緑谷出久は、夢の中で自分の葬式に出席していた。
棺の中に横たわっているのは、自分だった。
緑色の髪。
そばかすの残る頬。
目を閉じた顔は、眠っているようにも見えた。
けれど、胸は動いていない。
誰も、その死を疑っていなかった。
相澤消太は、棺の前に立っていた。
腕を組み、いつもの不機嫌そうな顔で、じっと出久を見下ろしている。
爆豪勝己は、壁際に立っていた。
拳を握りしめ、何かを堪えるように歯を食いしばっている。
轟焦凍は、俯いていた。
飯田天哉は、背筋を伸ばしたまま、動かなかった。
麗日お茶子は。
棺の横で、泣いていた。
声を押し殺して。
誰にも気づかれないように。
出久は、その光景を天井から見下ろしていた。
不思議と悲しくはなかった。
自分が死んでいるのだから、当然なのかもしれない。
むしろ、安心していた。
もう誰も、自分を救おうとしなくていい。
もう誰も、自分のために傷つかなくていい。
自分が死ねば、すべてが終わる。
そう思った。
けれど。
「……違うだろ」
声がした。
棺の中からだった。
死んでいるはずの自分が、目を開けていた。
棺の中の出久は、天井に浮かぶ出久を見つめた。
そして、笑った。
「お前が死んでも、何も終わらない」
出久は、返事ができなかった。
棺の中の自分が、ゆっくりと起き上がる。
身体から血が流れていた。
胸に、黒い穴が開いている。
そこから、無数の声が漏れていた。
『出久』
『お兄ちゃん』
『助けて』
『殺して』
『忘れないで』
『忘れて』
声が重なる。
何人もの自分が、何人もの兄が、何人もの弟が、同じ名前を呼んでいた。
棺の中の出久は、耳を塞いだ。
「うるさいな」
そう言って、笑った。
「いつまで僕たちは、同じことを繰り返すんだろうね」
天井の出久は、ようやく声を絞り出した。
「……君は、誰?」
棺の中の少年は、首を傾げた。
「君だよ」
「僕じゃない」
「そうだね」
少年は、あっさりと認めた。
「僕は君じゃない」
彼は棺から足を下ろした。
床に足が触れた瞬間、葬式の参列者が全員、同時に顔を上げた。
誰も、棺の中から少年が起き上がったことには驚かなかった。
彼らが見ていたのは、天井に浮かぶ出久だった。
お茶子が泣きながら言った。
「出久くん……どうして……」
爆豪が、怒鳴った。
「テメェ、また一人で決めやがったな!」
相澤が、目を細めた。
「緑谷。そこから降りろ」
轟は、静かに言った。
「お前がいなくなっても、何も解決しない」
飯田が、声を震わせた。
「緑谷君! 君がいなくなれば、我々は君を救うことすらできなくなる!」
全員が、出久を見ていた。
自分の葬式なのに。
自分はもう死んでいるのに。
誰も、自分が死んだことを受け入れてくれない。
出久は、泣きそうになった。
「……ごめん」
その言葉を聞いて、棺の中の少年が顔をしかめた。
「またそれか」
少年は、出久を見上げた。
「君は、何回謝れば気が済むの?」
出久は答えられなかった。
「謝れば、誰かが許してくれると思ってる?」
「……違う」
「じゃあ、何のために謝るの?」
「僕は……」
「誰のため?」
少年は、一歩近づいた。
「兄さんのため?」
もう一歩。
「自分のため?」
さらに一歩。
「それとも、君が謝れば、君を許さなければならなくなる誰かのため?」
出久は、何も言えなかった。
少年は、悲しそうに笑った。
「君は、本当に優しいね」
その声には、優しさがなかった。
「だから、僕は君が嫌いなんだ」
世界が、暗転した。
そして。
出久は目を覚ました。
*
1.生きていることの証明
「――緑谷!」
聞き慣れた声が、耳に飛び込んできた。
出久は勢いよく身体を起こした。
呼吸が荒い。
心臓が痛いほど鳴っている。
喉が渇いていた。
手のひらが汗で濡れている。
ベッドの脇に、相澤消太が立っていた。
「……先生?」
「落ち着け。夢だ」
相澤は、出久の肩に手を置いた。
「ここは雄英だ。お前は生きている」
生きている。
その言葉を、出久は何度も頭の中で繰り返した。
生きている。
自分は、生きている。
心臓が動いている。
息ができる。
手を動かせる。
身体がある。
自分は、まだここにいる。
「……僕、どれくらい眠っていましたか」
「四時間ほどだ」
「四時間……」
「途中で心拍が一度止まったが、今は安定している」
出久の表情が凍りついた。
「……止まった?」
「詳しい話は後だ」
相澤は、出久の顔を覗き込んだ。
「今は、自分の状態を確認しろ。頭痛はあるか。吐き気は。視界の異常は」
「頭痛は、少し。吐き気はありません。視界も……大丈夫です」
「記憶は?」
出久は、口を開きかけて止まった。
昨夜のこと。
自分が死んだこと。
黒い瞳の自分。
兄を名乗る少年。
胸に刃を突き立てた少年。
それらの記憶が、頭の中に浮かんだ。
だが、どこかおかしかった。
自分の記憶なのに、自分が経験したものではないような感覚。
夢だったと言われれば、納得できる。
現実だったと言われても、否定できない。
「……よく、わかりません」
「そうか」
相澤は、それ以上追及しなかった。
扉が開いた。
「出久くん!」
お茶子が駆け込んできた。
その後ろから、爆豪、轟、飯田が続く。
お茶子はベッドの横で立ち止まり、出久の顔を見た。
何かを言おうとして。
言葉が出なかった。
代わりに、出久の手を握った。
「……よかった」
声が震えていた。
「ほんまに、よかった……」
「お茶子ちゃん……」
「さっきまで、出久くんの心臓が止まってたって聞いて……」
お茶子は唇を噛んだ。
「もう、どうしたらええかわからんかった」
出久は、彼女の手を握り返した。
「ごめん」
「謝らんといて」
「でも……」
「謝らんといて、出久くん」
お茶子は、まっすぐに彼を見た。
「生きててくれて、ありがとう」
出久は、息を呑んだ。
謝罪を求められると思っていた。
何があったのか。
