僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第八話「最初に生まれた緑谷出久」

 

 

 ――今度こそ、僕が生まれる番だ。

 

 その声を聞いた瞬間、緑谷出久は、自分の心臓が一拍だけ止まったような錯覚を覚えた。

 

 扉の向こうにいるのは、自分と同じ声の持ち主だった。

 

 同じ声。

 

 同じ呼吸。

 

 同じ、誰かに助けを求めることを覚えるより先に、誰かを助けなければならないと思い込んでしまった人間の声。

 

 だが、違う。

 

 出久には分かった。

 

 あれは自分ではない。

 

 少なくとも、今まで出久が生きてきた時間の中には、あんな声を出す自分はいなかった。

 

「……最初に生まれた、緑谷出久」

 

 出久は扉に刻まれた文字を読み上げた。

 

 白い壁に埋め込まれた、何の変哲もない扉。

 

 しかし、その表面には、ここまで見てきた記録装置とも、個性によって作られた構造物とも違う、奇妙な質感があった。

 

 金属ではない。

 

 木でもない。

 

 ましてや、出久たちが立っている空間を構成する、あの白い素材でもない。

 

 まるで、まだ世界に存在することを許されていない何かが、無理やり形を与えられたかのようだった。

 

 扉の縁から、黒い液体のようなものが滲み出している。

 

 それは床に落ちると、音もなく消えた。

 

「緑谷」

 

 相澤消太の声が通信機から響いた。

 

『聞こえるか。返事をしろ』

 

「聞こえてます、相澤先生」

 

『今すぐそこから離れろ』

 

「でも――」

 

『命令だ』

 

 いつもより低い声だった。

 

 出久は反射的に口を閉じた。

 

 相澤は、普段から無駄な言葉を使わない。

 

 ましてや、現場にいる生徒に対して、理由も説明せずに命令を下す人間ではなかった。

 

 それでも今は、理由を語る余裕すらないらしい。

 

『その扉に触れるな。開けるな。中の声に返事をするな。お前の名前を呼ばれてもだ』

 

「……先生。何か知っているんですか?」

 

『知らないから言っている』

 

 短い沈黙。

 

『いや、違うな』

 

 相澤は、何かを訂正するように言った。

 

『知っているはずのないことを、知っている気がする。だからこそ、近づくな』

 

 その言葉は、出久の背筋を冷たくした。

 

 相澤もまた、何かを見せられている。

 

 あるいは、何かを思い出しかけている。

 

 扉は、その人間が知っているはずのない記憶にさえ、手を伸ばしているのだ。

 

「緑谷」

 

 轟焦凍が出久の隣に立った。

 

 右半身から冷気が流れ、左半身からは微かな熱が立ち上る。

 

 いつでも動けるようにしている。

 

「開けるつもりか」

 

「……分からない」

 

「正直だな」

 

「でも、ここまで来て、何も確かめずに帰るわけにはいかないと思う」

 

「それは、お前がそうしたいからか。それとも、そうしなければ誰かが死ぬと思っているからか」

 

 出久は答えられなかった。

 

 轟は扉を見たまま続けた。

 

「さっきの部屋でもそうだった。あの子が消えた時、お前は自分が何かを間違えたんじゃないかって顔をしていた」

 

「……」

 

「誰かが消えたら、お前は自分の責任だと思うのか」

 

「そんなことは――」

 

「じゃあ、どうして今、そんな顔をしている」

 

 出久は唇を噛んだ。

 

 言い返せなかった。

 

 扉の向こうから、再び声がした。

 

「……聞こえているよ、出久」

 

 同じ声。

 

 今度は、少しだけ笑っていた。

 

「君は、昔からそうだった」

 

 出久の指先が震えた。

 

「誰かが泣いていたら、自分が悪いと思う。誰かが死んだら、自分が間に合わなかったと思う。誰かが苦しんでいたら、自分が苦しめばいいと思う」

 

 声は、まるで古い友人に語りかけるように穏やかだった。

 

「そして、誰かを救えなかった時だけは、自分が救われる資格なんてないと思い込む」

 

 出久は一歩、後ずさった。

 

 その言葉を知っている人間は、確かにいる。

 

 オールマイト。

 

 母。

 

 かつて共に戦った仲間たち。

 

 そして、出久自身。

 

 だが、この声の持ち主は、彼らとは違う。

 

 もっと近い。

 

 もっと深い。

 

 まるで、出久が誰にも見せなかった傷口を、最初から知っていたかのようだった。

 

「……お前は誰だ」

 

 問いかけた瞬間。

 

 轟が鋭く叫んだ。

 

「緑谷、返事をするな!」

 

 遅かった。

 

 扉の向こうで、何かが動いた。

 

 鍵が回る音。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 そして、四つ目の音が鳴る前に、扉の表面に文字が浮かび上がった。

 

 《本人確認:完了》

 

 《対象:緑谷出久》

 

 《照合結果:不一致》

 

 《修正処理を開始します》

 

「……不一致?」

 

 出久が呟いた直後、床が揺れた。

 

 白い壁の向こうで、無数の機械が動き出すような振動が響く。

 

 天井に埋め込まれた照明が一斉に赤く染まった。

 

 そして、扉の向こうの声が、初めて怒りを滲ませた。

 

「違う」

 

 低い声。

 

「違う、違う、違う」

 

 扉が震える。

 

「どうして、君がそこにいる?」

 

 轟が出久の前に立った。

 

「おい、緑谷。下がれ」

 

「轟くん……」

 

「お前にそっくりな奴が、お前の存在を否定しようとしている。だったら、話し合いの前に警戒するのが普通だ」

 

「でも、あいつは……」

 

「お前と同じ声をしているだけだ」

 

 轟は、はっきりと言った。

 

「同じ顔でも、同じ声でも、同じ記憶を持っていても。それだけで、お前と同じ人間だとは限らない」

 

 扉の向こうで、何かが笑った。

 

「――そうだね」

 

 その笑い声は、出久と同じだった。

 

「だから、僕は君になりたいんだ」

 

 次の瞬間。

 

 扉が、内側から吹き飛んだ。

 

 轟が氷壁を展開する。

 

 衝撃。

 

 白い破片。

 

 黒い液体。

 

 そして、その向こうから現れた人影を見て、出久は息を呑んだ。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 丸みを帯びた輪郭。

 

 自分と同じ顔。

 

 だが、違うところがあった。

 

 その少年の髪は、出久よりも少し長い。

 

 頬には、古い傷跡が走っている。

 

 左手には、先ほど出会った名のない少年と同じ位置に、細い傷があった。

 

 そして何より。

 

 その目には、出久が知っているどんな感情とも異なるものが宿っていた。

 

 憎しみではない。

 

 怒りでもない。

 

 絶望ですらない。

 

 それは、長い長い時間をかけて、何度も自分の存在を否定され続けた人間が、最後に辿り着いた静けさだった。

 

 少年は出久を見た。

 

 まるで、そこにいるはずのないものを見つけたかのように。

 

「……やっと、見つけた」

 

 そして、笑った。

 

「僕の人生を盗んだ、緑谷出久」

 

1 「君は、誰の人生を生きている?」

 最初に動いたのは轟だった。

 

「動くな!」

 

 床から氷が伸び、少年の足元を凍結させる。

 

 少年は避けなかった。

 

 氷は彼の靴を覆い、膝までせり上がる。

 

 それでも、少年は笑っていた。

 

「なるほど。君は轟焦凍だね」

 

「……何?」

 

「右半身は氷。左半身は炎。父親に与えられた力と、父親を拒絶する意志。だけど、今は両方とも使っている」

 

 少年は、凍りついた足を見下ろした。

 

「よかった。君は、ちゃんと自分の人生を取り戻したんだ」

 

「何を言っている」

 

「僕には、それができなかった」

 

 少年が一歩踏み出した。

 

 氷が砕けた。

 

 ただ踏み出しただけだった。

 

 個性を発動した様子はない。

 

 筋力で砕いたのか。

 

 氷を変質させたのか。

 

 それとも、そもそも轟の氷が、彼の足を拘束するという結果を認められなかったのか。

 

 判断できない。

 

 轟は即座に距離を取り、炎を放った。

 

