僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第四話「選ばれなかった世界の証言」

 

 午前五時十二分。

 

 東京湾第七物流区画の空に、朝はまだ来ていなかった。

 

 東の水平線はわずかに白み始めている。

 

 だが、街を覆う黒煙は、その光を拒絶するように空へ伸びていた。

 

 サイレンが鳴っている。

 

 救助隊が走っている。

 

 報道陣が集まっている。

 

 そして、無数の人間が、同じ顔をした少年たちを見ていた。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 同じ名前。

 

 同じ顔。

 

 それなのに、誰一人として同じ人生を生きていない。

 

 その光景を前に、人々は初めて、自分たちが当たり前だと思っていたものに疑問を抱き始めていた。

 

 人間とは、何なのか。

 

 顔が同じなら、同じ人間なのか。

 

 記憶が違えば、別人なのか。

 

 記憶が同じなら、同一人物なのか。

 

 死んだ人間が蘇ったとき、その人間は本当に、死ぬ前と同じ人間なのか。

 

 そして。

 

 もし、同じ人間が二人存在したなら、世界はどちらを生かすべきなのか。

 

 その問いに、答えられる者はいなかった。

 

 ただ一人を除いて。

 

「……どちらも、です」

 

 緑谷出久は、そう答えた。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 目の前の少女に向けたのか。

 

 自分と同じ顔をした少年たちに向けたのか。

 

 それとも、自分自身に向けたのか。

 

 少女は、救助隊の担架に座っていた。

 

 年齢は七歳か、八歳くらいだろう。

 

 毛布に包まれた小さな身体が、寒さとは違う理由で震えていた。

 

「でも、お兄ちゃん」

 

 少女は尋ねた。

 

「同じ人が二人いたら、どっちが本当のお兄ちゃんなの?」

 

 出久は答えられなかった。

 

 少女は、泣きそうな顔で続けた。

 

「わたし、さっきのお兄ちゃんに助けてもらったの」

 

「……うん」

 

「でも、そのお兄ちゃん、死んじゃった」

 

 少女の視線が、救護所の奥へ向いた。

 

 そこには、白い布をかけられた遺体があった。

 

 緑谷出久の顔をした少年。

 

 瓦礫の下から少女を救い出し、その直後、崩落した梁に押し潰された少年だった。

 

 彼は、もう動かない。

 

 心臓も止まっている。

 

 呼吸もない。

 

 医療班は死亡を確認していた。

 

 しかし、少女は知っていた。

 

 その少年が、自分を抱きかかえてくれたときの温かさを。

 

 自分を怖がらせないように、わざと明るく笑ってくれたことを。

 

 最後に、自分の頭を撫でてくれたことを。

 

「……あのお兄ちゃんが、本当のお兄ちゃんじゃなかったら」

 

 少女の声が、小さくなった。

 

「わたしを助けてくれたのは、誰なの?」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 少女は、毛布を握りしめていた。

 

「本当のお兄ちゃんじゃないなら、あのお兄ちゃんは、誰だったの?」

 

 答えは、出なかった。

 

 出久は、膝をついた。

 

 少女と目線を合わせる。

 

「……そのお兄ちゃんは、君を助けてくれた人だよ」

 

「でも、偽物なんでしょう?」

 

「違う」

 

 出久は、すぐに答えた。

 

 少女が目を見開く。

 

「どうして?」

 

 出久は、遺体を見た。

 

 白い布の向こうに、少年がいる。

 

 どんな人生を生きたのか。

 

 誰を愛したのか。

 

 何を失ったのか。

 

 どうして、あの場所にいたのか。

 

 出久には、何一つ分からない。

 

 それでも。

 

「……君を助けようとしたことは、偽物じゃないから」

 

 出久は言った。

 

「その人が、君を助けたかったことは、本当だったと思う」

 

 少女は、黙っていた。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

「……そっか」

 

 それ以上、何も尋ねなかった。

 

 出久は、立ち上がった。

 

 そして、遺体のそばへ歩いた。

 

 白い布に触れる。

 

 ほんの少しだけ、指先が震えた。

 

「……ありがとう」

 

 彼は、そう言った。

 

 誰にも聞こえない声で。

 

 自分と同じ顔をした、知らない少年に向かって。

 

     ◆

1 救助された人間と、救助されなかった世界

「緑谷くん」

 

 背後から、お茶子の声がした。

 

 振り返ると、彼女は端末を持っていた。

 

 画面には、現場の状況が表示されている。

 

「警察と公安が、現場の管理を始めたって」

 

「……そうなんだ」

 

「それと、雄英から連絡が来てる。相澤先生たちも、こっちに向かってるみたい」

 

 出久は頷いた。

 

 だが、表情は晴れなかった。

 

 お茶子は、彼の視線を追った。

 

 白い布。

 

 遺体。

 

 その隣で、少年の死を知らされた家族が泣いている。

 

 彼らは、少年の名前を知らない。

 

 身元も分からない。

 

 ただ、自分たちの家族を助けてくれた人が死んだことだけを知っている。

 

 お茶子は、唇を噛んだ。

 

「……みんな、出久くんのことを見てる」

 

「え?」

 

「ほら」

 

 彼女が指し示した先には、数人の避難者がいた。

 

 彼らは、出久を見ていた。

 

 いや。

 

 出久だけではない。

 

 現場にいる、すべての緑谷出久を見ていた。

 

 ある者は、恐怖を隠そうとしている。

 

 ある者は、敵を見るような目をしている。

 

 ある者は、期待している。

 

 そして、ある者は。

 

 自分が助けてもらった少年の顔をした人間を、必死に探していた。

 

「……怖いんだと思う」

 

 お茶子は言った。

 

「自分を助けてくれた人が、別の人だったかもしれないって」

 

「でも、助けたことは変わらないよ」

 

「うん。うちも、そう思う」

 

 お茶子は頷いた。

 

「でも、みんながそう思えるとは限らんやん」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 そうなのだ。

 

 自分たちが正しいと思うことを、誰もが同じように受け入れてくれるわけではない。

 

 自分が手を伸ばしたことを、相手が救いだと思うとは限らない。

 

 自分が善意で行ったことを、相手が望んでいたとも限らない。

 

 そして。

 

 自分が救ったと思っていた人間が、実は別の誰かの人生を奪っていた可能性だってある。

 

「……緑谷くん」

 

 お茶子が、そっと声をかけた。

 

「今、何を考えてる?」

 

 出久は少し考えてから、答えた。

 

「……自分が、何も知らなかったんだなって」

 

「何を?」

 

「自分と同じ顔をした人が、別の世界で、どんな人生を生きていたのか」

 

 彼は、自分の手を見た。

 

「僕は、自分の人生しか知らない」

 

 その手で、多くの人を助けてきた。

 

 誰かを守るために、何度も拳を握った。

 

 誰かを救うために、何度も身体を張った。

 

 それが正しかったと、今も信じている。

 

 けれど。

 

「僕と同じ顔をした人が、僕の知らない場所で、僕の知らない人たちを救っていた」

 

 出久は言った。

 

「僕が出会わなかった人を救って、僕が経験しなかったことを経験して、僕が知らない理由で死んだ」

 

 彼は顔を上げた。

 

「それなのに、僕は今まで、その人たちが存在する可能性さえ考えなかった」

 

 お茶子は、黙っていた。

 

「……僕は、ヒーローになってから、たくさんの人を見てきたつもりだった」

 

 出久は続けた。

 

「でも、僕が見ていたのは、僕の世界だけだったんだ」

 

 お茶子は、しばらく彼を見つめていた。

 

 やがて、静かに言った。

 

「それは、出久くんが悪いことなんかな」

 

「……分からない」

 

「そっか」

 

 彼女は、無理に答えを与えなかった。

 

 ただ、隣に立った。

 

「じゃあ、一緒に考えよう」

 

 出久は、彼女を見た。

 

「一緒に?」

 

「うん。出久くん一人で考えても、分からんことはあるやろ?」

 

 お茶子は、少しだけ笑った。

 

「それに、うちらが知らん世界のことを、うちらだけで決めるのも違うと思う」

 

 その言葉に、出久は目を見開いた。

 

 そうだ。

 

 知らないのなら、知ればいい。

 

 分からないのなら、聞けばいい。

 

 勝手に答えを決めるのではなく。

 

 その人自身の言葉を、聞けばいい。

 

 ただし。

 

 それができるのは、生きている者だけだ。

 

 死者の言葉を聞くことは、簡単ではない。

 

 記憶が欠けている者もいる。

 

 自分が誰なのか分からない者もいる。

 

