僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十九話「母さんが、僕を殺した日」

 

 ――違うよ、お母さん。

 

 兄さんを最初に殺したのは、僕だよ。

 

 その声が響いた瞬間、緑谷出久は、世界から音が消えるのを感じた。

 

 時計の針が止まっている。

 

 蛍光灯が消えている。

 

 父の緑谷久志は、何かを言おうとして唇を震わせたまま動かない。

 

 そして、母の緑谷引子は。

 

 暗闇の中で、泣いていた。

 

「……出久」

 

 母が呼んだ。

 

 いつもの声だった。

 

 幼い頃、熱を出した自分を心配してくれたときと同じ声。

 

 初めて個性がないと知った日に、抱き締めてくれたときと同じ声。

 

 ヒーローになりたいと告げた自分に、涙を浮かべながら笑ってくれたときと同じ声。

 

 その声を聞くだけで、出久は何度も救われてきた。

 

 だからこそ。

 

 今、母が口にした言葉を、理解したくなかった。

 

「母さんが……兄さんを二度殺したって、どういうこと?」

 

 引子は答えなかった。

 

 ただ、暗闇の向こうにいる幼い少年を見つめていた。

 

 墓から出てきた、もう一人の緑谷出久。

 

 その少年は、母を見上げていた。

 

 責めるでもなく。

 

 恨むでもなく。

 

 ただ、答えを待っていた。

 

 まるで、何年も前から、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。

 

「……お母さん」

 

 少年が言った。

 

「僕のこと、覚えてる?」

 

 引子の肩が震えた。

 

「……覚えてるわ」

 

「ほんとう?」

 

「ええ」

 

「僕の名前も?」

 

「……ええ」

 

「僕が、何歳だったかも?」

 

「ええ」

 

「僕が、何を好きだったかも?」

 

 引子は、目を閉じた。

 

「……ええ」

 

 少年は、笑った。

 

 嬉しそうに。

 

 けれど、その笑顔はすぐに崩れた。

 

「じゃあ、どうして」

 

 少年の声が、震えた。

 

「どうして、僕をいないことにしたの?」

 

 引子は、口元を押さえた。

 

 嗚咽が漏れる。

 

「どうして、お兄ちゃんがいないって言ったの?」

 

 少年は、母に近づいた。

 

「どうして、お父さんにも、先生にも、みんなにも……僕のことを忘れさせたの?」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 忘れさせた。

 

 その言葉は、これまでの記録と繋がっていた。

 

 世界は、御影出久の存在を認めなかった。

 

 父は、兄の記録を消した。

 

 お茶子は、兄の死を観測した。

 

 そして、自分は兄を殺したと記録されていた。

 

 だが。

 

 今、母が語らなければならないのは、それらよりも前の出来事なのだ。

 

 世界が兄を消すより前。

 

 父が兄を選ぶより前。

 

 お茶子が兄の死を観測するより前。

 

 そのもっと前。

 

 最初の夜。

 

 最初の死。

 

 最初の、家族の裏切り。

 

「……母さん」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「僕に教えて」

 

 引子が顔を上げた。

 

「兄さんに、何をしたの?」

 

 長い沈黙があった。

 

 やがて、母は答えた。

 

「……あなたを産むために」

 

 その一言で、出久の胸が冷たくなった。

 

「私は、あなたのお兄ちゃんを殺したの」

 

     ◇

 

 最初の記憶は、雨の音だった。

 

 十三年前。

 

 まだ、出久が生まれる前。

 

 緑谷家の寝室で、引子は眠れずにいた。

 

 お腹は、少しずつ大きくなっていた。

 

 出産予定日は、もうすぐだった。

 

 久志は隣で眠っている。

 

 窓の外では、雨が降っていた。

 

 引子は、お腹に手を置いた。

 

「……もうすぐ会えるね」

 

 小さく呟く。

 

 お腹の中の子どもは、まだ名前が決まっていなかった。

 

 男の子か、女の子か。

 

 どんな顔をしているのか。

 

 どんな声で泣くのか。

 

 どんな人生を歩むのか。

 

 わからないことばかりだった。

 

 それでも、引子は幸せだった。

 

 この子が生まれたら、たくさん抱き締めよう。

 

 たくさん名前を呼ぼう。

 

 たくさん、ご飯を作ろう。

 

 転んだら手当てをして。

 

 泣いたら抱き締めて。

 

 いつか大きくなったら、一緒に買い物へ行こう。

 

 そんな、ごく普通の未来を夢見ていた。

 

 そのときだった。

 

 お腹の中から、二度。

 

 小さな振動が伝わった。

 

 引子は、微笑んだ。

 

「……元気ね」

 

 けれど。

 

 次の瞬間、もう一度。

 

 今度は、明らかに違う場所から、振動が伝わった。

 

 引子の笑顔が止まった。

 

 お腹に手を当てる。

 

 待つ。

 

 何も起きない。

 

 気のせいだろうか。

 

 疲れているのかもしれない。

 

 そう思ったとき。

 

 耳元で、声がした。

 

『お母さん』

 

 引子は、飛び起きた。

 

 部屋を見回す。

 

 誰もいない。

 

 久志も眠っている。

 

 窓も閉まっている。

 

 それなのに。

 

『お母さん』

 

 今度は、お腹の中から聞こえた。

 

 幼い男の子の声だった。

 

『起きて』

 

 引子は、両手でお腹を押さえた。

 

「……誰?」

 

 返事は、すぐにあった。

 

『僕だよ』

 

「……あなた?」

 

『うん』

 

 引子は、息を止めた。

 

 胎児が声を発する。

 

 そんなことがあるはずがない。

 

 しかし、その声は確かに聞こえていた。

 

