僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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 第六話 奇跡を祝う日

 

 ――奇跡というものは、いつだって残酷だ。

 それが本当に奇跡だったのかどうかを、人間が確かめられるようになる頃には。

 もう、誰かが取り返しのつかないものを失っていることがある。

     *

 午前六時三十分。

 東京都。

 夜明けを迎えた街は、いつもと同じように動き始めていた。

 駅の改札を通り抜ける人々。

 開店準備を始める商店。

 交差点で信号を待つ親子。

 空を飛ぶヒーローの姿を映す大型ビジョン。

 けれど、そこには昨日まで存在しなかった光景が混ざっていた。

 歩道の端で、老婦人が一人の青年を抱きしめて泣いていた。

 青年の姿は、彼女の息子が二十年前に亡くなったときのままだった。

 バス停では、制服姿の少女が、隣に立つ母親の手を握りしめていた。

 少女は、三年前の交通事故で亡くなっている。

 母親は、何度も何度も娘の頬に触れ、温度を確かめていた。

 商店街の一角では、店主が亡くなった妻と並んでシャッターを開けていた。

 妻は、まだ少しぎこちない手つきで看板を拭いている。

「あなた、そこ、もう少し右」

「こっちか?」

「違う違う。昔から不器用なんだから」

 妻が笑った。

 店主も笑った。

 その笑い声を聞いて、通りすがりの人々が足を止めた。

 誰かがスマートフォンを取り出す。

 誰かが泣き出す。

 誰かが、亡くなった家族の名前を呟いた。

 そして、世界中で同じ光景が繰り返されていた。

 死者が帰ってきた。

 昨日まで、二度と会えないと思っていた人々が。

 写真の中でしか笑わなくなった人々が。

 墓石に名前を刻まれ、思い出の中にしか存在しなくなった人々が。

 もう一度、この世界に戻ってきた。

 科学者たちは説明できなかった。

 医師たちは理解できなかった。

 宗教家たちは、それぞれの言葉でこの現象を解釈しようとした。

 政府は安全を呼びかけ、ヒーローたちは警戒態勢を維持し、研究機関は世界中の帰還者の情報を集め続けた。

 それでも。

 人々は、奇跡という言葉を捨てなかった。

 捨てられるはずがなかった。

 なぜなら、目の前にいるのだから。

 ずっと会いたかった人が。

 もう一度、名前を呼んでくれる人が。

 その手を握れば、握り返してくれる人が。

 目の前にいるのだから。

     *

 午前七時。

 雄英高校。

 緊急対策本部として使用されている会議室には、夜を徹して集められた資料が積み上がっていた。

 壁一面のモニターには、世界各地から送られてきた帰還者の映像が映し出されている。

 家族との再会。

 医療機関での検査。

 警察による事情聴取。

 そして、黒い霧を伴う異常事例。

 同じ現象の中に、明らかに異なる性質のものが混在していた。

「……報告を続けます」

 マニュアルを手にした職員が、疲労を隠せない声で説明した。

「現時点で確認されている帰還者の多くは、身体的には死亡前の状態に近い特徴を示しています。ただし、死亡時の年齢や外傷の状態が一致しない事例もあり、共通する原理は不明です」

