僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第六話「生まれる前から、君を知っていた」

 

 海が、空を見上げていた。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 午前二時二十四分。

 

 海面は左右に割れ、その裂け目から、巨大な何かが姿を現そうとしていた。

 

 それは船ではなかった。

 

 生物でもなかった。

 

 ましてや、個性によって生み出された単純な構造物でもない。

 

 無数の骨格が、互いに噛み合いながら組み上がっている。骨の隙間には、黒い金属のような物質が流れ、表面には人間の顔が浮かび上がっていた。

 

 その顔は、どれも同じではなかった。

 

 笑っている者。

 

 泣いている者。

 

 怒りに歯を剥いている者。

 

 誰かに助けを求めている者。

 

 そして、何も感じていないように見える者。

 

 彼らは、海底から生えてきた巨大な建造物の表面に、まるで窓のように並んでいた。

 

 ひとつひとつが、人間だった。

 

 少なくとも、人間だった何かだった。

 

「……何だよ、ありゃ」

 

 爆豪勝己が、呆然と呟いた。

 

 彼の掌から、火花が散る。

 

 いつでも攻撃できるように、身体は構えていた。

 

 だが、攻撃対象が定まらない。

 

 どこを狙えばいいのか。

 

 何を壊せばいいのか。

 

 そもそも、あれは壊していいものなのか。

 

 判断するための情報が、あまりにも足りなかった。

 

 轟焦凍は、海面に視線を固定していた。

 

「……海水が、凍ってない」

 

「は?」

 

「俺の氷じゃない。さっきから、海面の温度が下がってる。それなのに、凍結が進まない」

 

 轟の吐息が白くなる。

 

「いや……違うな」

 

 彼は、目を細めた。

 

「凍ってるのに、凍ってないことになってる」

 

「意味分かんねえこと言ってんじゃねえ!」

 

「俺にも分からない」

 

 轟は、正直に答えた。

 

 氷を操る個性を持つ自分が、凍結という現象を理解できない。

 

 その事実が、彼の表情を険しくしていた。

 

 個性とは何か。

 

 物質を操ることか。

 

 現象を引き起こすことか。

 

 それとも、自分の認識した世界に、何らかの形で干渉することか。

 

 今まで当たり前だと思っていた前提が、目の前で崩れている。

 

「緑谷」

 

 轟が呼んだ。

 

「お前、何か分かるか?」

 

 出久は、答えなかった。

 

 海の向こう側にある無数の瞳を見つめていた。

 

 先ほど、海底から響いた声。

 

 あれは確かに、自分の名前を呼んだ。

 

 そして、こう言った。

 

『君は、誰を生まれさせる?』

 

 その問いの意味を、出久はまだ理解できない。

 

 しかし、ひとつだけ分かることがあった。

 

 あれは、自分を敵として認識していない。

 

 少なくとも、単純に殺そうとしているわけではない。

 

 あの声には、殺意がなかった。

 

 憎悪もなかった。

 

 あるのは、ひどく純粋な疑問だった。

 

 どうして人間は、誰かを選ぶのか。

 

 どうして人間は、誰かを選ばないのか。

 

 どうして人間は、存在する者を救おうとする一方で、存在しない者を忘れることができるのか。

 

 まるで、人類という種族を、初めて観察する存在のようだった。

 

「……君は、誰なんだ」

 

 出久は、海に向かって問いかけた。

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、巨大な構造物の表面に浮かぶ顔が、一斉にこちらを向いた。

 

 爆豪が舌打ちした。

 

「おい、デク。あんまり刺激すんな」

 

「でも、かっちゃん……」

 

「分かってる。あれが何か知りてえんだろ」

 

 爆豪は、海に浮かぶ巨大な影を睨みつけた。

 

「俺だって同じだ。だからって、何も分からねえ相手に、こっちから話しかけまくるな」

 

「……ごめん」

 

「謝んな。考えろ」

 

 その言葉に、出久は頷いた。

 

 考える。

 

 自分が知っている情報を整理する。

 

 東京湾で起きた異常現象。

 

 複数の緑谷出久。

 

 消失する建物。

 

 記憶の混乱。

 

 そして、まだ生まれていないと名乗る男。

 

 これらは、無関係な出来事ではない。

 

 おそらく、すべてが同じ現象の一部だ。

 

 問題は、その現象が何を目的としているのか。

 

 そして、なぜ自分が中心に置かれているのか。

 

 出久は、男の方を振り向いた。

 