『お母さん』

 

 男の子は、優しく呼んだ。

 

『僕の話を聞いて』

 

「……何を、言ってるの?」

 

『僕には、兄さんがいるんだ』

 

 引子の指が、止まった。

 

『兄さんは、僕より先に生まれるんだよ』

 

 その瞬間。

 

 引子のお腹が、強く痛んだ。

 

 声が途切れた。

 

 引子は、悲鳴を上げた。

 

 久志が飛び起きる。

 

「引子!?」

 

「……お腹が……!」

 

 久志は、すぐに電話を取った。

 

 救急車を呼ぶ。

 

 病院へ向かう。

 

 医師たちは、引子の状態を確認した。

 

 そして、首を傾げた。

 

「……おかしいですね」

 

 担当医が言った。

 

「どうして……」

 

 モニターには、二つの心拍が表示されていた。

 

 一つは、正常。

 

 もう一つは、極端に不安定。

 

 それなのに。

 

 超音波画像には、一人分の胎児しか映っていなかった。

 

「先生、これは……?」

 

 久志が尋ねる。

 

 医師は、何度も画像を確認した。

 

「……機器の不具合かもしれません」

 

 そう言いながらも、彼の顔は青ざめていた。

 

 モニターに映っていた二つ目の心拍が、突然、消えたからだ。

 

 引子は、ベッドの上で震えていた。

 

 お腹に手を置く。

 

 もう、声は聞こえなかった。

 

 ただ。

 

 小さな手が、内側から触れているような感覚だけが残っていた。

 

     ◇

 

 その夜、引子は夢を見た。

 

 白い部屋だった。

 

 窓も、扉もない。

 

 壁も、床も、天井も、すべてが白い。

 

 そこに、二人の子どもが立っていた。

 

 一人は、緑色の髪をした男の子。

 

 もう一人も、緑色の髪をした男の子。

 

 顔は、そっくりだった。

 

 けれど、二人の雰囲気は違っていた。

 

 一人は、泣いていた。

 

 もう一人は、笑っていた。

 

 泣いている少年は、引子を見つめた。

 

「……お母さん」

 

 その声を聞いた瞬間、引子は理解した。

 

 この子が、兄だ。

 

 まだ生まれていないのに。

 

 まだ名前もないのに。

 

 この子が、自分の子どもだとわかった。

 

「……あなたは?」

 

 引子が尋ねると、少年は少し考えた。

 

「僕は、御影出久」

 

 もう一人の少年が、顔を上げた。

 

「……僕は、緑谷出久」

 

 二人は、同じ顔で笑った。

 

「僕たちは、兄弟なんだ」

 

 引子は、二人に駆け寄ろうとした。

 

 しかし、足が動かなかった。

 

 床に、黒い文字が浮かび上がっていたからだ。

 

『第一子、御影出久』

 

『第二子、緑谷出久』

 

『同一個体の重複登録を確認』

 

『世界構造との不一致』

 

『修正が必要です』

 

 文字が増えていく。

 

『第一子を削除する』

 

『第二子を削除する』

 

『新たな個体を生成する』

 

 引子は、首を振った。

 

「……やめて」

 

 文字は止まらない。

 

『選択してください』

 

『第一子を生かす』

 

『第二子を生かす』

 

『両者を削除する』

 

「やめて!」

 

 引子は叫んだ。

 

「この子たちは、私の子どもよ!」

 

 白い部屋が、揺れた。

 

 泣いていた少年が、顔を上げた。

 

「……お母さん」

 

 その目には、涙が浮かんでいた。

 

「僕たち、いっしょに生まれちゃいけないの?」

 

 引子は、首を振った。

 

「そんなことない!」

 

「じゃあ……」

 

 少年は、もう一人の子どもを見た。

 

「どうして、僕たちのどちらかが死ななきゃいけないの?」

 

 引子は、答えられなかった。

 

 答えられるはずがなかった。

 

 だって、そんなこと。

 

 母親が、答えを出していい問いではない。

 

 子どもたちの命に、順位をつけていいはずがない。

 

 そのとき。

 

 笑っていた少年が、泣いている兄の手を握った。

 

「大丈夫だよ」

 

 幼い緑谷出久が、笑った。

 

「僕が、何とかするから」

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……出久?」

 

 少年は、母を見た。

 

「お母さん」

 

 その声は、優しかった。

 

「僕、兄さんを助けるよ」

 

 そして。

 

 彼は、兄の手を離した。

 

「だから、お母さんは……僕を選んで」

 

     ◇

 

 目を覚ましたとき、引子は泣いていた。

 

 隣で、久志が心配そうに見つめていた。

 

「……どうしたんだ?」

 

 引子は、すぐには答えられなかった。

 

 夢の内容が、あまりにも鮮明だった。

 

 二人の子ども。

 

 同じ顔。

 

 同じ声。

 

 そして、選択を迫る文字。

 

「……久志さん」

 

 彼女は、夫の手を握った。

 

「私たちの子ども……」

 

 言葉が、途切れた。

 

 久志は、妻を抱き締めた。

 

「大丈夫だ。何も心配しなくていい」

 

 その声を聞いて、引子は泣いた。

 

 彼女は、まだ知らなかった。

 

 夫もまた、同じ夢を見ていたことを。

 

 そして、久志がその夢の中で、ある選択をしていたことを。

 

 第一子を消す。

 

 第二子を生かす。

 

 久志は、その選択を拒んだ。

 

 何度も拒んだ。

 

 しかし、世界は、彼に問い続けた。

 

 どちらを生かすのか。

 

 どちらを殺すのか。

 

 その問いから逃げ続けた結果、世界は別の答えを見つけた。

 

