僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第四話 死者は、英雄の名を呼ぶ

黒い霧の中心で、何かが目を開いた。

それは、眼球ではなかった。

瞳孔も、虹彩も、白目もない。

ただ、闇の中に浮かび上がる、二つの輪郭。

まるで、夜空そのものに穴が開いたかのようだった。

緑谷出久は、その光景を見つめながら、無意識に息を止めていた。

(なんだ……あれ)

男の身体を覆っている黒い霧。

地面を這い、建物を侵食し、周囲の景色を歪めている異常な現象。

その中心に浮かんだ二つの目は、明らかに男のものではなかった。

では、誰の目なのか。

男の個性が変質したものなのか。

死者として蘇ったことによる副作用なのか。

あるいは――。

「出久くん!」

麗日お茶子の声が、思考を引き戻した。

男の腕が伸びてくる。

出久は即座に身を翻した。

かつてなら、個性による強化で真正面から受け止められた攻撃だ。

だが、今の彼にはワン・フォー・オールはない。

身体能力も、現役時代と比べれば大きく落ちている。

だからこそ、彼は動きを読んだ。

腕の伸長。

肩の捻り。

黒い霧が集中する位置。

攻撃が来る直前、地面に浮かんだ亀裂。

「右から来る!」

叫ぶと同時に、出久はお茶子の腕を引いた。

二人の頭上を、巨大な腕が通過する。

轟音。

街路樹が根元からへし折れ、歩道の舗装が剥がれ飛んだ。

「うわっ……!」

お茶子が体勢を崩す。

出久は彼女を支え、そのまま後方へ跳んだ。

着地と同時に、彼は周囲を確認する。

逃げ遅れた人が三人。

負傷者が二人。

そのうち一人は、足を挟まれて動けない。

そして、黒い霧の広がる速度は、先ほどよりも明らかに速くなっている。

(このままじゃ、被害が広がる……!)