何を見たのか。
何をしたのか。
説明を求められると思っていた。
それなのに。
お茶子は、ただ生きていることを喜んでいた。
それが、ひどく苦しかった。
「……うん」
出久は頷いた。
「ありがとう」
爆豪が舌打ちした。
「おい、デク」
「かっちゃん……」
「テメェ、今すぐ説明しろ」
「……はい」
「まず、昨夜何があった」
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「僕は……夢を見たんだ」
「夢?」
「自分の葬式の夢。それから……」
言葉が止まる。
黒い瞳。
同じ顔。
自分の身体を使っていた、もう一人の自分。
そして、彼が名乗った言葉。
――僕は、緑谷出久の兄です。
「……僕の兄さんが、現れた」
その瞬間、室内の空気が変わった。
相澤が目を細める。
塚内が記録用端末を起動した。
飯田が背筋を伸ばした。
轟は、出久の表情を注意深く観察している。
爆豪だけが、苛立たしそうに拳を握った。
「兄貴が、何をした」
「僕の身体を使って……自分を消そうとしたんだと思う」
「消そうとした?」
「うん。兄さんは、僕を救うために、自分が死ねばいいって考えていた」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「でも、その前に……僕は、兄さんの記憶を見たんだ」
「どんな記憶だ」
「僕が生まれる前から、兄さんがいた記憶」
相澤の表情が、わずかに変わった。
「生まれる前?」
「はい。僕がまだ生まれていないとき、兄さんは、父さんに自分を殺してほしいって頼んでいました」
飯田が眉を寄せた。
「なぜ、そのようなことを……」
「僕が生まれると、兄さんが僕を殺してしまうから」
出久は、声を落とした。
「兄さんは、そう言っていました」
沈黙。
誰も、すぐには答えられなかった。
やがて、轟が口を開いた。
「……一つ、気になることがある」
「何?」
「お前が見た兄は、本当に兄だったのか?」
出久は、顔を上げた。
「……どういう意味?」
「顔が同じだったんだろう」
「うん」
「記憶も、人格も、お前と似ていた」
「……うん」
「なら、兄というのは、血縁関係のことではなく、役割のことだった可能性はないか」
出久は黙った。
轟は続けた。
「お前の世界では、存在や名前が何度も書き換えられている。兄と弟という関係そのものが、後から設定された可能性もある」
「つまり……」
飯田が言葉を継いだ。
「本来は兄弟ではなかった二人が、世界の再構築によって兄弟として定義された可能性がある、ということか」
「そうだ」
轟は頷いた。
「もしそうなら、兄が弟を殺すという記録も、血縁に基づくものではないかもしれない」
爆豪が顔をしかめた。
「じゃあ、あのクソ兄貴は何なんだよ」
「わからない」
轟は、正直に答えた。
「ただ、俺たちが兄弟だと思っているものと、記録が兄弟と呼んでいるものが、同じとは限らない」
出久は、膝の上で手を握った。
もし、兄という関係が後から作られたものなら。
自分が兄を殺したという記憶も、誰かが与えたものなのだろうか。
それとも。
自分が兄を殺したからこそ、兄弟という関係が生まれたのだろうか。
どちらにしても、答えは見つからない。
相澤が口を開いた。
「緑谷。もう一つ聞く」
「はい」
「昨夜、お前の身体を使っていた存在は、最後に何と言った」
出久は、目を閉じた。
記憶を辿る。
黒い瞳。
優しい声。
そして、最後の言葉。
「……弟を救います、と」
「その前は?」
「僕は、緑谷出久の兄だって」
「その存在は、自分の名前を名乗ったか」
出久は、首を横に振った。
「いいえ」
「名前を聞いたか」
「……聞こうとしたけど、答えてもらえませんでした」
相澤は黙った。
塚内が、端末を見つめながら言った。
「先生。昨夜の医療記録に、奇妙な記載があります」
「何だ」
「緑谷君の心拍が停止した直後、脳波に三つの独立したパターンが確認されています」
「三つ?」
「はい。最初は緑谷君本人の脳波。次に、これまで記録されていた別個体との重複波形。そして、もう一つ……」
塚内は、画面を見せた。
「これまで一度も観測されたことのない波形です」
出久は、画面を覗き込んだ。
波形は、奇妙だった。
緑谷出久のものと似ている。
だが、完全には一致しない。
どこかが違う。
わずかに異なるリズム。
わずかに異なる反応。
それなのに、出久はその波形を見た瞬間、胸が痛くなった。
「……この波形」
出久は呟いた。
「僕、知ってる」
相澤が振り返った。
「どこで見た」
「わかりません。でも……」
出久は、画面から目を離せなかった。
「この人、ずっと僕の中にいた気がする」
その瞬間。
モニターに、文字が浮かび上がった。
――第三個体、覚醒準備。
全員が動きを止めた。
次の文字。
――第一個体、記憶欠損。
その次。
――第二個体、人格統合失敗。
そして。
最後に、一行。
――第三個体は、兄を知らない。
出久は、息を呑んだ。
それは、今の自分のことだった。
いや。
今の自分だけではない。
もっと昔から。
何度も、何度も。
自分は兄を知らない人間として、作り直されてきたのかもしれない。
相澤が、低い声で言った。
「……塚内さん。この記録の発信元は」
「追跡しています。ですが、発信元が……」
塚内の声が止まった。
「どうした」
「発信元が、ここではありません」
「どこだ」
塚内は、画面を見たまま答えた。
「緑谷君の脳内です」
*
2.記憶の中の殺人現場
出久は、その日の午後、精密検査を受けることになった。
検査室には、相澤と塚内、そして医療スタッフが立ち会った。
お茶子は廊下で待機していた。
爆豪は、検査室の扉の前から動こうとしなかった。
「……かっちゃん、そんなところに立ってなくても」
「うるせえ」
「でも、検査は時間がかかるみたいだし……」
