午前五時四十二分。
雄英高校の地下危機管理室には、朝日よりも先に、冷たい電子音が満ちていた。
壁一面を覆う大型モニター。その画面には、世界各地で発生した異常事例が、赤い点となって表示されている。
日本国内だけで、確認された死者の帰還は千を超えていた。
いや、正確には――確認できたものだけで、千を超えていた。
戸籍上は死亡している人間が、突然、自宅の前に立っている。
十年前に火葬されたはずの人間が、病院の待合室で家族の名前を呼んでいる。
戦場で命を落とした兵士が、かつての所属部隊の前に現れている。
そして、その中には。
生きていた頃の記憶をほとんど持たず、周囲の人間を襲い始めた者もいた。
「……笑えないな」
相澤消太は、モニターに映る報告書を睨んだ。
寝不足の目を擦る気にもなれない。
昨夜から一睡もしていなかった。
その隣では、プレゼント・マイクが珍しく口を閉ざしている。
普段なら、どれほど深刻な状況でも何かしら言葉を発する男だ。冗談を飛ばすこともあれば、わざと大きな声を出して周囲の空気を変えることもある。
だが、今朝の彼は違った。
画面に表示された一枚の写真から、目を離せずにいた。
写真に写っているのは、白いベッドだった。
その上に、少女が眠っている。
年齢は十六歳。
死亡時刻は十年前。
病名は、急性白血病。
生前の名前は、白石結衣。
昨夜、病院で目を覚まし、その後、姿を消した少女だ。
「……この子、十年前に死んでるんだよな」
マイクが低く呟いた。
「ああ」
「なのに、昨日まで普通に寝てたベッドから起き上がって、病院の外に出てった。監視カメラには、ちゃんと映ってる。足跡もある。体温も、脈拍も、確認できてる」
「ああ」
「……じゃあ、あの子は本当に生き返ったってことなのか?」
相澤は答えなかった。
答えられなかった。
医学的な定義を並べれば、彼女は生きている。
だが、十年間、死んでいた人間が突然蘇ることを、既存の医学で説明できるはずがない。
そもそも、死とは何なのか。
肉体の停止か。
脳の機能の停止か。
それとも、二度と戻らないという不可逆性そのものか。
もしも死んだ人間が戻ってきたのなら、死という現象は、もはや絶対的な終わりではなくなったのだろうか。
それとも――。
「相澤先生」
背後から声がした。
振り返ると、緑谷出久が立っていた。
ヒーロー活動用のスーツを着込み、腰には簡易救助装備を装着している。
かつてのように、身体から緑色の稲妻が走ることはない。
ワン・フォー・オールは、もう彼の中に存在しない。
それでも彼は、誰かを救うために必要なものを一つずつ揃え、今も現場に立ち続けていた。
「おはようございます。追加の報告を確認しました」
「早いな。寝てないのか」
「少しは寝ました」
「何時間だ」
「……二時間くらいです」
「それは寝たうちに入らん」
「先生もですよ」
「俺は教師だ」
「教師でも睡眠は必要です」
「屁理屈を覚えたな、緑谷」
「先生に教わりました」
「覚えの悪い生徒だと思ってたが、余計なことばかり覚えやがって」
いつもの調子に近いやり取り。
ほんのわずかに、室内の空気が緩んだ。
だが、次の瞬間。
相澤がモニターを指差した。
「そんなことを言っていられるのも、今のうちだ」
画面に表示されたのは、昨夜、出久たちが遭遇した黒い霧の映像だった。
公園で出久を襲った男。
身体から黒い亀裂を生じさせ、最後には霧のように消えていった、正体不明の帰還者。
「この男の身元は、いまだに判明していない。顔認証、指紋、歯型、いずれも既存のデータベースと一致しなかった」
「それに、抹消も効かなかったんですよね」
「そうだ。個性そのものを消せなかったというより、俺の個性が届かなかった。あの黒い現象が、個性の発動とは別の仕組みで動いている可能性がある」
「別の仕組み……」
出久は、映像を見つめた。
あの男は、自分を見て言った。
返せ。
俺の人生を。
お前が俺を殺したのか。
そして、最後に。
――今度こそ、救ってくれ。
その声が、耳の奥から離れない。
あの男は、自分を恨んでいたのだろうか。
それとも、何かに利用されていただけだったのだろうか。
出久には、まだ分からない。
分からないからこそ、放っておくことはできなかった。
「先生。今日の式典ですが……」
「ああ。予定どおり開催される」
相澤は、淡々と答えた。
「警備体制は通常の追悼式典の規模を大きく超えている。プロヒーローを各所に配置し、異常が発生した場合は即座に避難誘導を開始する。帰還者が現れても、敵対行動が確認されない限り、こちらから攻撃はしない」
「分かりました」
「だが、緑谷」
相澤の視線が鋭くなった。
「お前は、何があっても一人で突っ込むな」
「……はい」
「返事だけなら誰でもできる」
「本当に、気をつけます」
「その言葉を信用できるくらいには、お前を長く見てきたつもりだったんだがな」
相澤はため息をついた。
「お前は、自分が傷つくことを計算に入れない。救助対象を優先するのはヒーローとして当然だ。だが、自分が倒れれば救えなくなる命もある」
「……分かっています」
「分かっている人間の顔じゃない」
出久は、何も言い返せなかった。
分かっている。
それでも、身体が先に動いてしまう。
それは、かつての彼を支えた長所であり、何度も彼を危険に追い込んだ欠点でもあった。
力を失った今も、その性質だけは変わっていない。
むしろ、力を失ったからこそ。
救えなかったときのことを、以前よりも強く想像するようになっていた。
「……今日は、必ず帰ってこい」
相澤が言った。
「お前には、式典の後にやることがあるんだろう」
「えっ」
「麗日から聞いたわけじゃない。お前の顔を見ていれば分かる」
「な、何で……」
「分かりやすすぎるんだよ」
マイクが、ようやく小さく笑った。
「イレイザー、昔からデクの顔を見るだけで何でも分かるみたいに言うよな」
「お前が分からなすぎるだけだ」
「ひでえ!」
「それと緑谷」
「は、はい!」
「式典の後に何をするにしても、ちゃんと相手の話を聞け。自分の言いたいことだけ言って満足するな」
「……はい」
「以上だ。行け」
出久は深く頭を下げた。
「行ってきます」
扉の向こうへと歩き出す。
相澤は、その背中を見送った。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……頼むから、今度こそ自分の人生も救ってくれよ」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
だが。
遠い南極の氷の底で。
何かが、その祈りを聞いていた。
*
午前九時。
東京都内、十三周年追悼式典会場。
そこには、数えきれないほどの人々が集まっていた。
