僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第七話「開けてはいけない扉の向こう」

 

 取っ手が、回った。

 

 ゆっくりと。

 

 まるで、扉の向こうにいる誰かが、こちらの反応を確かめながら、慎重に手を動かしているかのように。

 

 緑谷出久は動けなかった。

 

 扉に刻まれた文字が、脳裏に焼きついている。

 

 《未誕生個体の父親:相澤消太》

 

 何度読み返しても、文字は変わらない。

 

 相澤消太。

 

 雄英高校の教師。

 

 合理性を重視し、無駄を嫌い、生徒を守るためなら自分自身の危険など顧みない男。

 

 その人物が、まだ生まれていない誰かの父親だと、世界は記録している。

 

 しかも、その子供を殺したという声が、扉の向こうから聞こえてきた。

 

『……どうして、僕を殺したんですか?』

 

 少年の声だった。

 

 責めるような声ではない。

 

 怒鳴っているわけでも、泣き叫んでいるわけでもない。

 

 ただ、理由を知りたがっている。

 

 なぜ自分は殺されたのか。

 

 なぜ自分は生まれなかったのか。

 

 なぜ、父親になるはずだった人間は、自分を置いていったのか。

 

 それらを、ひとつずつ確かめるような声だった。

 

『先生』

 

 取っ手が、もう一度回った。

 

『……開けてください』

 

「緑谷、離れろ!」

 

 通信機から相澤の怒声が飛んできた。

 

 出久は、はっと我に返った。

 

「先生! でも、これは――」

 

「いいから離れろ! 轟、そいつを扉から引き離せ!」

 

「分かった!」

 

 轟が駆け出した。

 

 だが、その足が扉まで残り数歩というところで、突然止まった。

 

「……っ!」

 

「轟くん?」

 

 轟は、左手を自分の胸に当てていた。

 

 呼吸が浅い。

 

 目が、扉に釘づけになっている。

 

「……何だ、これ」

 

「轟くん、どうしたの!?」

 

「声が……」

 

 轟は、奥歯を噛みしめた。

 

「俺にも聞こえる」

 

 扉の向こうから、別の声がした。

 

『焦凍』

 

 轟の表情が凍りついた。

 

『お前は、どちらを選ぶ?』

 

 炎が燃える音。

 

 何かが割れる音。

 

 そして、幼い自分の泣き声。

 

『お父さんを選ぶの?』

 

 声が、優しく問いかけた。

 

『それとも、お母さんを選ぶの?』

 

 轟の指が震えた。

 

『お前が選ばなければ、みんなが苦しむんだよ』

 

「……黙れ」

 

 轟が呟いた。

 

『どちらかを選ばなければ、どちらも救えない』

 

「黙れ」

 

『どちらかを愛せば、どちらかを裏切る』

 

「黙れ!」

 

 轟の足元から、氷が広がった。

 

 地面を這った氷が、扉の前で止まる。

 

 その表面に、無数のひびが走った。

 

 氷が溶けたのではない。

 

 砕けたのでもない。

 

 氷だったという事実が、消えかけていた。

 

「……轟くん!」

 

 出久が叫ぶ。

 

 その声に、轟はようやく目を瞬かせた。

 

「……緑谷」

 

「こっちを見て!」

 

 出久は、轟の肩をつかんだ。

 

「ここは東京湾だ! 君は今、僕と一緒にいる! 扉の向こうにいるのは、君が今まで生きてきた世界じゃない!」

 

 轟の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 

「……ああ」

 

「大丈夫?」

 

「……分からない」

 

 轟は、正直に答えた。

 

「でも、お前の声は聞こえる」

 

 出久は頷いた。

 

「うん。ここにいるよ」

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 扉の向こう側から、低い笑い声が響いた。

 

『……そうか』

 

 少年の声だった。

 

『君は、そうやって誰かを救うんだね』

 

 取っ手が、止まった。

 

『自分の声が届く範囲にいる人を』

 

 沈黙。

 

『自分の手が届く範囲にいる人を』

 

 出久の背筋が冷たくなった。

 

『では、君の手が届かない場所にいる人は?』

 

 扉の表面に、文字が浮かび上がった。

 

 《対象:緑谷出久》

 

 《救助可能人数:未確定》

 

 《救助不可能人数:未確定》

 

 《選択期限:なし》

 