「記憶は?」

 相澤が尋ねた。

「個人差があります。家族や親しい人物を認識できるケースがある一方、名前すら思い出せないケースもあります。また、記憶が断片的に戻る事例も確認されています」

「個性は?」

「発現する者がいます。ただし、生前と同じ個性かどうかは判定できていません。発動条件が変化している例もあり、そもそも既存の個性分類に当てはまらない現象も――」

「要するに、分からないことだらけか」

 相澤が言った。

「……はい」

「分かった。続けろ」

 職員は一度だけ頭を下げ、次の資料を開いた。

 その隣で、プレゼント・マイクが腕を組んでいる。

 普段の彼なら、こういう重苦しい空気を少しでも軽くするために冗談の一つも飛ばすところだ。

 しかし、今は口を開かなかった。

 彼も知っている。

 死者が帰ってきたという事実が、どれほど多くの人々を救うのか。

 そして、その奇跡がどれほど危険なものになり得るのか。

「それで、昨日の黒い霧は?」

 マイクが尋ねた。

 職員は、画面を切り替えた。

 そこに映ったのは、追悼式典会場で撮影された映像だった。

 黒い霧に包まれた男性。

 その手を握る緑谷出久。

 霧が出久の身体へ伸び、しかし途中で動きを止める。

 そして、まるで何かに怯えるように後退していく。

 映像を見ていた全員が、黙り込んだ。

「……これ、何度見ても変だな」

 マイクが呟いた。

「緑谷が特別な個性を使ったわけじゃないんだろ?」

「ああ」

 相澤が答えた。

「本人も何もしていないと言っている。少なくとも、意識して発動した力はない」

「じゃあ、どうして霧が避けた?」

「分からん」

 相澤は、画面を見つめた。

「だが、一つだけ確かなことがある」

 彼の目が、鋭くなる。

「向こうは緑谷を認識している」

 会議室に沈黙が落ちた。

 死者が帰ってきた。

 その中には、別の存在に侵食されている者がいる。

 そして、その存在は緑谷出久に関心を示した。

 偶然と片づけるには、条件が揃いすぎていた。

「……緑谷を単独で動かすな」

 相澤が言った。

「本人には悪いが、当面は監視と保護を兼ねる。本人の自由を奪うつもりはない。ただし、異常現象に接触した場合は必ず報告させろ」

「分かった」

 マイクが頷いた。

 そのとき。

 会議室の扉が開いた。

「失礼します」

 入ってきたのは、緑谷出久だった。

 その後ろには麗日お茶子がいる。

 出久は寝不足のせいか、目の下に薄い影を作っていた。

 それでも、いつものように周囲を見渡し、集まっている人々に頭を下げた。

「おはようございます」

「おはよう、緑谷」

 相澤が答えた。

「体調は?」

「問題ありません」

「嘘をつくな。顔色が悪い」

「えっ、そ、そうですか?」

「そうだ」

 相澤は即答した。

「今日は休めと言いたいところだが、状況が状況だ。少なくとも、無茶はするな」

「はい」

 出久は頷いた。

 その返事を聞いて、相澤はわずかに眉を寄せた。

「……本当に分かっているんだろうな?」

「ええと……はい」

「今、間があったぞ」

「すみません……」

 マイクが、思わず吹き出した。

「ははっ! 変わんねえなあ、デク! 昔から先生に怒られるときだけは、妙に素直なんだよな!」

「マイク先生……」

「笑ってる場合か、山田」

「いやいや、こういうときこそ笑わねえと!」

 そう言いながらも、マイクの視線は出久の顔を見ていた。

 その奥にある疲労と、言葉にしない不安を見逃さないように。

「……なあ、デク」

「はい?」

「昨日、何か見たんだろ?」

 出久の表情が、わずかに変わった。

 相澤も、すぐに気づいた。

「緑谷?」

「……はい」

 出久は、少し考えてから答えた。

「暗闇の中で、昔の自分を見ました」

「昔の自分?」

「はい。個性がなかった頃の僕です」

 彼は自分の手を見た。

「そこで……ある問いを投げかけられました」

「どんな問いだ?」

 相澤が尋ねる。

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

「誰かを救うために、再び自分を犠牲にするのか、と」

 誰も、すぐには答えなかった。

 その問いは、出久だけに向けられたものではないように聞こえた。

 誰かを救うために傷つくこと。

 誰かを守るために自分を捨てること。

 ヒーローという職業の中で、あまりにも当たり前になっていた考え方。

 それを、何かが問い直そうとしている。

「……それで、お前はどう答えた?」

 相澤が尋ねた。

 出久は、顔を上げた。

「一人で全部を救おうとは思わない、と」

 彼は、隣のお茶子を見た。

「僕が届かないところには、誰かが手を伸ばしてくれる。僕が倒れたら、起こしてくれる人がいる。だから、僕は……誰かと一緒に救いたいんです」

 マイクが、静かに息を吐いた。

 相澤は、しばらく出久を見つめていた。

 そして、短く言った。

「……なら、その答えを忘れるな」

「はい」

「どんな状況でもだ。お前はすぐ、自分一人で何とかしようとする」

「……はい」

「返事だけは一人前だな」

「すみません……」

 再び、マイクが笑った。

 今度は相澤も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 そのときだった。

 会議室のモニターが、突然切り替わった。

 緊急速報。

 画面の上部に、赤い文字が表示される。

 ――帰還者に関する臨時発表。

 その映像に映ったのは、政府の緊急対策担当者だった。

『本日、政府は、帰還者の保護と社会生活への復帰を支援するため、臨時の受け入れ体制を拡充することを決定しました』

 担当者は、慎重に言葉を選びながら説明を続けた。

『帰還者の中には、家族や友人との再会を望む方々が数多くいらっしゃいます。政府は、本人の意思と安全を尊重しながら、可能な限り再会を支援していきます』

