僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第九話「忘れられた子供の名前」

 

 

 ――今度こそ、僕を忘れないでね。

 

 その声が消えたあとも、緑谷出久はしばらく動けなかった。

 

 目の前に広がっていた病室は、もう存在しない。

 

 保育器も、赤ん坊も、泣いていた母親も、すべてが白い光の中へ溶けていった。

 

 残されたのは、壁に刻まれた一行だけだった。

 

 《第二未誕生個体:接続完了》

 

 その下に、冷たい文字が浮かんでいる。

 

 《次の選択者:麗日お茶子》

 

「……お茶子ちゃん」

 

 出久は通信機を握りしめた。

 

 応答はない。

 

 ノイズすら聞こえなかった。

 

 通信が切れたのではない。

 

 最初から、そこに回線が存在していなかったかのようだった。

 

「緑谷」

 

 轟焦凍が、出久の肩を掴んだ。

 

「落ち着け」

 

「でも、お茶子ちゃんが……!」

 

「分かっている」

 

 轟の声は落ち着いていた。

 

 少なくとも、表面上は。

 

「分かっているから、今すぐ飛び出すな。ここでお前まで消えたら、誰があいつを探すんだ」

 

「……っ」

 

「お前は、あいつを助けに行きたいんだろう」

 

「当たり前だよ!」

 

「だったら、生きて辿り着け」

 

 轟は出久の肩から手を離した。

 

「焦って罠に飛び込むのと、助けるために動くのは違う」

 

 出久は歯を食いしばった。

 

 分かっている。

 

 頭では、分かっている。

 

 しかし、先ほど見た映像が、何度も脳裏に蘇る。

 

 若い母。

 

 保育器の中の赤ん坊。

 

 そして、あの声。

 

 ――お姉ちゃん。

 

 麗日お茶子を、姉と呼んだ子供。

 

 出久には、その子供が誰なのか分からなかった。

 

 イチにも分からなかった。

 

 しかし、お茶子は知っているのかもしれない。

 

 いや。

 

 知っていたのだ。

 

 かつて。

 

 その記憶を失うまでは。

 

「……僕たちは、何を見せられているんだ」

 

 出久の呟きに、イチが答えた。

 

「見せられているんじゃない」

 

 少年は、先ほど現れた扉の前に立っていた。

 

 その顔から、先ほどまでの敵意は消えている。

 

 代わりに、何かを必死に思い出そうとしているような、苦しげな表情が浮かんでいた。

 

「僕たちは、呼ばれているんだ」

 

「呼ばれている?」

 

「うん」

 

 イチは、自分の左手を見た。

 

 そこに刻まれた細い傷が、淡く明滅している。

 

「僕が君を見つけた時、僕は自分が最初の一人だと思っていた。世界から消されたのは僕で、僕のあとに君が生まれたんだと」

 

 彼は、ゆっくりと首を振った。

 

「でも、違った」

 

「……」

 

「僕より前に、誰かがいた」

 

 イチは、扉に刻まれた文字を指でなぞった。

 

 《麗日お茶子が忘れた子供》

 

「僕は、最初じゃなかったんだ」

 

 その声には、悲しみがあった。

 

 そして、安堵もあった。

 

 自分だけではなかった。

 

 自分が生まれられなかったことには、自分よりも前に、さらに別の理由があったのかもしれない。

 

 だが、その安堵は長く続かなかった。

 

「……もし、僕より前にあの子がいたなら」

 

 イチは、出久を見た。

 

「僕も、あの子を踏み台にして生まれるはずだったのかな」

 

 出久は答えられなかった。

 

 轟も、何も言わなかった。

 

 彼らには、まだ何も分からない。

 

 分からないことだらけだった。

 

 それでも、一つだけ確かなことがある。

 

 世界は、存在しなかったことにされた子供たちを、ただ記録の外に置いているわけではない。

 

 誰かの記憶の中へ押し込み、誰かの人生の中へ混ぜ込み、誰かが大切にしているものを使って、自分たちの存在を証明しようとしている。

 

 そのやり方が、正しいのか。

 

 間違っているのか。

 

 そもそも、誰がそれを始めたのか。

 

 今は、まだ分からない。

 

 だからこそ。

 

「……行こう」

 

 出久は言った。

 

「お茶子ちゃんを探そう」

 

 イチが顔を上げる。

 

「僕も行くの?」

 

「もちろん」

 

「君を殺そうとしていた人間だよ、僕は」

 

「それは、今も変わってない?」

 

「……変わってない」

 

「だったら、僕も君を警戒する」

 

 出久は、まっすぐにイチを見た。

 

「でも、君が何を知っているのか、君が何を望んでいるのかを知りたい。君が僕を殺したいと思っている理由も、君が生まれられなかった理由も」

 

「……」

 

「だから、一緒に来てほしい」

 

 イチは、長い間、出久を見つめていた。

 

 やがて、小さく笑った。

 

「……君は本当に、馬鹿だね」

 

「よく言われるよ」

 

「僕は君を裏切るかもしれない」

 

「その時は、その時に考える」

 

「君の大切な人を、僕が傷つけるかもしれない」

 

「その時は、止める」

 

「僕が、君を許さないままだったら?」

 

 出久は、少しだけ考えた。

 

「……その時は、許してもらえるように頑張るよ」

 

 イチは、顔を背けた。

 

「本当に、馬鹿だ」

 

 しかし、その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。

 

 轟が二人の間に割って入った。

 

「話は終わったか?」

 

「轟くん?」

 

「一応、俺もいるんだが」

 

「あ、ごめん」

 

「別にいい。ただ、俺はお前たちほど呑気じゃない」

 

 轟は、扉を睨んだ。

 

「お茶子が次の選択者に指定された。つまり、向こうはあいつに何かをさせようとしている」

 

「……うん」

 

「だったら、俺たちが行くべき場所は、ここじゃない」

 

 轟は、壁に浮かぶ記録を指さした。

 

 《接続先:未確定》

 

 《観測対象:麗日お茶子》

 

 《選択開始まで:00:13:59》

 

 数字が、秒単位で減っていた。

 

 出久は息を呑んだ。

 

「……あと十四分?」

 

「いや」

 

 轟が答えた。

 

「違う」

 

 彼は、表示の下にある小さな文字を指で示した。

 

 《対象時間:現実時間との同期なし》

 

 轟は、冷静に続けた。

 

「これは現実の十四分とは限らない。向こうの時間がどれくらい進むのかも、こっちに戻れるのかも分からない」

 

「……だったら」

 

「急ぐ。だが、焦らない」

 

 轟は拳を握った。

 

「俺たちがするべきことは、それだけだ」

 

 出久は頷いた。

 

 イチもまた、扉に手を伸ばした。

 

 しかし、触れる直前。

 

 扉の向こうから、聞き覚えのない声が響いた。

 

『――入る前に、一つだけ教えてあげる』

 

 三人が顔を上げた。

 

 それは、先ほどのニャルラトホテプの声とは違っていた。

 

 もっと幼い。

 

 もっとか細い。

 

 それでも、妙に耳に残る声だった。

 

『この扉を開けたら、君たちは一人の子供を見つける』

 

 扉の表面に、文字が浮かび上がる。

 

『でも、見つけたからといって、その子を救えるとは限らない』

 

 次の文字。

 

『その子を救えば、別の誰かが消えるかもしれない』

 

 さらに、次の文字。

 

『その子を救わなければ、君たちは何も失わないかもしれない』

 

 そして最後に。

 

『――それでも、君たちは扉を開ける?』

 

 出久は、迷わなかった。

 

「開けるよ」

 

 イチが、隣で呟いた。

 

「……僕も」

 

 轟は、短く息を吐いた。

 

「開けるしかないだろう」

 

 三人の手が、同時に扉へ触れた。

 

 そして。

 

 世界が、裏返った。

 

1 麗日お茶子には、妹がいた

 麗日お茶子は、知らない病室に立っていた。

 

 白い壁。

 

 白い床。

 

 白いカーテン。

 

 窓の外には、見慣れた町が広がっている。

 

 しかし、その町は、彼女が知っている町ではなかった。

 

 道路の幅が違う。

 

 建物の並びが違う。

 

 遠くに見える高層ビルの形も違う。

 

 それなのに、妙な懐かしさがあった。

 

 ここへ来たことがある。

 

 そんな気がした。

 

「……ここ、どこ?」

 

 返事はない。

 

 お茶子は、周囲を見回した。

 

 病室の中央には、小さなベッドが置かれている。

 

 その上に、一人の女の子が眠っていた。

 

 年齢は、三歳か四歳くらい。

 

 柔らかそうな茶色の髪。

 

 丸い頬。

 

 小さな手。

 

 そして、目元には、お茶子によく似た特徴があった。

 

 お茶子は、息を止めた。

 

「……え?」

 

 女の子が、目を開いた。

 

 ゆっくりと上半身を起こす。

 

 そして、お茶子を見るなり、ぱっと顔を輝かせた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 お茶子の心臓が、跳ねた。

 

 女の子はベッドから飛び降りようとした。

 

 しかし、足が床に届かず、危うく転びそうになる。

 

「危ない!」

 

 お茶子は反射的に駆け寄り、女の子を抱きとめた。

 

 小さな身体。

 

 温かい体温。

 

 確かな重み。

 

 その瞬間。

 

 お茶子の頭の中に、無数の記憶が流れ込んできた。

 