「お茶子ちゃん、左側の人たちをお願い! 僕はあいつの注意を引く!」

「わかった!」

お茶子は迷わなかった。

彼女は負傷者へ駆け寄り、瓦礫に手を触れる。

「浮かせるよ! みんな、手を離して!」

重力が消えたように、瓦礫がふわりと浮かび上がった。

お茶子はそれを安全な場所へ移動させ、周囲の人々に避難を促す。

「走らなくていいから、落ち着いて! あっちの交差点まで下がって! ヒーローが来るから!」

その声は、混乱の中でもよく通った。

誰かを安心させるための声だった。

かつて、彼女が何度も人々に向けてきた声。

出久は、その背中を一瞬だけ見つめた。

そして、男へと向き直る。

「……聞こえる?」

彼は、できるだけ穏やかな声で話しかけた。

「君は、僕の名前を知っているんだよね」

黒い霧が揺れた。

「だったら、話ができるはずだ。どうして僕を狙うのか、教えてほしい」

男は答えない。

その身体は、すでに人間の輪郭を失いかけていた。

皮膚の下で何かが蠢いている。

腕が二本から四本に増え、背中から黒い棘が突き出した。

しかし、出久が気になったのは、その異形ではなかった。

男の右手。

黒い霧に覆われた指先が、何度も何かを掴もうとしていた。

空を。

地面を。

自分自身の身体を。

まるで、そこに存在しているはずの何かを、必死に探しているように。

「……返せ」

男が呟いた。

「返せ……返せ……返せ……!」

声が重なる。

一人の声ではなかった。

男の喉から発せられた声に、別の声が混ざっている。

老人の声。

若い男の声。

女の声。

子供の声。

何人もの人間が、同じ言葉を繰り返していた。

「返せ!」

黒い霧が爆発した。

出久は横へ跳んだ。

その直後、彼の立っていた場所が陥没する。

衝撃で身体が浮き、背中から地面へ叩きつけられた。

「ぐっ……!」

肺から空気が抜ける。

起き上がろうとした彼の眼前に、黒い腕が迫った。

避けられない。

そう判断した瞬間。

「出久くん!」

お茶子が飛び込んできた。

彼女の指先が、伸びてきた腕に触れる。

その瞬間、巨大な腕の動きが鈍った。

重力が変わったのだ。

お茶子は歯を食いしばりながら、腕を空中へ押し上げる。

「今のうちに!」

「ありがとう!」

出久は転がるようにその場を離れた。

二人は距離を取る。

息が荒い。

まだ、戦闘が始まってから数分しか経っていない。

それなのに、出久はすでに理解し始めていた。

この男は、単純な怪力型ではない。

黒い霧は周囲の物質を侵食しているように見えるが、破壊された地面や樹木が、完全に消えているわけではない。

形を失い、別のものへと変質している。

そして何より――。

「……お茶子ちゃん」

「うん?」

「さっきの腕、触ったよね?」

「うん。浮かせようとしたんだけど……」

彼女の表情が曇った。

「変だった」

「変?」

「うまく言えないんだけど……あの腕、重さがあるのに、重さがないみたいだった。触った瞬間、私の個性がどこに作用しているのか、わからなくなったの」

出久は男を見つめた。

「個性が……作用しない?」

「完全に効かなかったわけじゃないよ。でも、普通じゃなかった」

それは重要な情報だった。

お茶子の個性は、触れた対象の重力を操作する。

対象が生物であれ、無機物であれ、基本的には同じだ。

しかし、あの腕は。

そもそも、何を対象として認識すればいいのかわからなかった。

物質なのか。

エネルギーなのか。

それとも、生物の身体を模した何かなのか。

「……死者だから?」

出久は呟いた。

その言葉に、お茶子の表情が強張った。

二人は、今朝から世界中で起きている現象を知っている。

亡くなった人間が帰ってきた。

死んだはずの人が、家族の前に現れた。

奇跡と呼ぶべき出来事。

けれど、その奇跡は、必ずしも人々を幸福にするとは限らなかった。

「……出久くん」

お茶子が、静かに尋ねる。

「この人、本当に……亡くなっていた人なのかな」

出久は答えられなかった。

答えられるはずがなかった。

彼らが目の前にしているのは、死者が帰還するという常識外の現象。

その現象の仕組みを、まだ誰も理解していない。

わかっているのは、ただ一つ。

この男は、自分が誰なのかを忘れている。

そして、出久の名前だけは覚えている。

まるで、そこにだけ、何かが残っているように。

「……緑谷……」

男が顔を上げた。

黒い霧の奥で、二つの目が輝く。

「お前が……」

彼は、ゆっくりと腕を伸ばした。

「お前が……俺を……殺したのか?」

出久の表情が凍りついた。

「……え?」

男の声が震える。

「お前が……俺の人生を……終わらせたのか……?」

出久は、言葉を失った。

彼には覚えがない。

目の前の男を殺した記憶など、あるはずがない。

そもそも、男の顔を見ても、誰なのかわからなかった。

「違う……僕は……」

否定しかけた言葉が、止まる。

男の表情が、あまりにも悲痛だったからだ。

その顔には、怒りだけではなく、深い絶望があった。

まるで、自分の存在そのものを否定された人間の顔だった。

「……俺は……」

男の身体が揺れる。

「俺は、まだ……」

黒い霧が、彼の顔を覆い始めた。

「生きたかった……!」

その叫びは、攻撃の咆哮ではなかった。

助けを求める声だった。

出久は、思わず一歩踏み出した。

「……君!」

だが、その瞬間。

男の身体が、弾けた。

黒い霧が一斉に広がる。

視界が暗転する。

お茶子の悲鳴。

瓦礫の崩れる音。

逃げ惑う人々の足音。

すべてが、遠ざかっていく。

そして、出久の耳元で。

誰かが囁いた。

『――まだ、思い出せないのか』

聞き覚えのない声だった。

男の声でもない。

女の声でもない。

人間の声に似ているのに、人間が発しているとは思えない声。

『お前は、もう一度、選ばなければならない』

出久は目を見開いた。

「……誰だ!」

返事はない。

ただ、闇の奥で。

何かが笑った気がした。

* * *

同時刻。

雄英高校。

緊急対策本部。

巨大なモニターが、次々と新しい映像を映し出していた。

各地の警察から送られてくる現場映像。

ヒーロー事務所からの緊急報告。

病院からの連絡。

そして、世界各国の政府機関から共有された情報。

そのすべてが、一つの結論へと収束しつつあった。

死者の帰還は、局地的な異常現象ではない。

世界規模の現象だ。

「第七区画で、帰還者による暴行事件が発生!」

「病院から報告! 死亡確認された患者が、搬送先で蘇生したとのこと!」

「待ってください、こちらは違います! 蘇生した患者の身体が、急激に変質している!」

「警察から要請! 通常の拘束手段では制圧できない帰還者が複数!」

怒号が飛び交う。

誰もが必死だった。

しかし、報告が増えるほど、状況は悪化していく。

現場で何が起きているのか。

誰が敵で、誰が味方なのか。

そもそも、帰還した人間をどのように扱えばいいのか。

その判断基準すら、まだ存在しなかった。

「静かにしろ!」

低い声が響いた。

相澤消太だった。

彼は腕を組み、モニターを見つめていた。

かつて雄英高校で教師を務め、数え切れないほどの危機を経験してきた男。

だが、今、彼の目の前にある事態は、これまでのどんな事件とも異なっていた。

「報告は順番に。現場の情報を混ぜるな。死亡確認の有無、帰還した時間、身体の状態、発現した個性の有無。最低限、それだけは整理しろ」

「は、はい!」

指示を受けた職員たちが、慌ただしく動き始める。

相澤は、隣に立つ山田ひざしへ目を向けた。

「山田」

「わかってる」

プレゼント・マイクは、いつもの陽気さを完全に消していた。

「……これ、洒落になんねえぞ」

「最初から洒落にするつもりはない」

「そういう意味じゃねえよ」

ひざしはモニターを見た。

画面の中では、救急隊員が一人の男性を搬送している。

男性は、数時間前に死亡が確認されていた。

だが、搬送中に突然目を覚ました。

家族の名前を呼び、泣きながら、自分が帰ってきたことを喜んでいた。

その直後。

男性の身体から、黒い触手のようなものが伸びた。

映像は、そこで途切れていた。

ひざしは唇を噛んだ。

「……戻ってきた人間が、みんな同じじゃねえってことか」

「そう考えるべきだろうな」

相澤は、別の資料を確認した。

「現時点で、帰還者の状態は大きく三つに分類できる」

彼はモニターに分類表を表示した。

第一群。

記憶、人格、身体状態に大きな異常が見られず、周囲との意思疎通が可能な者。

第二群。

記憶の欠落、感情の不安定化、個性の異常発現などが見られる者。

第三群。

他者への攻撃性、身体の変質、意思疎通の困難、あるいは通常の物理法則から逸脱した現象を示す者。

「ただし、これは現時点での暫定分類だ。第一群の人間が、突然第二群や第三群に変化する可能性もある」

「……要するに、見た目だけじゃ判断できねえってことだな」

「そうだ」

相澤は頷いた。

「そして、最も重要なのは――」

彼の声が、わずかに低くなった。

「第三群に分類された者を、最初から敵と決めつけるな」

ひざしが顔を上げる。

「相澤?」

「攻撃してくるなら、制圧は必要だ。市民を守るためにな。だが、あいつらが何なのか、どうしてそうなったのか、まだ何もわかっていない」

相澤の目は、モニターから離れなかった。

「人間としての意識が残っている可能性を捨てるな。意識があるなら、意思疎通の方法を探せ。拘束する場合も、可能な限り生きた状態で確保する」

「……簡単に言ってくれるぜ」

「簡単じゃないから言っている」

相澤は、淡々と返した。

「わからないものを、わからないまま殺すな。俺たちはヒーローだ」

その言葉に、ひざしは何も返せなかった。

ヒーロー。

人々を守る者。

社会の秩序を維持する者。

危険な存在を制圧する者。

その役割は、明確だったはずだ。

だが、今は違う。

死者が帰ってきた。

帰還者の中には、家族を抱きしめる者もいる。

涙を流し、再会を喜ぶ者もいる。

そして、誰かを殺そうとする者もいる。

そのすべてが、同じ現象から生まれている。

もし、攻撃してきた相手が、かつて自分たちの仲間だったら。

もし、その人物が、何も覚えていないだけだったら。

もし、救おうとする行為そのものが、さらなる犠牲を生んでしまったら。

それでも、ヒーローは救わなければならないのか。

相澤は、その問いに答えを持っていなかった。

だが、一つだけ決めていた。

答えが出ないからといって、考えることをやめるつもりはなかった。

「……緑谷は?」

相澤が尋ねた。

職員の一人が、すぐに端末を確認する。

「緑谷出久さんは、本日午前中、都内で行動しているとの情報があります。麗日さんも同行している可能性が――」

その瞬間。

別の職員が声を上げた。

「先生! 東京都内で大規模な異常現象が発生しました!」

モニターが切り替わる。

そこに映し出されたのは、公園だった。

破壊された遊歩道。

倒れた街路樹。

黒く変色した地面。

そして、画面の隅に映った二人の人影。

相澤の目が見開かれた。

「……緑谷!」

ひざしが机を叩く。

「おい、映像を拡大しろ!」

画面が拡大される。

黒い霧の向こうに、緑谷出久の姿があった。

その隣には、麗日お茶子。

二人は、正体不明の存在と対峙していた。

「現場の位置を特定しろ! 最寄りのヒーロー事務所に連絡! 警察と救急も向かわせろ!」

相澤の指示が飛ぶ。

職員たちが一斉に動き出した。

しかし、相澤自身は、その映像から目を離せなかった。

黒い霧。

異常な身体変質。

そして、緑谷出久を狙う帰還者。

その組み合わせに、説明のつかない嫌な予感があった。

「……山田」

「わかってる」

ひざしは、すでに通信端末を手にしていた。

「俺も現場に行く」

「俺もだ」

相澤は、ゴーグルを手に取った。

「……今度は、あいつ一人に背負わせない」

その言葉には、教師としての決意があった。

そして、かつて何度も、教え子を失いかけた男の本音があった。

* * *

公園。

黒い霧が、出久の視界を覆い尽くしていた。

上下の感覚がない。

地面を踏んでいるはずなのに、足裏に感触がない。

音も遠い。

お茶子の声が、どこか遠くから聞こえてくる。

「出久くん! 出久くん!」

返事をしようとした。

だが、声が出ない。

彼は、自分の手を見た。

そこにあるはずの指が、ぼやけている。

身体の輪郭が、霧の中に溶けていく。

(これは……現実じゃない?)

