その子どもには、出生届がなかった。
戸籍もなかった。
病院の記録にも、母子手帳にも、写真にも、どこにも存在しなかった。
ただ一つだけ。
緑谷久志の記憶の中に、その子どもはいた。
生まれる前から、死んでいた子ども。
死んでいたはずなのに、確かに泣いた子ども。
泣かなかったはずなのに、確かに笑った子ども。
世界から名前を奪われても、父親に殺されたと告げられても、それでも最後まで、自分の意思で生きようとした子ども。
そして。
その子どもを、緑谷出久は知らない。
*
「……兄さん」
出久は、そう呟いた。
目の前に立っている少年に向かって。
少年は、出久と同じ顔をしていた。
同じ緑色の髪。
同じ丸みを帯びた目。
同じ、誰かを傷つけることを恐れているような表情。
けれど、その目の奥に宿るものは、出久とは違っていた。
もっと古い。
もっと疲れている。
そして、もっと深い場所で、何かを諦めている目だった。
少年は、出久の呼びかけに答えなかった。
ただ、静かに首を横に振った。
「違うよ」
「……え?」
「僕は、君の兄さんじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、出久の胸の奥で何かが軋んだ。
理由はわからなかった。
目の前の少年を知らない。
少なくとも、出久の記憶には存在しない。
なのに。
彼が「兄さんじゃない」と言ったことが、ひどく悲しかった。
まるで、自分がずっと探していたものを、自分自身の手で拒絶してしまったような。
「でも、君は……」
出久は言葉を探した。
「僕のことを知ってるんだよね?」
「知っているよ」
「いつから?」
「君が生まれる前から」
「……生まれる前?」
「そう」
少年は、微笑んだ。
その笑顔は、あまりにも自然だった。
何度も何度も、出久に向けてきた笑顔のようだった。
けれど、その目からは涙がこぼれていた。
「僕は、君が生まれる前から、君のことを知っていた」
少年は言った。
「君が泣くところも。君が笑うところも。君が誰かを助けようとして、自分のことを後回しにするところも」
「……」
「君が、何度も自分を犠牲にしようとするところも」
出久の指先が震えた。
「それは……」
「知っているよ」
少年は繰り返した。
「君がそういう人間だってことは、ずっと知っている」
それから。
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「だから、僕は君が嫌いだった」
出久は息を呑んだ。
「……え?」
「君が嫌いだったんだ」
少年は、泣きながら笑っていた。
「だって、君は僕が助けたかった人たちを、平気で助けてしまうから」
「……」
「僕が救えなかった人を、君は救ってしまうから」
「……」
「僕が、何度世界を作り直しても届かなかった場所に、君は何も知らずに手を伸ばしてしまうから」
少年は、目を閉じた。
「君が生きているだけで、僕がやってきたこと全部が、間違いだったみたいに思えた」
出久は何も言えなかった。
少年の言葉が、胸の中に沈んでいく。
その言葉には憎しみがあった。
けれど、それ以上に。
どうしようもないほどの、悲しみがあった。
「……でも」
少年は目を開けた。
「それでも、君が生きていてくれてよかった」
その瞬間。
廊下の奥で、時計が鳴った。
午前二時十三分。
止まっていたはずの時計が。
誰も触れていないはずの時計が。
たった一度だけ、音を立てた。
カチリ。
その音と同時に、少年の姿が揺らいだ。
「っ……!」
出久が手を伸ばす。
けれど、指先は少年の身体をすり抜けた。
「待って!」
少年は、首を横に振った。
「駄目だよ」
「どうして!?」
「君が僕を覚えていないから」
「覚えていないなら、これから覚える! 君が誰なのか、僕に何があったのか、全部……!」
「それじゃ駄目なんだ」
少年の声が、初めて強くなった。
「君が僕を覚えるということは、君が僕を取り戻そうとするということだ」
「それの何が悪いんだよ!」
「君は、僕を取り戻すために、何をする?」
出久は答えられなかった。
「世界を壊す?」
「……っ」
「誰かを犠牲にする?」
「違う!」
「自分を犠牲にする?」
その問いに。
出久は、答えられなかった。
少年は、それを見て悲しそうに笑った。
「ほらね」
「……」
「君は、僕と同じなんだよ」
少年の身体が、さらに薄くなっていく。
「違う……僕は……」
「違わない」
少年は静かに告げた。
「僕も、最初はそう言った」
*
「緑谷!」
耳元で声が弾けた。
出久は目を開けた。
そこは、雄英高校の病院棟だった。
窓の外には、夜の街が広がっている。