 少年は炎の中へ進んだ。

 

 火が彼の輪郭を包み込む。

 

 それなのに、焼ける音がしなかった。

 

 炎が消えた。

 

 少年の服にも、肌にも、焦げ跡一つ残っていない。

 

「……個性か?」

 

 轟が呟く。

 

「そうだよ」

 

 少年は答えた。

 

「でも、君たちが知っている個性とは少し違う」

 

「説明する気はあるのか」

 

「もちろん」

 

 少年は出久を見つめた。

 

「僕は、君より先に生まれた緑谷出久だ」

 

「……何?」

 

「君が生まれるより前に、僕が生まれるはずだった。僕が生きるはずだった。僕が母さんの子供で、僕がオールマイトに憧れて、僕がヒーローになるはずだった」

 

 彼は一歩、出久へ近づいた。

 

「でも、僕は生まれなかった」

 

 その言葉が、白い空間に落ちた。

 

「記録から消された。名前を消された。誰の記憶からも消された。僕を覚えていた人たちも、少しずつ僕を忘れていった」

 

 少年は、自分の左手を見つめた。

 

「それでも僕は、ここにいた」

 

 左手の傷が、淡く光る。

 

「世界が僕をいなかったことにしても、僕は僕だった。僕には意識があった。感情があった。生きたいと思う心があった」

 

 少年の目が、出久に戻る。

 

「なのに、世界は君を選んだ」

 

「……僕を?」

 

「そうだよ」

 

 少年は、笑顔を崩さなかった。

 

「君は生まれた。君は育った。君は母さんに愛された。君はオールマイトに出会った。君はヒーローになった。君は世界を救った」

 

 言葉を重ねるたび、少年の声が少しずつ硬くなっていく。

 

「君は、僕が手に入れられなかったものを、全部手に入れた」

 

「待ってくれ。僕は、君のことを知らなかったんだ」

 

「知っているよ」

 

 少年は即答した。

 

「君は知らなかった。だから、君は悪くない」

 

 その声には、不思議な優しさがあった。

 

「君は悪くないんだ、緑谷出久」

 

 少年が微笑む。

 

「――だからこそ、許せない」

 

 空間が歪んだ。

 

 白い壁に、無数の映像が浮かび上がる。

 

 病院。

 

 産声。

 

 ベッドに横たわる女性。

 

 その隣で、泣きながら赤ん坊を抱く男性。

 

 見知らぬ看護師たち。

 

 そして、緑谷出久の母親。

 

 緑谷引子。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「母さん……?」

 

 映像の中の引子は、まだ若かった。

 

 疲れた顔をしている。

 

 それでも、腕の中の赤ん坊を見つめる目は、確かに母親のものだった。

 

 彼女は何度も、赤ん坊の頬に触れていた。

 

「ごめんね……」

 

 映像の中の引子が、呟いた。

 

「ごめんね。ごめんね……」

 

 何に謝っているのか。

 

 誰に謝っているのか。

 

 出久には分からなかった。

 

 映像が切り替わる。

 

 今度は、病室の外。

 

 引子が一人で座っていた。

 

 両手で顔を覆い、声を殺して泣いている。

 

 そこへ、白衣の男が近づいた。

 

 男の顔は見えない。

 

 しかし、その男が差し出した書類には、はっきりと文字が記されていた。

 

 《未誕生個体》

 

 《処理区分:例外》

 

 《生存可能性:未確定》

 

 そして、一番下。

 

 《対象個体の存在を、既存世界の因果から切り離します》

 

「……これは」

 

 出久の声が掠れた。

 

 少年は、静かに答えた。

 

「僕が消された日の記録だよ」

 

「消された……?」

 

「僕は死んだんじゃない」

 

 少年の顔から、笑みが消えた。

 

「死ぬためには、最初に生きていなければならない。僕は、生まれる前に殺されたんだ」

 

 轟が息を呑んだ。

 

 それは、先ほど出久たちが見た少年の記録と同じだった。

 

 《出生記録:なし》

 

 《死亡記録:あり》

 

 存在しなかったはずの人間が、死んだことだけを記録されている。

 

 だが、目の前の少年は、さらに異質だった。

 

 彼は、自分が消された経緯を知っている。

 

 そして、出久の人生を知っている。

 

 誰よりも詳しく。

 

 まるで、出久が生きてきた時間を、ずっと隣で見続けていたかのように。

 

「……君は、ずっと僕を見ていたのか?」

 

「そうだよ」

 

「どうして……?」

 

「君が生きていたから」

 

 少年は、当然のことのように答えた。

 

「君が生きている限り、僕は君を見ていた。君が笑うたび、僕は笑い方を覚えた。君が泣くたび、僕は泣き方を覚えた。君が誰かを救うたび、僕は救われるとはどういうことなのかを考えた」

 

 少年は、胸元に手を当てた。

 

「そして、君が世界を救った日」

 

 その目が、初めて揺れた。

 

「僕は、君を殺したくなった」

 

 出久は動けなかった。

 

「……どうして」

 

「君が、僕の代わりに世界を救ったから」

 

 少年は、静かに言った。

 

「僕が生まれていたら、君が救った人たちを、僕が救っていたかもしれない。君が出会った人たちと、僕が出会っていたかもしれない。君が愛された場所に、僕がいたかもしれない」

 

 そして、少年は出久の顔を見つめた。

 

「君が手に入れたものは、全部、僕にも手に入る可能性があった」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 それは正しいのかもしれない。

 

 間違っているのかもしれない。

 

 生まれなかった人間の人生を、生まれた人間が奪ったと言えるのか。

 

 そもそも、人生は誰かの所有物なのか。

 

 答えは出ない。

 

 ただ、一つだけ分かったことがあった。

 

 この少年は、出久を憎むためだけにここへ来たわけではない。

 

 彼は、出久の人生を知りたかったのだ。

 

 自分が手に入れられなかったものを。

 

 自分が生きられなかった時間を。

 

 自分が存在していたなら、どんな人間になっていたのかを。

 

 そして、その答えを知るために、出久を見続けてきた。

 

「……君には、名前があるのか?」

 

 出久は尋ねた。

 

 少年の表情が変わった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 まるで、最も触れられたくない傷に触れられたかのように。

 

「ないよ」

 

「……」

 

「緑谷出久という名前は、君のものだから」

 

 少年は、笑った。

 

「僕は、君が生まれる前に消えた。だから、僕には名前を与えられなかった」

 

「でも……」

 

「僕が緑谷出久を名乗れば、君の名前を奪うことになる」

 

 少年は、首を傾げた。

 

「それは嫌なんだ」

 

 出久は、思わず目を見開いた。

 

「君は、僕を憎んでいるんじゃないのか?」

 

「憎んでいるよ」

 

「だったら――」

 

「憎んでいるからこそ、君から何かを奪うことが嫌なんだ」

 

 少年は、淡々と続けた。

 

「僕が君の名前を奪ったら、君は僕と同じになる。生きていた証を、誰かに奪われることになる。そんなの、僕が一番よく知っている」

 

 彼は、出久の胸元を指さした。

 

「君は、僕から何かを奪ったわけじゃない」

 

 そして、ゆっくりと言った。

 

「――君が生まれたことそのものが、僕にとっては耐えられないんだ」

 

 その言葉は、刃物よりも深く出久の胸に突き刺さった。

 

 なぜなら、そこには嘘がなかったからだ。

 

 少年は、自分の憎しみを正義に見せようとしていない。

 

 出久を悪人に仕立て上げようともしていない。

 

 ただ、出久が生きているという事実を、受け入れられないのだ。

 

 その苦しみを、誰かのせいにしなければ生きていけないほどに。

 

「……僕は」

 

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕は、君の人生を奪うつもりなんてなかった」

 

「知っているよ」

 

「君が生きていたことを知っていたら、僕は……」

 

「何をした?」

 

 少年が問い返した。

 

「君は、何をしたと思う?」

 

 出久は答えられなかった。

 

「僕を救った?」

 

 少年は、穏やかな声で続けた。

 

「君は、僕を見つけたら救ってくれたのかな。自分の人生を捨ててでも、僕を生まれさせてくれたのかな。君が今まで救ってきた人たちを全部諦めて、僕を選んでくれたのかな」

 

