僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十四話「お茶子が殺した兄さん」

 

「……私が、君を殺したんだ」

 

 麗日お茶子の声は、ひどく小さかった。

 

 けれど、その場にいた全員に聞こえた。

 

 聞こえてしまった。

 

 病室の空気が凍りつく。

 

 窓の外では、朝の光が校舎の壁を照らしていた。廊下からは、遠くを歩く生徒たちの足音が聞こえる。どこかの教室から、誰かの笑い声まで響いてきた。

 

 世界は普通だった。

 

 あまりにも普通だった。

 

 だからこそ、その一言だけが、世界から切り離された異物のように聞こえた。

 

「……お茶子ちゃん?」

 

 緑谷出久は、彼女の名前を呼んだ。

 

 返事がない。

 

 お茶子は、床に落ちた写真を見つめていた。

 

 写真の中には、幼い自分がいる。

 

 その隣には、緑色の髪をした少年がいる。

 

 出久と同じ顔。

 

 出久と同じ瞳。

 

 けれど、出久ではない。

 

 御影出久。

 

 出久がようやく名前を取り戻した、存在しないはずの兄。

 

 その少年の手を、お茶子は握っていた。

 

 まるで、二人がずっと昔から一緒にいたかのように。

 

「……違う」

 

 お茶子は、呟いた。

 

「違う、違う……」

 

 彼女は写真を拾おうとした。

 

 指先が震えている。

 

 何度も、何度も、紙の端を掴み損ねる。

 

「私、こんなこと……」

 

「麗日」

 

 相澤の声がした。

 

 お茶子は顔を上げた。

 

「今の発言について、確認する」

 

「……はい」

 

「お前は、御影出久を殺したと言った。間違いないか」

 

「……わかりません」

 

「わからない?」

 

「私、覚えてないんです」

 

 お茶子の瞳に涙が浮かんだ。

 

「覚えてないのに……この写真を見たら、わかってしまったんです。私が、この子を知っていたことも。この子が、出久くんのお兄さんだったことも」

 

 彼女は、自分の胸を押さえた。

 

「それから……私が、この子を殺したことも」

 

 出久は、彼女を見つめた。

 

 理解できなかった。

 

 いや。

 

 理解したくなかったのかもしれない。

 

「……どうして?」

 

 ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

「どうして、お茶子ちゃんが……」

 

「わからない」

 

「何かの間違いじゃないの?」

 

「わからないよ……!」

 

 お茶子が顔を覆った。

 

「私だって、そう思いたいよ! こんなの、何かの間違いだって思いたい! でも、この写真を見たら……この子の顔を見たら……」

 

 言葉が途切れる。

 

 彼女は、写真を胸に抱きしめた。

 

「……ごめんなさい」

 

 出久は、動かなかった。

 

「出久くん、ごめんなさい……」

 

 その謝罪は、何に対するものなのだろう。

 

 写真の中の少年に対してか。

 

 目の前にいる出久に対してか。

 

 それとも、思い出せない過去の自分自身に対してか。

 

 出久には、わからなかった。

 

 ただ。

 

 お茶子が泣いている。

 

 それだけは、わかった。

 

「……お茶子ちゃん」

 

 出久は、ベッドから降りようとした。

 

「緑谷、動くな」

 

 相澤が制止する。

 

 だが、出久は首を横に振った。

 

「先生……」

 

「今は、少し待て」

 

「でも……」

 

「お前が今、何を言おうとしているのかはわかる」

 

 相澤の声は厳しかった。

 

「だが、何もわからないまま、全部を許そうとするな」

 

 出久は、息を止めた。

 

「……」

 

「麗日を責めるなと言っているんじゃない。逆に、麗日を責めろと言っているわけでもない」

 

 相澤は二人を見た。

 

「事実を確認する前に、罪も赦しも決めるな」

 

 正しい言葉だった。

 

 教師として、当然の言葉だった。

 

 けれど。

 

 出久には、その言葉がひどく遠く感じられた。

 

 彼は、目の前で泣いている少女を知っている。

 

 誰かを救うために、何度も手を伸ばしてきた少女。

 

 自分が苦しくても、他人の痛みを見過ごせない少女。

 

 そんな彼女が、誰かを殺した。

 

 自分の知らない過去で。

 

 自分の知らない世界で。

 

 自分の知らない兄を。

 

 出久は、ゆっくりと拳を握った。

 

 もし、それが本当なら。

 

 自分は、彼女をどう見ればいいのだろう。

 

 そして、彼女は。

 

 自分を、どう見ているのだろう。

 

     *

 

「……写真を、調べさせてもらえるかしら」

 

 八百万が、慎重に口を開いた。

 

 お茶子は、すぐには答えなかった。

 

 彼女は写真を見つめていた。

 

 写真の少年は、笑っている。

 

 その笑顔が、なぜだか懐かしかった。

 

 懐かしい。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 

 自分は、この少年を知っている。

 

 ただ知っているだけではない。

 

 この少年が、どんなふうに笑うのかを知っている。

 

 何に怒るのか。

 

 何に怯えるのか。

 

 何を大切にしているのか。

 

 どんなときに、無理をして笑うのか。

 

 全部、知っている。

 

