――僕を殺したら、今度はお母さんが生まれなくなるよ。
その声を聞いた瞬間、僕は息をすることを忘れた。
目の前にいるのは、赤ん坊だった。
小さな手。
柔らかな頬。
まだ自分の首さえ満足に支えられない、頼りない身体。
なのに、その顔だけは知っていた。
鏡を見たときに映る顔。
幼い頃の写真に残っている顔。
僕が何度も夢の中で見た、兄さんの顔。
そして、まだ名前さえ持っていないはずの、第四の子どもの顔。
――緑谷出久。
その名前を持つ人間が、また一人、僕の目の前にいる。
「……母さん」
僕は、赤ん坊を抱いている人に呼びかけた。
緑谷引子。
僕の母親。
僕を産み、育て、愛してくれた人。
その人が、今は泣いていた。
ただし、その涙は悲しみだけでできているわけではなかった。
恐怖。
後悔。
そして、僕には理解できないほど深い、何かを諦めた人間の顔。
「出久……」
母さんが僕を見た。
「お願い」
そして、もう一度言った。
「この子を、殺して」
僕は動かなかった。
動けなかった。
その言葉が、母さんの口から出てきたという事実を、頭が受け入れられなかった。
「……どうして?」
「この子が生きていたら……あなたが死んでしまうの」
「そんなの、決まってない」
「決まっているのよ」
母さんは、赤ん坊を抱く腕に力を込めた。
「だって、そういう世界なんだもの」
その言葉を聞いた瞬間、僕の背後で扉が閉じた。
音はしなかった。
ただ、閉じた。
逃げ道がなくなったことだけが、なぜかはっきりと分かった。
「……母さん」
僕は一歩、前に出た。
「その子を渡して」
「駄目」
「僕は殺さないよ」
「分かっているわ」
「だったら――」
「だから、あなたに頼んでいるの」
母さんは、泣きながら笑った。
「あなたなら、この子を殺せると思ったの」
その瞬間。
赤ん坊が、僕を見た。
まだ何も知らないはずの瞳だった。
けれど、その瞳の奥には、僕が知っているものがあった。
何度も世界をやり直した人間の目。
自分以外の誰かを救うために、自分の存在を差し出した人間の目。
そして――。
「……僕を殺したら」
赤ん坊が言った。
「今度は、お母さんが生まれなくなるよ」
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「……どういう意味?」
赤ん坊は答えなかった。
代わりに、母さんが目を閉じた。
「ごめんなさい」
その謝罪は、僕に向けられたものなのか。
赤ん坊に向けられたものなのか。
それとも、まだこの世界のどこにも存在していない誰かに向けられたものなのか。
僕には分からなかった。
ただ一つ。
僕は、母さんが何を恐れているのかを知りたかった。
「母さん。教えて」
僕は言った。
「この子は、誰なの?」
母さんは答えなかった。
「僕の弟?」
沈黙。
「僕の兄さん?」
沈黙。
「それとも……」
喉が震えた。
「僕なの?」
母さんの顔が歪んだ。
その反応だけで、僕は理解した。
この質問は、間違っていなかった。
けれど、正解でもなかった。
「……違うのよ」
母さんは、首を横に振った。
「この子は、あなたじゃない」
「じゃあ、誰?」
「この子は……」
その瞬間、赤ん坊が泣いた。
小さな泣き声だった。
世界を壊すほどの力も。
誰かを殺すほどの憎しみも。
誰かを救うほどの知識もない。
ただ、生まれたばかりの子どもが、母親を求めて泣いているだけだった。
なのに。
僕の耳には、別の声が重なって聞こえた。
――兄さん。
――出久。
――僕を忘れて。
――僕を殺して。
――僕を生かして。
いくつもの声が、同じ顔から発せられる。
僕は両手で耳を塞いだ。
「やめて……!」
声が漏れた。
「もう、やめてよ……!」
母さんが僕を見る。
その顔を見た瞬間、僕は自分が何に怒っているのか分からなくなった。
母さんを責めたいわけじゃない。
この子を憎んでいるわけでもない。
ただ。
どうして、僕たちは生まれてくるたびに、誰かを殺さなければならないのだろう。
どうして、僕たちは生きたいと願うだけで、誰かの命を奪うことになるのだろう。
「……僕は」
僕は、赤ん坊を見た。
「僕は、この子を殺さない」