いや。

完全に現実ではないとも言い切れない。

彼はこれまで、数多くの敵と戦ってきた。

精神に干渉する個性。

幻覚を見せる個性。

記憶に作用する個性。

身体感覚を狂わせる個性。

だからこそ、今の状況を冷静に分析しようとした。

まず、感覚が失われている。

次に、周囲の音が歪んでいる。

そして、先ほど聞こえた声。

『お前は、もう一度、選ばなければならない』

あれは、男の声ではなかった。

ならば、男の個性による精神干渉か。

それとも、帰還者という存在そのものが引き起こす現象なのか。

(落ち着け……)

出久は、深く息を吸おうとした。

しかし、呼吸している感覚すら曖昧だった。

そのとき。

霧の向こうに、光が見えた。

小さな光。

それは、遠くから近づいてくる。

やがて、光は人の形を取った。

少年だった。

自分と同じくらいの年齢に見える。

制服を着ている。

顔は、よく見えない。

だが、その少年がこちらを向いた瞬間、出久の胸に強烈な痛みが走った。

知らない顔のはずだった。

名前も知らない。

声も知らない。

それなのに。

なぜか、泣きたくなった。

「……君は」

出久は、手を伸ばした。

少年は、動かなかった。

その顔が、少しずつ明瞭になっていく。

そして。

出久は、息を呑んだ。

少年の顔は、自分に似ていた。

正確には、今の自分ではない。

もっと幼い頃。

何も持たず、何もできず、それでもヒーローになりたいと願っていた頃の自分に。

少年が、口を開いた。

「……君は、ヒーローになれた?」

出久の喉が詰まった。

「……え?」

「君は、ヒーローになれた?」

少年は、もう一度尋ねた。

責めているわけではない。

嘲笑っているわけでもない。

ただ、知りたいのだ。

自分が夢見た未来が、どんなものになったのか。

出久は、答えようとした。

なれたよ。

たくさんの人を救った。

世界を救った。

仲間ができた。

かけがえのない人たちと出会えた。

そして今も、自分にできることを探している。

だから、夢は無駄じゃなかった。

そう伝えたかった。

しかし、口を開いた瞬間。

別の声が、霧の中に響いた。

『――違う』

少年の姿が揺らいだ。

『お前は、まだ何も終わらせていない』

霧が渦を巻く。

少年の身体が、黒い影に覆われていく。

『お前は、選ばなかった』

「違う!」

出久は叫んだ。

「僕は……!」

言葉が続かない。

何を否定しようとしたのか。

自分でも、わからなかった。

『力を失ったお前は、何を選ぶ?』

声が尋ねる。

『誰も救えないと知ったとき、お前は何を選ぶ?』

出久は拳を握りしめた。

「……それでも」

声が震えた。

「それでも、僕は……」

言葉が途切れる。

少年が、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、涙が浮かんでいた。

「……僕は、君になりたかった」

出久の胸が、締めつけられた。

その瞬間。

霧の向こうで、誰かが叫んだ。

「出久くん!」

お茶子の声だった。

「帰ってきて!」

その声を聞いた瞬間、世界が揺れた。

少年の姿が、崩れていく。

黒い霧が砕け散る。

そして、出久は見た。

霧の中心に立つ、異形の男。

その顔が、一瞬だけ元の人間の姿へ戻っていた。

若い男だった。

出久と同年代か、少し年上。

目元には、涙の跡がある。

その唇が、微かに動いた。

「……助けて」

次の瞬間。

出久の意識が、現実へと引き戻された。

出久は、咳き込みながら地面に手をついた。

「っ、は……!」

肺が痛い。

耳鳴りがする。

目の前では、黒い霧が渦を巻き、何度も形を変えていた。

だが、先ほどまでと違う。

霧の動きが、明らかに鈍くなっている。

まるで、何かを恐れているように。

「出久くん!」

お茶子が駆け寄ってくる。

「大丈夫!? ねえ、聞こえる!?」

「お茶子ちゃん……」

「よかった……!」

彼女は、出久の肩を掴んだ。

その手が震えていた。

「急に動かなくなって、呼んでも反応しなくて……!」

「ごめん。ちょっと……変なものを見てた」

「変なもの?」

出久は答えようとした。

だが、その前に。

「――退け!」

鋭い声が響いた。

黒い霧が弾け飛ぶ。

次の瞬間、数本の捕縛布が飛来し、異形の男の腕と胴体に巻きついた。

「相澤先生!」

出久が叫ぶ。

「状況は後だ! 二人とも下がれ!」

相澤消太は、ゴーグルを下ろしながら地面を蹴った。

その背後にはプレゼント・マイク。

さらに、近隣のヒーロー事務所から駆けつけた数人のプロヒーローが続いていた。

「対象を拘束する! 周囲の市民を避難させろ!」

相澤の指示が飛ぶ。

捕縛布が締まる。

男の身体が地面に押しつけられた。

だが――。

「……ああ」

男が、呟いた。

「……ああ、そうか」

相澤の眉が動く。

「何?」

男は、ゆっくりと顔を上げた。

黒い霧の奥で、二つの目が輝いている。

「……お前も、いるんだな」

その言葉を聞いた瞬間、相澤の表情が変わった。

男は、相澤を知っている。

いや。

正確には、相澤という人間を知っているというよりも。

彼の中にある何かを、見ているようだった。

「……誰だ、お前」

相澤は捕縛布を引き絞った。

「名前を言え。いつ死んだ。何が起きた?」

男は答えなかった。

代わりに、相澤の顔をじっと見つめた。

そして。

「……先生」

相澤の動きが止まった。

「……先生?」

男の口元が、わずかに歪む。

笑ったのか。

泣いたのか。

そのどちらなのか、わからなかった。

「……まだ、教えてるんだな」

「何?」

「……よかった」

男の目から、涙が流れた。

「まだ……先生が、いる」

相澤は息を呑んだ。

その声。

その言葉。

それは、敵意を向ける者のものではなかった。

懐かしい人間に再会した者の声だった。

だが、相澤は油断しなかった。

目の前の男は、すでに複数の人間を危険にさらしている。

身体の変質も止まっていない。

そして、今も捕縛布の下で、黒い霧が蠢いていた。

「……お前は、誰だ」

相澤は、もう一度尋ねた。

男は口を開いた。

「俺は……」

その瞬間。

男の身体が激しく痙攣した。

「っ……!」

捕縛布が軋む。

黒い霧が、男の背中から噴き出した。

「相澤先生、離れて!」

出久が叫ぶ。

だが、遅かった。

男の身体が膨張する。

捕縛布が千切れ、黒い腕が相澤へと伸びた。

相澤は身を翻した。

しかし、腕の先端が頬を掠める。

血が一筋、頬を伝った。

「相澤!」

ひざしが声を上げる。

彼の個性による音波が放たれ、黒い霧を吹き飛ばした。

男が呻く。

「ガッ……あ、ああああああっ!」

苦痛の叫びだった。

攻撃を受けたからではない。

男自身の身体が、何かに抗っている。

「やめろ……!」

男は頭を抱えた。

「違う……! 俺は……俺は……!」

黒い霧が、男の口や目から溢れ出す。

「違うんだ……! 俺は、こんなことを……!」

その言葉に、出久の胸が痛んだ。

先ほど、霧の中で見た光景。

幼い自分に似た少年。

そして、助けを求める男。

あれは幻覚だったのか。

それとも、男の記憶だったのか。

もし、あの光景が男の記憶だったのなら。

彼は今、自分の意思とは関係なく、何かに操られているのではないか。

「先生! この人、何かに抵抗してるんです!」

出久が叫ぶ。

「わかっている!」

相澤は、男を睨みつけた。

ゴーグル越しに、男の身体を見据える。

だが、相澤の個性は発動していた。

それなのに、黒い霧は消えない。

身体の変質も止まらない。

「……個性じゃない?」

相澤が呟いた。

彼の個性は、視認した相手の個性を一時的に抹消する。

