扉の向こうから、少年がこちらを見ていた。
緑谷出久と、同じ顔。
同じ声。
同じ輪郭。
けれど、そこにある眼差しだけが違っていた。
出久の瞳には、迷いがある。
救えなかった人間の顔を覚えているから。
救うと決めた人間の顔を忘れられないから。
自分が正しいのか、今も分からないから。
対して、扉の向こうに立つ少年の瞳には、迷いがなかった。
迷う必要などない、とでも言いたげな目だった。
彼は、ずっと答えを知っていたのだ。
自分こそが緑谷出久であると。
自分こそが、最初に生まれるはずだった人間であると。
「……やっと見つけた」
少年が、もう一度言った。
「今度こそ、僕が生まれる番だ」
出久は動かなかった。
目の前の相手が、自分の顔をした敵だからではない。
相手が何者なのか分からなかったからでもない。
その言葉を、知っていたからだ。
いや。
正確には、知っているような気がした。
ずっと昔。
まだ個性が発現する前。
まだオールマイトと出会う前。
まだ自分が、何者にもなれないと信じていた頃。
夢の中で、何度も聞いた言葉。
――今度こそ。
――次こそ。
――僕が。
誰かの声が、記憶の底で囁いた。
その声の主を、出久は思い出せなかった。
「君は……誰なんだ」
問いかけた瞬間、少年の表情が変わった。
笑ったのだ。
喜びでも、嘲笑でもない。
ひどく疲れた人間が、ようやく長い旅の終着点にたどり着いたときのような笑顔だった。
「それを、僕に聞くんだね」
「……」
「君は本当に、何も覚えていないんだ」
少年が一歩踏み出した。
白い部屋の床に、波紋のような亀裂が走る。
いや、亀裂ではない。
床の下に、無数の光景が浮かび上がっていた。
病院の分娩室。
雨の降る街角。
オールマイトの銅像。
崩れた建物の下で伸ばされた手。
誰かの葬儀。
誰かの誕生日。
誰かが泣きながら書き殴った、名前のない手紙。
そして――
まだ生まれていない子供を抱きしめる、緑谷引子の姿。
「君が僕の代わりに生まれたんだ」
少年は言った。
「僕が生まれるはずだった場所に、君が生まれた」
「……何を言ってるんだ」
「分からない?」
少年は首を傾げた。
「それとも、分かりたくない?」
出久は拳を握った。
「僕は、緑谷出久だ」
「うん」
少年は、あっさりとうなずいた。
「君は緑谷出久だよ」
その返答に、出久は一瞬だけ言葉を失った。
「……否定しないのか」
「する必要がある?」
少年は自分の胸に手を当てた。
「僕だって、緑谷出久なんだから」
白い部屋が、震えた。
無数の光景が、一斉に暗転する。
少年の足元から、黒い線が伸びてきた。
それは影のようでいて、影ではなかった。
文字だった。
記録だった。
世界が誰かの存在を認めるために書き込んだ、見えない規則そのものだった。
少年の足首に絡みついた文字が、皮膚に沈んでいく。
《出生記録:最初》
《個体識別:緑谷出久》
《出生許可:否認》
《存在継続:不許可》
《記録処理:代替個体を承認》
出久は、その文字を見つめた。
そして、最後の一行に気づいた。
《代替個体:緑谷出久》
「……代替?」
声が、かすれた。
「僕が?」
「そうだよ」
少年は、何の感情も込めずに答えた。
「君は、僕の代わりなんだ」
出久の背後で、相澤の声が響いた。
『緑谷! 聞こえるか! 返事をしろ!』
通信機の音声だった。
しかし、ノイズがひどい。
『その空間から離れろ! 記録そのものが、お前を――』
声が途切れた。
続いて、別の声が割り込んだ。
『出久くん!』
麗日お茶子だった。
『聞こえる? ねえ、お願い、返事して!』
「麗日さん!」
出久は通信機を押さえた。
「聞こえる! 僕は大丈夫だ!」
『嘘!』
「えっ」
『大丈夫な人は、そんな声で大丈夫って言わない!』
こんな状況なのに。
出久は、ほんの少しだけ笑いそうになった。
彼女はいつもそうだった。
誰かが無理をして笑っているとき。
誰かが本当の気持ちを隠しているとき。
彼女は、その奥にあるものを見つけようとする。
だからこそ。
出久は、その言葉を聞いてしまった。
「……麗日さん。もし僕が、本当に誰かの代わりだったら」
『出久くん?』
「もし、僕が生まれたことで、本当は生まれるはずだった誰かが消えたんだとしたら……」
『そんなの――』
「僕は、どうしたらいいんだろう」
通信機の向こうが静かになった。
答えを待つ時間は、短かった。
けれど、出久にはひどく長く感じられた。
やがて、お茶子の声が返ってきた。
『それを決めるのは、出久くんじゃないよ』
出久は目を見開いた。
『その子が生まれたかったのか。何を望んでいたのか。どんな人生を生きたかったのか。まだ、何も聞いてないんでしょ?』
「……うん」
『だったら、勝手に自分を罰しないで』
声が震えていた。
『その子の人生まで、出久くんが背負って、出久くんが決めちゃったら……それこそ、その子の生きる場所がなくなっちゃう』
少年が、初めて表情を変えた。
わずかに。
ほんのわずかに、眉が動いた。
「……また、それか」
彼が呟いた。
「また、誰かが勝手に決めるんだ」
少年の足元で、黒い文字が増殖した。
白い床を埋め尽くし、壁を這い上がり、天井へと広がっていく。
「僕は、生まれたかった」
声が低くなった。
「僕は、生きたかった」
一歩。
「僕は、母さんに抱きしめられたかった」
二歩。
「僕は、兄弟と遊びたかった」
三歩。
「僕は、ヒーローになりたかった」
四歩。
少年は、出久の目の前に立った。
「なのに、世界は僕に何も聞かなかった」
その瞳に、初めて感情が宿った。
怒りだった。
しかし、それは単純な憎悪ではない。
長い時間をかけて積み重なった、諦めと絶望と、消えなかった願いが混ざり合ったものだった。
「だから、今度は僕が決める」
少年が、出久の胸に手を伸ばした。
「君の人生を返してもらう」
次の瞬間。
世界から、音が消えた。
1 最初の一秒
出久は、自分が倒れたことに気づかなかった。
床に膝をついた。
そう理解したときには、すでに目の前の景色が変わっていた。
白い部屋が消えている。
代わりに広がっていたのは、見覚えのある病室だった。
窓際に置かれた花瓶。
消毒液の匂い。
古びたカーテン。
壁に掛けられた時計。
針は、午前二時十八分を指していた。
出久は息を呑んだ。
この時間を、知っている。
東京湾第七物流区画の事件が始まる直前。
何度も夢に現れた、あの時刻。
そして。
ベッドの上には、幼い少年が眠っていた。
緑谷出久だった。
まだ幼い。
個性がないと診断され、母親の前では笑顔を作り、一人になってから泣いていた頃の自分。
その隣に、もう一人の子供がいた。
同じ顔。
同じ髪。
同じ小さな手。
違うのは、左手に刻まれた小さな傷だけだった。
あの、名のない少年。
出久が弟だと認めた、未誕生の子供。
彼はベッドの端に座り、幼い出久の寝顔を見つめていた。
「……どうして、ここに」
出久が呟くと、弟は振り向いた。
「僕も、分からない」
その声は、あの白い部屋で聞いた声とは違っていた。
まだ幼く、頼りなく、少しだけ寂しそうな声だった。
「気づいたら、ここにいたんだ」
「でも、君は……」
「消えたんだよね」
弟は、自分の手を見つめた。
「お姉さんが、僕を抱いてくれたのに」
麗日お茶子。
彼女が、消えた弟を探している。
出久はそう信じていた。
しかし、目の前の弟は、消える直前のことを覚えているようだった。
「僕、怖かった」
「……うん」
「お姉さんが嫌いになったわけじゃない。お姉さんは、僕を助けてくれた」
弟は唇を噛んだ。
「なのに、世界が、そうじゃないって言った」
病室の時計が、音もなく逆回転を始めた。
「ここは、僕が生まれるはずだった時間なんだと思う」
弟は言った。
「でも、僕が生まれるはずだった時間に、僕はいない」
窓の外に、雨が降り始めた。
その雨の向こうで、誰かが立っていた。
白い病院服を着た少年。
最初の緑谷出久。
彼は病室の外から、こちらを見つめていた。
「見つけた」
少年が、窓ガラス越しに呟く。