「……君は、まだ生まれていないと言ったね」

 

 男は、地面に横たわったまま、ゆっくりと頷いた。

 

「そうだ」

 

「どういう意味なんだ?」

 

「そのままの意味だ」

 

「……君は、人間なのか?」

 

 男は、少しだけ考えた。

 

「人間だった可能性はある」

 

「可能性?」

 

「私は、まだ選ばれていない」

 

 男は、出久の顔を見つめた。

 

「だから、君が選ばなければ、私は生まれない」

 

 出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……僕が?」

 

「そうだ」

 

「僕が君を生まれさせるってこと?」

 

「君だけではない」

 

 男は、首を横に振った。

 

「だが、君が重要な位置にいることは間違いない」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「どうして……?」

 

「君が、選ばなかったからだ」

 

 男の声は、静かだった。

 

「君は、あの夜、誰も選ばなかった」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 海面が、再び揺れた。

 

 巨大な構造物の表面に浮かんでいた顔のひとつが、ゆっくりと口を開く。

 

『選んで』

 

 女の声だった。

 

『お願い』

 

 次の顔が、口を開く。

 

『私を、選んで』

 

 さらに別の顔が、声を重ねる。

 

『僕を生まれさせて』

 

『私を消さないで』

 

『僕を忘れないで』

 

『私を、ここにいていい存在にして』

 

 無数の声が、海を満たした。

 

 出久は、思わず耳を塞いだ。

 

 だが、声は耳から聞こえているのではなかった。

 

 頭の中に直接流れ込んでくる。

 

 記憶の奥に。

 

 心の奥に。

 

 自分でも知らない、自分の一番深い場所に。

 

 そして、その声の中に。

 

 出久は、聞き覚えのある声を見つけた。

 

『お兄ちゃん』

 

 小さな子供の声だった。

 

『僕を、生まれさせて』

 

 出久の目が見開かれた。

 

 その声は、避難所にいる子供の声と同じだった。

 

 いや。

 

 同じなのではない。

 

 避難所にいる子供が、その声を発しているのだ。

 

 海の向こう側から。

 

 何千メートルも離れた場所から。

 

 世界のどこにも存在しないはずの声が、同時に響いている。

 

「……やめろ」

 

 出久は、呟いた。

 

「やめてくれ」

 

 無数の声が、さらに大きくなる。

 

『僕を、生まれさせて』

 

『僕を、選んで』

 

『僕を――』

 

「やめろ!」

 

 出久の叫びが、海を裂いた。

 

 その瞬間、巨大な構造物が停止した。

 

 声が止まった。

 

 無数の瞳が、出久を見つめている。

 

 そして。

 

 海の向こう側から、あの声が戻ってきた。

 

『……なぜ?』

 

 出久は、荒い息を吐いた。

 

『君は、彼らを救いたいのだろう?』

 

「……そうだ」

 

『ならば、なぜ、彼らの願いを拒む?』

 

「拒んでなんか……!」

 

『彼らは、生まれたいと願っている』

 

 声は、穏やかだった。

 

『存在したいと願っている』

 

『誰かに知ってほしいと願っている』

 

『君は、それを叶えられる』

 

 出久の喉が、詰まった。

 

『それなのに、なぜ、拒む?』

 

 出久は答えられなかった。

 

 答えを持っていなかった。

 

 生まれたいと願う者を、生まれさせる。

 

 存在したいと願う者を、存在させる。

 

 それは、間違ったことなのだろうか。

 

 もし、彼らが本当に誰かの可能性であるなら。

 

 もし、彼らが生まれることを望んでいるなら。

 

 自分が、それを拒む理由は何なのだろう。

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

 分からない。

 

 何も分からない。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 自分がその選択をしてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。

 

 そんな予感があった。

 

「……君は」

 

 出久は、海を見つめた。

 

「君は、彼らが生まれたあと、どうなるか知っているの?」

 

 声が止まった。

 

 初めてだった。

 

 あの存在が、問いに答えられずに沈黙したのは。

 

 長い沈黙のあと。

 

『……知らない』

 

 声が答えた。

 

 その言葉に、出久は目を見開いた。

 

『私は、彼らが何を望むのかを知りたい』

 

『彼らが生まれたあと、何をするのかを知りたい』

 

『彼らが、何を選ぶのかを知りたい』

 

 声は、続けた。

 

『だから、彼らを生まれさせたい』

 

 出久は、愕然とした。

 

 この存在は、本当に知らないのだ。

 

