午前二時十六分。
時計の針が、もう一度動いた。
カチリ。
たった一秒。
それだけのことだった。
けれど、僕にとっては十三年ぶりの出来事だった。
世界が、時間を進めた。
僕たちが生まれた夜から、ずっと止まっていた時間。
何度も夢に見た、午前二時十三分。
あの時間に閉じ込められた人たち。
生まれたはずなのに、生まれなかったことにされた人たち。
死んだはずなのに、生きている人たち。
そして、生きているはずなのに、誰の記憶にも残らない人たち。
そのすべてを閉じ込めていた時計が、今、動いている。
「……動いた」
僕は、時計を見つめたまま呟いた。
午前二時十六分。
たった三分しか進んでいない。
それなのに、僕はひどく遠い場所まで来てしまった気がした。
僕を産んだ母親。
僕を育ててくれた母さん。
兄さん。
第四の子ども。
そして、母親を生んだ子ども。
最後の記録には、そう書かれていた。
――次章、母親を生んだ子どもを探せ。
僕は、枕元に置かれた紙をもう一度読み直した。
何度読んでも、文章は変わらなかった。
第一子は、母親を二人に分けた。
第二子は、母親を一人に戻した。
第三子は、母親の記憶を引き継いだ。
第四子は、母親の誕生を必要とする。
そして。
母親を生んだのは、第一子である。
「……第一子」
御影出久。
僕の兄さん。
兄さんが母親を生んだ?
そんなことがあるはずがない。
人間は、母親から生まれるものだ。
母親が子どもを産む。
子どもが母親を産むなんて、あり得ない。
でも。
この物語では、僕が知っている常識は、何一つとして当てにならなかった。
人間が二人いるのに、一人として登録される。
一人の人間が二人に分けられる。
死んだ人間が生きていて、生きている人間が死んでいる。
そして、母親が子どもを産むのではなく、子どもが母親を生む。
だったら。
僕は、何を基準にして、あり得ないと判断すればいいのだろう。
「……考えても、分からないか」
僕は紙を折り畳もうとした。
そのときだった。
裏面に、何かが書かれていることに気づいた。
最初は、何もなかったはずだ。
少なくとも、僕が確認したときには。
紙を裏返す。
そこには、たった一行だけ、文字が浮かび上がっていた。
――お母さんを探すなら、病院の地下へ。
僕は、息を止めた。
続いて、その下に文字が現れた。
――ただし、そこにいるお母さんは、あなたのお母さんではありません。
最後に。
紙の端に、小さな子どもの字で書き加えられた。
――お兄ちゃん、今度は僕を見つけてね。
僕は、その文字を見つめた。
あの子だ。
窓の向こうにいた、もう一人の僕。
第四の子ども。
まだ生まれていないはずの、僕の弟。
いや。
弟と呼んでいいのかどうかさえ、今は分からない。
「……分かったよ」
僕は紙を握り締めた。
「今度こそ、見つけるから」
そのとき。
病室の扉が、勢いよく開いた。
「出久くん!」
お茶子ちゃんだった。
彼女は、息を切らしていた。
「よかった……!」
僕を見るなり、駆け寄ってくる。
「急にいなくなったから、どうしようかと思った……!」
「……え?」
僕は、彼女を見た。
「いなくなった?」
「うん!」
お茶子ちゃんは、僕の手を握った。
「さっきまで、ここにいたのに……気づいたら、ベッドが空っぽで!」
「でも、僕はずっとここに……」
言いかけて、僕は口を閉じた。
違う。
彼女が言っているのは、今のことじゃない。
僕が病室で目を覚ます前のことだ。
「……お茶子ちゃん」
「何?」
「僕がいなくなっていた間、どれくらい時間が経っていたの?」
彼女は、不思議そうな顔をした。
「十三年」
僕は、息を止めた。
「……え?」
「十三年だよ」
お茶子ちゃんは、泣きそうな顔で笑った。
「出久くんが、十三年間いなくなっていたの」
頭の中が、真っ白になった。
十三年。
僕は、ずっと病室にいたつもりだった。
時計が動いたのを見たのも、ついさっきだ。
なのに。
世界では、十三年が経過していた?
