人は、自分が誰かを殺したと知ったとき、どんな顔をするのだろう。
泣くだろうか。
叫ぶだろうか。
それとも、自分の手を見つめて、そこに付着しているはずの血を探すのだろうか。
緑谷出久は、わからなかった。
彼は誰かを殺した記憶を持っていない。
誰かの命を奪った感触も。
誰かが自分の腕の中で冷たくなっていく瞬間も。
誰かが、最後に自分の名前を呼んだ声も。
何ひとつ覚えていない。
それなのに。
世界は、彼が人を殺したと告げていた。
殺した相手は、彼の兄。
生まれる前に死んだ子ども。
御影出久。
そして、彼を殺したのは――緑谷出久。
*
「……緑谷」
相澤の声が、遠くから聞こえた。
「緑谷、聞こえているか」
「……はい」
出久は答えた。
自分でも驚くほど、普通の声だった。
頭の中では、何かが壊れ続けている。
けれど、声は震えていなかった。
手も動いた。
呼吸もできた。
世界は、何事もなかったかのように動いていた。
それが、たまらなく恐ろしかった。
「……先生」
「何だ」
「僕は、人を殺したことがあるんですか」
相澤は答えなかった。
出久は、もう一度尋ねた。
「僕は、本当に……兄さんを殺したんですか」
「今ある記録だけでは、断定できない」
「でも、世界そのものが記録していました」
「そうだ」
「殺害者と被害者が、同じ人物だって」
「そうだ」
「それに……被害者の方が、僕より先に生まれているって」
出久は自分の両手を見た。
「僕が生まれる前に死んだ兄さんを、僕が殺した……」
相澤は、ベッド脇に立ったまま、しばらく出久を見つめていた。
やがて、低い声で言った。
「緑谷。ひとつ、覚えておけ」
「……はい」
「記録が事実を示しているとは限らない。だが、記録が存在するという事実まで、無視するわけにもいかない」
「……」
「俺たちは、何が起きたのかを調べる。お前を犯人と決めつけるためじゃない。お前を無罪だと決めつけるためでもない」
相澤は、目を細めた。
「真実を知るためだ」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「それから」
相澤の声が、少しだけ柔らかくなった。
「一人で答えを出そうとするな」
「……」
「お前が一人で考え込んで、勝手に自分を犯人にして、勝手に罰を受けようとする。そういう展開は、もう見飽きた」
「先生……」
「今度は俺たちを使え。教師だ。生徒一人の問題を、生徒一人に解決させるためにいるんじゃない」
出久は、唇を引き結んだ。
泣きそうだった。
でも、泣いてしまえば、何かが崩れる気がした。
相澤は、そんな出久の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「……泣くなとは言ってないぞ」
「……はい」
「泣きたいなら泣け」
「……はい」
「ただし、泣いた後は飯を食え。寝ろ。それから考えろ」
「……はい」
「順番を間違えるな」
出久は、とうとう笑ってしまった。
ほんの少しだけ。
「……先生って、そういうところありますよね」
「どういうところだ」
「厳しいのに、優しいところです」
「寝言は寝て言え」
いつも通りの返答だった。
だからこそ。
出久は、目を閉じた。
そして、ようやく涙をこぼした。
*
「緑谷くん」
お茶子が、そっと声をかけた。
「私、ここにいてもいい?」
出久は顔を上げた。
「もちろんだよ」
「……本当に?」
「うん」
「私が、何もできなくても?」
その問いに、出久は驚いた。
お茶子は笑っていた。
けれど、その笑顔はいつものものとは違った。
「私、出久くんが何かを抱えているとき、助けたいって思うんだ。でも、今は何をすればいいのかわからない」
「……」
「何かを調べることなら、みんなと一緒にできる。戦うことだってできる。誰かを助けることも、きっとできる」
お茶子は、出久の手を握った。
「でも、出久くんが、自分のことを信じられなくなったとき。私は、何をすればいいんだろう」
出久は、彼女の手を見た。
温かかった。
夢の中で握っていた、冷たい手とは違う。
今、ここにある手。
自分が触れられる手。
自分を握り返してくれる手。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕のことを、信じてくれる?」
言ってしまってから、出久は後悔した。
それは、あまりにも身勝手な質問だった。
自分が何をしたのかもわからない。
誰を殺したのかもわからない。
何度生まれ直したのかさえわからない。
そんな自分を信じてほしいと、彼女に求めている。
お茶子は、すぐには答えなかった。
彼女は、出久の目を見た。
逃げずに。
誤魔化さずに。
そして、言った。
「出久くんの全部を、何も知らずに信じることはできないよ」
出久の胸が痛んだ。
