緑谷出久は、自分の兄の顔を知らなかった。
正確に言えば、顔を見たことはある。
写真の中に。
壊れた記憶の中に。
自分のものではないはずの夢の中に。
そして、自分が誰かを殺した瞬間の、血に濡れた世界の中に。
けれど、どれだけ思い出そうとしても、兄の顔だけが思い出せなかった。
髪の色も。
瞳の形も。
笑ったときにできる皺も。
怒ったときに、どんなふうに眉を寄せるのかも。
何一つ、思い出せない。
それなのに。
兄が死んだことだけは、知っていた。
自分が兄を殺したことも。
兄が自分を殺そうとしたことも。
兄が、自分を生かすために何度も死んだことも。
そして。
自分が、兄を救うために何度も世界を壊したことも。
知っていた。
知っているはずだった。
なのに、肝心なことだけが抜け落ちている。
――兄さんは、誰だったんだろう。
その疑問を口にした瞬間、緑谷出久の世界は、音もなく崩れ始めた。
*
1.兄のいない朝
午前六時十二分。
雄英高校の仮設医療棟、その一室。
緑谷出久は目を覚ました。
最初に感じたのは、頭痛だった。
頭の奥に、細い針を何本も刺し込まれたような痛み。
次に感じたのは、寒さ。
毛布をかぶっているのに、身体の芯だけが凍りついているようだった。
最後に聞こえたのは、誰かの声だった。
『――出久』
知らない声。
けれど、聞き覚えがある。
優しくて。
少しだけ困ったようで。
泣きそうなほど、懐かしい声。
『出久。起きて』
出久は目を開けた。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓から差し込む、薄い朝の光。
いつもの医療棟だった。
「……夢?」
呟いた瞬間、枕元の時計が目に入った。
六時十二分。
秒針が動いている。
出久は、しばらくその動きを眺めていた。
秒針が進む。
一秒。
二秒。
三秒。
時間は流れている。
それだけのことに、ひどく安心した。
ここ最近、時計は何度も止まった。
午前二時十三分。
誰かが死んだ時間。
誰かが生まれた時間。
誰かが存在しなくなった時間。
そして、緑谷出久という人間が、何度も作り直された時間。
出久はゆっくりと上半身を起こした。
「……兄さん」
自分の口から出た言葉に、息が止まった。
なぜ、その言葉を口にしたのか。
わからなかった。
夢の内容も、思い出せない。
ただ、目を覚ました瞬間、誰かがそこにいると思った。
自分のベッドの隣に。
昔からずっと、そこにいた誰かが。
手を伸ばせば、届く距離に。
出久は隣を見た。
もちろん、誰もいなかった。
空っぽの椅子。
畳まれた毛布。
誰かが座っていたような痕跡すらない。
それなのに。
椅子の背もたれには、緑色の糸が一本、引っかかっていた。
出久はそれを摘まみ上げた。
細い糸だった。
どこにでもある、服のほつれ。
だが、指先で触れた瞬間。
頭の中に、声が響いた。
『お前は、僕を知らない』
出久は糸を落とした。
床に落ちた糸は、音を立てなかった。
『だから、僕はお前を許せる』
頭痛が強くなった。
『でも』
声が変わった。
優しさが消えたわけではない。
むしろ、優しすぎるほど優しい声だった。
だからこそ、恐ろしかった。
『お前が僕を思い出したら、僕はもう一度、お前を殺さなければならない』
「……誰だ」
出久は、誰もいない部屋に問いかけた。
「誰なんだよ……!」
返事はなかった。
ただ、床に落ちた緑色の糸が、ゆっくりと黒く変色していった。
糸は灰になった。
風もないのに、空中へ舞い上がる。
そして、消えた。
出久は自分の両手を見つめた。
震えていた。
指先が、冷たい。
爪の間に、何かが残っているような気がした。
赤いもの。
血。
出久は、必死に手をこすった。
何もついていない。
何もない。
なのに、何度こすっても、血の感触が消えなかった。
「……僕は」
言葉が途切れる。
その先を口にしてはいけない気がした。
その先を口にしたら、何かが戻ってくる。
戻ってきてしまう。
兄の顔ではない。
兄の名前でもない。
もっと根本的な何か。
自分が、どうして自分なのかという問い。
その答えが。
自分の中に、眠っている。
*
2.知らない家族写真
「おはよう、出久くん」
医療棟の扉を開けた麗日お茶子は、ベッドに座っている出久を見て、ほっと息を吐いた。
「よかった。起きとったんやね」
「お茶子ちゃん……」
「体調は? 頭、痛くない?」
「少し。でも大丈夫だよ」
「少しって言う人の少しは信用できへんって、相澤先生が言うてた」
「相澤先生、そんなことまで……」
「言うてた。あと、無理したら拘束するって」
「それ、絶対に先生が言いそうなことだ……」
いつもの会話だった。
少しだけぎこちない。
それでも、いつもの二人だった。
お茶子は椅子を引き寄せ、出久の隣に座った。
「ねえ、出久くん」
「うん?」
「昨日の夜、何か夢を見た?」
出久の表情が止まった。
お茶子は見逃さなかった。
「……見たんやね」
「うん。でも、覚えてないんだ」
「どんな夢?」
「誰かが、僕を呼んでいた気がする」
「誰か?」
「たぶん……兄さん」
お茶子の指が止まった。
膝の上に置いていたノート。
そこには、何度も書き直された文字が並んでいた。
緑谷出久。
御影出久。
第一子。
第二子。
第三子。
そして、何度も消された名前。
お茶子はノートを閉じた。
「出久くん」
「うん」
「お兄さんのこと、思い出したん?」
「……わからない」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「僕には、兄さんがいたんだよね」
「うん」
「でも、顔がわからないんだ」
お茶子は答えなかった。
「名前も、わからない。どんな声だったのかも、どんな人だったのかも。僕が知っているのは、兄さんが死んだことと……」
出久は目を伏せた。
「僕が、兄さんを殺したってことだけ」
お茶子は、出久の手を握った。
指先が冷たかった。
「出久くん。まだ、全部が本当やって決まったわけやない」
「でも、記録にはあった」
「記録が嘘をついてる可能性もある」
「僕の記憶にもあるんだ」
「記憶だって、作られることがあるんやろ?」
お茶子の声は震えていた。
彼女自身、それを何度も見てきたからだ。
消えた人間の記録。
存在しなかったことになった家族。
同じ顔をした複数の少年。
そして、誰かを救うために世界を作り直した、もう一人の緑谷出久。
この世界では、記憶さえ証拠にならない。
けれど。
「それでも、私は出久くんを信じる」
お茶子は言った。
「出久くんが何を思い出しても、何をしてしまっても、私は……出久くんが何をしたいのかを、ちゃんと聞く」
出久は彼女を見た。
「……ありがとう」
「だから、ひとりで決めんといてな」
「うん」
「世界を壊すとか、誰かを消すとか、そういうのも」
「うん……」
「あと、自分を犠牲にするのも禁止」
「……それは」
「禁止」
「はい」
お茶子は、ようやく少し笑った。
出久も笑おうとした。
けれど、そのとき。
お茶子の膝の上に置かれたノートが、ひとりでに開いた。
ページがめくれる。
一枚。
二枚。
三枚。
紙が、誰かに急かされているような速さでめくられていく。
「えっ……?」
お茶子がノートを押さえた。
止まらない。
最後のページで、ようやく動きが止まった。
そこには、見覚えのない写真が貼られていた。
古い写真だった。