 なのに、名前を忘れていた。

 

 存在そのものを忘れていた。

 

 それが、たまらなく恐ろしかった。

 

「……はい」

 

 お茶子は、写真を八百万に渡した。

 

「お願いします」

 

 八百万は、写真を受け取った。

 

 その瞬間。

 

 写真の表面が、わずかに波打った。

 

「……え?」

 

 八百万が手を止める。

 

 写真に写っていた病室の背景が、ゆっくりと変化していた。

 

 白い壁。

 

 青いカーテン。

 

 ベッド脇の花瓶。

 

 そして、写真の端に立っていたはずの看護師の姿が消えていく。

 

 最後に残ったのは、三人だけだった。

 

 幼いお茶子。

 

 幼い御影出久。

 

 そして。

 

 その二人の背後に立っている、もう一人の子ども。

 

 顔が、黒く塗りつぶされている。

 

 お茶子が息を呑んだ。

 

「……この子」

 

 写真の中の第三の子どもは、片手を伸ばしていた。

 

 その手は、お茶子の肩に触れている。

 

 まるで、彼女を止めようとしているかのように。

 

 八百万が写真を裏返した。

 

 裏面にあった文字も変化していた。

 

 先ほどまで書かれていた文章が消え、新しい文字が浮かび上がる。

 

 ――最初の約束。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――立会人、麗日お茶子。

 

 その下に、さらに一行。

 

 ――第三の子どもは、約束を破った。

 

「……第三の子ども?」

 

 飯田が眉をひそめた。

 

「写真には三人が写っている。では、第三の子どもとは……」

 

「俺たちが探している、名前を消された個体かもしれない」

 

 相澤が答えた。

 

 爆豪は、写真を睨んだ。

 

「待てよ。麗日が御影を殺したって話はどうなった」

 

「この写真だけでは、何も断定できない」

 

「だったら、なんで麗日はあんなこと言ったんだよ」

 

「本人にも説明できない記憶がある。今は、それ以上でも以下でもない」

 

 爆豪は舌打ちした。

 

 お茶子は、三人の姿を見つめていた。

 

 第一子。

 

 第二子。

 

 立会人。

 

 立会人。

 

 その言葉が、胸の中で反響する。

 

 自分は、何かを見届ける立場だった。

 

 何かが起こることを知っていた。

 

 そして。

 

 それを止めなかった。

 

 あるいは。

 

 自分自身が、何かを起こした。

 

「……私、何を約束したんだろう」

 

 お茶子が呟いた。

 

 その声に反応するように、写真の中の少年が動いた。

 

 御影出久が、幼いお茶子に顔を向ける。

 

 何かを話している。

 

 写真の中の二人は、確かに会話をしていた。

 

 音はない。

 

 だが、お茶子は唇の動きを見た。

 

 ――約束だよ。

 

 御影出久が言っている。

 

 ――僕がいなくなったら、君が出久を守って。

 

 お茶子の目が見開かれた。

 

 続いて、幼いお茶子が首を横に振った。

 

 ――嫌だよ。

 

 その口の動きが、はっきり見えた。

 

 ――君も一緒にいてよ。

 

 御影出久は、困ったように笑った。

 

 ――それは、できないんだ。

 

 そして。

 

 写真の中の彼は、最後にこう言った。

 

 ――だから、僕を殺して。

 

 お茶子の手から、力が抜けた。

 

 写真が床に落ちる。

 

「……あ」

 

 彼女は、後ずさった。

 

「いや……」

 

 呼吸が速くなる。

 

「やだ……」

 

 頭の中で、何かが繋がろうとしていた。

 

 あのとき。

 

 あの部屋で。

 

 自分は、少年の手を握っていた。

 

 少年は、泣いていた。

 

 自分も、泣いていた。

 

 そして。

 

 自分は、彼に何かを約束した。

 

 その約束を守るために。

 

 自分は。

 

 自分は――。

 

「麗日!」

 

 相澤が叫んだ。

 

 お茶子の身体が傾いた。

 

 床に倒れる寸前、切島が駆け寄り、彼女を支えた。

 

「おい、大丈夫か!」

 

「……いや……いやだ……」

 

 お茶子は、何かから逃げるように首を振った。

 

「私、そんなこと……したくなかった……」

 

 出久は、ベッドから立ち上がった。

 

 相澤が止めようとしたが、今度は止めなかった。

 

 出久は、お茶子の前に膝をついた。

 

「お茶子ちゃん」

 

「……来ないで」

 

 彼女は、顔を覆った。

 

「お願い……今は、来ないで……」

 

 出久の足が止まった。

 

 彼女の言葉が、胸に刺さる。

 

 それでも、出久はその場にいた。

 

 近づかない。

 

 けれど、離れない。

 

「……わかった」

 

 彼は、小さく答えた。

 

「ここにいるよ」

 

 お茶子は、顔を覆ったまま泣いていた。

 

「……ごめんなさい」

 

「うん」

 

「ごめんね……」

 

「うん」

 

「出久くん……」

 

 彼女の声が、震えた。

 

「私、あなたのお兄さんを……」

 

 出久は、目を閉じた。

 

「……まだ、何もわかってないよ」

 

 それは、彼女を安心させるための言葉ではなかった。

 