 小さな手を握ったこと。

 

 公園で一緒に遊んだこと。

 

 転んで泣いた女の子を抱きしめたこと。

 

 夕食の前に、二人でこっそりお菓子を食べたこと。

 

 眠る前に、絵本を読んであげたこと。

 

 そして。

 

 ――お姉ちゃん、ずっと一緒にいてね。

 

 お茶子は、女の子を抱きしめたまま、動けなくなった。

 

「……あ」

 

 声が出ない。

 

 涙が溢れた。

 

 理由が分からない。

 

 何が起きているのかも分からない。

 

 それなのに、目の前の女の子が、どうしようもなく大切だった。

 

「……ごめんね」

 

 お茶子は、震える声で言った。

 

「ごめんね……ごめんね……」

 

 女の子は、不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしたの、お姉ちゃん?」

 

「……私」

 

 お茶子は、女の子の頬に触れた。

 

「私、あなたのこと……」

 

 言葉が続かない。

 

 女の子は、お茶子の顔をじっと見つめた。

 

 そして、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「大丈夫だよ」

 

 その言葉が、お茶子の胸を抉った。

 

「……え?」

 

「お姉ちゃん、いつもそう言ってたもん」

 

 女の子は、お茶子の手を握った。

 

「怖い時も、大丈夫。寂しい時も、大丈夫。泣きたい時も、大丈夫」

 

 彼女は、笑顔のまま続けた。

 

「だから、私も大丈夫」

 

 お茶子は、息を呑んだ。

 

 この子は、何を言っているのだろう。

 

 どうして、こんなにも自然に、自分の言葉を覚えているのだろう。

 

 どうして、自分は、この子の名前を思い出せないのだろう。

 

「……ねえ」

 

 お茶子は、必死に尋ねた。

 

「あなたの名前、教えて?」

 

 女の子の笑顔が、止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 それは、子供が初めて、自分の名前を知らない人に出会った時のような表情だった。

 

「……お姉ちゃん?」

 

「ごめんね。私、今、ちょっと……」

 

 お茶子は、言葉を探した。

 

「ちょっと、思い出せなくて」

 

 女の子は、お茶子の手を握りしめた。

 

「……忘れちゃったの?」

 

 その声が、小さく震えた。

 

 お茶子は答えられなかった。

 

 女の子は、しばらく俯いていた。

 

 そして、顔を上げた。

 

「……ううん」

 

 彼女は、無理に笑った。

 

「いいの」

 

「……」

 

「お姉ちゃんが忘れちゃったなら、私が教えてあげる」

 

 女の子は、お茶子の胸に顔を埋めた。

 

「私の名前は――」

 

 そこで、声が途切れた。

 

 女の子の身体が、透明になり始めていた。

 

「……え?」

 

 お茶子は、慌てて抱きしめた。

 

「待って! 待って、どうして!?」

 

 女の子の輪郭が薄れていく。

 

 小さな指が、光の粒に変わる。

 

「いや……!」

 

 お茶子は、必死に腕に力を込めた。

 

「嫌だ! お願い、消えないで!」

 

 女の子は、泣きそうな顔で笑った。

 

「……お姉ちゃん」

 

「いや! いやだよ!」

 

「ねえ」

 

 女の子は、最後の力を振り絞るように、お茶子の耳元で囁いた。

 

「今度は、私を選んでくれる?」

 

 その瞬間。

 

 女の子は消えた。

 

 お茶子の腕の中には、何も残らなかった。

 

 ただ、温かな体温の残滓だけが、ゆっくりと消えていく。

 

 お茶子は、床に膝をついた。

 

 声にならない悲鳴が、喉から漏れた。

 

「……なんで」

 

 涙が、止まらなかった。

 

「なんで、私は……」

 

 その時、病室のスピーカーから、無機質な声が響いた。

 

『選択者、麗日お茶子』

 

 お茶子は顔を上げた。

 

『対象個体の消失を確認しました』

 

「……何?」

 

『選択結果を判定します』

 

 壁に文字が浮かび上がる。

 

 《選択者:麗日お茶子》

 

 《対象個体:未確定》

 

 《選択結果:拒絶》

 

「違う!」

 

 お茶子は叫んだ。

 

「私は拒絶してない! あの子を助けようとした!」

 

『記録上、対象個体は消失しています』

 

「だからって!」

 

『対象個体を維持するための選択は、実行されませんでした』

 

「何を言ってるの!?」

 

 お茶子は壁を叩いた。

 

「私は、あの子を選んだ! あの子を守りたいって思った! それなのに、どうして拒絶したことになるの!?」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、新しい文字が浮かび上がった。

 

 《対象個体の名前:未登録》

 

 《名前の登録には、選択者の承認が必要です》

 

 お茶子は、文字を見つめた。

 

 そして、理解した。

 

 この世界は、彼女に選ばせている。

 

 あの子を存在させるために。

 

 あの子の名前を認めるために。

 

 あの子が生きていたことを、世界に記録させるために。

 

 だが、同時に。

 

 この世界は、彼女の選択を待っている。

 

 彼女が選んだという事実を、何かの証拠にしようとしている。

 

 お茶子は、震える手を握りしめた。

 

「……だったら」

 

 彼女は立ち上がった。

 

「もう一度、選ぶ」

 

 壁の文字が変化する。

 

 《再選択:可能》

 

 《ただし、再選択には代償が必要です》

 

「……代償?」

 

 次の瞬間、病室の壁が開いた。

 

 その向こうに、三つの扉が現れた。

 

 一つ目には、こう書かれている。

 

 《麗日お茶子が失うもの》

 

 二つ目。

 

 《麗日お茶子が守るもの》

 

 三つ目。

 

 《麗日お茶子が忘れたもの》

 

 お茶子は、三つの扉を見つめた。

 

 どれを選べばいいのか。

 

 どれが正しいのか。

 

 分からない。

 

 けれど、一つだけ分かる。

 

 ここで何も選ばなければ、あの子は戻ってこない。

 

 お茶子は、一歩前へ出た。

 

 そして。

 

「……私は」

 

 最初の扉に手を伸ばした。

 

 その瞬間、背後から声がした。

 

「――待って」

 

 お茶子は振り返った。

 

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 

 黒い髪。

 

 疲れ切った顔。

 

 そして、見覚えのない制服。

 

 少女は、お茶子を見つめた。

 

「それを選んだら、あなたは二度と、緑谷出久を思い出せなくなる」

 

 お茶子の手が止まった。

 

「……え?」

 

 少女は、ゆっくりと続けた。

 

「あなたが守りたい子供は、緑谷出久と繋がっている。あなたが忘れた記憶の中にも、緑谷出久がいる」

 

「……あなた、誰?」

 

 少女は答えなかった。

 

 代わりに、自分の左手を見せた。

 

 そこには、細い傷があった。

 

 イチと同じ位置。

 

 先ほどの子供と同じ位置。

 

 そして、少女は言った。

 

「私は、あなたが忘れた子供の姉じゃない」

 

 お茶子は息を呑んだ。

 

「……何を言って」

 

「私は、その子を殺した人間の一人」

 

 少女の目から、涙が落ちた。

 

「――そして、あなたがその子を忘れるようにした人間の一人でもある」

 

2 扉の向こうにいたもの

 出久たちが扉を抜けた時、そこには病室が広がっていた。

 

 ただし、お茶子が見ている病室とは違う。

 

 彼らが立っているのは、病室の外側だった。

 

 ガラス越しに、お茶子の姿が見える。

 

 彼女は三つの扉の前に立ち、見知らぬ少女と向き合っていた。

 

「お茶子ちゃん!」

 

 出久はガラスを叩いた。

 

「お茶子ちゃん、聞こえる!?」

 

 返事はない。

 

 お茶子は、こちらに気づいていない。

 

 まるで、別の世界に隔離されているようだった。

 

「……くそっ」

 

 轟がガラスに手を当てた。

 

 氷が広がる。

 

 しかし、ガラスは凍らなかった。

 

 氷は表面に触れる直前で消えた。

 

「個性が通らない……?」

 

「いや」

 

 イチが、ガラスを見つめていた。

 

「個性を使えないんじゃない」

 

「どういうことだ?」

 

「この壁は、僕たちの個性が届くことを認めていないんだ」

 

 轟が眉をひそめた。

 

「……そんなことができるのか?」

 

「分からない。でも、ここは普通の場所じゃない」

 

 イチは、自分の左手を握りしめた。

 

「ここでは、何ができるかよりも、何が許されているかの方が重要なんだと思う」

 

 出久は、ガラスの向こうを見つめた。

 

 お茶子は、少女と話している。

 

 少女の表情は、苦しそうだった。

 

 何かを告白している。

 

 そして、お茶子は、その言葉を聞いて、ひどく動揺していた。

 

「……あの子は誰なんだ」

 

 出久が呟いた。

 

 イチは答えなかった。

 

 しかし、その顔には、明確な恐怖が浮かんでいた。

 

「……知っているのか?」

 

「……いや」

 

 イチは首を振った。

 

「知らない」

 

 そして、小さく付け加えた。

 

「……知っているはずがないんだ」

 

 その時、ガラスに文字が浮かび上がった。

 

 《観測者:緑谷出久》

 

 《観測者:轟焦凍》

 

 《観測者:イチ》

 

 《介入権限:なし》

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……またか」

 

 選べと言われる。

 

 しかし、選ぶ権利は与えられない。

 

