最初に消えたのは、緑谷出久ではなかった。
少年だった。
燃え盛る物流倉庫の屋上で、出久に向かって「お前は偽物だ」と告げた、もう一人の緑谷出久。
彼は、崩れ落ちる鉄骨の向こう側で、奇妙なほど穏やかな顔をしていた。
「……ああ」
少年は自分の両手を見下ろした。
指先から、細かな光が剥がれ落ちていく。
まるで、長いあいだ誰かが書き続けていた物語の原稿が、水に濡れて文字を失っていくようだった。
「そういうことか」
「待ってくれ!」
出久が駆け出した。
足元のコンクリートが爆ぜる。
炎が横殴りに吹きつける。
それでも、出久は手を伸ばした。
「君は消えなくていい! 君だって――」
「お前、まだそれを言うんだな」
少年は笑った。
その笑い方は、出久がよく知っているものだった。
誰かを安心させるために、自分の恐怖を隠すときの笑い方。
失敗したことを知られたくなくて、無理やり口角を上げるときの笑い方。
助けられなかった誰かの顔を思い出しながら、それでも明日のことを考えようとするときの笑い方。
出久自身が、何度も鏡の前で浮かべてきた笑顔だった。
「俺はさ」
少年の右腕が透けた。
「お前みたいになりたかったんだと思う」
「……!」
「いや、違うな。お前になりたかったんじゃない。俺が生きてきた世界で、俺のことを知ってる誰かに、俺が俺でよかったって言ってほしかったんだ」
少年は顔を上げた。
「それだけだったんだよ」
出久の手が届く。
あと、数センチ。
少年の指先が、出久の指先に触れた。
その瞬間。
――世界が、ひとつ数え間違えた。
少年の身体が、光になった。
出久は何もつかめなかった。
手のひらに残ったのは、熱でも、灰でも、血でもない。
誰かの記憶だった。
知らない教室。
知らない学校。
知らない母親。
知らない友人。
知らないはずなのに、懐かしい笑い声。
そして、雪の降る日の夕方。
少年は誰かに言っていた。
『ごめん。俺、ヒーローになれなかった』
返事はなかった。
その世界では、誰も彼を責めなかった。
ただ、誰も彼の言葉を聞かなかった。
その記憶が消えた。
同時に、東京湾第七物流区画を覆っていた炎が、ひとつだけ、音もなく青く変わった。
*
午前二時十八分。
緑谷出久は、再びその時刻を見た。
腕時計の表示が、狂ったように点滅していた。
02:18。
02:18。
02:18。
数字が切り替わらない。
「……なんだよ、これ」
出久は手首を押さえた。
目の前では、燃える街が崩れていた。
さっきまで確かに存在していた無数の緑谷出久たち。その一部が消え、残った者たちが立ち尽くしている。
しかし、消えたのは彼らだけではなかった。
道路の向こうにあった倉庫が消えていた。
倉庫の中にいたはずの作業員も。
その倉庫に避難していた親子も。
炎の中で救助を待っていた、名も知らない老人も。
彼らが最初から存在しなかったかのように、街の一角が空白になっていた。
そこには瓦礫すらなかった。
地面が、建物が、人間が、まとめて世界の文章から削り取られたようだった。
「……嘘だろ」
出久は息を止めた。
自分は、誰も選ばなかった。
ひとりだけを本物と認めて、ほかの全員を消すことを拒絶した。
それなのに。
――消えた。
誰かが、消えた。
「緑谷!」
轟焦凍の声がした。
出久が振り向く。
白い氷が道路を走り、炎の進路を塞いでいた。その上空を、爆発音とともに爆豪勝己が飛び抜ける。
「おい、デク! ぼさっとしてんじゃねえ!」
「かっちゃん!」
「状況を説明しろ! こいつらは何だ!」
爆豪の背後では、複数の緑谷出久が一斉に逃げ遅れた市民を抱え、瓦礫の隙間を抜けていた。
そのうちのひとりが、爆豪の声に反応して顔を上げる。
「爆豪くん!」
呼ばれた爆豪の動きが、一瞬だけ止まった。
声も、顔も、表情も。
知っているものだった。
しかし、その少年の左腕には、見たことのない傷跡が走っていた。
「……誰だ、てめえ」
「僕だよ!」
「俺の知ってるデクは、そんな顔で笑わねえ!」
爆豪は言い切った。
だが、その直後。
「俺の世界じゃ、君は死んだよ」
もうひとりの出久が、静かに告げた。
「敵の攻撃から僕を庇って。それで、君は死んだ」
「……あ?」
「最後まで、僕のことを認めなかった。でも、最後には僕を助けた」
爆豪の表情から、怒りが消えた。
代わりに浮かんだものは、もっと危険な何かだった。
「ふざけんな」
「うん」
「勝手に死んでんじゃねえ」
「……うん」
「俺が知るかよ。てめえの世界がどうなったかなんざ!」
爆豪の掌で爆発が弾けた。
その音に、周囲の出久たちが身をすくませる。
「勝手に俺の死に方を決めてんじゃねえぞ!」
爆豪は吠えた。
