僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十五話 写真に写っていた、もう一つの人生

 

 写真の中の三人は、笑っていた。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 麗日お茶子。

 

 幼い三人が肩を寄せ合い、夏の陽射しの下で笑っている。

 

 御影は、出久と同じ顔をしていた。

 

 けれど、写真の中の彼は、今まで出久が見てきたどの自分とも違っていた。

 

 少しだけ目尻が下がっている。

 

 笑うとき、右の犬歯が覗く。

 

 誰かに何かを言われると、まず相手の顔を見て、それから困ったように笑う。

 

 出久には、その癖に覚えがあった。

 

 自分のものではない。

 

 それなのに、知っている。

 

 まるで、ずっと昔に自分も同じ仕草をしていたかのように。

 

 写真の裏には、四つの文章が残されていた。

 

 ――第一子、御影出久。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――立会人、麗日お茶子。

 

 そして。

 

 ――第四の子どもは、まだ生まれていない。

 

 ――だが、第四の子どもは、すでにすべてを知っている。

 

 最後の一文だけ、筆圧が異様に強かった。

 

 紙の裏側にまで、文字の凹凸が刻み込まれている。

 

 まるで、書いた人間が。

 

 書き終えた瞬間、二度とこの文章を書けなくなると知っていたかのように。

 

「……帰ろう」

 

 出久が言った。

 

 誰も動かなかった。

 

 雄英高校の地下にある、臨時調査室。

 

 壁には、これまで発見された出生記録、死亡証明書、再構築記録、そして名前を失った子どもたちの写真が貼られている。

 

 部屋の中央には、机が一つ。

 

 その上に、たった一枚の写真。

 

 世界を何度も作り直してきた何者かが、最後まで消せなかったもの。

 

「帰るって……どこにだ、緑谷」

 

 爆豪勝己が、低い声で尋ねた。

 

「この写真が撮られた場所。あるいは、この写真が存在していた世界」

 

「世界が違ったら、場所なんか残ってねえだろ」

 

「そうだね」

 

「だったら何を探すつもりだ」

 

 出久は写真を見つめた。

 

「この世界にいなかった人間が、この世界にいた証拠を探す」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

「……は?」

 

「御影くんが、この世界で生きていた証拠は、今までにもいくつかあった。でも、どれも消されたり、書き換えられたりしていた。出生記録も、写真も、周囲の記憶も」

 

 出久は写真を持ち上げた。

 

「それなのに、これは残っている」

 

「残ってるんじゃねえ」

 

 相澤消太が、壁際から口を挟んだ。

 

「残されている可能性がある」

 

 出久は振り返った。

 

 相澤は腕を組んだまま、写真を見ていた。

 

「世界の再構築が何を基準に行われているのか、まだ分かっていない。人間の記憶を消す。記録を書き換える。物理的な痕跡を消す。場合によっては、因果関係そのものを変える」

 

「……はい」

 

「だが、これは残った。つまり、消去できなかったか、消去する必要がなかったか、あるいは――」

 

「消したくなかった」

 

 お茶子が、小さく言った。

 

 その言葉に、全員の視線が集まった。

 

 お茶子は、自分の両手を見つめていた。

 

 指先が震えている。

 

 昨日までなら、彼女はその震えを隠していただろう。

 

 笑って、ごまかして、出久に心配をかけないようにしたはずだった。

 

 でも、今は違った。

 

 自分が御影を殺したという記憶を取り戻した以上、もう何もなかったふりはできない。

 

「御影くんが、残したかったんやと思う」

 

「お茶子ちゃん……」

 

「この写真に写っとる自分のことも。出久くんのことも。……私のことも」

 

 彼女は、写真の中の幼い自分に目を落とした。

 

「だって、これ……」

 

 声が詰まる。

 

「これ、みんな、ほんまに楽しそうやもん」

 

 その一言が、出久の胸に刺さった。

 

 写真の中では、誰も死んでいない。

 

 誰も消えていない。

 

 誰かを生かすために、誰かを殺す必要もない。

 

 兄弟のどちらかを選ばなければならない父親もいない。

 

 誰かの記憶を消して、誰かの存在を守る必要もない。

 

 ただ、三人の子どもがいる。

 

 夏の日に遊んで、笑って、写真を撮った。

 

 それだけの人生が、確かに存在していた。

 

 あるいは。

 

 存在していたはずだった。

 

「……調べよう」

 

 出久は言った。

 

「この写真の中で、何が起きていたのか。御影くんが生きていた世界では、僕はどうなっていたのか」

 

 そして、彼は一度だけ目を閉じた。

 

「それから、お茶子ちゃんが……誰を好きだったのかも」

 

 沈黙が落ちた。

 

 お茶子が息を呑む。

 

 爆豪が、あからさまに顔をしかめた。

 

「おい、デク。今それを調べる必要が――」

 

「あるよ」

 

 出久は爆豪を見た。

 

 その顔には、怒りも、責める色もなかった。

 

 ただ、ひどく疲れたような悲しさがあった。

 

「だって、この写真の中のお茶子ちゃんは、僕のことを好きだったのかな」

 

 お茶子の唇が震えた。

 

「それとも……」

 

 出久は、写真の中の御影を見た。

 

「兄さんのことを、好きだったのかな」

 

 誰も、答えられなかった。

 

 そして、写真の表面に。

 

 今まで存在しなかった文字が、一文字ずつ浮かび上がった。

 

 ――記録領域、解放。

 

 ――対象世界を検索します。

 

 ――緑谷出久、存在確認。

 

 ――御影出久、存在確認。

 

 ――麗日お茶子、存在確認。

 

 次の瞬間。

 

 最後の行が、黒く塗り潰された。

 

 ――緑谷出久、存在しません。

 

 出久は、息を止めた。

 

 写真の中の三人は、笑っていた。

 

 その笑顔のすぐ後ろに。

 

 誰もいないはずの場所に。

 

 もう一人の自分が、立っていた。

 

 今の出久よりも少しだけ背が高く。

 

 今の出久よりも少しだけ大人びていて。

 

 そして。

 

 誰よりも悲しそうな目をしていた。

 

 その少年は、写真の中から出久を見つめていた。

 

 唇だけが、静かに動いた。

 

 ――君は、生まれてはいけなかった。

 

 写真が燃えた。

 

 火は上がらなかった。

 

 煙も出なかった。

 

 ただ、写真の端から色が抜けていき、最後には、白い紙だけが机の上に残った。

 

 相澤が即座に出久の肩を掴む。

 

「緑谷。聞こえるか」

 

「……はい」

 

「自分の名前を言え」

 

「緑谷、出久です」

 

「ここはどこだ」

 

「雄英高校、地下調査室です」

 

「目の前にいる人間は」

 

「相澤先生。爆豪くん。轟くん。飯田くん。切島くん。八百万さん……それから、お茶子ちゃん」

 

「よし」

 

 相澤は、出久の肩を離さなかった。

 

「誰かに名前を呼ばれたら、返事をする前に、そいつが誰なのか確認しろ」

 

「先生……?」

 

「今の映像が何だったのか分からない以上、念のためだ」

 

 相澤の目は、机の上の白紙を見ていた。

 

「俺たちは、今まで何度も記憶を失ってきた。記録も、名前も、存在も。だが、これからは違う」

 

