僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十六話「お父さん、僕を殺して」

 

 最初に聞こえたのは、泣き声だった。

 

 赤ん坊の泣き声ではない。

 

 もっと幼い。

 

 まだ、言葉を覚えたばかりの子どもが、泣くのを我慢しながら、それでもどうしても伝えたいことがあって、必死に声を絞り出している。

 

「……お父さん」

 

 その声を聞いた瞬間、緑谷出久は自分の胸を押さえた。

 

 心臓が痛い。

 

 いや、違う。

 

 胸の奥に、もう一つ心臓がある。

 

 それが、今にも止まりそうなほど激しく脈打っていた。

 

「僕を、殺して」

 

 世界が止まった。

 

 雄英高校の地下調査室。

 

 壁に掛けられた時計。

 

 机の上の白紙の写真。

 

 相澤消太の伸ばしかけた手。

 

 爆豪勝己の険しい表情。

 

 轟焦凍が息を呑む、その瞬間。

 

 すべてが静止した。

 

 ただ一人。

 

 出久だけが動けた。

 

 そして、もう一人。

 

 白紙の写真の向こう側にいる、幼い誰かだけが、泣き続けていた。

 

「……お父さん」

 

 その子どもは、出久と同じ声で言った。

 

「僕が生まれたら、兄さんが死んじゃうんだ」

 

 出久の視界が、白く染まった。

 

 写真の中央に広がった黒い穴。

 

 その向こう側から、小さな手が伸びてくる。

 

 緑色の髪。

 

 小さな指。

 

 見慣れたそばかす。

 

 けれど、その手は出久のものではなかった。

 

 まだ生まれていない子どもの手だった。

 

「だから、お願い」

 

 子どもは泣いていた。

 

「僕が生まれる前に、僕を殺して」

 

 出久は、手を伸ばした。

 

「待って!」

 

 指先が触れる。

 

 その瞬間。

 

 世界が、裏返った。

 

     *

 

 病室には、窓がなかった。

 

 白い壁。

 

 白い天井。

 

 白いベッド。

 

 白いシーツ。

 

 そして、壁に掛けられた時計。

 

 針は、02時13分を指していた。

 

 出久は、病室の入口に立っていた。

 

 自分の身体を見下ろす。

 

 雄英高校の制服は消えていた。

 

 代わりに、幼い子どもが着るような病衣を身につけている。

 

 手も小さくなっていた。

 

 指先が短い。

 

 腕も細い。

 

 身体の重心が、いつもより低い。

 

 五歳か、六歳くらいだろうか。

 

 それなのに、頭の中には今までの記憶が残っていた。

 

 雄英高校。

 

 相澤。

 

 爆豪。

 

 轟。

 

 お茶子。

 

 御影。

 

 そして、数え切れないほどの世界の崩壊。

 

「……ここは」

 

 声まで幼くなっていた。

 

 病室の奥で、誰かが動いた。

 

 ベッドの上に、女性が横たわっている。

 

 緑谷引子だった。

 

 顔色が悪い。

 

 額には汗が浮かび、唇は乾いている。

 

 彼女の傍らには、白衣を着た医師が立っていた。

 

 そして、ベッドの横に。

 

 一人の男がいた。

 

 緑谷久志。

 

 出久の父親。

 

 出久の記憶にある父親より、ずっと若い。

 

 頬は痩せている。

 

 目の下には濃い隈がある。

 

 両手は、血が通っていないかのように白かった。

 

 彼は、ベッドの上の引子を見ていなかった。

 

 その腕に抱かれた、二人の赤ん坊を見つめていた。

 

 一人は、泣いている。

 

 もう一人は、泣いていなかった。

 

 どちらも、緑色の髪をしていた。

 

 どちらも、同じ顔をしていた。

 

 そして、どちらも。

 

 緑谷出久だった。

 

「……嘘だろ」

 

 出久の口から、声が漏れた。

 

 医師が、久志に何かを告げている。

 

 しかし、その声は聞こえなかった。

 

 代わりに、病室の壁に文字が浮かび上がった。

 

 ――出生記録。

 

 ――母親、緑谷引子。

 

 ――父親、緑谷久志。

 

 ――第一子、緑谷出久。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――出生時刻、02時13分。

 

 ――個体識別、完全一致。

 

 出久は、文字を見つめた。

 

 二人とも、緑谷出久。

 

 第一子も。

 

 第二子も。

 

 同じ名前。

 

 同じ顔。

 

 同じ両親。

 

 同じ時刻。

 

 そして。

 

 その下に、もう一つの記録が浮かび上がった。

 

 ――世界構造との不整合を検出。

 

 ――同一個体の重複を確認。

 

 ――統合処理を開始します。

 

「……やめろ」

 

 出久は呟いた。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 久志にか。

 

 医師にか。

 

 世界そのものにか。

 

 それとも。

 

 生まれてくる前から、自分の存在を否定されている子どもにか。

 

 久志が、顔を上げた。

 

 そして。

 

 出久を見た。

 

「……来たのか」

 

 その声は、ひどく疲れていた。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「お父さん……?」

 

「そうか」

 

 久志は、笑った。

 

 笑顔とは呼べない顔だった。

 

「お前も、ここに来たんだな」

 

 出久は一歩、後ずさった。

 

「……僕が、見えるの?」

 

「見えるとも」

 

 久志は、腕の中の赤ん坊を見た。

 

「お前は、ここにいる」

 

 そして、静かに言った。

 

「……第三子」

 

 出久の心臓が、跳ねた。

 

「お前は、第三子なんだ」

 

 その言葉と同時に。

 

 病室の時計が、音を立てた。

 

 秒針が一つ進む。

 

 02時13分。

 

 針は、同じ時刻を指したまま。

 

 しかし、その針の先に。

 

 もう一つ、小さな影が映っていた。

 

 まるで時計の中に、誰かが立っているかのように。

 

 久志は、その影を見た。

 

 そして、出久に尋ねた。

 

「……お前は、どの出久だ?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 自分が誰なのか。

 

 今まで何度も答えてきた問いだった。

 

 緑谷出久。

 

 ヒーローを目指す少年。

 

 御影出久の弟。

 

 何度も世界を救おうとしてきた人間。

 

 何度も世界を壊してきた人間。

 

 そして。

 

 まだ生まれていない子ども。

 

 そのどれもが、自分だった。

 

 そのどれもが、自分ではなかった。

 

「……僕は」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「僕は、緑谷出久です」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「そうか」

 

 その声には、安堵があった。

 

 そして、絶望もあった。

 

「なら、間に合わなかったんだな」

 

「……何が?」

 

 久志は、腕の中の赤ん坊を見つめた。

 

「お前を、殺すことだ」

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 父親は、静かに続けた。

 

「お前が生まれる前に、殺しておくべきだった」

 

 その瞬間。

 

 出久の中で、何かが砕けた。

 

 けれど、久志は続けた。

 

「……そうしなければ、兄さんが死ぬ」

 

 出久は、腕の中の赤ん坊を見た。

 

 泣いている子ども。

 

 泣いていない子ども。

 

 二人とも、同じ顔をしている。

 

 どちらも、緑谷出久。

 

 そして、そのどちらかが。

 

 自分の兄だった。

 

 いや。

 