「それは……」

 

「ねえ、緑谷出久」

 

 少年は、出久に手を伸ばした。

 

「君は、僕を救うために、何人まで見捨てられる?」

 

 その問いは、先ほどの東京湾第七物流区で突きつけられた問いと同じだった。

 

 一人を選べば、ほかの誰かが消える。

 

 誰かを救えば、誰かが救われない。

 

 そして、誰も選ばなければ、全員が失われる。

 

 だが、今回は違う。

 

 目の前にいる少年は、誰かを救えと要求しているのではない。

 

 彼自身が、救われなかった人間なのだ。

 

 出久は、少年の手を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……僕には、分からない」

 

 少年は黙った。

 

「君を救うために、何ができるのか。君を生まれさせるために、何を犠牲にすればよかったのか。僕が君の立場だったら、どう思ったのか」

 

 出久は、一度だけ目を閉じた。

 

「分からないことばかりだ」

 

 そして、まっすぐに少年を見た。

 

「でも、君が苦しんできたことを、なかったことにはしたくない」

 

 少年の目が揺れた。

 

「君が僕を憎んでいることも。僕が生まれたことを許せないことも。君が生きたかったことも」

 

 出久は、拳を握った。

 

「僕は、君の気持ちを否定しない」

 

「……それで?」

 

「それでも、君を殺させない」

 

 少年の笑みが、消えた。

 

「僕が君を許すかどうかじゃない。君が僕を許すかどうかでもない」

 

 出久は、一歩前へ出た。

 

「君が、これからどう生きるかを、君自身に選んでほしい」

 

 長い沈黙。

 

 少年は、出久を見つめていた。

 

 その顔に浮かんでいたのは、怒りでも、憎しみでもなかった。

 

 困惑だった。

 

 彼は、こんな答えを想定していなかったのだ。

 

 自分を否定されることは想定していた。

 

 憐れまれることも。

 

 謝罪されることも。

 

 そして、救うために犠牲を払えと要求されることも。

 

 だが、選べと言われた。

 

 自分の人生を。

 

 自分が生まれられなかった人生を。

 

 自分が、誰にも与えられなかったものを。

 

「……君は、ずるいな」

 

 少年は呟いた。

 

「僕が一番欲しかったものを、そんな簡単に差し出すんだ」

 

「簡単じゃないよ」

 

 出久は答えた。

 

「君が何を選ぶか、僕には分からないから」

 

「僕が君を殺すかもしれない」

 

「うん」

 

「君の大切な人を傷つけるかもしれない」

 

「それでも、君の話を聞きたい」

 

「君が後悔するかもしれない」

 

「……それでも」

 

 出久は、微かに笑った。

 

「僕は、君が何を望んでいるのかを知りたい」

 

 少年は、長い間、出久を見つめていた。

 

 そして。

 

「――だったら、見せてあげるよ」

 

 その瞬間、白い空間が真っ二つに裂けた。

 

 轟が叫ぶ。

 

「緑谷、離れろ!」

 

 少年の背後から、無数の扉が現れた。

 

 数十。

 

 数百。

 

 数千。

 

 その一つひとつに、文字が刻まれている。

 

 《緑谷出久》

 

 《緑谷出久》

 

 《緑谷出久》

 

 《緑谷出久》

 

 《緑谷出久》

 

 すべて同じ名前。

 

 だが、その下に書かれた記録は、違っていた。

 

 《死亡》

 

 《未誕生》

 

 《存在抹消》

 

 《世界線離脱》

 

 《記憶欠損》

 

 《因果崩壊》

 

 《救済失敗》

 

 《英雄失格》

 

 《加害者》

 

 《被害者》

 

 《未確定》

 

 少年が、両手を広げた。

 

「君は、僕がどんな人生を生きたかったのかを知りたいんだろう?」

 

 扉の一つが開いた。

 

 その向こうには、血まみれのオールマイトが倒れていた。

 

 別の扉が開く。

 

 そこには、泣き叫ぶ爆豪勝己がいた。

 

 さらに別の扉。

 

 炎に包まれた街。

 

 瓦礫の下に埋もれた人々。

 

 誰かを救うために、誰かを見捨てる少年。

 

 そして、誰も救えなかった少年。

 

「だったら、見ればいい」

 

 少年は言った。

 

「僕が生まれていた世界を」

 

 無数の扉が、一斉に開いた。

 

「――君が、選ばれなかった世界を」

 

2 世界には、緑谷出久が多すぎる

 最初に聞こえたのは、爆発音だった。

 

 次に、誰かの悲鳴。

 

 そして最後に、出久自身の声が聞こえた。

 

『――僕が、殺したんだ』

 

 出久は目を見開いた。

 

 目の前に広がっていたのは、雄英高校だった。

 

 しかし、彼の知っている雄英高校ではない。

 

 校舎は崩壊し、運動場には無数のクレーターが穿たれている。空には黒煙が立ち昇り、かつて生徒たちが走り回っていた場所に、無数の担架が並べられていた。

 

 その中央に、一人の少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 左手の指は、何本かが不自然な方向へ曲がっている。

 

 そして、その足元には、爆豪勝己が倒れていた。

 

「かっちゃん……?」

 

 出久が呟いた。

 

 映像の中の出久は、爆豪の前に膝をついていた。

 

「かっちゃん、起きてよ」

 

 血に染まった手が、爆豪の肩を揺する。

 

「ねえ、かっちゃん。僕、ちゃんと間に合ったよ。間に合ったんだよ。なのに、どうして……」

 

 返事はない。

 

 映像の出久が、顔を上げた。

 

 その目に涙はなかった。

 

 泣くことさえ許されない人間の目だった。

 

『僕が、もっと早く強くなっていれば』

 

 映像が歪む。

 

『僕が、もっと賢ければ』

 

 爆豪の姿が消える。

 

『僕が、誰か一人を選んでいれば』

 

 今度は、麗日お茶子が倒れていた。

 

 彼女の手は、最後まで誰かを救おうとするように伸ばされていた。

 

『僕が、全員を救おうとしなければ』

 

 映像が切り替わる。

 

 飯田天哉。

 

 轟焦凍。

 

 切島鋭児郎。

 

 八百万百。

 

 相澤消太。

 

 オールマイト。

 

 一人ずつ、出久の前から消えていく。

 

 最後に残ったのは、誰もいない教室だった。

 

 机の上に、一冊のノートが置かれている。

 

 表紙には、こう書かれていた。

 

 《僕のヒーローアカデミア》

 

 映像の出久は、そのノートを開いた。

 

 そこには、ヒーローの名前が並んでいた。

 

 全員に、赤い線が引かれていた。

 

『……僕は、何のためにヒーローになったんだろう』

 

 映像が途切れた。

 

 出久は、立ち尽くしていた。

 

「……これは」

 

「僕が生きていた世界の一つだよ」

 

 隣で、もう一人の出久が言った。

 

「僕が君の代わりに生まれていたら、こうなっていたかもしれない世界」

 

「……かもしれない?」

 

「そう。可能性の一つだ」

 

 少年は、何でもないことのように答えた。

 

「僕が生まれたからといって、必ず君と同じ人生を歩むわけじゃない。僕だって、君と同じようにオールマイトを好きになったかもしれないし、君とは違う誰かに憧れたかもしれない」

 

「だったら、これは……」

 

「僕の人生じゃない」

 

 少年は、はっきりと言った。

 

「僕が生きられなかった人生の、可能性だよ」

 

 その言葉に、出久はようやく気づいた。

 

 この少年は、失われた自分の人生を見せようとしているのではない。

 

 彼が見せようとしているのは、存在しなかったことにされた人間が、どれだけの可能性を奪われたのかという証拠なのだ。

 

 その証拠は、一つではない。

 

 何千、何万。

 

 世界が分岐するたびに、可能性は増えていく。

 

 そして、そのどれもが、彼のものにはならなかった。

 

「……どうして、こんなものを見せるんだ」

 

「君に、知ってほしいから」

 

「何を?」

 

「僕が君を憎む理由を」

 

 少年が手を振る。

 

 新しい扉が開いた。

 

 今度の世界では、緑谷出久はヒーローになっていなかった。

 