 自分自身に言い聞かせるための言葉だった。

 

 まだ、何もわかっていない。

 

 兄がどうして死んだのか。

 

 自分が何をしたのか。

 

 お茶子が何をしたのか。

 

 すべては、これから確かめることだ。

 

 だから。

 

 今は、決めつけない。

 

 誰かを犯人にしない。

 

 誰かを、存在しなかったことにしない。

 

 それが、出久にできる唯一のことだった。

 

     *

 

 午前八時三分。

 

 お茶子は、別室で休んでいた。

 

 相澤が付き添い、八百万と飯田が写真の解析を進めている。

 

 出久は、病室の窓際に立っていた。

 

 手には、御影出久の名前が書かれたノートがある。

 

 ページを開く。

 

 そこには、昨夜まで存在しなかった文章が増えていた。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――立会人、麗日お茶子。

 

 ――第一子の死を確認した者:麗日お茶子。

 

 ――第一子の死を成立させた者:麗日お茶子。

 

 出久は、その文字を見つめた。

 

 死を確認した。

 

 死を成立させた。

 

 同じようで、違う言葉だった。

 

「……成立させた?」

 

 呟いた瞬間。

 

 ページの下に、新しい文章が現れた。

 

 ――第一子の死亡は、物理的な殺害によって成立したものではありません。

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

 次の行。

 

 ――第一子の死亡は、観測によって成立しました。

 

「……観測?」

 

 出久は、ノートを握りしめた。

 

 その言葉には、覚えがあった。

 

 観測者。

 

 第零回観測記録。

 

 世界を記録し、世界を再構築する存在。

 

 そして。

 

 存在しないものを、存在しないと決める仕組み。

 

 出久は、ゆっくりとページをめくった。

 

 次のページには、見知らぬ図が描かれていた。

 

 中央に、御影出久。

 

 その周囲に、三つの円。

 

 第一の円には、緑谷久志。

 

 第二の円には、緑谷出久。

 

 第三の円には、麗日お茶子。

 

 そして、それぞれを結ぶ線の中央に、一つの言葉が書かれていた。

 

 ――承認。

 

 出久は、図を見つめた。

 

 父親は、御影出久を存在するものとして承認した。

 

 弟は、御影出久を兄として承認した。

 

 そして、お茶子は。

 

 お茶子は、何を承認したのだろう。

 

 その答えは、図の下に書かれていた。

 

 ――第一子の死亡を、立会人が承認した。

 

 出久は息を呑んだ。

 

 つまり。

 

 御影出久は、誰かに刃物で殺されたわけではないのかもしれない。

 

 少なくとも、記録が示す「殺害」は、物理的な殺人とは違う可能性がある。

 

 お茶子が彼を殺した。

 

 それは。

 

 彼が死んだことを、世界に認めさせたという意味なのか。

 

 あるいは。

 

 彼が生きている可能性を、彼女が自ら閉ざしたという意味なのか。

 

 出久は、ページをめくった。

 

 最後の一行。

 

 ――第一子の死が承認されたことで、第二子の出生が可能になりました。

 

 その下には、赤い文字があった。

 

 ――緑谷出久は、御影出久の死によって生まれた。

 

 出久の手が止まった。

 

「……僕は」

 

 声が掠れた。

 

「兄さんの死によって……生まれた?」

 

 その瞬間。

 

 頭の奥で、幼い子どもの声がした。

 

『違うよ』

 

 出久は顔を上げた。

 

『僕は、君を生かしたかったんだ』

 

 その声は、優しかった。

 

 優しすぎるほどに。

 

『だから、僕は死んだ』

 

 出久は、目を閉じた。

 

「……兄さん」

 

『でもね、出久』

 

 声が、少しだけ悲しそうになった。

 

『君が生まれたことと、僕が死んだことは、本当は同じ意味じゃないんだ』

 

「……どういうこと?」

 

『世界が、そういうことにしたんだよ』

 

 出久の呼吸が止まった。

 

『僕が死んだから君が生まれたんじゃない』

 

 声が続く。

 

『君を生かすために、世界が僕の死を必要としたんだ』

 

 出久は、ノートを握りしめた。

 

 それは、似ているようでまったく違う話だった。

 

 兄が弟のために命を捨てた。

 

 それなら、悲劇ではあるが、兄自身の選択がそこにある。

 

 しかし。

 

 世界が弟を生かすために兄の死を必要とした。

 

 それなら、兄は最初から、誰かの生存のために消されることを前提としていたことになる。

 

 生まれたことそのものが、誰かの犠牲によって成立する。

 

 そんな世界で。

 

 自分は、どう生きればいいのだろう。

 

「……僕は、そんなこと望んでない」

 

『うん』

 

「兄さんに死んでほしいなんて、一度も……」

 

『うん』

 

「僕は、兄さんと一緒に生きたかったんだ!」

 

 叫んだ瞬間。

 

 ノートが震えた。

 

 ページの文字が、一斉に消えた。

 

 そして、真っ白な紙面に、新しい文字が浮かんだ。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――生存意思:あり。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――生存意思:あり。

 

 ――両者の共存可能性:未検証。

 

 出久は、目を見開いた。

 

 未検証。

 

