僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三章 偽物の顔、燃え続ける過去 第一話「母親を生んだ子ども」

 

 午前二時十六分。

 

 時計の針が、もう一度動いた。

 

 カチリ。

 

 たった一秒。

 

 それだけのことだった。

 

 けれど、僕にとっては十三年ぶりの出来事だった。

 

 世界が、時間を進めた。

 

 僕たちが生まれた夜から、ずっと止まっていた時間。

 

 何度も夢に見た、午前二時十三分。

 

 あの時間に閉じ込められた人たち。

 

 生まれたはずなのに、生まれなかったことにされた人たち。

 

 死んだはずなのに、生きている人たち。

 

 そして、生きているはずなのに、誰の記憶にも残らない人たち。

 

 そのすべてを閉じ込めていた時計が、今、動いている。

 

「……動いた」

 

 僕は、時計を見つめたまま呟いた。

 

 午前二時十六分。

 

 たった三分しか進んでいない。

 

 それなのに、僕はひどく遠い場所まで来てしまった気がした。

 

 僕を産んだ母親。

 

 僕を育ててくれた母さん。

 

 兄さん。

 

 第四の子ども。

 

 そして、母親を生んだ子ども。

 

 最後の記録には、そう書かれていた。

 

 ――次章、母親を生んだ子どもを探せ。

 

 僕は、枕元に置かれた紙をもう一度読み直した。

 

 何度読んでも、文章は変わらなかった。

 

 第一子は、母親を二人に分けた。

 

 第二子は、母親を一人に戻した。

 

 第三子は、母親の記憶を引き継いだ。

 

 第四子は、母親の誕生を必要とする。

 

 そして。

 

 母親を生んだのは、第一子である。

 

「……第一子」

 

 御影出久。

 

 僕の兄さん。

 

 兄さんが母親を生んだ?

 

 そんなことがあるはずがない。

 

 人間は、母親から生まれるものだ。

 

 母親が子どもを産む。

 

 子どもが母親を産むなんて、あり得ない。

 

 でも。

 

 この物語では、僕が知っている常識は、何一つとして当てにならなかった。

 

 人間が二人いるのに、一人として登録される。

 

 一人の人間が二人に分けられる。

 

 死んだ人間が生きていて、生きている人間が死んでいる。

 

 そして、母親が子どもを産むのではなく、子どもが母親を生む。

 

 だったら。

 

 僕は、何を基準にして、あり得ないと判断すればいいのだろう。

 

「……考えても、分からないか」

 

 僕は紙を折り畳もうとした。

 

 そのときだった。

 

 裏面に、何かが書かれていることに気づいた。

 

 最初は、何もなかったはずだ。

 

 少なくとも、僕が確認したときには。

 

 紙を裏返す。

 

 そこには、たった一行だけ、文字が浮かび上がっていた。

 

 ――お母さんを探すなら、病院の地下へ。

 

 僕は、息を止めた。

 

 続いて、その下に文字が現れた。

 

 ――ただし、そこにいるお母さんは、あなたのお母さんではありません。

 

 最後に。

 

 紙の端に、小さな子どもの字で書き加えられた。

 

 ――お兄ちゃん、今度は僕を見つけてね。

 

 僕は、その文字を見つめた。

 

 あの子だ。

 

 窓の向こうにいた、もう一人の僕。

 

 第四の子ども。

 

 まだ生まれていないはずの、僕の弟。

 

 いや。

 

 弟と呼んでいいのかどうかさえ、今は分からない。

 

「……分かったよ」

 

 僕は紙を握り締めた。

 

「今度こそ、見つけるから」

 

 そのとき。

 

 病室の扉が、勢いよく開いた。

 

「出久くん!」

 

 お茶子ちゃんだった。

 

 彼女は、息を切らしていた。

 

「よかった……!」

 

 僕を見るなり、駆け寄ってくる。

 

「急にいなくなったから、どうしようかと思った……!」

 

「……え?」

 

 僕は、彼女を見た。

 

「いなくなった?」

 

「うん!」

 

 お茶子ちゃんは、僕の手を握った。

 

「さっきまで、ここにいたのに……気づいたら、ベッドが空っぽで!」

 

「でも、僕はずっとここに……」

 

 言いかけて、僕は口を閉じた。

 

 違う。

 