廊下の照明は正常に点灯していた。
壁の時計は、午前二時十三分を示している。
そして。
目の前には、麗日お茶子がいた。
「出久くん!」
お茶子は、出久の肩をつかんでいた。
その手が震えている。
「よかった……! 急に倒れるから、私……!」
「お茶子ちゃん……?」
「先生、緑谷くんが目を覚ましました!」
廊下の向こうから足音が響く。
相澤消太が、眠気も疲労も吹き飛んだような顔で駆け寄ってきた。
その後ろには、爆豪勝己、轟焦凍、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百が続いている。
誰もが、出久の顔を見た瞬間に足を止めた。
爆豪が、真っ先に口を開いた。
「……おい」
「かっちゃん?」
「今、誰と話してた」
出久は、息を止めた。
「……誰って?」
「寝言じゃねえ。お前、誰かに向かって話してたんだよ」
爆豪の目が、出久の背後を睨んでいた。
「そこに、誰かいた」
出久は振り返った。
誰もいない。
白い壁。
閉じられた窓。
そして、壁に掛けられた時計。
午前二時十三分。
「……誰もいないよ」
「嘘つくんじゃねえ」
爆豪が低く言った。
「俺には見えなかった。だが、そこに誰かがいた」
「かっちゃん……」
「俺だけじゃねえ」
爆豪は、隣に立つ轟を見た。
轟が頷いた。
「俺も感じた。ここに誰かがいた。……妙な話だが、緑谷と同じ気配だった」
「同じ気配?」
「お前が二人いるような感覚だ」
轟は、慎重に言葉を選んだ。
「いや……違うな。お前が一人なのに、二人分の存在があった」
飯田が眼鏡を押し上げた。
「僕も、緑谷くんの心拍が一時的に二つ検出されたと聞いた。医療機器の誤作動かと思ったが、記録が残っている」
「二つ……?」
「君の心拍と、君とは異なる心拍だ」
八百万がタブレットを差し出した。
「こちらです。緑谷さんの心拍が停止しかけた瞬間、別の心拍が同じ波形で記録されました。完全に一致しているわけではありません。しかし、通常の双子でさえ説明できないほど、異常な一致率です」
切島が眉を寄せた。
「つまり……緑谷の中に、もう一人いるってことか?」
誰も答えなかった。
出久は、自分の胸に手を当てた。
鼓動がある。
一つだけ。
確かに、一つだけだった。
けれど。
先ほどの少年の声が、まだ耳の奥に残っている。
――僕も、最初はそう言った。
「……先生」
出久は、相澤を見た。
「僕は、誰かを忘れているんでしょうか」
相澤の表情が硬くなった。
それだけで、答えは半分わかった。
「……ああ」
相澤は、嘘をつかなかった。
「お前は誰かを忘れている」
「それは、僕の兄ですか?」
その言葉に。
廊下の空気が凍った。
お茶子が、出久の手を握った。
爆豪が歯を食いしばった。
轟は目を伏せ、飯田は何かを言いかけて口を閉じた。
相澤だけが、出久を見つめていた。
「わからない」
やがて、相澤は答えた。
「だが、お前が誰かを忘れていることは確かだ」
「……どうして、僕は忘れたんですか?」
「それを調べている」
「どうして、誰も僕に教えてくれないんですか?」
「教えられないからだ」
「どうして!」
出久の声が、廊下に響いた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
お茶子が息を呑む。
出久は唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
相澤は即座に言った。
「謝る必要はない」
「でも……」
「緑谷。お前が怒るのは当然だ。自分の記憶にない誰かが、自分の人生に深く関わっている。しかも、その誰かを知っている人間が周囲にいるのに、お前だけが知らない」
相澤は、一度目を閉じた。
「俺たちが何かを隠しているように見えるのも当然だ」
「……先生は、その人を知っているんですか?」
長い沈黙があった。
相澤は、答えた。
「……知っている、と思う」
「思う?」
「記憶が曖昧なんだ。名前も、顔も、はっきりしない。だが、忘れてはいけない誰かがいたという感覚だけが残っている」
彼は、自分の額を押さえた。
「俺は、そいつに約束をした気がする」
「どんな約束ですか?」
「……忘れない、という約束だ」
出久の胸が痛んだ。
「でも、俺は忘れた」
相澤は、苦々しそうに笑った。
「教師失格だな」
「そんなことありません!」
出久は反射的に叫んだ。
「先生が忘れたのなら、それは先生のせいじゃないかもしれない! 誰かが、何かをしたのかもしれない! だから、先生が自分を責める必要は……」
言いかけて。
出久は、言葉を止めた。