「うるせえっつってんだろ」
爆豪は、壁にもたれたまま腕を組んだ。
「テメェが目を離した隙に、また変なことになったらどうすんだ」
出久は、何も言えなくなった。
爆豪は苛立っている。
けれど、それは出久に対する怒りだけではなかった。
どうしようもない状況への怒り。
目の前にいる人間を救えないかもしれないという恐怖。
そして、自分が何も知らないことへの怒り。
爆豪は、ずっとそうやって戦ってきた。
自分の弱さを認める代わりに、前へ進む。
それが彼の強さだった。
「……ありがとう、かっちゃん」
「礼なんかいらねえ」
「うん」
「それと、検査が終わったら話がある」
「話?」
「テメェの兄貴についてだ」
出久は、顔を上げた。
「何かわかったの?」
「まだ確定じゃねえ」
爆豪は、舌打ちした。
「だが、あのクソ兄貴が本当にテメェの兄貴なら、俺は一つだけ確認したいことがある」
「……何を?」
爆豪は、出久を睨んだ。
「そいつは、テメェを救うために自分を犠牲にしたのか」
出久は答えられなかった。
「それとも、テメェを自分と同じ地獄に引きずり込むために、自分を犠牲にしたのか」
出久は、息を呑んだ。
爆豪は、それ以上何も言わなかった。
検査室の扉が閉まる。
出久は、白いベッドに横たわった。
頭部にセンサーが取り付けられる。
脳波の測定が始まった。
「緑谷君。これから、昨日の記憶を再生してもらいます」
医療スタッフが言った。
「無理に思い出す必要はありません。何か異常があれば、すぐに中断します」
「……わかりました」
出久は目を閉じた。
暗闇。
白い光。
そして、扉。
昨日と同じ夢。
だが、今回は違った。
扉の向こうに、兄はいなかった。
代わりに、長い廊下が続いていた。
床には、赤い線が引かれている。
その線は、廊下の奥まで伸びていた。
出久は歩き始めた。
壁には、写真が並んでいた。
一枚目。
幼い自分と、もう一人の少年。
二人は、同じ服を着ていた。
二枚目。
二人が、同じおもちゃを取り合っている。
三枚目。
二人が、同じベッドで眠っている。
四枚目。
二人が、父親に叱られている。
五枚目。
二人が、笑っている。
六枚目。
兄が、弟を抱きしめている。
七枚目。
弟が、兄の手を握っている。
八枚目。
兄が、泣いている。
九枚目。
弟が、血に濡れた手を見つめている。
十枚目。
兄が、床に倒れている。
そして。
十一枚目。
弟が、兄の胸に刃を突き立てている。
出久は、足を止めた。
「……違う」
写真の中の自分は、泣いていた。
兄の胸に刃を突き立てながら。
泣いていた。
「違う……!」
出久は、写真を壁から剥がそうとした。
だが、写真は剥がれない。
壁と一体化している。
指を動かすたび、写真の中の自分が顔を上げる。
そして、こちらを見つめる。
『出久』
声がした。
写真の中の兄が、口を開いた。
『どうして、僕を殺したの?』
出久は、首を振った。
「僕は……!」
『どうして?』
「わからない……!」
『どうして、僕を殺したの?』
「わからないんだ!」
叫んだ瞬間、廊下の奥から、足音が聞こえた。
誰かが歩いてくる。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
赤い線を踏みながら。
出久は振り返った。
そこにいたのは、兄だった。
今度は、顔がはっきり見えた。
出久と同じ顔。
けれど、目の色が違う。
兄の瞳は、深い緑色だった。
出久の瞳よりも、少しだけ暗い。
兄は、血に濡れた服を着ていた。
胸には、穴が開いている。
そこから血が流れ続けていた。
「……兄さん」
出久は、震える声で呼んだ。
兄は、立ち止まった。
「思い出した?」
出久は、首を横に振った。
「……まだ、全部は」
「そう」
兄は、少しだけ笑った。
「なら、よかった」
「どうして……」
「何が?」
「どうして、僕に思い出させたくないの?」
兄は、答えなかった。
「僕が君を殺したなら、ちゃんと知りたいんだ。何があったのか。どうして、そんなことになったのか」
「知って、どうするの?」
「……謝りたい」
兄の表情が、変わった。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと深い何か。
「また、謝るんだね」
「……」
「出久。君は、僕に謝り続けている」
兄は、ゆっくりと近づいてきた。
「何度も、何度も、何度も」
「……」
「僕を殺したときも」
「……」
「僕を救えなかったときも」
「……」
「僕を忘れたときも」
兄は、出久の前に立った。
「でも、一度も聞かなかった」
「……何を?」
兄は、出久の胸に手を当てた。
「僕が、どうして死にたかったのか」
出久は、息を止めた。
兄は、悲しそうに笑った。
「君は、僕を救いたかった」
「……うん」
「僕も、君を救いたかった」
「……うん」
「でも、君は僕が死にたがっていたことを、最後まで理解できなかった」
出久は、首を横に振った。
「そんなこと……」
「僕は、生きたかったよ」
兄は、静かに言った。
「本当は、生きたかった」
その言葉に、出久の心が揺れた。
「でも、僕が生きている限り、君は僕を殺し続ける」
「……」
「僕が死ねば、君は僕を忘れる」
「……」
「僕が君を殺せば、君は僕になる」
兄は、出久の頬に触れた。
「どれを選んでも、僕たちは一緒に生きられなかった」
出久の目から、涙が落ちた。
「……そんなの、嫌だ」
「うん」
「僕は、君と一緒に生きたい」
「うん」
「君が誰なのか、知りたい」
「うん」
「君を、忘れたくない……!」
兄は、目を閉じた。
「……だから、僕は君を殺した」
出久は、顔を上げた。
「……え?」
兄は、ゆっくりと目を開けた。
「弟を殺したのは、兄だった」
その瞬間。
廊下の壁に並んでいた写真が、一斉に裏返った。
写真の裏側には、同じ文章が書かれていた。