 画面が切り替わった。

 そこには、帰還した人々の姿が映し出されていた。

 亡くなった妻と再会した老人。

 娘を抱きしめる母親。

 かつての友人と肩を並べる青年。

 そして。

 画面の隅に、見覚えのある女性の姿が映った。

 長い髪。

 特徴的な笑顔。

 かつて、雄英高校で教壇に立っていた女性。

 ミッドナイト。

 出久は、息を呑んだ。

「……先生」

 画面の中で、彼女はインタビューに答えていた。

『まだ、分からないことばかりです。でも……』

 ミッドナイトは、少し困ったように笑った。

『帰ってきた以上、やらなきゃいけないことがあるんじゃないかしら。生徒たちの顔も見たいしね』

 彼女は、カメラの向こうを見た。

『……それに、まだ叱っていない子がいるもの』

 その言葉に、マイクが顔を伏せた。

 相澤は、目を閉じた。

 出久は、画面から目を離せなかった。

 生きている。

 ミッドナイト先生が。

 もう二度と会えないと思っていた人が。

 今、確かにそこにいる。

 嬉しい。

 その気持ちは、確かだった。

 けれど。

 胸の奥に、昨日から消えない不安が残っていた。

 彼女は、本当に彼女なのだろうか。

 その笑顔は。

 その声は。

 その記憶は。

 彼女自身のものなのだろうか。

「……緑谷」

 相澤が、静かに呼んだ。

「喜んでいい」

 出久は、顔を上げた。

「え……?」

「疑うことと、喜ぶことは両立する。今すぐ答えを出す必要はない」

 相澤は、モニターを見つめた。

「……俺だって、あいつに会いたい」

 その声は、いつもより低かった。

「だからこそ、確かめる。帰ってきた人間が何者なのかを。本人の意思が残っているのかを。何が起きているのかを」

 彼は、出久を見た。

「喜びを、恐怖に明け渡すな。だが、恐怖を無視するな」

「……はい」

 出久は、深く頷いた。

 奇跡を信じたい。

 けれど、奇跡だからといって、何もかもを信じていいわけではない。

 それでも。

 目の前にいる人を、最初から偽物だと決めつけることもできない。

 その矛盾こそが、これから彼らが向き合わなければならない問題だった。

     *

 午前九時。

 雄英高校の正門前。

 追悼式典は、昨日の事件によって中止となっていた。

 会場の安全確認が終わるまで、公式行事は再開できない。

 その決定は、当然だった。

 それでも。

 正門の外には、少しずつ人が集まり始めていた。

 花を持った人。

 写真を抱いた人。

 亡くなった家族の名前を記した紙を手にした人。

 そして。

 帰還した家族と並んで歩く人々。

 彼らは、式典が中止されたことを知っていた。

 それでも、ここに来た。

 十三年前、この世界を守るために戦った人々へ。

 十三年間、帰らない人を待ち続けた人々へ。

 そして、昨日、奇跡のように帰ってきた人々へ。

 祈りを捧げるために。

 警備にあたるヒーローたちは、困惑していた。

 人々を無理に追い返すことはできない。

 だが、危険がないと断言することもできない。

 相澤は正門の内側から、その光景を見つめていた。

「……どうする?」

 マイクが尋ねた。

「危険が確認されていない限り、追い返す理由はない」

「だよな」

「ただし、警戒は続ける。帰還者の中に異常が確認された場合は、速やかに避難誘導を行う」

「了解」

 マイクは頷いた。

 そこへ、出久とお茶子がやってきた。

 二人とも、ヒーローとしての装備を身につけていた。

 出久はかつてのような圧倒的な力を持っていない。

 それでも、彼は自分にできる準備を重ねてきた。

 状況を分析するための端末。

 救助用の装備。

 通信機器。

 そして、誰かを救うために必要な判断力。

 今の彼にできることを、一つずつ積み重ねている。

「先生、外の人たちは……」

「自分たちの意思で集まっている。安全を確保できる範囲で対応する」

「分かりました」

 出久は、正門の外を見た。

 そこに、一人の少年がいた。

 十歳くらいだろうか。

 少年は、母親の手を握っていた。

 その隣には、一人の男性が立っている。

 少年は、その男性を見上げていた。

「……本当に、お父さんなの?」

 男性は、すぐには答えなかった。

 その目には、戸惑いと悲しみが浮かんでいた。

「……そうだよ」

 男性は、膝をついた。

「ごめんな。お前が生まれる前に、死んじゃって」

 少年は、男性の顔を見つめた。

「……僕のこと、覚えてる?」

 男性の表情が、凍りついた。

「……え?」

「お母さんが言ってた。お父さんは、僕が生まれる前に死んじゃったって。だから、僕のこと、知らないんでしょ?」

 男性は、口を開いた。

 けれど、言葉が出てこなかった。

 彼は、少年が生まれる前に亡くなった。

 だから、息子の顔を知らない。

 声も知らない。

 どんな性格なのかも、何が好きなのかも、知らない。

 それでも。

 自分の息子だということだけは、分かっていた。

「……知らないよ」

 男性は、正直に答えた。

 少年の目が揺れた。

「でも」

 男性は、続けた。

「これから、知っていきたい」

「……これから?」

「ああ」

 男性は、震える手を差し出した。

「君がどんな子なのか。何が好きなのか。何が嫌いなのか。どんな夢を持っているのか」

 彼は、少年の目を見た。

「……教えてくれるか?」

 少年は、しばらく男性を見つめていた。

 そして。

 ゆっくりと、その手を握った。

「……うん」

 母親が泣き出した。

 男性も、泣いた。

 少年は、二人を見て、不思議そうに首を傾げた。

 それから。

 自分も、少しだけ笑った。

 出久は、その光景を見つめていた。

 胸が熱くなった。

 死者が帰ってきたことだけが、奇跡なのではない。

 知らなかった相手を知ろうとすること。

 失われた時間を取り戻せなくても、新しい時間を始めようとすること。