少年の顔が、脳裏に浮かんだ。
泣きながら笑っていた少年。
自分を嫌いだと言いながら、それでも生きていてよかったと告げた少年。
出久は、知らない。
彼が誰なのか。
何を失ったのか。
何を救おうとして、何を壊したのか。
何より。
どうして、自分にあんな顔を向けたのか。
「……先生」
出久は、ゆっくりと言った。
「その人は、僕を恨んでいるんでしょうか」
相澤は、すぐには答えなかった。
やがて、彼は首を横に振った。
「わからない」
そして、続けた。
「だが、恨んでいるだけなら、お前を生かしておく理由はないはずだ」
*
同じ頃。
雄英高校の地下資料室。
立ち入りが禁止されている最奥の保管庫で、一台の端末が起動していた。
誰も操作していない。
電源は切られていた。
ネットワークにも接続されていない。
それでも画面には、文字が表示されていた。
――第零個体管理記録。
――観測対象:緑谷出久。
――現在の存在状態:安定。
――記憶欠損:進行中。
――同一個体との接触:確認。
――接触対象:未登録。
画面が一度、明滅した。
新しい行が追加される。
――接触対象は、対象個体の兄である可能性が高い。
その文字が表示された直後。
別の行が、勝手に書き換わった。
――訂正。
――接触対象は、対象個体の兄ではない。
――対象個体が兄と認識する以前に、対象個体の兄は死亡している。
数秒後。
さらに新しい文字が浮かんだ。
――訂正。
――死亡という表現は不適切。
――対象個体の兄は、出生していない。
端末が、低く唸った。
――記録を再確認。
――第一子:御影出久。
――出生時刻:午前二時十三分。
――死亡時刻:午前二時十三分。
――出生証明:なし。
――死亡証明:あり。
――死亡原因:未登録。
――死亡者の年齢:出生前。
画面が暗くなった。
その中央に、白い文字が浮かんだ。
――生まれる前に死んだ子どもは、誰の子どもなのか。
誰もいない資料室で。
誰も答えなかった問いが、静かに表示され続けていた。
*
「御影出久……」
緑谷久志は、その名前を口にした。
手元には、一枚の写真があった。
古い写真だった。
端が黄ばんでいる。
画面には、病院のベッドに横たわる久志と、隣に立つ妻の引子が写っていた。
引子は、赤ん坊を抱いている。
久志は、その赤ん坊を見て笑っていた。
何の変哲もない、ありふれた家族写真。
ただし。
赤ん坊が、二人いた。
引子の腕の中に一人。
久志の腕の中に一人。
どちらも、同じ顔をしていた。
写真の裏には、日付が記されている。
出久が生まれた日。
そして、その下に。
誰かが、鉛筆で小さく書き込んでいた。
――二人とも、生まれた。
――一人だけ、生きた。
久志の手が震えた。
「……違う」
彼は呟いた。
「違うんだ……」
自分に言い聞かせるように。
「私は……あの子を殺したかったわけじゃない」
写真の中の久志は、笑っていた。
あの日の自分は、何も知らなかった。
子どもが二人いることを、喜んでいた。
妻が疲れ切った顔で、それでも笑っていたことを覚えている。
医師が、二人の子どもを見て困惑していたことも覚えている。
そして。
午前二時十三分。
病院の時計が止まったことも。
あの日、最初に泣いたのは、どちらだったのか。
久志には、もうわからなかった。
記憶の中では、二人とも泣いていた。
一人は大きな声で。
もう一人は、声を出さずに。
医師は言った。
『一人は正常です。もう一人は……』
そこで、記憶が途切れる。
いや。
途切れているのではない。
何かが、そこを塞いでいる。
久志は、写真を握りしめた。
「……引子」
妻の名前を呼ぶ。
返事はない。
彼女は、ここにはいない。
それでも久志は、話しかけずにはいられなかった。
「君は……あの子のことを覚えていたのか?」
写真の中の引子は、赤ん坊を抱いていた。
笑っていた。
その笑顔が。
急に、ひどく恐ろしく見えた。
*
「緑谷久志さん」
背後から声がした。
久志は振り返った。
そこに、一人の女性が立っていた。
黒い服。
青白い顔。
長い髪。
そして、顔の半分を覆い隠すような影。
以前、久志の前に現れた女だった。
御影出久の母親を名乗った女。
久志に告げた女。
――あなたは、私の息子を二度殺したんです。
久志は立ち上がった。
「……君は、何者なんだ」
「前にも答えました」
「君は、引子なのか?」
女は黙っていた。
「それとも……」
久志は、言葉を探した。
「御影出久を産んだ母親なのか?」
女の顔から、表情が消えた。
長い沈黙。
そして。
「あなたは、まだその質問をするんですね」
女は、静かに言った。
「母親という言葉が、何を意味するのかも知らないまま」
