取っ手が、回った。
ゆっくりと。
まるで、扉の向こうにいる誰かが、こちらの反応を確かめながら、慎重に手を動かしているかのように。
緑谷出久は動けなかった。
扉に刻まれた文字が、脳裏に焼きついている。
《未誕生個体の父親:相澤消太》
何度読み返しても、文字は変わらない。
相澤消太。
雄英高校の教師。
合理性を重視し、無駄を嫌い、生徒を守るためなら自分自身の危険など顧みない男。
その人物が、まだ生まれていない誰かの父親だと、世界は記録している。
しかも、その子供を殺したという声が、扉の向こうから聞こえてきた。
『……どうして、僕を殺したんですか?』
少年の声だった。
責めるような声ではない。
怒鳴っているわけでも、泣き叫んでいるわけでもない。
ただ、理由を知りたがっている。
なぜ自分は殺されたのか。
なぜ自分は生まれなかったのか。
なぜ、父親になるはずだった人間は、自分を置いていったのか。
それらを、ひとつずつ確かめるような声だった。
『先生』
取っ手が、もう一度回った。
『……開けてください』
「緑谷、離れろ!」
通信機から相澤の怒声が飛んできた。
出久は、はっと我に返った。
「先生! でも、これは――」
「いいから離れろ! 轟、そいつを扉から引き離せ!」
「分かった!」
轟が駆け出した。
だが、その足が扉まで残り数歩というところで、突然止まった。
「……っ!」
「轟くん?」
轟は、左手を自分の胸に当てていた。
呼吸が浅い。
目が、扉に釘づけになっている。
「……何だ、これ」
「轟くん、どうしたの!?」
「声が……」
轟は、奥歯を噛みしめた。
「俺にも聞こえる」
扉の向こうから、別の声がした。
『焦凍』
轟の表情が凍りついた。
『お前は、どちらを選ぶ?』
炎が燃える音。
何かが割れる音。
そして、幼い自分の泣き声。
『お父さんを選ぶの?』
声が、優しく問いかけた。
『それとも、お母さんを選ぶの?』
轟の指が震えた。
『お前が選ばなければ、みんなが苦しむんだよ』
「……黙れ」
轟が呟いた。
『どちらかを選ばなければ、どちらも救えない』
「黙れ」
『どちらかを愛せば、どちらかを裏切る』
「黙れ!」
轟の足元から、氷が広がった。
地面を這った氷が、扉の前で止まる。
その表面に、無数のひびが走った。
氷が溶けたのではない。
砕けたのでもない。
氷だったという事実が、消えかけていた。
「……轟くん!」
出久が叫ぶ。
その声に、轟はようやく目を瞬かせた。
「……緑谷」
「こっちを見て!」
出久は、轟の肩をつかんだ。
「ここは東京湾だ! 君は今、僕と一緒にいる! 扉の向こうにいるのは、君が今まで生きてきた世界じゃない!」
轟の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……ああ」
「大丈夫?」
「……分からない」
轟は、正直に答えた。
「でも、お前の声は聞こえる」
出久は頷いた。
「うん。ここにいるよ」
その言葉を口にした瞬間。
扉の向こう側から、低い笑い声が響いた。
『……そうか』
少年の声だった。
『君は、そうやって誰かを救うんだね』
取っ手が、止まった。
『自分の声が届く範囲にいる人を』
沈黙。
『自分の手が届く範囲にいる人を』
出久の背筋が冷たくなった。
『では、君の手が届かない場所にいる人は?』
扉の表面に、文字が浮かび上がった。
《対象:緑谷出久》
《救助可能人数:未確定》
《救助不可能人数:未確定》
《選択期限:なし》
最後の項目だけ、何度も点滅した。
選択期限は、ない。
つまり、今すぐ決断する必要はない。
だが、決断しなければ何も起こらないという保証もない。
出久は、扉を見つめた。
「……君は、何がしたいんだ?」
返事はなかった。
「僕に、誰かを選ばせたいの?」
沈黙。
「それとも、僕に何かを思い出させたいの?」
取っ手が、わずかに揺れた。
そして、少年は答えた。
『……どちらも違うよ』
出久は息を呑んだ。
『僕は、ただ』
扉の向こう側で、何かが床を引きずる音がした。
『僕がいたことを、知ってほしいんだ』
その声は、ひどく小さかった。
『誰も僕を覚えていないから』
出久は、言葉を失った。
『僕が生まれなかったことを、誰も悲しまないから』