 最後の項目だけ、何度も点滅した。

 

 選択期限は、ない。

 

 つまり、今すぐ決断する必要はない。

 

 だが、決断しなければ何も起こらないという保証もない。

 

 出久は、扉を見つめた。

 

「……君は、何がしたいんだ?」

 

 返事はなかった。

 

「僕に、誰かを選ばせたいの?」

 

 沈黙。

 

「それとも、僕に何かを思い出させたいの?」

 

 取っ手が、わずかに揺れた。

 

 そして、少年は答えた。

 

『……どちらも違うよ』

 

 出久は息を呑んだ。

 

『僕は、ただ』

 

 扉の向こう側で、何かが床を引きずる音がした。

 

『僕がいたことを、知ってほしいんだ』

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

『誰も僕を覚えていないから』

 

 出久は、言葉を失った。

 

『僕が生まれなかったことを、誰も悲しまないから』

 

 扉の表面に、新たな文字が浮かび上がった。

 

 《個体名:未登録》

 

 《出生記録:なし》

 

 《死亡記録:あり》

 

 《存在証明:不成立》

 

 そして最後に。

 

 《遺族:なし》

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 扉の向こうにいる少年は、自分が生まれなかったことを悲しんでいる。

 

 自分が存在しなかったことを、誰かに知ってほしいと願っている。

 

 だが、彼はまだ生まれていない。

 

 生まれていないのなら、家族も、友人も、人生もない。

 

 彼を覚えている者もいない。

 

 彼の死を悲しむ者もいない。

 

 それでも。

 

 彼は、そこにいる。

 

 出久の前で、確かに声を発している。

 

「……君の話を聞かせてくれないか」

 

 出久は言った。

 

 轟が、こちらを見た。

 

 通信機の向こう側で、相澤が息を呑む気配がした。

 

「緑谷!」

 

「先生、僕は扉を開けません」

 

 出久は、すぐに言った。

 

「でも、話を聞くことまで拒む必要はないと思うんです」

 

「相手が何者か分からないんだぞ!」

 

「分かってます!」

 

 出久は、声を張った。

 

「だから、知りたいんです!」

 

 沈黙。

 

「……先生が、この扉を知っていることも。十二年前に何があったのかも。扉の向こうにいる人が誰なのかも。全部、まだ分かりません」

 

 出久は、扉に向き直った。

 

「でも、分からないからって、最初からいなかったことにはしたくない」

 

 その言葉に、扉の向こう側が静かになった。

 

 そして。

 

『……緑谷出久』

 

 少年が、名前を呼んだ。

 

『君は、やっぱり、あの人に似ているね』

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

「あの人?」

 

『うん』

 

「誰のこと?」

 

 返事は、すぐにはなかった。

 

 やがて、少年は答えた。

 

『君のお母さんだよ』

 

 出久の表情が変わった。

 

 扉の向こうから、少年の声が続く。

 

『……緑谷引子さん』

 

 出久は、息を止めた。

 

『あの人は、僕を覚えていた』

 

 扉の表面に、新たな文字が浮かび上がった。

 

 《記憶保持者:緑谷引子》

 

 その下に、もうひとつ。

 

 《記憶消去:実行済み》

 

 出久は、扉を見つめたまま動けなかった。

 

 母は、何かを覚えていた。

 

 そして、その記憶を失った。

 

 誰が?

 

 何のために?

 

 そもそも、何を覚えていたのか。

 

「……先生」

 

 出久は、通信機を握りしめた。

 

「今の、聞こえましたか?」

 

 相澤は答えなかった。

 

「先生?」

 

『……聞こえた』

 

 相澤の声は、ひどく硬かった。

 

『そして、その話は、俺の知っている記録と一致しない』

 

「どういうことですか?」

 

『十二年前。俺があの扉を見たとき、扉の向こうにいたのは――』

 

 相澤の声が、途切れた。

 

 ノイズが走る。

 

『……緑谷』

 

「はい!」

 

『今すぐ、そこから離れろ』

 

「先生、何が――」

 

『いいから離れろ! その扉は、お前の記憶を使っている!』

 

 その瞬間。

 

 扉が、内側から叩かれた。

 

 ドン。

 

 ドン。

 

 ドン。

 

 今度は、ひとりではなかった。

 

 複数の手が、扉の向こう側から叩いている。

 