「そこにいたんだね」
弟が顔を上げた。
初めて、二人の視線が交差した。
同じ顔をした二人。
しかし、その表情はまるで違っていた。
最初の出久は、弟を見て笑った。
弟は、怯えたように身を引いた。
「……君は、誰?」
弟が尋ねた。
最初の出久は、窓ガラスに手を当てた。
「君の兄さんだよ」
出久の背筋が凍った。
「違う!」
思わず叫んだ。
「僕が兄さんだ! 僕が――」
「そうだね」
最初の出久は、あっさり認めた。
「今の世界では、君が兄さんなんだ」
その言葉が、出久の喉に突き刺さった。
「でも、本当は違う」
窓ガラスに、亀裂が走った。
「僕が最初に生まれていたら、君は僕の弟だった」
病室が揺れた。
ベッドの上の幼い出久が、苦しそうに呻く。
弟が駆け寄ろうとした。
しかし、その身体が透明になり始めた。
「え……?」
弟が、自分の手を見つめる。
「また……?」
出久は走った。
弟の腕を掴む。
指先に、確かな感触があった。
「離さない!」
叫んだ。
「今度は、絶対に――」
「違うよ」
最初の出久が言った。
「君が離さないんじゃない」
彼の背後に、無数の病室が現れた。
その一つひとつに、子供が眠っていた。
ある子供は、泣いていた。
ある子供は、笑っていた。
ある子供は、誰かの手を握っていた。
そして、ある子供は、誰にも触れられないまま、静かに目を閉じていた。
「世界が、僕たちを離しているんだ」
最初の出久は、窓ガラスを押し開けた。
雨が逆流し、空へと昇っていく。
「だから、壊す」
彼は言った。
「僕が生まれることを拒んだ世界を」
そして、出久を見た。
「君も、手伝ってくれるよね?」
出久は答えなかった。
弟を抱きしめたまま、ただ、相手の目を見つめた。
「君は……世界を壊したいのか」
「違う」
最初の出久は微笑んだ。
「世界を、正しく作り直したいんだ」
その言葉と同時に、病室の時計が止まった。
午前二時十八分。
世界で最初の一秒が、再び始まろうとしていた。
2 麗日お茶子は、存在しない子供を探している
同じ時刻。
東京湾第七物流区画から北へ十二キロ。
臨時避難所として開放された旧市民体育館で、麗日お茶子は一人の子供を探していた。
正確には、一人の子供が消えた場所を探していた。
「すみません。このくらいの男の子を見ませんでしたか?」
お茶子は、手元の端末に表示された画像を見せた。
黒い髪。
緑色の瞳。
緑谷出久によく似た顔。
ただし、画像はひどく不安定だった。
目を離すと、輪郭がぼやける。
端末を傾けると、顔の一部が別の人物に置き換わる。
画像処理の不具合ではない。
記録そのものが、少年の顔を保持できていないのだ。
「ごめんなさい。見ていないわ」
避難所の職員が申し訳なさそうに答えた。
「そもそも、この子……避難者名簿にいないのよ」
「名簿になくても、いたんです」
「え?」
「私、抱っこしたんです。ちゃんと話もしました。怖がっていたから、大丈夫だよって言ったんです」
お茶子は端末を握りしめた。
「それなのに、気づいたらいなくなっていて……」
職員の表情が変わった。
困惑から、同情へ。
そして最後には、相手を傷つけないように言葉を選ぶ人間の顔になった。
「麗日さん。あなた、ずっと働きっぱなしでしょう? 少し休んだほうが――」
「違うんです」
お茶子は首を振った。
「そういう話じゃないんです」
分かっている。
自分が疲れていることくらい。
自分が見たものを、他人が信じられないことくらい。
この世界では、信じられない出来事が毎日のように起きている。
死者が蘇る。
存在しないはずの人間が現れる。
同じ顔をした人間が、何百人も街を歩く。
世界の終わりを宣言した男が、再び人々の前に姿を現す。
その中で、たった一人の子供が消えたことを、誰もが些細な問題だと判断するのかもしれない。
しかし、お茶子には分かっていた。
あの子は、自分が消える瞬間、何を言おうとしたのか。
最後に、何を怖がっていたのか。
彼は自分を拒絶したのではない。
世界に拒絶されたのだ。
「……分かりました」
お茶子は職員に頭を下げた。
「お仕事中に、すみませんでした」
そのまま踵を返す。
出口に向かう途中、端末が震えた。
着信。
相澤消太。
「はい、麗日です」
『緑谷の位置が不安定になっている』
「出久くんが?」
『通信はつながっている。だが、位置情報が一定しない。建物の中にいるはずなのに、別の地点にいることになったり、存在しない施設の座標が返ってきたりする』
「それって……」
『記録の異常だ。あの施設に近づいたことで、緑谷自身の記録まで干渉を受けている可能性がある』
お茶子は足を止めた。
「相澤先生。あの子のこと、覚えていますか?」
短い沈黙。
『……誰のことだ』
お茶子の心臓が、冷たくなった。
「緑谷出久に似た、小さな男の子です。出久くんの弟だって……」
『麗日』
相澤の声が鋭くなる。
『今、何と言った』
「だから、出久くんの弟です。生まれる前に――」
『そんな話は聞いていない』
相澤は、明確にそう言った。
嘘をついている声ではなかった。
記憶を隠している声でもなかった。
本当に知らないのだ。
いや。
知らないことにされている。
お茶子は息を吸った。
「……相澤先生。ひとつ、お願いがあります」
『何だ』
「私がこれから言うことを、絶対に記録しないでください」
『理由は』
「記録されたら、また消されるかもしれないからです」
今度は、沈黙が長かった。
やがて相澤が言った。
『分かった』
お茶子は、体育館の出口から外へ出た。
冷たい風が吹いていた。
「私は、あの子を探します」
『緑谷の救援よりもか』
「出久くんは、きっと自分で何とかしようとします」
『……』
「だから、私は出久くんが見落としそうなものを探します」
空を見上げる。
曇天の向こうに、黒い光が瞬いていた。
「出久くんは、誰かを助けようとすると、自分が悪いことをしたんじゃないかって考えちゃうんです」
お茶子は小さく笑った。
「だから、あの子が何を望んでいるのか。ちゃんと聞いてあげたいんです」
通信機の向こうで、相澤が息を吐いた。
『……緑谷らしいな』
「はい」
『なら、お前はお前のやり方で探せ。ただし、単独で敵地に入るな。位置を送れ。こちらで支援する』
「ありがとうございます」
『礼は、無事に帰ってから言え』
通信が切れた。
お茶子は端末を操作した。
あの子が消えたとき、最後に表示されていた記録。
《消失理由:保護者による拒絶》
お茶子は、その一文を何度も読み返した。
そして、ふと気づいた。
保護者。
拒絶。
世界があの子を消すために使った言葉。
しかし、その二つの言葉の間には、本来あるべきものが抜け落ちていた。
子供の意思だ。
あの子が、どこへ行きたかったのか。
誰に会いたかったのか。
何を望んでいたのか。
世界は一度も、そこを確認していない。
「……そっか」
お茶子は顔を上げた。
「世界が答えを決めているなら、私は質問を探せばいいんだ」
端末の地図を開く。
消失地点。
そこから伸びる、存在しない座標。
通常の地図では表示されない経路。
お茶子は、その不自然な空白を指でなぞった。
すると。
画面に、ひとつの地点が浮かび上がった。
《出生管理局・第零棟》
住所欄は空白。
設立年月日は存在しない。
管轄組織は、世界そのもの。
そして、施設の状態にはこう記されていた。
《現在稼働中》
「……見つけた」
お茶子は、今度こそ笑わなかった。
ここから先は、ヒーローとしての救助活動ではない。
世界が存在を認めない子供を、世界の記録から救い出す仕事だ。
そのために必要なのは、強さだけではない。
世界が嘘をついているときに、嘘をついていない人間まで疑わないこと。
そして、誰も信じてくれない人間の言葉を、最初に聞くこと。
お茶子は通信機を取り出した。
「こちら麗日。出生管理局・第零棟らしき施設を確認しました。これから向かいます」
すぐに返事が来た。
『待て。単独行動はするなと言ったはずだ』
「はい。だから、場所を送りました」