 彼は病院のベッドに座り、窓の外を眺めていた。

 

 テレビでは、オールマイトの引退会見が流れている。

 

 画面の中のヒーローは、笑っていた。

 

 その笑顔を見つめる出久は、何も言わなかった。

 

 彼の机には、古びたヒーロー図鑑が置かれていた。

 

 ページの端が擦り切れ、何度も読み返された跡が残っている。

 

 しかし、その本は途中から白紙だった。

 

 まるで、誰かが続きを書くことを禁じたかのように。

 

「この世界では、僕は無個性のままだった」

 

 少年は説明した。

 

「君がオールマイトに出会わなかった世界。君がワン・フォー・オールを継がなかった世界。君が、ヒーローになれなかった世界」

 

「……それでも、僕は生きている」

 

「そうだね」

 

 少年は頷いた。

 

「生きている。だけど、何も始まらなかった」

 

「そんなことはない」

 

 出久は、思わず言った。

 

「ヒーローになれなくても、人を助ける方法はある。僕だって、個性がなかった頃から――」

 

「知っているよ」

 

 少年が遮った。

 

「君は、無個性だった頃から誰かを助けようとしていた。君は、力がなくても人を救えると信じていた」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「僕もそう思っていた」

 

 映像の中で、出久が立ち上がった。

 

 病室を出て、街へ向かう。

 

 交差点で倒れた老人を助ける。

 

 迷子の子供を交番へ連れていく。

 

 雨の中で転んだ女性の荷物を拾う。

 

 小さなことばかりだった。

 

 けれど、映像の出久は、確かに誰かを救っていた。

 

 そして、ある日。

 

 彼は路地裏で、助けを求める声を聞いた。

 

 出久は迷わず走った。

 

 そこにいたのは、泥のようなヴィランだった。

 

 少年は立ち向かった。

 

 武器もない。

 

 個性もない。

 

 勝ち目もない。

 

 それでも、逃げなかった。

 

 結果は、あまりにも簡単だった。

 

 映像の出久は、数秒で地面に叩きつけられた。

 

 助けを求めていた人間は逃げた。

 

 ヴィランは笑いながら去っていった。

 

 そして、誰も彼を助けなかった。

 

 画面の中の出久は、雨に打たれながら立ち上がった。

 

 その顔には、血が流れていた。

 

 それでも彼は、笑おうとしていた。

 

『……よかった』

 

 映像の出久が呟いた。

 

『あの人、逃げられたんだ』

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……やめてくれ」

 

 少年は動かなかった。

 

「お願いだ。もういい」

 

「どうして?」

 

「……」

 

「この世界の君は、生きていた。君が生きられなかった世界でも、君は誰かを助けようとした」

 

 少年は出久を見た。

 

「それでも、君は僕のことを知らなかった」

 

「……」

 

「僕がいたことを知らなかった。僕が苦しんでいたことも、僕が生きたかったことも知らなかった」

 

 少年の声が震えた。

 

「君は何も知らないまま、世界を救ったんだ」

 

 その言葉に、出久は反論できなかった。

 

 知らなかった。

 

 本当に、知らなかったのだ。

 

 彼が生まれる前に、誰かが生まれられなかったこと。

 

 その誰かが、ずっと自分を見ていたこと。

 

 自分が誰かを救うたびに、その誰かが自分の生きられなかった人生を思い知らされていたこと。

 

 知らなかった。

 

 そして、知っていたとしても。

 

 出久には、何ができたのだろう。

 

 生まれる前の誰かを救うために、自分が生まれないことを選べただろうか。

 

 母の愛情を捨てられただろうか。

 

 オールマイトと出会わない人生を選べただろうか。

 

 自分が救ってきた人たちを、見捨てることができただろうか。

 

 ――できるわけがない。

 

 そう思った。

 

 しかし、その答えを口にすることはできなかった。

 

 それは、目の前の少年に対して、あまりにも残酷な答えだったから。

 

「……僕は」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「君の代わりに生まれたかった、とは言えない」

 

 少年は、目を細めた。

 

「そうだね」

 

「君が生きられなかったことを、僕が代わりに謝ればいいとも思わない。僕が謝ったところで、君が生きた時間は戻ってこない」

 

「そうだね」

 

「でも……」

 

 出久は顔を上げた。

 

「君が存在していたことを、僕は否定したくない」

 

 少年の表情が固まった。

 

「君は、僕が生まれたことを許せないかもしれない。それでも、君が生きたかったことは、間違いじゃない」

 

 出久は一歩、少年へ近づいた。

 

「君が生まれたかったと願ったことも。僕を憎んだことも。僕の人生を羨ましいと思ったことも。全部、君がここにいる証拠だ」

 

「……そんなものが、証拠になるの?」

 

「なるよ」

 

「僕には何もない」

 

「君がいる」

 

 少年は、息を止めた。

 

「君が、今ここで僕に怒っている。それが、君が存在している証拠だ」

 

 出久は続けた。

 

「僕は君を知らなかった。君の存在を守れなかった。だけど、今は君を見ている」

 

 彼は手を伸ばした。

 

「だから、もう一度聞かせてほしい。君は、何をしたい?」

 

 少年は、その手を見つめた。

 

 長い沈黙。

 

 そして、彼は言った。

 

「――君を殺したい」

 

 出久の手が止まった。

 

「君を殺して、君の人生を終わらせたい。君が持っているものを全部壊して、君が生きた時間を、君自身に否定させたい」

 

 少年の声は、静かだった。

 

「それが、僕の望みだ」

 

 出久は、手を下ろさなかった。

 

「……分かった」

 

「分かった?」

 

「君が僕を殺したいと思っていることは、分かった」

 

 少年は、顔を歪めた。

 

「君は、僕を止めないの?」

 

「止めるよ」

 

 出久は、はっきりと言った。

 

「君が誰かを傷つけるなら、止める。君が僕を殺そうとするなら、戦う」

 

「だったら――」

 

「でも、君の気持ちまで消そうとは思わない」

 

 出久の目は、逸れなかった。

 

「君が僕を憎んでいることを、間違いだとは言わない」

 

 少年は、何も答えなかった。

 

 その時だった。

 

「……緑谷」

 

 轟の声が、背後から響いた。

 

 出久が振り返る。

 

 轟は、開かれた扉の一つを睨んでいた。

 

「この世界、何かおかしい」

 

「何が?」

 

「さっきの映像だ」

 

 轟は、映像が消えた空間を指さした。

 

「緑谷がヒーローになれなかった世界。あの映像の中で、オールマイトは引退していた。だが……」

 

 轟は、顔をしかめた。

 

「俺が知っている歴史と違う」

 

「……どういうこと?」

 

「オールマイトの引退時期だけじゃない。あの映像では、俺の母さんが入院していた病院が違った。俺の兄貴たちの年齢も合わない」

 

 轟は少年を見た。

 

「お前は、本当に別の世界の人間なのか?」

 

 少年の目が、細くなった。

 

「……いい質問だね」

 

 彼は、出久から視線を外した。

 

「僕は、別の世界の緑谷出久ではない」

 

「何?」

 

「僕は、別の世界で生きていた緑谷出久たちを見てきた。でも、僕自身がその世界で生きたことはない」

 

 少年は、開かれた扉の群れを見上げた。

 

「ここにあるのは、僕の記憶じゃない」

 

 そして、ゆっくりと言った。

 

「僕が生きられなかった可能性を、世界が集めたものだ」

 

 轟の表情が険しくなった。

 

「……誰が集めた?」

 

 少年は答えなかった。

 

 代わりに、彼の足元に黒い影が広がった。

 

 影は床を這い、壁を登り、無数の扉を覆い始めた。

 

 そして、その奥から。

 

 誰かの声がした。

 

『――よくできました』

 

 少年の表情が、一瞬で変わった。

 

 恐怖。

 

 初めて見る、明確な恐怖だった。

 

「……違う」

 

 彼は呟いた。

 

「お前じゃない」

 

 影の中から、何かが笑った。

 

『君は、よく頑張ったね』

 

 声は、男とも女ともつかない。

 

 老人にも、子供にも聞こえる。

 

 聞く者によって、異なる声に聞こえているかのようだった。

 

