを殺すためじゃない。兄さんを傷つけるためでもない」

 

 目を開く。

 

「僕も、生きたいから」

 

 爆豪は、黙っていた。

 

「僕は、兄さんに生きていてほしい。でも、僕だって生きていたい」

 

 出久は、拳を握った。

 

「僕が死ねば兄さんが生きられる、なんて。そんなことを、勝手に決めたくない」

 

 彼は、爆豪を見つめた。

 

「兄さんにも、僕にも、別々の人生があるはずだから」

 

 爆豪は、しばらく出久を睨んでいた。

 

 やがて。

 

「……最初からそう言え」

 

 低く吐き捨てた。

 

「テメェが死んで解決する話なら、こんな面倒くせえことになってねえんだよ」

 

「……かっちゃん」

 

「勘違いすんなよ」

 

 爆豪は腕を組んだ。

 

「俺は、お前の兄貴を助けたいから言ってんじゃねえ」

 

「……うん」

 

「お前が勝手に死ぬのが気に食わねえだけだ」

 

 出久は、少しだけ笑った。

 

「……ありがとう」

 

「礼を言うな、クソデク」

 

 爆豪は顔を背けた。

 

 それから、ふと思い出したように付け加えた。

 

「あと」

 

「うん?」

 

「兄貴が本当にお前を殺しに来たら、俺が先にぶっ飛ばす」

 

「えっ!?」

 

「兄弟喧嘩なら兄弟でやれって言いたいところだが、テメェらの場合、規模がデカすぎんだよ!」

 

 爆豪は頭を抱えた。

 

「世界を壊す兄弟喧嘩とか、聞いたことねえわ!」

 

 轟が、真顔で口を開いた。

 

「いや、世界を壊すほどの兄弟喧嘩は、普通は聞いたことがないだろう」

 

「当たり前だろうが!」

 

 思わず声が重なった。

 

 その瞬間。

 

 ほんのわずかに、部屋の空気が緩んだ。

 

 出久は、笑った。

 

 泣きながら。

 

 それでも、笑った。

 

 兄が生きていた頃。

 

 きっと、こんな時間もあったのだろう。

 

 くだらないことで言い争って。

 

 くだらないことで笑って。

 

 明日も同じように会えると信じて。

 

 そういう、何でもない時間。

 

 それこそが、出久の欲しかったものだったのかもしれない。

 

     *

Ⅳ.兄を殺すために、弟は生まれた

 その日の午後。

 

 雄英の地下にある隔離記録室で、八百万百は一つの異常を発見した。

 

「……皆さん、こちらを見てください」

 

 彼女の声に、全員が画面の前へ集まった。

 

 記録室の中央には、三つのモニターが並んでいた。

 

 左のモニターには、緑谷出久の生体記録。

 

 中央には、御影出久の生体記録。

 

 右には、名前のない個体の記録。

 

 これまで、右側のモニターは空白だった。

 

 識別情報が存在しない。

 

 記録が存在しない。

 

 観測することすらできない。

 

 それが、未登録個体だった。

 

 だが今は違う。

 

 右のモニターに、一つの波形が表示されていた。

 

 緑谷出久の脳波と、酷似している。

 

 御影出久の脳波とも、酷似している。

 

 しかし、どちらとも完全には一致しない。

 

「この波形……」

 

 八百万は、画面を拡大した。

 

「三つの個体に共通する部分があります。ですが、完全に同一ではありません」

 

「つまり?」

 

 切島鋭児郎が尋ねた。

 

「同じ人間の複製ではない、ということか?」

 

「その可能性はあります。ただし、一般的な意味での複製とは違います」

 

 八百万は、慎重に説明した。

 

「三つの波形には、同じ記憶に由来すると思われる反応が含まれています。しかし、その記憶に対する感情反応は異なっています」

 

「感情反応?」

 

 お茶子が尋ねた。

 

「はい。たとえば、この記録です」

 

 画面に、雨の中で少年が倒れている映像が表示された。

 

 先ほど出久が見た夢と、よく似ていた。

 

「この場面を三つの個体に照合したところ、緑谷くんの反応は強い悲しみと罪悪感。御影くんの反応は悲しみと……生存への意志。そして、未登録個体の反応は」

 

 八百万は、言葉を止めた。

 

「……怒りです」

 

 相澤が、画面を見つめた。

 

「誰に対する怒りだ」

 

「現時点では特定できません。ただ、映像の中の人物に向けられたものではないようです」

 

 轟が口を開いた。

 

「世界そのものに対する怒り、ということか」

 

「その可能性はあります」

 

 出久は、画面を見つめていた。

 

 未登録個体。

 

 名前のない存在。

 

 兄でも、弟でもない。

 

 けれど、二人と深く結びついている。

 

「……その個体は、今どこにいるんですか?」

 

 八百万は、首を振った。

 

「わかりません」

 

「でも、記録があるなら……」

 

「記録はあります。しかし、位置情報がありません。存在が観測されるたびに、記録上の位置が変わっています」

 

「それは……」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 相澤が、画面に表示された文字を指さした。

 

「待て。ここを見ろ」

 

 右側のモニターに、文字が浮かび上がっていた。

 

『役割:観測者』

 

『役割:記録者』

 

『役割:破壊者』

 

『役割:被害者』

 

『役割:加害者』

 

 そして、その下に。

 

『役割:兄』

 

『役割:弟』

 

『役割:――』

 

 最後の欄は、黒く塗りつぶされていた。

 

 出久は、その黒い欄を見つめた。

 

 何かが、胸の奥で引っかかった。

 