 母親に選ばせる。

 

 母親に、どちらかの子どもを諦めさせる。

 

 それが、最初の仕組みだった。

 

 そして、その仕組みを作ったのは。

 

 世界ではなかった。

 

 久志でもなかった。

 

 引子自身でもなかった。

 

 もっと古い、誰かの願いだった。

 

 ――誰かが、最初に死ななければならなかった。

 

 ――誰かが、最初に自分を殺さなければならなかった。

 

 ――誰かが、誰かを選ばなければならなかった。

 

 その願いが、世界の規則になっていた。

 

 そして、規則は、引子の夢を通して、彼女に問いかけていた。

 

 あなたは、どちらの子どもを母親として認めますか。

 

 引子は、その問いに答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 しかし。

 

 彼女は、夢の中で、もう一つのことを聞いていた。

 

 泣いていた少年の声。

 

『お母さん』

 

『僕を、産んで』

 

 その言葉を。

 

 彼女は、決して忘れることができなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 引子は、病院の相談室で、一人の女性と向かい合っていた。

 

 女性は、黒い服を着ていた。

 

 年齢は、引子より少し上に見える。

 

 長い黒髪。

 

 青白い肌。

 

 そして、膝の上に置かれた一枚の写真。

 

 写真には、幼い男の子が写っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 自分の子どもと、同じ顔。

 

「……あなたは?」

 

 引子が尋ねると、女性は答えた。

 

「あなたの子どもを知っている者です」

 

「私の子ども……?」

 

「ええ」

 

 女性は、写真を裏返した。

 

 そこには、名前が書かれていた。

 

 御影出久。

 

 引子の呼吸が止まった。

 

「……どうして、その名前を?」

 

「あなたが産む子どもの名前だからです」

 

「……でも」

 

 引子は、首を振った。

 

「この子は、まだ生まれていません」

 

「そうですね」

 

 女性は頷いた。

 

「だから、今のうちに来たのです」

 

 彼女は、引子を見つめた。

 

「あなたは、これから二人の子どもを産みます」

 

 引子の指先が震えた。

 

「一人は、御影出久」

 

「……」

 

「もう一人は、緑谷出久」

 

 女性は、淡々と続けた。

 

「二人とも、あなたの子どもです」

 

 引子は、頷いた。

 

 当然だった。

 

 当然のはずだった。

 

 けれど、次の言葉で、その当然が崩れた。

 

「そして、あなたは二人のうち一人を殺します」

 

「……何を言っているんですか?」

 

「あなたは、どちらか一人を選ばなければなりません」

 

 女性は、写真を引子の前に置いた。

 

「御影出久を生かせば、緑谷出久が生まれない」

 

 次に、もう一枚の写真を置いた。

 

「緑谷出久を生かせば、御影出久が生まれなかったことになる」

 

 引子は、立ち上がった。

 

「帰ってください」

 

「あなたが選ばなければ、世界が選びます」

 

「帰って!」

 

 女性は動かなかった。

 

「そして、世界が選んだ場合……あなたは、二人の子どもを失います」

 

 引子は、女性の頬を叩いた。

 

 乾いた音が、相談室に響いた。

 

 女性は、抵抗しなかった。

 

 ただ、叩かれた頬を押さえ、引子を見つめていた。

 

「……そうですね」

 

 女性は、静かに言った。

 

「私も、あなたを許せません」

 

「……何ですって?」

 

「あなたは、母親だからです」

 

 女性の目から、涙が零れた。

 

「母親なら、子どもを選ばないでください」

 

 引子は、言葉を失った。

 

 女性は、立ち上がった。

 

「どうか、間違えないで」

 

 そして、扉に手をかけた。

 

「……一つだけ、教えてください」

 

 引子は、震える声で尋ねた。

 

「あなたは、誰なんですか?」

 

 女性は、振り返った。

 

 その顔には、悲しみとも怒りともつかない表情が浮かんでいた。

 

「私は……」

 

 彼女は、言いかけて、口を閉じた。

 

 そして、答えた。

 

「あなたが、これから殺す子どもの母親です」

 

 扉が閉じた。

 

 引子は、その場に立ち尽くした。

 

 手の中には、二枚の写真が残されていた。

 

 どちらも、同じ顔。

 

 どちらも、自分の子ども。

 

 どちらも、まだ生まれていない。

 

 それなのに。

 

 片方は、生きるために、もう片方の死を必要としていた。

 

 引子は、写真を胸に抱いた。

 

「……そんなの」

 

 涙が落ちた。

 

「そんなの、できるわけないじゃない……」

 

     ◇

 

 出産予定日の三日前。

 

 引子は、再び夢を見た。

 

 今度は、白い部屋ではなかった。

 

 暗い部屋。

 

 真ん中に、小さなベッドが二つ並んでいた。

 

 一つには、緑色の髪をした男の子が眠っていた。

 

 もう一つは、空だった。

 

 引子は、眠っている少年に近づいた。

 

 その子は、御影出久だった。

 

 小さな胸が、規則正しく上下している。

 

 生きている。

 

 確かに、生きている。

 

 引子は、少年の頬に触れた。

 

 温かかった。

 

「……出久」

 

 名前を呼ぶ。

 

 少年が、目を開けた。

 

「……お母さん?」

 

 引子は、泣きそうになった。

 

「そうよ」

 

「どうしたの?」

 

「……何でもないわ」

 

 少年は、不思議そうに首を傾げた。

 

「お母さん、泣いてるの?」

 

「……泣いてないわ」

 

「嘘だ」

 

 少年は笑った。

 

「お母さん、嘘をつくとき、いつも右手を握るんだよ」

 