 共存できないと決まったわけではない。

 

 ただ、試されていないだけなのだ。

 

「……そうか」

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「まだ、誰も試してないんだ」

 

 兄を消すか。

 

 弟を消すか。

 

 あるいは、二人を統合するか。

 

 世界が提示してきた選択肢は、いつもその三つだった。

 

 けれど。

 

 誰も、二人とも生かすことを本気で試していなかったのではないか。

 

 世界は、それが不可能だと記録した。

 

 だから、誰も疑わなかった。

 

 父親は選ばされた。

 

 兄は犠牲になった。

 

 弟は、その犠牲の上に生まれた。

 

 お茶子は、兄の死を承認した。

 

 そして。

 

 誰も、その仕組み自体を壊そうとはしなかった。

 

 出久は、ノートを閉じた。

 

「……僕は、もう選ばない」

 

 その声には、震えがなかった。

 

「兄さんを消すか、僕を消すか。そんな選択肢しかない世界なら」

 

 出久は、窓の外を見た。

 

「僕は、その選択肢そのものを疑う」

 

     *

 

 午前八時二十七分。

 

 別室。

 

 お茶子は、椅子に座っていた。

 

 相澤は少し離れた場所に立ち、彼女が落ち着くのを待っている。

 

「……先生」

 

「何だ」

 

「私、出久くんに会ってもいいですか」

 

「今は、本人が望むならな」

 

「……先生は、私を疑っていますか」

 

 相澤は、即答しなかった。

 

「疑っている」

 

 お茶子は目を伏せた。

 

「……そうですよね」

 

「同時に、今のお前の記憶が正しいとも限らないと思っている」

 

 お茶子が顔を上げた。

 

「どういうことですか」

 

「お前が覚えていない記憶を、何かが見せている可能性がある。写真に写っていることがすべて真実だとも限らない」

 

 相澤は、腕を組んだ。

 

「だが、逆も同じだ。お前が覚えていないからといって、何も起きなかったことにはならない」

 

「……はい」

 

「だから、事実を調べる」

 

 相澤は、静かに言った。

 

「お前自身を守るためにも。御影出久という人間を理解するためにも。緑谷を、これ以上苦しめないためにも」

 

 お茶子は、唇を噛んだ。

 

「……私、怖いんです」

 

「何がだ」

 

「本当のことを思い出すのが」

 

 彼女は、自分の手を見つめた。

 

「もし、本当に私がこの子を殺したのなら……私は、出久くんのことを好きでいていいんでしょうか」

 

 相澤は、眉を寄せた。

 

「それを俺が決めることじゃない」

 

「……」

 

「それに、罪があったとしても、それで人間の全部が決まるわけじゃない」

 

 相澤は、少し間を置いた。

 

「ただし、罪があったなら、なかったことにもできない」

 

「……はい」

 

「お前が何をしたのか。なぜそうしたのか。誰かに強制されたのか。自分で選んだのか。そこまで確かめてから考えろ」

 

 お茶子は、目を閉じた。

 

「……私、自分で選んだ気がするんです」

 

「何を?」

 

「この子を殺すことを」

 

 相澤は、黙っていた。

 

「誰かに命令されたわけじゃない。脅されたわけでもない。私は、自分で決めたんです」

 

 お茶子の目から、涙が落ちた。

 

「……でも、どうして決めたのか、わからないんです」

 

 彼女は顔を覆った。

 

「この子を殺さなければ、出久くんが生まれなかったから?」

 

 その言葉に、相澤の表情が変わった。

 

「……続けろ」

 

「それとも、この子が死ななければ、出久くんが死んでしまうから?」

 

 お茶子は、震える声で言った。

 

「もしかしたら……この子は、自分が死ぬことを望んでいたのかもしれません」

 

「……」

 

「私に、自分を殺してほしいって頼んだのかもしれません」

 

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「でも、もしそうだったとしても……」

 

 唇が震えた。

 

「私は、この子が死ぬことを承認したんです」

 

 相澤は、何も言わなかった。

 

 お茶子は、涙を拭った。

 

「……先生。私、思い出したいです」

 

「ああ」

 

「全部、思い出したい」

 

 彼女の瞳に、決意が宿った。

 

「この子が何を望んでいたのか。私が何を約束したのか。どうして、出久くんが生まれるために、この子が死ななきゃいけなかったのか」

 

 お茶子は、立ち上がった。

 

「そして……もし私が、本当にこの子を殺したのなら」

 

 彼女は、相澤を見つめた。

 

「私は、その理由から逃げたくないです」

 

 相澤は、しばらく彼女を見ていた。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

「わかった」

 

 彼はドアに向かった。

 

「ただし、無理はするな」

 

「……はい」

 

「記憶を取り戻すことと、自分を壊すことは違う」

 

 相澤は、振り返った。

 

「忘れていたことが罪だとしても、思い出すために自分を傷つける必要はない」

 

 お茶子は、静かに頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 相澤が部屋を出ていく。

 

 一人になったお茶子は、ポケットから小さな紙片を取り出した。

 

 それは、写真の裏に貼りついていたものだった。

 

 いつの間にか、自分の手の中に残っていた。

 

 紙片には、幼い子どもの字で、こう書かれていた。

 

 ――お茶子ちゃんへ。

 

 ――僕を殺すとき、泣かないでね。

 

 お茶子の顔から、血の気が引いた。

 

 その下に、続きがあった。

 

 ――君が泣くと、僕は生きたくなってしまうから。

 

 お茶子は、口元を押さえた。

 

 その瞬間。

 

 閉ざされていた記憶の扉が、内側から叩かれた。

 

 ――嫌だよ。

 

 幼い自分の声。

 

 ――私、君に生きていてほしい。

 

 少年の声。

 

 ――ありがとう。

 

 ――でも、僕が生きていたら、出久が生まれられない。

 

 ――そんなの、嫌だよ!