けれど、お茶子は手を離さなかった。
「でも、今ここにいる出久くんのことは信じてる」
「……」
「怖いことを怖いって言える出久くんも。自分が間違っているかもしれないって悩める出久くんも。自分が誰かを傷つけたかもしれないって、逃げずに考えようとしている出久くんも」
彼女は、少しだけ笑った。
「私は、そういう出久くんを知ってるから」
出久の視界が滲んだ。
「……ありがとう」
「うん」
「でも、もし……」
出久は、声を絞り出した。
「もし、僕が本当に兄さんを殺したのなら」
お茶子の手が、わずかに強くなった。
「そのときは、私も一緒に考える」
「……」
「どうしてそんなことが起きたのか。どうすれば、同じことを繰り返さずに済むのか。どうすれば、死んでしまった人のことを、ちゃんと覚えていられるのか」
お茶子は、出久の額に自分の額をそっと寄せた。
「でも、出久くん」
「……うん」
「自分を殺すことで、誰かを救ったことにしないでね」
出久の呼吸が止まった。
「……」
「自分が死ねば解決する、なんて思わないで」
お茶子の目に、涙が浮かんでいた。
「私は、出久くんに生きていてほしい」
それは、単純な願いだった。
世界を救えという命令ではない。
誰かの罪を償えという要求でもない。
ただ、生きていてほしい。
それだけだった。
出久は、何度も頷いた。
「……うん」
そして、震える声で答えた。
「僕も、生きたい」
言葉にした瞬間。
出久の胸の奥で、何かが小さく動いた。
鼓動ではない。
声でもない。
それは、ずっと閉ざされていた扉の向こうで、誰かが息をしたような感覚だった。
出久は、思わず胸を押さえた。
「……どうしたの?」
「いや……」
出久は、目を閉じた。
ほんの一瞬。
誰かの声が聞こえた気がした。
――よかった。
その声は、泣いていた。
――君が、生きたいって言ってくれて。
*
午前六時二十分。
雄英高校、特別対策会議室。
長机の上には、これまでに回収された記録が並んでいた。
出生証明書。
消失した戸籍の写し。
心拍記録。
世界再構築に関する断片的なデータ。
そして、御影出久について記された、無数の矛盾した記録。
相澤は、それらを一枚ずつ確認していた。
向かい側では、八百万が端末を操作している。
飯田は記録の時系列を整理し、轟は複数の記録に共通する記述を抜き出していた。
爆豪は腕を組み、椅子の背にもたれている。
切島は、いつもの明るさを抑えた顔で資料を読んでいた。
そして。
緑谷久志が、部屋の隅に座っていた。
彼の前には、破れた写真が置かれている。
久志は、そこから目を離せずにいた。
「……まず、整理するぞ」
相澤が口を開いた。
「現時点で、俺たちが確実に言えることは少ない」
端末に、三つの項目が表示される。
第一。
緑谷出久には、現在の記録では説明できない複数の存在履歴がある。
第二。
御影出久という存在は、記録上、出生前に死亡したとされている。
第三。
現在の緑谷出久と御影出久の間には、何らかの同一性、または因果関係がある。
「ここまではいいな」
全員が頷いた。
「問題は、その先だ」
相澤は、資料を一枚持ち上げた。
「世界の記録では、御影出久を殺したのは緑谷出久だとされている。だが、殺害者は被害者より後に生まれたとも記録されている」
爆豪が舌打ちした。
「時間が逆になってんのか?」
「単純な時間逆行なら、ここまで記録が矛盾する必要はない」
轟が口を開いた。
「もしかすると、僕たちが考えている『生まれた』という言葉の意味が違うのかもしれない」
飯田が頷いた。
「出生時刻と、存在が成立した時刻が一致していない可能性か」
「あるいは、同じ人物が別の時間から介入しているのかもしれない」
八百万が画面を切り替えた。
「こちらをご覧ください。御影出久の記録は、通常の出生記録とは異なる構造を持っています」
表示されたのは、二つの線だった。
一つは、御影出久。
もう一つは、緑谷出久。
通常なら、二つの線はそれぞれ独立しているはずだった。
だが、二本の線は途中で交差し、何度も重なり、最後には一本になっていた。
「このデータは、単純な兄弟関係を示していません」
八百万は慎重に説明した。
「兄弟であれば、遺伝情報に共通点があっても、個体としては別々に成立します。しかし、こちらは……個体の成立そのものが相互に依存しているように見えます」
「つまり、片方が存在するために、もう片方が必要だった?」
切島が尋ねた。
「はい。ですが、逆も成立しているようです」
八百万は、画面の一部を拡大した。
「緑谷さんが存在するために御影さんが必要であり、御影さんが存在するために緑谷さんが必要だった」
爆豪が眉をひそめた。
「そんなもん、どっちかが先に生まれなきゃ始まらねえだろ」
「普通なら、そうだ」
相澤が言った。