 違う。

 

 それでは、説明がつかない。

 

 この世界には、まだ別の出久がいる。

 

 御影出久。

 

 麗日お茶子の夫となった少年。

 

 自分の父親であり、兄であり、失われた第一子。

 

 その御影は、どこにいるのか。

 

 どうして、この病室にはいないのか。

 

 なぜ、久志は二人の赤ん坊を抱きながら、出久を殺そうとしているのか。

 

 そして。

 

 この世界の第一子は、いったい誰なのか。

 

 答えを求めるように、出久が顔を上げた瞬間。

 

 病室の扉が開いた。

 

 そこに立っていたのは。

 

 幼い御影出久だった。

 

 彼は、出久と同じ顔をしていた。

 

 しかし、その目には。

 

 今の出久が、まだ知らない悲しみが宿っていた。

 

「……お父さん」

 

 御影は、久志を見た。

 

「その子を、殺さないで」

 

 久志の顔が歪んだ。

 

「御影……」

 

 御影は、泣きながら首を振った。

 

「僕が死ねばいいから」

 

 出久は、凍りついた。

 

 御影は、続けた。

 

「僕がいなくなれば、弟は生まれてこられるんでしょう?」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 出久は、理解した。

 

 この世界で。

 

 最初に、死ぬことを選んだのは。

 

 自分ではなかった。

 

 兄だった。

 

 そして、兄は。

 

 弟を救うために、自分の命を差し出そうとしていた。

 

 出久は、走り出した。

 

「兄さん!」

 

 御影が、顔を上げた。

 

 出久は、彼に向かって手を伸ばした。

 

「駄目だ!」

 

 声が震えた。

 

「そんなこと、しちゃ駄目だ!」

 

 御影は、驚いた顔をした。

 

 そして、悲しそうに笑った。

 

「……でも、出久」

 

 彼は、ゆっくりと言った。

 

「君が生まれなかったら、僕は死なずに済むんだよ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 御影は、泣いていた。

 

「僕が生きるために、君が生まれない」

 

 その目から、涙が落ちた。

 

「君が生きるために、僕が死ぬ」

 

 彼は、小さな手を握りしめた。

 

「どうして、どっちかを選ばなきゃいけないんだろうね」

 

 誰も答えなかった。

 

 病室の時計が、02時13分を指している。

 

 その針の下で。

 

 二人の子どもが、互いを見つめていた。

 

 片方は、生まれる前から死を求められた子ども。

 

 もう片方は、生きるために死のうとしている子ども。

 

 そして、その二人の間に。

 

 緑谷出久は、立っていた。

 

 どちらも、自分だった。

 

 どちらも、救いたかった。

 

 けれど。

 

 どちらかを救おうとすれば、もう一方が死ぬ。

 

 それが、この世界のルールだった。

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……そんなルール」

 

 震える声で、呟く。

 

「僕が、壊す」

 

 その瞬間。

 

 病室の壁が、音を立てて割れた。

 

 白い壁の向こうに、無数の文字が浮かび上がる。

 

 ――選択を確認。

 

 ――第一子を生かしますか?

 

 ――第二子を生かしますか?

 

 ――第三子を生かしますか?

 

 三つの選択肢。

 

 しかし、そのどれにも。

 

 全員を生かすという選択肢はなかった。

 

 出久は、文字を見つめた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……選ばない」

 

 病室が、揺れた。

 

 久志が顔を上げる。

 

 御影が息を呑む。

 

 出久は、もう一度言った。

 

「僕は、誰も選ばない」

 

 その瞬間。

 

 時計の針が、初めて動いた。

 

 02時13分。

 

 02時14分。

 

 世界が、悲鳴を上げた。

 

     *

 

 最初に壊れたのは、壁ではなかった。

 

 名前だった。

 

 病室に浮かんでいた三つの選択肢から、文字が一つずつ剥がれ落ちていく。

 

 第一子。

 

 第二子。

 

 第三子。

 

 その文字列が、黒い粉になって宙を舞った。

 

 代わりに、新しい文字が刻まれる。

 

 ――個体の識別に失敗しました。

 

 ――出生順序を再計算します。

 

 ――第一子、緑谷出久。

 

 ――第二子、緑谷出久。

 

 ――第三子、緑谷出久。

 

 ――第四子、緑谷出久。

 

 ――第五子、緑谷出久。

 

 ――識別不能。

 

 ――識別不能。

 

 ――識別不能。

 

「……なんだ、これ」

 

 出久は、呆然と呟いた。

 

 数が増えていく。

 

 第一子から第五子。

 

 その先も。

 

 第六子。

 

 第七子。

 

 第八子。

 

 数字が増えるたび、病室の壁が遠ざかっていく。

 

 病室そのものが広がっているのではない。

 

 世界のほうが、無理やり自分の中に新しい部屋を作り出しているのだ。

 

 その部屋の一つ一つに、出久がいる。

 

 赤ん坊の出久。

 

 幼い出久。

 

 制服姿の出久。

 

 血まみれの出久。

 

 泣いている出久。

 

 笑っている出久。

 

 そして。

 

 何もかもを諦めた顔で、誰かに銃口を向けている出久。

 

 それぞれが、違う人生を生きていた。

 

 けれど、全員が同じ名前を持っていた。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 まるで世界が、名前という一つの箱に、何人もの人間を押し込めようとしているようだった。

 

「……違う」

 

 御影が、震える声で言った。

 

「違うよ……こんなの、違う」

 

 彼は両手で耳を塞いだ。

 

「僕は、御影出久だ」

 

 壁に映る無数の出久たちが、一斉に御影を見た。

 

 そして。

 

 その全員が、同じ口の動きをした。

 

 ――君も、緑谷出久だ。

 

「やめろ!」

 

 御影が叫んだ。

 

「僕は、僕だ!」

 

 その叫びに応えるように、病室の奥で何かが割れた。

 

 ガラスの砕ける音。

 

 続いて、赤ん坊の泣き声。

 

 出久が振り返る。

 

 ベッドの上で、引子が目を覚ましていた。

 

 彼女は、二人の赤ん坊を抱きしめている。

 

「……久志さん」

 

 掠れた声だった。

 

「この子たち……どうなったの?」

 

 久志は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 彼の目は、壁に映る無数の子どもたちを見つめていた。

 

 その一人一人に、見覚えがあったのだろう。

 

 自分が殺したと思い込んだ子ども。

 

 自分が救えなかった子ども。

 

 自分が生まれる前に、殺してしまった子ども。

 

 そして。

 

 自分が父親になることを、許されなかった子ども。

 

「……俺が」

 

 久志が呟いた。

 

「俺が、間違えたのか」

 

 その問いに、出久は答えられなかった。

 

 父親は、これまで何度も息子たちを選んできた。

 

 どちらを生かすのか。

 

 どちらを消すのか。

 

 どちらを息子として認めるのか。

 

 そのたびに、彼は世界の要求に従い、あるいは逆らい、誰かを失ってきた。

 

 だが。

 

 今、久志の目の前にいるのは、二人の赤ん坊だけではない。

 

 壁に映る無数の子どもたち。

 

 それぞれが、異なる人生を生きた出久たち。

 

 彼ら全員を救う方法など、あるのだろうか。

 