 

 ――うん。僕も嫌だよ。

 

 少年は、泣いていた。

 

 それでも、笑っていた。

 

 ――だから、お願い。

 

 ――僕を殺して。

 

 お茶子は、椅子から崩れ落ちた。

 

「……ああ」

 

 思い出しかけていた。

 

 思い出してしまう。

 

 自分が、何をしたのか。

 

 そして。

 

 御影出久が、どんな顔で死を望んだのか。

 

     *

 

 午前九時十二分。

 

 病室。

 

 出久は、ノートに向かっていた。

 

 新しく見つかった記録を整理している。

 

 兄の存在。

 

 自分の出生。

 

 お茶子の関与。

 

 そして、世界が提示した選択肢。

 

 考えれば考えるほど、矛盾は増えていく。

 

 けれど、ひとつだけ、確かなことがあった。

 

 兄は、生きたかった。

 

 ノートに書かれた言葉が、それを示している。

 

 ――僕は、生きたい。

 

 それは、御影出久自身の言葉だった。

 

 世界が作った記録でも。

 

 父親が残した記録でも。

 

 弟が願った記録でもない。

 

 兄自身が、そう願った。

 

 同時に、兄は弟を生かしたいとも願っていた。

 

 その二つの願いが、ぶつかった。

 

 だから、世界は選択を迫った。

 

 どちらかを消せと。

 

 けれど。

 

 出久は、ペンを握り直した。

 

 兄が生きたかったことと、弟を生かしたかったこと。

 

 その二つは、本当に両立できなかったのだろうか。

 

 世界がそう記録しただけではないのか。

 

 出久は、新しいページに書いた。

 

 ――御影出久は、生きたかった。

 

 ――緑谷出久も、生きたかった。

 

 ――二人とも、相手に生きていてほしかった。

 

 そして。

 

 ――それでも、世界は二人のうち一人を消そうとした。

 

 出久は、最後の一行を書いた。

 

 ――ならば、間違っているのは世界の方かもしれない。

 

 その瞬間。

 

 ノートのページが、真っ黒に染まった。

 

「……え?」

 

 文字が消えていく。

 

 紙面に書かれた文章が、端から黒く塗りつぶされていく。

 

 出久は慌ててノートを押さえた。

 

「待って……!」

 

 だが、止まらない。

 

 文字が消える。

 

 名前が消える。

 

 記録が消える。

 

 最後に残ったのは、たった一行だった。

 

 ――その仮説は、世界の存続を脅かします。

 

 出久は、歯を食いしばった。

 

「……そうか」

 

 彼は、ノートを見つめた。

 

「君たちは、僕たちが一緒に生きることを、認めたくないんだね」

 

 返事はない。

 

 それでも、出久は続けた。

 

「兄さんを殺すか、僕を殺すか。そうやって、ずっと選ばせてきた」

 

 ノートの端が、かすかに震えた。

 

「でも、僕はもう、その選択を受け入れない」

 

 出久は、ペンを握りしめた。

 

「兄さんが生きたいなら、生きていてほしい。僕も生きたい。お茶子ちゃんだって、きっとそうだ」

 

 彼は、まっすぐに前を見た。

 

「誰かが死ななければ、誰かが生きられないなんて。そんな世界の仕組みを、僕は正しいと思わない」

 

 その瞬間。

 

 ノートの黒い染みが、ぴたりと止まった。

 

 そして。

 

 黒い紙面の中央に、白い文字が浮かび上がった。

 

 ――緑谷出久。

 

 ――お前は、以前にも同じことを言った。

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

 ――お前は、以前にも世界に逆らった。

 

 ――お前は、以前にも兄を救おうとした。

 

 ――そして、お前は世界を壊した。

 

 出久は、目を見開いた。

 

 文字が続く。

 

 ――お前は、何度も同じ選択を繰り返している。

 

 ――お前は、何度も世界を作り直している。

 

 ――お前は、何度も兄を失っている。

 

 ――それでも、お前は諦めない。

 

 最後の一行。

 

 ――だから、お前は危険なのだ。

 

 出久は、静かに息を吐いた。

 

「……そうかもしれない」

 

 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。

 

「僕は、危険なのかもしれない」

 

 ノートの文字が揺れた。

 

「何度も世界を壊したのかもしれない。何度も、誰かを犠牲にしたのかもしれない」

 

 出久は、ペンを置いた。

 

「でも、それでも」

 

 彼は、ノートを閉じた。

 

「僕は、兄さんを殺したくない」

 

 そして。

 

「兄さんにも、僕を殺してほしくない」

 