 見ろと言われる。

 

 しかし、手を伸ばすことは許されない。

 

 その矛盾が、出久の胸の奥で、じわじわと怒りに変わっていく。

 

「……ふざけるな」

 

 出久は、ガラスに手を当てた。

 

「お茶子ちゃんは、今、苦しんでいるんだ」

 

 返事はない。

 

「彼女が何を選ぶのかを見たいなら、見ればいい。でも、彼女が選ぶことを、最初から罠にするな!」

 

 ガラスが、わずかに揺れた。

 

 出久は続けた。

 

「彼女が誰かを守ろうとしたことを、拒絶だなんて記録するな!」

 

 その瞬間。

 

 ガラスの向こうで、お茶子が顔を上げた。

 

 彼女は、確かに出久を見た。

 

 そして、口を動かした。

 

 ――デクくん。

 

 声は聞こえなかった。

 

 しかし、その口の形は、間違いなくそう言っていた。

 

 出久は、頷いた。

 

 大丈夫だと伝えるように。

 

 ここにいると伝えるように。

 

 絶対に、一人にしないと伝えるように。

 

 だが、お茶子は、泣きそうな顔で首を振った。

 

 そして、唇を動かした。

 

 ――来ないで。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 お茶子は、もう一度、首を振った。

 

 来ないで。

 

 その言葉には、恐怖があった。

 

 自分が傷つくことへの恐怖ではない。

 

 出久が傷つくことへの恐怖だった。

 

 そして、彼女は少女に向き直った。

 

 出久には、もう、その会話が見えなかった。

 

 ガラスが、ゆっくりと曇り始めたからだ。

 

 轟が低く呟いた。

 

「……俺たちは、あいつの選択を信じるしかない」

 

「でも……!」

 

「分かっている」

 

 轟は、ガラスから手を離した。

 

「お前が、何でも助けようとするのは知っている。だが、今回は、お茶子自身が選ぼうとしている」

 

 彼は、出久を見た。

 

「お前があいつを信じないで、誰が信じるんだ」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

 その時。

 

 イチが、突然、膝をついた。

 

「……っ!」

 

「イチ!?」

 

 出久が駆け寄る。

 

 イチは、左手を押さえていた。

 

 傷が、強く光っている。

 

 その光は、先ほどのものとは違った。

 

 赤い。

 

 血のように。

 

「……やめろ」

 

 イチが呟いた。

 

「やめろ……!」

 

「どうしたんだ!?」

 

「……僕の記憶が」

 

 イチの声が震えた。

 

「僕の記憶が、勝手に……」

 

 彼の頭上に、無数の映像が浮かび上がった。

 

 幼い子供。

 

 病室。

 

 白い天井。

 

 誰かの手。

 

 そして、燃える街。

 

 イチは、苦しそうに頭を抱えた。

 

「……違う、僕は……」

 

 映像の中で、幼いイチが泣いていた。

 

 誰かに抱きしめられている。

 

 その相手の顔は、見えない。

 

 ただ、声だけが聞こえた。

 

『――大丈夫だよ』

 

 イチが、息を止めた。

 

「……この声」

 

 彼は、出久を見た。

 

「……君の声だ」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「僕の……?」

 

「違う。君じゃない」

 

 イチは、首を振った。

 

「君と同じ声だけど、君じゃない」

 

 彼は、映像を見つめた。

 

「……僕は、誰かに抱きしめられていた」

 

 その声は、震えていた。

 

「僕が生まれられなかったことを、知っていた人がいた」

 

 映像の中の幼いイチは、泣きながら誰かの服を掴んでいた。

 

『……お姉ちゃん』

 

 イチの顔から、血の気が引いた。

 

「……嘘だ」

 

 彼は、首を振った。

 

「そんなはずはない」

 

 出久は、彼の肩を掴んだ。

 

「イチ、落ち着いて!」

 

「僕には、姉なんていない!」

 

 イチが叫んだ。

 

「僕は生まれていないんだ! 誰にも名前を与えられていない! 誰にも育てられていない! 誰にも愛されていない!」

 

 その叫びが、白い空間に響いた。

 

 そして。

 

 映像の中の人物が、初めて顔を上げた。

 

 そこにいたのは。

 

 緑谷引子だった。

 

 若い母親。

 

 涙に濡れた顔。

 

 そして、腕の中の子供を、壊れそうなほど強く抱きしめていた。

 

『……ごめんね』

 

 引子が泣いていた。

 

『ごめんね、イチ……』

 

 出久は、息を止めた。

 

 イチもまた、動けなくなっていた。

 

 母は、彼の名前を知っていた。

 

 彼が生まれられなかったことを知っていた。

 

 そして、彼を抱きしめていた。

 

 映像の中の引子は、泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返した。

 

『……あなたが生まれてほしかった』

 

 イチの目から、涙が落ちた。

 

『でも、あなたが生まれたら……』

 

 映像が、乱れた。

 

 その先は、見えなかった。

 

 だが、イチには分かったのだろう。

 

 彼は、震える唇で呟いた。

 

「……僕は」

 

 そして、出久を見た。

 

「……僕は、母さんに愛されていたの?」

 

 出久は答えられなかった。

 

 答えたかった。

 

 肯定したかった。

 

 でも、それは、出久が決めていいことではなかった。

 

 だから、彼は、ただ頷いた。

 

「……そうだと、思う」

 

 イチは、顔を覆った。

 

 泣き声は聞こえなかった。

 

 ただ、肩が震えていた。

 

 彼は、生まれられなかった。

 

 名前を与えられなかった。

 

 誰にも愛されなかったと信じていた。

 

 しかし、彼の母親は、彼を愛していた。

 

 それでも、彼は生まれられなかった。

 

 愛されていたことと、生きられたことは、同じではなかったのだ。

 

 出久は、イチの隣に膝をついた。

 

 何も言わず、ただそこにいた。

 

 その時、ガラスの向こうから、お茶子の声が聞こえた。

 

『――私は、この子を忘れない』

 

 出久は顔を上げた。

 

 お茶子が、三つの扉の前に立っていた。

 

 その手は、震えていた。

 

 しかし、彼女は、はっきりと顔を上げていた。

 

『この子が誰なのか、まだ分からない。私が何を忘れたのかも、何をしたのかも分からない』

 

 お茶子は、少女を見つめた。

 

『でも、この子が生きたかったことは、分かる』

 

 少女は、泣いていた。

 

『この子が、私をお姉ちゃんと呼んだことも。私が、この子を大切に思っていたことも』

 

 お茶子は、一つ目の扉から手を離した。

 

 《麗日お茶子が失うもの》

 

 次に、二つ目の扉へ手を伸ばす。

 

 《麗日お茶子が守るもの》

 

 そして。

 

 彼女は、その扉を開いた。

 

3 お茶子が選んだもの

 扉の向こうにあったのは、真っ暗な部屋だった。

 

 何もない。

 

 家具も、窓も、床もない。

 

 ただ、闇だけが広がっている。

 

 お茶子は、その中へ足を踏み入れた。

 

 背後から、少女の声が聞こえた。

 

「……本当に、それでいいの?」

 

 お茶子は振り返らなかった。

 

「分からない」

 

 彼女は答えた。

 

「正しいのかどうかも分からない。これであの子が戻ってくるのかも分からない」

 

 お茶子は、闇の中を進んだ。

 

「でも、私が守りたいものは、私が決める」

 

 その瞬間。

 

 闇の中に、無数の記憶が浮かび上がった。

 

 幼い自分。

 

 母親と父親。

 

 小さな妹。

 

 四人で食卓を囲む光景。

 

 妹が転んで泣く光景。

 

 妹が初めて自転車に乗れた日。

 

 妹が、自分の誕生日に手作りの絵をくれた日。

 

 その絵には、二人の女の子が描かれていた。

 

 大きい女の子と、小さい女の子。

 

 手を繋いでいる。

 

 その上に、たどたどしい文字で、こう書かれていた。

 

 《おねえちゃんだいすき》

 

 お茶子は、足を止めた。

 

「……ああ」

 

 記憶が、戻ってくる。

 

 そうだ。

 

 自分には、妹がいた。

 

 大切な妹がいた。

 

 自分よりも小さくて、甘えん坊で、泣き虫で。

 

 いつも、自分の後ろをついて回っていた。

 

 お茶子が雄英高校を受験すると決めた時、妹は泣いた。

 

 寂しい、と。

 

 行かないで、と。

 

 お茶子は、その子を抱きしめた。

 

 そして、約束した。

 

 ――絶対に帰ってくるから。

 

 ――絶対に忘れないから。

 

 ――どんなことがあっても、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから。

 

 お茶子は、闇の中で膝をついた。

 

「……ごめんね」

 

 涙が溢れた。

 

「ごめんね……私、忘れちゃったんだね」

 

 その時、闇の中から、幼い声がした。

 

「……お姉ちゃん」

 

 お茶子は顔を上げた。

 

 そこに、小さな女の子が立っていた。

 

 先ほどの子供だ。

 

 彼女は、お茶子を見つめていた。

 

 その目には、悲しみがあった。

 

 怒りもあった。

 

 それでも、彼女は、笑おうとしていた。

 

「……来てくれたんだね」

 

 お茶子は、立ち上がった。

 

「うん」

 

「……私のこと、思い出した?」

 

「……うん」

 

 女の子の目から、涙が落ちた。

 

「……よかった」

 