母さんは目を伏せた。
「そう……」
「兄さんも殺さない」
「……ええ」
「この子も、兄さんも、僕も。みんな生きていていいはずだ」
言いながら、僕自身がその言葉を信じきれていないことに気づいた。
これまで何度も、そう願ってきた。
何度も、そう言ってきた。
それでも世界は、そのたびに誰かを奪っていった。
それでも僕は、もう一度言う。
「みんな、生きていていいんだ」
赤ん坊が、僕を見た。
そして。
ほんの少しだけ、笑った。
「……うん」
その声は、僕の声に似ていた。
「だから、僕は生まれたいんだ」
母さんが、赤ん坊を抱く腕を震わせた。
その瞬間、部屋の壁に文字が浮かび上がった。
黒い文字だった。
誰かが、壁の向こう側から刻みつけているように、一文字ずつ現れていく。
――出生記録。
――第一母体、緑谷引子。
――第二母体、未登録。
――対象個体、緑谷出久。
――出生許可、保留。
――既存個体との重複を確認。
――母子関係の再判定を開始します。
「……またか」
僕は呟いた。
世界は、いつもそうだ。
誰かが生きようとすると、記録を持ち出してくる。
誰かが愛そうとすると、規則を持ち出してくる。
誰かが家族になろうとすると、存在を認めるかどうかを判定しようとする。
僕は、壁に向かって叫んだ。
「勝手に決めるな!」
文字が止まった。
「この子が誰なのか、母さんが誰なのか、僕たちがどんな家族なのか!」
拳を握り締める。
「そんなもの、世界に決めてもらうことじゃない!」
次の瞬間。
壁に浮かんでいた文字が、一斉に消えた。
そして、新しい一行が現れた。
――観測者、緑谷出久。
――質問を許可します。
僕は、息を呑んだ。
世界が、僕に質問を許可した?
まるで、今まで僕がしてきた質問には、答える価値さえなかったとでも言うように。
それでも。
僕は、尋ねた。
「母親が二人いた理由を教えて」
部屋が暗くなった。
母さんの姿が、薄れていく。
赤ん坊の姿も、遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、母さんの声だった。
「……出久」
その声は、僕の記憶にある母さんの声と、少しだけ違っていた。
「あなたは、私を二人いると思っているのね」
違う。
そう言いたかった。
けれど、声が出なかった。
「でもね」
母さんは言った。
「本当は、二人いたんじゃないの」
そして。
「一人しかいなかった私を、世界が二人に分けたのよ」
世界が、反転した。
*
目を開けると、僕は病院のベッドにいた。
白い天井。
消毒液の匂い。
カーテンの隙間から差し込む、薄い朝の光。
どこかで機械が規則的な音を立てている。
僕は、ゆっくりと身体を起こした。
「……病院?」
どうして、ここにいるんだろう。
最後に覚えているのは、母さんと、赤ん坊と、あの部屋だ。
僕は自分の手を見た。
小さな傷があった。
爪の間には、黒い粉のようなものが付着している。
夢ではない。
そう思った。
そのとき、カーテンの向こうから声がした。
「起きた?」
聞き慣れた声だった。
僕は、息を止めた。
「……お茶子ちゃん?」
カーテンが開いた。
麗日お茶子が立っていた。
彼女はいつもの制服ではなく、薄い色のカーディガンを羽織っていた。目の下には隠しきれない疲労があり、髪も少し乱れている。
それでも、僕を見ると、彼女は笑った。
「おはよう、出久くん」
「……おはよう」
「もう。心配したんだからね」
彼女は僕の額に手を当てた。
「熱は……ないみたい」
「僕、どうしてここに?」
「それがね……」
お茶子ちゃんは、少しだけ困ったような顔をした。
「出久くんが、突然倒れたんだよ」
「倒れた?」
「うん。お母さんと話してたら、急に意識を失っちゃって。私たち、すごくびっくりして……」
そこで、彼女は口を閉じた。
何かを思い出したようだった。
「……お母さんは?」
僕は尋ねた。
お茶子ちゃんの表情が変わった。
「それがね」
彼女は、ベッドの横に置かれた椅子を引いた。
「出久くんのお母さん、まだ来てないの」
「……そう」
「でも、さっきまでいたんだよ。お父さんも」
父さんも?