 兄。

 

 弟。

 

 その二つの関係は、血縁だけで決まるものではない。

 

 兄が先に生まれたから、兄になる。

 

 弟が後に生まれたから、弟になる。

 

 そういう単純な話ではない。

 

 兄は弟を守る。

 

 弟は兄を慕う。

 

 けれど、兄が弟を守るために自分を犠牲にし続ければ。

 

 弟が兄を救うために世界を壊し続ければ。

 

 いつしか、その関係は別の何かに変わってしまう。

 

 守る者。

 

 守られる者。

 

 犠牲になる者。

 

 犠牲を強いる者。

 

 そして。

 

 殺す者。

 

 殺される者。

 

「……先生」

 

 出久は、相澤を見た。

 

「僕たちは、本当に兄弟なんでしょうか」

 

 相澤は、すぐには答えなかった。

 

「血縁上の兄弟か、という意味なら、まだ判断できない」

 

「……はい」

 

「だが、お前たちが互いを兄弟だと認識していることは、記録から確認できる」

 

 相澤は、画面を見た。

 

「ただし、それが誰かによって与えられた役割なのか、お前たち自身が選んだ関係なのかは、別の問題だ」

 

 出久は、目を伏せた。

 

 兄。

 

 弟。

 

 その関係を、誰が決めたのだろう。

 

 生まれた順番か。

 

 両親か。

 

 世界か。

 

 それとも、二人自身か。

 

 もし世界が、最初から御影を兄として、出久を弟として配置したのだとしたら。

 

 もし、その関係そのものが、何かの目的のために作られたものだったとしたら。

 

 自分たちは。

 

 ただ、その役割を演じさせられていただけなのだろうか。

 

 出久は、拳を握った。

 

「……僕は、兄さんを兄さんだと思っています」

 

 誰かに聞かせるためではなかった。

 

 自分自身に、言い聞かせるためだった。

 

「たとえ、世界がそう決めたんだとしても。たとえ、記録が違うことを示していたとしても」

 

 出久は顔を上げた。

 

「僕は、兄さんと一緒に生きたかった」

 

 その言葉に、画面の波形が反応した。

 

 左のモニターが揺れる。

 

 中央のモニターが揺れる。

 

 そして、右のモニターが。

 

 初めて、安定した波形を示した。

 

 八百万が息を呑んだ。

 

「……反応しています」

 

 波形の横に、文字が浮かび上がった。

 

『未登録個体:生存』

 

 その下に。

 

『対象の呼称を入力してください』

 

 出久は、画面を見つめた。

 

 呼称。

 

 名前ではない。

 

 呼称。

 

 誰かが、その存在をどう呼ぶのか。

 

 出久は、口を開いた。

 

「……兄さん」

 

 画面が明滅した。

 

『対象の呼称を入力してください』

 

「兄さん」

 

 もう一度、言った。

 

「僕の兄さんです」

 

 その瞬間。

 

 右側のモニターに、初めて一つの文字が浮かび上がった。

 

『御影出久』

 

 全員が息を呑んだ。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

 画面に表示された文字は、確かに御影出久だった。

 

 しかし、中央のモニターにも、同じ名前が表示されていた。

 

 中央には、御影出久。

 

 右にも、御影出久。

 

 同じ名前。

 

 異なる波形。

 

 異なる存在。

 

 八百万が、震える声で言った。

 

「……同じ名前を持つ個体が、二人いる?」

 

 相澤は、画面を見つめたまま、低く呟いた。

 

「いや……」

 

 彼は、別の可能性に気づいていた。

 

「御影が、二人いるんじゃない」

 

 出久が顔を上げた。

 

「……先生?」

 

 相澤は、モニターを指さした。

 

「御影出久という名前が、二つの存在に割り当てられているんだ」

 

 その言葉の意味を理解した瞬間。

 

 画面の文字が、すべて消えた。

 

 そして、新しい記録が表示された。

 

『警告』

 

『同一名称による個体重複を検知』

 

『世界構造の矛盾が拡大しています』

 

『統合処理を開始します』

 

「止めろ!」

 

 相澤が叫んだ。

 

 八百万が端末を操作する。

 

 だが、画面は反応しなかった。

 

『統合対象を選択してください』

 

 モニターに、二つの名前が表示された。

 

『御影出久』

 

『御影出久』

 

 そして、その下に。

 

『統合後の個体名:緑谷出久』

 

 出久は、凍りついた。

 

 世界は、兄を弟に統合しようとしている。

 

 兄という存在を。

 

 兄が生きたかったという意思を。

 

 兄が弟と一緒に生きたいと願ったことを。

 

 すべて、緑谷出久という一つの名前に押し込めようとしている。

 

 それは、救済ではない。

 

 それは、兄の死をもう一度、記録し直すことだった。

 

「……やめて」

 

 出久は、画面に手を伸ばした。

 

「やめてよ……!」

 

 そのとき、モニターに一つの文字が浮かび上がった。

 

『統合処理の実行者を確認』

 

『緑谷出久』

 

 出久は、息を止めた。

 

「……僕?」

 

 文字が、さらに増えた。

 

『統合処理の実行者:緑谷出久』

 

『統合処理の対象:御影出久』

 

『統合処理の目的:兄弟関係の解消』

 

 出久は、後ずさった。

 

 自分が、兄を統合しようとしている。

 

 自分の知らないところで。

 

 自分の意思とは無関係に。

 

 だが、世界の記録上は、そうなっていた。

 

 そして、最後の一文。

 

『統合処理は、すでに開始されています』

 