「……待って」
僕は、彼女の肩を掴んだ。
「お茶子ちゃん、今、何歳?」
「え?」
「今、何年なの?」
お茶子ちゃんの表情が変わった。
彼女は、僕の顔をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……出久くん」
「何?」
「本当に、何も覚えていないの?」
僕は答えられなかった。
彼女は、僕の手を握り直した。
「今は、二〇三九年だよ」
僕は、窓の外を見た。
そこには、見慣れない街並みが広がっていた。
病院の向かいにあったはずの古い建物はなくなり、代わりに高層ビルが建っている。
道路を走る車も、僕が知っているものとは違っていた。
空には、小型の輸送機が飛んでいる。
街頭の大型スクリーンには、見知らぬ人物の顔が映し出されていた。
そして、その下に表示されているニュースの見出し。
――十三年前に失踪した緑谷出久氏、発見か。
僕は、スクリーンを見つめた。
「……十三年前?」
お茶子ちゃんが、頷いた。
「うん」
「僕が、失踪した?」
「……うん」
「でも、僕は……」
言葉が続かなかった。
僕は、病室にいた。
母さんと話していた。
兄さんと会った。
時計が動いた。
その記憶は、確かにある。
なのに、世界では十三年が経過していた。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「僕がいなくなったとき、何があったの?」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて、僕の手を握ったまま、静かに答えた。
「出久くんが、死んだんだよ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……何?」
「十三年前。午前二時十三分」
彼女は、目を伏せた。
「出久くんは、死んだことになったの」
僕は、息を吸った。
うまく吸えなかった。
「……僕が?」
「うん」
「でも、僕は生きてる」
「うん」
「じゃあ、何で……」
お茶子ちゃんは、泣いていた。
「分からないよ……!」
声が震える。
「私だって、分からない……!」
彼女は、僕の胸に顔を埋めた。
「出久くんがいなくなって、十三年だよ……! ずっと探してたんだよ……! どこにもいなくて、何も残ってなくて……!」
僕は、彼女を抱き締めた。
何も言えなかった。
彼女は、十三年間、僕を探していた。
僕が知らない十三年間を。
僕がいない世界を。
彼女は、生きていた。
僕を失ったまま。
それなのに、僕は。
ほんの数分しか経っていないと思っていた。
「……ごめん」
僕は、彼女の髪に顔を埋めた。
「ごめんね、お茶子ちゃん……」
「……謝らないで」
彼女は首を横に振った。
「出久くんが、わざといなくなったんじゃないって、分かってるから……」
それでも。
僕は謝ることしかできなかった。
そのとき、彼女の背後にある窓が、真っ黒に染まった。
空が暗くなったのではない。
窓の外に広がっていた景色そのものが、黒い何かに塗り潰されていく。
高層ビル。
道路。
輸送機。
大型スクリーン。
そのすべてが、少しずつ消えていった。
お茶子ちゃんが顔を上げる。
「……何?」
僕は、彼女を背後にかばった。
黒い窓の中央に、白い文字が浮かび上がった。
――世界再構築、完了。
――再構築前の世界における観測者、緑谷出久。
――再構築後の世界における対象者、緑谷出久。
――同一個体の重複を確認。
――処理を開始します。
「……また、これかよ」
僕は、歯を食いしばった。
世界が、僕を消そうとしている。
十三年前と同じように。
兄さんを消したときと同じように。
母さんたちを二人に分けたときと同じように。
僕たちの存在を、都合よく書き換えようとしている。
「ふざけるな……!」
僕は、窓に向かって叫んだ。
「十三年間、僕がどこにいたのかも分からないくせに! 僕が誰なのかも分からないくせに!」
拳を握り締める。
「勝手に、僕を消すな!」
その瞬間。
背後から、小さな声が聞こえた。
「……お兄ちゃん」
振り返る。
病室の隅に、子どもが立っていた。
五歳くらいだろうか。
黒い髪。
緑色の瞳。
僕と同じ顔。
その子は、少しだけ悲しそうに笑った。
「やっと、見つけた」
僕は、息を止めた。
「……君は」
「うん」
子どもは頷いた。
「僕だよ」
僕と同じ顔をした子ども。
第四の子ども。
まだ生まれていないはずの、もう一人の出久。
その子が、僕の前に立っていた。
けれど。
僕は、すぐに違和感に気づいた。