 引子は、自分の手を見た。

 

 確かに、右手を握り締めていた。

 

 少年は、ベッドから身を起こした。

 

「……お母さん」

 

「何?」

 

「僕、弟がほしい」

 

 引子の身体が、硬直した。

 

「……弟?」

 

「うん」

 

 少年は、嬉しそうに笑った。

 

「僕、弟が生まれるんでしょ?」

 

 引子は、答えられなかった。

 

「お父さんが言ってたんだ。もうすぐ、僕に弟ができるって」

 

 少年は、空のベッドを見つめた。

 

「僕、弟と一緒に遊びたいんだ」

 

 引子の目から、涙が零れた。

 

「……そう」

 

「うん!」

 

 少年は、頷いた。

 

「僕、お兄ちゃんになるんだよ!」

 

 その笑顔が、引子の胸を引き裂いた。

 

 この子は、何も知らない。

 

 自分が生まれたことで、弟が生まれられなくなるかもしれないことを。

 

 弟が生まれたことで、自分が消されるかもしれないことを。

 

 そして、母親が、その二つの未来を知ってしまったことを。

 

「……ねえ、お母さん」

 

 少年が、引子の手を握った。

 

「僕、弟に何て名前をつけたらいいかな?」

 

 引子は、泣きながら笑った。

 

「……出久」

 

「え?」

 

「弟の名前よ」

 

 彼女は、少年を抱き締めた。

 

「緑谷出久」

 

 少年は、嬉しそうに笑った。

 

「いい名前!」

 

 そして、引子の胸に顔を埋めた。

 

「……僕、弟に会えるのが楽しみだな」

 

 引子は、少年を抱き締め続けた。

 

 いつまでも。

 

 いつまでも。

 

 この温もりを、忘れないように。

 

 この声を、忘れないように。

 

 この子が、自分の子どもであることを、絶対に忘れないように。

 

 そのとき。

 

 少年が、ぽつりと言った。

 

「……でも、お母さん」

 

「何?」

 

「僕、知ってるよ」

 

 引子の身体が、凍りついた。

 

「……何を?」

 

 少年は、顔を上げた。

 

 その瞳には、幼い子どもとは思えないほどの悲しみがあった。

 

「僕が生まれたら、弟が生まれないんだよね?」

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……誰に聞いたの?」

 

「誰にも」

 

 少年は、首を振った。

 

「わかるんだ」

 

 彼は、空のベッドを見つめた。

 

「僕と弟は、一緒に生まれちゃいけないんだって」

 

 引子は、少年の肩を掴んだ。

 

「そんなことない!」

 

 思わず叫んでいた。

 

「そんなこと、誰が言ったの!? そんなこと、絶対にないわ!」

 

 少年は、驚いた顔をした。

 

 そして。

 

 優しく笑った。

 

「……ありがとう、お母さん」

 

 引子は、少年を抱き締めた。

 

「あなたは生まれてくるのよ! あなたも、弟も! 二人とも、私の子どもなんだから!」

 

 その言葉に、少年は頷いた。

 

「……うん」

 

 彼は、引子の背中に腕を回した。

 

「僕も、そう思いたい」

 

 その瞬間。

 

 暗い部屋に、無機質な声が響いた。

 

『第一子、御影出久』

 

『出生成立まで、七十二時間』

 

『第二子、緑谷出久』

 

『出生成立条件、第一子の消去』

 

『母親による観測が必要です』

 

 引子は、顔を上げた。

 

「……観測?」

 

 声は、繰り返した。

 

『母親による観測が必要です』

 

『母親が第一子の死を認めた場合、第一子の死亡が成立します』

 

『母親が第一子の死を認めない場合、第二子の出生は成立しません』

 

 引子は、首を振った。

 

「……そんなの」

 

 少年は、引子の手を握った。

 

「……お母さん」

 

 彼は、静かに言った。

 

「僕を、見ていて」

 

 引子は、少年を見つめた。

 

「……え?」

 

「僕がいなくなっても、僕のことを見ていて」

 

 少年は、涙を浮かべながら笑った。

 

「お母さんが僕を覚えていてくれたら、僕は、いなくならないから」

 

 引子は、少年を抱き締めた。

 

「……出久」

 

「うん」

 

「……ごめんね」

 

「どうして謝るの?」

 

 少年は、不思議そうに尋ねた。

 

 引子は、答えられなかった。

 

 ただ、抱き締める腕に力を込めた。

 

 そして、心の中で誓った。

 

 この子を、絶対に忘れない。

 

 何があっても。

 

 世界が、この子を消そうとしても。

 

 自分だけは、この子の存在を覚えている。

 

 その誓いが、どれほど残酷な意味を持つのか。

 

 このときの引子は、まだ知らなかった。

 

     ◇

 

 出産当日。

 

 午前一時五十分。

 

 緑谷家に、電話がかかってきた。

 

 久志が受話器を取る。

 

「……はい、緑谷です」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、微かな呼吸音が聞こえた。

 

「……もしもし?」

 

 やがて、子どもの声がした。

 

『お父さん』

 

 久志の顔が、青ざめた。

 

『僕を、殺して』

 

 受話器を落としかけた。

 

「……誰だ?」

 

『僕を殺して』

 

「誰なんだ、お前は!?」

 

『お父さん』

 

 その声は、泣いていた。

 

『僕が死なないと、弟が生まれないんだ』

 

 久志は、受話器を握り締めた。

 

「……やめろ」

 

『お願い』

 

「やめろ!」

 

『お父さん、お願い』

 

 久志は、電話を切った。

 

 息が荒い。

 

 手が震える。

 

 彼は、寝室の扉を見つめた。

 

 その向こうでは、引子が眠っている。

 

