海が、空を見上げていた。
東京湾第七物流区画。
午前二時二十四分。
海面は左右に割れ、その裂け目から、巨大な何かが姿を現そうとしていた。
それは船ではなかった。
生物でもなかった。
ましてや、個性によって生み出された単純な構造物でもない。
無数の骨格が、互いに噛み合いながら組み上がっている。骨の隙間には、黒い金属のような物質が流れ、表面には人間の顔が浮かび上がっていた。
その顔は、どれも同じではなかった。
笑っている者。
泣いている者。
怒りに歯を剥いている者。
誰かに助けを求めている者。
そして、何も感じていないように見える者。
彼らは、海底から生えてきた巨大な建造物の表面に、まるで窓のように並んでいた。
ひとつひとつが、人間だった。
少なくとも、人間だった何かだった。
「……何だよ、ありゃ」
爆豪勝己が、呆然と呟いた。
彼の掌から、火花が散る。
いつでも攻撃できるように、身体は構えていた。
だが、攻撃対象が定まらない。
どこを狙えばいいのか。
何を壊せばいいのか。
そもそも、あれは壊していいものなのか。
判断するための情報が、あまりにも足りなかった。
轟焦凍は、海面に視線を固定していた。
「……海水が、凍ってない」
「は?」
「俺の氷じゃない。さっきから、海面の温度が下がってる。それなのに、凍結が進まない」
轟の吐息が白くなる。
「いや……違うな」
彼は、目を細めた。
「凍ってるのに、凍ってないことになってる」
「意味分かんねえこと言ってんじゃねえ!」
「俺にも分からない」
轟は、正直に答えた。
氷を操る個性を持つ自分が、凍結という現象を理解できない。
その事実が、彼の表情を険しくしていた。
個性とは何か。
物質を操ることか。
現象を引き起こすことか。
それとも、自分の認識した世界に、何らかの形で干渉することか。
今まで当たり前だと思っていた前提が、目の前で崩れている。
「緑谷」
轟が呼んだ。
「お前、何か分かるか?」
出久は、答えなかった。
海の向こう側にある無数の瞳を見つめていた。
先ほど、海底から響いた声。
あれは確かに、自分の名前を呼んだ。
そして、こう言った。
『君は、誰を生まれさせる?』
その問いの意味を、出久はまだ理解できない。
しかし、ひとつだけ分かることがあった。
あれは、自分を敵として認識していない。
少なくとも、単純に殺そうとしているわけではない。
あの声には、殺意がなかった。
憎悪もなかった。
あるのは、ひどく純粋な疑問だった。
どうして人間は、誰かを選ぶのか。
どうして人間は、誰かを選ばないのか。
どうして人間は、存在する者を救おうとする一方で、存在しない者を忘れることができるのか。
まるで、人類という種族を、初めて観察する存在のようだった。
「……君は、誰なんだ」
出久は、海に向かって問いかけた。
返事はなかった。
代わりに、巨大な構造物の表面に浮かぶ顔が、一斉にこちらを向いた。
爆豪が舌打ちした。
「おい、デク。あんまり刺激すんな」
「でも、かっちゃん……」
「分かってる。あれが何か知りてえんだろ」
爆豪は、海に浮かぶ巨大な影を睨みつけた。
「俺だって同じだ。だからって、何も分からねえ相手に、こっちから話しかけまくるな」
「……ごめん」
「謝んな。考えろ」
その言葉に、出久は頷いた。
考える。
自分が知っている情報を整理する。
東京湾で起きた異常現象。
複数の緑谷出久。
消失する建物。
記憶の混乱。
そして、まだ生まれていないと名乗る男。
これらは、無関係な出来事ではない。
おそらく、すべてが同じ現象の一部だ。
問題は、その現象が何を目的としているのか。
そして、なぜ自分が中心に置かれているのか。
出久は、男の方を振り向いた。
「……君は、まだ生まれていないと言ったね」
男は、地面に横たわったまま、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
「どういう意味なんだ?」
「そのままの意味だ」
「……君は、人間なのか?」
男は、少しだけ考えた。
「人間だった可能性はある」
「可能性?」
「私は、まだ選ばれていない」
男は、出久の顔を見つめた。
「だから、君が選ばなければ、私は生まれない」
出久の背筋に、冷たいものが走った。
「……僕が?」
「そうだ」
「僕が君を生まれさせるってこと?」