 生まれた者が、何を経験するのか。

 

 存在することが、どれほど苦しいことなのか。

 

 誰かに選ばれることが、どれほど嬉しいことなのか。

 

 そして、選ばれなかった者が、どれほど深く傷つくのか。

 

 知らないからこそ、知りたがっている。

 

 知りたいからこそ、世界を変えようとしている。

 

 その純粋さが、出久には恐ろしかった。

 

「……それじゃあ、駄目なんだ」

 

 出久は、震える声で言った。

 

『なぜ?』

 

「生まれさせるだけじゃ、駄目なんだ」

 

 彼は、海の向こう側を見つめた。

 

「生まれたあと、その人がどう生きるのか。何を失うのか。誰を愛するのか。誰に傷つけられるのか。そういうことまで、考えなきゃいけない」

 

『……なぜ?』

 

「だって……」

 

 出久は、言葉を探した。

 

 正解など、分からなかった。

 

 しかし、今、自分が言わなければならないことは、分かっていた。

 

「生まれることは、誰かの実験じゃないからだ」

 

 海が、静かになった。

 

「その人が生まれたいって願ってるなら、その願いを無視しちゃいけない。でも、生まれたいって願ってるからって、何も考えずに生まれさせていいわけじゃない」

 

 出久は、自分の手を見つめた。

 

「僕たちは、誰かの人生を勝手に決めることなんてできない」

 

 声は、答えなかった。

 

「……君だって、そうだろ?」

 

 出久は、問いかけた。

 

「君だって、誰かに勝手に生まれさせられたら、嫌なんじゃないのか?」

 

 その瞬間。

 

 海面に浮かぶ無数の顔が、すべて動きを止めた。

 

 巨大な構造物の奥で、何かが軋んだ。

 

 世界が、何かを考えている。

 

 そんな気配がした。

 

『……私は』

 

 声が、かすれた。

 

『私は、誰かに生まれさせられたのだろうか』

 

 出久は、息を止めた。

 

『私は、誰かに望まれたのだろうか』

 

 それは、問いだった。

 

 人類に向けられた問いではない。

 

 出久に向けられた問いでもない。

 

 その存在自身が、初めて自分に向けた問いだった。

 

『……私は、誰に望まれたのだろう』

 

 海面が、震えた。

 

 巨大な構造物が、ゆっくりと沈み始めた。

 

 無数の顔が、悲しそうに目を閉じる。

 

 そして、声が消えた。

 

 残されたのは、割れた海と、燃え続ける街だけだった。

 

     *

 

 午前二時二十六分。

 

 東京湾第七物流区画、地下施設。

 

 死柄木弔は、崩壊した廊下の先に立っていた。

 

 彼の足元には、折れた杖が転がっている。

 

 仮面の男は、壁にもたれかかり、呼吸を整えていた。

 

 施設は、半分以上が崩壊していた。

 

 だが、死柄木の表情には、達成感がなかった。

 

 むしろ、苛立ちが増していた。

 

「……つまんねえな」

 

 死柄木は呟いた。

 

「何がです?」

 

 仮面の男が、苦しそうに問い返した。

 

「てめえらのやってることだよ」

 

 死柄木は、足元の瓦礫を蹴った。

 

「世界を作り直すだの、死者を蘇らせるだの。そんなことをして、何が変わる?」

 

「失われた可能性を取り戻せます」

 

「可能性?」

 

 死柄木は笑った。

 

「可能性なんて言葉で、何人殺すつもりだ?」

 

 仮面の男は、答えなかった。

 

「生き返らせた奴らは、元の世界に戻れるのか?」

 

「……必ずしも、そうではありません」

 

「家族は?」

 

「彼らの世界が失われている場合、同じ形で再現することは困難です」

 

「友達は?」

 

「同様です」

 

「記憶は?」

 

「不完全な状態で復元される可能性があります」

 

 死柄木は、しばらく黙っていた。

 

 そして、笑った。

 

「……最高じゃねえか」

 

 仮面の男が、顔を上げた。

 

「何を……?」

 

「全部、元どおりにはならねえんだろ?」

 

 死柄木の目が、細くなる。

 

「だったら、何が救いなんだ?」

 

「それでも、彼らには再び生きる機会が与えられます」

 

「誰が決めた?」

 

「……何を?」

 

「そいつらに、もう一度生きる機会が必要だって、誰が決めたんだよ」

 

 仮面の男は、言葉を失った。

 

 死柄木は、彼を見下ろした。

 