――第一子による第二子の殺害。
――第一子による第二子の殺害。
――第一子による第二子の殺害。
出久は、震える手で壁に触れた。
「……兄さんが、僕を殺した?」
「そうだよ」
「でも、記録には……」
「記録は、いつも最後に生き残った人間を犯人にする」
兄は、言った。
「僕が死ねば、君が僕を殺したことになる。君が死ねば、僕が君を殺したことになる」
兄は、笑った。
「だから、僕たちは何度も殺し合った」
出久は、何も言えなかった。
「でもね、出久」
兄は、少しだけ声を柔らかくした。
「最初に君を殺したのは、僕だった」
廊下の床が、音を立てて崩れた。
赤い線が、黒い穴へと変わっていく。
出久は、足を踏み外した。
落ちる。
暗闇へ。
兄が、手を伸ばした。
「出久!」
出久も、手を伸ばした。
指先が触れる。
あと少し。
もう少しで、届く。
けれど。
兄は、出久の手を掴まなかった。
代わりに、そっと押し返した。
「……ごめんね」
兄は、泣いていた。
「今度は、君を生かさなきゃいけないんだ」
出久は、暗闇へ落ちていった。
*
3.目覚めた記録
「――緑谷君!」
医療スタッフの声で、出久は目を開けた。
検査室の天井が見えた。
センサーが外される。
相澤が、ベッドの横に立っていた。
「大丈夫か」
「……はい」
「何を見た」
出久は、息を整えた。
「……兄さんに会いました」
「何を話した」
出久は、ゆっくりと答えた。
「兄さんが、僕を殺したって」
相澤の表情が、変わった。
「……どういう意味だ」
「わかりません。でも、兄さんは……」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「最初に僕を殺したのは、自分だって言っていました」
塚内が、記録を確認した。
「緑谷君。今の検査で、脳波に大きな変化がありました」
「変化?」
「あなたの脳内で、これまで重複していた三つの波形が、一時的に分離しました」
「……三つ?」
「はい。緑谷君本人のものと思われる波形。過去に記録された別個体の波形。そして、今回新たに確認された波形です」
塚内は、画面を見せた。
「これまで、三つの波形は一つの信号として重なっていました。しかし、先ほどの検査では、それぞれが独立して動いていました」
出久は、画面を見つめた。
「……つまり、僕の中に三人いるってことですか」
「断定はできません。ただ、少なくとも三つの異なる活動パターンが確認されています」
相澤が尋ねた。
「分離したとき、何か記録されたか」
「はい」
塚内は、別の画面を開いた。
そこには、短い文章が表示されていた。
――第一個体、記憶保持。
――第二個体、記憶欠損。
――第三個体、記憶復元。
そして。
――第一個体が、第二個体を殺害した。
出久は、息を呑んだ。
「……これ、僕が見た記憶と同じです」
「どういうことだ」
「兄さんが言っていたんです。最初に僕を殺したのは、自分だって」
相澤は、画面を睨んだ。
「……第三個体は、何だ」
塚内は首を横に振った。
「わかりません」
そのとき、モニターに新しい文字が浮かび上がった。
――訂正。
全員が画面を見た。
文字が、一文字ずつ変わっていく。
――第一個体が、第二個体を殺害した。
その文章が消える。
新しい文章が表示された。
――第二個体が、第一個体を殺害した。
相澤が目を細めた。
「……どちらが正しい」
画面が点滅した。
――両方。
次の瞬間。
検査室の照明が、すべて消えた。
暗闇の中で、誰かが笑った。
出久の声だった。
けれど、出久は笑っていなかった。
相澤が、すぐに出久の肩を掴んだ。
「緑谷!」
「……僕じゃありません」
出久は震える声で言った。
「今、笑ったのは……僕じゃない」
暗闇の中で、声がした。
『正解』
出久は息を呑んだ。
『君は、まだ僕じゃない』
非常灯が点灯する。
検査室の壁に、黒い文字が浮かび上がっていた。
――兄弟殺害記録。
――第一記録。
――第二記録。
――第三記録。
記録が、次々と増えていく。
第四。
第五。
第六。
第七。
そして、最後に。
――第三十七記録。
その下に、文字が現れた。
――今回の殺害者:兄。
――今回の被害者:弟。
――被害者の名前:緑谷出久。
出久は、息ができなくなった。
「……今回?」
相澤が壁に手を伸ばす。
だが、文字は消えなかった。
さらに、もう一行。
――次回の殺害者:弟。
――次回の被害者:兄。
出久は、壁を見つめた。
「……また、繰り返すの?」
誰も答えなかった。
その問いに答えられる者は、この部屋にはいなかった。
*
4.十三年前の少年
その日の夕方。
塚内は、緑谷久志の自宅から回収した資料を再調査していた。
映像記録。
出生証明書。
手紙。
そして、破れた写真。
どれも、十三年前の出来事を示している。
だが、日付が合わない。
映像の撮影日時は、緑谷出久の出生前。
それなのに、映像の中には、十歳前後の少年が映っていた。
少年は、緑谷出久と同じ顔をしていた。
物理的に考えれば、あり得ない。
出生前の人間が、十歳の姿で現れるはずがない。
しかし、映像は本物だった。
映像機器の製造番号。
病院の設備記録。
当時の電源供給記録。
どれも偽造された形跡がない。
塚内は、映像を何度も見返した。
そして、あることに気づいた。
映像の中の少年は、病室に入る直前、廊下の時計を見ている。
午前二時十三分。
少年は、時計を見つめたまま、何かを呟いていた。
音声を最大まで増幅する。
ノイズを除去する。
複数の解析方式で再生する。
ようやく、声が聞き取れた。
『……間に合わなかった』
塚内は、再生を止めた。
もう一度、聞く。
『間に合わなかった』
少年は、病室の扉を開ける前に、そう呟いていた。
つまり。
少年は、何かに間に合わなかったのだ。
何に?
弟の誕生に?
兄の死に?
それとも。
世界が再構築される瞬間に?