「俺が死ぬなら、俺が決める! 誰かを庇って死ぬのが正解だとか、そんなもん勝手に美談にすんじゃねえ!」
彼は、空中で身体をひねった。
爆発が夜空を裂く。
次の瞬間、崩れかけた高架の下に取り残されていた市民たちが、爆風に押し上げられた瓦礫の隙間から脱出した。
爆豪は振り返らなかった。
「おい、デク!」
「うん!」
「そのクソみてえな問題、あとで全部説明しろ! 今は生きてる奴から拾うぞ!」
出久は、拳を握りしめた。
そうだ。
消えてしまった者を、今すぐ取り戻すことはできない。
だが、目の前にいる者たちは、まだ生きている。
生きているなら。
助けられる可能性があるなら。
「轟くん! 東側の道路が消失してる! 迂回路を作って!」
「分かった!」
「かっちゃん、上空から避難経路の確保を! 僕は中央に向かう!」
「命令すんな、クソナード!」
「ごめん!」
「謝る暇があったら走れ!」
爆豪の怒声が響く。
轟の氷が、崩れた道路の向こうに新たな橋を架ける。
そして出久は、再び炎の中へ飛び込んだ。
その背中を、無数の緑谷出久たちが見つめていた。
ある者は、笑った。
ある者は、泣いた。
ある者は、歯を食いしばった。
そして、その中のひとりが、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……どうして、お前だけがまだ走れるんだ」
*
午前二時十九分。
世界は、ようやく時間を進めた。
しかし、その一分間に起きたことを、誰も正しく記録できなかった。
東京湾第七物流区画。
半径約八百メートル。
複数の建造物が消失。
多数の人間が行方不明。
生存者の証言には、同一人物の目撃情報が多数含まれる。
さらに、消失した建造物の中には、建築記録にも登記にも存在しないものが含まれていた。
防犯カメラの映像は、消失の直前で一斉に乱れた。
消防無線には、存在しない人物の救助要請が記録された。
そして、現場にいた者たちの記憶には、互いに矛盾する証言が残された。
同じ場所で、同じ時刻に、同じ人間が、何度も死んでいた。
警察は、これを大規模な個性犯罪と判断した。
公安は、個性犯罪という分類を一時的に保留した。
雄英高校は、現場にいる緑谷出久の数を確認することを諦めた。
そして、現場にいた人間のひとりが、後にこう証言することになる。
『あの夜、僕は緑谷出久に助けられました』
『でも、助けてくれた彼は、僕の知っている緑谷出久ではありませんでした』
『それなのに、彼は僕の名前を知っていたんです』
証言は、そこで終わっていた。
録音機の故障ではない。
証言者が言葉を失ったのでもない。
録音データそのものが、そこから先を持っていなかった。
空白の後ろには、奇妙な音だけが残されていた。
誰かが、笑っている。
誰かが、泣いている。
そして、誰かが、ひどく寂しそうに問いかけていた。
『君は、誰に助けられたかったの?』
*
東京湾の地下。
地図に存在しない施設。
その中央に、八つの椅子が並んでいた。
七つは埋まっている。
ひとつは空席。
ただし、空席には誰も座っていないにもかかわらず、椅子の背もたれに濃い影が張りついていた。
影は、呼吸していた。
椅子に腰掛ける者たちは、地上の騒乱を大型モニターで見つめている。
モニターには、炎の中を走る緑谷出久が映っていた。
その映像が、突然、乱れた。
ひとりの出久が消える。
別の出久が消える。
街の一角が空白になる。
しかし、次の瞬間には、そこに見覚えのない建物が出現していた。
死神は、肘掛けに指を置いたまま、映像を見つめていた。
「……興味深い」
彼は呟いた。
「何が?」
声を発したのは、椅子のひとつに座る女だった。
彼女の顔は、モニターの光を受けているにもかかわらず、どこかぼやけていた。
見る者によって年齢も、輪郭も、表情も異なる。
ある者は彼女を美しいと感じた。
ある者は、彼女を恐ろしいと感じた。
そして、ある者は、彼女を見たことがないと証言するだろう。
死神は女に視線を向けた。
「彼は、選択を拒んだ」
「それで?」
「拒絶された選択肢は、消えなかった」
死神は指先でモニターを叩いた。
「むしろ、拒絶そのものが、新しい選択肢を生み出した」
「それが、あなたの望みだったの?」
「私の望みと、結果が一致するとは限らない」
「ずいぶんと不誠実な答えね」
「誠実であることと、正直であることは違う」
女は笑った。
その笑みを見た瞬間、モニターの向こう側で、ひとりの出久が振り返った。
誰もいないはずの地下施設を、まるで見透かしたように。
「……気づいた?」
女が尋ねる。
「いや」
死神は首を振った。
「彼は、君を見たわけではない」
「では、何を見たの?」