「だが、今回はその前提自体が崩れている可能性がある」
轟が、ぽつりと呟いた。
「……卵が先か、鶏が先か、という話じゃない」
全員が彼を見た。
「卵と鶏が、お互いを生む原因になっている。しかも、片方が生まれた瞬間に、もう片方が生まれる前に死んだことになる」
「……意味わかんねえ」
爆豪が吐き捨てた。
「俺もだ」
相澤は即答した。
「だから調べている」
八百万が、別の資料を表示した。
「もう一つ、気になることがあります」
画面には、世界再構築に関する記録が表示されていた。
その多くは破損していたが、共通する単語がいくつも残っている。
――統合。
――代替。
――消去。
――観測。
――再構築。
そして。
――兄。
「この記録は、何度も世界が再構築されたことを示唆しています。しかし、再構築のたびに、緑谷さんの存在履歴も変化している」
八百万は言った。
「ある記録では第一子。別の記録では第三子。さらに別の記録では第五子。ですが、これらは単純な出生順ではないようです」
「……じゃあ、何の順番だよ」
爆豪が尋ねた。
「わかりません」
「おい」
「わからないものは、わからないと申し上げるしかありませんわ」
八百万は真剣だった。
「ただし、一つだけ共通点があります」
彼女は、画面の中央を指した。
すべての記録に、同じ名前があった。
緑谷出久。
その名前だけが、どの記録からも完全には消えていない。
「どの記録でも、緑谷出久という名前が中心に存在しています」
飯田が考え込む。
「つまり、世界の再構築は、緑谷くんを基準として行われている?」
「その可能性があります」
「だが、御影出久は?」
轟が尋ねた。
八百万は、画面を切り替えた。
御影出久の名前は、ほとんどの記録で黒く塗りつぶされていた。
残っているのは、わずかな断片だけだった。
その中に。
奇妙な記述があった。
――対象個体:御影出久。
――個体成立条件:緑谷出久の存在。
――対象個体消失時の影響:緑谷出久の存在不安定化。
――緑谷出久消失時の影響:対象個体の存在不安定化。
――両者の同時消失:世界再構築。
会議室が静まり返った。
「……片方が消えると、もう片方も不安定になる」
切島が呟いた。
「で、二人とも消えたら世界そのものが作り直される……ってことか?」
「記録上は、そう読めます」
八百万が答えた。
爆豪は、机を指で叩いた。
「待て。じゃあ、緑谷が御影を殺したって記録は何なんだ」
相澤は、資料を見つめた。
「可能性は複数ある」
彼は指を一本立てた。
「一つ。緑谷が、何らかの形で御影を殺した」
二本目。
「二つ。緑谷が、御影を殺すことになる未来を作った」
三本目。
「三つ。御影が消えることを、緑谷が自分の意思で選んだ」
四本目。
「四つ。御影を殺した緑谷と、今ここにいる緑谷が、同一人物ではない」
最後の可能性に、爆豪の顔が険しくなった。
「……ふざけんな」
「可能性の話だ」
「今ここにいるデクが、別人だって言いてえのか」
「違う」
相澤は、爆豪を見た。
「今ここにいる緑谷が、本人であることと、過去に同じ名前を持つ別の存在がいたことは両立する」
「……」
「それに、本人かどうかを決めるのは、名前だけじゃない」
相澤は、資料を閉じた。
「俺たちは、まだ何も知らないんだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
ただ一人。
緑谷久志だけが、ずっと黙っていた。
やがて、彼は小さく口を開いた。
「……一つ、話していないことがあります」
全員が振り返った。
「御影出久について、私が覚えていることです」
久志は、破れた写真を見た。
「私は、あの子に名前を与えました」
声が震えていた。
「世界があの子を認めなくても、私だけは覚えていようと思った。あの子が存在しないと言われても、私だけは、あの子がここにいたと証明しようと思った」
久志は、目を閉じた。
「けれど、私は……」
唇が震える。
「一度だけ、あの子の名前を忘れたことがあります」
誰も、何も言わなかった。
「ほんの一瞬でした。あの子の顔は覚えているのに、名前だけが出てこなかった。私は恐ろしくなって、何度も何度も名前を呼びました」
久志は、両手を握りしめた。
「御影出久。御影出久。御影出久。……そう呼び続ければ、あの子が消えずに済むと思った」
彼の目から、涙が落ちた。
「でも、あの子は私を見て言ったんです」
久志は、震える声で、その言葉を再現した。
「『お父さん、僕は名前を忘れられたくらいで死ぬような子じゃないよ』と」
切島が、息を呑んだ。
「……あの子は、笑っていました」
久志は続けた。
「私を安心させようとしていた。まだ幼い子どもが、父親を安心させようとしていたんです」
その言葉が、会議室に沈んだ。
父親が子どもを守るのではない。
子どもが、父親を守ろうとしていた。