 そのために、もう一度、手を伸ばすこと。

 それもまた、奇跡なのだ。

「……出久くん」

 お茶子が、隣で呟いた。

「うん?」

「私、昨日からずっと考えてたんだ」

 彼女は、少年と男性を見つめていた。

「死んだ人が帰ってきたら、きっとみんな幸せになれるんだって……どこかで思ってた」

「……うん」

「でも、違うんだね」

 お茶子は、目を伏せた。

「帰ってきても、知らないことがある。忘れちゃったこともある。帰ってきた人も、待ってた人も、どうしたらいいか分からないことがある」

 彼女は、ゆっくりと息を吸った。

「それでも、みんな、もう一度一緒にいようとしてる」

「……そうだね」

「だったら、私たちがすることは……」

 出久は、彼女の言葉を待った。

「帰ってきた人を、ただ守るだけじゃないんだと思う」

 お茶子は、顔を上げた。

「その人たちが、もう一度生きていけるようにすること。残された人たちが、これからも生きていけるようにすること。どっちも大事なんだと思う」

 出久は、頷いた。

「うん」

 そのときだった。

「おーい、デク!」

 聞き慣れた声が、背後から響いた。

 振り返ると、爆豪勝己が歩いてきていた。

 その隣には轟焦凍。

 さらに、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百、蛙吹梅雨たちの姿もあった。

 かつてのクラスメイトたち。

 今はそれぞれの場所で活動しながらも、こういう非常事態には自然と集まってくる。

「爆豪くん!」

「何ぼさっと突っ立ってんだ。仕事しろ、仕事」

「いや、今は状況確認を……」

「口じゃなくて目を動かせ」

「動かしてるよ!?」

「足も動かせ」

「はい……」

 轟が、淡々と口を挟んだ。

「爆豪、緑谷をいじめるな」

「いじめてねえ!」

「じゃあ、応援か?」

「どこをどう聞いたらそうなるんだ、半分野郎!」

 切島が笑った。

「いいじゃねえか、こういうときこそいつも通りでさ!」

「そうだね」

 八百万が頷く。

「緊張を和らげることも、現場では大切ですわ」

「……いや、あの」

 出久は、苦笑した。

 昨日から続いていた不安が、ほんの少しだけ薄れていく。

 彼らがいる。

 自分一人ではない。

 それを、改めて感じた。

 爆豪は、出久の顔をじっと見た。

「……おい」

「な、何?」

「昨日、何かあっただろ」

 出久は、わずかに目を見開いた。

「……どうして分かるの?」

「てめえの顔見りゃ分かる」

「そんなに分かりやすいかな……」

「分かりやすいんだよ、昔から」

 爆豪は、舌打ちした。

「何があったかは後で聞く。今は仕事だ」

「……うん」

「あと」

 爆豪は、少しだけ声を低くした。

「一人で抱え込むなよ」

 出久は、目を見開いた。

 爆豪は、こちらを見ていなかった。

「……次に勝手に突っ走ったら、ぶっ飛ばす」

「それ、心配してくれてるんだよね?」

「黙れデク!」

「はい!」

 切島が、また笑った。

 轟は、少しだけ口元を緩めた。

 飯田は「緊急時における連携は極めて重要だ!」と力説し始め、蛙吹は「飯田ちゃん、声が大きいわ」と落ち着かせている。

 いつもの光景。

 いつもの仲間たち。

 世界が変わってしまっても、変わらないものがある。

 出久は、そう思った。

 だからこそ。

 この世界を守りたい。

 この人たちが、これからも笑っていられる世界を。

     *

 午前十時四十分。

 雄英高校正門前。

 集まった人々は、次第に静かになっていた。

 誰かが花を置いた。

 それを見て、別の誰かが花を置いた。

 やがて、正門の前には小さな花束の列ができていた。

 公式の式典は中止された。

 けれど、人々は自分たちの意思で、祈りの場を作り始めていた。

 そこには、十三年前の戦いで亡くなった人々の名前が記されていた。

 ヒーロー。

 警察官。

 救助隊員。

 名もなき市民。

 戦いに巻き込まれ、帰らぬ人となった者たち。

 そして、昨日まで死者のままだった人々の名前も、いくつか加わっていた。

 死者が帰ってきたからといって、亡くなった事実が消えるわけではない。

 残された人々が過ごした十三年間が、なかったことになるわけでもない。

 だからこそ、祈る。

 失ったものを忘れないために。

 そして、帰ってきた人々と、これからを生きていくために。

 出久は、人々の列を見つめていた。

 その中に、一人の老人がいた。

 老人は、花束を抱えていた。

 隣には、女性が立っている。

 昨日、彼が公園で再会した妻だった。

 老人は、花束を置いた。

 そして、静かに手を合わせた。

 妻も、隣で手を合わせる。

 長い沈黙が流れた。

 やがて、老人が口を開いた。

「……お前がいない間、いろんなことがあったよ」

 妻は、黙って聞いていた。

「店も、何度か潰れかけた。息子には怒られた。孫には、もう少し身体を大事にしろって言われた」

 老人は、少し笑った。

「……でも、なんとかやってきた」

 妻の目から、涙が流れた。

「あなた……」

「だから、これからは……」

 老人は、妻の手を握った。

「今度は、俺がお前に話す番だ」

 妻は、何度も頷いた。

「……うん」

「十三年分、話すことがある」

「……うん」

「だから……」

 老人は、少しだけ顔を歪めた。

「……今度は、いなくならないでくれ」

 妻は、彼を抱きしめた。

「……分からない」

 その言葉に、老人の身体が硬くなった。

「え……?」

「私、自分がどうして戻ってきたのか、分からないの」

 妻は、涙を流しながら続けた。

「明日もここにいられるのか。来年もあなたの隣にいられるのか。何も分からない」

「……」

「でも……」

 彼女は、老人の胸に顔を埋めた。

「今は、ここにいる」

 老人は、目を閉じた。

「……ああ」

「だから、今は……一緒にいよう」