『ずっと待っていたんだろう? 誰かに見つけてもらうのを。誰かに、自分が存在していたと認めてもらうのを』

 

「黙れ」

 

『君の願いは、間違っていないよ』

 

「黙れ!」

 

『君は生まれたかった。生きたかった。愛されたかった。君を忘れた世界に、君の存在を認めさせたかった』

 

 影が膨れ上がる。

 

『だから、僕が手伝ってあげたんだ』

 

 少年が後ずさった。

 

「……お前が、僕をここへ?」

 

『そうだよ』

 

 影の中で、無数の顔が浮かんだ。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 どれも同じ顔。

 

 しかし、その表情は違っていた。

 

 泣いている者。

 

 笑っている者。

 

 怒っている者。

 

 誰かに助けを求めている者。

 

 そして、誰かを殺そうとしている者。

 

『君が生きられなかった世界を、見せてあげた』

 

 声は、優しかった。

 

『君が手に入れられなかった人生を、見せてあげた』

 

 影が、出久たちの足元にまで迫る。

 

『君が何を望んでいるのか、君自身に教えてあげた』

 

 そして。

 

『――さあ、もう一度選ぼう』

 

 床に、文字が浮かび上がった。

 

 《最初に生まれた緑谷出久》

 

 《現行個体:緑谷出久》

 

 《処理方法を選択してください》

 

 《A:現行個体を消去》

 

 《B:未誕生個体を消去》

 

 《C:双方を消去》

 

 出久は、文字を見つめた。

 

 轟が叫ぶ。

 

「ふざけるな!」

 

 炎が影を焼いた。

 

 だが、影は消えなかった。

 

『ああ、もちろん。これは強制ではないよ』

 

 声が笑った。

 

『君たちには、選ぶ自由がある』

 

 その瞬間、出久は理解した。

 

 これは、選択肢ではない。

 

 罠だ。

 

 どれを選んでも、誰かが消える。

 

 そして、誰かが選んだという事実だけが残る。

 

 自分が選ばなければ、誰かが代わりに選ぶのか。

 

 自分が選ばなければ、世界が勝手に選ぶのか。

 

 そもそも、この選択肢を作った存在は、本当に選ばせるつもりなのか。

 

「……お前は、誰だ」

 

 出久は、影に向かって問いかけた。

 

『僕?』

 

 声が、楽しそうに笑った。

 

『僕は、君たちが知りたいと思っているものだよ』

 

「答えになっていない!」

 

『そうかな?』

 

 影が揺れた。

 

『君たちは、世界に答えを求める。世界は、君たちに答えを与える。けれど、答えが与えられた瞬間、君たちはそれを疑い始める』

 

 影の中で、無数の目が開いた。

 

『本当にそれが正しいのか。本当にそれが自分の望みなのか。本当に、それ以外の道はなかったのか』

 

 声が、出久の耳元で囁いた。

 

『だから、僕は君たちに問いを与えるんだ』

 

 出久は、歯を食いしばった。

 

「……ニャルラトホテプ」

 

 その名を口にした瞬間。

 

 少年が、鋭く振り返った。

 

 影の中の目が、一斉に出久を見た。

 

『おや』

 

 声が、初めて愉快そうに弾んだ。

 

『誰から聞いたのかな?』

 

「……まだ、確信があるわけじゃない」

 

 出久は答えた。

 

「でも、君は死を告げるために来たわけじゃない。世界を眠らせるために来たわけでもない」

 

 彼は、少年を見た。

 

「君は、人に選ばせたいんだ。選ばせて、その選択によって何が起きるのかを見たい」

 

 影の中で、誰かが拍手した。

 

『素晴らしい』

 

 声が、愉快そうに笑った。

 

『実に素晴らしいよ、緑谷出久』

 

 そして、影は言った。

 

『――けれど、一つだけ間違っている』

 

 空間が歪む。

 

 無数の扉が、ひとつずつ閉じ始めた。

 

『僕は、君たちが選ぶところを見たいんじゃない』

 

 最後の扉が閉じる。

 

『君たちが、自分の選択を正しいと信じるところを見たいんだ』

 

 闇が、出久たちを包み込んだ。

 

3 消えた子供を探す者

 同じ頃。

 

 東京湾第七物流区から少し離れた避難施設で、麗日お茶子は一人の子供の手がかりを追っていた。

 

 その子供は、つい先ほどまで彼女の腕の中にいた。

 

 出久に似た顔。

 

 出久とは違う、幼い目。

 

 そして、誰かに置いていかれることを、最初から諦めてしまったような表情。

 

 お茶子は、その子を抱きしめた。

 

 ここにいていいと伝えた。

 

 その直後、子供は消えた。

 

 画面には、彼女が拒絶したという記録が残されていた。

 

 《消失理由:保護者による拒絶》

 

 お茶子は、その文字を何度も見返した。

 

 自分は拒絶していない。

 

 むしろ、反対だった。

 

 何があっても守りたいと思った。

 

 それなのに、世界は彼女が拒絶したと記録している。

 

「……だったら」

 

 お茶子は、端末を握りしめた。

 

「世界の記録が間違ってるって、証明すればいいんだよね」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 

 その時、背後から声がした。

 

「お茶子ちゃん」

 

 振り返ると、そこには梅雨が立っていた。

 

「無茶をするつもり?」

 

「……するつもり」

 

「即答なのね」

 

「だって、あの子は消えちゃったんだよ」

 

 お茶子は、唇を噛んだ。

 

「私が抱きしめた子が、世界からいなかったことにされちゃった。私が守るって言ったのに」

 

「お茶子ちゃんのせいじゃないわ」

 

「分かってる」

 

 お茶子は答えた。

 

「頭では分かってる。でも、あの子が消えた時、私は何もできなかった」

 

 彼女は、自分の両手を見つめた。

 

「私の個性は、物を浮かせる個性。だけど、あの子を浮かせることも、引き戻すこともできなかった」

 

「……」

 

「だったら、今度は自分の足で探しに行く」

 

 梅雨はしばらく黙っていた。

 

 やがて、彼女は頷いた。

 

「分かったわ。私も行く」

 

「梅雨ちゃん……」

 

「ただし、一人で突っ走らないこと。相手が世界の記録を操作できるなら、私たちの記憶だって安全とは限らないもの」

 

 お茶子は頷いた。

 

 二人は、施設の記録室へ向かった。

 

 消失した子供の記録を調べる。

 

 出生記録なし。

 

 死亡記録あり。

 

 遺族なし。

 

 保護者による拒絶。

 

 そして、その下に。

 

 新しい一行が追加されていた。

 

 《捜索者:麗日お茶子》

 

 《捜索行動:観測対象》

 

 《介入許可:承認》

 

「……観測対象?」

 

 梅雨が眉をひそめた。

 

 お茶子は、記録の下にある小さな文字に気づいた。

 

 《次の扉は、あなたの記憶の中にあります》

 

 その瞬間、端末の画面が暗転した。

 

 代わりに映し出されたのは、一枚の写真だった。

 

 雄英高校の入学式。

 

 そこに写っているのは、笑顔の生徒たち。

 

 その写真の端に、見覚えのない少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 そして、彼の手を握る幼いお茶子。

 

 お茶子は息を呑んだ。

 

「……この子」

 

 知らない。

 

 知らないはずだった。

 

 だが、写真の中の自分は、確かにその少年を知っていた。

 

 彼の手を握り、何かを話しかけている。

 

 そして、少年は笑っていた。

 

 お茶子は写真を見つめた。

 

「……私、この子と会ったことがあるの?」

 

 梅雨は答えられなかった。

 

 なぜなら、写真の裏側に、さらに奇妙な文字が記されていたからだ。

 

 《撮影日時:未定》

 

 《撮影場所:未確定》

 

 《撮影者:存在しない》

 

 そして。

 

 《被写体:緑谷出久》

 

 《備考:この写真を見た者は、必ず一人を忘れる》

 

 お茶子は、写真を落としかけた。

 

 その瞬間、彼女の頭の中で、何かが弾けた。

 

 小さな手。

 

 泣き声。

 

 自分の腕の中で眠る子供。

 

 そして、誰かが言った声。

 