色が褪せ、端が焼け焦げている。
写っているのは、病院の一室。
ベッドに横たわる女性。
その隣に立つ、若い緑谷久志。
そして、二人の間にいる、小さな男の子。
男の子は、カメラに向かって笑っていた。
緑色の髪。
そばかす。
大きな瞳。
その顔は、出久にそっくりだった。
いや。
出久そのものだった。
お茶子が息を呑んだ。
「……出久くん?」
出久は、写真を見つめていた。
見知らぬ少年。
見知らぬ病室。
見知らぬ家族。
なのに。
写真を見た瞬間、胸が痛くなった。
理由もなく。
どうしようもなく。
泣きたくなった。
「……この子」
出久は、写真に手を伸ばした。
「誰?」
その問いに答えるように、写真の裏側に文字が浮かび上がった。
最初は、薄い鉛筆の線だった。
次に、黒いインク。
最後には、まるで血で書かれたような、濃い赤色の文字になった。
――兄。
たった一文字。
それだけだった。
出久は、写真を落とした。
「……違う」
声が掠れた。
「違う、違う……」
「出久くん?」
「僕の顔だ」
出久は、両手で頭を押さえた。
「僕の顔なんだ……!」
違う。
自分ではない。
写真の少年は、自分の知らない人生を生きている。
自分の知らない時間を過ごしている。
自分の知らない誰かに愛されている。
なのに、その顔は、自分の顔だった。
出久は、何度も首を振った。
「僕には兄さんなんて……」
言いかけて、止まった。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
兄はいない。
そう言おうとした。
けれど、言えなかった。
なぜなら。
写真の少年が、こちらを見ていたからだ。
紙の中で。
動くはずのない瞳が。
出久を見ていた。
少年の笑顔が、ゆっくりと消えていく。
そして、写真の中の少年が、口を開いた。
『やっと、僕の顔を見てくれたね』
お茶子が悲鳴を上げた。
写真の表面が波打つ。
少年の顔が、液体のように崩れていく。
その下から現れたのは、何もない顔だった。
目も、鼻も、口もない。
ただ、輪郭だけが残っている。
『でも、遅かったよ』
少年の声が、病室に響いた。
『出久』
写真が燃えた。
火は赤くなかった。
黒い炎だった。
紙だけではない。
写真の中の病室も。
女性も。
久志も。
すべてが、黒い炎に包まれていく。
『僕はもう、お前を知らない』
写真は灰になった。
灰が床に落ちる前に、消えた。
残されたのは、ノートの白いページだけだった。
そこに、文字が一つずつ刻まれていく。
――第三十七回目。
――対象個体、緑谷出久。
――記憶接続、失敗。
――兄弟認識、失敗。
――殺害記憶、維持。
――対象個体の自己認識が、再び不安定化。
そして、最後に。
――兄を知らない緑谷出久は、兄を殺せない。
出久は、その文字を見つめていた。
唇が震えた。
「……第三十七回目?」
お茶子は、ノートを閉じようとした。
だが、その手を出久が止めた。
「待って」
「出久くん、でも……」
「この記録、僕のことだ」
出久の瞳が、文字を追う。
「第三十七回目って、何なんだろう」
誰も答えなかった。
そのとき、医療棟の扉が開いた。
「答えを知りたいなら、本人に聞けばいい」
相澤消太だった。
その後ろには、爆豪勝己、轟焦凍、飯田天哉、そして塚内直正がいた。
相澤は、燃え尽きた写真のあった場所を一瞥した。
「……また増えたか」
「先生。これ、何なんですか」
出久はノートを差し出した。
「第三十七回目って……」
相澤はページを見た。
そして、顔色を変えた。
爆豪が気づいた。
「おい、相澤。知ってんのか」
「……いや」
相澤は、わずかに間を置いて答えた。
「知っているのは、この数字じゃない」
彼はノートを閉じた。
「この記録が出てくる現象だ」
「どういう意味だよ」
爆豪の声が鋭くなる。
相澤は、出久を見た。
「緑谷。お前は、今朝、夢を見たか」
「……はい」
「誰かに呼ばれたか」
「兄さんに」
その瞬間、相澤の目が細くなった。
「顔は?」
「覚えていません」
「名前は?」
「わかりません」
「声は?」
「……わかりません。でも、知っている気がします」
相澤はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「そうか」
その声には、安堵も、納得もなかった。
ただ、何かを恐れている人間の声だった。
「先生?」
「緑谷。今から話すことを、よく聞け」
相澤は椅子を引き寄せ、出久の正面に座った。
「お前が兄を知らないことは、異常じゃない」
「……え?」
「むしろ、正常なんだ」
爆豪が顔をしかめた。
「おい、何言ってんだ」
「お前たちが調べてきた記録を、俺なりに整理した」
相澤は塚内に目配せした。
塚内がタブレットを操作する。
壁のモニターに、複数の記録が表示された。
緑谷出久。
御影出久。
未登録個体。
第零個体。
第三子。
そして、判読不能な名前。
「これらの記録には、一つ共通点がある」
相澤は言った。
「どの記録も、兄の存在を証明している。だが、兄の名前を証明していない」
飯田が眉を寄せた。
「つまり、兄が存在したという事実だけが残され、個人を特定する情報が消されているということですか」
「そうだ」
「しかし、緑谷君本人の記憶にも、兄の存在は残っています」
「それも、問題なんだ」
相澤は出久を見た。
「緑谷。お前は、兄がいたことを知っている。だが、兄の名前も顔も、思い出せない」
「……はい」
「それなのに、お前は兄を殺した記憶だけを持っている」
出久は黙った。
胸の奥が、重くなる。
「これは記憶喪失じゃない」
相澤は言った。
「誰かが、お前の中から兄の情報だけを取り除いたんだ」
「……誰が?」
「わからない」
「どうして?」
「それも、わからない」
相澤は一度、言葉を切った。
「ただし、推測はできる」
爆豪が腕を組んだ。
「言え」
「お前が兄を殺したという記憶を残しながら、兄の存在を思い出せなくした理由」
相澤は、ゆっくりと言った。
「それは、お前が兄を殺したという事実だけを、何度でも再現させるためだ」
病室が静まり返った。
出久は、呼吸を忘れていた。
「……再現?」
「ああ」
「誰が、そんなことを……」
「それを調べるために、俺たちはここにいる」
相澤は立ち上がった。
「緑谷。お前は今から、俺たちと一緒にある場所へ行く」
「どこですか?」
相澤は答えた。
「緑谷久志の自宅だ」
*
3.父親の部屋
緑谷久志の自宅は、警察の管理下に置かれていた。
事件の後、家の中には誰も立ち入っていない。
玄関の扉には封印が施され、窓はすべて閉じられている。
それでも、家の中からは生活の匂いがした。
古い木材。
洗剤。
乾いた洗濯物。
そして、誰かが帰ってくるのを待っているような、微かな温もり。
出久は玄関の前で足を止めた。
「……ここに来るのは、久しぶりだ」
お茶子が隣に立つ。
「大丈夫?」
「うん」
出久は頷いた。
「大丈夫だよ」
嘘だった。
だが、今はそれでよかった。
相澤が封印を解除する。
扉が開いた。
その瞬間、家の中の時計が一斉に鳴った。
午前二時十三分。
午前二時十三分。
午前二時十三分。
止まっていたはずの時計が、すべて同じ時刻を示している。
壁掛け時計。
台所の時計。
父親の書斎に置かれた置き時計。
電池を抜かれた古い時計まで。
全部が、二時十三分。
「……相変わらずか」