 そして、そのお腹の中には、二人の子どもがいる。

 

 久志は、壁に背中を預けた。

 

「……私は」

 

 声が漏れた。

 

「私は、どうすればいいんだ……」

 

 答える者はいなかった。

 

 時計の針が進む。

 

 一時五十一分。

 

 一時五十二分。

 

 一時五十三分。

 

 そして、一時五十四分。

 

 電話が、再び鳴った。

 

 久志は、出なかった。

 

 鳴り続ける。

 

 鳴り続ける。

 

 やがて、留守番電話に切り替わった。

 

 子どもの声が、部屋に響いた。

 

『お父さん』

 

『僕は、お父さんを恨まないよ』

 

 久志は、目を閉じた。

 

『だって、お父さんは、僕たちを生かそうとしてくれたんだもん』

 

 声は、少しだけ笑った。

 

『でもね』

 

 その笑顔が、崩れた。

 

『僕、本当は、生きたいんだ』

 

 久志は、口元を押さえた。

 

『弟と、一緒に生きたい』

 

『お母さんと、一緒に生きたい』

 

『お父さんと、一緒に生きたい』

 

 声が震えた。

 

『……僕だって、家族がほしいよ』

 

 留守番電話が、途切れた。

 

 久志は、その場に崩れ落ちた。

 

 泣いた。

 

 声を殺して。

 

 誰にも聞こえないように。

 

 しかし、そのとき。

 

 寝室の扉が開いた。

 

「……久志さん?」

 

 引子が立っていた。

 

 彼女は、夫を見つめた。

 

「……誰からの電話?」

 

 久志は、答えなかった。

 

 引子は、ゆっくりと近づいた。

 

 そして、夫の手を握った。

 

「……大丈夫」

 

 彼女は言った。

 

「大丈夫だから」

 

 その言葉は、夫に向けたものだった。

 

 そして、自分自身に向けたものでもあった。

 

 彼女は、まだ信じていた。

 

 二人とも生まれてくる。

 

 二人とも生きられる。

 

 母親である自分が、そう願い続ければ。

 

 世界の規則だって、変えられるかもしれない。

 

 だが。

 

 午前二時。

 

 引子の陣痛が始まった。

 

     ◇

 

 午前二時十一分。

 

 病院の分娩室。

 

 引子は、ベッドの上で苦しんでいた。

 

 久志は、その手を握っていた。

 

「……頑張れ、引子!」

 

 医師たちが、慌ただしく動く。

 

 モニターの音が、早くなる。

 

 そして、午前二時十二分。

 

 最初の子どもが生まれた。

 

 泣き声が響いた。

 

 御影出久。

 

 第一子。

 

 緑谷家の長男。

 

 その子は、元気に泣いていた。

 

 引子は、泣きながら笑った。

 

「……出久」

 

 赤ん坊が、彼女の腕に乗せられる。

 

 小さな手。

 

 小さな足。

 

 小さな胸。

 

 確かに、生きている。

 

 引子は、赤ん坊を抱き締めた。

 

「……生まれてきてくれて、ありがとう」

 

 赤ん坊は、泣いていた。

 

 その泣き声が、少しずつ弱くなっていく。

 

 引子は、不安になった。

 

「……先生?」

 

 医師が、赤ん坊を確認する。

 

 心拍は、正常。

 

 呼吸も、問題ない。

 

 それなのに。

 

 赤ん坊の身体から、温もりが消えていく。

 

「……どうして?」

 

 引子は、赤ん坊を抱き締めた。

 

「……どうしてなの?」

 

 モニターの音が止まった。

 

 午前二時十三分。

 

 第一子、御影出久。

 

 死亡。

 

 その瞬間、世界のどこかで、無機質な声が響いた。

 

『第一子の死亡を確認』

 

『母親による観測、成立』

 

『第二子の出生条件、達成』

 

 引子は、赤ん坊を抱いたまま、叫んだ。

 

「……違う!」

 

 医師たちが振り返る。

 

「この子は生きてる!」

 

 彼女は、赤ん坊を抱き締めた。

 

「この子は、生きてるの!」

 

 しかし、モニターは止まったままだった。

 

 久志は、妻を抱き締めた。

 

「……引子」

 

「違う! この子は……!」

 

「引子……!」

 

 彼女は、泣き叫んだ。

 

「……お願い、起きて!」

 

 赤ん坊の頬に、キスをする。

 

「……出久、お願い!」

 

 そのとき。

 

 赤ん坊の指が、動いた。

 

 ほんのわずかに。

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……今、動いた!」

 

 彼女は、医師を見た。

 

「先生! この子、動いたんです!」

 

 医師が駆け寄る。

 

 しかし、赤ん坊は動かなかった。

 

 心拍も、呼吸も、確認できない。

 

 それでも。

 

 引子は、赤ん坊の指を握り締めていた。

 

「……この子は、生きてる」

 

 彼女は、繰り返した。

 

「……この子は、生きてるの」

 

 その瞬間。

 

 赤ん坊が、目を開けた。

 

 緑色の瞳。

 

 そして、その瞳が、母を見つめた。

 

「……お母さん」

 

 引子は、凍りついた。

 

 赤ん坊が、笑った。

 

「……僕を、見ていて」

 

 次の瞬間。

 

 赤ん坊は、消えた。

 

 引子の腕の中から。

 

 世界から。

 

 記録から。

 

 そして、引子の記憶からも。

 

 すべてが消えた。

 

 ただ一つ。

 

 温もりだけが、残った。

 

     ◇

 

 午前二時十四分。

 

 第二子が生まれた。

 

 緑谷出久。

 

 引子は、赤ん坊を抱いた。

 