「……違うよ、お父さん」

 

 出久は、静かに言った。

 

 久志が顔を上げる。

 

「間違えたかどうかを決めるのは、僕たちだよ」

 

「……何?」

 

「お父さんが、僕たちの人生を決めるんじゃない」

 

 出久は、御影の手を握った。

 

「兄さんの人生は、兄さんが決める」

 

 そして、もう一方の手で、ベッドの上の赤ん坊を指した。

 

「この子の人生も、この子が決める」

 

 出久は、久志を見つめた。

 

「僕の人生も、僕が決める」

 

 久志の唇が震えた。

 

「……だが、お前たちが選べば、誰かが死ぬ」

 

「それなら」

 

 出久は、息を吸った。

 

「誰かが死ななければならない世界のほうを、変える」

 

 その瞬間。

 

 病室の時計が、02時14分を指した。

 

 針が止まる。

 

 壁の文字が、一斉に消えた。

 

 そして、病室の中央に。

 

 一人の男が立っていた。

 

 緑谷久志だった。

 

 ただし、ベッドの傍らにいる久志とは違う。

 

 顔には深い皺が刻まれている。

 

 髪は白くなり、背中は丸まっていた。

 

 何十年も歳を重ねたような姿だった。

 

 その男は、若い久志を見ていた。

 

 若い久志は、顔面蒼白になった。

 

「……お前は」

 

 老いた久志は、答えた。

 

「お前だ」

 

 出久は、目を見開いた。

 

 まただ。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 同じ名前。

 

 この世界には、同じ人間が何人も存在する。

 

 それぞれが違う人生を生き、違う選択をし、違う罪を背負っている。

 

 そして、その誰もが。

 

 自分こそが本物だと信じている。

 

 老いた久志は、若い久志に言った。

 

「お前は、まだ選んでいないんだな」

 

 若い久志は、答えなかった。

 

「なら、聞かせてやろう」

 

 老いた久志は、ベッドの上の二人の赤ん坊を見た。

 

「俺が、何を選んだのか」

 

     *

 

 その光景は、病室の壁に映し出された。

 

 若い久志が、赤ん坊を抱いている。

 

 引子は眠っている。

 

 時計は、02時13分を指していた。

 

 しかし、その病室には。

 

 もう一人の人間がいた。

 

 若い久志と同じ顔をした男。

 

 未来から来た久志だった。

 

 彼は、ベッドの横に立っていた。

 

「二人を育てることはできない」

 

 未来の久志は、静かに言った。

 

「この世界は、同じ個体を二つ認めない」

 

 若い久志は、赤ん坊を抱きしめた。

 

「……なら、世界を変えればいい」

 

「できない」

 

「どうしてだ!」

 

「すでに何度も試した」

 

 未来の久志は、目を閉じた。

 

「二人を生かせば、世界は崩壊する。片方を消せば、もう片方も不安定になる。どちらかを選ばなければ、二人とも存在できない」

 

「そんなの……」

 

「選べ」

 

 未来の久志は、冷たく言った。

 

「父親になりたいのなら、選べ」

 

 若い久志は、震えていた。

 

 腕の中には、二人の赤ん坊がいる。

 

 一人は泣いている。

 

 もう一人は、眠っている。

 

 どちらも自分の息子だった。

 

 どちらも、愛しかった。

 

 そして、どちらも。

 

 自分の手で消さなければならないと告げられていた。

 

「……どうして、俺なんだ」

 

 若い久志が、呟いた。

 

「どうして俺が、選ばなければならない?」

 

 未来の久志は、答えなかった。

 

 若い久志は、赤ん坊を見つめた。

 

「俺は、父親になりたかっただけなんだ」

 

 その声は、泣いていた。

 

「二人の父親になりたかっただけなんだ」

 

 未来の久志は、しばらく黙っていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……俺も、そうだった」

 

 その瞬間。

 

 壁に映る光景が、切り替わった。

 

 病室。

 

 赤ん坊。

 

 泣いている母親。

 

 そして、若い久志が、一本の黒い電話を握っていた。

 

 受話器の向こうから、声が聞こえる。

 

 子どもの声だった。

 

「お父さん」

 

 若い久志は、息を呑んだ。

 

「……誰だ」

 

「僕だよ」

 

 声は、優しかった。

 

「緑谷出久だよ」

 

 久志は、腕の中の赤ん坊を見た。

 

 泣いている子ども。

 

 眠っている子ども。

 

 どちらも、緑谷出久。

 

「……どっちの出久だ」

 

 受話器の向こうで、子どもが笑った。

 

「どっちでもいいよ」

 

 その言葉に、若い久志の顔が歪んだ。

 

「……よくない」

 

「どうして?」

 

「お前たちは、違う人間だ」

 

 久志は、受話器を握りしめた。

 

「同じ顔でも、同じ名前でも……お前たちは、違う人間なんだ」

 

 受話器の向こうは、しばらく静かだった。

 

 やがて、子どもが言った。

 

「……お父さん」

 

「何だ」

 

「だったら、僕を殺して」

 

 久志は、息を止めた。

 

「僕がいなくなれば、もう一人の僕が生きられる」

 

「……誰に、そんなことを言われた?」

 

「誰にも」

 

 子どもの声は、穏やかだった。

 

「僕が決めたんだよ」

 

 久志は、首を振った。

 

「駄目だ」

 

「どうして?」

 

「お前は、俺の息子だ」

 

「うん」

 

「俺が、お前を守る」

 

「うん」

 

「だから、そんなことを言うな!」

 

 久志が叫んだ。

 

 その声に、赤ん坊が泣き出した。

 

 受話器の向こうで、子どもは静かに言った。

 

「……お父さん」

 

「何だ」

 

「僕を守るって、どういうこと?」

 

 久志は答えられなかった。

 

「僕を生かすこと?」

 

 子どもは尋ねた。

 

「それとも、僕が生きたいと思える世界を作ること?」

 

 久志の手が震えた。

 

「……お前は」

 

「僕は、生きたいよ」

 

 子どもは言った。

 

「本当は、ずっと生きたい」

 

 その声が、少しだけ震えた。

 

「でも、兄さんも生きてほしい」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「……お前は、誰だ」

 

「緑谷出久だよ」

 

「違う」

 

 久志は、首を振った。

 

「お前は……どの出久なんだ」

 

 受話器の向こうで、子どもが笑った。

 

 悲しそうに。

 

「……まだ、決まっていないんだ」

 

 その瞬間、電話が切れた。

 

 未来の久志は、若い久志を見つめていた。

 

「俺は、その声を何度も聞いた」

 

 老いた久志が、出久に言った。

 

「何度も、何度も」

 

 彼は、目を閉じた。

 

「そのたびに、俺は息子を救おうとした」

 

 壁の光景が、次々と切り替わる。

 

 赤ん坊を抱きしめる久志。

 

 書類に署名する久志。

 

 名前を消す久志。

 

 病室の扉を閉める久志。

 

 誰もいない家で、椅子に座り続ける久志。

 

 そして。

 

 02時13分を指した時計の前で、頭を抱える久志。

 

「俺は、片方を選んだ」

 

 老いた久志は言った。

 

「御影を消した」

 

 出久の喉が詰まった。

 

「……でも」

 