発動条件を満たしているはずなのに、何も変化がない。

つまり、少なくとも今目の前で起きている現象は、通常の個性の枠組みでは説明できない可能性がある。

「……面倒なことになったな」

相澤は、舌打ちした。

そのとき。

男の身体が、突然動きを止めた。

黒い霧が引いていく。

異形の腕が縮み、歪んでいた顔が元に戻る。

男は、荒い息を吐きながら地面に膝をついた。

「……ああ」

彼は、涙を流していた。

「……思い出した」

出久が、一歩近づいた。

「……何を?」

男は顔を上げた。

その目は、もう虚ろではなかった。

そこには、確かな意志があった。

「……俺は」

唇が震える。

「俺は……お前を、知っている」

出久は息を呑んだ。

「……緑谷出久」

男は、その名前をはっきりと口にした。

「お前は……俺の……」

次の言葉を発する前に。

男の胸元から、黒い亀裂が走った。

「――っ!?」

相澤が叫ぶ。

「全員、退避!」

亀裂は、男の身体を縦に走り抜けた。

皮膚の下から、黒い光が漏れる。

男の顔に、恐怖が浮かんだ。

「……いやだ」

彼は、必死に手を伸ばした。

「いやだ……! まだ……!」

出久は駆け寄ろうとした。

しかし、相澤が腕を掴んだ。

「行くな!」

「でも!」

「今、近づけばお前まで巻き込まれる!」

「それでも――!」

出久は叫んだ。

「助けを求めてるんです!」

相澤の手に力がこもる。

「……わかっている!」

その声には、怒りがあった。

目の前の男に対する怒りではない。

何もできない自分自身に対する怒りだった。

相澤は、これまで何度も生徒たちを危険から遠ざけようとしてきた。

そして、何度も失敗してきた。

白雲朧を失った。

生徒たちを危険な戦いに送り出した。

目の前で誰かが傷つくたびに、もっと何かできたのではないかと考えてきた。

だからこそ、今度こそ。

この男を救える可能性があるのなら、簡単に捨てるわけにはいかなかった。

だが、彼は教師だった。

生徒を守らなければならない。

目の前の命を救いたいという願いと、これ以上の犠牲を出してはならないという責任。

その二つが、相澤の中で激しくぶつかっていた。

そして。

男の身体が、光に包まれた。

黒い光だった。

音もなく。

熱もなく。

ただ、そこにあったはずの存在が、少しずつ世界から剥がれていく。

男は最後に、出久を見た。

「……緑谷」

その声は、驚くほど穏やかだった。

「……頼む」

彼は、微笑んだ。

「……今度こそ、救ってくれ」

次の瞬間。

男の身体は、黒い霧となって崩れ落ちた。

霧は地面に触れる前に消えていく。

まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。

残されたのは、破壊された公園と、呆然と立ち尽くす人々だけだった。

誰も、言葉を発しなかった。

出久は、男が消えた場所を見つめていた。

今度こそ。

救ってくれ。

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

「……僕は」

出久は、震える手を握りしめた。

「……僕は、君を……」

救えなかった。

その言葉を、口にすることができなかった。

* * *

午前十一時二十分。

現場は、警察とヒーローたちによって封鎖された。

負傷者は救急車で搬送され、周辺住民には避難指示が出されている。

報道各社のヘリコプターが上空を旋回し、現場の映像を全国へと送り続けていた。

画面の向こうでは、解説者たちが必死に言葉を探している。

死者の帰還。

謎の黒い霧。

正体不明の怪物。

そして、現場にいた緑谷出久。

かつて世界を救った英雄が、再び不可解な事件に巻き込まれた。

その事実は、瞬く間に世界中へ広がった。

だが、現場にいた人々は、まだ知らなかった。

彼らが目撃した出来事が、これから起こる数え切れない悲劇の、ほんの始まりに過ぎないことを。

「……緑谷」

相澤が声をかけた。

出久は、ゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫か」

「……はい」

返事はした。

だが、相澤は納得しなかった。

「嘘をつくな」

出久は、口を閉じた。

相澤はため息をつく。

「話せる範囲でいい。何があった」

出久は、少しだけ迷った。

あの霧の中で見た光景。

自分に似た少年。

そして、聞こえた声。

『お前は、もう一度、選ばなければならない』

すべてを説明したところで、信じてもらえるとは思えなかった。

しかし、相澤なら。

少なくとも、最初から否定することはしないだろう。

「……あの人の中に、誰かがいました」

「誰か?」

「はい。あの人自身とは別の……何かが」

出久は、言葉を選びながら続けた。

「僕に話しかけてきたんです。力を失った僕が、何を選ぶのかって」

相澤の眉間に皺が寄った。

「……精神干渉か?」

「わかりません。でも、単なる幻覚とは思えませんでした」

「根拠は?」

「……あの人の記憶を、見ていたような気がするんです」

相澤は黙った。

出久は続ける。

「最後に、あの人は僕を知っていると言いました。僕に何かを頼もうとして……でも、その直後に消えてしまった」

「……そうか」

相澤は、現場に残された痕跡を見た。

黒い霧は、すでに完全に消えている。

破壊された地面には、異常な腐食も、通常の個性による損傷も確認できなかった。

まるで、何かが通り過ぎた痕跡だけが残されているようだった。

「……緑谷」

「はい」

「一つだけ、確認したい」

相澤は、出久をまっすぐ見た。

「お前は、あの男を知っているのか?」

出久は、首を横に振った。

「……いいえ」

「本当に?」

「はい。顔を見ても、名前を聞いても、思い出せませんでした」

相澤は、少しだけ目を細めた。

「……なら、なぜあいつは、お前を狙ったんだ」

その問いに、出久は答えられなかった。

わからない。

本当に、何もわからない。

だが、男の言葉は、確かに出久の胸に残っていた。

お前が、俺を殺したのか。

俺の人生を終わらせたのか。

そして。

今度こそ、救ってくれ。

出久は、自分の手を見つめた。

かつて、世界を救うために振るった拳。

今は、何も宿していない拳。

それでも、彼はヒーローであろうとしてきた。

力を失っても。

戦う術が変わっても。

誰かを助けたいという気持ちだけは、失っていないつもりだった。

だが、あの男は言った。

力を失ったお前は、何を選ぶ。

まるで、出久がこれから直面する未来を知っているかのように。

「……先生」

出久は、顔を上げた。

「僕、あの人を探したいです」

相澤は、すぐには答えなかった。

「……もう消えたんだぞ」

「わかっています。でも、あの人が誰なのか、どうして僕を知っていたのか……調べたいんです」

「調べるのはいい。だが、単独行動は許可しない」

「はい」

「それと、今後は何か異常を感じたら、すぐに連絡しろ。自分だけで抱え込むな」

出久は、少しだけ笑った。

「……昔から、それをよく言われます」

「何度言っても直らないからな」

相澤の声には、わずかな呆れが混じっていた。

出久は、申し訳なさそうに頭を掻いた。

その様子を見て、お茶子が小さく笑う。

「出久くん、そこは反省するところだよ?」

「う……はい」

ほんの一瞬。

ほんのわずかだけ。

三人の間に、いつもの空気が戻った。

だが、それは長く続かなかった。

相澤の端末が鳴った。

画面を確認した彼の表情が、一瞬で険しくなる。

「……何?」

ひざしが尋ねる。

相澤は、画面を見つめたまま答えた。

「別の現場だ」

「また帰還者か?」

「……ああ」

相澤は、息を吐いた。

「今度は、病院だ」

* * *

