僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十三話 兄さんを殺した僕は、誰の弟なのか

 

 人は、自分が誰かを殺したと知ったとき、どんな顔をするのだろう。

 

 泣くだろうか。

 

 叫ぶだろうか。

 

 それとも、自分の手を見つめて、そこに付着しているはずの血を探すのだろうか。

 

 緑谷出久は、わからなかった。

 

 彼は誰かを殺した記憶を持っていない。

 

 誰かの命を奪った感触も。

 

 誰かが自分の腕の中で冷たくなっていく瞬間も。

 

 誰かが、最後に自分の名前を呼んだ声も。

 

 何ひとつ覚えていない。

 

 それなのに。

 

 世界は、彼が人を殺したと告げていた。

 

 殺した相手は、彼の兄。

 

 生まれる前に死んだ子ども。

 

 御影出久。

 

 そして、彼を殺したのは――緑谷出久。

 

     *

 

「……緑谷」

 

 相澤の声が、遠くから聞こえた。

 

「緑谷、聞こえているか」

 

「……はい」

 

 出久は答えた。

 

 自分でも驚くほど、普通の声だった。

 

 頭の中では、何かが壊れ続けている。

 

 けれど、声は震えていなかった。

 

 手も動いた。

 

 呼吸もできた。

 

 世界は、何事もなかったかのように動いていた。

 

 それが、たまらなく恐ろしかった。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

「僕は、人を殺したことがあるんですか」

 

 相澤は答えなかった。

 

 出久は、もう一度尋ねた。

 

「僕は、本当に……兄さんを殺したんですか」

 

「今ある記録だけでは、断定できない」

 

「でも、世界そのものが記録していました」

 

「そうだ」

 

「殺害者と被害者が、同じ人物だって」

 

「そうだ」

 

「それに……被害者の方が、僕より先に生まれているって」

 

 出久は自分の両手を見た。

 

「僕が生まれる前に死んだ兄さんを、僕が殺した……」

 

 相澤は、ベッド脇に立ったまま、しばらく出久を見つめていた。

 

 やがて、低い声で言った。

 

「緑谷。ひとつ、覚えておけ」

 

「……はい」

 

「記録が事実を示しているとは限らない。だが、記録が存在するという事実まで、無視するわけにもいかない」

 

「……」

 

「俺たちは、何が起きたのかを調べる。お前を犯人と決めつけるためじゃない。お前を無罪だと決めつけるためでもない」

 

 相澤は、目を細めた。

 

「真実を知るためだ」

 

 出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

「それから」

 

 相澤の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「一人で答えを出そうとするな」

 

「……」

 

「お前が一人で考え込んで、勝手に自分を犯人にして、勝手に罰を受けようとする。そういう展開は、もう見飽きた」

 

「先生……」

 

「今度は俺たちを使え。教師だ。生徒一人の問題を、生徒一人に解決させるためにいるんじゃない」

 

 出久は、唇を引き結んだ。

 

 泣きそうだった。

 

 でも、泣いてしまえば、何かが崩れる気がした。

 

 相澤は、そんな出久の顔を見て、わずかに眉を寄せた。

 

「……泣くなとは言ってないぞ」

 

「……はい」

 

「泣きたいなら泣け」

 

「……はい」

 

「ただし、泣いた後は飯を食え。寝ろ。それから考えろ」

 

「……はい」

 

「順番を間違えるな」

 

 出久は、とうとう笑ってしまった。

 

 ほんの少しだけ。

 

「……先生って、そういうところありますよね」

 

「どういうところだ」

 

「厳しいのに、優しいところです」

 

「寝言は寝て言え」

 

 いつも通りの返答だった。

 

 だからこそ。

 

 出久は、目を閉じた。

 

 そして、ようやく涙をこぼした。

 

     *

 

「緑谷くん」

 

 お茶子が、そっと声をかけた。

 

「私、ここにいてもいい?」

 

 出久は顔を上げた。

 

「もちろんだよ」

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

「私が、何もできなくても?」

 

 その問いに、出久は驚いた。

 

 お茶子は笑っていた。

 

 けれど、その笑顔はいつものものとは違った。

 

「私、出久くんが何かを抱えているとき、助けたいって思うんだ。でも、今は何をすればいいのかわからない」

 

「……」

 

「何かを調べることなら、みんなと一緒にできる。戦うことだってできる。誰かを助けることも、きっとできる」

 

 お茶子は、出久の手を握った。

 

「でも、出久くんが、自分のことを信じられなくなったとき。私は、何をすればいいんだろう」

 

 出久は、彼女の手を見た。

 

 温かかった。

 

 夢の中で握っていた、冷たい手とは違う。

 

 今、ここにある手。

 

 自分が触れられる手。

 

 自分を握り返してくれる手。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「僕のことを、信じてくれる?」

 

 言ってしまってから、出久は後悔した。

 

 それは、あまりにも身勝手な質問だった。

 

 自分が何をしたのかもわからない。

 

 誰を殺したのかもわからない。

 

 何度生まれ直したのかさえわからない。

 

 そんな自分を信じてほしいと、彼女に求めている。

 

 お茶子は、すぐには答えなかった。

 

 彼女は、出久の目を見た。

 

 逃げずに。

 

 誤魔化さずに。

 

 そして、言った。

 

「出久くんの全部を、何も知らずに信じることはできないよ」

 

 出久の胸が痛んだ。

 

 けれど、お茶子は手を離さなかった。

 

「でも、今ここにいる出久くんのことは信じてる」

 

「……」

 

「怖いことを怖いって言える出久くんも。自分が間違っているかもしれないって悩める出久くんも。自分が誰かを傷つけたかもしれないって、逃げずに考えようとしている出久くんも」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「私は、そういう出久くんを知ってるから」

