午前二時十八分。
病室の時計が動いた瞬間、緑谷出久は、自分が誰かを殺したという記憶を取り戻した。
それは、血に濡れた手の記憶ではなかった。
首を絞めた感触でも、刃物を突き立てた感触でもない。
もっと嫌な記憶だった。
誰かに手を伸ばしていた。
目の前で、小さな子どもが泣いていた。
そして自分は、その子どもを見つめながら、確かにこう言ったのだ。
――君が生まれなければ、みんなが助かるんだ。
次の瞬間、世界が白く染まった。
子どもの泣き声が消えた。
それから先の記憶がない。
「……っ!」
出久は、息を呑んで飛び起きた。
身体が震えていた。
呼吸が乱れている。
手のひらが冷たい。
それなのに、胸の奥だけが焼けるように熱かった。
「出久くん!」
麗日お茶子が駆け寄る。
彼女は泣いていた。
先ほどから、ずっと泣いている。
十三年ぶりに再会した恋人が、自分の知らない十三年間を生きていた。そして、自分との間に生まれたはずの子どもが、目の前にいる。
なのに、その子どもを殺したのは、現在の緑谷出久だと記録されている。
何もかもが、おかしかった。
おかしいのに。
おかしいという理由だけでは、目の前の子どもの存在を否定できない。
「……お茶子ちゃん」
「うん……!」
「この子を、見ていてくれる?」
お茶子は、腕の中の子どもを抱き締めた。
その子は、出久と同じ顔をしていた。
五歳ほどの男の子。
緑色の瞳。
少し癖のある髪。
そして、出久が幼い頃に見せていたものと、まったく同じ笑い方。
「……うん」
お茶子は答えた。
「もちろんだよ」
出久は、ベッドから降りた。
足が震えた。
けれど、歩けないほどではない。
窓の外では、世界が黒く染まっていた。
高層ビルも、道路も、街灯も。
すべてが闇の向こうへ沈みかけている。
そして、窓ガラスには、まだあの文字が残っていた。
――この子を殺したのは、現在の緑谷出久である。
出久は、その文字を見つめた。
「……誰が、こんな記録を残したんだ」
返事はなかった。
代わりに、病室のスピーカーから、ノイズが流れた。
ザーッ。
ザーッ。
ザーッ。
それから、聞き覚えのある声が響いた。
『――臨時ニュースをお伝えします』
女性アナウンサーの声だった。
『東京都内の複数の地域で、原因不明の大規模火災が発生しています。現場では、炎が燃え広がっているにもかかわらず、建物の一部が焼失する前の状態に戻る現象が確認されており――』
映像が切り替わった。
炎に包まれた街。
逃げ惑う人々。
空中で停止したままの消防車。
そして。
燃えている建物の屋上に、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
見慣れた輪郭。
出久と、同じ顔。
少年はカメラに向かって笑っていた。
『現場には、緑谷出久氏と酷似した人物が確認されており、警察では――』
映像が乱れた。
ノイズの向こうから、少年の声が聞こえた。
『違うよ』
アナウンサーの声が止まる。
映像の少年が、カメラを見つめた。
『僕が、本物だ』
出久は、息を止めた。
少年は笑った。
『そっちにいる緑谷出久は、偽物だよ』
映像が、真っ黒になった。
そして。
『――早く、僕を殺しに来てね』
放送が切れた。
病室に沈黙が落ちる。
出久は、ゆっくりと拳を握った。
「……なるほど」
声が、自分でも驚くほど冷たかった。
「僕を呼んでいるんだね」
*
同じ時刻。
東京湾岸、第七物流区画。
燃えていたのは、建物だけではなかった。
道路も、車も、積み上げられたコンテナも。
そして、人々の記憶も。
「なんだよ、これ……!」
現場に駆けつけた警察官が叫んだ。
目の前で、一人の男性が炎に包まれている。
しかし、男性は燃えていなかった。
服も、髪も、皮膚も。
何一つ損傷していない。
それなのに、男性は泣き叫んでいた。
「熱い! 熱い! 助けてくれ!」
警察官が駆け寄ろうとした瞬間、男性の身体が消えた。
「――っ!?」
次の瞬間。
十メートル離れた場所に、同じ男性が現れた。
服装も、顔も、声も同じ。
ただし、こちらの男性は、燃えていなかった。
「……あれ?」
男性は、自分の手を見つめた。
「俺、何してたんだ?」