 彼女が言っているのは、今のことじゃない。

 

 僕が病室で目を覚ます前のことだ。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「何?」

 

「僕がいなくなっていた間、どれくらい時間が経っていたの?」

 

 彼女は、不思議そうな顔をした。

 

「十三年」

 

 僕は、息を止めた。

 

「……え?」

 

「十三年だよ」

 

 お茶子ちゃんは、泣きそうな顔で笑った。

 

「出久くんが、十三年間いなくなっていたの」

 

 頭の中が、真っ白になった。

 

 十三年。

 

 僕は、ずっと病室にいたつもりだった。

 

 時計が動いたのを見たのも、ついさっきだ。

 

 なのに。

 

 世界では、十三年が経過していた?

 

「……待って」

 

 僕は、彼女の肩を掴んだ。

 

「お茶子ちゃん、今、何歳?」

 

「え?」

 

「今、何年なの?」

 

 お茶子ちゃんの表情が変わった。

 

 彼女は、僕の顔をじっと見つめた。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……出久くん」

 

「何?」

 

「本当に、何も覚えていないの?」

 

 僕は答えられなかった。

 

 彼女は、僕の手を握り直した。

 

「今は、二〇三九年だよ」

 

 僕は、窓の外を見た。

 

 そこには、見慣れない街並みが広がっていた。

 

 病院の向かいにあったはずの古い建物はなくなり、代わりに高層ビルが建っている。

 

 道路を走る車も、僕が知っているものとは違っていた。

 

 空には、小型の輸送機が飛んでいる。

 

 街頭の大型スクリーンには、見知らぬ人物の顔が映し出されていた。

 

 そして、その下に表示されているニュースの見出し。

 

 ――十三年前に失踪した緑谷出久氏、発見か。

 

 僕は、スクリーンを見つめた。

 

「……十三年前?」

 

 お茶子ちゃんが、頷いた。

 

「うん」

 

「僕が、失踪した?」

 

「……うん」

 

「でも、僕は……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 僕は、病室にいた。

 

 母さんと話していた。

 

 兄さんと会った。

 

 時計が動いた。

 

 その記憶は、確かにある。

 

 なのに、世界では十三年が経過していた。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「僕がいなくなったとき、何があったの?」

 

 彼女は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、僕の手を握ったまま、静かに答えた。

 

「出久くんが、死んだんだよ」

 

 その言葉が、胸に突き刺さった。

 

「……何?」

 

「十三年前。午前二時十三分」

 

 彼女は、目を伏せた。

 

「出久くんは、死んだことになったの」

 

 僕は、息を吸った。

 

 うまく吸えなかった。

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

「でも、僕は生きてる」

 

「うん」

 

「じゃあ、何で……」

 

 お茶子ちゃんは、泣いていた。

 

「分からないよ……!」

 

 声が震える。

 

「私だって、分からない……!」

 

 彼女は、僕の胸に顔を埋めた。

 

「出久くんがいなくなって、十三年だよ……! ずっと探してたんだよ……! どこにもいなくて、何も残ってなくて……!」

 

 僕は、彼女を抱き締めた。

 

 何も言えなかった。

 

 彼女は、十三年間、僕を探していた。

 

 僕が知らない十三年間を。

 

 僕がいない世界を。

 

 彼女は、生きていた。

 

 僕を失ったまま。

 

 それなのに、僕は。

 

 ほんの数分しか経っていないと思っていた。

 

「……ごめん」

 

 僕は、彼女の髪に顔を埋めた。

 

「ごめんね、お茶子ちゃん……」

 

「……謝らないで」

 

 彼女は首を横に振った。

 

「出久くんが、わざといなくなったんじゃないって、分かってるから……」

 

 それでも。

 

 僕は謝ることしかできなかった。

 

 そのとき、彼女の背後にある窓が、真っ黒に染まった。

 

 空が暗くなったのではない。

 

 窓の外に広がっていた景色そのものが、黒い何かに塗り潰されていく。

 

 高層ビル。

 

 道路。

 

 輸送機。

 

 大型スクリーン。

 

 そのすべてが、少しずつ消えていった。

 

 お茶子ちゃんが顔を上げる。

 

「……何?」

 

 僕は、彼女を背後にかばった。

 

 黒い窓の中央に、白い文字が浮かび上がった。

 