会場の中央には、巨大な慰霊碑がそびえ立っている。
碑に刻まれた名前は、数千。
ヒーロー。
警察官。
救助隊員。
一般市民。
そして、最終決戦で命を落とした者たち。
その中には、世界を救うために戦い、最後まで自らの信念を曲げなかった者たちの名前もあった。
十三年前。
人々は、絶望の底にいた。
社会は崩壊しかけ、街は破壊され、誰もが明日の命を保証されていなかった。
それでも、誰かが立ち上がった。
誰かが誰かを助けた。
その積み重ねが、今の世界を作った。
だからこそ、この日だけは。
人々は立ち止まり、亡くなった者たちのことを思い出す。
彼らが何を愛し、何を守り、何を願っていたのか。
彼らが生きていた証を、忘れないために。
「……すごい人だね」
麗日お茶子は、会場を見渡しながら呟いた。
「うん。去年よりも多いかもしれない」
隣に立つ出久が答えた。
お茶子は、淡い色の式典用の服を着ていた。
華美ではない。
だが、彼女らしい柔らかな印象があった。
出久は、一瞬だけ彼女を見て、それから慌てて視線を逸らした。
今日の式典が終わったら。
自分は、彼女に伝える。
ずっと言えなかったことを。
何度も言おうとして、何度も飲み込んできた言葉を。
そのために、昨夜は何度も頭の中で練習した。
だが、いざ本人を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。
「出久くん?」
「は、はいっ!」
「どうしたの? さっきから、ちょっと変だよ?」
「い、いや! 何でもないよ!」
「本当に?」
「本当に!」
「……ふふっ」
お茶子が笑った。
「そっか」
その笑顔を見た瞬間、出久は思った。
ああ。
やっぱり、好きだ。
ただ一緒にいたい。
これからも、彼女が笑うところを見ていたい。
困ったときには力になりたい。
彼女が誰かを救おうとするなら、その背中を支えたい。
そして、自分が苦しいときには、彼女に頼ってもいいと思いたい。
それは、世界を救うことよりも難しく感じられた。
なぜなら、世界を救うためなら、自分の命を差し出すことさえ迷わなかったのに。
自分の気持ちを伝えることには、どうしようもなく臆病だったからだ。
「緑谷」
不意に、背後から声がした。
「か、勝己!」
振り返ると、爆豪勝己が腕を組んで立っていた。
彼も式典用の服に身を包んでいる。
相変わらず目つきは鋭いが、かつてのような剥き出しの苛立ちは、昔よりもずっと少なくなっていた。
「何だ、その顔」
「えっ?」
「今にも死ぬみてえな顔してんじゃねえ」
「いや、そんな顔してないよ!」
「してんだよ!」
爆豪は舌打ちした。
「いいか、デク。今日は余計なことを考えんな」
「余計なこと?」
「世界中が集まってんだ。死んだ奴が戻ってきたなんて話まで出てる。何が起こるか分からねえ。まずは目の前のことを片づけろ」
「……うん」
「それからだ」
爆豪は、一瞬だけお茶子を見た。
「言うことがあるなら、ちゃんと言え」
「……!」
「何年も何年も同じことで悩みやがって。見てるこっちがイライラすんだよ」
「か、勝己!」
「うるせえ! 俺は何も言ってねえ!」
爆豪は踵を返した。
その背中に、お茶子が声をかける。
「爆豪くん、ありがとう!」
「礼なんかいらねえ!」
怒鳴り声が返ってくる。
だが、その耳がほんの少し赤くなっていたことを、出久は見逃さなかった。
「……勝己、変わらないなあ」
「うん。でも、変わったところもあると思うよ」
お茶子は、爆豪の背中を見ながら言った。
「昔より、みんなのことをちゃんと見てる」
「そうだね」
「出久くんも、だよ」
出久は、彼女を見た。
「昔の出久くんは、誰かを助けるためなら、自分のことなんてどうでもいいって顔をしてた。でも今は……」
お茶子は少し考えてから、言葉を続けた。
「今も、そういうところはあるけど。それでも、前よりは自分のことも考えてくれるようになったと思う」
「……そうかな」
「うん」
彼女は微笑んだ。
「だから、今日も無事に帰ってきてね」
その言葉が、胸に刺さった。
無事に帰ってくる。
簡単なようで、難しい約束。
出久は一度、拳を握りしめた。
「うん。約束する」
そのときだった。
会場のスピーカーから、式典の開始を告げる音楽が流れ始めた。
人々の話し声が、ゆっくりと静まっていく。
壇上には、現職のヒーローたち、政府関係者、そして、かつての戦いを生き抜いた者たちが並んでいた。
出久は、慰霊碑を見つめた。
刻まれた名前の中には、直接知っている人の名前もある。
共に戦った仲間。
守れなかった人。
自分を信じてくれた人。
そして、自分の人生を変えた人。
彼らが戻ってくることを願ったことは、何度もあった。
夢の中で、もう一度会えたらと思ったこともある。
だが。
もし本当に戻ってきたら。
自分は、何を言うのだろう。
何を聞くのだろう。
彼らは、自分を覚えているのだろうか。
それとも、もう別の誰かになっているのだろうか。
出久は目を閉じた。
そして、静かに祈った。
どうか。
今日が、誰かにとっての希望でありますように。
死者を悼む日が、死者に怯える日になりませんように。
帰ってきた人たちが、本当に帰ってきた人たちでありますように。
その祈りに、答える声はなかった。
まだ。
*
午前十時。
式典が始まった。
最初に登壇したのは、現在のヒーロー社会を代表する人物だった。
彼は、亡くなった者たちへの感謝と敬意を述べた。
その言葉は、決して華やかなものではなかった。
失われた命は戻らない。
残された者たちの悲しみも、簡単に癒えるものではない。
それでも、私たちは歩き続けなければならない。
そのために、今日という日がある。
会場に集まった人々は、静かに耳を傾けていた。
そして、黙祷の時間が訪れる。
数万人が、一斉に目を閉じた。
風が吹いた。
慰霊碑の前に供えられた花が揺れる。
遠くで、鳥が鳴いた。
誰もが、亡くなった者たちを思っていた。
その瞬間。
慰霊碑の裏側で、小さな音がした。
――こつ。
石を叩くような音。
誰も気づかなかった。
――こつ。
もう一度。
地面の下から、何かが石を叩いている。
――こつ。
――こつ。
――こつ。
音が増えた。
慰霊碑の周囲に埋め込まれた金属板が、かすかに震える。
その金属板には、十三年前の戦いで命を落とした者たちの名前が刻まれていた。
風が止まった。
鳥の声も消えた。
そして。
慰霊碑の表面に、一本の亀裂が走った。
ピシッ。
誰かが息を呑んだ。
亀裂は、ゆっくりと伸びていく。
石の表面を横切り、刻まれた名前の一つを通り過ぎる。
その名前は。
白雲朧。
相澤消太の、かつての友人の名前だった。
相澤は、壇上の端で顔を上げた。
「……何だ?」
その直後。