都内某病院。

集中治療室。

医師たちは、信じられないものを見ていた。

ベッドに横たわっているのは、一人の少女だった。

年齢は十六歳。

交通事故による重傷で搬送され、数時間前に死亡が確認されていた。

家族への連絡も済んでいる。

死亡診断書も作成されていた。

だが。

少女は、目を覚ました。

「……ここは?」

その声に、医師たちは凍りついた。

「……患者が、意識を……?」

「あり得ない……死亡確認から、まだ三時間しか……」

少女は、自分の手を見た。

包帯が巻かれている。

身体には、複数の医療機器が接続されていた。

「……私、死んだの?」

誰も答えられなかった。

少女は、しばらく天井を見つめていた。

やがて、何かを思い出したように顔を上げる。

「……お母さんは?」

医師の一人が、震える声で答えた。

「……ご家族には、連絡をしています」

「そっか……」

少女は、微笑んだ。

「よかった」

その笑顔を見て、医師たちは息を呑んだ。

そこには、異常な様子はなかった。

記憶も、会話も、感情も、正常に見える。

彼女は、自分の名前を言えた。

家族の名前も。

学校のことも。

友人のことも。

死亡する直前までの記憶も、断片的ながら残っていた。

「……先生」

少女が尋ねた。

「私、帰れる?」

医師は答えに詰まった。

医学的に説明できない現象が起きている。

身体の状態も、通常ではない。

それなのに、彼女は帰宅を望んでいる。

当然の願いだった。

家族に会いたい。

自分が生きていることを伝えたい。

それだけなのだ。

「……今は、まだ検査が必要だ」

医師は、慎重に答えた。

「もう少しだけ、ここにいてくれるかな」

「……うん」

少女は頷いた。

そして、再び天井を見上げた。

「……変なの」

「何がだい?」

「夢を見てた気がするの」

医師が首を傾げる。

「夢?」

「うん。真っ暗なところで……誰かが、私を呼んでた」

少女は、胸元に手を当てた。

「でも、誰だったのか……思い出せない」

その瞬間。

少女の心電図が、異常な波形を描いた。

「……え?」

医師が振り返る。

心拍数が急激に上昇している。

血圧が乱れ、モニターの数値が次々と変化していく。

「患者の状態が急変!」

「鎮静剤を!」

「いや、待て! 何かがおかしい!」

少女の身体が、ベッドの上で震えた。

「……あ……」

彼女の目から、涙が流れた。

「……やだ」

その声は、先ほどまでと同じ少女のものだった。

「……やだ、やだ……!」

少女は、自分の腕を掴んだ。

「……私、まだ……!」

医師たちが駆け寄る。

だが、少女の身体に触れようとした瞬間。

医師の一人が、悲鳴を上げた。

「手が……!」

彼の手袋が、黒く変色していた。

指先から、まるで墨が染み込むように黒い斑点が広がっていく。

「何だ、これは!」

医師は慌てて手袋を脱ぎ捨てた。

その下の皮膚にも、黒い痕跡が残っていた。

少女が、ゆっくりと顔を上げた。

「……ごめんなさい」

涙を流しながら、彼女は言った。

「……ごめんなさい」

その瞳の奥に、黒い光が浮かんだ。

「……私、帰りたかっただけなのに」

次の瞬間。

病室の照明が、すべて消えた。

暗闇の中で、少女の声だけが響く。

「……お母さんに、会いたかっただけなのに」

そして。

何かが、笑った。

少女の声ではなかった。

医師の声でもなかった。

人間のものとは思えない、底の深い笑い声だった。

出久は、咳き込みながら地面に手をついた。

「っ、は……!」

肺が痛い。

耳鳴りがする。

目の前では、黒い霧が渦を巻き、何度も形を変えていた。

だが、先ほどまでと違う。

霧の動きが、明らかに鈍くなっている。

まるで、何かを恐れているように。

「出久くん!」

お茶子が駆け寄ってくる。

「大丈夫!? ねえ、聞こえる!?」

「お茶子ちゃん……」

「よかった……!」

彼女は、出久の肩を掴んだ。

その手が震えていた。

「急に動かなくなって、呼んでも反応しなくて……!」

「ごめん。ちょっと……変なものを見てた」

「変なもの?」

出久は答えようとした。

だが、その前に。

「――退け!」

鋭い声が響いた。

黒い霧が弾け飛ぶ。

次の瞬間、数本の捕縛布が飛来し、異形の男の腕と胴体に巻きついた。

「相澤先生!」

出久が叫ぶ。

「状況は後だ! 二人とも下がれ!」

相澤消太は、ゴーグルを下ろしながら地面を蹴った。

その背後にはプレゼント・マイク。

さらに、近隣のヒーロー事務所から駆けつけた数人のプロヒーローが続いていた。

「対象を拘束する! 周囲の市民を避難させろ!」

相澤の指示が飛ぶ。

捕縛布が締まる。

男の身体が地面に押しつけられた。

だが――。

「……ああ」

男が、呟いた。

「……ああ、そうか」

相澤の眉が動く。

「何?」

男は、ゆっくりと顔を上げた。

黒い霧の奥で、二つの目が輝いている。

「……お前も、いるんだな」

その言葉を聞いた瞬間、相澤の表情が変わった。

男は、相澤を知っている。

いや。

正確には、相澤という人間を知っているというよりも。

彼の中にある何かを、見ているようだった。

「……誰だ、お前」

相澤は捕縛布を引き絞った。

「名前を言え。いつ死んだ。何が起きた?」

男は答えなかった。

代わりに、相澤の顔をじっと見つめた。

そして。

「……先生」

相澤の動きが止まった。

「……先生?」

男の口元が、わずかに歪む。

笑ったのか。

泣いたのか。

そのどちらなのか、わからなかった。

「……まだ、教えてるんだな」

「何?」

「……よかった」

男の目から、涙が流れた。

「まだ……先生が、いる」

相澤は息を呑んだ。

その声。

その言葉。

それは、敵意を向ける者のものではなかった。

懐かしい人間に再会した者の声だった。

だが、相澤は油断しなかった。

目の前の男は、すでに複数の人間を危険にさらしている。

身体の変質も止まっていない。

そして、今も捕縛布の下で、黒い霧が蠢いていた。

「……お前は、誰だ」

相澤は、もう一度尋ねた。

男は口を開いた。

「俺は……」

その瞬間。

男の身体が激しく痙攣した。

「っ……!」

捕縛布が軋む。

黒い霧が、男の背中から噴き出した。

「相澤先生、離れて!」

出久が叫ぶ。

だが、遅かった。

男の身体が膨張する。

捕縛布が千切れ、黒い腕が相澤へと伸びた。

相澤は身を翻した。

しかし、腕の先端が頬を掠める。

血が一筋、頬を伝った。

「相澤!」

ひざしが声を上げる。

彼の個性による音波が放たれ、黒い霧を吹き飛ばした。

男が呻く。

「ガッ……あ、ああああああっ!」

苦痛の叫びだった。

攻撃を受けたからではない。

男自身の身体が、何かに抗っている。

「やめろ……!」

男は頭を抱えた。

「違う……! 俺は……俺は……!」

黒い霧が、男の口や目から溢れ出す。

「違うんだ……! 俺は、こんなことを……!」

その言葉に、出久の胸が痛んだ。

先ほど、霧の中で見た光景。

幼い自分に似た少年。

そして、助けを求める男。

あれは幻覚だったのか。

それとも、男の記憶だったのか。

もし、あの光景が男の記憶だったのなら。

彼は今、自分の意思とは関係なく、何かに操られているのではないか。

「先生! この人、何かに抵抗してるんです!」

出久が叫ぶ。

「わかっている!」

相澤は、男を睨みつけた。

ゴーグル越しに、男の身体を見据える。

だが、相澤の個性は発動していた。

それなのに、黒い霧は消えない。

身体の変質も止まらない。

「……個性じゃない?」

相澤が呟いた。

彼の個性は、視認した相手の個性を一時的に抹消する。

発動条件を満たしているはずなのに、何も変化がない。

