最初に聞こえたのは、泣き声だった。
赤ん坊の泣き声ではない。
もっと幼く、もっと弱々しく、そして、ひどく聞き覚えのある声。
「……お父さん」
血に濡れた少年が、床に倒れたまま呼んでいた。
「お父さん、僕を殺して」
扉の向こう側。
そこには、緑谷出久がいた。
いや、正確には――緑谷出久だった少年がいた。
年齢は、おそらく六歳か七歳。
緑色の髪。丸い頬。そばかす。痛みを堪えるように歪んだ顔。
胸には、何かに貫かれたような傷があった。
その傷から流れた血が、白い床に黒い染みを作っている。
少年の傍らには、御影出久が立っていた。
今の出久よりも少し年上に見える兄。
その顔には、血の気がなかった。
目の前で弟が死にかけているのに、手を伸ばすことすらできない。
いや。
伸ばしていた。
何度も。
何度も。
それでも、手は少年に届かなかった。
透明な壁があるわけではない。
空間が歪んでいるわけでもない。
ただ、御影出久が弟に触れようとするたびに、世界そのものが二人の間に割り込んでいた。
『接触を拒否します』
『第一個体と第二個体の直接接触は、再構成に影響します』
『記録された死亡状態を維持してください』
無機質な音声が、何度も繰り返される。
そのたびに、御影出久の指先が消えかけた。
「やめろ……」
現在の出久は、扉の前で呟いた。
「やめろよ……!」
声を荒らげても、扉の向こうの世界には届かない。
血を流す少年が、こちらを見た。
目が合った。
その瞬間、出久は理解した。
あの少年は、自分のことを見ている。
現在の自分を。
扉の外に立っている、自分を。
「……ああ」
少年は、なぜか安心したように笑った。
「来てくれたんだ」
出久の心臓が、嫌な音を立てた。
「君は……誰だ?」
尋ねた声は、自分でも驚くほど震えていた。
少年は答えようとした。
けれど、その前に口から血が溢れた。
御影出久が叫ぶ。
「喋るな! もういい、喋らなくていいから!」
「でも……」
「いいんだ!」
「僕が言わなきゃ……また、忘れられる」
少年は、痛みを堪えて顔を上げた。
「僕は、緑谷出久」
その名前を聞いた瞬間。
現在の出久の背後で、麗日お茶子が息を呑んだ。
「……そんな」
お茶子は扉に駆け寄った。
「出久くん……? ねえ、出久くん!」
血に濡れた少年は、彼女の声にも反応した。
「お茶子さん」
彼の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「よかった。覚えていてくれたんだ」
お茶子は、その場に立ち尽くした。
知らない。
知らないはずだった。
この少年と過ごした記憶なんてない。
手を繋いだことも、笑い合ったことも、名前を呼び合ったことも。
何一つ、覚えていない。
それなのに。
彼女の胸の奥では、何かが泣いていた。
ずっと昔に置き去りにした子どもが、ようやく見つけてもらえたときのように。
「……ごめん」
お茶子の唇から、言葉が零れた。
「ごめんね……」
なぜ謝っているのか、自分でもわからない。
ただ、謝らなければならないと思った。
あの子が死にかけていることに。
あの子を知らないことに。
そして、知らないはずなのに、あの子が死ぬことを恐れている自分自身に。
扉の向こうで、御影出久が振り返った。
彼の目が、お茶子を捉える。
そこにあったのは、憎しみではなかった。
責める気持ちでもなかった。
ただ、どうしようもない疲労と、もう何度も繰り返してきた者だけが持つ、諦めに似た悲しみだった。
「……お茶子ちゃん」
御影は静かに言った。
「今度は、何も思い出さなくていい」
「嫌や」
お茶子は即座に答えた。
「嫌や……! 何も知らんまま、また誰かが死ぬなんて、そんなの……!」
「君は悪くない」
「そんなこと、今は聞いてない!」
お茶子の声が震えた。
「悪いとか、悪くないとか、誰が決めるん!? 誰がそんなこと決めてええって言ったん!?」
