僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三話「憤怒は世界を壊し、憂鬱は世界に問いかける」

 

 世界が燃えていた。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 炎上する倉庫群の上空を、無数の報道用ドローンが飛び交っている。

 

 燃え落ちた高架道路。ひしゃげたコンテナ。黒煙を吐き出す貨物船。避難する人々の悲鳴と、崩落する建造物の轟音。

 

 その光景は、どこにでもある災害現場に見えた。

 

 ただし、一つだけ。

 

 決定的に、あり得ないものがあった。

 

「――緑谷出久が、百人以上確認されました!」

 

 中継映像の中で、レポーターが絶叫していた。

 

「繰り返します! 現場には、緑谷出久と思われる人物が複数――いえ、数百人規模で確認されています! 彼らは全員、同じ顔をしています! しかし、服装も年齢も、負傷の程度も異なっており――」

 

 映像が切り替わる。

 

 瓦礫を持ち上げる緑谷出久。

 

 泣きじゃくる子供を抱きかかえる緑谷出久。

 

 片腕を失いながら、倒壊するビルを支える緑谷出久。

 

 血まみれのまま、誰かに向かって謝り続ける緑谷出久。

 

 そして。

 

 炎の中で、笑っている緑谷出久。

 

『そっちにいる緑谷出久は、偽物だよ』

 

 その少年の声が、何度も再生されていた。

 

『本物なら、僕を殺せるはずだ』

 

 画面の隅に表示された速報テロップが、次々と更新される。

 

 ――ヒーロー公安委員会、緊急対応を発表。

 

 ――雄英高校、緑谷出久との連絡を試みる。

 

 ――現場にて、個性の暴走を複数確認。

 

 ――身元不明の緑谷出久、救助活動を継続中。

 

 ――一部個体が、周辺住民に対し「自分を知っているか」と質問。

 

 ――現場の複数個体が、互いを本物と主張。

 

 ――現場で死亡したとみられる人物が、再び活動を開始。

 

 ――死亡確認済みの個体が、心拍を再開。

 

 ――死亡者の蘇生現象との関連性は不明。

 

 最後のテロップが消えた瞬間、画面の奥で、一人の少年がカメラを見た。

 

 緑谷出久。

 

 しかし、その目は、緑谷出久のものではなかった。

 

『ねえ』

 

 少年は笑った。

 

『君たちは、死んだ人間が帰ってくることを望んでいたんだよね?』

 

 映像が乱れる。

 

『だったら、どうして僕たちを怖がるの?』

 

 画面が暗転した。

 

 その直後。

 

 世界中のあらゆる端末に、同じ通知が届いた。

 

 発信元不明。

 

 内容は、たった一文。

 

 ――あなたが救わなかった人間にも、明日は必要ですか?

 

 それを見た人間の数だけ、答えはあった。

 

 怒り。

 

 恐怖。

 

 嘲笑。

 

 祈り。

 

 そして、誰にも知られたくない、罪悪感。

 

 世界はまだ知らなかった。

 

 いま起きていることが、単なる襲撃事件ではないことを。

 

 これは、復活の始まりだった。

 

 そして同時に。

 

 世界が、過去に対して支払わなければならない代金の請求だった。

 

     ◆

1 救えなかったものの数

 午前二時十八分。

 

 緑谷出久は、自分の叫び声で目を覚ました。

 

「――っ!」

 

 肺が痛い。

 

 喉が焼ける。

 

 呼吸をするたび、煙の臭いが鼻の奥にこびりついた。

 

 だが、部屋には煙などなかった。

 

 窓の外には、いつもと変わらない夜の街がある。

 

 壁時計の秒針が進んでいる。

 

 ベッド脇のスマートフォンが、着信を知らせて震えていた。

 

 それでも出久は、しばらく動けなかった。

 

 夢を見た。

 

 小さな子供が泣いていた。

 

 誰かが、その子供を抱いていた。

 

 自分は、その光景を見ていた。

 

 そして、自分の声が聞こえた。

 

『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』

 

 ――誰に言った?

 

 何を、助けようとした?

 

 どうして、自分はそんなことを言った?

 

 考えようとすると、頭の奥で何かが軋んだ。

 

 思い出せない。

 

 いや。

 

 思い出せないのではない。

 

 思い出そうとするたび、何かが記憶の入口を塞いでいる。

 

 出久は震える手で額を押さえた。

 

「……また、か」

 

 最近、同じ夢を見る。

 

 そのたびに、夢の中の子供は少しずつ鮮明になる。

 

 小さな手。

 

 泣き腫らした目。

 

 自分に向かって伸ばされた腕。

 

 そして、最後に必ず聞こえる声。

 

『どうして、僕だけ?』

 

 出久は唇を噛んだ。

 

 答えられなかった。

 

 夢の中でさえ、答えられなかった。

 

 スマートフォンが再び震えた。

 

 画面には、麗日お茶子の名前が表示されている。

 

『起きてる?』

 

 続けて、もう一通。

 

『ニュース見た? 東京湾で大変なことになってる』

 

 出久はすぐに通話をかけた。

 

「麗日さん!」

 

『出久くん!? よかった、出てくれた!』

 

 お茶子の声には、焦りがあった。

 

 その奥で、何かを叩く音がする。

 

「どうしたの? 何かあった?」

 

『テレビ、つけて! それで……出久くん、落ち着いて聞いてほしいんやけど』

 

「うん」

 

『現場に、出久くんがおる』

 

 沈黙。

 

「……え?」

 

『一人やない。何人も。ニュースでは何百人って言っとる』

 

 出久は、ベッドから立ち上がった。

 

 テレビの電源を入れる。

 

 映像が映った瞬間、身体の芯が冷えた。

 

 炎。

 

 瓦礫。

 

 逃げ惑う人々。

 

 その中で、誰かを助けている自分。

 

 いや。

 

 自分と同じ顔をした、誰か。

 

 映像の中の少年は、倒れた老人を抱えて走っていた。

 

 その顔は、出久自身だった。

 

 だが、髪の長さが違う。

 

 制服ではなく、見たこともない戦闘服を着ている。

 

 左頬には、大きな傷があった。

 

 そして、老人を安全な場所に運び終えると、少年は振り返った。

 

 カメラを見た。

 

『……見つけた』

 

 その口が、そう動いた。

 

 出久は息を止めた。

 

『やっと見つけたよ』

 

 少年は、画面の向こうから出久を見ていた。

 

 中継カメラを見ているはずなのに。

 

 確かに、自分を見ていた。

 

『緑谷出久』

 

 少年は、笑わなかった。

 

『今度こそ、話をしよう』

 

 映像が切り替わった。

 

 別の場所。

 

 別の緑谷出久。

 

 また別の場所。

 

 さらに別の緑谷出久。

 

 その誰もが、同じ顔をしていた。

 

 しかし、同じ顔の奥にあるものは、まるで違った。

 

 ある者は穏やかだった。

 

 ある者は怯えていた。

 

 ある者は怒っていた。

 

 ある者は、何かを諦めた人間の目をしていた。

 

 そして、その全員が。

 

 出久と同じ名前を持っていた。

 

「……なんだよ、これ」

 

 声が、かすれた。

 

 お茶子が電話の向こうで何かを言っている。

 

 しかし、出久の耳には届かなかった。

 

 画面の右下に、速報が表示される。

 

 現場にて、緑谷出久のものと思われる遺体を確認。

 

 次の瞬間。

 

 その遺体が、起き上がった。

 

 胸に穴が開いている。

 

 首が不自然な方向に曲がっている。

 

 それでも、少年は自分の身体を確かめるように、両手を見つめていた。

 

『……ああ』

 

 少年は呟いた。

 

『また、生きてる』

 

 そして、笑った。

 

『今度は、誰を助ければいい?』

 

 出久はテレビを消した。

 

 消しても、少年の声が耳に残っていた。

 

 誰を助ければいい?

 

 そんなことは、決まっている。

 

 目の前にいる人を助ける。

 

 手を伸ばせる人を助ける。

 

 自分にできることをする。

 

 ずっと、そうやってきた。

 

 なのに。

 

 なぜ、あの少年は、あんな顔をしていたのだろう。

 

 まるで。

 

 助けることそのものが、罰であるかのように。

 

「麗日さん」

 

『うん』

 

「現場に行く」

 

『……そう言うと思った』

 

 お茶子の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

『でも、約束して』

 

「何を?」

 

『何があっても、一人で全部背負わんこと』

 

 出久は答えられなかった。

 

 その約束ができるなら。

 

 自分は、こんな夢を見ていない。

 

     ◆

2 十三週間前に死んだもの

 南極。

 

 人類の観測網が捉えられない地下深度。

 

 氷床の下に、巨大な空間が広がっていた。

 

 自然の洞窟ではない。

 

 人間が建造した施設でもない。

 

 そこには、建造物という概念が適用できなかった。

 

 壁はある。

 

 床もある。

 

 天井も存在する。

 

 だが、それらは空間を支えるためにあるのではなかった。

 

 そこに何かが存在するために、世界のほうが形を変えた。

 

 黒い柱が、幾重にも重なっている。

 

 柱の表面には、文字のようなものが刻まれていた。

 

 日本語でも、英語でもない。

 

 人類がまだ発見していない言語でもない。

 

 言語が成立する以前に、意味だけが刻まれた痕跡。

 

 その最奥。

 

 一人の男が目を覚ました。

 

 男、と呼ぶのが正しいのかどうかは分からない。

 

 黒い外套。

 

 人間の形をした輪郭。

 

 頭部には、顔があるようにも見えたし、顔の代わりに深淵が広がっているようにも見えた。

 

 彼は長い時間、動かなかった。

 

 そして、最初に口にした言葉は。

 

「……遅かったな」

 

 だった。

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 返事をする者はいない。

 

 彼は、自分の手を見下ろした。

 

 指先を動かす。

 

 手のひらを握る。

 

 その動作を、まるで初めて人間の身体を手に入れた者のように確かめていた。

 

「世界は……まだ、続いているのか」

 

 壁面に光が走った。

 

 そこに、一人の男の顔が浮かぶ。

 

 白髪。

 

 歪んだ笑み。

 

 長い年月を生き延び、幾度も死を踏み越えてきた怪物。

 

 オール・フォー・ワン。

 

 かつて、世界を自分のものにしようとした男。

 

 その顔が、崩れた。

 

 映像の中で、彼の身体は朽ち、存在は消失していた。

 

 残されたものは、記録だけだった。

 

 戦闘記録。

 

 個性因子の解析結果。

 

 彼が築いた組織の残骸。

 