 

 出久の視界が滲んだ。

 

「……ありがとう」

 

「うん」

 

「でも、もし……」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「もし、僕が本当に兄さんを殺したのなら」

 

 お茶子の手が、わずかに強くなった。

 

「そのときは、私も一緒に考える」

 

「……」

 

「どうしてそんなことが起きたのか。どうすれば、同じことを繰り返さずに済むのか。どうすれば、死んでしまった人のことを、ちゃんと覚えていられるのか」

 

 お茶子は、出久の額に自分の額をそっと寄せた。

 

「でも、出久くん」

 

「……うん」

 

「自分を殺すことで、誰かを救ったことにしないでね」

 

 出久の呼吸が止まった。

 

「……」

 

「自分が死ねば解決する、なんて思わないで」

 

 お茶子の目に、涙が浮かんでいた。

 

「私は、出久くんに生きていてほしい」

 

 それは、単純な願いだった。

 

 世界を救えという命令ではない。

 

 誰かの罪を償えという要求でもない。

 

 ただ、生きていてほしい。

 

 それだけだった。

 

 出久は、何度も頷いた。

 

「……うん」

 

 そして、震える声で答えた。

 

「僕も、生きたい」

 

 言葉にした瞬間。

 

 出久の胸の奥で、何かが小さく動いた。

 

 鼓動ではない。

 

 声でもない。

 

 それは、ずっと閉ざされていた扉の向こうで、誰かが息をしたような感覚だった。

 

 出久は、思わず胸を押さえた。

 

「……どうしたの?」

 

「いや……」

 

 出久は、目を閉じた。

 

 ほんの一瞬。

 

 誰かの声が聞こえた気がした。

 

 ――よかった。

 

 その声は、泣いていた。

 

 ――君が、生きたいって言ってくれて。

 

     *

 

 午前六時二十分。

 

 雄英高校、特別対策会議室。

 

 長机の上には、これまでに回収された記録が並んでいた。

 

 出生証明書。

 

 消失した戸籍の写し。

 

 心拍記録。

 

 世界再構築に関する断片的なデータ。

 

 そして、御影出久について記された、無数の矛盾した記録。

 

 相澤は、それらを一枚ずつ確認していた。

 

 向かい側では、八百万が端末を操作している。

 

 飯田は記録の時系列を整理し、轟は複数の記録に共通する記述を抜き出していた。

 

 爆豪は腕を組み、椅子の背にもたれている。

 

 切島は、いつもの明るさを抑えた顔で資料を読んでいた。

 

 そして。

 

 緑谷久志が、部屋の隅に座っていた。

 

 彼の前には、破れた写真が置かれている。

 

 久志は、そこから目を離せずにいた。

 

「……まず、整理するぞ」

 

 相澤が口を開いた。

 

「現時点で、俺たちが確実に言えることは少ない」

 

 端末に、三つの項目が表示される。

 

 第一。

 

 緑谷出久には、現在の記録では説明できない複数の存在履歴がある。

 

 第二。

 

 御影出久という存在は、記録上、出生前に死亡したとされている。

 

 第三。

 

 現在の緑谷出久と御影出久の間には、何らかの同一性、または因果関係がある。

 

「ここまではいいな」

 

 全員が頷いた。

 

「問題は、その先だ」

 

 相澤は、資料を一枚持ち上げた。

 

「世界の記録では、御影出久を殺したのは緑谷出久だとされている。だが、殺害者は被害者より後に生まれたとも記録されている」

 

 爆豪が舌打ちした。

 

「時間が逆になってんのか?」

 

「単純な時間逆行なら、ここまで記録が矛盾する必要はない」

 

 轟が口を開いた。

 

「もしかすると、僕たちが考えている『生まれた』という言葉の意味が違うのかもしれない」

 

 飯田が頷いた。

 

「出生時刻と、存在が成立した時刻が一致していない可能性か」

 

「あるいは、同じ人物が別の時間から介入しているのかもしれない」

 

 八百万が画面を切り替えた。

 

「こちらをご覧ください。御影出久の記録は、通常の出生記録とは異なる構造を持っています」

 

 表示されたのは、二つの線だった。

 

 一つは、御影出久。

 

 もう一つは、緑谷出久。

 

 通常なら、二つの線はそれぞれ独立しているはずだった。

 

 だが、二本の線は途中で交差し、何度も重なり、最後には一本になっていた。

 

「このデータは、単純な兄弟関係を示していません」

 

 八百万は慎重に説明した。

 

「兄弟であれば、遺伝情報に共通点があっても、個体としては別々に成立します。しかし、こちらは……個体の成立そのものが相互に依存しているように見えます」

 

「つまり、片方が存在するために、もう片方が必要だった?」

 

 切島が尋ねた。

 

「はい。ですが、逆も成立しているようです」

 

 八百万は、画面の一部を拡大した。

 

「緑谷さんが存在するために御影さんが必要であり、御影さんが存在するために緑谷さんが必要だった」

 

 爆豪が眉をひそめた。

 

「そんなもん、どっちかが先に生まれなきゃ始まらねえだろ」

 

「普通なら、そうだ」

 

 相澤が言った。

 

「だが、今回はその前提自体が崩れている可能性がある」

 

 轟が、ぽつりと呟いた。

 

「……卵が先か、鶏が先か、という話じゃない」

 

 全員が彼を見た。

 

「卵と鶏が、お互いを生む原因になっている。しかも、片方が生まれた瞬間に、もう片方が生まれる前に死んだことになる」

 

「……意味わかんねえ」

 

 爆豪が吐き捨てた。

 