     *

Ⅴ.兄は、弟の名前を呼ばない

 御影出久が出生管理室を出たとき、彼は自分の名前を忘れかけていた。

 

 いや。

 

 正確には、名前の意味が変わっていた。

 

 御影出久。

 

 それは、彼が生まれたときに与えられた名前ではなかった。

 

 少なくとも、出生管理室の記録ではそうなっていた。

 

 御影という姓は、誰かが後から付けたもの。

 

 出久という名は、誰かが別の存在から切り離したもの。

 

 その名前を持つこと自体が、世界にとって矛盾だった。

 

 それでも、彼は自分を御影出久だと思っていた。

 

 その名前で呼ばれた記憶がある。

 

 その名前で笑った記憶がある。

 

 その名前で、弟を抱きしめた記憶がある。

 

 その名前で、弟を失った記憶がある。

 

 それだけで、十分だった。

 

「……僕は、御影出久だ」

 

 彼は、暗闇の中を歩きながら呟いた。

 

「僕は、御影出久だ」

 

 暗闇の先に、扉が見えた。

 

 扉の向こうから、声が聞こえる。

 

 誰かが泣いている。

 

 誰かが叫んでいる。

 

 誰かが、助けを求めている。

 

 御影は、扉に手をかけた。

 

 開いた先には、街があった。

 

 見覚えのある街。

 

 雄英高校へ向かう道。

 

 商店街。

 

 小さな公園。

 

 交差点。

 

 そのすべてが、奇妙なほど静かだった。

 

 人々は歩いている。

 

 車は走っている。

 

 信号は変わる。

 

 けれど、誰も音を立てていなかった。

 

 誰も話さない。

 

 誰も笑わない。

 

 誰も泣かない。

 

 世界は、動いている。

 

 しかし、世界の中にいる人々は、誰一人として自分の意思で動いていないようだった。

 

 御影は、交差点の前で立ち止まった。

 

 信号が青に変わる。

 

 人々が、一斉に歩き出す。

 

 信号が赤に変わる。

 

 人々が、一斉に立ち止まる。

 

 誰も、周囲を見ていない。

 

 誰も、誰かと目を合わせない。

 

 まるで、すべての人間が、決められた動作を繰り返しているだけの人形だった。

 

「……これが、世界?」

 

 御影は、呟いた。

 

「こんなもののために、僕たちは……」

 

 そのとき。

 

 交差点の向こう側に、一人の少年が立っていることに気づいた。

 

 緑色の髪。

 

 自分とよく似た顔。

 

 制服姿。

 

 少しだけ幼い。

 

 少年は、御影を見つめていた。

 

 御影は、息を止めた。

 

「……出久?」

 

 少年は答えなかった。

 

 ただ、御影を見つめていた。

 

 御影は、一歩踏み出した。

 

「出久!」

 

 その瞬間。

 

 少年の姿が消えた。

 

 交差点には、誰もいなかった。

 

 信号が青に変わる。

 

 人々が歩き出す。

 

 誰も、何も気に留めない。

 

 御影は、その場に立ち尽くした。

 

「……今のは」

 

 夢ではない。

 

 幻覚でもない。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、確信は持てなかった。

 

 そのとき、頭の中に声が響いた。

 

『お兄ちゃん』

 

 御影は、目を見開いた。

 

『お兄ちゃん、どこにいるの?』

 

 幼い出久の声だった。

 

『お兄ちゃん、帰ってきて』

 

 御影は、耳を塞いだ。

 

「……やめろ」

 

『お兄ちゃん』

 

「やめてくれ……」

 

『僕、待ってるから』

 

 御影は、膝をついた。

 

 その声は、あまりにも懐かしかった。

 

 何度も聞いた声。

 

 何度も呼ばれた声。

 

 そして、何度も失った声。

 

『お兄ちゃん』

 

 声が、少しずつ変わっていく。

 

 幼い声から、少年の声へ。

 

 少年の声から、現在の出久の声へ。

 

『兄さん』

 

 御影は、顔を上げた。

 

 目の前に、緑谷出久が立っていた。

 

 今度は、消えなかった。

 

 制服姿の出久。

 

 涙を浮かべた出久。

 

 自分を見つめる出久。

 

「……出久」

 

 御影は、手を伸ばした。

 

 しかし、出久は後ずさった。

 

「……来ないで」

 

 御影の手が止まった。

 

「……どうして?」

 

 出久は、震える声で言った。

 

「君は、僕を殺すんでしょう?」

 

 御影は、何も言えなかった。

 

「君は、僕を殺して、生きるんでしょう?」

 

「……違う」

 

「じゃあ、どうして出生管理室に行ったの?」

 

 御影は、息を呑んだ。

 

「どうして、僕の削除を選んだの?」

 

「……っ」

 

「どうして、僕を殺そうとしたの?」

 

 御影は、首を振った。

 

「違う、出久。僕は……」

 

「君は、僕を殺したんだ」

 

 出久の声が、低くなった。

 

「僕が君を殺したように」

 

 御影は、凍りついた。

 

「……何を言ってるんだ」

 

「僕たちは、同じことを繰り返しているんだよ」

 

 出久は、泣いていた。

 

「君は僕を殺す。僕は君を殺す。君が生きるために僕が死ぬ。僕が生きるために君が死ぬ」

 

 出久は、顔を歪めた。

 

「それが、僕たちの世界なんだ」

 

「違う!」

 

 御影は叫んだ。

 

「そんな世界、認めない!」

 

「……でも、君は選んだ」

 

「違う!」

 

「君は、僕の削除を選んだ」

 

「違うんだ、出久!」

 