警察官は、動けなかった。
その背後で、炎が逆流した。
焼け落ちたはずの建物が、元の姿へ戻っていく。
砕けた窓ガラスが空中を舞い、窓枠へと戻る。
崩れた壁が立ち上がる。
焼失した看板が、何事もなかったように元の位置へ戻る。
そして、その建物の中から。
人間が、現れた。
一人。
二人。
三人。
十人。
百人。
彼らは全員、同じ顔をしていた。
警察官が、震える声で呟く。
「……緑谷、出久?」
その瞬間、全員が一斉に顔を上げた。
百人の緑谷出久が、同じ声で答えた。
「はい」
そして。
「僕たちは、英雄です」
炎が、青く染まった。
*
東京の地下深く。
地上の火災とは無関係に見える、巨大な施設があった。
そこは、かつて存在した研究所の跡地だった。
表向きには閉鎖されている。
公的な記録にも残っていない。
しかし、その地下には、いまも稼働を続ける設備が存在していた。
壁一面に並ぶモニター。
幾重にも重ねられた監視映像。
そして、中央に設置された巨大な円形装置。
その前に、一人の男が立っていた。
男は、モニターに映る百人の緑谷出久を見つめていた。
「……始まったか」
男の背後から、別の声がした。
「ええ。予定よりも早いですね」
白い衣服を纏った人物だった。
顔は仮面で覆われている。
仮面には、目も口もなかった。
「十三年分の燃料が、ようやく燃え始めた」
男は、画面から目を離さなかった。
「燃料、か」
「不適切な表現でしたか?」
「いや」
男は笑った。
「むしろ、正確すぎて嫌になる」
画面の中では、百人の緑谷出久が、燃える街を歩いていた。
彼らは人々を救っていた。
倒壊した建物から人を運び出し、炎に包まれた車両から子どもを助け、負傷者の応急処置を行っている。
誰もが、完璧な英雄だった。
誰もが、理想的な緑谷出久だった。
ただ一つだけ。
彼らは、全員が同じことを言っていた。
『本物の緑谷出久を、連れてきてください』
男は、口元を歪めた。
「……偽物の英雄か」
「いいえ」
仮面の人物は答えた。
「彼らは、偽物ではありません」
「ほう?」
「彼らは、それぞれの世界において、確かに緑谷出久だった存在です」
男は、ゆっくりと振り返った。
「つまり?」
「世界が一つずつ消えるたびに、英雄も一人ずつ失われた。その英雄たちを、我々が回収したのです」
「回収した英雄たちを、一つの世界へ集めた」
「その通りです」
仮面の人物は、モニターに視線を向けた。
「彼らには、救いたかった人間がいる。守りたかった家族がいる。叶えたかった未来がある」
「そして、果たせなかった約束がある」
「ええ」
仮面の人物は頷いた。
「だからこそ、彼らは燃え続ける」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねた。
「……八欲デスは、何を考えている?」
その名前が出た瞬間、施設の照明が一度だけ明滅した。
仮面の人物は、答えなかった。
「八つの欲望を一つずつ解放し、世界を再構築する。そういう計画だったはずだ」
「はい」
「ならば、なぜ最初に緑谷出久なんだ?」
男は、画面の中の少年を指差した。
「英雄を増やしてどうする。英雄が増えれば、世界を壊すのが難しくなる」
「……逆です」
仮面の人物が言った。
「英雄が増えれば、英雄を殺す理由も増える」
男の笑みが消えた。
「なるほど」
彼は、再び画面を見た。
「そういうことか」
そのとき。
施設の奥から、笑い声が響いた。
「アハハハハハッ!」
甲高い声だった。
少女の声。
無邪気で、楽しそうで、それでいて、どこか壊れている。
「ねえねえ! もう始まっちゃったの!?」
壁の上から、逆さまに顔を覗かせた少女がいた。
金色の瞳。
乱れた髪。
口元には、血のように赤い笑み。
渡我被身子。
彼女は、楽しそうに手を叩いた。
「すごーい! 出久くんがいっぱい!」
その隣から、別の男が顔を出した。
「いやいやいや! 待て待て待て! 出久がいっぱいって何だよ!? いや、いいことなのか!? いや、絶対よくないだろ!」
トゥワイスだった。
彼は自分の頭を抱え、壁に寄りかかった。
「……いや、でもよ」
声が少しだけ低くなる。
「本物が一人しかいないなら、残りは偽物なんだろ?」