 彼は、はっきりと言った。

 

「何を見せられても、何を思い出しても、勝手に答えを決めるな。特に、自分を殺せという命令には従うな」

 

 出久は、少しだけ笑った。

 

「……はい」

 

 その笑顔を見て、お茶子は泣きそうになった。

 

 彼は、また自分を犠牲にしようとしているのではないか。

 

 誰かが生きていた世界を取り戻すために。

 

 誰かが消えた理由を知るために。

 

 そのためなら、自分の存在すら差し出してしまうのではないか。

 

 彼女は、出久の袖を掴んだ。

 

「出久くん」

 

「うん」

 

「一人で行かんといて」

 

 出久は彼女を見た。

 

「……行かないよ」

 

「ほんま?」

 

「うん」

 

「約束して」

 

 その言葉を聞いた瞬間、出久の表情が変わった。

 

 約束。

 

 その言葉は、これまで何度も彼らを救い、何度も彼らを縛ってきた。

 

 御影が残した約束。

 

 お茶子が忘れさせられた約束。

 

 父親が守れなかった約束。

 

 世界が、約束を破った子どもを消したという記録。

 

 出久は、お茶子の手を握った。

 

「約束する。……でも、もし僕が忘れてしまったら」

 

「忘れさせへん」

 

 お茶子は即答した。

 

「何回でも言う。何回でも、思い出させる」

 

 彼女の目から、一筋の涙が落ちた。

 

「今度は、私が忘れさせへんから」

 

 その言葉を聞いた出久は、握った手に少しだけ力を込めた。

 

 机の上には、何も写っていない写真が残されていた。

 

 しかし、その白紙の中央に。

 

 針で刺したような、小さな黒い点が一つだけ浮かんでいた。

 

 それは、まるで。

 

 まだ誰も見つけていない世界への、入口のようだった。

 

1 白紙の写真

「……この黒い点、さっきから大きくなってないか?」

 

 最初に気づいたのは、轟だった。

 

 机を囲んでいた全員が、白紙に目を落とす。

 

 中央に浮かんでいた黒い点は、確かに先ほどより大きくなっていた。

 

 針で刺したような点が、ゆっくりと円を描く。

 

 まるで、紙の向こう側から誰かが指で押しているようだった。

 

「触るな」

 

 相澤の制止よりも早く、飯田が机の周囲に手を伸ばした。

 

「全員、後退! 未知の現象に対して不用意に接触するのは危険だ!」

 

「お前、こういうときまで委員長なんだな……」

 

「爆豪くん! 今は茶化している場合ではない!」

 

「茶化してねえ!」

 

「二人とも静かに」

 

 八百万の声が、言い争いを止めた。

 

 彼女は紙を直接触らないよう、創造した透明な保護ケースを机にかぶせていた。

 

 黒い円は、その内側で広がっていく。

 

 直径一センチ。

 

 二センチ。

 

 三センチ。

 

 やがて、円の中央に白い文字が浮かんだ。

 

 ――観測条件を満たしました。

 

 ――記録領域への接続を開始します。

 

 ――接続対象を選択してください。

 

 その下に、三つの名前が表示された。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 麗日お茶子。

 

 出久は、思わず息を呑んだ。

 

「……三人とも、選べるの?」

 

「選べるように見せているだけかもしれない」

 

 相澤が答えた。

 

「こういう現象は、選択肢そのものが罠になっている可能性がある。選ばせることで、こちらの意思を記録しているのかもしれない」

 

「では、接続を拒否する選択肢はないのですか?」

 

 飯田がケースを覗き込む。

 

 画面には、三つの名前しかなかった。

 

 そして、しばらく待つと、文字が一つ増えた。

 

 ――観測者の選択を待機中。

 

「……選択しない場合は?」

 

 切島が尋ねた。

 

「分からない」

 

 相澤は即答した。

 

「ただ、今までの記録から考えると、向こうは俺たちが何もしなくても勝手に処理を進める可能性が高い」

 

「なら、俺たちが選ぶしかねえってことか」

 

 爆豪の声には、苛立ちが滲んでいた。

 

「選ばなければ勝手に進む。選べば何をされるか分からねえ。クソみてえな二択だな」

 

「三択だよ、爆豪くん」

 

「そこじゃねえ!」

 

 出久は、二人のやり取りを聞きながら、三つの名前を見つめていた。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 麗日お茶子。

 

 自分たちの名前が並んでいる。

 

 しかし、ここには本来、もう一人いるはずだった。

 

 第四の子ども。

 

 まだ生まれていないのに、すべてを知っているという存在。

 

 そして、写真の中から自分を見つめていた、もう一人の自分。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「四つ目がないのは、どうしてだと思いますか?」

 

 相澤は、しばらく黙った。

 

「第四の子どもが、選択する側だからかもしれない」

 

「選択する側……」

 

「あるいは、選択肢に含めることができない存在なのかもしれない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、出久は嫌な予感を覚えた。

 

 第四の子どもは、まだ生まれていない。

 

 けれど、すでにすべてを知っている。

 

 生まれる前から世界を見ている人間。

 

 存在しないのに、存在している人間。

 

 それは、これまで彼らが追い続けてきた謎そのものだった。

 

 出久は、白紙に手を伸ばした。

 

「緑谷!」

 

 相澤が鋭く呼ぶ。

 

「触りません」

 

 出久は手を止めた。

 

「ただ、選ぶなら……」

 

 彼は三つの名前を見た。

 

「御影くんを選びたいです」

 

「理由は?」

 

「彼が生きていた世界を見たいからです」

 

 誰も、すぐには答えなかった。

 

 出久は続けた。

 

「僕がいなかった世界でもいい。お茶子ちゃんが僕を好きじゃなかった世界でもいい。……僕が生まれていないせいで、誰かが幸せになれた世界なら、それも知りたい」

 

「出久くん」

 

 お茶子の指が、出久の袖を握り直す。

 

「でも、僕はその世界を、僕の世界より正しいとは思わない」

 

 出久は彼女を見た。

 

「誰かが幸せだった世界があったからって、今ここにいる人たちが不幸にならなきゃいけない理由にはならないよ」

 

 お茶子の目が揺れた。

 

「僕が生まれなかった世界に、兄さんが生きていたのなら……僕は、そこから何を学べるのか知りたい」

 

 彼はもう一度、白紙を見た。

 

「でも、その世界に行って、僕がいないほうがよかったって証明しようとは思わない」

 

 それは、誰かに向けた宣言だった。

 

 写真の向こうにいる、もう一人の緑谷出久へ。

 

 世界を作り直すたびに、自分を消そうとしてきた誰かへ。

 

 そして、何より。

 

 自分自身へ。

 

「……御影出久を選択する」

 

 出久が言った。

 

 相澤は止めなかった。

 

 ただし、すぐ隣に立ち、出久の腕を掴める位置から離れなかった。

 

 お茶子も、彼の手を握っていた。

 

 出久は、ケース越しに白紙を見つめる。

 

「接続を開始してください」

 

 その言葉に反応して、黒い円が一瞬だけ光った。

 

 ――対象個体、御影出久。

 

 ――記録世界を検索します。

 

 ――検索結果、一件。

 

 ――記録世界名:もう一つの人生。

 

 次の瞬間、部屋の照明が消えた。

 

 暗闇の中で、誰かが笑った。

 

 子どもの声だった。

 

「……お兄ちゃん、早く!」

 

 出久は、その声を知っていた。

 

 知っているはずがなかった。

 

 それでも、胸の奥が痛くなった。

 

 そして。

 

 暗闇の向こうから、もう一つの声が聞こえた。

 

「待ってよ。僕も行くから!」

 

 その声は、出久自身の声によく似ていた。

 

 ただし。

 

 今の出久よりも、ずっと幼かった。

 

2 出久のいない朝

 目を開けると、出久はベッドの中にいた。

 

 見慣れた天井。

 

 見慣れたカーテン。

 

 窓の外から聞こえる、鳥の鳴き声。

 

 そして、隣の部屋から響く、母親の声。

 

「御影ー! 出久ー! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」

 

 出久は、跳ね起きた。

 

 今、母親は何と言った?