 御影は、出久に駆け寄ろうとした。

 

 だが、足が動かなかった。

 

 地面に、黒い影が広がっていた。

 

 影は、御影の足首をつかんでいた。

 

 御影が見下ろすと、そこには無数の手があった。

 

 自分の手。

 

 弟の手。

 

 見知らぬ誰かの手。

 

 そのすべてが、御影を地面に縫い止めていた。

 

 出久は、泣きながら言った。

 

「……兄さん」

 

 その呼び方に、御影の心臓が強く打った。

 

「僕は、君を殺したくない」

 

 出久は、ゆっくりと首を振った。

 

「でも、君が僕を殺すなら」

 

 彼は、目を閉じた。

 

「僕は、君を止めなきゃいけない」

 

 御影は、叫んだ。

 

「出久!」

 

 その瞬間。

 

 出久の身体が、黒い影に包まれた。

 

 御影は、必死に手を伸ばした。

 

 指先が触れる。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 出久の手が、御影の手を握り返した。

 

 そして。

 

 出久は、静かに言った。

 

「……ごめんね、兄さん」

 

 御影の視界が、真っ白になった。

 

     *

Ⅵ.殺されたのは、どちらだったのか

 御影出久は、目を覚ました。

 

 そこは、病室だった。

 

 白い壁。

 

 白い天井。

 

 小さな花瓶。

 

 枯れた花。

 

 そして、二つのベッド。

 

 片方には、赤ん坊が眠っていた。

 

 もう片方には、誰もいなかった。

 

 御影は、ゆっくりと身を起こした。

 

「……また、ここか」

 

 声が掠れていた。

 

 身体が重い。

 

 頭が痛い。

 

 何か大切なものを失ったような気がした。

 

 けれど、何を失ったのか、思い出せなかった。

 

 病室の扉が開いた。

 

 入ってきたのは、一人の女性だった。

 

 母親。

 

 御影は、彼女の顔を見た。

 

 女性は、赤ん坊を抱き上げた。

 

 赤ん坊は、静かに眠っていた。

 

 女性は、泣いていた。

 

『……ごめんね』

 

 御影は、息を止めた。

 

 その言葉。

 

 その声。

 

 知っている。

 

 知っているはずだった。

 

『あなたを産んでしまって、ごめんね』

 

 女性は、赤ん坊の額に唇を寄せた。

 

『あなたは、ここに生まれてはいけなかった』

 

 御影は、ベッドから降りようとした。

 

 だが、身体が動かなかった。

 

「……待って」

 

 声を出したつもりだった。

 

 しかし、声は出なかった。

 

「……待ってよ」

 

 女性は、赤ん坊を抱きしめていた。

 

 御影は、必死に手を伸ばした。

 

「……その子は」

 

 声が、ようやく出た。

 

「その子は、僕の弟だ」

 

 女性が、顔を上げた。

 

 その目は、御影を見ていなかった。

 

 御影の背後。

 

 何もない空間を見つめていた。

 

『……違うわ』

 

 女性が、言った。

 

『この子は、あなたの弟じゃない』

 

 御影は、凍りついた。

 

『この子は、あなたの弟になるはずだった子』

 

 女性は、赤ん坊を見つめた。

 

『でも、あなたが生まれてしまったから』

 

 御影の胸が、強く痛んだ。

 

『この子は、あなたを殺さなければならなくなった』

 

 御影は、首を振った。

 

「……違う」

 

『あなたが生きている限り、この子はあなたを殺す』

 

「違う!」

 

『この子が生きている限り、あなたはこの子を殺す』

 

「やめて!」

 

 御影は、叫んだ。

 

 その声が、病室を揺らした。

 

 赤ん坊が、目を開けた。

 

 緑色の瞳。

 

 御影と、よく似た瞳。

 

 赤ん坊は、御影を見た。

 

 そして。

 

 小さな手を伸ばした。

 

 御影は、息を呑んだ。

 

 赤ん坊の指が、御影の指に触れた。

 

 温かかった。

 

 確かな温もりだった。

 

 その瞬間、御影は理解した。

 

 自分が殺そうとしているのは、弟ではない。

 

 自分が生きるために殺さなければならないのは、弟ではない。

 

 この赤ん坊は、まだ何もしていない。

 

 何も選んでいない。

 

 誰も殺していない。

 

 ただ、生まれてきただけだ。

 

 世界が、勝手に役割を与えた。

 

 兄と弟。

 

 加害者と被害者。

 

 生きる者と、死ぬ者。

 

 そうやって、誰かが決めた。

 

 そして、自分たちは。

 

 その役割を演じさせられている。

 

「……違う」

 

 御影は、涙を流した。

 

「僕は……」

 

 赤ん坊の手を、そっと握る。

 

「僕は、君を殺したくない」

 

 赤ん坊は、何も答えなかった。

 

 ただ、小さな手で、御影の指を握り返した。

 

 その瞬間。

 

 病室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『第一個体の死亡を確認』

 

 御影は、顔を上げた。

 

『第二個体の死亡を確認』

 

 文字が増えていく。

 

『第三個体の生存を確認』

 

 御影は、息を止めた。

 

 第一個体。

 

 第二個体。

 

 第三個体。

 

 その記録の意味が、ようやくわかりかけていた。

 

 彼らは、単純に三人の子どもを数えていたのではない。

 

 世界が、何度も同じ名前を使い回した記録。

 

 同じ存在を、別の役割に分けた記録。

 

 そして、そのたびに。

 

 誰かが死んでいた。

 

 御影は、赤ん坊を見つめた。

 