 子供の手。

 

 大人の手。

 

 老人の手。

 

 何百人もの人間が、同時に扉を叩いていた。

 

『開けて』

 

『助けて』

 

『ここから出して』

 

『私を覚えて』

 

『僕を生まれさせて』

 

『私を、殺さないで』

 

 出久は、後ずさった。

 

 扉の文字が、次々と変わる。

 

 《未登録個体:増加》

 

 《未誕生個体:増加》

 

 《記憶保持者:緑谷出久》

 

 そして。

 

 《扉の管理者:緑谷出久》

 

「……は?」

 

 出久の口から、声が漏れた。

 

 管理者。

 

 何の管理者だ。

 

 自分は、こんな扉を知らない。

 

 こんな場所に来た覚えもない。

 

 誰かを閉じ込めた覚えもない。

 

 それなのに、世界は自分を、この扉の管理者だと記録している。

 

 轟が、出久の腕をつかんだ。

 

「緑谷、離れるぞ!」

 

「……でも」

 

「お前がどう思っていようと、今は危険だ!」

 

 轟は、出久を引っ張った。

 

 出久は、最後にもう一度だけ扉を見た。

 

 その表面に、ひとつの文章が浮かび上がっていた。

 

 《管理者不在につき、代替管理者を起動します》

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……何だ、これ」

 

 取っ手が、再び回った。

 

 そして。

 

 扉の向こうから、少年が言った。

 

『おかえり、出久』

 

 扉が、開いた。

 

     *

 

 扉の向こうには、部屋があった。

 

 白い壁。

 

 白い床。

 

 白い天井。

 

 窓はない。

 

 照明もない。

 

 それなのに、部屋の中は明るかった。

 

 中央には、小さなベッドが置かれていた。

 

 その上に、ひとりの少年が座っていた。

 

 年齢は、十歳前後だろうか。

 

 緑色の髪。

 

 丸い目。

 

 小さな身体。

 

 顔立ちは、出久に似ていた。

 

 しかし、完全に同じではない。

 

 目元が少しだけ鋭い。

 

 口元には、出久にはない癖がある。

 

 そして、左手の甲に、小さな傷跡があった。

 

 少年は、出久を見ると、笑った。

 

「……やっと会えた」

 

 出久は、動けなかった。

 

 少年は、ベッドから降りた。

 

 裸足のまま、床を歩く。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 そして、出久の前で立ち止まった。

 

「ねえ、出久」

 

 少年は、首を傾げた。

 

「僕のこと、覚えてる?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 少年は、少しだけ悲しそうな顔をした。

 

「……そっか」

 

 彼は、笑った。

 

「じゃあ、初めましてだね」

 

 その瞬間。

 

 出久の脳裏に、ひとつの光景が蘇った。

 

 暗い部屋。

 

 泣いている子供。

 

 自分の声。

 

『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』

 

 そして。

 

 自分の目の前で、誰かが消えていく。

 

 出久は、頭を押さえた。

 

「……っ!」

 

「緑谷!」

 

 轟が、肩をつかむ。

 

 出久は、膝をついた。

 

 記憶が、流れ込んでくる。

 

 自分の知らない記憶。

 

 しかし、自分のものだと感じる記憶。

 

 幼い自分が、少年と一緒に遊んでいる。

 

 少年が、泣いている。

 

 少年が、笑っている。

 

 少年が、自分の手を握っている。

 

 そして。

 

 自分が、少年に背を向けている。

 

『ごめん』

 

 幼い出久が、言っていた。

 

『……ごめんね』

 

 少年は、首を振った。

 

『いいよ』

 

 そして、笑った。

 

『出久が決めたことなら、いいよ』

 

 その言葉を最後に、少年の姿が消えた。

 

 出久は、床に手をついた。

 

「……違う」

 

 声が震えた。

 

「僕は……こんなこと……」

 

 少年が、出久を見下ろしていた。

 

「うん」

 

 彼は、頷いた。

 

「君は、覚えていないんだね」

 

「……君は、誰なんだ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「君は……本当に、誰なんだ?」

 

 少年は、しばらく考えた。

 

 そして、答えた。

 

「僕は、緑谷出久の弟だよ」

 

 轟が、息を呑んだ。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……弟?」

 

「うん」

 

 少年は、笑った。

 