 

 御影。

 

 出久。

 

 二つの名前を、当たり前のように呼んだ。

 

 彼はベッドから飛び降り、鏡を見た。

 

 そこには、いつもの自分がいた。

 

 緑色の髪。

 

 丸い目。

 

 そばかす。

 

 少し頼りない、見慣れた顔。

 

 しかし、鏡の縁に貼られたシールが違っていた。

 

 ヒーローのシール。

 

 オールマイトのシール。

 

 そして、二人の少年が並んで笑っている写真。

 

 一人は緑谷出久。

 

 もう一人は御影出久。

 

 その写真の下には、幼い字で書かれていた。

 

 ぼくたちは、ずっといっしょ!

 

「……なんだ、これ」

 

 出久は写真を剥がした。

 

 裏側には、日付が書かれていた。

 

 十年前。

 

 さらにその下に、小さな文字がある。

 

 ――兄さんが死なない世界。

 

 出久の指が止まった。

 

 その瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。

 

「出久! まだ着替えてないの!?」

 

 母親だった。

 

 緑谷引子。

 

 今まで何度も見てきた、母親の顔。

 

 しかし、彼女は出久を見るなり、首を傾げた。

 

「……どうしたの?」

 

「え?」

 

「そんな顔して。夢でも見た?」

 

 出久は、母親の顔を見つめた。

 

 彼女の目元には、薄い皺がある。

 

 疲れている。

 

 けれど、悲しそうではない。

 

 少なくとも、出久が知っている世界の母親よりも、少しだけ明るい顔をしていた。

 

「お母さん……」

 

「なあに?」

 

「御影くんは……」

 

 口にした瞬間、母親の表情が変わった。

 

 驚きではなかった。

 

 悲しみでもなかった。

 

 むしろ、当然のことを聞かれたという顔だった。

 

「何言ってるの。御影なら、もう起きてるわよ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……起きてる?」

 

「そうよ。あんたを起こしに来たのに、先に朝ごはんを食べちゃったんだから」

 

 母親は、呆れたように笑った。

 

「お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさいって、いつも言ってるでしょう?」

 

 お兄ちゃん。

 

 その言葉が、出久の中で何かを壊した。

 

 この世界では。

 

 御影出久が、兄だった。

 

 そして、自分は。

 

 緑谷出久は。

 

 弟だった。

 

「……お母さん」

 

「はいはい。話は後! 早く顔を洗ってきなさい!」

 

 母親は出久の背中を押し、部屋の外へ連れ出した。

 

 廊下を歩く。

 

 壁には、二人の少年の写真が並んでいる。

 

 幼稚園の入園式。

 

 初めての運動会。

 

 誕生日。

 

 クリスマス。

 

 夏休み。

 

 写真の中の御影は、いつも出久の隣にいた。

 

 ときには手を引き、ときには肩を組み、ときには喧嘩をしている。

 

 ある写真では、出久が泣きながら御影の服を掴んでいた。

 

 御影は困ったように笑いながら、出久の頭を撫でていた。

 

 別の写真では、二人とも泥だらけになっている。

 

 背景には、引子が笑っていた。

 

 そして、どの写真にも。

 

 死んだ子どもはいなかった。

 

 誰かを消す必要もなかった。

 

 誰かを犠牲にする必要もなかった。

 

 出久は廊下の突き当たりにある鏡の前で、足を止めた。

 

 鏡の中の自分は、いつもの自分だった。

 

 しかし、その背後に。

 

 もう一人の少年が立っていた。

 

「……兄さん?」

 

 振り返る。

 

 誰もいない。

 

 鏡を見る。

 

 少年は、まだ立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 同じ顔。

 

 けれど、目の形が少しだけ違う。

 

 御影出久だった。

 

 彼は鏡の中から、出久に向かって笑った。

 

「おはよう、出久」

 

 その声は、先ほど暗闇の中で聞いた声と同じだった。

 

「……兄さん」

 

「どうしたの? そんな怖い顔して」

 

 御影は首を傾げた。

 

「今日は、いい日だよ」

 

 その言葉と同時に、鏡の表面にひびが入った。

 

 御影の笑顔が、ひび割れの向こうで歪む。

 

「だって、今日は――」

 

 鏡の中の兄は、笑顔のまま言った。

 

「お茶子ちゃんに、告白する日だから」

 

 出久の心臓が、止まりかけた。

 

3 兄さんの恋

「……は?」

 

 思わず、声が出た。

 

 鏡の中の御影は、楽しそうに笑っている。

 

「だから、今日。お茶子ちゃんに告白するんだ」

 

「お茶子ちゃん……?」

 

「うん。麗日お茶子ちゃん」

 

 御影は、当たり前のように言った。

 

「出久も知ってるだろ?」

 

 出久は答えられなかった。

 

 知っている。

 

 知っているどころではない。

 

 麗日お茶子は、彼の恋人だ。

 

 今の世界では、二人は互いに想いを伝え、共に歩くことを決めていた。

 

 何度世界が壊れても。

 

 何度記憶が失われても。

 

 彼女は出久の隣にいた。

 

 だが、この世界では。

 

 彼女は、御影の告白相手だった。

 

「……兄さんは、お茶子ちゃんのことが好きなの?」

 

「うん」

 

 御影は、あまりにも簡単に答えた。

 

「ずっと前から」

 

 出久の喉が詰まった。

 

「……いつから?」

 

「いつからだろう。最初に会ったときかな」

 

 御影は、少し照れくさそうに笑った。

 

「転んだ僕に、手を差し伸べてくれたんだ。僕が泥だらけだったのに、気にせず助けてくれてさ」

 

 その話には、覚えがあった。

 

 出久の記憶にも、同じ場面が存在する。

 

 幼いころ、公園で転んだ自分に手を差し伸べてくれた少女。

 

 泥だらけの手を気にせず、笑いかけてくれた女の子。

 

 それが、麗日お茶子だった。

 

 だが、今、御影が語った記憶は。

 

 出久のものではなかった。

 

「……兄さんが、転んだの?」

 

「うん。すごく派手に」

 

 御影は笑った。

 

「出久はそのとき、僕の後ろで泣いてたよ」

 

「……僕が?」

 

「そうそう。僕が転んだのを見て、自分まで痛くなったみたいに泣いちゃってさ」

 

 御影は、懐かしそうに目を細めた。

 

「お茶子ちゃん、そんな出久を見て、今度は出久の頭も撫でてくれたんだ」

 