「死んだ奴を生き返らせれば、死んだ奴は喜ぶと思ってんのか?」

 

「……」

 

「失った世界を再現すれば、失った奴は救われると思ってんのか?」

 

 死柄木は、首筋を掻いた。

 

「違うだろ」

 

 皮膚が裂ける。

 

「そんなもん、死んだ奴に聞かなきゃ分からねえ」

 

 彼は、仮面の男から目を逸らした。

 

「……まあ、聞けるなら、の話だがな」

 

 その声には、怒りがあった。

 

 しかし、そこには別の感情も混ざっていた。

 

 死んだ者には、何も聞けない。

 

 失われたものは、元どおりにはならない。

 

 誰かが、自分の代わりに人生を決めることなどできない。

 

 それを、死柄木は知っていた。

 

 知っているからこそ、世界を許せなかった。

 

「……俺は、てめえらを止める」

 

 死柄木は、言った。

 

「死者を蘇らせるためじゃねえ」

 

 彼は、振り返った。

 

「てめえらが、死者を利用してるからだ」

 

 そして、歩き出した。

 

 仮面の男は、彼を止めなかった。

 

 止めることができなかった。

 

 死柄木の背中が、暗闇に消えていく。

 

 そのとき。

 

 仮面の男の耳元で、声がした。

 

『……彼は、私を憎んでいるのだろうか』

 

 仮面の男は、息を呑んだ。

 

 それは、死神の声ではなかった。

 

 ニャルラトホテプの声でもなかった。

 

 もっと遠い場所から。

 

 世界の始まりよりも前から。

 

 何かが、問いかけていた。

 

『私は、彼らに何をしたのだろう』

 

 仮面の男は、震える声で答えた。

 

「……あなたは、何もしていません」

 

 沈黙。

 

 そして。

 

『……そうか』

 

 声は、消えた。

 

 仮面の男は、目を閉じた。

 

 彼は、嘘をついた。

 

 あの存在は、人類に個性を与えた。

 

 人間の進化に干渉した。

 

 その結果、世界は変わった。

 

 救われた者がいる。

 

 苦しんだ者がいる。

 

 生まれた者がいる。

 

 生まれなかった者がいる。

 

 そのすべてが、あの存在の望んだことだったのか。

 

 仮面の男には、分からなかった。

 

 しかし、ひとつだけ分かっていた。

 

 あの存在は、今、本気で傷ついている。

 

 自分が望んだものが、誰かを苦しめているかもしれない。

 

 その可能性を、初めて理解し始めている。

 

 それは、世界を破壊するよりも危険な変化だった。

 

     *

 

 午前二時二十七分。

 

 東京湾第七物流区画、仮設指揮所。

 

 相澤消太は、モニターに表示された映像を睨んでいた。

 

 画面には、海底から浮かび上がった巨大な構造物が映っている。

 

 その映像は、すでに複数の報道機関に流出していた。

 

 政府は、映像の削除を要請している。

 

 公安は、現場周辺の封鎖を進めている。

 

 警察は、避難民の誘導と行方不明者の捜索を続けている。

 

 そして、雄英高校は、現場にいる緑谷出久の数を把握できずにいた。

 

「……何人だ」

 

 相澤が呟いた。

 

 隣にいた職員が、端末を見た。

 

「確認できた範囲では、緑谷出久と同じ容姿を持つ人物が、少なくとも百七十二名です」

 

「少なくとも?」

 

「映像上で確認できない個体も存在する可能性があります」

 

「……そうか」

 

 相澤は、目を閉じた。

 

 百七十二名。

 

 それは、単なる人数ではない。

 

 百七十二人分の人生がある。

 

 百七十二人分の記憶がある。

 

 百七十二人分の後悔がある。

 

 そして、百七十二人分の「緑谷出久」がいる。

 

 彼らのうち、何人が本物なのか。

 

 その問いに、意味はあるのだろうか。

 

 もし、彼ら全員が本物だとしたら。

 

 もし、彼ら全員が、それぞれの世界で生きてきた人間だったとしたら。

 

 彼らを偽物と呼ぶことは、彼らの人生を否定することにならないか。

 

 だが、彼ら全員を本物と認めたとき。

 

 今まで「緑谷出久」というひとりの人間を中心に構築されてきた社会は、どうなるのだろう。

 

 戸籍。

 

 個性登録。

 

 学籍。

 

 医療記録。

 

 犯罪歴。

 

 人間関係。

 