「……出久」

 

 その名前を口にした瞬間、赤ん坊が泣き始めた。

 

 御影は、赤ん坊を抱き上げようとした。

 

 だが、女性が赤ん坊を抱きしめたまま、首を振った。

 

『駄目よ』

 

「……どうして」

 

『あなたがこの子を抱いたら、また始まってしまう』

 

「……何が?」

 

 女性は、御影を見つめた。

 

『あなたたちが、互いを殺し合う世界が』

 

 御影は、息を呑んだ。

 

 女性は、赤ん坊を抱いたまま、ゆっくりと後ずさった。

 

『ごめんね』

 

 彼女は、泣いていた。

 

『本当に、ごめんね』

 

 そして、赤ん坊に囁いた。

 

『今度こそ、あなたを生かしてあげる』

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 御影は、すべてを思い出した。

 

 自分が、弟を殺した日。

 

 弟が、自分を殺した日。

 

 何度も、何度も。

 

 世界が再構築されるたびに。

 

 誰かが記憶を失うたびに。

 

 自分たちは、互いを殺してきた。

 

 そして、そのたびに。

 

 どちらかが、相手を救おうとしていた。

 

 兄が弟を救う。

 

 弟が兄を救う。

 

 兄が死ぬ。

 

 弟が死ぬ。

 

 その繰り返しの果てに。

 

 誰も、救われていなかった。

 

「……もう、終わりにしよう」

 

 御影は、呟いた。

 

 女性が、顔を上げる。

 

「……もう、誰も殺さなくていい世界を作ろう」

 

 御影は、赤ん坊を見つめた。

 

「君が生きていても、僕が生きていても」

 

 声が震えた。

 

「どちらも、殺されなくていい世界を」

 

 その瞬間。

 

 赤ん坊が、泣き止んだ。

 

 小さな手が、御影の方へ伸びた。

 

 そして。

 

 御影の耳元で、声がした。

 

『……兄さん』

 

 その声は、赤ん坊のものではなかった。

 

 もっと大きな。

 

 もっと遠い。

 

 何度も聞いた、弟の声だった。

 

『やっと、わかったんだね』

 

 御影は、顔を上げた。

 

 病室の窓の向こう。

 

 雨の中に、一人の少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 自分と同じ顔。

 

 だが、その瞳には。

 

 御影の知らない、深い悲しみが宿っていた。

 

 少年は、微笑んだ。

 

『でも、もう遅いよ』

 

 御影は、息を止めた。

 

『僕は、もう君を殺してしまったから』

 

 窓ガラスに、亀裂が走った。

 

 病室が、崩れ始めた。

 

 女性が叫ぶ。

 

 赤ん坊が泣く。

 

 世界が、白く染まる。

 

 そして。

 

 御影の胸に、鋭い痛みが走った。

 

 何かが、彼の身体を貫いていた。

 

 御影は、ゆっくりと自分の胸を見た。

 

 そこには、赤い穴が開いていた。

 

 血が流れている。

 

 今度は、消えなかった。

 

 血が、床に落ちた。

 

 御影は、膝をついた。

 

「……出久」

 

 窓の向こうに、少年が立っていた。

 

 その手には、血に濡れた何かが握られていた。

 

 御影は、弟を見つめた。

 

 怒りはなかった。

 

 憎しみもなかった。

 

 ただ、悲しかった。

 

「……どうして」

 

 声が掠れた。

 

「どうして、君が……」

 

 少年は、泣いていた。

 

『ごめんね、兄さん』

 

 御影は、手を伸ばした。

 

 少年も、手を伸ばした。

 

 けれど、二人の指先は届かなかった。

 

『僕は、君を救いたかった』

 

 御影は、微笑んだ。

 

「……知ってるよ」

 

『でも、僕は……』

 

「うん」

 

『僕は、君を……』

 

 少年の声が途切れた。

 

 御影は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……大丈夫」

 

 その言葉は、かつて兄が弟に言った言葉だった。

 

「大丈夫だよ、出久」

 

 御影は、微笑んだ。

 

「君は……何も悪くない」

 

 そして。

 

 御影出久は、死んだ。

 

     *

Ⅶ.殺害記録の、最後の一行

「――御影出久、死亡」

 

 記録室に、機械音声が響いた。

 

 八百万が、息を呑んだ。

 

 画面には、御影出久の生体反応が表示されていた。

 

 心拍数ゼロ。

 

 脳波停止。

 

 生命活動の終了。

 

 そのすべてが、正常な死亡記録として処理されていた。

 

 しかし。

 

 その隣のモニターでは、緑谷出久の生体反応もまた、同じ状態になっていた。

 

 心拍数ゼロ。

 

 脳波停止。

 

 生命活動の終了。

 

 出久は、画面を見つめた。

 

「……僕も、死んでいる?」

 

 誰も答えなかった。

 

 相澤が、端末に手を伸ばした。

 

「記録の更新を止めろ。今すぐだ」

 

「できません!」

 

 八百万が叫んだ。

 

「記録そのものが、こちらの操作を拒否しています!」

 

 画面に、文字が浮かび上がった。

 

『死亡記録を確定します』

 

『対象:緑谷出久』

 

『対象:御影出久』

 

『死因:相互殺害』

 

『殺害者:緑谷出久』

 

『被害者:御影出久』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その記録は、正しいように見えた。

 

 兄が死んだ。

 

 弟が兄を殺した。

 

 世界は、その事実を記録した。

 

 だが、画面の隅に、小さな文字が浮かび上がっていた。

 

『注意』

 

『殺害者の個体識別に矛盾があります』

 