「俺もだ」

 

 相澤は即答した。

 

「だから調べている」

 

 八百万が、別の資料を表示した。

 

「もう一つ、気になることがあります」

 

 画面には、世界再構築に関する記録が表示されていた。

 

 その多くは破損していたが、共通する単語がいくつも残っている。

 

 ――統合。

 

 ――代替。

 

 ――消去。

 

 ――観測。

 

 ――再構築。

 

 そして。

 

 ――兄。

 

「この記録は、何度も世界が再構築されたことを示唆しています。しかし、再構築のたびに、緑谷さんの存在履歴も変化している」

 

 八百万は言った。

 

「ある記録では第一子。別の記録では第三子。さらに別の記録では第五子。ですが、これらは単純な出生順ではないようです」

 

「……じゃあ、何の順番だよ」

 

 爆豪が尋ねた。

 

「わかりません」

 

「おい」

 

「わからないものは、わからないと申し上げるしかありませんわ」

 

 八百万は真剣だった。

 

「ただし、一つだけ共通点があります」

 

 彼女は、画面の中央を指した。

 

 すべての記録に、同じ名前があった。

 

 緑谷出久。

 

 その名前だけが、どの記録からも完全には消えていない。

 

「どの記録でも、緑谷出久という名前が中心に存在しています」

 

 飯田が考え込む。

 

「つまり、世界の再構築は、緑谷くんを基準として行われている?」

 

「その可能性があります」

 

「だが、御影出久は?」

 

 轟が尋ねた。

 

 八百万は、画面を切り替えた。

 

 御影出久の名前は、ほとんどの記録で黒く塗りつぶされていた。

 

 残っているのは、わずかな断片だけだった。

 

 その中に。

 

 奇妙な記述があった。

 

 ――対象個体:御影出久。

 

 ――個体成立条件:緑谷出久の存在。

 

 ――対象個体消失時の影響:緑谷出久の存在不安定化。

 

 ――緑谷出久消失時の影響:対象個体の存在不安定化。

 

 ――両者の同時消失:世界再構築。

 

 会議室が静まり返った。

 

「……片方が消えると、もう片方も不安定になる」

 

 切島が呟いた。

 

「で、二人とも消えたら世界そのものが作り直される……ってことか?」

 

「記録上は、そう読めます」

 

 八百万が答えた。

 

 爆豪は、机を指で叩いた。

 

「待て。じゃあ、緑谷が御影を殺したって記録は何なんだ」

 

 相澤は、資料を見つめた。

 

「可能性は複数ある」

 

 彼は指を一本立てた。

 

「一つ。緑谷が、何らかの形で御影を殺した」

 

 二本目。

 

「二つ。緑谷が、御影を殺すことになる未来を作った」

 

 三本目。

 

「三つ。御影が消えることを、緑谷が自分の意思で選んだ」

 

 四本目。

 

「四つ。御影を殺した緑谷と、今ここにいる緑谷が、同一人物ではない」

 

 最後の可能性に、爆豪の顔が険しくなった。

 

「……ふざけんな」

 

「可能性の話だ」

 

「今ここにいるデクが、別人だって言いてえのか」

 

「違う」

 

 相澤は、爆豪を見た。

 

「今ここにいる緑谷が、本人であることと、過去に同じ名前を持つ別の存在がいたことは両立する」

 

「……」

 

「それに、本人かどうかを決めるのは、名前だけじゃない」

 

 相澤は、資料を閉じた。

 

「俺たちは、まだ何も知らないんだ」

 

 その言葉に、誰も反論しなかった。

 

 ただ一人。

 

 緑谷久志だけが、ずっと黙っていた。

 

 やがて、彼は小さく口を開いた。

 

「……一つ、話していないことがあります」

 

 全員が振り返った。

 

「御影出久について、私が覚えていることです」

 

 久志は、破れた写真を見た。

 

「私は、あの子に名前を与えました」

 

 声が震えていた。

 

「世界があの子を認めなくても、私だけは覚えていようと思った。あの子が存在しないと言われても、私だけは、あの子がここにいたと証明しようと思った」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「けれど、私は……」

 

 唇が震える。

 

「一度だけ、あの子の名前を忘れたことがあります」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

「ほんの一瞬でした。あの子の顔は覚えているのに、名前だけが出てこなかった。私は恐ろしくなって、何度も何度も名前を呼びました」

 

 久志は、両手を握りしめた。

 

「御影出久。御影出久。御影出久。……そう呼び続ければ、あの子が消えずに済むと思った」

 

 彼の目から、涙が落ちた。

 

「でも、あの子は私を見て言ったんです」

 

 久志は、震える声で、その言葉を再現した。

 

「『お父さん、僕は名前を忘れられたくらいで死ぬような子じゃないよ』と」

 

 切島が、息を呑んだ。

 

「……あの子は、笑っていました」

 

 久志は続けた。

 

「私を安心させようとしていた。まだ幼い子どもが、父親を安心させようとしていたんです」

 

 その言葉が、会議室に沈んだ。

 

 父親が子どもを守るのではない。

 

 子どもが、父親を守ろうとしていた。

 

「……私は、あの子を守りたかった」

 

 久志は言った。

 

「でも、いつの間にか、あの子を守ることそのものが、私の目的になっていた。あの子が何を望んでいるのか、聞くことを忘れていた」

 

 彼は顔を覆った。

 

「私は……あの子を生かしたかったのではないのかもしれない」

 

 相澤は、黙って聞いていた。

 

「私は、あの子を失った自分になりたくなかっただけなのかもしれない」

 

 その告白に、誰も簡単な言葉を返せなかった。

 

 久志は、しばらくして顔を上げた。

 