彼はモニターを見た。
「……じゃあ、あいつらは何なんだ?」
誰も答えなかった。
トガは、笑顔のまま画面を見つめていた。
「ねえ」
彼女は言った。
「私、あの子たちの血が欲しいな」
「おいおいおい! やめろって! そんなにいっぱいいたら、誰の血を取ればいいか分からなくなるだろ!」
「全部!」
「全部!?」
トゥワイスは叫んだ。
「いや、それは最高だ! いや、最低だろ!」
トガは、楽しそうに笑った。
「だって、みんな出久くんなんでしょ?」
その言葉に、トゥワイスは黙った。
「みんな、同じ顔をしてる」
トガは、自分の頬に指を当てた。
「同じ声で、同じように笑ってる」
そして、画面の中の一人を指差した。
「でも、あの子は違う」
その少年は、燃える街の中央で、泣いている女の子を抱き締めていた。
少女を救い出したあと、彼は何度も謝っていた。
自分が遅れたことを。
自分が助けられなかった人がいることを。
そして、少女を一人にしてしまったことを。
トガの笑顔が、少しだけ変わった。
「……あの子」
彼女は、小さく呟いた。
「本当に、出久くんみたい」
トゥワイスは、彼女を見た。
「……トガちゃん?」
「ねえ、ジン」
「何だ?」
「私たち、あの子を助けられるかな?」
トゥワイスは、答えなかった。
代わりに、画面を見つめた。
そして、静かに言った。
「……助けるって、何からだ?」
トガは、笑わなかった。
*
施設の中央。
円形装置の前に、八つの椅子が並んでいた。
そのうち、七つには人影があった。
残る一つは、空席だった。
それぞれの椅子の前には、異なる紋章が浮かんでいる。
嫉妬。
強欲。
傲慢。
色欲。
虚飾。
暴食。
怠惰。
そして、最後の椅子には、何も記されていなかった。
その空席を見つめながら、男が言った。
「八欲デスは、全員揃っているのか?」
「いいえ」
仮面の人物が答えた。
「八番目は、まだ目覚めていません」
「……そうか」
男は、少しだけ考えた。
「なら、七人で始めるしかないな」
「すでに始まっています」
仮面の人物は、モニターを指差した。
「八欲のうち、虚飾が活動を開始しました」
トガが、顔を上げた。
「……私?」
「あなたと、トゥワイス」
仮面の人物は言った。
「二人で一つの欲望を担う。それが、今回の計画です」
トゥワイスは、露骨に嫌そうな顔をした。
「待て待て待て! 俺とトガちゃんで一つ!? いや、光栄だ! いや、絶対に嫌だ!」
トガは、彼の腕に抱きついた。
「よろしくね、ジン!」
「よろしく! いや、よろしくしたくない!」
仮面の人物は、二人を見つめた。
「あなたたちの役割は、ただ一つ」
モニターの映像が切り替わる。
そこには、出久と同じ顔をした人々が映っていた。
「本物と偽物の境界を、壊すことです」
トガは、笑った。
「……いいね」
彼女の瞳が、赤く輝いた。
「それ、すっごく楽しそう」
トゥワイスは、顔を覆った。
「終わった……俺たち、絶対に終わった……!」
しかし、その声には、いつもの冗談めいた調子がなかった。
彼は知っていた。
人間の姿を真似ること。
誰かの顔を借りること。
自分自身が、何人にも増えてしまうこと。
そして、どれが本物なのか分からなくなること。
それが、どれほど恐ろしいことなのかを。
彼は、モニターの中の少年を見た。
「……緑谷出久」
呟いた。
「お前、何をしたんだ?」
答えはなかった。
ただ、画面の中の少年が、こちらを見た。
まるで。
こちら側にいる全員の存在を、最初から知っていたかのように。
*
午前二時三十分。
雄英高校、地下医療区画。
出久は、病院を出る準備をしていた。
「……出久くん、本当に行くの?」
お茶子が、不安そうに尋ねた。
「うん」
「でも、身体が……」
「大丈夫」
出久は、笑った。
それは、彼女が知っている笑顔だった。
けれど、お茶子は、その笑顔に違和感を覚えた。
十三年前。
出久がいなくなる直前にも、彼は同じように笑っていた。
何かを隠しているとき。
誰かを救うために、自分を犠牲にしようとしているとき。
そして、自分だけが苦しめばいいと思っているとき。
「……出久くん」
お茶子は、彼の手を握った。
