僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十二話 生まれる前に死んだ子

 

 その子どもには、出生届がなかった。

 

 戸籍もなかった。

 

 病院の記録にも、母子手帳にも、写真にも、どこにも存在しなかった。

 

 ただ一つだけ。

 

 緑谷久志の記憶の中に、その子どもはいた。

 

 生まれる前から、死んでいた子ども。

 

 死んでいたはずなのに、確かに泣いた子ども。

 

 泣かなかったはずなのに、確かに笑った子ども。

 

 世界から名前を奪われても、父親に殺されたと告げられても、それでも最後まで、自分の意思で生きようとした子ども。

 

 そして。

 

 その子どもを、緑谷出久は知らない。

 

     *

 

「……兄さん」

 

 出久は、そう呟いた。

 

 目の前に立っている少年に向かって。

 

 少年は、出久と同じ顔をしていた。

 

 同じ緑色の髪。

 

 同じ丸みを帯びた目。

 

 同じ、誰かを傷つけることを恐れているような表情。

 

 けれど、その目の奥に宿るものは、出久とは違っていた。

 

 もっと古い。

 

 もっと疲れている。

 

 そして、もっと深い場所で、何かを諦めている目だった。

 

 少年は、出久の呼びかけに答えなかった。

 

 ただ、静かに首を横に振った。

 

「違うよ」

 

「……え?」

 

「僕は、君の兄さんじゃない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、出久の胸の奥で何かが軋んだ。

 

 理由はわからなかった。

 

 目の前の少年を知らない。

 

 少なくとも、出久の記憶には存在しない。

 

 なのに。

 

 彼が「兄さんじゃない」と言ったことが、ひどく悲しかった。

 

 まるで、自分がずっと探していたものを、自分自身の手で拒絶してしまったような。

 

「でも、君は……」

 

 出久は言葉を探した。

 

「僕のことを知ってるんだよね?」

 

「知っているよ」

 

「いつから?」

 

「君が生まれる前から」

 

「……生まれる前?」

 

「そう」

 

 少年は、微笑んだ。

 

 その笑顔は、あまりにも自然だった。

 

 何度も何度も、出久に向けてきた笑顔のようだった。

 

 けれど、その目からは涙がこぼれていた。

 

「僕は、君が生まれる前から、君のことを知っていた」

 

 少年は言った。

 

「君が泣くところも。君が笑うところも。君が誰かを助けようとして、自分のことを後回しにするところも」

 

「……」

 

「君が、何度も自分を犠牲にしようとするところも」

 

 出久の指先が震えた。

 

「それは……」

 

「知っているよ」

 

 少年は繰り返した。

 

「君がそういう人間だってことは、ずっと知っている」

 

 それから。

 

 彼は、少しだけ困ったように笑った。

 

「だから、僕は君が嫌いだった」

 

 出久は息を呑んだ。

 

「……え?」

 

「君が嫌いだったんだ」

 

 少年は、泣きながら笑っていた。

 

「だって、君は僕が助けたかった人たちを、平気で助けてしまうから」

 

「……」

 

「僕が救えなかった人を、君は救ってしまうから」

 

「……」

 

「僕が、何度世界を作り直しても届かなかった場所に、君は何も知らずに手を伸ばしてしまうから」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「君が生きているだけで、僕がやってきたこと全部が、間違いだったみたいに思えた」

 

 出久は何も言えなかった。

 

 少年の言葉が、胸の中に沈んでいく。

 

 その言葉には憎しみがあった。

 

 けれど、それ以上に。

 

 どうしようもないほどの、悲しみがあった。

 

「……でも」

 

 少年は目を開けた。

 

「それでも、君が生きていてくれてよかった」

 

 その瞬間。

 

 廊下の奥で、時計が鳴った。

 

 午前二時十三分。

 

 止まっていたはずの時計が。

 

 誰も触れていないはずの時計が。

 

 たった一度だけ、音を立てた。

 

 カチリ。

 

 その音と同時に、少年の姿が揺らいだ。

 

「っ……!」

 

 出久が手を伸ばす。

 

 けれど、指先は少年の身体をすり抜けた。

 

「待って!」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「駄目だよ」

 

「どうして!?」

 

「君が僕を覚えていないから」

 

「覚えていないなら、これから覚える! 君が誰なのか、僕に何があったのか、全部……!」

 

「それじゃ駄目なんだ」

 

 少年の声が、初めて強くなった。

 

「君が僕を覚えるということは、君が僕を取り戻そうとするということだ」

 

「それの何が悪いんだよ!」

 

「君は、僕を取り戻すために、何をする?」

 

 出久は答えられなかった。

 

「世界を壊す?」

 

「……っ」

 

「誰かを犠牲にする?」

 

「違う!」

 

「自分を犠牲にする?」

 

 その問いに。

 

 出久は、答えられなかった。

 

 少年は、それを見て悲しそうに笑った。

 

「ほらね」

 

「……」

 

「君は、僕と同じなんだよ」

 

 少年の身体が、さらに薄くなっていく。

 

「違う……僕は……」

 

「違わない」

 

 少年は静かに告げた。

 

「僕も、最初はそう言った」

 

     *

 

「緑谷!」

 

 耳元で声が弾けた。

 

 出久は目を開けた。

 

 そこは、雄英高校の病院棟だった。

 

 窓の外には、夜の街が広がっている。

 

 廊下の照明は正常に点灯していた。

 

 壁の時計は、午前二時十三分を示している。

 

 そして。

 

 目の前には、麗日お茶子がいた。

 