塚内は、記録を拡大した。
少年の右手。
そこには、刃物が握られていた。
刃物の柄に、何かが刻まれている。
文字だった。
映像を拡大する。
画質を補正する。
そして、塚内は、その文字を読み取った。
――第零個体。
塚内は、すぐに相澤へ連絡した。
「先生。緊急です」
『どうした』
「十三年前の映像に映っていた少年ですが、手に持っていた刃物に文字が刻まれていました」
『何と書いてあった』
「第零個体です」
電話の向こうで、沈黙があった。
相澤が、低い声で尋ねた。
『……それは、確かか』
「はい。間違いありません」
『ほかには』
塚内は、映像をもう一度確認した。
「少年は、病室に入る前に『間に合わなかった』と言っています」
『何に間に合わなかったんだ』
「わかりません。ただ、もう一つ……」
塚内は、映像の最後の部分を切り出した。
「少年が病室から出ていくとき、廊下の時計が一瞬だけ、二時十四分を示しています」
『二時十四分?』
「はい。ですが、すぐに二時十三分へ戻ります」
相澤の声が険しくなった。
『その映像を、緑谷に見せるな』
「……先生?」
『今すぐ、すべての記録を隔離しろ。緑谷には見せるな。誰にも再生させるな』
「しかし、先生。これは事件の核心に関わる可能性が……」
『わかっている』
相澤は、静かに言った。
『だからこそ、見せるな』
電話が切れた。
塚内は、画面を見つめた。
映像の中の少年は、病室の扉を閉めたあと、カメラに向かって顔を上げていた。
まるで。
未来の誰かが、この映像を見ることを知っているかのように。
そして。
少年は、唇を動かした。
音声には残っていない。
だが、塚内は、その言葉を読み取ることができた。
――次は、君の番だ。
*
5.兄を知らない弟
夜。
出久は、医療棟のベッドに座っていた。
窓の外には、雄英高校の校舎が見える。
廊下を歩く生徒たちの声。
遠くで鳴る警報の試験音。
いつもの日常が、少しずつ戻ってきていた。
それでも、出久の中には、空白が残っていた。
兄の顔。
兄の声。
兄の記憶。
それらを思い出すたびに、何かが欠けていく。
自分の記憶が消えていくのか。
兄の記憶が消えていくのか。
それとも。
自分と兄の境界が、消えていくのか。
わからなかった。
出久は、枕元のノートを開いた。
お茶子が、これまでの記録をまとめてくれたものだった。
そこには、いくつもの名前が書かれている。
緑谷出久。
御影出久。
第零個体。
第一子。
第二子。
第三子。
そして、何度も書き直された文章。
出久は、最後のページにペンを走らせた。
『第三十一話』
思わず、自分で苦笑した。
物語でもあるまいし。
けれど、こうでもしなければ、自分が今どこにいるのか、わからなくなりそうだった。
出久は、文章を書き始めた。
『僕には、兄がいた』
ペンが止まった。
その一文が、本当なのかどうかさえ、わからない。
それでも、書いた。
『僕は、兄を殺したらしい』
次の一文。
『でも、兄も僕を殺したらしい』
出久は、少しだけ考えた。
『どちらが先だったのか、わからない』
さらに書く。
『どちらが兄で、どちらが弟だったのかも、わからない』
そこで、ペンが止まった。
出久は、窓の外を見た。
夜空に、星が一つだけ見えた。
「……兄さん」
誰もいない部屋で、呟く。
「君は、僕に何をしてほしいの?」
返事はなかった。
出久は、ノートに視線を戻した。
そして、最後の一行を書いた。
『僕は、君を知らない』
その瞬間。
ノートの文字が、滲んだ。
書いたばかりの文章が、ゆっくりと消えていく。
代わりに、別の文字が浮かび上がった。
『僕も、君を知らない』
出久は、息を呑んだ。
文字が続く。
『だから、僕たちは兄弟になれた』
次の一行。
『君が僕を知らなければ、僕は君を殺さずに済む』
出久は、ノートを閉じようとした。
しかし、手が動かなかった。
文字が増えていく。
『君が僕を知れば、僕は君を殺す』
『君が僕を忘れれば、僕は君を殺す』
『君が僕を愛せば、僕は君を殺す』
『君が僕を憎めば、僕は君を殺す』
最後の一行。
『君が生きている限り、僕は君を殺す』
出久は、ノートを床に落とした。
「……もう、やめてくれ」
声が震えた。
「僕は……もう、誰も殺したくない」
その瞬間。
ノートが、ひとりでに開いた。
最後のページ。
そこに、新しい文字が浮かび上がった。
『それなら、僕を殺して』
出久は、動けなかった。
『今度こそ、僕を殺して』
その文字の下に、別の筆跡が現れた。
『殺すな』
さらに、別の筆跡。
『殺せ』
また別の筆跡。
『忘れろ』
『思い出せ』
『生きろ』
『死ね』
文字が重なり、ページ全体が黒く染まっていく。
その中に、一つだけ、はっきりと読める文章があった。
『出久』
出久は、息を止めた。
『僕は、君のお兄ちゃんじゃない』
第三十話の最後に聞こえた声と、同じ言葉。
しかし、今回は違った。
その下に、続きがあった。
『僕は、君のお兄ちゃんだった』
出久は、目を見開いた。
『そして、君は僕の弟だった』
次の一行。
『でも、最初に僕を殺したのは、君じゃない』
出久は、震える手でページを押さえた。
『最初に僕を殺したのは――』
文字が止まった。
その先は、何も書かれなかった。
出久は、何度もページを見つめた。
続きを待った。
けれど、何も起こらない。
やがて、ノートの表紙がひとりでに閉じた。
出久は、深く息を吐いた。
そして、気づいた。
ノートの表紙に、見覚えのない文字が書かれていた。
――第一子の遺書。
出久は、指先でその文字をなぞった。
遺書。
兄が残した、最後の言葉。
それなのに。
その遺書は、今も書き換わり続けている。
まるで。
兄がまだ、生きているかのように。
*
6.もう一人の緑谷出久
同じ夜。
雄英高校から遠く離れた廃病院。
最上階の病室に、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
緑谷出久と同じ顔。
少年は、机の上に並べられた写真を、一枚ずつ確認していた。
一枚目。
兄と弟が並んでいる写真。
二枚目。
弟が泣いている写真。
三枚目。
兄が笑っている写真。
四枚目。
兄が死んでいる写真。
五枚目。
弟が、兄を殺している写真。
六枚目。
兄が、弟を殺している写真。
七枚目。
誰も写っていない写真。
少年は、七枚目を手に取った。
「……これで、いい」
写真を裏返す。
そこには、名前が書かれていた。
御影出久。
少年は、その名前を見つめた。
「君は、もういない」
そう言って、写真を机に戻した。
しかし。
机の上に置いた瞬間、写真の表面が揺れた。
何も写っていなかったはずの写真に、少しずつ影が現れる。