「君だけではない」
男は、首を横に振った。
「だが、君が重要な位置にいることは間違いない」
出久は、息を呑んだ。
「どうして……?」
「君が、選ばなかったからだ」
男の声は、静かだった。
「君は、あの夜、誰も選ばなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
海面が、再び揺れた。
巨大な構造物の表面に浮かんでいた顔のひとつが、ゆっくりと口を開く。
『選んで』
女の声だった。
『お願い』
次の顔が、口を開く。
『私を、選んで』
さらに別の顔が、声を重ねる。
『僕を生まれさせて』
『私を消さないで』
『僕を忘れないで』
『私を、ここにいていい存在にして』
無数の声が、海を満たした。
出久は、思わず耳を塞いだ。
だが、声は耳から聞こえているのではなかった。
頭の中に直接流れ込んでくる。
記憶の奥に。
心の奥に。
自分でも知らない、自分の一番深い場所に。
そして、その声の中に。
出久は、聞き覚えのある声を見つけた。
『お兄ちゃん』
小さな子供の声だった。
『僕を、生まれさせて』
出久の目が見開かれた。
その声は、避難所にいる子供の声と同じだった。
いや。
同じなのではない。
避難所にいる子供が、その声を発しているのだ。
海の向こう側から。
何千メートルも離れた場所から。
世界のどこにも存在しないはずの声が、同時に響いている。
「……やめろ」
出久は、呟いた。
「やめてくれ」
無数の声が、さらに大きくなる。
『僕を、生まれさせて』
『僕を、選んで』
『僕を――』
「やめろ!」
出久の叫びが、海を裂いた。
その瞬間、巨大な構造物が停止した。
声が止まった。
無数の瞳が、出久を見つめている。
そして。
海の向こう側から、あの声が戻ってきた。
『……なぜ?』
出久は、荒い息を吐いた。
『君は、彼らを救いたいのだろう?』
「……そうだ」
『ならば、なぜ、彼らの願いを拒む?』
「拒んでなんか……!」
『彼らは、生まれたいと願っている』
声は、穏やかだった。
『存在したいと願っている』
『誰かに知ってほしいと願っている』
『君は、それを叶えられる』
出久の喉が、詰まった。
『それなのに、なぜ、拒む?』
出久は答えられなかった。
答えを持っていなかった。
生まれたいと願う者を、生まれさせる。
存在したいと願う者を、存在させる。
それは、間違ったことなのだろうか。
もし、彼らが本当に誰かの可能性であるなら。
もし、彼らが生まれることを望んでいるなら。
自分が、それを拒む理由は何なのだろう。
出久は、拳を握りしめた。
分からない。
何も分からない。
ただ、ひとつだけ。
自分がその選択をしてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。
そんな予感があった。
「……君は」
出久は、海を見つめた。
「君は、彼らが生まれたあと、どうなるか知っているの?」
声が止まった。
初めてだった。
あの存在が、問いに答えられずに沈黙したのは。
長い沈黙のあと。
『……知らない』
声が答えた。
その言葉に、出久は目を見開いた。
『私は、彼らが何を望むのかを知りたい』
『彼らが生まれたあと、何をするのかを知りたい』
『彼らが、何を選ぶのかを知りたい』
声は、続けた。
『だから、彼らを生まれさせたい』
出久は、愕然とした。
この存在は、本当に知らないのだ。
生まれた者が、何を経験するのか。
存在することが、どれほど苦しいことなのか。
誰かに選ばれることが、どれほど嬉しいことなのか。
そして、選ばれなかった者が、どれほど深く傷つくのか。
知らないからこそ、知りたがっている。
知りたいからこそ、世界を変えようとしている。
その純粋さが、出久には恐ろしかった。
「……それじゃあ、駄目なんだ」
出久は、震える声で言った。
『なぜ?』
「生まれさせるだけじゃ、駄目なんだ」
彼は、海の向こう側を見つめた。
「生まれたあと、その人がどう生きるのか。何を失うのか。誰を愛するのか。誰に傷つけられるのか。そういうことまで、考えなきゃいけない」
『……なぜ?』
「だって……」
出久は、言葉を探した。
正解など、分からなかった。
しかし、今、自分が言わなければならないことは、分かっていた。
「生まれることは、誰かの実験じゃないからだ」