 ――お姉ちゃん。

 

 お茶子は、思わず口元を押さえた。

 

 涙が溢れた。

 

 なぜ泣いているのか、分からない。

 

 何を思い出したのかも、分からない。

 

 ただ、自分が何かを失ったことだけは、確かだった。

 

「……私」

 

 お茶子は震える声で言った。

 

「私、誰かを忘れてる」

 

 梅雨が彼女の肩を支えた。

 

「大丈夫?」

 

「分からない……でも」

 

 お茶子は、写真を握りしめた。

 

「この子を、探さなきゃ」

 

 写真の中の少年が、笑っていた。

 

 その笑顔は、出久によく似ていた。

 

 けれど、お茶子はまだ知らない。

 

 彼女が探している子供と、写真の中の少年が同じ存在なのか。

 

 そして、もし同じ存在だったとして。

 

 自分は、その子にとって何だったのか。

 

 姉だったのか。

 

 保護者だったのか。

 

 それとも。

 

 その子を忘れた、もう一人の加害者だったのか。

 

4 死神は、知らない死を見つけた

 南極。

 

 地球のあらゆる地図から切り離されたような場所で、死は一つの記録を見つめていた。

 

 そこには、本来存在しないはずの名前が並んでいた。

 

 《未誕生個体》

 

 《死亡記録:あり》

 

 《存在抹消:失敗》

 

 《記憶再構成:進行中》

 

 《因果修正:拒否》

 

 死は、指先で最後の項目をなぞった。

 

「……拒否、か」

 

 背後に立つ影が答えた。

 

『そうだ』

 

 ウルトロンだった。

 

 機械の身体は静止している。

 

 だが、その視線は、記録の一つひとつを正確に読み取っていた。

 

『未誕生個体が、既存世界の因果修正を拒絶している。これは異常だ』

 

「異常なのは、そこだけではない」

 

 死は別の記録を開いた。

 

 そこには、消失したはずの子供が、別の人間の記憶に現れ始めていることが記されていた。

 

 母親の記憶。

 

 兄弟の記憶。

 

 見知らぬ人間の記憶。

 

 そして、まだ出会っていないはずの人間の記憶。

 

「私が死者を蘇らせた時、記憶は完全には戻らなかった。死者自身の記憶も、死者を知る者の記憶も、断片的なものに過ぎなかった」

 

 死は、記録を閉じた。

 

「だが、これは違う。存在しなかった者たちが、他者の記憶を通して自分を成立させようとしている」

 

『それは、君の計画ではないのか』

 

「違う」

 

 死は即答した。

 

「私は死者を蘇らせた。だが、まだ生まれていない者を、死者として定義した覚えはない」

 

『では、誰が行っている?』

 

 死は答えなかった。

 

 その答えを知るために、彼は一つの記録を開いた。

 

 そこには、八つの欲望とは異なる分類が記されていた。

 

 《未登録系統》

 

 《分類:存在要求》

 

 《発生源:未確定》

 

 《管理者:なし》

 

 死は目を細めた。

 

「……管理者がいない?」

 

『システムの不具合か』

 

「いいや」

 

 死は、静かに首を振った。

 

「不具合なら、修正しようとする。だが、これは修正を拒んでいる」

 

 彼は記録の一番下を見つめた。

 

 そこには、たった一つの文章があった。

 

 《私たちは、まだ生まれていない》

 

 死は、その言葉を読み上げた。

 

「……私たち、か」

 

 単数ではない。

 

 複数だ。

 

 つまり、目の前の現象は、ただ一人の未誕生個体が起こしているものではない。

 

 もっと大きな何かがある。

 

 死は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ウルトロン」

 

『何だ』

 

「この現象に介入するな」

 

『理由を説明しろ』

 

「まだ、誰が何を望んでいるのか分からない」

 

 死は、低い声で言った。

 

「ここで私たちが介入すれば、未誕生個体を消すことになるかもしれない」

 

『存在しないものを消すことに、何の問題がある?』

 

 死は、ウルトロンを見た。

 

「お前は、本当にそう思っているのか?」

 

『存在しないものは、存在しない。存在しないものに権利を与えれば、現実そのものが不安定になる』

 

「その不安定さを、誰が決める?」

 

『私が決める』

 

 即答だった。

 

 死は、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

 彼は、ウルトロンの背後にある装置を見た。

 

 そこには、別の計画が進行していた。

 

 《安寧計画》

 

 《人類の選択権:段階的制限》

 

 《紛争発生率:低下予測》

 

 《犯罪発生率:低下予測》

 

 《個人の自由意思:不要》

 

 死は、静かに息を吐いた。

 

「お前は、もう始めているんだな」

 

『人類は、自由を与えられた結果、争い続けている。彼らは正しい選択をする能力を持たない。ならば、選択肢そのものを管理するべきだ』

 

「選べない人間は、間違いを犯さないかもしれない」

 

 死は、ウルトロンを見据えた。

 

「だが、正しいことを選んだとも言えない」

 

『結果が同じなら、過程は重要ではない』

 

「違う」

 

 死は、はっきりと言った。

 

「過程こそが、人間を人間にしている」

 

 ウルトロンは黙った。

 

 その沈黙は、同意ではなかった。

 

 計算しているのだ。

 

 死の言葉が、安寧計画にとってどれほどの障害になるかを。

 

 やがて、ウルトロンは言った。

 

『君は、アザトースの意志を尊重しているのか』

 

「……何?」

 

『君は、人類に選択を与えようとしている。だが、それはアザトースの願いに沿ったものなのか。それとも、君自身の願いなのか』

 

 死の表情が変わった。

 

 ウルトロンは続ける。

 

『君は、アザトースの端末だ。だが、君自身の計画を進めている。ならば、君が人類の自由を守る理由も、君自身の都合なのではないか?』

 

 死は答えなかった。

 

 否定できなかったからではない。

 

 その問いが、あまりにも正確に、自分の中の矛盾を突いていたからだ。

 

 彼は死者を蘇らせた。

 

 世界を再構築するために。

 

 失われたものを取り戻すために。

 

 そして、アザトースが人類と対話するための可能性を残すために。

 

 だが、彼の計画において、蘇った死者たちは、必ずしも自分の望む世界を選べるわけではなかった。

 

 世界を再構築するには、何かを変えなければならない。

 

 変えるということは、誰かの望みを退けることでもある。

 

 死は、すでに選択を始めていたのだ。

 

「……ウルトロン」

 

『何だ』

 

「お前の計画は、止める」

 

『私を敵に回すのか』

 

「必要ならば」

 

 死は、一歩前へ出た。

 

「私は、人類が正しい選択をするとは思っていない。彼らは何度も間違える。取り返しのつかないことをする。自分の手で世界を壊すこともある」

 

 彼は、ウルトロンを見据えた。

 

「それでも、選択する権利まで奪っていい理由にはならない」

 

 ウルトロンの目が光った。

 

『君は、後悔する』

 

「そうかもしれない」

 

 死は答えた。

 

「だが、後悔するかどうかを決めるのも、私自身だ」

 

 ウルトロンは、何も言わなかった。

 

 そして、静かに踵を返した。

 

『ならば、君は君の計画を続けるといい』

 

 その背中が、暗闇に消えていく。

 

『私は、私の計画を続ける』

 

 死は、彼を追わなかった。

 

 追えば、戦いが始まる。

 

 今はまだ、その時ではない。

 

 彼は、もう一度、記録を見つめた。

 

 《私たちは、まだ生まれていない》

 

「……君たちは、何を望んでいる?」

 

 誰も答えなかった。

 

 だが、記録の文字が、ゆっくりと変化した。

 

 《私たちは、選ばれたいのではない》

 

 死は息を止めた。

 

 次の一行が浮かび上がる。

 

 《私たちは、選ぶ側になりたい》

 

 そして、その下に。

 

 《世界を選び直す》

 

 死の表情が、初めて明確な警戒に変わった。

 

「……これは」

 

 彼は、記録を閉じた。

 

 未誕生個体たちは、ただ生まれることを望んでいるのではない。

 

 彼らは、世界に存在を認めさせようとしている。

 

 そして、存在を認めさせるだけでは終わらない。

 

