僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第五話 奇跡の代償

 

 午前五時四十二分。

 雄英高校の地下危機管理室には、朝日よりも先に、冷たい電子音が満ちていた。

 壁一面を覆う大型モニター。その画面には、世界各地で発生した異常事例が、赤い点となって表示されている。

 日本国内だけで、確認された死者の帰還は千を超えていた。

 いや、正確には――確認できたものだけで、千を超えていた。

 戸籍上は死亡している人間が、突然、自宅の前に立っている。

 十年前に火葬されたはずの人間が、病院の待合室で家族の名前を呼んでいる。

 戦場で命を落とした兵士が、かつての所属部隊の前に現れている。

 そして、その中には。

 生きていた頃の記憶をほとんど持たず、周囲の人間を襲い始めた者もいた。

「……笑えないな」

 相澤消太は、モニターに映る報告書を睨んだ。

 寝不足の目を擦る気にもなれない。

 昨夜から一睡もしていなかった。

 その隣では、プレゼント・マイクが珍しく口を閉ざしている。

 普段なら、どれほど深刻な状況でも何かしら言葉を発する男だ。冗談を飛ばすこともあれば、わざと大きな声を出して周囲の空気を変えることもある。

 だが、今朝の彼は違った。

 画面に表示された一枚の写真から、目を離せずにいた。

 写真に写っているのは、白いベッドだった。

 その上に、少女が眠っている。

 年齢は十六歳。

 死亡時刻は十年前。

 病名は、急性白血病。

 生前の名前は、白石結衣。

 昨夜、病院で目を覚まし、その後、姿を消した少女だ。

「……この子、十年前に死んでるんだよな」

 マイクが低く呟いた。

「ああ」

「なのに、昨日まで普通に寝てたベッドから起き上がって、病院の外に出てった。監視カメラには、ちゃんと映ってる。足跡もある。体温も、脈拍も、確認できてる」

「ああ」

「……じゃあ、あの子は本当に生き返ったってことなのか?」

 相澤は答えなかった。

 答えられなかった。

 医学的な定義を並べれば、彼女は生きている。

 だが、十年間、死んでいた人間が突然蘇ることを、既存の医学で説明できるはずがない。

 そもそも、死とは何なのか。

 肉体の停止か。

 脳の機能の停止か。

 それとも、二度と戻らないという不可逆性そのものか。

 もしも死んだ人間が戻ってきたのなら、死という現象は、もはや絶対的な終わりではなくなったのだろうか。

 それとも――。

「相澤先生」

 背後から声がした。

 振り返ると、緑谷出久が立っていた。

 ヒーロー活動用のスーツを着込み、腰には簡易救助装備を装着している。

 かつてのように、身体から緑色の稲妻が走ることはない。

 ワン・フォー・オールは、もう彼の中に存在しない。

 それでも彼は、誰かを救うために必要なものを一つずつ揃え、今も現場に立ち続けていた。

「おはようございます。追加の報告を確認しました」

「早いな。寝てないのか」

「少しは寝ました」

「何時間だ」

「……二時間くらいです」

「それは寝たうちに入らん」

「先生もですよ」

「俺は教師だ」

「教師でも睡眠は必要です」

「屁理屈を覚えたな、緑谷」

「先生に教わりました」

「覚えの悪い生徒だと思ってたが、余計なことばかり覚えやがって」

 いつもの調子に近いやり取り。

 ほんのわずかに、室内の空気が緩んだ。

 だが、次の瞬間。

 相澤がモニターを指差した。

「そんなことを言っていられるのも、今のうちだ」

 画面に表示されたのは、昨夜、出久たちが遭遇した黒い霧の映像だった。

 公園で出久を襲った男。

 身体から黒い亀裂を生じさせ、最後には霧のように消えていった、正体不明の帰還者。

「この男の身元は、いまだに判明していない。顔認証、指紋、歯型、いずれも既存のデータベースと一致しなかった」

「それに、抹消も効かなかったんですよね」

「そうだ。個性そのものを消せなかったというより、俺の個性が届かなかった。あの黒い現象が、個性の発動とは別の仕組みで動いている可能性がある」

「別の仕組み……」

 出久は、映像を見つめた。

 あの男は、自分を見て言った。

 返せ。

 俺の人生を。

 お前が俺を殺したのか。

 そして、最後に。

 ――今度こそ、救ってくれ。

 その声が、耳の奥から離れない。

 あの男は、自分を恨んでいたのだろうか。

 それとも、何かに利用されていただけだったのだろうか。

 出久には、まだ分からない。

 分からないからこそ、放っておくことはできなかった。

「先生。今日の式典ですが……」

「ああ。予定どおり開催される」

 相澤は、淡々と答えた。

「警備体制は通常の追悼式典の規模を大きく超えている。プロヒーローを各所に配置し、異常が発生した場合は即座に避難誘導を開始する。帰還者が現れても、敵対行動が確認されない限り、こちらから攻撃はしない」