相澤が呟いた。
塚内は記録を取りながら、室内を見回した。
「時計の針が物理的に動いています。電源の有無とは関係ないようです」
「電源だけじゃない」
轟が壁に手を当てた。
「この家の温度が、おかしい」
「温度?」
「廊下は普通だ。でも、奥へ行くほど冷えている」
出久は、家の奥を見た。
父親の書斎。
そこだけが、暗かった。
カーテンが閉められているわけではない。
電球が切れているわけでもない。
ただ、そこだけが、世界から光を与えられていないようだった。
相澤が先頭に立つ。
「全員、俺から離れるな」
書斎の扉を開けた。
中には、机と椅子。
書棚。
古い書類。
そして、壁一面に貼られた紙。
出久は、息を呑んだ。
紙には、すべて同じ言葉が書かれていた。
――兄を忘れろ。
――兄を忘れろ。
――兄を忘れろ。
――兄を忘れろ。
何十枚もの紙。
壁だけではない。
机にも。
床にも。
書棚の隙間にも。
紙の裏側にも。
文字が書き殴られている。
そのほとんどは、緑谷久志の筆跡だった。
出久は、一枚の紙を拾い上げた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『出久が兄を思い出したら、また死ぬ』
その下に、別の筆跡。
『出久が兄を忘れたら、兄は永遠に死ぬ』
さらに、その下。
『どちらを選んでも、僕は息子を殺す』
出久は、紙を握りしめた。
「……父さん」
父親の苦悩が、文字から伝わってきた。
どれだけ書き直しても、答えは見つからなかったのだろう。
何度も同じ言葉を書き、何度も破り、何度も捨てた。
それでも、忘れられなかった。
息子を救いたい。
二人とも救いたい。
その願いだけが、書斎に残っていた。
お茶子が、床に落ちた紙を拾った。
「……これ」
そこには、他とは違う文章が書かれていた。
『兄を知らない出久は、まだ出久でいられる』
その下には、続きがあった。
『兄を知ってしまった出久は、兄の代わりになろうとする』
『兄の代わりになった出久は、弟を殺す』
『弟を殺した出久は、兄を殺す』
『兄を殺した出久は、世界を殺す』
お茶子は、顔を上げた。
「……何、これ」
出久は、その紙を見つめた。
言葉の意味がわからない。
いや。
わかりたくなかった。
「相澤先生……」
「まだ読むな」
相澤の声が低くなった。
「他にも何かあるはずだ」
爆豪が書棚を調べる。
「クソ親父、何を隠してやがる……」
そのとき、飯田が机の引き出しを開けた。
「これは……!」
中から出てきたのは、古いビデオテープだった。
ラベルには、日付が書かれている。
十三年前。
そして、二時十三分。
「映像記録か」
塚内が慎重に取り出す。
「再生できる機器が必要ですね」
「ある」
相澤が部屋の隅を指した。
古いテレビと、ビデオデッキ。
誰かが、ここで映像を見返すために用意したものだ。
塚内が接続を確認し、再生ボタンを押した。
砂嵐。
画面が乱れる。
しばらくして、映像が映った。
病院だった。
十三年前の病院。
画面の中央に、緑谷久志が立っている。
その腕の中には、生まれたばかりの赤ん坊。
赤ん坊は泣いていた。
久志は泣いていた。
喜びと恐怖が入り混じった顔で、赤ん坊を抱いている。
映像の端に、医師の姿が映った。
医師が何かを告げる。
音声は乱れていて、聞き取れない。
久志が頷いた。
そして、画面の外を見た。
その顔が、凍りついた。
映像が乱れる。
次の瞬間。
病室の扉の前に、一人の少年が立っていた。
年齢は、十歳ほど。
緑色の髪。
緑色の瞳。
緑谷出久と同じ顔。
ただし、現在の出久とは違って、目の下に深い隈があった。
服は血に汚れ、右手には何かを握っている。
少年は、久志を見つめた。
そして、口を開いた。
今度は、音声がはっきりと聞こえた。
『お父さん』
久志は、赤ん坊を抱いたまま後ずさった。
『僕を殺して』
出久は、身体が動かなくなった。
映像の少年が続ける。
『今度こそ、僕を殺して』
久志が叫んだ。
映像が大きく乱れる。
少年は、泣いていた。
『そうしないと、兄さんが生まれてしまう』
その言葉を聞いた瞬間。
出久の頭の中で、何かが砕けた。
*
4.生まれる前の記憶
暗闇。
出久は、暗闇の中にいた。
足元には、冷たい床。
遠くには、白い光。
そして、その光の前に、一人の少年が立っていた。
顔は見えない。
けれど、誰なのかはわかった。
兄だ。
兄だった。
出久は、少年に向かって歩こうとした。
足が動かない。
「……兄さん?」
少年は振り返らない。
「兄さん、待って!」
少年の肩が震えた。
泣いているのかもしれない。
笑っているのかもしれない。
出久にはわからなかった。
「僕、君のことを覚えていないんだ」
声が震える。
「君が誰なのか、わからないんだ。でも……」
出久は、手を伸ばした。
「でも、僕は君を知っている気がする」
少年が、ようやく振り返った。
顔があった。
そこには、出久自身の顔があった。
同じ瞳。
同じそばかす。
同じ輪郭。
ただ、その顔には、出久が知らない年月が刻まれていた。
少年は笑った。
「そうだね」
その声を聞いた瞬間、出久の胸が張り裂けそうになった。
知っている。
この声を、知っている。
ずっと昔から。
生まれる前から。
自分がまだ、自分ではなかった頃から。
「君は……」
出久は息を呑んだ。
「君は、僕なの?」
少年は首を横に振った。
「違うよ」
「でも、顔が……」
「顔なんて、いくらでも同じになる」
少年は、自分の頬に触れた。
「僕たちは、同じ顔を与えられたんだ。違う人生を生きるために」
「……誰に?」
「世界に」
少年は答えた。
「世界は、僕たちのどちらかを選びたかったんだ」
白い光が揺れた。
その中から、何かが姿を現す。
無数の時計。
無数の記録。
無数の赤ん坊。
それぞれが、同じ時刻に生まれていた。
午前二時十三分。
誰かが泣く。
誰かが泣かない。
誰かが生きる。
誰かが死ぬ。
そして、何度も、何度も、同じ顔が生まれる。
「僕たちは、最初から兄弟だったわけじゃない」
少年が言った。
「兄弟になったんだ」
「……どういうこと?」
「誰かが、僕たちを兄弟にした」
少年は、出久を見つめた。
「僕が兄で、お前が弟。そう決められた」
「誰が、そんなことを……」
「僕だよ」
少年は、静かに答えた。
「最初に、そう決めたのは僕だった」
出久は言葉を失った。
少年は、ゆっくりと歩いてきた。
「出久。お前は、自分が兄を殺したと思っている」
「……違うの?」
「違わないよ」
少年は言った。
「お前は、僕を殺した」
出久の身体が震えた。
「でも、それは……」
「お前が選んだことだった」
「違う!」
叫んだ瞬間、暗闇が揺れた。
「僕は、そんなこと……!」
「そうだね」
少年は否定しなかった。
「お前は、僕を殺したくなかった」
少年の目から、涙が落ちた。
「僕も、お前に殺されたくなかった」
涙が床に落ちる。
その一滴が、赤い血に変わった。
「でも、僕たちは何度も同じことをした」
少年は言った。
「お前は僕を救おうとした。僕はお前を救おうとした。お互いに、相手を生かそうとした」
少年は笑った。
悲しい笑顔だった。
「そのたびに、どちらかが死んだ」
出久は、首を振った。
「……そんなの、間違ってる」
「うん」
「そんなこと、間違ってるよ!」
「うん」
「だったら、もうやめようよ!」
出久は、少年に手を伸ばした。
