――どうして、こんなところで。
緑谷出久は、扉の向こうから聞こえてくる鼻歌を知っていた。
幼い頃、母が台所で歌っていた歌だった。
洗濯物を畳みながら。
夕飯の支度をしながら。
眠れない夜、布団の中で怖がる自分を抱き締めながら。
母は、いつも同じ歌を口ずさんでいた。
歌詞はない。
短い旋律が、何度も繰り返されるだけ。
それなのに、出久はその歌を聞くと安心できた。
世界がどれだけ怖くても。
明日がどれだけ不安でも。
母が歌っている限り、自分はここにいていいのだと思えた。
――なのに。
どうして、第一子の墓から、その歌が聞こえるのだろう。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕、あの歌を知ってる」
「うちも……知ってる気がする」
お茶子は胸元を押さえた。
「でも、変なんよ。知っとるはずなのに、思い出そうとすると、誰かの泣き声が聞こえる」
出久は彼女を見た。
「泣き声?」
「うん。赤ちゃんみたいな……小さい子の声」
お茶子は目を閉じた。
その表情が苦痛に歪む。
「それと……誰かが、ずっと謝っとる」
「誰が?」
「わからん。でも……」
彼女の唇が震えた。
「ごめんね、って。何度も、何度も」
扉の向こうで、シャベルが土に突き刺さった。
ざくり。
ざくり。
ざくり。
その音が、妙に規則正しく響いていた。
まるで誰かが、決められた手順に従って墓穴を掘っているように。
出久は扉に手をかけた。
冷たい。
触れた瞬間、指先から腕へ、氷水を流し込まれたような感覚が走った。
それでも、手を離さなかった。
「開けるよ」
お茶子が頷く。
「うん。一緒に行く」
「危ないかもしれない」
「それでも行く」
彼女は、出久の手に自分の手を重ねた。
「今度は、忘れたまま誰かを置いていくのは嫌やから」
出久は、彼女を見つめた。
そして、小さく頷いた。
二人で、扉を押した。
ぎい、と。
古びた蝶番が、長い眠りから目覚めるような音を立てた。
その向こうに広がっていたのは、白い部屋ではなかった。
夜だった。
星も月もない、底の見えない夜。
地面には、霜の降りた草が生えている。
遠くには、古い病院の建物が見えた。
窓の明かりは一つもない。
その手前に、小さな墓地があった。
墓石は、たった一つ。
その前に、子どもが立っていた。
緑色の髪。
小さな背中。
少し大きすぎる上着。
右手にはシャベル。
左手には、白い花が一輪。
子どもは、墓穴を掘っていた。
自分の足元に。
まるで、自分がそこへ入るつもりであるかのように。
「……君は」
出久が声をかけた。
子どもは振り返らなかった。
「もう少しで終わるよ」
幼い声だった。
「だから、ちょっと待ってて」
ざくり。
土が掘り返される。
「……何をしてるの?」
「お墓を作ってるんだ」
「誰のお墓?」
子どもは、ようやく顔を上げた。
その顔を見た瞬間、出久の呼吸が止まった。
自分だった。
幼い頃の自分。
まだ雄英高校に入るずっと前。
個性がないと知って、ヒーローになれないと泣いていた頃よりも、さらに幼い。
おそらく、五歳か六歳。
頬は丸く、そばかすもまだ薄い。
目元には、泣き腫らしたような赤みが残っていた。
そして、その少年は。
現在の出久を見て、驚くこともなく笑った。
「兄さんのお墓だよ」
出久の背筋に、冷たいものが走った。
「……兄さん?」
「うん」
少年は、墓石を指差した。
「僕のお兄ちゃん」
墓石には、名前が刻まれていた。
御影出久。
その下に、日付がある。
出生日時。
死亡日時。
そして、その両方に同じ時刻が記されていた。
午前二時十三分。
出久は、墓石に近づいた。
指で名前をなぞる。
御影出久。
自分の兄。
自分と同じ顔をした、もう一人の少年。
何度も消され、何度も記録を否定され、それでも自分の記憶の中に戻ってきた兄。
その兄の墓が、ここにあった。
しかも。
墓石の裏側には、こう刻まれていた。
埋葬者、緑谷出久。
埋葬時年齢、六歳。
埋葬日時、死亡成立以前。
「……死亡成立以前?」
出久は、文字を凝視した。
死ぬ前に埋葬した。
そんなことが、記録として成立するはずがない。
いや。
この世界では、成立してしまうのだ。
生まれる前に死んだ子どもがいる。
死ぬ前に埋葬された兄がいる。
そして、死者の墓を掘っているのが、その死者を殺したと記録された弟自身なのだ。
「ねえ」
幼い出久が、現在の出久を見上げた。
「お兄ちゃん、見つかった?」
出久は、答えられなかった。
「……え?」
「お兄ちゃんだよ」
少年は、シャベルを置いた。
「ずっと探してるんでしょ?」
その目は、まっすぐだった。
「僕も、探してるんだ」
少年は、墓石の前にしゃがみ込んだ。
「お兄ちゃん、どこにもいないんだ」
出久の喉が詰まった。
「お父さんに聞いても、わからないって言う。お母さんに聞いても、悲しい顔をするだけ。先生に聞いても、そんな子はいないって言う」
少年は、墓石を撫でた。
「でも、僕は知ってるんだ」
その声が、少しずつ小さくなる。
「僕には、お兄ちゃんがいた」
出久は、拳を握った。
少年は笑った。
「だから、ここにお墓を作ってるの」
「……どうして?」
「お兄ちゃんが、帰ってくる場所が必要だから」
出久の胸が、痛んだ。
「お墓なんか作ったら……お兄ちゃんが死んだって認めることになるだろ」
思わず、そう言っていた。
幼い出久は、不思議そうに首を傾げた。
「ううん」
そして、当たり前のように答えた。
「お墓はね、死んだ人が帰ってくる場所じゃないんだよ」
出久は、言葉を失った。
「生きてる人が、忘れないための場所なんだ」
幼い少年は、白い花を墓石の前に置いた。
「だから、お兄ちゃんが死んでなくても、お墓を作っていいんだよ」