「出久くん!」

 

 お茶子は、出久の肩をつかんでいた。

 

 その手が震えている。

 

「よかった……! 急に倒れるから、私……!」

 

「お茶子ちゃん……?」

 

「先生、緑谷くんが目を覚ましました!」

 

 廊下の向こうから足音が響く。

 

 相澤消太が、眠気も疲労も吹き飛んだような顔で駆け寄ってきた。

 

 その後ろには、爆豪勝己、轟焦凍、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百が続いている。

 

 誰もが、出久の顔を見た瞬間に足を止めた。

 

 爆豪が、真っ先に口を開いた。

 

「……おい」

 

「かっちゃん?」

 

「今、誰と話してた」

 

 出久は、息を止めた。

 

「……誰って?」

 

「寝言じゃねえ。お前、誰かに向かって話してたんだよ」

 

 爆豪の目が、出久の背後を睨んでいた。

 

「そこに、誰かいた」

 

 出久は振り返った。

 

 誰もいない。

 

 白い壁。

 

 閉じられた窓。

 

 そして、壁に掛けられた時計。

 

 午前二時十三分。

 

「……誰もいないよ」

 

「嘘つくんじゃねえ」

 

 爆豪が低く言った。

 

「俺には見えなかった。だが、そこに誰かがいた」

 

「かっちゃん……」

 

「俺だけじゃねえ」

 

 爆豪は、隣に立つ轟を見た。

 

 轟が頷いた。

 

「俺も感じた。ここに誰かがいた。……妙な話だが、緑谷と同じ気配だった」

 

「同じ気配?」

 

「お前が二人いるような感覚だ」

 

 轟は、慎重に言葉を選んだ。

 

「いや……違うな。お前が一人なのに、二人分の存在があった」

 

 飯田が眼鏡を押し上げた。

 

「僕も、緑谷くんの心拍が一時的に二つ検出されたと聞いた。医療機器の誤作動かと思ったが、記録が残っている」

 

「二つ……?」

 

「君の心拍と、君とは異なる心拍だ」

 

 八百万がタブレットを差し出した。

 

「こちらです。緑谷さんの心拍が停止しかけた瞬間、別の心拍が同じ波形で記録されました。完全に一致しているわけではありません。しかし、通常の双子でさえ説明できないほど、異常な一致率です」

 

 切島が眉を寄せた。

 

「つまり……緑谷の中に、もう一人いるってことか?」

 

 誰も答えなかった。

 

 出久は、自分の胸に手を当てた。

 

 鼓動がある。

 

 一つだけ。

 

 確かに、一つだけだった。

 

 けれど。

 

 先ほどの少年の声が、まだ耳の奥に残っている。

 

 ――僕も、最初はそう言った。

 

「……先生」

 

 出久は、相澤を見た。

 

「僕は、誰かを忘れているんでしょうか」

 

 相澤の表情が硬くなった。

 

 それだけで、答えは半分わかった。

 

「……ああ」

 

 相澤は、嘘をつかなかった。

 

「お前は誰かを忘れている」

 

「それは、僕の兄ですか?」

 

 その言葉に。

 

 廊下の空気が凍った。

 

 お茶子が、出久の手を握った。

 

 爆豪が歯を食いしばった。

 

 轟は目を伏せ、飯田は何かを言いかけて口を閉じた。

 

 相澤だけが、出久を見つめていた。

 

「わからない」

 

 やがて、相澤は答えた。

 

「だが、お前が誰かを忘れていることは確かだ」

 

「……どうして、僕は忘れたんですか?」

 

「それを調べている」

 

「どうして、誰も僕に教えてくれないんですか?」

 

「教えられないからだ」

 

「どうして!」

 

 出久の声が、廊下に響いた。

 

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 

 お茶子が息を呑む。

 

 出久は唇を噛んだ。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝るな」

 

 相澤は即座に言った。

 

「謝る必要はない」

 

「でも……」

 

「緑谷。お前が怒るのは当然だ。自分の記憶にない誰かが、自分の人生に深く関わっている。しかも、その誰かを知っている人間が周囲にいるのに、お前だけが知らない」

 

 相澤は、一度目を閉じた。

 

「俺たちが何かを隠しているように見えるのも当然だ」

 

「……先生は、その人を知っているんですか?」

 

 長い沈黙があった。

 

 相澤は、答えた。

 

「……知っている、と思う」

 

「思う?」

 

「記憶が曖昧なんだ。名前も、顔も、はっきりしない。だが、忘れてはいけない誰かがいたという感覚だけが残っている」

 

 彼は、自分の額を押さえた。

 

「俺は、そいつに約束をした気がする」

 

「どんな約束ですか?」

 

「……忘れない、という約束だ」

 

 出久の胸が痛んだ。

 

「でも、俺は忘れた」

 

 相澤は、苦々しそうに笑った。

 

「教師失格だな」

 

「そんなことありません!」

 

 出久は反射的に叫んだ。

 

「先生が忘れたのなら、それは先生のせいじゃないかもしれない! 誰かが、何かをしたのかもしれない! だから、先生が自分を責める必要は……」

 

 言いかけて。

 

 出久は、言葉を止めた。

 

 少年の顔が、脳裏に浮かんだ。

 

 泣きながら笑っていた少年。

 

 自分を嫌いだと言いながら、それでも生きていてよかったと告げた少年。

 

 出久は、知らない。

 

 彼が誰なのか。

 

 何を失ったのか。

 

 何を救おうとして、何を壊したのか。

 