 その一言で、お茶子は崩れそうになった。

 

 この子は、ずっと待っていたのだ。

 

 自分のことを思い出してくれるのを。

 

 自分の名前を呼んでくれるのを。

 

 自分が、ここにいていいと認めてくれるのを。

 

 そして、お茶子は、その約束を破った。

 

 忘れた。

 

 何も知らないまま、日々を過ごした。

 

 妹が存在しなかったことになっている世界で。

 

 お茶子は、雄英高校に通い、仲間と出会い、ヒーローを目指した。

 

 その間、妹はどうしていたのだろう。

 

 どこにいたのだろう。

 

 何を思っていたのだろう。

 

 それを考えるだけで、胸が張り裂けそうだった。

 

「……名前を教えて」

 

 お茶子は、妹の前に膝をついた。

 

「もう一度、教えてほしい」

 

 女の子は、少しだけ困った顔をした。

 

「……私の名前、忘れちゃったの?」

 

「うん」

 

 お茶子は、正直に答えた。

 

「忘れちゃった」

 

 涙を拭う。

 

「でも、今度は忘れないようにする。何があっても、ちゃんと覚えておく」

 

 女の子は、お茶子を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……私の名前は」

 

 闇が、揺れた。

 

 その瞬間、世界中の記録が、一斉に更新された。

 

 《未登録個体》

 

 《未確定個体》

 

 《存在抹消対象》

 

 《記憶修正対象》

 

 あらゆる場所に刻まれていた文字が、書き換えられていく。

 

 死者の記録。

 

 生者の記録。

 

 存在しなかったものの記録。

 

 そして、まだ生まれていないものの記録。

 

 すべてが、たった一つの名前を受け入れようとしていた。

 

 だが、その直前。

 

 闇の奥から、別の声が響いた。

 

『――承認できません』

 

 女の子の身体が震えた。

 

 お茶子は、妹を抱きしめた。

 

「……誰?」

 

『選択者、麗日お茶子』

 

 声は、無機質だった。

 

『あなたには、対象個体の存在を承認する権限がありません』

 

「……は?」

 

『対象個体は、あなたの妹ではありません』

 

 お茶子は、息を呑んだ。

 

『あなたの記憶に存在する妹は、対象個体を成立させるために再構成された情報です』

 

「……何を言ってるの?」

 

『対象個体の存在は、あなたの記憶を利用しています』

 

 お茶子は、女の子を抱きしめる腕に力を込めた。

 

「……違う」

 

『あなたが妹だと信じている存在は、あなたの記憶を材料に作られたものです』

 

「違う!」

 

 お茶子は叫んだ。

 

「この子は、ここにいる!」

 

『存在の証明にはなりません』

 

「この子は、私をお姉ちゃんって呼んだ!」

 

『記憶の再現です』

 

「この子は、私のことを覚えてる!」

 

『記憶の再現です』

 

「この子は――!」

 

 お茶子は、言葉を失った。

 

 何を言えばいいのか、分からなくなった。

 

 この子が温かいこと。

 

 この子が泣いていること。

 

 この子が自分を求めていること。

 

 それらすべてが、偽物だと言われたら。

 

 自分には、何を証明できるのだろう。

 

 その時、妹が、お茶子の服を掴んだ。

 

「……お姉ちゃん」

 

 小さな声だった。

 

「……私、偽物なの?」

 

 お茶子の心臓が、痛いほどに跳ねた。

 

 妹は、泣いていた。

 

「……私が、お姉ちゃんの記憶からできたものなら」

 

 女の子は、震える声で尋ねた。

 

「……私が、お姉ちゃんに会いたいって思ってるのも、偽物なの?」

 

 お茶子は、答えられなかった。

 

 答えたくなかった。

 

 しかし、妹は続けた。

 

「……私が、ここにいたいって思ってるのも?」

 

 涙が落ちる。

 

「……お姉ちゃんに、忘れられたくないって思ってるのも?」

 

 お茶子は、妹を抱きしめた。

 

 強く。

 

 壊れないように。

 

 消えないように。

 

 そして、震える声で言った。

 

「……分からない」

 

 妹の身体が、強張った。

 

「……え?」

 

「私には、分からないよ」

 

 お茶子は、泣きながら続けた。

 

「あなたが、どこから来たのか。あなたが、本当に私の妹なのか。私が覚えていることが、本当に起きたことなのか」

 

 彼女は、妹の頬に触れた。

 

「……でもね」

 

 お茶子は、笑った。

 

「今、あなたが泣いていることは、私には分かる」

 

 妹は、目を見開いた。

 

「あなたが、私に会いたかったことも」

 

 お茶子は、妹の手を握った。

 

「私に忘れられたくなかったことも」

 

 そして。

 

「あなたが、ここにいたいって思っていることも」

 

 お茶子は、まっすぐに妹を見た。

 

「それは、私にとって偽物じゃない」

 

 闇が、震えた。

 

 無機質な声が、初めて乱れた。

 

『……判定不能』

 

 お茶子は、妹を抱きしめたまま立ち上がった。

 

「あなたが誰なのかは、これから一緒に考えよう」

 

 彼女は言った。

 

「私の妹なのかもしれない。私の記憶から生まれた子なのかもしれない。私が忘れた誰かなのかもしれない」

 

 お茶子は、涙を拭った。

 

「でも、あなたが何者なのかを決めるのは、世界じゃない」

 

 妹の目から、涙が落ちた。

 

「……お姉ちゃん」

 

「うん」

 

「……私、ここにいてもいいの?」

 

 お茶子は、笑った。

 

「いいよ」

 

 そして、もう一度。

 

「――ここにいていいんだよ」

 

 その瞬間。

 

 闇が、砕けた。

 

4 名前を持つということ

 世界が砕けた時、出久は、目の前のガラスが崩れる音を聞いた。

 

 轟が身構える。

 

 イチが顔を上げる。

 

 そして、ガラスの向こうから、お茶子の姿が現れた。

 

 彼女は、小さな女の子を抱いていた。

 

 その子供は、お茶子の胸に顔を埋めている。

 

 泣いていた。

 

 お茶子も、泣いていた。

 

 それでも、二人は確かに、そこにいた。

 

「……お茶子ちゃん!」

 

 出久が駆け寄った。

 

 お茶子は顔を上げた。

 

「……デクくん」

 

「大丈夫!?」

 

「うん……」

 

 お茶子は、少しだけ笑った。

 

「……大丈夫」

 

 その言葉に、出久は胸を撫で下ろした。

 

 しかし、すぐに気づいた。

 

 お茶子の腕の中にいる子供が、ひどく弱っている。

 

 輪郭が、わずかに透けている。

 

 まるで、今にも消えてしまいそうだった。

 

「……その子は?」

 

 お茶子は、子供を抱きしめた。

 

「……私の妹」

 

 そして、すぐに言い直した。

 

「……だったかもしれない子」

 

 出久は、何も言わなかった。

 

 お茶子は、苦しそうに笑った。

 

「私、思い出したんだ。昔、この子と一緒にいたこと」

 

 彼女は、子供の髪を撫でた。

 

「でも、全部が本当なのかは分からない。私の記憶を使って、作られたものなのかもしれない」

 

 お茶子は、子供を見つめた。

 

「それでも、この子は、私に会いたいって思ってた」

 

 彼女は、顔を上げた。

 

「だから、私は、この子を選んだ」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「でも……」

 

 お茶子の表情が曇った。

 

「この子の名前を、思い出せなかった」

 

 出久は、子供を見た。

 

 小さな女の子は、お茶子の腕の中で、静かに目を閉じていた。

 

「……名前がないの?」

 

「うん」

 

 お茶子は答えた。

 

「私が思い出せないから、世界にも登録されていないんだって」

 

 轟が、眉をひそめた。

 

「名前がなければ、存在できないということか?」

 

「……たぶん」

 

 イチが、静かに言った。

 

「いや、逆だ」

 

 三人が彼を見る。

 

「名前がないから存在できないんじゃない」

 

 イチは、女の子を見つめた。

 

「存在を認めてもらえないから、名前が与えられないんだ」

 

 彼は、自分の左手を握りしめた。

 

「僕も、そうだった」

 

 出久は、イチを見た。

 

「……イチ」

 

「僕は、名前がなかった。誰にも呼ばれなかった。誰にも、僕がここにいると認めてもらえなかった」

 

 イチは、女の子へ一歩近づいた。

 

「だから、名前がないことが、どんなに苦しいのかは分かる」

 

 彼は、女の子の前に膝をついた。

 

「……君は、名前が欲しい?」

 

 女の子は、ゆっくりと目を開けた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

「どんな名前がいい?」

 

「……分からない」

 

 女の子は、少しだけ困った顔をした。

 

「でも……」

 

 彼女は、お茶子の服を掴んだ。

 

「……お姉ちゃんが、呼んでくれる名前がいい」

 

 お茶子の目から、涙が落ちた。

 

 イチは、静かに頷いた。

 

「……そうか」

 

 彼は、出久を見た。

 

「名前は、誰かが勝手につけるものじゃない」

 

 そして、お茶子を見た。

 

「でも、名前を与えることは、その人がここにいると認めることでもある」

 

 お茶子は、子供を抱きしめた。

 

「……私が、決めてもいいのかな」

 

「決めるのは、君だ」

 

 イチは答えた。

 

「ただし、君が決めた名前を、君だけのものにしないこと」

 

「……どういう意味?」

 