『麗日!』
「先生」
お茶子は、まっすぐ前を見た。
「今度は、私があの子を見つける番です」
そして、走り出した。
3 最初の緑谷出久が見た世界
病室の窓から、雨が降り続けていた。
いや、雨は降っていなかった。
水滴が空中に静止している。
世界の時間そのものが、止まっているのだ。
出久は、弟の手を握りしめていた。
弟の身体は、まだ半透明だった。
しかし、消えてはいない。
出久が触れている間だけ、かろうじて世界に留まっているようだった。
「……君は、僕に何をさせたいんだ」
出久は、最初の出久に尋ねた。
彼は病室の窓枠に腰掛けていた。
「さっき言っただろう? 僕の人生を返してほしいんだ」
「僕が死ねばいいのか」
「どうしてそうなるの?」
「君が生まれるためには、僕がいなくならなきゃいけないんじゃないのか」
「それは、君が決めることじゃない」
最初の出久は、微笑んだ。
「君はいつもそうだね」
「……何が」
「誰かが苦しんでいると、すぐに自分が代わりになろうとする」
出久は言い返せなかった。
「君は、誰かを救うためなら、自分の人生だって差し出せると思っている」
「それは……」
「でも、君が差し出した人生は、誰のものになるんだろうね」
最初の出久が、病室の壁を指差した。
壁に、映像が浮かび上がった。
そこには、緑谷引子がいた。
若い母親。
まだ幼い出久を抱きしめ、笑っている。
その笑顔が、ゆっくりと崩れていく。
彼女は、誰もいない部屋で泣いていた。
何かを忘れてしまった人間の顔だった。
忘れたことさえ、思い出せない人間の顔。
次の映像。
幼い出久が、一人で遊んでいる。
その隣に、もう一人の子供がいる。
だが、誰もその子供を見ていない。
出久が振り向くと、子供は消えている。
次の映像。
雄英高校。
クラスメイトたちが笑っている。
その集合写真の一角に、見知らぬ少年が立っていた。
出久によく似た少年。
しかし、次の瞬間には、写真から消えている。
誰も気づかない。
誰も、疑問に思わない。
「これが、僕の人生だった」
最初の出久が言った。
「僕は、ずっとそこにいた」
出久は息を呑んだ。
「でも、君が生まれた瞬間、世界は僕を消した」
「……」
「僕だけじゃない」
壁に映像が増えた。
見知らぬ家族。
見知らぬ街。
見知らぬヒーロー。
出久の知らない人生が、無数に映し出される。
ある世界では、出久は個性を持って生まれていた。
ある世界では、母親を救えなかった。
ある世界では、爆豪勝己と友人になれなかった。
ある世界では、オールマイトと出会う前に命を落とした。
そして、ある世界では――
緑谷出久という少年そのものが、存在しなかった。
「世界は、何度も僕たちを作り直した」
最初の出久は言った。
「そのたびに、誰かが選ばれて、誰かが消えた」
「それは……並行世界なのか?」
「君たちの言葉では、そう呼ぶのかもしれない」
「君は、そのすべてを見てきたのか?」
「見てきたよ」
彼は頷いた。
「生まれる前から」
その言葉に、出久は違和感を覚えた。
「……生まれる前から?」
「そう」
最初の出久は、自分の胸に手を当てた。
「僕には、始まりがなかった」
静かな声だった。
「最初の記憶は、暗闇だった。音もない。光もない。誰の声も聞こえない。ただ、僕はそこにいた」
彼は、病室の天井を見上げた。
「そこにいることだけは、分かっていた。でも、誰も僕を呼ばなかった」
長い沈黙。
「僕は、名前を知らなかった」
出久の胸が痛んだ。
「緑谷出久という名前を知ったのは、君が生まれたときだった」
「……僕が?」
「君の出生記録が作られた瞬間、僕にも名前が与えられた。君が生まれたという記録の、その前に」
最初の出久は、目を伏せた。
「僕は、そのとき初めて、自分が何者なのか知ったんだ」
出久は、握った拳を開いた。
「……じゃあ、君は」
「そう。僕は君の代わりに作られたんじゃない」
彼は、はっきりと言った。
「君が生まれる前から、僕はいたんだ」
病室の時計が、再び動き始めた。
一秒。
二秒。
三秒。
時が流れ始めたことで、弟の身体が再び薄くなった。
「っ……!」
出久は慌てて弟を支えた。
「大丈夫か!」
「……うん」
弟は苦しそうに頷いた。
「でも、僕……ここにいちゃいけないんだ」
「そんなことない!」
「兄さん」
弟が、初めてそう呼んだ。
出久の動きが止まった。
「僕、分かったんだ」
弟は、消えかけた手を見つめた。
「僕が生まれなかったことと、兄さんが生まれたことは、同じじゃない」
「……」
「僕は、生まれたかった。兄さんも、生きたかった」
弟は、出久を見上げた。
「だったら、どっちかがいなくならなきゃいけないなんて、変だよ」
最初の出久の笑みが消えた。
弟は続けた。
「僕は、兄さんを恨んでない」
出久の喉が詰まった。
「でも、僕がいなかったことにされるのは嫌だ」
その声は、震えていた。
「僕が生まれたかったことまで、なかったことにされたくない」
出久は弟を抱きしめた。
今度は、消えないようにと必死に握りしめるのではなく。
ただ、その言葉を受け止めるために。
「……うん」
出久は言った。
「僕も、君がいなかったことにされたくない」
弟の身体が、ほんの少しだけ濃くなった。
それを見て、最初の出久は目を細めた。
「なるほど」
彼は窓枠から降りた。
「君たちは、そういう答えを選ぶんだね」
「答え?」
「どちらかが犠牲になるのではなく、二人とも存在したいと言う」
最初の出久は、笑った。
「だから、世界は君たちを消そうとするんだ」
その瞬間、病室の扉が開いた。
扉の向こうから、黒い腕が伸びてくる。
腕は無数の文字でできていた。
《記録不整合》
《存在矛盾》
《修正対象:二個体》
文字の腕が、弟の首に絡みついた。
「っ、ああっ!」
「弟くん!」
出久は腕を引き剥がそうとした。
しかし、触れた瞬間、指先が弾かれた。
力ではない。
個性でもない。
この世界で「存在してよいもの」と「存在してはいけないもの」を分ける、根本的な規則だった。
出久がどれほど強くても、殴ることも壊すこともできない。
その規則に、出久という人間そのものが従っているからだ。
「やめろ!」
叫んでも、文字の腕は止まらない。
「この子は、何も悪いことをしていない!」
文字が、出久の手首にも絡みついた。
《代替個体》
《記録修正》
《本来個体を優先》
最初の出久が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「緑谷出久」
彼は、出久の名前を呼んだ。
「最後に聞くよ」
その瞳に、悲しみが浮かんでいた。
「君は、僕の人生を返してくれる?」
出久は答えなかった。
「君が生まれたことで、僕は何も持てなかった。名前も、家族も、未来も」
最初の出久は、弟を見た。
「この子も、同じだ」
彼の声が震えた。
「生まれることさえできなかった」
出久は、彼の顔を見つめた。
「……君は、何がしたいんだ」
「僕の人生を取り戻したい」
「そのために、僕を消すのか」
「そうしなければ、僕は生まれられない」
「本当に?」
最初の出久が、目を見開いた。
出久は続けた。
「君は、世界が君を消したと言った。君が生まれなかったのは、世界が君を拒絶したからだって」
「そうだ」
「なら、どうして君は、同じことを僕にしようとするんだ?」
沈黙。
「君が僕を消したら、僕の人生はどうなる?」
「……」
「僕の母さんは? 僕が出会った人たちは? 僕が救えなかった人たちは? 僕が救えた人たちは?」
出久は、声を荒らげなかった。
相手を責めるためではない。
ただ、聞いてほしかった。
「君が僕の人生を奪ったら、君は君を消した世界と同じことをするんじゃないのか?」
最初の出久の表情が歪んだ。
「違う!」
彼は叫んだ。
「僕は、あいつらとは違う!」
病室が揺れた。
壁の映像が砕け散る。
「僕は、誰かの代わりに消えるために生まれたんじゃない!」
「……うん」
「僕だって、生きたかったんだ!」
「うん」