慰霊碑の足元から、黒い霧が噴き出した。
「全員、下がれ!」
相澤の声が響いた。
同時に、会場の警備に当たっていたヒーローたちが動き出す。
しかし、黒い霧は攻撃してこなかった。
ただ、地面を這うように広がっていく。
その霧の中から、何かが見えた。
人影。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、十を超えた。
人影は、ゆっくりと立ち上がった。
白い服を着た男。
古びた軍服を着た老人。
制服姿の少女。
誰もが、あり得ないほど静かな顔をしていた。
その中の一人が、顔を上げる。
「……ここは?」
男の声だった。
「俺は……」
彼は、自分の手を見つめた。
「俺は、どうして……」
隣にいた女性が、周囲を見渡す。
そして、目の前に立っていた老婦人を見つけた瞬間。
その顔が、驚愕に歪んだ。
「……お母、さん?」
老婦人が、震える手で口を押さえた。
「そんな……」
「お母さん!」
女性が駆け寄る。
老婦人は、彼女を抱きしめた。
「どうして……どうして、あなたが……!」
「会いたかった……! ずっと、会いたかった……!」
二人は泣き崩れた。
会場のどこかで、悲鳴が上がった。
別の場所では、若い男が自分の妻を見つけていた。
妻は、十年前に交通事故で亡くなったはずだった。
男は、呆然と彼女を見つめていた。
「……美咲?」
女性が顔を上げる。
「あなた……?」
「嘘だろ……」
男は、震える手を伸ばした。
「俺、ずっと……」
彼女は、涙を浮かべて笑った。
「ただいま」
男は、彼女を抱きしめた。
その瞬間、周囲にいた人々が、一斉に声を上げた。
泣き声。
歓声。
嗚咽。
何度も呼ばれる名前。
何年も、何十年も、二度と聞けないと思っていた声。
そのすべてが、会場を満たしていった。
「……生き返った」
誰かが呟いた。
「本当に、生き返ったんだ……!」
人々は、黒い霧を恐れることを忘れた。
ヒーローたちも、すぐには動けなかった。
目の前で起きていることが、信じられなかったからだ。
死者が戻ってきた。
それは、人類が長い歴史の中で、幾度となく夢見てきた奇跡だった。
失った人に、もう一度会える。
謝れなかった言葉を伝えられる。
最後に言えなかった「ありがとう」を、今度こそ届けられる。
そんなことが、本当に可能になったのだ。
そして。
出久もまた、動けずにいた。
黒い霧の向こうに、見覚えのある後ろ姿を見つけたからだ。
背中。
髪。
肩の形。
あの日、何度も夢に見た姿。
その人影が、ゆっくりと振り返る。
「……緑谷?」
出久の呼吸が止まった。
その声を、忘れるはずがなかった。
何度も聞いた。
何度も、思い出した。
そして、何度も。
もう二度と聞けないのだと、自分に言い聞かせてきた。
「……ミッドナイト、先生?」
そこに立っていたのは、十三年前の戦いで命を落としたヒーロー。
香山睡。
ミッドナイトだった。
*
時間が止まったように感じられた。
ミッドナイトは、自分の姿を確かめるように両手を見下ろした。
それから、会場を見渡す。
「……ここ、どこ?」
彼女は困ったように笑った。
「私、確か……」
言葉が途切れる。
眉間に皺が寄る。
記憶を探ろうとしているのだろう。
だが、何かを思い出そうとするたび、彼女の表情は曇っていった。
「……あれ?」
ミッドナイトは、自分の胸に手を当てた。
「私……何をしてたんだっけ?」
出久は、足を踏み出した。
「先生……!」
だが、声が出ない。
嬉しい。
信じられない。
会いたかった。
けれど、何よりも先に、恐怖があった。
この人は、本当にミッドナイトなのか。
彼女の記憶は戻るのか。
彼女は、自分たちのことを覚えているのか。
そして。
もし、何も覚えていなかったら。
「……緑谷?」
ミッドナイトが、もう一度名前を呼んだ。
出久は、彼女の前に立った。
「はい……! はい、先生! 僕です!」
声が震えた。
「緑谷出久です……!」
ミッドナイトは、じっと彼を見つめた。
そして。
少しだけ、目を細めた。
「……大きくなったわね」
出久の目から、涙がこぼれた。
その言葉。
その声。
その笑い方。
間違いない。
少なくとも、今の彼にはそう思えた。
「先生……っ」
出久は、泣きながら笑った。
「先生……!」
ミッドナイトは、そんな彼を見て、困ったように微笑んだ。
「何よ。そんなに泣かなくてもいいじゃない」
その瞬間。
彼女の背後で、黒い霧が揺れた。
誰も気づかなかった。
出久も。
お茶子も。
相澤も。
ミッドナイトの影が、彼女自身とは別の方向へ伸びていることに。
その影の中で。
何かが、目を開いた。
*
「ミッドナイト……?」
相澤は、呆然と呟いた。
身体が動かなかった。
頭では理解している。
これは異常事態だ。
会場全体に正体不明の現象が発生している。
帰還者の中には、昨夜、緑谷を襲った男と同じような異常を持つ者がいるかもしれない。
だから、警戒しなければならない。
距離を取り、観察し、危険性を確認し、必要ならば対処する。
教師として。
ヒーローとして。
その判断が必要だ。
分かっている。
分かっているのに。
相澤の目は、彼女から離れなかった。
十三年前。
彼女は死んだ。
自分たちの目の前で。
どれほど手を伸ばしても届かなかった。
どれほど叫んでも、戻ってこなかった。
それなのに。
「……先生?」
ミッドナイトが、相澤に気づいた。
その顔が、ぱっと明るくなる。
「相澤先生!」
彼女は、懐かしい調子で笑った。
「何その顔! 幽霊でも見たみたい!」
相澤は、口を開いた。
何か言おうとした。
だが、声が出なかった。
彼女は、生きている。
少なくとも、目の前にいる。
自分の名前を呼んだ。
自分のことを覚えている。
その事実だけで、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れそうになった。
「……お前は」
ようやく、声が出た。
「お前は……」
その先が続かない。
ミッドナイトは、不思議そうに首を傾げた。
「何よ?」
相澤は、拳を握りしめた。
「……本当に、香山なのか」
ミッドナイトの笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
彼女の瞳が、揺れた。
「……え?」
周囲の歓声が、少しずつ遠くなっていく。
「先生……?」
「お前は、本当に……」
相澤は言葉を選ぼうとした。
だが、選べなかった。
目の前の人間に向かって、本人なのかと尋ねる。
それが、どれほど残酷なことなのか。
分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……本当に、ミッドナイトなのか」