僕は眉をひそめた。
「父さんは、何か言ってた?」
「うん」
お茶子ちゃんは、僕の手を握った。
「出久くんが目を覚ましたら、最初に聞いてほしいことがあるって」
「何を?」
彼女は、少し迷った。
そして、静かに言った。
「出久くんには……お母さんが二人いたんだって」
僕は、何も言えなかった。
夢の中で聞いた言葉。
壁に刻まれた記録。
そして、母さんの最後の告白。
それらが、一本の糸で結ばれていく。
「……父さんは、どこに?」
「廊下にいるよ」
「呼んでくれる?」
「うん」
お茶子ちゃんは立ち上がった。
けれど、扉へ向かう前に、振り返った。
「出久くん」
「何?」
「……どんなことを聞いても」
彼女は、僕を見つめた。
「一人で抱え込まないでね」
その言葉に、僕は頷いた。
「うん。約束する」
お茶子ちゃんは、少しだけ安心したように笑った。
扉が閉まった。
僕は、一人になった。
病室の時計を見る。
午前二時十三分。
秒針が止まっていた。
まただ。
世界は、まだあの時間から動いていない。
僕は、枕元に置かれていた紙を見つけた。
白い封筒だった。
表には、父さんの字で、こう書かれていた。
――出久へ。
封筒を開ける。
中には、一枚の古い写真と、数枚の書類が入っていた。
写真には、若い頃の母さんが写っていた。
今よりも少し髪が長く、頬もふっくらしている。
母さんは、誰かを抱いていた。
赤ん坊だった。
そして、その隣には、もう一人の女性が立っていた。
顔は、母さんとそっくりだった。
いや。
そっくりどころではない。
同じ顔だった。
同じ目。
同じ鼻。
同じ口元。
違うのは、表情だけだった。
写真の中の母さんは、笑っていた。
もう一人の女性は、泣いていた。
僕は写真を裏返した。
そこには、日付と、短い文章が書かれていた。
――第一子、出生。
――第二母体、死亡。
――母子関係、統合処理。
――処理結果、成功。
「……何だよ、これ」
声が震えた。
写真を握る手に、力が入る。
もう一枚の書類を見る。
出生証明書だった。
そこには、僕の名前が記されていた。
緑谷出久。
生年月日。
出生時刻。
父親の名前。
母親の名前。
そして、その下に。
もう一つ、名前があった。
――御影出久。
僕は、息を止めた。
書類には、二人分の出生記録が並んでいた。
けれど、母親の欄は、どちらも同じ名前だった。
緑谷引子。
その下には、小さな文字で注記が記されている。
――母親は一名。
――母体は二名。
――矛盾なし。
僕は、書類を何度も見直した。
意味が分からなかった。
母親は一人。
母体は二人。
それなのに、矛盾はない。
いったい、どういうことなんだ。
そのとき、扉が開いた。
「……起きたか」
父さんだった。
緑谷久志。
いつもよりも、ずっと老けて見えた。
髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれている。
僕は、手に持っていた書類を見せた。
「父さん。説明して」
父さんは、書類を見た。
そして、目を閉じた。
「……そうか」
「そうか、じゃないよ」
思わず声が強くなった。
「母さんが二人いたって、どういうことなんだよ!」
父さんは、椅子に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前たちが生まれる前の話だ」
*
母さんには、姉妹がいた。
少なくとも、父さんが知っている記録では、そうなっていた。
同じ日に生まれた双子。
顔も、声も、身体的な特徴も、ほとんど同じだった。
違っていたのは、名前と、戸籍と、周囲の人々が二人をどう扱ったかだけだった。
姉の名前は、緑谷引子。
妹の名前は、御影――。
「……待って」
僕は父さんの言葉を遮った。
「御影?」
「ああ」
「それって……」
「お前の兄の名前と同じだ」
父さんは、目を伏せた。
「だが、同じ名前だからといって、同じ人間とは限らない」
そんなことは分かっている。
分かっているけれど。
「……母さんには、双子の妹がいたの?」
「記録上は、そうだ」