「自分が救えなかったものを」
死神は立ち上がった。
彼の影が、床の上に伸びる。
影は人間の輪郭を保っていなかった。
頭部らしき部分から、無数の細い枝が伸びている。
腕のようなものがいくつもあり、足元には、存在しないはずの骨が転がっていた。
しかし、死神自身は、ごく普通の人間の姿をしていた。
「計画を変更する」
死神が告げた。
「変更?」
「緑谷出久を中心とした選別は、一時停止する。虚飾の運用は継続。怠惰には、予定どおり第二段階へ移行させろ」
「それでは、地上の人間たちが混乱するわ」
「混乱は必要だ」
「混乱しすぎれば、彼らは考えることをやめる」
「だからこそ、選択を与える」
死神は、空席を見つめた。
「選ばせるのだ。彼ら自身に」
その瞬間。
空席の影が、ゆっくりと揺れた。
まるで、そこに座っている誰かが、笑ったかのように。
「――違う」
声がした。
誰の声でもなかった。
あるいは、そこにいる全員の声だった。
「選ばせるのではない」
死神の表情が変わった。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「……あなたか」
「彼らが、選ぶことを望むのだ」
声は続いた。
「選択を与えられた生き物は、選択を与えた者を探す。だが、自ら選択を求める生き物は、選択そのものの意味を問い始める」
空席の影が広がる。
椅子の脚を覆い、床を這い、壁へと染み込んでいく。
「私は、彼らと話がしたい」
それは、あまりにも静かな願いだった。
世界を支配したいわけではない。
人類を滅ぼしたいわけでもない。
ただ、話がしたい。
そのために、世界の仕組みを変えようとしている。
そのために、人類が長い年月をかけて積み上げてきた歴史を、ひとつの問いに変えようとしている。
そのために、無数の人間が、今夜、炎の中で泣いている。
「彼らは、まだ私を知らない」
声が言った。
「だから、私は彼らを知らない」
死神は答えなかった。
「私は、彼らが何を望むのかを知りたい」
空席の影が、ほんの少しだけ縮んだ。
「そして、彼らに、私が何を望んでいるのかを知ってほしい」
長い沈黙。
死神は、ようやく口を開いた。
「あなたが直接降りれば、彼らはあなたを理解する前に、あなたを恐れるでしょう」
「知っている」
「それでも?」
「それでも、私は話したい」
死神は目を伏せた。
この存在が、人類に個性という謎を与えたこと。
その謎を通して、人間が自分自身の可能性を広げることを期待していること。
そして、人間が次の段階へ進むことを、心の底から望んでいること。
死神は、それを知っていた。
しかし。
彼は、その願いが人間にとってどれほど恐ろしいものになるかも知っていた。
「……承知しました」
死神は頭を下げた。
「ただし、あなたの願いが、彼らの願いと一致するとは限りません」
「だからこそ、話したいのだ」
声が答えた。
「一致しない願いを持つ者と、話がしたい」
空席の影が、静かに消えた。
死神は、モニターへと視線を戻した。
炎の中を走る緑谷出久。
その姿が、一瞬だけ、別の人物に重なった。
白い髪。
赤い瞳。
崩れた街の中で、誰かを抱きしめている少年。
死神は、映像を停止させた。
「……君は、何を望む?」
その問いは、モニターの向こうにいる少年に向けられたものではなかった。
死神自身にも、答えられない問いだった。
*
東京湾第七物流区画。
地下二階。
避難用通路の壁に、少女が背中を預けていた。
「……最悪」
トガヒミコは、血のついたナイフを握りしめていた。
ナイフの刃には、彼女自身の血がついている。
目の前には、倒れた男がいた。
いや。
男だったものが、いた。
正確には、男の姿をした何か。
顔は、トガが知っている人物のものだった。
しかし、その顔は、彼女が知っているどの人間とも、完全には一致しなかった。
目の位置がわずかにずれている。
口元の筋肉の動きが、不自然だった。
笑うときに頬が上がらない。
怒るときに眉が動かない。
まるで、人間の表情を、誰かが間違った手順で組み立てたようだった。
「ねえ」
トガは、倒れた男に話しかけた。
「あなた、誰なの?」
返事はない。
「ねえってば」
ナイフの先端で、男の頬をつつく。
その瞬間。
男の口が開いた。
「――選べ」
トガの指が止まった。
「……は?」
「選べ」
男の口が、もう一度動いた。
「本物を選べ。偽物を捨てろ。ひとつを残し、残りを消せ」
声が二重になった。
男の声。
トガ自身の声。
そして、聞き覚えのない声。
「選ばなければ、すべてが失われる」
トガは、男の胸を踏みつけた。
「うるさい」
ナイフが閃いた。
男の喉が切り裂かれる。