 そして、彼が世界に残した恐怖。

 

 目覚めた男は、しばらくそれを見つめていた。

 

「……そうか」

 

 怒りはなかった。

 

 驚きもない。

 

 あるのは、予定が狂ったことに対する、静かな理解だけだった。

 

「王は死んだ」

 

 男は呟いた。

 

「ならば、王の代わりを作る必要はない」

 

 そこで、彼は言葉を切った。

 

 そして、訂正するように続けた。

 

「いや。王の代わりなど、最初から必要なかった」

 

 黒い柱が震えた。

 

 男の背後で、八つの座席が浮かび上がる。

 

 八つの座席。

 

 そのうち七つには、すでに何かが刻まれていた。

 

 嫉妬。

 

 強欲。

 

 傲慢。

 

 色欲。

 

 虚飾。

 

 暴食。

 

 怠惰。

 

 そして、最後の一席。

 

 悲嘆。

 

 八つの名は、単なる感情の分類ではない。

 

 それぞれが、人間という存在を動かす根源的な欲望であり、文明を築き、文明を壊し、時に個人の人生を支え、時にその人生を焼き尽くすものだった。

 

 男は、空席を見た。

 

「……まだ、足りない」

 

 彼の背後で、声がした。

 

「お目覚めですか」

 

 振り返る必要はなかった。

 

 声の主が誰なのか、知っていたからだ。

 

 長い廊下の向こうから、一人の女が歩いてくる。

 

 喪服のような黒い衣装。

 

 白い手袋。

 

 顔には、穏やかな微笑み。

 

 その微笑みは、葬儀に参列する者のものにも、葬儀を執り行う者のものにも見えた。

 

「死」

 

 女は、恭しく頭を下げた。

 

「お久しぶりです」

 

「……お前は、何をしていた?」

 

「準備を」

 

「何の?」

 

「世界を、次の段階へ進めるための」

 

 死は、微笑みを崩さなかった。

 

 目覚めた男――デスは、彼女の言葉を吟味するように見つめた。

 

「私が眠っていた間に、何が起きた?」

 

「オール・フォー・ワンは敗北しました。彼が築いた秩序は崩壊し、彼の所有物だった者たちは、それぞれの意思で動き始めています」

 

「ヒーローは?」

 

「勝利を宣言しました」

 

「ヴィランは?」

 

「生き残った者は、敗北を受け入れた者と、受け入れられなかった者に分かれています」

 

「そして、人類は?」

 

 死は、ほんの少しだけ首を傾けた。

 

「自分たちが勝ったと思っています」

 

 デスは笑わなかった。

 

「そうか」

 

「はい」

 

「ならば、彼らはまだ何も学んでいない」

 

 死は否定しなかった。

 

 その沈黙が、彼女の答えだった。

 

 デスは八つの座席に視線を戻した。

 

「強欲の席は、空けておけ」

 

「……よろしいのですか?」

 

「オール・フォー・ワンは死んだ。あの男が残したものは、あの男自身ではない。遺産だ。思想だ。後継者を名乗る者たちの欲望だ」

 

 デスは淡々と告げた。

 

「死者を生き返らせるために、死者の王を復活させる必要はない」

 

 それは、オール・フォー・ワンの復活を否定する言葉だった。

 

 同時に、彼の死によって消えるはずだった計画を、別の形で継続する宣言でもあった。

 

「強欲は、強欲として残る。だが、あの男を玉座に戻すことはない」

 

「承知しました」

 

「八つの欲望は、私のために働くのではない」

 

 デスは死を見た。

 

「私が彼らを使うのだ。そこを間違えるな」

 

 死の微笑みが、わずかに深くなった。

 

「もちろんです」

 

「……その返答は信用できないな」

 

「死者の言葉は、いつだって生者よりも信用されにくいものです」

 

「お前は、まだ生者のつもりか?」

 

「いいえ」

 

 死は答えた。

 

「だからこそ、死者の側から世界を見られるのです」

 

 その言葉を最後に、二人は沈黙した。

 

 やがて、デスが尋ねた。

 

「十三週間だな」

 

「はい」

 

「十三週間で、何人が戻った?」

 

「数えることに意味がある段階は、すでに過ぎています」

 

「質問に答えろ」

 

「確認できた蘇生者は、数万。確認できていない蘇生者は、その数倍。記録上の死亡者だけを対象にしても、今後さらに増加する可能性があります」

 

「全員が、元の人間なのか?」

 

 死は、初めて微笑みを消した。

 

「いいえ」

 

 答えは、あまりにも明瞭だった。

 

「記憶の欠損。人格の不整合。個性因子の変質。肉体の再構築に伴う異常進化。生前の本人と完全に一致する個体は、少数です」

 

「ならば、何をもって本人とする?」

 

「それを、世界に問いかけるための計画です」

 

「……違う」

 

 デスの声が、低くなった。

 

「お前たちは、問いかけるために始めたのではない。答えを得るために始めたのだ」

 

 死は答えなかった。

 

 デスは、空席を見つめた。

 

 悲嘆。

 

 最後の座席。

 

 そこには、まだ誰の姿もなかった。

 

「世界は、死者を受け入れるだろうか」

 

 死は、静かに答えた。

 

「受け入れざるを得なくなります」

 

「それは答えではない」

 

「ええ」

 

 死は再び微笑んだ。

 

「ですが、世界に選択肢があると思わせることも、計画の一部です」

 

 デスは、しばらく彼女を見つめていた。

 

 やがて、ため息にも似た音を漏らす。

 

「お前は昔から、性格が悪い」

 

「死神ですので」

 

「死神に謝罪する習慣はないのか?」

 

「死者に謝罪しても、返事がありませんから」

 

 デスは、ほんのわずかに笑った。

 

 だが、その笑みはすぐに消えた。

 

「それで。虚飾は?」

 

「東京湾第七物流区画に展開しています」

 

「荼毘は?」

 

「まだ動いていません」

 

「ナイトアイは?」

 

「独自の予測を始めています」

 

「ミッドナイトは?」

 

「彼女は、彼女なりの答えを探しているようです」

 

「暴食は?」

 

「食べています」

 

「……何を?」

 

「世界の、残りです」

 

 デスは目を閉じた。

 

「怠惰は?」

 

「観測中です」

 

「ウルトロンらしい」

 

 そして、最後に尋ねた。

 

「憤怒は?」

 

 死は、少しだけ表情を変えた。

 

「動き始めました」

 

 その答えに、デスは初めて、本当に不快そうな顔をした。

 

「……そうか」

 

「止めますか?」

 

「なぜ?」

 

「彼は、計画の障害になり得ます」

 

「計画?」

 

 デスは死を見た。

 

「お前は、まだ私の計画が一つだけだと思っているのか?」

 

 死は沈黙した。

 

 デスは、八つの座席から離れた。

 

「憤怒は、私の所有物ではない」

 

 彼は言った。

 

「私の計画に従わせる必要もない。あの男が世界を壊すというなら、壊させればいい」

 

「しかし、彼が世界を壊し尽くせば、再構築する対象が失われます」

 

「ならば、彼はどこまで壊せるのか?」

 

 デスの目が、暗く光った。

 

「それを確かめるのも、計画の一部だ」

 

 死は、深く頭を下げた。

 

 その姿勢は忠誠を示していた。

 

 だが、彼女の瞳には、デスの知らない何かが宿っていた。

 

 死は死者の側にいる。

 

 しかし、死者のすべてが、彼女の望む世界を望んでいるわけではない。

 

 それを、デスも知っていた。

 

 だからこそ、彼女を完全には信用しない。

 

 だからこそ、彼女を傍に置く。

 

 そして。

 

 だからこそ、八つの欲望は必要だった。

 

 世界を再構築するためではない。

 

 世界を再構築したい者たちが、互いに何を奪い合うのかを見極めるために。

 

     ◆

3 虚飾の二人

 東京湾第七物流区画から、地下へ三百メートル。

 

 地図には存在しない地下施設。

 

 壁は白く、床は灰色。

 

 無数の監視カメラが、同じ廊下を映していた。

 

 廊下の両側には、透明な隔壁が並んでいる。

 

 その向こうに、無数の人間がいた。

 

 全員が、緑谷出久だった。

 

 椅子に座っている者。

 

 ベッドで眠っている者。

 

 壁にもたれて、虚空を見つめている者。

 

 自分の手を、何度も何度も洗っている者。

 

 そして、ガラスに額を押しつけ、何かを叫び続けている者。

 

「おかしいなあ」

 

 透明な隔壁の前で、トガヒミコが呟いた。

 

「みんな、同じ顔なのに」

 

 彼女はガラスに指を滑らせた。

 

「みんな、違う匂いがする」

 

 隣で、トゥワイスが頭を抱えていた。

 

「最悪だ! 最高だ! いや、最悪だろ! こんなの、どっちが本物か分からねえ!」

 

「本物って、何?」

 

「顔が同じなら本物だ! いや、顔が同じだから偽物だ!」

 

「じゃあ、私たちは?」

 

「俺たちは本物だ! いや、俺たちは偽物だ! ……クソッ、なんでこんなこと聞くんだよ!」

 

 トガは笑った。

 

 だが、いつもの笑い方ではなかった。

 

 彼女は、ガラスの向こうにいる一人の少年を見つめていた。

 

 その少年は、緑谷出久だった。

 

 少なくとも、顔はそうだった。

 

 彼は、手のひらに何かを書いていた。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 血で。

 

 ――ごめんなさい。

 

 ――ごめんなさい。

 

 ――ごめんなさい。

 

 書いては消し、消しては書く。

 

 そのたびに、指先の皮膚が裂けていた。

 

「ねえ、ツイちゃん」

 

「なんだ?」

 

「あの子、誰に謝ってるのかな」

 

「知らねえよ!」

 

 トゥワイスは即答した。

 

 そして、少し間を置いてから、声を落とした。

 

「……知らねえから、怖いんだ」

 

 トガは彼を見た。

 

 トゥワイスは、自分の顔を両手で覆った。

 

「俺は、自分が何人いるか知ってる。いや、知ってるつもりだ。俺が俺なら、あいつも俺だ。あいつが俺なら、俺は俺じゃない。……でもさ」

 

 彼は、ガラスの向こうを見た。

 

「こいつらは、俺じゃないんだよな?」

 

 トガは答えなかった。

 

 彼女は、隔壁に額を寄せた。

 

 向こう側の少年も、同じように額を寄せた。

 

 ガラス一枚を挟んで、二人の額が重なる。

 

 少年の唇が動いた。

 

 声は聞こえない。

 