「記録上?」
「本当にそうだったのかは、今となっては分からない」
父さんは、写真を手に取った。
「この写真が撮影された頃、私はまだ、お前の母親と結婚していなかった」
写真の中の二人は、若かった。
そして、どちらも赤ん坊を抱いていた。
いや。
違う。
写真の中の赤ん坊は、一人だけだった。
母さんが抱いている。
もう一人の女性は、空の腕を抱えるようにして立っていた。
「……この人は、誰なの?」
「お前の母親だ」
「母さんは、写真の中にいるよ」
「そうだ」
「だったら、この人は……」
「もう一人の母親だ」
僕は、言葉を失った。
父さんは続けた。
「お前の母親には、二つの出生記録が存在していた」
「二つ?」
「一つは、緑谷引子として生まれた記録。もう一つは、御影引子として生まれた記録だ」
「……同じ人が、二回生まれたってこと?」
「そういうことになる」
父さんは、苦しそうに笑った。
「いや。正確には、二人の人間が、一人の人間として記録されていた」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で、何かが繋がった。
兄さん。
御影出久。
僕と同じ顔をした、もう一人の出久。
同じ時間に生まれたはずなのに、世界から存在を否定された子ども。
僕たちだけじゃなかったんだ。
母さんも。
母さんも、同じだったんだ。
「……それで?」
僕は、続きを促した。
「二人は、どうなったの?」
父さんは、写真の裏面を見つめた。
「一人は、緑谷引子として生きた」
「もう一人は?」
「……生まれなかったことになった」
胸の奥が、冷たくなった。
「生まれなかった?」
「ああ」
「でも、写真に写ってるじゃないか」
「そうだな」
「父さんだって、知ってたんだろ?」
「……知っていた」
「じゃあ、どうして……」
僕は、言葉を切った。
父さんの顔を見た。
そこには、言い訳も、怒りもなかった。
ただ、長い年月をかけて固まった後悔だけがあった。
「……俺が、選んだからだ」
父さんは言った。
「どちらか一人しか存在できないと言われたとき、俺は、緑谷引子を選んだ」
「……何?」
「お前の母親が、緑谷引子として生きられる世界を選んだんだ」
僕は、息を吸った。
うまく吸えなかった。
「……じゃあ」
声が震える。
「もう一人の母さんは?」
父さんは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「……その人は、どうなったの?」
「記録から消えた」
「記録から?」
「ああ。出生記録も、戸籍も、周囲の人間の記憶も。最初から存在しなかったことになった」
父さんは、拳を握った。
「ただ、一つだけ残ったものがあった」
「……何?」
「名前だ」
父さんは、僕を見た。
「御影」
その名前を聞いた瞬間、僕は写真を握り締めた。
御影出久。
僕の兄さん。
母さんのもう一つの名前。
生まれなかったことにされた母親。
そして、世界から消された子ども。
全部、繋がっている。
でも。
まだ、分からないことがある。
「……父さん」
「何だ」
「母さんは、知っていたの?」
父さんの表情が変わった。
「……何をだ」
「自分が二人いたこと」
沈黙。
「もう一人の母さんがいたこと」
沈黙。
「その人が、生まれなかったことになったこと」
父さんは、目を閉じた。
「……知っていた」
僕は、何も言えなかった。
「お前の母親は、忘れていなかった」
父さんは続けた。
「世界が記録を書き換えても、周囲の人間が忘れても、あいつだけは覚えていた」
「……どうして?」
「自分が、もう一人の自分を見送ったからだ」
僕の胸が、強く痛んだ。
「……見送った?」
「そうだ」
父さんは、震える声で言った。
「お前の母親は、もう一人の自分を抱いていた」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「……何?」
「生まれなかったことにされた人間は、完全に消えるわけじゃない。世界が、その存在を認めないだけだ」