だが、血は流れなかった。
代わりに、男の身体から黒い糸が飛び出した。
糸は、床を這い、壁を這い、天井へと伸びていく。
トガは飛び退いた。
「……何これ」
黒い糸の先端が、ひとつの扉に絡みついた。
扉の向こう側から、声が聞こえた。
『助けて』
トガの顔から、表情が消えた。
『お願い、助けて』
その声は、知っていた。
忘れるはずがなかった。
自分自身の声だった。
まだ幼かった頃。
自分の血への欲求を、誰にも理解してもらえなかった頃。
誰かの血を欲しがることが、誰かになりたいと願うことが、どうしていけないのか、理解できなかった頃。
自分の気持ちを説明しようとして、説明すること自体を諦めた頃。
『私は、悪い子なの?』
トガは、ナイフを握り直した。
「……違う」
『私は、間違ってるの?』
「違う」
『誰か、私を選んで』
トガは扉に向かって歩き出した。
そのとき、背後から声がした。
「トガちゃん!」
振り向く。
トゥワイスだった。
彼は両手いっぱいに、小さな子供を抱えていた。
子供たちは、全員、同じ顔をしていた。
同じ髪。
同じ瞳。
同じ服。
しかし、ひとりは泣いていた。
ひとりは笑っていた。
ひとりは、怯えた目でトゥワイスを見上げていた。
そして、ひとりは。
何も感じていないような顔をしていた。
「……何、その子たち」
「知らねえよ!」
トゥワイスは叫んだ。
「知らねえから連れてきたんだよ! いや、知ってる! 知ってるけど知らねえんだ!」
「落ち着いて、トゥワイス」
「落ち着けるか! こいつら、俺なんだぞ!」
彼は子供たちを抱きしめた。
「俺の顔で、俺の声で、俺のことを知らないって言うんだ! 俺の記憶を持ってる奴もいる! 俺が経験してないことを覚えてる奴もいる! 俺が死んだって言う奴もいる!」
彼の声が震えた。
「……なあ、トガちゃん」
「うん」
「俺は、誰なんだ?」
トガは答えなかった。
答えられなかった。
彼女自身、同じ問いを抱えていたからだ。
目の前の子供たち。
彼らは、本物なのか。
それとも、偽物なのか。
もし彼らが本物なら、トゥワイスは何なのか。
もし彼らが偽物なら、どうして、こんなにも怯えているのか。
どうして、こんなにも泣いているのか。
どうして、こんなにも。
助けを求めているのか。
「……トゥワイス」
「何だ?」
「その子たち、どうしたいって?」
トゥワイスは、腕の中の子供たちを見た。
泣いている子供が、彼の服を握りしめる。
「……おうちに帰りたいって」
「そっか」
「でも、どこにもないんだと」
「うん」
「俺の家も、俺の世界も、もうないんだと」
トゥワイスは笑った。
笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「……俺、また増えちまったな」
トガは、彼の頬に手を伸ばした。
「ねえ、トゥワイス」
「何だよ」
「私たち、選ばなくてもいいんじゃない?」
トゥワイスが顔を上げた。
「……え?」
「本物か偽物かなんて、今はどうでもいいよ」
トガは、子供たちを見つめた。
「この子たち、帰る場所がないんでしょ?」
「ああ」
「だったら、帰る場所を作ればいいじゃん」
トゥワイスは、目を見開いた。
「……簡単に言うなよ」
「うん。簡単じゃないよ」
トガは笑った。
「だから、一緒にやろうよ」
その瞬間。
扉の向こう側から、再び声が聞こえた。
『選べ』
トガは、ゆっくりと振り向いた。
扉に絡みついていた黒い糸が、増えていた。
糸は、床から壁へ。
壁から天井へ。
そして、天井から、子供たちへと伸びていた。
「……ああ、もう」
トガは舌打ちした。
「しつこいなあ」
彼女はナイフを構えた。
「トゥワイス。子供たちを連れて、奥へ」
「お前は?」
「こいつを止める」
「一人でか!?」
「うん」
「馬鹿かお前は!」
「知ってる!」
トガは笑った。
「でも、私、選ぶのは得意なんだよ」
彼女は自分の腕を切った。
血が流れる。
その血を、ナイフの刃に塗りつけた。
「誰になりたいかは、自分で決めるんだから」
黒い糸が、彼女の身体に殺到した。
トガは、笑いながら踏み込んだ。
*
その頃。
地下施設のさらに深い場所。
ひとつの端末が、静かに起動していた。
画面には、文字が表示されている。
《VANITY:境界崩壊率、上昇》
《対象群:緑谷出久》
《識別不能個体:増加》
《現実固定値:低下》
その下に、新たな警告が表示された。
《外部侵入を検知》
端末の画面が赤く染まった。
《侵入者:死柄木弔》
次の瞬間。
施設の外壁が、内側から崩壊した。
*
「……何だ?」
地下施設の警備員が、振り向いた。
廊下の向こう側から、男が歩いてくる。
白い髪。