御影は答えなかった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
彼は知っているのだ。
何が起きたのか。
この世界で、誰が何をしたのか。
そして、なぜこの少年が死にかけているのか。
出久は扉に手をついた。
「開けろ」
白い扉は動かなかった。
「開けろよ……!」
もう一度、叩く。
拳が痛んだ。
「この子を助けるんだ! 開けろ!」
『観測対象の介入を確認』
『現在の緑谷出久による接触は、過去記録との競合を引き起こします』
『接触を許可できません』
「ふざけるな!」
出久は叫んだ。
「過去記録!? 競合!? そんなもののために、この子が死んでいい理由なんかないだろ!」
『当該個体の死亡は、既に成立しています』
「成立してない!」
『当該個体の出生記録は存在しません』
「だから何だ!」
『当該個体の戸籍は存在しません』
「だから何だって言ってるんだ!」
『当該個体の母親は、当該個体の存在を認識していません』
出久の動きが止まった。
音声は、淡々と続いた。
『当該個体の父親は、当該個体を救うことができませんでした』
『当該個体の兄は、当該個体を救うことができませんでした』
『当該個体の死亡は、世界構造上、必要な処理でした』
「……違う」
出久は、首を振った。
「違う。違う、違う……!」
声が掠れた。
「そんなの、誰かが決めたことだろ……!」
扉の向こう。
少年は、血の気の失せた唇で笑った。
「そうだよ」
出久は顔を上げた。
「……え?」
「誰かが決めたんだ」
少年は言った。
「僕が、生まれなければいいって」
その言葉と同時に、白い空間の壁に文字が浮かんだ。
それは、出生記録だった。
病院名。
分娩室番号。
母親の氏名。
父親の氏名。
出産予定時刻。
そして、記録された時刻。
二時十三分。
出久の父、緑谷久志が、十三年間、世界から止められていた時刻。
その下に、ひとつの記録が表示された。
――出生前死亡。
出久は、息をすることを忘れた。
出生前。
生まれる前に、死んだ。
そんなことが、あるはずがない。
人は生まれる前に死ぬことがある。
医学的な意味なら、それは現実にも起こり得る。
けれど、この記録は違った。
死亡日時は、出生日時よりも前。
しかも、その死因欄には、医学用語ではない言葉が書かれていた。
原因:存在の拒否。
死亡確定者:緑谷出久。
現在の出久は、ゆっくりと自分の手を見た。
何も持っていない。
血もついていない。
それなのに、手のひらがひどく冷たかった。
「……僕が?」
誰も答えなかった。
「僕が、この子を殺したのか?」
扉の向こうで、少年は目を閉じた。
御影出久が、顔を歪めた。
そして、ようやく口を開いた。
「……違う」
その声は、あまりにも弱かった。
「出久。君が直接、この子を殺したわけじゃない」
「じゃあ、何なんだよ!」
「君が……」
御影は、苦しそうに言った。
「君が生きるために、この子が生まれない世界を選んだんだ」
世界が、静まり返った。
お茶子が口元を押さえた。
現在の出久は、何も言えなかった。
御影出久は、弟から目を逸らさなかった。
「君は、知らなかった。知らないまま選んだ。君が生きていられる世界を。君が幸せになれる世界を。君が誰かを救える世界を」
「……やめろ」
「その世界では、あの子は生まれない」
「やめろよ」
「そして、君は――」
「やめろって言ってるだろ!」
出久の叫びが、白い空間を震わせた。
その瞬間。
扉の向こうに、もう一つの影が現れた。
緑谷久志だった。
若い父親。
まだ髪に白いものもなく、顔に刻まれた疲労もない。
彼は血に濡れた少年を見ていた。
そして、少年の前に膝をついた。
「……ごめんな」
若い久志は、震える手で少年の頬に触れた。
今度は、触れられた。
世界は、拒まなかった。
少年は驚いたように目を見開いた。
「お父さん……?」
「ごめんな」