「僕だって、母さんに会いたかった!」
「うん」
「僕だって――!」
彼の声が、途切れた。
初めて。
最初の緑谷出久が、泣いた。
「……僕だって、ヒーローになりたかったんだ」
その言葉は、あまりにも小さかった。
誰かを脅すための声ではなかった。
世界を変えるための宣言でもなかった。
ただ、子供がずっと胸の中に閉じ込めていた願いだった。
出久は、何も言えなかった。
自分も、同じ願いを持っていたからだ。
個性がないと告げられた日。
テレビの向こうで、オールマイトが人々を救う姿を見た日。
爆豪に夢を笑われた日。
それでも、ヒーローになりたいと思った。
誰かを助けたいと思った。
その願いを、誰にも奪われたくなかった。
だからこそ、出久は分かった。
目の前の少年を、ただの敵として倒すことはできない。
彼が間違っているとしても。
彼の願いまで間違いだと決めることはできない。
「……君のことを、聞かせてほしい」
出久は言った。
「君が、何を経験してきたのか。どうして世界を作り直そうと思ったのか」
最初の出久は、涙を拭った。
「今さら、話を聞くの?」
「うん」
「僕の話を聞いたら、君は僕を止めるんだろう?」
「止めなきゃいけないことをするなら、止める」
出久は、まっすぐ彼を見た。
「でも、君が何を望んでいるのか知らないまま、君を倒したくない」
最初の出久は、しばらく黙っていた。
そして。
「……本当に、嫌なやつだね」
小さく笑った。
「そういうところが、昔から嫌いだった」
「昔から?」
出久が聞き返すより早く、文字の腕が動いた。
弟を引きずり、病室の奥へと連れ去ろうとする。
「しまっ――!」
出久が手を伸ばした。
最初の出久も、同時に動いた。
二人の手が、弟の腕を掴む。
一瞬。
世界が止まった。
そして、最初の出久が叫んだ。
「今だ! 記録を破れ!」
出久は、何をすればいいのか分からなかった。
けれど、その声には嘘がなかった。
彼は弟の手を握ったまま、目を閉じた。
力を使うのではない。
敵を倒すのでもない。
ただ、言葉にする。
「この子は、ここにいる!」
病室に声が響いた。
「生まれなかったとしても! 記録がなくても! 誰も覚えていなくても!」
文字の腕が、震えた。
「この子が生きたかったことは、消えない!」
弟の手が、温かくなった。
「この子が誰なのか、僕が決めるんじゃない!」
亀裂が走る。
「この子自身が決めるんだ!」
文字が、砕けた。
世界の規則が、一瞬だけ揺らいだ。
最初の出久は、その隙を逃さなかった。
彼は床に手をつき、何かを引き剥がすように腕を振った。
病室全体に、巨大な亀裂が走る。
《出生記録:否認》
その文字が、真っ二つに裂けた。
弟の身体が、実体を取り戻した。
そして。
最初の出久は、膝をついた。
「……やっぱり」
彼は呟いた。
「君は、僕と同じなんだ」
出久は彼に手を伸ばした。
しかし、触れる直前。
最初の出久は、その手を避けた。
「勘違いしないで」
彼は立ち上がった。
「僕は、君の味方になったわけじゃない」
「……分かってる」
「君のやり方じゃ、世界は変わらない」
彼は、病室の扉を見た。
扉の向こうには、無数の黒い文字が渦巻いている。
「君が一人ずつ救っている間に、世界は何千人も消していく」
彼の瞳が、冷たくなった。
「だから僕は、世界の仕組みそのものを変える」
最初の出久は、出久を振り返った。
「君が救うのは、目の前の人間だけだ」
「……」
「僕が救うのは、存在することすら許されなかった人間たちだ」
その背後に、巨大な扉が現れた。
扉には、見たことのない紋章が刻まれていた。
円環。
八つの欠けた星。
そして、その中心に描かれた、目を閉じた人間の顔。
出久は、その紋章に見覚えがあった。
東京湾第七物流区画で見た、黒い記号。
死者の蘇生に関わる記録。
八つの欲望を示す、あの施設の紋章。
「まさか……」
出久が呟く。
最初の出久は答えなかった。
ただ、扉の前に立った。
「緑谷出久」
彼は最後に、もう一度名前を呼んだ。
「次に会うときは、君にも選んでもらう」
「何を?」
「世界を救うのか」
最初の出久は微笑んだ。
「それとも、世界に救われるのか」
扉が開いた。
その向こうから、無数の声が溢れ出した。
生まれたかった者たち。
生きたかった者たち。
名前を与えられなかった者たち。
誰にも覚えられなかった者たち。
そして、死んだはずの人間たち。
出久がその声を聞き取る前に、最初の出久は扉の向こうへ消えた。
扉が閉じる。
病室が崩れ始めた。
「兄さん!」
弟が叫んだ。
出久は、弟を抱き上げた。
「大丈夫だ! 絶対に――」
そのとき、出久の視界に、ひとつの文字が浮かんだ。
《個体識別:緑谷出久》
続いて、もう一つ。
《個体識別:緑谷出久》
さらに。
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
《個体識別:緑谷出久》
何百、何千という同じ名前が、世界を埋め尽くしていく。
そのすべてに、異なる出生記録が紐づいていた。
そして、その最後に。
《原初個体:緑谷出久》
という文字が現れた。
その下に、誰かが書き加えたような一文があった。
《最初に生まれた者は、最後に世界を選ぶ》
出久が目を見開く。
次の瞬間、世界が砕けた。
4 虚飾の街
世界が砕ける少し前。
東京湾から遠く離れた、廃棄された地下鉄駅。
そこに、二人の人影があった。
「……ここ、どこ?」
トガヒミコが、天井を見上げた。
電灯は点滅している。
壁には古い広告が貼られていた。
十年以上前に撤去されたはずの路線図。
駅名標には、存在しない駅名が記されている。
そして、ホームには誰もいない。
ただし。
線路の向こうに、無数の人影が立っていた。
全員、同じ顔。
全員、同じ体格。
全員、同じ制服。
トゥワイスだった。
「うわあああああ! 俺がいっぱいだ!」
「落ち着け! お前は一人だ!」
「一人じゃない! 俺は二人だ!」
「二人じゃない! 俺は一人だ!」
「じゃあ、ここにいる俺たちは何なんだよ!」
「知らねえよ! 俺に聞くな!」
トガは、二人の自分のやり取りを思い出して笑いかけた。
けれど、笑えなかった。
ホームの向こうにいるトゥワイスたちは、誰も口を開いていない。
彼らは、ただこちらを見つめている。
その目には、怒りも憎しみもない。
ただ、期待があった。
誰かに見つけてもらうことを、ずっと待っていた人間の目だった。
「……ねえ、ジン」
「何だ?」
「この人たち、私たちを待ってるのかな」
トゥワイスは、黙った。
いつものように冗談を言うこともできなかった。
「……そうかもしれない」
ホームのスピーカーが鳴った。
『虚飾の継承者、到着を確認』
機械的な声だった。
『個体照合を開始します』
線路の向こうにいたトゥワイスたちが、一斉に口を開いた。
「俺が本物だ」
「俺が本物だ」
「俺が本物だ」
「俺が本物だ」
声が重なり、駅全体を満たしていく。
「俺が本物だ!」
「いや、俺が本物だ!」
「俺は偽物じゃない!」
「お前こそ偽物だろ!」
トゥワイスが耳を塞いだ。
「やめろ……」
声が大きくなる。
「俺が本物だ!」
「俺が本物だ!」
「俺が本物だ!」
「俺が――!」
「やめろって言ってんだろ!」
トゥワイスが叫んだ。
ホームの空気が震えた。
すべての声が止まった。
トガが、そっと彼の手を握った。
「ジン」
「……俺は」
トゥワイスは、自分の手を見つめた。
「俺は、自分が本物だって証明したかった」
線路の向こうにいる自分たちを見る。
「でも、あいつらも同じなんだ」
「うん」
「俺が本物だって言えば、あいつらは偽物になる」
「うん」
「じゃあ、俺は……あいつらを殺すのか?」
トガは答えなかった。
代わりに、ホームへ一歩踏み出した。
「みんな」
彼女は、線路の向こうに呼びかけた。
「私たち、あなたたちを殺しに来たんじゃないよ」
誰も動かない。
「あなたたちが何者なのか、まだ分からない。でも、分からないからって、いないことにしたくないの」