夜風が吹いた。
白い花が揺れる。
出久は、墓石に刻まれた文字を見つめた。
死亡成立以前。
埋葬時年齢、六歳。
そして、目の前にいる六歳の自分。
ようやく、理解した。
この墓は、死んだ兄のために作られたものではない。
兄が死ぬと決まる前に。
兄の死亡が世界に記録される前に。
幼い自分が、兄を埋葬したのだ。
つまり。
この少年は、兄が死ぬことを知っていた。
「……君は」
出久は、震える声で尋ねた。
「どうして、お兄ちゃんが死ぬってわかったの?」
幼い出久は、笑顔を消した。
しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「だって、僕が殺したから」
世界が、凍りついた。
お茶子が息を呑む。
出久は、動けなかった。
「……何を言ってるんだ?」
「僕が、お兄ちゃんを殺したんだよ」
少年は、墓石を見つめていた。
「だから、お墓を作ってるの」
その声には、罪悪感がなかった。
いや。
正確には、罪悪感すら、すでに通り過ぎていた。
幼い子どもが抱えるには、あまりにも深い諦め。
自分が何をしたのか、すべて理解しているような目。
それでも、誰かに責めてほしいと願っているような顔。
「……違う」
出久は首を振った。
「違うよ。君は、まだ子どもだ。何か事情があったんだ。きっと……」
「ううん」
少年は、首を振った。
「僕が選んだんだ」
そして、現在の出久を見上げた。
「お兄ちゃんを殺せば、君が生まれるから」
出久の心臓が、嫌な音を立てた。
「……僕が?」
「うん」
「僕が生まれるために、兄さんを殺したの?」
「そうだよ」
幼い出久は、あまりにも簡単に頷いた。
「お兄ちゃんが死ななかったら、君は生まれなかったんだ」
その瞬間。
墓地の向こうにある病院の窓が、一つだけ光った。
白い光。
蛍光灯のような、冷たい光。
そこに、誰かの影が立っていた。
大人の男。
緑色の髪。
父親、緑谷久志だった。
彼は病院の窓から、墓地を見下ろしていた。
その腕の中には、赤ん坊がいた。
赤ん坊は、泣いていなかった。
久志は、その子を抱いたまま、ゆっくりと首を横に振った。
まるで、何かを否定するように。
まるで、誰かに許しを乞うように。
そして、窓の向こうで、彼は口を動かした。
声は届かない。
それでも、出久には読めた。
――すまない。
その直後。
病院の窓の光が消えた。
墓地に、再び闇が戻った。
「……お父さんも、知ってたの?」
出久は、幼い自分に尋ねた。
「お兄ちゃんが死ぬことを」
少年は、しばらく考えた。
「お父さんは、知ってたよ」
「……どうして止めなかったんだ?」
「止めたよ」
少年は答えた。
「何度も」
「……え?」
「お父さんは、お兄ちゃんを助けようとしたんだ」
少年は、シャベルを拾い上げた。
「お母さんも。先生も。みんなも」
ざくり。
土を掘る。
「でも、助けられなかった」
ざくり。
「だって、僕が……」
少年は、手を止めた。
「僕が、みんなに嘘をついたから」
出久は、息を呑んだ。
「……どんな嘘を?」
幼い出久は、墓穴の底を見つめていた。
「お兄ちゃんは、もう死んでるって」
その言葉と同時に、墓地の空が割れた。
夜空に、白い文字が浮かび上がる。
『第一子、御影出久』
『死亡推定時刻、午前二時十三分』
『死亡確認者、緑谷出久』
『死亡確認時、第一子は生存していた』
出久の背筋が凍りついた。
死亡確認時、第一子は生存していた。
つまり。
兄は、生きていた。
生きているのに、死んだと記録された。
そして、その死亡を確認したのは――。
「……僕だ」
出久は呟いた。
幼い少年が、ゆっくりと頷いた。
「うん」
彼は、シャベルを置いた。
「僕が、お兄ちゃんに言ったんだ」
その顔が、悲しそうに歪んだ。
「もう、死んだことにしようって」
夜風が吹き抜けた。
墓石の周囲に、無数の足跡が浮かび上がる。
小さな足跡。
大人の足跡。
病院から墓地へ続く足跡。
そして、墓地から病院へ戻っていく足跡。
そのどれもが、途中で途切れていた。
まるで、その人物が世界から消えてしまったかのように。
幼い出久は、墓石に手を置いた。
「お兄ちゃんは、僕に言ったんだ」
その声は、震えていた。
「僕が生まれる前に、ずっと言ってたんだ」
少年は、目を閉じた。
「僕を生かしてって」
出久の呼吸が止まった。
「……兄さんが?」
「うん」
「兄さんが、自分を殺してくれって頼んだの?」
「ううん」
少年は、首を振った。
「違うよ」
そして、顔を上げた。
「お兄ちゃんは、僕を生かしてって言ったんだ」
出久は、意味がわからなかった。
兄が、自分を生かしてくれと頼んだ。
それなのに、目の前の少年は、兄を殺したと言う。
何が起きたのか。
誰が、何を選んだのか。
記録が示す答えと、少年が語る答えは、少しずつずれていた。
そのずれこそが、この世界の異常なのだと、出久は直感した。
「……君は、誰なんだ?」
出久は、もう一度尋ねた。
「僕の記憶の中にいる、幼い頃の僕なの?」
少年は、少しだけ笑った。
「半分、正解」
「半分……?」
「僕は、君だよ」
少年は、自分の胸に手を置いた。
「でも、君じゃない」
「……どういうこと?」
「僕は、君が忘れたことを覚えてる」
その瞬間、少年の輪郭が揺らいだ。
身体の表面に、細い亀裂が走る。
そこから、白い光が漏れ始めた。
「……ああ」
少年は、自分の手を見つめた。
「もう、長くはいられないみたい」
「待って!」
出久が手を伸ばす。
「まだ聞きたいことがある! 兄さんはどこにいるんだ? 君は何をしたんだ? 誰が兄さんを殺したんだ!?」
少年は、悲しそうに笑った。
「それを知りたいなら……」
彼は、墓石の裏側を指差した。