つまり、少なくとも今目の前で起きている現象は、通常の個性の枠組みでは説明できない可能性がある。

「……面倒なことになったな」

相澤は、舌打ちした。

そのとき。

男の身体が、突然動きを止めた。

黒い霧が引いていく。

異形の腕が縮み、歪んでいた顔が元に戻る。

男は、荒い息を吐きながら地面に膝をついた。

「……ああ」

彼は、涙を流していた。

「……思い出した」

出久が、一歩近づいた。

「……何を?」

男は顔を上げた。

その目は、もう虚ろではなかった。

そこには、確かな意志があった。

「……俺は」

唇が震える。

「俺は……お前を、知っている」

出久は息を呑んだ。

「……緑谷出久」

男は、その名前をはっきりと口にした。

「お前は……俺の……」

次の言葉を発する前に。

男の胸元から、黒い亀裂が走った。

「――っ!?」

相澤が叫ぶ。

「全員、退避!」

亀裂は、男の身体を縦に走り抜けた。

皮膚の下から、黒い光が漏れる。

男の顔に、恐怖が浮かんだ。

「……いやだ」

彼は、必死に手を伸ばした。

「いやだ……! まだ……!」

出久は駆け寄ろうとした。

しかし、相澤が腕を掴んだ。

「行くな!」

「でも!」

「今、近づけばお前まで巻き込まれる!」

「それでも――!」

出久は叫んだ。

「助けを求めてるんです!」

相澤の手に力がこもる。

「……わかっている!」

その声には、怒りがあった。

目の前の男に対する怒りではない。

何もできない自分自身に対する怒りだった。

相澤は、これまで何度も生徒たちを危険から遠ざけようとしてきた。

そして、何度も失敗してきた。

白雲朧を失った。

生徒たちを危険な戦いに送り出した。

目の前で誰かが傷つくたびに、もっと何かできたのではないかと考えてきた。

だからこそ、今度こそ。

この男を救える可能性があるのなら、簡単に捨てるわけにはいかなかった。

だが、彼は教師だった。

生徒を守らなければならない。

目の前の命を救いたいという願いと、これ以上の犠牲を出してはならないという責任。

その二つが、相澤の中で激しくぶつかっていた。

そして。

男の身体が、光に包まれた。

黒い光だった。

音もなく。

熱もなく。

ただ、そこにあったはずの存在が、少しずつ世界から剥がれていく。

男は最後に、出久を見た。

「……緑谷」

その声は、驚くほど穏やかだった。

「……頼む」

彼は、微笑んだ。

「……今度こそ、救ってくれ」

次の瞬間。

男の身体は、黒い霧となって崩れ落ちた。

霧は地面に触れる前に消えていく。

まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。

残されたのは、破壊された公園と、呆然と立ち尽くす人々だけだった。

誰も、言葉を発しなかった。

出久は、男が消えた場所を見つめていた。

今度こそ。

救ってくれ。

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

「……僕は」

出久は、震える手を握りしめた。

「……僕は、君を……」

救えなかった。

その言葉を、口にすることができなかった。

* * *

午前十一時二十分。

現場は、警察とヒーローたちによって封鎖された。

負傷者は救急車で搬送され、周辺住民には避難指示が出されている。

報道各社のヘリコプターが上空を旋回し、現場の映像を全国へと送り続けていた。

画面の向こうでは、解説者たちが必死に言葉を探している。

死者の帰還。

謎の黒い霧。

正体不明の怪物。

そして、現場にいた緑谷出久。

かつて世界を救った英雄が、再び不可解な事件に巻き込まれた。

その事実は、瞬く間に世界中へ広がった。

だが、現場にいた人々は、まだ知らなかった。

彼らが目撃した出来事が、これから起こる数え切れない悲劇の、ほんの始まりに過ぎないことを。

「……緑谷」

相澤が声をかけた。

出久は、ゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫か」

「……はい」

返事はした。

だが、相澤は納得しなかった。

「嘘をつくな」

出久は、口を閉じた。

相澤はため息をつく。

「話せる範囲でいい。何があった」

出久は、少しだけ迷った。

あの霧の中で見た光景。

自分に似た少年。

そして、聞こえた声。

『お前は、もう一度、選ばなければならない』

すべてを説明したところで、信じてもらえるとは思えなかった。

しかし、相澤なら。

少なくとも、最初から否定することはしないだろう。

「……あの人の中に、誰かがいました」

「誰か?」

「はい。あの人自身とは別の……何かが」

出久は、言葉を選びながら続けた。

「僕に話しかけてきたんです。力を失った僕が、何を選ぶのかって」

相澤の眉間に皺が寄った。

「……精神干渉か?」

「わかりません。でも、単なる幻覚とは思えませんでした」

「根拠は?」

「……あの人の記憶を、見ていたような気がするんです」

相澤は黙った。

出久は続ける。

「最後に、あの人は僕を知っていると言いました。僕に何かを頼もうとして……でも、その直後に消えてしまった」

「……そうか」

相澤は、現場に残された痕跡を見た。

黒い霧は、すでに完全に消えている。

破壊された地面には、異常な腐食も、通常の個性による損傷も確認できなかった。

まるで、何かが通り過ぎた痕跡だけが残されているようだった。

「……緑谷」

「はい」

「一つだけ、確認したい」

相澤は、出久をまっすぐ見た。

「お前は、あの男を知っているのか?」

出久は、首を横に振った。

「……いいえ」

「本当に?」

「はい。顔を見ても、名前を聞いても、思い出せませんでした」

相澤は、少しだけ目を細めた。

「……なら、なぜあいつは、お前を狙ったんだ」

その問いに、出久は答えられなかった。

わからない。

本当に、何もわからない。

だが、男の言葉は、確かに出久の胸に残っていた。

お前が、俺を殺したのか。

俺の人生を終わらせたのか。

そして。

今度こそ、救ってくれ。

出久は、自分の手を見つめた。

かつて、世界を救うために振るった拳。

今は、何も宿していない拳。

それでも、彼はヒーローであろうとしてきた。

力を失っても。

戦う術が変わっても。

誰かを助けたいという気持ちだけは、失っていないつもりだった。

だが、あの男は言った。

力を失ったお前は、何を選ぶ。

まるで、出久がこれから直面する未来を知っているかのように。

「……先生」

出久は、顔を上げた。

「僕、あの人を探したいです」

相澤は、すぐには答えなかった。

「……もう消えたんだぞ」

「わかっています。でも、あの人が誰なのか、どうして僕を知っていたのか……調べたいんです」

「調べるのはいい。だが、単独行動は許可しない」

「はい」

「それと、今後は何か異常を感じたら、すぐに連絡しろ。自分だけで抱え込むな」

出久は、少しだけ笑った。

「……昔から、それをよく言われます」

「何度言っても直らないからな」

相澤の声には、わずかな呆れが混じっていた。

出久は、申し訳なさそうに頭を掻いた。

その様子を見て、お茶子が小さく笑う。

「出久くん、そこは反省するところだよ?」

「う……はい」

ほんの一瞬。

ほんのわずかだけ。

三人の間に、いつもの空気が戻った。

だが、それは長く続かなかった。

相澤の端末が鳴った。

画面を確認した彼の表情が、一瞬で険しくなる。

「……何?」

ひざしが尋ねる。

相澤は、画面を見つめたまま答えた。

「別の現場だ」

「また帰還者か?」

「……ああ」

相澤は、息を吐いた。

「今度は、病院だ」

* * *

都内某病院。

集中治療室。

医師たちは、信じられないものを見ていた。