「……どういう意味だ」
「子どもを産んだ人間が、必ずしもその子どもの母親になるとは限りません」
「……」
「子どもを育てた人間が、必ずしもその子どもを愛していたとも限りません」
女は一歩、近づいた。
「そして、子どもを殺した人間が、必ずしもその子どもを憎んでいたとも限らない」
久志の喉が鳴った。
「君は……何を知っている?」
「知っていますよ」
女は、答えた。
「あなたが、あの子を抱き上げたことも」
「……」
「あの子が、あなたの指を握ったことも」
「……」
「あの子が、初めて笑ったことも」
女の声が、少しだけ震えた。
「あなたが、あの子に名前を与えたことも」
久志は、何も言えなかった。
「そして」
女は続けた。
「あなたが、その名前を世界から隠したことも」
久志の顔から血の気が引いた。
「……私は、あの子を守ろうとした」
「ええ」
女は頷いた。
「あなたは、守ろうとした」
そして。
「だからこそ、あなたはあの子を殺したんです」
久志は、目を見開いた。
「……違う!」
「違いません」
「私は、あの子を……!」
「生かすために、存在を隠した」
「……!」
「名前を与え、記憶し、世界があの子を消そうとするたびに、あなたはあの子を思い出した」
女は、久志の手元を見た。
「あなたが覚えている限り、あの子は存在できた」
「そうだ……!」
「では、あなたが忘れたら?」
久志の口が止まった。
「あなたが死んだら?」
「……」
「あなたが、あの子を守れなくなったら?」
女は、淡々と尋ねた。
「そのとき、あの子はどうなるのですか?」
久志は答えられなかった。
女は、悲しそうに目を伏せた。
「あなたは、あの子を生かすために、あなた自身を世界の錨にした」
「……」
「でも、あの子が生きるために必要だったのは、あなた一人の記憶ではなかった」
女は、顔を上げた。
「あなたは、あの子に家族を与えた」
「……」
「けれど、あの子から家族を奪った」
久志は、写真を握りしめた。
「……あの子は、私を恨んでいるのか」
女は、すぐには答えなかった。
やがて。
「恨んでいました」
久志は目を閉じた。
「そうか……」
「あなたを恨み、世界を恨み、自分の存在を恨んでいました」
「……」
「そして、あなたを許そうとしました」
久志は目を開けた。
「……許そうと?」
「ええ」
女は言った。
「あの子は、あなたを許すために、自分が何をされたのかを忘れようとした」
その言葉は、久志の胸に刃のように突き刺さった。
「……そんなことを、頼んだ覚えはない」
「そうでしょうね」
「私は、あの子にそんなことを……」
「でも、あなたはあの子に言った」
女は、久志の目を見つめた。
「『お前は、私の息子だ』と」
久志の呼吸が止まった。
「あなたにとっては、愛情を伝える言葉だったのでしょう」
「……」
「けれど、あの子にとっては、違った」
女の声が、わずかに低くなる。
「自分が誰なのかを決める権利さえ、父親に奪われたように感じたのです」
久志は、首を横に振った。
「私は……そんなつもりでは……」
「ええ。あなたは、そんなつもりではなかった」
女は、静かに繰り返した。
「あなたはいつも、そんなつもりではなかった」
その言葉に。
久志は、何も言い返せなかった。
「……あの子は、今どこにいる?」
ようやく、それだけを尋ねた。
女は答えた。
「あなたの息子の中です」
久志は、息を呑んだ。
「緑谷出久の中に……?」
「いいえ」
女は首を横に振った。
「あなたは、また間違えている」
「……何がだ」
「御影出久は、緑谷出久の中にいるのではありません」
女は、ゆっくりと言った。
「緑谷出久が、御影出久の中にいるのです」
その瞬間。
写真の表面に、ひびが走った。
久志の腕の中で、二人の赤ん坊が写った写真が、中央から裂けていく。
引子の腕の中にいた赤ん坊が消えた。
久志の腕の中にいた赤ん坊も消えた。
写真に残ったのは。
空っぽの病院のベッドだけだった。
「……ああ」
久志は、声を漏らした。
「そうか……」
女は、彼を見ていた。
久志の目から、涙がこぼれた。
「私は……誰を抱いていたんだ?」
女は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
あるいは。
その答えを、久志自身が知っていたのかもしれない。
*
病院棟に戻った出久は、一人で窓の外を見ていた。
お茶子は、隣に座っている。
相澤たちは、別室で記録の解析を続けていた。
出久は、ずっと考えていた。
自分には兄がいたのだろうか。
自分は、その兄を忘れてしまったのだろうか。
それとも。