 沈黙。

 

 やがて、ノートの表紙に、新しい文字が浮かび上がった。

 

 ――観測者への警告。

 

 ――緑谷出久、自己認識の変化を確認。

 

 ――御影出久との接続、安定化。

 

 ――世界再構築機構、再起動まで残り……

 

 その先の数字が、何度も書き換わる。

 

 十。

 

 九。

 

 八。

 

 七。

 

 数字が減っていく。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……何が始まるんだ?」

 

 ノートは答えなかった。

 

 ただ、最後の数字が消える直前。

 

 新しい文章が浮かび上がった。

 

 ――麗日お茶子の記憶が完全に復元された場合。

 

 ――世界再構築機構は、強制的に起動します。

 

 出久の顔から、血の気が引いた。

 

「……お茶子ちゃん?」

 

 その瞬間。

 

 病室の外から、悲鳴が聞こえた。

 

     *

 

「――麗日!」

 

 相澤の声だった。

 

 出久は、病室のドアを開けた。

 

 廊下の先に、人が集まっている。

 

 八百万。

 

 飯田。

 

 切島。

 

 そして、床に膝をついたお茶子。

 

 彼女の周囲で、空気が歪んでいた。

 

 いや。

 

 空気だけではない。

 

 壁の色が変わっている。

 

 床の模様が、別のものに置き換わっている。

 

 廊下の奥に見える窓の外が、知らない場所に変わっている。

 

 雄英高校の校舎が、別の建物と重なっていた。

 

「……何が起きてるんだ?」

 

 出久が呟いた。

 

 相澤が振り返る。

 

「緑谷、下がれ!」

 

「先生!」

 

「麗日の記憶が、何かに干渉している!」

 

 お茶子は、床に手をついていた。

 

 顔を上げる。

 

 その瞳は、涙で濡れていた。

 

「……出久くん」

 

「お茶子ちゃん!」

 

「私、思い出した……」

 

 彼女の声が、震えた。

 

「全部じゃない。でも……大切なことを、思い出したの」

 

 出久は、一歩近づいた。

 

「何を……?」

 

 お茶子は、首を横に振った。

 

「……ごめんね」

 

「お茶子ちゃん、謝らなくていい!」

 

「ううん」

 

 彼女は、泣きながら笑った。

 

「謝らなきゃいけないことなんだよ」

 

 その瞬間。

 

 廊下の時計が、午前二時十三分を示した。

 

 朝の光が消えた。

 

 周囲の生徒たちの姿が、薄くなっていく。

 

 誰かが叫んだ。

 

 誰かが、助けを求めた。

 

 けれど、その声も、次々と遠ざかっていく。

 

 世界が、過去に引き戻されていた。

 

 お茶子は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 彼女の背後に、白い部屋が現れる。

 

 病室。

 

 窓のない部屋。

 

 小さなベッド。

 

 そして、その上に座る少年。

 

 御影出久。

 

 少年は、お茶子を見つめていた。

 

 その表情は、優しかった。

 

 悲しいほどに。

 

「……あのとき」

 

 お茶子が呟く。

 

「私は、君に約束したんだね」

 

 少年が頷いた。

 

「……出久くんを守るって」

 

 また、頷く。

 

「君がいなくなっても、出久くんを一人にしないって」

 

 少年は、笑った。

 

 お茶子の目から、涙が溢れた。

 

「でも……」

 

 彼女は、震える声で続けた。

 

「私は、君を守れなかった」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「違う」

 

 その声が、初めて聞こえた。

 

 幼い、優しい声。

 

「お茶子ちゃんは、僕を守ってくれたよ」

 

「……違うよ」

 

「守ってくれた」

 

「だって、私は……!」

 

 お茶子が叫ぶ。

 

「私は、君を殺したんだよ!」

 

 少年は、悲しそうに笑った。

 

「うん」

 

 その肯定に、お茶子の身体が震えた。

 

「……どうして、そんなに優しいの?」

 

 少年は、少し考えた。

 

 そして。

 

「お茶子ちゃんが、優しかったから」

 

 そう答えた。

 

 お茶子は、泣き崩れた。

 

 少年は、ベッドから降りた。

 

 小さな足で、ゆっくりと彼女に近づく。

 

「……ねえ、お茶子ちゃん」

 

「……何?」

 

「君は、僕を殺したことを、ずっと覚えていなかったんだよね」

 

 お茶子は、頷いた。

 

「……うん」

 

「それは、君が僕を忘れたかったからじゃないよ」

 

 少年は、彼女の手を握った。

 

「僕が、君に忘れてほしかったからなんだ」

 

 お茶子が顔を上げた。

 

「……え?」

 

「君は、僕を殺した後、ずっと泣いていた」

 

 少年は、静かに語り始めた。

 

「僕は、君に笑っていてほしかった。出久のそばにいてほしかった。だから、君の記憶を消したんだ」

 

 お茶子の瞳が揺れた。

 

「……君が?」

 

「うん」

 

「私の記憶を……?」

 

「うん」

 

 少年は、申し訳なさそうに笑った。

 

「ごめんね」

 

 お茶子は、首を横に振った。

 

「違う……違うよ……」

 