「……それから、もう一つ」

 

 彼は、テーブルの下から小さな封筒を取り出した。

 

「これを、見てください」

 

 封筒には、何も書かれていなかった。

 

 中には、一枚の紙が入っていた。

 

 古い紙だった。

 

 そこには、たった一行だけ書かれていた。

 

 ――お父さんへ。僕が死んだら、僕のことを忘れてください。

 

 久志の手が震えた。

 

「これは、あの子の字です」

 

 相澤は、紙を受け取った。

 

 裏面にも文字があった。

 

 ――でも、僕が生きているなら、僕のことを忘れないでください。

 

 その下に、小さく書かれていた。

 

 ――どちらになるかは、お父さんが決めてください。

 

 相澤の表情が変わった。

 

「……これは、いつ書かれた?」

 

「わかりません」

 

「御影が死ぬ前か?」

 

「それも、わかりません」

 

「なぜ今まで提出しなかった?」

 

 久志は、首を横に振った。

 

「……提出したことがあります」

 

「何?」

 

「何度も、警察にも、病院にも、関係機関にも見せました。でも、誰もこの紙を覚えていられなかった」

 

 彼は、紙を見つめた。

 

「提出した瞬間には、皆、読んでくれるんです。けれど、数分もすると、紙がただの白紙に見えると言い出す。あるいは、私がそんなものを持ってきたこと自体を忘れてしまう」

 

 久志は、苦笑した。

 

「だから、これは私が自分で保管していました。私が覚えている限り、消えなかった」

 

 八百万が、紙を慎重にスキャンした。

 

 数秒後、端末に結果が表示された。

 

 ――文字列認識:成功。

 

 ――筆跡照合:未登録。

 

 ――紙面の経年劣化:正常。

 

 ――記録対象:存在しない人物。

 

 そして、最後に。

 

 ――この記録は、現在の世界に属していません。

 

 相澤が、低く呟いた。

 

「……世界の外側に残った記録か」

 

 久志は、頷いた。

 

「私は、そう思っています」

 

 そのとき。

 

 端末の画面が、勝手に切り替わった。

 

 紙に書かれていた文章が、画面上に表示される。

 

 その下に、新しい文字が浮かんだ。

 

 ――記録内容に誤りがあります。

 

 全員が息を止めた。

 

 続いて、文章が表示された。

 

 ――御影出久は、死亡後に記録を残したのではありません。

 

 ――御影出久は、死亡する前に記録を残したのでもありません。

 

 ――御影出久は、記録を残した後に死亡したのでもありません。

 

 八百万が、端末から手を離した。

 

「……何ですの、これ」

 

 新しい文字が現れた。

 

 ――御影出久は、記録が存在するために生まれました。

 

 会議室の空気が、一瞬で変わった。

 

「……は?」

 

 爆豪が呟いた。

 

 端末は、さらに続けた。

 

 ――対象個体は、記録の原因ではありません。

 

 ――対象個体は、記録の結果でもありません。

 

 ――対象個体は、記録を成立させるために存在しています。

 

 相澤は、画面を睨んだ。

 

「つまり……」

 

 彼は、ゆっくりと言葉にした。

 

「御影出久という人間がいたから記録が残ったのではない。御影出久という人間を記録する必要があったから、彼が存在した……そういう意味か?」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに。

 

 画面の中央に、たった一つの問いが表示された。

 

 ――では、誰が彼を記録したのか。

 

 その瞬間。

 

 緑谷久志が、椅子から立ち上がった。

 

「……私です」

 

 全員が、彼を見た。

 

 久志は、自分の胸を押さえた。

 

「私が……あの子を記録したんです」

 

 彼は、震える声で続けた。

 

「あの子が存在しないと言われたとき、私は何度も何度も、あの子のことを書き残しました。あの子が何を食べたか。何を話したか。何をして笑ったか。どんな夢を見たか」

 

 久志の目から、涙が落ちる。

 

「私は、あの子を忘れないために、記録を残した」

 

 彼は、端末を見た。

 

「……それが、あの子を存在させていたのなら」

 

 久志は、顔を覆った。

 

「私は、あの子を守っていたんじゃない」

 

 声が掠れた。

 

「私は、あの子を記録の中に閉じ込めていたんだ」

 

     *

 

 同じ頃。

 

 雄英高校の病室。

 

 出久は、一人でノートを開いていた。

 

 お茶子は、医師の指示で検査に付き添っている。

 

 相澤たちは会議室にいる。

 

 病室には、出久だけが残されていた。

 

 ノートには、御影出久に関する記録が書かれている。

 

 けれど、ページをめくるたびに、文字が変わっていく。

 

 あるページでは、御影出久は兄だった。

 

 別のページでは、弟だった。

 

 また別のページでは、存在しない子どもだった。

 

 そして、最後のページには。

 

 出久自身の字で、こう書かれていた。

 

 ――僕は、兄さんを殺した。

 

 出久は、その文字を指でなぞった。

 

「……どうして」

 

 呟く。

 

「どうして、僕は……」

 

 そのとき。

 

 ノートの文字が、少しずつ変化した。

 

 ――僕は、兄さんを殺した。

 

 その一行が消えた。

 

 代わりに、新しい文字が浮かび上がる。

 

 ――僕は、兄さんを生かした。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 次の瞬間。

 

 さらに文字が増えた。

 

 ――僕は、兄さんを殺すことで、兄さんを生かした。

 

「……っ!」

 

 出久はノートを閉じた。

 

 閉じたはずなのに。

 

 文字は、紙の裏側から浮き出てきた。

 

 ――兄さんは、僕が殺した。

 

 ――兄さんは、僕を生かした。

 