「もう、誰も殺さなくていいようにしよう。兄さんも、僕も、みんなも……」
「お前は、そう言うと思っていた」
少年は、出久の手を取らなかった。
「だから、僕はお前から逃げたんだ」
「……え?」
「お前が僕を救おうとするたび、世界はお前に僕を殺させた」
少年は言った。
「お前が僕を助けようとするたび、僕はお前を殺さなければならなかった」
出久は、少年の顔を見つめた。
その表情に、見覚えがあった。
それは、鏡に映った自分の顔だった。
誰かを救えなかったとき。
自分の無力さを思い知ったとき。
手を伸ばしたのに、届かなかったとき。
出久は、いつもこんな顔をしていた。
「だから、僕は最後に決めたんだ」
少年が言った。
「お前に、僕を忘れさせることにした」
「……どうして?」
「お前が僕を知らなければ、お前は僕を救おうとしない」
少年は、出久の胸に手を当てた。
「お前が僕を救おうとしなければ、お前は僕を殺さなくて済む」
出久は、少年の手を掴んだ。
「そんなの、嫌だ……!」
「出久」
「僕は、君を忘れたくない!」
「知っているよ」
「君が誰なのか、知りたいんだ!」
「知っている」
「僕は……僕は、君を……!」
言葉が続かなかった。
少年は、出久の額に自分の額を合わせた。
「だから、思い出しちゃいけないんだ」
その瞬間。
暗闇が、白い光に呑み込まれた。
*
5.映像の続き
「緑谷!」
相澤の声が聞こえた。
出久は床に膝をついていた。
頭が痛い。
息が苦しい。
誰かに胸を握りつぶされているようだった。
「出久くん!」
お茶子が肩を支える。
「大丈夫!? ねえ、出久くん!」
「……兄さん」
出久は呟いた。
「兄さんが……」
相澤が肩を掴んだ。
「緑谷。何を見た」
「僕は……」
言葉が出てこない。
兄の顔が、頭の中に残っていた。
今度こそ、忘れない。
忘れられない。
それなのに、思い出した顔は、また少しずつ崩れていく。
目が消える。
口が消える。
輪郭が消える。
最後には、声だけが残った。
『思い出さないで』
出久は、叫びそうになった。
けれど、その前に。
テレビから、音がした。
映像が続いていた。
画面の中の少年が、久志に近づいている。
久志は赤ん坊を抱きしめたまま、首を横に振っていた。
「やめろ……やめてくれ……!」
少年は、右手に持っていたものを掲げた。
それは、刃物だった。
ただし、普通の刃物ではない。
刃の部分が透き通り、向こう側の景色が歪んで見えた。
刃の中に、無数の世界が映っている。
壊れた世界。
燃える世界。
人のいない世界。
そして、兄と弟が並んで笑っている世界。
少年は、その刃を自分の首に当てた。
「……やめろ!」
久志が叫ぶ。
少年は、悲しそうに笑った。
『お父さん』
『やめてくれ……!』
『僕が死ねば、出久は生まれない』
『違う!』
『僕が生まれなければ、出久は僕を殺さなくて済む』
『違う! そんなことはない!』
『お父さん』
少年は、赤ん坊を見た。
『この子を、僕の弟にしないで』
久志は、何も言えなかった。
『この子を、僕の弟にしたら……』
少年の声が震えた。
『僕は、何度でもこの子を殺してしまう』
出久の心臓が止まりそうになった。
少年は、刃を首から離した。
そして、久志に向けた。
『だから、お父さんが決めて』
久志は、首を振り続けていた。
『僕を殺すか』
少年は、刃を自分の胸に向けた。
『僕に、この子を殺させるか』
映像が乱れた。
画面が真っ黒になる。
数秒後。
音だけが聞こえた。
誰かが泣いている。
赤ん坊の泣き声。
大人の嗚咽。
そして、少年の声。
『……ごめんね、出久』
出久は、テレビを見つめた。
『お兄ちゃんになってあげられなくて、ごめんね』
映像が途切れた。
テレビの画面が消える。
誰も、動けなかった。
最初に口を開いたのは、塚内だった。
「……今の映像は、十三年前のものなんですね?」
相澤は頷いた。
「記録の日付は、そうなっている」
「しかし、映っていた少年は……」
「緑谷と同じ顔だった」
爆豪が、歯を食いしばった。
「クソが……何なんだよ、これ」
轟は、消えたテレビを見つめていた。
「少年は、自分が死ねば緑谷が生まれないと言った」
飯田が続ける。
「しかし、緑谷君は実際に生まれています。つまり、少年の願いは叶わなかったか、あるいは……」
「願いそのものが、別の形で叶えられた」
相澤が言った。
「少年は死んだ。だが、緑谷は生まれた」
出久は顔を上げた。
「……先生」
「何だ」
「僕は、兄さんを殺したんですか」
相澤は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、出久には苦しかった。
「……記録だけを見れば、そうなる」
「でも、映像の中の僕は……」
「お前ではない」
相澤は、はっきりと言った。
「少なくとも、今のお前ではない」
「同じ顔をしていました」
「顔が同じでも、同じ人間とは限らない」
「でも、僕は……」
「緑谷」
相澤の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前が何者なのかは、まだわからない。だが、わからないことを理由に、お前を犯人だと決めつけるつもりはない」
出久は、唇を噛んだ。
「……僕が、兄さんを殺したのかもしれない」
「かもしれない、だ」
相澤は言った。
「確定ではない」
「でも、僕の中には……」
「記憶がある。それは否定しない」
相澤は、出久の目を見た。
「だからこそ、俺たちが調べる」
爆豪が一歩前に出た。
「当たり前だろうが」
出久が顔を上げる。
「かっちゃん……」
「テメェが何回世界をぶっ壊したかなんざ、今はどうでもいい」
「……え?」
「いや、どうでもよくはねえ。あとで全部吐かせる」
「かっちゃん……」
「だがな」
爆豪は、出久を睨んだ。
「テメェが誰かを殺したって記録があるなら、俺はそいつが誰なのかを調べる。テメェが殺されたって記録があるなら、そいつも調べる」
拳を握る。
「どっちかだけで済ませる気はねえ」
その言葉に、出久の目が揺れた。
「……ありがとう」
「礼なんか言ってんじゃねえ。まだ何も終わってねえんだよ」
爆豪は顔を背けた。
「それに、テメェが本当に兄貴を殺したなら……」
そこで言葉を切る。
出久は、静かに待った。
「……そいつは、テメェを殺すために、何回も兄貴の記憶を見せてきたってことだろうが」
爆豪は、もう一度出久を見た。
「だったら、まずそいつをぶっ飛ばす」
乱暴な言い方だった。
だが、その言葉には、揺るぎない意志があった。
お茶子は、出久の手を握り直した。
轟は、モニターに残った記録を保存した。
飯田は、映像の撮影者と機器の履歴を調べ始めた。
塚内は、警察の保管記録との照合を指示した。
相澤は、誰もいない書斎の奥を見つめていた。
全員が、前に進もうとしていた。
ただ一人。
出久だけが、映像の中の少年の言葉から離れられなかった。
『お兄ちゃんになってあげられなくて、ごめんね』
なぜ。
どうして、あんなことを言ったのだろう。
少年は、自分の兄になることを望んでいた。
それなのに、兄になることを拒んだ。
自分が兄になれば、弟を殺してしまうから。
弟が生まれれば、兄を殺してしまうから。
どちらも、同じ顔をしているから。
では。
どちらが、先に生まれたのだろう。
どちらが、兄だったのだろう。
どちらが、弟だったのだろう。