久志は、もう一度言った。
「お前を、守れなかった」
少年の目から、涙が零れた。
「……僕、生まれてもよかった?」
久志は答えられなかった。
答えられないまま、少年を抱き締めた。
その腕の中で、少年は泣いた。
「僕……生まれたかった」
小さな声だった。
「お兄ちゃんと、遊びたかった」
御影出久が、顔を伏せた。
「お父さんに、名前を呼んでほしかった」
久志の肩が震えた。
「お母さんに、会いたかった」
お茶子は、目を見開いた。
「みんなと、ご飯を食べたかった」
少年は、泣きながら言った。
「僕も……僕も、家族になりたかった」
久志は、少年を抱き締めたまま、何度も謝った。
「ごめんな。ごめんな……」
けれど、謝罪は少年の傷を塞がなかった。
世界は、少年の死を確定したままだった。
そして、少年自身もまた、自分が死ななければならない理由を知っていた。
「……でも」
少年は、父親の胸に顔を埋めたまま、言った。
「僕が生まれたら、お兄ちゃんが死んじゃうんだよね?」
久志の腕が、止まった。
御影出久が目を閉じた。
現在の出久は、拳を握り締めた。
少年は、誰も責めなかった。
父親を。
兄を。
母親を。
世界を。
ただ、自分がいなくなることで、誰かが生きられるのなら。
それでいいのだと。
そう信じようとしていた。
「だから……」
少年は、泣きながら笑った。
「僕は、いなくなるね」
その笑顔を見た瞬間、出久は理解した。
これは、自分が知っている顔だった。
誰かを助けるためなら、自分のことなど後回しにする。
自分が傷つけば、誰かが助かると思ってしまう。
誰かが泣かずに済むなら、自分が泣けばいいと考えてしまう。
そういう人間の顔だった。
自分自身の顔だった。
だからこそ、出久は許せなかった。
その考え方を。
その優しさを。
そして、その優しさが誰かを殺してしまう世界を。
「……違う」
出久は、扉に額を押しつけた。
「違うんだ……」
自分の声が、遠く聞こえた。
「僕は……そんな世界を選びたくない」
少年が、こちらを見た。
血に濡れた顔で。
涙を浮かべた目で。
まるで、ずっと待っていた答えを聞いたかのように。
「……じゃあ」
少年は、かすかに尋ねた。
「僕は、生まれてもいいの?」
出久は、答えようとした。
答えなければならなかった。
けれど、その瞬間。
白い空間のすべての扉が、一斉に開いた。
無数の世界が、こちらを覗いていた。
その中の一つ一つに、緑谷出久がいた。
笑っている出久。
泣いている出久。
ヒーローになった出久。
誰も救えなかった出久。
兄と肩を並べる出久。
兄の墓前に立つ出久。
そして――
生まれることを拒まれた、出久。
全員が、同じ問いを抱いていた。
自分が生まれなければ、誰かは生きられたのだろうか。
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
けれど、一つだけ。
すべての世界に共通していることがあった。
どの世界でも。
どの時間でも。
どの緑谷出久も。
誰かを救おうとしていた。
そして、そのたびに。
誰かが、いなくなっていた。
◇
扉の向こうで、少年の身体が透け始めた。
最初は、指先だった。
血に濡れた小さな手が、白い光に溶けていく。
次に、腕。
それから、胸の傷を中心に、身体全体が少しずつ透明になっていった。
「……ああ、そっか」
少年は、自分の手を見つめた。
「もう、時間なんだ」
「待って!」
出久が叫んだ。
「待ってくれ! まだ話が終わってない! 君の名前も、君が何をされたのかも、僕は何も知らないんだ!」
「僕の名前は、緑谷出久だよ」
「それは……!」
「うん。君と同じ」
少年は笑った。
「だから、僕には別の名前がなかったんだ」
その言葉に、御影出久が顔を上げた。
彼は、何かを思い出したようだった。
忘れていたことを。
あるいは、忘れたことにしていたことを。
「……違う」
御影が呟いた。