「分かりました」

「だが、緑谷」

 相澤の視線が鋭くなった。

「お前は、何があっても一人で突っ込むな」

「……はい」

「返事だけなら誰でもできる」

「本当に、気をつけます」

「その言葉を信用できるくらいには、お前を長く見てきたつもりだったんだがな」

 相澤はため息をついた。

「お前は、自分が傷つくことを計算に入れない。救助対象を優先するのはヒーローとして当然だ。だが、自分が倒れれば救えなくなる命もある」

「……分かっています」

「分かっている人間の顔じゃない」

 出久は、何も言い返せなかった。

 分かっている。

 それでも、身体が先に動いてしまう。

 それは、かつての彼を支えた長所であり、何度も彼を危険に追い込んだ欠点でもあった。

 力を失った今も、その性質だけは変わっていない。

 むしろ、力を失ったからこそ。

 救えなかったときのことを、以前よりも強く想像するようになっていた。

「……今日は、必ず帰ってこい」

 相澤が言った。

「お前には、式典の後にやることがあるんだろう」

「えっ」

「麗日から聞いたわけじゃない。お前の顔を見ていれば分かる」

「な、何で……」

「分かりやすすぎるんだよ」

 マイクが、ようやく小さく笑った。

「イレイザー、昔からデクの顔を見るだけで何でも分かるみたいに言うよな」

「お前が分からなすぎるだけだ」

「ひでえ!」

「それと緑谷」

「は、はい!」

「式典の後に何をするにしても、ちゃんと相手の話を聞け。自分の言いたいことだけ言って満足するな」

「……はい」

「以上だ。行け」

 出久は深く頭を下げた。

「行ってきます」

 扉の向こうへと歩き出す。

 相澤は、その背中を見送った。

 そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。

「……頼むから、今度こそ自分の人生も救ってくれよ」

 その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。

 だが。

 遠い南極の氷の底で。

 何かが、その祈りを聞いていた。

     *

 午前九時。

 東京都内、十三周年追悼式典会場。

 そこには、数えきれないほどの人々が集まっていた。

 会場の中央には、巨大な慰霊碑がそびえ立っている。

 碑に刻まれた名前は、数千。

 ヒーロー。

 警察官。

 救助隊員。

 一般市民。

 そして、最終決戦で命を落とした者たち。

 その中には、世界を救うために戦い、最後まで自らの信念を曲げなかった者たちの名前もあった。

 十三年前。

 人々は、絶望の底にいた。

 社会は崩壊しかけ、街は破壊され、誰もが明日の命を保証されていなかった。

 それでも、誰かが立ち上がった。

 誰かが誰かを助けた。

 その積み重ねが、今の世界を作った。

 だからこそ、この日だけは。

 人々は立ち止まり、亡くなった者たちのことを思い出す。

 彼らが何を愛し、何を守り、何を願っていたのか。

 彼らが生きていた証を、忘れないために。

「……すごい人だね」

 麗日お茶子は、会場を見渡しながら呟いた。

「うん。去年よりも多いかもしれない」

 隣に立つ出久が答えた。

 お茶子は、淡い色の式典用の服を着ていた。

 華美ではない。

 だが、彼女らしい柔らかな印象があった。

 出久は、一瞬だけ彼女を見て、それから慌てて視線を逸らした。

 今日の式典が終わったら。

 自分は、彼女に伝える。

 ずっと言えなかったことを。

 何度も言おうとして、何度も飲み込んできた言葉を。

 そのために、昨夜は何度も頭の中で練習した。

 だが、いざ本人を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。

「出久くん?」

「は、はいっ!」

「どうしたの? さっきから、ちょっと変だよ?」

「い、いや! 何でもないよ!」

「本当に?」

「本当に!」

「……ふふっ」

 お茶子が笑った。

「そっか」

 その笑顔を見た瞬間、出久は思った。

 ああ。

 やっぱり、好きだ。

 ただ一緒にいたい。

 これからも、彼女が笑うところを見ていたい。

 困ったときには力になりたい。

 彼女が誰かを救おうとするなら、その背中を支えたい。

 そして、自分が苦しいときには、彼女に頼ってもいいと思いたい。

 それは、世界を救うことよりも難しく感じられた。

 なぜなら、世界を救うためなら、自分の命を差し出すことさえ迷わなかったのに。

 自分の気持ちを伝えることには、どうしようもなく臆病だったからだ。

「緑谷」

 不意に、背後から声がした。

「か、勝己!」

 振り返ると、爆豪勝己が腕を組んで立っていた。

 彼も式典用の服に身を包んでいる。

 相変わらず目つきは鋭いが、かつてのような剥き出しの苛立ちは、昔よりもずっと少なくなっていた。

「何だ、その顔」

「えっ?」

「今にも死ぬみてえな顔してんじゃねえ」

「いや、そんな顔してないよ!」

「してんだよ!」

 爆豪は舌打ちした。

「いいか、デク。今日は余計なことを考えんな」

「余計なこと?」

「世界中が集まってんだ。死んだ奴が戻ってきたなんて話まで出てる。何が起こるか分からねえ。まずは目の前のことを片づけろ」

「……うん」

「それからだ」

 爆豪は、一瞬だけお茶子を見た。

「言うことがあるなら、ちゃんと言え」

「……!」

「何年も何年も同じことで悩みやがって。見てるこっちがイライラすんだよ」

「か、勝己!」

「うるせえ! 俺は何も言ってねえ!」

 爆豪は踵を返した。

 その背中に、お茶子が声をかける。

「爆豪くん、ありがとう!」

「礼なんかいらねえ!」

 怒鳴り声が返ってくる。

 だが、その耳がほんの少し赤くなっていたことを、出久は見逃さなかった。

「……勝己、変わらないなあ」

「うん。でも、変わったところもあると思うよ」

 お茶子は、爆豪の背中を見ながら言った。

「昔より、みんなのことをちゃんと見てる」

「そうだね」

「出久くんも、だよ」

 出久は、彼女を見た。

「昔の出久くんは、誰かを助けるためなら、自分のことなんてどうでもいいって顔をしてた。でも今は……」

 お茶子は少し考えてから、言葉を続けた。

「今も、そういうところはあるけど。それでも、前よりは自分のことも考えてくれるようになったと思う」

「……そうかな」

「うん」

 彼女は微笑んだ。

「だから、今日も無事に帰ってきてね」

 その言葉が、胸に刺さった。

 無事に帰ってくる。

 簡単なようで、難しい約束。

 出久は一度、拳を握りしめた。

「うん。約束する」

 そのときだった。

 会場のスピーカーから、式典の開始を告げる音楽が流れ始めた。

 人々の話し声が、ゆっくりと静まっていく。

 壇上には、現職のヒーローたち、政府関係者、そして、かつての戦いを生き抜いた者たちが並んでいた。

 出久は、慰霊碑を見つめた。

 刻まれた名前の中には、直接知っている人の名前もある。

 共に戦った仲間。

 守れなかった人。

 自分を信じてくれた人。

 そして、自分の人生を変えた人。

 彼らが戻ってくることを願ったことは、何度もあった。

 夢の中で、もう一度会えたらと思ったこともある。

 だが。

 もし本当に戻ってきたら。

 自分は、何を言うのだろう。

 何を聞くのだろう。

 彼らは、自分を覚えているのだろうか。

 それとも、もう別の誰かになっているのだろうか。