 ――僕は、兄さんを生かした。

 

 ――兄さんは、僕が殺した。

 

 同じ四つの文が、何度も繰り返されていく。

 

 出久は、ノートをベッドの上に放り出した。

 

「やめて……!」

 

 文字は止まらない。

 

「やめてよ!」

 

 紙が、勝手にめくれた。

 

 最後のページ。

 

 そこには、今までとは違う筆跡で文章が書かれていた。

 

 幼い子どもの字だった。

 

 ――出久へ。

 

 ――君は、僕を殺したことを覚えていない。

 

 ――それでいい。

 

 出久は、息を止めた。

 

 ――君は、僕を救おうとした。

 

 ――それも、本当。

 

 ――君は、僕を殺した。

 

 ――それも、本当。

 

 ――だから、君は僕を忘れてはいけない。

 

 出久の目から、涙がこぼれた。

 

 ――でも、君は僕の罪を背負わなくていい。

 

 その一文を見た瞬間。

 

 出久の胸の奥で、何かが大きく揺れた。

 

 ――君は、僕の兄さんではない。

 

 ――君は、僕の弟だ。

 

 ――だから、君は君の人生を生きて。

 

 出久は、ノートに手を伸ばした。

 

「……兄さん」

 

 その声に応えるように。

 

 最後の一行が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 ――でも、もし君が僕を探してくれるなら。

 

 ――今度は、僕が君を見つけるよ。

 

 ノートが、静かに閉じた。

 

 出久は、しばらく動けなかった。

 

 兄は、自分を許してくれているのだろうか。

 

 それとも、ただ自分が生きることを望んでいるだけなのだろうか。

 

 わからない。

 

 何も、わからない。

 

 ただ。

 

 今の自分が、兄を探したいと思っていることだけは、確かだった。

 

 出久は、ノートを抱きしめた。

 

「……待ってて」

 

 涙で濡れた声で、呟いた。

 

「僕は、君を見つける」

 

 その瞬間。

 

 病室の壁に、影が落ちた。

 

 出久は顔を上げた。

 

 窓の外には、誰もいない。

 

 ドアも閉まっている。

 

 けれど、壁の影だけは、確かに人の形をしていた。

 

 緑色の髪。

 

 細い肩。

 

 小さな手。

 

 その影が、出久に向かって手を伸ばした。

 

 出久も、手を伸ばした。

 

 指先が触れる。

 

 その瞬間。

 

 出久の脳裏に、知らない記憶が流れ込んできた。

 

     *

 

 ――お兄ちゃん。

 

 誰かが、自分を呼んでいる。

 

 ――お兄ちゃん、聞いて。

 

 小さな声。

 

 まだ幼い、子どもの声。

 

 ――僕ね、夢を見たんだ。

 

 白い部屋。

 

 ベッド。

 

 窓のない病室。

 

 そこに、一人の子どもが座っている。

 

 緑色の髪。

 

 大きな瞳。

 

 出久と同じ顔。

 

 その子どもは、出久に向かって笑っていた。

 

 ――僕が生まれたら、お兄ちゃんは死んじゃうんだって。

 

 出久は、何かを言おうとした。

 

 けれど、声が出なかった。

 

 ――でもね。

 

 子どもは、笑ったまま続けた。

 

 ――僕は、生まれたいんだ。

 

 出久の胸が痛んだ。

 

 ――お兄ちゃんと、一緒に生きたい。

 

 子どもは、手を伸ばした。

 

 ――だから、お兄ちゃん。

 

 その顔が、少しずつ歪んでいく。

 

 泣いているのに、笑っている。

 

 笑っているのに、泣いている。

 

 ――僕を殺して。

 

 出久は、叫んだ。

 

 声にならない叫びだった。

 

 ――僕を殺してくれたら、お兄ちゃんは生きられる。

 

 子どもは、優しく笑った。

 

 ――僕は、お兄ちゃんに生きていてほしいんだ。

 

 その瞬間。

 

 出久の手の中に、何かが現れた。

 

 小さな刃物。

 

 白い光を反射する、鋭い刃。

 

 子どもは、それを見て頷いた。

 

 ――大丈夫。

 

 ――怖くないよ。

 

 ――僕は、もう決めたんだ。

 

 出久は、首を横に振った。

 

 やめてくれ。

 

 そんなことを言わないでくれ。

 

 君は、僕の弟だ。

 

 君は、まだ生まれていない。

 

 君は、まだ何もしていない。

 

 君には、未来がある。

 

 君には、名前がある。

 

 君には、生きる権利がある。

 

 けれど。

 

 声が出ない。

 

 身体が動かない。

 

 子どもが、出久の手を握った。

 

 ――お兄ちゃん。

 

 そして。

 

 ――僕を、生かして。

 

 その言葉を最後に。

 

 世界が、真っ白になった。

 

     *

 

「――っ、はあっ!」

 

 出久は、ベッドの上で目を覚ました。

 

 息ができなかった。

 

 喉が焼けるように痛い。

 

 全身が震えている。

 

 手の中には、何もなかった。

 

 刃物も。

 

 血も。

 

 小さな子どもの手も。

 

 ただ、ノートだけがあった。

 

 出久は、震える手でノートを開いた。

 

 最後のページ。

 

 そこには、今までなかった文章が書かれていた。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――殺害対象:第一子、御影出久。

 

 ――殺害理由:対象個体の生存。

 

 ――殺害実行者:緑谷出久。

 

 ――実行時刻:午前二時十三分。

 

 そして。

 

 最後に。

 

 ――殺害は、未遂である。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……未遂?」

 

 文字が変わった。

 

 ――対象個体は、死亡した。

 

 ――対象個体は、死亡していない。

 