海が、静かになった。
「その人が生まれたいって願ってるなら、その願いを無視しちゃいけない。でも、生まれたいって願ってるからって、何も考えずに生まれさせていいわけじゃない」
出久は、自分の手を見つめた。
「僕たちは、誰かの人生を勝手に決めることなんてできない」
声は、答えなかった。
「……君だって、そうだろ?」
出久は、問いかけた。
「君だって、誰かに勝手に生まれさせられたら、嫌なんじゃないのか?」
その瞬間。
海面に浮かぶ無数の顔が、すべて動きを止めた。
巨大な構造物の奥で、何かが軋んだ。
世界が、何かを考えている。
そんな気配がした。
『……私は』
声が、かすれた。
『私は、誰かに生まれさせられたのだろうか』
出久は、息を止めた。
『私は、誰かに望まれたのだろうか』
それは、問いだった。
人類に向けられた問いではない。
出久に向けられた問いでもない。
その存在自身が、初めて自分に向けた問いだった。
『……私は、誰に望まれたのだろう』
海面が、震えた。
巨大な構造物が、ゆっくりと沈み始めた。
無数の顔が、悲しそうに目を閉じる。
そして、声が消えた。
残されたのは、割れた海と、燃え続ける街だけだった。
*
午前二時二十六分。
東京湾第七物流区画、地下施設。
死柄木弔は、崩壊した廊下の先に立っていた。
彼の足元には、折れた杖が転がっている。
仮面の男は、壁にもたれかかり、呼吸を整えていた。
施設は、半分以上が崩壊していた。
だが、死柄木の表情には、達成感がなかった。
むしろ、苛立ちが増していた。
「……つまんねえな」
死柄木は呟いた。
「何がです?」
仮面の男が、苦しそうに問い返した。
「てめえらのやってることだよ」
死柄木は、足元の瓦礫を蹴った。
「世界を作り直すだの、死者を蘇らせるだの。そんなことをして、何が変わる?」
「失われた可能性を取り戻せます」
「可能性?」
死柄木は笑った。
「可能性なんて言葉で、何人殺すつもりだ?」
仮面の男は、答えなかった。
「生き返らせた奴らは、元の世界に戻れるのか?」
「……必ずしも、そうではありません」
「家族は?」
「彼らの世界が失われている場合、同じ形で再現することは困難です」
「友達は?」
「同様です」
「記憶は?」
「不完全な状態で復元される可能性があります」
死柄木は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「……最高じゃねえか」
仮面の男が、顔を上げた。
「何を……?」
「全部、元どおりにはならねえんだろ?」
死柄木の目が、細くなる。
「だったら、何が救いなんだ?」
「それでも、彼らには再び生きる機会が与えられます」
「誰が決めた?」
「……何を?」
「そいつらに、もう一度生きる機会が必要だって、誰が決めたんだよ」
仮面の男は、言葉を失った。
死柄木は、彼を見下ろした。
「死んだ奴を生き返らせれば、死んだ奴は喜ぶと思ってんのか?」
「……」
「失った世界を再現すれば、失った奴は救われると思ってんのか?」
死柄木は、首筋を掻いた。
「違うだろ」
皮膚が裂ける。
「そんなもん、死んだ奴に聞かなきゃ分からねえ」
彼は、仮面の男から目を逸らした。
「……まあ、聞けるなら、の話だがな」
その声には、怒りがあった。
しかし、そこには別の感情も混ざっていた。
死んだ者には、何も聞けない。
失われたものは、元どおりにはならない。
誰かが、自分の代わりに人生を決めることなどできない。
それを、死柄木は知っていた。
知っているからこそ、世界を許せなかった。
「……俺は、てめえらを止める」
死柄木は、言った。
「死者を蘇らせるためじゃねえ」
彼は、振り返った。
「てめえらが、死者を利用してるからだ」
そして、歩き出した。
仮面の男は、彼を止めなかった。
止めることができなかった。
死柄木の背中が、暗闇に消えていく。
そのとき。
仮面の男の耳元で、声がした。
『……彼は、私を憎んでいるのだろうか』
仮面の男は、息を呑んだ。
それは、死神の声ではなかった。
ニャルラトホテプの声でもなかった。
もっと遠い場所から。
世界の始まりよりも前から。
何かが、問いかけていた。
『私は、彼らに何をしたのだろう』
仮面の男は、震える声で答えた。
「……あなたは、何もしていません」
沈黙。