そもそも、兄など存在しなかったのだろうか。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「僕に、兄さんがいたと思う?」
お茶子は、すぐには答えなかった。
出久は、苦笑した。
「ごめん。変な質問だよね」
「ううん」
お茶子は、首を横に振った。
「変じゃないよ」
「……」
「私も、考えてたから」
彼女は、膝の上に置いていたノートを開いた。
見覚えのあるノートだった。
以前から、何度も出久が見てきたもの。
御影出久に関する記録。
お茶子が、彼を忘れないために書き続けているノート。
「これね」
お茶子は、ページをめくった。
「私が書いたものなんだけど、時々、知らない文字が増えているんだ」
「知らない文字?」
「うん。私が書いた覚えのない文章が、いつの間にか増えているの」
彼女は、あるページを開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
――僕には、兄さんがいた。
――兄さんは、僕を守ってくれた。
――兄さんは、僕のために死んだ。
――僕は、兄さんを救いたかった。
――だから、世界を作り直した。
出久は、文字を見つめた。
「……これ、誰が書いたの?」
「わからない」
お茶子は首を横に振った。
「でも、私の字なんだ」
確かに、彼女の字だった。
丸みのある文字。
少し右に傾いた、見慣れた筆跡。
お茶子は、次のページを開いた。
そこには、さらに小さな文字が並んでいた。
――兄さんは、僕のために死んだのではない。
――兄さんは、僕が生まれる前に死んだ。
――だから、僕は兄さんを救えなかった。
――僕は、兄さんが死ぬ前に生まれることさえ、できなかった。
出久は、呼吸を忘れた。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「これを書いた人は……」
「出久くんだと思う」
お茶子は、静かに言った。
「でも、今の出久くんじゃない」
出久は、ページを見つめた。
文字の下に、何かが書かれている。
鉛筆で、何度も何度も塗りつぶされた跡。
消しゴムで擦られた紙の繊維。
その下に。
かろうじて、文字が残っていた。
――僕は、兄さんを殺した。
出久の指先が冷たくなった。
「……違う」
口から、勝手に言葉がこぼれた。
「僕は……そんなこと……」
「出久くん」
「僕は、誰かを殺した覚えなんてない……!」
「うん」
お茶子は、出久の手を握った。
「わかってる」
「僕は……!」
「わかってるよ」
彼女は、繰り返した。
「今の出久くんが、誰かを殺したいと思っているわけじゃないってことは、わかってる」
その言葉に、出久は顔を上げた。
お茶子は、まっすぐに出久を見ていた。
「でもね」
彼女は、言った。
「出久くんが覚えていないことと、出久くんがしていないことは、同じじゃないんだと思う」
出久は、言葉を失った。
それは、残酷な言葉だった。
けれど。
お茶子は、出久を責めてはいなかった。
「私も、怖いよ」
彼女は、小さく笑った。
「出久くんが、私の知らない誰かになってしまうんじゃないかって」
「……」
「私が知っている出久くんと、どこかで別の出久くんが、同じ名前を持っているんじゃないかって」
彼女の手が、少し震えた。
「でも、私は……」
お茶子は、出久の手を強く握った。
「どんな出久くんでも、何があったとしても、今ここにいる出久くんを、勝手にいなかったことにはしたくない」
出久の目から、涙がこぼれた。
「……ありがとう」
「うん」
「でも、僕は……」
出久は、ノートに目を落とした。
「もし本当に、僕が誰かを殺したのなら」
声が震える。
「その人に、謝りたい」
お茶子は、何も言わなかった。
「僕が覚えていなくても、その人が僕を恨んでいても……」
出久は、唇を噛んだ。
「僕が、どんな理由でそうしたとしても」
それから。
「その人が、生きたかったのなら」
出久は、涙を拭った。
「僕は、その人が生きたかったことを、なかったことにしたくない」
ノートのページが、風もないのにめくれた。
最後のページ。
そこには、今まで見たことのない文章があった。
お茶子が息を呑む。
出久は、文字を読み上げた。
「……『兄さんは、僕を許さなくていい』」
次の行。
「『兄さんは、僕を覚えていなくていい』」
その下。
「『兄さんは、僕を知らないままでいい』」
出久は、ページをめくろうとした。
だが、そこに続く文章はなかった。
ページの下端に、小さな文字が一つだけ残っていた。
――ただし。
出久は、その文字を見つめた。
次の瞬間。
ノートの紙面に、文字が浮かび上がった。