 出久は、鏡に触れようとした。

 

 その瞬間、鏡の中の御影が、少しだけ真剣な顔になった。

 

「でも、出久」

 

「……何?」

 

「今日のことは、邪魔しないでね」

 

 笑顔が消えた。

 

「これは、僕の人生だから」

 

 鏡が砕けた。

 

 破片は落ちなかった。

 

 すべてが空中で静止し、その一つ一つに、違う光景が映っていた。

 

 幼い御影。

 

 幼い出久。

 

 幼いお茶子。

 

 三人で手を繋いでいる姿。

 

 四人目の少年の背中。

 

 誰もいない病室。

 

 02時13分を指した時計。

 

 そして。

 

 血に濡れた床の上で、泣いているお茶子。

 

 出久は目を閉じた。

 

 次に目を開けたとき、鏡は元通りになっていた。

 

 背後から、母親の声が聞こえる。

 

「出久ー! 御影が先に行っちゃうわよー!」

 

 彼は、振り返った。

 

 廊下の向こうに、御影が立っていた。

 

 制服姿。

 

 鞄を肩にかけて、玄関の前で待っている。

 

 その顔は、出久が何度も見た顔だった。

 

 消えてしまった兄。

 

 殺された兄。

 

 自分を救うために死んだ兄。

 

 そして、自分が救えなかった兄。

 

 だが、この御影は違った。

 

 生きている。

 

 笑っている。

 

 今日の告白を楽しみにしている。

 

「出久、早く!」

 

 御影が手を振った。

 

「遅刻するぞ!」

 

 出久は、その手を見た。

 

 この手は、死んでいない。

 

 消えていない。

 

 何かを犠牲にしなくても、そこに存在している。

 

 出久は、走り出した。

 

「……兄さん!」

 

「おう!」

 

 御影は、笑った。

 

「どうした?」

 

 出久は、彼の前で立ち止まった。

 

 言いたいことが、山ほどあった。

 

 どうして生きているのか。

 

 ここはどこなのか。

 

 自分はなぜ、この世界にいるのか。

 

 そして。

 

 この世界の自分は、何者なのか。

 

 けれど、最初に出た言葉は。

 

「……おはよう」

 

 それだけだった。

 

 御影は一瞬、目を丸くした。

 

 そして、笑った。

 

「おはよう、出久」

 

 兄は、弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 

「さあ、行こうぜ」

 

 その手の温かさに。

 

 出久は、泣きそうになった。

 

4 麗日お茶子は、誰を見ていたのか

 学校へ向かう道は、見覚えのある景色だった。

 

 けれど、細部が違っている。

 

 角のコンビニは、別の店になっていた。

 

 公園の遊具が一つ多い。

 

 道路沿いの桜の木は、一本だけ枝が折れていた。

 

 そして、通学路を歩く子どもたちは、出久のことを見て笑いかけてくる。

 

「おはよう、緑谷!」

 

「おはよう!」

 

「御影くん、今日だよね?」

 

「えっ、あ、うん!」

 

 御影が照れくさそうに答える。

 

「頑張ってね!」

 

「応援してるから!」

 

「お茶子ちゃん、絶対喜ぶよ!」

 

「ちょ、ちょっと待って! まだ告白するって決まったわけじゃ……!」

 

「昨日、何時間も相談してたくせに!」

 

「うわあああ! なんで知ってるんだよ!」

 

 御影が顔を真っ赤にした。

 

 周囲から笑い声が上がる。

 

 出久は、その光景を黙って見つめていた。

 

 兄は、友達が多かった。

 

 周囲の人間に愛されていた。

 

 自分の気持ちを隠すのが下手で、誰かにからかわれるとすぐに赤くなる。

 

 それでも、自分の想いを伝えようとしている。

 

 普通の少年だった。

 

 ただ、好きな女の子に告白しようとしているだけの。

 

 そんな兄を見ていると、出久は胸が苦しくなった。

 

 彼が生きていた世界。

 

 彼が笑っていた世界。

 

 そこでは、自分も同じように笑っていたのだろうか。

 

 それとも。

 

 自分は、兄の人生を邪魔する存在だったのだろうか。

 

「出久?」

 

 御影が振り返った。

 

「どうしたんだよ。さっきから静かじゃん」

 

「……兄さんは」

 

「ん?」

 

「僕がいなかったら、もっと幸せだった?」

 

 御影の表情が消えた。

 

 通学路のざわめきが、遠くなる。

 

 御影は、しばらく出久を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと首を振った。

 

「何言ってるんだよ」

 

「……でも」

 

「出久がいなかったら、僕は今ここにいないよ」

 

 御影は、出久の肩に手を置いた。

 

「僕が幸せかどうかを、勝手に決めるな」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

 どこかで聞いたことのある言葉だった。

 

 いや。

 

 これは、かつて御影が自分に言った言葉なのかもしれない。

 

 それとも、今の出久が、いつか御影に言われるはずだった言葉なのか。

 

 分からない。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 この世界の御影もまた、出久を大切に思っている。

 

 そして、その気持ちは。

 

 彼が生きている理由の一部なのだ。

 

「……ごめん、兄さん」

 

「謝るなって」

 

 御影は、弟の頭を軽く叩いた。

 

「お前、今日ちょっと変だぞ?」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。いつもより、三倍くらい変」

 

「三倍……?」

 

「うん。いつもの出久なら、今ごろ僕の告白の成功率について、勝手に統計を取ってる」

 

 出久は、思わず目を見開いた。

 

「……え?」

 

「昨日だって、僕が頼んでもいないのに、お茶子ちゃんの好きなものとか、過去の会話とか、全部ノートにまとめてくれただろ」

 

「僕が……?」

 

「そうだよ。お前、そういうところあるじゃん」

 

 御影は、呆れたように笑った。

 

「自分のことは全然分かってないくせに、人のことばっかり考えてさ」

 

 その言葉は、あまりにも。

 

 あまりにも、今の出久を知っているようだった。

 

「……兄さん」

 

「なんだ?」

 

「僕は、兄さんのことが好きだよ」

 

 御影は、足を止めた。

 

 出久も、自分が何を言ったのか分からなかった。

 

 この世界の兄に。

 

 初めて会ったばかりの兄に。

 

 ずっと昔から知っていたような気持ちで。

 

 ただ、伝えたかった。

 

 御影は、驚いた顔をしていた。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

「……知ってるよ」

 

 彼は、出久の頭を撫でた。

 

「僕も、お前が好きだ」

 

 その瞬間、出久の視界が揺れた。

 

 泣いてはいけないと思った。

 

 ここは、兄が生きている世界だ。

 

 自分の悲しみで、この世界を汚してはいけない。

 

 けれど。

 

 御影の手は温かかった。

 

 その温かさを知っている。

 

 ずっと、知りたかった。

 

 何度も、取り戻したかった。

 

 そして、何度も。

 

 失ってきた。

 

「……っ」

 

「おい、出久?」

 

「大丈夫」

 

 出久は、顔を伏せた。

 

「大丈夫だよ、兄さん」

 

 御影は、しばらく弟を見ていた。

 

 何かを察したように、少しだけ眉を寄せる。

 

 しかし、何も聞かなかった。

 

 ただ、出久の手を取った。

 

「行こう」

 

 兄弟は、並んで歩き始めた。

 