小さな手。
細い腕。
緑色の髪。
そして、少年の顔。
写真の中の少年が、こちらを見た。
『……嘘つき』
廃病院の空気が凍りついた。
少年は、目を見開いた。
「……何?」
『君は、僕を忘れたことなんて、一度もない』
写真の中の少年が笑った。
『だって、君は僕なんだから』
少年は、写真を叩き落とした。
「違う!」
声が、病室に響いた。
「僕は、君じゃない!」
『そうだね』
写真の中の少年は、穏やかに答えた。
『君は、僕じゃない』
少年は、荒い息を吐いた。
『だから、君が僕を殺した』
写真の中の少年は、笑い続けていた。
『君が僕を殺したから、僕は君になった』
少年は、両手で耳を塞いだ。
「黙れ……!」
『君が僕になったから、僕は君を殺した』
「黙れ!」
『君が僕を殺した』
「黙れ!」
『君が僕を殺した』
写真の中の少年が、声を大きくした。
『君が、僕を殺したんだ!』
少年は、写真を踏みつけた。
紙が破れる。
写真が裂ける。
それでも、声は止まらなかった。
『君が、僕を殺したんだ!』
少年は、床に膝をついた。
頭を抱える。
涙が落ちる。
「……ごめん」
彼は呟いた。
「ごめんね……」
写真の中の少年が、静かになった。
しばらくして。
『……うん』
優しい声がした。
『許してあげる』
少年は、顔を上げた。
その瞬間。
写真の中の少年の顔が、崩れた。
笑顔が消える。
目が消える。
口が消える。
輪郭が消える。
最後に残ったのは、真っ黒な影だった。
『でも、君は僕を許さない』
影が、写真の外へ這い出した。
少年は立ち上がろうとした。
しかし、足が動かない。
影が、少年の足首を掴んだ。
『君は、僕を殺した』
影が、膝を掴む。
『だから、君は僕になる』
影が、胸まで這い上がる。
『そして、君は――』
少年は、叫んだ。
「やめろおおおおおッ!」
その叫びと同時に、病室のすべての時計が止まった。
午前二時十三分。
影が、少年の身体を呑み込んだ。
静寂。
数秒後。
病室の中央に、もう一人の少年が立っていた。
同じ顔。
同じ髪。
同じ瞳。
ただし、その表情は違っていた。
新しく現れた少年は、床に落ちた写真を拾い上げた。
そして、静かに呟いた。
「……やっと、戻ってこられた」
彼は、窓の外を見た。
遠くに、雄英高校の灯りが見える。
「待っていてね、出久」
少年は笑った。
「今度こそ、君を殺さずに済むようにするから」
その手の中で、写真が燃えた。
黒い炎。
炎の中に、文字が浮かび上がる。
――第三十七回目、終了。
――第三十八回目、開始。
少年は、炎を見つめた。
「……違う」
彼は、静かに言った。
「今回は、三十七回目じゃない」
炎が揺れた。
「これは、最初からやり直すための世界じゃない」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「これは、僕が君を殺した世界だ」
そして。
少年は、初めて自分の名前を口にした。
「僕の名前は――」
その瞬間、世界中の時計が一斉に止まった。
午前二時十三分。
少年の名前だけが、記録から消えた。
*
7.父親からの電話
翌朝。
緑谷出久は、相澤に呼び出された。
対策室には、相澤と塚内が待っていた。
机の上には、古い電話が置かれている。
黒い電話。
線がつながっていないのに、何度も鳴った、あの電話。
出久は、椅子に座った。
「先生。これは……」
「昨夜、緑谷久志の自宅から回収された」
相澤は言った。
「お前の父親が、何度も使おうとしていたらしい」
「父さんが……?」
「電話の発信履歴はない。回線も存在しない。だが、受話器を取ると、音声が聞こえる」
塚内が、録音データを再生した。
最初は、ノイズだけだった。
次に、息遣い。
そして。
『……出久』
父親の声だった。
出久は、思わず身を乗り出した。
「父さん……?」
録音の中で、久志は泣いていた。
『出久。もし、この声が届いているなら……』
息が詰まる。
『お願いだ。兄さんのことを、思い出さないでくれ』
出久は、唇を噛んだ。
『あの子を思い出したら、お前はまた、あの子を殺してしまう』
音声が乱れる。
『違う。そうじゃない……』
久志の声が変わった。
『お前は、あの子を殺したことなんてない』
相澤が顔を上げた。
録音は続く。
『お前は、あの子を救おうとした』
『あの子は、お前を救おうとした』
『だから、二人とも……』
声が途切れた。
しばらく、何も聞こえない。
そして。
『……二人とも、死んだんだ』
出久は、息を止めた。
『お前が生まれる前に』
音声が乱れる。
『お前が生まれたあとに』
さらに乱れる。
『お前が生まれなかった世界で』
久志が、泣きながら言った。
『私は、何度もお前たちを失った』
出久は、目を閉じた。
『何度も、何度も、何度も……』
録音の中で、何かが倒れる音がした。
久志が、荒い息を吐く。
『だから、私は決めたんだ』
その声に、覚悟があった。
『今度こそ、どちらも選ばない』
相澤が、画面を見た。
音声が続く。
『お前たちを、兄弟にしない』
出久は、目を見開いた。
『お前たちを、親子にしない』
『お前たちを、誰にも作らせない』
久志は、はっきりと言った。
『お前たちは、最初から別々の人間だったんだ』
音声が途切れた。
数秒後。
別の声が聞こえた。
子どもの声だった。
『お父さん』
出久は、息を呑んだ。
『それは、無理だよ』
子どもの声は、優しかった。
『だって、僕たちは最初から――』
そこで録音が切れた。
塚内が、再生を止めた。
対策室は、静まり返っていた。
相澤が、ゆっくりと口を開いた。
「……緑谷」
「はい」
「お前の父親は、兄弟という関係そのものを消そうとしていた」
「……はい」
「だが、それができなかった」
出久は、頷いた。
父親は、二人を救おうとした。
どちらかを選ぶことを拒み。
どちらかを殺すことを拒み。
それでも、二人を救うことができなかった。
出久は、自分の手を見つめた。
「……先生」
「何だ」
「僕は、父さんを責められないと思います」
相澤は、何も言わなかった。
「父さんは、きっと……僕たちを救いたかったんです」
「そうだろうな」
「でも、僕たちは……」
言葉が詰まる。
「僕たちは、父さんが何をしても、どちらかが死ぬ世界に戻ってしまう」
相澤は、静かに頷いた。
「だから、俺たちが調べる」
出久は顔を上げた。
「兄弟という関係が、誰によって作られたのか。なぜ、二人の存在が一つに統合されるのか。そして……」
相澤は、最後の言葉を慎重に選んだ。
「なぜ、緑谷出久という名前が、何度も生まれてくるのか」
出久は、深く息を吸った。
「……はい」
そのとき。
黒い電話が鳴った。
全員が動きを止めた。