父さんは、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、あいつは……自分の中に残った、もう一人の自分を抱いていた」
僕は、母さんの顔を思い浮かべた。
いつも笑っていた母さん。
僕が落ち込んでいると、何も聞かずに抱き締めてくれた母さん。
僕が怪我をすると、自分のことのように泣いた母さん。
あの優しさは、どこから来ていたんだろう。
僕はずっと、母さんが優しい人だからだと思っていた。
もちろん、それも嘘じゃない。
けれど。
母さんは、知っていたんだ。
自分が失ったものを。
自分が、失わせてしまったものを。
そして、その痛みを、誰にも伝えられなかったんだ。
「……じゃあ」
僕は、ゆっくりと尋ねた。
「兄さんは?」
父さんが顔を上げた。
「御影出久は、どこから生まれたの?」
父さんの顔が、歪んだ。
「……それは」
言いかけた瞬間。
病室の時計が、音を立てた。
カチリ。
秒針が、一つ進んだ。
午前二時十四分。
十三年間、止まっていた時間が。
初めて、進んだ。
僕と父さんは、同時に時計を見た。
そして、病室の扉が開いた。
「……やっと、ここまで来たね」
その声を聞いた瞬間、僕は立ち上がろうとした。
けれど、身体が動かなかった。
扉の前に立っていたのは、母さんだった。
いや。
違う。
顔は、母さんと同じだった。
声も、同じだった。
けれど、その人は、僕の知っている母さんではなかった。
彼女は、僕を見つめていた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……出久」
彼女は言った。
「大きくなったね」
僕は、息を呑んだ。
父さんが、立ち上がった。
「……お前は」
その人は、父さんを見た。
「久しぶりね」
父さんの顔から、血の気が引いた。
「……そんなはずはない」
「そうね」
彼女は、静かに笑った。
「あなたにとっては、そうでしょうね」
彼女は僕のベッドへ近づいた。
そして、僕の頬に手を伸ばした。
その手は、温かかった。
確かに、そこに存在していた。
「……私は、あなたのお母さんよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は震えた。
「……でも」
僕は、彼女を見た。
「母さんは、別にいる」
「ええ」
彼女は頷いた。
「あなたには、お母さんが二人いるもの」
「……どうして?」
「それを、知りたいのね」
彼女は、僕の手を握った。
「なら、教えてあげる」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「私が、あなたを産んだからよ」
僕は、何も言えなかった。
彼女は続けた。
「あなたを産んだのは、私」
その指が、僕の頬を撫でた。
「あなたを育てたのは、もう一人の私」
僕は、父さんを見た。
父さんは、何も言わなかった。
「……じゃあ」
僕は、震える声で尋ねた。
「僕の母さんは、どっちなの?」
彼女は、悲しそうに笑った。
「どちらも、あなたのお母さんよ」
その瞬間、僕の胸の奥で、何かが崩れた。
母さんが二人いた理由。
それは、単純な双子の話ではなかった。
僕たちの世界は、一人の人間を二人に分けた。
そして、その二人を、一人として扱った。
僕たち兄弟がそうだったように。
母さんたちも、同じだった。
ただ、違っていたのは。
僕たちは、互いを兄弟だと知っていた。
けれど、母さんたちは。
互いを、同じ人間だと思わされていたのだ。
片方が生きるために、もう片方が消えた。
片方が母親になるために、もう片方は母親ではなくなった。
そして。
僕を産んだ母親は、世界から消された。
僕を育てた母親は、そのことを忘れられなかった。
「……僕を産んだのは、あなたなんだね」
僕は、彼女を見た。
「……ええ」
「じゃあ、兄さんは?」
彼女の表情が、変わった。
「御影出久は……誰の子なの?」
長い沈黙があった。
その沈黙の中で、僕は、彼女の目に浮かんだ涙を見た。
「……あの子も、私の子よ」
彼女は言った。
「私が産んだの」