「お墓を掘って」
出久は、凍りついた。
「……え?」
「お兄ちゃんのお墓を」
少年は、静かに言った。
「だって、ここには誰も埋まってないから」
出久は、墓石を見た。
御影出久。
埋葬者、緑谷出久。
埋葬時年齢、六歳。
その文字が、ゆっくりと滲んでいく。
墓石の下から、かすかな音がした。
とん。
とん。
とん。
内側から、誰かが叩いている。
墓石の下。
土の中。
誰もいないはずの墓の中から。
とん。
とん。
とん。
出久は、後ずさった。
「……嘘だろ」
少年は、泣きそうな顔で笑った。
「お兄ちゃんは、まだ死んでないんだ」
その言葉と同時に、墓石の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
埋葬対象:御影出久。
現在の状態:生存。
収容場所:第一子の墓。
そして。
埋葬者:緑谷出久。
その下に、もう一行。
埋葬理由:兄が生きていると、弟が生まれないため。
出久は、目を見開いた。
墓の中から、声が聞こえた。
「……出久?」
その声は、忘れようがなかった。
御影出久。
兄の声だった。
生きている。
墓の中で。
自分が埋めた墓の中で。
兄は、まだ生きている。
「出久……」
声は、苦しそうだった。
「そこに……いるのか?」
出久は、墓石に駆け寄った。
「兄さん!」
土を掴む。
指先に、冷たい土が食い込む。
「兄さん! 今、助けるから! 待ってて、すぐに……!」
「待て!」
墓の中から、兄の声が響いた。
出久の手が止まる。
「……兄さん?」
「掘るな!」
御影の声は、悲痛だった。
「そこを掘ったら……また、同じことになる!」
出久は、土を握り締めた。
「でも、兄さんは生きてるんだろ!?」
「そうだ!」
「だったら、助ける!」
「駄目だ!」
兄の声が、墓地に響き渡った。
「僕を助けたら……今度は、お前が死ぬ!」
その瞬間。
世界が、二つに割れた。
墓地の半分が、白い病院に変わる。
残り半分が、深い闇に沈む。
その境界線に、一人の少年が立っていた。
今の出久と同じ顔。
しかし、その瞳は、何度も世界の終わりを見届けてきた者の目だった。
もう一人の緑谷出久。
世界を繰り返し壊してきた、あの少年。
彼は、出久を見つめていた。
「……やっと、ここまで来たね」
出久は、顔を上げた。
「お前……!」
「その墓を掘れば、兄さんを助けられる」
もう一人の出久は、淡々と言った。
「でも、掘った瞬間、君は兄さんの代わりになる」
「……どういうことだ?」
「簡単な話だよ」
彼は、墓石を見た。
「この世界は、兄さんが生きていることを認められない」
そして、現在の出久を見た。
「兄さんが生きるなら、君が死ぬ」
出久は、拳を握り締めた。
「また、それか……」
「そうだよ」
もう一人の出久は、笑った。
「僕たちは、何度もそれを選んできた」
「……僕たち?」
「そう」
彼は、自分の胸を指差した。
「君も。僕も。あの子も。兄さんも」
その瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「みんな、同じことを繰り返してきたんだ」
出久は、彼を睨んだ。
「じゃあ、お前は何をしたんだ?」
「……え?」
「お前は、何を選んだんだ!」
出久の声が、夜空を震わせた。
「世界を壊して、何度も作り直したんだろ!? それだけのことをして、何を手に入れたんだ!?」
もう一人の出久は、答えなかった。
「兄さんを救えたのか!?」
「……」
「弟を救えたのか!?」
「……」
「それとも、自分だけ助かりたかったのか!?」
その瞬間。
もう一人の出久の表情が、初めて崩れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと深いところにある、見ないようにしていた傷だった。
「……僕は」
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、兄さんを殺したんだ」
墓地の空気が、凍りついた。
「何度も」
彼は続けた。
「何度も、何度も、何度も」
その声が震え始める。
「兄さんを救うために、世界を作り直した。兄さんが生きている世界を探した。兄さんが死なない未来を探した。僕が何を犠牲にしてもいいから、兄さんだけは……」
彼は、唇を噛んだ。
「でも、どの世界でも、兄さんは死んだ」
出久は、何も言えなかった。
「そして、最後に気づいたんだ」
もう一人の出久は、墓石を見つめた。
「兄さんが死ぬ原因は、世界じゃなかった」
彼は、現在の出久を見た。
「僕たちだったんだ」
その言葉は、刃のように胸へ突き刺さった。
「兄さんを生かしたい。弟を生かしたい。家族を守りたい。誰も失いたくない」
もう一人の出久は、苦しそうに笑った。
「そのためなら、誰かを犠牲にしてもいい。世界を壊してもいい。別の誰かが消えてもいい。そうやって、僕たちは……」
彼は目を閉じた。
「兄さんを殺し続けた」
墓の中から、御影の声が聞こえた。
「……違う」
小さな声だった。
「出久。お前たちだけのせいじゃない」
もう一人の出久は、首を振った。
「いいや。僕たちのせいだよ」
「違う!」
御影が叫ぶ。
「僕だって、選んだんだ!」
墓石が揺れた。
「僕だって、生きたかった! 僕だって、弟と一緒にいたかった! でも……僕は、弟を生かすことを選んだんだ!」
その声には、怒りがあった。
悲しみがあった。
そして、確かな意志があった。
「僕を被害者にするな!」
御影は叫んだ。
「僕は、何も知らずに殺されたわけじゃない! 僕は、自分で選んだこともある! 間違えたこともある! お前たちが全部悪いことにして、僕をかわいそうな兄さんにするな!」