『殺害者:緑谷出久』

 

『殺害者:御影出久』

 

『殺害者:未登録個体』

 

『殺害者:――』

 

 文字が乱れた。

 

 画面が、真っ赤に染まった。

 

『殺害者を確定できません』

 

『被害者を確定できません』

 

『死亡者を確定できません』

 

 相澤が、画面を睨んだ。

 

「……何が起きている」

 

 その瞬間。

 

 すべてのモニターが、同じ映像に切り替わった。

 

 白い部屋。

 

 黒い柱。

 

 出生管理室。

 

 その中央に、御影出久が立っていた。

 

 彼は、生きていた。

 

 胸には傷がない。

 

 身体は透けていない。

 

 ただ、ひどく疲れた顔をしていた。

 

 御影は、カメラの向こうにいる誰かを見つめた。

 

 そして、言った。

 

「……僕は、弟を殺さない」

 

 その声は、記録室のスピーカーから流れた。

 

「でも、弟に殺されることも拒否する」

 

 御影は、黒い柱に手を置いた。

 

「僕は、御影出久だ」

 

 柱が、激しく震えた。

 

「僕は、緑谷出久じゃない」

 

 その瞬間。

 

 モニターに表示されていた二つの名前が、別々の場所へと移動した。

 

『緑谷出久』

 

『御影出久』

 

 初めて。

 

 二つの名前が、別々の存在として表示された。

 

 八百万が息を呑んだ。

 

「……識別が、分離した?」

 

 御影は、柱から手を離した。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……これで、少なくとも」

 

 彼は、静かに言った。

 

「僕たちが同じ名前だから、どちらかを消さなきゃいけない、という理屈は通らなくなった」

 

 その瞬間、出生管理室の床が崩れた。

 

 御影は、落下しながら笑った。

 

「さあ、次は何を言い訳にするんだい?」

 

 映像が、途切れた。

 

 記録室に、静寂が落ちた。

 

 出久は、画面を見つめたまま動かなかった。

 

 兄は、生きている。

 

 少なくとも、今の映像では。

 

 それなのに、先ほどの死亡記録は消えていない。

 

 相澤が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……緑谷」

 

「……はい」

 

「今の映像を見て、どう思った」

 

 出久は、しばらく考えた。

 

 そして、答えた。

 

「……兄さんは、生きたいんだと思います」

 

 相澤は、頷いた。

 

「そうだな」

 

「僕も、生きたいです」

 

「そうだな」

 

「だから……」

 

 出久は、拳を握った。

 

「僕たちは、どちらかが死ななきゃいけないっていう世界のルールを、変えなきゃいけないんだと思います」

 

 相澤は、短く息を吐いた。

 

「なら、やることは決まったな」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「はい」

 

 その瞬間。

 

 画面に、新しい文字が浮かび上がった。

 

『死亡記録の更新を開始します』

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

『第一対象:緑谷出久』

 

『第二対象:御影出久』

 

『第三対象:未登録個体』

 

 そして、その下に。

 

『死亡予定時刻:02:13』

 

 出久は、息を止めた。

 

「……また、二時十三分」

 

 八百万が、画面を見つめた。

 

「いえ……違います」

 

 彼女の声が震えていた。

 

「これは、死亡時刻の記録ではありません」

 

「何?」

 

 相澤が尋ねた。

 

 八百万は、表示された項目を拡大した。

 

『死亡予定時刻:02:13』

 

『対象個体の死亡を確定するための時刻』

 

『再構築開始時刻:02:14』

 

『次回観測開始時刻:02:15』

 

 出久は、目を見開いた。

 

 02:13。

 

 誰かが死ぬ時刻。

 

 02:14。

 

 世界が作り直される時刻。

 

 02:15。

 

 新しい世界が観測される時刻。

 

 それは、単なる時刻ではなかった。

 

 世界が、誰かを殺すために設けた手順だった。

 

 そして、画面の最後に。

 

 新しい記録が浮かび上がった。

 

『次回の殺害者』

 

 その下に、名前が表示される。

 

 緑谷出久。

 

 出久は、息を止めた。

 

 その隣に、もう一つの名前が現れる。

 

 御影出久。

 

 そして、最後に。

 

『第三の殺害者:未登録個体』

 

 画面が、真っ暗になった。

 

     *

Ⅷ.兄は、弟を殺す

 その夜。

 

 緑谷出久は、雄英の屋上にいた。

 

 空には雲が広がっていた。

 

 雨は降っていない。

 

 風も強くない。

 

 街の明かりが、遠くに見える。

 

 世界は、いつもどおりだった。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 出久は、手すりに手を置いた。

 

 兄が生きている。

 

 その事実が、胸の奥で何度も繰り返されていた。

 

 生きている。

 

 御影出久は、生きている。

 

 そして、自分を殺そうとしている。

 

 その事実も、同じくらい確かだった。

 

 出久は、目を閉じた。

 

 兄が、自分を殺しに来る。

 

 そのとき、自分はどうするのか。

 

 抵抗する。

 

 そう決めた。

 

 兄を殺すためではない。

 

 自分が生きるために。

 

 兄にも、生きていてほしいから。

 

 兄が、自分の手で誰かを殺さなくていいように。

 

 自分も、兄の手で殺されなくていいように。

 

 そういう未来を、選びたい。

 

 けれど。

 

 それだけで、本当に足りるのだろうか。

 

 自分が兄を救いたいと思うこと。

 

 兄が自分を殺そうとしていること。

 

 その二つが、同時に存在する世界。

 

 どちらかが間違っているわけではない。

 