 老人は、妻を抱きしめた。

 それ以上、何も言わなかった。

 明日の保証はない。

 永遠の約束もできない。

 それでも、今は隣にいる。

 それだけが、確かなことだった。

 出久は、その姿を見ていた。

 胸の奥が、締めつけられる。

 自分は、死者を救えるのだろうか。

 この人たちを。

 帰ってきた人々を。

 そして、帰ってきたことすら知らず、どこかで苦しんでいる人々を。

 答えは、まだない。

 それでも。

 彼は、拳を握りしめた。

 今、目の前にいる人を救いたい。

 その気持ちだけは、間違いなく本物だった。

     *

 午前十一時十二分。

 警備本部に、一本の通信が入った。

『こちら、第二観測班。正門東側で異常を確認』

 相澤が、即座に反応した。

「詳細を」

『帰還者の一人が、突然動かなくなりました。意識はあるようですが、呼びかけに応じません。身体の表面に黒い線状の変化が――』

「黒い霧か?」

『現時点では確認できません。ただ、皮膚の下に黒い亀裂のようなものが広がっています』

 相澤の表情が険しくなった。

「周囲の人間を避難させろ。対象には不用意に接触するな。医療班を向かわせる」

『了解』

 通信が切れた。

 相澤は、すぐにマイクを見た。

「山田、東側へ。緑谷たちも来い」

「了解!」

 出久たちは、すぐに走り出した。

 人々の間を抜け、東側の広場へ向かう。

 そこには、十数人の人々が集まっていた。

 中央に、一人の青年が立っている。

 年齢は二十代半ばほど。

 服装は普通の私服だった。

 彼は、目を見開いたまま、ぴくりとも動かなかった。

 その首筋に、黒い線が走っている。

 細い亀裂のような線。

 それが、少しずつ顔へと伸びていた。

「……お兄ちゃん?」

 青年の前に、少女が立っていた。

 中学生くらいの少女だった。

 彼女は、青年の手を握ろうとしていた。

「ねえ、お兄ちゃん。どうしたの?」

「触るな!」

 相澤が叫んだ。

 少女が、びくりと肩を震わせた。

「で、でも……」

「下がれ!」

 相澤は、青年との距離を詰めながら、周囲に指示を出した。

「全員、後退! 医療班は防護装備を着用! 緑谷、対象の様子を見ろ。ただし、接触はするな!」

「はい!」

 出久は、青年を観察した。

 呼吸はある。

 脈拍も確認できる距離ではないが、胸がわずかに上下している。

 だが、目は焦点を結んでいない。

 まるで、何か別のものを見ているようだった。

「……お兄ちゃん」

 少女が、再び呟いた。

「私だよ。分かる?」

 その瞬間。

 青年の瞳が動いた。

 少女を見た。

 そして。

「……あ」

 青年の口が開いた。

「……ああ」

 声が震えていた。

「……お前」

 少女の顔が、ぱっと明るくなる。

「お兄ちゃん!」

「……大きく、なったな」

 青年は、笑おうとした。

 しかし、顔の筋肉がうまく動かない。

「……ごめんな」

 少女は、首を振った。

「いいの! いいの、そんなこと!」

「……会いたかった」

「私も!」

 少女は、泣きながら頷いた。

「ずっと、会いたかった!」

 青年の目から、涙が流れた。

 黒い亀裂は、止まっていた。

 その場にいた人々が、息を呑んだ。

 出久は、思わず一歩踏み出した。

 彼は、自分の意思で少女を認識している。

 記憶もある。

 感情もある。

 黒い亀裂が現れたからといって、必ずしも侵食が進行するわけではないのかもしれない。

 もしかすると。

 もしかすると、彼は――。

 その希望が形になる前に。

 青年の表情が、変わった。

 涙が止まった。

 瞳の奥から、光が消えた。

「……あ」

 青年は、少女を見下ろした。

「……そうか」

「お兄ちゃん?」

「……お前が」

 黒い亀裂が、再び動き出した。

 今度は、さっきよりも速かった。

 首筋から頬へ。

 頬から額へ。

 そして、両目の周囲へ。

「……お前が、俺を忘れたのか」

 少女の顔が、凍りついた。

「え……?」

「十三年だ」

 青年の声が、低くなった。

「俺が死んでから、十三年」

「……お兄ちゃん、何を……」

「十三年も、俺を忘れていた」

 黒い線が、青年の顔全体に広がった。

「俺がいなくても、お前は生きていた」

「違う……!」

「笑っていた」

「違うよ!」

「新しい友達を作って」

「違う!」

「新しい家族を作って」

「お兄ちゃん!」

「俺がいない世界で、幸せになった」

 青年の口元が、歪んだ。

「……許せない」

 少女が、息を呑んだ。

 その言葉は、青年の声だった。

 しかし、その響きは、明らかに違っていた。

 出久は、すぐに理解した。

 これは、昨日の男性と同じだ。

 帰還者の記憶や感情を利用して、別の存在が入り込んでいる。

 そして今、その存在は。

 少女への愛情を、憎悪へと変えようとしている。

「離れろ!」

 相澤が叫んだ。

 だが、少女は動けなかった。

「……お兄ちゃん?」

 彼女の声が震える。

「私、忘れてなんか……」

「黙れ」

 青年が、手を伸ばした。

 その指先が、黒く変色していく。

「俺を置いていったくせに」

「……っ!」

「俺を一人にしたくせに!」

 黒い霧が、青年の身体から噴き出した。

 人々が悲鳴を上げる。

「避難しろ!」

 マイクが叫び、音波で周囲の霧を押し返した。

 相澤は、青年を睨みつけた。

 だが、視線を向けても、黒い霧は消えなかった。

「くそ……!」

 出久は、少女のもとへ走った。

 青年の腕が振り下ろされる。

 出久は、少女を抱きかかえ、その場から飛び退いた。

 黒い腕が地面を叩いた。

 舗装された地面が、砕け散る。

「大丈夫!?」

 出久は、少女を庇いながら尋ねた。

 少女は、震えていた。

「……お兄ちゃんが」

「……」

「お兄ちゃんが、私を……」

 出久は、答えられなかった。