墓地に、静寂が落ちた。
現在の出久は、目を見開いていた。
もう一人の出久は、顔を伏せていた。
そして、墓の中から、兄の声が続いた。
「……僕は、ただ」
御影の声が、静かになった。
「僕は、ただ……生きていたかったんだ」
その一言に、すべてが詰まっていた。
世界を救いたかったわけではない。
誰かの犠牲になりたかったわけでもない。
自分が死ぬことで、弟を救う英雄になりたかったわけでもない。
ただ、生きていたかった。
弟と一緒に。
父と母と一緒に。
何でもない日々を過ごしたかった。
朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行って、帰ってきて、弟と喧嘩して、仲直りして。
それだけでよかった。
「……僕は、兄さんを助ける」
現在の出久は、墓石に手を置いた。
「でも、兄さんを助けるために、誰かを犠牲にすることはしない」
もう一人の出久が、顔を上げた。
「……そんなこと、できるわけがない」
「できるかどうかは、まだわからない」
出久は答えた。
「でも、最初から無理だって決めるつもりはない」
「君は、何も知らない」
「うん」
「何度も失敗した。何度も世界を壊した。何度も兄さんを救おうとした。それでも、何も変わらなかった!」
「……うん」
「だったら、どうして君だけが違う答えを出せると思うんだ!」
出久は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「僕だけが違う答えを出せるなんて、思ってない」
もう一人の出久が、言葉を失った。
「僕一人じゃ、無理かもしれない。僕だけじゃ、何もできないかもしれない」
出久は、お茶子を見た。
彼女は、しっかりと頷いた。
出久は、再び墓石に向き直った。
「でも、僕は一人じゃない」
その言葉に、墓の中の兄が息を呑んだ。
「僕には、お茶子ちゃんがいる。母さんがいる。父さんがいる。先生がいる。かっちゃんがいる。みんながいる」
出久は、拳を握った。
「今までの僕たちは、誰かを救うために、自分一人で答えを出そうとしてきたんだと思う」
彼は、もう一人の自分を見た。
「でも、もうやめる」
その瞳に、迷いはなかった。
「僕一人で、誰かの生きる権利を決めたりしない」
そして。
墓石の前に、膝をついた。
「兄さん」
土に触れる。
「僕は、君を助けたい」
墓の中から、返事はなかった。
「でも、君が生きるために、誰かが死ぬ世界は嫌だ」
出久は、土を掴んだ。
「だから、僕は……この世界の仕組みを壊す」
その瞬間。
墓石が、大きく震えた。
墓の中から、兄の声が響いた。
「……出久!」
だが、その声に重なるように、もう一人の出久が叫んだ。
「やめろ!」
彼は、出久へ駆け寄った。
「墓を掘るな! 君が何をしようとしているのか、わかっているのか!?」
「わかってる!」
「いや、わかっていない!」
もう一人の出久は、出久の肩を掴んだ。
「その墓は、兄さんの墓じゃない!」
出久は、顔を上げた。
「……何?」
もう一人の出久は、震える声で言った。
「そこに埋まっているのは……」
彼は、墓石を見た。
その目に、恐怖が浮かんだ。
「兄さんじゃない」
墓石の表面に、ひびが入った。
名前が崩れていく。
御影出久。
その文字が、ゆっくりと消えた。
代わりに、別の名前が浮かび上がった。
緑谷出久。
現在の出久は、息を呑んだ。
「……僕?」
もう一人の出久は、頷いた。
「そうだよ」
彼は、涙を流していた。
「兄さんを殺したのは、君だ」
墓の中から、何かが動く音がした。
土が崩れる。
骨が軋むような音。
そして。
墓の中から、子どもの声が響いた。
「……兄さん」
出久は、凍りついた。
その声は、御影出久のものではなかった。
自分自身の声だった。
「……兄さん、どこ?」
墓の中にいるのは。
御影出久ではない。
幼い緑谷出久だった。
◇
墓の中にいるのは。
御影出久ではない。
幼い緑谷出久だった。
「……兄さん、どこ?」
土の下から、幼い声が聞こえる。
「兄さん……僕、怖いよ」
現在の出久は、動けなかった。
墓石には、自分の名前が刻まれている。
墓の中から聞こえるのも、自分の声だった。
そして、目の前には、自分と同じ顔をした幼い少年がいる。
三人の出久。
現在の出久。
墓の中の出久。
そして、墓を掘っている出久。
その三人が、同じ夜に、同じ墓の前に存在していた。
「……なんなんだよ、これ」
声が震えた。
「僕は、誰なんだ?」
誰も答えない。
墓の中の子どもが、泣き始めた。
「兄さん……!」
その声に、御影出久が反応した。
「……その子を、出してやってくれ」
墓の中から、兄の声が聞こえた。
「兄さん!?」
現在の出久は、墓石にしがみついた。
「兄さん、どこにいるんだ!?」
「僕は、ここにいる」
「でも、墓の中には……!」
「……出久」
御影は、苦しそうに言った。
「その子は、僕じゃない」
出久は、目を見開いた。
「じゃあ、誰なんだ!?」
「……お前だよ」
その言葉が、夜の中に落ちた。
墓の中の子どもが、泣きながら言った。
「兄さん……僕、悪い子だった?」
出久の胸が、締めつけられた。
「僕が悪い子だったから、兄さんはいなくなっちゃったの?」
「違う!」
思わず叫んでいた。
「違うよ! 君は何も悪くない!」
墓の中の子どもが、泣き止んだ。
「……ほんとう?」
「本当だよ!」
「じゃあ、どうして兄さんはいないの?」
出久は、言葉を失った。
「どうして、みんな僕に何も教えてくれないの?」
幼い声が、静かに響く。
「どうして、お父さんは泣いてるの?」
「……」
「どうして、お母さんは、僕のことを見ると泣くの?」
出久の指先が震えた。