 出久は目を閉じた。

 そして、静かに祈った。

 どうか。

 今日が、誰かにとっての希望でありますように。

 死者を悼む日が、死者に怯える日になりませんように。

 帰ってきた人たちが、本当に帰ってきた人たちでありますように。

 その祈りに、答える声はなかった。

 まだ。

     *

 午前十時。

 式典が始まった。

 最初に登壇したのは、現在のヒーロー社会を代表する人物だった。

 彼は、亡くなった者たちへの感謝と敬意を述べた。

 その言葉は、決して華やかなものではなかった。

 失われた命は戻らない。

 残された者たちの悲しみも、簡単に癒えるものではない。

 それでも、私たちは歩き続けなければならない。

 そのために、今日という日がある。

 会場に集まった人々は、静かに耳を傾けていた。

 そして、黙祷の時間が訪れる。

 数万人が、一斉に目を閉じた。

 風が吹いた。

 慰霊碑の前に供えられた花が揺れる。

 遠くで、鳥が鳴いた。

 誰もが、亡くなった者たちを思っていた。

 その瞬間。

 慰霊碑の裏側で、小さな音がした。

 ――こつ。

 石を叩くような音。

 誰も気づかなかった。

 ――こつ。

 もう一度。

 地面の下から、何かが石を叩いている。

 ――こつ。

 ――こつ。

 ――こつ。

 音が増えた。

 慰霊碑の周囲に埋め込まれた金属板が、かすかに震える。

 その金属板には、十三年前の戦いで命を落とした者たちの名前が刻まれていた。

 風が止まった。

 鳥の声も消えた。

 そして。

 慰霊碑の表面に、一本の亀裂が走った。

 ピシッ。

 誰かが息を呑んだ。

 亀裂は、ゆっくりと伸びていく。

 石の表面を横切り、刻まれた名前の一つを通り過ぎる。

 その名前は。

 白雲朧。

 相澤消太の、かつての友人の名前だった。

 相澤は、壇上の端で顔を上げた。

「……何だ?」

 その直後。

 慰霊碑の足元から、黒い霧が噴き出した。

「全員、下がれ!」

 相澤の声が響いた。

 同時に、会場の警備に当たっていたヒーローたちが動き出す。

 しかし、黒い霧は攻撃してこなかった。

 ただ、地面を這うように広がっていく。

 その霧の中から、何かが見えた。

 人影。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 やがて、十を超えた。

 人影は、ゆっくりと立ち上がった。

 白い服を着た男。

 古びた軍服を着た老人。

 制服姿の少女。

 誰もが、あり得ないほど静かな顔をしていた。

 その中の一人が、顔を上げる。

「……ここは?」

 男の声だった。

「俺は……」

 彼は、自分の手を見つめた。

「俺は、どうして……」

 隣にいた女性が、周囲を見渡す。

 そして、目の前に立っていた老婦人を見つけた瞬間。

 その顔が、驚愕に歪んだ。

「……お母、さん?」

 老婦人が、震える手で口を押さえた。

「そんな……」

「お母さん!」

 女性が駆け寄る。

 老婦人は、彼女を抱きしめた。

「どうして……どうして、あなたが……!」

「会いたかった……! ずっと、会いたかった……!」

 二人は泣き崩れた。

 会場のどこかで、悲鳴が上がった。

 別の場所では、若い男が自分の妻を見つけていた。

 妻は、十年前に交通事故で亡くなったはずだった。

 男は、呆然と彼女を見つめていた。

「……美咲?」

 女性が顔を上げる。

「あなた……?」

「嘘だろ……」

 男は、震える手を伸ばした。

「俺、ずっと……」

 彼女は、涙を浮かべて笑った。

「ただいま」

 男は、彼女を抱きしめた。

 その瞬間、周囲にいた人々が、一斉に声を上げた。

 泣き声。

 歓声。

 嗚咽。

 何度も呼ばれる名前。

 何年も、何十年も、二度と聞けないと思っていた声。

 そのすべてが、会場を満たしていった。

「……生き返った」

 誰かが呟いた。

「本当に、生き返ったんだ……!」

 人々は、黒い霧を恐れることを忘れた。

 ヒーローたちも、すぐには動けなかった。

 目の前で起きていることが、信じられなかったからだ。

 死者が戻ってきた。

 それは、人類が長い歴史の中で、幾度となく夢見てきた奇跡だった。

 失った人に、もう一度会える。

 謝れなかった言葉を伝えられる。

 最後に言えなかった「ありがとう」を、今度こそ届けられる。

 そんなことが、本当に可能になったのだ。

 そして。

 出久もまた、動けずにいた。

 黒い霧の向こうに、見覚えのある後ろ姿を見つけたからだ。

 背中。

 髪。

 肩の形。

 あの日、何度も夢に見た姿。

 その人影が、ゆっくりと振り返る。

「……緑谷?」

 出久の呼吸が止まった。

 その声を、忘れるはずがなかった。

 何度も聞いた。

 何度も、思い出した。

 そして、何度も。

 もう二度と聞けないのだと、自分に言い聞かせてきた。

「……ミッドナイト、先生?」

 そこに立っていたのは、十三年前の戦いで命を落としたヒーロー。

 香山睡。

 ミッドナイトだった。

     *

 時間が止まったように感じられた。

 ミッドナイトは、自分の姿を確かめるように両手を見下ろした。

 それから、会場を見渡す。

「……ここ、どこ?」

 彼女は困ったように笑った。

「私、確か……」

 言葉が途切れる。

 眉間に皺が寄る。

 記憶を探ろうとしているのだろう。

 だが、何かを思い出そうとするたび、彼女の表情は曇っていった。

「……あれ?」

 ミッドナイトは、自分の胸に手を当てた。

「私……何をしてたんだっけ?」

 出久は、足を踏み出した。

「先生……!」

 だが、声が出ない。

 嬉しい。

 信じられない。

 会いたかった。

 けれど、何よりも先に、恐怖があった。

 この人は、本当にミッドナイトなのか。

 彼女の記憶は戻るのか。

 彼女は、自分たちのことを覚えているのか。

 そして。

 もし、何も覚えていなかったら。

「……緑谷?」

 ミッドナイトが、もう一度名前を呼んだ。

 出久は、彼女の前に立った。

「はい……! はい、先生! 僕です!」

 声が震えた。

「緑谷出久です……!」

 ミッドナイトは、じっと彼を見つめた。

 そして。

 少しだけ、目を細めた。

「……大きくなったわね」

 出久の目から、涙がこぼれた。

 その言葉。

 その声。

 その笑い方。

 間違いない。

 少なくとも、今の彼にはそう思えた。

「先生……っ」

 出久は、泣きながら笑った。

「先生……!」

 ミッドナイトは、そんな彼を見て、困ったように微笑んだ。

「何よ。そんなに泣かなくてもいいじゃない」

 その瞬間。

 彼女の背後で、黒い霧が揺れた。

 誰も気づかなかった。

 出久も。

 お茶子も。

 相澤も。

 ミッドナイトの影が、彼女自身とは別の方向へ伸びていることに。

 その影の中で。

 何かが、目を開いた。

     *

「ミッドナイト……?」

 相澤は、呆然と呟いた。

 身体が動かなかった。

 頭では理解している。

 これは異常事態だ。

 会場全体に正体不明の現象が発生している。

 帰還者の中には、昨夜、緑谷を襲った男と同じような異常を持つ者がいるかもしれない。

 だから、警戒しなければならない。

 距離を取り、観察し、危険性を確認し、必要ならば対処する。

 教師として。

 ヒーローとして。