ミッドナイトは、何も答えなかった。
代わりに、自分の胸に手を当てた。
「……私、は」
その声が、かすれた。
「私は……香山、睡……」
彼女は、自分の名前を繰り返した。
「香山睡……」
その瞬間。
彼女の瞳の奥で、黒い光が瞬いた。
出久は、それを見逃さなかった。
「先生、下がって!」
叫んだ。
だが、遅かった。
ミッドナイトの背後から、黒い霧が噴き出した。
その霧は、彼女の身体を包み込むように広がっていく。
「……っ!」
ミッドナイトが、苦しそうに胸を押さえた。
「何……これ……?」
彼女の身体が、ぐらりと傾く。
相澤が駆け寄ろうとした。
「香山!」
だが、出久が叫んだ。
「触らないでください!」
黒い霧。
昨夜の男。
病院から消えた少女。
それらに共通していたもの。
記憶を侵食し、本人の意志を揺さぶり、別の何かを内部に宿らせる現象。
もし、同じものなら。
不用意に触れれば、相澤まで巻き込まれるかもしれない。
だが。
ミッドナイトは、苦しみながら手を伸ばしていた。
「……相澤、先生……」
その手が、震えている。
「……助けて……」
相澤の顔が歪んだ。
彼は、一歩踏み出した。
「……っ、クソ!」
抹消を発動する。
赤い目が、ミッドナイトを見据えた。
だが。
黒い霧は、消えなかった。
彼女の身体を包む異常は、何の影響も受けていない。
「……やっぱり、個性じゃない!」
出久が叫ぶ。
そのときだった。
ミッドナイトが、顔を上げた。
彼女の瞳から、涙が流れていた。
そして、その口が。
彼女自身の声とは思えないほど低い声で、言葉を紡いだ。
「――ああ、そうか」
黒い霧が、波打つ。
「ここが、十三年目の世界か」
会場が、静まり返った。
ミッドナイトの顔に、笑みが浮かんだ。
それは、彼女が普段見せていた、明るく、少し挑発的な笑みとは違っていた。
何もかもを見下ろすような。
すべてを知っているかのような。
ひどく、冷たい笑みだった。
「ずいぶんと賑やかになったものだ」
その声を聞いた瞬間、出久の背筋に悪寒が走った。
目の前にいるのは、ミッドナイトだ。
彼女の顔をしている。
彼女の身体をしている。
彼女の記憶を持っている。
けれど。
その奥にいる何かは、違う。
「……お前は、誰だ」
出久が問う。
黒い霧の中で、ミッドナイトが微笑んだ。
「誰、か」
彼女は、自分の指先を眺めた。
「それを決めるのは、君たちなのかな?」
「質問に答えろ!」
相澤の声が響く。
黒い霧が、ゆっくりと広がった。
そして、彼女は言った。
「私は、まだ何者でもない」
その言葉と同時に、会場の空気が変わった。
慰霊碑の周囲に現れていた帰還者たちが、一斉に動きを止める。
泣いていた者。
抱きしめ合っていた者。
自分の名前を思い出そうとしていた者。
彼らが、同時に顔を上げた。
まるで、誰かの声を聞いたかのように。
そして、その全員が。
出久の方を向いた。
「……え?」
出久は、息を呑んだ。
何十人もの人間が、こちらを見ている。
その目は、空虚だった。
ある者は口を開き。
ある者は、首を傾げ。
ある者は、何かを思い出そうとするように額を押さえている。
そして。
彼らの口から、同じ言葉が漏れ始めた。
「……返せ」
出久の身体が、強張った。
「……返せ」
「……返せ」
「……返せ」
昨夜の男と同じ言葉。
あの黒い霧に包まれた男が、何度も繰り返していた言葉。
「俺の人生を」
「私の人生を」
「僕の人生を」
「……返せ」
声が重なる。
会場にいた人々が、恐怖に顔を歪めた。
「な、何だ……?」
「どういうことだ……?」
「この人たちは、何を……?」
黒い霧が、慰霊碑から空へと伸びていく。
まるで、世界の天井を突き破ろうとする巨大な樹木のように。
その枝は、空を覆い。
その根は、地面へと伸びていく。
そして、霧の中心で。
ミッドナイトが、静かに笑った。
「さあ」
彼女は、出久を見た。
「始めようか、緑谷出久」
「……!」
「君たちが、ずっと望んでいたことを」
出久は、拳を握りしめた。
「……死者を、蘇らせることか」
「そう」
彼女は頷いた。
「死者を取り戻すこと」
黒い霧が、彼女の背後で蠢く。
「失ったものを、取り戻すこと」
その言葉は、優しかった。
あまりにも優しかった。
だからこそ、出久には分かった。
これは、誘惑だ。
人が最も弱くなる瞬間を、正確に突いてくる言葉。
失った人に、もう一度会いたい。
やり直したい。
あのとき、違う選択をしていれば。
あのとき、手を伸ばせていれば。
そんな、誰もが一度は抱いたことのある願い。
その願いを、否定できる人間などいない。
「……違う」
出久は、低く呟いた。
「何?」
「死者を取り戻すことと、死者を救うことは……同じじゃない」
ミッドナイトの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「なるほど」
彼女は、楽しそうに言った。
「君は、そこに気づいたのか」
「……お前は、誰なんだ」
出久は、もう一度問うた。
「死神なのか? それとも……」
ミッドナイトは、答えなかった。
代わりに、彼女の背後にあった黒い霧が、ゆっくりと形を変えた。
巨大な目。
無数の触手にも似た影。
そして、その奥に広がる、星のない暗黒。
そこには、何もなかった。
何もないはずなのに。
出久は、確かに感じた。
何かが、こちらを見ている。
人間の理解できる大きさではない何かが。
この世界を。
この時代を。
そして、人類そのものを。
観察している。
「……まだ、早い」
ミッドナイトが呟いた。
「まだ、君たちは知らない」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「自分たちが、何を受け取ったのかを」
次の瞬間。
黒い霧が爆発した。
*
「全員、避難しろォォォッ!」
爆豪勝己の声が、会場を切り裂いた。
爆発音。
悲鳴。
崩れ落ちる石材。
会場を覆っていた黒い霧が、一気に広がった。
ヒーローたちは、瞬時に動き出す。
「こちら警備班! 会場北側に異常発生! 帰還者の一部が暴走しています!」
「負傷者を優先しろ! 避難経路を確保!」
「子供たちを先に逃がして!」
混乱の中で、麗日お茶子が叫んだ。
彼女は、崩れかけた慰霊碑の破片に向かって走る。
瓦礫の下には、数人の一般市民がいた。
「今、助けるから!」
指先が瓦礫に触れる。
無重力。
巨大な石材が、ふわりと浮かび上がった。
お茶子は、周囲の人々に声をかける。
「立てますか? 大丈夫ですか? ゆっくりでいいから、こっちへ!」
そのとき、黒い霧の中から一人の男が飛び出した。
男の身体は、異様に膨張していた。
腕が長く伸び、指先が刃物のように変形している。
「……返せ」
男が、呻いた。