「……私は、あの子を守りたかった」
久志は言った。
「でも、いつの間にか、あの子を守ることそのものが、私の目的になっていた。あの子が何を望んでいるのか、聞くことを忘れていた」
彼は顔を覆った。
「私は……あの子を生かしたかったのではないのかもしれない」
相澤は、黙って聞いていた。
「私は、あの子を失った自分になりたくなかっただけなのかもしれない」
その告白に、誰も簡単な言葉を返せなかった。
久志は、しばらくして顔を上げた。
「……それから、もう一つ」
彼は、テーブルの下から小さな封筒を取り出した。
「これを、見てください」
封筒には、何も書かれていなかった。
中には、一枚の紙が入っていた。
古い紙だった。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
――お父さんへ。僕が死んだら、僕のことを忘れてください。
久志の手が震えた。
「これは、あの子の字です」
相澤は、紙を受け取った。
裏面にも文字があった。
――でも、僕が生きているなら、僕のことを忘れないでください。
その下に、小さく書かれていた。
――どちらになるかは、お父さんが決めてください。
相澤の表情が変わった。
「……これは、いつ書かれた?」
「わかりません」
「御影が死ぬ前か?」
「それも、わかりません」
「なぜ今まで提出しなかった?」
久志は、首を横に振った。
「……提出したことがあります」
「何?」
「何度も、警察にも、病院にも、関係機関にも見せました。でも、誰もこの紙を覚えていられなかった」
彼は、紙を見つめた。
「提出した瞬間には、皆、読んでくれるんです。けれど、数分もすると、紙がただの白紙に見えると言い出す。あるいは、私がそんなものを持ってきたこと自体を忘れてしまう」
久志は、苦笑した。
「だから、これは私が自分で保管していました。私が覚えている限り、消えなかった」
八百万が、紙を慎重にスキャンした。
数秒後、端末に結果が表示された。
――文字列認識:成功。
――筆跡照合:未登録。
――紙面の経年劣化:正常。
――記録対象:存在しない人物。
そして、最後に。
――この記録は、現在の世界に属していません。
相澤が、低く呟いた。
「……世界の外側に残った記録か」
久志は、頷いた。
「私は、そう思っています」
そのとき。
端末の画面が、勝手に切り替わった。
紙に書かれていた文章が、画面上に表示される。
その下に、新しい文字が浮かんだ。
――記録内容に誤りがあります。
全員が息を止めた。
続いて、文章が表示された。
――御影出久は、死亡後に記録を残したのではありません。
――御影出久は、死亡する前に記録を残したのでもありません。
――御影出久は、記録を残した後に死亡したのでもありません。
八百万が、端末から手を離した。
「……何ですの、これ」
新しい文字が現れた。
――御影出久は、記録が存在するために生まれました。
会議室の空気が、一瞬で変わった。
「……は?」
爆豪が呟いた。
端末は、さらに続けた。
――対象個体は、記録の原因ではありません。
――対象個体は、記録の結果でもありません。
――対象個体は、記録を成立させるために存在しています。
相澤は、画面を睨んだ。
「つまり……」
彼は、ゆっくりと言葉にした。
「御影出久という人間がいたから記録が残ったのではない。御影出久という人間を記録する必要があったから、彼が存在した……そういう意味か?」
返事はなかった。
代わりに。
画面の中央に、たった一つの問いが表示された。
――では、誰が彼を記録したのか。
その瞬間。
緑谷久志が、椅子から立ち上がった。
「……私です」
全員が、彼を見た。
久志は、自分の胸を押さえた。
「私が……あの子を記録したんです」
彼は、震える声で続けた。
「あの子が存在しないと言われたとき、私は何度も何度も、あの子のことを書き残しました。あの子が何を食べたか。何を話したか。何をして笑ったか。どんな夢を見たか」
久志の目から、涙が落ちる。
「私は、あの子を忘れないために、記録を残した」
彼は、端末を見た。
「……それが、あの子を存在させていたのなら」
久志は、顔を覆った。
「私は、あの子を守っていたんじゃない」
声が掠れた。
「私は、あの子を記録の中に閉じ込めていたんだ」
*
同じ頃。
雄英高校の病室。
出久は、一人でノートを開いていた。
お茶子は、医師の指示で検査に付き添っている。
相澤たちは会議室にいる。
病室には、出久だけが残されていた。
ノートには、御影出久に関する記録が書かれている。
けれど、ページをめくるたびに、文字が変わっていく。
あるページでは、御影出久は兄だった。
別のページでは、弟だった。
また別のページでは、存在しない子どもだった。
そして、最後のページには。