この子は、赤ん坊ではない。
五歳くらいの子どもだ。
つまり。
この子は、僕よりも後に生まれた存在ではない。
少なくとも、見た目だけなら。
「……君、何歳?」
僕は尋ねた。
子どもは、首を傾げた。
「分からない」
「分からない?」
「うん。だって、僕は生まれていないから」
僕は、言葉を失った。
「……じゃあ、どうしてそんなに大きいの?」
「それはね」
子どもは、笑った。
「お兄ちゃんが、十三年間、僕を生まれさせなかったからだよ」
胸の奥が、冷たくなった。
「……僕が?」
「うん」
子どもは、僕の手を取った。
「お兄ちゃんが、僕を生まれさせない世界を選んだんだ」
「そんなこと、してない!」
「そうだね」
子どもは、あっさり頷いた。
「今のお兄ちゃんは、していない」
その言葉に、僕は息を止めた。
「……今の?」
「うん」
子どもは、僕を見上げた。
「お兄ちゃんは、何人もいるから」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中に、いくつもの光景が蘇った。
世界をやり直した僕。
兄さんを救えなかった僕。
兄さんを救うために、世界を壊した僕。
自分を忘れさせることで、誰かを生かそうとした僕。
そして、まだ生まれていない子どもを殺すことで、母親を守ろうとした僕。
僕たちは、同じ名前を持っていた。
同じ顔をしていた。
同じ人間として扱われていた。
けれど、同じではなかった。
「……君は、どの世界の僕なの?」
子どもは、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「お兄ちゃんが、最初に僕を殺した世界」
僕は、何も言えなかった。
「……最初に?」
「うん」
子どもは、僕の手を握ったまま、続けた。
「でもね。お兄ちゃんは、僕を殺したことを覚えていないんだ」
その声は、責めるようなものではなかった。
むしろ、悲しそうだった。
「だから、僕は何度も生まれ直した」
子どもは、窓の外を見た。
黒く染まった景色の向こうに、何かを見つめているようだった。
「何度も、何度も」
そして、僕を見た。
「お兄ちゃんに、もう一度会うために」
僕は、膝をついた。
子どもと目線を合わせる。
「……ごめん」
自然と、その言葉が出ていた。
「僕が、君を殺したんだね」
子どもは、首を横に振った。
「違うよ」
「……え?」
「お兄ちゃんが、僕を殺したんじゃない」
子どもは、笑った。
「僕が、お兄ちゃんに殺されることを選んだんだ」
僕は、息を止めた。
その言葉は、あまりにも。
あまりにも、兄さんの言葉に似ていた。
兄さんも、そうだった。
僕を生かすために、自分が死ぬことを選んだ。
お茶子ちゃんを苦しませないために、自分の存在を消そうとした。
母さんたちを守るために、自分が生まれなかったことにしようとした。
そして、この子も。
同じことをしようとしている。
「……駄目だ」
僕は、子どもの肩を掴んだ。
「そんなこと、絶対に駄目だ!」
子どもは、驚いたように目を見開いた。
「お兄ちゃん……?」
「誰かに殺されることを選んじゃ駄目なんだ!」
僕は、必死に言った。
「自分が死ねば誰かが助かるなんて、そんなことを当たり前にしちゃいけない!」
声が震えた。
「兄さんも、君も、僕も……もう、そんな選択をしなくていいんだ!」
子どもは、僕を見つめた。
そして、静かに言った。
「……じゃあ」
その瞳に、涙が浮かんだ。
「僕は、どうすればよかったの?」
僕は、言葉を失った。
「お兄ちゃんが生まれるためには、誰かが死ななきゃいけなかった」
子どもは、続けた。
「お兄ちゃんが生きるためには、僕が生まれちゃいけなかった」
小さな手が、僕の服を掴む。
「でも、僕は……お兄ちゃんに会いたかったんだ」
その言葉に、僕は何も言えなくなった。
「お兄ちゃんと、一緒に遊びたかった」
子どもは、泣きながら笑った。
「お兄ちゃんと、ご飯を食べたかった」
僕の胸が、強く痛んだ。
「お兄ちゃんに、名前を呼んでほしかった」
涙が頬を伝った。
「……僕は」
子どもは、僕を見つめた。
「僕は、生まれちゃいけなかったの?」
僕は、彼を抱き締めた。
強く。
絶対に離さないように。
「違う」
声が震えた。
「そんなこと、絶対にない」
僕は、何度も言った。
「君は、生まれてきていいんだ」
その瞬間。
窓の外に浮かんでいた文字が、すべて消えた。
――処理を中断します。
――観測者の発言に矛盾を確認。
――対象個体の存在を再判定します。