 彼女にとって、目の前の青年は、十三年間会えなかった兄だった。

 もう一度会えるなんて、思っていなかった。

 ようやく再会できたのに。

 その兄が、自分を憎んでいる。

 いや。

本当に憎んでいるのは、兄なのだろうか。

 それとも、兄の中に入り込み、兄の人生を奪い、兄の顔を借りて自分の憎しみを語る、別の何かなのだろうか。

 荼毘は、答えを知らなかった。

 知りたくもなかった。

 答えを知ってしまえば、自分が何を憎めばいいのか、分からなくなってしまうからだ。

     *

 炎が揺れていた。

 赤く、青く、黒く。

 焼け落ちた家屋の残骸を照らしながら、炎は音もなく燃え続けている。

 そこは、かつて轟家が所有していた訓練施設だった。

 幼い頃の焦凍が、父に連れられて何度も訪れた場所。

 炎司が、息子たちに自分の理想を押しつけた場所。

 そして、燈矢が、自分の存在価値を証明しようとして、何度も身体を焼いた場所だった。

「……懐かしいか?」

 声がした。

 荼毘は振り返らなかった。

 背後に立っていたのは、一人の少年だった。

 赤い髪。

 白い肌。

 まだ、顔にホチキスのような留め具も、焼け爛れた皮膚もない。

 轟燈矢。

 かつて、家族に忘れられた少年。

 父親に認められたくて、何度も炎を燃やした少年。

 死んだはずの少年。

 荼毘は、ゆっくりと口元を歪めた。

「……誰だ、お前」

 少年は、悲しそうに笑った。

「ひどいな。自分の顔くらい、覚えてるだろ?」

「俺の顔?」

 荼毘は、自分の頬に触れた。

 縫い留められた皮膚。

 継ぎ接ぎだらけの身体。

 自分が生きていることを、誰よりも証明してきた傷跡。

「俺は荼毘だ」

 少年の笑顔が、消えた。

「……そう」

 彼は、小さく頷いた。

「じゃあ、燈矢は?」

 炎が、弾けた。

 荼毘は初めて、少年を振り返った。

「……何だと?」

「燈矢は、どこにいるの?」

 少年の声は、穏やかだった。

 責めるような響きはない。

 怒りもない。

 ただ、そこにいるはずの誰かを探しているようだった。

 だからこそ、荼毘は腹が立った。

「ふざけんな」

 青い炎が、少年の足元を舐めた。

「燈矢なんて人間は、とっくに死んだんだよ」

「そっか」

 少年は、炎を見下ろした。

「じゃあ、僕も死んだんだね」

「……ああ」

「それなのに、どうしてここにいるんだろう?」

「知るかよ!」

 荼毘の怒声が、廃墟を震わせた。

「死神だか、神様だか知らねえが、勝手に死んだ人間を引っ張り出してきやがったんだ! 俺はそんな奇跡なんざ望んじゃいねえ!」

 少年は、黙っていた。

「……お前もそうだろ?」

 荼毘は、少年を睨みつけた。

「死んだ人間が戻ってきて、何が嬉しい? 失った時間が戻るのか? 焼けた身体が元に戻るのか? 俺を見捨てた家族が、今さら俺を家族だなんて呼ぶのか?」

 彼は、嗤った。

「冗談じゃねえ」

 少年は、しばらく彼を見つめていた。

 やがて、ぽつりと尋ねた。

「……本当は、会いたいんじゃないの?」

 荼毘の炎が、止まった。

「……あ?」

「お父さんに」

 少年は、続けた。

「お母さんに。夏くんに。冬くんに。焦凍に」

「黙れ」

「会いたいんじゃないの?」

「黙れっつってんだろ!」

 青い炎が爆発した。

 少年の身体を呑み込み、廃墟の壁を焼き、天井を吹き飛ばす。

 だが、炎が消えたあと。

 そこに少年の姿は残っていた。

 焼け跡一つない身体で。

 悲しそうな目をしたまま。

「……どうして怒るの?」

 少年は尋ねた。

「会いたいって思うことは、そんなに悪いことなの?」

 荼毘は、動けなかった。

 胸の奥で、何かが軋んでいる。

 憎悪。

 怒り。

 失望。

 それらは、確かに自分のものだった。

 父親を憎んだ。

 家族を憎んだ。

 自分を選ばなかった世界を憎んだ。

 そして、その憎しみを燃やすことで、荼毘は自分自身がまだ生きていることを確かめてきた。

 憎んでいる限り、忘れられない。

 憎んでいる限り、なかったことにはならない。

 自分が確かに存在したことを、証明できる。

 けれど。

 もしも。

 憎しみの向こう側に、別の感情があったのだとしたら。

 自分は、いったい何をしていたのだろう。

「……俺は」

 荼毘は、口を開いた。

 声が出なかった。

 少年は、そっと手を伸ばした。

「帰ろうよ、燈矢」

 その言葉を聞いた瞬間。

 荼毘の脳裏に、遠い記憶が蘇った。

 幼い焦凍の泣き声。

 夏雄の怒った顔。

 冬美の優しい手。

 母の震える指。

 そして、父の背中。

 いつだって、自分が追いかけていた背中。

 追いつきたかった。

 振り向いてほしかった。

 褒めてほしかった。

 ただ、それだけだった。

 その記憶を、荼毘はずっと憎しみで塗り潰してきた。

 そうしなければ、耐えられなかったから。

 自分が本当は、まだ家族を求めていると認めてしまえば。

 自分の人生が、憎むべき相手に認められたいという願いに縛られていたことを、認めてしまうから。

「……帰る場所なんざ、ねえよ」

 荼毘は、絞り出すように言った。

 少年の手が、止まった。

「……そっか」

 少年は、手を下ろした。

「じゃあ、僕が帰るよ」

「……は?」

「燈矢が帰れないなら、僕が帰る」

 少年は、笑った。

「僕は、まだ家族に会いたいから」

 荼毘の瞳が、揺れた。

 その瞬間。

 少年の背後で、黒い影が蠢いた。

 炎よりも暗い。

 夜よりも深い。

 形を持たない何かが、少年の肩から首へと這い上がっていく。

「……あ」

 少年が、息を呑んだ。

 黒い影が、彼の口を塞ぐ。

 少年は抵抗した。

 両手で影を引き剥がそうとする。

 しかし、影は皮膚の下へと潜り込み、首筋を黒い亀裂で覆っていった。

「……やめろ」

 荼毘が呟いた。