 ――世界再構築、完了。

 

 ――再構築前の世界における観測者、緑谷出久。

 

 ――再構築後の世界における対象者、緑谷出久。

 

 ――同一個体の重複を確認。

 

 ――処理を開始します。

 

「……また、これかよ」

 

 僕は、歯を食いしばった。

 

 世界が、僕を消そうとしている。

 

 十三年前と同じように。

 

 兄さんを消したときと同じように。

 

 母さんたちを二人に分けたときと同じように。

 

 僕たちの存在を、都合よく書き換えようとしている。

 

「ふざけるな……!」

 

 僕は、窓に向かって叫んだ。

 

「十三年間、僕がどこにいたのかも分からないくせに! 僕が誰なのかも分からないくせに!」

 

 拳を握り締める。

 

「勝手に、僕を消すな!」

 

 その瞬間。

 

 背後から、小さな声が聞こえた。

 

「……お兄ちゃん」

 

 振り返る。

 

 病室の隅に、子どもが立っていた。

 

 五歳くらいだろうか。

 

 黒い髪。

 

 緑色の瞳。

 

 僕と同じ顔。

 

 その子は、少しだけ悲しそうに笑った。

 

「やっと、見つけた」

 

 僕は、息を止めた。

 

「……君は」

 

「うん」

 

 子どもは頷いた。

 

「僕だよ」

 

 僕と同じ顔をした子ども。

 

 第四の子ども。

 

 まだ生まれていないはずの、もう一人の出久。

 

 その子が、僕の前に立っていた。

 

 けれど。

 

 僕は、すぐに違和感に気づいた。

 

 この子は、赤ん坊ではない。

 

 五歳くらいの子どもだ。

 

 つまり。

 

 この子は、僕よりも後に生まれた存在ではない。

 

 少なくとも、見た目だけなら。

 

「……君、何歳?」

 

 僕は尋ねた。

 

 子どもは、首を傾げた。

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「うん。だって、僕は生まれていないから」

 

 僕は、言葉を失った。

 

「……じゃあ、どうしてそんなに大きいの?」

 

「それはね」

 

 子どもは、笑った。

 

「お兄ちゃんが、十三年間、僕を生まれさせなかったからだよ」

 

 胸の奥が、冷たくなった。

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

 子どもは、僕の手を取った。

 

「お兄ちゃんが、僕を生まれさせない世界を選んだんだ」

 

「そんなこと、してない!」

 

「そうだね」

 

 子どもは、あっさり頷いた。

 

「今のお兄ちゃんは、していない」

 

 その言葉に、僕は息を止めた。

 

「……今の?」

 

「うん」

 

 子どもは、僕を見上げた。

 

「お兄ちゃんは、何人もいるから」

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中に、いくつもの光景が蘇った。

 

 世界をやり直した僕。

 

 兄さんを救えなかった僕。

 

 兄さんを救うために、世界を壊した僕。

 

 自分を忘れさせることで、誰かを生かそうとした僕。

 

 そして、まだ生まれていない子どもを殺すことで、母親を守ろうとした僕。

 

 僕たちは、同じ名前を持っていた。

 

 同じ顔をしていた。

 

 同じ人間として扱われていた。

 

 けれど、同じではなかった。

 

「……君は、どの世界の僕なの?」

 

 子どもは、少しだけ考えた。

 

 そして、答えた。

 

「お兄ちゃんが、最初に僕を殺した世界」

 

 僕は、何も言えなかった。

 

「……最初に?」

 

「うん」

 

 子どもは、僕の手を握ったまま、続けた。

 

「でもね。お兄ちゃんは、僕を殺したことを覚えていないんだ」

 

 その声は、責めるようなものではなかった。

 

 むしろ、悲しそうだった。

 

「だから、僕は何度も生まれ直した」

 

 子どもは、窓の外を見た。

 

 黒く染まった景色の向こうに、何かを見つめているようだった。

 

「何度も、何度も」

 

 そして、僕を見た。

 

「お兄ちゃんに、もう一度会うために」

 

 僕は、膝をついた。

 

 子どもと目線を合わせる。

 

「……ごめん」

 

 自然と、その言葉が出ていた。

 

「僕が、君を殺したんだね」

 

 子どもは、首を横に振った。

 