 小さな身体。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 その子は、元気に泣いていた。

 

 医師たちは安堵した。

 

 久志は、涙を流した。

 

「……出久」

 

 その名を呼ぶ。

 

 赤ん坊は、泣き続ける。

 

 引子は、赤ん坊を見つめていた。

 

 愛おしい。

 

 大切だ。

 

 この子も、自分の子どもだ。

 

 守りたい。

 

 幸せになってほしい。

 

 その気持ちは、本物だった。

 

 けれど。

 

 彼女の腕には、もう一つの温もりが残っていた。

 

 先ほどまで、確かに抱いていた温もり。

 

 誰かを抱いていた感触。

 

 誰かの声。

 

 誰かの名前。

 

 思い出せない。

 

 思い出せないのに。

 

 胸が、痛かった。

 

「……私」

 

 引子は、赤ん坊を抱いたまま呟いた。

 

「……誰かを、忘れてしまったの?」

 

 久志は、答えなかった。

 

 ただ、彼女を抱き締めた。

 

 そのとき。

 

 引子の耳元で、声がした。

 

『お母さん』

 

 彼女は、息を呑んだ。

 

『僕のこと、忘れないで』

 

 引子は、目を見開いた。

 

 その声を、知っている。

 

 知っているはずなのに。

 

 誰の声なのか、思い出せない。

 

『お母さん』

 

『僕、まだ生きてるよ』

 

 引子は、赤ん坊を抱き締めた。

 

「……誰なの?」

 

 涙が落ちた。

 

「……あなたは、誰なの?」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、耳元で、かすかな泣き声が聞こえた。

 

 それは。

 

 自分が産んだ、もう一人の子どもの泣き声だった。

 

     ◇

 

 記憶が終わった。

 

 出久は、白い廊下に立っていた。

 

 母は、目の前で泣いていた。

 

 父は、顔を伏せていた。

 

 幼い少年は、母を見つめていた。

 

 出久は、しばらく、何も言えなかった。

 

 やがて。

 

 ようやく声を出した。

 

「……母さん」

 

 引子が顔を上げる。

 

「……兄さんは」

 

 出久は、言葉を探した。

 

「兄さんは、生まれたんだね」

 

 引子は、頷いた。

 

「……ええ」

 

「生まれて……生きていたんだね」

 

「……ええ」

 

「それなのに、母さんは……」

 

 声が震えた。

 

「兄さんが死んだって、認めたの?」

 

 引子は、首を振った。

 

「……私は、認めたくなかった」

 

 彼女は、涙を拭った。

 

「でも、あの子は、私の腕の中で消えた」

 

 その声は、震えていた。

 

「私が抱いていたのに。私が、あの子を産んだのに。私が、あの子の母親だったのに……」

 

 引子は、胸元を押さえた。

 

「……私は、あの子がいなくなるのを止められなかった」

 

 出久は、母を見つめた。

 

「……でも、母さんは覚えてたんだ」

 

 引子は、頷いた。

 

「ええ」

 

 彼女は、幼い少年を見た。

 

「私は、あの子を忘れなかった」

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「……うん」

 

「世界が、あの子を消しても」

 

「……うん」

 

「記録が、あの子をいないことにしても」

 

「……うん」

 

「私は、あの子を覚えていた」

 

 引子は、少年に手を伸ばした。

 

「……だって、あなたは、私の子どもだから」

 

 少年は、その手を取った。

 

「……お母さん」

 

 引子は、少年を抱き締めた。

 

「……ごめんね」

 

 その瞬間。

 

 少年の身体が、白い光に包まれた。

 

「……え?」

 

 引子が顔を上げる。

 

 少年の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。

 

「……待って!」

 

 彼女は、少年を抱き締める腕に力を込めた。

 

「嫌よ! もう、あなたを失いたくない!」

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「……大丈夫だよ、お母さん」

 

「大丈夫じゃない!」

 

 引子は叫んだ。

 

「あなたは、私の子どもなの! あなたは、ここにいるの! 私は、あなたを覚えてるの!」

 

「……うん」

 

「だから、消えないで!」

 

 少年は、母の頬に触れた。

 

「……お母さん」

 

 その声は、優しかった。

 

「僕は、消えたんじゃないよ」

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……え?」

 

「僕は、ずっとここにいる」

 

 少年は、自分の胸に手を置いた。

 

「お母さんが、僕を覚えていてくれる限り」

 

 その瞬間。

 

 少年の姿が消えた。

 

 引子の腕の中から。

 

 しかし、今度は。

 

 温もりが、消えなかった。

 

 彼女は、誰もいない空間を抱き締めていた。

 

 そして、泣きながら、何度も名前を呼んだ。

 

「……御影出久」

 

「……御影出久」

 

「……私の、息子」

 

     ◇

 

 出久は、母を見つめていた。

 

 怒りがなかったわけではない。

 

 悲しみがなかったわけでもない。

 

 母が、兄を救えなかったこと。

 

 母が、兄の死を観測したこと。

 

 母が、兄を抱き締めながら、その存在を失ってしまったこと。

 

 それらすべてが、胸の中で渦巻いていた。

 

 それでも。

 

 出久は、母を責めることができなかった。

 

 母は、兄を殺したかったわけではない。

 

 母は、兄を忘れたかったわけでもない。

 

 母は、ただ。

 

 二人とも生かしたかったのだ。

 

 それができなかった。

 

 だから、母は一人の子どもを失い、もう一人の子どもを抱き締めながら、失った子どもの温もりを忘れられなかった。

 

 それが、母の罪だった。

 

 そして。

 

 その罪は、母だけのものではなかった。

 

「……母さん」

 