「一人で行かないで」
出久は、彼女を見た。
「……うん」
「本当に?」
「本当だよ」
彼は、頷いた。
「僕は、もう一人で全部を背負わない」
お茶子は、彼の顔を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
彼女は、子どもを抱き締めた。
「この子は、私が守る」
出久は、目を伏せた。
「……ありがとう」
「でも」
お茶子は、顔を上げた。
「絶対に帰ってきてね」
出久は、笑った。
「うん」
その約束が、どれほど重いものなのか。
彼は、まだ知らなかった。
*
東京湾岸、第七物流区画。
出久が到着したとき、街は燃えていた。
いや。
正確には、燃えているように見えた。
炎は建物を焼いている。
けれど、建物は崩れない。
人々は逃げ惑っている。
けれど、誰一人として死んでいない。
消防車は現場に到着している。
けれど、消防士たちは同じ場所を何度も走り続けている。
時間が、繰り返されていた。
出久は、ゆっくりと歩き出した。
「……これは」
街の中央に、百人の少年が立っていた。
全員が、出久と同じ顔をしていた。
そのうちの一人が、出久を見つけた。
「あ」
少年は、笑った。
「来たね」
次々と、他の少年たちが振り返る。
百人。
二百人。
数えきれないほどの緑谷出久たちが、出久を見つめていた。
「……君たちは」
出久は、声を絞り出した。
「何者なんだ?」
一人の少年が、前へ出た。
その顔は、出久と同じだった。
しかし、その目には、出久が持っていないものがあった。
深い憎しみ。
長い孤独。
そして、何度も世界を失った人間だけが持つ、疲れ果てた絶望。
「僕たちは、君だよ」
少年は言った。
「君が、捨てたもの」
出久は、息を止めた。
「……捨てた?」
「そう」
少年は、笑った。
「君は、誰かを救うたびに、何かを捨ててきた」
彼は、手を広げた。
「記憶」
「……」
「名前」
「……」
「約束」
「……」
「そして、命」
少年は、出久を見つめた。
「僕たちは、その全部だよ」
出久は、拳を握り締めた。
「……違う」
「違わない」
「僕は、誰も捨てていない!」
少年は、少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、どうして僕は、ここにいるの?」
出久は、答えられなかった。
「どうして僕たちは、ここにいるの?」
少年たちが、一斉に声を上げた。
「どうして、僕たちは死んだの?」
「どうして、僕たちは生まれなかったの?」
「どうして、僕たちは忘れられたの?」
「どうして、君だけが生きているの?」
声が重なった。
街が震えた。
炎が、さらに大きくなった。
出久は、耳を塞ぎたくなった。
けれど、塞がなかった。
彼らの声を聞かなければならない。
彼らが何を訴えているのか、知らなければならない。
「……僕は」
出久は、一歩前へ出た。
「君たちを、助けたい」
その瞬間。
百人の少年が、笑った。
嘲笑だった。
悲鳴だった。
泣き声だった。
そして、怒りだった。
「助ける?」
最初の少年が言った。
「君が?」
彼は、出久に近づいた。
「君は、僕たちを殺したんだよ」
出久の胸が、痛んだ。
「……それでも」
彼は、声を絞り出した。
「それでも、僕は君たちを救いたい」
少年は、出久の目の前で立ち止まった。
そして、静かに尋ねた。
「……じゃあ、選んでよ」
「……何を?」
「僕たちの中から、一人だけ」
少年は、周囲を見渡した。
「一人だけ、本物にして」
出久は、息を止めた。
「……何?」
「一人だけ、本物にしてよ」
少年は、笑った。
「そうすれば、残りは消えてもいいんでしょ?」
出久は、首を横に振った。
「違う!」
「じゃあ、全員を本物にしてよ」
少年は、さらに笑った。
「できるの?」
出久は、答えられなかった。
「できないよね」
少年は、囁いた。
「だって、世界は一人しか認めないんだから」
その瞬間。
街の上空に、巨大な映像が浮かび上がった。
そこには、一人の男が映っていた。
顔は仮面で覆われている。
声は加工されていた。
しかし、その言葉は、街中に響き渡った。
『緑谷出久』
男が言った。