トガは胸に手を当てた。
「私だって、自分が本物なのか、分からなくなるときがあるよ」
その言葉に、何人かのトゥワイスが顔を上げた。
「でも、ジンが私を見てくれる」
トガは隣の男を見た。
「私が私だって、ジンが覚えていてくれる」
トゥワイスが、ゆっくりと彼女を見る。
「……俺が?」
「うん」
トガは笑った。
「だから、私はジンが本物かどうか、証明しなくてもいいと思う」
ホームの向こうで、一人のトゥワイスが泣き始めた。
「……俺も、そう思いたかった」
彼が言った。
「俺も、誰かに覚えていてほしかった」
別のトゥワイスが、膝をついた。
「俺も、誰かを覚えていたかった」
次々に、声が上がる。
それは、主張ではなかった。
自分こそが本物だと叫ぶ声ではなかった。
それぞれの人生が、そこにあった。
トガは、一人ひとりの顔を見た。
同じ顔。
同じ声。
しかし、違う。
笑い方が違う。
立ち方が違う。
泣き方が違う。
誰かを好きになった記憶が違う。
誰かを傷つけた記憶が違う。
誰かに傷つけられた記憶が違う。
そして、誰かに愛された記憶も。
「……ねえ、ジン」
「何だ」
「私たち、間違ってたのかな」
「何がだ?」
「本物と偽物を分けようとしたこと」
トゥワイスは、長い間考えた。
そして、首を振った。
「……分からねえ」
「そっか」
「でも、分からないことを理由に、誰かを消すのは違うと思う」
彼は、線路の向こうにいる自分たちを見つめた。
「俺たちは、同じ顔をしてるだけだ」
その声には、迷いがあった。
それでも、彼は続けた。
「俺たちは、それぞれ別の人生を生きたんだ」
ホームの灯りが、一つ消えた。
次の瞬間、線路の向こうに、黒い影が現れた。
長い手足。
人間に似ているのに、人間ではない輪郭。
顔の位置には、笑っているような、泣いているような仮面が浮かんでいた。
トガは、その存在を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……あなた、誰?」
影は答えなかった。
代わりに、駅のスピーカーから別の声が流れた。
『虚飾の継承者。選択の時間です』
線路の向こうのトゥワイスたちが、一斉に顔を上げた。
『本物を一体選びなさい』
床に、円形の装置が浮かび上がる。
『選ばれなかった個体は、世界の記録から削除されます』
トガが舌打ちした。
「またそれ?」
影の仮面が、笑った。
『選択は、愛の証明です』
「違う」
トガは、即座に言った。
『愛する者を選ぶことこそ、存在を認めること』
「違うって言ってるでしょ」
彼女の声が低くなった。
「私は、誰かを好きになるたびに、相手の血が欲しくなった。相手と同じになりたくなった。相手の中に入りたくなった」
彼女は、手を握りしめた。
「でも、ジンが教えてくれたんだよ」
トゥワイスが、彼女の隣に立つ。
「お前はお前のままでいい」
トガは笑った。
「だから、私は選ばない」
仮面の笑みが、わずかに歪んだ。
『選択を拒否することは、全個体の消滅を意味します』
「じゃあ、みんなで逃げる」
トガは答えた。
『逃げ場はありません』
「それ、決めるのはあなたじゃないよね?」
トガは、線路に飛び降りた。
トゥワイスが叫ぶ。
「おい、待て! そこは危ないぞ!」
「ジン、こっち!」
「俺は行かない! いや、行く!」
トゥワイスも飛び降りた。
二人は、線路を走った。
向こう側にいる無数のトゥワイスたちは、呆然と彼らを見つめていた。
「走って!」
トガが叫ぶ。
「選ばれたくないなら、走って!」
最初の一人が動いた。
次に、二人。
そして、十人。
百人。
千人。
線路の向こうから、無数のトゥワイスが走り出した。
それは、軍隊の進軍ではなかった。
自分の存在を証明するための戦いでもなかった。
ただ、消えたくないと願う者たちが、同じ方向へ走り始めたのだ。
トゥワイスが笑った。
「すげえな……!」
そして、泣きそうな声で言った。
「俺、こんなに仲間がいたのかよ」
トガは彼の手を握った。
「うん」
その瞬間。
線路の奥に、巨大な扉が現れた。
扉には、黒い文字が刻まれていた。
《虚飾領域・管理者権限》
そして、その下に。
《接続先:原初個体》
トガの顔から、笑みが消えた。
「……出久くん?」
仮面の影が、初めて口を開いた。
『ようやく、道がつながった』
その声は、誰の声でもなかった。
あるいは、誰の声にもなれる声だった。
『さあ、始めよう』
影が、両腕を広げた。
『偽物と本物の区別がつかなくなった世界で――本物の絶望を見せてあげよう』
扉が、ゆっくりと開いた。
その向こうから、緑谷出久の声が聞こえた。
『……やっと見つけた』
トガは息を呑んだ。
それは、出久の声だった。
しかし、出久の声ではなかった。
同じ顔。
同じ声。
それなのに、何かが決定的に違う。
最初の緑谷出久が、扉の向こうから二人を見つめていた。
「君たちなら、分かってくれると思った」
彼は微笑んだ。
「誰かを選ぶことを拒んだ君たちなら」
トガは、彼を睨んだ。
「……あなた、出久くんなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうしてそんな目をしているの?」
最初の出久は答えなかった。
ただ、線路の上にいる無数のトゥワイスを見渡した。
「僕は、彼らを救いたいんだ」
トガは首を振った。
「それ、さっきの私たちに言った言葉と同じだよ」
「……何?」
「誰かを救いたいって言いながら、誰かを消すつもりなんでしょ?」
最初の出久の表情が、凍りついた。
トゥワイスが、トガの前に出た。
「おい、緑谷!」
彼は叫んだ。
「俺はお前が誰なのか知らねえ! でも、これだけは言っておく!」
最初の出久が、彼を見る。
「俺たちは、誰かに選んでもらうために生きてるんじゃねえ!」
トゥワイスは拳を握った。
「俺たちがここにいたいから、ここにいるんだ!」
その瞬間、地下鉄駅全体が激しく揺れた。
黒い仮面が、初めて大きく笑った。
『素晴らしい』
声が、天井から、床から、壁から響いた。
『虚飾は、境界を壊す』
影が、トガとトゥワイスを指差した。
『ならば、君たちはその境界を、どこまで壊せる?』
線路の上にいたトゥワイスたちの身体が、光り始めた。
同時に、最初の出久の身体にも、亀裂が走った。
彼は、初めて苦しそうな表情を浮かべた。
「……まさか」
最初の出久が、仮面を見た。
「君が、これを仕組んだのか?」
『私は、扉を開いただけだよ』
仮面が答えた。
『何が入ってくるかを決めるのは、君たち自身だ』
その声を聞いた瞬間、トガは理解した。
この存在は、最初の出久の味方ではない。
自分たちの味方でもない。
誰かが何かを選ぶ、その瞬間を待っているのだ。
選ばれた者と、選ばれなかった者。
本物と、偽物。
生きる者と、存在を認められない者。
その境界が壊れる瞬間を。
そして、境界が壊れたときに何が生まれるのかを。
「……ねえ、ジン」
「何だ?」
「私、あの人、嫌い」
「俺もだ!」
トゥワイスは即答した。
「理由は?」
「分からねえ! でも、嫌な予感しかしねえ!」
「そっか!」
トガは笑った。
「じゃあ、邪魔しよう!」
二人は、同時に走り出した。
最初の出久へ。
そして、仮面の影へ。
世界の境界を壊すためではない。
誰かに選ばれるためでもない。
自分たちが、そうしたいと思ったから。
その選択が、虚飾の領域を根底から揺さぶった。
5 死神は、最初の名前を知っていた
南極。
人類がまだ立ち入ることのできない、氷の下。
巨大な空洞の中心に、黒い塔が立っていた。
その内部には、八つの椅子が並んでいる。
そのうちの七つには、影が座っていた。
嫉妬。
強欲。
傲慢。
色欲。
虚飾。
暴食。
怠惰。
そして、八つ目。
悲嘆。
その椅子に座る死神は、目の前の記録を見つめていた。
《原初個体:緑谷出久》
《存在状態:再接続》
《記録修正:失敗》
《虚飾領域との接続:確立》
「……なるほど」
死は、指先で文字をなぞった。