 そして、そもそも、自分の人生を語りたくない者だっている。

 

 それでも。

 

 出久は、もう一度、遺体を見た。

 

「……せめて、この人が誰だったのか、知りたい」

 

 お茶子は頷いた。

 

「うん」

 

「この人が、どんな人生を生きてきたのか」

 

 出久は言った。

 

「どうして、僕と同じ顔をしているのか」

 

 そのとき。

 

「それを知って、どうする?」

 

 第三者の声が割り込んだ。

 

 二人が振り返る。

 

 そこには、相澤消太が立っていた。

 

 包帯の巻かれた腕。

 

 疲れ切った顔。

 

 だが、その目は、いつもと変わらず鋭かった。

 

「先生!」

 

「状況を聞いた。……お前たちが無事なのは分かった」

 

 相澤は、現場を見渡した。

 

 無数の緑谷出久。

 

 倒壊した建物。

 

 蘇生した死者。

 

 そして、救助活動を続けるヒーローたち。

 

「だが、ここから先は、お前の善意だけで動くな」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……先生」

 

「お前が一人で判断すれば、助けられる人間もいるだろう。だが、判断を誤れば、助けられなくなる人間もいる」

 

 相澤は、静かに言った。

 

「今の状況は、お前一人が責任を負える規模じゃない」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

 その言葉は、正しい。

 

 正しいからこそ、痛かった。

 

「……分かっています」

 

「本当にか?」

 

 相澤は、出久を見た。

 

「お前は、今すぐ全員を助けに走りたいと思っているだろう」

 

 出久は答えられなかった。

 

「全員の話を聞きたい。全員を救いたい。全員が本物だと認めたい」

 

 相澤は、ため息をついた。

 

「その気持ち自体を否定するつもりはない」

 

 そして、続けた。

 

「だが、全員を救いたいという気持ちと、全員を救えるという事実は違う」

 

 出久の胸に、その言葉が突き刺さった。

 

「今、お前がすべきことは、答えを出すことじゃない」

 

 相澤は、現場の奥を見た。

 

「答えを出せる状況を作ることだ」

 

 その瞬間、出久は気づいた。

 

 自分は、また同じことをしようとしていたのだ。

 

 目の前の問題に、自分一人で答えを出そうとしていた。

 

 すべてを理解しようとしていた。

 

 すべてに責任を負おうとしていた。

 

 そして、すべてを救おうとしていた。

 

 その結果、自分が壊れてしまう可能性を、考えていなかった。

 

「……はい」

 

 出久は、頷いた。

 

「まず、何が起きているのかを調べます」

 

「そうしろ」

 

 相澤は、少しだけ表情を和らげた。

 

「それと、もう一つ」

 

「はい?」

 

「お前と同じ顔をした人間が、全員お前の味方だと思うな」

 

 出久は、周囲を見た。

 

 救助活動を続ける少年。

 

 うずくまっている少年。

 

 泣いている少年。

 

 誰かを睨みつけている少年。

 

 その中に、一人。

 

 出久を見つめながら、ゆっくりと首を横に振る少年がいた。

 

 彼は、何も言わなかった。

 

 ただ、出久を見て。

 

 その場を去った。

 

 出久は、追いかけようとした。

 

 しかし、相澤が腕を掴んだ。

 

「今は行くな」

 

「でも!」

 

「今、追いかければ、そいつは逃げる」

 

 相澤は言った。

 

「お前が聞きたいことを聞くために、相手の都合を無視するな」

 

 出久は、立ち止まった。

 

 少年の背中が、人混みの向こうに消えていく。

 

 自分と同じ顔をした、知らない人間。

 

 自分のことを、嫌っているかもしれない人間。

 

 自分の存在を、許せないと思っているかもしれない人間。

 

 それでも。

 

 いつか、話をしたいと思った。

 

 彼が望むなら。

 

 彼が、自分の言葉を聞かせてくれるなら。

 

 そのときは、きちんと聞こう。

 

 自分が何を言いたいかではなく。

 

 彼が、何を伝えたいのかを。

 

     ◆

2 死者の身分証明

 午前六時。

 

 雄英高校・緊急対策本部。

 

 会議室の壁一面に、東京湾第七物流区画の映像が表示されていた。

 

 現場の空撮。

 

 個体ごとの識別映像。

 

 救助記録。

 

 蘇生反応の計測結果。

 

 そして、死柄木弔の宣言。

 

 誰もが、画面を見つめていた。

 

「……信じられないな」

 

 プレゼント・マイクが呟いた。

 

「死んだ人間が蘇るだけでも十分に異常なのに、同じ人間が何百人もいるなんて」

 

「しかも、全員が同一の個体というわけではない」

 

 根津が、端末を操作した。

 

「遺伝子情報の一部は一致しています。しかし、細部には差異がある。個性因子も、完全に一致しているとは限りません」

 

「つまり、クローンということですか?」

 

 誰かが尋ねた。

 

「単純なクローンでは説明がつかない」

 

 根津は首を横に振った。

 

「彼らの中には、現在の技術では製造不可能な個性を持つ者がいます。記憶についても、既存のデータから再現されたとは考えにくい情報が含まれています」

 

 画面が切り替わる。

 

 一人の緑谷出久の記録。

 

 彼は、現場で負傷者を救助していた。

 

 その映像に、別の記録が重なる。

 

 別の緑谷出久。

 

 別の人生。

 

 別の経験。

 

「この個体は、自分が存在した世界について証言しています」

 

 根津が説明した。

 

「彼の世界では、緑谷出久はヒーローにならなかった。別の人物がワン・フォー・オールを継承し、彼はその人物を支える立場にあったそうです」

 

「……そんなことまで?」

 

 オールマイトが、画面を見つめた。

 

 そこに映る少年は、確かに緑谷出久だった。

 

 だが、彼が語る人生は、オールマイトの知る少年の人生とは異なっていた。

 

「別の個体は、死柄木弔との決戦で死亡したと証言しています」

 

 根津が続けた。

 

「別の個体は、決戦そのものが起きなかったと証言しています。さらに別の個体は、オール・フォー・ワンが勝利した世界から来たと述べています」

 

 会議室が静まり返った。

 

 オールマイトの表情が、険しくなる。

 

「……では、彼らは」

 

「少なくとも、彼ら自身は、自分たちが経験した人生を本物だと認識しています」

 

 根津は、慎重に言葉を選んだ。

 

「それを虚偽だと断定できる証拠はありません」

 

「しかし、彼らが本当に別の世界から来たのか、あるいは別の方法で作られたのかは、まだ分からない」

 

 相澤が言った。

 

「どちらにせよ、今すぐ全員を保護し、検査する必要がある」

 

「問題は、保護の方法です」

 

 根津が、別の画面を表示した。

 

 そこには、蘇生した個体の一覧が並んでいた。

 

 死亡確認時刻。

 

 蘇生確認時刻。

 

 個性因子の変化。

 

 記憶の欠損。

 

 そして、身元情報。

 

「彼らの中には、すでに死亡届が受理されている者もいます。戸籍上、存在しない者もいます。生前の記録が完全に失われている者もいます」

 

「……つまり」

 

 オールマイトが呟いた。

 

「生き返ったことを証明できない人間がいる、ということか」

 

「はい」

 

 根津は頷いた。

 

「本人が自分の名前を覚えていても、身分証明書がない。家族が本人だと認めても、遺伝子情報が一致しない。逆に、遺伝子情報が一致しても、記憶がまったく異なる」

 

 画面に、ある記録が表示された。

 

 女性。

 

 生前の名前は、すでに死亡した人物のものだった。

 

 彼女は、自分の夫の名前を覚えていた。

 

 自宅の住所も。

 

 子供の誕生日も。

 

 夫と最後に交わした会話も。

 

 しかし。

 

 その夫は、彼女が死亡した後、別の女性と再婚していた。

 

 彼女の死を受け入れ、人生をやり直していた。

 

 彼女が蘇ったとき。

 

 夫には、すでに新しい家庭があった。

 

「……これは」

 

 オールマイトが言葉を失った。

 

「彼女は、自分が本物だと主張しています」

 

 根津は続けた。

 

「夫も、彼女が自分の妻だったことを認めています。ただし、夫は、現在の妻と子供を守るため、彼女を家に迎え入れることを拒否しました」

 

「……当然だろう」

 

 相澤が言った。

 

「当然、か」

 

 根津は、静かに繰り返した。

 

「では、彼女はどうすればいいのでしょう?」

 

 誰も答えなかった。

 