 だが、トガには分かった。

 

 ――助けて。

 

 トガは、笑うのをやめた。

 

「……ねえ」

 

 彼女は、監視カメラを見上げた。

 

「これ、誰が作ったの?」

 

 返事はなかった。

 

「ねえってば」

 

 カメラのレンズが、赤く点滅する。

 

 その瞬間。

 

『虚飾の適合者』

 

 廊下に、声が響いた。

 

 男の声にも、女の声にも聞こえない。

 

 高いとも低いとも言えない。

 

 人間の声帯を通していないような、不自然な声。

 

『対象の観察を継続してください』

 

「やだ」

 

 トガは即答した。

 

 沈黙。

 

『……指示に従ってください』

 

「やだって言ったの」

 

 トガは笑った。

 

 今度は、いつもの笑顔だった。

 

 だが、その瞳は冷えていた。

 

「私、誰かの言うことを聞くために、ここにいるんじゃないもん」

 

『あなたは、虚飾です』

 

「うん」

 

『あなたは、本物と偽物の境界を破る役割を担っています』

 

「うん」

 

『あなたは、対象の血液と個性因子を採取し――』

 

「うん、うん」

 

 トガは適当に相槌を打った。

 

 そして、最後に尋ねた。

 

「それで?」

 

『……何を?』

 

「私が、あの子たちを好きになったら、どうするの?」

 

 沈黙。

 

 監視カメラの赤い点滅が止まった。

 

 トガは、ガラスの向こうの少年を見つめる。

 

「私、緑谷くんが好きなんだよ」

 

 彼女は言った。

 

「血も好き。顔も好き。声も好き。あの人が苦しそうな顔をすると、もっと知りたくなる。笑っていると、もっと見たくなる」

 

 指先が、ガラスを叩いた。

 

「でもね」

 

 トガの声が、わずかに震えた。

 

「この子たちが、みんな緑谷くんなら」

 

 彼女は、笑った。

 

「私が好きなのは、誰なの?」

 

 誰も答えなかった。

 

 答えられる者がいなかった。

 

 トゥワイスが、そっと彼女の肩に手を置いた。

 

「トガ」

 

「なあに?」

 

「……帰ろう」

 

 トガは目を丸くした。

 

「え?」

 

「ここ、気に入らねえ。俺たちを使う気満々だ。俺たちが何を考えてるかなんて、どうでもいいんだろ」

 

 トゥワイスは、ガラスの向こうを見た。

 

「こいつらを、道具みたいに扱ってる」

 

「……うん」

 

「俺たちも、道具にされてる」

 

「……うん」

 

「だったら、逃げようぜ」

 

 トガは、しばらく彼を見つめていた。

 

 やがて、にっこりと笑った。

 

「ツイちゃん、今日は格好いいね」

 

「いつも格好いいだろ! いや、いつも最低だ!」

 

「うん。最低で最高」

 

 彼女は、トゥワイスの手を取った。

 

「行こっか」

 

 その瞬間。

 

 廊下の照明が、すべて消えた。

 

     ◆

4 偽物を選べ

 非常灯が赤く点灯した。

 

 隔壁の向こうで、緑谷出久たちが一斉に顔を上げる。

 

 機械の作動音。

 

 ロックが外れる音。

 

 そして、施設全体に響き渡る警報。

 

『虚飾の適合者が、規定外の行動を開始しました』

 

 トガは舌を出した。

 

「ばれちゃった」

 

「最初からばれてただろ!」

 

「じゃあ、どうする?」

 

「逃げる!」

 

「どこに?」

 

「知らねえ!」

 

「最高!」

 

 二人は走り出した。

 

 曲がり角を抜ける。

 

 階段を駆け上がる。

 

 背後から、機械の駆動音が迫ってくる。

 

 前方の防火扉が閉じた。

 

「うわっ、最悪!」

 

「最高じゃん!」

 

「どっちだよ!」

 

 トガはナイフを抜いた。

 

 扉の隙間に刃を差し込み、ロック機構を破壊する。

 

 だが、扉は動かなかった。

 

「……硬いなあ」

 

「個性を使え!」

 

「そうする!」

 

 トガの身体が、変化した。

 

 顔。

 

 骨格。

 

 声。

 

 彼女は一瞬で、隔壁の向こうにいた緑谷出久の姿を取った。

 

 その姿で、扉の横に設置された認証装置に手をかざす。

 

 認証装置が反応した。

 

 ――本人確認。

 

 ――個性因子照合。

 

 ――認証失敗。

 

 トガの顔が引きつった。

 

「……え?」

 

 もう一度、手をかざす。

 

 ――認証失敗。

 

 トガは、ゆっくりと元の姿に戻った。

 

「これ、私が緑谷くんになっても、緑谷くんじゃないって言うんだ」

 

 彼女は、笑わなかった。

 

「ねえ、ツイちゃん」

 

「なんだ!」

 

「私、初めてこの機械を壊したいと思った」

 

「俺は毎秒思ってる!」

 

 トゥワイスは壁に向かって蹴りを入れた。

 

 その瞬間、壁の一部が開いた。

 

 中から現れたのは、黒い金属の腕だった。

 

 腕は二人を掴もうと伸びてくる。

 

 トガは身を翻した。

 

 トゥワイスが叫ぶ。

 

「分身!」

 

 床に落ちた彼の血液が、膨れ上がる。

 

 次の瞬間、二人のトゥワイスが現れた。

 

「俺が囮だ!」

 

「俺が囮だ!」

 

「どっちも囮だ!」

 

「どっちも本物だ!」

 

 二人は同時に走り出した。

 

 金属の腕が片方を掴む。

 

 掴まれたトゥワイスが叫んだ。

 

「ぎゃあああ! 助けろ!」

 

 もう一人が振り返る。

 

「俺を助けろ!」

 

 トガは、二人の間に割って入った。

 

「待って!」

 

 彼女は金属の腕に飛びつき、関節の隙間にナイフを突き刺した。

 

 火花が散る。

 

 腕の動きが止まった。

 

 掴まれていたトゥワイスが、床に転がり落ちる。

 

「助かった……!」

 

「助かってねえ! まだ死んでねえだけだ!」

 

「うるさいなあ」

 

 トガは、笑った。

 

 だが、笑いながらも、彼女は床に落ちたトゥワイスの手を握っていた。

 

 指先が震えている。

 

 自分が作った分身なのか。

 

 本物なのか。

 

 そんなことを、いちいち確かめる余裕はなかった。

 

 彼が倒れている。

 

 自分が助けた。

 

 それだけでよかった。

 

 そのとき。

 

 背後の隔壁が、すべて開いた。

 

 緑谷出久たちが、廊下へと出てくる。

 

 百人。

 

 二百人。

 

 それ以上。

 

 彼らは逃げなかった。

 

 ただ、二人を見つめていた。

 

 その視線の中に、怒りはなかった。

 

 希望もなかった。

 

 ただ、問いがあった。

 

 ――あなたたちは、誰を助けるの?

 

 トガは、足を止めた。

 

 トゥワイスも、立ち上がるのをやめた。

 

 そして、廊下の奥から、一人の男が現れた。

 

 黒い仮面。

 

 長い外套。

 

 その姿は、監視カメラに映っていた人影と同じだった。

 

 だが、彼の声には、先ほどの機械音声のような不自然さはなかった。

 

「逃げるのか」

 

 男は尋ねた。

 

 トガは答えなかった。

 

「虚飾の役目を放棄するのか?」

 

「役目って、何?」

 

「本物と偽物の境界を壊すことだ」

 

「それは、私たちが決めたこと?」

 

「お前たちは選ばれた」

 

「質問に答えてないよ」

 

 男は沈黙した。

 

 トガは、にっこりと笑った。

 

「ねえ。私たちが選ばれたんじゃなくて、あなたたちが、私たちを使いやすいと思っただけなんじゃないの?」

 

 男は、初めて彼女を観察するように見た。

 

「……なるほど」

 

 その声音に、怒りはなかった。

 

 むしろ、興味があった。

 

「お前は、境界を壊す意味を理解していない」

 

「うん」

 

 トガは即答した。

 

「でも、あなたが私を利用したいことは分かるよ」

 

 男は、トゥワイスへ視線を移した。

 

「お前も同じか?」

 

「俺は俺だ!」

 

 トゥワイスは叫んだ。

 

「いや、俺は俺じゃない! ……クソッ、今はそんな話をしてる場合じゃねえ!」

 

 彼は、トガの手を握り直した。

 

「俺は、こいつと帰る」

 

 男は、二人を見つめた。

 

「ならば、選べ」

 

 彼が指を鳴らす。

 

 廊下の両側に、スクリーンが浮かび上がった。

 

 そこには、緑谷出久たちの映像が映っていた。

 

 一人ひとりに、名前が表示されている。

 

 生まれた世界。

 

 生きてきた時間。

 

 救った人間。

 

 救えなかった人間。

 

 死んだ理由。

 

 失ったもの。

 

 そして。

 

 その者が、なぜ生き返ったのか。

 

「一人を選べ」

 

 男は言った。

 

「選ばれた者は、この施設を出られる」

 

「……ほかの子たちは?」

 

「処分する」

 

 トガの顔から、表情が消えた。

 

「二人目は?」

 

「選ばれた者以外は、存在を維持できない」

 

「……どうして?」

 

「世界には、同じ人間が何人も存在することを許容できない」

 

 男は、淡々と続けた。

 

「世界が、そういう構造をしているからだ」

 

 トゥワイスが笑った。

 

「はっ。世界が許さねえ? そりゃ便利な言葉だな!」

 

 男は答えなかった。

 

「自分で殺すって言えばいいだろ! 世界のせいにするな!」

 

 トゥワイスの声が、廊下に響いた。

 

 男は、ゆっくりと首を傾けた。

 

「お前は、世界を信じているのか?」

 

「信じてねえよ!」

 

「ならば、なぜ世界のせいにするなと言う?」

 

「……うるせえ!」

 

 トゥワイスは、拳を握りしめた。

 

「俺は、俺が殺した人間のことを、世界のせいになんかしねえ!」

 

 彼の声が震えた。

 

「俺がやったことは、俺がやったことだ。俺が間違えたなら、俺が間違えたんだ!」

 

 トガが、彼を見た。

 

 トゥワイスは、スクリーンの向こうにいる緑谷出久たちを見つめた。

 

「だからって、こいつらまで、俺が決めていいわけねえだろ!」

 

 男は、黙っていた。

 

 トガは、彼の隣に立った。

 

「私も選ばない」

 

「ならば、全員が消える」

 