子どもが、僕の腕の中で顔を上げた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「僕、名前が欲しい」
僕は、息を呑んだ。
第四の子ども。
まだ名前を持たない、もう一人の出久。
彼は、僕と同じ名前を持っていた。
けれど、それは彼自身が選んだ名前ではなかった。
誰かに与えられた名前。
誰かの代わりに与えられた名前。
誰かが生きるために、押し付けられた名前。
僕は、彼の頭を撫でた。
「……うん」
そして、笑った。
「一緒に考えよう」
子どもは、目を見開いた。
「……いいの?」
「もちろん」
「僕が、自分で決めていいの?」
「うん」
僕は頷いた。
「君の名前は、君が決めていいんだ」
子どもは、しばらく黙っていた。
やがて、僕の胸に顔を埋めた。
「……ありがとう」
その声を聞いた瞬間。
僕は、確信した。
この子を救わなければならない。
兄さんを救うのと同じように。
母さんたちを救うのと同じように。
この子が、自分の名前を選べる世界を作らなければならない。
そのためなら、僕は何度だって世界に立ち向かう。
何度だって、運命を拒む。
何度だって、誰かを救う。
たとえ。
僕自身が、何人に分かれてしまったとしても。
*
「……出久くん」
お茶子ちゃんの声で、僕は我に返った。
僕は、彼女を振り返った。
「……お茶子ちゃん?」
「今の子……誰?」
彼女は、僕の腕の中にいる子どもを見つめていた。
その顔には、困惑が浮かんでいた。
「……この子は」
僕は、言葉を探した。
「僕の……弟、だと思う」
「弟?」
お茶子ちゃんは、子どもを見た。
子どもも、彼女を見た。
そして。
小さな声で言った。
「……お姉ちゃん」
お茶子ちゃんの身体が、硬直した。
「……え?」
「お姉ちゃん」
子どもは、もう一度言った。
「僕、お姉ちゃんに会いたかった」
お茶子ちゃんの顔から、血の気が引いた。
僕は、彼女の肩に手を置いた。
「お茶子ちゃん?」
彼女は、震える手で口元を押さえた。
「……嘘」
その目から、涙が零れ落ちた。
「……嘘だよ」
「どうしたの?」
「だって……」
彼女は、子どもを見つめた。
「その子……」
声が震えた。
「その子は、十三年前に……」
僕は、息を止めた。
「……十三年前?」
お茶子ちゃんは、泣きながら言った。
「私と出久くんが、結婚するはずだった日に……」
僕の頭の中で、何かが弾けた。
「……結婚?」
彼女は、頷いた。
「うん」
そして、僕を見た。
「私たちには、子どもがいたの」
僕は、何も言えなかった。
「……この子が」
お茶子ちゃんは、子どもの頬に手を伸ばした。
「私たちの、子どもだったの」
病室の時計が、音を立てた。
午前二時十七分。
秒針が、一つ進んだ。
その瞬間。
子どもが、僕を見た。
そして、静かに笑った。
「……お父さん」
僕は、息を止めた。
お茶子ちゃんが、泣き崩れた。
僕は、何も言えなかった。
だって。
僕は、この子を知らない。
この子と過ごした記憶なんて、一つもない。
結婚した記憶も。
父親になった記憶も。
この子が生まれた記憶も。
何一つ、ない。
なのに。
この子は、僕を父親と呼んだ。
そして、僕は。
その声を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
何度も。
何度も。
何度も。
僕は、子どもの頬に手を伸ばした。
「……君の名前は?」
子どもは、少しだけ考えた。
そして、笑った。
「緑谷出久」
僕は、目を閉じた。
また、その名前だった。
また、僕と同じ名前だった。
けれど、今回は違う。
この子は、僕の代わりに生まれたわけじゃない。
僕の代わりに死ぬために生まれたわけでもない。
この子は、僕たちの子どもだった。
僕と、お茶子ちゃんの。
そのはずだった。
そのはずなのに。
病室の壁に、文字が浮かび上がった。
――対象個体、緑谷出久。
――出生年月日、十三年前。
――父親、緑谷出久。
――母親、麗日お茶子。
――死亡記録、確認。
――死亡時刻、午前二時十三分。
僕は、文字を見つめた。
そして、その下に現れた最後の一行を読んだ。
――この子を殺したのは、現在の緑谷出久である。
僕は、息を止めた。
子どもが、僕の手を握った。
「……お父さん」
彼は、笑っていた。
泣きそうな顔で。
「今度は、僕を忘れないでね」
午前二時十八分。
時計が、また動いた。
そして、僕は思い出した。
十三年前。
僕が、誰かを救うために。
誰かを守るために。
誰かを、生まれさせないために。
僕自身の手で、殺した子どものことを。
――第三章・第一話、終。