「そうじゃない。名前がなかったんじゃないんだ」
少年が兄を見る。
「兄さん?」
「僕たちが……僕たちが、お前の名前を決めなかったんだ」
その言葉に、若い久志が目を見開いた。
お茶子が息を呑んだ。
現在の出久は、扉から顔を離した。
「……どういうこと?」
御影は、自分の両手を見た。
その手は、かつて何かを抱き締めたことを覚えている。
何かを守ろうとしたことを覚えている。
そして、何かを手放したことも。
「僕は、ずっと……弟を守ることばかり考えていた」
御影は言った。
「出久が生きられる世界を作る。出久が傷つかない未来を選ぶ。出久が幸せになれるようにする。そればかり考えていた」
彼は、血に濡れた少年を見た。
「でも、お前も弟だった」
少年の瞳が揺れた。
「お前だって、僕たちの家族だった」
「……うん」
「なのに、僕はお前に何をしてやれた?」
御影の声が震えた。
「何もしていない。名前さえ呼んでやれなかった。お前が生まれたいと言ったとき、僕は何も答えられなかった」
「兄さん……」
「お前が生まれたら、出久が死ぬ。そう言われたとき、僕は……」
御影は、唇を噛んだ。
「僕は、出久を選んだ」
誰も、彼を責めなかった。
責められなかった。
それが、どれほど残酷な選択だったのかを、彼らは知っていたからだ。
兄を生かしたかった。
弟を生かしたかった。
どちらも大切だった。
どちらも、死んでほしくなかった。
それでも、選ばなければならなかった。
そう思い込まされていた。
「……ごめん」
御影は、少年に向かって頭を下げた。
「お前を弟として迎えることさえ、できなかった」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、困ったように笑った。
「……兄さんは、謝ってばっかりだね」
御影が顔を上げる。
「僕、兄さんに謝ってほしかったわけじゃないよ」
「……え?」
「僕はただ……」
少年は、透明になり始めた指を握ろうとした。
もう、指は動かなかった。
「一回でいいから、兄さんに名前を呼んでほしかったんだ」
御影の顔が、歪んだ。
「僕のことを、ちゃんと弟だって思ってほしかった」
「……お前は」
「うん?」
「お前は、僕の弟だ」
御影は、泣きながら言った。
「名前がなくても。記録がなくても。生まれたことになっていなくても。僕がお前を忘れてしまったとしても……お前は、僕の弟だ」
少年は目を見開いた。
それから。
泣いた。
声を上げて。
子どもらしく。
ずっと我慢していたものを、ようやく吐き出すように。
「……うん」
少年は泣きながら頷いた。
「うん……!」
御影は手を伸ばした。
今度は、世界が拒まなかった。
透明になった少年の頬に、兄の指先が触れた。
ほんの一瞬。
それだけで、御影の身体が大きく揺らいだ。
彼の胸元に、黒い亀裂が走った。
『警告』
『第一個体と未登録個体の接触を確認』
『存在記録に重大な矛盾が発生』
『再構成処理を開始します』
無機質な声が響いた。
白い壁に、無数の文字が走る。
『第一個体、御影出久』
『第二個体、緑谷出久』
『第四個体、緑谷出久』
『未登録個体、緑谷出久』
『個体の重複を検出』
『識別不能』
『統合処理を開始――』
「させるか!」
現在の出久が叫んだ。
彼は扉に両手をつき、力任せに押した。
開かない。
ならばと、肩をぶつける。
痛みが走った。
それでも、構わなかった。
「この子を消すな!」
『当該個体は、世界構造上の矛盾です』
「矛盾でいい!」
『当該個体の存在は、複数の個体の生存条件と競合しています』
「それでもだ!」
『当該個体を維持した場合、既存の記録が崩壊する可能性があります』
「崩れたら、直せばいい!」
『修復不能の可能性があります』
「それでも、消すな!」
出久は拳を振り上げた。
扉を殴った。
一度。
二度。
三度。
拳の皮膚が裂けた。
痛みが走る。