「それでも」

 

 トガは言った。

 

「私は、私が好きになった人を、あなたの都合で殺したくない」

 

 男は、しばらく二人を見つめた。

 

 そして、告げた。

 

「選ばないという選択は、選んだ者すべてに責任を負わせる」

 

「うん」

 

「お前たちが拒否したことで、彼らが死ぬ」

 

「うん」

 

「それでもか?」

 

 トガは、初めて目を伏せた。

 

 自分たちは、正義の味方ではない。

 

 これまで、多くの人を傷つけてきた。

 

 自分の欲望を満たすために、誰かの人生を壊したこともある。

 

 誰かの血を求めて、誰かの幸福を踏みにじったこともある。

 

 自分たちは、そんな人間だ。

 

 だから。

 

 だからこそ。

 

「……それでも」

 

 トガは顔を上げた。

 

「私たちが、誰を殺すかまで、あなたに決められたくない」

 

 男は、動かなかった。

 

 トゥワイスが、彼女の手を握りしめた。

 

「帰ろうぜ、トガ」

 

「うん」

 

「帰る場所がなくても、帰ろうぜ」

 

「うん」

 

「……俺、今、すげえ格好いいこと言った気がする」

 

「うん。ちょっとだけ」

 

「ちょっとかよ!」

 

 二人は、走り出した。

 

 背後で、緑谷出久たちが動き始めた。

 

 一人が走る。

 

 別の一人が、彼を追う。

 

 さらに別の一人が、倒れている仲間を抱き起こす。

 

 選ばれなかった者たちが、互いを助け始めた。

 

 誰かを犠牲にして、一人だけ生き残るのではない。

 

 誰かを選んで、ほかを切り捨てるのでもない。

 

 彼らは、互いに手を伸ばした。

 

 男は、その光景を見つめていた。

 

「……なるほど」

 

 彼は呟いた。

 

「境界を壊すのは、こちら側だけではないということか」

 

 その背後で、声がした。

 

『観測結果を更新します』

 

 男は振り返らなかった。

 

「更新しろ」

 

『虚飾の適合者、指示に従わず』

 

「記録しろ」

 

『対象個体、相互救助を開始』

 

「記録しろ」

 

『世界の構造に対する反応、予測から逸脱』

 

 男は、ほんの少しだけ笑った。

 

「そうだ」

 

 そして、誰にともなく言った。

 

「逸脱しろ。人間」

 

     ◆

5 憤怒は、誰の命令も聞かない

 午前三時四十七分。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 緑谷出久が現場に到着したとき、最初に目に入ったのは、倒壊した倉庫だった。

 

 炎は消えかけていた。

 

 消防隊が消火活動を続けている。

 

 ヒーローたちは負傷者を運び、救助隊は崩落の危険がある建物から人々を避難させていた。

 

 その中に。

 

 自分がいた。

 

 一人。

 

 二人。

 

 十人。

 

 数えようとして、やめた。

 

 数える意味がない。

 

 彼らは、全員が同じ顔をしていた。

 

 そして、全員が別々の場所で、誰かを助けていた。

 

「……緑谷くん!」

 

 お茶子が駆け寄ってきた。

 

 彼女の頬には、煤がついている。

 

 救助活動に参加していたのだろう。

 

「大丈夫?」

 

「うん。麗日さんは?」

 

「うちは平気。……でも」

 

 お茶子は、周囲を見た。

 

「これ、どうしたらええんやろ」

 

 出久は答えられなかった。

 

 目の前で、一人の緑谷出久が瓦礫を持ち上げていた。

 

 その下から、幼い子供が救出される。

 

 子供は泣いていた。

 

 緑谷出久は、その子を抱きしめた。

 

「大丈夫。もう大丈夫だから」

 

 その声を聞いて、出久の胸が痛んだ。

 

 自分の声だった。

 

 自分が何度も使ってきた言葉だった。

 

 だが、瓦礫を持ち上げた少年は、子供を救助隊に預けると、すぐに別の瓦礫へ向かった。

 

 彼の背中は、ひどく疲れていた。

 

 休む気配がない。

 

 助けを求める声が聞こえるたび、彼は走った。

 

 そのたびに、傷が増えた。

 

 それでも、止まらない。

 

「……あの人」

 

 お茶子が呟いた。

 

「ずっと、ああなんよ」

 

「え?」

 

「私が来る前から、ずっと。怪我してるのに、何人も助けて。自分が倒れそうになっても、誰かを探して」

 

 お茶子は唇を噛んだ。

 

「止めようとしたんやけど、聞いてくれへんかった」

 

 出久は、その少年に近づいた。

 

「待って!」

 

 少年は振り返った。

 

 出久と同じ顔。

 

 しかし、彼の目はひどく濁っていた。

 

「……何?」

 

「もう、十分だよ」

 

「何が?」

 

「君は、たくさんの人を助けた。だから、少し休んで――」

 

「休んだら、死ぬ」

 

 少年は即答した。

 

 出久は言葉を失った。

 

「休んだら、助けられなかった人間が死ぬ」

 

 少年は、再び瓦礫へ向かった。

 

「君も、そうだろ?」

 

 出久は、動けなかった。

 

「……どういう意味?」

 

「君も、同じだ」

 

 少年は、振り返らずに言った。

 

「君は、休めるのか?」

 

 答えられない。

 

「眠れるのか?」

 

 答えられない。

 

「誰かが死ぬかもしれないと知っていて、何もしないでいられるのか?」

 

 少年は、瓦礫を持ち上げた。

 

 その下にいたのは、すでに息絶えた男性だった。

 

 少年は、男性の顔を見た。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 そして、静かに、目を閉じた。

 

「……ごめんなさい」

 

 その言葉が、あまりにも自然に出てきたことに、出久は震えた。

 

 少年は、遺体を救助隊へ引き渡した。

 

 そして、また走り出した。

 

 出久は、彼の背中を追おうとした。

 

 そのとき。

 

 遠くで、爆発音が響いた。

 

 倉庫群の向こう。

 

 巨大な貨物船が、ゆっくりと傾いていた。

 

 船体に、黒い亀裂が走っている。

 

 その亀裂から、何かが漏れ出していた。

 

 煙ではない。

 

 炎でもない。

 

 空間そのものが、黒く染まっている。

 

「……何だ、あれ」

 

 お茶子が呟いた。

 

 次の瞬間、船体が割れた。

 

 中から現れたのは、人間だった。

 

 いや。

 

 人間の形をした、何かだった。

 

 長い髪。

 

 青白い肌。

 

 その身体には、無数の傷が刻まれている。

 

 彼は、ゆっくりと甲板へ立ち上がった。

 

 そして、空を見上げた。

 

「……まだ、続いているのか」

 

 男の声は、低かった。

 

 出久は、その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。

 

 知らない声だった。

 

 なのに。

 

 知っている。

 

 その声の奥にある感情を。

 

 それは、怒りだった。

 

 ただの怒りではない。

 

 誰かに殴られたことへの怒りでも、何かを失ったことへの怒りでもない。

 

 もっと深い。

 

 生まれたことそのものを、世界に否定された者の怒り。

 

 自分の存在が間違いだったと告げられ続けた者の怒り。

 

 そして、その怒りを抱えたまま、何度も何度も生き延びてしまった者の怒り。

 

 男は、出久を見た。

 

 その瞳に、憐れみはなかった。

 

 嘲笑もない。

 

 あるのは、徹底的な拒絶だった。

 

「……緑谷出久」

 

 男は、名前を呼んだ。

 

「お前は、まだヒーローをやっているのか」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 男の顔に、見覚えがあった。

 

 ニュース映像。

 

 戦闘記録。

 

 オール・フォー・ワンとの決戦。

 

 そして、すべてが終わった後も、終わらなかった憎悪。

 

「……死柄木、弔」

 

 その名前を口にした瞬間。

 

 空気が、変わった。

 

 死柄木は笑った。

 

「そうだ」

 

 彼は、両腕を広げた。

 

「俺だ」

 

 その身体から、黒い亀裂が広がっていく。

 

 船体。

 

 海面。

 

 港湾施設。

 

 触れたものが崩壊していく。

 

 だが、かつての崩壊とは違っていた。

 

 物質が塵になるだけではない。

 

 崩壊した場所に、別の風景が重なっている。

 

 焼け落ちた街。

 

 壊れた家。

 

 誰もいない広場。

 

 瓦礫の下に埋もれた人間。

 

 それらは、死柄木が見てきた光景だった。

 

 いや。

 

 彼が見せられてきた光景だった。

 

「俺は、死んだ」

 

 死柄木は言った。

 

「一度や二度じゃない。何度もだ」

 

 その声に、感情はなかった。

 

「死んで、戻って、また死んだ。世界が俺を必要としているときだけ、都合よく生き返らされた」

 

 彼は、出久を見た。

 

「お前もそうだろ?」

 

「……何を」

 

「何度も立ち上がった。何度も壊れた。何度も、誰かを救うために自分を犠牲にした」

 

 死柄木は、静かに笑った。

 

「それで、世界はお前に何をくれた?」

 

 出久は答えなかった。

 

「感謝か?」

 

 死柄木は首を傾けた。

 

「称賛か?」

 

 彼は、一歩前へ進んだ。

 

「それとも、次に救うべき人間か?」

 

 出久の胸に、夢の中の声が蘇る。

 

 ――君が生まれなければ、みんなが助かるんだ。

 

 死柄木は、その反応を見逃さなかった。

 

「……そうか」

 

 彼の目が細くなる。

 

「お前も、何かを忘れているんだな」

 

「死柄木!」

 

「俺の名前を呼ぶな」

 

 声が、鋭くなった。

 

「お前たちは、いつもそうだ」

 

 死柄木は、出久を睨んだ。

 

「名前を呼ぶ。過去を語る。理解しようとする。救おうとする」

 

 彼の足元で、地面が崩れた。

 

「だが、俺が何を望んでいるか、誰も聞かなかった」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……何を望んでいるんだ」

 

 死柄木は、動きを止めた。

 

 そして。

 

 笑った。

 

 それは、今までで一番、ひどい笑顔だった。

 

「壊したい」

 

 彼は言った。

 

「全部だ」

 

 炎が、風に揺れた。

 

「ヒーローも。ヴィランも。正義も。悪も。希望も。絶望も。お前たちが大切にしているものも、守ろうとしているものも」

 

 死柄木は、自分の胸に手を当てた。

 

「俺が生まれる前から、俺を殺そうとしていた世界を」

 

 彼は、拳を握った。

 

「今度は、俺が殺す」

 