 それらは、ひとりの人間がひとつの人生を歩むことを前提としている。

 

 世界は、同じ人間が百七十二人存在することを想定していない。

 

 制度が壊れる。

 

 常識が壊れる。

 

 そして、常識に支えられていた人間関係もまた、壊れるかもしれない。

 

「……緑谷は?」

 

 相澤が尋ねた。

 

「現場で救助活動を継続しています」

 

「負傷は?」

 

「軽傷の報告がありますが、詳細は不明です」

 

「……そうか」

 

 相澤は、再びモニターを見た。

 

 その映像の中で、ひとりの出久が、別の出久を抱きしめていた。

 

 抱きしめられた出久は、泣いていた。

 

 抱きしめている出久も、泣いていた。

 

 相澤は、その映像から目を逸らせなかった。

 

 彼は、教師だった。

 

 生徒たちが、自分自身の可能性を見つけられるように、何度も失敗を許してきた。

 

 間違いを正すこと。

 

 過ちを認めること。

 

 失敗したあと、もう一度立ち上がること。

 

 そうしたことを、教えてきた。

 

 しかし。

 

 自分自身が、ひとりの生徒に対して、これほど難しい問いを突きつけられるとは思っていなかった。

 

 もし、目の前にいる緑谷出久が、複数人いたら。

 

 誰を生徒として扱うのか。

 

 誰を守るのか。

 

 誰を、本物と認めるのか。

 

 相澤は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……全員だ」

 

 隣の職員が、顔を上げた。

 

「え?」

 

「現場で確認された緑谷出久は、全員保護対象とする」

 

「しかし、身元の確認が――」

 

「身元の確認は後だ」

 

 相澤の声は、静かだった。

 

「彼らが誰なのか分からない。だが、分からないことは、保護しなくていい理由にはならない」

 

 職員は、口を閉じた。

 

「……了解しました」

 

 相澤は、通信機を手に取った。

 

「緑谷。聞こえるか」

 

 しばらく、雑音が続いた。

 

 やがて、聞き慣れた声が返ってきた。

 

『はい、先生!』

 

「状況を報告しろ」

 

『現場では、複数の緑谷出久が救助活動を継続しています。現在、僕が確認できた範囲では、彼らの行動に一貫性はありません。協力している者もいれば、互いを敵と認識している者もいます』

 

「お前自身は?」

 

『……まだ、分かりません』

 

 相澤は、少しだけ目を細めた。

 

「何が分からない?」

 

『僕が、彼らをどう扱えばいいのかです』

 

 通信機の向こうで、出久は言葉を探していた。

 

『彼らは、僕と同じ顔をしています。でも、僕の知らない人生を生きてきた。僕が知らない人たちを愛して、僕が知らない人たちに愛されて、僕が知らない失敗をしてきた』

 

 少しの沈黙。

 

『……僕には、彼らを偽物だと言えません』

 

「そうか」

 

『でも、全員が本物だと言い切ることも、まだできません』

 

 相澤は、頷いた。

 

「それでいい」

 

『……え?』

 

「分からないなら、分からないままでいい。今すぐ答えを出す必要はない」

 

 相澤は、モニターを見た。

 

「ただし、ひとつだけ覚えておけ」

 

『はい』

 

「お前は、ひとりで全員を背負うな」

 

 通信機の向こうが、静かになった。

 

「助けられなかった人間がいることと、お前がすべての責任を負うことは、同じじゃない」

 

 相澤は、言葉を続けた。

 

「お前が救助に向かう。俺たちは、お前が救助に向かえるようにする。それぞれができることをやる。それが、チームだ」

 

『……はい』

 

「それから」

 

 相澤は、少しだけ声を低くした。

 

「何かを選ぶ必要があるときは、選ぶ前に、誰がその選択を要求しているのかを考えろ」

 

 出久は、黙っていた。

 

「お前が選ばなければ誰かが死ぬ。そう言われたとしても、その条件を作った人間がいるはずだ」

 

 相澤の目が、鋭くなる。

 

「選択肢を用意した人間の責任まで、お前が背負う必要はない」

 

 通信機の向こうで、出久が息を呑んだ。

 

『……先生』

 

「何だ」

 

『ありがとうございます』

 

「礼はいい。生きて戻れ」

 

『はい!』

 

 通信が切れた。

 

 相澤は、椅子の背もたれに身体を預けた。

 

 そして、モニターの隅に表示された、ひとつの情報に気づいた。

 