「分かっている」

 

 老いた久志は、頷いた。

 

「御影は、消えなかった」

 

 その顔に、深い苦悩が浮かぶ。

 

「俺が消したのは、御影の存在ではない。御影が生きていたという、世界の記録だった」

 

 彼は、出久を見た。

 

「そして、記録から消えた御影は……お前の中に残った」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「お前は、御影を忘れられなかった」

 

 老いた久志は続けた。

 

「お前は、御影がいなくなった世界で、何度も兄を探した。写真を見て、名前を呼び、誰もいない部屋に向かって話しかけた」

 

 出久の目の前に、見覚えのある光景が浮かんだ。

 

 幼い自分。

 

 食卓の向かい側に置かれた空席。

 

 そこに向かって話しかけている。

 

『兄さん、今日は学校でね――』

 

 誰も返事をしない。

 

 それでも、幼い出久は笑っている。

 

『兄さんにも、見せたかったな』

 

 老いた久志は、静かに言った。

 

「その記憶が、御影を支えた」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……僕が?」

 

「そうだ」

 

 老いた久志は頷いた。

 

「世界が御影を消そうとするたび、お前は御影を覚えていた。世界が御影の名前を消そうとするたび、お前は御影を呼んだ。世界が御影の存在を否定するたび、お前は御影が生きていたことを信じた」

 

 彼は、目を伏せた。

 

「お前が御影を覚えていたから、御影は完全には消えなかった」

 

 その言葉に、出久の胸が痛んだ。

 

 兄を救えなかったと思っていた。

 

 何もできなかったと思っていた。

 

 けれど。

 

 自分は、兄を覚えていた。

 

 世界が何を言おうと。

 

 記録が何を示そうと。

 

 兄がいなかったことにされても。

 

 自分だけは、兄がいたことを覚えていた。

 

 それは、救いだったのだろうか。

 

 それとも。

 

 兄を世界に縛りつける、鎖だったのだろうか。

 

「……じゃあ」

 

 出久は、震える声で尋ねた。

 

「御影くんが、僕の中に残っていたから……僕も、御影くんも、完全には消えなかった?」

 

「そうだ」

 

 老いた久志は答えた。

 

「だが、それだけではない」

 

 彼は、ベッドの上の二人の赤ん坊を見た。

 

「お前たちは、最初から一人ではなかった」

 

 病室の空気が、重くなった。

 

「二人の息子が生まれたのではない」

 

 老いた久志は、言葉を選ぶように続けた。

 

「一人の子どもが、二人に分かれたのでもない」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……どういうこと?」

 

「お前たちは、最初から別々の人間だった」

 

 老いた久志は、はっきりと言った。

 

「ただし、世界はそれを認めなかった」

 

 彼は、病室の壁を指した。

 

「世界にとって、お前たちは一つの存在だった。二つの身体、二つの人生、二つの意思を持ちながら、世界の記録では一人の人間として扱われていた」

 

 出久は、今まで見てきた記録を思い出した。

 

 個体識別、完全一致。

 

 統合処理。

 

 対象個体、緑谷出久。

 

 御影出久、再消去。

 

 処理結果、失敗。

 

 それらの言葉が、一つの意味に繋がり始めていた。

 

「……だから、世界は」

 

「片方を消せば、もう片方が不安定になる」

 

 老いた久志は頷いた。

 

「一人の人間として登録された存在を、二人に分けてしまったからだ。世界は、その矛盾を解消しようとした」

 

「でも……」

 

 出久は、御影を見た。

 

「兄さんは、僕とは違う人間だよ」

 

「そうだ」

 

 老いた久志は答えた。

 

「それは、お前たちにとっては当たり前のことだ」

 

 彼は、悲しそうに笑った。

 

「だが、世界にとって当たり前ではなかった」

 

 御影は、唇を噛んでいた。

 

 自分が自分であること。

 

 それだけのことを、世界に認めてもらえなかった。

 

 名前を奪われ、記録を消され、存在を否定された。

 

 それでも、御影は生きようとした。

 

 弟と一緒に生きたかったから。

 

 自分の人生を、自分の意思で選びたかったから。

 

「……お父さん」

 

 御影が、久志を見た。

 

「僕は、何だったの?」

 

 その問いに、老いた久志は目を閉じた。

 

「お前は、俺の息子だ」

 

「それだけ?」

 

「……そうだ」

 

「第一子だから?」

 

「違う」

 

「御影出久という名前だから?」

 

「違う」

 

 老いた久志は、首を振った。

 

「お前が、お前だからだ」

 

 御影は、黙っていた。

 

 老いた久志は、彼の前に膝をついた。

 

 そして、頭を下げた。

 

「……すまなかった」

 

 その声は、震えていた。

 

「俺は、お前を息子として愛していた。それなのに、お前が生きることを、世界に許してもらおうとした」

 

 久志は、額を床につけた。

 

「お前が生きるために必要なのは、俺の許可でも、世界の承認でもなかった」

 

 彼は、泣いていた。

 

「お前自身が、生きたいと思うことだった」

 

 御影は、何も言わなかった。

 

 ただ、震える手を握りしめていた。

 

 しばらくして。

 

 彼は、静かに言った。

 

「……お父さん」

 

「何だ」

 

「僕は、生きたい」

 

 久志は、顔を上げた。

 

 御影は、泣きながら笑った。

 

「僕は、生きたいんだ」

 

 その声が、病室に響いた。

 

「弟と一緒に、生きたい」

 

 時計の針が、わずかに動いた。

 

 02時14分。

 

 02時15分。

 

 そして。

 

 初めて、02時16分を指した。

 

 世界が、息を吹き返した。

 

     *

 

 だが、時計が進んだことを喜ぶ時間はなかった。

 

 壁に映る無数の人生が、一斉に崩れ始めたからだ。

 

 それぞれの世界で、緑谷出久が倒れていく。

 

 ある世界では、病室のベッドで。

 

 ある世界では、戦場で。

 

 ある世界では、誰もいない自室で。

 

 そして、ある世界では。

 

 御影出久の腕の中で。

 

 兄に抱きしめられながら、静かに目を閉じていた。

 

 出久は、壁に映る光景を見つめた。

 

「……どうして、みんな死んでいくの?」

 

 老いた久志は、答えた。

 

「世界が、お前たちを一人に戻そうとしているからだ」

 

「一人に……?」

 

「お前たちの人生は、何度も分岐した。誰かを救おうとした選択が、新しい世界を生み出した。新しい世界が生まれるたび、そこには別の緑谷出久が存在した」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「そして、どの世界でも、お前たちは同じ問題に直面した」

 

 彼は、壁に映る一人の少年を指した。

 

「兄を救うために、自分を消そうとする出久」

 

 次の少年。

 

「弟を救うために、自分を犠牲にする御影」

 

 さらに次の少年。

 

「二人を救うために、世界そのものを壊す出久」

 

 老いた久志は、静かに言った。

 

「誰もが、誰かを愛していた」

 

 出久は、壁に映る光景を見つめた。

 

「それなのに……」

 

「愛しているからこそ、相手のために何かを決めてしまう」

 

 久志は、苦しそうに笑った。

 

「相手が何を望んでいるのかを聞く前に。相手が自分で決める機会を与える前に。自分が正しいと思う答えを、相手に押しつけてしまう」

 