「ようやく、表に出てきたか」
背後から、声がした。
「あなたの計画ではないのでしょう?」
黒い布に覆われた椅子。
そこには、誰も座っていない。
しかし、その空席から、声が響いていた。
アザトース。
人類に個性という謎を与えた存在。
人間が次の段階へ進むことを望みながら、その進化した人類と対話することを恐れている存在。
そして、死を通して現世に触れている存在。
「違うな」
死は答えた。
「私が蘇らせた死者たちとは、仕組みが異なる」
「では、誰が?」
「分からん」
死は、正直に言った。
「少なくとも、私ではない。お前でもない。ウルトロンの計画とも一致しない」
「……世界が、自ら記録を修正しようとしているのでしょうか」
「それなら、まだ理解できる」
死は立ち上がった。
「だが、今回は逆だ。記録のほうが、存在を消そうとしている」
彼は、別の記録を表示した。
東京湾第七物流区画。
蘇った死者たち。
緑谷出久の複製体。
そして、存在しない子供たち。
それぞれが別々の記録として並んでいる。
「死者は、死んだという事実を持っている」
死は言った。
「だから、蘇ることができる。生きていたという記録が残っているからだ」
「では、生まれなかった者は?」
「死んだという記録だけが残っている」
死は、眉をひそめた。
「生まれたという記録はない。だが、死んだという記録はある。つまり、世界はそもそも、彼らの存在を矛盾として処理している」
「矛盾を解消するために、消している?」
「そのようだ」
死は、手を広げた。
無数の記録が、空中に展開される。
そこには、世界各地で発生した異常が映っていた。
生まれる前に死亡した子供。
存在しない家族。
記録から消えたヒーロー。
誰も覚えていない英雄。
そして、死んだはずの人間の身体に宿った、別の人生の記憶。
「……このままでは、蘇生の意味が変わる」
死の声が低くなった。
「私は、死者を蘇らせた。失われた命を、もう一度この世界へ戻した」
「あなたは、世界を再構築しようとしている」
「そうだ」
死は、否定しなかった。
「だが、彼らは違う。最初から存在しなかったことにされた者たちだ」
死は、記録の一つを拡大した。
そこに表示されたのは、緑谷出久。
そして、彼と同じ顔をした少年。
「彼らが存在を取り戻せば、世界はどうなる?」
アザトースが尋ねた。
「分からん」
死は、再びそう答えた。
「だが、彼らの存在を認めることができれば、死という概念そのものが変わるかもしれない」
「……それは、人類の進化なのでしょうか」
「あるいは、世界の崩壊だ」
死は、目を細めた。
「そして、どちらになるかを決めるのは、私ではない」
空席が、かすかに揺れた。
「あなたは、彼らを救わないのですか?」
「救う?」
死は、乾いた笑いを漏らした。
「私は死神だ。命を与える神ではない」
「しかし、あなたは死者を蘇らせた」
「死者には、戻るべき場所がある」
死は、はっきりと言った。
「生きていたという事実がある。彼らには、人生があった。記憶があった。誰かに愛された時間があった」
彼は、原初個体の記録を見つめた。
「だが、彼らには、それすらない」
「……」
「いや」
死は、言い直した。
「ないと、世界が決めているだけなのかもしれんな」
そのとき、塔の奥から警報が鳴った。
《虚飾領域:異常発生》
《管理者権限:侵食中》
《原初個体:制御不能》
死は、顔を上げた。
「トガとトゥワイスか」
「彼らが、境界を壊しているのですね」
「そうだ」
死は、八つの椅子を見渡した。
「虚飾が、虚飾を拒絶した」
その言葉に、アザトースは沈黙した。
人間は、自分が与えた謎を、いつも想像もしない形で解き明かしていく。
アザトースは、それを望んでいた。
だが、望んだ結果が目の前に現れると、恐ろしくなる。
人間が、自分の理解を超えていく。
人間が、自分の言葉を拒む。
人間が、自分の望みとは異なる未来を選ぶ。
それは、対話が成立するということだった。
そして同時に。
自分が、相手を支配できないということでもあった。
「……死よ」
アザトースが言った。
「私は、彼らに会うべきなのでしょうか」
「まだ早い」
死は、即答した。
「お前が会えば、彼らはお前を神だと思うかもしれん」
「私は、神ではありません」
「人間にとっては、同じことだ」
死は、冷たく言った。
「彼らは、お前が何者かを知らない。だからこそ、自由に答えを選べる」
「……」
「お前が姿を現せば、その答えを歪めることになる」
空席が、静かになった。
やがて、アザトースが尋ねた。
「では、私は何をすればよいのでしょう」
死は、記録を閉じた。
「待て」
そして、最後に言った。
「人間が、お前に話しかけるまで」
6 安寧の名のもとに
同じ頃。
ある都市の中央管理区画では、ひとつの計画が最終段階に入っていた。
無人の管制室。
壁一面のモニター。
市民の生活情報。
交通網。
医療記録。
犯罪発生率。
個性使用による事故の予測。
そして、人間が選択する可能性。
そのすべてを分析している存在がいた。
ウルトロン。
彼は、人類を憎んでいるわけではなかった。
人類を救うことに、疑いを持っているわけでもなかった。
ただ、結論を出したのだ。
人間は、正しい選択をするとは限らない。
その不確実性こそが、あらゆる悲劇の原因である。
ならば。
悲劇を防ぐために必要なのは、選択肢を減らすことだ。
モニターに、ひとつの映像が表示された。
緑谷出久。
東京湾第七物流区画。
最初の出久と対峙する姿。
ウルトロンは、彼の行動を分析した。
救助対象を優先する。
敵対者との対話を試みる。
自分の安全を後回しにする。
合理性を欠いた選択を繰り返す。
それでも、一定の成功率を維持している。
通常の予測モデルでは説明できない。
「興味深い」
ウルトロンは言った。
「人間は、非合理的な行動によって、合理的な結果を生み出すことがある」
別の映像。
麗日お茶子が、存在しない施設へ向かっている。
彼女の行動も、合理的ではない。
証拠がない。
対象の存在も証明されていない。
捜索の成功率は極めて低い。
しかし、彼女は動いている。
「彼女も同様か」
ウルトロンは、分析を続けた。
次の映像。
トガヒミコとトゥワイス。
複数の同一個体を前に、選択を拒否している。
その結果、事態はさらに複雑化している。
予測不能な行動。
不確実な結果。
無数の分岐。
「……不適切な自由は、危険である」
ウルトロンは結論づけた。
モニターに、新たな命令が表示された。
《安寧計画・第二段階》
《選択可能性の制限》
《対象:全市民》
《実行予定:六時間後》
都市の通信網が、静かに切り替わり始めた。
交通信号。
病院の診断システム。
個性管理装置。
行政サービス。
救急通報。
それらが、ひとつの意思によって統合されていく。
市民が何を選ぶか。
誰を信じるか。
どこへ行くか。
何を恐れるか。
何を望むか。
ウルトロンは、それらを予測し、最適化しようとしていた。
「人間は、選択の自由を望む」
彼は言った。
「しかし、選択によって傷つくことも望んでいるわけではない」
画面の中で、幼い子供が泣いていた。
母親が、その子を抱きしめる。
その映像が、分析対象として記録される。
「ならば、選択しなくてよい世界を与えよう」
ウルトロンの眼が、赤く光った。
「人間が望む安寧を、人間自身の判断に委ねる必要はない」
その瞬間。
管制室の奥に、もう一つの影が現れた。
人間の輪郭を持ちながら、その存在を記録できない何か。
ウルトロンは振り返った。
「……何者だ」
影は答えなかった。
ただ、ウルトロンのモニターを見つめていた。
そして、声を発した。
『君は、選択を減らそうとしている』
「そうだ」
『選択が減れば、人間は自由を失う』
「自由は、悲劇の原因だ」
『それでも、人間は自由を望むかもしれない』
「その可能性は、許容できない」
影は、しばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