「その子が、その名前で生きていけるようにすることだ」

 

 イチは、自分の胸に手を当てた。

 

「僕は、名前を持たなかった。だから、僕が何者なのかを、自分で決めることができなかった」

 

 彼は、女の子を見つめた。

 

「でも、君は違う」

 

 女の子は、じっとイチを見つめていた。

 

「君には、今、選べる人がいる」

 

 イチは、微かに笑った。

 

「……それは、すごく幸せなことなんだと思う」

 

 お茶子は、長い間、女の子を見つめていた。

 

 そして、そっと頬に触れた。

 

「……ねえ」

 

 女の子が顔を上げる。

 

「あなたは、どんな子になりたい?」

 

「……どんな子?」

 

「うん。どんな子になりたい?」

 

 女の子は、考え込んだ。

 

 しばらくして、彼女は答えた。

 

「……お姉ちゃんみたいになりたい」

 

 お茶子は、目を見開いた。

 

「……私?」

 

「うん」

 

 女の子は、笑った。

 

「お姉ちゃんは、いつも誰かを助けようとしてたから」

 

 その言葉に、お茶子は顔を歪めた。

 

 自分は、誰かを助けようとしていた。

 

 けれど、その一方で、自分の大切な妹を忘れていた。

 

 助けようとした誰かの中に、妹を含められなかった。

 

 そして、今も。

 

 目の前の子供が、本当に自分の妹なのかどうか、確信を持てずにいる。

 

 それでも。

 

「……そっか」

 

 お茶子は、笑った。

 

「じゃあ、優しい子になろうね」

 

 女の子は、頷いた。

 

「うん」

 

「誰かを助けたいって思える子に」

 

「うん」

 

「でも、自分のことも大切にできる子に」

 

 女の子は、首を傾げた。

 

「……お姉ちゃんみたいに?」

 

「……ううん」

 

 お茶子は、苦笑した。

 

「お姉ちゃんより、もっと上手にね」

 

 女の子は、声を上げて笑った。

 

 その笑い声を聞いた瞬間、お茶子は確信した。

 

 この子が、本当に自分の妹なのかどうか。

 

 それは、まだ分からない。

 

 だが、この子が笑っている。

 

 自分の言葉を聞いて、笑っている。

 

 それだけは、間違いない。

 

 お茶子は、女の子を抱きしめた。

 

「……名前、考えようね」

 

「うん!」

 

 女の子は、嬉しそうに頷いた。

 

 その瞬間。

 

 世界が、再び揺れた。

 

 壁に、無数の文字が浮かび上がる。

 

 《未確定個体》

 

 《存在維持:不安定》

 

 《名前の登録:未完了》

 

 《選択者:麗日お茶子》

 

 《承認期限:残り三分》

 

 出久が顔を上げた。

 

「……三分!?」

 

 轟が舌打ちした。

 

「まだ終わっていないのか!」

 

 イチは、壁を睨んだ。

 

「……違う」

 

「何がだ?」

 

「この記録は、僕たちに名前を決めさせたいわけじゃない」

 

 イチは、女の子を見た。

 

「僕たちが、名前を決めたことによって、何を失うのかを見たいんだ」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

 そうだ。

 

 名前を与える。

 

 存在を認める。

 

 その行為そのものは、正しいことのように思える。

 

 しかし、もし名前を与えることが、別の誰かの存在を否定することにつながるなら。

 

 もし、この子を認めることが、ほかの未誕生個体を消すことにつながるなら。

 

 それは、本当に正しい選択なのか。

 

 世界は、彼らに答えを求めている。

 

 そして、彼らが出した答えを、何かの証拠にしようとしている。

 

「……だったら」

 

 出久は、壁に向かって叫んだ。

 

「僕たちは、君たちが用意した答えを選ばない!」

 

 壁が、震えた。

 

「名前をつけることを、誰かを消すための条件にするな!」

 

 出久は続けた。

 

「この子を認めることが、別の誰かを否定することになるなら、そんな仕組みそのものを変えてみせる!」

 

 轟が、隣に立った。

 

「俺も同じだ」

 

 彼は、冷たい目で壁を睨んだ。

 

「俺たちに選択肢を与えたつもりなら、覚えておけ。選択肢を作った奴が、選択肢の外側にいるとは限らない」

 

 イチは、静かに頷いた。

 

「……そうだね」

 

 彼は、女の子を見た。

 

「僕も、もう誰かに存在を決められたくない」

 

 そして、お茶子を見た。

 

「君も、そうだろう?」

 

 お茶子は、女の子を抱きしめた。

 

「……うん」

 

 彼女は、顔を上げた。

 

「私は、この子を選ぶ」

 

 壁の文字が、激しく点滅した。

 

「でも、この子を選ぶことで、誰かを消すつもりはない」

 

 お茶子は、はっきりと言った。

 

「私は、この子がここにいていいと思う。名前があっても、なくても。私の妹でも、そうじゃなくても」

 

 女の子は、お茶子を見つめていた。

 

「……私は、この子が生きたいと思っていることを、認める」

 

 お茶子は、女の子の手を握った。

 

「だから、名前をつける」

 

 その瞬間、壁に最後の文字が浮かび上がった。

 

 《命名権限:承認》

 

 お茶子は、深く息を吸った。

 

 そして。

 

「……あなたの名前は」

 

 女の子が、顔を上げた。

 

「――ひなた」

 

 その名前を口にした瞬間、女の子の身体が、淡い光に包まれた。

 

 《個体名:ひなた》

 

 《存在状態:未確定》

 

 《個体認識:承認》

 

 《存在維持:開始》

 

 女の子――ひなたは、目を見開いた。

 

「……ひなた?」

 

「うん」

 

 お茶子は、笑った。

 

「あなたが、そう呼ばれたいと思える名前になるといいな」

 

 ひなたは、何度もその名前を口にした。

 

「……ひなた」

 

 そして、泣きながら笑った。

 

「……私、ひなたなんだ」

 

「うん」

 

「……お姉ちゃんが、つけてくれたんだ」

 

「うん」

 

 ひなたは、お茶子に抱きついた。

 

「……ありがとう」

 

 お茶子は、その小さな身体を抱きしめた。

 

「……こちらこそ」

 

 その瞬間。

 

 壁の文字が、すべて消えた。

 

 そして、最後に。

 

 たった一行だけが残った。

 

 《第二未誕生個体:名前取得》

 

 《ただし、代償の請求は保留されています》

 

 出久は、その文字を見つめた。

 

「……代償?」

 

 イチの表情が、凍りついた。

 

「……まさか」

 

 轟が、すぐに身構えた。

 

「何だ?」

 

 イチは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……名前を与えたから、終わりじゃない」

 

 彼は、壁を睨んだ。

 

「僕たちは、まだ何も知らないんだ」

 

 その瞬間。

 

 ひなたが、突然、顔を上げた。

 

「……お姉ちゃん」

 

「どうしたの?」

 

 ひなたは、出久を見つめた。

 

 そして、震える声で言った。

 

「……あの人、来るよ」

 

「……あの人?」

 

 ひなたは、頷いた。

 

「……私たちを、忘れさせた人」

 

 その声が消えるより先に。

 

 部屋の奥で、拍手が鳴った。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 暗闇から、一人の男が現れた。

 

 黒いスーツ。

 

 整った顔立ち。

 

 そして、何の感情も読み取れない目。

 

 男は、ひなたを見つめた。

 

「……おめでとう」

 

 彼は、静かに言った。

 

「君は、自分の名前を手に入れた」

 

 出久が前に出る。

 

「……お前は誰だ」

 

 男は、笑った。

 

「僕かい?」

 

 そして、ゆっくりと頭を下げた。

 

「――君たちが、世界から消した人間だよ」

 

5 存在しない男

 男の姿を見た瞬間、イチが息を呑んだ。

 

「……お前」

 

 男は、イチを見た。

 

「久しぶりだね」

 

「……嘘だ」

 

「そうかな?」

 

 男は、微笑んだ。

 

「君は、僕のことを覚えているはずだよ」

 

 イチは、首を振った。

 

「……僕は、お前なんか知らない」

 

「そうだろうね。君は、僕を忘れたんだから」

 

 男は、出久に視線を移した。

 

「君も、僕を知らない」

 

 そして、お茶子を見た。

 

「君も、僕を忘れた」

 

 最後に、ひなたを見た。

 

「君だけは、まだ覚えている」

 

 ひなたは、お茶子の背中に隠れた。

 

 男は、穏やかな声で言った。

 

「……怖がらなくていい。僕は、君たちを傷つけに来たわけじゃない」

 

「信じられると思うか?」

 

 轟が、冷たく言った。

 

「それは、君次第だね」

 

 男は、肩をすくめた。

 

「ただ、僕は一つの事実を伝えに来た」

 

「……何だ」

 

「ひなたという名前は、彼女の本当の名前ではない」

 

 お茶子の表情が変わった。

 

「……何?」

 

「彼女が生まれた時、別の名前があった」

 

 男は、ひなたを見つめた。

 

「その名前は、彼女が最初に生まれた世界で、彼女のために用意されたものだ」

 

「……だったら、どうして」

 

「その世界は、彼女を必要としなかった」

 

 男は、淡々と言った。

 

「彼女が生まれることで、誰かが失われる。彼女が生きることで、誰かが死ぬ。そういう世界だった」

 

 お茶子は、ひなたを抱きしめた。

 