『君に、選択の機会を与えよう』
出久は、空を見上げた。
『この街にいる緑谷出久たちの中から、一人を選べ』
炎が、止まった。
『選ばれた一人は、君と共に生きる』
街の人々が、顔を上げた。
『選ばれなかった者たちは、消滅する』
出久は、拳を握り締めた。
『選択を拒否した場合――』
映像の男は、少しだけ笑った。
『この街にいる、すべての人間が死ぬ』
静寂。
誰も動かなかった。
出久は、空を見つめた。
「……お前」
声が震えた。
「何者なんだ」
男は、答えなかった。
代わりに、映像が切り替わった。
そこには、一人の少女が映っていた。
血に濡れた刃物を持った、金色の瞳の少女。
渡我被身子。
彼女は、笑っていた。
『ねえ、出久くん』
彼女は、楽しそうに言った。
『私、あなたの顔が好きなの』
映像が切り替わる。
今度は、トゥワイスだった。
『おいおいおい! なんだよこれ! 俺たち、完全に悪役じゃねえか! いや、実際そうなんだけどよ!』
彼は、頭を抱えた。
『でもな、緑谷出久!』
トゥワイスは、カメラを見つめた。
『俺たちも、誰かに選ばれたかったんだよ』
その言葉に、出久は息を止めた。
『本物か偽物かなんて、どうでもいい』
トゥワイスは、笑った。
『ただ、誰かに「お前はここにいていい」って言ってほしかったんだ』
映像が、途切れた。
そして、最後に。
トガの声が聞こえた。
『だから、出久くん』
彼女は、囁いた。
『あなたが、私たちを選んでよ』
映像が消えた。
街に、沈黙が落ちた。
出久は、ゆっくりと目を閉じた。
八欲デス。
虚飾。
トガとトゥワイス。
彼らは、ただ出久を殺そうとしているわけではない。
出久に、選ばせようとしている。
本物と偽物。
生きる者と、消える者。
救う者と、見捨てる者。
その境界を、出久自身の手で決めさせようとしている。
そして。
彼らは、出久が選べないことを知っている。
誰かを見捨てることができない。
誰かを切り捨てることができない。
だからこそ、出久は英雄だった。
そして、だからこそ。
彼らは、出久を利用しようとしている。
「……そうか」
出久は、目を開いた。
「お前たちは、僕に選ばせたいんだね」
彼は、周囲の少年たちを見た。
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
けれど、違う人生を生きた者たち。
出久は、一歩前へ出た。
「……だったら」
彼は、拳を握り締めた。
「僕は、選ばない」
街が震えた。
炎が、再び燃え上がった。
少年たちの顔から、笑みが消えた。
「……何?」
出久は、言った。
「僕は、誰か一人を選んで、残りを消すなんてことはしない」
彼は、空を見上げた。
「そんな選択を、誰にも押しつけさせない」
その瞬間。
街の中央にいた少年が、泣き始めた。
「……どうして?」
彼は、顔を覆った。
「どうして、君は……」
声が震えた。
「どうして、僕たちと同じことを言うんだよ……!」
出久は、動けなかった。
少年は、顔を上げた。
その瞳には、涙が溢れていた。
「……君も、僕たちと同じなんだね」
彼は、笑った。
「君も、誰かを救うために、世界を壊すんだ」
その瞬間。
街の炎が、すべて黒く染まった。
空が割れた。
地面が崩れた。
そして、出久の目の前に、一人の少年が現れた。
御影出久。
兄だった。
彼は、出久を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……出久」
出久は、息を止めた。
「兄さん……!」
兄は、悲しそうに笑った。
「君は、まだ分かっていないんだね」
「……何を?」
兄は、ゆっくりと首を横に振った。
「この街にいる人たちは、みんな偽物なんかじゃない」
出久は、周囲を見渡した。
「……え?」
兄は、言った。
「この街にいる人たちは、みんな……」
その瞬間。
兄の身体が、黒い炎に包まれた。
「……僕が、殺した人たちなんだ」
出久は、叫んだ。
「兄さん!!」
手を伸ばす。
しかし、届かなかった。
兄は、炎の向こうで、笑っていた。
「だから、出久」
その声が、最後に響いた。
「今度は、僕を救わないで」
世界が、燃えた。
――第三章・第二話、終。