 彼は、出久を見た。

 

「俺もそうだった」

 

 その言葉には、言い逃れがなかった。

 

「お前たちを守りたかった。二人とも生きていてほしかった。だが、世界が選べと言ったとき、俺は選ばなければならないと思い込んだ」

 

 久志は、手を握りしめた。

 

「そして、俺が選んだことを、愛情という言葉で正当化した」

 

 出久は、父親を見つめた。

 

 父親の罪は、軽くない。

 

 息子たちを消した。

 

 息子たちの名前を消した。

 

 息子たちの人生を、世界の都合に合わせようとした。

 

 どれほど苦しんでいたとしても、それがなかったことになるわけではない。

 

 けれど。

 

 彼が何も感じていなかったわけでもない。

 

 息子たちを愛していなかったわけでもない。

 

 愛していた。

 

 だからこそ、間違えた。

 

 そして、間違えたことを認められなかったから、さらに多くのものを失った。

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……お父さん」

 

「何だ」

 

「今度は、選ばないで」

 

 久志の目が揺れた。

 

「……出久」

 

「僕たちの代わりに、誰を生かすか決めないで」

 

 出久は、御影の手を握った。

 

「兄さんが生きたいなら、兄さんの意思を聞いて」

 

 そして、ベッドの上の赤ん坊を見た。

 

「この子が生きたいなら、この子の意思を聞いて」

 

 最後に、父親を見た。

 

「僕が生きたいなら、僕の意思を聞いて」

 

 出久は、はっきりと言った。

 

「僕たちが間違えることを、怖がらないで」

 

 久志の顔が歪んだ。

 

「……何?」

 

「僕たちは、きっと間違えるよ。兄さんだって、僕だって、いつか誰かを傷つけるかもしれない」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「でも、間違えるかもしれないからって、生きることまで奪わないで」

 

 久志は、長い間、何も言わなかった。

 

 やがて、彼は目を閉じた。

 

「……そうだな」

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

「お前の言う通りだ」

 

 しかし、その瞬間。

 

 老いた久志の身体に、亀裂が走った。

 

「……っ!」

 

 出久が声を上げる。

 

 老いた久志は、自分の手を見下ろした。

 

 指先が、透明になっている。

 

 腕も。

 

 肩も。

 

 身体そのものが、世界から剥がれ落ちていく。

 

「……時間か」

 

 老いた久志は、静かに呟いた。

 

「待って!」

 

 出久が駆け寄ろうとする。

 

 しかし、久志は首を振った。

 

「来るな」

 

「でも!」

 

「これは、俺が選んだことだ」

 

 久志は、出久を見た。

 

「お前たちを選ぶのではなく、俺自身が何をするのかを選んだ」

 

 彼は、かすかに笑った。

 

「俺は、もう一度、父親になる」

 

 その言葉と同時に、彼の身体が光に包まれた。

 

「……久志さん!」

 

 ベッドの上で、引子が叫んだ。

 

 彼女は、二人の赤ん坊を抱いたまま、必死に手を伸ばした。

 

「待って! まだ、何も話してない!」

 

 老いた久志は、彼女を見た。

 

 そして、申し訳なさそうに笑った。

 

「……すまない」

 

「謝らないで!」

 

 引子の声が震えた。

 

「謝るくらいなら、帰ってきてよ!」

 

 その言葉に、久志の顔が崩れた。

 

 彼は泣いていた。

 

「……ああ」

 

 久志は頷いた。

 

「帰るよ」

 

 その瞬間、彼の姿が消えた。

 

 残されたのは、床に落ちた一枚の写真だった。

 

 そこには、若い久志と引子。

 

 そして、二人の赤ん坊が写っていた。

 

 写真の裏側には、短い文章が書かれていた。

 

 ――父親は、二人の息子を選んだ。

 

 ――だが、二人の息子は、父親を選び返した。

 

 出久は、その文章を見つめた。

 

 その下に、もう一行。

 

 ――第三子は、父親を許さなかった。

 

 ――第四子は、父親を許した。

 

 出久の指が止まった。

 

「……第三子?」

 

 自分のことだろうか。

 

 それとも、別の出久なのだろうか。

 

 答えは、まだ分からない。

 

 しかし、その写真には。

 

 もう一つ、奇妙なことがあった。

 

 赤ん坊が二人しか写っていないのに。

 

 写真の隅に、三つ目の影が落ちていた。

 

 その影は、ベッドの上ではなく。

 

 病室の入口に立っていた。

 

 小さな子どもの影。

 

 緑色の髪をした、誰かの影。

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 病室の入口には。

 

 誰もいなかった。

 

     *

 

 御影は、ずっと黙っていた。

 

 出久が父親と話している間も。

 

 老いた久志が消える間も。

 

 そして、母親が泣いている間も。

 

 彼は、ただ、ベッドの上の二人の赤ん坊を見つめていた。

 

「……兄さん?」

 

 出久が声をかける。

 

 御影は、顔を上げた。

 

「出久」

 

「うん」

 

「……僕は、どうしたらいいんだろう」

 

 その問いは、あまりにも幼かった。

 

 彼は、まだ子どもだった。

 

 自分が生きたいと思っている。

 

 弟と一緒に生きたいと思っている。

 

 けれど、自分が生きることで、弟が生まれなくなる世界がある。

 

 弟が生きることで、自分が消える世界がある。

 

 どちらも、受け入れたくなかった。

 

「僕は、弟を生かしたい」

 

 御影は言った。

 

「でも、僕も生きたい」

 

 彼は、涙を拭った。

 

「そんなの、わがままなのかな」

 

 出久は、首を振った。

 

「わがままじゃないよ」

 

「……でも」

 

「兄さんが生きたいって思うことは、悪いことじゃない」

 

 出久は、彼の手を握った。

 

「僕が生きたいって思うことも、悪いことじゃない」

 

 御影は、目を伏せた。

 

「……じゃあ、どうして世界は、僕たちにどっちかを選ばせるんだろう」

 

 出久は、すぐには答えられなかった。

 

 世界の仕組みは、まだ分からない。

 

 なぜ同じ名前を持つ子どもが、二人存在してはいけないのか。

 

 なぜ世界は、一人の人間を複数の人生に分けてしまうのか。

 

 なぜ、誰かが生きるために、誰かが死ななければならないのか。

 

 答えは、まだ見つかっていない。

 

 けれど。

 

「……世界が間違ってるのかもしれない」

 

 出久は言った。

 

 御影が、顔を上げた。

 

「世界が?」

 

「うん」

 

 出久は頷いた。

 

「世界が、僕たちのことをちゃんと理解できていないんだよ」

 

 彼は、病室の壁を見た。

 

「同じ名前だから、同じ人間だと思ってる。同じ顔だから、一人にまとめようとしてる」

 

 出久は、御影の手を握りしめた。

 

「でも、僕たちは違う」

 

 御影は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

 小さく笑った。

 

「……そっか」

 

 彼は、涙を拭った。

 

「そうだよね」

 

 御影は、出久を抱きしめた。

 

 幼い兄弟が、病室の真ん中で抱き合う。

 

「僕は、御影出久だ」

 

 御影は言った。

 

「君は、緑谷出久だ」

 