 ――対象個体は、存在していない。

 

 ――対象個体は、現在も生存している。

 

 四つの文が、並んだ。

 

 矛盾していた。

 

 けれど、今度は出久にもわかった。

 

 これは、単なる記録の誤りではない。

 

 世界が、答えを決められずにいるのだ。

 

 御影出久は死んだ。

 

 御影出久は死んでいない。

 

 御影出久は生まれなかった。

 

 御影出久は、今もどこかで生きている。

 

 すべてが、同時に真実なのかもしれない。

 

 出久は、ノートを握りしめた。

 

「……兄さん」

 

 その声に。

 

 今度は、はっきりと返事があった。

 

『……出久』

 

 出久は顔を上げた。

 

 声は、病室のどこからも聞こえなかった。

 

 けれど、確かに。

 

 自分の内側から聞こえていた。

 

『君は、思い出したんだね』

 

「……少しだけ」

 

『そう』

 

「君は……僕の弟なの?」

 

 沈黙。

 

 やがて、声が答えた。

 

『そうだったら、よかったね』

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……どういう意味?」

 

『僕は、君の弟だった』

 

「……」

 

『君は、僕の兄さんだった』

 

 声が、少しだけ震えた。

 

『でも、それは、もう終わったことなんだ』

 

「終わってない!」

 

 出久は叫んだ。

 

「君がここにいるなら、終わってない! 君が僕を覚えているなら、僕だって君を覚えたい! 僕が君を殺したのなら、その理由を知りたい! 君が生きているなら、今度こそ君を……!」

 

 言葉が詰まった。

 

 助けたい。

 

 救いたい。

 

 取り戻したい。

 

 その言葉が、あまりにも危険なものに思えた。

 

 かつての自分も、同じことを願ったのだろう。

 

 兄を救いたい。

 

 そのために、世界を作り直した。

 

 兄を救えなかったから、何度も繰り返した。

 

 そして。

 

 そのたびに、誰かを犠牲にしたのかもしれない。

 

 声が、静かに言った。

 

『出久』

 

「……うん」

 

『君は、僕を救わなくていい』

 

「……」

 

『僕を救うために、誰かを犠牲にしないで』

 

 出久は、目を閉じた。

 

『僕を救うために、世界を壊さないで』

 

「……うん」

 

『僕を救うために、君自身を殺さないで』

 

「……うん」

 

『それだけ、約束して』

 

 出久は、何度も頷いた。

 

「約束する」

 

 声が、少しだけ笑った。

 

『ありがとう』

 

 出久は、涙を拭った。

 

「……でも、一つだけお願いしてもいい?」

 

『何?』

 

「僕に、君の名前を教えて」

 

 長い沈黙があった。

 

 出久は待った。

 

 どれほど長くても。

 

 何時間でも。

 

 何年でも。

 

 今度こそ、誰かの名前を忘れないために。

 

 やがて。

 

 声が、答えた。

 

『……御影出久』

 

 その瞬間。

 

 世界中の時計が、一秒だけ止まった。

 

 雄英高校の時計も。

 

 病院の時計も。

 

 街の時計も。

 

 遠く離れた場所にある時計も。

 

 すべてが、同じ時刻を示した。

 

 午前二時十三分。

 

 そして。

 

 出久のノートに、新しい記録が生まれた。

 

 ――対象個体:御影出久。

 

 ――名前:御影出久。

 

 ――存在状態:未確定。

 

 ――観測者:緑谷出久。

 

 ――観測継続。

 

 その記録は、消えなかった。

 

 誰にも塗りつぶされなかった。

 

 世界そのものが、御影出久の名前を認識したのだ。

 

 出久は、ノートを胸に抱いた。

 

「……御影出久」

 

 初めて、その名前を口にした。

 

「僕の……」

 

 声が震える。

 

「僕の、大切な人」

 

 その言葉に。

 

 ノートの最後のページへ、一行が浮かび上がった。

 

 ――兄さん。

 

 ――やっと、呼んでくれたね。

 

     *

 

 同時刻。

 

 雄英高校、地下資料室。

 

 すべての記録端末が、赤く点灯した。

 

 警告音が鳴り響く。

 

 画面に表示された文字列が、次々と書き換わっていく。

 

 ――第零個体管理記録。

 

 ――観測対象:緑谷出久。

 

 ――対象個体の自己認識:変化。

 

 ――未登録個体の名称:確定。

 

 ――御影出久。

 

 ――存在状態:再評価中。

 

 そして。

 

 今まで一度も表示されたことのない警告が現れた。

 

 ――注意。

 

 ――消去対象が、自らの名前を取り戻しました。

 

 画面が、激しく明滅する。

 

 ――世界再構築機構、起動準備。

 

 ――再構築対象:全世界。

 

 ――理由:存在矛盾の解消。

 

 ――推奨処置:御影出久の再消去。

 

 その文字列が表示された瞬間。

 

 端末の中央に、別の文字が現れた。

 

 手書きだった。

 

 幼い子どもの字だった。

 

 ――嫌だ。

 

 端末が沈黙した。

 

 すべての警告が消えた。

 

 その下に、新しい文字が書き込まれる。

 

 ――僕は、消えたくない。

 

 さらに。

 

 ――僕は、生きたい。

 

 画面が暗くなった。

 

 最後に残ったのは、一つの問いだった。

 

 ――それでも、世界は僕を殺すの?