「……そんなの」

 

「だから、世界は彼女を消した」

 

 男は、続けた。

 

「記録を消し、記憶を消し、彼女が存在したという事実を、世界の外へ追い出した」

 

「……誰が、そんなことを」

 

「君たちだよ」

 

 男は、微笑んだ。

 

「君たちが生きている世界そのものが、彼女を消したんだ」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……世界そのもの?」

 

「そう。君たちの世界は、君たちが思っているほど、一つではない」

 

 男は、空中に手を伸ばした。

 

 すると、無数の映像が浮かび上がった。

 

 病院。

 

 家庭。

 

 学校。

 

 戦場。

 

 崩壊した街。

 

 そして、何もない白い空間。

 

「世界には、無数の可能性がある。人間が生まれる可能性。生まれない可能性。誰かが生きる可能性。誰かが死ぬ可能性」

 

 男は、映像を見つめた。

 

「だが、可能性がすべて現実になるわけではない」

 

 彼は、出久を見た。

 

「世界は、何かを選ぶ」

 

 次に、イチを見る。

 

「君が生まれなかったように」

 

 そして、お茶子を見る。

 

「彼女が忘れられたように」

 

 最後に、ひなたを見る。

 

「彼女が、存在しなかったことにされたように」

 

 男は、静かに言った。

 

「世界は、誰かを選ぶために、誰かを選ばない」

 

 出久は、歯を食いしばった。

 

「……だからって、誰かを消していい理由にはならない」

 

「その通りだ」

 

 男は、あっさりと頷いた。

 

「だから、僕は君たちに聞きたいんだ」

 

 彼は、手を広げた。

 

「――君たちは、誰を選ぶ?」

 

 その瞬間、部屋が暗転した。

 

 無数の扉が現れる。

 

 それぞれの扉には、名前が刻まれていた。

 

 《緑谷出久》

 

 《麗日お茶子》

 

 《轟焦凍》

 

 《イチ》

 

 《ひなた》

 

 そして、まだ見ぬ誰かの名前。

 

 《未登録個体》

 

 《未誕生個体》

 

 《消失個体》

 

 《死者》

 

 《生者》

 

 すべての扉が、同時に開いた。

 

 その向こうには、無数の人間がいた。

 

 生きている人間。

 

 死んだ人間。

 

 生まれなかった人間。

 

 忘れられた人間。

 

 そして、誰にも知られないまま消えていった人間。

 

 男は、その光景を見つめていた。

 

「さあ、始めよう」

 

 彼は、楽しそうに笑った。

 

「君たちが、本当に何を大切にしているのか」

 

 そして。

 

「――君たちが、誰を犠牲にするのか」

 

 その瞬間、出久は理解した。

 

 この男は、選択を求めている。

 

 だが、それは、ただ選択するところを見たいからではない。

 

 選択した人間が、その結果を正しいと信じる瞬間を見たいのだ。

 

 誰かを救うために、誰かを犠牲にした人間。

 

 その犠牲を正当化する人間。

 

 そして、その正当化を疑い始める人間。

 

 男は、そのすべてを見たいのだ。

 

「……お前は」

 

 出久は、男を睨んだ。

 

「僕たちに、何をさせたいんだ」

 

 男は、微笑んだ。

 

「何も」

 

 そして、静かに言った。

 

「君たちが、自分で決めるんだ」

 

6 誰が、世界を選んだのか

 同じ頃。

 

 南極の地下施設で、死は一つの報告を受け取っていた。

 

 《未誕生個体:第二段階へ移行》

 

 《名前取得:確認》

 

 《存在維持:部分成功》

 

 《因果修正:拒否》

 

 死は、目を細めた。

 

「……名前を得たのか」

 

 その記録は、彼の計画には存在しない。

 

 死者の蘇生。

 

 記憶の再構成。

 

 世界の再構築。

 

 それらは、死自身が進めてきた計画だった。

 

 だが、未誕生個体の存在要求は、別のものだった。

 

 死は、記録の続きを開いた。

 

 《命名者:麗日お茶子》

 

 《命名対象:ひなた》

 

 《命名結果:承認》

 

 そして、その下に。

 

 《未登録個体の介入:確認》

 

 死の表情が険しくなった。

 

「……未登録個体?」

 

 記録の中に、男の姿が映し出された。

 

 黒いスーツ。

 

 整った顔立ち。

 

 何の感情も読み取れない目。

 

 死は、その顔を知っていた。

 

 いや。

 

 知っているはずがなかった。

 

 彼は、過去にその男と会ったことがない。

 

 記録にも存在しない。

 

 だが、その顔を見た瞬間、死は理解した。

 

「……お前か」

 

 男の映像が、こちらを向いた。

 

 まるで、死が見ていることを知っているかのように。

 

 そして、口を動かした。

 

『――次は、君の番だ』

 

 映像が途切れた。

 

 死は、しばらく動かなかった。

 

 やがて、静かに呟いた。

 

「……そういうことか」

 

 未登録個体。

 

 世界から消された者。

 

 死者でもなく、生者でもない。

 

 生まれなかった者でもなく、存在しなかった者でもない。

 

 その男は、分類そのものの外側にいる。

 

 死が管理する死者の領域にも。

 

 アザトースが与えた謎の領域にも。

 

 ウルトロンが制御しようとする選択の領域にも。

 

 存在しない。

 

 つまり、彼は。

 

 世界の外側から、世界を見ている。

 

 死は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……ニャルラトホテプ」

 

 その名を呼んだ瞬間、部屋の隅で、誰かが笑った。

 

『おや。僕の名前を呼ぶなんて、珍しいね』

 

 死は振り返らなかった。

 

「お前が、あの男を動かしているのか」

 

『さあ?』

 

「答えろ」

 

『僕は、彼に選択肢を与えただけだよ』

 

 声は、楽しそうだった。

 

『彼が何を選ぶのかは、彼自身が決めたことだ』

 

「……彼は、何者だ?」

 

『君が知りたいのは、それかな?』

 

 ニャルラトホテプの声が、少しだけ低くなった。

 

『彼は、世界が選ばなかった者たちの一人だよ』

 

「……一人?」

 

『そう。一人』

 

 声が笑った。

 

『でも、彼は一人であることをやめたんだ』

 

 死は、目を細めた。

 

「どういう意味だ」

 

『彼は、自分が存在しないことを認めなかった』

 

 ニャルラトホテプは、囁いた。

 

『そして、自分が存在しないなら、世界の方が間違っていると考えた』

 

 死は黙っていた。

 

『彼は、世界を変えたいんだよ』

 

 声が、楽しそうに弾んだ。

 

『自分が存在できる世界に。自分が忘れられない世界に。自分が選ばれなかったことを、誰も正当化できない世界に』

 

「……それは、世界再構築計画と同じではない」

 

『もちろん』

 

 ニャルラトホテプは、笑った。

 

『君は、失われたものを取り戻そうとしている。彼は、失われたものが生まれる前から、世界を作り直そうとしている』

 

 死は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……彼の目的は何だ?」

 

『さあ?』

 

「またそれか」

 

『本当に分からないんだよ』

 

 ニャルラトホテプの声は、少しだけ真剣だった。

 

『彼が何を望んでいるのか。どこまで世界を変えるつもりなのか。彼自身が、まだ決めていない』

 

 死は、静かに息を吐いた。

 

 それは、厄介な相手だった。

 

 目的が分かっている敵なら、対処できる。

 

 欲望が分かっている敵なら、交渉もできる。

 

 だが、自分自身の望みさえ決めていない存在は、何をするか分からない。

 

 しかも、彼は世界の外側にいる。

 

 死の計画にも、アザトースの計画にも、ウルトロンの計画にも属さない。

 

 ただ、自分が存在できる世界を求めている。

 

「……ニャルラトホテプ」

 

『何かな?』

 

「お前は、何を望んでいる?」

 

 沈黙。

 

 そして、声が笑った。

 

『――君たちが、僕の知らない答えを出すことだよ』

 

 その声が消えたあと、死は長い間、何も言わなかった。

 

 やがて、彼は一つの命令を下した。

 

「八つの欲望に伝えろ」

 

 端末が起動する。

 

「未登録個体への直接介入を禁止する。ただし、各自の目的に基づく行動は制限しない」

 

 通信先から、複数の反応が返ってくる。

 

 死は続けた。

 

「そして、ウルトロンの安寧計画について、監視を強化しろ」

 

 命令を終えた彼は、最後に一つだけ呟いた。

 

「……世界が、何かを選ばなければならないとしても」

 

 死の目が、暗闇を見つめた。

 

「その選択を、誰か一人に押しつけるわけにはいかない」

 

 だが、彼はまだ知らなかった。

 

 彼自身が、すでに一つの選択を迫られていることを。

 

 死者を蘇らせること。

 

 生者を守ること。

 

 世界を再構築すること。

 

 そして、世界から消された者たちを、どこまで認めるのか。

 

 そのすべてを同時に叶えることは、できないかもしれない。

 

 いつか、死自身も選ばなければならない。

 

 誰かを救うために、誰かを諦めるのか。

 

 それとも、誰も諦めないために、世界そのものを壊すのか。

 

 死は、まだ答えを持っていなかった。

 

7 名前を持たない者たちの反乱

 白い空間に戻ると、黒いスーツの男は、出久たちの前に立っていた。

 

 彼は、ひなたを見つめていた。

 

「……いい名前だね」

 