 その先に。

 

 麗日お茶子が待っていた。

 

 彼女は、校門の前に立っていた。

 

 明るい茶色の髪。

 

 丸い頬。

 

 大きな瞳。

 

 見慣れた顔。

 

 出久が、何度も思い出してきた顔。

 

 けれど、今のお茶子は。

 

 出久を見るなり、笑った。

 

「おはよう、出久くん!」

 

 その声を聞いた瞬間、出久は立ち止まった。

 

 お茶子は、いつもと同じように笑っている。

 

 しかし、その視線は。

 

 出久を通り越して。

 

 御影を見ていた。

 

「おはよう、お茶子ちゃん」

 

 御影が答えた。

 

「……今日、ちょっと話したいことがあるんだけど」

 

 お茶子の頬が赤くなった。

 

「う、うん……知ってる」

 

「えっ?」

 

「だって、昨日、あんなに相談してたやん」

 

「誰から聞いたの!?」

 

「内緒!」

 

 お茶子は、いたずらっぽく笑った。

 

 その笑顔を見た出久は、理解した。

 

 この世界では。

 

 彼女は、御影を見ている。

 

 御影の言葉に照れる。

 

 御影の声を聞いて笑う。

 

 御影が何かを言いかけると、少しだけ緊張した顔になる。

 

 そのすべてが。

 

 出久の知らない、お茶子だった。

 

「……出久くん?」

 

 お茶子が、こちらを向いた。

 

「どうしたん? 顔色悪いよ?」

 

 出久は、何かを言おうとした。

 

 けれど、言葉が出てこなかった。

 

 彼女の顔を見ていると、胸が痛い。

 

 彼女の声を聞いていると、安心する。

 

 彼女が笑うと、嬉しい。

 

 けれど、その笑顔が自分に向けられていないことが。

 

 こんなにも苦しいとは、知らなかった。

 

「……ううん。何でもないよ」

 

 出久は、笑った。

 

 できる限り、自然に。

 

「おはよう、お茶子ちゃん」

 

 お茶子は、少しだけ不思議そうな顔をした。

 

 それから、いつものように笑った。

 

「うん! おはよう!」

 

 その笑顔は、出久の知っているものだった。

 

 けれど、同じではなかった。

 

 今の世界のお茶子は、出久の手を握ってくれる。

 

 出久が苦しんでいるとき、隣にいてくれる。

 

 出久が自分を犠牲にしようとすると、怒ってくれる。

 

 そして、出久が自分を嫌いになりそうなとき、何度でも名前を呼んでくれる。

 

 だが、この世界のお茶子は。

 

 御影を見つめていた。

 

 出久は、その事実を受け止めた。

 

 受け止めなければならなかった。

 

 この世界は、彼のために作られたものではない。

 

 この世界で、誰かが幸せになることを。

 

 彼が邪魔していい理由など、ない。

 

 ――だから。

 

 出久は、笑った。

 

 兄の恋を応援する弟として。

 

 彼女の幸せを願う友達として。

 

 そして、いつかこの世界から消えなければならない、異物として。

 

「……兄さん」

 

「ん?」

 

「頑張ってね」

 

 御影は、顔を真っ赤にした。

 

「お、おう!」

 

 お茶子も、少し照れくさそうに笑った。

 

「うん。頑張ってね、御影くん」

 

 その一言に、御影は完全に固まった。

 

 周囲から、笑い声が上がる。

 

 出久も、笑った。

 

 笑えてしまった。

 

 こんなにも胸が痛いのに。

 

 それでも、兄が幸せそうだから。

 

 彼女が笑っているから。

 

 この世界が、穏やかに続いているから。

 

 出久は、笑うことができた。

 

 そして、その瞬間。

 

 誰にも見えない場所で。

 

 世界の記録が、一行だけ書き換わった。

 

 ――緑谷出久。

 

 ――対象世界における存在状態:不安定。

 

 ――排除条件、成立。

 

5 存在しない弟

 授業が始まっても、出久は落ち着かなかった。

 

 黒板には、数学の問題が並んでいる。

 

 教師の声が響く。

 

 生徒たちはノートを取っている。

 

 窓の外では、雲が流れている。

 

 あまりにも普通だった。

 

 世界が何度も作り直されているとは思えない。

 

 人間の存在が消されたり、記憶が書き換えられたりしているとは思えない。

 

 この世界には、普通の朝がある。

 

 普通の授業がある。

 

 普通の恋がある。

 

 そして。

 

 普通の兄弟がいる。

 

「緑谷」

 

 教師が呼んだ。

 

「はい!」

 

「この問題を解いてみろ」

 

 出久は黒板を見た。

 

 問題は簡単だった。

 

 しかし、彼は答えられなかった。

 

 数学の問題を解く代わりに、黒板の隅に、小さな文字が見えたからだ。

 

 ――お前は、誰だ。

 

 出久は目を瞬かせた。

 

 文字は消えた。

 

「緑谷?」

 

「あっ、すみません!」

 

 出久は慌てて立ち上がり、問題を解いた。

 

 答えは正しかった。

 

 教師は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 

 席に戻ると、隣の生徒が小声で話しかけてきた。

 

「大丈夫か、緑谷?」

 

「うん。ちょっと寝不足で」

 

「珍しいな。お前、いつも御影くんに起こしてもらってるのに」

 

 出久の手が止まった。

 

「……いつも?」

 

「そうそう。お前、朝弱いだろ」

 

 生徒は笑った。

 

「御影くんがいなかったら、毎日遅刻してるんじゃないか?」

 

 出久は、ノートを見つめた。

 

 そこには、自分の字で書かれた授業内容が並んでいる。

 

 だが、ページの隅に。

 

 見覚えのない文章があった。

 

 ――兄さんが生きている。

 

 ――だから、僕はここにいる。

 

 ――でも、僕は誰の弟なんだろう。

 

 出久は、ペンを握りしめた。

 

 その文章は、間違いなく自分の字だった。

 

 書いた記憶はない。

 

 それなのに、自分の心が書いた文章だと分かった。

 

 彼は、ノートを閉じた。

 

 そのとき、教室の扉が開いた。

 

「緑谷出久くん、いますか?」

 

 知らない女性が立っていた。

 

 白衣を着ている。

 

 年齢は三十代くらい。

 

 手には、薄いファイルを持っていた。

 

「……僕ですけど」

 

 女性は、出久を見た。

 

 その目に、驚きが浮かぶ。

 

 そして、次の瞬間。

 

 彼女は、ひどく悲しそうな顔をした。

 

「……やっぱり」

 

 その声を聞いた瞬間、出久の背筋が凍った。

 

「あなたは……」

 

 女性は、震える指でファイルを開いた。

 

「どうして、ここにいるの?」

 

 教室の空気が止まった。

 

 誰も動かなかった。

 

 教師も、生徒も、窓の外の鳥さえも。

 

 出久だけが、その女性を見ていた。

 

「……先生?」

 

 彼は、声を絞り出した。

 

「僕のことを、知っているんですか?」

 

 女性は答えなかった。

 

 代わりに、ファイルの中から一枚の書類を取り出した。

 

 出生証明書。

 

 名前。

 

 生年月日。

 

 両親の名前。

 

 そして、備考欄。

 

 そこには、黒い文字でこう書かれていた。

 