「どうして、先生は僕の名前を呼ぶと、悲しそうな顔をするの?」
ひとつひとつの問いが、出久の胸に突き刺さった。
「僕、何かしたの?」
その声は、あまりにも小さかった。
「僕が、何か悪いことをしたから……兄さんは死んじゃったの?」
出久は、答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
なぜなら。
自分自身が、同じ問いを抱えていたからだ。
どうして、兄は消えたのか。
どうして、世界は兄を認めなかったのか。
どうして、自分だけが生き残ったのか。
そして。
どうして、今まで何度も、兄を救うために誰かが犠牲になってきたのか。
答えを知らない。
何も知らない。
それでも、目の前の子どもは、答えを求めている。
出久は、墓石に額を押しつけた。
「……ごめん」
声が漏れた。
「ごめん……」
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
墓の中の子どもに。
御影出久に。
自分自身に。
それとも、これまで自分が救えなかった、すべての人たちに。
「……出久くん」
お茶子が、そっと肩に触れた。
「一人で抱えんでいいよ」
出久は、顔を上げた。
お茶子は、泣いていた。
けれど、彼女は目を逸らさなかった。
「その子の問いに、今すぐ答えられんでもいい」
「……でも」
「わからんことは、わからんって言っていいんよ」
彼女は、墓石を見た。
「うちら、ずっと誰かに答えを決められてきたんやと思う」
その声は震えていた。
「この子は生まれちゃいけない。この子は死ななきゃいけない。この子を生かすなら、別の子が死ななきゃいけない」
お茶子は、拳を握った。
「そんなこと、誰が決めたん?」
出久は、彼女を見つめた。
「誰が、そんなことを決めていいって言ったん?」
彼女の目から、涙が落ちた。
「うちは、もう嫌や」
お茶子は、墓石に手をついた。
「誰かが死んでから、その人のことを大切やったって気づくのも。誰かが消えてから、ほんまは一緒にいたかったって気づくのも」
彼女は、深く息を吸った。
「もう、嫌なんよ」
その言葉に、出久は頷いた。
「……うん」
彼は、墓石から手を離した。
そして、墓の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ」
土の下の子どもに、声をかける。
「僕も、君が誰なのか、まだわからない」
返事はない。
「君が、どうしてここにいるのかも。どうして僕と同じ声をしているのかも。どうして兄さんがいなくなったのかも」
出久は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「何もわからない」
それでも。
「でも、君が悪い子だったから、兄さんが死んだなんて思わない」
土の下から、微かな音がした。
「君が何をしたとしても、それだけで君が生まれてきちゃいけない理由にはならない」
出久は、土に手を伸ばした。
「だから、出ておいで」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
土の下から、小さな手が伸びてきた。
出久は、その手を掴んだ。
冷たい。
けれど、確かな感触があった。
生きている人間の手だった。
出久は、慎重に引き上げた。
土の中から、幼い少年が姿を現した。
緑色の髪。
そばかす。
大きな緑色の瞳。
顔は、幼い頃の自分そのものだった。
ただ一つ、違うところがあった。
その少年の胸元には、黒い文字が浮かんでいた。
第一子。
出久は、息を呑んだ。
少年もまた、出久を見つめていた。
「……お兄ちゃん?」
彼は、そう呼んだ。
現在の出久を。
そして、次の瞬間。
少年は、出久に抱きついた。
「お兄ちゃん!」
出久は、反射的に抱き締め返した。
「……大丈夫だよ」
自分でも、何が大丈夫なのかわからなかった。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
「もう、大丈夫だから」
少年は、出久の胸に顔を埋めて泣いた。
「……お兄ちゃん、会いたかった」
その言葉に、出久の目から涙が零れた。
「……うん」
「ずっと、会いたかった」
「……うん」
「でも……」
少年は、出久の服を握り締めた。
「お兄ちゃん、僕のこと、覚えてないんだね」
出久の身体が、硬直した。
少年は、悲しそうに笑った。
「……そっか」
そして、出久の胸から離れた。
「僕、また失敗しちゃったんだ」
その瞬間。
出久は、少年の手を握り直した。
「違う!」
少年が驚いて顔を上げる。
「違うよ! 僕が覚えていないことと、君が失敗したことは、関係ない!」
「……でも」
「君がここにいる。それだけは、わかった」
出久は、少年を見つめた。
「僕は、君を忘れていた。でも、今はここにいる。君の話を聞いている」
そして、はっきりと言った。
「だから、これから知っていくよ」
少年の目が、大きく見開かれた。
「……ほんとう?」
「うん」
「僕のこと、知ってくれるの?」
「うん」
「僕が、どんな子だったかも?」
「うん」
「僕が……兄さんを殺したことも?」
出久は、息を止めた。
少年の瞳は、真剣だった。
逃げ道を探しているのではない。
許しを求めているのでもない。
ただ、自分が何をしたのか、知ってほしいのだ。
その罪を、誰かに覚えていてほしいのだ。
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
少年は、泣きながら笑った。
「ありがとう」
その瞬間。
墓地の向こうで、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