 

     *

 

 その問いに、答えた者はいなかった。

 

 ただ一人。

 

 世界の外側に立つ、名もない観測者だけが、その記録を見つめていた。

 

 彼は、無数の世界を観測してきた。

 

 生まれる世界。

 

 滅びる世界。

 

 作り直される世界。

 

 記憶を失いながら、それでも同じ過ちを繰り返す世界。

 

 彼にとって、世界は記録の集合にすぎなかった。

 

 個人の生死に、意味はない。

 

 名前に、意味はない。

 

 誰かが誰かを愛しているという事実も、世界の構造を維持する上で必要なければ、削除されるだけだった。

 

 だから彼は、御影出久を消そうとした。

 

 世界に矛盾が生まれたから。

 

 存在しない子どもが、存在しているから。

 

 その子どもの存在を認めれば、世界の仕組みそのものが崩れるから。

 

 だが。

 

 観測者は、今、初めて理解できないものを見ていた。

 

 御影出久は、自分の名前を取り戻した。

 

 世界が与えた名前ではない。

 

 父親が記録した名前でもない。

 

 弟が呼んだ名前だった。

 

 その名前を呼ばれた瞬間、存在しないはずの子どもが、生きたいと願った。

 

 世界の仕組みは、その願いを消そうとしている。

 

 だが、その願いを消せば。

 

 名前を呼んだ弟も、また不安定になる。

 

 観測者は、記録を更新した。

 

 ――御影出久。

 

 ――緑谷出久。

 

 ――相互依存関係:確認。

 

 ――片方の消去による影響:予測不能。

 

 そして。

 

 最後の項目に、初めて新しい選択肢が表示された。

 

 ――処置を選択してください。

 

 1.御影出久を消去する。

 

 2.緑谷出久を消去する。

 

 3.両者を統合する。

 

 4.両者を独立した個体として認める。

 

 観測者は、四番目の選択肢を見つめた。

 

 それは、これまでの記録には存在しなかった選択肢だった。

 

 世界の仕組みそのものが、選択を要求している。

 

 存在しない子どもを、存在するものとして認めるか。

 

 それとも。

 

 存在しないという記録を守るために、もう一度殺すか。

 

 観測者は、しばらく考えていた。

 

 そして。

 

 四番目の選択肢に触れた。

 

 ――両者を独立した個体として認める。

 

 その瞬間。

 

 世界の外側に、ひびが入った。

 

 観測者は、初めて後ずさった。

 

 選択肢が消えた。

 

 画面が赤く染まる。

 

 ――処理失敗。

 

 ――独立個体の承認に失敗しました。

 

 ――原因:対象個体の存在条件が矛盾しています。

 

 観測者は、もう一度、四番目の選択肢を選んだ。

 

 同じ結果だった。

 

 何度選んでも。

 

 何度承認しようとしても。

 

 世界は、御影出久を独立した個体として認めなかった。

 

 なぜなら。

 

 御影出久という存在は、緑谷出久の存在を条件として成立している。

 

 そして、緑谷出久という存在もまた、御影出久の存在を条件として成立している。

 

 どちらか一方だけを独立させることはできない。

 

 両者を同時に認めれば、世界は自らの矛盾を認めることになる。

 

 観測者は、静かに呟いた。

 

「……なるほど」

 

 初めて、興味を抱いた。

 

「君たちは、互いを必要としているのか」

 

 その声に、答えはなかった。

 

 けれど、世界の外側で。

 

 二つの名前が、並んで表示されていた。

 

 御影出久。

 

 緑谷出久。

 

 その二つの名前の下に、新しい文章が浮かんだ。

 

 ――兄弟関係:未確定。

 

 ――親族関係:未確定。

 

 ――存在関係:未確定。

 

 そして。

 

 ――相互選択:確認。

 

 観測者は、その最後の文字を見つめた。

 

「……相互選択?」

 

 記録が更新された。

 

 ――緑谷出久は、御影出久を選択した。

 

 ――御影出久は、緑谷出久を選択した。

 

 ――双方、相手の存在を希望。

 

 ――双方、相手の消失を拒否。

 

 観測者は、黙った。

 

 世界の仕組みは、存在を数える。

 

 生まれたもの。

 

 死んだもの。

 

 存在するもの。

 

 存在しないもの。

 

 だが。

 

 誰かが誰かを選ぶという行為を、どう記録すればいいのだろう。

 

 世界に認められなくても。

 

 出生届がなくても。

 

 誰にも覚えてもらえなくても。

 

 自分が生まれる前に死んでいたとしても。

 

 誰かが、その名前を呼んだ。

 

 そして、もう一人が、その名前に応えた。

 

 それは、世界の記録に存在しない関係だった。

 

 観測者は、初めて記録を保留した。

 

 ――判断を延期する。

 

 ――観測を継続する。

 

 世界の外側に、静かな沈黙が戻った。

 

 だが、その沈黙の中で。

 

 観測者は、まだ知らなかった。

 

 御影出久の名前が戻ったことで、もう一つの名前が、世界のどこかで目を覚まし始めていることを。

 

 緑谷出久が、兄の名前を呼んだ。

 

 その声を聞いて。

 

 ずっと忘れられていた、もう一人の誰かが。

 

 ゆっくりと、目を開けていた。

 

     *

 

 病室。

 

 出久は、ノートを抱きしめたまま、窓の外を見ていた。

 

 空が明るくなっている。

 

 時計は、午前六時五十二分を示していた。

 

 午前二時十三分から、四時間以上が経過している。

 

 世界は、まだ続いている。

 

 兄は、まだどこかにいる。

 

 そして、自分は生きている。

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……兄さん」

 

 小さく呼ぶ。

 

 返事はなかった。

 

 それでも、出久は続けた。

 

「僕は、君が誰なのか、まだ全部は知らない」

 

 ノートを開く。

 

 御影出久の名前が、そこにある。

 

「君が何をしたのかも。僕が何をしたのかも。どうして、こんなことになったのかも」

 