「君が僕を殺したことを、君自身の罪にしたくなかったんだ」

 

 少年は、彼女の手を握りしめた。

 

「僕が頼んだことだったから」

 

 その言葉に。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 御影出久は、お茶子に殺された。

 

 だが、それは。

 

 お茶子が一方的に彼を殺したという意味ではなかった。

 

 御影出久自身が、彼女に頼んだ。

 

 自分の死を、成立させてほしいと。

 

 弟を生かすために。

 

 世界が弟の存在を認めるために。

 

 そして。

 

 お茶子が、弟を守り続けられるように。

 

「……そんなの」

 

 出久は、震える声で言った。

 

「そんなの、あんまりだよ……」

 

 少年が、出久を見た。

 

 初めて、兄弟の視線が交わった。

 

 兄は、弟を見ていた。

 

 弟は、兄を見ていた。

 

 だが。

 

 そこには、埋められない時間があった。

 

 兄が生まれる前に死んだ時間。

 

 弟が生まれるために、兄が失われた時間。

 

 そして、二人が一緒に生きられなかった時間。

 

「……兄さん」

 

 出久が呼んだ。

 

 少年は、笑った。

 

「……うん」

 

「僕は……」

 

 出久は、言葉を探した。

 

「僕は、君に生きていてほしかった」

 

「うん」

 

「僕は、君と一緒に生きたかった」

 

「うん」

 

「……でも、君は僕を生かすために死んだ」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「違うよ」

 

 その声は、優しかった。

 

「僕は、君を生かすために死んだんじゃない」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……え?」

 

「僕は、君と一緒に生きたかったんだ」

 

 少年は、涙を浮かべて笑った。

 

「でも、あのときの僕には、それができなかった」

 

 彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「だから、君に生きてほしかった」

 

 そして。

 

「いつか、君が僕のいない世界でも、幸せになれるように」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「……それが、僕の願いだった」

 

 少年は、出久に手を伸ばした。

 

「でも、出久」

 

「……うん」

 

「君は、僕を探してくれた」

 

 その瞳から、涙が落ちた。

 

「ありがとう」

 

 出久は、兄の手を握ろうとした。

 

 だが。

 

 指先が触れる直前。

 

 世界が、大きく揺れた。

 

     *

 

 警告音が響く。

 

 白い部屋の壁に、黒い文字が浮かび上がった。

 

 ――第一子の死亡記録、再評価開始。

 

 ――立会人の記憶、復元率:九十七パーセント。

 

 ――世界再構築機構、強制起動。

 

 ――残り時間、六十秒。

 

 お茶子が顔を上げた。

 

「……そんな」

 

 相澤が、歯を食いしばる。

 

「また始まったか……!」

 

 出久は、兄の手を握ろうとしたまま、動けずにいた。

 

「……兄さん、どうすればいい?」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「僕にも、わからない」

 

「……」

 

「でも、一つだけ」

 

 少年は、出久の目を見た。

 

「僕を救うために、誰かを殺さないで」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……わかった」

 

「僕を救うために、世界を壊さないで」

 

「……うん」

 

「それから……」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「お茶子ちゃんを、嫌いにならないで」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……兄さん」

 

「お願い」

 

 その言葉は、命令ではなかった。

 

 ただの願いだった。

 

 兄が、弟に託した願い。

 

 出久は、涙を拭った。

 

「……わかった」

 

 そして。

 

「でも、僕は、お茶子ちゃんを嫌いになるかどうかも、自分で決めるよ」

 

 少年が目を見開いた。

 

 出久は、続けた。

 

「兄さんが望んだから、許すんじゃない。兄さんが望んだから、忘れるんでもない」

 

 彼は、お茶子を見た。

 

 彼女は、泣いていた。

 

 けれど、目を逸らさなかった。

 

「僕は、お茶子ちゃんが何をしたのか、ちゃんと知りたい」

 

 出久は、兄に向き直った。

 

「兄さんが何を望んでいたのかも、ちゃんと知りたい」

 

 そして。

 

「そのうえで、僕は僕の意思で、二人と向き合う」

 

 少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

 やがて。

 

 心から嬉しそうに、笑った。

 

「……うん」

 

 その瞬間。

 

 世界が、完全に止まった。

 

 カウントダウンは、残り一秒で停止した。

 

 白い部屋の中で、三人だけが動いていた。

 

 出久。

 

 お茶子。

 

 御影出久。

 

 兄は、弟と少女を交互に見た。

 

 そして、静かに言った。

 

「……ごめんね」

 

 誰に向けた言葉なのか、わからなかった。

 

 弟にか。

 

 少女にか。

 

 それとも。

 

 これから起こることを、すでに知っている自分自身にか。

 

「僕は、まだ君たちに言っていないことがある」

 

 出久の顔が強張った。

 

「……何?」

 

 少年は、悲しそうに笑った。

 

「僕が死ぬことを、最初に決めたのは……僕じゃないんだ」

 

 その瞬間。

 

 白い部屋の扉が、開いた。

 

 扉の向こうに立っていたのは。

 

 緑谷出久だった。

 

 今の出久ではない。

 

 幼い出久でもない。

 

 見慣れた顔。

 

 見慣れた緑色の髪。

 