 何より。

 

 どうして、自分にあんな顔を向けたのか。

 

「……先生」

 

 出久は、ゆっくりと言った。

 

「その人は、僕を恨んでいるんでしょうか」

 

 相澤は、すぐには答えなかった。

 

 やがて、彼は首を横に振った。

 

「わからない」

 

 そして、続けた。

 

「だが、恨んでいるだけなら、お前を生かしておく理由はないはずだ」

 

     *

 

 同じ頃。

 

 雄英高校の地下資料室。

 

 立ち入りが禁止されている最奥の保管庫で、一台の端末が起動していた。

 

 誰も操作していない。

 

 電源は切られていた。

 

 ネットワークにも接続されていない。

 

 それでも画面には、文字が表示されていた。

 

 ――第零個体管理記録。

 

 ――観測対象:緑谷出久。

 

 ――現在の存在状態:安定。

 

 ――記憶欠損:進行中。

 

 ――同一個体との接触:確認。

 

 ――接触対象:未登録。

 

 画面が一度、明滅した。

 

 新しい行が追加される。

 

 ――接触対象は、対象個体の兄である可能性が高い。

 

 その文字が表示された直後。

 

 別の行が、勝手に書き換わった。

 

 ――訂正。

 

 ――接触対象は、対象個体の兄ではない。

 

 ――対象個体が兄と認識する以前に、対象個体の兄は死亡している。

 

 数秒後。

 

 さらに新しい文字が浮かんだ。

 

 ――訂正。

 

 ――死亡という表現は不適切。

 

 ――対象個体の兄は、出生していない。

 

 端末が、低く唸った。

 

 ――記録を再確認。

 

 ――第一子:御影出久。

 

 ――出生時刻:午前二時十三分。

 

 ――死亡時刻:午前二時十三分。

 

 ――出生証明:なし。

 

 ――死亡証明:あり。

 

 ――死亡原因:未登録。

 

 ――死亡者の年齢:出生前。

 

 画面が暗くなった。

 

 その中央に、白い文字が浮かんだ。

 

 ――生まれる前に死んだ子どもは、誰の子どもなのか。

 

 誰もいない資料室で。

 

 誰も答えなかった問いが、静かに表示され続けていた。

 

     *

 

「御影出久……」

 

 緑谷久志は、その名前を口にした。

 

 手元には、一枚の写真があった。

 

 古い写真だった。

 

 端が黄ばんでいる。

 

 画面には、病院のベッドに横たわる久志と、隣に立つ妻の引子が写っていた。

 

 引子は、赤ん坊を抱いている。

 

 久志は、その赤ん坊を見て笑っていた。

 

 何の変哲もない、ありふれた家族写真。

 

 ただし。

 

 赤ん坊が、二人いた。

 

 引子の腕の中に一人。

 

 久志の腕の中に一人。

 

 どちらも、同じ顔をしていた。

 

 写真の裏には、日付が記されている。

 

 出久が生まれた日。

 

 そして、その下に。

 

 誰かが、鉛筆で小さく書き込んでいた。

 

 ――二人とも、生まれた。

 

 ――一人だけ、生きた。

 

 久志の手が震えた。

 

「……違う」

 

 彼は呟いた。

 

「違うんだ……」

 

 自分に言い聞かせるように。

 

「私は……あの子を殺したかったわけじゃない」

 

 写真の中の久志は、笑っていた。

 

 あの日の自分は、何も知らなかった。

 

 子どもが二人いることを、喜んでいた。

 

 妻が疲れ切った顔で、それでも笑っていたことを覚えている。

 

 医師が、二人の子どもを見て困惑していたことも覚えている。

 

 そして。

 

 午前二時十三分。

 

 病院の時計が止まったことも。

 

 あの日、最初に泣いたのは、どちらだったのか。

 

 久志には、もうわからなかった。

 

 記憶の中では、二人とも泣いていた。

 

 一人は大きな声で。

 

 もう一人は、声を出さずに。

 

 医師は言った。

 

『一人は正常です。もう一人は……』

 

 そこで、記憶が途切れる。

 

 いや。

 

 途切れているのではない。

 

 何かが、そこを塞いでいる。

 

 久志は、写真を握りしめた。

 

「……引子」

 

 妻の名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 彼女は、ここにはいない。

 

 それでも久志は、話しかけずにはいられなかった。

 

「君は……あの子のことを覚えていたのか?」

 

 写真の中の引子は、赤ん坊を抱いていた。

 

 笑っていた。

 

 その笑顔が。

 

 急に、ひどく恐ろしく見えた。

 

     *

 

「緑谷久志さん」

 

 背後から声がした。

 

 久志は振り返った。

 

 そこに、一人の女性が立っていた。

 

 黒い服。

 

 青白い顔。

 

 長い髪。

 

 そして、顔の半分を覆い隠すような影。

 

 以前、久志の前に現れた女だった。

 

 御影出久の母親を名乗った女。

 

 久志に告げた女。

 

 ――あなたは、私の息子を二度殺したんです。

 

 久志は立ち上がった。

 

「……君は、何者なんだ」

 

「前にも答えました」

 

「君は、引子なのか?」

 

 女は黙っていた。

 

「それとも……」

 

 久志は、言葉を探した。

 

「御影出久を産んだ母親なのか?」

 

 女の顔から、表情が消えた。

 

 長い沈黙。

 

 そして。

 

「あなたは、まだその質問をするんですね」

 

 女は、静かに言った。

 

「母親という言葉が、何を意味するのかも知らないまま」

 