 その判断が必要だ。

 分かっている。

 分かっているのに。

 相澤の目は、彼女から離れなかった。

 十三年前。

 彼女は死んだ。

 自分たちの目の前で。

 どれほど手を伸ばしても届かなかった。

 どれほど叫んでも、戻ってこなかった。

 それなのに。

「……先生?」

 ミッドナイトが、相澤に気づいた。

 その顔が、ぱっと明るくなる。

「相澤先生!」

 彼女は、懐かしい調子で笑った。

「何その顔! 幽霊でも見たみたい!」

 相澤は、口を開いた。

 何か言おうとした。

 だが、声が出なかった。

 彼女は、生きている。

 少なくとも、目の前にいる。

 自分の名前を呼んだ。

 自分のことを覚えている。

 その事実だけで、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れそうになった。

「……お前は」

 ようやく、声が出た。

「お前は……」

 その先が続かない。

 ミッドナイトは、不思議そうに首を傾げた。

「何よ?」

 相澤は、拳を握りしめた。

「……本当に、香山なのか」

 ミッドナイトの笑顔が止まった。

 ほんの一瞬。

 彼女の瞳が、揺れた。

「……え?」

 周囲の歓声が、少しずつ遠くなっていく。

「先生……?」

「お前は、本当に……」

 相澤は言葉を選ぼうとした。

 だが、選べなかった。

 目の前の人間に向かって、本人なのかと尋ねる。

 それが、どれほど残酷なことなのか。

 分かっていた。

 それでも、聞かずにはいられなかった。

「……本当に、ミッドナイトなのか」

 ミッドナイトは、何も答えなかった。

 代わりに、自分の胸に手を当てた。

「……私、は」

 その声が、かすれた。

「私は……香山、睡……」

 彼女は、自分の名前を繰り返した。

「香山睡……」

 その瞬間。

 彼女の瞳の奥で、黒い光が瞬いた。

 出久は、それを見逃さなかった。

「先生、下がって!」

 叫んだ。

 だが、遅かった。

 ミッドナイトの背後から、黒い霧が噴き出した。

 その霧は、彼女の身体を包み込むように広がっていく。

「……っ!」

 ミッドナイトが、苦しそうに胸を押さえた。

「何……これ……?」

 彼女の身体が、ぐらりと傾く。

 相澤が駆け寄ろうとした。

「香山!」

 だが、出久が叫んだ。

「触らないでください!」

 黒い霧。

 昨夜の男。

 病院から消えた少女。

 それらに共通していたもの。

 記憶を侵食し、本人の意志を揺さぶり、別の何かを内部に宿らせる現象。

 もし、同じものなら。

 不用意に触れれば、相澤まで巻き込まれるかもしれない。

 だが。

 ミッドナイトは、苦しみながら手を伸ばしていた。

「……相澤、先生……」

 その手が、震えている。

「……助けて……」

 相澤の顔が歪んだ。

 彼は、一歩踏み出した。

「……っ、クソ!」

 抹消を発動する。

 赤い目が、ミッドナイトを見据えた。

 だが。

 黒い霧は、消えなかった。

 彼女の身体を包む異常は、何の影響も受けていない。

「……やっぱり、個性じゃない!」

 出久が叫ぶ。

 そのときだった。

 ミッドナイトが、顔を上げた。

 彼女の瞳から、涙が流れていた。

 そして、その口が。

 彼女自身の声とは思えないほど低い声で、言葉を紡いだ。

「――ああ、そうか」

 黒い霧が、波打つ。

「ここが、十三年目の世界か」

 会場が、静まり返った。

 ミッドナイトの顔に、笑みが浮かんだ。

 それは、彼女が普段見せていた、明るく、少し挑発的な笑みとは違っていた。

 何もかもを見下ろすような。

 すべてを知っているかのような。

 ひどく、冷たい笑みだった。

「ずいぶんと賑やかになったものだ」

 その声を聞いた瞬間、出久の背筋に悪寒が走った。

 目の前にいるのは、ミッドナイトだ。

 彼女の顔をしている。

 彼女の身体をしている。

 彼女の記憶を持っている。

 けれど。

 その奥にいる何かは、違う。

「……お前は、誰だ」

 出久が問う。

 黒い霧の中で、ミッドナイトが微笑んだ。

「誰、か」

 彼女は、自分の指先を眺めた。

「それを決めるのは、君たちなのかな?」

「質問に答えろ!」

 相澤の声が響く。

 黒い霧が、ゆっくりと広がった。

 そして、彼女は言った。

「私は、まだ何者でもない」

 その言葉と同時に、会場の空気が変わった。

 慰霊碑の周囲に現れていた帰還者たちが、一斉に動きを止める。

 泣いていた者。

 抱きしめ合っていた者。

 自分の名前を思い出そうとしていた者。

 彼らが、同時に顔を上げた。

 まるで、誰かの声を聞いたかのように。

 そして、その全員が。

 出久の方を向いた。

「……え?」

 出久は、息を呑んだ。

 何十人もの人間が、こちらを見ている。

 その目は、空虚だった。

 ある者は口を開き。

 ある者は、首を傾げ。

 ある者は、何かを思い出そうとするように額を押さえている。

 そして。

 彼らの口から、同じ言葉が漏れ始めた。

「……返せ」

 出久の身体が、強張った。

「……返せ」

「……返せ」

「……返せ」

 昨夜の男と同じ言葉。

 あの黒い霧に包まれた男が、何度も繰り返していた言葉。

「俺の人生を」

「私の人生を」

「僕の人生を」

「……返せ」

 声が重なる。

 会場にいた人々が、恐怖に顔を歪めた。

「な、何だ……?」

「どういうことだ……?」

「この人たちは、何を……?」

 黒い霧が、慰霊碑から空へと伸びていく。

 まるで、世界の天井を突き破ろうとする巨大な樹木のように。

 その枝は、空を覆い。

 その根は、地面へと伸びていく。

 そして、霧の中心で。

 ミッドナイトが、静かに笑った。

「さあ」

 彼女は、出久を見た。

「始めようか、緑谷出久」

「……!」

「君たちが、ずっと望んでいたことを」

 出久は、拳を握りしめた。

「……死者を、蘇らせることか」

「そう」

 彼女は頷いた。

「死者を取り戻すこと」

 黒い霧が、彼女の背後で蠢く。

「失ったものを、取り戻すこと」

 その言葉は、優しかった。

 あまりにも優しかった。

 だからこそ、出久には分かった。

 これは、誘惑だ。

 人が最も弱くなる瞬間を、正確に突いてくる言葉。

 失った人に、もう一度会いたい。

 やり直したい。

 あのとき、違う選択をしていれば。

 あのとき、手を伸ばせていれば。

 そんな、誰もが一度は抱いたことのある願い。

 その願いを、否定できる人間などいない。

「……違う」

 出久は、低く呟いた。

「何?」

「死者を取り戻すことと、死者を救うことは……同じじゃない」

 ミッドナイトの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。

「なるほど」

 彼女は、楽しそうに言った。

「君は、そこに気づいたのか」

「……お前は、誰なんだ」

 出久は、もう一度問うた。

「死神なのか? それとも……」

 ミッドナイトは、答えなかった。

 代わりに、彼女の背後にあった黒い霧が、ゆっくりと形を変えた。

 巨大な目。

 無数の触手にも似た影。

 そして、その奥に広がる、星のない暗黒。

 そこには、何もなかった。

 何もないはずなのに。

 出久は、確かに感じた。

 何かが、こちらを見ている。

 人間の理解できる大きさではない何かが。