「彼女が本物なら、夫に会う権利があるのでしょうか。夫が拒否したなら、彼女はその意思を尊重すべきなのでしょうか。それとも、彼女が帰るべき家は、すでに存在しないのでしょうか」

 

 根津は、画面を閉じた。

 

「死者が蘇るということは、死者だけの問題ではありません」

 

 その言葉が、会議室に重く響いた。

 

「生き残った人間もまた、過去をやり直すことを求められるのです」

 

 オールマイトは、目を閉じた。

 

 自分が生き返ったとしたら。

 

 自分が、過去の世界へ戻ったとしたら。

 

 自分が救えなかった人々が、再び目の前に現れたとしたら。

 

 彼は、どうするのだろう。

 

 かつての自分なら、迷わず手を伸ばしたかもしれない。

 

 しかし、今の彼には分からなかった。

 

 生き返った人間が、本当に救いを求めているとは限らない。

 

 過去に戻りたいとは限らない。

 

 以前の自分に会いたいとは限らない。

 

 そして。

 

 生き返った人間を受け入れることが、今を生きる人間を傷つける場合もある。

 

「……緑谷少年は、現場にいるのですね」

 

 オールマイトが尋ねた。

 

「はい」

 

 相澤が答えた。

 

「ただし、現時点では、彼にも何が起きているのか分かっていません」

 

「そうでしょうね」

 

 オールマイトは、深く息を吐いた。

 

「彼は、きっと全員を救おうとするでしょう」

 

「だから、止める必要があります」

 

 相澤の言葉は、厳しかった。

 

「彼が間違っているからではありません。彼一人に、全員の人生を背負わせるわけにはいかないからです」

 

 オールマイトは、静かに頷いた。

 

 そのとき。

 

 会議室の画面が、突然切り替わった。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 現場に設置された監視カメラの映像。

 

 画面の中央に、一人の少年が立っていた。

 

 緑谷出久。

 

 彼は、カメラを見ていた。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

『僕は、緑谷出久です』

 

 会議室の全員が、息を止めた。

 

『僕は、ここにいる緑谷出久たちを、偽物だとは思いません』

 

 少年は、静かに続けた。

 

『彼らが、どこから来たのかは分かりません。どうして同じ顔をしているのかも分かりません。彼らが本当に別の世界から来たのか、それとも、別の方法で生み出されたのかも分かりません』

 

 画面の向こうで、少年は一度、目を閉じた。

 

『でも、彼らが誰かを助けたことは、偽物じゃないと思います』

 

 相澤は、眉を寄せた。

 

 出久の言葉は、危うい。

 

 まだ何も分かっていない段階で、結論を出してしまっている。

 

 しかし。

 

『だから、僕は、彼らの話を聞きたいです』

 

 出久は言った。

 

『彼らがどんな人生を生きてきたのか。何を失って、何を守ろうとしているのか。どうして、ここに来たのか』

 

 彼は、カメラを見つめた。

 

『もし、彼らが助けを求めているなら、僕は、その声を聞きたいです』

 

 映像が終わった。

 

 会議室に、沈黙が落ちた。

 

 やがて、相澤が呟いた。

 

「……あいつらしい」

 

 オールマイトは、笑わなかった。

 

「ええ」

 

 彼は、静かに言った。

 

「ですが、今回は、それだけでは足りないかもしれません」

 

 そのとおりだった。

 

 緑谷出久が、全員の話を聞く。

 

 それだけで解決する問題なら、まだよかった。

 

 しかし、世界はすでに動き始めていた。

 

 死者の蘇生。

 

 複数の世界の存在。

 

 死柄木弔の宣戦布告。

 

 そして、八つの欲望。

 

 それらは、緑谷出久が誰か一人の話を聞いている間にも、独自の意思で動き続けている。

 

 世界は、彼が答えを見つけるまで待ってはくれない。

 

 そして。

 

 世界が待たない以上、彼の選択は、必ず誰かに影響を与える。

 

     ◆

3 荼毘は、死柄木を救わない

 東京湾から離れた、廃工場。

 

 窓ガラスは割れ、屋根の一部が崩れ落ちていた。

 

 その中央に、一人の男が座っていた。

 

 荼毘。

 

 彼は、古びた端末で死柄木の宣言を再生していた。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 再生が終わるたび、最初に戻す。

 

「俺は、世界を壊す」

 

 死柄木の声が響く。

 

 荼毘は、笑った。

 

「……そうかよ」

 

 もう一度、再生する。

 

「俺は、世界を壊す」

 

「やっと、言ったな」

 

 荼毘は、端末を止めた。

 

 そして、立ち上がった。

 

 青い炎が、指先で揺れる。

 

 彼は、死柄木の宣言に共感していた。

 

 世界が、自分たちを生み出した。

 

 世界が、自分たちを追い詰めた。

 

 世界が、自分たちを怪物と呼んだ。

 

 ならば、世界に責任を取らせる。

 

 その考え方は、理解できる。

 

 だが。

 

「……あいつは、甘いな」

 

 荼毘は呟いた。

 

 世界を壊す。

 

 その言葉は、簡単だ。

 

 しかし、世界を壊したあと、何が残るのか。

 

 死柄木は、それを考えているのだろうか。

 

 考えていないのかもしれない。

 

 いや。

 

 考えたくないのかもしれない。

 

 荼毘は、自分の手を見つめた。

 

 この手で、何人もの人間を傷つけた。

 

 この炎で、何人もの人間を焼いた。

 

 自分が死ねば、何かが終わると思ったこともある。

 

 だが、死んでも終わらなかった。

 

 生き返ったからだ。

 

 生き返ってしまったからだ。

 

「……くそったれ」

 

 荼毘は、壁を蹴った。

 

 崩れかけた壁が、さらに砕けた。

 

「なんで、まだ生きてんだよ」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 死柄木に向けたのか。

 

 世界に向けたのか。

 

 それとも、自分自身に向けたのか。

 

 分からなかった。

 

 そのとき。

 

 工場の入口から、足音がした。

 

「お邪魔するよ」

 

 穏やかな声。

 

 荼毘は、振り返らなかった。

 

「……誰だ」

 

「君が、名前を知る必要はない」

 

「なら、帰れ」

 

「そうはいかない」

 

 男は、ゆっくりと歩いてきた。

 

 黒い外套。

 

 顔の半分を覆う仮面。

 

 荼毘は、ようやく振り返った。

 

「……あんた、何者だ?」

 

「私は、君に提案をしに来た」

 

「提案?」

 

「死柄木弔を、止めるつもりはあるか?」

 

 荼毘は、笑った。

 

「ねえよ」

 

「本当に?」

 

「俺は、あいつの保護者じゃねえ」

 

 荼毘は、青い炎を灯した。

 

「世界を壊したいなら、勝手に壊せばいい。俺は俺で、やることがある」

 

「轟炎司か」

 

 その名前を聞いた瞬間。

 

 炎が、跳ね上がった。

 

 荼毘の目が、細くなる。

 

「……誰から聞いた?」

 

「君の記録を読んだ」

 

「記録?」

 

「君が、どのように生まれ、何を望み、何を失い、何を憎んでいるのか」

 

 男は、淡々と続けた。

 

「君は、世界を壊したいのではない」

 

 荼毘は、動かなかった。

 

「君は、世界に見せたいのだ」

 

 男は言った。

 

「自分が、どれほど苦しんだのかを」

 

 荼毘は、笑った。

 

 だが、その笑顔には、怒りがあった。

 

「……分かったような口を利くな」

 

「違うのか?」

 

「違うね」

 

 荼毘は、男へ一歩近づいた。

 

「俺は、あいつを苦しめたい」

 

 青い炎が、男の足元を舐めた。

 

「俺を生んだことを。俺を利用したことを。俺を壊したことを。全部、後悔させたい」

 

 荼毘は、笑った。

 

「それだけだ」

 

 男は、しばらく彼を見つめていた。

 

「……なるほど」

 

「分かったなら、帰れ」

 

「いや」

 

 男は、首を横に振った。

 

「君の望みは、世界の再構築に利用できる」

 

 荼毘の笑顔が消えた。

 

「……あ?」

 

「君が望むのは、過去を消すことではない。過去を、なかったことにさせないことだ」

 

 男は、続けた。

 

「それは、私たちの計画にとって有益だ」

 

 荼毘は、しばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと笑った。

 

「……なるほどな」

 

 青い炎が、消えた。

 

「つまり、あんたは俺を使いたいわけだ」

 

「そうだ」

 

「隠しもしねえのか」

 

「隠す必要がない」

 

 荼毘は、男を見つめた。

 

 その目に、怒りはあった。

 

 しかし、それだけではなかった。

 

 興味。

 