 出久は、文字を見つめた。

 

「でも、僕は君の名前を覚えた」

 

 指先で、そっと文字をなぞる。

 

「御影出久」

 

 その名前は、もう消えなかった。

 

「……今度は、忘れないよ」

 

 出久は、笑った。

 

 涙を流しながら。

 

 そのとき。

 

 病室のドアが開いた。

 

「緑谷くん?」

 

 お茶子が戻ってきた。

 

 その後ろには、相澤と八百万がいる。

 

 出久は顔を上げた。

 

「お茶子ちゃん」

 

「うん。どうしたの?」

 

「……僕、兄さんの名前を思い出したんだ」

 

 お茶子は、息を呑んだ。

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 出久は、ノートを見せた。

 

「御影出久」

 

 お茶子は、その名前を見つめた。

 

 彼女の目から、涙がこぼれた。

 

「……よかった」

 

 声が震えていた。

 

「よかったね、出久くん」

 

 彼女は、ノートにそっと触れた。

 

「これで、やっと……」

 

 言葉が止まった。

 

 彼女の表情が、変わった。

 

「……あれ?」

 

「お茶子ちゃん?」

 

 お茶子は、ノートを見つめていた。

 

 その顔から、血の気が引いていく。

 

「……この名前」

 

「……うん?」

 

「私……」

 

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私、この名前を知ってる」

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

「……え?」

 

「知ってる……。ずっと前から、知ってる気がする……」

 

 お茶子は、自分の胸を押さえた。

 

「でも、どこで……?」

 

 彼女の瞳が揺れる。

 

「誰から聞いたんだろう……」

 

 その瞬間。

 

 お茶子の鞄から、一冊の古いノートが落ちた。

 

 床に広がったページ。

 

 そこには、出久が見たことのない写真が貼られていた。

 

 病院のベッド。

 

 幼い出久。

 

 その隣に座る、もう一人の少年。

 

 そして。

 

 写真の裏には、お茶子の字でこう書かれていた。

 

 ――御影出久くん。

 

 ――私が、最初に好きになった人。

 

 出久は、息を止めた。

 

 お茶子も、動けなかった。

 

 誰も、その写真を知らなかった。

 

 誰も、その記録を覚えていなかった。

 

 それなのに。

 

 写真の中の幼いお茶子は、御影出久の手を握っていた。

 

 笑顔で。

 

 まるで、ずっと昔から知っている人に向けるように。

 

 その写真の端に、小さな文字があった。

 

 ――出久くんが生まれる前に、私は君と約束した。

 

 そして、その下。

 

 ――今度こそ、君を忘れない。

 

 お茶子が、震える声で呟いた。

 

「……私、何を忘れてるの?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 彼女の手が震えている。

 

 写真が、かすかに揺れている。

 

 そして、写真の中の御影出久が。

 

 ゆっくりと、こちらを向いた。

 

 その少年は、写真の外にいる出久を見つめた。

 

 それから。

 

 隣にいるお茶子に向かって、笑った。

 

 口の動きだけで、何かを伝えた。

 

 声は聞こえなかった。

 

 けれど。

 

 お茶子は、その言葉を読んでしまった。

 

 ――約束を、覚えていてくれたんだね。

 

 その瞬間。

 

 お茶子の記憶の奥底で、閉ざされていた扉が開いた。

 

 そして、彼女は思い出し始めた。

 

 緑谷出久が生まれる前。

 

 御影出久が死ぬ前。

 

 世界が、最初に作り直される前。

 

 まだ誰も、彼らの名前を忘れていなかった頃。

 

 自分が、たった一人の少年と交わした約束を。

 

 ――もし、君がいなくなっても。

 

 ――私が、君を覚えている。

 

 だが。

 

 その約束には、続きがあった。

 

 お茶子は、口元を押さえた。

 

 涙が溢れた。

 

「……違う」

 

 彼女は、震える声で言った。

 

「私……忘れたんじゃない」

 

 出久が、彼女を見つめた。

 

「……お茶子ちゃん?」

 

 お茶子は、首を横に振った。

 

「私が……」

 

 その先を、言えなかった。

 

 写真の中で、御影出久が笑っている。

 

 その笑顔が。

 

 あまりにも、悲しかったから。

 

 お茶子は、震える唇を開いた。

 

「私が、君を……」

 

 そして。

 

 ようやく、その言葉を口にした。

 

「……私が、君を殺したんだ」

 

     *

 

 その瞬間。

 

 世界の外側で、観測者が顔を上げた。

 

 記録が、更新されていた。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――殺害者:緑谷出久。

 

 その下に、新しい記録が加わった。

 

 ――第二の殺害者:麗日お茶子。

 

 観測者は、静かに呟いた。

 

「……そうか」

 

 世界は、まだ何も終わっていなかった。

 

 兄を殺した弟。

 

 弟を殺した兄。

 

 そして。

 

 兄を殺した、もう一人の少女。

 

 誰もが、誰かを救おうとしていた。

 

 誰もが、誰かを愛していた。

 

 それなのに。

 

 世界は、彼らの愛情を、殺害の記録として保存していた。

 

 観測者は、新しい記録を開いた。

 

 その表題には、こう書かれていた。

 

 第零回観測記録・追補。

 

 ――御影出久を殺したのは、緑谷出久だけではない。

 

 そして、その下に。

 

 まだ誰も知らない、最後の一行が浮かび上がった。

 

 ――最初に御影出久を殺したのは、麗日お茶子である。

 

 観測者は、記録を閉じた。

 

 世界のどこかで。

 

 午前二時十三分を示す時計が、再び動き始めた。

 

 第三十三話 了

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