 兄は、生きたい。

 

 自分も、生きたい。

 

 それだけなのだ。

 

 それなのに、世界は二人のうち一人しか生きられないと言う。

 

 ならば。

 

 世界の方が、間違っている。

 

「……そうだよね、兄さん」

 

 出久は、空を見上げた。

 

「僕たち、どっちも生きていていいんだよね」

 

 返事はなかった。

 

 そのとき。

 

 背後から、声がした。

 

「……そうだよ」

 

 出久は、振り返った。

 

 そこに、一人の少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 自分とよく似た顔。

 

 少しだけ優しい目。

 

 右側の口角が、わずかに上がる。

 

 御影出久だった。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……兄さん」

 

 御影は、静かに頷いた。

 

「やあ、出久」

 

 出久は、一歩踏み出しかけた。

 

 しかし、御影が手を上げた。

 

「……待って」

 

 出久の足が止まった。

 

 御影は、少しだけ悲しそうに笑った。

 

「今は、近づかないでほしい」

 

「……どうして?」

 

「君に会うと、僕は君を抱きしめたくなるから」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君に会うと、僕は君を守りたくなる。君に会うと、君と一緒に生きたいと思ってしまう」

 

 御影は、自分の手を見つめた。

 

「そして、そう思うたびに、僕は君を殺そうとするんだ」

 

 出久の胸が、痛んだ。

 

「……兄さん」

 

「僕は、君を殺したくない」

 

 御影は、顔を上げた。

 

「でも、僕は生きたい」

 

 その目は、まっすぐだった。

 

「君がいない世界でもいい。君が僕を恨む世界でもいい。君が僕を忘れる世界でもいい」

 

 御影の声が震えた。

 

「それでも、僕は生きたい」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「だから、僕は君を殺そうとする」

 

 御影は、目を閉じた。

 

「君が生きている限り、僕は世界に存在を否定される。君が生きている限り、僕は何度でも消される」

 

「……」

 

「僕は、それをもう受け入れたくない」

 

 御影は、出久を見つめた。

 

「ごめんね」

 

 出久は、首を振った。

 

「謝らないで」

 

「……」

 

「兄さんが生きたいって思うことは、悪いことじゃないよ」

 

 御影の顔が、歪んだ。

 

「……出久」

 

「僕も、生きたいから」

 

 出久は、一歩だけ近づいた。

 

「僕も、兄さんと一緒に生きたい」

 

 御影は、首を振った。

 

「……それは、無理なんだ」

 

「どうして?」

 

「世界が、そう決めているから」

 

「だったら、世界を変えよう」

 

 出久は、迷わず言った。

 

「僕たちが、変えよう」

 

 御影は、しばらく出久を見つめていた。

 

 そして、静かに笑った。

 

「……君は、変わらないね」

 

「……兄さんも」

 

 出久は、少しだけ笑った。

 

「君も、変わっていないよ」

 

 その言葉に、御影は目を伏せた。

 

「……そうかな」

 

「うん」

 

 出久は頷いた。

 

「僕を守ろうとしてくれたことも。僕と一緒に生きたいと思ってくれたことも」

 

 出久は、拳を握った。

 

「僕は、忘れない」

 

 御影の目から、涙が落ちた。

 

「……ありがとう」

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

 しばらく、二人は黙っていた。

 

 風が吹いた。

 

 遠くで、車の音が聞こえた。

 

 世界は、まだ動いていた。

 

 その静かな時間の中で、御影はゆっくりと口を開いた。

 

「……出久」

 

「うん」

 

「一つだけ、聞いてもいい?」

 

「もちろん」

 

 御影は、弟を見つめた。

 

「君は、僕を殺したことを覚えている?」

 

 出久は、息を止めた。

 

 答えは、簡単ではなかった。

 

 夢の中で見た光景。

 

 ノートに残された記録。

 

 出生管理室の映像。

 

 それらは、確かに自分が兄を殺したことを示していた。

 

 けれど、その記憶が本当に自分のものなのかは、まだわからない。

 

「……全部は、覚えていない」

 

 出久は、正直に答えた。

 

「でも、君が死んだことは覚えている」

 

 御影は、目を伏せた。

 

「……そう」

 

「君が、生きたかったことも」

 

「……」

 

「僕と一緒に、生きたかったことも」

 

 出久は、兄を見つめた。

 

「それだけは、忘れない」

 

 御影は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……だったら」

 

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「僕は、君を殺さなきゃいけない」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 御影の手に、黒い刃が現れた。

 

 刃物ではない。

 

 光でもない。

 

 世界から切り離された、黒い欠片だった。

 

 それは、御影の手の中で、静かに脈打っていた。

 

「……兄さん」

 

「ごめんね」

 

 御影は、涙を流しながら笑った。

 

「僕は、君を殺したくない」

 

 刃が、わずかに震えた。

 

「でも、僕は、生きたい」

 

 出久は、動かなかった。

 

 逃げることもできた。

 

 戦うこともできた。

 

 助けを呼ぶこともできた。

 

 けれど、出久は、兄を見つめていた。

 

「……うん」

 

 御影の手が震えた。

 

「……出久?」

 

「わかってるよ」

 

 出久は、静かに言った。

 

「君が生きたいってこと」

 

 御影の目が見開かれた。

 

「……だから」

 

 出久は、一歩踏み出した。

 

「僕は、君を止める」

 

 その言葉と同時に、黒い刃が動いた。

 

 出久は、身を捻った。

 

 刃が頬をかすめる。

 

 血が飛んだ。

 

 御影の目が、見開かれる。

 