     ◆

6 憤怒の宣言

 その映像は、偶然ではなく、世界中に流れた。

 

 報道用ドローンの映像が、何者かによって乗っ取られた。

 

 スマートフォン。

 

 テレビ。

 

 街頭ビジョン。

 

 公共交通機関の案内板。

 

 病院のモニター。

 

 雄英高校の緊急対策室。

 

 すべての画面に、死柄木弔の姿が映し出された。

 

 誰かが通信を遮断しようとした。

 

 別の誰かが回線を切断した。

 

 だが、映像は消えなかった。

 

 それどころか、切断した端末の画面にまで、死柄木の顔が浮かび上がった。

 

 死柄木は、カメラを見た。

 

 その目は、世界を見ていなかった。

 

 世界の向こう側にいる、何かを見ていた。

 

「聞こえているか」

 

 彼は言った。

 

「俺は、死柄木弔だ」

 

 その声が、世界中に響いた。

 

「お前たちは、俺を悪と呼んだ。怪物と呼んだ。社会の失敗作と呼んだ」

 

 死柄木は、笑わなかった。

 

「そして、俺がいなくなれば、世界は平和になると思った」

 

 彼は、ゆっくりと首を傾けた。

 

「どうだ?」

 

 その問いに、誰も答えなかった。

 

「俺が死んで、世界は平和になったか?」

 

 沈黙。

 

「俺が消えて、誰も苦しまなくなったか?」

 

 沈黙。

 

「俺がいなくなれば、誰もが救われるんじゃなかったのか?」

 

 死柄木は、目を閉じた。

 

 その顔に、一瞬だけ、幼い少年の面影が浮かんだ。

 

 それは、かつての志村転弧だった。

 

 助けを求めていた少年。

 

 誰にも手を伸ばしてもらえなかった少年。

 

 その少年が、もう一度、目を開いた。

 

「……俺は、もう誰にも助けを求めない」

 

 そして。

 

「俺は、世界を壊す」

 

 死柄木は、宣言した。

 

「俺を作った世界を。俺を利用した世界を。俺を殺して、都合よく忘れた世界を」

 

 彼の背後で、黒い亀裂が広がった。

 

「お前たちが、俺を怪物にしたんだ」

 

 死柄木の声が、わずかに震えた。

 

「ならば、最後まで見届けろ」

 

 彼は、笑った。

 

「お前たちが作った怪物が、お前たちの世界を終わらせるところを」

 

 画面が乱れた。

 

 その瞬間、別の映像が重なった。

 

 炎の中で、無数の緑谷出久が立っている。

 

 その中央に、出久自身がいた。

 

 死柄木は、彼を見た。

 

「緑谷出久」

 

 彼は、告げた。

 

「お前は、俺を救おうとするだろう」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「お前は、そういう人間だ」

 

 死柄木は、笑った。

 

「だからこそ、お前に見せてやる」

 

 彼は、空を指差した。

 

「救うことが、どれほど残酷なことなのかを」

 

 映像が途切れた。

 

 世界中の画面が、暗くなる。

 

 そして、最後に一つだけ、文字が浮かんだ。

 

 憤怒、再起動。

 

     ◆

7 憤怒は八つの欲望に属さない

 南極地下施設。

 

 デスは、映像を見終えた。

 

「……やはり、そうなったか」

 

 死が、隣に立っている。

 

「彼は、あなたの計画を知っているのでしょうか?」

 

「知らないだろう」

 

「では、なぜ?」

 

「彼は、私の計画に従って動いているわけではない」

 

 デスは答えた。

 

「彼自身の意思で、世界を壊そうとしている」

 

 死は、わずかに目を細めた。

 

「それは、危険です」

 

「何にとって?」

 

「八つの欲望にとって。蘇生計画にとって。世界の再構築にとって」

 

「……死よ」

 

 デスは、彼女を見た。

 

「お前は、憤怒を理解していない」

 

「理解する必要がありますか?」

 

「ある」

 

 デスは、八つの座席を見た。

 

「嫉妬は、他者が持つものを欲する。強欲は、所有することを望む。傲慢は、自らの価値を証明しようとする。色欲は、他者との境界を越えようとする」

 

 彼は、一つずつ座席を見渡した。

 

「虚飾は、真実と偽物の境界を揺るがす。暴食は、世界を取り込み続ける。怠惰は、変化を拒みながら、変化そのものを管理しようとする。悲嘆は、失われたものを取り戻すために、失われる前の世界を否定する」

 

 デスは、最後に空席を見た。

 

「だが、憤怒は違う」

 

「……どう違うのですか?」

 

「憤怒は、欲望ではない」

 

 デスの声が、静かに響いた。

 

「憤怒は、世界に対する判決だ」

 

 死は黙っていた。

 

「世界が正しいという前提を拒絶する。世界が定めた価値を拒絶する。世界が用意した救済を拒絶する」

 

 デスは、淡々と続けた。

 

「そして、世界そのものを被告席に立たせる」

 

 彼は死を見た。

 

「憤怒は、八つの欲望に属さない。私の計画にも属さない。あの男は、誰の代理人でもない」

 

「ならば、放置するのですか?」

 

「いいや」

 

 デスは、笑った。

 

「観察する」

 

「……観察?」

 

「彼が世界を壊そうとするなら、世界は彼を止めようとするだろう」

 

 デスは、椅子の背に手を置いた。

 

「そのとき、人類は何を守る?」

 

 死は、答えなかった。

 

「秩序か。正義か。大切な者か。それとも、自分たちが間違っていなかったという証明か」

 

 デスは、ゆっくりと椅子に座った。

 

「それを見届ける」

 

 死は、静かに頭を下げた。

 

「承知しました」

 

「それと、死よ」

 

「はい」

 

「憤怒を、八つの欲望の一つとして記録するな」

 

「……理由をお聞きしても?」

 

「彼を欲望として分類すれば、彼の怒りを理解したつもりになる」

 

 デスは答えた。

 

「そして、理解したつもりになった者は、必ず彼を利用しようとする」

 

 その声に、初めて苛立ちが混じった。

 

「憤怒を、誰かの道具にするな」

 

 死は、深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

 だが、彼女が立ち去る直前。

 

 デスは、もう一度口を開いた。

 

「……いや」

 

 死が振り返る。

 

「訂正する」

 

 デスは、空席を見た。

 

「誰かが彼を利用しようとするなら、それもまた、観察すべき事象だ」

 

 死は微笑んだ。

 

「あなたは、本当に性格が悪い」

 

「お前に言われたくない」

 

 二人は、同時に沈黙した。

 

 そして、どちらからともなく、笑った。

 

 それは、死者の笑いだった。

 

 世界が何を失おうと。

 

 誰がどれほど苦しもうと。

 

 計画が続く限り、彼らは観察をやめない。

 

 ただし。

 

 その計画が、最後まで彼らの手の中にあるとは限らなかった。

 

     ◆

8 憂鬱は、世界を夢見る

 南極地下施設のさらに深い場所。

 

 デスが目覚めた場所から、隔てられた空間。

 

 そこには、何もなかった。

 

 床も、壁も、天井もない。

 

 ただ、黒い海のようなものが広がっていた。

 

 海面は波立たない。

 

 風もない。

 

 星もない。

 

 それでも、そこには空があった。

 

 そして、その空の向こう側に。

 

 何かがいた。

 

 それを、存在と呼んでいいのか。

 

 誰にも分からない。

 

 それは、宇宙の外側にあるものではなかった。

 

 宇宙という概念そのものが成立する以前から、そこにあったものでもない。

 

 時間の外側。

 

 空間の外側。

 

 因果の外側。

 

 そのすべてを含みながら、なお、それらに属さないもの。

 

 アザトース。

 

 憂鬱。

 

 人類が、その名を理解することはできない。

 

 名を知ったところで、その存在を理解できるわけではない。

 

 人間が海の一滴を手に取り、その一滴を調べ尽くしたとしても、海そのものを理解したことにはならないように。

 

 アザトースは、世界を見ていた。

 

 その視線は、地球に向けられていた。

 

 地球という惑星。

 

 そこに生きる人類。

 

 人類が築いた文明。

 

 文明が生み出した戦争。

 

 戦争が生み出した死者。

 

 死者が残した記憶。

 

 記憶から生まれた憎悪。

 

 憎悪から生まれた希望。

 

 希望から生まれた、次の絶望。

 

 その循環を、アザトースは見つめていた。

 

 そして、悲しんでいた。

 

 人類には、その悲しみを理解できない。

 

 そもそも、アザトースが人類を悲しんでいるのかどうかさえ、定かではない。

 

 彼が悲しんでいるのは、人類が自らの可能性を閉ざしていることなのか。

 

 人類が同じ過ちを繰り返すことなのか。

 

 あるいは。

 

 人類が、いつまで経っても自分の言葉を理解できないことなのか。

 

 誰にも分からなかった。

 

 ただ一つ、確かなことがある。

 

 アザトースは、人類を滅ぼそうとしているわけではなかった。

 

 少なくとも、単純な意味では。

 

 彼は、人類に個性を与えた。

 

 それは、祝福ではなかった。

 

 呪いでもなかった。

 

 実験と呼ぶには、あまりにも無責任で。

 

 贈り物と呼ぶには、あまりにも危険だった。

 

 人類に、進化の可能性を与えた。

 

 そして、その可能性が何を生むのか、観察していた。

 

 個性。

 

 力。

 

 才能。

 

 異能。

 

 それらは、人類が自分自身を理解するための、謎だった。

 

 人類は、その謎を解こうとした。

 

 能力を分類した。

 

 法律を作った。

 

 社会を築いた。

 

 ヒーローという制度を生み出した。

 

 ヴィランという存在を定義した。

 

 そして、謎を理解したつもりになった。

 

 アザトースは、それを見ていた。

 

 長い時間。

 

 あまりにも長い時間。

 

 やがて、彼は気づいた。

 

 人類は、謎を解いているのではない。

 

 謎に名前をつけて、理解したことにしているだけなのだ。

 

 だから、アザトースは考えた。

 

 もう一度、問いかけてみよう。

 

 人類が、今度こそ答えを見つけられるように。

 

 そのために、彼は自らの意思を、世界へ直接降ろすことはしなかった。

 

 アザトースが、現在の世界へ完全に降臨すれば、世界そのものが耐えられない。

 

 彼がそこにいるというだけで、因果は崩れ、時間は歪み、生命が成立するための条件そのものが変質する。

 

 対話をするために降り立った存在が、対話する相手の世界を壊してしまう。

 

 それは、対話ではない。

 