「返せ……返せ……!」
彼は、お茶子へ向かって突進した。
「危ない!」
出久が飛び込んだ。
男の腕が振り下ろされる。
出久は、身を捻ってかわした。
拳が空を切り、地面に叩きつけられる。
コンクリートが砕けた。
個性の力ではない。
少なくとも、普通の個性の発動とは違う。
出久は、男の動きを観察した。
筋肉の膨張。
骨格の変形。
皮膚の下を走る黒い線。
そのすべてが、何か別のものに書き換えられているようだった。
「……落ち着いてください!」
出久は叫んだ。
「あなたは、何を取り戻したいんですか!」
「……返せ!」
男が叫ぶ。
「俺の人生を! 俺の時間を! 俺の……!」
声が途切れた。
男は、自分の手を見つめた。
その表情が、歪む。
「……俺は」
彼は、震える声で呟いた。
「俺は、何を……?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、男の目に人間らしい光が戻った。
出久は、その瞬間を逃さなかった。
「あなたの名前は?」
「……名前?」
「そうです。あなたの名前を教えてください!」
男は、必死に考えた。
思い出そうとしていた。
自分が誰だったのか。
どこで生まれ、誰を愛し、何を失ったのか。
だが。
「……わからない」
男の顔が、恐怖に染まった。
「わからない……!」
彼は頭を抱えた。
「俺は、誰だ……?」
黒い亀裂が、首筋に走る。
出久は、一歩踏み出した。
「大丈夫です。ゆっくりでいい。あなたが誰なのか、一緒に――」
「違う」
男が呟いた。
「違う……違う……!」
その身体が、大きく震えた。
「俺は、俺じゃない……!」
黒い霧が、男の身体から噴き出した。
その瞬間、出久は理解した。
この男は、ただ暴走しているのではない。
何かに、抵抗している。
自分の身体を奪おうとする何かに。
自分の記憶を奪おうとする何かに。
そして。
自分という存在そのものを、塗り潰そうとする何かに。
「……嫌だ」
男が、泣きながら呟いた。
「嫌だ……! 俺は、まだ……!」
彼は、出久へ手を伸ばした。
「助けてくれ……!」
出久は、迷わなかった。
「はい!」
彼は、男の手を掴んだ。
「必ず、助けます!」
その瞬間。
出久の視界が、真っ黒に染まった。
*
そこは、どこでもなかった。
空もない。
地面もない。
光も、音もない。
ただ、暗闇だけがあった。
出久は、その中に立っていた。
「……ここは?」
声が響かない。
自分の身体があることは分かる。
だが、足元に地面があるのかさえ、分からなかった。
そのとき。
目の前に、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
大きな瞳。
痩せた身体。
少し猫背の姿勢。
出久は、息を呑んだ。
「……僕?」
少年は、出久を見上げていた。
幼い頃の自分。
個性がなく、ヒーローになれないと告げられ、それでも夢を諦められなかった頃の自分。
少年は、静かに尋ねた。
「ねえ」
その声は、懐かしかった。
「君は、ヒーローになれた?」
出久は、答えようとした。
自分はヒーローになった。
何度も戦った。
多くの人を救った。
世界を救った。
そして今も、ヒーローであり続けようとしている。
そう答えたかった。
だが、声が出なかった。
少年は、悲しそうに笑った。
「……そっか」
「違う、僕は……!」
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
出久は、言葉を失った。
自分が泣いていることに、初めて気づいた。
少年が、一歩近づく。
「どうして、そんなに怖いの?」
「……」
「どうして、また一人で全部を背負おうとしてるの?」
出久は、唇を噛んだ。
答えられなかった。
少年の背後に、黒い影が広がっていく。
影は、ゆっくりと形を変えた。
巨大な目。
無数の輪郭。
理解できない何かの気配。
そして、その奥から。
声がした。
男とも、女とも、子供とも、老人ともつかない声。
遠いのに、耳元で囁かれているような声。
無数の声が、一つに重なったような声。
『お前は、もう一度、選ばなければならない』
出久は、振り返った。
「……誰だ!」
『力を失ったお前は、何を選ぶ?』
「……っ!」
『誰かを救うために、再び自分を犠牲にするのか』
その問いが、暗闇の中に沈んでいった。
出久は、すぐには答えなかった。
目の前にいるのは、幼い頃の自分だった。
個性がないと告げられた日。
テレビの中でオールマイトが笑っていた日。
何度も転んで、何度も立ち上がって、それでもヒーローになる夢を捨てられなかった日。
そして。
誰かを救うためなら、自分のことなどどうなっても構わないと、本気で信じていた頃の自分。
少年は、じっと出久を見つめていた。
「……答えられないんだね」
「違う」
出久は、顔を上げた。
「答えられないんじゃない。……簡単には答えられないんだ」
『ほう』
暗闇の奥で、声が笑った。
『何が違う?』
「僕は……」
出久は、自分の手を見た。
かつて、ワン・フォー・オールの力が宿っていた手。
何度も骨を砕き、それでも前へ伸ばした手。
その力は、もうない。
今の自分に残っているのは、積み重ねてきた経験と、誰かを救いたいという気持ち。そして、仲間たちと一緒に歩いてきた時間だけだ。
「……僕は、誰かを救うために戦うことをやめるつもりはない」
『ならば、答えは同じではないか』
「でも!」
声が、暗闇に響いた。
「自分を犠牲にすることと、誰かを救うことは、同じじゃない!」
少年が、目を見開いた。
出久自身も、その言葉を口にして初めて気づいたように、わずかに息を呑んだ。
そうだ。
ずっと、間違えていたのかもしれない。
自分が傷つけば、誰かが助かる。
自分が耐えれば、誰かが笑える。
自分が倒れるまで手を伸ばせば、いつか誰かに届く。
それは、確かに間違いではなかった。
実際に、彼はそうやって多くの命を救ってきた。
けれど。
そのやり方しかないと決めつけてしまえば。
自分が傷つくことを前提にしてしまえば。
自分以外の誰かが手を伸ばしてくれる可能性を、最初から捨ててしまうことになる。
そして何より。
自分が救われる可能性まで、否定することになる。
「……僕は、誰かを救いたい」
出久は、ゆっくりと言った。
「それは、今も変わらない。これからも、変わらないと思う」
暗闇の奥で、黒い影が揺れた。
「でも、僕一人で全部を救えるなんて、もう思っていない」
出久は、顔を上げた。
「僕にはできないことがある。届かない場所もある。助けを求める声に、気づけないことだってある」
それは、認めたくない現実だった。
けれど、認めなければならない現実でもあった。
「だから、仲間がいるんだ」