出久自身の字で、こう書かれていた。
――僕は、兄さんを殺した。
出久は、その文字を指でなぞった。
「……どうして」
呟く。
「どうして、僕は……」
そのとき。
ノートの文字が、少しずつ変化した。
――僕は、兄さんを殺した。
その一行が消えた。
代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
――僕は、兄さんを生かした。
出久は、息を呑んだ。
次の瞬間。
さらに文字が増えた。
――僕は、兄さんを殺すことで、兄さんを生かした。
「……っ!」
出久はノートを閉じた。
閉じたはずなのに。
文字は、紙の裏側から浮き出てきた。
――兄さんは、僕が殺した。
――兄さんは、僕を生かした。
――僕は、兄さんを生かした。
――兄さんは、僕が殺した。
同じ四つの文が、何度も繰り返されていく。
出久は、ノートをベッドの上に放り出した。
「やめて……!」
文字は止まらない。
「やめてよ!」
紙が、勝手にめくれた。
最後のページ。
そこには、今までとは違う筆跡で文章が書かれていた。
幼い子どもの字だった。
――出久へ。
――君は、僕を殺したことを覚えていない。
――それでいい。
出久は、息を止めた。
――君は、僕を救おうとした。
――それも、本当。
――君は、僕を殺した。
――それも、本当。
――だから、君は僕を忘れてはいけない。
出久の目から、涙がこぼれた。
――でも、君は僕の罪を背負わなくていい。
その一文を見た瞬間。
出久の胸の奥で、何かが大きく揺れた。
――君は、僕の兄さんではない。
――君は、僕の弟だ。
――だから、君は君の人生を生きて。
出久は、ノートに手を伸ばした。
「……兄さん」
その声に応えるように。
最後の一行が、ゆっくりと浮かび上がった。
――でも、もし君が僕を探してくれるなら。
――今度は、僕が君を見つけるよ。
ノートが、静かに閉じた。
出久は、しばらく動けなかった。
兄は、自分を許してくれているのだろうか。
それとも、ただ自分が生きることを望んでいるだけなのだろうか。
わからない。
何も、わからない。
ただ。
今の自分が、兄を探したいと思っていることだけは、確かだった。
出久は、ノートを抱きしめた。
「……待ってて」
涙で濡れた声で、呟いた。
「僕は、君を見つける」
その瞬間。
病室の壁に、影が落ちた。
出久は顔を上げた。
窓の外には、誰もいない。
ドアも閉まっている。
けれど、壁の影だけは、確かに人の形をしていた。
緑色の髪。
細い肩。
小さな手。
その影が、出久に向かって手を伸ばした。
出久も、手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間。
出久の脳裏に、知らない記憶が流れ込んできた。
*
――お兄ちゃん。
誰かが、自分を呼んでいる。
――お兄ちゃん、聞いて。
小さな声。
まだ幼い、子どもの声。
――僕ね、夢を見たんだ。
白い部屋。
ベッド。
窓のない病室。
そこに、一人の子どもが座っている。
緑色の髪。
大きな瞳。
出久と同じ顔。
その子どもは、出久に向かって笑っていた。
――僕が生まれたら、お兄ちゃんは死んじゃうんだって。
出久は、何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
――でもね。
子どもは、笑ったまま続けた。
――僕は、生まれたいんだ。
出久の胸が痛んだ。
――お兄ちゃんと、一緒に生きたい。
子どもは、手を伸ばした。
――だから、お兄ちゃん。
その顔が、少しずつ歪んでいく。
泣いているのに、笑っている。
笑っているのに、泣いている。
――僕を殺して。
出久は、叫んだ。
声にならない叫びだった。
――僕を殺してくれたら、お兄ちゃんは生きられる。
子どもは、優しく笑った。
――僕は、お兄ちゃんに生きていてほしいんだ。
その瞬間。
出久の手の中に、何かが現れた。
小さな刃物。
白い光を反射する、鋭い刃。
子どもは、それを見て頷いた。
――大丈夫。
――怖くないよ。
――僕は、もう決めたんだ。
出久は、首を横に振った。
やめてくれ。
そんなことを言わないでくれ。
君は、僕の弟だ。
君は、まだ生まれていない。
君は、まだ何もしていない。
君には、未来がある。
君には、名前がある。
君には、生きる権利がある。
けれど。
声が出ない。
身体が動かない。
子どもが、出久の手を握った。
――お兄ちゃん。
そして。
――僕を、生かして。
その言葉を最後に。
世界が、真っ白になった。
*
「――っ、はあっ!」
出久は、ベッドの上で目を覚ました。
息ができなかった。
喉が焼けるように痛い。
全身が震えている。
手の中には、何もなかった。
刃物も。
血も。
小さな子どもの手も。