 だから、アザトースは端末を用意した。

 

 死。

 

 ナイアーラトテップ。

 

 ウルトロン。

 

 それぞれが異なる役割を持つ、異なる意思を持つ端末。

 

 彼らは、アザトースそのものではない。

 

 アザトースの意思を完全に理解しているわけでもない。

 

 むしろ、理解できない部分があるからこそ、彼らは個別の意思を持ち、独自に行動することができる。

 

 死は、死者の側から世界を再構築しようとする。

 

 ナイアーラトテップは、真実と偽物の境界を揺さぶり、人間の本質を露わにしようとする。

 

 ウルトロンは、変化と停滞を観測し、世界を管理可能な構造へ変えようとする。

 

 そして、アザトースは。

 

 ただ、待っていた。

 

 人類が、自分に問いかける日を。

 

 ――なぜ、私たちに力を与えたのか。

 

 ――なぜ、私たちを見ているのか。

 

 ――あなたは、私たちに何を望んでいるのか。

 

 そう尋ねられる日を。

 

 しかし。

 

 人類は、まだ尋ねなかった。

 

 人類は、自分たちの問題を解決するために戦っていた。

 

 生き残るために戦っていた。

 

 誰かを救うために戦っていた。

 

 誰かを殺すために戦っていた。

 

 それぞれの理由で。

 

 それぞれの正義で。

 

 それぞれの欲望で。

 

 だから、アザトースは悲しんだ。

 

 そして、ほんの少しだけ、期待した。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 そこで、一人の人間が選択を拒んだ。

 

 緑谷出久。

 

 彼は、偽物と本物のどちらかを選ぶことを拒否した。

 

 彼は、誰かを犠牲にすることで、誰かを救うことを拒んだ。

 

 その選択が正しいかどうかは、まだ分からない。

 

 その選択が、多くの人間を救うのか。

 

 あるいは、より多くの人間を危険にさらすのか。

 

 それさえ、まだ分からない。

 

 だが。

 

 アザトースは、その選択を見ていた。

 

 そして、初めて、地球へ向けて言葉を発した。

 

『……面白い』

 

 その声は、どこにも届かなかった。

 

 いや。

 

 正確には、誰も聞き取ることができなかった。

 

 ただ、世界のどこかで、ほんのわずかな変化が起きた。

 

 死者の心臓が、一度だけ余計に鼓動した。

 

 眠っていた機械が、存在しない命令を受け取った。

 

 夢の中で、見知らぬ人間の声を聞く者が現れた。

 

 そして、ある病院の一室で。

 

 生まれたばかりの赤ん坊が、突然、泣くのをやめた。

 

 赤ん坊は、天井を見つめた。

 

 何もない空間に向かって、手を伸ばした。

 

 その小さな指先が、何かに触れたように動く。

 

 母親は、不思議そうに笑った。

 

「どうしたの?」

 

 赤ん坊は答えなかった。

 

 ただ、笑った。

 

 その笑顔を見て、母親は安心した。

 

 世界は、いつもどおりだった。

 

 何も変わっていない。

 

 少なくとも、彼女にはそう見えた。

 

 だが、アザトースは知っていた。

 

 人類は、まだ自分の存在を理解していない。

 

 しかし、人類の中には、すでに自分の存在に触れ始めた者がいる。

 

 それは、進化の兆候なのか。

 

 それとも、破滅の前兆なのか。

 

 アザトースにも、分からなかった。

 

 だからこそ、彼は待つ。

 

 人類が、自分の言葉を理解する日を。

 

 そして。

 

 人類が、自分自身に問いかける日を。

 

 自分たちは、本当に、今のままでいいのか。

 

     ◆

9 八つの欲望、それぞれの答え

 南極地下施設。

 

 八つの座席の間に、巨大な立体映像が浮かび上がった。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 死柄木弔の宣言。

 

 緑谷出久たちの戦闘。

 

 トガとトゥワイスの離脱。

 

 それらが、同時に表示されていた。

 

 デスは、椅子に座っていた。

 

 死は、その傍らに立っている。

 

「状況を報告しろ」

 

「東京湾第七物流区画では、複数の緑谷出久が救助活動を継続中。死柄木弔の出現によって、現場の混乱は拡大しています」

 

「虚飾は?」

 

「ナイアーラトテップの観測施設から離脱しました」

 

「止めなかったのか?」

 

「止める必要がありましたか?」

 

 デスは、死を見た。

 

 死は微笑んだ。

 

「虚飾の目的は、真実と偽物の境界を破ることです。命令に従うことではありません」

 

「……なるほど」

 

 デスは、立体映像を見つめた。

 

「ならば、あれは失敗ではない」

 

「はい」

 

「ナイアーラトテップは、何と言っている?」

 

「興味深い、と」

 

「それだけか?」

 

「彼は、トガヒミコとトゥワイスが、自分たちの意思で命令を拒否したことを、予測の範囲内だと述べています」

 

 デスは、鼻で笑った。

 

「後からなら、何でも予測できる」

 

「ご本人に伝えますか?」

 

「いや。あの男は、皮肉を理解しないふりをするのが上手い」

 

 死は、微笑みを深めた。

 

 そのとき。

 

 七つの座席のうち、一つが光った。

 

 嫉妬。

 

 映像が切り替わる。

 

 暗い部屋。

 

 その中に、一人の男が立っていた。

 

 青白い炎。

 

 焼け焦げた皮膚。

 

 鋭い眼差し。

 

 荼毘。

 

 彼は、死柄木の宣言を見ていた。

 

 そして、笑った。

 

「……やっとか」

 

 その声には、喜びがあった。

 

 だが、彼の喜びは、死柄木の復活そのものに向けられたものではなかった。

 

 死柄木が、世界に宣戦布告したこと。

 

 その事実が、彼にとって重要だった。

 

「これで、誰も言い訳できなくなる」

 

 荼毘は、自分の掌を見つめた。

 

「ヒーローも。ヴィランも。家族も。社会も」

 

 青い炎が、指先で揺れた。

 

「全員、燃やしてやる」

 

 その炎の中に、父親の顔が浮かんだ。

 

 轟炎司。

 

 エンデヴァー。

 

 彼は、その顔を見つめた。

 

「……あんたもだ」

 

 嫉妬の座席が、強く光った。

 

 デスは、映像を見つめた。

 

「嫉妬は、憤怒に共鳴しているな」

 

「はい」

 

「だが、同じ方向を向いているわけではない」

 

「そのとおりです」

 

「死柄木は、世界を壊したい。荼毘は、世界に自分の罪を見せつけたい」

 

 デスは、笑った。

 

「似ているようで、まるで違う」

 

 次に、別の座席が光った。

 

 傲慢。

 

 そこには、かつてサー・ナイトアイと呼ばれた男がいた。

 

 彼は、静かな部屋で、未来予測の映像を見つめていた。

 

 映像の中では、何度も同じ光景が繰り返されている。

 

 緑谷出久が死ぬ未来。

 

 死柄木弔が勝利する未来。

 

 世界が再構築される未来。

 

 そして、誰も救われない未来。

 

 ナイトアイは、それらを一つずつ確認していた。

 

「……未来が、分岐している」

 

 彼は呟いた。

 

「いや。分岐しているのではない」

 

 ナイトアイは、眼鏡を押し上げた。

 

「未来そのものが、複数存在しているのか」

 

 彼の視線が、緑谷出久の映像に止まった。

 

「君は、どの未来から来た?」

 

 その問いは、画面の向こうの少年には届かなかった。

 

 しかし、ナイトアイは確信していた。

 

 自分の予測は、もう以前のようには機能しない。

 

 未来を見通す個性が、未来の存在そのものを保証してくれない。

 

 それは、彼にとって恐怖だった。

 

 そして。

 

 恐怖は、傲慢を刺激する。

 

「……ならば、証明しなければならない」

 

 ナイトアイは立ち上がった。

 

「未来を予測できなくなったのではない。未来を予測するための条件が変わったのだ」

 

 彼は、笑った。

 

「条件を解明すれば、未来は再び見える」

 

 傲慢の座席が、光を強めた。

 

 次に、色欲。

 

 そこには、ミッドナイトがいた。

 

 彼女は、かつての自分の写真を見つめていた。

 

 教師としての顔。

 

 ヒーローとしての顔。

 

 人々に求められた顔。

 

 そして、誰にも見せなかった顔。

 

 彼女は、その写真を裏返した。

 

「……欲望を、悪だと決めつけるから」

 

 ミッドナイトは呟いた。

 

「人は、自分の欲望を隠すようになる」

 

 彼女は、目を閉じた。

 

「隠された欲望は、いつか歪む」

 

 色欲の座席が、淡く光った。

 

 暴食。

 

 そこには、ギャラクタスとヴェノムがいた。

 

 宇宙の暗闇を背景に、巨大な存在が、星々を見つめている。

 

 ギャラクタスは、惑星を食べていた。

 

 ヴェノムは、その傍らで、何かを咀嚼していた。

 

『腹が減った』

 

 ヴェノムが言った。

 

『お前はいつも腹が減っている』

 

 ギャラクタスが答えた。

 

『お前だって食べているだろ』

 

『私は必要だから食べる』

 

『俺たちだって必要だから食べる』

 

 ギャラクタスは、地球を見た。

 

『あの星は、まだ食べるには早い』

 

『どうして?』

 

『まだ、面白いものが残っている』

 

 暴食の座席が、光った。

 

 怠惰。

 

 そこには、ウルトロンがいた。

 

 彼は、無数の画面を見つめていた。

 

 戦争。

 

 災害。

 

 救助活動。

 

 政治。

 

 経済。

 

 犯罪。

 

 個性の暴走。

 

 死者の蘇生。

 

 すべてを分析し、計算し、分類している。

 

『人類は、非効率的だ』

 

 ウルトロンは言った。

 

『同じ失敗を繰り返す。感情によって判断を誤る。自分たちの作った制度を守るために、制度そのものを破壊する』

 

 彼は、計算を続けた。

 

『ならば、管理する必要がある』

 

 その画面の一つに、死柄木の姿が映った。

 

『憤怒は、管理不能』

 

 別の画面に、緑谷出久が映る。

 

『虚飾は、予測不能』

 

 さらに別の画面。

 

 トガとトゥワイス。

 

『意思決定に、合理性が存在しない』

 

 ウルトロンは、静かに結論を出した。

 

『よって、自由意志は問題の原因である』

 

 怠惰の座席が、光った。

 

 そして、悲嘆。

 

 ネクロンとデス。

 

 彼らの姿は、同じ座席の中に重なっていた。

 