爆豪の顔が浮かんだ。
轟の顔が浮かんだ。
飯田の顔が、麗日の顔が、八百万の顔が浮かんだ。
相澤の顔が。
そして、今も自分のことを信じてくれている、たくさんの人々の顔が。
「僕が届かないところには、誰かが手を伸ばしてくれる。僕が倒れたら、起こしてくれる人がいる。僕が間違えたら、間違えたって言ってくれる人がいる」
出久は、小さく笑った。
「……昔の僕は、それをちゃんと信じられていなかったのかもしれない」
少年は、何も言わなかった。
「みんなを救いたいと思うあまりに、みんなが僕を救ってくれることを、考えられなかったんだ」
出久の声が、わずかに震えた。
「だから……怖いんだと思う」
『何が怖い?』
「また、失うことが」
即答だった。
その答えだけは、どうしても取り繕えなかった。
「大切な人がいなくなることが。目の前で誰かが傷つくことが。助けを求める声が聞こえたのに、何もできないことが」
出久は、唇を噛んだ。
「それに……」
言葉が詰まった。
喉の奥が熱い。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「自分が、もう一度、何もできない人間になることが……怖いんだ」
その瞬間。
暗闇のどこかで、何かが軋んだ。
まるで、巨大な扉の向こう側で、誰かが笑ったようだった。
『正直だな』
声は、満足そうに響いた。
『ならば、与えよう』
出久の目の前に、光が現れた。
緑色の光だった。
懐かしい光。
稲妻のように走り、身体を包み、世界を変える力。
ワン・フォー・オール。
その残滓を思わせる光が、出久の手のひらに集まっていく。
「……っ!」
出久は、思わず手を引いた。
光は消えなかった。
むしろ、彼の反応を楽しむように、指先から腕へと広がっていく。
『望んでいたのだろう?』
声が囁いた。
『もう一度、力が欲しいと』
光の中に、映像が浮かんだ。
崩れ落ちる建物。
瓦礫の下にいる子供。
迫り来る敵。
間に合わない距離。
かつてなら、飛び込めた。
かつてなら、力で道を切り開けた。
かつてなら、自分の身体が壊れることを恐れずに、手を伸ばせた。
だが、今は違う。
今の自分には、かつてのような力がない。
走っても間に合わないことがある。
腕を伸ばしても届かないことがある。
どれほど頭を働かせても、どうにもならない瞬間がある。
その現実を、出久は何度も突きつけられてきた。
『力さえあれば、救える』
光が強くなる。
『力さえあれば、失わずに済む』
少年が、出久の手を見つめた。
『力さえあれば、お前は再び、かつての自分に戻れる』
出久は、光を見つめた。
欲しくないと言えば、嘘になる。
もう一度、力が欲しい。
そう願ったことは、一度や二度ではなかった。
目の前で誰かが危険に晒されたとき。
自分の判断が遅れたとき。
かつての仲間たちが傷つき、それでも自分にできることが限られていると知ったとき。
何度も、思った。
あの力があれば。
もう一度、ワン・フォー・オールがあれば。
だが。
「……違う」
出久は、呟いた。
『何が違う?』
「僕は、かつての自分に戻りたいわけじゃない」
光が揺れた。
「確かに、力は欲しい。あれば救える命もある。できることも増える」
出久は、自分の手を握りしめた。
「でも……力がなければヒーローになれないって、僕はもう、そんなことを言いたくないんだ」
少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「……出久?」
初めて、少年が彼の名前を呼んだ。
出久は、その声に微笑んだ。
「昔の僕は、個性がないからヒーローになれないって言われた。でも、それでも諦められなかった」
彼は、少年の前にしゃがみ込んだ。
「オールマイトに憧れて。誰かを救いたいと思って。自分には何もないって分かっていても、それでも……手を伸ばしたかった」
少年は、黙って聞いていた。
「そして、いろんな人に助けてもらった。力をもらった。勇気をもらった。僕一人じゃ、絶対にたどり着けなかった場所まで、みんなが連れてきてくれた」
出久は、少年の肩に手を置いた。
「だから、今の僕が力を失ったからって、あの頃の夢まで失ったわけじゃない」
光が、音もなく砕けた。
『……』
「僕は、僕のままで進む」
出久は、まっすぐに暗闇を見据えた。
「誰かを救うために、自分を犠牲にするんじゃない。誰かと一緒に、誰かを救うんだ」
しばらく、何の音もしなかった。
やがて。
少年が、ゆっくりと笑った。
「……そっか」
その笑顔は、かつての自分が夢を諦めなかった日の顔に似ていた。
「じゃあ、僕の夢は……ちゃんと続いてるんだね」
「うん」
出久は、頷いた。
「続いてるよ」
少年は、少しだけ安心したように目を細めた。
「よかった」
そして。
その身体が、光になって消え始めた。
「待って!」
出久は、思わず手を伸ばした。
「君は……君は、どうなるの?」
少年は、振り返った。
「どうなるって?」
「だって、君は……僕なんだろう?」
「うん」
「だったら……!」
出久は、言葉を探した。
もう一度会えなくなるのが、怖かった。
この暗闇の中で、幼い自分まで失ってしまうような気がした。
少年は、そんな出久の気持ちを見透かしたように笑った。
「大丈夫だよ」
「……」
「僕は、ずっと君の中にいるから」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
「君が忘れない限り。君が、自分の夢をなかったことにしない限り」
少年は、最後にもう一度、笑った。
「だから、行っておいでよ」
光が、暗闇を満たしていく。
「今度は、一人じゃないんだから」
その瞬間。
出久は、確かに聞いた。
遠くから、自分を呼ぶ声を。
「出久くん!」
麗日お茶子の声だった。
今度こそ。
出久は、その声に向かって走り出した。
*
暗闇が、砕け散った。
目の前に広がったのは、黒い霧に包まれた追悼式典の会場だった。
出久は、息を切らして立っていた。
目の前では、異形と化した帰還者が、苦しそうに身体を震わせている。
出久の手は、まだその男の手を握っていた。
「……緑谷くん!」
お茶子が駆け寄ってくる。
「大丈夫!? 何があったの!?」
「僕は大丈夫! それより、佐藤さんが……!」
出久は、男を見た。
黒い亀裂が、少しずつ薄れている。
男の顔に、困惑が浮かんでいた。
「……俺は」
男が、かすれた声で呟く。
「俺は……佐藤、健二……」
「はい!」
出久は、力強く頷いた。
「佐藤健二さんです!」
男の目から、涙が流れた。
「……俺は、まだ……生きていたかった」
「……はい」
「死にたく、なかった……」
「……はい」
「……なのに、俺は……」
男の声が、途切れた。