だが、扉は動かない。
そのときだった。
「……出久くん」
お茶子が、彼の腕を掴んだ。
「お茶子ちゃん……?」
「手」
彼女は、血の滲んだ彼の拳を見つめていた。
「手、痛いよ」
「こんなの……!」
「うん。こんなの、どうでもいいって言うんやろ?」
お茶子は、泣きそうな顔で笑った。
「でも、どうでもよくないよ」
「……っ」
「その子を助けたいのはわかる。うちだって、助けたい。助けられるなら、何だってしたい」
彼女は、扉の向こうの少年を見た。
「でも、出久くんまで自分を傷つけて、それで誰かが助かる世界を作ろうとするなら……うちは、また同じことを繰り返すだけやと思う」
出久は、何も言えなかった。
お茶子の言葉は、正しかった。
だからこそ、痛かった。
「……でも、何もしなかったら、この子は死ぬ」
「うん」
「何かを選ばなきゃいけないんだ」
「うん」
「だったら……!」
「違うよ」
お茶子は、首を振った。
「選ぶのは、誰か一人を死なせることじゃない」
彼女の手が、出久の拳を包んだ。
「どうしたら、みんなで生きられるかを考えることやろ?」
その言葉を聞いた瞬間。
出久の脳裏に、かつての記憶が蘇った。
御影出久が、何度も何度も繰り返してきた選択。
もう一人の緑谷出久が、世界を壊してまで繰り返してきた選択。
十三年前、誰かを救うために存在そのものを捨てた少年。
父親が、息子たちのどちらかを選ばなければならないと思い込んだ夜。
そして、自分自身が、誰かのために命を差し出そうとした数え切れない瞬間。
全員が、同じ場所に立っていた。
誰かを助けるために。
誰かを生かすために。
誰かを守るために。
その結果として、誰かを犠牲にすることを受け入れてしまった。
それが正しいと、信じてしまった。
「……僕は」
出久は、扉の向こうを見た。
「僕は、君に生まれてほしい」
少年が、こちらを見た。
「君が生まれたら、誰かが死ぬかもしれない。世界が壊れるかもしれない。僕たちが今まで知っていたものが、全部なくなるかもしれない」
出久は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「それでも、僕は君が生まれてきてよかったって言える世界を作りたい」
少年の目に、涙が溜まった。
「……本当に?」
「うん」
「僕が生まれても、兄さんは死なない?」
出久は答えられなかった。
保証など、できなかった。
何も知らないのに、大丈夫だと断言することはできない。
この世界には、知らなければならないことが多すぎた。
そして、これまでの自分たちは、知らないまま何度も選んできた。
だからこそ。
「……わからない」
出久は、正直に言った。
「僕は、君が生まれても誰も死なないって約束できない」
少年は、黙って聞いていた。
「でも、君が生まれる前から、君が死ななきゃいけないって決めつけることはしない」
出久は、扉に手をついた。
「君が生まれたら、君の人生を一緒に考える。君が間違えたら、一緒に悩む。君が泣いたら、話を聞く。君が誰かを傷つけたら、そのことから逃げずに、一緒に向き合う」
彼は、少年をまっすぐ見つめた。
「だから……生まれてきてくれ」
少年の唇が震えた。
「……僕も?」
「うん」
「僕も、ここにいていいの?」
「いいんだよ」
出久は、泣きながら笑った。
「君も、僕たちの家族になっていいんだ」
その瞬間。
少年の胸元に、かすかな光が灯った。
消えかけていた輪郭が、ほんの少しだけ戻った。
しかし。
『不許可』
無機質な声が、即座に響いた。
『現在の緑谷出久による発言は、出生条件を満たしません』
光が揺らいだ。
『当該個体の出生には、既存個体の死亡が必要です』
『条件は変更できません』
少年の身体が、再び透け始めた。
「……あ」
少年が、小さく声を漏らした。
御影が叫ぶ。
「出久、離れろ!」
次の瞬間、御影の身体が崩れた。
黒い亀裂が全身へ広がり、彼の輪郭が砕け始める。