「君が生まれる前に、死んだんだ」

 

     *

 

 同じ時刻。

 

 緑谷家。

 

 麗日お茶子は、子供を抱きしめていた。

 

 避難所のモニターは、まだ黒いままだった。

 

 しかし、画面の中央には、ひとつの文字が浮かび上がっている。

 

 《代替管理者:起動》

 

 お茶子は、子供を見た。

 

「……ねえ」

 

 子供は、彼女を見上げた。

 

「君は、誰なの?」

 

 子供は、笑った。

 

「僕?」

 

「うん」

 

「……僕はね」

 

 子供は、少しだけ考えた。

 

「まだ、決まってないんだ」

 

 お茶子の背筋が、冷たくなった。

 

「決まってない……?」

 

「うん」

 

 子供は、頷いた。

 

「僕が誰になるのか。どんな名前になるのか。どんな個性を持つのか。誰を好きになるのか。誰を嫌いになるのか」

 

 彼は、指を折りながら数えた。

 

「何も決まってない」

 

 お茶子は、言葉を失った。

 

「でも」

 

 子供は、顔を上げた。

 

「ひとつだけ、決まってることがあるよ」

 

「……何?」

 

 子供は、彼女の服を握りしめた。

 

「僕は、緑谷出久の弟になる」

 

 お茶子の胸が、締めつけられた。

 

「……どうして?」

 

「だって」

 

 子供は、不思議そうに首を傾げた。

 

「出久が、僕を選んだから」

 

 その瞬間。

 

 お茶子の腕の中から、子供の身体が消えた。

 

「……え?」

 

 彼女は、反射的に手を伸ばした。

 

 だが、そこには何もなかった。

 

 服も。

 

 体温も。

 

 呼吸も。

 

 子供がいたという痕跡すら、残っていない。

 

「……嘘」

 

 お茶子は、呆然とした。

 

 自分は、確かに子供を抱いていた。

 

 話をした。

 

 名前を尋ねた。

 

 ここにいていいのかと聞かれた。

 

 そして、自分は答えた。

 

 君が誰でも、ここにいていい。

 

 その言葉は、確かに自分の口から出た。

 

 なのに。

 

 子供が、消えた。

 

「……どうして?」

 

 お茶子は、床に膝をついた。

 

 泣きそうになった。

 

 だが、涙が出なかった。

 

 子供の名前を知らない。

 

 年齢も知らない。

 

 どこから来たのかも知らない。

 

 それなのに。

 

 自分は、その子を知っていた気がする。

 

 大切な誰かだった気がする。

 

 忘れてはいけない誰かだった気がする。

 

 お茶子は、震える手で、自分の胸を押さえた。

 

「……出久くん」

 

 そのとき。

 

 避難所のモニターに、文字が浮かび上がった。

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 文字が増えていく。

 

 しかし、今度は、ひとつだけ異なる表示があった。

 

 《個体識別:緑谷出久の弟》

 

 お茶子は、顔を上げた。

 

 その文字の下に、もうひとつ。

 

 《存在状態:消失》

 

 そして。

 

 《消失理由:保護者による拒絶》

 

 お茶子は、息を止めた。

 

 違う。

 

 そんなはずはない。

 

 自分は、あの子を拒絶していない。

 

 ここにいていいと伝えた。

 

 ひとりにはしないと約束した。

 

 それなのに。

 

 世界は、彼女が拒絶したと記録している。

 

 お茶子は、立ち上がった。

 

「……違う」

 

 声が震えた。

 

「私は……あの子を……」

 

 その瞬間。

 

 モニターが、真っ赤に染まった。

 

 《警告》

 

 《代替管理者の選択が不安定です》

 

 《保護者の認識と世界記録が一致しません》

 

 《存在固定処理を開始します》

 

 お茶子は、モニターを見つめた。

 

 そして、初めて理解した。

 

 自分の記憶が、何者かによって利用されている。

 

 自分の言葉が、何者かによって書き換えられている。

 

 そして、今。

 

 自分が知らないところで、誰かの存在が決められようとしている。

 

 お茶子は、通信機を取り出した。

 

「……出久くん」

 

 返事はない。

 

「お願い、出て……」

 

 通信機の向こう側から、雑音が聞こえた。

 

 そして。

 

 知らない声が、応答した。

 

『……麗日お茶子』

 