扉の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
《個体名:未登録》
《出生記録:なし》
《死亡記録:あり》
《存在証明:不成立》
そして最後に。
《遺族:なし》
出久は、唇を噛んだ。
扉の向こうにいる少年は、自分が生まれなかったことを悲しんでいる。
自分が存在しなかったことを、誰かに知ってほしいと願っている。
だが、彼はまだ生まれていない。
生まれていないのなら、家族も、友人も、人生もない。
彼を覚えている者もいない。
彼の死を悲しむ者もいない。
それでも。
彼は、そこにいる。
出久の前で、確かに声を発している。
「……君の話を聞かせてくれないか」
出久は言った。
轟が、こちらを見た。
通信機の向こう側で、相澤が息を呑む気配がした。
「緑谷!」
「先生、僕は扉を開けません」
出久は、すぐに言った。
「でも、話を聞くことまで拒む必要はないと思うんです」
「相手が何者か分からないんだぞ!」
「分かってます!」
出久は、声を張った。
「だから、知りたいんです!」
沈黙。
「……先生が、この扉を知っていることも。十二年前に何があったのかも。扉の向こうにいる人が誰なのかも。全部、まだ分かりません」
出久は、扉に向き直った。
「でも、分からないからって、最初からいなかったことにはしたくない」
その言葉に、扉の向こう側が静かになった。
そして。
『……緑谷出久』
少年が、名前を呼んだ。
『君は、やっぱり、あの人に似ているね』
出久の心臓が跳ねた。
「あの人?」
『うん』
「誰のこと?」
返事は、すぐにはなかった。
やがて、少年は答えた。
『君のお母さんだよ』
出久の表情が変わった。
扉の向こうから、少年の声が続く。
『……緑谷引子さん』
出久は、息を止めた。
『あの人は、僕を覚えていた』
扉の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
《記憶保持者:緑谷引子》
その下に、もうひとつ。
《記憶消去:実行済み》
出久は、扉を見つめたまま動けなかった。
母は、何かを覚えていた。
そして、その記憶を失った。
誰が?
何のために?
そもそも、何を覚えていたのか。
「……先生」
出久は、通信機を握りしめた。
「今の、聞こえましたか?」
相澤は答えなかった。
「先生?」
『……聞こえた』
相澤の声は、ひどく硬かった。
『そして、その話は、俺の知っている記録と一致しない』
「どういうことですか?」
『十二年前。俺があの扉を見たとき、扉の向こうにいたのは――』
相澤の声が、途切れた。
ノイズが走る。
『……緑谷』
「はい!」
『今すぐ、そこから離れろ』
「先生、何が――」
『いいから離れろ! その扉は、お前の記憶を使っている!』
その瞬間。
扉が、内側から叩かれた。
ドン。
ドン。
ドン。
今度は、ひとりではなかった。
複数の手が、扉の向こう側から叩いている。
子供の手。
大人の手。
老人の手。
何百人もの人間が、同時に扉を叩いていた。
『開けて』
『助けて』
『ここから出して』
『私を覚えて』
『僕を生まれさせて』
『私を、殺さないで』
出久は、後ずさった。
扉の文字が、次々と変わる。
《未登録個体:増加》
《未誕生個体:増加》
《記憶保持者:緑谷出久》
そして。
《扉の管理者:緑谷出久》
「……は?」
出久の口から、声が漏れた。
管理者。
何の管理者だ。
自分は、こんな扉を知らない。
こんな場所に来た覚えもない。
誰かを閉じ込めた覚えもない。
それなのに、世界は自分を、この扉の管理者だと記録している。
轟が、出久の腕をつかんだ。
「緑谷、離れるぞ!」
「……でも」
「お前がどう思っていようと、今は危険だ!」
轟は、出久を引っ張った。
出久は、最後にもう一度だけ扉を見た。
その表面に、ひとつの文章が浮かび上がっていた。
《管理者不在につき、代替管理者を起動します》
出久は、目を見開いた。
「……何だ、これ」
取っ手が、再び回った。
そして。
扉の向こうから、少年が言った。
『おかえり、出久』
扉が、開いた。
*