「……っ!」

 

 出久は、兄の腕をつかんだ。

 

「兄さん!」

 

「離して!」

 

「嫌だ!」

 

 御影が刃を振る。

 

 出久は、腕で受け止めた。

 

 皮膚が裂ける。

 

 血が流れる。

 

 それでも、手を離さなかった。

 

「……僕は、君を殺さない!」

 

 出久は叫んだ。

 

「君が僕を殺そうとしても、僕は君を殺さない!」

 

「……そんなの、無理だよ!」

 

 御影も叫んだ。

 

「君が生きている限り、僕は消えるんだ!」

 

「だったら、消えないようにする!」

 

「どうやって!」

 

 御影の声が、夜空に響いた。

 

「どうやって、僕を生かすんだよ!」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 具体的な方法は、まだない。

 

 世界を変える方法も。

 

 出生管理室を止める方法も。

 

 兄を生かす方法も。

 

 何一つ、わかっていない。

 

 それでも。

 

「……これから、考える!」

 

 出久は叫んだ。

 

「僕たちで、考えるんだ!」

 

 御影の手が止まった。

 

「……」

 

「僕は、君を一人で死なせない!」

 

 出久は、兄の腕を握りしめた。

 

「君が生きたいなら、僕も一緒に方法を探す!」

 

「……出久」

 

「君が僕を殺さなきゃ生きられないっていうなら、その仕組みを壊す!」

 

 出久は、兄を見つめた。

 

「でも、君が僕を殺すことを選ぶなら」

 

 声が震えた。

 

「僕は、君を止める」

 

 御影の目から、涙が落ちた。

 

「……それでも、僕は君を殺そうとするかもしれない」

 

「うん」

 

「君を憎むかもしれない」

 

「うん」

 

「君を許せないかもしれない」

 

「……うん」

 

 出久は、頷いた。

 

「それでも、君に生きていてほしい」

 

 御影は、刃を握りしめた。

 

 その手が、震えていた。

 

 長い沈黙が落ちた。

 

 そして。

 

 御影は、黒い刃を下ろした。

 

「……ずるいよ、出久」

 

 彼は、泣きながら笑った。

 

「そんなことを言われたら、僕は……」

 

 言葉が途切れた。

 

 刃が、消えた。

 

 出久は、ゆっくりと手を離した。

 

 兄は、そこに立っていた。

 

 生きていた。

 

 消えていなかった。

 

 出久は、泣きそうになった。

 

 けれど、その瞬間。

 

 御影の身体が、再び透け始めた。

 

「……っ!」

 

 出久は、手を伸ばした。

 

「兄さん!」

 

 御影は、弟を見つめた。

 

 その目に、悲しみが浮かんでいた。

 

「……ごめんね」

 

 身体が、白い光に包まれる。

 

「出久」

 

「待って!」

 

「……僕は、君を殺したくない」

 

 御影は、微笑んだ。

 

「でも、世界が君を殺すなら」

 

 その姿が、薄くなった。

 

「僕は、世界を殺す」

 

 そして。

 

 御影出久は、消えた。

 

 出久は、手を伸ばしたまま、立ち尽くしていた。

 

 兄は、消えた。

 

 けれど、今度は違った。

 

 兄は、自分を殺さなかった。

 

 自分も、兄を殺さなかった。

 

 それなのに、兄は消えた。

 

 つまり。

 

 世界が、二人の生存を許さなかったのだ。

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 夜空に、黒い亀裂が走っていた。

 

 星が、一つずつ消えていく。

 

 街の明かりが、瞬いていた。

 

 時計が、止まった。

 

 02:13。

 

 そして、出久の耳元で。

 

 誰かが囁いた。

 

『……第一段階、失敗』

 

 その声は、御影のものではなかった。

 

 父親のものでも。

 

 母親のものでも。

 

 出生管理室の機械音声でもなかった。

 

 もっと古い。

 

 もっと深い。

 

 世界の始まりよりも前から、そこにいたような声だった。

 

『兄は、弟を殺せなかった』

 

 出久は、顔を上げた。

 

『弟も、兄を殺せなかった』

 

 黒い亀裂が、空を覆っていく。

 

『ならば』

 

 声が、静かに笑った。

 

『次は、世界が二人を殺そう』

 

 その瞬間。

 

 出久の目の前に、一人の少年が現れた。

 

 緑色の髪。

 

 自分と同じ顔。

 

 しかし、その瞳には何も映っていない。

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「……やあ」

 

 声は、出久自身のものだった。

 

「初めまして」

 

 少年は微笑んだ。

 

「僕は、緑谷出久」

 

 そして、首を傾げた。

 

「君は、誰?」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 少年は、続けた。

 

「君は、僕じゃないよね」

 

 その顔から、笑みが消えた。

 

「だって、僕は……」

 

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「兄さんを殺したことなんて、一度もないんだから。」

 

 世界が、完全に停止した。

 

 時計は02:13を指していた。

 

 そして、出久は理解した。

 

 今、目の前にいる少年は。

 

 自分ではない。

 

 御影でもない。

 

 そして、おそらく。

 

 自分たちが、これまで探してきた存在でもない。

 

 少年は、静かに笑った。

 

「……ねえ、緑谷出久」

 

 その声は、どこまでも優しかった。

 

「君が兄さんを殺した世界は、もう終わったんだよ」

 

 出久は、動けなかった。

 

「だから、今度は僕が作り直す」

 

 少年は、手を伸ばした。

 

「君がいなかったことになる世界を」

 

 そして。

 

 世界のすべての時計が、逆回転を始めた。

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