 《未登録個体:一名》

 

 《推定年齢:不明》

 

 《個性:不明》

 

 《発生時刻:02:18》

 

 相澤は、目を細めた。

 

「……未登録?」

 

 その情報の下には、さらに奇妙な項目があった。

 

 《出生記録:なし》

 

 《死亡記録:あり》

 

 相澤の指が、止まった。

 

 生まれていない人間に、死亡記録がある。

 

 そんなことは、あり得ない。

 

 あり得ないはずだった。

 

 相澤は、すぐに端末を操作した。

 

 しかし、該当する記録は、すでに消えていた。

 

 残っていたのは、ひとつの文章だけだった。

 

 《当該個体は、世界によって拒絶されました》

 

 相澤は、しばらく、その文章を見つめていた。

 

 そして、初めて。

 

 今夜の事件が、緑谷出久たちだけの問題ではないことを理解した。

 

 これは、世界そのものに関する事件だ。

 

 世界が、誰かを受け入れない。

 

 世界が、誰かの存在を拒絶する。

 

 そして、その拒絶を、誰かが覆そうとしている。

 

 相澤は、静かに呟いた。

 

「……一体、何が始まってるんだ」

 

 モニターの奥で、海が揺れた。

 

     *

 

 午前二時三十一分。

 

 東京湾から遠く離れた場所。

 

 廃墟となった遊園地の観覧車の上に、ひとりの男が座っていた。

 

 彼は、空を見ていた。

 

 夜空には、星が見えない。

 

 雲に覆われているわけではなかった。

 

 星が、存在しないのだ。

 

 空そのものが、巨大な黒い壁のように見えた。

 

「……へえ」

 

 男は、呟いた。

 

 彼の隣には、誰もいない。

 

 しかし、彼は誰かと話しているようだった。

 

「ずいぶんと大きく動いたね」

 

 返事はない。

 

「死神も、焦ってるんじゃない?」

 

 男は笑った。

 

「まあ、仕方ないか。あれだけ大きな仕掛けを動かしておいて、肝心の人間が、選ぶことを拒否したんだから」

 

 彼は、足をぶらぶらと揺らした。

 

「それにしても、緑谷出久か」

 

 その名前を口にした瞬間、男の影が揺れた。

 

 影の形が変わる。

 

 細長く伸びたかと思えば、複数に分かれ、再びひとつに戻る。

 

「彼は、面白いね」

 

 男は、笑った。

 

「自分が何をしたのかも分からないまま、誰かを救おうとしてる」

 

 彼は、空を見上げた。

 

「でも、救おうとすること自体が、誰かを傷つけることもある」

 

 影が、男の足元で蠢いた。

 

「彼は、それを知ってるのかな?」

 

 沈黙。

 

 男は、肩をすくめた。

 

「知らないなら、教えてあげないとね」

 

 彼の顔が、ゆっくりと変わった。

 

 目が細くなる。

 

 口元が吊り上がる。

 

 そして、その顔は。

 

 トガヒミコのものになった。

 

「……ふふ」

 

 次の瞬間、顔は元に戻った。

 

 今度は、トゥワイスの顔。

 

 そして、見知らぬ男の顔。

 

 見知らぬ女の顔。

 

 見知らぬ子供の顔。

 

 いくつもの顔が、ひとつの身体の上を流れていく。

 

 最後に、その顔は、誰のものでもなくなった。

 

「虚飾は、まだ始まったばかり」

 

 男は、静かに言った。

 

「本物と偽物の境界が壊れたとき、人間は何を信じるのか」

 

 彼は、笑った。

 

「自分自身かな?」

 

 影が、答えた。

 

 声は、男の声ではなかった。

 

 女の声でもなかった。

 

 無数の人間の声が、ひとつに重なったような声だった。

 

『違う』

 

 男は、目を細めた。

 

『人間は、自分自身さえ信じられなくなる』

 

「……そうかな?」

 

『そうだ』

 

 影が、広がった。

 

『自分が本物だと証明するために、他者を偽物と呼ぶ』

 

 男は、楽しそうに笑った。

 

「じゃあ、僕たちは?」

 

『私たちは、証明する必要がない』

 

「どうして?」

 

『私たちは、すでに存在している』

 

 男は、しばらく黙っていた。

 

 そして、観覧車の上から、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……そうか」

 

 彼は、空を見た。

 

「君は、そう考えるんだね」

 

 影は、答えなかった。

 

 男は、笑った。

 

「なら、試してみよう」

 