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕は、母さんを許すとか、許さないとか……まだ、わからない」

 

 引子が顔を上げた。

 

「……出久」

 

「僕は、兄さんのことを何も知らなかった」

 

 出久は、拳を握った。

 

「兄さんが、どんな気持ちで生きていたのか。何を望んでいたのか。何を怖がっていたのか」

 

 彼は、目を閉じた。

 

「何も知らないまま、兄さんを救いたいって言ってた」

 

 涙が落ちた。

 

「……それなのに、僕は、兄さんを救うためなら何でもするって考えてた」

 

 出久は、母を見た。

 

「それって、母さんと同じだったのかもしれない」

 

 引子は、首を振った。

 

「……違うわ」

 

「……ううん」

 

 出久は、静かに言った。

 

「僕も、誰かを犠牲にする答えを選びかけてた」

 

 彼は、墓の中から出てきた少年を見た。

 

「この子も、そうだったのかもしれない」

 

 そして、父を見た。

 

「父さんも」

 

 最後に、母を見た。

 

「母さんも」

 

 出久は、深く息を吸った。

 

「みんな、誰かを守りたかったんだ」

 

 声が震えた。

 

「でも、誰かを守るために、別の誰かの命を決めてしまった」

 

 出久は、首を振った。

 

「……もう、そんなことを繰り返したくない」

 

 その瞬間。

 

 白い廊下の奥から、足音が聞こえた。

 

 ゆっくりと。

 

 一歩ずつ。

 

 近づいてくる。

 

 現れたのは、御影出久だった。

 

 兄だった。

 

 しかし、その姿は、これまで出久が見てきた兄とは違っていた。

 

 身体は、透き通っていた。

 

 胸元には、黒い文字が刻まれている。

 

『第一子』

 

『死亡成立』

 

『観測者:緑谷引子』

 

『記憶保持者:緑谷引子』

 

 御影は、母を見つめた。

 

「……お母さん」

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……出久?」

 

 御影は、頷いた。

 

「うん」

 

 引子は、彼に駆け寄ろうとした。

 

 しかし、御影は、手を上げて制した。

 

「……待って」

 

 引子の足が止まる。

 

「……どうして?」

 

 御影は、悲しそうに笑った。

 

「僕、まだ、全部を思い出せていないんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……兄さん?」

 

 御影は、弟を見た。

 

「出久」

 

「……うん」

 

「僕が、お母さんに殺された日」

 

 彼は、胸元の文字に触れた。

 

「それは、僕が死んだ日じゃない」

 

 引子の顔が、青ざめた。

 

「……え?」

 

 御影は、静かに続けた。

 

「僕が、お母さんを母親じゃないって思った日なんだ」

 

 その瞬間。

 

 廊下の壁に、無数の記録が浮かび上がった。

 

『第一子、御影出久』

 

『出生成立』

 

『生存確認』

 

『母親による観測、成立』

 

『第一子、死亡成立』

 

 記録が、激しく点滅する。

 

 その下に、新たな文字が浮かんだ。

 

『母子関係、切断』

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……母子関係?」

 

 御影は、頷いた。

 

「僕が生きていた頃、お母さんは、僕のことを覚えていてくれた」

 

 彼は、引子を見つめた。

 

「でも、僕が消えたあと……お母さんは、僕のことを覚えているだけになった」

 

 その声は、静かだった。

 

「お母さんは、僕の母親だった」

 

 彼は、一歩近づいた。

 

「でも、僕は、お母さんの子どもとして存在できなくなった」

 

 引子の唇が震えた。

 

「……そんな」

 

「お母さんは、僕を愛してくれた」

 

 御影は、涙を流した。

 

「だからこそ、僕は……」

 

 彼は、言葉を詰まらせた。

 

「……お母さんを、母親じゃないって思わなきゃいけなかった」

 

 出久は、兄を見つめた。

 

「……どういうこと?」

 

 御影は、答えなかった。

 

 代わりに、母を見た。

 

「……お母さん」

 

 その声は、幼い子どものようだった。

 

「僕は、あなたに会いたかった」

 

 引子の目から、涙が零れた。

 

「……私もよ」

 

「僕は、あなたに抱き締めてほしかった」

 

「……ええ」

 

「僕は、あなたに名前を呼んでほしかった」

 

「……ええ」

 

「僕は、あなたの子どもでいたかった」

 

 引子は、泣き崩れた。

 

「……ごめんね」

 

 御影は、首を振った。

 

「……違うよ」

 

 彼は、母の前にしゃがみ込んだ。

 

「お母さんは、僕を殺したんじゃない」

 

 引子が顔を上げる。

 

「……え?」

 

 御影は、泣きながら笑った。

 

「お母さんは、僕が死んだことを認めたんだ」

 

 その言葉は、あまりにも残酷だった。

 

 殺したことと、死んだことを認めたこと。

 

 それは、同じではない。

 

 けれど、この世界では。

 

 観測された死が、存在そのものを確定させる。

 

 母が、子どもの死を認めた瞬間。

 

 世界は、その死を成立させた。

 

 母は、子どもを殺したわけではない。

 

 それでも、母が認めなければ、子どもは死者にならなかった。

 

 そして。

 

 母が認めたからこそ、子どもは死者になった。

 

「……お母さん」

 

 御影は、母の手を取った。

 

「僕は、あなたを恨んでいないよ」

 

 引子は、首を振った。

 

「……そんなこと、言わないで」

 

「……うん」

 

「あなたは、私を恨んでいいの」

 

「……うん」

 

「あなたは、私を責めていいの」

 

「……うん」

 

「あなたは、私のことを……」

 

 引子は、言葉を詰まらせた。

 

「……お母さんじゃないって、思っていいの」

 