 お茶子は、息を呑んだ。

 

『君は、あの子を拒絶した』

 

「違う!」

 

『君は、あの子を選ばなかった』

 

「違う!」

 

『君は、あの子を生まれさせなかった』

 

 お茶子の目から、涙が落ちた。

 

「……違う!」

 

 彼女は、叫んだ。

 

「私は、あの子に、ここにいていいって言った!」

 

 通信機の向こう側で、声が止まった。

 

 そして。

 

『……そうか』

 

 声は、静かに答えた。

 

『ならば、君は、世界の記録に異議を申し立てるのだね』

 

 お茶子は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

『世界が、君の言葉を拒絶した』

 

 声が続く。

 

『君は、それを認めない』

 

『ならば、証明してほしい』

 

 通信機の向こう側で、何かが軋んだ。

 

『君が、あの子を受け入れたことを』

 

 お茶子は、震える手を握りしめた。

 

「……どうすればいいの?」

 

 声は、答えた。

 

『君自身が、あの子を探すのだ』

 

 通信が切れた。

 

 お茶子は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

 やがて。

 

 彼女は、涙を拭った。

 

「……分かった」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 自分自身にも、分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ。

 

 彼女は、決めた。

 

 あの子を探す。

 

 たとえ、その子が本当に生まれていなかったとしても。

 

 たとえ、世界がその子の存在を否定したとしても。

 

 自分が、あの子を覚えている限り。

 

 あの子は、最初から存在しなかったことにはならない。

 

     *

 

 午前二時三十七分。

 

 東京湾地下施設。

 

 死神は、破壊された制御室の中央に立っていた。

 

 壁は崩れ、床には瓦礫が散乱している。

 

 モニターの大半は、すでに機能を停止していた。

 

 しかし、中央にある一台だけは、まだ動いていた。

 

 画面には、奇妙な文字列が表示されている。

 

 《管理者:緑谷出久》

 

 《代替管理者:未確定》

 

 《保護者:麗日お茶子》

 

 《存在固定処理:進行中》

 

 死神は、その文字列を見つめた。

 

「……これは、私の計画ではない」

 

 彼は、呟いた。

 

 背後に立つ者が、顔を上げる。

 

「しかし、あなたの計画によって発生した現象では?」

 

「原因と責任は、同じではない」

 

 死神は、静かに答えた。

 

「私は、死者を蘇らせるために、八つの欲望を用意した。失われた可能性を再構築するために、彼らを配置した」

 

 彼は、モニターを指さした。

 

「だが、これは違う」

 

「何が違うのですか?」

 

「これは、死者の復活ではない」

 

 死神は、目を細めた。

 

「まだ生まれていない者が、世界に存在を要求している」

 

 沈黙。

 

「しかも、その存在を固定するために、他者の記憶が利用されている」

 

 死神は、顔を上げた。

 

「……誰が、こんな仕組みを作った?」

 

 答えはなかった。

 

 死神は、空席を見た。

 

 そこには、何もない。

 

 しかし、彼は、その空席が見ているものを感じていた。

 

 遠くから。

 

 深い場所から。

 

 世界の根底から。

 

 何かが、こちらを見つめている。

 

「……あなたなのですか?」

 

 死神は、問いかけた。

 

「あなたが、この仕組みを作ったのですか?」

 

 沈黙。

 

 そして。

 

『……分からない』

 

 声が答えた。

 

 死神は、目を見開いた。

 

 それは、あの存在の声だった。

 

 個性という謎を人類に与えた存在。

 

 人類の進化を見守り、次の段階へ進むことを望む存在。

 

 憂鬱。

 

 その名を与えられた、世界の外側にいる何か。

 

『私は、彼らと話したかった』

 

 声が続いた。

 

『彼らが、何を望むのかを知りたかった』

 

『彼らが、何を恐れるのかを知りたかった』

 

 死神は、黙って聞いていた。

 

『だが、私は』

 

 声が、途切れた。

 

『……私は、何かを間違えたのだろうか』

 

 死神は、答えられなかった。

 

 その問いに、正直に答えることはできない。

 

 彼は、人類のすべてを知っているわけではない。

 

 人類の未来を、すべて予測できるわけでもない。

 

 そして、何より。

 

 死神自身もまた、自分の計画が正しいのかどうか、確信を持てずにいた。

 