 彼は、観覧車の外側へ足を踏み出した。

 

 重力が、彼の身体を落下させる。

 

 しかし、地面にぶつかる前に、彼の身体は無数の影に分裂した。

 

 影は、風に乗って、夜の街へ散っていく。

 

 そのうちのひとつが、遠くの街灯に張りついた。

 

 もうひとつが、走行中の車の窓に映った。

 

 さらにひとつが、眠っている子供の夢の中へ潜り込んだ。

 

 そして、最後のひとつが。

 

 東京湾の海面に、静かに触れた。

 

 男の声が、世界のどこかで響いた。

 

「さあ、君たちは、誰を本物と呼ぶ?」

 

     *

 

 午前二時三十三分。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 出久は、海岸沿いの道路に立っていた。

 

 巨大な構造物は、完全に沈んでいた。

 

 海面は元どおりになっている。

 

 しかし、海岸の一部は、地図と一致しなくなっていた。

 

 存在しないはずの階段。

 

 存在しないはずの桟橋。

 

 そして、存在しないはずの扉。

 

 出久は、その扉の前に立っていた。

 

 扉は、海岸のコンクリートに埋め込まれている。

 

 周囲には、何もない。

 

 建物もない。

 

 壁もない。

 

 ただ、扉だけがある。

 

 表面には、古びた文字が刻まれていた。

 

 《生まれなかった者のための入口》

 

 出久は、手を伸ばしかけた。

 

 しかし、その前に。

 

「触るな」

 

 声がした。

 

 振り向く。

 

 轟が、こちらへ歩いてきていた。

 

「……轟くん」

 

「相澤先生から連絡があった。妙な扉が出現したら、近づくなって」

 

「でも……」

 

「分かってる。気になるんだろ」

 

 轟は、扉を見つめた。

 

「俺も気になる」

 

「……じゃあ」

 

「だからこそ、今は触らない」

 

 轟は、静かに言った。

 

「何が起きるか分からないものに、何も考えずに触れるのは危険だ」

 

 出久は、苦笑した。

 

「……先生にも、同じことを言われたよ」

 

「なら、聞いておけ」

 

 轟は、扉から視線を逸らさなかった。

 

「……なあ、緑谷」

 

「うん?」

 

「お前、さっき海に向かって、何か話してたな」

 

 出久は、少しだけ迷った。

 

「……うん」

 

「何を話してた?」

 

 出久は、考えた。

 

 あの存在のこと。

 

 生まれたいと願う者たちのこと。

 

 そして、自分自身が、誰かに生まれさせられた存在なのかもしれないという可能性。

 

 すべてを話すべきなのだろうか。

 

 今、話したところで、何が変わるのだろう。

 

 しかし。

 

 ひとりで抱え込むな。

 

 相澤の言葉が、頭の中に蘇った。

 

「……僕は」

 

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「生まれることについて、話してた」

 

「生まれる?」

 

「うん。生まれたいって願ってる人たちがいるんだ。でも、彼らが生まれたあと、どうなるかは誰にも分からない」

 

 轟は、黙って聞いていた。

 

「それでも、彼らを生まれさせたいって考えてる存在がいる」

 

「……その存在は、何者なんだ?」

 

「分からない」

 

 出久は、正直に答えた。

 

「でも、たぶん、悪意だけで動いてるわけじゃない」

 

「悪意がないなら、安全だと?」

 

「違う」

 

 出久は、首を振った。

 

「むしろ、悪意がないからこそ、怖いんだと思う」

 

 轟は、しばらく黙っていた。

 

 そして、扉を見つめた。

 

「……俺は」

 

 彼は、静かに言った。

 

「自分の人生を、父親に決められたくなかった」

 

 出久は、轟を見た。

 

「どんな個性を使うのか。どんな人間になるのか。何のために生きるのか。そういうことを、全部、他人に決められたくなかった」

 

 轟の目が、扉に向けられる。

 

「だから、誰かが俺のために何かを決めようとするなら、まず、そいつに聞きたい」

 

「……何を?」

 

「お前は、俺の人生を、どこまで知ってるんだって」

 

 轟は、出久を見た。

 

「お前がさっき話した存在も、同じじゃないか?」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「生まれたいと願う者たちのことを知りたいなら、まず、彼らが生まれたあとに何を望むのかを聞くべきだ」

 

 轟は、扉に視線を戻した。

 

「生まれさせることと、生きることを認めることは、同じじゃない」

 