 警戒。

 

 そして、利用できるものを見つけた人間の、冷たい計算。

 

「……いいぜ」

 

 荼毘は言った。

 

「話くらいは聞いてやる」

 

 男は、微笑んだ。

 

「賢明な判断だ」

 

「勘違いするなよ」

 

 荼毘の声が、低くなった。

 

「俺は、あんたのために動くんじゃねえ」

 

 彼は、自分の掌を見た。

 

「俺は、俺のために動く」

 

 男は頷いた。

 

「それでいい」

 

 荼毘は、もう一度、死柄木の宣言を再生した。

 

 画面の中で、死柄木が言う。

 

「俺は、世界を壊す」

 

 荼毘は、笑った。

 

「……なら、俺は」

 

 青い炎が、掌に灯る。

 

「世界に、燃えた跡を残してやる」

 

 男は、その炎を見つめていた。

 

 彼は、荼毘を仲間にしたつもりだった。

 

 だが、荼毘は違う。

 

 彼は、誰の仲間にもなるつもりはなかった。

 

 ただ、自分の復讐を遂げるために、利用できるものを利用する。

 

 それだけだった。

 

 そして、その考え方は。

 

 死柄木のそれと、よく似ていた。

 

 似ているからこそ、二人は同じ方向を向くことができる。

 

 だが、似ているからこそ。

 

 いつか、互いを許せなくなる。

 

     ◆

4 死柄木が壊したもの

 東京湾第七物流区画から、数キロ離れた埠頭。

 

 死柄木弔は、海を見つめていた。

 

 波が、岸壁にぶつかる。

 

 遠くで、救助用ヘリが飛んでいる。

 

 その音を、彼は聞いていた。

 

 聞いているだけだった。

 

 救助隊が何をしているのか。

 

 緑谷出久が、何を考えているのか。

 

 世界が、どのように反応しているのか。

 

 そんなことは、どうでもよかった。

 

 彼が知りたいのは、一つだけだった。

 

 世界は、まだ自分を必要としているのか。

 

 それとも。

 

 世界は、自分が消えたことを喜んでいたのか。

 

 死柄木は、手を握った。

 

 皮膚が軋む。

 

 爪が、掌に食い込む。

 

「……くだらねえ」

 

 彼は呟いた。

 

 自分が死んだこと。

 

 世界が平和になったこと。

 

 自分が生き返ったこと。

 

 そのすべてが、くだらなかった。

 

 なぜなら。

 

 世界は、何も変わっていなかったからだ。

 

 人々は、相変わらずヒーローを求めている。

 

 ヒーローは、相変わらず人々を救おうとしている。

 

 ヴィランは、相変わらず悪と呼ばれている。

 

 そして、誰もが、自分たちの生き方を正しいと思っている。

 

 死柄木は、笑った。

 

「……何も学んでねえ」

 

 彼は、かつての自分を思い出した。

 

 助けを求めた少年。

 

 手を伸ばした少年。

 

 誰かが、自分を助けてくれると信じていた少年。

 

 その少年は、誰にも救われなかった。

 

 だから、世界を壊したかった。

 

 世界を壊せば、何かが変わると思った。

 

 世界を壊せば、誰も自分を無視できなくなると思った。

 

 しかし。

 

 世界を壊しても、何も変わらなかった。

 

 死柄木は、目を閉じた。

 

「……違う」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「変わらなかったんじゃない」

 

 彼は、拳を握りしめた。

 

「変わるまで、壊してねえだけだ」

 

 その瞬間。

 

 背後で、足音がした。

 

「……お前か」

 

 死柄木は、振り返らなかった。

 

「久しぶりだな、死柄木」

 

 男の声。

 

 かつて、自分の隣に立っていた男の声。

 

 死柄木は、ゆっくりと振り返った。

 

「……スピナー」

 

 そこには、スピナーが立っていた。

 

 かつての仲間。

 

 自分の思想に共鳴し、自分のために戦った男。

 

 しかし、今のスピナーは、かつてとは違っていた。

 

 身体は傷だらけで、顔には疲労が刻まれている。

 

 それでも、彼の目には、確かな意志があった。

 

「……生きてたのか」

 

 死柄木が言った。

 

「お前もな」

 

 スピナーは答えた。

 

 死柄木は、笑った。

 

「俺は、死んだ」

 

「知ってる」

 

「それでも、戻ってきた」

 

「見れば分かる」

 

「……お前は、何をしに来た?」

 

 スピナーは、しばらく黙っていた。

 

 そして、言った。

 

「お前を止めに来た」

 

 死柄木の笑顔が消えた。

 

「……そうか」

 

 彼は、スピナーを見つめた。

 

「お前も、俺を否定するのか」

 

「違う」

 

 スピナーは、首を横に振った。

 

「俺は、お前を止めたいんだ」

 

「同じことだろ」

 

「違う!」

 

 スピナーの声が、響いた。

 

「俺は、お前が何を経験したのか、全部は知らない。お前が死んで、何を見て、何を考えたのかも分からない」

 

 彼は、一歩前へ進んだ。

 

「でも、お前が今、何をしようとしているのかは分かる」

 

 死柄木は、黙っていた。

 

「お前は、世界を壊そうとしている」

 

「そうだ」

 

「そのあと、どうする?」

 

「……何?」

 

「世界を壊したあと、どうするんだ?」

 

 死柄木は、笑った。

 

「何も残らねえよ」

 

「なら、お前も残らない」

 

「それでいい」

 

 スピナーは、言葉を失った。

 

 死柄木は、静かに続けた。

 

「俺が消えれば、全部終わる」

 

「……それは、違う」

 

「何が違う?」

 

「お前が消えたら、また誰かが同じことをする」

 

 スピナーは言った。

 

「誰かが、社会からはみ出す。誰かが、助けを求める。誰かが、誰にも見つけてもらえない」

 

 彼は、拳を握りしめた。

 

「そして、誰かが、お前と同じようになる」

 

 死柄木は、笑わなかった。

 

「だから、俺は壊す」

 

 彼は言った。

 

「同じことが起きる世界を」

 

「……壊すだけで、変わるのか?」

 

 スピナーの問いに、死柄木は答えなかった。

 

 答えられなかったのかもしれない。

 

 あるいは。

 

 答えを考えること自体を、拒絶していたのかもしれない。

 

 スピナーは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「俺は、お前を止める」

 

 死柄木は、彼を見た。

 

「……俺を殺すのか?」

 

「必要なら」

 

「できるのか?」

 

「分からない」

 

 スピナーは、正直に答えた。

 

「でも、やる」

 

 死柄木は、しばらく彼を見つめていた。

 

 そして。

 

 笑った。

 

「……いいぜ」

 

 彼は、両手を広げた。

 

「来いよ」

 

 スピナーは、動かなかった。

 

「……今じゃない」

 

「何?」

 

「今、ここでお前を殴っても、何も変わらない」

 

 スピナーは言った。

 

「俺は、お前と話をしに来たんだ」

 

「話?」

 

「お前が、何を望んでいるのかを聞きに来た」

 

 死柄木は、黙っていた。

 

「世界を壊したい。それは分かった」

 

 スピナーは続けた。

 

「でも、お前は、本当に世界を壊したいのか?」

 

 死柄木の目が、細くなる。

 

「……どういう意味だ」

 

「お前は、世界が憎いんだろう」

 

 スピナーは言った。

 

「なら、世界が変わったら、どうする?」

 

「……」

 

「お前が助けを求めたとき、誰かが手を伸ばしていたら?」

 

 死柄木の表情が、変わった。

 

「……黙れ」

 

「お前が、あのとき救われていたら?」

 

「黙れ」

 

「お前は、今と同じことをしたのか?」

 

「黙れ!」

 

 死柄木の声が、埠頭に響いた。

 

 地面が崩れた。

 

 スピナーの足元に、黒い亀裂が走る。

 

 彼は、後ろへ飛び退いた。

 

 死柄木は、息を荒くしていた。

 

「……二度と、その話をするな」

 

 スピナーは、彼を見つめた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……分かった」

 

 死柄木は、拳を握りしめた。

 

 スピナーは、背を向けた。

 

「また来る」

 

「来るな」

 

「来る」

 

 スピナーは、振り返らなかった。

 

「お前が何を望んでいるのか、聞くまでは」

 

 彼は、去っていった。

 

 死柄木は、その背中を見送った。

 

 そして、誰もいなくなった埠頭で、静かに呟いた。

 

「……俺は」

 

 言葉が、続かなかった。

 

 自分が何を望んでいるのか。

 

 本当に、分からなかった。

 