夜空に、無数の文字が浮かび上がる。
『第一子、御影出久』
『第二子、緑谷出久』
『未登録個体、緑谷出久』
『観測対象、緑谷出久』
『埋葬者、緑谷出久』
『死亡確認者、緑谷出久』
文字が増えていく。
増え続ける。
そして、すべての記録が、同じ一文へと収束した。
兄を殺した者、緑谷出久。
少年が、出久の手を握った。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「僕、思い出したよ」
出久は、顔を上げた。
「何を?」
少年は、墓石を見つめた。
「僕が、兄さんを殺した日のこと」
その声は、震えていた。
「……本当はね」
少年は、ゆっくりと口を開いた。
「僕が生まれる前に、兄さんは一度、死んでいたんだ」
◇
その瞬間、夜が消えた。
墓地も。
病院も。
墓石も。
すべてが白い光に包まれた。
出久は、少年の手を握ったまま、別の場所へ引き込まれていく感覚を覚えた。
足元が消える。
身体が浮く。
そして、次に目を開けたとき。
そこは、病院の分娩室だった。
消毒液の匂い。
白い壁。
医療器具の音。
慌ただしく動く医師たち。
ベッドの上には、緑谷引子がいた。
彼女は、苦しそうに息をしている。
その手を握っているのは、若い緑谷久志だった。
「引子、もう少しだ!」
「……久志さん」
引子は、汗に濡れた顔で笑った。
「この子……元気に生まれてくるかな」
「もちろんだ」
久志は、妻の手を握り締めた。
「きっと元気に生まれてくる」
その言葉は、祈りだった。
希望だった。
そして、彼自身が、何度も繰り返してきた嘘だった。
出久は、分娩室の隅に立っていた。
目の前で、自分の両親が子どもの誕生を待っている。
しかし。
この記憶の中に、現在の自分が存在していることを、誰も気にしていなかった。
誰も、こちらを見ない。
まるで、最初からそこにいることが決まっていたかのように。
「……これは、記憶?」
出久が呟くと、隣にいた少年が頷いた。
「うん」
「君の記憶なの?」
「……僕の記憶でもあるし、君の記憶でもある」
少年は、ベッドの上の引子を見つめていた。
「でも、僕たちが知っている記憶とは、少し違う」
「どう違うんだ?」
「ここでは……」
少年は、唇を噛んだ。
「まだ、誰も間違えていないんだ」
その言葉と同時に、引子が悲鳴を上げた。
医師が叫ぶ。
「頭が見えています! もう少しです!」
久志は、妻の手を握った。
「頑張れ、引子!」
そして。
午前二時十三分。
最初の子どもが生まれた。
泣き声が響いた。
小さな身体。
緑色の髪。
丸い頬。
そばかす。
御影出久だった。
彼は、元気に泣いていた。
医師たちは安堵の声を上げた。
「元気な男の子です!」
久志は、涙を浮かべた。
「……ありがとう」
誰に向かって言ったのか。
妻にか。
医師にか。
それとも、生まれてきた子ども自身にか。
そのすべてだったのかもしれない。
引子は、疲れた顔で笑った。
「……抱かせて」
看護師が、赤ん坊を彼女の腕に乗せる。
引子は、小さな身体を抱き締めた。
「……かわいい」
涙が零れた。
「私たちの子……」
彼女は、赤ん坊の額にキスをした。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間。
隣にいた少年が、震えた。
「……そう」
彼は、小さく呟いた。
「お母さんは、最初にそう言ったんだ」
出久は、彼を見た。
「……何を?」
「生まれてきてくれて、ありがとうって」
少年は、泣きそうな顔で笑った。
「僕にも、そう言ってくれたんだよ」
出久の胸が、痛んだ。
「……君にも?」
「うん」
少年は頷いた。
「でも、それは……僕が生まれる前の話なんだ」
その瞬間。
分娩室の時計が、二時十三分で止まった。
医師たちの動きが止まる。
看護師の手が止まる。
久志の涙が、頬を伝う途中で静止した。
世界が、停止した。
ただ一人。
引子の腕の中にいる赤ん坊だけが、動いていた。
赤ん坊は泣き続けていた。
その声が、次第に変わっていく。
泣き声が、言葉になる。
「……お兄ちゃん」
赤ん坊が、そう呟いた。
出久は、目を見開いた。
「……え?」
赤ん坊は、目を開けた。
その瞳は、緑色だった。
そして、その目は、確かに出久を見ていた。
「……お兄ちゃん」
もう一度。
「僕を、忘れないで」
その瞬間。
分娩室の壁に、黒い文字が浮かび上がった。
『第一子、御影出久』
『出生成立』
『生存確認』
続いて。
『第二子、緑谷出久』
『出生予定』
『存在競合』
『出生条件、未達成』
そして、最後に。
『第一子の死亡が必要です』
出久は、息を呑んだ。
生まれたばかりの御影出久が、こちらを見ていた。
赤ん坊の顔に、涙が浮かんだ。
「……お兄ちゃん」
彼は、泣きながら笑った。
「僕が死ねば、君が生まれるんだね」
出久は、首を振った。
「違う……!」
だが、声は届かなかった。
赤ん坊は、引子の腕の中で、ゆっくりと目を閉じた。
その瞬間。
彼の身体が、白い光に包まれた。
引子の腕の中から、赤ん坊が消えた。
医師たちが動き始めた。
久志が叫んだ。
「……赤ん坊は!?」
看護師が、震える声で答えた。
「……いません」
「何を言っているんだ!?」
「赤ん坊が……いません!」
引子は、自分の腕を見つめていた。
そこには、何もなかった。
ただ、温もりだけが残っていた。
「……私の子は?」
彼女は、呆然と呟いた。
「私の子は、どこ?」
久志は、答えられなかった。
そして。
分娩室の隅に、もう一人の赤ん坊が現れた。
緑谷出久だった。
彼は、泣いていた。
医師たちは、安堵の声を上げた。
「生まれました!」
「元気な男の子です!」