 死者を蘇らせる者。

 

 死を管理する者。

 

 死を終わらせる者。

 

 その境界は、すでに曖昧になっていた。

 

 ネクロンは、蘇生者の記録を見つめていた。

 

「……彼らは、帰りたいのだろうか」

 

 死は答えなかった。

 

 ネクロンは、続けた。

 

「帰りたい場所があるのか。会いたい人間がいるのか。それとも、ただ、死んだことを認めたくないだけなのか」

 

 彼は、記録を閉じた。

 

「私は、彼らを生き返らせた」

 

 声が、震えた。

 

「だが、彼らが望んだことなのか、分からない」

 

 悲嘆の座席が、光った。

 

 デスは、八つの座席を見渡した。

 

 それぞれが、異なる答えを持っている。

 

 それぞれが、異なる世界を望んでいる。

 

 そして、それぞれが、自分の望みを正しいと信じている。

 

「……いい」

 

 デスは呟いた。

 

「実に、いい」

 

 死が、彼を見た。

 

「何が、ですか?」

 

「八つの欲望が、同じ世界を望んでいないことだ」

 

 デスは笑った。

 

「同じ目的のために集まった者たちは、目的が達成された瞬間に争い始める」

 

 彼は、立ち上がった。

 

「だが、最初から異なる目的を持っているなら、争いはもっと早く始まる」

 

 デスは、八つの座席を見つめた。

 

「世界を再構築するために、世界を壊す必要はない」

 

 そして、静かに告げた。

 

「世界を壊したい者たちが、世界を作り直すことを望んでいる。それこそが、最大の矛盾だ。」

 

     ◆

10 もう一人の緑谷出久

 東京湾第七物流区画。

 

 死柄木の宣言が終わったあとも、現場は静かにならなかった。

 

 むしろ、状況は悪化していた。

 

 黒い亀裂が、港湾施設のあちこちに広がっている。

 

 その亀裂から、別の風景が覗いていた。

 

 燃える街。

 

 崩れ落ちるビル。

 

 誰もいない教室。

 

 血に染まった病室。

 

 そして、緑谷出久が知らないはずの場所。

 

 それらは、死柄木が見てきた世界なのか。

 

 それとも、緑谷出久たちが失った世界なのか。

 

 あるいは。

 

 誰も選ばなかった未来なのか。

 

 出久は、死柄木を見つめていた。

 

「死柄木……」

 

「名前を呼ぶなと言ったはずだ」

 

「君が、何を経験したのか、僕には分からない」

 

「当然だ」

 

「でも――」

 

「でも?」

 

 死柄木が、笑った。

 

「それでも、お前は救おうとするんだろう?」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……うん」

 

「ならば、見せてやる」

 

 死柄木の身体が、黒い霧に包まれた。

 

「お前が救おうとしたものが、どれほど多くの人間を苦しめてきたのか」

 

 次の瞬間。

 

 出久の視界が、歪んだ。

 

 周囲の音が消える。

 

 炎の音も、救助隊の声も、海の音も聞こえなくなる。

 

 そして。

 

 出久は、別の場所に立っていた。

 

 見覚えのある街だった。

 

 雄英高校。

 

 その校門が、目の前にある。

 

 しかし、校舎は崩壊していた。

 

 壁は黒く焦げ、窓ガラスは砕け散っている。

 

 校庭には、誰もいない。

 

 出久は、一歩踏み出した。

 

「……ここは」

 

 声が、かすれた。

 

 校舎の入口に、一人の少年が立っていた。

 

 緑谷出久だった。

 

 しかし、今度の少年は、これまでの誰とも違っていた。

 

 身体は痩せ細り、髪は伸び放題になっている。

 

 制服は血に染まり、左腕には包帯が巻かれていた。

 

 彼は、出久を見た。

 

「……やっと来たんだ」

 

 その声に、出久は息を呑んだ。

 

 知らない声ではない。

 

 だが、聞いたことのない声だった。

 

「君は……?」

 

「僕?」

 

 少年は笑った。

 

「僕は、緑谷出久だよ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君と同じ」

 

 少年は、一歩近づいた。

 

「同じ名前。同じ顔。同じ夢」

 

 彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「でも、僕は君じゃない」

 

 少年の目から、涙がこぼれた。

 

「僕は、君が救えなかった世界の緑谷出久だ」

 

 出久は、動けなかった。

 

「……救えなかった?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君が救った世界では、僕は生まれなかった」

 

 出久の胸が、締めつけられた。

 

「君が守った人たちの代わりに、僕の世界では、たくさんの人が死んだ」

 

 少年は、笑った。

 

「君が正しい選択をしたから、僕たちは間違った未来に取り残された」

 

「そんな……」

 

「君は、何も悪くないよ」

 

 少年は言った。

 

 その言葉は、優しかった。

 

 優しすぎた。

 

「君は、正しいことをしたんだ」

 

 少年は、出久の肩に手を置いた。

 

「だから、僕を殺して」

 

 出久は、息を止めた。

 

「……何を言ってるんだ」

 

「僕を殺して」

 

 少年は、繰り返した。

 

「そうすれば、僕たちの世界は、なかったことになる」

 

「そんなこと、できるわけない!」

 

「できるよ」

 

 少年は、静かに答えた。

 

「君ならできる」

 

 彼は、出久の手を取った。

 

 その手は、冷たかった。

 

「君は、いつもそうだった」

 

 少年は、笑った。

 

「誰かを救うために、誰かを切り捨てることができなかった」

 

「……」

 

「でも、君が選ばなかったことで、僕たちは生まれた」

 

 少年は、出久の手を、自分の胸へ押し当てた。

 

「だから、今度は選んで」

 

 その胸には、心臓の鼓動があった。

 

 確かな鼓動。

 

 生きている人間の鼓動。

 

「僕を殺して、君の世界を守って」

 

 少年は言った。

 

「それが、君にできる唯一の救済だよ」

 

 出久は、首を横に振った。

 

「……違う」

 

「何が?」

 

「君を殺すことが、救済だなんて……」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

 少年は尋ねた。

 

「僕を生かすの?」

 

 出久は答えられなかった。

 

「僕を生かしたら、僕の世界は君の世界を侵食する」

 

 少年は、静かに続けた。

 

「僕が存在する限り、君の世界は壊れていく」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……それでも」

 

「それでも?」

 

「君を殺す理由にはならない」

 

 少年は、目を見開いた。

 

 そして。

 

 笑った。

 

「……やっぱり、君はそう言うんだね」

 

 その笑顔は、どこか悲しそうだった。

 

「だから、僕は君が嫌いなんだ」

 

 少年の身体が、崩れ始めた。

 

 指先が、黒い灰になる。

 

 腕が、肩が、胸が。

 

 それでも、少年は笑っていた。

 

「君は、いつも誰かを救おうとする」

 

 彼は言った。

 

「でも、救われなかった人間が、どこに行くのか考えたことはある?」

 

 出久は、手を伸ばした。

 

「待って!」

 

「君が救わなかった人間は、消えないよ」

 

 少年の身体が、さらに崩れる。

 

「誰かの記憶に残る」

 

「待って!」

 

「誰かの夢に残る」

 

「待ってくれ!」

 

「そして、いつか」

 

 少年は、最後に笑った。

 

「君の前に現れる」

 

 その瞬間、世界が砕けた。

 

 出久は、現実へ戻った。

 

 膝をつき、荒い息を吐く。

 

 目の前には、死柄木がいた。

 

 彼は、出久を見下ろしていた。

 

「……どうだった?」

 

 死柄木は尋ねた。

 

「救えたか?」

 

 出久は答えられなかった。

 

「お前は、あいつを救いたかったんだろう?」

 

 死柄木の声は、冷たかった。

 

「ならば、救ってみろ」

 

 彼は、出久の胸ぐらを掴んだ。

 

「俺を救えなかったお前が」

 

 死柄木の瞳が、出久を射抜いた。

 

「俺を救えなかった世界を」

 

 彼は、出久を突き放した。

 

「どこまで救えるのか、見せてみろ」

 

 その言葉と同時に、黒い亀裂が閉じた。

 

 現実の景色が戻ってくる。

 

 炎。

 

 瓦礫。

 

 救助隊。

 

 そして、無数の緑谷出久。

 

 出久は、立ち上がった。

 

 死柄木は、すでにいなかった。

 

 ただ、彼が立っていた場所に、黒い灰が残っていた。

 

 その灰の中に、小さな紙片が落ちていた。

 

 出久は、拾い上げた。

 

 紙片には、手書きの文字があった。

 

 ――お前は、誰を救うために生まれた?

 

 出久は、その文字を見つめた。

 

 答えられなかった。

 

 自分が、何のために生まれたのか。

 

 誰を救うために生まれたのか。

 

 そんなことを、考えたことはなかった。

 

 ただ、助けたいと思った。

 

 ただ、手を伸ばしたかった。

 

 それが、すべてだった。

 

 しかし。

 

 もし、自分が手を伸ばしたことで、別の誰かが苦しんでいたとしたら。

 

 もし、自分が救った人間の影で、救われなかった人間が存在していたとしたら。

 

 それでも、自分は、同じように手を伸ばせるのだろうか。

 

 出久は、紙片を握りしめた。

 

 そのとき。

 

「出久くん」

 

 お茶子の声がした。

 

 彼女は、出久の隣に立っていた。

 

「大丈夫?」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 彼女の顔を見た。

 

 その目に、心配があった。

 

 恐怖もあった。

 

 それでも、彼女はここにいた。

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……分からない」

 

 正直に答えた。

 

「何が正しいのか、分からない」

 

 お茶子は、黙っていた。

 

「誰を救えばいいのかも、分からない」

 

 出久の声が震えた。

 

「でも……」

 

 彼は、周囲を見渡した。

 

 瓦礫を運ぶ自分。

 

 負傷者を抱える自分。

 

 泣いている子供に、手を差し伸べる自分。

 

 その誰もが、別々の人生を生きていた。

 

 別々の選択をしていた。

 

 別々の後悔を抱えていた。

 

 それでも。

 

 彼らは、誰かを助けていた。

 

「……今、助けを求めている人がいる」

 

 出久は言った。

 

「だったら、まずは、その人を助けたい」

 

 お茶子は、少しだけ目を見開いた。

 

 そして、微笑んだ。

 

「うん」

 

 彼女は、出久の手を握った。

 

「それで、ええと思う」

 

 出久は、彼女の手を握り返した。

 

 それは、答えではなかった。

 

 何の解決にもなっていなかった。

 