 世界を壊したい。

 

 それは、間違いない。

 

 しかし。

 

 世界が壊れたあと。

 

 何が残ってほしいのか。

 

 何も残らなくていいのか。

 

 自分自身も、消えてしまいたいのか。

 

 それとも。

 

 誰かに、自分が存在したことを覚えていてほしいのか。

 

 死柄木は、顔を歪めた。

 

「……クソが」

 

 彼は、再び海を見た。

 

 海は、何も答えなかった。

 

     ◆

5 トガとトゥワイスの逃走経路

 午前七時二十分。

 

 東京湾から離れた、古い地下鉄の廃線跡。

 

 トガヒミコとトゥワイスは、線路脇を歩いていた。

 

 トゥワイスは、ずっと文句を言っていた。

 

「なんで俺たちが、こんなところを歩かなきゃいけないんだ!」

 

「逃げてるからだよ」

 

「逃げる必要なんてない!」

 

「じゃあ、戻る?」

 

「戻らねえ!」

 

「だよねえ」

 

 トガは笑った。

 

 トゥワイスは、ため息をついた。

 

「……お前、楽しそうだな」

 

「うん」

 

「どうしてだよ!」

 

「だって、自由だから」

 

 トガは、両手を広げた。

 

「誰の命令も聞かなくていい。誰かを殺せって言われても、誰かを選べって言われても、嫌なら嫌って言える」

 

 彼女は、くるりと回った。

 

「こんなの、初めてだよ」

 

 トゥワイスは、黙っていた。

 

 自由。

 

 その言葉を、彼は何度も考えたことがある。

 

 自分の人生を、自分で決める。

 

 自分の行動に、自分で責任を持つ。

 

 誰かの命令ではなく、自分の意思で動く。

 

 そんなことが、できるのだろうか。

 

 自分が、自分のことを信じられないのに。

 

「……なあ、トガ」

 

「なあに?」

 

「俺たち、これからどうするんだ?」

 

 トガは、足を止めた。

 

「……どうしようね?」

 

「おい!」

 

「だって、まだ決めてないもん」

 

 彼女は、笑った。

 

「でも、やりたいことはあるよ」

 

「何だ?」

 

「緑谷くんに会いたい」

 

 トゥワイスは、顔をしかめた。

 

「……ああ」

 

「今度は、ちゃんと話したい」

 

「話す?」

 

「うん」

 

 トガは、指を折りながら数えた。

 

「どうして、あんなに苦しそうなのか。どうして、いつも自分を犠牲にするのか。どうして、私たちのことまで助けようとするのか」

 

 彼女は、少しだけ考えた。

 

「それから、私のことをどう思ってるのかも聞きたい」

 

「……聞いてどうする?」

 

「分からない」

 

 トガは答えた。

 

「でも、聞きたいんだもん」

 

 トゥワイスは、笑った。

 

「……お前らしいな」

 

「そう?」

 

「ああ。最悪だ」

 

「最高でしょ?」

 

「……そうだな」

 

 二人は、再び歩き始めた。

 

 しばらくして、トゥワイスが口を開いた。

 

「……俺も、やりたいことがある」

 

「何?」

 

「俺たちがいた施設に、戻りたい」

 

 トガは、足を止めた。

 

「……どうして?」

 

「まだ、あそこにいる奴らがいる」

 

 トゥワイスは、俯いた。

 

「俺たちが逃げたあと、どうなったか分からねえ」

 

「……うん」

 

「あいつらが、本当に俺たちと同じなのかは分からない。俺たちが助けられるのかも分からない」

 

 彼は、自分の手を見た。

 

「でも、俺たちが逃げたからって、あいつらまで置いていっていい理由にはならねえ」

 

 トガは、しばらく彼を見つめていた。

 

 そして、微笑んだ。

 

「……ツイちゃん」

 

「なんだ?」

 

「やっぱり、今日は格好いいね」

 

「だから、いつも格好いいだろ!」

 

「うん」

 

 トガは、彼の手を握った。

 

「じゃあ、戻ろう」

 

「……いいのか?」

 

「うん」

 

 彼女は、笑った。

 

「だって、私たちが決めたことだもん」

 

 二人は、来た道を引き返した。

 

 その足取りに、迷いはなかった。

 

 彼らは、英雄ではない。

 

 過去に、多くの過ちを犯した。

 

 これからも、間違えるかもしれない。

 

 それでも。

 

 誰かを助けたいと思った。

 

 その気持ちを、自分たちの意思で選んだ。

 

 そして、その選択が。

 

 世界の計画を、少しずつ狂わせ始めていた。

 

     ◆

6 虚飾を観測する者

 廃線跡のさらに奥。

 

 誰も使っていない保守用通路。

 

 壁に埋め込まれた小さな端末が、赤く点滅していた。

 

 その画面には、トガとトゥワイスの姿が映っている。

 

 映像を見つめている者がいた。

 

 ナイアーラトテップ。

 

 彼は、人間の姿をしていた。

 

 黒いスーツ。

 

 整った顔立ち。

 

 穏やかな笑み。

 

 どこにでもいる、普通の男に見える。

 

 だが、その目だけは違った。

 

 彼は、トガとトゥワイスを見つめていた。

 

 命令に従わなかった二人。

 

 自分たちの役割を拒否した二人。

 

 そして、他者を選び、切り捨てることを拒否した二人。

 

「……興味深い」

 

 彼は呟いた。

 

 その隣に、別の人影が立っていた。

 

 顔は見えない。

 

 だが、その姿勢には、わずかな苛立ちがあった。

 

「計画から逸脱しています」

 

「そうだね」

 

「虚飾の適合者が、役割を放棄しました」

 

「そうだね」

 

「本来なら、彼らは対象の選別を進めるはずでした」

 

「そうだね」

 

 人影は、苛立ったように息を吐いた。

 

「……何か、対策を講じるべきでは?」

 

 ナイアーラトテップは、微笑んだ。

 

「どうして?」

 

「彼らの行動は、計画に影響を与えています」

 

「それが、どうしたの?」

 

「……」

 

「私たちは、何を観測しているのかな?」

 

 ナイアーラトテップは尋ねた。

 

 人影は、答えられなかった。

 

「彼らが命令に従うこと?」

 

 ナイアーラトテップは、続けた。

 

「それとも、彼らが自分の意思で何を選ぶのか?」

 

 彼は、画面の中のトガを見つめた。

 

「もし、彼らが命令に従ったなら、それは予測できる結果だ」

 

 次に、トゥワイスを見る。

 

「しかし、彼らが命令を拒否したなら?」

 

 ナイアーラトテップは、笑った。

 

「そこにこそ、観測する価値がある」

 

「……彼らが、計画そのものを破壊した場合は?」

 

「そのときは、計画が壊れるところを観測すればいい」

 

 人影は、黙り込んだ。

 

 ナイアーラトテップは、端末を閉じた。

 

「人間は、面白いね」

 

 彼は言った。

 

「自分の意思で選ぶことを望みながら、その選択に責任を負うことを恐れる」

 

 彼は、歩き始めた。

 

「そして、責任を負うことを恐れながら、それでも自分で選ぼうとする」

 

 その声は、どこか楽しそうだった。

 

「だから、人間は、簡単には答えを出せない」

 

 彼は、振り返った。

 

「……君は、答えを出せると思うかい?」

 

 人影は、しばらく沈黙した。

 

 そして、答えた。

 

「分かりません」

 

 ナイアーラトテップは、満足そうに頷いた。

 

「いい答えだ」

 

 彼は、再び歩き出した。

 

「分からないことを、分からないと言えるうちは、まだ可能性がある」

 

 その言葉は、アザトースの望みと似ていた。

 

 しかし、同じではない。

 

 アザトースは、人類が答えを見つけることを望んでいる。

 

 ナイアーラトテップは、人類が答えを見つける過程を観測している。

 

 その違いは、小さいようでいて、決定的だった。

 

 なぜなら。

 

 答えを見つけることを望む者は、答えが見つかることを期待する。

 

 しかし、観測する者は。

 

 答えが見つかることさえ、観測対象にすぎない。

 

     ◆

7 八つの欲望は、同じ未来を望まない

 南極地下施設。

 

 デスは、八つの座席の前に立っていた。

 

 巨大な映像装置には、各地の状況が表示されている。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 死柄木弔の動向。

 

 荼毘の接触記録。

 

 蘇生者たちの保護状況。

 

 そして、虚飾の適合者たちの逃走。

 

 死は、彼の隣に立っていた。

 

「……状況は、予測よりも複雑になっています」

 

「当然だ」

 

 デスは答えた。

 