 出久は、頷いた。

 

「うん」

 

「僕は、君のお兄ちゃんだ」

 

「うん」

 

「君は、僕の弟だ」

 

「……うん」

 

 御影は、出久を強く抱きしめた。

 

「だったら、僕たちは一緒に生きよう」

 

 出久は、兄の背中に腕を回した。

 

「……うん」

 

 その瞬間。

 

 病室の時計が、02時17分を指した。

 

 世界が、再び動き始めた。

 

 壁の亀裂が消える。

 

 白い天井が戻る。

 

 病室の扉が、元の位置に戻る。

 

 そして、ベッドの上で。

 

 二人の赤ん坊が、同時に泣き出した。

 

 引子は、二人を抱きしめた。

 

「……大丈夫」

 

 彼女は、泣きながら笑った。

 

「大丈夫よ」

 

 赤ん坊たちは、母親の腕の中で泣き続けている。

 

 それぞれが、違う声で。

 

 それぞれが、違う人生を求めて。

 

 その泣き声を聞きながら、出久は思った。

 

 この世界は、まだ救える。

 

 兄も。

 

 弟も。

 

 母親も。

 

 父親も。

 

 誰も、諦めなくていい。

 

 そのときだった。

 

 病室の外から、足音が聞こえた。

 

 ゆっくりと。

 

 一歩ずつ。

 

 誰かが、近づいてくる。

 

 出久は、振り返った。

 

 扉の向こうに、影が見えた。

 

 小さな子どもの影。

 

 その影は、扉の前で立ち止まった。

 

 そして。

 

 聞き覚えのある声がした。

 

「……お兄ちゃん」

 

 御影が、顔を上げた。

 

「……誰?」

 

 扉の向こうの子どもは、答えた。

 

「僕だよ」

 

 その声は、緑谷出久の声だった。

 

 けれど。

 

 ベッドの上の赤ん坊とも。

 

 出久自身とも。

 

 御影とも。

 

 違っていた。

 

「……僕も、生まれたい」

 

 扉の向こうで、子どもが言った。

 

「僕も、二人のお兄ちゃんになりたい」

 

 出久の背筋が凍った。

 

 御影が、ゆっくりと立ち上がる。

 

 病室の時計が、再び止まった。

 

 02時13分。

 

 扉の向こうの子どもが、泣き始めた。

 

「……お願い」

 

 その声は、震えていた。

 

「僕を、忘れないで」

 

 出久は、扉へ走った。

 

「待って!」

 

 扉を開ける。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 ただ、床に一枚の紙が落ちていた。

 

 出久は、それを拾った。

 

 出生証明書だった。

 

 そこには、三つの名前が並んでいた。

 

 第一子。

 

 第二子。

 

 第三子。

 

 しかし、三つ目の名前だけが、黒く塗り潰されていた。

 

 その下に、手書きの文字がある。

 

 ――僕は、二人の兄を持つはずだった。

 

 ――一人は、僕を生かすために死んだ。

 

 ――もう一人は、僕が生まれるために消えた。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その文章の最後に。

 

 小さな字で、こう書かれていた。

 

 「だから僕は、二人の兄を殺した。」

 

 紙が、震えた。

 

 文字が、滲んでいく。

 

 そして、最後の一行が浮かび上がった。

 

 「僕の名前は、緑谷出久。」

 

 出久は、紙を握りしめた。

 

 自分の名前。

 

 自分と同じ名前。

 

 自分ではない、誰かの名前。

 

 その瞬間。

 

 背後から、御影の声が聞こえた。

 

「……出久」

 

 振り返る。

 

 御影は、青ざめた顔で立っていた。

 

「どうしたの、兄さん?」

 

 御影は、ゆっくりと首を振った。

 

「……僕、思い出した」

 

 その声は、震えていた。

 

「何を……?」

 

 御影は、自分の胸を押さえた。

 

「僕は……」

 

 彼は、目を閉じた。

 

「僕は、一度……弟を殺したことがある」

 

 出久の手から、出生証明書が落ちた。

 

 紙は床に触れる前に、黒い灰になって消えた。

 

 御影は、泣いていた。

 

「……ごめん、出久」

 

 彼は、震える声で言った。

 

「僕が、君を殺したんだ」

 

 時計が、02時13分を指していた。

 

 そして。

 

 病室の外から、もう一つの声が聞こえた。

 

「違うよ、兄さん」

 

 出久と御影が、同時に振り返る。

 

 廊下の向こうに、少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 同じ顔。

 

 同じ名前。

 

 けれど、その少年は。

 

 御影を見て、笑っていた。

 

「僕が、兄さんを殺したんだ」

 

 その声は、出久自身の声だった。

 

 そして。

 

 少年の胸元には。

 

 「第四子」

 

 と書かれた、白い札が付けられていた。

 

8 兄さんが弟を殺した日

「……第四子?」

 

 出久は、少年の胸元にある札を見つめた。

 

 白い札。

 

 黒い文字。

 

 その下には、管理番号らしき数字が刻まれていた。

 

 しかし、数字は途中で途切れている。

 

 まるで、数えようとした人間が、途中で数えることを諦めてしまったかのように。

 

 少年は、病室の入口に立っていた。

 

 背丈は、出久とほとんど変わらない。

 

 顔も、声も、同じ。

 

 違うのは、目だった。

 

 少年の目には、何もなかった。

 

 怒りも。

 

 悲しみも。

 

 希望も。

 

 絶望すらも。

 

 すべてを経験し終えた人間のように、彼は静かに笑っていた。

 

「……君が、第四の子どもなの?」

 

 出久が尋ねた。

 

 少年は頷いた。

 

「そうだよ」

 

「第四の子どもは、まだ生まれていないって……」

 

「うん」

 

「なのに、どうしてここにいるの?」

 

「生まれていないからだよ」

 

 少年は、当たり前のように答えた。

 

「生まれていないから、どこにでもいられる」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「生まれていない子どもには、まだ人生がない」

 

 少年は、自分の胸元の札を指で弾いた。

 

「人生がないから、どの人生にも入れる。どの名前にもなれる。どの子どもの代わりにもなれる」

 

 彼は、笑った。

 

「便利でしょう?」

 

「……便利なんかじゃない」

 

 御影が、低い声で言った。

 

 少年が、御影を見た。

 

「そうかな?」

 

「お前は、誰なんだ」

 

「第四子だよ」

 

「そうじゃない!」

 

 御影が叫んだ。

 

「お前は、何者なんだ! どうして僕の記憶にいる!? どうして僕が出久を殺したなんて言うんだ!」

 

 少年は、しばらく御影を見つめていた。

 

 やがて、静かに口を開いた。

 

「……兄さんは、弟を守りたかったんだよね」

 

 御影の顔が強張る。

 

「弟が生まれると、自分が死ぬ。自分が生きると、弟が生まれない。だから、兄さんは考えた」

 

 少年は、一歩、病室へ入った。

 

「自分がいなくなれば、弟が生まれるんじゃないかって」

 

「……やめろ」

 

「兄さんは、父さんに頼んだ」

 

「やめろ!」

 

「僕を殺してって」

 

 御影の叫びが、病室に響いた。

 

 しかし、少年は止まらなかった。

 