まるで、見えない誰かが、今この瞬間に書いているように。
――ただし、兄さんが僕を殺したことだけは、忘れないで。
出久の心臓が、強く跳ねた。
お茶子が、息を止める。
紙面に、さらに文字が現れた。
――僕が生まれる前に、兄さんは死んだ。
――兄さんが生まれる前に、僕は死んだ。
――だから、僕たちは一度も兄弟になれなかった。
最後の一行が、ゆっくりと書き加えられた。
――それでも、僕は兄さんが好きだった。
その瞬間。
出久の頭の中で、何かが弾けた。
*
暗い部屋。
白いベッド。
窓のない病室。
そこに、二人の子どもがいた。
一人は、まだ幼い。
緑色の髪。
大きな瞳。
そして、泣きじゃくる顔。
もう一人は、少し年上だった。
同じ緑色の髪。
同じ瞳。
けれど、その身体は透けていた。
「……兄さん」
幼い出久が、泣いていた。
「兄さん、起きてよ……」
ベッドの上の少年は、目を閉じていた。
呼吸はない。
心臓も動いていない。
医師たちは、彼を死んだ子どもとして扱っていた。
けれど、幼い出久にはわかっていた。
兄は、死んでいない。
まだ、ここにいる。
「兄さん……お願い……」
幼い出久は、少年の手を握った。
「僕を置いていかないで……」
その手は、冷たかった。
幼い出久は、何度も何度も呼びかけた。
「兄さん!」
返事はなかった。
それでも。
幼い出久は、泣きながら言った。
「僕が、代わりに死ぬから……!」
その言葉を聞いた瞬間。
ベッドの上の少年が、目を開けた。
そして。
「駄目だよ」
優しく、笑った。
「出久」
幼い出久が、顔を上げた。
「……兄さん?」
「君は、生きて」
「でも……!」
「君は、生きなきゃいけない」
少年は、手を伸ばした。
透けた指先が、幼い出久の頬に触れる。
「僕の分まで、なんて言わない」
「……」
「僕のために、なんて言わない」
少年は、笑った。
「ただ、君が生きたいと思う人生を、生きてほしい」
幼い出久は、首を横に振った。
「嫌だ……!」
「出久」
「兄さんがいないなら、僕は……!」
「駄目だよ」
少年は、もう一度言った。
「君は、僕を助けるために生まれてきたんじゃない」
幼い出久は、泣き続けた。
「僕は、君のお兄ちゃんだ」
少年は、告げた。
「君が生まれる前から、ずっと」
そして。
「だから、僕のために死なないで」
幼い出久の身体が、光に包まれた。
病室の時計が、午前二時十三分を指していた。
少年は、幼い出久を見つめていた。
その顔には、悲しみがあった。
安堵があった。
そして、何かを決めた人間だけが持つ、静かな覚悟があった。
「……ごめんね」
少年は、囁いた。
「僕は、君を救えなかった」
幼い出久の姿が消えた。
病室には、少年だけが残された。
彼は、閉じていく世界を見ていた。
世界の輪郭が崩れていく。
人々の記憶が消えていく。
家族の写真が白紙になる。
戸籍から名前が消える。
そして。
少年自身の存在が、世界から剥がれ落ちていく。
それでも。
少年は、最後まで笑っていた。
「……出久」
その名前を、愛おしそうに呼んだ。
「君は、僕を忘れていい」
世界が、音もなく崩れた。
「僕がいなくても、君が生きているなら」
少年は、目を閉じた。
「それでいい」
午前二時十三分。
最初の世界が、終わった。
*
「――っ!」
出久は、病院のベッドの上で跳ね起きた。
全身が汗で濡れていた。
呼吸が乱れる。
胸が痛い。
頭が割れそうだった。
「出久くん!」
お茶子が、彼の肩を支えた。
相澤たちが、駆け込んでくる。
「緑谷!」
「おい、何があった!」
爆豪が叫んだ。
けれど、出久は答えられなかった。
彼は、ただ自分の手を見ていた。
その手は、小さかった。
夢の中で。
幼い自分が、誰かの手を握っていた。
冷たい手。
動かない手。
生まれる前に死んだ子どもの手。
「……兄さん」
出久は、呟いた。
誰も動かなかった。
「……僕は」
出久は、涙をこぼした。
「僕は、兄さんを……」
その先を、言えなかった。
言えば、何かが確定してしまう。
自分が知らなかった罪が。
自分が覚えていない愛情が。
そして。
自分が生まれる前に失った、たった一人の家族が。
出久は、震える声で尋ねた。
「……僕には、本当に兄さんがいたんですか?」
誰も答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
そのとき。
病院棟のすべての時計が、一斉に動き出した。
午前二時十三分。
秒針が、一つ進む。
二時十四分。
もう一つ。
二時十五分。
止まっていた時間が、再び動き始めた。
お茶子が時計を見上げる。