「違うよ」

 

「……え?」

 

「お兄ちゃんが、僕を殺したんじゃない」

 

 子どもは、笑った。

 

「僕が、お兄ちゃんに殺されることを選んだんだ」

 

 僕は、息を止めた。

 

 その言葉は、あまりにも。

 

 あまりにも、兄さんの言葉に似ていた。

 

 兄さんも、そうだった。

 

 僕を生かすために、自分が死ぬことを選んだ。

 

 お茶子ちゃんを苦しませないために、自分の存在を消そうとした。

 

 母さんたちを守るために、自分が生まれなかったことにしようとした。

 

 そして、この子も。

 

 同じことをしようとしている。

 

「……駄目だ」

 

 僕は、子どもの肩を掴んだ。

 

「そんなこと、絶対に駄目だ!」

 

 子どもは、驚いたように目を見開いた。

 

「お兄ちゃん……?」

 

「誰かに殺されることを選んじゃ駄目なんだ!」

 

 僕は、必死に言った。

 

「自分が死ねば誰かが助かるなんて、そんなことを当たり前にしちゃいけない!」

 

 声が震えた。

 

「兄さんも、君も、僕も……もう、そんな選択をしなくていいんだ!」

 

 子どもは、僕を見つめた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……じゃあ」

 

 その瞳に、涙が浮かんだ。

 

「僕は、どうすればよかったの?」

 

 僕は、言葉を失った。

 

「お兄ちゃんが生まれるためには、誰かが死ななきゃいけなかった」

 

 子どもは、続けた。

 

「お兄ちゃんが生きるためには、僕が生まれちゃいけなかった」

 

 小さな手が、僕の服を掴む。

 

「でも、僕は……お兄ちゃんに会いたかったんだ」

 

 その言葉に、僕は何も言えなくなった。

 

「お兄ちゃんと、一緒に遊びたかった」

 

 子どもは、泣きながら笑った。

 

「お兄ちゃんと、ご飯を食べたかった」

 

 僕の胸が、強く痛んだ。

 

「お兄ちゃんに、名前を呼んでほしかった」

 

 涙が頬を伝った。

 

「……僕は」

 

 子どもは、僕を見つめた。

 

「僕は、生まれちゃいけなかったの?」

 

 僕は、彼を抱き締めた。

 

 強く。

 

 絶対に離さないように。

 

「違う」

 

 声が震えた。

 

「そんなこと、絶対にない」

 

 僕は、何度も言った。

 

「君は、生まれてきていいんだ」

 

 その瞬間。

 

 窓の外に浮かんでいた文字が、すべて消えた。

 

 ――処理を中断します。

 

 ――観測者の発言に矛盾を確認。

 

 ――対象個体の存在を再判定します。

 

 子どもが、僕の腕の中で顔を上げた。

 

「……お兄ちゃん」

 

「何?」

 

「僕、名前が欲しい」

 

 僕は、息を呑んだ。

 

 第四の子ども。

 

 まだ名前を持たない、もう一人の出久。

 

 彼は、僕と同じ名前を持っていた。

 

 けれど、それは彼自身が選んだ名前ではなかった。

 

 誰かに与えられた名前。

 

 誰かの代わりに与えられた名前。

 

 誰かが生きるために、押し付けられた名前。

 

 僕は、彼の頭を撫でた。

 

「……うん」

 

 そして、笑った。

 

「一緒に考えよう」

 

 子どもは、目を見開いた。

 

「……いいの?」

 

「もちろん」

 

「僕が、自分で決めていいの?」

 

「うん」

 

 僕は頷いた。

 

「君の名前は、君が決めていいんだ」

 

 子どもは、しばらく黙っていた。

 

 やがて、僕の胸に顔を埋めた。

 

「……ありがとう」

 

 その声を聞いた瞬間。

 

 僕は、確信した。

 

 この子を救わなければならない。

 

 兄さんを救うのと同じように。

 

 母さんたちを救うのと同じように。

 

 この子が、自分の名前を選べる世界を作らなければならない。

 

 そのためなら、僕は何度だって世界に立ち向かう。

 

 何度だって、運命を拒む。

 

 何度だって、誰かを救う。

 

 たとえ。

 

 僕自身が、何人に分かれてしまったとしても。

 

     *

 

「……出久くん」

 