 緑谷出久――出生記録なし。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……そんな」

 

「あなたは、この世界の人間じゃない」

 

 女性は、静かに言った。

 

「この世界に、緑谷出久という子どもは存在しない」

 

 出久は、立ち上がった。

 

「でも、僕は……!」

 

「あなたが自分を緑谷出久だと思っていることは分かっている」

 

 女性は、苦しそうに目を閉じた。

 

「けれど、この世界の記録では、あなたは存在しないことになっている」

 

「……どうして?」

 

「それは――」

 

 女性が口を開いた瞬間。

 

 教室の時計が、止まった。

 

 針は、02時13分を指していた。

 

 昼間の教室に、夜中の時刻が現れる。

 

 誰もが動きを止める。

 

 黒板に書かれた文字が、ゆっくりと消えていく。

 

 机の上のノートが、白紙になっていく。

 

 そして。

 

 女性の持つ出生証明書から、出久の名前が消えた。

 

 緑谷出久。

 

 その四文字だけが、黒い染みになって広がっていく。

 

 女性は、出久を見た。

 

「……見つかってしまったのね」

 

「何が……?」

 

「第四の子ども」

 

 出久の心臓が、大きく跳ねた。

 

 女性は、泣いていた。

 

「あなたは、まだ生まれていないはずだった」

 

 その言葉と同時に、教室の扉が開いた。

 

 廊下の向こうから、誰かが走ってくる。

 

「出久!」

 

 御影だった。

 

 彼は、息を切らして教室に飛び込んできた。

 

「出久、逃げろ!」

 

「兄さん!?」

 

「早く!」

 

 御影は、出久の腕を掴んだ。

 

 その手は、温かかった。

 

 しかし、彼の顔には、見たことのない恐怖が浮かんでいた。

 

「……兄さん、どうして?」

 

「説明は後だ!」

 

 御影は、女性を睨んだ。

 

「あなたが、こいつを呼び戻したのか!」

 

 女性は、首を振った。

 

「違うわ」

 

 その目から、涙が落ちた。

 

「私ではない」

 

 彼女は、出久を見つめた。

 

「あなたが、自分で戻ってきたのよ」

 

 その瞬間、世界が裂けた。

 

 教室の壁が、紙のように剥がれていく。

 

 窓の外にあった空が、真っ白に変わる。

 

 机も、椅子も、黒板も、生徒たちも。

 

 すべてが、存在しなかったことにされていく。

 

 出久は、御影の手を握り返した。

 

「兄さん!」

 

「大丈夫だ!」

 

 御影は叫んだ。

 

「絶対に、離すな!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、出久の中で、別の記憶が目を覚ました。

 

 暗闇。

 

 血に濡れた床。

 

 泣いている子ども。

 

 そして、誰かの声。

 

 ――今度こそ、君を生まれさせない。

 

 出久は、顔を上げた。

 

 白い空の向こうに。

 

 もう一人の緑谷出久が立っていた。

 

 彼は、悲しそうな顔をしていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……兄さんを返して」

 

 その声は。

 

 今の出久自身の声だった。

 

6 兄を返して

 世界が、止まった。

 

 崩壊しかけていた教室も。

 

 白く染まった空も。

 

 消えかけていた人々も。

 

 すべてが、一瞬で静止した。

 

 御影の手が、出久の腕を掴んでいる。

 

 女性の涙が、頬を伝う途中で止まっている。

 

 そして、白い空の向こうに立つ、もう一人の緑谷出久。

 

 彼だけが、動いていた。

 

「……兄さんを返して」

 

 もう一度、彼は言った。

 

 出久は、その少年を見つめた。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 同じ名前。

 

 しかし、その目だけが違った。

 

 今の出久の目には、まだ、誰かを救えるかもしれないという希望が残っている。

 

 けれど、目の前の少年の目には。

 

 何度も希望を失い、それでも希望を捨てられなかった人間の絶望があった。

 

「君は……誰?」

 

 出久が尋ねた。

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「君だよ」

 

「……僕?」

 

「そう」

 

 少年は頷いた。

 

「君が、まだ選んでいない未来の君」

 

 その言葉を聞いて、出久は息を呑んだ。

 

「未来……?」

 

「違うかな」

 

 少年は首を傾げた。

 

「君が選ばなかった未来の君。君が選んでしまった未来の君。あるいは、君がこれから選ぶことになる未来の君」

 

 彼は、淡々と言った。

 

「どれでもいいんだ。世界は、そういうふうにできているから」

 

「何を言っているのか、分からないよ」

 

「分からなくていい」

 

 少年は、御影を見た。

 

「ただ、兄さんを返して」

 

 出久の心臓が、強く脈打った。

 

「……兄さんは、ここにいる」

 

「違う」

 

 少年は即座に否定した。

 

「それは、君の兄さんじゃない」

 

「そんなこと……!」

 

「君は、御影出久を失った」

 

 少年の声は、冷たかった。

 

「君は、兄さんを救えなかった。何度も世界を作り直した。何度も、何度も、何度も」

 

 彼の背後に、無数の景色が浮かび上がった。

 

 焼け落ちた街。

 

 崩壊した病院。

 

 血に濡れた廊下。

 

 誰もいない家。

 

 泣いている子ども。

 

 そして、02時13分を指した時計。

 

「君は、兄さんを救うために世界を壊した」

 

 少年は続けた。

 

「でも、兄さんは戻らなかった」

 

「……やめて」

 

「君は、最後に決めた」

 

「やめて!」

 

「兄さんが死んだ世界そのものを、君が殺すって」

 

 出久は、耳を塞いだ。

 

 しかし、声は聞こえ続けた。

 

「それでも、兄さんは戻らなかった」

 

 少年は、悲しそうに笑った。

 

「だから、君は最後の世界を作った」

 

 白い空に、もう一つの景色が映る。

 

 そこには、御影がいた。

 

 生きている。

 

 笑っている。

 

 お茶子と話している。

 

 弟の頭を撫でている。

 

 何の疑いもなく、明日を信じている。

 

「兄さんが生きている世界」

 

 少年は、静かに言った。

 

「君が、生まれなかった世界」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「……じゃあ」

 

 喉が震える。

 

「この世界は……」

 

「そう」

 

 少年は頷いた。

 

「君がいないから、兄さんは生きている」

 

 その瞬間、御影が叫んだ。

 

「違う!」

 

 止まっていた世界の中で、御影だけが動いた。

 

 彼は出久の腕を掴んだまま、少年を睨んでいた。

 

「こいつがいなかったから、僕が生きているんじゃない!」

 

 御影の声が、白い空に響いた。

 

「僕は、こいつがいたから生きているんだ!」

 

 少年の表情が、わずかに歪んだ。

 

「……兄さん」

 

「お前、誰だよ!」

 

 御影は叫んだ。

 

「僕の顔をして、僕の名前を呼んで、僕の弟を泣かせて! いったい何がしたいんだ!」

 

 少年は、答えなかった。

 

 御影は、出久の肩を掴んだ。

 

「出久、聞くな!」

 

「……兄さん」

 

「僕は、ここにいる!」

 

 御影の声が震えた。

 

「僕は生きている! この世界で、お前の兄として生きている! それが、そんなに間違っているのか!?」

 

 少年は、目を閉じた。

 