乾いた肌。
痒みをこらえるように首筋を掻く指。
その顔には、怒りも、憎悪も、愉悦も浮かんでいなかった。
ただ、世界そのものに飽き果てたような表情があった。
「侵入者だ!」
警備員が叫ぶ。
「止まれ! ここは――」
男が手を伸ばした。
警備員の足元が崩れた。
床が砕ける。
壁が崩れる。
天井が落ちる。
崩壊は、警備員の身体に触れる寸前で止まった。
男は、彼を見下ろした。
「……どけ」
それだけだった。
警備員は、動けなかった。
恐怖のためではない。
理解できなかったからだ。
男は、殺そうと思えば殺せた。
なのに、殺さなかった。
助けようと思えば助けられた。
なのに、助けなかった。
ただ、道を空けろと言った。
警備員は、震える手で床を這い、道を空けた。
男は、その横を通り過ぎた。
「……死柄木弔」
背後から声がした。
死柄木は立ち止まった。
廊下の奥に、ひとりの男が立っていた。
黒い衣服。
顔を覆う仮面。
手には、奇妙な形をした杖。
地上の騒乱を観測していた、あの仮面の男だった。
「ようこそ」
仮面の男は言った。
「招待した覚えはないが」
死柄木は、ゆっくりと振り返った。
「招待など必要ありません。あなたは、いずれここへ来ると分かっていました」
「……気持ち悪いな」
「あなたは、世界を壊したい」
「違う」
死柄木は即座に否定した。
「世界を壊したいんじゃない」
彼は、自分の手を見た。
何度も、何度も。
自分が壊してきたものを思い出す。
家。
街。
人間。
希望。
そして、自分自身。
「世界に、後悔させたいんだ」
死柄木は顔を上げた。
「俺を作ったことを」
仮面の男は、黙っていた。
「俺を見捨てたことを」
死柄木の指が、首筋を掻いた。
「俺を、救わなかったことを」
皮膚が裂けた。
血が滲む。
「……それなのに、てめえらは」
死柄木の声が低くなる。
「何を始めようとしてやがる?」
仮面の男は、杖を床に突いた。
「人類の再構築です」
「は?」
「死者を蘇らせ、失われた可能性を取り戻し、世界を新たな段階へ導く」
「……くだらねえ」
死柄木は笑った。
「死んだ奴を生き返らせれば、救いになると思ってんのか?」
「救いになる者もいるでしょう」
「じゃあ、救われなかった奴は?」
仮面の男が沈黙した。
「生き返らせる価値がないってことか?」
「そうではありません」
「なら、何だ?」
死柄木は、一歩近づいた。
「選ぶのか?」
仮面の男の身体が、わずかに強張った。
「誰を生き返らせるか。誰を生かしておくか。誰を必要な存在と認めて、誰を不要だと判断するか」
死柄木の口元が歪んだ。
「結局、同じじゃねえか」
彼は、床を踏みしめた。
崩壊が広がる。
廊下の床が、壁が、天井が、次々と灰になっていく。
仮面の男は後退した。
「あなたは、計画を理解していない」
「理解する必要があるのか?」
死柄木は答えた。
「俺は、てめえらの計画に興味がねえ」
彼は、手を伸ばした。
「ただ、気に入らねえんだよ」
崩壊が、仮面の男の足元に迫る。
「世界を作り直す?」
死柄木は笑った。
「そんなもん、俺が壊してやる」
仮面の男は、杖を掲げた。
床に、幾何学模様が浮かび上がる。
死柄木の崩壊が、そこで止まった。
止められたのではない。
崩壊するという現象そのものが、その場所では意味を失っていた。
死柄木の目が細くなる。
「……へえ」
「あなたの個性は、強力です。しかし、この施設では、通常の物理法則を適用できない区域が存在します」
「そうか」
死柄木は、指を曲げた。
「じゃあ、そこ以外を壊せばいい」
次の瞬間。
床が崩壊した。
壁が崩壊した。
天井が崩壊した。
そして、施設そのものが、悲鳴を上げた。
仮面の男の杖が折れた。
「な――」
「俺は、てめえらのルールを知らねえ」
死柄木は、崩れ落ちる天井を見上げた。
「知る必要もねえ」
彼は歩き出した。
「俺が壊すものを、俺以外の誰かが決めるんじゃねえよ」
その言葉を最後に、廊下が崩壊した。
死柄木は、瓦礫の中を歩いていった。
その背中には、誰の命令も届かなかった。
*
地下施設、中央制御室。
警報が鳴り響いていた。
モニターが次々と消えていく。
職員たちは、端末を操作し、避難経路を確保しようとしていた。
しかし、地図上の通路が、次々と消えていた。
物理的に破壊された通路だけではない。
まだ存在している通路まで、地図から消えていた。
「何が起きている!?」
「施設の構造が変化しています!」
「そんな馬鹿な!」
「座標が一致しません! 同じ場所に、異なる階層が重なっています!」
中央の椅子に座る死神は、静かに目を閉じた。
「……なるほど」
彼は呟いた。