そして。
『……そうか』
声は、消えた。
仮面の男は、目を閉じた。
彼は、嘘をついた。
あの存在は、人類に個性を与えた。
人間の進化に干渉した。
その結果、世界は変わった。
救われた者がいる。
苦しんだ者がいる。
生まれた者がいる。
生まれなかった者がいる。
そのすべてが、あの存在の望んだことだったのか。
仮面の男には、分からなかった。
しかし、ひとつだけ分かっていた。
あの存在は、今、本気で傷ついている。
自分が望んだものが、誰かを苦しめているかもしれない。
その可能性を、初めて理解し始めている。
それは、世界を破壊するよりも危険な変化だった。
*
午前二時二十七分。
東京湾第七物流区画、仮設指揮所。
相澤消太は、モニターに表示された映像を睨んでいた。
画面には、海底から浮かび上がった巨大な構造物が映っている。
その映像は、すでに複数の報道機関に流出していた。
政府は、映像の削除を要請している。
公安は、現場周辺の封鎖を進めている。
警察は、避難民の誘導と行方不明者の捜索を続けている。
そして、雄英高校は、現場にいる緑谷出久の数を把握できずにいた。
「……何人だ」
相澤が呟いた。
隣にいた職員が、端末を見た。
「確認できた範囲では、緑谷出久と同じ容姿を持つ人物が、少なくとも百七十二名です」
「少なくとも?」
「映像上で確認できない個体も存在する可能性があります」
「……そうか」
相澤は、目を閉じた。
百七十二名。
それは、単なる人数ではない。
百七十二人分の人生がある。
百七十二人分の記憶がある。
百七十二人分の後悔がある。
そして、百七十二人分の「緑谷出久」がいる。
彼らのうち、何人が本物なのか。
その問いに、意味はあるのだろうか。
もし、彼ら全員が本物だとしたら。
もし、彼ら全員が、それぞれの世界で生きてきた人間だったとしたら。
彼らを偽物と呼ぶことは、彼らの人生を否定することにならないか。
だが、彼ら全員を本物と認めたとき。
今まで「緑谷出久」というひとりの人間を中心に構築されてきた社会は、どうなるのだろう。
戸籍。
個性登録。
学籍。
医療記録。
犯罪歴。
人間関係。
それらは、ひとりの人間がひとつの人生を歩むことを前提としている。
世界は、同じ人間が百七十二人存在することを想定していない。
制度が壊れる。
常識が壊れる。
そして、常識に支えられていた人間関係もまた、壊れるかもしれない。
「……緑谷は?」
相澤が尋ねた。
「現場で救助活動を継続しています」
「負傷は?」
「軽傷の報告がありますが、詳細は不明です」
「……そうか」
相澤は、再びモニターを見た。
その映像の中で、ひとりの出久が、別の出久を抱きしめていた。
抱きしめられた出久は、泣いていた。
抱きしめている出久も、泣いていた。
相澤は、その映像から目を逸らせなかった。
彼は、教師だった。
生徒たちが、自分自身の可能性を見つけられるように、何度も失敗を許してきた。
間違いを正すこと。
過ちを認めること。
失敗したあと、もう一度立ち上がること。
そうしたことを、教えてきた。
しかし。
自分自身が、ひとりの生徒に対して、これほど難しい問いを突きつけられるとは思っていなかった。
もし、目の前にいる緑谷出久が、複数人いたら。
誰を生徒として扱うのか。
誰を守るのか。
誰を、本物と認めるのか。
相澤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……全員だ」
隣の職員が、顔を上げた。
「え?」
「現場で確認された緑谷出久は、全員保護対象とする」
「しかし、身元の確認が――」
「身元の確認は後だ」
相澤の声は、静かだった。
「彼らが誰なのか分からない。だが、分からないことは、保護しなくていい理由にはならない」
職員は、口を閉じた。
「……了解しました」
相澤は、通信機を手に取った。
「緑谷。聞こえるか」
しばらく、雑音が続いた。
やがて、聞き慣れた声が返ってきた。
『はい、先生!』
「状況を報告しろ」
『現場では、複数の緑谷出久が救助活動を継続しています。現在、僕が確認できた範囲では、彼らの行動に一貫性はありません。協力している者もいれば、互いを敵と認識している者もいます』
「お前自身は?」
『……まだ、分かりません』
相澤は、少しだけ目を細めた。
「何が分からない?」