「……どういう意味だ」

 

「子どもを産んだ人間が、必ずしもその子どもの母親になるとは限りません」

 

「……」

 

「子どもを育てた人間が、必ずしもその子どもを愛していたとも限りません」

 

 女は一歩、近づいた。

 

「そして、子どもを殺した人間が、必ずしもその子どもを憎んでいたとも限らない」

 

 久志の喉が鳴った。

 

「君は……何を知っている?」

 

「知っていますよ」

 

 女は、答えた。

 

「あなたが、あの子を抱き上げたことも」

 

「……」

 

「あの子が、あなたの指を握ったことも」

 

「……」

 

「あの子が、初めて笑ったことも」

 

 女の声が、少しだけ震えた。

 

「あなたが、あの子に名前を与えたことも」

 

 久志は、何も言えなかった。

 

「そして」

 

 女は続けた。

 

「あなたが、その名前を世界から隠したことも」

 

 久志の顔から血の気が引いた。

 

「……私は、あの子を守ろうとした」

 

「ええ」

 

 女は頷いた。

 

「あなたは、守ろうとした」

 

 そして。

 

「だからこそ、あなたはあの子を殺したんです」

 

 久志は、目を見開いた。

 

「……違う!」

 

「違いません」

 

「私は、あの子を……!」

 

「生かすために、存在を隠した」

 

「……!」

 

「名前を与え、記憶し、世界があの子を消そうとするたびに、あなたはあの子を思い出した」

 

 女は、久志の手元を見た。

 

「あなたが覚えている限り、あの子は存在できた」

 

「そうだ……!」

 

「では、あなたが忘れたら?」

 

 久志の口が止まった。

 

「あなたが死んだら?」

 

「……」

 

「あなたが、あの子を守れなくなったら?」

 

 女は、淡々と尋ねた。

 

「そのとき、あの子はどうなるのですか?」

 

 久志は答えられなかった。

 

 女は、悲しそうに目を伏せた。

 

「あなたは、あの子を生かすために、あなた自身を世界の錨にした」

 

「……」

 

「でも、あの子が生きるために必要だったのは、あなた一人の記憶ではなかった」

 

 女は、顔を上げた。

 

「あなたは、あの子に家族を与えた」

 

「……」

 

「けれど、あの子から家族を奪った」

 

 久志は、写真を握りしめた。

 

「……あの子は、私を恨んでいるのか」

 

 女は、すぐには答えなかった。

 

 やがて。

 

「恨んでいました」

 

 久志は目を閉じた。

 

「そうか……」

 

「あなたを恨み、世界を恨み、自分の存在を恨んでいました」

 

「……」

 

「そして、あなたを許そうとしました」

 

 久志は目を開けた。

 

「……許そうと?」

 

「ええ」

 

 女は言った。

 

「あの子は、あなたを許すために、自分が何をされたのかを忘れようとした」

 

 その言葉は、久志の胸に刃のように突き刺さった。

 

「……そんなことを、頼んだ覚えはない」

 

「そうでしょうね」

 

「私は、あの子にそんなことを……」

 

「でも、あなたはあの子に言った」

 

 女は、久志の目を見つめた。

 

「『お前は、私の息子だ』と」

 

 久志の呼吸が止まった。

 

「あなたにとっては、愛情を伝える言葉だったのでしょう」

 

「……」

 

「けれど、あの子にとっては、違った」

 

 女の声が、わずかに低くなる。

 

「自分が誰なのかを決める権利さえ、父親に奪われたように感じたのです」

 

 久志は、首を横に振った。

 

「私は……そんなつもりでは……」

 

「ええ。あなたは、そんなつもりではなかった」

 

 女は、静かに繰り返した。

 

「あなたはいつも、そんなつもりではなかった」

 

 その言葉に。

 

 久志は、何も言い返せなかった。

 

「……あの子は、今どこにいる?」

 

 ようやく、それだけを尋ねた。

 

 女は答えた。

 

「あなたの息子の中です」

 

 久志は、息を呑んだ。

 

「緑谷出久の中に……?」

 

「いいえ」

 

 女は首を横に振った。

 

「あなたは、また間違えている」

 

「……何がだ」

 

「御影出久は、緑谷出久の中にいるのではありません」

 

 女は、ゆっくりと言った。

 

「緑谷出久が、御影出久の中にいるのです」

 

 その瞬間。

 

 写真の表面に、ひびが走った。

 

 久志の腕の中で、二人の赤ん坊が写った写真が、中央から裂けていく。

 

 引子の腕の中にいた赤ん坊が消えた。

 

 久志の腕の中にいた赤ん坊も消えた。

 

 写真に残ったのは。

 

 空っぽの病院のベッドだけだった。

 

「……ああ」

 

 久志は、声を漏らした。

 

「そうか……」

 

 女は、彼を見ていた。

 

 久志の目から、涙がこぼれた。

 

「私は……誰を抱いていたんだ?」

 

 女は答えなかった。

 

 答えられなかったのかもしれない。

 

 あるいは。

 

 その答えを、久志自身が知っていたのかもしれない。

 

     *

 

 病院棟に戻った出久は、一人で窓の外を見ていた。

 

 お茶子は、隣に座っている。

 

 相澤たちは、別室で記録の解析を続けていた。

 

 出久は、ずっと考えていた。

 

 自分には兄がいたのだろうか。

 

 自分は、その兄を忘れてしまったのだろうか。

 

 それとも。

 

 そもそも、兄など存在しなかったのだろうか。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「僕に、兄さんがいたと思う?」