「兄さん!」
少年が叫んだ。
「いやだ! 兄さん、いやだ!」
「大丈夫だ!」
御影は、弟に向かって叫び返した。
「大丈夫だから!」
けれど、彼自身が一番わかっていた。
大丈夫ではない。
自分が消えれば、また何かが失われる。
この子を守ろうとすれば、今度は誰かが消える。
それが、これまでの世界の仕組みだった。
そして、その仕組みを壊そうとするたびに、世界は彼らを引き離してきた。
御影は、少年を抱き締めた。
世界が軋む。
少年の身体が、再び実体を取り戻した。
その代わりに、御影の身体が急速に透明になっていく。
「……兄さん!」
「ごめんな」
御影は、弟の頭を撫でた。
「また、お前を一人にする」
「いやだ……!」
「ごめんな」
「いやだ! 兄さん、僕を置いていかないで!」
「……そうだな」
御影は、泣きながら笑った。
「僕も、本当は……置いていきたくない」
その言葉に、少年は声を上げて泣いた。
現在の出久は、扉を殴った。
お茶子も、両手で扉を押した。
けれど、世界は二人を拒み続けた。
そして、御影の身体が完全に消える寸前。
彼は、現在の出久を見た。
扉越しに。
まるで、最後に弟へ何かを託すように。
「出久」
現在の出久が顔を上げる。
「……兄さん!」
「お前は、僕とは違う答えを出してくれ」
御影は、微笑んだ。
「僕は、弟を生かすために、もう一人の弟を諦めた」
その身体が、さらに透ける。
「だから、お前は……」
声が途切れた。
それでも、御影は最後まで言葉を紡ごうとした。
「……誰かを生かすために、誰かを諦める世界を……」
そこで、彼の姿が消えた。
残されたのは、血に濡れた少年だけだった。
そして、少年は。
今度こそ、完全に一人になった。
◇
世界の外側。
存在しないはずの場所に、巨大な記録装置が浮かんでいた。
その表面には、無数の名前が刻まれている。
名前の大半は、緑谷出久だった。
いくつもの緑谷出久。
いくつもの御影出久。
そして、名前すら与えられなかった個体。
その中の一つが、赤く点滅していた。
『未登録個体』
『出生前死亡』
『観測者:緑谷出久』
『立会人:麗日お茶子』
『保護者:緑谷久志』
『兄:御影出久』
『出生条件:未達成』
記録装置の奥で、何者かが目を覚ました。
人間の形をしているようで、人間ではない。
顔は見えない。
身体の輪郭も、定まっていない。
ただ、その存在の前に、三つの記録が浮かんでいた。
一つ目。
第一子、御影出久。
二つ目。
第二子、緑谷出久。
三つ目。
未登録個体、緑谷出久。
その下に、新しい文字が刻まれた。
出生前死亡の原因:第一子と第二子の生存競合。
さらに、その下。
死亡を成立させた観測者:緑谷出久。
存在は、しばらく記録を見つめていた。
やがて、低い声が響いた。
「……違う」
その声は、先ほどのシステム音声とは異なっていた。
感情があった。
怒りとも、悲しみともつかない感情が。
「それは、結果だ」
記録装置の表面に、亀裂が走る。
「原因ではない」
存在は、三つの記録に手を伸ばした。
「誰が、最初に選んだ?」
その問いに、記録装置は答えなかった。
代わりに、別の記録が浮かび上がった。
十三年前。
時刻、二時十三分。
ある病院の分娩室。
母親の叫び声。
医師の指示。
そして、生まれたばかりの二人の子ども。
一人は、泣いていた。
もう一人は、泣かなかった。
そのとき。
分娩室の隅に、誰もいないはずの椅子があった。
そこに座っていたのは、緑谷出久だった。
現在の出久ではない。
今よりも幼く、しかし、ひどく疲れた顔をした少年。
彼は、生まれたばかりの子どもたちを見ていた。
そして、医師にも、看護師にも聞こえない声で呟いた。
「……ごめん」
少年は、泣いている子どもを見た。
それから、泣いていない子どもを見た。
「僕が……」
その先は、記録が途切れていた。
存在は、ゆっくりと顔を上げた。