『僕が、彼らをどう扱えばいいのかです』
通信機の向こうで、出久は言葉を探していた。
『彼らは、僕と同じ顔をしています。でも、僕の知らない人生を生きてきた。僕が知らない人たちを愛して、僕が知らない人たちに愛されて、僕が知らない失敗をしてきた』
少しの沈黙。
『……僕には、彼らを偽物だと言えません』
「そうか」
『でも、全員が本物だと言い切ることも、まだできません』
相澤は、頷いた。
「それでいい」
『……え?』
「分からないなら、分からないままでいい。今すぐ答えを出す必要はない」
相澤は、モニターを見た。
「ただし、ひとつだけ覚えておけ」
『はい』
「お前は、ひとりで全員を背負うな」
通信機の向こうが、静かになった。
「助けられなかった人間がいることと、お前がすべての責任を負うことは、同じじゃない」
相澤は、言葉を続けた。
「お前が救助に向かう。俺たちは、お前が救助に向かえるようにする。それぞれができることをやる。それが、チームだ」
『……はい』
「それから」
相澤は、少しだけ声を低くした。
「何かを選ぶ必要があるときは、選ぶ前に、誰がその選択を要求しているのかを考えろ」
出久は、黙っていた。
「お前が選ばなければ誰かが死ぬ。そう言われたとしても、その条件を作った人間がいるはずだ」
相澤の目が、鋭くなる。
「選択肢を用意した人間の責任まで、お前が背負う必要はない」
通信機の向こうで、出久が息を呑んだ。
『……先生』
「何だ」
『ありがとうございます』
「礼はいい。生きて戻れ」
『はい!』
通信が切れた。
相澤は、椅子の背もたれに身体を預けた。
そして、モニターの隅に表示された、ひとつの情報に気づいた。
《未登録個体:一名》
《推定年齢:不明》
《個性:不明》
《発生時刻:02:18》
相澤は、目を細めた。
「……未登録?」
その情報の下には、さらに奇妙な項目があった。
《出生記録:なし》
《死亡記録:あり》
相澤の指が、止まった。
生まれていない人間に、死亡記録がある。
そんなことは、あり得ない。
あり得ないはずだった。
相澤は、すぐに端末を操作した。
しかし、該当する記録は、すでに消えていた。
残っていたのは、ひとつの文章だけだった。
《当該個体は、世界によって拒絶されました》
相澤は、しばらく、その文章を見つめていた。
そして、初めて。
今夜の事件が、緑谷出久たちだけの問題ではないことを理解した。
これは、世界そのものに関する事件だ。
世界が、誰かを受け入れない。
世界が、誰かの存在を拒絶する。
そして、その拒絶を、誰かが覆そうとしている。
相澤は、静かに呟いた。
「……一体、何が始まってるんだ」
モニターの奥で、海が揺れた。
*
午前二時三十一分。
東京湾から遠く離れた場所。
廃墟となった遊園地の観覧車の上に、ひとりの男が座っていた。
彼は、空を見ていた。
夜空には、星が見えない。
雲に覆われているわけではなかった。
星が、存在しないのだ。
空そのものが、巨大な黒い壁のように見えた。
「……へえ」
男は、呟いた。
彼の隣には、誰もいない。
しかし、彼は誰かと話しているようだった。
「ずいぶんと大きく動いたね」
返事はない。
「死神も、焦ってるんじゃない?」
男は笑った。
「まあ、仕方ないか。あれだけ大きな仕掛けを動かしておいて、肝心の人間が、選ぶことを拒否したんだから」
彼は、足をぶらぶらと揺らした。
「それにしても、緑谷出久か」
その名前を口にした瞬間、男の影が揺れた。
影の形が変わる。
細長く伸びたかと思えば、複数に分かれ、再びひとつに戻る。
「彼は、面白いね」
男は、笑った。
「自分が何をしたのかも分からないまま、誰かを救おうとしてる」
彼は、空を見上げた。
「でも、救おうとすること自体が、誰かを傷つけることもある」
影が、男の足元で蠢いた。
「彼は、それを知ってるのかな?」
沈黙。
男は、肩をすくめた。
「知らないなら、教えてあげないとね」
彼の顔が、ゆっくりと変わった。
目が細くなる。
口元が吊り上がる。
そして、その顔は。
トガヒミコのものになった。
「……ふふ」
次の瞬間、顔は元に戻った。
今度は、トゥワイスの顔。
そして、見知らぬ男の顔。
見知らぬ女の顔。
見知らぬ子供の顔。
いくつもの顔が、ひとつの身体の上を流れていく。