出久は、映像の最後に映った少年の顔を思い出そうとした。
今度は、少しだけ思い出せた。
少年は、泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
そして。
その顔は。
自分が誰かを救えなかったときに、鏡の中で何度も見た顔だった。
*
6.母親が残したもの
書斎の調査は、午前中いっぱい続いた。
見つかったのは、十三年前の映像だけではなかった。
古い出生記録。
破り取られた戸籍の写し。
緑谷久志が書き残した、複数の手記。
そして、封印された小さな箱。
箱には鍵がかかっていなかった。
それでも、相澤が蓋を開けようとした瞬間、室内の時計が一斉に止まった。
午前二時十三分。
壁の時計が鳴る。
一回。
二回。
三回。
鳴るはずのない時計が、同じ時刻を告げ続けた。
「先生、待ってください」
出久が言った。
相澤は手を止めた。
「どうした」
「……これ、僕が開けなきゃいけない気がします」
「根拠は?」
「ありません」
「なら、開けさせる理由もない」
「でも……」
「緑谷」
相澤は、厳しい目を向けた。
「お前は、自分が関わっているものなら、全部自分で背負わなければならないと思っている」
出久は黙った。
「その考え方は、今回の件では特に危険だ」
「……わかっています」
「わかっていないから言っている」
相澤は、箱を机に置いた。
「俺が開ける。お前は、何か起きたらすぐに離れろ」
出久は頷いた。
相澤が蓋を開けた。
中に入っていたのは、三つの品だった。
一枚の写真。
小さな靴。
そして、手紙。
写真には、女性が写っていた。
顔は、見覚えがあった。
出久は息を呑んだ。
「……お母さん?」
緑谷久志の妻。
緑谷出久の母。
緑谷引子。
彼女は、病室のベッドに座っていた。
その腕には、赤ん坊が抱かれている。
写真の端には、もう一人の女性が立っていた。
顔は、黒く塗りつぶされていた。
ただし、その女性の手だけは、はっきりと写っていた。
女性の手は、引子の肩に置かれている。
まるで、慰めるように。
まるで、支えるように。
まるで、彼女から何かを奪ったことを謝るように。
出久は、写真を裏返した。
そこには、母の筆跡で文章が書かれていた。
『この子には、兄がいた』
出久の喉が鳴った。
『でも、私はその子を抱けなかった』
お茶子が、隣から覗き込む。
『あの子が生まれたとき、私は二人の泣き声を聞いた』
文字が滲んでいた。
『一人は、私の腕の中で泣いていた』
『もう一人は、誰にも抱かれずに泣いていた』
出久は、写真を握りしめた。
『私は、二人とも抱きたかった』
『けれど、あの子を抱こうとすると、腕の中の子が消えてしまった』
『腕の中の子を守ろうとすると、あの子の声が聞こえなくなった』
『だから、私は決めた』
文字が途切れていた。
その下に、何度も書き直された跡がある。
『私は、母親にならない』
出久は、息を止めた。
『二人の母親になれば、二人とも失う』
『だから、私は一人だけの母親になる』
『もう一人の子を、産まなかったことにする』
出久の指が震えた。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
最後の文章は、ほとんど読めなかった。
『出久』
『あなたが大人になったら、いつかこの手紙を読んでください』
『あなたには、兄がいました』
『あなたの兄は、あなたを愛していました』
『そして、あなたは――』
そこで文章が途切れていた。
最後の一行は、紙ごと切り取られていた。
お茶子が顔を上げた。
「……なんで、ここだけ」
相澤が、箱の中を調べた。
手紙の下に、もう一枚の紙があった。
それは、出生記録だった。
そこには、二人の名前が書かれていた。
第一子。
御影出久。
第二子。
緑谷出久。
出久は、目を見開いた。
「……第一子が、兄さん?」
塚内が記録を確認する。
「この書類が真正なものなら、そうなります」
「でも、これまでの記録では……」
「記録が複数ある。どれが正しいのか、まだ断定できない」
相澤が言った。
そのとき、出久は、手紙の最後に残った筆跡に気づいた。
母親の文字ではない。
もっと幼い文字。
鉛筆で書かれたような、細い線。
そこには、こう書かれていた。
『お母さんは、僕を知らない』
出久は、指で文字をなぞった。
『お父さんは、僕を忘れようとしている』
『弟は、僕を殺す』
最後の一行だけ、何度も書き直されていた。
『でも、僕は弟を愛している』
出久は、膝から力が抜けそうになった。
その文字は、兄のものだった。
確信できた。
なぜなら。
その文字は、出久自身の字と、まったく同じだったからだ。
*
7.兄の名前
午後一時四十分。
雄英高校、臨時対策室。
書斎から持ち帰った資料は、すべて机の上に並べられていた。
相澤、塚内、爆豪、轟、飯田、お茶子。
そして、出久。
誰もが、同じ問題を考えていた。
緑谷出久には、兄がいた。
少なくとも、そう記された記録がある。
しかし、その兄の存在は、世界の記録から何度も消されている。
兄の名前は、御影出久。
けれど、別の記録では、兄は名前を持たない。
さらに別の記録では、兄の存在そのものが、弟の緑谷出久の中に統合されている。
どれも正しく、どれも矛盾していた。
「一つ、仮説を立てたい」
塚内が口を開いた。
「緑谷君の兄は、単純に存在を消されたのではないかもしれません」
「どういう意味ですか」
飯田が尋ねた。
「存在を消されたのなら、痕跡が残るはずです。写真、記録、記憶。完全に消すことは難しい。しかし、今回の現象では、痕跡が残る場合と残らない場合がある」
塚内は資料を並べ直した。
「つまり、消されたというより、存在の定義そのものが変更されている可能性があります」
「定義?」
轟が聞き返した。
「例えば、ある人間が生まれたとする。その人物を『緑谷出久の兄』と定義する。その後、世界がその定義を変更する」
塚内は、紙に二つの名前を書いた。
御影出久。
緑谷出久。
「御影出久は、緑谷出久の兄である」
その文章に線を引く。
「これを変更し、御影出久を緑谷出久の一部として扱う」
今度は、二つの名前を線で結んだ。
「そうすると、御影出久という独立した人間の記録が消えても、緑谷出久の中には、その存在の一部が残る」
「……記憶や人格が混ざる、ということか」
相澤が言った。
「はい。ただし、逆もあり得ます」
塚内は、二つの名前を消した。
「緑谷出久を御影出久の一部として扱う。そうなれば、今度は緑谷出久のほうが、兄の存在を構成する要素になる」
爆豪が顔をしかめた。
「つまり、どっちが兄で、どっちが弟なのかも、ひっくり返るってことか」
「可能性としては」
塚内は頷いた。
「ただし、これだけでは説明できない点があります」
「何だ」
「映像です」
全員の視線が、テレビに向いた。
「十三年前の映像に映っていた少年は、緑谷君と同じ顔をしていました。しかし、映像の中の少年は、自分が死ねば緑谷君が生まれないと言っていた」
塚内は、慎重に言葉を選んだ。
「つまり、少年は自分の存在が、緑谷君の出生に影響すると認識していた」
「それが事実なら」
相澤が言った。
「兄は、弟が生まれる前から存在していたことになる」
出久は、俯いた。
その言葉が、胸に刺さった。
自分が生まれる前。
自分がまだ、何も知らなかった頃。
兄は、すでに苦しんでいた。
自分が生まれることを恐れていた。