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「やめろよ」

 少年の目が、荼毘を見た。

 そこに浮かんでいたのは、恐怖だった。

「……燈矢」

 少年が、彼の名前を呼んだ。

 助けを求めるように。

 縋るように。

「助けて」

 荼毘の身体が、動いた。

 考えるより先に、足が踏み出されていた。

 青い炎が、掌に灯る。

「そいつから、離れろ!」

 炎が、黒い影を直撃した。

 轟音。

 爆発。

 廃墟を青白い光が包み込む。

 しかし。

 黒い影は、燃えなかった。

 炎を受け止めるでもなく、弾き返すでもなく。

 まるで、そこに炎など存在していないかのように、静かに佇んでいた。

 影の中から、声がした。

『――なぜ、救おうとする?』

 荼毘の動きが止まった。

『お前は、そいつを憎んでいるのではないのか?』

 黒い影が、少年の身体を覆っていく。

『そいつは、お前自身だ』

『お前が捨てた過去だ』

『お前が殺した名前だ』

『それなのに、なぜ?』

 荼毘は、歯を食いしばった。

「……うるせえ」

『憎め』

 影が囁く。

『怒れ』

『すべてを焼き尽くせ』

『お前は、そのために生きてきた』

 荼毘の炎が揺らいだ。

『父を憎め』

『家族を憎め』

『世界を憎め』

『そして、自分自身を憎め』

 声が、深くなる。

『そうすれば、お前は何も考えずに済む』

 荼毘の拳が震えた。

『何も望まずに済む』

『何も失わずに済む』

『お前は、ただ燃やせばいい』

 黒い影が、笑った。

『それがお前の人生だ』

 荼毘は、ゆっくりと顔を上げた。

「……違う」

 その声は、小さかった。

 だが、確かに響いた。

「俺の人生を……勝手に決めてんじゃねえ」

 青い炎が、再び燃え上がった。

 今度は、影を焼くためではなかった。

 荼毘自身の身体を包むように。

 その炎は、彼の皮膚を焼いた。

 継ぎ接ぎだらけの身体が軋む。

 それでも、彼は炎を消さなかった。

「俺が何を憎むかは、俺が決める」

 彼は、少年を睨みつけた。

「俺が何を望むかも、俺が決める」

 黒い影が、初めて後退した。

「……俺は、燈矢を捨てたんじゃねえ」

 荼毘の声が震えた。

「燈矢でいることが、苦しかったんだ」

 少年の瞳から、涙が流れた。

「……っ」

「認められたかった。褒められたかった。家族に、俺を見てほしかった」

 荼毘は、自嘲するように笑った。

「そんなもん、今さら取り戻せるわけねえだろ」

 炎が揺れる。

「でも……」

 彼は、拳を握りしめた。

「だからって、俺の憎しみまで、てめえのものにされてたまるか」

 その瞬間。

 少年の身体から、黒い亀裂が弾けた。

 影が、悲鳴のような音を立てて剥がれていく。

 少年は、膝をついた。

 荼毘は、駆け寄った。

 その身体を支えようとして、手を伸ばす。

 だが、触れる直前。

 少年の身体が、光の粒子となって崩れ始めた。

「……おい」

 荼毘は、目を見開いた。

「おい、待てよ!」

 少年は、顔を上げた。

 その顔は、幼い頃の燈矢そのものだった。

「……ありがとう」

「ふざけんな。何がありがとうだ!」

 荼毘は、必死に手を伸ばした。

「まだ何も終わってねえだろ! 俺は、まだ……!」

 言葉が途切れた。

 何を言おうとしたのか。

 自分でも、分からなかった。

 少年は、静かに笑った。

「……うん」

 光が、少年の身体を包み込む。

「まだ、終わってないよ」

 その言葉を最後に。

 少年は、消えた。

 荼毘の手の中には、何も残らなかった。

 ただ、熱だけがあった。

 自分の炎の熱。

 焼けた廃墟の熱。

 そして。

 もう二度と戻らないはずだった、遠い日の記憶の熱。

 荼毘は、その場に立ち尽くしていた。

 やがて、ゆっくりと顔を伏せた。

「……くそ」

 声が震えた。

「……くそっ」

 拳が、地面を叩く。

 何度も。

 何度も。

 けれど、涙は流れなかった。

 泣くことすら、できなかった。

 そのとき。

 背後から、足音が聞こえた。

「……燈矢」

 聞き慣れた声だった。

 荼毘の身体が、硬直した。

 振り返ると、そこに立っていたのは、轟焦凍だった。

 その後ろには、轟炎司、轟冬美、轟夏雄、そして轟冷がいる。

 家族全員が、そこにいた。

 誰も、すぐには言葉を発しなかった。

 焦凍は、荼毘の顔を見つめていた。

「……今のは」

「見るな」

 荼毘は、低く言った。

「……何も見るな」

「でも」

「見るなっつってんだろ!」

 青い炎が、足元で燃え上がる。

 焦凍は、怯まなかった。

「……燈矢兄さん」

 その呼び方に、荼毘の顔が歪んだ。

「やめろ」

「……兄さん」

「やめろっつってんだろ!」

 炎が、爆発した。

 焦凍の身体が吹き飛ばされる。

「焦凍!」

 炎司が叫んだ。

 だが、焦凍は空中で身体をひねり、着地した。

 左足から氷が広がり、青い炎の勢いを押しとどめる。

 その姿を見て、荼毘は笑った。

「……はっ」

 乾いた笑いだった。

「立派になったじゃねえか。父さんの期待に応えられる、最高傑作様よ」

「……違う」

 焦凍は、静かに答えた。

「俺は、父さんのために戦ってるんじゃない」

「じゃあ、何のためだ?」

「……兄さんのためでもない」

 荼毘の笑みが止まった。

 焦凍は、まっすぐに彼を見つめていた。

「俺は、俺自身のために戦ってる」

 その言葉に、荼毘は何も言えなかった。

「でも」

 焦凍は、続けた。

「兄さんを、見捨てたくない」

「……」

「兄さんが何をしたのか、俺は知ってる。許せないこともある。取り返しのつかないことだってある」

 焦凍は、一歩前へ出た。

「それでも、兄さんが何を望んでいたのか、知りたいんだ」

 荼毘は、焦凍を睨んだ。

「……知ってどうする?」

「分からない」

 焦凍は、正直に答えた。