最後に、その顔は、誰のものでもなくなった。
「虚飾は、まだ始まったばかり」
男は、静かに言った。
「本物と偽物の境界が壊れたとき、人間は何を信じるのか」
彼は、笑った。
「自分自身かな?」
影が、答えた。
声は、男の声ではなかった。
女の声でもなかった。
無数の人間の声が、ひとつに重なったような声だった。
『違う』
男は、目を細めた。
『人間は、自分自身さえ信じられなくなる』
「……そうかな?」
『そうだ』
影が、広がった。
『自分が本物だと証明するために、他者を偽物と呼ぶ』
男は、楽しそうに笑った。
「じゃあ、僕たちは?」
『私たちは、証明する必要がない』
「どうして?」
『私たちは、すでに存在している』
男は、しばらく黙っていた。
そして、観覧車の上から、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうか」
彼は、空を見た。
「君は、そう考えるんだね」
影は、答えなかった。
男は、笑った。
「なら、試してみよう」
彼は、観覧車の外側へ足を踏み出した。
重力が、彼の身体を落下させる。
しかし、地面にぶつかる前に、彼の身体は無数の影に分裂した。
影は、風に乗って、夜の街へ散っていく。
そのうちのひとつが、遠くの街灯に張りついた。
もうひとつが、走行中の車の窓に映った。
さらにひとつが、眠っている子供の夢の中へ潜り込んだ。
そして、最後のひとつが。
東京湾の海面に、静かに触れた。
男の声が、世界のどこかで響いた。
「さあ、君たちは、誰を本物と呼ぶ?」
*
午前二時三十三分。
東京湾第七物流区画。
出久は、海岸沿いの道路に立っていた。
巨大な構造物は、完全に沈んでいた。
海面は元どおりになっている。
しかし、海岸の一部は、地図と一致しなくなっていた。
存在しないはずの階段。
存在しないはずの桟橋。
そして、存在しないはずの扉。
出久は、その扉の前に立っていた。
扉は、海岸のコンクリートに埋め込まれている。
周囲には、何もない。
建物もない。
壁もない。
ただ、扉だけがある。
表面には、古びた文字が刻まれていた。
《生まれなかった者のための入口》
出久は、手を伸ばしかけた。
しかし、その前に。
「触るな」
声がした。
振り向く。
轟が、こちらへ歩いてきていた。
「……轟くん」
「相澤先生から連絡があった。妙な扉が出現したら、近づくなって」
「でも……」
「分かってる。気になるんだろ」
轟は、扉を見つめた。
「俺も気になる」
「……じゃあ」
「だからこそ、今は触らない」
轟は、静かに言った。
「何が起きるか分からないものに、何も考えずに触れるのは危険だ」
出久は、苦笑した。
「……先生にも、同じことを言われたよ」
「なら、聞いておけ」
轟は、扉から視線を逸らさなかった。
「……なあ、緑谷」
「うん?」
「お前、さっき海に向かって、何か話してたな」
出久は、少しだけ迷った。
「……うん」
「何を話してた?」
出久は、考えた。
あの存在のこと。
生まれたいと願う者たちのこと。
そして、自分自身が、誰かに生まれさせられた存在なのかもしれないという可能性。
すべてを話すべきなのだろうか。
今、話したところで、何が変わるのだろう。
しかし。
ひとりで抱え込むな。
相澤の言葉が、頭の中に蘇った。
「……僕は」
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「生まれることについて、話してた」
「生まれる?」
「うん。生まれたいって願ってる人たちがいるんだ。でも、彼らが生まれたあと、どうなるかは誰にも分からない」
轟は、黙って聞いていた。
「それでも、彼らを生まれさせたいって考えてる存在がいる」
「……その存在は、何者なんだ?」
「分からない」
出久は、正直に答えた。
「でも、たぶん、悪意だけで動いてるわけじゃない」
「悪意がないなら、安全だと?」
「違う」
出久は、首を振った。
「むしろ、悪意がないからこそ、怖いんだと思う」
轟は、しばらく黙っていた。
そして、扉を見つめた。
「……俺は」
彼は、静かに言った。
「自分の人生を、父親に決められたくなかった」
出久は、轟を見た。
「どんな個性を使うのか。どんな人間になるのか。何のために生きるのか。そういうことを、全部、他人に決められたくなかった」