「……やはり、お前か」
誰に向かって言ったのか。
記録装置には、何も表示されなかった。
ただ、最下層に隠されていた一行が、静かに浮かび上がった。
第一子は、二度殺された。
その下に、もう一行。
一度目の殺害は、出生前に成立している。
そして、最後の一行。
二度目の殺害を実行した者は、第一子自身である。
存在は、目を閉じた。
「……そうか」
その声には、ひどく深い疲労があった。
「お前は、弟を生かすために、自分を殺したのか」
答えはない。
だが、存在は知っていた。
これは、まだ終わっていない。
むしろ、始まったばかりなのだ。
◇
白い空間。
御影が消えたあと、少年は床に横たわっていた。
胸の傷は、まだ塞がっていない。
それでも、彼は生きていた。
いや。
生きているという記録だけが、かろうじて残っていた。
「……お兄ちゃん」
少年は、誰もいない場所へ手を伸ばした。
返事はない。
「……お父さん」
若い久志の姿も、いつの間にか消えていた。
残されたのは、少年と、扉の向こうにいる出久たちだけだった。
「……お茶子さん」
少年は、こちらを見た。
「僕、もう一つだけ、お願いしてもいい?」
お茶子は、涙を拭った。
「……うん」
「僕のこと……覚えていてくれる?」
その言葉に、お茶子は顔を歪めた。
「……もちろんや」
「本当に?」
「うん。本当に」
「僕が消えても?」
「消させへん」
お茶子は、扉に手をついた。
「絶対に、消させへん」
少年は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
その笑顔を見た出久は、胸が張り裂けそうになった。
彼は知っていた。
この少年は、もう何度も同じことを言ってきたのだ。
誰かに覚えていてほしい。
自分がいたことを、忘れないでほしい。
自分が生まれたかったことを、なかったことにしないでほしい。
それだけを願って。
それでも、誰も彼の名前を呼べなかった。
出久は、もう一度、少年に尋ねた。
「……君は、本当に緑谷出久なの?」
少年は、頷いた。
「うん」
「僕と同じ名前を、誰かがつけたの?」
「……わからない」
「じゃあ、君自身が選んだの?」
少年は、少し考えた。
「……ううん」
彼は、首を振った。
「僕は、そう呼ばれていたんだ」
出久の胸が、ざわついた。
「誰に?」
「……兄さんに」
「御影兄さんが?」
「ううん」
少年は、ゆっくりと首を振った。
「御影兄さんじゃない」
その瞬間。
白い空間のすべての扉が、音もなく閉じた。
少年の背後に、最後の扉が現れた。
今までのものとは違う。
白くも、黒くもない。
ただ、古びた木製の扉だった。
その表面には、子どもの手で書かれたような文字が刻まれている。
おかあさんのへや。
お茶子が息を止めた。
出久は、扉を見つめた。
「……お母さん?」
少年は、扉を見た。
その目に、初めて恐怖が浮かんだ。
「……開けないで」
出久が振り返る。
「え?」
「お願い」
少年は、震える声で言った。
「そこだけは……開けないで」
その声は、今までとは違っていた。
生まれたいと願ったときも。
兄に抱き締められたときも。
父親に謝られたときも。
少年は、こんな声を出さなかった。
彼はずっと、誰かに嫌われないように、誰かを困らせないように、誰かが悲しまないように、笑っていた。
けれど今。
彼は、心の底から怯えていた。
「……あそこにいるのは、誰?」
出久が尋ねた。
少年は答えなかった。
答えられなかった。
その代わり、扉の向こうから声がした。
「出久?」
優しい声だった。
聞き覚えのある声だった。
出久の記憶の中に、確かに存在する声。
疲れて帰ってきた息子を迎えるときの声。
泣いている息子を抱き締めるときの声。
大丈夫だと、何度も言い聞かせるときの声。
緑谷引子の声だった。
「そこにいるの?」
扉の向こうで、母親が尋ねた。
「……お母さん?」
出久は、呆然と呟いた。