ベッドに横たわっているのは、一人の少女だった。

年齢は十六歳。

交通事故による重傷で搬送され、数時間前に死亡が確認されていた。

家族への連絡も済んでいる。

死亡診断書も作成されていた。

だが。

少女は、目を覚ました。

「……ここは?」

その声に、医師たちは凍りついた。

「……患者が、意識を……?」

「あり得ない……死亡確認から、まだ三時間しか……」

少女は、自分の手を見た。

包帯が巻かれている。

身体には、複数の医療機器が接続されていた。

「……私、死んだの?」

誰も答えられなかった。

少女は、しばらく天井を見つめていた。

やがて、何かを思い出したように顔を上げる。

「……お母さんは?」

医師の一人が、震える声で答えた。

「……ご家族には、連絡をしています」

「そっか……」

少女は、微笑んだ。

「よかった」

その笑顔を見て、医師たちは息を呑んだ。

そこには、異常な様子はなかった。

記憶も、会話も、感情も、正常に見える。

彼女は、自分の名前を言えた。

家族の名前も。

学校のことも。

友人のことも。

死亡する直前までの記憶も、断片的ながら残っていた。

「……先生」

少女が尋ねた。

「私、帰れる?」

医師は答えに詰まった。

医学的に説明できない現象が起きている。

身体の状態も、通常ではない。

それなのに、彼女は帰宅を望んでいる。

当然の願いだった。

家族に会いたい。

自分が生きていることを伝えたい。

それだけなのだ。

「……今は、まだ検査が必要だ」

医師は、慎重に答えた。

「もう少しだけ、ここにいてくれるかな」

「……うん」

少女は頷いた。

そして、再び天井を見上げた。

「……変なの」

「何がだい?」

「夢を見てた気がするの」

医師が首を傾げる。

「夢?」

「うん。真っ暗なところで……誰かが、私を呼んでた」

少女は、胸元に手を当てた。

「でも、誰だったのか……思い出せない」

その瞬間。

少女の心電図が、異常な波形を描いた。

「……え?」

医師が振り返る。

心拍数が急激に上昇している。

血圧が乱れ、モニターの数値が次々と変化していく。

「患者の状態が急変!」

「鎮静剤を!」

「いや、待て! 何かがおかしい!」

少女の身体が、ベッドの上で震えた。

「……あ……」

彼女の目から、涙が流れた。

「……やだ」

その声は、先ほどまでと同じ少女のものだった。

「……やだ、やだ……!」

少女は、自分の腕を掴んだ。

「……私、まだ……!」

医師たちが駆け寄る。

だが、少女の身体に触れようとした瞬間。

医師の一人が、悲鳴を上げた。

「手が……!」

彼の手袋が、黒く変色していた。

指先から、まるで墨が染み込むように黒い斑点が広がっていく。

「何だ、これは!」

医師は慌てて手袋を脱ぎ捨てた。

その下の皮膚にも、黒い痕跡が残っていた。

少女が、ゆっくりと顔を上げた。

「……ごめんなさい」

涙を流しながら、彼女は言った。

「……ごめんなさい」

その瞳の奥に、黒い光が浮かんだ。

「……私、帰りたかっただけなのに」

次の瞬間。

病室の照明が、すべて消えた。

暗闇の中で、少女の声だけが響く。

「……お母さんに、会いたかっただけなのに」

そして。

何かが、笑った。

少女の声ではなかった。

医師の声でもなかった。

人間のものとは思えない、底の深い笑い声だった。

* * *

同じ頃。

南極大陸。

氷の下、誰も知らない場所。

白い衣をまとった女が、静かに目を閉じていた。

彼女の周囲には、奇妙な紋様が刻まれている。

氷の壁に。

床に。

天井に。

それらは文字のようにも見えたが、人間の言語とは根本的に異なっていた。

理解しようとすればするほど、意味が遠ざかる。

見つめていると、自分が何を考えていたのかさえ曖昧になる。

その空間の中心に、女は立っていた。

死神。

彼女は、そう呼ばれる存在だった。

もっとも、その名は人間が勝手につけたものに過ぎない。

彼女は死そのものではない。

死を司る神でもない。

彼女は、死という現象を利用し、こちら側の世界へ働きかけるために存在している。

ある存在の意思を、この世界へ届けるために。

「……始まったわね」

女は呟いた。

目の前には、いくつもの光が浮かんでいる。

それぞれの光は、人間の命を示しているようだった。

生者の光。

死者の光。

そして、生と死の境界で揺らめく光。

それらが、少しずつ増えていく。

世界中で、死者が帰還している。

しかし、すべてが同じではない。

ある者は、ほとんど完全な状態で戻る。

ある者は、記憶を失っている。

ある者は、肉体だけが戻り、人格が曖昧になっている。

そして、ある者は。

自分が何者だったのかを忘れ、別の存在に侵食されていく。

女は、その光景を見つめながら微笑んだ。

「……不完全ね」

声に、失望はなかった。

むしろ、興味があった。

人間という生物は、死を恐れる。

失うことを恐れる。

二度と会えないことを恐れる。

だからこそ、死者が帰ってくるという現象は、人類にとって究極の奇跡となる。

だが。

奇跡とは、必ずしも救済を意味しない。

人間は、失ったものを取り戻したいと願う。

その願いが、どこまで許されるのか。

その願いのために、何を犠牲にするのか。

そして、取り戻したものが、本当に失ったものと同じなのか。

それを確かめるために、女は世界へ手を伸ばした。

「……さあ、人間たち」

彼女は、両手を広げた。

「あなたたちは、何を選ぶのかしら」

その瞬間。

空間の奥で、巨大な何かが蠢いた。

女は、ゆっくりと振り返った。

そこには、形のない闇があった。

闇は、空間そのものを歪めている。

大きさも、距離も、時間さえも、意味を失っていた。

女は、その闇に向かって頭を垂れた。

「……ご命令どおり、進めています」

返事はない。

しかし、女にはわかっていた。

そこに意思がある。

人間の言葉で表現することすら難しい、途方もない意思が。

彼女は、その意思を受け取った。

そして、微笑んだ。

「ええ……ええ、そうですね」

女は頷いた。

「まだ、彼らには早い」

闇が揺れる。

「でも、いずれ理解するでしょう」

彼女は、世界中に広がる光を見つめた。

「人間が、なぜ個性を持つようになったのか」

そして、静かに告げた。

「自分たちが、何から守られているのかを」

その声は、氷の壁に吸い込まれていった。

誰にも届かない。

誰にも理解できない。

ただ一つ確かなことは。

人類が長い間、当然のものとして受け入れてきた個性という奇跡。

その始まりには、人間自身の知らない意志が関わっていたということだった。

* * *

午後零時。

雄英高校。

緊急対策本部では、さらなる報告が届いていた。

病院で発生した異常事態。

帰還者の身体変質。

医療従事者への影響。

そして、現場からの連絡が途絶えたこと。

相澤は、報告書を握りしめていた。

「……被害状況は?」

「現時点では、医師三名が負傷。患者一名が行方不明です。病室内の監視カメラは、すべて同時に停止しました」

「患者が消えた?」

「はい。病室の窓や扉は内側から破壊されておらず、監視映像にも退室した形跡はありません」

相澤は目を閉じた。

理解できない。

いや。

理解できないこと自体は、問題ではない。

問題なのは、理解できない現象が、次々と増えていることだった。

「……緑谷」

相澤は、出久を見た。

「お前が見たものと、何か関係があると思うか」

出久は、すぐには答えなかった。

先ほどの男。

黒い霧。

そして、霧の中にいた少年。

あの少年は、出久に問いかけた。

ヒーローになれたのか、と。

力を失った自分は、何を選ぶのか、と。