 お茶子ちゃんの声で、僕は我に返った。

 

 僕は、彼女を振り返った。

 

「……お茶子ちゃん?」

 

「今の子……誰?」

 

 彼女は、僕の腕の中にいる子どもを見つめていた。

 

 その顔には、困惑が浮かんでいた。

 

「……この子は」

 

 僕は、言葉を探した。

 

「僕の……弟、だと思う」

 

「弟?」

 

 お茶子ちゃんは、子どもを見た。

 

 子どもも、彼女を見た。

 

 そして。

 

 小さな声で言った。

 

「……お姉ちゃん」

 

 お茶子ちゃんの身体が、硬直した。

 

「……え?」

 

「お姉ちゃん」

 

 子どもは、もう一度言った。

 

「僕、お姉ちゃんに会いたかった」

 

 お茶子ちゃんの顔から、血の気が引いた。

 

 僕は、彼女の肩に手を置いた。

 

「お茶子ちゃん?」

 

 彼女は、震える手で口元を押さえた。

 

「……嘘」

 

 その目から、涙が零れ落ちた。

 

「……嘘だよ」

 

「どうしたの?」

 

「だって……」

 

 彼女は、子どもを見つめた。

 

「その子……」

 

 声が震えた。

 

「その子は、十三年前に……」

 

 僕は、息を止めた。

 

「……十三年前?」

 

 お茶子ちゃんは、泣きながら言った。

 

「私と出久くんが、結婚するはずだった日に……」

 

 僕の頭の中で、何かが弾けた。

 

「……結婚?」

 

 彼女は、頷いた。

 

「うん」

 

 そして、僕を見た。

 

「私たちには、子どもがいたの」

 

 僕は、何も言えなかった。

 

「……この子が」

 

 お茶子ちゃんは、子どもの頬に手を伸ばした。

 

「私たちの、子どもだったの」

 

 病室の時計が、音を立てた。

 

 午前二時十七分。

 

 秒針が、一つ進んだ。

 

 その瞬間。

 

 子どもが、僕を見た。

 

 そして、静かに笑った。

 

「……お父さん」

 

 僕は、息を止めた。

 

 お茶子ちゃんが、泣き崩れた。

 

 僕は、何も言えなかった。

 

 だって。

 

 僕は、この子を知らない。

 

 この子と過ごした記憶なんて、一つもない。

 

 結婚した記憶も。

 

 父親になった記憶も。

 

 この子が生まれた記憶も。

 

 何一つ、ない。

 

 なのに。

 

 この子は、僕を父親と呼んだ。

 

 そして、僕は。

 

 その声を、どこかで聞いたことがあるような気がした。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 僕は、子どもの頬に手を伸ばした。

 

「……君の名前は?」

 

 子どもは、少しだけ考えた。

 

 そして、笑った。

 

「緑谷出久」

 

 僕は、目を閉じた。

 

 また、その名前だった。

 

 また、僕と同じ名前だった。

 

 けれど、今回は違う。

 

 この子は、僕の代わりに生まれたわけじゃない。

 

 僕の代わりに死ぬために生まれたわけでもない。

 

 この子は、僕たちの子どもだった。

 

 僕と、お茶子ちゃんの。

 

 そのはずだった。

 

 そのはずなのに。

 

 病室の壁に、文字が浮かび上がった。

 

 ――対象個体、緑谷出久。

 

 ――出生年月日、十三年前。

 

 ――父親、緑谷出久。

 

 ――母親、麗日お茶子。

 

 ――死亡記録、確認。

 

 ――死亡時刻、午前二時十三分。

 

 僕は、文字を見つめた。

 

 そして、その下に現れた最後の一行を読んだ。

 

 ――この子を殺したのは、現在の緑谷出久である。

 

 僕は、息を止めた。

 

 子どもが、僕の手を握った。

 

「……お父さん」

 

 彼は、笑っていた。

 

 泣きそうな顔で。

 

「今度は、僕を忘れないでね」

 

 午前二時十八分。

 

 時計が、また動いた。

 

 そして、僕は思い出した。

 

 十三年前。

 

 僕が、誰かを救うために。

 

 誰かを守るために。

 

 誰かを、生まれさせないために。

 

 僕自身の手で、殺した子どものことを。

 

 ――第三章・第一話、終。

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