一回。
二回。
三回。
出久は、受話器を見つめた。
相澤が、手を伸ばそうとした。
しかし、出久が先に受話器を取った。
「……もしもし」
ノイズ。
沈黙。
そして。
『出久』
兄の声だった。
出久は、目を見開いた。
「……兄さん?」
『違うよ』
声は、穏やかだった。
『僕は、君のお兄ちゃんじゃない』
出久は、受話器を握りしめた。
「……君は、誰なんだ」
しばらく、返事はなかった。
そして。
『僕は、君が殺した人だよ』
出久は、息を止めた。
『君が、何度も殺した人』
声が、少しだけ震えた。
『君が、何度も救おうとした人』
出久の目から、涙が落ちた。
「……ごめん」
『謝らないで』
「でも……」
『謝らないで、出久』
その声は、ひどく優しかった。
『僕は、君を許している』
出久は、受話器を握りしめた。
『でも、君は僕を許していない』
電話の向こうで、誰かが泣いた。
『だから、僕たちは終われない』
出久は、震える声で尋ねた。
「……どうしたら、終われるの?」
沈黙。
そして。
『君が、僕を殺した理由を思い出したら』
電話が切れた。
出久は、受話器を耳に当てたまま動かなかった。
相澤が、ゆっくりと尋ねた。
「……誰だった」
出久は、首を横に振った。
「わかりません」
「声は、兄か」
「……たぶん」
「何と言っていた」
出久は、ゆっくりと受話器を戻した。
「僕が、兄さんを殺した理由を思い出せば、終わるって」
相澤は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「なら、そこから調べるしかない」
出久は頷いた。
自分が兄を殺した理由。
その記憶だけが、欠けている。
自分が兄を殺したという事実。
兄が自分を殺したという事実。
その二つの記憶は残っているのに。
なぜ、殺したのか。
その理由だけが、わからない。
まるで。
誰かが、その理由を知られることだけを恐れているように。
*
8.最初の殺害
その夜。
出久は、再び夢を見た。
今度は、扉がなかった。
ただ、白い部屋があった。
壁も床も天井も、すべてが白い。
中央には、椅子が二つ置かれていた。
一つは、出久のため。
もう一つは、兄のため。
出久は、椅子に座っていた。
向かいには、兄が座っていた。
顔は見えない。
だが、声は聞こえる。
「……出久」
兄が呼んだ。
「僕たちは、もう何度も同じ話をしたね」
出久は頷いた。
「……うん」
「君は、僕を救いたいと言った」
「うん」
「僕は、君を救いたいと言った」
「うん」
「そして、最後には、どちらかが死んだ」
出久は、俯いた。
「……うん」
兄は、静かに笑った。
「でも、今回は違う」
出久は顔を上げた。
「……何が?」
「今回は、君が僕を殺した理由を思い出す」
白い部屋の中央に、黒い扉が現れた。
扉には、文字が書かれていた。
――最初の殺害。
出久は、立ち上がった。
「……この向こうに、何があるの?」
「君が忘れたもの」
「兄さんの記憶?」
「違う」
兄は、首を横に振った。
「僕の名前でも、顔でもない」
出久は、扉を見つめた。
「……じゃあ、何?」
兄は、静かに答えた。
「君が、僕を殺さなければならなかった理由」
出久は、扉に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、扉の向こうから声が聞こえた。
泣き声。
子どもの声。
誰かが助けを求めている。
『出久』
その声は、兄のものではなかった。
『出久、お願い』
出久は、手を止めた。
『僕を殺して』
その言葉を聞いた瞬間。
出久の頭の中に、記憶が流れ込んだ。
血に濡れた床。
倒れた人影。
泣き叫ぶ自分。
そして。
自分の手に握られた、黒い刃。
出久は、叫んだ。
「――やめて!」
記憶が、押し寄せる。
自分が誰かを刺している。
相手は、抵抗しない。
むしろ、自分を抱きしめている。
その腕は、優しかった。
温かかった。
そして。
相手は、出久の耳元で囁いた。
『ありがとう』
出久は、目を見開いた。
『これで、君は生きられる』
黒い刃が、胸に沈む。
相手の身体が、崩れていく。
それでも、最後まで笑っていた。
『ごめんね、出久』
出久は、頭を抱えた。
「……違う……」
記憶が、さらに流れ込む。
相手の顔。
ようやく見えた。
兄だった。
自分と同じ顔をした、兄だった。
だが、その兄は。
死ぬ直前。
確かに、こう言った。
『僕を殺して』
出久は、床に膝をついた。
「……兄さん……」
兄は、椅子から立ち上がった。
「思い出した?」
出久は、顔を上げた。
「……君が、僕に……」
「うん」
「僕に、自分を殺してって……」
「うん」
「どうして……?」
兄は、静かに答えた。
「君を生かすためだよ」
出久は、首を振った。
「そんなの、間違ってる……!」
「そうだね」
「僕は、君を殺したくなかった!」
「知っているよ」
「君が死んだら、僕は……!」
言葉が続かない。
兄は、出久の前にしゃがみ込んだ。
「出久」
その声は、優しかった。
「君は、僕を殺したんじゃない」
出久は、涙を流した。
「……でも、僕が……」
「君は、僕の願いを叶えたんだ」
兄は、出久の手を取った。
「僕が、君に殺してほしいと願った」
その手は、冷たかった。
「そして、君は僕を殺した」
兄は、笑った。
「だから、僕は君を恨んでいない」
出久は、泣きながら首を振った。
「……僕は、君を恨みたい」
「うん」
「君が、そんなことを言わなければ……」
「うん」
「君が、死にたくないって言ってくれれば……」
兄の笑顔が、消えた。
しばらく、何も言わなかった。
そして。
「……僕は、生きたかったよ」
その声は、震えていた。
「本当は、生きたかった」
兄は、泣いていた。
「でも、君が死ぬ世界で、僕だけが生きることはできなかった」
出久は、兄を抱きしめた。
兄は、抵抗しなかった。
ただ、静かに泣いていた。
「……ごめん」
出久は、何度も謝った。
「ごめんね……兄さん……」
兄は、出久の背中に手を回した。
「……うん」
しばらく、二人は抱きしめ合っていた。
やがて、兄が囁いた。
「でも、出久」
「……うん?」
「君が僕を殺した理由は、それだけじゃない」
出久の身体が、固まった。
兄は、ゆっくりと顔を上げた。
「僕は、君に自分を殺してほしいと願った」
その瞳に、悲しみが浮かぶ。
「でも、君が僕を殺す前に」
兄は、出久の胸に手を当てた。
「君は、もう一人、殺していたんだ」
白い部屋の壁が、崩れ始めた。
椅子が消える。
床が割れる。
天井が落ちる。
その向こうから、無数の声が聞こえた。
『出久』
『出久』
『出久』
すべて、同じ声。
すべて、同じ名前。
兄は、出久の手を握った。