飯田が、驚愕に目を見開く。
轟は窓の外を見た。
夜明け前の空が、わずかに明るくなっていた。
「……時間が」
飯田が呟く。
「動いている……!」
けれど、出久は時計を見ていなかった。
彼は、自分の手を見つめていた。
そこに。
見覚えのない文字が浮かび上がっていたからだ。
血のように赤い文字。
皮膚の内側から滲み出るような文字。
出久は、それを読んだ。
――第一子、御影出久。
――死亡確認。
――第二子、緑谷出久。
――死亡確認。
――第三子、緑谷出久。
――生存確認。
出久の喉が、ひゅっと鳴った。
「……第三子?」
文字が消える。
代わりに、新しい文章が現れた。
――現在の対象個体は、第三子ではない。
――第三子が、現在の対象個体である。
出久は、目を見開いた。
「何……これ……」
さらに、最後の一行が浮かび上がった。
――第一子を殺したのは、第二子ではない。
――第二子を殺したのは、第一子ではない。
――第三子を生かしたのは、父親ではない。
そして。
その下に、誰かが手書きで書き加えたような文字が現れた。
――出久。
――君は、まだ兄さんを知らない。
出久の目から、涙が落ちた。
――だから、これから知ることになる。
――君が生まれる前に、誰が君を殺したのか。
――君が生まれた後に、誰が君を生かしたのか。
――そして。
最後の文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
――君が生まれるために、誰が生まれることを諦めたのか。
出久は、声を失った。
その瞬間。
病院のスピーカーから、ノイズが流れた。
誰も接続していないはずの放送設備。
電源は切られていた。
それでも、声が響いた。
少年の声だった。
先ほど夢の中で聞いた声と、同じ声だった。
『……出久』
出久は顔を上げた。
『聞こえる?』
「……兄さん?」
その呼びかけに、相澤が振り向いた。
爆豪が歯を食いしばった。
お茶子は、出久の手を握りしめた。
スピーカーの向こうで、少年が小さく笑った。
『違うよ』
あの言葉だった。
先ほども聞いた言葉。
『僕は、君の兄さんじゃない』
出久は、首を横に振った。
「……そんなこと、ない」
『出久』
「君は……僕の兄さんだ」
沈黙。
それから。
『……そっか』
少年は、泣きそうな声で言った。
『君は、そう思ってくれるんだね』
ノイズが強くなった。
『でも、駄目だよ』
「どうして!」
『だって、僕は――』
声が途切れた。
数秒の沈黙。
そして。
スピーカーから、別の声が流れた。
少年の声ではない。
もっと低く、もっと古く、もっと人間の感情から遠い声。
『記録を訂正する』
室内の照明が消えた。
窓の外の街明かりが、ひとつずつ消えていく。
時計が、再び午前二時十三分で止まった。
『第一子、御影出久』
『第二子、緑谷出久』
『第三子、緑谷出久』
『いずれも、死亡済み』
相澤が、出久の前に立った。
「全員、緑谷から離れろ!」
だが、声は止まらなかった。
『現在の緑谷出久は、第四子である』
出久は、息を呑んだ。
第四子。
その数字は、これまでの記録にはなかった。
少なくとも、出久が知っている記録には。
『訂正』
声が続いた。
『第四子は、現在の緑谷出久ではない』
『現在の緑谷出久は、第五子である』
爆豪が叫んだ。
「ふざけんな! 何人いやがるんだ!」
返事はなかった。
代わりに、スピーカーから一つの質問が流れた。
『緑谷出久』
その声は、出久だけに向けられていた。
『あなたは、自分が何人目の子どもなのかを知りたいですか』
出久は、震えながら答えた。
「……知りたい」
『あなたは、自分が何回生まれたのかを知りたいですか』
「……知りたい」
『あなたは、自分が何回死んだのかを知りたいですか』
出久は、目を閉じた。
怖かった。
答えを知るのが怖かった。
けれど、それ以上に。
自分の知らないところで、誰かが何度も死んでいることが怖かった。
「……知りたい」
出久は、答えた。
「全部、知りたい」
スピーカーの向こうで、何かが笑った。
『了解した』
照明が、一斉に点灯した。
時計が動き出した。
午前二時十四分。
世界が、再び動き始める。
けれど、最後に。
出久の耳元で、誰かが囁いた。
スピーカーではない。
隣にいるお茶子でもない。
頭の中でもない。
すぐ背後から聞こえた声だった。
『じゃあ、出久』
出久は振り返った。
そこには、誰もいなかった。
ただ。
白い壁に、子どもの手形が一つ残っていた。
その手形は、出久の手と同じ大きさだった。
そして、その隣に。
小さな文字が書かれていた。
――生まれる前に死んだ子どもは、誰にも殺されていない。