ただ、ノートだけがあった。
出久は、震える手でノートを開いた。
最後のページ。
そこには、今までなかった文章が書かれていた。
――第二子、緑谷出久。
――殺害対象:第一子、御影出久。
――殺害理由:対象個体の生存。
――殺害実行者:緑谷出久。
――実行時刻:午前二時十三分。
そして。
最後に。
――殺害は、未遂である。
出久は、目を見開いた。
「……未遂?」
文字が変わった。
――対象個体は、死亡した。
――対象個体は、死亡していない。
――対象個体は、存在していない。
――対象個体は、現在も生存している。
四つの文が、並んだ。
矛盾していた。
けれど、今度は出久にもわかった。
これは、単なる記録の誤りではない。
世界が、答えを決められずにいるのだ。
御影出久は死んだ。
御影出久は死んでいない。
御影出久は生まれなかった。
御影出久は、今もどこかで生きている。
すべてが、同時に真実なのかもしれない。
出久は、ノートを握りしめた。
「……兄さん」
その声に。
今度は、はっきりと返事があった。
『……出久』
出久は顔を上げた。
声は、病室のどこからも聞こえなかった。
けれど、確かに。
自分の内側から聞こえていた。
『君は、思い出したんだね』
「……少しだけ」
『そう』
「君は……僕の弟なの?」
沈黙。
やがて、声が答えた。
『そうだったら、よかったね』
出久は、唇を噛んだ。
「……どういう意味?」
『僕は、君の弟だった』
「……」
『君は、僕の兄さんだった』
声が、少しだけ震えた。
『でも、それは、もう終わったことなんだ』
「終わってない!」
出久は叫んだ。
「君がここにいるなら、終わってない! 君が僕を覚えているなら、僕だって君を覚えたい! 僕が君を殺したのなら、その理由を知りたい! 君が生きているなら、今度こそ君を……!」
言葉が詰まった。
助けたい。
救いたい。
取り戻したい。
その言葉が、あまりにも危険なものに思えた。
かつての自分も、同じことを願ったのだろう。
兄を救いたい。
そのために、世界を作り直した。
兄を救えなかったから、何度も繰り返した。
そして。
そのたびに、誰かを犠牲にしたのかもしれない。
声が、静かに言った。
『出久』
「……うん」
『君は、僕を救わなくていい』
「……」
『僕を救うために、誰かを犠牲にしないで』
出久は、目を閉じた。
『僕を救うために、世界を壊さないで』
「……うん」
『僕を救うために、君自身を殺さないで』
「……うん」
『それだけ、約束して』
出久は、何度も頷いた。
「約束する」
声が、少しだけ笑った。
『ありがとう』
出久は、涙を拭った。
「……でも、一つだけお願いしてもいい?」
『何?』
「僕に、君の名前を教えて」
長い沈黙があった。
出久は待った。
どれほど長くても。
何時間でも。
何年でも。
今度こそ、誰かの名前を忘れないために。
やがて。
声が、答えた。
『……御影出久』
その瞬間。
世界中の時計が、一秒だけ止まった。
雄英高校の時計も。
病院の時計も。
街の時計も。
遠く離れた場所にある時計も。
すべてが、同じ時刻を示した。
午前二時十三分。
そして。
出久のノートに、新しい記録が生まれた。
――対象個体:御影出久。
――名前:御影出久。
――存在状態:未確定。
――観測者:緑谷出久。
――観測継続。
その記録は、消えなかった。
誰にも塗りつぶされなかった。
世界そのものが、御影出久の名前を認識したのだ。
出久は、ノートを胸に抱いた。
「……御影出久」
初めて、その名前を口にした。
「僕の……」
声が震える。
「僕の、大切な人」
その言葉に。
ノートの最後のページへ、一行が浮かび上がった。
――兄さん。
――やっと、呼んでくれたね。
*
同時刻。
雄英高校、地下資料室。
すべての記録端末が、赤く点灯した。
警告音が鳴り響く。
画面に表示された文字列が、次々と書き換わっていく。
――第零個体管理記録。
――観測対象:緑谷出久。
――対象個体の自己認識:変化。
――未登録個体の名称:確定。
――御影出久。
――存在状態:再評価中。
そして。
今まで一度も表示されたことのない警告が現れた。
――注意。
――消去対象が、自らの名前を取り戻しました。
画面が、激しく明滅する。
――世界再構築機構、起動準備。
――再構築対象:全世界。
――理由:存在矛盾の解消。
――推奨処置:御影出久の再消去。
その文字列が表示された瞬間。
端末の中央に、別の文字が現れた。
手書きだった。
幼い子どもの字だった。
――嫌だ。
端末が沈黙した。
すべての警告が消えた。
その下に、新しい文字が書き込まれる。
――僕は、消えたくない。
さらに。
――僕は、生きたい。
画面が暗くなった。
最後に残ったのは、一つの問いだった。
――それでも、世界は僕を殺すの?