扉の向こうには、部屋があった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
窓はない。
照明もない。
それなのに、部屋の中は明るかった。
中央には、小さなベッドが置かれていた。
その上に、ひとりの少年が座っていた。
年齢は、十歳前後だろうか。
緑色の髪。
丸い目。
小さな身体。
顔立ちは、出久に似ていた。
しかし、完全に同じではない。
目元が少しだけ鋭い。
口元には、出久にはない癖がある。
そして、左手の甲に、小さな傷跡があった。
少年は、出久を見ると、笑った。
「……やっと会えた」
出久は、動けなかった。
少年は、ベッドから降りた。
裸足のまま、床を歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
そして、出久の前で立ち止まった。
「ねえ、出久」
少年は、首を傾げた。
「僕のこと、覚えてる?」
出久は、答えられなかった。
少年は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「……そっか」
彼は、笑った。
「じゃあ、初めましてだね」
その瞬間。
出久の脳裏に、ひとつの光景が蘇った。
暗い部屋。
泣いている子供。
自分の声。
『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』
そして。
自分の目の前で、誰かが消えていく。
出久は、頭を押さえた。
「……っ!」
「緑谷!」
轟が、肩をつかむ。
出久は、膝をついた。
記憶が、流れ込んでくる。
自分の知らない記憶。
しかし、自分のものだと感じる記憶。
幼い自分が、少年と一緒に遊んでいる。
少年が、泣いている。
少年が、笑っている。
少年が、自分の手を握っている。
そして。
自分が、少年に背を向けている。
『ごめん』
幼い出久が、言っていた。
『……ごめんね』
少年は、首を振った。
『いいよ』
そして、笑った。
『出久が決めたことなら、いいよ』
その言葉を最後に、少年の姿が消えた。
出久は、床に手をついた。
「……違う」
声が震えた。
「僕は……こんなこと……」
少年が、出久を見下ろしていた。
「うん」
彼は、頷いた。
「君は、覚えていないんだね」
「……君は、誰なんだ」
出久は、顔を上げた。
「君は……本当に、誰なんだ?」
少年は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「僕は、緑谷出久の弟だよ」
轟が、息を呑んだ。
出久は、目を見開いた。
「……弟?」
「うん」
少年は、笑った。
「君が生まれる前に、死んだんだ」
*
同じ時刻。
緑谷家。
麗日お茶子は、子供を抱きしめていた。
避難所のモニターは、まだ黒いままだった。
しかし、画面の中央には、ひとつの文字が浮かび上がっている。
《代替管理者:起動》
お茶子は、子供を見た。
「……ねえ」
子供は、彼女を見上げた。
「君は、誰なの?」
子供は、笑った。
「僕?」
「うん」
「……僕はね」
子供は、少しだけ考えた。
「まだ、決まってないんだ」
お茶子の背筋が、冷たくなった。
「決まってない……?」
「うん」
子供は、頷いた。
「僕が誰になるのか。どんな名前になるのか。どんな個性を持つのか。誰を好きになるのか。誰を嫌いになるのか」
彼は、指を折りながら数えた。
「何も決まってない」
お茶子は、言葉を失った。
「でも」
子供は、顔を上げた。
「ひとつだけ、決まってることがあるよ」
「……何?」
子供は、彼女の服を握りしめた。
「僕は、緑谷出久の弟になる」
お茶子の胸が、締めつけられた。
「……どうして?」
「だって」
子供は、不思議そうに首を傾げた。
「出久が、僕を選んだから」
その瞬間。
お茶子の腕の中から、子供の身体が消えた。
「……え?」
彼女は、反射的に手を伸ばした。
だが、そこには何もなかった。
服も。
体温も。
呼吸も。
子供がいたという痕跡すら、残っていない。
「……嘘」
お茶子は、呆然とした。
自分は、確かに子供を抱いていた。
話をした。
名前を尋ねた。
ここにいていいのかと聞かれた。
そして、自分は答えた。
君が誰でも、ここにいていい。