――生まれる前に死んだ子どもは、誰にも救われていない。
――生まれる前に死んだ子どもは、誰の兄にもなれない。
最後の一行だけ、筆跡が違っていた。
少し不器用で、幼い文字。
それでも、確かに。
誰かが、必死に書き残した文字だった。
――それでも僕は、君の兄さんになりたかった。
出久は、その場に崩れ落ちた。
そして、初めて。
自分が知らない誰かのために、声を上げて泣いた。
*
同じ時刻。
世界のどこにも存在しない場所。
白い部屋の中央に、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
緑色の瞳。
出久と同じ顔。
少年の目の前には、無数の扉が並んでいる。
扉の向こうには、無数の世界があった。
ヒーローが存在する世界。
ヒーローが存在しない世界。
緑谷出久がオールマイトと出会った世界。
緑谷出久が個性を持って生まれた世界。
緑谷出久が生まれなかった世界。
そして。
緑谷出久が、兄を救えた世界。
少年は、その最後の扉を見つめた。
扉には、名前が刻まれていた。
――御影出久。
少年は、その名前に触れた。
「……兄さん」
その声は、出久のものと同じだった。
けれど、誰かを呼ぶ声ではなかった。
誰かを失った人間が、もう二度と届かない相手に向けて、最後に残した声だった。
「ごめんね」
少年は、扉に額を寄せた。
「僕は、君を救えなかった」
扉の向こうから、かすかな音がした。
ノックだった。
一度。
二度。
三度。
少年は、顔を上げた。
「……兄さん?」
返事はない。
ただ、扉の向こうから。
誰かが、静かに笑った。
少年は、震える手で扉を開けた。
その向こうにいたのは。
少年自身だった。
いや。
少年と同じ顔をした、もっと幼い子どもだった。
その子どもは、少年を見上げた。
「……ねえ」
幼い子どもが尋ねた。
「僕は、何番目?」
少年は答えられなかった。
幼い子どもは、首を傾げた。
「僕は、誰の子ども?」
少年は、唇を噛んだ。
「僕は……」
「僕は、誰の兄さん?」
少年の目から、涙が落ちた。
幼い子どもは、笑った。
「ねえ」
その声は、ひどく優しかった。
「僕が生まれなかったら、みんな幸せだった?」
少年は、膝をついた。
「……違う」
「本当に?」
「違うんだ……!」
少年は、幼い子どもを抱きしめようとした。
けれど、腕はすり抜けた。
幼い子どもの身体は、光の粒になって崩れていく。
「……僕は、君に生きてほしかった」
少年は泣きながら言った。
「君が生まれてきてくれて、嬉しかったんだ」
幼い子どもは、笑った。
「じゃあ、どうして僕は死んだの?」
少年は、答えられなかった。
「どうして、僕の名前はないの?」
答えられなかった。
「どうして、兄さんは僕を知らないの?」
少年は、顔を覆った。
そして。
幼い子どもが、最後に尋ねた。
「どうして、僕を殺したの?」
世界が、止まった。
無数の扉が、一斉に閉じた。
白い部屋の照明が消えた。
少年は、顔を上げた。
幼い子どもは、もういなかった。
床には、小さな紙切れが落ちていた。
少年は、それを拾った。
紙には、たった一行だけ書かれていた。
――僕が死んだ理由を、君は知っている。
少年は、その文字を見つめた。
やがて。
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
誰もいない部屋で。
少年は答えた。
「知っているよ」
そして。
「僕が、君を殺したんだ」
その言葉と同時に。
世界のどこかで、新しい記録が生まれた。
記録番号、零。
対象者、緑谷出久。
記録内容――。
第一子、御影出久の死因。
殺害者、未登録。
ただし、殺害者は被害者と同一人物である。
その下に、最後の一文が記された。
――なお、被害者は殺害者より先に生まれている。
矛盾していた。
あり得ない記録だった。
けれど、その記録は消えなかった。
消せなかった。
なぜなら。
それを記録したのが、世界そのものだったからだ。
そして、世界は知っていた。
生まれる前に死んだ子どもがいる。
その子どもを殺したのは、まだ生まれていなかった弟だった。
その弟は、兄を救うために何度も生まれ直した。
兄は、弟を生かすために何度も死んだ。
二人は、互いを救おうとした。
そのたびに。
どちらかが、存在しなくなった。
それでも。
最後に残った問いだけは、何度世界を作り直しても消えなかった。
――もし、あの日。
――最初に生まれた子どもが、死ななかったなら。
――今、緑谷出久と呼ばれている少年は。
――いったい、誰になっていたのだろう。
第三十二話 了