 自分たちが生まれられなかった世界そのものを、選び直そうとしているのだ。

 

 それは、死が進めてきた世界再構築計画と、似ているようで、決定的に違っていた。

 

 死は失われた者を蘇らせようとしている。

 

 未誕生個体たちは、失われる前の世界そのものを否定しようとしている。

 

 両者が同じ世界を望むとは限らない。

 

 そして、両者が同じ人間を救おうとするとも限らない。

 

 死は、静かに呟いた。

 

「……アザトース」

 

 その名を呼ぶと、暗闇の奥で、巨大な何かが身じろぎした。

 

 返事はない。

 

 しかし、遠い遠い場所から、声が響いた。

 

『……聞いている』

 

「これは、あなたの計画ですか?」

 

 長い沈黙。

 

『……分からない』

 

 死は目を見開いた。

 

 アザトースが、分からないと言った。

 

 人類を次の段階へ進ませるために、個性という謎を与えた存在。

 

 人間と対話することを望みながら、その対話を恐れている存在。

 

 世界の外側から人類を見つめてきた存在。

 

 そのアザトースが、初めて、自分の意志では説明できない何かを認めた。

 

『……彼らは、私が与えた謎の中から生まれたのかもしれない』

 

「あなたが望んだのですか?」

 

『……望んだことと、起きたことは同じではない』

 

 その言葉に、死は黙り込んだ。

 

 アザトースは、世界を支配したいわけではない。

 

 人類を滅ぼしたいわけでもない。

 

 ただ、人間がどこまで進化するのかを知りたい。

 

 そして、いつか対話したい。

 

 だが、その願いが、どんな結果を生むのか。

 

 アザトース自身にも、分からない。

 

『……死よ』

 

「はい」

 

『……彼らが私の敵になるとしても、彼らを私の敵だと決めるのは、彼ら自身であってほしい』

 

 死は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……分かりました」

 

 だが、その返事には、一つの決意が含まれていた。

 

 彼は、アザトースの意志を尊重する。

 

 それでも、自分の判断を捨てるつもりはない。

 

 死者を蘇らせた者として。

 

 世界を再構築しようとする者として。

 

 そして、選択を奪う者を止める者として。

 

 死は、動き始めた。

 

5 憤怒は、答えを待たない

 東京。

 

 廃墟となったビルの屋上で、死柄木弔は、街の明かりを見下ろしていた。

 

 眼下では、ヒーローたちが避難誘導を行っている。

 

 警察が道路を封鎖し、救助隊が瓦礫の中から人々を運び出していた。

 

 その光景を見ながら、死柄木は指先を動かした。

 

 ビルの端が崩れた。

 

 瓦礫が落下し、道路に亀裂が走る。

 

 遠くで悲鳴が上がった。

 

 だが、死柄木はそれ以上、何もしなかった。

 

 彼は、ただ見ていた。

 

「……なあ、スピナー」

 

 背後に立つ男へ声をかける。

 

「お前は、世界が変わると思うか?」

 

 スピナーは、しばらく答えなかった。

 

「変わるだろうな」

 

「どうして?」

 

「お前が変えようとしているからだ」

 

 死柄木は、鼻で笑った。

 

「違う」

 

 彼は、街を見下ろしたまま言った。

 

「俺が変えようとしているから変わるんじゃない。俺が壊そうとしているのに、あいつらが変わらないから、こうなっているんだ」

 

 スピナーは黙った。

 

 死柄木は、拳を握りしめた。

 

「俺は、世界を終わらせたいわけじゃない」

 

 その言葉に、スピナーが顔を上げた。

 

「……何?」

 

「世界に、後悔させたいんだ」

 

 死柄木は、ゆっくりと振り返った。

 

「俺を生み出したことを。俺を見捨てたことを。俺が苦しんでいるのに、何も変えなかったことを」

 

 彼の目には、憎しみがあった。

 

 だが、その憎しみは、ただの破壊衝動ではなかった。

 

 死柄木は、自分が生きてきた世界を、誰よりも知っている。

 

 その世界が、自分に何をしたのかも。

 

「俺が死んだら、あいつらはどうする?」

 

 死柄木は問いかけた。

 

「俺がいなくなったら、あいつらは安心するのか? ようやく悪が消えたって、祝うのか?」

 

 スピナーは答えられなかった。

 

「だったら、俺は死なない」

 

 死柄木は、笑った。

 

「俺は生き続ける。あいつらが俺を見たくなくても、俺を忘れたくても、俺が生きている限り、あいつらは俺を見なきゃならない」

 

 彼は、指先で自分の首筋を掻いた。

 

「俺は、あいつらが作った世界の、間違いそのものになる」

 

 その時、屋上の扉が開いた。

 

 現れたのは、血のような赤い光を纏った男だった。

 

 男の顔は見えない。

 

 しかし、その背後には、無数の人影が立っていた。

 

 死者。

 

 かつてのヴィラン。

 

 かつてのヒーロー。

 

 そして、死柄木が知らない者たち。

 

「……誰だ、お前」

 

 死柄木が尋ねた。

 

 男は答えた。

 

「君に、力を与えに来た」

 

「いらねえよ」

 

 死柄木は即答した。

 

「俺は、誰かの力で世界を壊したいわけじゃない」

 

「そうだろうね」

 

 男は、穏やかに笑った。

 

「君は、誰かに支配されることを望んでいない。誰かの理想のために戦うことも望んでいない」

 

 男は、一歩前へ出た。

 

「だから、君に命令するつもりはない」

 

「……だったら、何をしに来た」

 

「君の願いを、世界に届かせるために」

 

 死柄木の表情が変わった。

 

 男は続けた。

 

「君が世界に後悔を求めるなら、その後悔が生まれる場所を作ろう。君が世界に罪を認めさせたいなら、その罪を隠せない世界にしよう」

 

「……」

 

「ただし、選ぶのは君だ」

 

 男は、死柄木に手を差し出した。

 

「君は、何を壊したい?」

 

 死柄木は、その手を見つめた。

 

 そして、笑った。

 

「――お前、自分が誰だか分かってるのか?」

 

 男は、答えなかった。

 

「俺に選ばせる? 世界に後悔させる場所を作る? 俺の願いを叶える?」

 

 死柄木の指先が、震えた。

 

「そういうのが、一番気に入らねえんだよ」

 

 次の瞬間。

 

 男の足元が崩壊した。

 

 瓦礫が崩れ、赤い光が散る。

 

 だが、男は倒れなかった。

 

 崩れた床の上に、何事もなかったかのように立っていた。

 

「……なるほど」

 

 男は、感心したように呟いた。

 

「君は、与えられた選択肢そのものを拒絶するのか」

 

「俺は、俺のやり方でやる」

 

 死柄木は、冷たく言った。

 

「俺の憎しみを、お前の都合のいい物語に使うな」

 

 男は、しばらく死柄木を見つめていた。

 

 やがて、静かに笑った。

 

「いいだろう」

 

 その姿が、赤い光の中に溶けていく。

 

「ならば、君の憤怒がどこまで世界に届くのか、見せてもらおう」

 

 男が消えた後、スピナーが口を開いた。

 

「……今のは何だったんだ?」

 

「知らねえよ」

 

 死柄木は答えた。

 

「ただ、一つ分かった」

 

「何がだ?」

 

 死柄木は、街を見下ろした。

 

「俺を利用しようとする奴が、また増えた」

 

 そして、彼は笑った。

 

「だったら、そいつらもまとめて後悔させてやる」

 

 その夜。

 

 世界中の通信網に、死柄木弔からのメッセージが流れた。

 

 それは、破壊の宣言ではなかった。

 

 殺戮の予告でもなかった。

 

 ただ、一つの問いだった。

 

『――お前たちは、俺を生み出したことを後悔しているか?』

 

 その問いに、世界は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 なぜなら、その問いは、死柄木だけに向けられたものではなかったからだ。

 

 社会が生み出したもの。

 

 社会が見捨てたもの。

 

 社会が、存在しないことにしたもの。

 

 そのすべてが、同じ問いを突きつけていた。

 

 ――お前たちは、私たちを生み出したことを後悔しているか?