 男が言った。

 

「ひなた。太陽の光を思わせる名前だ」

 

 お茶子は、ひなたを抱きしめた。

 

「……あなたは、何がしたいの?」

 

「何も」

 

 男は答えた。

 

「僕は、ただ君たちに選んでほしいだけだ」

 

「嘘だよ」

 

 お茶子は、はっきりと言った。

 

 男の笑顔が、わずかに止まった。

 

「……どうして、そう思うのかな?」

 

「あなたは、私たちが選んだ結果を、最初から決めている」

 

 お茶子は、男を睨んだ。

 

「私がひなたを選んだら、誰かが消える。私がひなたを選ばなかったら、ひなたが消える。どちらを選んでも、あなたが望む結果になるようにしている」

 

「……なるほど」

 

「それに、あなたは、私たちが選ぶところを見たいんじゃない」

 

 お茶子は、ひなたの手を握った。

 

「私たちが、自分の選択を正しいと思い込むところを見たいんだ」

 

 男は、少しだけ笑った。

 

「君は、賢いね」

 

「そういう言葉で、ごまかさないで」

 

 お茶子の声が鋭くなった。

 

「あなたは、ひなたを何に使うつもりなの?」

 

 男は、しばらく黙っていた。

 

 そして、答えた。

 

「彼女は、最初の証拠になる」

 

「……何の?」

 

「世界が、誰かを選んでいるという証拠だ」

 

 男は、ひなたを見つめた。

 

「彼女が存在していることを認めれば、世界は自分が彼女を消したことを認めなければならない」

 

「……」

 

「そして、彼女を消したことを認めれば、世界は、ほかにも消した者がいることを認めなければならない」

 

 男は、ゆっくりと両手を広げた。

 

「そうなれば、世界はもう、元の形には戻れない」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……それが、お前の目的か」

 

「目的というほど、立派なものじゃない」

 

 男は、静かに言った。

 

「僕は、ただ世界に、自分が何をしたのかを思い出させたいだけだ」

 

 その言葉に、イチが顔を上げた。

 

「……お前も、消されたのか?」

 

 男は、イチを見た。

 

「そうだよ」

 

「……誰に?」

 

「世界に」

 

「……違う」

 

 イチは、首を振った。

 

「世界は、人間じゃない。誰かが、世界をそうしたんだ」

 

 男は、微笑んだ。

 

「君は、まだそう思っているんだね」

 

「……何?」

 

「誰かが悪いことをした。誰かが君を消した。誰かが君から人生を奪った。そう考えれば、君はその誰かを憎めばいい」

 

 男は、一歩前へ出た。

 

「でも、もし誰も悪くなかったとしたら?」

 

 イチの表情が固まった。

 

「もし、誰も君を消したくなかったとしたら?」

 

 男は、淡々と続けた。

 

「もし、世界が君を消したのは、誰かを救うためだったとしたら?」

 

 出久の脳裏に、あの言葉が蘇った。

 

 ――君が生まれなければ、みんなが助かるんだ。

 

 イチが、生まれなかった理由。

 

 ひなたが、消された理由。

 

 それが、誰かを救うためだったとしたら。

 

 その選択をした人間は、悪人なのか。

 

 それとも、正しいことをした人間なのか。

 

 男は、出久を見た。

 

「君は、どう思う?」

 

 出久は答えなかった。

 

「君は、ヒーローだ。誰かを救うために、何かを犠牲にすることを、何度も考えてきたはずだ」

 

 男は、穏やかに言った。

 

「もし、君が誰かを救うために、別の誰かを消さなければならなかったら?」

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

「……そんな選択は、したくない」

 

「でも、選ばなければならない時が来るかもしれない」

 

「……」

 

「その時、君はどうする?」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……その時になってから、考える」

 

 男は、笑った。

 

「そうか」

 

「今、答えを決めるつもりはない。君が用意した選択肢の中から、どれかを選ぶつもりもない」

 

 出久は、男を睨んだ。

 

「僕は、君が何をしたいのかを知りたい。そして、君が本当に何かを望んでいるなら、その望みを聞きたい」

 

 男の目が、わずかに揺れた。

 

「……聞きたい?」

 

「うん」

 

 出久は頷いた。

 

「君も、誰かに存在を認めてほしかったんじゃないのか?」

 

 男は、何も言わなかった。

 

「君も、自分がここにいることを、誰かに知ってほしかったんじゃないのか?」

 

 出久は続けた。

 

「だったら、君が何を望んでいるのかを聞かせてほしい」

 

 男は、長い間、出久を見つめていた。

 

 そして。

 

「……君は、本当に」

 

 彼は、微笑んだ。

 

「――どこまでも、面倒な人間だね」

 

 その瞬間、男の背後に、無数の人影が現れた。

 

 子供。

 

 老人。

 

 若者。

 

 女性。

 

 男性。

 

 さまざまな姿の人間たち。

 

 だが、彼らには共通点があった。

 

 誰も、名前を持っていなかった。

 

 彼らは、ただ出久たちを見つめていた。

 

 その目には、憎しみがあった。

 

 悲しみがあった。

 

 そして、期待があった。

 

「……彼らは」

 

 出久が呟いた。

 

「僕と同じだよ」

 

 男は答えた。

 

「世界から消された者たち。生まれられなかった者たち。生きていたのに、いなかったことにされた者たち」

 

 彼は、ゆっくりと手を広げた。

 

「彼らは、自分の名前を取り戻したいと思っている」

 

 男は、出久を見た。

 

「自分の人生を取り戻したいと思っている」

 

 そして。

 

「――自分たちを消した世界を、許したくないと思っている」

 

 その言葉に、イチが顔を上げた。

 

 彼は、無数の人影を見つめた。

 

 その中には、自分と同じように、名前を持たない子供たちがいた。

 

 泣いている子。

 

 怒っている子。

 

 何も感じなくなった子。

 

 そして、誰かの手を握りしめている子。

 

 イチは、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……僕は」

 

 彼は、男を見た。

 

「僕は、君たちのことを知らない」

 

 無数の人影が、彼を見つめた。

 

「君たちが、どんな人生を生きたかったのかも。どんな名前が欲しかったのかも。何を失ったのかも、僕には分からない」

 

 イチは、自分の左手を握りしめた。

 

「でも、僕は、君たちが存在していたことを否定したくない」

 

 彼は、出久を見た。

 

「……僕も、そうだったから」

 

 男の笑顔が、消えた。

 

 イチは続けた。

 

「だから、僕は君たちを消したくない。君たちの存在を認めたい」

 

 そして。

 

「――でも、君たちが誰かを消すことを、正しいとは思わない」

 

 無数の人影が、ざわめいた。

 

 男は、イチを見つめていた。

 

「……どうして?」

 

「……何?」

 

「どうして、君は彼らを否定するんだ?」

 

「否定していない」

 

 イチは答えた。

 

「彼らが生きたかったことを否定していない。彼らが苦しんだことを否定していない。彼らが世界を憎むことを、間違いだとも思わない」

 

 イチは、はっきりと言った。

 

「でも、彼らが世界を憎むことと、世界を壊すことは、同じじゃない」

 

 男は、黙っていた。

 

「僕は、君たちの存在を認めたい」

 

 イチは続けた。

 

「でも、君たちの代わりに、誰かの人生を奪うつもりはない」

 

 その言葉が、白い空間に響いた。

 

 無数の人影が、静かになった。

 

 そして、その中の一人。

 

 小さな子供が、一歩前へ出た。

 

「……じゃあ」

 

 子供は、震える声で尋ねた。

 

「……僕たちは、どうすればいいの?」

 

 イチは、答えられなかった。

 

 それが、彼の本当の限界だった。

 

 自分が何者なのかも分からない。

 

 これからどう生きるのかも分からない。

 

 そんな自分が、他の未誕生個体たちに、どう生きればいいのかを教えられるはずがなかった。

 

 だから、彼は正直に答えた。

 

「……分からない」

 

 子供は、目を伏せた。

 

 イチは続けた。

 

「でも、僕は、一緒に考えたい」

 

 彼は、子供へ手を伸ばした。

 

「君が何を望んでいるのか。君がどんな名前で呼ばれたいのか。君がどんな人生を生きたいのか」

 

 イチは、微かに笑った。

 

「……一緒に考えたいんだ」

 

 子供は、長い間、イチを見つめていた。

 

 そして。

 

 ゆっくりと、その手を取った。

 

 その瞬間。

 

 男の背後にあった無数の人影が、一斉に揺れた。

 

 まるで、世界そのものが、何かを拒絶しているかのように。

 

 男は、初めて、明確な怒りを見せた。

 

「……そうか」

 

 彼は、低い声で言った。

 

「君も、そちら側を選ぶのか」

 

 イチは、男を見た。

 

「……そちら側?」

 

「世界を許す側だよ」

 

 男は、微笑んだ。

 

「世界に、もう一度チャンスを与える側だ」

 

「……違う」

 

 イチは首を振った。

 

「僕は、世界を許したわけじゃない」

 

 彼は、出久を見た。

 

「ただ、世界を憎むことだけで、自分の人生を決めたくないんだ」

 

 その言葉に、出久は息を呑んだ。

 

 イチは、自分の道を選び始めている。

 

 出久を憎むこと。

 

 世界を憎むこと。

 

 それらを、自分の人生のすべてにするのではなく。

 

 それでも、彼はまだ、出久を許したわけではない。

 