*
その問いに、答えた者はいなかった。
ただ一人。
世界の外側に立つ、名もない観測者だけが、その記録を見つめていた。
彼は、無数の世界を観測してきた。
生まれる世界。
滅びる世界。
作り直される世界。
記憶を失いながら、それでも同じ過ちを繰り返す世界。
彼にとって、世界は記録の集合にすぎなかった。
個人の生死に、意味はない。
名前に、意味はない。
誰かが誰かを愛しているという事実も、世界の構造を維持する上で必要なければ、削除されるだけだった。
だから彼は、御影出久を消そうとした。
世界に矛盾が生まれたから。
存在しない子どもが、存在しているから。
その子どもの存在を認めれば、世界の仕組みそのものが崩れるから。
だが。
観測者は、今、初めて理解できないものを見ていた。
御影出久は、自分の名前を取り戻した。
世界が与えた名前ではない。
父親が記録した名前でもない。
弟が呼んだ名前だった。
その名前を呼ばれた瞬間、存在しないはずの子どもが、生きたいと願った。
世界の仕組みは、その願いを消そうとしている。
だが、その願いを消せば。
名前を呼んだ弟も、また不安定になる。
観測者は、記録を更新した。
――御影出久。
――緑谷出久。
――相互依存関係:確認。
――片方の消去による影響:予測不能。
そして。
最後の項目に、初めて新しい選択肢が表示された。
――処置を選択してください。
1.御影出久を消去する。
2.緑谷出久を消去する。
3.両者を統合する。
4.両者を独立した個体として認める。
観測者は、四番目の選択肢を見つめた。
それは、これまでの記録には存在しなかった選択肢だった。
世界の仕組みそのものが、選択を要求している。
存在しない子どもを、存在するものとして認めるか。
それとも。
存在しないという記録を守るために、もう一度殺すか。
観測者は、しばらく考えていた。
そして。
四番目の選択肢に触れた。
――両者を独立した個体として認める。
その瞬間。
世界の外側に、ひびが入った。
観測者は、初めて後ずさった。
選択肢が消えた。
画面が赤く染まる。
――処理失敗。
――独立個体の承認に失敗しました。
――原因:対象個体の存在条件が矛盾しています。
観測者は、もう一度、四番目の選択肢を選んだ。
同じ結果だった。
何度選んでも。
何度承認しようとしても。
世界は、御影出久を独立した個体として認めなかった。
なぜなら。
御影出久という存在は、緑谷出久の存在を条件として成立している。
そして、緑谷出久という存在もまた、御影出久の存在を条件として成立している。
どちらか一方だけを独立させることはできない。
両者を同時に認めれば、世界は自らの矛盾を認めることになる。
観測者は、静かに呟いた。
「……なるほど」
初めて、興味を抱いた。
「君たちは、互いを必要としているのか」
その声に、答えはなかった。
けれど、世界の外側で。
二つの名前が、並んで表示されていた。
御影出久。
緑谷出久。
その二つの名前の下に、新しい文章が浮かんだ。
――兄弟関係:未確定。
――親族関係:未確定。
――存在関係:未確定。
そして。
――相互選択:確認。
観測者は、その最後の文字を見つめた。
「……相互選択?」
記録が更新された。
――緑谷出久は、御影出久を選択した。
――御影出久は、緑谷出久を選択した。
――双方、相手の存在を希望。
――双方、相手の消失を拒否。
観測者は、黙った。
世界の仕組みは、存在を数える。
生まれたもの。
死んだもの。
存在するもの。
存在しないもの。
だが。
誰かが誰かを選ぶという行為を、どう記録すればいいのだろう。
世界に認められなくても。
出生届がなくても。
誰にも覚えてもらえなくても。
自分が生まれる前に死んでいたとしても。
誰かが、その名前を呼んだ。
そして、もう一人が、その名前に応えた。
それは、世界の記録に存在しない関係だった。
観測者は、初めて記録を保留した。
――判断を延期する。
――観測を継続する。
世界の外側に、静かな沈黙が戻った。
だが、その沈黙の中で。
観測者は、まだ知らなかった。
御影出久の名前が戻ったことで、もう一つの名前が、世界のどこかで目を覚まし始めていることを。
緑谷出久が、兄の名前を呼んだ。
その声を聞いて。
ずっと忘れられていた、もう一人の誰かが。
ゆっくりと、目を開けていた。
*
病室。
出久は、ノートを抱きしめたまま、窓の外を見ていた。
空が明るくなっている。
時計は、午前六時五十二分を示していた。
午前二時十三分から、四時間以上が経過している。
世界は、まだ続いている。
兄は、まだどこかにいる。
そして、自分は生きている。
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……兄さん」
小さく呼ぶ。
返事はなかった。
それでも、出久は続けた。