 けれど、その瞳には、底知れない疲労と絶望が宿っていた。

 

 その人物は、出久を見つめた。

 

 そして。

 

 まるで、自分自身に向けて言い聞かせるように、呟いた。

 

「……ごめん、兄さん」

 

 御影出久が、目を閉じた。

 

 その声を聞いた瞬間。

 

 出久は理解した。

 

 目の前にいるのは、兄ではない。

 

 過去の自分でもない。

 

 未来の自分だ。

 

 何度も世界を壊し、何度も世界を作り直した、もう一人の緑谷出久。

 

 その人物が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……今度こそ、君を生まれさせない」

 

 世界が、再び動き始めた。

 

 そして、出久の目の前で。

 

 兄が、消えた。

 

     *

 

 誰も、声を出せなかった。

 

 お茶子は、伸ばした手を空中に残していた。

 

 相澤は、歯を食いしばっている。

 

 八百万は、端末を握りしめたまま動けない。

 

 爆豪は、何かを叫ぼうとして、言葉を失っていた。

 

 出久だけが、立ち尽くしていた。

 

 兄がいた場所。

 

 そこには、何もない。

 

 写真も。

 

 ノートも。

 

 記録も。

 

 御影出久という名前すら、薄れていく。

 

 世界は、また彼を消そうとしていた。

 

 けれど。

 

 出久は、今度こそ、その名前を覚えていた。

 

「……御影出久」

 

 声に出す。

 

 もう一度。

 

「御影出久」

 

 名前を呼ぶたび、消えかけた記録が、わずかに揺らいだ。

 

「……兄さん」

 

 その瞬間。

 

 世界のどこかで、誰かが答えた気がした。

 

 ――出久。

 

 出久は、顔を上げた。

 

 けれど、そこには誰もいなかった。

 

 ただ、床に落ちた写真だけが残っていた。

 

 写真の中では、三人の子どもが笑っている。

 

 幼い出久。

 

 幼いお茶子。

 

 そして、御影出久。

 

 その三人の背後にいた、顔のない子どもは。

 

 もう、いなかった。

 

 写真の裏面には、新しい文字が書かれていた。

 

 ――第四の子どもは、まだ生まれていない。

 

 その下に。

 

 ――だが、第四の子どもは、すでにすべてを知っている。

 

 出久は、その文字を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと理解した。

 

 御影出久が消えたのは、終わりではない。

 

 兄の死の真相に近づいたことで、次の記録が開かれたのだ。

 

 兄を殺したのは、誰だったのか。

 

 お茶子は、何を承認したのか。

 

 未来の自分は、なぜ兄を生まれさせないと言ったのか。

 

 そして。

 

 第四の子どもとは、誰なのか。

 

 出久は、写真を拾い上げた。

 

 震える手で、胸に抱く。

 

「……今度は、僕が探す」

 

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 

「兄さんを殺した人が誰なのか。どうして、そんなことが起きたのか」

 

 涙が、一滴落ちた。

 

「全部、僕が知る」

 

 そして。

 

「誰も、いなかったことになんかさせない」

 

 その決意に応えるように。

 

 写真の中の御影出久が、ほんの少しだけ笑った。

 

 ――うん。

 

 その声は、もう聞こえなかった。

 

 けれど、出久にはわかった。

 

 兄は、まだどこかにいる。

 

 世界の記録から消されても。

 

 存在そのものを否定されても。

 

 自分が名前を覚えている限り。

 

 自分が、兄を探し続ける限り。

 

 そして。

 

 兄が、自分を覚えている限り。

 

 まだ、終わっていない。

 

 その頃。

 

 世界の外側。

 

 観測者は、新しい記録を開いていた。

 

 ――御影出久、再消去。

 

 ――処理結果:失敗。

 

 ――対象個体の存在反応:残存。

 

 ――観測者:緑谷出久。

 

 ――立会人:麗日お茶子。

 

 ――介入者:緑谷出久。

 

 ――第四個体:活動開始。

 

 観測者は、最後の項目を見つめた。

 

「……第四個体」

 

 その存在は、まだ生まれていない。

 

 けれど、すでに記録の中にいた。

 

 世界が始まる前から。

 

 第一子が死ぬ前から。

 

 第二子が生まれる前から。

 

 そして。

 

 御影出久が、初めて「生きたい」と願う前から。

 

 第四の子どもは、そこにいた。

 

 観測者は、記録の末尾に一文を書き加えた。

 

 ――次回観測対象:緑谷出久。

 

 その下に。

 

 ――ただし、観測対象が誰を指しているかは未確定。

 

 観測者は、静かに目を閉じた。

 

 世界は、まだ答えを知らない。

 

 緑谷出久も。

 

 麗日お茶子も。

 

 御影出久も。

 

 誰も、まだ真実を知らない。

 

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 

 兄を救うために世界を壊した少年がいた。

 

 弟を生かすために死を選んだ少年がいた。

 

 その死を承認した少女がいた。

 

 そして。

 

 彼らの選択を、最初から知っていた誰かがいた。

 

 その誰かは、まだ姿を現していない。

 

 けれど、すでに物語の中にいる。

 

 ずっと昔から。

 

 ずっと、彼らの隣に。

 

 第三十四話 了

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