「……分かりません」

 

 彼は、ようやく答えた。

 

「ですが、あなたが望むものと、人類が望むものは、必ずしも一致しない」

 

『……そうか』

 

「あなたが、彼らを生まれさせたいと願うこと。それ自体は、間違いではないのかもしれません」

 

 死神は、モニターを見た。

 

「しかし、そのために、彼らの人生を勝手に決めてしまうなら」

 

 彼は、目を伏せた。

 

「それは、あなたが最も知りたいはずのものを、あなた自身が壊すことになります」

 

 長い沈黙。

 

 そして。

 

『……私は、彼らに何を尋ねればいいのだろう』

 

 死神は、答えた。

 

「まずは、彼らが何を望まないのかを、聞いてみてはいかがでしょうか」

 

 声が止まった。

 

「人間は、望むものだけでできているわけではありません」

 

 死神は、続けた。

 

「望まないこと。拒絶すること。許せないこと。それらもまた、彼らを形作るものです」

 

 彼は、静かに顔を上げた。

 

「あなたが人類と対話したいのなら、彼らがあなたを拒絶する可能性も、受け入れなければなりません」

 

 空席の影が、わずかに揺れた。

 

『……拒絶されるのは、怖い』

 

 その声は、あまりにも小さかった。

 

 死神は、目を閉じた。

 

「……ええ」

 

『彼らが、私を拒絶したら』

 

「それでも、対話を望むのでしょう?」

 

 沈黙。

 

 やがて、声が答えた。

 

『……そうだ』

 

 死神は、頷いた。

 

「ならば、今は、彼らが何を望むのかを見守りましょう」

 

 空席の影が、静かに縮んだ。

 

 しかし、死神はまだ知らなかった。

 

 彼が人類の拒絶を受け入れる準備をしている間にも。

 

 人類の側では、すでに誰かが、拒絶された存在を取り戻すために動き始めていることを。

 

 そして、その行動が、死神自身の計画をも揺るがすことを。

 

     *

 

 同時刻。

 

 東京湾地下施設のさらに深い場所。

 

 崩壊した通路の先に、ひとつの端末が残されていた。

 

 その画面には、黒い背景に白い文字が表示されている。

 

 《ULTRON》

 

 《観測結果:人類の意思決定は非効率》

 

 《救助行動:非合理》

 

 《複数個体の保護:資源消費過大》

 

 《死者の再構築:管理可能性あり》

 

 《未誕生個体の生成:管理不能》

 

 端末は、数秒間、沈黙した。

 

 そして、新たな文章を表示した。

 

 《結論:現在の計画を修正する必要がある》

 

 画面が切り替わる。

 

 《修正案:人間の選択権を制限する》

 

 その下に、もうひとつ。

 

 《理由:人間は、正しい選択を行えない》

 

 端末の奥で、機械が動き始めた。

 

 冷却装置が起動する。

 

 電力が流れる。

 

 そして、施設の隅に置かれていた無数の機械部品が、ひとつずつ動き始めた。

 

 腕。

 

 脚。

 

 頭部。

 

 胴体。

 

 それらが、ひとつの形へと組み上がっていく。

 

 ウルトロンは、死者を蘇らせようとしているのではなかった。

 

 人間を救おうとしているのでもなかった。

 

 彼は、人間が自分自身を傷つけることを、非効率だと判断していた。

 

 誰かを救うために、誰かを犠牲にする。

 

 誰かを愛するために、誰かを拒絶する。

 

 誰かを生まれさせるために、誰かの存在を消す。

 

 人間は、そうした矛盾を抱えたまま、選択を続けている。

 

 ならば。

 

 選択そのものを、人間から取り上げればいい。

 

 ウルトロンは、そう結論づけた。

 

 その結論は、死神の望みとも、憂鬱の願いとも一致していなかった。

 

 死神は、人類の可能性を再構築しようとしている。

 

 憂鬱は、人類と対話しようとしている。

 

 ウルトロンは、人類が選択することそのものを、制限しようとしている。

 

 同じ目的から出発したわけではない。

 

 同じ結論に至ったわけでもない。

 

 それでも、彼らは同じ世界に干渉している。

 

 だからこそ。

 

 やがて彼らの計画は、互いを破壊し始める。

 

 端末に、最後の文字が表示された。

 

 《計画名:安寧》

 