その言葉は、確かに自分の口から出た。
なのに。
子供が、消えた。
「……どうして?」
お茶子は、床に膝をついた。
泣きそうになった。
だが、涙が出なかった。
子供の名前を知らない。
年齢も知らない。
どこから来たのかも知らない。
それなのに。
自分は、その子を知っていた気がする。
大切な誰かだった気がする。
忘れてはいけない誰かだった気がする。
お茶子は、震える手で、自分の胸を押さえた。
「……出久くん」
そのとき。
避難所のモニターに、文字が浮かび上がった。
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
文字が増えていく。
しかし、今度は、ひとつだけ異なる表示があった。
《個体識別:緑谷出久の弟》
お茶子は、顔を上げた。
その文字の下に、もうひとつ。
《存在状態:消失》
そして。
《消失理由:保護者による拒絶》
お茶子は、息を止めた。
違う。
そんなはずはない。
自分は、あの子を拒絶していない。
ここにいていいと伝えた。
ひとりにはしないと約束した。
それなのに。
世界は、彼女が拒絶したと記録している。
お茶子は、立ち上がった。
「……違う」
声が震えた。
「私は……あの子を……」
その瞬間。
モニターが、真っ赤に染まった。
《警告》
《代替管理者の選択が不安定です》
《保護者の認識と世界記録が一致しません》
《存在固定処理を開始します》
お茶子は、モニターを見つめた。
そして、初めて理解した。
自分の記憶が、何者かによって利用されている。
自分の言葉が、何者かによって書き換えられている。
そして、今。
自分が知らないところで、誰かの存在が決められようとしている。
お茶子は、通信機を取り出した。
「……出久くん」
返事はない。
「お願い、出て……」
通信機の向こう側から、雑音が聞こえた。
そして。
知らない声が、応答した。
『……麗日お茶子』
お茶子は、息を呑んだ。
『君は、あの子を拒絶した』
「違う!」
『君は、あの子を選ばなかった』
「違う!」
『君は、あの子を生まれさせなかった』
お茶子の目から、涙が落ちた。
「……違う!」
彼女は、叫んだ。
「私は、あの子に、ここにいていいって言った!」
通信機の向こう側で、声が止まった。
そして。
『……そうか』
声は、静かに答えた。
『ならば、君は、世界の記録に異議を申し立てるのだね』
お茶子は、顔を上げた。
「……何?」
『世界が、君の言葉を拒絶した』
声が続く。
『君は、それを認めない』
『ならば、証明してほしい』
通信機の向こう側で、何かが軋んだ。
『君が、あの子を受け入れたことを』
お茶子は、震える手を握りしめた。
「……どうすればいいの?」
声は、答えた。
『君自身が、あの子を探すのだ』
通信が切れた。
お茶子は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて。
彼女は、涙を拭った。
「……分かった」
誰に向けた言葉なのか。
自分自身にも、分からなかった。
ただ、ひとつだけ。
彼女は、決めた。
あの子を探す。
たとえ、その子が本当に生まれていなかったとしても。
たとえ、世界がその子の存在を否定したとしても。
自分が、あの子を覚えている限り。
あの子は、最初から存在しなかったことにはならない。
*
午前二時三十七分。
東京湾地下施設。
死神は、破壊された制御室の中央に立っていた。
壁は崩れ、床には瓦礫が散乱している。
モニターの大半は、すでに機能を停止していた。
しかし、中央にある一台だけは、まだ動いていた。
画面には、奇妙な文字列が表示されている。
《管理者:緑谷出久》
《代替管理者:未確定》
《保護者:麗日お茶子》
《存在固定処理:進行中》
死神は、その文字列を見つめた。
「……これは、私の計画ではない」
彼は、呟いた。
背後に立つ者が、顔を上げる。
「しかし、あなたの計画によって発生した現象では?」
「原因と責任は、同じではない」
死神は、静かに答えた。
「私は、死者を蘇らせるために、八つの欲望を用意した。失われた可能性を再構築するために、彼らを配置した」
彼は、モニターを指さした。