 そして。

 

 初めて、泣いた。

 

「……違うんだ」

 

 彼は、震える声で言った。

 

「違うんだよ、兄さん」

 

 御影の顔が強張る。

 

 少年は、涙を拭わなかった。

 

「僕は、兄さんを取り戻したいんじゃない」

 

 彼は、出久を見た。

 

「君に、兄さんを渡したくないんだ」

 

 その言葉の意味を、出久はすぐには理解できなかった。

 

「……どうして?」

 

「君が、また兄さんを殺すから」

 

 少年は言った。

 

「君は、兄さんを救おうとする。兄さんを生かそうとする。兄さんを失わないために、何でもする」

 

 その目が、出久を射抜いた。

 

「そして最後には、兄さんの意思を無視する」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「君は、兄さんを愛している」

 

 少年は続けた。

 

「でも、君は兄さんを失うことが怖いんだ」

 

 出久の胸が、痛んだ。

 

「だから、君は兄さんを守るために、兄さんが生きる世界を壊す」

 

「……違う」

 

「違わない」

 

 少年は、首を振った。

 

「僕が、そうしたから」

 

 沈黙。

 

 御影は、出久を見た。

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 目の前の少年は、自分と同じだった。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 同じ兄を愛している。

 

 そして、同じ過ちを犯してきた。

 

 誰かを救いたいという気持ちを、誰かを支配する理由に変えてしまった。

 

 誰かを守りたいという願いを、誰かの人生を奪う理由にしてしまった。

 

「……じゃあ、どうすればいいの?」

 

 出久は尋ねた。

 

 少年は、答えなかった。

 

「兄さんを救うために、僕は何をすればいい?」

 

 その問いに、少年はゆっくりと首を振った。

 

「何もしないで」

 

「……え?」

 

「何もしないで、緑谷出久」

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「兄さんを救おうとしないで」

 

 その声は、あまりにも優しかった。

 

「兄さんを守ろうとしないで」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「兄さんを、生かそうとしないで」

 

 そして。

 

「兄さんが、自分で生きることを選べるようにしてあげて」

 

 白い空が、軋んだ。

 

 御影が、出久の手を強く握った。

 

 その手は、温かかった。

 

 出久は、兄を見た。

 

 生きている兄。

 

 自分の手を握ってくれる兄。

 

 そして、自分の人生を自分で選ぼうとしている兄。

 

 出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かった」

 

 少年の目が、見開かれた。

 

「僕は、兄さんを救おうとするのをやめる」

 

 出久は、御影を見た。

 

「兄さんが何を望んでいるのか、聞くよ」

 

 御影は、驚いた顔をした。

 

「兄さんが生きたいなら、生きるために一緒に考える。兄さんが別の道を選びたいなら、それも聞く」

 

 出久は、もう一人の自分を見た。

 

「僕が勝手に、兄さんの人生を決めたりしない」

 

 少年は、震えていた。

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

「本当に、できるの?」

 

「分からない」

 

 出久は、正直に答えた。

 

「きっと、何度も間違えると思う」

 

 それでも、彼は続けた。

 

「でも、間違えたら、やり直すんじゃなくて……兄さんに謝るよ」

 

 少年は、言葉を失った。

 

「世界を作り直すんじゃなくて、兄さんと話す」

 

 出久は、御影の手を握り返した。

 

「兄さんがいなくなるのが怖くても、その怖さを理由に、兄さんの人生を奪ったりしない」

 

 その言葉を聞いた少年は。

 

 初めて、安心したような顔をした。

 

 けれど。

 

 次の瞬間。

 

 彼の背後に、黒い影が現れた。

 

 影は少年の肩に手を置いた。

 

 少年の表情が、一変した。

 

「……ああ」

 

 彼は、遠くを見るような目をした。

 

「もう、時間がないんだ」

 

「待って!」

 

 出久が叫ぶ。

 

「君は、何者なの!?」

 

 少年は、振り返った。

 

 その顔は。

 

 出久自身の顔だった。

 

 しかし、彼の目には。

 

 今の出久がまだ知らない、途方もない年月が刻まれていた。

 

「僕の名前は――」

 

 声が途切れた。

 

 黒い影が、少年を引きずり込んでいく。

 

「――緑谷出久」

 

 少年は、最後にそう言った。

 

「君が、まだ知らない緑谷出久だ」

 

 そして。

 

 世界が、崩れた。

 

7 お茶子の記憶

 出久が目を覚ましたとき、そこは雄英高校の地下調査室だった。

 

 机の上には、白紙の写真が置かれている。

 

 黒い点は消えていた。

 

 時計は、02時13分を指している。

 

 相澤が、出久の肩を掴んでいた。

 

「緑谷!」

 

「……先生」

 

「意識はあるか?」

 

「はい……」

 

「自分の名前は?」

 

「緑谷出久です」

 

「ここは?」

 

「雄英高校、地下調査室です」

 

 相澤は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「よし」

 

 その声に、ようやく緊張が解けた。

 

 出久は周囲を見回した。

 

 爆豪が壁を殴りそうな顔で立っている。

 

 轟は、机の上の白紙を見つめている。

 

 飯田は何かを確認するように腕時計を操作していた。

 

 八百万は、透明な保護ケースの状態を調べている。

 

 切島は、出久の顔を見て、心底ほっとしたように笑った。

 

「おい、緑谷! いきなり倒れるなよ!」

 

「ご、ごめん……」

 

「謝ることじゃねえけどよ!」

 

「緑谷くん、大丈夫?」

 

 お茶子が駆け寄ってきた。

 

 出久は、彼女を見た。

 

 その顔を見た瞬間。

 

 もう一つの世界の記憶が、胸の奥を刺した。

 

 御影に向けられた笑顔。

 

 告白を待つ彼女の頬の赤み。

 

 出久を見つめる、心配そうな瞳。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 しかし、違う人生。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「一つ、聞いてもいい?」

 

「もちろん」

 

 出久は、言葉を選んだ。

 

「もし……僕が生まれていなかったら」

 

 お茶子の表情が変わった。

 

「……出久くん?」

 

「もし、僕がいなかった世界で、兄さんが生きていて……お茶子ちゃんが、兄さんのことを好きだったとしたら」

 

 声が震えた。

 

「その世界は、僕たちの世界より、幸せだったのかな」

 

 誰も、口を挟まなかった。

 

 お茶子は、しばらく出久を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと首を振った。

 

「……分からへん」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「その世界で、私が御影くんを好きやったんやったら……きっと、御影くんと一緒におって、幸せやったと思う」

 

 彼女は、正直に言った。

 

「御影くんは、優しい人やもん。私が好きになるのも、変なことやないと思う」

 

 出久の胸が、痛んだ。

 

 けれど、お茶子は続けた。

 

「でもな」

 

 彼女は、出久の手を握った。

 

「その世界が幸せやったからって、今の世界が間違いになるわけやないよ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「私が出久くんを好きになったことも。出久くんと一緒におることを選んだことも。全部、今の私が決めたことやもん」

 

 彼女の指に、力がこもる。

 

「別の世界の私が、別の人を好きになったとしても……それは、その世界の私の人生や」

 

 お茶子は、出久の目を見た。

 

「今ここにおる私は、私の人生を生きる」

 

 その声は、震えていた。

 