 

 お茶子は、すぐには答えなかった。

 

 出久は、苦笑した。

 

「ごめん。変な質問だよね」

 

「ううん」

 

 お茶子は、首を横に振った。

 

「変じゃないよ」

 

「……」

 

「私も、考えてたから」

 

 彼女は、膝の上に置いていたノートを開いた。

 

 見覚えのあるノートだった。

 

 以前から、何度も出久が見てきたもの。

 

 御影出久に関する記録。

 

 お茶子が、彼を忘れないために書き続けているノート。

 

「これね」

 

 お茶子は、ページをめくった。

 

「私が書いたものなんだけど、時々、知らない文字が増えているんだ」

 

「知らない文字?」

 

「うん。私が書いた覚えのない文章が、いつの間にか増えているの」

 

 彼女は、あるページを開いた。

 

 そこには、短い文章が書かれていた。

 

 ――僕には、兄さんがいた。

 

 ――兄さんは、僕を守ってくれた。

 

 ――兄さんは、僕のために死んだ。

 

 ――僕は、兄さんを救いたかった。

 

 ――だから、世界を作り直した。

 

 出久は、文字を見つめた。

 

「……これ、誰が書いたの?」

 

「わからない」

 

 お茶子は首を横に振った。

 

「でも、私の字なんだ」

 

 確かに、彼女の字だった。

 

 丸みのある文字。

 

 少し右に傾いた、見慣れた筆跡。

 

 お茶子は、次のページを開いた。

 

 そこには、さらに小さな文字が並んでいた。

 

 ――兄さんは、僕のために死んだのではない。

 

 ――兄さんは、僕が生まれる前に死んだ。

 

 ――だから、僕は兄さんを救えなかった。

 

 ――僕は、兄さんが死ぬ前に生まれることさえ、できなかった。

 

 出久は、呼吸を忘れた。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「これを書いた人は……」

 

「出久くんだと思う」

 

 お茶子は、静かに言った。

 

「でも、今の出久くんじゃない」

 

 出久は、ページを見つめた。

 

 文字の下に、何かが書かれている。

 

 鉛筆で、何度も何度も塗りつぶされた跡。

 

 消しゴムで擦られた紙の繊維。

 

 その下に。

 

 かろうじて、文字が残っていた。

 

 ――僕は、兄さんを殺した。

 

 出久の指先が冷たくなった。

 

「……違う」

 

 口から、勝手に言葉がこぼれた。

 

「僕は……そんなこと……」

 

「出久くん」

 

「僕は、誰かを殺した覚えなんてない……!」

 

「うん」

 

 お茶子は、出久の手を握った。

 

「わかってる」

 

「僕は……!」

 

「わかってるよ」

 

 彼女は、繰り返した。

 

「今の出久くんが、誰かを殺したいと思っているわけじゃないってことは、わかってる」

 

 その言葉に、出久は顔を上げた。

 

 お茶子は、まっすぐに出久を見ていた。

 

「でもね」

 

 彼女は、言った。

 

「出久くんが覚えていないことと、出久くんがしていないことは、同じじゃないんだと思う」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 それは、残酷な言葉だった。

 

 けれど。

 

 お茶子は、出久を責めてはいなかった。

 

「私も、怖いよ」

 

 彼女は、小さく笑った。

 

「出久くんが、私の知らない誰かになってしまうんじゃないかって」

 

「……」

 

「私が知っている出久くんと、どこかで別の出久くんが、同じ名前を持っているんじゃないかって」

 

 彼女の手が、少し震えた。

 

「でも、私は……」

 

 お茶子は、出久の手を強く握った。

 

「どんな出久くんでも、何があったとしても、今ここにいる出久くんを、勝手にいなかったことにはしたくない」

 

 出久の目から、涙がこぼれた。

 

「……ありがとう」

 

「うん」

 

「でも、僕は……」

 

 出久は、ノートに目を落とした。

 

「もし本当に、僕が誰かを殺したのなら」

 

 声が震える。

 

「その人に、謝りたい」

 

 お茶子は、何も言わなかった。

 

「僕が覚えていなくても、その人が僕を恨んでいても……」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「僕が、どんな理由でそうしたとしても」

 

 それから。

 

「その人が、生きたかったのなら」

 

 出久は、涙を拭った。

 

「僕は、その人が生きたかったことを、なかったことにしたくない」

 

 ノートのページが、風もないのにめくれた。

 

 最後のページ。

 

 そこには、今まで見たことのない文章があった。

 

 お茶子が息を呑む。

 

 出久は、文字を読み上げた。

 

「……『兄さんは、僕を許さなくていい』」

 

 次の行。

 

「『兄さんは、僕を覚えていなくていい』」

 

 その下。

 

「『兄さんは、僕を知らないままでいい』」

 

 出久は、ページをめくろうとした。

 

 だが、そこに続く文章はなかった。

 

 ページの下端に、小さな文字が一つだけ残っていた。

 

 ――ただし。

 

 出久は、その文字を見つめた。

 

 次の瞬間。

 

 ノートの紙面に、文字が浮かび上がった。

 

 まるで、見えない誰かが、今この瞬間に書いているように。

 

 ――ただし、兄さんが僕を殺したことだけは、忘れないで。

 

 出久の心臓が、強く跳ねた。

 

 お茶子が、息を止める。

 

 紙面に、さらに文字が現れた。

 

 ――僕が生まれる前に、兄さんは死んだ。

 

 ――兄さんが生まれる前に、僕は死んだ。

 