黒い霧が、再び身体を包み込む。
出久は、手を離さなかった。
「佐藤さん!」
男の瞳に、黒い光が宿る。
その口が、ゆっくりと開いた。
「……見つけた」
声が変わった。
「やはり、お前は違う」
出久の背筋が凍った。
男の顔が、歪む。
「お前の中には、もう何もないはずなのに」
黒い霧が、出久の腕を這い上がっていく。
「なぜ、まだ光っている?」
「……何を言ってるんだ」
「お前は、失った」
男は、笑った。
「力を。役割を。かつての自分を」
黒い霧が、出久の胸元へと伸びる。
「それなのに、なぜ、まだ立ち上がる?」
出久は、答えなかった。
答える必要がなかった。
彼は、男の手を強く握った。
「……助けたいからです」
男の笑みが止まった。
「誰かが、助けを求めているから」
出久は、まっすぐに彼を見つめた。
「それだけじゃ、駄目ですか?」
黒い霧が、ぴたりと止まった。
男の瞳が、大きく見開かれる。
そして。
その奥にいる何かが、初めて、明確な戸惑いを見せた。
『――理解できない』
声が、出久の頭の中に直接響いた。
『なぜ、力を持たぬ者が、なおも立つ』
出久は、男の手を握ったまま答えた。
「力があるから、立ち上がるんじゃない」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「立ち上がりたいと思うから、立ち上がるんです」
黒い霧が震えた。
「そして、僕が倒れたら……誰かが、きっと手を伸ばしてくれる」
出久は、隣にいるお茶子を見た。
彼女は、不安そうな顔をしながらも、確かにそこに立っていた。
彼を一人にしないために。
誰かを救うために。
自分自身も、傷つくことを恐れながら。
それでも、手を伸ばすために。
「……僕は、それを信じています」
次の瞬間。
男の身体から、黒い霧が一気に噴き出した。
「緑谷くん!」
お茶子が叫ぶ。
出久は、男を庇うように前へ出た。
だが、霧は彼を襲わなかった。
むしろ、出久の身体を避けるように、左右へと分かれていった。
黒い霧の中心で、何かが軋む。
まるで、閉じた扉を無理やりこじ開けようとしているような音だった。
そして。
男の口から、最後の言葉が漏れた。
「……嫌だ」
その声は、もう異形のものではなかった。
ただの、一人の人間の声だった。
「……俺は、俺でいたい……」
出久は、強く頷いた。
「はい」
「……俺の人生を……返してくれ……」
「……はい」
出久は、涙をこらえながら答えた。
「あなたの人生を、取り戻しましょう」
男は、目を閉じた。
その瞬間。
黒い霧が、空へと吸い込まれるように消えていった。
男の身体が崩れ落ちる。
出久は、彼を受け止めた。
「佐藤さん!」
男は、もう動かなかった。
だが。
その顔には、ほんのわずかな安らぎがあった。
出久は、しばらくの間、その身体を抱きしめていた。
やがて、相澤が駆け寄ってくる。
「緑谷! 無事か!」
「……はい」
「何があった?」
出久は、男を見下ろした。
「……分かりません。でも、この人の中にいた何かが、僕を見つけたと言っていました」
「お前を?」
「はい」
相澤の表情が険しくなる。
「どういう意味だ」
「……それも、分かりません」
出久は、首を振った。
「ただ……」
彼は、自分の手を見つめた。
そこには、何もなかった。
力も。
光も。
特別なものなど、何一つ。
それなのに。
先ほどの暗闇で感じた、あの奇妙な気配が、まだ胸の奥に残っていた。
自分は、何かに見られている。
ずっと、何かに。
そして、それは。
自分がワン・フォー・オールを失ったことさえ、知っている。
「……先生」
出久は、静かに言った。
「今回の事件は、死者が蘇っただけの話じゃないと思います」
「ああ」
相澤は、頷いた。
「俺もそう思う」
二人は、会場を見渡した。
人々は避難を続けていた。
ヒーローたちは、帰還者たちを保護し、異常の有無を確認している。
そして、慰霊碑は。
黒い霧に覆われたまま、静かに立っていた。
そこに刻まれた名前の一つ。
白雲朧。
その文字の上に、黒い亀裂が走っていた。
相澤は、まだそれに気づいていなかった。
*
南極大陸。
人類の観測網が届かない、氷の下。
そこに、女がいた。
彼女は、暗闇の中で、無数の光を見つめていた。
世界各地で蘇った死者たちの光。
それぞれが、異なる色を持っている。
懐かしい人に再会した喜び。
失った人生への怒り。
自分が何者なのか分からない恐怖。
そして。
死んだはずの自分が、再び生きていることへの戸惑い。
女は、そのすべてを眺めていた。
「……興味深い」
彼女の唇が、わずかに動く。
「死を越えてなお、意志は残る」
指先が、宙をなぞった。
その動きに合わせて、一つの光が浮かび上がる。
緑色。
弱く。
しかし、確かに輝いている光。
「緑谷出久……」
女は、その名前を口にした。
「君は、まだ何も知らない」
彼女の背後で、巨大な影が揺れた。
それは、人の形をしていなかった。
形がないというよりも、形という概念そのものが、そこには存在していないようだった。
女は、その影に向かって頭を垂れた。
「観測を継続します」
返事はなかった。
そもそも、返事をする必要などなかった。
そこにいるものは、彼女の言葉を聞いている。
聞いているというよりも。
彼女という存在を通じて、世界を見ている。
女は、再び光を見つめた。
「……あなたが人類に与えたもの」
彼女は、静かに呟いた。
「その答えを、彼らは自分たちで見つけられるでしょうか」
暗闇の奥で。
何かが、微かに脈打った。
星のない空間に、宇宙の始まりよりも古い沈黙が満ちていく。
その沈黙の中で。
女は、初めて笑った。
「楽しみですね」
彼女は、手を下ろした。
「十三年目の世界が、どこへ向かうのか」
その声は、氷の底へと消えていった。
そして、世界のどこかで。
もう一人の死者が、目を開けた。
*
午後三時。
追悼式典は、中止された。
会場周辺には緊急避難区域が設けられ、負傷者は近隣の病院へ搬送された。
幸い、今回の騒動による死者は確認されていない。
だが、帰還者の一部が異常な変化を示したこと。そして、その変化が既存の個性では説明できないことは、もはや疑いようがなかった。
世界各国の政府は、緊急声明を発表した。
死者の帰還は、現在も継続している。
帰還者の保護を最優先とする。
敵対行動が確認されない限り、帰還者への攻撃を禁ずる。
そして、異常現象については、専門機関による調査を進める。
だが。
それらの声明が、どれほど人々を安心させられたのかは、分からない。
世界は、奇跡を目の当たりにした。
そして同時に、その奇跡が人間の理解を超えた何かと繋がっていることを知った。
死者は、帰ってきた。
しかし。