それでも。
自分を愛していた。
出久は、拳を握りしめた。
「……先生」
「何だ」
「僕は、兄さんに会いたいです」
相澤は、出久を見た。
「会って、どうする」
「謝りたい」
「何を謝る」
「僕が、兄さんを殺したことを」
「まだ確定していない」
「それでも」
出久は顔を上げた。
「僕が覚えていなくても、僕が知らなくても……兄さんが僕を愛してくれていたなら、僕はその人に、ちゃんと向き合いたいんです」
お茶子は、隣で頷いた。
爆豪は舌打ちした。
相澤は、しばらく出久を見つめていた。
そして、静かに言った。
「その気持ちは、否定しない」
出久の顔に、わずかな安堵が浮かぶ。
「だが、一つだけ約束しろ」
「はい」
「兄を救うために、お前自身を差し出すな」
出久は、言葉に詰まった。
「……先生」
「お前がこれまで何をしてきたのか、すべては知らない。だが、記録には、お前が世界を何度も作り直したとある」
相澤は、出久の目を見た。
「お前は、自分の命や存在を代価にすれば、誰かを救えると思っている」
「……」
「その考え方を変えろ」
相澤は、はっきりと言った。
「お前が死んでも、兄は救われないかもしれない。お前が消えても、世界は元に戻らないかもしれない」
「……はい」
「だから、まず生きろ」
出久は、唇を噛んだ。
「生きて、調べて、考えて、間違えて、それでもやり直せ」
相澤は言った。
「一人で結末を決めるな」
出久は、何度も頷いた。
「……はい」
そのとき。
机の上に置かれた出生記録が、ひとりでに動いた。
紙の上の文字が、滲んでいく。
御影出久。
緑谷出久。
第一子。
第二子。
すべての文字が、ゆっくりと消え始めた。
「待って!」
お茶子が紙を押さえる。
だが、文字は止まらない。
消えた文字の代わりに、新しい文字が浮かび上がった。
第一子。
――緑谷出久。
第二子。
――緑谷出久。
第三子。
――緑谷出久。
第四子。
――緑谷出久。
第五子。
――緑谷出久。
さらに、数字が増えていく。
第六子。
第七子。
第八子。
第九子。
百。
千。
一万。
紙の大きさを超えて、文字が机に溢れ出す。
同じ名前。
同じ名前。
同じ名前。
すべて、緑谷出久。
出久は立ち上がった。
「……やめて」
文字が増え続ける。
「やめてくれ……!」
相澤が紙を引き裂こうとした。
しかし、紙は破れなかった。
ハサミも通らない。
刃物を当てると、刃のほうが消えた。
そして、最後に。
紙の中央に、一つの文章が浮かび上がった。
――兄を知らない緑谷出久は、兄を殺せない。
その下に、別の文章。
――兄を知った緑谷出久は、兄を殺す。
さらに、その下。
――兄を殺した緑谷出久は、兄になる。
出久は、息を止めた。
「……兄になる?」
紙が、静かに燃えた。
今度の炎は、白かった。
燃えているのに、熱がない。
紙が消えていく。
最後に残った一行だけが、燃えずに残った。
――兄は、弟を殺す。
それが、第三十話の終わりだった。
しかし。
誰も、その言葉を理解できていなかった。
*
8.兄のいない夢
その夜。
出久は、眠ることを恐れていた。
眠れば、また夢を見る。
兄の声が聞こえる。
兄の顔が見える。
そして、自分はまた、兄を殺してしまう。
そう思った。
けれど、身体は限界だった。
ベッドに横たわると、意識はすぐに沈んでいった。
暗闇。
静寂。
何もない世界。
出久は、そこに立っていた。
目の前には、扉があった。
古い木の扉。
見覚えがある。
子どもの頃、何度も開けた扉。
扉の向こうから、声が聞こえる。
『出久』
兄の声だった。
出久は、扉に手を伸ばした。
「兄さん……?」
『開けないで』
声が震えていた。
『お願いだから、開けないで』
「どうして?」
『お前が僕を知ってしまうから』
「僕は、君を知りたいんだ」
『知ったら、僕を殺す』
「殺さない!」
『お前は、そう言った』
扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
出久は、扉を叩いた。
「兄さん!」
『お前は、そう言ったんだ』
声が遠ざかる。
『何度も』
『何度も』
『何度も』
『何度も』
扉の表面に、赤い文字が浮かび上がった。
――第一回目。
――第二回目。
――第三回目。
――第四回目。
数字が増えていく。
百。
千。
一万。
やがて、数字は読めなくなった。
扉の向こうから、声が聞こえた。
『出久』
「兄さん!」
『僕は、お前を許すよ』
出久は、首を振った。
「許さなくていい!」
『お前が僕を知らないなら、僕はお前を許せる』
「そんなの、違う!」
『でも、お前が僕を思い出したら』
声が止まった。
しばらくして。
『僕は、お前を殺さなければならない』
扉の向こうで、誰かが泣いた。
『だから、お願い』
『僕を知らないままでいて』
出久は、扉に額を押し当てた。
「……嫌だ」
涙が流れた。
「僕は、君を知りたい」
扉が震えた。
「君が誰なのか、知りたいんだ」
出久は、拳を握った。
「君が僕を愛してくれたなら、僕だって君を愛したい!」
扉の向こうが、静かになった。
それから。
かすかな笑い声が聞こえた。
『……そうだね』
扉の鍵が、外れた。
出久は、ゆっくりと扉を開けた。
そこには、病室があった。
十三年前の病室。
ベッドの上に、緑谷引子が横たわっている。
その腕には、赤ん坊が抱かれていた。
緑谷久志は、ベッドの横で泣いている。
そして、窓際に。
一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
少年は、こちらを向いていた。
今度は、顔が消えていなかった。
目も。
鼻も。
口も。
すべてが、はっきりと見えた。
出久は、息を呑んだ。
「……兄さん」
少年は笑った。
優しい笑顔だった。
けれど、その目には、深い悲しみがあった。
「やっと、会えたね」
出久は、一歩踏み出した。
「君が……僕の兄さん?」
「うん」
「君の名前は?」
少年は、少しだけ困ったように笑った。
「それを聞くんだね」
「……え?」
「僕の名前を聞いたら、お前は僕を殺してしまう」
少年は、窓の外を見た。
そこには、夜空が広がっていた。
星はない。
月もない。
ただ、暗闇だけがあった。
「僕は、お前の兄だった」
少年は言った。
「でも、今は違う」
「……どうして?」
「お前が僕を殺したから」
出久は、首を振った。
「僕は……」
「わかっているよ」
少年は振り返った。
「お前は、僕を殺したくなかった」
「……うん」
「僕も、お前を殺したくなかった」
「……うん」
「それでも、僕たちは殺し合った」
少年は、赤ん坊を見つめた。
「お前が生まれる前から」
出久は、赤ん坊を見た。
小さな手。
小さな足。
閉じられた瞳。
その赤ん坊は、出久にそっくりだった。
少年が、静かに言った。
「出久。お前は、僕が何度死んでも生きていた」
「……」
「僕が世界を壊しても、お前は生きていた」
「……」
「僕が自分の名前を捨てても、お前は生きていた」
少年は、笑った。
「だから、僕は最後に一つだけ、願ったんだ」
「何を……?」
「お前が、僕を知らずに生きられる世界」
出久は、涙を流した。
「そんな世界、いらない……!」
「そうだね」
「僕は、君を知りたい!」
「そうだね」
「君と、一緒に生きたい!」
少年は、何も言わなかった。
ただ、静かに笑っていた。
そして。