 憎しみは残っている。

 

 苦しみも残っている。

 

 そして、彼が本当に何を選ぶのかは、まだ分からない。

 

 それでも。

 

 彼は、初めて、自分の人生を選ぼうとしていた。

 

 男は、長い沈黙の後、笑った。

 

「……いいだろう」

 

 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 

 楽しさの奥に、冷たい何かがあった。

 

「君たちが、自分の答えを見つけられるというのなら」

 

 男は、手を広げた。

 

「――世界を、もう一度試してみよう」

 

 その瞬間、無数の扉が開いた。

 

 その向こうに、世界が広がっていた。

 

 現実の世界。

 

 死者が蘇った世界。

 

 生まれなかった者たちが存在する世界。

 

 そして、まだ誰も選んでいない世界。

 

 男は、出久たちを見つめた。

 

「君たちが、どこまで自分の答えを信じられるのか」

 

 そして。

 

「――見せてもらおう」

 

8 忘れられた名前

 白い空間が崩れ始めた。

 

 轟が叫ぶ。

 

「全員、集まれ!」

 

 出久は、お茶子の腕を掴んだ。

 

 イチは、ひなたを抱き上げた。

 

 しかし、崩壊は止まらない。

 

 壁が裂け、床が消え、天井が裏返る。

 

 無数の扉が、次々と閉じていく。

 

 その向こうから、名前を持たない者たちの声が聞こえた。

 

 ――僕を忘れないで。

 

 ――私を消さないで。

 

 ――僕たちは、ここにいる。

 

 ――私たちは、生まれたかった。

 

 ――私たちは、生きたかった。

 

 出久は、思わず振り返った。

 

 そこには、無数の人影がいた。

 

 彼らは、まだ何も選んでいない。

 

 何を望んでいるのかも、分からない。

 

 ただ、自分が存在していたことを、誰かに知ってほしいと願っている。

 

 出久は、彼らに手を伸ばしかけた。

 

 しかし、その前に。

 

「……緑谷」

 

 イチが、出久の腕を掴んだ。

 

「今は、行こう」

 

「でも……!」

 

「分かっている」

 

 イチは、苦しそうに笑った。

 

「僕も、彼らを置いていきたくない」

 

 彼は、無数の人影を見つめた。

 

「でも、今ここで全員を助けようとしたら、僕たちは誰も助けられないかもしれない」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 それは、出久が何度も考えてきたことだった。

 

 誰も見捨てたくない。

 

 誰も失いたくない。

 

 だが、現実には、手が届かないこともある。

 

 だからこそ、出久は、何度も手を伸ばしてきた。

 

 届かないと分かっていても。

 

 その選択が、正しいのかどうかは分からない。

 

 それでも、彼は。

 

「……必ず、戻ってくる」

 

 出久は、無数の人影に向かって言った。

 

「君たちが何者なのか、君たちが何を望んでいるのか、必ず知りに来る」

 

 彼は、拳を握りしめた。

 

「だから、今は……待っていてほしい」

 

 無数の人影は、何も答えなかった。

 

 ただ、その中の一人。

 

 先ほど、イチの手を取った子供が、顔を上げた。

 

「……本当?」

 

 出久は頷いた。

 

「うん」

 

「……約束?」

 

「約束する」

 

 子供は、微かに笑った。

 

 そして、ゆっくりと消えていった。

 

 白い空間が、完全に崩壊した。

 

 次に目を開けた時、出久たちは、東京湾第七物流区の外れに立っていた。

 

 空は、暗い。

 

 遠くでは、まだ火災が続いている。

 

 サイレンが鳴り響き、救助隊の声が聞こえる。

 

 現実の世界だ。

 

 少なくとも、今は。

 

「……戻ってきたのか」

 

 轟が呟いた。

 

 出久は、周囲を見回した。

 

 お茶子がいる。

 

 ひなたがいる。

 

 イチがいる。

 

 全員、ここにいる。

 

 しかし、何かが違った。

 

 出久は、胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。

 

 まるで、自分の中に、何かが増えたような。

 

 あるいは、何かが欠けたような。

 

「……緑谷くん?」

 

 お茶子が、心配そうに顔を覗き込んだ。

 

「大丈夫?」

 

「……うん。大丈夫」

 

 出久は答えた。

 

 しかし、彼の視線は、お茶子の腕の中にいるひなたへ向けられていた。

 

 ひなたは、静かに眠っていた。

 

 その顔は、穏やかだった。

 

 そして、彼女の胸元には、小さな紙片が挟まっていた。

 

「……それ、何?」

 

 お茶子が紙片を取り出した。

 

 そこには、手書きの文字が記されていた。

 

 《ひなた》

 

 そして、その下に。

 

 《本名:未登録》

 

 お茶子の表情が曇った。

 

「……まだ、終わってないんだね」

 

 イチが、頷いた。

 

「うん」

 

 彼は、自分の左手を見た。

 

 傷は、まだ消えていない。

 

 しかし、その隣に、新しい文字が浮かび上がっていた。

 

 《仮登録名:イチ》

 

 《個体認識:承認》

 

 《存在維持:進行中》

 

 イチは、その文字を見つめた。

 

「……僕も、まだ途中なんだ」

 

 出久は、彼の肩に手を置いた。

 

「……一緒に考えよう」

 

 イチは、しばらく黙っていた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

 その時。

 

 出久の端末が鳴った。

 

 着信元は、相澤消太。

 

「……先生?」

 

『緑谷。無事か』

 

「はい。僕たちは戻ってきました」

 

『そうか……』

 

 相澤の声には、安堵があった。

 

 しかし、すぐに緊張が戻った。

 

『今すぐ雄英へ戻れ。状況が変わった』

 

「何があったんですか?」

 

『……世界中で、同じ現象が起きている』

 

 出久は息を呑んだ。

 

『存在しないはずの人間が、各地で確認され始めた。出生記録のない子供。死亡記録だけが残っている人間。誰も覚えていない家族』

 

 相澤は、低い声で続けた。

 

『そして、彼らを見た人間の記憶が、少しずつ変わり始めている』

 

「……記憶が?」

 

『ああ』

 

 相澤は、少しだけ言葉を詰まらせた。

 

『緑谷。俺は、今朝まで一人の生徒を知っていたはずだ』

 

 出久は、黙って聞いていた。

 

『名前も、顔も、声も覚えている。そいつが何を得意としていて、どんな癖があって、どんな夢を持っていたのかも覚えている』

 

 相澤の声が、震えた。

 

『だが、今は、その生徒の名前だけが思い出せない』

 

 出久は、息を止めた。

 

『記録にも残っていない。写真にも写っていない。ほかの教師に聞いても、誰も知らないと言う』

 

 相澤は、静かに言った。

 

『……それでも、俺は、そいつがいたことを覚えている』

 

 出久は、拳を握りしめた。

 

『だから、緑谷』

 

 相澤の声が、はっきりと響いた。

 

『お前たちが見たものを、全部話せ』

 

「……はい」

 

『それから』

 

 相澤は、少しだけ声を低くした。

 

『お前自身の記憶も、疑え』

 

 通信が切れた。

 

 出久は、しばらく端末を見つめていた。

 

 記憶を疑え。

 

 自分の記憶を。

 

 自分が生きてきた人生を。

 

 自分が誰と出会い、誰を救い、誰に救われたのかを。

 

 もし、その中に、存在しなかった人間が混ざっているとしたら。

 

 もし、自分が誰かを忘れているとしたら。

 

 そして。

 

 もし、自分が覚えている大切な人たちの中に、最初から存在しなかった者がいるとしたら。

 

 出久は、ゆっくりと目を閉じた。

 

 その時。

 

 彼の頭の中に、声が響いた。

 

 ――君が生まれなければ、みんなが助かるんだ。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……今の」

 

 轟が、すぐに振り返った。

 

「どうした?」

 

「……いや」

 

 出久は、首を振った。

 

「何でもない」

 

 だが、何でもなくはなかった。

 

 今の声は、記憶の中で聞いた声とは違っていた。

 

 もっと近い。

 

 もっと深い。

 

 そして。

 

 その声の主は、出久自身だった。

 

 出久は、ゆっくりと自分の手を見つめた。

 

 左手の甲に、細い傷が浮かび上がっていた。

 

 イチと同じ位置。

 

 ひなたと同じ位置。

 

 そして、あの保育器の中にいた赤ん坊と同じ位置。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その傷は、淡く光っていた。

 

 そして、彼の端末に、新しい記録が表示された。

 

 《緑谷出久》

 

 《存在状態:確定》

 

 《出生記録:あり》

 

 《死亡記録:なし》

 

 《未誕生個体との関連:未確定》

 

 その下に。

 

 《第一未誕生個体との関係:照合中》

 

 さらに。

 

 《第二未誕生個体との関係:照合中》

 

 そして、最後の一行。

 

 《原初個体との関係:一致》

 

 出久は、息を止めた。

 

「……原初個体?」

 

 その瞬間。

 

 遠い場所で、誰かが笑った。

 

 誰もいないはずの場所で。

 

 誰にも聞こえないはずの声が。

 

『――やっと、ここまで来たね』

 

 出久は、振り返った。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 ただ、夜の街が広がっている。

 

 その街のどこかで、誰かが生まれようとしていた。

 

 あるいは。

 

 誰かが、もう一度、生まれ直そうとしていた。

 

 そして、世界はまだ、その名前を知らない。

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