「父さんは、断った」

 

 少年は、淡々と続けた。

 

「父さんは、兄さんを生かしたかった。弟も生かしたかった。だから、どちらも選ばなかった」

 

 彼は、ベッドの上の赤ん坊を見た。

 

「でも、世界は選ばなかった父さんを許さなかった」

 

 少年の目が、わずかに揺れた。

 

「世界は、兄さんを消そうとした」

 

 御影は、震えていた。

 

「……それで?」

 

「兄さんは、弟を守るために、最後の選択をした」

 

 少年は、御影を見つめた。

 

「兄さんは、自分で自分を殺したんだ」

 

 沈黙。

 

 出久は、息をすることも忘れていた。

 

 御影は、何も言わなかった。

 

 ただ、自分の手を見つめていた。

 

 その手で、誰かを殺したのだろうか。

 

 自分自身を。

 

 弟を。

 

 それとも、まだ生まれていない誰かを。

 

「……違う」

 

 御影が、呟いた。

 

 少年は、首を傾げた。

 

「違う?」

 

「僕は……」

 

 御影の声が震えた。

 

「僕は、そんなこと……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 記憶が、戻ってきていた。

 

 出久には分かった。

 

 御影の目の奥で、何かが繋がっていく。

 

 断片だった記憶が、一本の線になっていく。

 

 それは、救いではなかった。

 

 失われた時間を取り戻すことは、必ずしも幸せではない。

 

 忘れていた痛みが、もう一度、自分のものになることもある。

 

 御影は、両手で顔を覆った。

 

「……ああ」

 

 その声は、壊れそうだった。

 

「そうだったんだ」

 

 出久が駆け寄る。

 

「兄さん!」

 

 御影は、首を振った。

 

「僕は、出久を……」

 

 彼は、弟を見た。

 

「君が生まれる前に、君を殺そうとした」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……兄さん」

 

「君が生まれたら、僕が消える。僕が生きていたら、君が生まれない。だから僕は……」

 

 御影は、泣きながら笑った。

 

「君が生まれる前に、君を殺そうとしたんだ」

 

 その言葉は、重かった。

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 自分が生まれる前に。

 

 兄が、自分を殺そうとした。

 

 けれど。

 

 兄は、同時に、自分を生かそうとしていた。

 

 自分が生まれるために、兄は消えようとした。

 

 自分が生きるために、兄は死のうとした。

 

 そして、その選択が。

 

 世界を、何度も作り直す原因になったのかもしれない。

 

「……でも」

 

 御影は、顔を上げた。

 

「僕は、君を殺せなかった」

 

 彼は、出久の手を握った。

 

「殺したくなかったんだ」

 

 その目から、涙が落ちた。

 

「僕は、生きたかった。君にも、生きてほしかった。だから……どちらかを選ぶことなんて、できなかった」

 

 出久は、兄の手を握り返した。

 

「……うん」

 

「なのに、僕は……」

 

 御影は、唇を噛んだ。

 

「君を殺した世界を、何度も作り直した」

 

 出久の胸が痛んだ。

 

「兄さん……」

 

「君が生まれなかった世界なら、僕は生きられると思った」

 

 御影は、涙を拭った。

 

「でも、その世界でも、君はいなくならなかった」

 

 彼は、出久を見つめた。

 

「君は、いつもどこかにいた」

 

 その声が、震えた。

 

「僕の弟として。僕の息子として。僕の父親として。僕の知らない誰かとして」

 

 御影は、首を振った。

 

「僕は、何度も君を消そうとした。でも、君は消えなかった」

 

 そして。

 

「……だから、僕は最後に、君を忘れることにしたんだ」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「忘れる……?」

 

「君を覚えている限り、君は世界に存在し続ける。君が存在し続ける限り、世界は君を消そうとする。だったら……」

 

 御影は、静かに言った。

 

「僕が君を忘れれば、君は生きられるんじゃないかと思った」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

 兄が、自分を忘れようとした。

 

 弟を救うために。

 

 弟を生かすために。

 

 自分の記憶から、弟を消そうとした。

 

 けれど。

 

「……忘れられなかったんだね」

 

 出久が言うと、御影は小さく頷いた。

 

「うん」

 

 御影は、泣きながら笑った。

 

「どうしても、忘れられなかった」

 

 その瞬間。

 

 第四子の少年が、静かに拍手した。

 

 ぱち。

 

 ぱち。

 

 ぱち。

 

 乾いた音が、病室に響く。

 

「素晴らしいね」

 

 少年は、笑っていた。

 

「本当に、素晴らしい」

 

 出久は、彼を睨んだ。

 

「……何が面白いんだ」

 

「面白いよ」

 

 少年は、即答した。

 

「だって、君たちは、まだ同じことを繰り返そうとしている」

 

「……何?」

 

「兄さんは、自分が弟を殺したことを悔やんでいる。弟は、兄さんが自分を殺そうとしたことを悲しんでいる」

 

 少年は、二人を交互に見た。

 

「そして、二人とも、相手を救おうとしている」

 

 彼は、笑顔のまま言った。

 

「また、同じだ」

 

 御影の顔が強張った。

 

「……何が言いたい」

 

「兄さんは、また弟を守ろうとする」

 

 少年は、御影を見た。

 

「弟は、また兄さんを救おうとする」

 

 次に、出久を見る。

 

「そして、二人とも、相手のために自分を犠牲にする」

 

 少年は、首を傾げた。

 

「違う?」

 

 出久は、答えなかった。

 

 違わない。

 

 自分は、今も兄を救いたいと思っている。

 

 兄が苦しんでいるなら、その苦しみを取り除きたい。

 

 兄が自分を責めているなら、その罪を引き受けたい。

 

 兄が死のうとするなら、自分が代わりに死にたい。

 

 それは、愛情だ。

 

 けれど。

 

 その愛情は、兄の意思を奪うものでもある。

 

 自分が兄を救うために何かを決めれば、兄は自分で選ぶ機会を失う。

 

 それは、父親が犯した過ちと、何が違うのだろう。

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……違うよ」

 

 第四子が、目を細めた。

 

「何が?」

 

「僕たちは、もう同じことを繰り返さない」

 

 出久は、御影の手を握った。

 

「兄さんが僕を殺そうとしたことも、僕が兄さんを救おうとしていることも、なかったことにはしない」

 

 彼は、第四子を見つめた。

 

「でも、だからって、同じ結末になると決まったわけじゃない」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、ゆっくりと笑った。

 

「……そう」

 

 その笑顔は、どこか悲しかった。

 

「なら、証明してみてよ」

 

 彼は、胸元の札を外した。

 

 札の裏には、文字が刻まれていた。

 

 ――最終選択者。

 

 少年は、それを出久に差し出した。

 

「君が、本当に誰も犠牲にしないつもりなら」

 

 彼は言った。

 

「僕を生まれさせて」

 

 出久は、札を見つめた。

 

「……君を?」

 

「そう」

 

 少年は頷いた。

 

「僕は、第四の子ども。まだ生まれていない子ども。君たちが何度も消そうとして、何度も忘れようとして、最後まで存在を認めなかった子ども」

 

 彼は、自分の胸を指した。

 

「僕も、生きたいんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、出久は理解した。

 

 この少年は、ただの観測者ではない。

 