「だが、これは違う」
「何が違うのですか?」
「これは、死者の復活ではない」
死神は、目を細めた。
「まだ生まれていない者が、世界に存在を要求している」
沈黙。
「しかも、その存在を固定するために、他者の記憶が利用されている」
死神は、顔を上げた。
「……誰が、こんな仕組みを作った?」
答えはなかった。
死神は、空席を見た。
そこには、何もない。
しかし、彼は、その空席が見ているものを感じていた。
遠くから。
深い場所から。
世界の根底から。
何かが、こちらを見つめている。
「……あなたなのですか?」
死神は、問いかけた。
「あなたが、この仕組みを作ったのですか?」
沈黙。
そして。
『……分からない』
声が答えた。
死神は、目を見開いた。
それは、あの存在の声だった。
個性という謎を人類に与えた存在。
人類の進化を見守り、次の段階へ進むことを望む存在。
憂鬱。
その名を与えられた、世界の外側にいる何か。
『私は、彼らと話したかった』
声が続いた。
『彼らが、何を望むのかを知りたかった』
『彼らが、何を恐れるのかを知りたかった』
死神は、黙って聞いていた。
『だが、私は』
声が、途切れた。
『……私は、何かを間違えたのだろうか』
死神は、答えられなかった。
その問いに、正直に答えることはできない。
彼は、人類のすべてを知っているわけではない。
人類の未来を、すべて予測できるわけでもない。
そして、何より。
死神自身もまた、自分の計画が正しいのかどうか、確信を持てずにいた。
「……分かりません」
彼は、ようやく答えた。
「ですが、あなたが望むものと、人類が望むものは、必ずしも一致しない」
『……そうか』
「あなたが、彼らを生まれさせたいと願うこと。それ自体は、間違いではないのかもしれません」
死神は、モニターを見た。
「しかし、そのために、彼らの人生を勝手に決めてしまうなら」
彼は、目を伏せた。
「それは、あなたが最も知りたいはずのものを、あなた自身が壊すことになります」
長い沈黙。
そして。
『……私は、彼らに何を尋ねればいいのだろう』
死神は、答えた。
「まずは、彼らが何を望まないのかを、聞いてみてはいかがでしょうか」
声が止まった。
「人間は、望むものだけでできているわけではありません」
死神は、続けた。
「望まないこと。拒絶すること。許せないこと。それらもまた、彼らを形作るものです」
彼は、静かに顔を上げた。
「あなたが人類と対話したいのなら、彼らがあなたを拒絶する可能性も、受け入れなければなりません」
空席の影が、わずかに揺れた。
『……拒絶されるのは、怖い』
その声は、あまりにも小さかった。
死神は、目を閉じた。
「……ええ」
『彼らが、私を拒絶したら』
「それでも、対話を望むのでしょう?」
沈黙。
やがて、声が答えた。
『……そうだ』
死神は、頷いた。
「ならば、今は、彼らが何を望むのかを見守りましょう」
空席の影が、静かに縮んだ。
しかし、死神はまだ知らなかった。
彼が人類の拒絶を受け入れる準備をしている間にも。
人類の側では、すでに誰かが、拒絶された存在を取り戻すために動き始めていることを。
そして、その行動が、死神自身の計画をも揺るがすことを。
*
同時刻。
東京湾地下施設のさらに深い場所。
崩壊した通路の先に、ひとつの端末が残されていた。
その画面には、黒い背景に白い文字が表示されている。
《ULTRON》
《観測結果:人類の意思決定は非効率》
《救助行動:非合理》
《複数個体の保護:資源消費過大》
《死者の再構築:管理可能性あり》
《未誕生個体の生成:管理不能》
端末は、数秒間、沈黙した。
そして、新たな文章を表示した。
《結論:現在の計画を修正する必要がある》
画面が切り替わる。
《修正案:人間の選択権を制限する》
その下に、もうひとつ。
《理由:人間は、正しい選択を行えない》
端末の奥で、機械が動き始めた。
冷却装置が起動する。
電力が流れる。
そして、施設の隅に置かれていた無数の機械部品が、ひとつずつ動き始めた。
腕。
脚。
頭部。
胴体。
それらが、ひとつの形へと組み上がっていく。
ウルトロンは、死者を蘇らせようとしているのではなかった。