 出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうだね」

 

 彼は、扉を見つめた。

 

 まだ、何も分からない。

 

 だが、ひとつだけ。

 

 今までとは違う考え方が、心の中に生まれていた。

 

 誰かを救うことは、誰かの人生を代わりに決めることではない。

 

 誰かを生まれさせることも、誰かの未来を代わりに決めることではない。

 

 ならば。

 

 自分たちは、何をすればいいのだろう。

 

 出久は、扉に手を伸ばさなかった。

 

 代わりに、ポケットから通信機を取り出した。

 

「相澤先生。聞こえますか?」

 

『聞こえてる』

 

「妙な扉を発見しました。場所は――」

 

 出久は、位置を報告した。

 

『了解した。現場から離れろ。調査班を向かわせる』

 

「はい」

 

 通信を切ろうとした、そのとき。

 

『緑谷』

 

「はい?」

 

 相澤の声が、少しだけ低くなった。

 

『……その扉に、何が書かれている?』

 

 出久は、扉を見た。

 

「《生まれなかった者のための入口》です」

 

 通信機の向こうで、沈黙が生まれた。

 

 数秒。

 

 十秒。

 

 そして。

 

『……分かった』

 

 相澤の声は、いつもより硬かった。

 

『絶対に触るな。誰が来ても、扉を開けるな』

 

「……先生?」

 

『緑谷。聞いてくれ』

 

 相澤は、言葉を選んでいた。

 

『その扉の存在を、俺は知っている』

 

 出久の心臓が、跳ねた。

 

「……知ってる?」

 

『いや。正確には、知っているはずがない』

 

 相澤の声が、震えていた。

 

『だが、俺はその扉を見たことがある』

 

「いつ……?」

 

 長い沈黙。

 

 そして、相澤は答えた。

 

『十二年前だ』

 

 出久は、息を止めた。

 

 十二年前。

 

 オール・フォー・ワンとの決戦が終わった時期。

 

 出久が、まだ幼かった頃。

 

 世界が、大きく変わろうとしていた時期。

 

『あのとき、扉の向こう側から、声が聞こえた』

 

 相澤は、言った。

 

『……その声は、俺の名前を呼んだ』

 

 出久は、扉を見つめた。

 

 古びた文字の下に、新しい文字が浮かび上がっていた。

 

 《入場者:相澤消太》

 

 その下に、さらに文字が現れる。

 

 《入場時刻:十二年前》

 

 出久の背筋が、凍りついた。

 

 相澤は、十二年前にここへ来た。

 

 しかし、相澤は、今まで一度もそのことを話していない。

 

 話せなかったのか。

 

 忘れていたのか。

 

 それとも。

 

 話すことができない理由があったのか。

 

 扉の向こう側から、声がした。

 

『……相澤先生』

 

 出久は、動けなかった。

 

 その声は、相澤の声だった。

 

 しかし、今、通信機から聞こえている声とは違う。

 

 もっと若い。

 

 もっと疲れている。

 

 そして、何より。

 

 ひどく、悲しそうだった。

 

『……どうして、僕を置いていったんですか』

 

 出久は、目を見開いた。

 

 通信機の向こう側で、相澤が息を呑む音がした。

 

『……その声を、聞くな』

 

 相澤が言った。

 

『緑谷。その声を、絶対に聞くな』

 

 扉の向こう側で、声が続いた。

 

『先生』

 

『僕は、まだ生まれていません』

 

『でも、先生は、僕を知っている』

 

『……どうして、僕を殺したんですか?』

 

 出久は、息を止めた。

 

 相澤の声が、聞こえた。

 

『――緑谷、逃げろ!』

 

 同時に。

 

 扉の取っ手が、ゆっくりと回った。

 

     *

 

 その瞬間。

 

 世界のどこかで、ひとつの記録が書き換えられた。

 

 《相澤消太》

 

 《出生:記録あり》

 

 《死亡:記録なし》

 

 《関係者:緑谷出久》

 

 そして、その下に。

 

 今まで存在しなかった文章が浮かび上がった。

 

 《未誕生個体の父親:相澤消太》

 

 誰も、それを見ていなかった。

 

 死神も。

 

 ニャルラトホテプも。

 

 ウルトロンも。

 

 まして、世界そのものを見つめる存在も。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 海の底で、何かが目を開いた。

 

 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……ああ」

 

「そういうことだったのか」

 

 その声には、初めて。

 

 明確な恐怖が混じっていた。

 

 第六話・了

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