 ――だから、僕たちは一度も兄弟になれなかった。

 

 最後の一行が、ゆっくりと書き加えられた。

 

 ――それでも、僕は兄さんが好きだった。

 

 その瞬間。

 

 出久の頭の中で、何かが弾けた。

 

     *

 

 暗い部屋。

 

 白いベッド。

 

 窓のない病室。

 

 そこに、二人の子どもがいた。

 

 一人は、まだ幼い。

 

 緑色の髪。

 

 大きな瞳。

 

 そして、泣きじゃくる顔。

 

 もう一人は、少し年上だった。

 

 同じ緑色の髪。

 

 同じ瞳。

 

 けれど、その身体は透けていた。

 

「……兄さん」

 

 幼い出久が、泣いていた。

 

「兄さん、起きてよ……」

 

 ベッドの上の少年は、目を閉じていた。

 

 呼吸はない。

 

 心臓も動いていない。

 

 医師たちは、彼を死んだ子どもとして扱っていた。

 

 けれど、幼い出久にはわかっていた。

 

 兄は、死んでいない。

 

 まだ、ここにいる。

 

「兄さん……お願い……」

 

 幼い出久は、少年の手を握った。

 

「僕を置いていかないで……」

 

 その手は、冷たかった。

 

 幼い出久は、何度も何度も呼びかけた。

 

「兄さん!」

 

 返事はなかった。

 

 それでも。

 

 幼い出久は、泣きながら言った。

 

「僕が、代わりに死ぬから……!」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 ベッドの上の少年が、目を開けた。

 

 そして。

 

「駄目だよ」

 

 優しく、笑った。

 

「出久」

 

 幼い出久が、顔を上げた。

 

「……兄さん?」

 

「君は、生きて」

 

「でも……!」

 

「君は、生きなきゃいけない」

 

 少年は、手を伸ばした。

 

 透けた指先が、幼い出久の頬に触れる。

 

「僕の分まで、なんて言わない」

 

「……」

 

「僕のために、なんて言わない」

 

 少年は、笑った。

 

「ただ、君が生きたいと思う人生を、生きてほしい」

 

 幼い出久は、首を横に振った。

 

「嫌だ……!」

 

「出久」

 

「兄さんがいないなら、僕は……!」

 

「駄目だよ」

 

 少年は、もう一度言った。

 

「君は、僕を助けるために生まれてきたんじゃない」

 

 幼い出久は、泣き続けた。

 

「僕は、君のお兄ちゃんだ」

 

 少年は、告げた。

 

「君が生まれる前から、ずっと」

 

 そして。

 

「だから、僕のために死なないで」

 

 幼い出久の身体が、光に包まれた。

 

 病室の時計が、午前二時十三分を指していた。

 

 少年は、幼い出久を見つめていた。

 

 その顔には、悲しみがあった。

 

 安堵があった。

 

 そして、何かを決めた人間だけが持つ、静かな覚悟があった。

 

「……ごめんね」

 

 少年は、囁いた。

 

「僕は、君を救えなかった」

 

 幼い出久の姿が消えた。

 

 病室には、少年だけが残された。

 

 彼は、閉じていく世界を見ていた。

 

 世界の輪郭が崩れていく。

 

 人々の記憶が消えていく。

 

 家族の写真が白紙になる。

 

 戸籍から名前が消える。

 

 そして。

 

 少年自身の存在が、世界から剥がれ落ちていく。

 

 それでも。

 

 少年は、最後まで笑っていた。

 

「……出久」

 

 その名前を、愛おしそうに呼んだ。

 

「君は、僕を忘れていい」

 

 世界が、音もなく崩れた。

 

「僕がいなくても、君が生きているなら」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「それでいい」

 

 午前二時十三分。

 

 最初の世界が、終わった。

 

     *

 

「――っ!」

 

 出久は、病院のベッドの上で跳ね起きた。

 

 全身が汗で濡れていた。

 

 呼吸が乱れる。

 

 胸が痛い。

 

 頭が割れそうだった。

 

「出久くん!」

 

 お茶子が、彼の肩を支えた。

 

 相澤たちが、駆け込んでくる。

 

「緑谷!」

 

「おい、何があった!」

 

 爆豪が叫んだ。

 

 けれど、出久は答えられなかった。

 

 彼は、ただ自分の手を見ていた。

 

 その手は、小さかった。

 

 夢の中で。

 

 幼い自分が、誰かの手を握っていた。

 

 冷たい手。

 

 動かない手。

 

 生まれる前に死んだ子どもの手。

 

「……兄さん」

 

 出久は、呟いた。

 

 誰も動かなかった。

 

「……僕は」

 

 出久は、涙をこぼした。

 

「僕は、兄さんを……」

 

 その先を、言えなかった。

 

 言えば、何かが確定してしまう。

 

 自分が知らなかった罪が。

 

 自分が覚えていない愛情が。

 

 そして。

 

 自分が生まれる前に失った、たった一人の家族が。

 

 出久は、震える声で尋ねた。

 

「……僕には、本当に兄さんがいたんですか?」

 

 誰も答えなかった。

 

 その沈黙が、答えだった。

 

 そのとき。

 

 病院棟のすべての時計が、一斉に動き出した。

 

 午前二時十三分。

 

 秒針が、一つ進む。

 

 二時十四分。

 

 もう一つ。

 

 二時十五分。

 

 止まっていた時間が、再び動き始めた。

 

 お茶子が時計を見上げる。

 

 飯田が、驚愕に目を見開く。

 