「彼は、こちらの計画を破壊しに来たのではない」
側に控える者が顔を上げた。
「では、何を?」
「こちらが計画を実行すること自体を、許せないのだ」
死神は目を開いた。
「彼にとって、世界の再構築は、世界が自分を許すための仕組みに見えるのだろう」
「しかし、死柄木弔は、あなたの計画に関係のない存在です」
「そうだ」
「ならば、なぜここへ?」
「関係がないからだ」
死神は、淡々と答えた。
「彼は、私たちの目的を理解していない。理解する必要もないと思っている。彼にとって、この世界は、彼が生まれたことを後悔すべき世界だ」
死神は、崩壊していく施設を見つめた。
「だからこそ、危険なのだ」
「……対処しますか?」
「いや」
死神は首を振った。
「彼を止めるために、彼を選ぶことはできない」
「しかし、このままでは――」
「彼は、八つの欲望の一部ではない」
死神の声が、わずかに低くなった。
「彼は、憤怒だ」
その言葉に、中央制御室の空気が凍りついた。
「憤怒は、こちらの計画に従わない」
死神は立ち上がった。
「だからこそ、彼の怒りを、こちらの都合で定義してはならない」
彼は、空席を見た。
そこに張りついていた影は、消えていた。
しかし、死神には分かっていた。
影は、まだそこにいる。
見ている。
聞いている。
そして、考えている。
「……あなたは、彼をどう見る?」
死神は、誰もいない空席に問いかけた。
返事はなかった。
その代わり。
モニターのひとつに、見覚えのない文字列が浮かび上がった。
《憤怒:観測継続》
《対象:死柄木弔》
《評価:未確定》
《対話可能性:不明》
死神は、しばらく画面を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……そうか」
それは、安堵の笑みではなかった。
恐怖の笑みでもなかった。
未知のものを前にした者が、初めてそれを未知のまま認めたときの笑みだった。
*
東京湾第七物流区画。
午前二時二十一分。
出久は、瓦礫の下から少年を引きずり出していた。
「もう大丈夫だ!」
少年は、出久の顔を見つめた。
「……お兄ちゃん?」
出久の動きが止まった。
少年の目には、恐怖があった。
しかし、それ以上に、確信があった。
この人は、自分を助けてくれる。
そう信じている目だった。
「……違う」
出久は、ゆっくりと答えた。
「僕は、お兄ちゃんじゃない」
「……え?」
「でも、君を助けに来た」
少年は、戸惑った。
そして、泣き出した。
「……お兄ちゃんが、死んじゃった」
出久は息を呑んだ。
「お兄ちゃんが、僕を助けてくれて……それで……」
少年は、出久の服を握りしめた。
「お兄ちゃんが、いなくなっちゃった」
出久は、少年を抱きしめた。
何も言えなかった。
この子の世界では、誰かが死んだ。
その誰かは、出久ではない。
しかし、その顔は、出久に似ていたのかもしれない。
その声は、出久と同じだったのかもしれない。
その人が、この子にとって、どれほど大切だったのか。
出久には、分からなかった。
分からないまま、彼は少年を抱きしめた。
「……ごめんね」
出久は言った。
「僕には、君のお兄ちゃんを返せない」
少年は泣いた。
「でも、君をひとりにはしない」
その言葉を口にした瞬間、出久は、自分の中で何かが軋むのを感じた。
約束。
また、約束をしてしまった。
自分が守れるかどうかも分からない約束を。
それでも。
彼は、少年を離さなかった。
遠くで、爆発音がした。
爆豪の声が響く。
轟の氷が、崩れた道路を支える。
無線から、救助要請が次々と飛び込んでくる。
そのすべてが、現実だった。
だからこそ。
出久は、少年を抱きしめたまま、顔を上げた。
「……みんなを、助けなきゃ」
少年は、涙に濡れた顔で頷いた。
そのときだった。
出久の耳元で、声がした。
『君は、誰を助けるの?』
出久は振り向いた。
誰もいない。
『君は、誰を選ぶの?』
声は続いた。
『君が助けた人の数だけ、助けられなかった人がいる』
出久の指が、少年の背中で止まった。
『君が手を伸ばすたびに、君の手が届かなかった場所が生まれる』
それは、事実だった。
どれほど速く走っても。
どれほど強くなっても。
どれほど多くの人を救おうとしても。
すべてを救うことはできない。
『それでも、君は手を伸ばすの?』
出久は、唇を噛んだ。
目の前には、泣いている少年がいる。
その向こうには、助けを求める声がある。
さらにその向こうには、まだ見つけられていない人々がいる。
そして、今夜、自分が救えなかった者たちがいる。
出久は、目を閉じた。
あのとき。
午前二時十八分。
自分は、誰かに言ったのだ。