その瞬間。
病室の壁に、文字が浮かび上がった。
――第一子、御影出久。
――第二子、緑谷出久。
――母親、御影引子。
――養育母、緑谷引子。
――母子関係、二重登録。
――存在矛盾、継続中。
僕は、その文字を見つめた。
そして、最後の一行を読んだ。
――第一子の死亡を成立させた者。
――緑谷引子。
僕は、首を横に振った。
「……違う」
声が漏れた。
「母さんは、兄さんを殺してなんかいない」
彼女は、何も言わなかった。
父さんも、何も言わなかった。
僕は、もう一度言った。
「母さんは、兄さんを殺してなんかいない!」
壁の文字が、点滅した。
――観測者の否認を確認。
――記録の再照合を開始。
――第一子の死亡原因を再判定します。
その瞬間。
彼女が、僕の手を強く握った。
「……出久」
彼女の声は、震えていた。
「あなたは、まだ知らないのね」
「……何を?」
彼女は、涙を流した。
「私が、あの子を産んだときのことを」
僕は、息を止めた。
「……産んだとき?」
「そう」
彼女は、僕を見つめた。
「あなたたち兄弟は、同じ日に生まれたんじゃないの」
僕の身体が、凍りついた。
「……え?」
「あなたたちは、同じ日に生まれたことにされたの」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「本当は、あの子が先だった」
その言葉が、病室に落ちた。
「御影出久は、あなたより先に生まれた」
僕は、何も言えなかった。
「そして……」
彼女は、僕の手を握ったまま、続けた。
「あなたが生まれる前に、あの子は一度、死んでいるの」
僕は、彼女を見た。
「……何?」
「あなたが生まれる前に、あの子は死んだ」
彼女は、泣いていた。
「でも、あの子は……」
声が震えた。
「死ぬ前に、私にお願いしたの」
彼女は、僕の額に手を当てた。
「――お母さん。僕の弟を、産んで」
僕は、息をすることができなかった。
兄さんが。
御影出久が。
僕の兄さんが。
僕が生まれる前に、僕のために死んでいた?
「……そんなの」
僕は、首を横に振った。
「そんなの、知らない……」
「ええ」
彼女は頷いた。
「あなたは、知らなくていいはずだった」
その瞬間。
病室の扉の向こうから、声がした。
「……母さん」
僕は振り返った。
扉の隙間に、一人の少年が立っていた。
僕と同じ顔。
僕と同じ緑色の瞳。
けれど、その姿は、少しだけ透けていた。
御影出久。
僕の兄さん。
彼は、僕を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……ごめんね、出久」
僕は、ベッドから降りようとした。
「兄さん!」
けれど、身体が動かない。
兄さんは、首を横に振った。
「僕が、最初に死んだんだ」
その言葉と同時に、病室の時計が動いた。
午前二時十五分。
十三年間、止まっていた時間が。
さらに一秒、進んだ。
兄さんは、僕を見つめたまま、言った。
「だから、今度こそ……僕を、死なせてほしい」
僕は、叫んだ。
「嫌だ!」
兄さんの顔が、歪んだ。
「……出久」
「嫌だ! 兄さんを殺すなんて、絶対に嫌だ!」
僕は、手を伸ばした。
「兄さんも、母さんも、僕も! 誰も死ななくていい世界を作るんだ!」
兄さんは、泣きそうな顔で笑った。
「……それが、できなかったから」
その瞬間。
病室のすべての明かりが消えた。
暗闇の中で、母さんの声が響いた。
「――出久」
僕を産んだ母親の声。
「あなたが生まれたとき、私は一つだけ、約束をしたの」
闇の中で、誰かが泣いていた。
「この子だけは、絶対に死なせないって」
そして、もう一人の母さんの声が重なった。
「――出久」
僕を育ててくれた母さんの声。
「私は、一つだけ、約束を破ったの」
僕は、暗闇の中で、二人の声を聞いた。
「この子だけは、絶対に死なせないって」
同じ言葉だった。
同じ声だった。
同じ約束だった。
けれど。
二人の母親は、違う子どもを守ろうとしていた。
僕を産んだ母親は、僕を守ろうとした。
僕を育てた母親は、兄さんを守ろうとした。