轟の目が、扉に向けられる。
「だから、誰かが俺のために何かを決めようとするなら、まず、そいつに聞きたい」
「……何を?」
「お前は、俺の人生を、どこまで知ってるんだって」
轟は、出久を見た。
「お前がさっき話した存在も、同じじゃないか?」
出久は、息を呑んだ。
「生まれたいと願う者たちのことを知りたいなら、まず、彼らが生まれたあとに何を望むのかを聞くべきだ」
轟は、扉に視線を戻した。
「生まれさせることと、生きることを認めることは、同じじゃない」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
彼は、扉を見つめた。
まだ、何も分からない。
だが、ひとつだけ。
今までとは違う考え方が、心の中に生まれていた。
誰かを救うことは、誰かの人生を代わりに決めることではない。
誰かを生まれさせることも、誰かの未来を代わりに決めることではない。
ならば。
自分たちは、何をすればいいのだろう。
出久は、扉に手を伸ばさなかった。
代わりに、ポケットから通信機を取り出した。
「相澤先生。聞こえますか?」
『聞こえてる』
「妙な扉を発見しました。場所は――」
出久は、位置を報告した。
『了解した。現場から離れろ。調査班を向かわせる』
「はい」
通信を切ろうとした、そのとき。
『緑谷』
「はい?」
相澤の声が、少しだけ低くなった。
『……その扉に、何が書かれている?』
出久は、扉を見た。
「《生まれなかった者のための入口》です」
通信機の向こうで、沈黙が生まれた。
数秒。
十秒。
そして。
『……分かった』
相澤の声は、いつもより硬かった。
『絶対に触るな。誰が来ても、扉を開けるな』
「……先生?」
『緑谷。聞いてくれ』
相澤は、言葉を選んでいた。
『その扉の存在を、俺は知っている』
出久の心臓が、跳ねた。
「……知ってる?」
『いや。正確には、知っているはずがない』
相澤の声が、震えていた。
『だが、俺はその扉を見たことがある』
「いつ……?」
長い沈黙。
そして、相澤は答えた。
『十二年前だ』
出久は、息を止めた。
十二年前。
オール・フォー・ワンとの決戦が終わった時期。
出久が、まだ幼かった頃。
世界が、大きく変わろうとしていた時期。
『あのとき、扉の向こう側から、声が聞こえた』
相澤は、言った。
『……その声は、俺の名前を呼んだ』
出久は、扉を見つめた。
古びた文字の下に、新しい文字が浮かび上がっていた。
《入場者:相澤消太》
その下に、さらに文字が現れる。
《入場時刻:十二年前》
出久の背筋が、凍りついた。
相澤は、十二年前にここへ来た。
しかし、相澤は、今まで一度もそのことを話していない。
話せなかったのか。
忘れていたのか。
それとも。
話すことができない理由があったのか。
扉の向こう側から、声がした。
『……相澤先生』
出久は、動けなかった。
その声は、相澤の声だった。
しかし、今、通信機から聞こえている声とは違う。
もっと若い。
もっと疲れている。
そして、何より。
ひどく、悲しそうだった。
『……どうして、僕を置いていったんですか』
出久は、目を見開いた。
通信機の向こう側で、相澤が息を呑む音がした。
『……その声を、聞くな』
相澤が言った。
『緑谷。その声を、絶対に聞くな』
扉の向こう側で、声が続いた。
『先生』
『僕は、まだ生まれていません』
『でも、先生は、僕を知っている』
『……どうして、僕を殺したんですか?』
出久は、息を止めた。
相澤の声が、聞こえた。
『――緑谷、逃げろ!』
同時に。
扉の取っ手が、ゆっくりと回った。
*
その瞬間。
世界のどこかで、ひとつの記録が書き換えられた。
《相澤消太》
《出生:記録あり》
《死亡:記録なし》
《関係者:緑谷出久》
そして、その下に。
今まで存在しなかった文章が浮かび上がった。
《未誕生個体の父親:相澤消太》
誰も、それを見ていなかった。
死神も。
ニャルラトホテプも。
ウルトロンも。
まして、世界そのものを見つめる存在も。
ただ、ひとつだけ。
海の底で、何かが目を開いた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ああ」
「そういうことだったのか」
その声には、初めて。
明確な恐怖が混じっていた。
第六話・了