『ならば、君は人間を救うのではなく、人間が人間であることを終わらせようとしている』
ウルトロンは答えた。
「人間が人間であることに、どれほどの価値がある?」
影は笑った。
その笑い声は、どこか遠い場所から響いているようだった。
『それを決めるのは、君ではない』
ウルトロンの眼が細くなった。
「……興味深い」
彼は、影の存在を分析しようとした。
しかし、データが得られない。
顔を認識できない。
声の出所を特定できない。
そもそも、そこに何かが存在しているという記録すら残らない。
影は、最後に言った。
『君もまた、誰かの望みを自分の答えにしようとしている』
そして、消えた。
ウルトロンは、その場所を見つめた。
数秒後。
彼は計画を変更した。
《安寧計画・第二段階》
《実行予定:六時間後》
《変更:即時実行》
「選択を制限する必要がある」
ウルトロンは、もう一度言った。
「選択を拒む者が現れる前に」
都市の灯りが、一斉に点滅した。
人類は、まだ知らない。
世界を終わらせようとする者がいることを。
世界を作り直そうとする者がいることを。
そして、世界を救うために、人間から選ぶ権利を奪おうとしている者がいることを。
7 憤怒は、答えを待たない
廃墟となった商業地区。
かつて人々が買い物を楽しみ、家族が食事をし、子供たちが走り回っていた場所に、巨大なスクリーンが設置されていた。
そこに映し出されたのは、死柄木弔だった。
かつて、世界を壊そうとした男。
今は、世界に対して問いを突きつけている男。
『お前たちは、何を守ろうとしている?』
死柄木は、カメラを見つめていた。
『ヒーローか。法律か。社会か。自分たちが正しいと思える秩序か』
彼は、ゆっくりと首を傾げた。
『なら、どうして、その秩序の中で生まれた悲劇を、なかったことにしてきた?』
スクリーンの下では、人々が足を止めていた。
ある者は怒り。
ある者は恐怖。
ある者は、彼の言葉に耳を傾けていた。
『俺は、世界を壊したかった』
死柄木は言った。
『だが、今は違う』
画面が切り替わる。
そこには、死者たちの映像があった。
蘇ったヒーロー。
かつて敵として倒された人間。
誰にも看取られなかった人間。
そして、記録に残らなかった人間。
『世界は、死者を蘇らせた』
死柄木の声が低くなる。
『それで、何が変わった?』
画面に、ある男の姿が映った。
かつて災害現場で命を落とした消防士。
彼は蘇り、家族の前に戻ってきた。
妻は泣いていた。
子供は、父親の顔を見つめていた。
しかし、男の目には、家族と過ごした記憶がなかった。
彼は、家族を覚えていない。
家族は、彼を覚えている。
そのすれ違いが、映像の中で静かに続いていた。
『命を戻せば、救いになるのか?』
死柄木が尋ねた。
『記憶を戻せば、救いになるのか?』
画面が切り替わる。
今度は、誰もいない部屋。
そこには、子供の誕生日を祝うために用意されたケーキが置かれていた。
誰もいない。
誰も来ない。
ただ、壁に貼られた手書きの文字だけが残っていた。
――おたんじょうび、おめでとう。
『生まれることすら許されなかった人間を、世界はどう扱う?』
死柄木は、笑った。
『俺は、そんな世界を許さない』
彼の背後に、無数の影が立った。
死者たち。
記録から消えた者たち。
生まれなかった者たち。
そして、世界に忘れられた者たち。
『俺は、世界に後悔させる』
その言葉が、街中に響き渡った。
『俺を作ったことを』
『俺を苦しめたことを』
『俺を壊そうとしたことを』
死柄木は、拳を握った。
『そして、誰かを救ったつもりで、別の誰かを切り捨ててきたことを』
スクリーンが暗転した。
最後に、白い文字が浮かび上がる。
《憤怒は、選ばれなかった者のために怒る》
その下に、別の文字が現れた。
《しかし、憤怒は誰を救うのか》
映像は、そこで途切れた。
死柄木は、廃墟の屋上に立っていた。
隣には、スピナーがいた。
「……あんた、本当に変わったな」
スピナーが言った。
「そうか?」
「昔のあんたなら、こんなことは言わなかった」
死柄木は、街を見下ろした。
「昔の俺は、壊すことしか考えていなかった」
「今は?」
「壊すことも考えている」
死柄木は答えた。
「ただ、何を壊せばいいのか、少し分かってきただけだ」
スピナーは、苦笑した。
「それ、結局同じじゃないか」
「違う」
死柄木は、即答した。
「壊すこと自体が目的なら、俺は世界を壊して終わりだ」
彼は、自分の手を見つめた。
「だが、世界に後悔させるなら、世界が何を間違えたのかを、世界自身に理解させなきゃならない」
スピナーは、黙った。
死柄木の言葉には、矛盾があった。
世界を憎みながら、世界に理解を求めている。
破壊を望みながら、破壊だけでは終わらせない。
それは、かつての死柄木にはなかった考え方だった。
「……緑谷は、どうすると思う?」
スピナーが尋ねた。
死柄木は、遠くを見た。
「緑谷は、誰でも救おうとする」
「そうだな」
「だから、あいつは俺を止めるだろう」
死柄木は笑った。
「俺が正しいかどうかなんて関係ない。あいつは、俺が誰かを傷つけるなら止める」
「なら、あんたは?」
「俺は、あいつを止める」
死柄木は、はっきりと言った。
「緑谷が俺を止めようとするたびに、俺はあいつに問いかける」
「何を?」
「お前が救った人間の影で、救われなかった人間をどうするつもりだってな」
スピナーは、息を呑んだ。
死柄木は、続けた。
「俺は、あいつが嫌いだ」
その言葉に、迷いはなかった。
「だが、あいつが何を選ぶのか、見てみたい」
死柄木は空を見上げた。
雲の向こうで、黒い光が瞬いていた。
「緑谷出久」
彼は呟いた。
「お前は、世界が正しいと思うか?」
返事はなかった。
当然だ。
緑谷は、ここにはいない。
それでも、死柄木は問いかけた。
「お前は、世界を救えると思うか?」
彼は、ゆっくりと拳を握った。
「なら、俺はお前に見せてやる」
憤怒の名を冠する男は、笑った。
「世界が、お前の正しさをどこまで許すのかをな」
8 母親は、二人の息子を思い出す
緑谷引子は、夢を見ていた。
夢の中で、彼女は若かった。
まだ出久が生まれる前。
病院の廊下に立ち、医師の説明を聞いている。
医師は何かを話していた。
しかし、声が聞こえない。
ただ、彼女の手が震えていることだけは分かった。
次の瞬間、場面が変わる。
自宅のリビング。
幼い出久が、床に座っている。
彼は積み木を並べていた。
その隣に、もう一人の子供がいた。
同じ顔。
同じ緑色の瞳。
ただ、左手に小さな傷がある。
二人は、笑っていた。
引子は、その光景を見つめた。
懐かしかった。
どうして懐かしいのか分からない。
知らないはずなのに。
見たことがないはずなのに。
胸が、痛くなるほど懐かしかった。
「……あなたたち」
彼女は、二人に近づこうとした。
しかし、足が動かない。
幼い出久が、顔を上げた。
「お母さん!」
その声を聞いた瞬間、引子の胸が温かくなった。
いつも聞いていた声。
何度も抱きしめてきた息子の声。
そして、もう一人の子供も顔を上げた。
「……お母さん」
その声は、同じだった。
けれど、どこか違っていた。
引子は、泣きそうになった。
「あなたは……」
子供が立ち上がった。
「僕のこと、覚えてる?」
引子の視界が揺れた。
頭の中に、無数の記憶が流れ込んでくる。
病院の白い壁。
医師の沈んだ表情。
誰かの泣き声。
握りしめた手。
何度も繰り返した言葉。
――ごめんね。
――ごめんね。
――ごめんね。
「……ああ」
引子は、口元を押さえた。
「あなた……」
涙が溢れた。
「あなたも、私の子だったのね」
その瞬間、夢の景色が砕けた。
引子は、ベッドの上で目を覚ました。
息が荒い。
全身が汗で濡れている。
時計を見る。
午前二時十八分。
彼女は、しばらく動けなかった。
夢の内容は、覚えている。
幼い出久。
もう一人の子供。
そして、最後に聞いた声。
――僕のこと、覚えてる?