「分からないから、聞きたい」

 沈黙が落ちた。

 炎司は、何も言わなかった。

 冬美は、口元を押さえていた。

 夏雄は、拳を握りしめている。

 冷は、ただ、息子たちを見つめていた。

 荼毘は、ゆっくりと視線を落とした。

「……遅えんだよ」

 その声は、怒りに満ちていた。

「何もかも、遅えんだ」

 焦凍は、答えなかった。

「俺が生きてた頃に来いよ」

 荼毘の声が、掠れた。

「俺が死ぬ前に、来いよ」

 青い炎が、彼の身体を包む。

「……今さら、何しに来たんだよ」

 誰も、答えられなかった。

 それは、正しい問いだった。

 遅すぎた。

 あまりにも遅すぎた。

 過去を取り戻すことはできない。

 失われた時間を埋めることもできない。

 どれほど謝罪しても、どれほど後悔しても。

 その事実は、変わらない。

 だからこそ。

 炎司は、ゆっくりと膝をついた。

「……燈矢」

 荼毘の目が、見開かれた。

 父親が。

 あの男が。

 自分の前で、膝をついていた。

「……俺は、お前に謝らなければならない」

「……」

「許してくれとは言わない。戻ってきてくれとも、言えない」

 炎司は、頭を下げた。

「お前の人生を、俺は壊した」

 その言葉は、炎司自身をも傷つけていた。

 けれど、彼は顔を上げなかった。

「……すまなかった」

 荼毘は、何も言わなかった。

 ただ、炎を燃やし続けていた。

 焦凍も、冬美も、夏雄も、冷も。

 誰も、彼に許しを求めなかった。

 許されるために来たのではない。

 失われた時間を取り戻すためでもない。

 ただ、ようやく。

 自分たちが目を背けてきたものを、見つめるために。

 荼毘は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、黒い光が宿っていた。

「……ああ」

 低い声だった。

「そうかよ」

 彼は、笑った。

 今度の笑みは、先ほどまでのものとは違っていた。

 どこか、諦めに似ていた。

「……じゃあ、見せてやるよ」

 青い炎が、空を焼いた。

「お前らが、今さら何をしようが……」

 炎の奥で、黒い亀裂が広がっていく。

「俺が、何を憎んでるのか」

 焦凍が、身構えた。

 炎司も立ち上がる。

 冬美と夏雄が、母を庇うように前へ出た。

 そして。

 荼毘の口から、別の声が漏れた。

『――憎悪は、強い』

 それは、荼毘の声ではなかった。

『死を越えても、なお燃え続ける』

 青い炎が、黒く染まっていく。

『ならば、その炎を借りよう』

 荼毘の瞳が、真っ黒に染まった。

『人間が、自分自身を焼き尽くすまで』

 焦凍の顔から、血の気が引いた。

「……兄さん?」

 荼毘は、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情には、もう、先ほどまでの怒りさえ残っていなかった。

 ただ、冷たい笑みだけが浮かんでいた。

「……さあ」

 彼は、家族を見渡した。

「地獄の続きを始めようぜ」

 次の瞬間。

 炎が、世界を呑み込んだ。

     *

 同時刻。

 南極大陸。

 氷の下。

 無数の光が、暗闇の中で瞬いていた。

 その一つが、青く燃えている。

 憎悪。

 後悔。

 絶望。

 そして、誰にも言えなかった願い。

 それらが絡み合い、一つの炎となっていた。

 女は、その光を見つめていた。

「……嫉妬」

 静かな声だった。

「他者が持つものを羨む心。自分が得られなかったものを、他者が持っていることへの憎しみ」

 彼女は、指先を動かした。

 青い光が、わずかに揺れる。

「けれど、それだけではない」

 女は、目を細めた。

「彼は、誰よりも家族を求めている」

 その背後で、巨大な影が脈打った。

 女は、影に向かって微笑んだ。

「憎悪は、愛情の裏返しになり得る。愛されたいという願いが、叶わなかったとき……人は、自分が愛されたかったことさえ憎み始める」

 女は、青い光を見つめた。

「さて。彼は、最後まで憎み続けるのでしょうか」

 返事はなかった。

 ただ、暗闇の奥で。

 何かが、ゆっくりと目を開けた。

 それは、人間の感情を理解しているようで。

 決して、理解していないものだった。

 人間が誰かを愛すること。

 誰かを憎むこと。

 そして、その二つが同じ心の中に存在すること。

 それらは、宇宙の尺度からすれば、あまりにも小さな現象なのかもしれない。

 だが。

 その小さな感情が、人間に進化を促してきたのだとしたら。

 その小さな感情が、神の予測を裏切る可能性を持っているのだとしたら。

 それは、観測する価値がある。

 女は、静かに目を閉じた。

「……さあ、人類よ」

 その声は、誰にも届かない場所で響いた。

「あなたたちは、何を選ぶのですか?」

 その問いに、宇宙は答えなかった。

 けれど。

 地上では、すでに答えが生まれ始めていた。

 誰かを憎む者。

 誰かを許せない者。

 誰かを失いたくない者。

 そして。

 それでも誰かを救いたいと願う者。

 それぞれの意志が、少しずつ、世界の形を変えようとしていた。

 奇跡を祝う日。

 人々が、死者の帰還を喜んだその日。

 世界は初めて知った。

 死者が戻ってきたことは、必ずしも救いを意味しない。

 そして、生きていることもまた、必ずしも幸福を意味しない。

 それでも。

 人は、誰かと生きることを望む。

 誰かに認められることを望む。

 誰かの隣にいたいと願う。

 その願いが、憎しみに変わることもある。

 その願いが、希望になることもある。

 だからこそ。

 この世界に、まだ答えはない。

 あるのは、選択だけだ。

 そして、緑谷出久は。

 その選択の中心へと、少しずつ近づいていた。

 ――第六話・了。

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