『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』
誰に向けた言葉だったのか。
どうして、そんなことを言ったのか。
思い出せない。
ただ、その言葉だけが、心の奥に残っている。
自分は、誰かの存在を否定した。
誰かが生まれなければ、誰かが助かる。
誰かが消えれば、誰かが救われる。
その考えを、かつて自分は受け入れていたのかもしれない。
出久は、目を開いた。
「……それでも」
声は、かすれていた。
「それでも、僕は手を伸ばす」
耳元の声が、止まった。
「僕は、全員を救えるなんて思ってない」
出久は、少年を抱き上げた。
「僕が間違えることもある。間に合わないこともある。助けた人に、恨まれることだってある」
彼は、燃える街を見た。
「それでも、目の前にいる人を見捨てる理由にはならない」
静寂。
そして。
声が、笑った。
『……そうか』
その声には、怒りも、嘲笑もなかった。
ただ、深い興味があった。
『君は、まだ、答えを持っていないのだね』
出久は、返事をしなかった。
『それなのに、答えを出すことをやめない』
声が遠ざかる。
『不思議だ』
その瞬間。
出久の腕時計が、正常な時刻を表示した。
02:22。
世界が、また一分進んだ。
*
午前二時二十三分。
避難所の一角で、麗日お茶子は、眠る子供を抱いていた。
子供は、出久に似ていた。
顔立ちだけではない。
眉の動かし方。
指先の癖。
眠っているときに、何かを探すように手を伸ばす仕草。
そのすべてが、彼女の知っている誰かを思い出させた。
けれど、お茶子は、その子の名前を知らなかった。
出久は、まだ戻ってこない。
通信も、途切れ途切れだった。
彼女は、子供の髪をそっと撫でた。
「……大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように。
「大丈夫。きっと、戻ってくるから」
子供が、目を開いた。
暗い瞳が、お茶子を見つめた。
「……お姉ちゃん」
「うん?」
「お兄ちゃんは?」
お茶子は、一瞬だけ息を止めた。
「……今、みんなを助けてるよ」
子供は、ゆっくりと首を振った。
「違う」
「え?」
「僕のお兄ちゃん」
子供の瞳に、涙が浮かんだ。
「……僕のお兄ちゃんは、どこ?」
お茶子は、答えられなかった。
子供は、彼女の服を握りしめた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「僕、ここにいてもいいの?」
その問いに、お茶子の胸が締めつけられた。
彼女は、子供を抱きしめた。
「もちろんだよ」
「……本当に?」
「本当」
「僕が、ここにいても?」
「うん」
「僕が、お兄ちゃんじゃなくても?」
お茶子は、目を閉じた。
この子は、誰なのだろう。
出久の弟なのか。
別の世界から来た、出久の複製なのか。
あるいは、まったく違う何かなのか。
分からない。
分からないけれど。
「……そんなの、関係ないよ」
お茶子は答えた。
「君が誰でも、君はここにいていい」
子供の肩が震えた。
やがて、小さな嗚咽が聞こえた。
お茶子は、その背中を撫で続けた。
そのとき。
避難所の壁に設置されたモニターが、突然、切り替わった。
ニュース映像が消え、真っ黒な画面になる。
そして、白い文字が浮かび上がった。
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
文字が増えていく。
画面を埋め尽くす。
お茶子は、子供を抱きしめたまま、画面を見つめた。
最後に、ひとつだけ、異なる文字が表示された。
《個体識別:未誕生》
お茶子の呼吸が止まった。
その文字を見た瞬間。
腕の中の子供が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、彼女の知らない声で言った。
「……ああ」
子供は、笑った。
「やっと、見つけた」
*
東京湾第七物流区画。
午前二時二十四分。
出久は、崩れた道路の上に立っていた。
救助活動は、まだ終わらない。
炎は消えず。
行方不明者は見つからず。
複数の出久たちは、それぞれ別の場所で、別の誰かを助け続けていた。
そのとき、通信機から爆豪の声が飛び込んだ。
『デク! 聞こえるか!』
「聞こえる!」
『妙なもんを見つけた! 今すぐ来い!』
「何を?」
『……人間だ』
「人間?」
『ああ。人間だ。だが――』
爆豪の声が途切れた。
次に聞こえたのは、轟の声だった。
『緑谷、急いでくれ』
「轟くん?」
『こいつは、俺たちの知っている人間じゃない』
出久は走り出した。
現場に到着したとき、爆豪と轟は、崩れた倉庫の前に立っていた。