 この世界を。

 この時代を。

 そして、人類そのものを。

 観察している。

「……まだ、早い」

 ミッドナイトが呟いた。

「まだ、君たちは知らない」

 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。

「自分たちが、何を受け取ったのかを」

 次の瞬間。

 黒い霧が爆発した。

     *

「全員、避難しろォォォッ!」

 爆豪勝己の声が、会場を切り裂いた。

 爆発音。

 悲鳴。

 崩れ落ちる石材。

 会場を覆っていた黒い霧が、一気に広がった。

 ヒーローたちは、瞬時に動き出す。

「こちら警備班! 会場北側に異常発生! 帰還者の一部が暴走しています!」

「負傷者を優先しろ! 避難経路を確保!」

「子供たちを先に逃がして!」

 混乱の中で、麗日お茶子が叫んだ。

 彼女は、崩れかけた慰霊碑の破片に向かって走る。

 瓦礫の下には、数人の一般市民がいた。

「今、助けるから!」

 指先が瓦礫に触れる。

 無重力。

 巨大な石材が、ふわりと浮かび上がった。

 お茶子は、周囲の人々に声をかける。

「立てますか? 大丈夫ですか? ゆっくりでいいから、こっちへ!」

 そのとき、黒い霧の中から一人の男が飛び出した。

 男の身体は、異様に膨張していた。

 腕が長く伸び、指先が刃物のように変形している。

「……返せ」

 男が、呻いた。

「返せ……返せ……!」

 彼は、お茶子へ向かって突進した。

「危ない!」

 出久が飛び込んだ。

 男の腕が振り下ろされる。

 出久は、身を捻ってかわした。

 拳が空を切り、地面に叩きつけられる。

 コンクリートが砕けた。

 個性の力ではない。

 少なくとも、普通の個性の発動とは違う。

 出久は、男の動きを観察した。

 筋肉の膨張。

 骨格の変形。

 皮膚の下を走る黒い線。

 そのすべてが、何か別のものに書き換えられているようだった。

「……落ち着いてください!」

 出久は叫んだ。

「あなたは、何を取り戻したいんですか!」

「……返せ!」

 男が叫ぶ。

「俺の人生を! 俺の時間を! 俺の……!」

 声が途切れた。

 男は、自分の手を見つめた。

 その表情が、歪む。

「……俺は」

 彼は、震える声で呟いた。

「俺は、何を……?」

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、男の目に人間らしい光が戻った。

 出久は、その瞬間を逃さなかった。

「あなたの名前は?」

「……名前?」

「そうです。あなたの名前を教えてください!」

 男は、必死に考えた。

 思い出そうとしていた。

 自分が誰だったのか。

 どこで生まれ、誰を愛し、何を失ったのか。

 だが。

「……わからない」

 男の顔が、恐怖に染まった。

「わからない……!」

 彼は頭を抱えた。

「俺は、誰だ……?」

 黒い亀裂が、首筋に走る。

 出久は、一歩踏み出した。

「大丈夫です。ゆっくりでいい。あなたが誰なのか、一緒に――」

「違う」

 男が呟いた。

「違う……違う……!」

 その身体が、大きく震えた。

「俺は、俺じゃない……!」

 黒い霧が、男の身体から噴き出した。

 その瞬間、出久は理解した。

 この男は、ただ暴走しているのではない。

 何かに、抵抗している。

 自分の身体を奪おうとする何かに。

 自分の記憶を奪おうとする何かに。

 そして。

 自分という存在そのものを、塗り潰そうとする何かに。

「……嫌だ」

 男が、泣きながら呟いた。

「嫌だ……! 俺は、まだ……!」

 彼は、出久へ手を伸ばした。

「助けてくれ……!」

 出久は、迷わなかった。

「はい!」

 彼は、男の手を掴んだ。

「必ず、助けます!」

 その瞬間。

 出久の視界が、真っ黒に染まった。

     *

 そこは、どこでもなかった。

 空もない。

 地面もない。

 光も、音もない。

 ただ、暗闇だけがあった。

 出久は、その中に立っていた。

「……ここは?」

 声が響かない。

 自分の身体があることは分かる。

 だが、足元に地面があるのかさえ、分からなかった。

 そのとき。

 目の前に、一人の少年が立っていた。

 緑色の髪。

 大きな瞳。

 痩せた身体。

 少し猫背の姿勢。

 出久は、息を呑んだ。

「……僕?」

 少年は、出久を見上げていた。

 幼い頃の自分。

 個性がなく、ヒーローになれないと告げられ、それでも夢を諦められなかった頃の自分。

 少年は、静かに尋ねた。

「ねえ」

 その声は、懐かしかった。

「君は、ヒーローになれた?」

 出久は、答えようとした。

 自分はヒーローになった。

 何度も戦った。

 多くの人を救った。

 世界を救った。

 そして今も、ヒーローであり続けようとしている。

 そう答えたかった。

 だが、声が出なかった。

 少年は、悲しそうに笑った。

「……そっか」

「違う、僕は……!」

「じゃあ、どうして泣いてるの?」

 出久は、言葉を失った。

 自分が泣いていることに、初めて気づいた。

 少年が、一歩近づく。

「どうして、そんなに怖いの?」

「……」

「どうして、また一人で全部を背負おうとしてるの?」

 出久は、唇を噛んだ。

 答えられなかった。

 少年の背後に、黒い影が広がっていく。

 影は、ゆっくりと形を変えた。

 巨大な目。

 無数の輪郭。

 理解できない何かの気配。

 そして、その奥から。

 声がした。

 男とも、女とも、子供とも、老人ともつかない声。

 遠いのに、耳元で囁かれているような声。

 無数の声が、一つに重なったような声。

『お前は、もう一度、選ばなければならない』

 出久は、振り返った。

「……誰だ!」

『力を失ったお前は、何を選ぶ?』

「……っ!」

『誰かを救うために、再び自分を犠牲にするのか』

 その問いが、暗闇の中に沈んでいった。

 出久は、すぐには答えなかった。

 目の前にいるのは、幼い頃の自分だった。

 個性がないと告げられた日。

 テレビの中でオールマイトが笑っていた日。

 何度も転んで、何度も立ち上がって、それでもヒーローになる夢を捨てられなかった日。

 そして。

 誰かを救うためなら、自分のことなどどうなっても構わないと、本気で信じていた頃の自分。

 少年は、じっと出久を見つめていた。

「……答えられないんだね」

「違う」

 出久は、顔を上げた。

「答えられないんじゃない。……簡単には答えられないんだ」

『ほう』

 暗闇の奥で、声が笑った。

『何が違う?』

「僕は……」

 出久は、自分の手を見た。

 かつて、ワン・フォー・オールの力が宿っていた手。

 何度も骨を砕き、それでも前へ伸ばした手。

 その力は、もうない。

 今の自分に残っているのは、積み重ねてきた経験と、誰かを救いたいという気持ち。そして、仲間たちと一緒に歩いてきた時間だけだ。

「……僕は、誰かを救うために戦うことをやめるつもりはない」

『ならば、答えは同じではないか』

「でも!」

 声が、暗闇に響いた。

「自分を犠牲にすることと、誰かを救うことは、同じじゃない!」

 少年が、目を見開いた。

 出久自身も、その言葉を口にして初めて気づいたように、わずかに息を呑んだ。

 そうだ。

 ずっと、間違えていたのかもしれない。

 自分が傷つけば、誰かが助かる。