その言葉は、単なる幻覚にしては、あまりにも具体的だった。

まるで、出久の心の奥にある問いを、誰かが知っていたかのように。

「……わかりません」

出久は、正直に答えた。

「でも、関係がないとは思えません」

「……そうか」

相澤は、静かに頷いた。

そのとき。

本部の扉が開いた。

入ってきたのは、一人の女性だった。

雄英高校の教師。

かつて、出久たちを支えてきた人物。

彼女は、急いで歩いてくると、相澤へ一枚の資料を差し出した。

「相澤先生、これを見てください」

「何だ?」

「先ほど、海外の研究機関から共有されたデータです」

資料には、世界各地で発生した異常現象の位置情報が記されていた。

死者の帰還。

身体変質。

黒い霧。

そして、原因不明のエネルギー反応。

相澤は、地図を見つめた。

最初は、単なる点の集合に見えた。

しかし、報告が増えるにつれて。

それらの点が、ある形を作り始めていることに気づいた。

「……これは」

ひざしが、画面を覗き込んだ。

「何かの……模様か?」

違う。

相澤は、首を横に振った。

模様ではない。

少なくとも、人間が意図的に描いたものとは思えなかった。

それは、世界そのものに刻まれた傷跡のようだった。

点と点を結ぶと、線が浮かび上がる。

線が交差し、いくつもの輪を作る。

そして、その中心には。

「……南極」

出久が呟いた。

地図の中心。

異常現象の発生地点を結んだ、その中心に位置する場所。

南極大陸。

相澤は、資料を見つめた。

「……偶然か?」

誰も答えなかった。

偶然かもしれない。

データが不完全なのかもしれない。

あるいは、位置情報の偏りが生み出した錯覚かもしれない。

だが。

もし、偶然ではなかったら。

もし、世界中で起きている現象が、一つの場所から広がっているのだとしたら。

その中心には、何があるのか。

「……南極で、何かが起きている」

出久は、確信に近い声で言った。

「そして、あの人たちは……そこから何かを受け取っているのかもしれない」

相澤は、出久を見た。

「根拠は?」

「ありません」

出久は答えた。

「でも、あの男は死神と言いました。僕に何かを伝えようとしていた。そして、僕が見た声も、あの人自身のものではなかった」

彼は、一度言葉を切った。

「……誰かが、死者を通して、僕たちに何かを伝えようとしているんだと思います」

本部に沈黙が落ちた。

死者を通して。

その言葉が、あまりにも不気味だったからだ。

人間の死を利用して、何かを伝える。

それは、単なる個性の犯罪では説明できない。

もっと根本的な何か。

世界の仕組みそのものに関わるような何か。

「……まだ推測の域を出ない」

相澤は、冷静に告げた。

「だが、無視はできない。南極の情報を集めろ。海外の研究機関、政府機関、ヒーロー組織、すべてに照会をかける」

「了解!」

職員たちが動き出す。

出久は、地図を見つめていた。

南極。

そこに何があるのか。

死神とは何者なのか。

そして、なぜ自分の名前が呼ばれたのか。

答えは、まだ何もない。

ただ、彼の胸の奥には、嫌な予感が残っていた。

この事件は、単に死者が帰ってきたというだけでは終わらない。

それどころか。

人類がこれまで当然だと思ってきたものすべてを、根底から覆すことになるのかもしれない。

個性。

生命。

死。

そして、ヒーローという存在そのものを。

* * *

午後一時。

世界各地で、死者たちは帰還を続けていた。

ある街では、十年前に亡くなった少女が母親の胸に抱かれていた。

少女は、母親の顔を見つめている。

「……お母さん?」

「……ああ……!」

母親は、娘を抱きしめた。

「そうよ……お母さんよ……!」

少女は、ぎこちなく笑った。

「……ただいま」

母親は泣いた。

何年も、何年も。

娘を失った日から、一日たりとも忘れたことはなかった。

誕生日にはケーキを買った。

命日には花を供えた。

写真に話しかけた。

もう返事が返ってこないとわかっていても。

それでも、娘が生きていた頃の思い出だけは、手放せなかった。

だからこそ。

今、腕の中にいる娘が、どれほど大切な存在なのか。

言葉では表現できなかった。

「……お母さん、どうして泣いてるの?」

少女が尋ねた。

母親は、何度も首を横に振った。

「……ううん、何でもないの」

嘘だった。

何でもないはずがない。

けれど、今はそれでよかった。

娘が帰ってきた。

それだけで、十分だった。

少なくとも、その瞬間は。

別の街では、亡くなった夫が妻の前に現れていた。

妻は、夫の頬に触れた。

「……本当に、あなたなの?」

夫は、微笑んだ。

「……ああ」

妻は、泣きながら彼を抱きしめた。

「……会いたかった」

「……俺もだ」

彼は、妻の背中に腕を回した。

だが、その表情は、どこかぎこちなかった。

彼は、妻の名前を覚えていた。

二人が暮らした家も。

一緒に訪れた場所も。

結婚式の日のことも。

しかし。

どうして自分が死んだのか。

死んだ後、何があったのか。

その記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。

まるで、そこだけを切り取られたかのように。

「……なあ」

夫が、妻の肩に顔を埋めたまま呟いた。

「……俺、夢を見てたんだ」

「夢?」

「ああ。真っ暗なところで……誰かが、俺を呼んでいた」

妻は、彼の背中を撫でた。

「……怖い夢だったの?」

夫は、少し考えた。

そして、答えた。

「……わからない」

彼は、妻を抱きしめる腕に力を込めた。

「でも、目が覚めたら……お前に会いたいと思った」

妻は、また泣いた。

今度は、先ほどよりも強く。

その願いが、どれほど切実なものだったのか。

彼女には、理解できたからだ。

失った人に、もう一度会いたい。

声を聞きたい。

触れたい。

一緒に笑いたい。

その願いは、何も間違っていない。

誰も責めることはできない。

けれど。

世界のどこかでは、別の帰還者が、誰かを傷つけていた。

別の病院では、黒い霧が人間を侵食していた。

別の街では、死者が自分の名前を忘れ、泣き叫んでいた。

同じ奇跡。

同じ現象。

しかし、その結末は、あまりにも違っていた。

そして人類は、まだ気づいていない。

死者が帰ってきたことそのものが、問題なのではない。

本当の問題は。

なぜ、彼らが帰ってきたのか。

そして。

彼らを帰した存在は、人間に何を望んでいるのか。

その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

いや。

一人だけ。

南極の氷の下で、死神は微笑んでいた。

彼女の目の前に、八つの光が浮かび上がる。

憂鬱。

悲嘆。

傲慢。

強欲。

色欲。

虚飾。

嫉妬。

暴食。

それぞれの光が、異なる色と形を帯びていく。

だが、その中には、まだ完全な形を持たないものもあった。

死者たちの記憶は、まだ欠けている。

感情も、人格も、不完全だ。

しかし、時間が経てば。

戦いが始まれば。

彼らは、少しずつ思い出すだろう。

自分が誰だったのか。

何を愛していたのか。

何を憎んでいたのか。

そして、何を失ったのか。

死神は、八つの光を見つめた。

「……思い出しなさい」

彼女は囁いた。

「あなたたちが、本当に望んでいたものを」

光が揺れた。

死神の口元に、微笑みが浮かぶ。

「その願いが、世界をどこへ導くのか……私にも、見せてちょうだい」

その背後で。

形のない闇が、静かに脈打った。

まるで、眠る神の心臓のように。

――第四話・了。

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