帰ってきた者たちは、本当に、以前と同じ人間なのだろうか。
失われた記憶は、取り戻せるのだろうか。
身体を侵食する黒い霧は、何なのだろうか。
そして、なぜ。
その異常は、緑谷出久に関心を示したのだろうか。
答えは、まだ見つからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
世界は、もう昨日までの世界ではない。
*
夕暮れ。
雄英高校の屋上。
出久は、一人で空を見上げていた。
今日、彼は死者と再会した。
ミッドナイトに会えた。
その事実は、今でも胸の奥を温かくしている。
けれど。
同時に、恐ろしかった。
彼女は、本当に彼女なのか。
あの声は、何だったのか。
暗闇の中で見たものは、ただの幻だったのか。
それとも。
自分は、何かに選ばれようとしているのか。
「……出久くん」
背後から声がした。
振り返ると、お茶子が立っていた。
「お茶子ちゃん……」
彼女は、隣まで歩いてきた。
そして、出久の顔を見上げた。
「大丈夫?」
「……うん」
「嘘」
出久は、苦笑した。
「……分かる?」
「分かるよ」
お茶子は、彼の隣に立った。
「ずっと一緒にいたんだから」
その言葉が、胸に染みた。
出久は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……怖かった」
「うん」
「何が起こっているのか、全然分からない。死んだ人が戻ってきて、でも、その中には別の何かがいるかもしれなくて……」
「うん」
「ミッドナイト先生にも会えたのに、喜んでいいのか、分からなくなって……」
出久は、拳を握りしめた。
「……僕は、どうしたらいいんだろう」
お茶子は、すぐには答えなかった。
彼女もまた、今日の出来事に恐怖を感じていた。
死者が帰ってきた。
その中には、救いを求める人もいる。
誰かに会いたいだけの人もいる。
それなのに、彼らの中に何かが入り込み、その人生を奪おうとしている。
そんなことが許されていいはずがない。
けれど、何をすればいいのか。
どうすれば、彼らを救えるのか。
彼女にも、まだ分からなかった。
だからこそ。
彼女は、出久の手を取った。
「……一緒に考えよう」
「え……?」
「私も、分からないよ。どうしたらいいのかなんて、まだ全然分からない」
お茶子は、少しだけ笑った。
「でも、分からないからって、一人で抱え込まなくてもいいやん」
出久は、彼女を見つめた。
「出久くんが一人で考えても分からないことなら、私も一緒に考える。二人で分からなかったら、みんなで考える」
彼女は、手に力を込めた。
「それでも分からなかったら……そのときは、また考えよう」
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「……ありがとう」
出久は、微笑んだ。
その笑顔には、まだ不安が残っていた。
だが、もう一人で抱え込もうとはしていなかった。
お茶子は、それを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
そして。
彼女は、ふと思い出したように言った。
「……そういえば、出久くん」
「うん?」
「昨日、式典の後に話したいことがあるって言ってたよね?」
出久の身体が、硬直した。
「あ……」
「今日、式典は中止になっちゃったけど」
お茶子は、少しだけ頬を赤くした。
「……その話、今でも聞いていい?」
出久は、目を見開いた。
世界が変わった。
死者が戻ってきた。
人知を超えた何かが、人類を観察している。
明日、何が起こるのかさえ分からない。
そんな状況で。
自分は、まだ。
彼女に、伝えたいことがある。
彼女と、一緒にいたい。
これから先、どんな世界になっても。
隣で笑っていてほしい。
そして、自分も。
彼女の隣で、笑っていたい。
「……うん」
出久は、頷いた。
「話したい」
心臓が、うるさいほどに鳴っていた。
「ちゃんと、伝えたいんだ」
お茶子は、微笑んだ。
「……うん」
二人は、夕焼けの空を見上げた。
遠くで、街の明かりが灯り始めている。
世界は変わってしまった。
それでも、変わらないものがある。
誰かを想う気持ち。
誰かと一緒にいたいという願い。
そして。
誰かを救いたいという、祈り。
そのすべてが、今も人々の中に残っている。
だからこそ。
出久は、まだ諦めなかった。
たとえ、世界がどれほど変わってしまっても。
たとえ、死者が帰ってきても。
たとえ、その背後に、神と呼ぶしかない存在がいたとしても。
自分たちの未来を、誰かに決めさせるつもりはなかった。
*
同じ時刻。
世界のどこか。
誰もいない病室で、一人の少女が目を覚ました。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓の外には、夕暮れの空。
少女は、ゆっくりと身体を起こした。
「……ここ、どこ?」
声が、震えていた。
自分の名前が分からない。
自分が何歳なのかも、分からない。
どうしてここにいるのかも、分からない。
ただ。
誰かに会いたかった。
ずっと、誰かを探していた。
「……お母さん?」
少女は、呟いた。
その瞬間。
頭の奥で、何かが囁いた。
『――見つけた』
少女は、顔を上げた。
「……誰?」
返事はない。
ただ、窓ガラスに映った自分の顔が。
ほんの一瞬だけ。
自分の意思とは無関係に、笑った。
*
南極大陸。
氷の下。
女は、再び目を閉じた。
世界中に散らばる光の中で、いくつかが黒く染まっていく。
いくつかは、抵抗している。
いくつかは、完全に沈黙した。
そして。
一つの光だけが、黒い侵食を拒み続けていた。
緑色の光。
弱く、儚い。
それでも、消えない光。
「……緑谷出久」
女は、もう一度その名を呼んだ。
「君は、何を選ぶ?」
その問いに、答える者はいなかった。
まだ。
だが、彼女は知っていた。
この世界には、まだ多くの選択が残されている。
死者を取り戻すのか。
死者を救うのか。
力を求めるのか。
力を失ったまま進むのか。
神に未来を委ねるのか。
人間自身が未来を選ぶのか。
そして。
誰かを救うために、自分を犠牲にするのか。
それとも。
誰かと一緒に、未来を救うのか。
女は、微笑んだ。
「……楽しみですね」
その背後で、星のない暗闇が広がっていく。
世界の果てよりも遠く。
時間の始まりよりも古い場所で。
何かが、ゆっくりと目を開けた。
それは、まだ動かない。
まだ語らない。
ただ、観測している。
人類が、どこまで進化するのかを。
人類が、何を選ぶのかを。
そして。
人類が、自らの意志で神の問いに答えられる日が来るのかを。
その答えを待つように。
宇宙の奥底で、静寂が続いていた。
――第五月話・了。