お茶子が彼の腕を掴む。
「出久くん……」
だが、扉の向こうの声は続いた。
「ねえ、出久」
優しい声。
懐かしい声。
そして、どうしようもなく恐ろしい声。
「今度は、ちゃんと殺してあげるからね」
少年が、悲鳴を上げた。
「いやだあああああああっ!」
同時に、扉の隙間から無数の黒い手が伸びた。
少年の身体を掴む。
腕を。
足を。
首を。
出久が飛び出した。
「やめろおおおおおっ!」
その瞬間。
扉の向こう側から、もう一つの声が聞こえた。
少年の声だった。
けれど、目の前の少年の声ではない。
もっと幼く。
もっと弱々しく。
そして、ひどく悲しそうな声。
「……お母さん」
その声は、泣いていた。
「僕を産んでくれて、ありがとう」
黒い手が、少年を扉の向こうへ引きずり込む。
「でも……」
少年は、最後の力を振り絞って、出久を見た。
「僕を殺したのは、お母さんじゃない」
出久の目が見開かれた。
「……え?」
少年は、涙を流しながら笑った。
「僕を殺したのは……」
扉が閉じる。
その直前。
少年の唇が、確かに動いた。
「――僕だよ」
扉が閉まった。
白い空間に、静寂が戻った。
そして。
出久の目の前に、一枚の紙が落ちてきた。
出生届だった。
父親の欄には、緑谷久志。
母親の欄には、緑谷引子。
子どもの欄には、緑谷出久。
その下に、小さな文字で追記があった。
備考:当該児童は、出生前に自らの死亡を選択した。
出久は、紙を握り締めた。
指が震えた。
呼吸ができなかった。
そして、紙の裏側に書かれていた最後の一文を読んだ。
本児の死亡により、兄の生存が確定した。
その下に。
誰かの手書きで、こう記されていた。
兄さんを生かしたかった。
だから、僕は生まれないことにした。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、閉ざされた扉がある。
その向こうに、母親がいる。
そして、あの少年を殺した本当の理由がある。
けれど、出久にはもう一つ、気づいてしまったことがあった。
あの少年は、自分が死んだ理由を知っていた。
自分が生まれなければ、兄が生きられると信じていた。
そして、最後まで誰も責めなかった。
それなのに。
あの少年は、最後にこう言ったのだ。
自分を殺したのは、自分自身だと。
それは、本当に彼自身の意思だったのだろうか。
それとも。
誰かに、自分で選んだと思い込まされていたのだろうか。
出久の背後で、時計が動き始めた。
秒針が進む。
二時十三分。
二時十四分。
二時十五分。
止まっていた時間が、再び動き始める。
だが、今度は世界が再構成される気配はなかった。
代わりに、白い壁に新たな記録が浮かび上がった。
第零個体、再観測開始。
対象:緑谷引子。
次回観測対象:出生前死亡児。
備考:対象個体は、現在も生存している可能性がある。
出久は、息を呑んだ。
死んだはずの子ども。
生まれる前に、死んだはずの子ども。
その子どもが、今も生きている可能性がある。
ならば。
ならば、まだ間に合うのかもしれない。
出久は、閉ざされた扉に手を伸ばした。
今度こそ、逃げない。
誰かを生かすために、誰かを諦めることもしない。
自分が正しいと信じた選択で、誰かの未来を奪うこともしない。
たとえ、その先に何が待っていようとも。
「……待っていて」
出久は、静かに言った。
「必ず、迎えに行くから」
扉の向こうから、返事はなかった。
ただ。
ほんの一瞬だけ。
木製の扉の向こうで、小さな子どもが笑ったような気がした。
そして、扉の表面に刻まれた文字が、ゆっくりと変化した。
おかあさんのへや。
その文字が消える。
新しい文字が、浮かび上がる。
第一子の墓。
出久は、息を止めた。
その下に、もう一行。
埋葬者:緑谷出久。
――第三十八話。
「兄さんを殺したのは、誰だ」
そして、物語はようやく、本当の始まりへと踏み込んでいく。