 自分が耐えれば、誰かが笑える。

 自分が倒れるまで手を伸ばせば、いつか誰かに届く。

 それは、確かに間違いではなかった。

 実際に、彼はそうやって多くの命を救ってきた。

 けれど。

 そのやり方しかないと決めつけてしまえば。

 自分が傷つくことを前提にしてしまえば。

 自分以外の誰かが手を伸ばしてくれる可能性を、最初から捨ててしまうことになる。

 そして何より。

 自分が救われる可能性まで、否定することになる。

「……僕は、誰かを救いたい」

 出久は、ゆっくりと言った。

「それは、今も変わらない。これからも、変わらないと思う」

 暗闇の奥で、黒い影が揺れた。

「でも、僕一人で全部を救えるなんて、もう思っていない」

 出久は、顔を上げた。

「僕にはできないことがある。届かない場所もある。助けを求める声に、気づけないことだってある」

 それは、認めたくない現実だった。

 けれど、認めなければならない現実でもあった。

「だから、仲間がいるんだ」

 爆豪の顔が浮かんだ。

 轟の顔が浮かんだ。

 飯田の顔が、麗日の顔が、八百万の顔が浮かんだ。

 相澤の顔が。

 そして、今も自分のことを信じてくれている、たくさんの人々の顔が。

「僕が届かないところには、誰かが手を伸ばしてくれる。僕が倒れたら、起こしてくれる人がいる。僕が間違えたら、間違えたって言ってくれる人がいる」

 出久は、小さく笑った。

「……昔の僕は、それをちゃんと信じられていなかったのかもしれない」

 少年は、何も言わなかった。

「みんなを救いたいと思うあまりに、みんなが僕を救ってくれることを、考えられなかったんだ」

 出久の声が、わずかに震えた。

「だから……怖いんだと思う」

『何が怖い?』

「また、失うことが」

 即答だった。

 その答えだけは、どうしても取り繕えなかった。

「大切な人がいなくなることが。目の前で誰かが傷つくことが。助けを求める声が聞こえたのに、何もできないことが」

 出久は、唇を噛んだ。

「それに……」

 言葉が詰まった。

 喉の奥が熱い。

 それでも、今度は目を逸らさなかった。

「自分が、もう一度、何もできない人間になることが……怖いんだ」

 その瞬間。

 暗闇のどこかで、何かが軋んだ。

 まるで、巨大な扉の向こう側で、誰かが笑ったようだった。

『正直だな』

 声は、満足そうに響いた。

『ならば、与えよう』

 出久の目の前に、光が現れた。

 緑色の光だった。

 懐かしい光。

 稲妻のように走り、身体を包み、世界を変える力。

 ワン・フォー・オール。

 その残滓を思わせる光が、出久の手のひらに集まっていく。

「……っ!」

 出久は、思わず手を引いた。

 光は消えなかった。

 むしろ、彼の反応を楽しむように、指先から腕へと広がっていく。

『望んでいたのだろう?』

 声が囁いた。

『もう一度、力が欲しいと』

 光の中に、映像が浮かんだ。

 崩れ落ちる建物。

 瓦礫の下にいる子供。

 迫り来る敵。

 間に合わない距離。

 かつてなら、飛び込めた。

 かつてなら、力で道を切り開けた。

 かつてなら、自分の身体が壊れることを恐れずに、手を伸ばせた。

 だが、今は違う。

 今の自分には、かつてのような力がない。

 走っても間に合わないことがある。

 腕を伸ばしても届かないことがある。

 どれほど頭を働かせても、どうにもならない瞬間がある。

 その現実を、出久は何度も突きつけられてきた。

『力さえあれば、救える』

 光が強くなる。

『力さえあれば、失わずに済む』

 少年が、出久の手を見つめた。

『力さえあれば、お前は再び、かつての自分に戻れる』

 出久は、光を見つめた。

 欲しくないと言えば、嘘になる。

 もう一度、力が欲しい。

 そう願ったことは、一度や二度ではなかった。

 目の前で誰かが危険に晒されたとき。

 自分の判断が遅れたとき。

 かつての仲間たちが傷つき、それでも自分にできることが限られていると知ったとき。

 何度も、思った。

 あの力があれば。

 もう一度、ワン・フォー・オールがあれば。

 だが。

「……違う」

 出久は、呟いた。

『何が違う?』

「僕は、かつての自分に戻りたいわけじゃない」

 光が揺れた。

「確かに、力は欲しい。あれば救える命もある。できることも増える」

 出久は、自分の手を握りしめた。

「でも……力がなければヒーローになれないって、僕はもう、そんなことを言いたくないんだ」

 少年が、ゆっくりと顔を上げた。

「……出久?」

 初めて、少年が彼の名前を呼んだ。

 出久は、その声に微笑んだ。

「昔の僕は、個性がないからヒーローになれないって言われた。でも、それでも諦められなかった」

 彼は、少年の前にしゃがみ込んだ。

「オールマイトに憧れて。誰かを救いたいと思って。自分には何もないって分かっていても、それでも……手を伸ばしたかった」

 少年は、黙って聞いていた。

「そして、いろんな人に助けてもらった。力をもらった。勇気をもらった。僕一人じゃ、絶対にたどり着けなかった場所まで、みんなが連れてきてくれた」

 出久は、少年の肩に手を置いた。

「だから、今の僕が力を失ったからって、あの頃の夢まで失ったわけじゃない」

 光が、音もなく砕けた。

『……』

「僕は、僕のままで進む」

 出久は、まっすぐに暗闇を見据えた。

「誰かを救うために、自分を犠牲にするんじゃない。誰かと一緒に、誰かを救うんだ」

 しばらく、何の音もしなかった。

 やがて。

 少年が、ゆっくりと笑った。

「……そっか」

 その笑顔は、かつての自分が夢を諦めなかった日の顔に似ていた。

「じゃあ、僕の夢は……ちゃんと続いてるんだね」

「うん」

 出久は、頷いた。

「続いてるよ」

 少年は、少しだけ安心したように目を細めた。

「よかった」

 そして。

 その身体が、光になって消え始めた。

「待って!」

 出久は、思わず手を伸ばした。

「君は……君は、どうなるの?」

 少年は、振り返った。

「どうなるって?」

「だって、君は……僕なんだろう?」

「うん」

「だったら……!」

 出久は、言葉を探した。

 もう一度会えなくなるのが、怖かった。

 この暗闇の中で、幼い自分まで失ってしまうような気がした。

 少年は、そんな出久の気持ちを見透かしたように笑った。

「大丈夫だよ」

「……」

「僕は、ずっと君の中にいるから」

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

「君が忘れない限り。君が、自分の夢をなかったことにしない限り」

 少年は、最後にもう一度、笑った。

「だから、行っておいでよ」

 光が、暗闇を満たしていく。

「今度は、一人じゃないんだから」

 その瞬間。

 出久は、確かに聞いた。

 遠くから、自分を呼ぶ声を。

「出久くん!」

 麗日お茶子の声だった。

 今度こそ。

 出久は、その声に向かって走り出した。

     *

 暗闇が、砕け散った。

 目の前に広がったのは、黒い霧に包まれた追悼式典の会場だった。

 出久は、息を切らして立っていた。

 目の前では、異形と化した帰還者が、苦しそうに身体を震わせている。

 出久の手は、まだその男の手を握っていた。

「……緑谷くん!」

 お茶子が駆け寄ってくる。

「大丈夫!? 何があったの!?」

「僕は大丈夫! それより、佐藤さんが……!」

 出久は、男を見た。