「僕は、君が誰なのか、まだ全部は知らない」
ノートを開く。
御影出久の名前が、そこにある。
「君が何をしたのかも。僕が何をしたのかも。どうして、こんなことになったのかも」
出久は、文字を見つめた。
「でも、僕は君の名前を覚えた」
指先で、そっと文字をなぞる。
「御影出久」
その名前は、もう消えなかった。
「……今度は、忘れないよ」
出久は、笑った。
涙を流しながら。
そのとき。
病室のドアが開いた。
「緑谷くん?」
お茶子が戻ってきた。
その後ろには、相澤と八百万がいる。
出久は顔を上げた。
「お茶子ちゃん」
「うん。どうしたの?」
「……僕、兄さんの名前を思い出したんだ」
お茶子は、息を呑んだ。
「本当に?」
「うん」
出久は、ノートを見せた。
「御影出久」
お茶子は、その名前を見つめた。
彼女の目から、涙がこぼれた。
「……よかった」
声が震えていた。
「よかったね、出久くん」
彼女は、ノートにそっと触れた。
「これで、やっと……」
言葉が止まった。
彼女の表情が、変わった。
「……あれ?」
「お茶子ちゃん?」
お茶子は、ノートを見つめていた。
その顔から、血の気が引いていく。
「……この名前」
「……うん?」
「私……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「私、この名前を知ってる」
出久の心臓が跳ねた。
「……え?」
「知ってる……。ずっと前から、知ってる気がする……」
お茶子は、自分の胸を押さえた。
「でも、どこで……?」
彼女の瞳が揺れる。
「誰から聞いたんだろう……」
その瞬間。
お茶子の鞄から、一冊の古いノートが落ちた。
床に広がったページ。
そこには、出久が見たことのない写真が貼られていた。
病院のベッド。
幼い出久。
その隣に座る、もう一人の少年。
そして。
写真の裏には、お茶子の字でこう書かれていた。
――御影出久くん。
――私が、最初に好きになった人。
出久は、息を止めた。
お茶子も、動けなかった。
誰も、その写真を知らなかった。
誰も、その記録を覚えていなかった。
それなのに。
写真の中の幼いお茶子は、御影出久の手を握っていた。
笑顔で。
まるで、ずっと昔から知っている人に向けるように。
その写真の端に、小さな文字があった。
――出久くんが生まれる前に、私は君と約束した。
そして、その下。
――今度こそ、君を忘れない。
お茶子が、震える声で呟いた。
「……私、何を忘れてるの?」
出久は、答えられなかった。
彼女の手が震えている。
写真が、かすかに揺れている。
そして、写真の中の御影出久が。
ゆっくりと、こちらを向いた。
その少年は、写真の外にいる出久を見つめた。
それから。
隣にいるお茶子に向かって、笑った。
口の動きだけで、何かを伝えた。
声は聞こえなかった。
けれど。
お茶子は、その言葉を読んでしまった。
――約束を、覚えていてくれたんだね。
その瞬間。
お茶子の記憶の奥底で、閉ざされていた扉が開いた。
そして、彼女は思い出し始めた。
緑谷出久が生まれる前。
御影出久が死ぬ前。
世界が、最初に作り直される前。
まだ誰も、彼らの名前を忘れていなかった頃。
自分が、たった一人の少年と交わした約束を。
――もし、君がいなくなっても。
――私が、君を覚えている。
だが。
その約束には、続きがあった。
お茶子は、口元を押さえた。
涙が溢れた。
「……違う」
彼女は、震える声で言った。
「私……忘れたんじゃない」
出久が、彼女を見つめた。
「……お茶子ちゃん?」
お茶子は、首を横に振った。
「私が……」
その先を、言えなかった。
写真の中で、御影出久が笑っている。
その笑顔が。
あまりにも、悲しかったから。
お茶子は、震える唇を開いた。
「私が、君を……」
そして。
ようやく、その言葉を口にした。
「……私が、君を殺したんだ」
*
その瞬間。
世界の外側で、観測者が顔を上げた。
記録が、更新されていた。
――第一子、御影出久。
――殺害者:緑谷出久。
その下に、新しい記録が加わった。
――第二の殺害者:麗日お茶子。
観測者は、静かに呟いた。
「……そうか」
世界は、まだ何も終わっていなかった。
兄を殺した弟。
弟を殺した兄。
そして。
兄を殺した、もう一人の少女。
誰もが、誰かを救おうとしていた。
誰もが、誰かを愛していた。
それなのに。
世界は、彼らの愛情を、殺害の記録として保存していた。
観測者は、新しい記録を開いた。
その表題には、こう書かれていた。
第零回観測記録・追補。
――御影出久を殺したのは、緑谷出久だけではない。
そして、その下に。
まだ誰も知らない、最後の一行が浮かび上がった。
――最初に御影出久を殺したのは、麗日お茶子である。
観測者は、記録を閉じた。
世界のどこかで。
午前二時十三分を示す時計が、再び動き始めた。
第三十三話 了