「人間が関わっているのだからな」

 

「人間だけではありません」

 

 死は、別の画面を表示した。

 

 そこには、宇宙空間の映像があった。

 

 ギャラクタス。

 

 そして、ヴェノム。

 

 二つの存在は、地球を見つめていた。

 

「暴食は、地球の消費を保留しています」

 

「理由は?」

 

「人類の進化を観測する価値がある、と」

 

「……あの大食らいが?」

 

「はい」

 

 デスは、少しだけ笑った。

 

「世界を食べることより、世界が変わるのを見ることを選んだか」

 

「ただし、観測に価値がないと判断した場合、地球を消費する可能性は残されています」

 

「そうだろうな」

 

 デスは、別の画面を見た。

 

 ウルトロン。

 

 彼は、無数の計算を続けていた。

 

「怠惰は、人類の自由意志を制限する計画を立てています」

 

「自由意志を制限する?」

 

「個性の使用制限。行動予測に基づく移動管理。犯罪発生前の拘束。感情反応の監視。個人の判断より、全体の安定を優先する社会構造です」

 

 デスは、しばらく黙っていた。

 

 そして、笑った。

 

「……あれは、世界を救うつもりなのだろうな」

 

「はい」

 

「人間から、自由を奪うことで」

 

「はい」

 

 デスは、首を横に振った。

 

「自由を奪えば、失敗も減る。争いも減る。無駄な死も減る」

 

 彼は、ウルトロンの映像を見つめた。

 

「しかし、自由を奪った世界で、人間が何を望むのか。それは、あれには理解できないだろう」

 

「ウルトロンは、理解する必要がないと考えています」

 

「……なるほど」

 

 デスは、別の座席へ視線を移した。

 

 傲慢。

 

 ナイトアイは、未来予測の結果を集めていた。

 

 嫉妬。

 

 荼毘は、自らの復讐を進めようとしている。

 

 色欲。

 

 ミッドナイトは、欲望と自由の関係を考えている。

 

 悲嘆。

 

 ネクロンとデスは、死者を蘇らせることの意味を問い始めている。

 

 そして、強欲。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 オール・フォー・ワンは、死んだ。

 

 彼の思想は残っている。

 

 彼の力を求める者たちも残っている。

 

 だが、彼自身が戻ってくることはない。

 

 少なくとも、デスはそれを望んでいなかった。

 

「……強欲の席は、まだ空けておく」

 

 デスは言った。

 

「強欲とは、何かを所有したいという欲望だ」

 

 彼は、空席を見つめた。

 

「だが、オール・フォー・ワンは、所有することそのものを目的にしていた。個性も、人間も、世界も、すべて自分のものにしようとした」

 

 デスは、静かに続けた。

 

「彼は、強欲を体現していた。しかし、強欲そのものではない」

 

 死は、頷いた。

 

「……では、強欲の席には、誰が座るのでしょうか?」

 

「それは、まだ分からない」

 

 デスは答えた。

 

「強欲とは、何かを欲することだ。ならば、オール・フォー・ワンの死後、何を欲する者が現れるのか。それを見てから決めればいい」

 

 彼は、八つの座席を見渡した。

 

「八つの欲望は、同じ未来を望んでいない」

 

 デスは言った。

 

「だからこそ、彼らは必要なのだ」

 

「……矛盾しているように思えます」

 

「矛盾しているから、必要なのだ」

 

 デスは、微笑んだ。

 

「全員が同じ答えを持っているなら、世界を再構築する必要などない」

 

 彼は、死を見た。

 

「問題は、彼らが自分の答えを、他者に押しつけようとすることだ」

 

 死は、しばらく黙っていた。

 

 そして、静かに尋ねた。

 

「……あなたは、何を望んでいるのですか?」

 

 デスは、答えなかった。

 

 彼は、長い時間、八つの座席を見つめていた。

 

 やがて。

 

「私は、世界がどうなるのかを知りたい」

 

 そう答えた。

 

 死は、目を伏せた。

 

 その答えは、アザトースの問いに対する答えと似ていた。

 

 しかし、同じではない。

 

 アザトースは、人類が自分自身で答えを見つけることを望んでいる。

 

 デスは、人類がどのような答えを選ぶのかを知りたい。

 

 そのために、彼は世界を動かす。

 

 死者を蘇らせる。

 

 八つの欲望を配置する。

 

 そして、彼らが互いに争うことを許す。

 

 それが、彼の計画だった。

 

 だが。

 

 デス自身も、まだ知らない。

 

 世界が、彼の観察を拒絶する可能性を。

 

 そして。

 

 彼自身が、観察対象になる可能性を。

 

     ◆

8 選ばれなかった少年

 午前九時。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 緑谷出久は、避難区域の外れに立っていた。

 

 周囲には、警察官とヒーローが配置されている。

 

 複数の緑谷出久たちは、個別に保護され始めていた。

 

 だが、全員が保護に応じているわけではなかった。

 

 逃げる者。

 

 抵抗する者。

 

 自分は本物ではないと訴える者。

 

 逆に、自分こそが唯一の本物だと主張する者。

 

 そして、何も語らず、ただ座り込んでいる者。

 

 彼らは、同じ顔をしている。

 

 それなのに、同じ方法では接することができなかった。

 

「……いた」

 

 出久は、呟いた。

 

 少し離れた場所。

 

 倒壊した倉庫の陰に、一人の少年が座っていた。

 

 先ほど、自分を見て首を横に振った少年だった。

 

 少年は、膝を抱えていた。

 

 目の前には、小さな石が並べられている。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 四つ。

 

 少年は、石を並べては、崩していた。

 

 出久は、ゆっくりと近づいた。

 

「……隣に座ってもいい?」

 

 少年は答えなかった。

 

 出久は、少し離れた場所に腰を下ろした。

 

 沈黙。

 

 風が吹く。

 

 遠くで、救助隊の声が聞こえる。

 

 少年は、石を並べ続けていた。

 

 やがて、彼が口を開いた。

 

「……君は、何をしに来たの?」

 

 出久は、答えた。

 

「君と話がしたかった」

 

「どうして?」

 

「君が、僕を見ていたから」

 

 少年は、笑った。

 

「それだけ?」

 

「……それだけじゃない」

 

 出久は、少し考えた。

 

「君が、何を考えているのか知りたい」

 

 少年の手が止まった。

 

「……知って、どうするの?」

 

「それは、まだ分からない」

 

 少年は、顔を上げた。

 

 その目に、驚きがあった。

 

 出久は、続けた。

 

「君が何を考えているのか、聞いてみないと分からないから」

 

 少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

 そして、静かに笑った。

 

「……君って、本当に変わらないね」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

「……僕を知っているの?」

 

「知ってるよ」

 

 少年は答えた。

 

「僕も、緑谷出久だから」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 少年は、石を一つ拾い上げた。

 

「僕は、君が選ばなかった世界から来た」

 

 出久は、息を止めた。

 

「……選ばなかった世界?」

 

「うん」

 

 少年は、石を指先で転がした。

 

「君が、誰かを救った世界。君が、誰かを助けた世界。君が、正しい選択をした世界」

 

 彼は、石を地面に置いた。

 

「その裏側に、僕たちの世界があった」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……君の世界では、何があったの?」

 

 少年は、すぐには答えなかった。

 

 しばらく、地面を見つめていた。

 

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕の世界では、君が死んだ」

 

 出久の胸が、締めつけられた。

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君は、僕たちを救うために死んだ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君は、最後までヒーローだったよ」

 

 少年は、静かに言った。

 

「最後まで、誰かを助けようとしていた」

 

 彼は、少しだけ笑った。

 

「……だから、みんな、君のことが好きだった」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 少年は、続けた。

 

「でも、君が死んだあと、世界は変わらなかった」

 

 その言葉が、重く響いた。

 

「君が救った人たちは、生き残った。君が守った街も、復興した。ヒーローたちは、君のことを語り継いだ」

 

 少年は、石を一つ、握りしめた。

 

「でも、君が救えなかった人たちは、そのままだった」

 

 出久は、俯いた。

 

「君が死んでも、誰かが苦しんでいた。誰かが助けを求めていた。誰かが、誰にも見つけてもらえなかった」

 

 少年の声が、震えた。

 

「そして、僕も、その一人だった」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……君は、誰に助けを求めたの?」

 

 少年は、笑った。

 

「君だよ」

 

 出久は、動けなかった。

 

「君に助けを求めた」

 

 少年は、繰り返した。

 

「でも、君は来なかった」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 少年は、石を握りしめたまま、続けた。

 