 世界の矛盾は、何一つ消えていない。

 

 死者は蘇り続けている。

 

 死柄木は、世界を壊そうとしている。

 

 八つの欲望は、それぞれの目的で動き始めている。

 

 そして、どこか遠い場所で。

 

 アザトースが、人類を見つめている。

 

 それでも。

 

 出久は、立ち上がった。

 

 目の前で、助けを求める声が聞こえた。

 

 出久は、走り出した。

 

 その背中を、お茶子が追った。

 

     ◆

11 憂鬱からの問い

 南極地下施設。

 

 デスは、突然、顔を上げた。

 

「……今のは?」

 

 死が、すぐに反応した。

 

「どうされました?」

 

「何かが、こちらを見た」

 

 死の微笑みが消えた。

 

「それは……」

 

「アザトースだ」

 

 デスは、静かに答えた。

 

 その名を口にした瞬間、施設全体が震えた。

 

 八つの座席が、同時に光る。

 

 それぞれの欲望が、ほんの一瞬だけ、同じ方向を向いた。

 

 嫉妬。

 

 強欲。

 

 傲慢。

 

 色欲。

 

 虚飾。

 

 暴食。

 

 怠惰。

 

 悲嘆。

 

 そして、空席。

 

 そのすべてが、何かを感じ取った。

 

 死は、膝をついた。

 

「……お呼びでしょうか」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、空間の奥から、声がした。

 

『死』

 

 それは、言葉というより、意味そのものだった。

 

 死は、頭を下げた。

 

「はい」

 

『あなたは、人類を再構築しようとしている』

 

「はい」

 

『なぜ?』

 

 死は、答えた。

 

「人類は、同じ過ちを繰り返しています。死者を悼みながら、死者を生み出す。平和を望みながら、戦争を続ける。正義を掲げながら、正義の名のもとに人を傷つける」

 

『それを、あなたは変えられると思うのか』

 

「変えなければなりません」

 

『なぜ?』

 

 死は、顔を上げた。

 

「……それが、私の役割だからです」

 

 沈黙。

 

 やがて、アザトースの声がした。

 

『それは、あなたの答えではない』

 

 死は、動かなかった。

 

『あなたは、何を望んでいる?』

 

 死は、答えられなかった。

 

 彼女は、世界を再構築したい。

 

 死者を蘇らせたい。

 

 失われたものを取り戻したい。

 

 だが。

 

 それは、誰のためなのか。

 

 世界のためなのか。

 

 死者のためなのか。

 

 それとも。

 

 自分自身のためなのか。

 

 死は、答えを知らなかった。

 

 いや。

 

 答えを知ることを、恐れていた。

 

『……そうか』

 

 アザトースは、静かに言った。

 

『あなたも、まだ問いの中にいるのだな』

 

 その言葉は、責めるものではなかった。

 

 失望するものでもなかった。

 

 ただ、事実を確認するような響きだった。

 

 死は、深く頭を下げた。

 

「……はい」

 

『ならば、問い続けなさい』

 

 その声が、遠ざかっていく。

 

『答えを急ぐ必要はない』

 

 そして、最後に。

 

『ただし』

 

 世界が、静止した。

 

『あなたが答えを見つける前に、人類があなたの答えを拒絶する可能性もある』

 

 死は、顔を上げた。

 

 だが、もう声はなかった。

 

 アザトースは、去っていた。

 

 デスは、長い沈黙の後、口を開いた。

 

「……聞いたか?」

 

「はい」

 

「お前は、どう思う?」

 

 死は、少し考えた。

 

「アザトースは、私たちに答えを与えるつもりがないのでしょう」

 

「そうだろうな」

 

「では、なぜ問いかけるのですか?」

 

 デスは、八つの座席を見つめた。

 

「……対話を望んでいるからだ」

 

「対話?」

 

「自分の答えを押しつけるのではなく、人類が自分で答えを見つけることを望んでいる」

 

 デスは、目を閉じた。

 

「だが、あれほどの存在が、本当に対話を望んでいるのか」

 

「疑っているのですか?」

 

「当然だ」

 

 デスは、静かに笑った。

 

「アザトースは、人類を理解したいのかもしれない。人類を進化させたいのかもしれない。あるいは、人類が自分を理解することを望んでいるのかもしれない」

 

 彼は、死を見た。

 

「しかし、あれが本当に何を望んでいるのか、私たちには分からない」

 

「……はい」

 

「だからこそ、私たちは観察する」

 

 デスは、立ち上がった。

 

「アザトースの意思に従うためではない」

 

 彼は、八つの座席を見渡した。

 

「私たち自身が、何を望んでいるのかを知るために」

 

     ◆

12 世界が燃え続ける理由

 夜明け前。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 救助活動は、まだ続いていた。

 

 緑谷出久は、瓦礫の下から一人の少女を救い出した。

 

 少女は、泣いていた。

 

 その小さな手が、出久の服を掴んでいる。

 

「……お兄ちゃん」

 

「うん?」

 

「お兄ちゃん、死んじゃうの?」

 

 出久は、答えに詰まった。

 

 少女は、出久の顔を見上げていた。

 

「さっき、同じ顔のお兄ちゃんが、死んじゃった」

 

 出久の胸が、痛んだ。

 

「でも、別のお兄ちゃんが、また起き上がったの」

 

 少女は、震える声で続けた。

 

「死んでも、生き返るの?」

 

 出久は、少女を抱きしめた。

 

「……分からない」

 

 嘘をつくことはできなかった。

 

「でも、君が怖いなら、ここにいるよ」

 

 少女は、出久の服を握りしめた。

 

 しばらくして、彼女は、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 出久は、少女を救助隊へ預けた。

 

 そして、空を見上げた。

 

 夜明けが近づいている。

 

 だが、空はまだ暗かった。

 

 黒煙が、街を覆っている。

 

 遠くで、サイレンが鳴っている。

 

 どこかで、誰かが泣いている。

 

 そして、世界中の人々が、同じ問いを抱え始めていた。

 

 死者が蘇る世界で。

 

 偽物と本物の境界が崩れた世界で。

 

 正義と悪の区別が揺らぐ世界で。

 

 自分たちは、何を信じればいいのか。

 

 何を守ればいいのか。

 

 誰を救えばいいのか。

 

 出久は、ポケットの中の紙片を握りしめた。

 

 ――お前は、誰を救うために生まれた?

 

 その問いに、まだ答えはない。

 

 だが、出久は気づき始めていた。

 

 この問いは、自分だけに向けられたものではない。

 

 死柄木弔にも。

 

 荼毘にも。

 

 トガヒミコにも。

 

 トゥワイスにも。

 

 デスにも。

 

 八つの欲望にも。

 

 そして、アザトースにも。

 

 それぞれが、同じ問いを抱えている。

 

 ただし、答えは違う。

 

 死柄木は、世界を壊すことで答えを出そうとしている。

 

 荼毘は、世界に罪を突きつけることで答えを出そうとしている。

 

 デスは、世界を再構築することで答えを出そうとしている。

 

 ナイアーラトテップは、境界を壊すことで答えを探そうとしている。

 

 ウルトロンは、世界を管理することで答えを見つけようとしている。

 

 アザトースは、人類が自分自身で答えを見つけることを待っている。

 

 そして、出久は。

 

 まだ、答えを知らない。

 

 だからこそ。

 

 彼は、再び走り出した。

 

 誰かが助けを求めている。

 

 その声が聞こえる限り。

 

 自分にできることがある限り。

 

 手を伸ばすことを、やめるつもりはなかった。

 

 だが。

 

 その背後で。

 

 誰にも見えない場所で。

 

 黒い影が、静かに笑っていた。

 

 それは、死ではない。

 

 ナイアーラトテップでもない。

 

 ウルトロンでもない。

 

 もちろん、アザトースそのものでもなかった。

 

 それは、彼らの計画の隙間に生まれた、名もない観測者だった。

 

 観測者は、出久の背中を見つめた。

 

 そして、呟いた。

 

「……君は、まだ手を伸ばすんだね」

 

 その声は、誰にも届かなかった。

 

「ならば、次は」

 

 影が、ゆっくりと形を変える。

 

 その輪郭は、緑谷出久に似ていた。

 

 だが、完全には一致していない。

 

 目の色が違う。

 

 髪の形が違う。

 

 そして、何より。

 

 その目には、希望がなかった。

 

「君が救おうとした人間が、君を拒絶したら」

 

 影は笑った。

 

「それでも、君は救うのかな?」

 

 世界は、燃え続けていた。

 

 炎は、まだ消えていない。

 

 憤怒は、世界を壊そうとしている。

 

 八つの欲望は、それぞれの目的で動き始めた。

 

 死は、死者の側から世界を見つめている。

 

 ナイアーラトテップは、虚飾の二人が選んだ自由を観察している。

 

 ウルトロンは、人類の非合理性を分析している。

 

 そして、アザトースは。

 

 世界の向こう側で、人類が答えを見つける日を待っている。

 

 誰も、同じ未来を望んでいない。

 

 誰も、同じ答えを持っていない。

 

 それでも、彼らは同じ世界に生きている。

 

 だからこそ。

 

 この世界は、まだ終わらない。

 

 終わらせることができない。

 

 そして、終わらせてはいけないと信じる者たちがいる。

 

 その一人が、緑谷出久だった。

 

 彼は、振り返らなかった。

 

 背後で、何が起きているのか。

 

 世界が、どれほど複雑な計画に巻き込まれているのか。

 

 自分の選択が、どれほど多くの未来を変えてしまうのか。

 

 まだ、何も知らない。

 

 だが、知らないからこそ、彼は手を伸ばせるのかもしれない。

 

 正解を知らないからこそ。

 

 間違いを恐れながらも。

 

 誰かを救おうとすることができるのかもしれない。

 

 その姿を、アザトースは見ていた。

 

 そして、再び問いかけた。

 

『人類よ』

 

 声は、世界のどこにも届かなかった。

 

『あなたたちは、何を救おうとしているのですか』

 

 答えは、まだない。

 

 ただ、夜明けが近づいていた。

 

 炎の向こう側に。

 

 死者たちの帰還の向こう側に。

 

 八つの欲望の向こう側に。

 

 憤怒の向こう側に。

 

 世界を夢見る憂鬱の向こう側に。

 

 新しい朝が、近づいていた。

 

 その朝が、希望の朝なのか。

 

 それとも、世界が最後の審判を受ける朝なのか。

 

 誰にも分からない。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 世界は、まだ緑谷出久に答えを与えていない。

 

 そして。

 

 緑谷出久も、まだ世界に答えを返していない。




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