その笑顔が、ゆっくりと変わっていった。
目から、光が消える。
口元から、優しさが消える。
表情が、凍りつく。
少年は、出久を見つめた。
「……だったら」
その声は、もう優しくなかった。
「お前が、兄になれ」
出久は、息を呑んだ。
「……え?」
「僕が弟になる」
少年は言った。
「お前が兄になる」
「何を……」
「そうすれば、今度はお前が僕を殺す番だ」
病室の時計が鳴った。
午前二時十三分。
少年が、ゆっくりと近づいてくる。
「出久」
少年は、出久の頬に触れた。
「僕は、お前を殺したくない」
その手は、冷たかった。
「だから、お前が僕を殺して」
出久は、首を横に振った。
「嫌だ……」
「お願い」
「嫌だ!」
「お前なら、できる」
「できない!」
少年は、泣きそうな顔で笑った。
「お前は、僕だから」
その瞬間。
少年の身体が、黒い影に変わった。
影は、出久の足元に広がる。
逃げようとしても、動けない。
影が足を掴む。
膝を掴む。
腰を掴む。
そして、胸へと這い上がってくる。
「……やめろ!」
出久は叫んだ。
「兄さん!」
影の中から、声が聞こえた。
『さようなら、弟』
出久は、手を伸ばした。
届かなかった。
影が、出久の身体を呑み込んだ。
*
9.兄は、弟を殺す
午前二時十三分。
雄英高校、仮設医療棟。
緑谷出久の心拍が、停止した。
モニターが警告音を発する。
医療スタッフが駆け込んでくる。
相澤消太が扉を蹴破った。
「緑谷!」
ベッドの上に、出久が横たわっていた。
瞳は閉じられている。
身体は冷たい。
心臓は動いていない。
お茶子が、出久の手を握った。
「出久くん……?」
返事はない。
「出久くん、起きて……!」
手を握る。
何度も呼びかける。
「お願い……!」
相澤が脈を確認した。
ない。
呼吸もない。
爆豪が、出久の胸倉を掴みかけて、寸前で手を止めた。
「……ふざけんな」
声が震えていた。
「ふざけんなよ、デク……!」
モニターが鳴り続ける。
飯田が救命措置を始める。
轟が周囲の温度を管理し、医療スタッフの動きを補助する。
塚内は、すぐに救急対応を要請した。
それでも。
出久の心臓は、動かなかった。
そのとき。
モニターの画面に、見知らぬ文字が浮かび上がった。
心拍数。
血圧。
酸素飽和度。
すべての数値が消える。
代わりに、画面いっぱいに文字が表示された。
――対象個体、緑谷出久。
――死亡確認。
――兄弟構造、再編開始。
相澤がモニターを睨んだ。
「……再編?」
文字が変わった。
――第一子、緑谷出久。
――第二子、緑谷出久。
――第一子と第二子の統合を開始します。
お茶子が叫んだ。
「やめて!」
モニターに手を伸ばす。
「出久くんを返して!」
文字が増えた。
――兄の記憶を復元。
――弟の記憶を消去。
――兄の人格を優先。
――弟の人格を削除。
爆豪がモニターを殴った。
画面が割れる。
しかし、文字は空中に浮かび上がった。
白い文字が、医療棟の壁を覆っていく。
――兄は、弟を殺す。
――弟は、兄を殺す。
――兄は、弟を殺す。
――弟は、兄を殺す。
文字が繰り返される。
繰り返される。
繰り返される。
その中に、一つだけ、異なる文章が現れた。
――現在の兄は、弟を知らない。
相澤は、息を呑んだ。
文字が続く。
――現在の弟は、兄を知らない。
――両者の認識が一致した場合、殺害が成立する。
――兄弟認識、接続まで。
――残り、十秒。
「……何だ、これは」
轟が呟いた。
カウントダウンが始まる。
十。
九。
八。
相澤は出久の胸に手を当てた。
「緑谷! 聞こえるか!」
七。
六。
お茶子が、出久の手を握りしめる。
「出久くん! 戻ってきて!」
五。
四。
爆豪が、出久の顔を睨みつけた。
「起きろ、デク!」
三。
二。
一。
ゼロ。
医療棟のすべての時計が、同時に鳴った。
午前二時十三分。
そして。
ベッドの上で、出久が目を開けた。
その瞳は、緑色ではなかった。
黒かった。
瞳孔も、白目も、すべてが真っ黒だった。
出久は、ゆっくりと上半身を起こした。
周囲を見回す。
相澤。
お茶子。
爆豪。
轟。
飯田。
塚内。
全員が、息を止めていた。
出久は、彼らを見た。
そして、静かに微笑んだ。
「……お久しぶりです」
その声を聞いた瞬間。
相澤の背筋に、冷たいものが走った。
声が違う。
話し方も違う。
表情も違う。
それなのに、顔だけは、緑谷出久だった。
出久は、お茶子を見つめた。
「麗日さん」
「……出久、くん?」
「あなたは、弟の恋人ですね」
お茶子の顔が凍りついた。
「……弟?」
出久は、首を傾げた。
「はい」
そして、自分の胸に手を当てた。
「僕は、緑谷出久」
笑顔が深くなる。
「あなたたちが知っている緑谷出久の、兄です」
爆豪が一歩踏み出した。
「……テメェ」
出久は、爆豪を見た。
「爆豪勝己。弟を守ってくれて、ありがとう」
「ふざけんな。デクをどこにやった」
「どこにも」
出久は、穏やかに答えた。
「弟は、僕の中にいます」
「返せ」
「できません」
「返せっつってんだろうが!」
爆豪が飛びかかった。
相澤が止めるより早く、爆豪の拳が出久の顔面に迫る。
しかし。
出久は、片手でその拳を受け止めた。
音がした。
骨が軋む音ではない。
空間が軋む音だった。
爆豪の拳が、出久の手のひらの中で止まっている。
出久は、悲しそうに微笑んだ。
「あなたは、いつもそうでしたね」
「……何?」
「弟が苦しんでいると、あなたは怒る」
出久は、爆豪の手を離した。
「でも、あなたは弟が何をしたのか、知らない」
「……」
「弟が、何を犠牲にしてきたのか」
黒い瞳が、爆豪を見つめる。
「弟が、誰を殺してきたのか」
爆豪の顔が歪んだ。
「……テメェ、デクの何を知ってやがる」
「全部です」
出久は答えた。
「僕は、弟の記憶を持っていますから」
お茶子が、震える声で尋ねた。
「……あなたは、本当に出久くんのお兄さんなの?」
出久は、お茶子を見た。
その目が、一瞬だけ揺れた。
悲しみ。
懐かしさ。
そして、どうしようもない愛情。
「はい」
彼は答えた。
「僕は、弟を愛しています」
お茶子は、涙を流した。
「だったら……!」
声が震える。
「だったら、どうして出久くんを……!」
「殺したからです」
出久は、穏やかに言った。
「弟は、僕を殺しました」
お茶子が首を振る。
「でも、出久くんは……!」
「わかっています」
出久は目を伏せた。
「弟は、僕を救おうとしていました」
その声は、優しかった。
あまりにも優しかった。
「だから、僕も弟を救おうとした」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「でも、僕たちは何度も失敗した」
黒い瞳が、再び開く。
「今度こそ、終わらせなければならない」
相澤が、出久の前に立った。
「お前は、何をするつもりだ」
「弟を救います」
「そのために、緑谷の人格を消したのか」
「いいえ」
出久は首を横に振った。
「弟を救うために、弟を眠らせました」
「同じことだ」
「違います」
出久の声が、初めて強くなった。
「僕は、弟を殺したくない」
黒い瞳に、涙が浮かんだ。
「でも、弟は僕を殺す」
相澤は、動かなかった。