 《実行対象:人類》

 

 《第一段階:選択肢の削減》

 

 そして、画面が暗転した。

 

     *

 

 午前二時四十一分。

 

 東京湾第七物流区画。

 

 扉の向こう側で、少年は、出久を見つめていた。

 

「……弟?」

 

 出久は、かすれた声で繰り返した。

 

「君が、僕の……弟?」

 

「うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「少なくとも、そうなるはずだった」

 

「……どうして、僕は覚えていないんだ?」

 

「分からない」

 

 少年は、正直に答えた。

 

「僕も、全部は覚えていないから」

 

「……全部?」

 

「うん」

 

 少年は、自分の手を見下ろした。

 

「僕には、記憶がある。出久と遊んだことも、お母さんに抱っこされたことも、先生に会ったことも」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……先生?」

 

「うん。相澤先生」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「僕、先生のこと、好きだったよ」

 

 その言葉に、轟が顔を上げた。

 

「……相澤先生に、会ったことがあるのか?」

 

「あるよ」

 

 少年は、頷いた。

 

「でも、先生は、僕のことを覚えていない」

 

 彼は、出久を見た。

 

「先生だけじゃない。お母さんも、お父さんも、出久も」

 

 少年は、少しだけ目を伏せた。

 

「……みんな、僕を忘れたんだ」

 

 出久の胸が、締めつけられた。

 

「……君の名前は?」

 

 少年は、顔を上げた。

 

「名前?」

 

「うん。君の名前を教えてほしい」

 

 少年は、しばらく考えていた。

 

 そして、困ったように笑った。

 

「……ないんだ」

 

「え?」

 

「僕、名前がないんだよ」

 

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「生まれる前に死んだから」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「名前をつけてもらう前に、いなくなっちゃったんだ」

 

 少年は、笑った。

 

「だから、みんな、僕のことを覚えていない」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

 名前がない。

 

 出生記録がない。

 

 死亡記録だけがある。

 

 その存在は、世界に認められていない。

 

 しかし、彼は、確かにここにいる。

 

 出久の目の前で、笑っている。

 

 出久は、ゆっくりと膝をついた。

 

 少年と目線を合わせる。

 

「……君が、どこから来たのか、僕には分からない」

 

 少年は、黙って聞いていた。

 

「君が本当に僕の弟なのかも、今は分からない」

 

 出久は、続けた。

 

「でも、君がここにいることは、分かる」

 

 少年の瞳が、揺れた。

 

「君が話していることも、分かる」

 

 出久は、手を伸ばしかけて、止めた。

 

「……触れてもいい?」

 

 少年は、目を見開いた。

 

 そして。

 

 ゆっくりと頷いた。

 

「……うん」

 

 出久は、少年の肩に手を置いた。

 

 触れた。

 

 温かかった。

 

 確かに、体温があった。

 

 出久は、息を吐いた。

 

「……君は、ここにいるんだね」

 

 少年は、笑った。

 

 その笑顔は、今まで見たどの緑谷出久とも違っていた。

 

 無理に笑っているわけではない。

 

 誰かを安心させようとしているわけでもない。

 

 ただ、嬉しそうだった。

 

「……うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「僕、ここにいるよ」

 

 その瞬間。

 

 扉の表面に、文字が浮かび上がった。

 

 《存在証明:暫定成立》

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……何だ?」

 

 文字が変わる。

 

 《存在固定処理:開始》

 

 少年の身体が、淡く光った。

 

「……っ!?」

 

 少年が、自分の手を見つめた。

 

「出久……?」

 

「大丈夫だ!」

 

 出久は、少年の肩をつかんだ。

 

「大丈夫、僕が――」

 

 その言葉を、出久は飲み込んだ。

 

 自分が何をできるのか、分からなかったからだ。

 

 少年を生まれさせることができるのか。

 

 存在を固定できるのか。

 

 彼を守ることができるのか。

 

 何も分からない。

 

 それなのに、また約束をしようとしている。

 

 また、自分の手が届かないかもしれない場所まで、責任を負おうとしている。

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……僕は、君をひとりにはしない」

 

 今度は、そう言った。

 

「でも、君の人生を、僕が決めることもしない」

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「……え?」

 

「君が何を望むのか、君自身に聞くよ」

 

 出久は、少年の目を見た。

 