 轟は窓の外を見た。

 

 夜明け前の空が、わずかに明るくなっていた。

 

「……時間が」

 

 飯田が呟く。

 

「動いている……!」

 

 けれど、出久は時計を見ていなかった。

 

 彼は、自分の手を見つめていた。

 

 そこに。

 

 見覚えのない文字が浮かび上がっていたからだ。

 

 血のように赤い文字。

 

 皮膚の内側から滲み出るような文字。

 

 出久は、それを読んだ。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――死亡確認。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――死亡確認。

 

 ――第三子、緑谷出久。

 

 ――生存確認。

 

 出久の喉が、ひゅっと鳴った。

 

「……第三子?」

 

 文字が消える。

 

 代わりに、新しい文章が現れた。

 

 ――現在の対象個体は、第三子ではない。

 

 ――第三子が、現在の対象個体である。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「何……これ……」

 

 さらに、最後の一行が浮かび上がった。

 

 ――第一子を殺したのは、第二子ではない。

 

 ――第二子を殺したのは、第一子ではない。

 

 ――第三子を生かしたのは、父親ではない。

 

 そして。

 

 その下に、誰かが手書きで書き加えたような文字が現れた。

 

 ――出久。

 

 ――君は、まだ兄さんを知らない。

 

 出久の目から、涙が落ちた。

 

 ――だから、これから知ることになる。

 

 ――君が生まれる前に、誰が君を殺したのか。

 

 ――君が生まれた後に、誰が君を生かしたのか。

 

 ――そして。

 

 最後の文字が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 ――君が生まれるために、誰が生まれることを諦めたのか。

 

 出久は、声を失った。

 

 その瞬間。

 

 病院のスピーカーから、ノイズが流れた。

 

 誰も接続していないはずの放送設備。

 

 電源は切られていた。

 

 それでも、声が響いた。

 

 少年の声だった。

 

 先ほど夢の中で聞いた声と、同じ声だった。

 

『……出久』

 

 出久は顔を上げた。

 

『聞こえる?』

 

「……兄さん?」

 

 その呼びかけに、相澤が振り向いた。

 

 爆豪が歯を食いしばった。

 

 お茶子は、出久の手を握りしめた。

 

 スピーカーの向こうで、少年が小さく笑った。

 

『違うよ』

 

 あの言葉だった。

 

 先ほども聞いた言葉。

 

『僕は、君の兄さんじゃない』

 

 出久は、首を横に振った。

 

「……そんなこと、ない」

 

『出久』

 

「君は……僕の兄さんだ」

 

 沈黙。

 

 それから。

 

『……そっか』

 

 少年は、泣きそうな声で言った。

 

『君は、そう思ってくれるんだね』

 

 ノイズが強くなった。

 

『でも、駄目だよ』

 

「どうして!」

 

『だって、僕は――』

 

 声が途切れた。

 

 数秒の沈黙。

 

 そして。

 

 スピーカーから、別の声が流れた。

 

 少年の声ではない。

 

 もっと低く、もっと古く、もっと人間の感情から遠い声。

 

『記録を訂正する』

 

 室内の照明が消えた。

 

 窓の外の街明かりが、ひとつずつ消えていく。

 

 時計が、再び午前二時十三分で止まった。

 

『第一子、御影出久』

 

『第二子、緑谷出久』

 

『第三子、緑谷出久』

 

『いずれも、死亡済み』

 

 相澤が、出久の前に立った。

 

「全員、緑谷から離れろ!」

 

 だが、声は止まらなかった。

 

『現在の緑谷出久は、第四子である』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 第四子。

 

 その数字は、これまでの記録にはなかった。

 

 少なくとも、出久が知っている記録には。

 

『訂正』

 

 声が続いた。

 

『第四子は、現在の緑谷出久ではない』

 

『現在の緑谷出久は、第五子である』

 

 爆豪が叫んだ。

 

「ふざけんな! 何人いやがるんだ!」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、スピーカーから一つの質問が流れた。

 

『緑谷出久』

 

 その声は、出久だけに向けられていた。

 

『あなたは、自分が何人目の子どもなのかを知りたいですか』

 

 出久は、震えながら答えた。

 

「……知りたい」

 

『あなたは、自分が何回生まれたのかを知りたいですか』

 

「……知りたい」

 

『あなたは、自分が何回死んだのかを知りたいですか』

 

 出久は、目を閉じた。

 

 怖かった。

 

 答えを知るのが怖かった。

 

 けれど、それ以上に。

 

 自分の知らないところで、誰かが何度も死んでいることが怖かった。

 

「……知りたい」

 

 出久は、答えた。

 

「全部、知りたい」

 

 スピーカーの向こうで、何かが笑った。

 

『了解した』

 

 照明が、一斉に点灯した。

 

 時計が動き出した。

 

 午前二時十四分。

 

 世界が、再び動き始める。

 

 けれど、最後に。

 

 出久の耳元で、誰かが囁いた。

 

 スピーカーではない。

 

 隣にいるお茶子でもない。

 

 頭の中でもない。

 

 すぐ背後から聞こえた声だった。

 

『じゃあ、出久』

 

 出久は振り返った。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 ただ。

 

 白い壁に、子どもの手形が一つ残っていた。

 

 その手形は、出久の手と同じ大きさだった。

 

 そして、その隣に。

 

 小さな文字が書かれていた。

 

 ――生まれる前に死んだ子どもは、誰にも殺されていない。

 

 ――生まれる前に死んだ子どもは、誰にも救われていない。

 