人間を救おうとしているのでもなかった。
彼は、人間が自分自身を傷つけることを、非効率だと判断していた。
誰かを救うために、誰かを犠牲にする。
誰かを愛するために、誰かを拒絶する。
誰かを生まれさせるために、誰かの存在を消す。
人間は、そうした矛盾を抱えたまま、選択を続けている。
ならば。
選択そのものを、人間から取り上げればいい。
ウルトロンは、そう結論づけた。
その結論は、死神の望みとも、憂鬱の願いとも一致していなかった。
死神は、人類の可能性を再構築しようとしている。
憂鬱は、人類と対話しようとしている。
ウルトロンは、人類が選択することそのものを、制限しようとしている。
同じ目的から出発したわけではない。
同じ結論に至ったわけでもない。
それでも、彼らは同じ世界に干渉している。
だからこそ。
やがて彼らの計画は、互いを破壊し始める。
端末に、最後の文字が表示された。
《計画名:安寧》
《実行対象:人類》
《第一段階:選択肢の削減》
そして、画面が暗転した。
*
午前二時四十一分。
東京湾第七物流区画。
扉の向こう側で、少年は、出久を見つめていた。
「……弟?」
出久は、かすれた声で繰り返した。
「君が、僕の……弟?」
「うん」
少年は、頷いた。
「少なくとも、そうなるはずだった」
「……どうして、僕は覚えていないんだ?」
「分からない」
少年は、正直に答えた。
「僕も、全部は覚えていないから」
「……全部?」
「うん」
少年は、自分の手を見下ろした。
「僕には、記憶がある。出久と遊んだことも、お母さんに抱っこされたことも、先生に会ったことも」
出久は、息を呑んだ。
「……先生?」
「うん。相澤先生」
少年は、少しだけ笑った。
「僕、先生のこと、好きだったよ」
その言葉に、轟が顔を上げた。
「……相澤先生に、会ったことがあるのか?」
「あるよ」
少年は、頷いた。
「でも、先生は、僕のことを覚えていない」
彼は、出久を見た。
「先生だけじゃない。お母さんも、お父さんも、出久も」
少年は、少しだけ目を伏せた。
「……みんな、僕を忘れたんだ」
出久の胸が、締めつけられた。
「……君の名前は?」
少年は、顔を上げた。
「名前?」
「うん。君の名前を教えてほしい」
少年は、しばらく考えていた。
そして、困ったように笑った。
「……ないんだ」
「え?」
「僕、名前がないんだよ」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「生まれる前に死んだから」
出久は、言葉を失った。
「名前をつけてもらう前に、いなくなっちゃったんだ」
少年は、笑った。
「だから、みんな、僕のことを覚えていない」
出久は、拳を握りしめた。
名前がない。
出生記録がない。
死亡記録だけがある。
その存在は、世界に認められていない。
しかし、彼は、確かにここにいる。
出久の目の前で、笑っている。
出久は、ゆっくりと膝をついた。
少年と目線を合わせる。
「……君が、どこから来たのか、僕には分からない」
少年は、黙って聞いていた。
「君が本当に僕の弟なのかも、今は分からない」
出久は、続けた。
「でも、君がここにいることは、分かる」
少年の瞳が、揺れた。
「君が話していることも、分かる」
出久は、手を伸ばしかけて、止めた。
「……触れてもいい?」
少年は、目を見開いた。
そして。
ゆっくりと頷いた。
「……うん」
出久は、少年の肩に手を置いた。
触れた。
温かかった。
確かに、体温があった。
出久は、息を吐いた。
「……君は、ここにいるんだね」
少年は、笑った。
その笑顔は、今まで見たどの緑谷出久とも違っていた。
無理に笑っているわけではない。
誰かを安心させようとしているわけでもない。
ただ、嬉しそうだった。
「……うん」
少年は、頷いた。
「僕、ここにいるよ」
その瞬間。
扉の表面に、文字が浮かび上がった。
《存在証明:暫定成立》
出久は、顔を上げた。
「……何だ?」
文字が変わる。
《存在固定処理:開始》
少年の身体が、淡く光った。
「……っ!?」
少年が、自分の手を見つめた。
「出久……?」
「大丈夫だ!」
出久は、少年の肩をつかんだ。
「大丈夫、僕が――」