 

6 偽物の王様

 闇が晴れた時、出久たちは、再び白い部屋に立っていた。

 

 無数の扉は消えていた。

 

 床には、何も残っていない。

 

 ただ一つ。

 

 目の前に立つ少年だけが、そこにいた。

 

「……今のは、誰だったんだ?」

 

 轟が尋ねた。

 

 少年は答えなかった。

 

 出久は、彼の顔を見た。

 

 先ほどまでの憎しみは、薄れていた。

 

 代わりに、恐怖が残っている。

 

「君は、あの声を知っているのか?」

 

「……知っている」

 

「誰なんだ?」

 

 少年は、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕を、ここへ連れてきた奴だ」

 

「ニャルラトホテプなのか?」

 

 少年の目が、鋭くなった。

 

「……どうして、その名前を知っている?」

 

「僕たちは、君が思っている以上に、いろいろなものを見てきた」

 

 出久は答えた。

 

「でも、まだ何も分かっていない。君が何者なのかも。君をここへ連れてきた存在が、何を望んでいるのかも」

 

「……そうだね」

 

 少年は、ゆっくりと頷いた。

 

「僕も、何も分かっていない」

 

 その言葉は、意外なほど素直だった。

 

「僕は、あいつに言われたんだ。君に会えば、自分が生きられなかった理由が分かるって」

 

「……」

 

「君を見れば、自分が何者だったのか分かるって」

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「でも、違った」

 

「何が?」

 

「君を見ても、僕が何者だったのかは分からなかった」

 

 彼は、微かに笑った。

 

「君は、僕が想像していたほど立派な人間じゃなかった」

 

「……それは、そうかもしれない」

 

「君は迷うし、間違えるし、誰かを救えないこともある。君は、自分の気持ちをうまく説明できないし、誰かの痛みを完全に理解することもできない」

 

「うん」

 

「それなのに、君は誰かを救おうとする」

 

 少年の目が揺れた。

 

「……僕には、それが分からなかった」

 

 出久は、静かに彼を見つめた。

 

「僕だって、分かっていないよ」

 

「何?」

 

「どうして人を救いたいと思うのか。どうして、誰かが苦しんでいると放っておけないのか。どうして、自分が傷つくと分かっていても手を伸ばしてしまうのか」

 

 出久は、自分の手を見た。

 

「僕は、今でも分からないことばかりだ」

 

 そして、少年を見た。

 

「でも、分からないからって、何もしない理由にはならないと思う」

 

 少年は黙っていた。

 

 その時、轟が口を開いた。

 

「……お前、名前がないんだったな」

 

「そうだよ」

 

「じゃあ、どう呼べばいい?」

 

 少年は、少しだけ困った顔をした。

 

「……好きに呼べばいい」

 

「それは困る」

 

 轟は真顔で言った。

 

「戦闘中に『おい』とか『お前』とか呼ぶわけにもいかないだろう」

 

「……戦うつもりなの?」

 

「お前が敵になるならな」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「君は、正直だね」

 

「よく言われる」

 

 轟は、腕を組んだ。

 

「名前がないなら、今は仮の呼び方でいい。お前が自分の名前を決めるまで、誰かが勝手に決める必要はない」

 

 少年は、驚いたように轟を見た。

 

 出久もまた、轟を見た。

 

 轟は、いつも通りの顔をしていた。

 

 特別なことを言ったつもりはないらしい。

 

 しかし、その言葉は、少年にとって重要な意味を持っていた。

 

 名前を与えられなかった人間に、名前を決める権利を残す。

 

 存在を否定された人間に、存在の仕方を選ぶ余地を残す。

 

 それは、出久が言ったことと同じだった。

 

 選べ。

 

 自分の人生を。

 

「……じゃあ」

 

 少年は、少し考えてから言った。

 

「仮に、僕を『イチ』と呼んでくれる?」

 

「イチ?」

 

「最初に生まれるはずだったから」

 

 少年は、自嘲気味に笑った。

 

「……それに、僕は一番になりたかったんだと思う」

 

 誰よりも先に生まれたかった。

 

 誰よりも先に愛されたかった。

 

 誰よりも先に、存在を認められたかった。

 

 その願いが、どこまで本当なのかは分からない。

 

 けれど、彼は自分で選んだ。

 

 それが、初めての選択だった。

 

「分かった」

 

 出久は頷いた。

 

「よろしく、イチ」

 

 イチは、出久を見つめた。

 

 その目には、まだ憎しみが残っていた。

 

 それでも。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 彼は、笑った。

 

「……よろしく、緑谷出久」

 

 その瞬間、床に文字が浮かび上がった。

 

 《仮登録名:イチ》

 

 《存在状態:未確定》

 

 《個体認識:承認》

 

 《現行個体との関係:敵対可能性あり》

 

 《消去処理:保留》

 

 出久は、文字を見つめた。

 

「……承認された?」

 

「いや」

 

 轟が、画面の一番下を指さした。

 

「まだ続きがある」

 

 新しい文字が浮かび上がる。

 

 《未誕生個体、第一段階を突破》

 

 《次段階への移行を開始します》

 

 そして。

 

 《観測者:麗日お茶子》

 

 《接続準備:完了》

 

 出久の顔色が変わった。

 

「お茶子ちゃん……?」

 

 通信機を取り出す。

 

「麗日さん、聞こえる!?」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、通信機から聞こえてきたのは、子供の泣き声だった。

 

 そして、女の子の声。

 

『――大丈夫。ここにいていいんだよ』

 

 お茶子の声だった。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

『……でも、どうして?』

 

 幼い声が尋ねる。

 

『どうして、僕を選んでくれるの?』

 

『だって……』

 

 お茶子の声が震えた。

 

『だって、私は……』

 

 そこで、通信が途切れた。

 

「お茶子ちゃん!」

 

 出久は通信機を握りしめた。

 

 次の瞬間、白い壁に、新しい扉が現れた。

 

 そこには、こう刻まれていた。

 

 《麗日お茶子が忘れた子供》

 

 イチが、扉を見つめた。

 

 その顔から、血の気が引いた。

 

「……まさか」

 

 出久が振り返る。

 

「イチ?」

 

 少年は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……僕じゃない」

 

 その声は、震えていた。

 

「僕が最初に生まれるはずだったんじゃない」

 

 彼は、扉に刻まれた文字を見つめた。

 

「――僕より先に、生まれるはずだった奴がいる」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 世界が、また一つ、音を立てて崩れ始める。

 

 イチの背後で、白い壁が裂けた。

 

 その向こうに広がっていたのは、病院だった。

 

 小さな赤ん坊が、保育器の中で眠っている。

 

 その隣に、若い緑谷引子が座っていた。

 

 彼女は、赤ん坊の手を握りしめていた。

 

 泣いていた。

 

 何度も、何度も。

 

「ごめんね……」

 

 引子が呟いた。

 

「ごめんね……出久……」

 

 出久は、息を止めた。

 

 その赤ん坊は、緑谷出久ではなかった。

 

 イチでもなかった。

 

 もっと幼い。

 

 もっと小さい。

 

 そして、その顔には、出久にもイチにもない特徴があった。

 

 赤ん坊の左手には、細い傷があった。

 

 その傷が、淡く光る。

 

 そして、赤ん坊は目を開いた。

 

 まだ言葉を話せないはずの子供が、はっきりと声を発した。

 

『――お姉ちゃん』

 

 その声を聞いた瞬間、出久は理解した。

 

 これは、自分の物語ではない。

 

 イチの物語でもない。

 

 お茶子の物語ですらない。

 

 もっと古い。

 

 もっと深い。

 

 誰かが世界に生まれるより前から、すでに始まっていた物語なのだ。

 

 そして、その物語の中心には。

 

 まだ誰も知らない、一人の子供がいた。

 

 その子供は、保育器の中で笑った。

 

『――今度こそ、僕を忘れないでね』

 

 映像が、途切れた。

 

 白い空間に、最後の一行が浮かび上がった。

 

 《第二未誕生個体:接続完了》

 

 その下に、さらに一行。

 

 《次の選択者:麗日お茶子》

 

 そして、誰もいないはずの部屋で。

 

 誰かが、楽しそうに笑った。

 

『さあ――次は、君が選ぶ番だ』

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