久志は、赤ん坊を抱き上げた。
「……出久」
その名を呼んだ瞬間。
分娩室の壁に、最後の記録が浮かび上がった。
『第一子、御影出久』
『死亡確定』
『死亡原因:第二子の出生』
出久は、目を見開いた。
違う。
これは、違う。
兄は、自分が生まれたから死んだのではない。
兄が死んだことにされたから、自分が生まれたのだ。
順番が逆なのだ。
いや。
順番そのものが、存在しないのかもしれない。
世界は、最初から二人を同時に存在させることができなかった。
だから、どちらかを消そうとした。
そして、消された者が、もう一人を生かすために、自分自身の死を受け入れた。
出久は、震える声で呟いた。
「……兄さん」
その瞬間。
分娩室の奥に、一人の少年が立っていることに気づいた。
年齢は、十歳ほど。
緑色の髪。
そばかす。
自分と同じ顔。
だが、その瞳には、幼い子どもには似つかわしくない深い悲しみが宿っていた。
御影出久だった。
彼は、消えた赤ん坊の姿で、そこに立っていた。
「……出久」
兄が、弟を見つめる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉に、現在の出久は、胸を押さえた。
御影は、泣きながら笑った。
「……でも、ごめん」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「僕は、君を生かすために、君を殺すことにしたんだ」
その瞬間。
世界が、再び動き始めた。
そして、すべての記憶が、現在の出久の中へ流れ込んできた。
◇
記憶は、そこで終わらなかった。
分娩室の白い壁が、黒く染まる。
医師たちが消える。
両親の姿が、遠ざかる。
そして、出久は、別の場所に立っていた。
病院の廊下。
時計は、二時十三分。
窓の外には、夜が広がっている。
廊下の先に、少年がいた。
御影出久だった。
彼は、壁にもたれて座り込んでいた。
膝を抱えて。
顔を伏せて。
泣いていた。
出久は、ゆっくりと近づいた。
「……兄さん?」
御影が顔を上げる。
その目には、驚きが浮かんだ。
「……出久?」
「兄さん……!」
出久は、彼に駆け寄ろうとした。
しかし。
御影は、立ち上がって後ずさった。
「来るな!」
その声に、出久は足を止めた。
「……兄さん?」
「来るな……!」
御影は、頭を抱えた。
「僕に近づくな!」
その身体が、震えていた。
「僕は……僕は、お前を殺したんだ!」
出久は、息を呑んだ。
「……何を言ってるんだ?」
「僕が、お前を殺したんだ!」
御影は、泣き叫んだ。
「お前が生まれる前に! お前が生まれたあとも! 何度も、何度も!」
彼は、壁に拳を叩きつけた。
「僕は、お前を生かしたかった! お前に生まれてほしかった! でも……!」
御影の声が、途切れた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕は、怖かったんだ」
出久は、何も言えなかった。
「お前が生まれなかったら、僕は一人で生きられると思っていた」
御影は、笑った。
泣きながら。
「でも、お前がいない世界なんて、僕には耐えられなかった」
彼は、胸元を握り締めた。
「だから、僕は世界に頼んだんだ」
出久の背筋が凍った。
「……何を?」
「お前を、生まれさせてくれって」
御影は、弟を見つめた。
「その代わりに、僕を消してくれって」
その瞬間。
廊下の奥から、無機質な声が響いた。
『要求を受理しました』
『第一子の存在を消去します』
『第二子の出生を成立させます』
御影は、目を閉じた。
「……これで、いいんだ」
その身体が、白い光に包まれた。
「出久が生きていられるなら……」
彼は、最後に笑った。
「それで、いいんだ」
出久は、走った。
「兄さん!」
手を伸ばした。
「待って! 行かないで!」
御影は、振り返った。
「……出久」
その声は、優しかった。
「君は、僕の弟だ」
そして。
「……僕を、忘れていいよ」
御影は、消えた。
廊下に、誰もいなくなった。
ただ、時計だけが残った。
二時十三分。
出久は、膝から崩れ落ちた。
「……兄さん」
声が、掠れた。
「……兄さん……!」
彼は、顔を覆った。
泣いた。
何もできなかった。
何も知らなかった。
そして、何もかもを忘れていた。
兄が、自分を生かすために消えたこと。
兄が、自分を生まれさせるために、自分の存在を差し出したこと。
兄が、最後まで自分を愛していたこと。
そのすべてを。
忘れていた。
その瞬間。
廊下の奥に、もう一人の少年が現れた。
現在の出久と、同じ顔。
もう一人の緑谷出久。
彼は、泣いている出久を見下ろしていた。
「……思い出した?」
出久は、顔を上げた。
「……お前」
「うん」
もう一人の出久は、静かに頷いた。
「これが、最初の記憶だよ」
「……最初?」
「そう」
彼は、時計を見た。
「兄さんが死んだ日」
そして、現在の出久を見た。
「君が、生まれた日」
出久は、唇を噛んだ。
「……違う」
「何が?」
「兄さんは……」
出久は、震える声で言った。
「兄さんは、僕を生かすために、自分を消したんだ」
「そうだよ」
「だから……」
出久は、拳を握った。
「兄さんを殺したのは、僕じゃない」
もう一人の出久は、黙っていた。
出久は、続けた。
「兄さんを殺したのは、世界だ」
その瞬間。
もう一人の出久の顔が、歪んだ。
「……違うよ」
その声は、ひどく冷たかった。
「それは、僕たちが一番最初に使った言い訳だ」
出久は、息を呑んだ。
「世界が悪い。仕組みが悪い。運命が悪い。だから、僕たちは仕方がなかった」
もう一人の出久は、ゆっくりと近づいた。
「そうやって、僕たちは何度も自分を許してきた」