 ――生まれる前に死んだ子どもは、誰の兄にもなれない。

 

 最後の一行だけ、筆跡が違っていた。

 

 少し不器用で、幼い文字。

 

 それでも、確かに。

 

 誰かが、必死に書き残した文字だった。

 

 ――それでも僕は、君の兄さんになりたかった。

 

 出久は、その場に崩れ落ちた。

 

 そして、初めて。

 

 自分が知らない誰かのために、声を上げて泣いた。

 

     *

 

 同じ時刻。

 

 世界のどこにも存在しない場所。

 

 白い部屋の中央に、一人の少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 緑色の瞳。

 

 出久と同じ顔。

 

 少年の目の前には、無数の扉が並んでいる。

 

 扉の向こうには、無数の世界があった。

 

 ヒーローが存在する世界。

 

 ヒーローが存在しない世界。

 

 緑谷出久がオールマイトと出会った世界。

 

 緑谷出久が個性を持って生まれた世界。

 

 緑谷出久が生まれなかった世界。

 

 そして。

 

 緑谷出久が、兄を救えた世界。

 

 少年は、その最後の扉を見つめた。

 

 扉には、名前が刻まれていた。

 

 ――御影出久。

 

 少年は、その名前に触れた。

 

「……兄さん」

 

 その声は、出久のものと同じだった。

 

 けれど、誰かを呼ぶ声ではなかった。

 

 誰かを失った人間が、もう二度と届かない相手に向けて、最後に残した声だった。

 

「ごめんね」

 

 少年は、扉に額を寄せた。

 

「僕は、君を救えなかった」

 

 扉の向こうから、かすかな音がした。

 

 ノックだった。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 少年は、顔を上げた。

 

「……兄さん?」

 

 返事はない。

 

 ただ、扉の向こうから。

 

 誰かが、静かに笑った。

 

 少年は、震える手で扉を開けた。

 

 その向こうにいたのは。

 

 少年自身だった。

 

 いや。

 

 少年と同じ顔をした、もっと幼い子どもだった。

 

 その子どもは、少年を見上げた。

 

「……ねえ」

 

 幼い子どもが尋ねた。

 

「僕は、何番目?」

 

 少年は答えられなかった。

 

 幼い子どもは、首を傾げた。

 

「僕は、誰の子ども?」

 

 少年は、唇を噛んだ。

 

「僕は……」

 

「僕は、誰の兄さん?」

 

 少年の目から、涙が落ちた。

 

 幼い子どもは、笑った。

 

「ねえ」

 

 その声は、ひどく優しかった。

 

「僕が生まれなかったら、みんな幸せだった?」

 

 少年は、膝をついた。

 

「……違う」

 

「本当に?」

 

「違うんだ……!」

 

 少年は、幼い子どもを抱きしめようとした。

 

 けれど、腕はすり抜けた。

 

 幼い子どもの身体は、光の粒になって崩れていく。

 

「……僕は、君に生きてほしかった」

 

 少年は泣きながら言った。

 

「君が生まれてきてくれて、嬉しかったんだ」

 

 幼い子どもは、笑った。

 

「じゃあ、どうして僕は死んだの?」

 

 少年は、答えられなかった。

 

「どうして、僕の名前はないの?」

 

 答えられなかった。

 

「どうして、兄さんは僕を知らないの?」

 

 少年は、顔を覆った。

 

 そして。

 

 幼い子どもが、最後に尋ねた。

 

「どうして、僕を殺したの?」

 

 世界が、止まった。

 

 無数の扉が、一斉に閉じた。

 

 白い部屋の照明が消えた。

 

 少年は、顔を上げた。

 

 幼い子どもは、もういなかった。

 

 床には、小さな紙切れが落ちていた。

 

 少年は、それを拾った。

 

 紙には、たった一行だけ書かれていた。

 

 ――僕が死んだ理由を、君は知っている。

 

 少年は、その文字を見つめた。

 

 やがて。

 

 彼は、ゆっくりと頷いた。

 

「……うん」

 

 誰もいない部屋で。

 

 少年は答えた。

 

「知っているよ」

 

 そして。

 

「僕が、君を殺したんだ」

 

 その言葉と同時に。

 

 世界のどこかで、新しい記録が生まれた。

 

 記録番号、零。

 

 対象者、緑谷出久。

 

 記録内容――。

 

 第一子、御影出久の死因。

 

 殺害者、未登録。

 

 ただし、殺害者は被害者と同一人物である。

 

 その下に、最後の一文が記された。

 

 ――なお、被害者は殺害者より先に生まれている。

 

 矛盾していた。

 

 あり得ない記録だった。

 

 けれど、その記録は消えなかった。

 

 消せなかった。

 

 なぜなら。

 

 それを記録したのが、世界そのものだったからだ。

 

 そして、世界は知っていた。

 

 生まれる前に死んだ子どもがいる。

 

 その子どもを殺したのは、まだ生まれていなかった弟だった。

 

 その弟は、兄を救うために何度も生まれ直した。

 

 兄は、弟を生かすために何度も死んだ。

 

 二人は、互いを救おうとした。

 

 そのたびに。

 

 どちらかが、存在しなくなった。

 

 それでも。

 

 最後に残った問いだけは、何度世界を作り直しても消えなかった。

 

 ――もし、あの日。

 

 ――最初に生まれた子どもが、死ななかったなら。

 

 ――今、緑谷出久と呼ばれている少年は。

 

 ――いったい、誰になっていたのだろう。

 

第三十二話 了

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