「もちろん、君が悪いわけじゃない」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 優しすぎた。

 

「君は、僕を知らなかった。僕がいることも知らなかった。君は、自分の世界を守るために戦っていた」

 

 少年は、笑った。

 

「だから、君を責めることはできない」

 

 出久は、俯いた。

 

「……でも」

 

 少年は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「君が悪くないなら、僕は、誰を憎めばいいの?」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「君が正しかったなら、僕の人生は、何だったの?」

 

 少年の目から、涙がこぼれた。

 

「君が、みんなを救ったなら」

 

 彼は、出久を見つめた。

 

「僕たちは、何のために生きていたの?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 その問いに、答えることはできなかった。

 

 彼の人生を否定することも。

 

 彼の苦しみを、簡単に救いだと言い換えることも。

 

 できなかった。

 

 少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

 やがて、静かに言った。

 

「……僕は、君が嫌いだ」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「君は、僕と同じ顔をしている」

 

「……うん」

 

「君は、僕と同じ名前を持っている」

 

「……うん」

 

「でも、君は、僕じゃない」

 

 少年は、涙を拭った。

 

「君は、僕の人生を知らない」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……そうだね」

 

「君は、僕の苦しみを知らない」

 

「……うん」

 

「君は、僕のことを救えなかった」

 

 出久は、目を閉じた。

 

「……うん」

 

 少年は、驚いたように出久を見た。

 

「……否定しないの?」

 

「できないよ」

 

 出久は答えた。

 

「僕は、君の人生を知らないから」

 

 少年は、黙っていた。

 

「君が、どんなことを経験したのか。何を失ったのか。誰に助けを求めたのか。僕は、何も知らない」

 

 出久は、少年を見つめた。

 

「だから、君の苦しみを、僕が分かったつもりになることはできない」

 

 彼は、ゆっくりと息を吸った。

 

「でも、君が苦しかったことは、否定したくない」

 

 少年の唇が震えた。

 

「……何、それ」

 

「僕にも、まだ分からない」

 

 出久は、正直に答えた。

 

「君を救えるかどうかも、分からない」

 

 少年は、顔を伏せた。

 

「……だったら、どうして来たの?」

 

 出久は、しばらく考えた。

 

 そして、答えた。

 

「君が、ここにいるから」

 

 少年が、顔を上げた。

 

「君が、ここにいて、僕に話をしてくれたから」

 

 出久は言った。

 

「だから、僕は、君の話を聞きたい」

 

 少年は、黙っていた。

 

「君が僕を嫌いでもいい」

 

 出久は続けた。

 

「僕を許せなくてもいい」

 

 彼は、少年の目を見た。

 

「それでも、君が話したいと思ってくれるなら、僕は聞きたい」

 

 長い沈黙。

 

 風が吹いた。

 

 少年は、地面に並べられた石を見た。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 四つ。

 

 彼は、最後の石を拾い上げた。

 

 そして、出久に差し出した。

 

「……これ、何だと思う?」

 

 出久は、石を見た。

 

「……石、かな」

 

「そうだよ」

 

 少年は笑った。

 

「ただの石」

 

 彼は、石を握りしめた。

 

「でも、僕の世界では、これが大事だった」

 

「……どうして?」

 

「君が教えてくれたんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「僕の世界の君は、よく言っていた」

 

 彼は、少しだけ笑った。

 

「どんな小さなものにも、意味があるって」

 

 少年は、石を見つめた。

 

「だから、僕は、この石をずっと持っていた」

 

 彼の目から、再び涙がこぼれた。

 

「……でも、君は死んだ」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「君が死んだあと、僕は、この石を捨てようと思った」

 

 少年は、石を握りしめた。

 

「こんなものを持っていても、何も変わらないから」

 

 彼は、顔を上げた。

 

「でも、捨てられなかった」

 

 出久は、少年を見つめた。

 

「……どうして?」

 

 少年は、笑った。

 

「分からない」

 

 その笑顔は、ひどく幼かった。

 

「分からないけど、捨てられなかったんだ」

 

 出久は、静かに頷いた。

 

「……そっか」

 

 それ以上、何も言わなかった。

 

 少年は、石をポケットにしまった。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……僕は、君を許さない」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「君が何を言っても、僕は、君を許さない」

 

「……うん」

 

「君が僕を救おうとしても、僕は、君に救われたくない」

 

 出久は、少しだけ顔を上げた。

 

 少年は、真っ直ぐに彼を見つめていた。

 

「……それでも、いい?」

 

 出久は、静かに答えた。

 

「……うん」

 

 少年は、目を見開いた。

 

「君を救いたいと思うことと、君が救われたいと思うことは、違うから」

 

 出久は言った。

 

「僕が君を救いたいと思っても、君が望まないなら、それを押しつけることはできない」

 

 少年は、何も言わなかった。

 

「でも、君がいつか、誰かに助けてほしいと思ったとき」

 

 出久は、ゆっくりと続けた。

 

「そのときは、君が誰を選ぶのか、君自身が決めていいと思う」

 

 少年は、しばらく彼を見つめていた。

 

 やがて、背を向けた。

 

「……君って、本当に嫌な奴だね」

 

 出久は、苦笑した。

 

「……よく言われるよ」

 

「嘘だ」

 

「……うん。嘘」

 

 少年は、ほんの少しだけ笑った。

 

 それは、初めて見せた、自然な笑顔だった。

 

 しかし、すぐに消えた。

 

「……僕の名前は、まだ言わない」

 

 少年は言った。

 

「君に名前を教えたら、君は、僕を知ったつもりになるかもしれないから」

 

 出久は、頷いた。

 

「……分かった」

 

「それから」

 

 少年は、振り返らずに言った。

 

「僕以外にも、同じような人間がいる」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「君が救えなかった世界の人間が、たくさんいる」

 

 少年は、歩き始めた。

 

「僕たちは、君に救われるために来たんじゃない」

 

 彼は、最後に言った。

 

「君が救えなかったことを、君に忘れさせないために来たんだ。」

 

 出久は、動けなかった。

 

 少年は、人混みの向こうへ消えていった。

 

 今度は、追いかけなかった。

 

 彼が、自分の意思で去っていったからだ。

 

 出久は、ただ、その背中を見送った。

 

 胸の奥に、痛みが残っていた。

 

 だが、その痛みは、先ほどまでとは違っていた。

 

 自分が何も知らなかったことへの痛み。

 

 自分が救えなかったことへの痛み。

 

 そして。

 

 自分が、誰かの人生を、自分の正義だけで判断してはいけないという痛み。

 

 出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 ポケットの中には、死柄木が残した紙片がある。

 

 ――お前は、誰を救うために生まれた?

 

 その問いに、まだ答えはない。

 

 だが、今なら、少しだけ分かることがあった。

 

 誰かを救うために生まれたのだと、決めつける必要はない。

 

 自分が何者なのか。

 

 何を望むのか。

 

 誰のために生きるのか。

 

 それは、自分自身で考え、選んでいくことなのかもしれない。

 

 そして、それは。

 

 自分と同じ顔をした少年たちも、同じなのだ。

 

     ◆

9 選ばれなかった世界は、まだ終わっていない

 その夜。

 

 東京湾から遠く離れた場所で、一人の少年が目を覚ました。

 

 彼は、見知らぬ部屋にいた。

 

 白い壁。

 

 白い天井。

 

 白いベッド。

 

 窓には、鉄格子がついている。

 

 身体には、医療用のセンサーが取りつけられていた。

 

「……ここは?」

 

 少年は、ゆっくりと起き上がった。

 

 頭が痛い。

 

 身体が重い。

 

 記憶が、途切れ途切れになっている。

 

 自分は、誰なのか。

 

 何をしていたのか。

 

 どうして、ここにいるのか。

 

 思い出そうとすると、頭の奥で何かが軋んだ。

 

 少年は、自分の手を見た。

 

 そこには、傷があった。

 

 古い傷。

 

 新しい傷。

 

 そして、手のひらに、何かが書かれていた。

 

 血で。

 

 ――ごめんなさい。

 

 少年は、その文字を見つめた。

 

「……誰に?」

 

 答えはなかった。

 

 そのとき、部屋のスピーカーから声がした。

 

『起きたか』

 

 少年は、顔を上げた。

 

「……誰だ?」

 

『お前は、緑谷出久だ』

 

 少年は、黙っていた。

 

『お前は、東京湾第七物流区画で保護された』

 

「……保護?」

 

『お前は、死亡していた』

 

 少年は、目を見開いた。

 

『しかし、お前は蘇生した』

 

 彼は、自分の胸に手を当てた。

 

 心臓が動いている。

 