 けれど、揺らいではいなかった。

 

「だから、出久くん」

 

「……うん」

 

「お願いやから、私の人生まで、勝手に決めんといて」

 

 出久の目が見開かれた。

 

 お茶子は、泣いていた。

 

「出久くんがいなかったら、私はもっと幸せやったんかな、とか」

 

 彼女は、首を振った。

 

「そんなふうに、私の幸せを決めんといて」

 

「……ごめん」

 

「ううん」

 

 お茶子は、出久の手を握りしめた。

 

「私も、御影くんのことを忘れてた。御影くんが生きていたことも、私が何をしたのかも。忘れさせられたんやとしても……そのせいで、御影くんの人生を、勝手に終わらせてしまった」

 

 彼女は、唇を噛んだ。

 

「だから、もう誰の人生も、勝手に決めたくない」

 

 出久は、彼女の手を握り返した。

 

 そのとき、相澤が静かに口を開いた。

 

「緑谷。今見た世界について、覚えていることを話せるか」

 

「……はい」

 

 出久は、ゆっくりと頷いた。

 

 そして、もう一つの人生について話し始めた。

 

 御影が生きていた世界。

 

 自分が弟だった世界。

 

 兄が、お茶子に告白しようとしていた世界。

 

 そして、自分が存在しないことになっていた世界。

 

 すべてを話し終えたとき、部屋は静まり返っていた。

 

 爆豪が、苛立たしげに舌打ちした。

 

「……胸糞悪ぃな」

 

「爆豪くん……」

 

「いや、胸糞悪ぃだろ」

 

 爆豪は、白紙の写真を睨みつけた。

 

「デクが生まれなかったら兄貴が生きてる? そんなもん、どっちかが消えなきゃ成り立たねえ世界を作った奴の都合だろうが」

 

 轟が頷いた。

 

「その世界で幸せだった人間がいることと、その世界が正しいことは別だ」

 

「そういうことだ」

 

 爆豪は、出久を見た。

 

「お前、あっちの世界のこと考えて、こっちの自分を消す気じゃねえだろうな」

 

「……考えてないよ」

 

「嘘つけ」

 

「本当に……」

 

「デク」

 

 爆豪の声が低くなる。

 

「お前がどういう顔をしてるときに、何を考えてるかくらい、長年見てりゃ分かるんだよ」

 

 出久は、口を閉じた。

 

 爆豪は、しばらく彼を睨んでいた。

 

 それから、ため息を吐く。

 

「……兄貴を救いたいなら、兄貴に聞け」

 

 その言葉に、出久は顔を上げた。

 

「自分が消えたほうがいいかどうか、兄貴に聞け。お前が勝手に決めるな」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 それは、先ほどもう一人の自分が言ったことと同じだった。

 

 兄の人生を、勝手に決めるな。

 

 自分の人生を、勝手に捨てるな。

 

 誰かを救うことと、誰かの選択を奪うことは違う。

 

 出久は、深く息を吸った。

 

「……うん」

 

 彼は、頷いた。

 

「分かった」

 

 その瞬間。

 

 お茶子が、ふと顔を上げた。

 

「……待って」

 

 全員が彼女を見る。

 

「さっきの世界で……御影くんは、私に告白しようとしてたんよね?」

 

「うん」

 

 出久は答えた。

 

「今日が、その日だった」

 

 お茶子は、目を閉じた。

 

 何かを思い出そうとしているようだった。

 

「……変やな」

 

「何が?」

 

「私、覚えてへんはずやのに……」

 

 彼女の顔から、血の気が引いた。

 

「なんで、分かるんやろ」

 

 その声は、かすれていた。

 

「御影くんが、私に告白しようとしてた日……」

 

 お茶子は、自分の胸元を押さえた。

 

「私、あの日……御影くんに、何て返事をしたんやろ」

 

 出久は、彼女を見つめた。

 

「……お茶子ちゃん?」

 

 お茶子は、首を振った。

 

「分からへん。分からへんのに……」

 

 彼女の目から、涙が落ちた。

 

「私、怖いんよ」

 

 震える声。

 

「御影くんが生きていた世界のことを思い出したら……今の私が、なくなってしまう気がする」

 

 その言葉を聞いた瞬間、白紙の写真が光った。

 

 黒い点が、再び浮かび上がる。

 

 そして。

 

 新しい文字が、ゆっくりと刻まれた。

 

 ――記録世界:もう一つの人生。

 

 ――観測者:緑谷出久。

 

 ――対象個体:御影出久。

 

 ――立会人:麗日お茶子。

 

 ――記録の欠落を検出。

 

 ――麗日お茶子の記憶を照合します。

 

 お茶子が、息を呑んだ。

 

 出久が彼女の手を握る。

 

「お茶子ちゃん!」

 

 しかし、文字は止まらなかった。

 

 ――照合結果。

 

 ――告白の成立を確認。

 

 ――交際期間:七年四か月。

 

 ――婚姻記録:存在。

 

 ――第一子:緑谷出久。

 

 その瞬間。

 

 出久は、息をすることさえ忘れた。

 

 お茶子の顔から、表情が消えた。

 

 彼女は、写真を見つめていた。

 

 そして。

 

 震える唇で、呟いた。

 

「……私、御影くんと……結婚してたん?」

 

 誰も答えられなかった。

 

 白紙の写真に、最後の一行が浮かび上がった。

 

 ――なお、緑谷出久は、出生前に死亡しています。

 

 時計の針が、02時13分を指していた。

 

 その瞬間。

 

 出久の中で、誰かが笑った。

 

 それは、もう一人の自分の声だった。

 

 ――おかえり。

 

 ――今度は、君がいない人生だよ。

 

 そして、白紙の写真の裏側に。

 

 これまで存在しなかった文字が、静かに浮かび上がった。

 

 「第一子、緑谷出久は、父親によって殺害されたのではない。」

 

 その下に、もう一行。

 

 「第一子を殺したのは、第一子の息子である。」

 

 出久は、凍りついた。

 

 第一子。

 

 御影出久。

 

 その息子。

 

 緑谷出久。

 

 しかし。

 

 出久は、御影の弟として生まれているはずだった。

 

 この世界では、御影とお茶子の子どもとして記録されている。

 

 そして、もう一人の自分は。

 

 まだ生まれていないはずだった。

 

 写真の中央に、黒い点が広がっていく。

 

 その奥から、子どもの声が聞こえた。

 

「……お父さん」

 

 出久の背筋が凍る。

 

「僕を殺して」

 

 時計が、一度だけ鳴った。

 

 02時13分。

 

 世界は、再び止まった。

 

第三十五話・了

 

次回 第三十六話「お父さん、僕を殺して」

 御影とお茶子が結婚した世界。

 

 そこに生まれた、緑谷出久。

 

 そして、出生前に死亡したと記録された第一子。

 

 出久は、自分の存在が兄の弟であるだけでなく、兄の息子として記録された世界があることを知る。

 

 だが、その世界で出久を殺したのは、父親ではなかった。

 

 殺したのは、出久自身。

 

 そして、御影は、まだ何も知らない。

 

 兄はなぜ、弟を息子として迎えたのか。

 

 お茶子は、どの世界で誰を愛したのか。

 

 そして、第四の子どもは、誰の子どもなのか。

 

 ――答えは、出生前の病室にある。

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