 黒い亀裂が、少しずつ薄れている。

 男の顔に、困惑が浮かんでいた。

「……俺は」

 男が、かすれた声で呟く。

「俺は……佐藤、健二……」

「はい!」

 出久は、力強く頷いた。

「佐藤健二さんです!」

 男の目から、涙が流れた。

「……俺は、まだ……生きていたかった」

「……はい」

「死にたく、なかった……」

「……はい」

「……なのに、俺は……」

 男の声が、途切れた。

 黒い霧が、再び身体を包み込む。

 出久は、手を離さなかった。

「佐藤さん!」

 男の瞳に、黒い光が宿る。

 その口が、ゆっくりと開いた。

「……見つけた」

 声が変わった。

「やはり、お前は違う」

 出久の背筋が凍った。

 男の顔が、歪む。

「お前の中には、もう何もないはずなのに」

 黒い霧が、出久の腕を這い上がっていく。

「なぜ、まだ光っている?」

「……何を言ってるんだ」

「お前は、失った」

 男は、笑った。

「力を。役割を。かつての自分を」

 黒い霧が、出久の胸元へと伸びる。

「それなのに、なぜ、まだ立ち上がる?」

 出久は、答えなかった。

 答える必要がなかった。

 彼は、男の手を強く握った。

「……助けたいからです」

 男の笑みが止まった。

「誰かが、助けを求めているから」

 出久は、まっすぐに彼を見つめた。

「それだけじゃ、駄目ですか?」

 黒い霧が、ぴたりと止まった。

 男の瞳が、大きく見開かれる。

 そして。

 その奥にいる何かが、初めて、明確な戸惑いを見せた。

『――理解できない』

 声が、出久の頭の中に直接響いた。

『なぜ、力を持たぬ者が、なおも立つ』

 出久は、男の手を握ったまま答えた。

「力があるから、立ち上がるんじゃない」

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

「立ち上がりたいと思うから、立ち上がるんです」

 黒い霧が震えた。

「そして、僕が倒れたら……誰かが、きっと手を伸ばしてくれる」

 出久は、隣にいるお茶子を見た。

 彼女は、不安そうな顔をしながらも、確かにそこに立っていた。

 彼を一人にしないために。

 誰かを救うために。

 自分自身も、傷つくことを恐れながら。

 それでも、手を伸ばすために。

「……僕は、それを信じています」

 次の瞬間。

 男の身体から、黒い霧が一気に噴き出した。

「緑谷くん!」

 お茶子が叫ぶ。

 出久は、男を庇うように前へ出た。

 だが、霧は彼を襲わなかった。

 むしろ、出久の身体を避けるように、左右へと分かれていった。

 黒い霧の中心で、何かが軋む。

 まるで、閉じた扉を無理やりこじ開けようとしているような音だった。

 そして。

 男の口から、最後の言葉が漏れた。

「……嫌だ」

 その声は、もう異形のものではなかった。

 ただの、一人の人間の声だった。

「……俺は、俺でいたい……」

 出久は、強く頷いた。

「はい」

「……俺の人生を……返してくれ……」

「……はい」

 出久は、涙をこらえながら答えた。

「あなたの人生を、取り戻しましょう」

 男は、目を閉じた。

 その瞬間。

 黒い霧が、空へと吸い込まれるように消えていった。

 男の身体が崩れ落ちる。

 出久は、彼を受け止めた。

「佐藤さん!」

 男は、もう動かなかった。

 だが。

 その顔には、ほんのわずかな安らぎがあった。

 出久は、しばらくの間、その身体を抱きしめていた。

 やがて、相澤が駆け寄ってくる。

「緑谷! 無事か!」

「……はい」

「何があった?」

 出久は、男を見下ろした。

「……分かりません。でも、この人の中にいた何かが、僕を見つけたと言っていました」

「お前を?」

「はい」

 相澤の表情が険しくなる。

「どういう意味だ」

「……それも、分かりません」

 出久は、首を振った。

「ただ……」

 彼は、自分の手を見つめた。

 そこには、何もなかった。

 力も。

 光も。

 特別なものなど、何一つ。

 それなのに。

 先ほどの暗闇で感じた、あの奇妙な気配が、まだ胸の奥に残っていた。

 自分は、何かに見られている。

 ずっと、何かに。

 そして、それは。

 自分がワン・フォー・オールを失ったことさえ、知っている。

「……先生」

 出久は、静かに言った。

「今回の事件は、死者が蘇っただけの話じゃないと思います」

「ああ」

 相澤は、頷いた。

「俺もそう思う」

 二人は、会場を見渡した。

 人々は避難を続けていた。

 ヒーローたちは、帰還者たちを保護し、異常の有無を確認している。

 そして、慰霊碑は。

 黒い霧に覆われたまま、静かに立っていた。

 そこに刻まれた名前の一つ。

 白雲朧。

 その文字の上に、黒い亀裂が走っていた。

 相澤は、まだそれに気づいていなかった。

     *

 南極大陸。

 人類の観測網が届かない、氷の下。

 そこに、女がいた。

 彼女は、暗闇の中で、無数の光を見つめていた。

 世界各地で蘇った死者たちの光。

 それぞれが、異なる色を持っている。

 懐かしい人に再会した喜び。

 失った人生への怒り。

 自分が何者なのか分からない恐怖。

 そして。

 死んだはずの自分が、再び生きていることへの戸惑い。

 女は、そのすべてを眺めていた。

「……興味深い」

 彼女の唇が、わずかに動く。

「死を越えてなお、意志は残る」

 指先が、宙をなぞった。

 その動きに合わせて、一つの光が浮かび上がる。

 緑色。

 弱く。

 しかし、確かに輝いている光。

「緑谷出久……」

 女は、その名前を口にした。

「君は、まだ何も知らない」

 彼女の背後で、巨大な影が揺れた。

 それは、人の形をしていなかった。

 形がないというよりも、形という概念そのものが、そこには存在していないようだった。

 女は、その影に向かって頭を垂れた。

「観測を継続します」

 返事はなかった。

 そもそも、返事をする必要などなかった。

 そこにいるものは、彼女の言葉を聞いている。

 聞いているというよりも。

 彼女という存在を通じて、世界を見ている。

 女は、再び光を見つめた。

「……あなたが人類に与えたもの」

 彼女は、静かに呟いた。

「その答えを、彼らは自分たちで見つけられるでしょうか」

 暗闇の奥で。

 何かが、微かに脈打った。

 星のない空間に、宇宙の始まりよりも古い沈黙が満ちていく。

 その沈黙の中で。

 女は、初めて笑った。

「楽しみですね」

 彼女は、手を下ろした。

「十三年目の世界が、どこへ向かうのか」

 その声は、氷の底へと消えていった。

 そして、世界のどこかで。

 もう一人の死者が、目を開けた。

     *

 午後三時。

 追悼式典は、中止された。

 会場周辺には緊急避難区域が設けられ、負傷者は近隣の病院へ搬送された。

 幸い、今回の騒動による死者は確認されていない。

 だが、帰還者の一部が異常な変化を示したこと。そして、その変化が既存の個性では説明できないことは、もはや疑いようがなかった。

 世界各国の政府は、緊急声明を発表した。

 死者の帰還は、現在も継続している。

 帰還者の保護を最優先とする。

 敵対行動が確認されない限り、帰還者への攻撃を禁ずる。

 そして、異常現象については、専門機関による調査を進める。

 だが。

 それらの声明が、どれほど人々を安心させられたのかは、分からない。