彼は、出久の目の前に立った。
「でも、違う」
その目には、涙が浮かんでいた。
「世界は、兄さんを殺せと言った」
彼は、自分の胸を指差した。
「でも、それを受け入れたのは、僕たちだ」
出久は、何も言えなかった。
「兄さんは、自分から消えることを選んだ。だけど、兄さんがそんな選択をしなければならない場所まで追い詰めたのは、誰だ?」
もう一人の出久は、泣きながら笑った。
「……僕たちだよ」
出久の胸が、痛んだ。
「僕たちは、兄さんに生きていてほしかった」
彼は、静かに言った。
「でも、兄さんが生きるために、何を変えればいいのか、誰も考えなかった」
廊下の壁に、無数の記録が浮かび上がる。
『第一子、御影出久』
『存在維持条件:第二子の非出生』
『第二子、緑谷出久』
『存在維持条件:第一子の死亡』
『条件競合』
『再構成を開始』
記録が、次々に書き換えられていく。
『第一子、御影出久』
『生存条件:未登録』
『第二子、緑谷出久』
『生存条件:未登録』
『世界構造、矛盾』
そして。
最後の一行が浮かび上がった。
二人が生きるための条件は、存在しない。
出久は、その文字を見つめた。
「……そんなこと、誰が決めたんだ?」
もう一人の出久は、答えなかった。
代わりに、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
近づいてくる。
現れたのは、緑谷久志だった。
現在の出久の父。
そして、御影出久の父でもある男。
彼は、出久たちを見つめた。
その顔には、深い疲労が刻まれていた。
「……ようやく、ここまで来たか」
出久は、父を見た。
「父さん……」
久志は、頷いた。
「出久。お前に、話さなければならないことがある」
「……兄さんのこと?」
「そうだ」
父は、時計を見た。
二時十三分。
その針は、もう動いていなかった。
「御影出久を殺したのは、誰か」
久志は、静かに言った。
「その問いに、私はずっと答えられなかった」
彼は、目を閉じた。
「いや……答えたくなかったんだ」
出久は、父を見つめた。
「……どうして?」
「答えを知っていたからだ」
久志の声が震えた。
「御影出久を殺したのは、私だ」
出久は、息を呑んだ。
「……父さん?」
「私は、二人の息子を守りたかった」
久志は、苦しそうに笑った。
「だが、二人とも生かす方法がわからなかった」
彼は、出久を見つめた。
「だから、私は世界の言うことを聞いた」
その瞬間。
もう一人の出久が、静かに口を開いた。
「……嘘だ」
久志が顔を上げた。
「お前は、世界の言うことを聞いたんじゃない」
もう一人の出久は、父を見据えた。
「お前は、世界に命令したんだ」
空気が凍りついた。
久志の顔から、血の気が引いた。
「……何?」
もう一人の出久は、ゆっくりと続けた。
「第一子を消せって、最初に言ったのは誰だ?」
久志は、答えなかった。
「第二子を生かすために、第一子の存在を消せって、誰が頼んだ?」
父の唇が震えた。
「……やめろ」
「お前だよ」
もう一人の出久は、言い切った。
「最初に、兄さんを殺そうとしたのは、お前だ」
久志は、目を閉じた。
その表情が、すべてを物語っていた。
出久は、父を見つめた。
「……父さん」
声が震えた。
「本当なの?」
久志は、しばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
出久は、何も言えなかった。
「私は、二人を生かしたかった」
久志は、涙を流していた。
「だが、二人が生きられる未来を信じられなかった」
彼は、出久を見つめた。
「だから、先に選んでしまったんだ」
その声は、ひどく弱かった。
「お前を生かすために、兄を消すことを」
出久は、拳を握った。
「……じゃあ」
彼は、震える声で尋ねた。
「兄さんを殺したのは、父さんなの?」
久志は、答えようとした。
だが、その前に。
廊下の奥から、もう一つの声が響いた。
「違うよ」
全員が振り返った。
そこに立っていたのは、緑谷引子だった。
母だった。
しかし、彼女の姿は、現在の出久が知っている母とは少し違っていた。
顔は同じ。
声も同じ。
けれど、その目には、これまで誰も見たことのない冷たさがあった。
「御影出久を殺したのは、久志さんじゃない」
引子は、ゆっくりと歩いてきた。
「もちろん、出久くんでもない」
彼女は、墓の中から現れた幼い少年を見た。
その顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「……この子でもない」
少年が、震えた。
「……お母さん?」
引子は、少年を見つめた。
その目に、涙が浮かんだ。
「……ごめんね」
彼女は、静かに言った。
「あなたに、こんなことをさせてしまって」
出久は、母を見た。
「……母さん。何を知ってるの?」
引子は、答えなかった。
ただ、時計を見つめた。
二時十三分。
そして。
「……御影出久を殺したのは」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「御影出久自身よ」
誰も、動けなかった。
引子は、泣いていた。
「……あの子は、自分で死ぬことを選んだ」
彼女は、胸元を押さえた。
「でも、それだけじゃない」
声が震える。
「私は……」
その瞬間。
廊下のすべての明かりが消えた。
闇の中で、母の声だけが響いた。
「私は、あの子が死ぬ前に……あの子を、二度殺したの」
出久は、息を呑んだ。
闇の向こうで、何かが笑った。
子どもの笑い声だった。
そして、その声は。
出久自身の声で、こう告げた。
「――違うよ、お母さん」
「兄さんを最初に殺したのは、僕だよ」
第三十八話・了