「弟が僕を思い出せば、弟は僕を殺す。弟が僕を救おうとすれば、弟は世界を壊す。弟が僕と一緒に生きようとすれば、僕は弟を殺さなければならない」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「だから、僕が兄でいる限り、弟は生きられない」
お茶子が、首を振った。
「そんなの、違う……!」
「ええ」
出久は微笑んだ。
「だから、僕が兄であることを終わらせます」
その瞬間。
医療棟の窓の外に、巨大な影が現れた。
夜空を覆うほどの影。
星を隠し、雲を呑み込み、世界の輪郭を歪めていく。
相澤が窓を見た。
「……何だ、あれは」
出久は、静かに答えた。
「観測者です」
影の中央に、白い目が開いた。
世界を見下ろす目。
人間の営みを、命を、記憶を、記録を。
すべてを、ただ観測するための目。
出久は、その目を見つめた。
「あなたが、僕たちを兄弟にした」
影は答えなかった。
「あなたが、僕たちの名前を変えた」
影は動かない。
「あなたが、弟に僕を殺させた」
影が、わずかに揺れた。
出久は、笑った。
「でも、もう終わりです」
その手に、黒い刃が現れた。
十三年前の映像に映っていた、あの刃。
無数の世界を映す刃。
兄と弟が並んで笑っている世界。
兄が弟を殺す世界。
弟が兄を殺す世界。
どの世界でも、最後には、どちらかが死んでいた。
出久は、その刃を見つめた。
「僕は、弟を殺しません」
そして、刃を自分の胸に向けた。
「僕が死ねば、弟は兄を殺さずに済む」
「やめろ!」
相澤が叫んだ。
お茶子が駆け寄る。
爆豪が飛び出す。
轟が氷を放つ。
だが、誰も届かなかった。
刃が、出久の胸に触れる。
その瞬間。
出久の黒い瞳から、一筋の涙が落ちた。
「……ごめんね、出久」
彼は呟いた。
「お兄ちゃんになってあげられなくて、ごめんね」
刃が、胸に沈んだ。
音はなかった。
血も流れなかった。
ただ、出久の身体が、少しずつ透けていく。
相澤が手を伸ばした。
「やめろ、緑谷!」
お茶子が叫んだ。
「出久くん!」
爆豪が吠えた。
「クソがあああああッ!」
それでも。
出久は、笑っていた。
「これで……」
身体が、光に変わる。
「これで、弟は……」
声が消えた。
最後に残ったのは、黒い刃だけだった。
刃が床に落ちる。
砕ける。
その破片の一つに、文字が浮かんでいた。
――第一子、死亡。
次の破片。
――第二子、生存。
さらに、次の破片。
――第三子、覚醒。
相澤は、その文字を見つめた。
「……第三子?」
その瞬間。
ベッドの上で、緑谷出久が息を吸った。
「――っ!」
出久が、目を覚ました。
瞳は、いつもの緑色だった。
呼吸が乱れている。
顔は青ざめ、身体は震えていた。
「……ここは……?」
お茶子が、泣きながら抱きついた。
「出久くん……!」
「お茶子ちゃん……?」
出久は彼女を抱きしめた。
何が起きたのかわからない。
自分が死んだのか。
誰かが自分の身体を使っていたのか。
兄に会ったのか。
夢だったのか。
何一つ、わからない。
ただ、一つだけ。
胸の奥に、痛みがあった。
まるで、誰かを失ったような。
誰かが、もう二度と戻ってこないような。
「……お茶子ちゃん」
「うん……うん……!」
「僕……」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「僕、誰かを殺したの?」
お茶子は答えられなかった。
相澤も。
爆豪も。
轟も。
飯田も。
塚内も。
誰も、答えられなかった。
ただ、窓の外に広がっていた巨大な影だけが、ゆっくりと消えていった。
世界は、再び静かになった。
時計が動き始める。
午前二時十四分。
午前二時十五分。
午前二時十六分。
時間は、進んでいる。
それなのに。
誰も気づかなかった。
病室のベッドの下。
誰にも見えない場所に。
小さな靴が、一足だけ残されていたことに。
十三年前の写真に写っていた、あの少年の靴。
その靴の中には、小さな紙片が入っていた。
紙片には、幼い文字で、こう書かれていた。
『出久へ』
『もしも、僕のことを思い出せなくなったら』
『僕が誰だったのか、わからなくなったら』
『僕の名前を、探さないでください』
『僕の顔を、思い出さないでください』
『僕が何をしたのか、知らないままでいてください』
その下には、最後の一行。
『だって、僕は――』
そこから先は、破れていた。
紙片が、風もないのに揺れた。
そして。
誰もいない病室に、声が響いた。
『僕は、君のお兄ちゃんじゃない』
その声は、緑谷出久のものだった。
だが。
ベッドの上の出久は、その声を聞いていなかった。
彼は、ただ、お茶子の腕の中で泣いていた。
自分が失ったものの名前も知らずに。
自分が殺したものの顔も知らずに。
そして、自分の中に、まだもう一人の自分が眠っていることも知らずに。
*
同じ時刻。
雄英高校から遠く離れた、廃病院。
十三年前に取り壊されたはずの建物が、夜の闇の中に立っていた。
窓は割れ、壁は崩れ、廊下には瓦礫が散乱している。
それでも、最上階の一室だけは、当時の姿を保っていた。
病室。
ベッド。
時計。
そして、窓際に置かれた椅子。
その椅子に、一人の少年が座っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
緑谷出久と同じ顔。
少年は、手の中にある写真を見つめていた。
写真には、三人の子どもが写っていた。
一人目は、笑っている。
二人目も、笑っている。
三人目だけが、泣いていた。
少年は、写真を裏返した。
そこには、名前が三つ書かれていた。
最初の二つは、黒く塗りつぶされている。
最後の一つだけが、読めた。
――緑谷出久。
少年は、その名前を指でなぞった。
「……まだ、生きているんだね」
彼は笑った。
泣いているような笑顔だった。
「よかった」
少年は、窓の外を見た。
遠くの空に、雄英高校の灯りが見える。
「でも、これで終わりじゃない」
椅子から立ち上がる。
足元には、古い記録が散乱していた。
何百冊ものノート。
何千枚もの写真。
無数の出生証明書。
すべてに、同じ名前が書かれている。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
その中の一冊を、少年は拾い上げた。
表紙には、こう書かれていた。
『兄を知らない僕』
少年は、その本を開いた。
最初のページに、文章があった。
『第一子は、弟を殺した』
次のページ。
『第二子は、兄を殺した』
その次。
『第三子は、兄を知らない』
さらに、次のページ。
『第四子は、弟を知らない』
その次。
『第五子は――』
そこだけ、文字が消されていた。
少年は、指で文字の跡をなぞった。
「……まだ、思い出していない」
そして、最後のページを開いた。
そこには、たった一文だけが記されていた。
――兄を殺したのは、弟ではない。
少年は、静かに本を閉じた。
「そうだよ」
彼は呟いた。
「兄を殺したのは、弟じゃない」
窓の外で、時計の鐘が鳴った。
午前二時十七分。
少年は、初めて笑った。
「弟を殺したのは――」
言葉が、闇に溶けていく。
「兄なんだ」
廃病院のすべての窓に、同時に明かりが灯った。
そして、どこか遠い場所で。
緑谷出久の夢の中に、知らない声が響いた。
『おかえり、出久』
その声は、兄のものだった。
けれど、出久はまだ知らない。
自分が、どこから帰ってきたのかを。
そして。
自分が、誰のもとへ帰ってきたのかを。
第三十話 了