 世界は、奇跡を目の当たりにした。

 そして同時に、その奇跡が人間の理解を超えた何かと繋がっていることを知った。

 死者は、帰ってきた。

 しかし。

 帰ってきた者たちは、本当に、以前と同じ人間なのだろうか。

 失われた記憶は、取り戻せるのだろうか。

 身体を侵食する黒い霧は、何なのだろうか。

 そして、なぜ。

 その異常は、緑谷出久に関心を示したのだろうか。

 答えは、まだ見つからない。

 ただ一つ、確かなことがあった。

 世界は、もう昨日までの世界ではない。

     *

 夕暮れ。

 雄英高校の屋上。

 出久は、一人で空を見上げていた。

 今日、彼は死者と再会した。

 ミッドナイトに会えた。

 その事実は、今でも胸の奥を温かくしている。

 けれど。

 同時に、恐ろしかった。

 彼女は、本当に彼女なのか。

 あの声は、何だったのか。

 暗闇の中で見たものは、ただの幻だったのか。

 それとも。

 自分は、何かに選ばれようとしているのか。

「……出久くん」

 背後から声がした。

 振り返ると、お茶子が立っていた。

「お茶子ちゃん……」

 彼女は、隣まで歩いてきた。

 そして、出久の顔を見上げた。

「大丈夫?」

「……うん」

「嘘」

 出久は、苦笑した。

「……分かる?」

「分かるよ」

 お茶子は、彼の隣に立った。

「ずっと一緒にいたんだから」

 その言葉が、胸に染みた。

 出久は、しばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと言った。

「……怖かった」

「うん」

「何が起こっているのか、全然分からない。死んだ人が戻ってきて、でも、その中には別の何かがいるかもしれなくて……」

「うん」

「ミッドナイト先生にも会えたのに、喜んでいいのか、分からなくなって……」

 出久は、拳を握りしめた。

「……僕は、どうしたらいいんだろう」

 お茶子は、すぐには答えなかった。

 彼女もまた、今日の出来事に恐怖を感じていた。

 死者が帰ってきた。

 その中には、救いを求める人もいる。

 誰かに会いたいだけの人もいる。

 それなのに、彼らの中に何かが入り込み、その人生を奪おうとしている。

 そんなことが許されていいはずがない。

 けれど、何をすればいいのか。

 どうすれば、彼らを救えるのか。

 彼女にも、まだ分からなかった。

 だからこそ。

 彼女は、出久の手を取った。

「……一緒に考えよう」

「え……?」

「私も、分からないよ。どうしたらいいのかなんて、まだ全然分からない」

 お茶子は、少しだけ笑った。

「でも、分からないからって、一人で抱え込まなくてもいいやん」

 出久は、彼女を見つめた。

「出久くんが一人で考えても分からないことなら、私も一緒に考える。二人で分からなかったら、みんなで考える」

 彼女は、手に力を込めた。

「それでも分からなかったら……そのときは、また考えよう」

「……お茶子ちゃん」

「うん?」

「……ありがとう」

 出久は、微笑んだ。

 その笑顔には、まだ不安が残っていた。

 だが、もう一人で抱え込もうとはしていなかった。

 お茶子は、それを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。

 そして。

 彼女は、ふと思い出したように言った。

「……そういえば、出久くん」

「うん?」

「昨日、式典の後に話したいことがあるって言ってたよね?」

 出久の身体が、硬直した。

「あ……」

「今日、式典は中止になっちゃったけど」

 お茶子は、少しだけ頬を赤くした。

「……その話、今でも聞いていい?」

 出久は、目を見開いた。

 世界が変わった。

 死者が戻ってきた。

 人知を超えた何かが、人類を観察している。

 明日、何が起こるのかさえ分からない。

 そんな状況で。

 自分は、まだ。

 彼女に、伝えたいことがある。

 彼女と、一緒にいたい。

 これから先、どんな世界になっても。

 隣で笑っていてほしい。

 そして、自分も。

 彼女の隣で、笑っていたい。

「……うん」

 出久は、頷いた。

「話したい」

 心臓が、うるさいほどに鳴っていた。

「ちゃんと、伝えたいんだ」

 お茶子は、微笑んだ。

「……うん」

 二人は、夕焼けの空を見上げた。

 遠くで、街の明かりが灯り始めている。

 世界は変わってしまった。

 それでも、変わらないものがある。

 誰かを想う気持ち。

 誰かと一緒にいたいという願い。

 そして。

 誰かを救いたいという、祈り。

 そのすべてが、今も人々の中に残っている。

 だからこそ。

 出久は、まだ諦めなかった。

 たとえ、世界がどれほど変わってしまっても。

 たとえ、死者が帰ってきても。

 たとえ、その背後に、神と呼ぶしかない存在がいたとしても。

 自分たちの未来を、誰かに決めさせるつもりはなかった。

     *

 同じ時刻。

 世界のどこか。

 誰もいない病室で、一人の少女が目を覚ました。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 窓の外には、夕暮れの空。

 少女は、ゆっくりと身体を起こした。

「……ここ、どこ?」

 声が、震えていた。

 自分の名前が分からない。

 自分が何歳なのかも、分からない。

 どうしてここにいるのかも、分からない。

 ただ。

 誰かに会いたかった。

 ずっと、誰かを探していた。

「……お母さん?」

 少女は、呟いた。

 その瞬間。

 頭の奥で、何かが囁いた。

『――見つけた』

 少女は、顔を上げた。

「……誰?」

 返事はない。

 ただ、窓ガラスに映った自分の顔が。

 ほんの一瞬だけ。

 自分の意思とは無関係に、笑った。

     *

 南極大陸。

 氷の下。

 女は、再び目を閉じた。

 世界中に散らばる光の中で、いくつかが黒く染まっていく。

 いくつかは、抵抗している。

 いくつかは、完全に沈黙した。

 そして。

 一つの光だけが、黒い侵食を拒み続けていた。

 緑色の光。

 弱く、儚い。

 それでも、消えない光。

「……緑谷出久」

 女は、もう一度その名を呼んだ。

「君は、何を選ぶ?」

 その問いに、答える者はいなかった。

 まだ。

 だが、彼女は知っていた。

 この世界には、まだ多くの選択が残されている。

 死者を取り戻すのか。

 死者を救うのか。

 力を求めるのか。

 力を失ったまま進むのか。

 神に未来を委ねるのか。

 人間自身が未来を選ぶのか。

 そして。

 誰かを救うために、自分を犠牲にするのか。

 それとも。

 誰かと一緒に、未来を救うのか。

 女は、微笑んだ。

「……楽しみですね」

 その背後で、星のない暗闇が広がっていく。

 世界の果てよりも遠く。

 時間の始まりよりも古い場所で。

 何かが、ゆっくりと目を開けた。

 それは、まだ動かない。

 まだ語らない。

 ただ、観測している。

 人類が、どこまで進化するのかを。

 人類が、何を選ぶのかを。

 そして。

 人類が、自らの意志で神の問いに答えられる日が来るのかを。

 その答えを待つように。

 宇宙の奥底で、静寂が続いていた。

 ――第五月話・了。

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