「思い出して」
出久は、首を振った。
「……何を?」
兄は、涙を流しながら笑った。
「君が、最初に殺した人のこと」
その瞬間。
出久の頭の中に、最後の記憶が流れ込んだ。
病室。
午前二時十三分。
母親の泣き声。
父親の叫び声。
そして。
生まれたばかりの赤ん坊を抱く、自分。
赤ん坊は泣いていた。
小さな手を伸ばしていた。
出久は、その赤ん坊を見つめていた。
そして、泣きながら言った。
「……ごめんね」
黒い刃が、振り下ろされた。
出久は、絶叫した。
*
9.兄が殺したもの
午前二時十三分。
雄英高校、医療棟。
緑谷出久の脳波が、急激に変化した。
心拍が乱れる。
体温が下がる。
モニターに、警告が表示される。
相澤が、ベッドの横に駆け寄った。
「緑谷!」
出久は、目を閉じたまま、何かを呟いていた。
「……ごめんね」
声が震えている。
「ごめん……」
お茶子が、手を握った。
「出久くん、聞こえる? 出久くん!」
出久は、答えない。
その口から、別の声が漏れた。
「……兄さん」
相澤の表情が変わった。
「緑谷。何を見ている」
出久は、泣きながら答えた。
「……赤ちゃん」
「赤ちゃん?」
「僕が……殺した……」
お茶子が息を呑んだ。
出久の声が、さらに震えた。
「僕が……生まれる前に……」
その瞬間、モニターに文字が浮かび上がった。
――第一殺害記録、復元。
相澤が画面を見た。
新しい文章が表示される。
――被害者:未登録個体。
――加害者:緑谷出久。
――殺害時刻:午前二時十三分。
――被害者の年齢:出生前。
塚内が駆け込んできた。
「先生!」
「これは……」
「先ほどから、同じ記録が世界中のデータベースに出現しています!」
画面に、次々と記録が表示される。
警察の記録。
病院の記録。
雄英の生徒名簿。
出生管理記録。
世界中の時計。
すべてが、同じ一文を示していた。
――緑谷出久は、出生前の個体を殺害した。
出久は、目を閉じたまま、泣いていた。
「……違う」
声が漏れる。
「僕じゃない……」
相澤が、出久の肩を掴んだ。
「緑谷。聞こえるか!」
「僕じゃ……ない……!」
「なら、誰だ!」
出久は、震えながら答えた。
「……兄さん」
その瞬間。
モニターの文字が変わった。
――訂正。
――加害者:第一子。
――被害者:第二子。
相澤は、息を呑んだ。
「……第一子が、第二子を殺した?」
塚内が、記録を確認する。
「違います。先ほどまでの記録と、逆です」
文字が、さらに変わる。
――第一子は、第二子を殺していない。
――第二子は、第一子を殺していない。
――殺害は、成立していない。
そして。
最後に、一つの文章が表示された。
――殺害されたのは、兄弟ではない。
出久の身体が、びくりと震えた。
目が開く。
緑色の瞳。
いつもの出久の瞳だった。
しかし、その瞳には、見たことのない悲しみが宿っていた。
「……先生」
相澤が顔を近づける。
「緑谷。どうした」
出久は、涙を流しながら言った。
「僕……思い出しました」
誰も、動かなかった。
「僕が、最初に殺した人」
出久は、自分の胸に手を当てた。
「それは……」
言葉が途切れる。
出久は、何度も息を吸った。
そして。
「……僕自身でした」
その瞬間。
世界中の時計が、午前二時十四分を示した。
たった一秒。
けれど、確かに。
午前二時十三分の、その先へ。
世界が進んだ。
相澤は、時計を見つめた。
塚内は、記録を確認した。
お茶子は、出久の手を握りしめた。
爆豪は、拳を握ったまま、何も言わなかった。
出久は、泣いていた。
「……僕は、兄さんを殺したんじゃない」
声が震える。
「僕は……兄さんを殺した僕を、何度も殺してきたんだ」
誰も、その意味を理解できなかった。
ただ一人。
出久だけが、理解していた。
自分が何をしたのか。
自分が何を忘れたのか。
そして。
自分が、何を繰り返してきたのか。
出久は、目を閉じた。
その暗闇の中で。
誰かが、優しく笑った。
『やっと、思い出したね』
兄の声だった。
『でも、出久』
その声が、少しだけ悲しくなる。
『君が殺したのは、君自身だけじゃない』
出久は、息を呑んだ。
『君が生まれる前に、君はもう一人の君を殺した』
そして。
『その子が、君のお兄ちゃんだったんだよ』
世界が、再び暗闇に包まれた。
*
翌朝。
緑谷出久の病室には、一枚の写真が置かれていた。
いつ、誰が持ち込んだのかはわからない。
写真には、三人の少年が写っていた。
一人目は、緑谷出久。
二人目も、緑谷出久。
三人目も、緑谷出久。
ただし、三人の顔は、少しずつ違っていた。
一人は、泣いている。
一人は、笑っている。
一人は、怒っている。
写真の裏には、短い文章が書かれていた。
『兄を殺したのは、弟ではない』
『弟を殺したのは、兄ではない』
『兄弟を殺したのは――』
最後の文字は、黒く塗りつぶされていた。
その下に、別の筆跡があった。
幼い子どもの文字。
『僕は、まだ生まれていない』
出久は、その写真を見つめた。
そして、気づいた。
三人の少年のうち、一番小さな少年。
その胸には、名札がついていた。
名前は、読めなかった。
ただ、名前の下に、小さく記された数字だけは、はっきりと見えた。
零。
その瞬間。
写真の中の少年が、こちらを見た。
そして、口を開いた。
『出久』
声は、兄のものではなかった。
出久自身の声でもなかった。
もっと幼い。
もっと弱々しい。
けれど、ひどく懐かしい声。
『僕を、忘れないで』
出久は、写真を抱きしめた。
「……忘れない」
そう答えた瞬間、写真の中の少年が泣いた。
『ありがとう』
そして。
『でも、僕を思い出したら、君は――』
写真が、真っ白になった。
文字も、少年も、何もかもが消えた。
残されたのは、紙だけだった。
出久は、その紙を見つめた。
自分は、まだ何もわかっていない。
兄の名前も。
兄が何者だったのかも。
なぜ、兄弟という関係が作られたのかも。
なぜ、自分が何度も同じ世界を生きているのかも。
そして。
なぜ、自分が生まれる前に、自分自身を殺したのかも。
何も、わかっていない。
それでも。
出久は、写真を捨てなかった。
空白になった紙を、胸元にしまった。
忘れないために。
いつか、思い出すために。
そして、もう二度と。
誰かを救うために、誰かを殺すことを選ばないために。
窓の外で、朝日が昇った。
時計が動いている。
午前六時十三分。
時間は、進んでいる。
けれど、世界のどこかで。
誰かが、まだ生まれていない子どものために泣いていた。
そして、その子どもは。
生まれる前から、すでに一人の人間を殺していた。
その人間の名前は。
緑谷出久。
――第三十一話、了。