 ただの未来の自分でもない。

 

 御影と出久の選択の隙間に生まれた、誰にも名前を与えられなかった子どもなのだ。

 

 兄が弟を救おうとしたとき。

 

 弟が兄を救おうとしたとき。

 

 父親が二人の息子を選ぼうとしたとき。

 

 そのたびに、選ばれなかった可能性が積み重なっていった。

 

 その中で、存在を許されなかった誰か。

 

 それが、この第四子なのかもしれない。

 

「……君の名前は?」

 

 出久が尋ねた。

 

 少年は、目を瞬かせた。

 

「え?」

 

「君の名前だよ」

 

 出久は、もう一度尋ねた。

 

「君は、緑谷出久じゃないんだろう?」

 

 少年の笑顔が、消えた。

 

「……僕は」

 

 彼は、口を開いた。

 

 けれど、声が出なかった。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 唇を動かした。

 

 それでも、名前が出てこない。

 

 少年は、自分の喉に手を当てた。

 

「……あれ?」

 

 その顔に、初めて恐怖が浮かんだ。

 

「僕の名前……」

 

 彼は、震え始めた。

 

「僕の名前、何だっけ」

 

 出久は、胸が締めつけられた。

 

 名前がない。

 

 自分が誰なのか、分からない。

 

 それでも、生きたいと思っている。

 

 その苦しさを、出久は知っていた。

 

 御影が、少年に近づいた。

 

「……君」

 

 少年は、顔を上げた。

 

「君は、僕たちのことを知っているんだね」

 

 御影が言った。

 

「僕たちが、どんな人生を生きてきたのか。何を失ってきたのか。どんな選択をしてきたのか」

 

 少年は、黙って頷いた。

 

「だったら、僕たちも、君のことを知りたい」

 

 御影は、手を差し出した。

 

「君がどんな子どもなのか。何を望んでいるのか。何が怖いのか」

 

 少年の目が揺れた。

 

「……僕は」

 

 彼は、差し出された手を見た。

 

「僕は、二人の兄が欲しかった」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

「一人は、僕を生かすために死んだ」

 

 少年は、御影を見た。

 

「もう一人は、僕が生まれるために消えた」

 

 そして、出久を見た。

 

「僕は、二人とも失いたくなかった」

 

 少年の目から、涙が落ちた。

 

「だから、二人を殺した」

 

 御影は、目を閉じた。

 

 出久は、少年を見つめた。

 

 その言葉は、罪の告白だった。

 

 けれど、その奥には。

 

 誰にも聞いてもらえなかった願いがあった。

 

 二人の兄が欲しかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

 自分を愛してくれる人が欲しかった。

 

 自分が愛する人と、一緒に生きたかった。

 

 誰かが死ぬことでしか、自分の人生が成立しない世界など、望んでいなかった。

 

 出久は、少年の前に膝をついた。

 

「……君は、まだ生まれていないんだよね」

 

 少年は、頷いた。

 

「うん」

 

「だったら、これから名前を決めればいい」

 

 少年は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「君が、どんな人間になりたいのか。どんな人生を生きたいのか。それを考えてから、名前を決めればいい」

 

 出久は、笑った。

 

「名前は、君が誰なのかを決めるためのものじゃない」

 

 彼は、少年の手を取った。

 

「君が生きていくために、君が選ぶものだよ」

 

 少年は、震えていた。

 

「……僕が、選んでいいの?」

 

「うん」

 

「僕が生まれたら、兄さんたちが死ぬかもしれない」

 

「それなら、死ななくていい世界を探そう」

 

「そんな世界、あるの?」

 

 出久は、少しだけ困ったように笑った。

 

「まだ、見つかっていない」

 

 それでも、彼は続けた。

 

「でも、見つかっていないことと、存在しないことは違うよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 第四子の身体が、光り始めた。

 

 胸元の札が、ゆっくりと消えていく。

 

 代わりに。

 

 少年の手のひらに、小さな文字が浮かび上がった。

 

 ――名前、未登録。

 

 その文字が、一度だけ明滅した。

 

 そして。

 

 ――名前、登録待機。

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「……ありがとう」

 

 その瞬間、病室の壁に、無数の扉が現れた。

 

 それぞれの扉の向こうに、別の世界がある。

 

 御影が生きている世界。

 

 出久が生まれなかった世界。

 

 お茶子が別の人を愛した世界。

 

 父親が二人の息子を選ばなかった世界。

 

 そして。

 

 誰も死なずに済んだかもしれない世界。

 

 出久は、扉を見つめた。

 

 どの扉を開けば、正解なのか。

 

 どの世界を選べば、全員が幸せになれるのか。

 

 まだ、分からない。

 

 しかし。

 

 今度は、一人で決めない。

 

 兄と。

 

 父親と。

 

 母親と。

 

 そして、まだ生まれていない子どもと。

 

 一緒に考える。

 

 出久は、御影を見た。

 

「……兄さん」

 

「うん」

 

「一緒に、探そう」

 

 御影は、涙を拭って笑った。

 

「……うん」

 

 第四子も、頷いた。

 

「僕も、行く」

 

 その瞬間。

 

 病室の時計が、02時18分を指した。

 

 初めて、02時13分以外の時刻が。

 

 世界に、確かな形で刻まれた。

 

 しかし。

 

 扉の一つが、勝手に開いた。

 

 その向こうに、病室があった。

 

 ベッドの上には、緑谷引子。

 

 その傍らには、緑谷久志。

 

 そして、床には。

 

 一人の少年が倒れていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 見慣れた顔。

 

 その少年は、血に濡れた手で、何かを握りしめていた。

 

 写真だった。

 

 写真の中には、御影とお茶子が写っていた。

 

 そして、その二人の間に。

 

 赤ん坊が一人。

 

 少年は、最後の力を振り絞るように、口を開いた。

 

「……お父さん」

 

 その声を聞いた瞬間、出久は凍りついた。

 

 倒れている少年は。

 

 自分だった。

 

 しかし、その姿は。

 

 今の出久とは違っていた。

 

 もっと幼い。

 

 もっと弱々しい。

 

 そして。

 

 胸には、深い傷があった。

 

「……僕を、殺して」

 

 少年が、呟いた。

 

 その言葉に、第四子が顔を伏せた。

 

 御影が、息を呑んだ。

 

 出久は、扉の向こうの自分を見つめた。

 

 そして、気づいた。

 

 これは、過去ではない。

 

 未来でもない。

 

 まだ選ばれていない、もう一つの人生だ。

 

 その世界で。

 

 緑谷出久は、御影とお茶子の子どもとして生まれ。

 

 そして。

 

 自分自身に殺されようとしていた。

 

 扉の向こうで、時計が鳴った。

 

 02時13分。

 

 第四子が、震える声で言った。

 

「……ここが、始まりなんだ」

 

 出久は、ゆっくりと振り返った。

 

「何の?」

 

 第四子は、泣きながら答えた。

 

「僕たちが、最初に間違えた場所」

 

 そして、扉の向こうで。

 

 血に濡れた少年が、もう一度、呟いた。

 

「……お父さん」

 

 その声は。

 

 出久自身の声だった。

 

 「今度こそ、僕を殺して」

 

第三十六話・了

 

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