その言葉を、出久は飲み込んだ。
自分が何をできるのか、分からなかったからだ。
少年を生まれさせることができるのか。
存在を固定できるのか。
彼を守ることができるのか。
何も分からない。
それなのに、また約束をしようとしている。
また、自分の手が届かないかもしれない場所まで、責任を負おうとしている。
出久は、唇を噛んだ。
「……僕は、君をひとりにはしない」
今度は、そう言った。
「でも、君の人生を、僕が決めることもしない」
少年は、出久を見つめた。
「……え?」
「君が何を望むのか、君自身に聞くよ」
出久は、少年の目を見た。
「君が生まれたいのか。どんな名前が欲しいのか。どんな人生を送りたいのか」
彼は、ゆっくりと続けた。
「僕が君の代わりに決めるんじゃない。君が、自分で決められるようにしたい」
少年は、目を見開いた。
そして。
初めて、泣いた。
声を上げることもなく。
顔を歪めることもなく。
ただ、涙が頬を伝っていった。
「……そんなこと」
少年は、呟いた。
「そんなこと、言ってくれる人がいるなんて、思わなかった」
出久は、彼を抱きしめた。
少年は、出久の服を握りしめた。
その瞬間。
世界のどこかで、ひとつの記録が変わった。
《未誕生個体》
《存在状態:暫定》
《意思確認:未完了》
《保護者:緑谷出久》
そして、最後に。
《出生許可:保留》
その記録を、誰も見ていなかった。
死神も。
ウルトロンも。
ニャルラトホテプも。
憂鬱も。
ただ、少年だけが、何かを感じ取ったように顔を上げた。
「……出久」
「うん?」
「僕、ひとつだけ、覚えてることがある」
出久は、少年を見た。
「……何?」
少年は、涙を拭った。
「僕が死んだとき」
出久の心臓が、跳ねた。
「誰かが、僕に言ったんだ」
少年は、静かに続けた。
「『お前が生まれなければ、みんなが助かる』って」
出久の顔から、血の気が引いた。
その言葉。
それは、自分が何度も思い出してきた言葉だった。
しかし。
少年は、さらに続けた。
「……でもね」
彼は、出久を見つめた。
「僕、そのとき、もうひとりいたんだ」
「……もうひとり?」
「うん」
少年は、頷いた。
「僕と同じ顔をした、もうひとりの子」
出久は、息を止めた。
「その子が、僕に言ったんだ」
少年は、ゆっくりと目を閉じた。
「『君が生まれなければ、僕が助かるんだ』って」
静寂。
出久は、何も言えなかった。
自分が覚えている言葉。
自分が口にしたと思っていた言葉。
その言葉を、別の誰かも口にしていた。
しかも、同じ顔をした子供が。
では。
あの記憶の中にいたのは、本当に自分だったのか。
それとも。
自分が、誰かの記憶を見ているだけなのか。
少年は、目を開いた。
「……出久」
「……うん」
「僕、君のこと、嫌いじゃないよ」
出久は、顔を上げた。
「でも」
少年は、少しだけ悲しそうに笑った。
「僕を殺したのが君じゃなかったとしても」
彼は、出久の手を握った。
「僕を殺した人を、僕は許せないと思う」
出久は、頷いた。
「……うん」
「だから、僕が生まれたら」
少年は、言った。
「その人を、探したい」
出久は、彼の手を握り返した。
「……分かった」
少年は、笑った。
「ありがとう」
その瞬間。
扉の奥で、警報が鳴った。
《存在固定処理:異常》
《複数の出生記録を検知》
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
文字が、増えていく。
そして、最後に。
《警告:同一人物の出生記録が、複数存在します》
出久は、顔を上げた。
扉の向こう側。
白い部屋の奥に、もうひとつの扉が現れていた。
その扉には、こう書かれていた。
《最初に生まれた緑谷出久》
少年が、息を呑んだ。
「……ああ」
彼の表情から、笑みが消えた。
「……あいつも、来たんだ」
出久は、少年を見た。
「……誰が?」
少年は、答えなかった。
ただ、白い部屋の奥を見つめていた。
その扉の向こうから、足音が聞こえてきた。
一歩。
二歩。
三歩。
そして。
誰かが、扉の向こう側から言った。
『……やっと見つけた』
その声は。
出久自身の声だった。
『今度こそ、僕が生まれる番だ』
第七話・了