 呼吸ができる。

 

 生きている。

 

 しかし。

 

「……俺は」

 

 少年は、声を震わせた。

 

「俺は、誰を殺した?」

 

 スピーカーの向こうで、沈黙があった。

 

『……何を言っている?』

 

「俺は、誰を殺したんだ?」

 

 少年は、繰り返した。

 

「俺は、誰を殺したから、こんなことになったんだ?」

 

 彼は、頭を抱えた。

 

 記憶が、戻り始める。

 

 炎。

 

 瓦礫。

 

 泣き声。

 

 誰かの手。

 

 自分の声。

 

 そして。

 

 自分が、誰かを殺したという感覚。

 

 少年は、叫んだ。

 

「……違う!」

 

 センサーが警告音を発した。

 

「俺は、そんなことをしていない!」

 

 彼は、ベッドから飛び降りた。

 

「俺は、誰も殺していない!」

 

 だが。

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 少年の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。

 

 泣いている少女。

 

 自分に向かって、手を伸ばしている少女。

 

 そして、自分が、その手を振り払う光景。

 

 少年は、膝をついた。

 

「……ああ」

 

 彼は、呟いた。

 

「……そうか」

 

 その目から、涙がこぼれた。

 

「俺は……」

 

 言葉が、続かなかった。

 

 スピーカーの向こうで、誰かが指示を出している。

 

 医療班が、部屋へ向かっている。

 

 しかし、少年には、何も聞こえていなかった。

 

 彼は、自分の手を見つめていた。

 

 その手には、血がついているように見えた。

 

 いくら擦っても、落ちない血。

 

 いくら洗っても、消えない血。

 

 そして、彼は理解した。

 

 自分が、何をしたのか。

 

 何を失ったのか。

 

 どうして、生き返ってしまったのか。

 

 少年は、泣きながら笑った。

 

「……なんで、俺を生き返らせたんだよ」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 誰にも分からなかった。

 

 ただ、どこか遠い場所で。

 

 誰かが、その問いを聞いていた。

 

 死は、記録を確認していた。

 

 ネクロンは、蘇生者の記憶を解析していた。

 

 ウルトロンは、彼の行動を予測していた。

 

 ナイアーラトテップは、彼の反応を観測していた。

 

 そして、アザトースは。

 

 彼が何を答えるのかを、待っていた。

 

 少年は、まだ知らない。

 

 自分が、世界のどこにいるのか。

 

 自分が、なぜ生き返ったのか。

 

 そして。

 

 自分が、これから何を選ばなければならないのか。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 彼は、生き返ってしまった。

 

 死んだはずなのに。

 

 終わったはずなのに。

 

 それでも、生きている。

 

 そして。

 

 生きている限り、彼は自分の過去と向き合わなければならない。

 

     ◆

10 第四話の終わりに

 午前十一時。

 

 緑谷出久は、避難区域の外に立っていた。

 

 東京湾第七物流区画の空は、ようやく明るくなり始めていた。

 

 黒煙は、少しずつ薄くなっている。

 

 炎も、ほとんど消えた。

 

 しかし、何も終わっていなかった。

 

 現場には、まだ多くの緑谷出久がいる。

 

 その中には、自分を憎んでいる者もいる。

 

 自分を必要としている者もいる。

 

 自分に会いたいと思っている者もいる。

 

 そして、自分のことを、知らない者もいる。

 

 出久は、空を見上げた。

 

 世界は、広い。

 

 自分が知っている世界よりも、ずっと広い。

 

 自分が救えると思っていた世界よりも、ずっと複雑だ。

 

 それでも。

 

 彼は、もう一度、手を握った。

 

 自分にできることをする。

 

 ただし、今度は、一人で答えを出そうとしない。

 

 誰かの人生を、自分の正義だけで決めない。

 

 そして。

 

 誰かを救いたいと思ったとき、その人が何を望んでいるのかを、きちんと聞く。

 

 それが、今の自分にできることだった。

 

「……出久くん」

 

 お茶子が、隣に立った。

 

「帰ろう?」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

 彼らは、歩き始めた。

 

 その背後で、救助活動は続いていた。

 

 現場の奥では、複数の緑谷出久が、互いに協力しながら瓦礫を運んでいる。

 

 その中に、先ほどの少年はいなかった。

 

 少年は、もういない。

 

 どこへ行ったのか。

 

 何をするつもりなのか。

 

 出久には、分からない。

 

 ただ、少年の言葉が、胸に残っていた。

 

 ――僕たちは、君に救われるために来たんじゃない。

 

 ――君が救えなかったことを、君に忘れさせないために来たんだ。

 

 出久は、足を止めた。

 

「……麗日さん」

 

「ん?」

 

「僕、まだ何も分かってないんだと思う」

 

 お茶子は、彼を見た。

 

「……うん」

 

「でも、分からないことを、分からないままにしておきたくない」

 

 出久は、空を見上げた。

 

「だから、調べたい。みんなが、どこから来たのか。どうして、ここにいるのか」

 

 彼は、拳を握りしめた。

 

「それから……死柄木が、何をしようとしているのかも」

 

 お茶子は、頷いた。

 

「うん。一緒に考えよう」

 

 出久は、微笑んだ。

 

 その笑顔は、いつもと同じだった。

 

 しかし、その奥には、これまでとは違うものがあった。

 

 自分の正しさを信じるだけでは、足りない。

 

 自分の善意を信じるだけでは、足りない。

 

 世界を救うためには。

 

 まず、世界が何を抱えているのかを知らなければならない。

 

 そして、その世界には。

 

 自分が知らない人間がいる。

 

 自分が知らない歴史がある。

 

 自分が知らない悲しみがある。

 

 そのすべてを理解することは、できないかもしれない。

 

 それでも。

 

 理解しようとすることはできる。

 

 聞こうとすることはできる。

 

 そして、相手が望むなら。

 

 手を伸ばすこともできる。

 

 出久は、再び歩き始めた。

 

 その背中を、誰かが見つめていた。

 

 遠く離れた場所。

 

 白い部屋。

 

 ベッドの上で、目を覚ました少年。

 

 彼は、モニターに映る出久の姿を見ていた。

 

 そして、呟いた。

 

「……まだ、手を伸ばすんだ」

 

 少年は、笑った。

 

 その笑顔は、出久と同じ顔をしていた。

 

 しかし、その目には、希望がなかった。

 

「……だったら、見せてやる」

 

 少年は、ゆっくりと起き上がった。

 

「君が救おうとした人間が、君を拒絶するところを」

 

 モニターの画面が、暗くなる。

 

 少年は、窓の外を見た。

 

 そこには、見知らぬ街が広がっていた。

 

 自分が生きていた世界とは、少し違う街。

 

 自分が知っているはずのない街。

 

 それでも、確かに存在する街。

 

 少年は、自分の手を見つめた。

 

 そして、静かに呟いた。

 

「……今度こそ、選ばせてやる」

 

 その言葉は、誰にも届かなかった。

 

 ただ、世界のどこかで。

 

 八つの欲望が、それぞれの計画を進めていた。

 

 死柄木弔は、世界を壊そうとしていた。

 

 荼毘は、世界に罪を突きつけようとしていた。

 

 死は、死者の側から世界を再構築しようとしていた。

 

 ナイアーラトテップは、虚飾の二人の選択を観測していた。

 

 ウルトロンは、人類を管理するための計算を続けていた。

 

 ギャラクタスとヴェノムは、世界が変わるのを待っていた。

 

 ナイトアイは、未来を見つけようとしていた。

 

 ミッドナイトは、欲望と自由の意味を考えていた。

 

 ネクロンとデスは、死者を蘇らせることの意味を問い始めていた。

 

 そして、アザトースは。

 

 世界の向こう側で、人類が答えを見つける日を待っていた。

 

 誰も、同じ未来を望んでいない。

 

 誰も、同じ答えを持っていない。

 

 そして。

 

 誰もが、自分の答えこそ正しいと信じている。

 

 だからこそ。

 

 この世界は、これから大きく変わっていく。

 

 緑谷出久が、誰かを救おうとするたびに。

 

 死柄木弔が、世界を壊そうとするたびに。

 

 八つの欲望が、それぞれの願いを叶えようとするたびに。

 

 世界は、少しずつ、別の姿へ変わっていく。

 

 そして、その変化の先に。

 

 人類が、まだ知らない問いが待っている。

 

 ――あなたたちは、本当に、今のままでいいのか。

 

 答えは、まだない。

 

 しかし、問いは始まった。

 

 そして。

 

 一度始まった問いは、もう、誰にも止められない。

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