 御影は、母を見つめた。

 

 そして。

 

 ゆっくりと首を振った。

 

「……それだけは、嫌だよ」

 

 引子は、顔を覆った。

 

 泣き声が、廊下に響いた。

 

 御影は、母の手を握ったまま、静かに言った。

 

「僕は、あなたの子どもだから」

 

 その瞬間。

 

 時計の針が、わずかに動いた。

 

 二時十三分。

 

 そして。

 

 二時十四分。

 

 出久は、目を見開いた。

 

 止まっていた時間が、動いた。

 

 しかし、それは、ほんの一秒だった。

 

 次の瞬間、時計は再び二時十三分へ戻った。

 

 壁に、新しい文字が浮かび上がる。

 

『第一子、御影出久』

 

『母子関係、再接続』

 

『観測状態、異常』

 

『再構成を開始します』

 

 白い廊下が、揺れた。

 

 引子が、御影の手を握り締める。

 

「……出久!」

 

 御影は、母を見た。

 

「……お母さん」

 

「……今度こそ、離さないわ」

 

 引子は、泣きながら笑った。

 

「今度こそ、あなたを忘れない」

 

 御影は、目を閉じた。

 

「……うん」

 

 その身体が、少しずつ透き通っていく。

 

「……でも」

 

 彼は、最後に、出久を見た。

 

「……出久」

 

「……兄さん!」

 

「僕を、助けようとしないで」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……何を言ってるんだよ!?」

 

 御影は、悲しそうに笑った。

 

「僕を助けようとすると、君は、また誰かを犠牲にする」

 

「……そんなことしない!」

 

「……うん」

 

 御影は、頷いた。

 

「君は、そう言うと思った」

 

 そして。

 

「だから、僕は……」

 

 彼は、母の手を離した。

 

「君に、僕を殺してほしい」

 

 出久の世界が、止まった。

 

 母の泣き声が響く。

 

 父が、叫ぶ。

 

 時計が、二時十三分を示している。

 

 そして、兄は。

 

 自分の弟に、もう一度、死を求めた。

 

 出久は、震える声で答えた。

 

「……嫌だ」

 

 御影は、目を閉じた。

 

「……出久」

 

「嫌だ!」

 

 出久は、兄に駆け寄った。

 

「僕は、もう誰も殺さない!」

 

 御影の身体が、光に包まれた。

 

「……僕は、君を殺したくない!」

 

 出久は、手を伸ばした。

 

「だから、兄さんも……僕に殺されようとしないでよ!」

 

 その言葉に、御影の表情が崩れた。

 

 彼は、泣いた。

 

 初めて見る、兄の涙だった。

 

「……ごめん」

 

 御影は、呟いた。

 

「……ごめんね、出久」

 

 そして。

 

 光が、廊下を埋め尽くした。

 

     ◇

 

 次に目を開けたとき、出久は、白い部屋に戻っていた。

 

 お茶子が、隣にいた。

 

 父も、母もいない。

 

 幼い少年も、御影もいない。

 

 ただ、床に、一枚の写真が落ちていた。

 

 出久は、それを拾い上げた。

 

 写真には、幼い御影出久が写っていた。

 

 笑顔だった。

 

 その隣には、幼い緑谷出久がいた。

 

 二人は、手を繋いでいた。

 

 そして、写真の裏には、文字が刻まれていた。

 

 母親は、第一子の死を観測した。

 

 父親は、第一子の死を選択した。

 

 弟は、第一子の死を成立させた。

 

 しかし、第一子は、まだ生きている。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その下に、さらに文字があった。

 

 第一子を殺した者は、まだ確定していない。

 

 そして、最後の一行。

 

 次の観測対象:緑谷引子。

 

 出久は、写真を握り締めた。

 

「……母さん」

 

 その瞬間。

 

 白い部屋の壁に、扉が現れた。

 

 扉の向こうから、母の声が聞こえる。

 

「……出久」

 

 優しい声だった。

 

 泣いている声だった。

 

 そして、その声に重なるように。

 

 もう一つの声が聞こえた。

 

 幼い子どもの声。

 

『お母さん』

 

『僕を、産んでくれてありがとう』

 

 出久は、扉に手をかけた。

 

 その向こうに何があるのか。

 

 もう、わかっていた。

 

 そこには、母がいる。

 

 そして。

 

 母が、最初に殺した子どもがいる。

 

 出久は、扉を開けた。

 

 その先に広がっていたのは、分娩室ではなかった。

 

 暗い部屋。

 

 二つのベッド。

 

 一つは、空。

 

 もう一つには、母が横たわっていた。

 

 母の腕の中には、赤ん坊がいた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 小さな身体。

 

 その赤ん坊は、出久を見つめていた。

 

 そして。

 

 笑った。

 

「……お兄ちゃん」

 

 赤ん坊が、言った。

 

「僕、もう一度、生まれてもいい?」

 

 出久は、泣きそうになった。

 

 答えようとした。

 

 だが、その前に。

 

 母が、ゆっくりと目を開けた。

 

 そして、出久を見つめた。

 

「……出久」

 

 母は、微笑んだ。

 

「この子を、殺して」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 母の腕の中で、赤ん坊が笑っている。

 

 母は、泣いていた。

 

「……お願い」

 

 彼女は、出久に手を伸ばした。

 

「今度こそ、この子を……」

 

 その瞬間。

 

 赤ん坊が、母の胸に顔を埋めた。

 

「……お母さん」

 

 そして。

 

 出久にだけ聞こえる声で、囁いた。

 

「――僕を殺したら、今度はお母さんが生まれなくなるよ」

 

 世界が、暗転した。

 

 第三十九話・了

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