そして、二人とも。
守りたかった子どもを、守れなかった。
そのとき、暗闇の向こうから、赤ん坊の声が聞こえた。
「……ねえ」
あの子だ。
第四の子ども。
まだ名前を持たない、もう一人の出久。
「僕は、どっちのお母さんから生まれるの?」
僕は、答えられなかった。
「僕が生まれたら、どっちかのお母さんが死んじゃうの?」
答えられなかった。
「ねえ、出久兄さん」
小さな声が、震えた。
「僕は……生まれちゃ、駄目なの?」
僕は、目を閉じた。
そして、叫んだ。
「違う!」
暗闇の中で、声が響いた。
「そんなこと、絶対にない!」
僕は、何度も叫んだ。
「生まれてきていいんだ! 君も、兄さんも、母さんたちも!」
涙が頬を伝った。
「僕たちは、誰かの代わりに生まれてきたんじゃない!」
暗闇の向こうで、赤ん坊が泣いた。
その泣き声は、少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。
そして。
誰かが、僕の手を握った。
小さな手だった。
温かかった。
「……うん」
赤ん坊が言った。
「じゃあ、僕も生まれるね」
その瞬間。
世界が、白く染まった。
*
僕が再び目を開けたとき、病室には誰もいなかった。
父さんも。
母さんたちも。
兄さんも。
そして、あの赤ん坊も。
ただ、枕元に一枚の紙が置かれていた。
僕は、それを手に取った。
そこには、見覚えのある文字が書かれていた。
――第零回観測記録。
――母親は、一人だった。
――しかし、母体は二つ存在した。
――第一子は、母親を二人に分けた。
――第二子は、母親を一人に戻した。
――第三子は、母親の記憶を引き継いだ。
――第四子は、母親の誕生を必要とする。
僕は、紙を握り締めた。
その下には、さらに一行、書かれていた。
――母親を生んだのは、第一子である。
「……は?」
思わず、声が出た。
母親を生んだのは、第一子。
第一子は、御影出久。
僕の兄さん。
つまり。
兄さんが生まれなければ、母さんは生まれなかった?
いや。
違う。
それだけじゃない。
兄さんが死んだことで、母さんが生まれた?
母さんが生まれたことで、僕が生まれた?
僕が生まれたことで、兄さんが生まれなかったことになった?
そして、僕たちが生きている限り、第四の子どもは生まれられない?
僕は、頭を抱えた。
「……何なんだよ、これ」
世界は、僕たちを家族にしたかったのか。
それとも、家族であることを、永遠に許したくなかったのか。
答えは、まだ分からない。
ただ。
僕は、もう一つのことに気づいていた。
紙の一番下。
小さな文字で、追記があった。
――第二章、観測終了。
僕は、息を止めた。
その下に、さらに一行。
――ただし、観測対象の生存を確認できず。
そして、最後の一文。
――次章、母親を生んだ子どもを探せ。
病室の時計が、再び音を立てた。
午前二時十六分。
秒針が、動いた。
十三年間、止まっていた時間が。
初めて、前へ進んでいた。
僕は、窓の外を見た。
夜明け前の空が、少しずつ明るくなっていた。
その空の向こうに。
誰かが、立っていた。
小さな子どもだった。
僕と同じ顔をした、子ども。
その子は、窓越しに僕を見つめていた。
そして、口を動かした。
声は聞こえなかった。
けれど、僕には分かった。
その子は、こう言ったのだ。
――お兄ちゃん。
――僕を、産んで。
僕は、窓に手を伸ばした。
その瞬間、子どもの姿が消えた。
代わりに、窓ガラスに文字が浮かび上がった。
赤い文字だった。
血のような色だった。
――第三章。
――第一話。
――「母親を生んだ子ども」
僕は、その文字を見つめた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
もう、逃げない。
兄さんを救う。
母さんたちを救う。
そして、まだ生まれていないあの子も。
誰かを犠牲にしなければ生きられない世界そのものを、変えてみせる。
たとえ、そのために。
僕自身が、何度生まれ直すことになったとしても。
――第二章、終。