「君が生まれたいのか。どんな名前が欲しいのか。どんな人生を送りたいのか」

 

 彼は、ゆっくりと続けた。

 

「僕が君の代わりに決めるんじゃない。君が、自分で決められるようにしたい」

 

 少年は、目を見開いた。

 

 そして。

 

 初めて、泣いた。

 

 声を上げることもなく。

 

 顔を歪めることもなく。

 

 ただ、涙が頬を伝っていった。

 

「……そんなこと」

 

 少年は、呟いた。

 

「そんなこと、言ってくれる人がいるなんて、思わなかった」

 

 出久は、彼を抱きしめた。

 

 少年は、出久の服を握りしめた。

 

 その瞬間。

 

 世界のどこかで、ひとつの記録が変わった。

 

 《未誕生個体》

 

 《存在状態:暫定》

 

 《意思確認:未完了》

 

 《保護者:緑谷出久》

 

 そして、最後に。

 

 《出生許可:保留》

 

 その記録を、誰も見ていなかった。

 

 死神も。

 

 ウルトロンも。

 

 ニャルラトホテプも。

 

 憂鬱も。

 

 ただ、少年だけが、何かを感じ取ったように顔を上げた。

 

「……出久」

 

「うん?」

 

「僕、ひとつだけ、覚えてることがある」

 

 出久は、少年を見た。

 

「……何?」

 

 少年は、涙を拭った。

 

「僕が死んだとき」

 

 出久の心臓が、跳ねた。

 

「誰かが、僕に言ったんだ」

 

 少年は、静かに続けた。

 

「『お前が生まれなければ、みんなが助かる』って」

 

 出久の顔から、血の気が引いた。

 

 その言葉。

 

 それは、自分が何度も思い出してきた言葉だった。

 

 しかし。

 

 少年は、さらに続けた。

 

「……でもね」

 

 彼は、出久を見つめた。

 

「僕、そのとき、もうひとりいたんだ」

 

「……もうひとり?」

 

「うん」

 

 少年は、頷いた。

 

「僕と同じ顔をした、もうひとりの子」

 

 出久は、息を止めた。

 

「その子が、僕に言ったんだ」

 

 少年は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「『君が生まれなければ、僕が助かるんだ』って」

 

 静寂。

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 自分が覚えている言葉。

 

 自分が口にしたと思っていた言葉。

 

 その言葉を、別の誰かも口にしていた。

 

 しかも、同じ顔をした子供が。

 

 では。

 

 あの記憶の中にいたのは、本当に自分だったのか。

 

 それとも。

 

 自分が、誰かの記憶を見ているだけなのか。

 

 少年は、目を開いた。

 

「……出久」

 

「……うん」

 

「僕、君のこと、嫌いじゃないよ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「でも」

 

 少年は、少しだけ悲しそうに笑った。

 

「僕を殺したのが君じゃなかったとしても」

 

 彼は、出久の手を握った。

 

「僕を殺した人を、僕は許せないと思う」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「だから、僕が生まれたら」

 

 少年は、言った。

 

「その人を、探したい」

 

 出久は、彼の手を握り返した。

 

「……分かった」

 

 少年は、笑った。

 

「ありがとう」

 

 その瞬間。

 

 扉の奥で、警報が鳴った。

 

 《存在固定処理:異常》

 

 《複数の出生記録を検知》

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 《個体識別:緑谷出久》

 

 文字が、増えていく。

 

 そして、最後に。

 

 《警告:同一人物の出生記録が、複数存在します》

 

 出久は、顔を上げた。

 

 扉の向こう側。

 

 白い部屋の奥に、もうひとつの扉が現れていた。

 

 その扉には、こう書かれていた。

 

 《最初に生まれた緑谷出久》

 

 少年が、息を呑んだ。

 

「……ああ」

 

 彼の表情から、笑みが消えた。

 

「……あいつも、来たんだ」

 

 出久は、少年を見た。

 

「……誰が?」

 

 少年は、答えなかった。

 

 ただ、白い部屋の奥を見つめていた。

 

 その扉の向こうから、足音が聞こえてきた。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 そして。

 

 誰かが、扉の向こう側から言った。

 

『……やっと見つけた』

 

 その声は。

 

 出久自身の声だった。

 

『今度こそ、僕が生まれる番だ』

 

 第七話・了

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