その中央に、ひとりの男が倒れていた。
白い髪。
痩せた身体。
古びた服。
そして、胸元には、見覚えのない紋章が刻まれていた。
出久は、息を呑んだ。
男の顔を、知っていたからではない。
男の顔を、知らなかったからでもない。
その男の身体から、死の気配がしなかった。
呼吸はある。
心臓も動いている。
しかし、その身体には、時間が流れていなかった。
まるで、世界が彼の存在を、どう扱えばいいのか分からずにいるようだった。
「……誰なんだ?」
出久が呟いた。
男の目が、ゆっくりと開いた。
「……緑谷、出久」
男は、出久の名前を呼んだ。
「君に、伝えなければならないことがある」
「君は……誰だ?」
男は、笑った。
その笑みには、悲しみがあった。
そして、恐怖があった。
「私は――」
男の身体が、震えた。
胸元の紋章が、赤く光る。
次の瞬間、男の口から、黒い液体が溢れ出した。
「――死者ではない」
男は、出久の腕をつかんだ。
「まだ、生まれていない」
その言葉と同時に。
東京湾の海面が、真っ二つに割れた。
海底から、巨大な影が浮かび上がる。
それは、建造物ではなかった。
船でもなかった。
生物とも、機械とも、呼べなかった。
無数の骨格が、幾何学的な構造を形成している。
その表面には、人間の顔が浮かんでいた。
笑っている顔。
泣いている顔。
怒っている顔。
そして、誰かを待っている顔。
海面の向こう側で、影がゆっくりと目を開いた。
その瞳は、ひとつではなかった。
無数の瞳が、同時に出久を見つめていた。
男が、最後の力を振り絞るように囁いた。
「……君が、誰も選ばなかったからだ」
出久は、海を見つめた。
「何が……起きるんだ?」
男は、答えた。
「世界が、君に選ばせる」
その瞬間。
海底から、声が響いた。
人間の声ではなかった。
機械の声でもなかった。
世界そのものが、初めて言葉を発したかのような声だった。
『――緑谷出久』
出久の背筋が凍った。
『君は、誰を生まれさせる?』
海が、さらに大きく割れた。
その向こう側から、無数の手が伸びてきた。
死者の手。
生者の手。
そして。
まだ生まれていない者たちの手。
そのすべてが、出久に向かって伸びていた。
出久は、拳を握りしめた。
彼は、まだ知らない。
今夜、東京湾で起きていることが、単なる個性犯罪ではないことを。
死神が、死者の復活を計画していることを。
八つの欲望が、それぞれ異なる目的で動き始めていることを。
死柄木弔が、その計画を破壊するために地下施設へ侵入したことを。
そして、世界のすべてを見つめる存在が、彼らとの対話を望んでいることを。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
今夜、誰も選ばなかったこと。
それが、何かを変えてしまった。
誰かを救った。
誰かを失った。
そして、誰かに、まだ生まれる機会を与えてしまった。
海の向こう側で、無数の瞳が瞬いた。
『――対話を開始します』
世界が、そう告げた。
そして、出久の耳元で。
あの声が、もう一度、囁いた。
『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』
出久は、息を止めた。
それは、十二年前の声だった。
いや。
十二年前ではない。
まだ、誰も生まれていない時間から届いた声だった。
出久は、初めて理解した。
自分が忘れているのは、過去ではないのかもしれない。
自分が忘れているのは。
――未来なのかもしれない。
*
その夜。
死神は、八つの椅子の前に立っていた。
七つの椅子には、それぞれ異なる影が座っている。
そして、空席には、誰もいなかった。
死神は、空席を見つめた。
「……始まったか」
彼は、静かに呟いた。
誰に向けた言葉なのか。
自分自身にも、分からなかった。
遠くで、何かが笑った。
その笑い声は、死神のものではなかった。
ニャルラトホテプのものでもなかった。
ウルトロンのものでもなかった。
まして、死柄木弔のものでもなかった。
それは、世界がまだ名前を与えていない何かの笑い声だった。
死神は、目を閉じた。
「……あなたは、何を生み出そうとしている?」
答えはなかった。
しかし、空席の上に、ひとつの文字が浮かび上がった。
《原罪》
死神は、その文字を見つめた。
そして、初めて。
ほんのわずかに、顔を歪めた。
「……それだけは」
彼は、呟いた。
「それだけは、まだ、彼らに知らせるわけにはいかない」
空席の影が、ゆっくりと広がった。
その影の奥で。
何かが、目を開いた。
第三章『偽物の顔、燃え続ける過去』――第五話・了