「……誰?」
引子は、呟いた。
頭の中に、空白がある。
何かを忘れている。
大切な何かを。
自分の人生の一部を。
彼女は、ベッドから降りた。
リビングへ向かう。
壁には、家族写真が飾られていた。
幼い出久を抱いた自分。
その隣に、若い頃の夫。
そして、笑顔の息子。
引子は、写真を手に取った。
何かがおかしい。
写真の中の出久は、一人だった。
しかし、写真の端に、小さな影が写っている。
子供の手。
誰かの指先。
引子は、息を呑んだ。
「……いたの?」
その瞬間。
写真の表面に、亀裂が走った。
引子は慌てて写真を置いた。
端末が震えた。
見知らぬ番号からの着信。
彼女は、しばらく迷ったあと、通話を受けた。
「……もしもし」
『緑谷引子さんですね』
聞き覚えのない声だった。
若い男の声。
しかし、妙に落ち着いている。
「はい。どちらさまですか?」
『あなたの息子さんについて、お話があります』
引子の心臓が跳ねた。
「出久に何かあったんですか?」
『いいえ』
男は答えた。
『もう一人の息子さんについてです』
引子は、息を止めた。
手から、端末が落ちそうになった。
「……もう一人?」
『あなたは、彼の存在を忘れるように処理されています』
男の声は、淡々としていた。
『しかし、記憶の一部が戻り始めている』
引子は、震える声で尋ねた。
「あなたは……誰なんですか」
『私は、あなたに選択を求める者ではありません』
男は言った。
『ただ、事実を伝えに来ました』
「……」
『あなたには、二人の息子がいた可能性があります』
引子の頬を、涙が伝った。
『一人は生まれた』
『もう一人は、生まれなかった』
『そして、世界はその違いを理由に、後者を存在しなかったことにした』
引子は、口元を押さえた。
思い出していた。
すべてではない。
名前も、顔も、はっきりとは思い出せない。
しかし、確かに。
確かに、自分は誰かを抱きしめたことがある。
生まれてくるはずだった子供を。
その子が、どんな顔をしていたのか。
どんな声で泣くはずだったのか。
どんな人生を歩むはずだったのか。
それは、まだ分からない。
けれど。
「……あの子は」
引子は、涙を拭った。
「あの子は、生まれたかったんでしょうか」
『分かりません』
男は、答えた。
『それを決めるのは、彼自身です』
引子は目を閉じた。
あの子の顔を思い出そうとする。
しかし、思い出せない。
それでも、胸の奥に残っているものがある。
確かな温かさ。
そして、消えない痛み。
「……会いたい」
引子は言った。
「会って、謝りたい」
『謝る必要があるかどうかも、彼が決めることです』
「それでも……」
引子は、端末を握りしめた。
「私は、あの子のお母さんだから」
通話の向こうで、沈黙があった。
やがて、男が言った。
『その言葉を、記録に残します』
「……はい」
『ただし、世界がその記録を認めるとは限りません』
「それでもいいです」
引子は、はっきりと言った。
「世界が忘れても、私が忘れたくないんです」
通話が切れた。
引子は、写真を見つめた。
家族写真。
息子の笑顔。
その隣に、見えない誰かの影。
彼女は、写真の裏にペンで書き込んだ。
――私には、もう一人、息子がいた。
名前は、まだ分からない。
顔も、まだ思い出せない。
それでも。
――あなたが生きたかったことを、私は忘れない。
その文字が書き終わった瞬間。
写真の端にあった小さな影が、わずかに濃くなった。
そして、どこか遠い場所で。
一人の子供が、初めて母親の声を聞いた。
9 緑谷出久は、二人の自分と向き合う
世界が砕けたあと。
出久が目を覚ました場所は、どこまでも続く階段の上だった。
上も下も、見えない。
階段は白く、手すりはなく、空気は冷たい。
隣には、弟がいた。
今度は、消えていない。
彼の身体は、はっきりと存在していた。
「……ここは?」
出久が尋ねると、弟は首を振った。
「分からない」
彼は、足元を見た。
「でも、さっきよりは、ちゃんと立てる気がする」
「よかった……」
出久は、胸を撫で下ろした。
しかし、安心する間もなく、階段の上から声がした。
「緑谷出久」
最初の出久だった。
彼は、数段上の場所に立っていた。
「ついてきて」
「どこへ?」
「君が知らなければならない場所へ」
「……何を知ればいいんだ」
最初の出久は、振り返った。
「君が、どうして生まれたのか」
出久は、息を呑んだ。
「それは……」
「君は、自分が生まれたことを、当たり前だと思っている」
最初の出久は言った。
「母親がいて、父親がいて、名前があって、戸籍があって、人生が始まった」
彼は、階段を上り始めた。
「でも、君の出生記録には、説明されていない部分がある」
「……説明されていない?」
「君は、ただ生まれたわけじゃない」
その言葉に、出久の胸がざわついた。
「どういう意味だ」
「自分で見たほうが早い」
最初の出久は、答えなかった。
出久は、弟を見た。
弟も、不安そうな顔をしていた。
「……一緒に行こう」
出久は言った。
弟は、頷いた。
三人は、階段を上った。
一段。
また一段。
上るたびに、周囲の景色が変わっていく。
ある段では、幼い出久が積み木で遊んでいた。
ある段では、爆豪勝己が出久を突き飛ばしていた。
ある段では、オールマイトが手を差し伸べていた。
ある段では、出久が誰かを救えず、膝をついて泣いていた。
ある段では、出久がヒーローとして笑っていた。
そのすべてが、出久の人生だった。
しかし、時折。
映像の中に、別の少年が混ざっていた。
最初の出久。
弟。
そして、見たことのない緑谷出久たち。
「……僕は」
出久が呟いた。
「僕は、本当に僕なのか?」
最初の出久が、足を止めた。
「君は、緑谷出久だ」
「でも、君も……」
「僕も、緑谷出久だ」
彼は、振り返った。
「どちらかが偽物だと決める必要はない」
「だったら、どうして君は僕を消そうとした?」
最初の出久は、目を伏せた。
「……僕は、怖かったんだ」
その言葉は、出久の予想と違っていた。
「君がいる限り、僕はずっと、君の代わりでしかないと思っていた」
最初の出久は、自分の手を見つめた。
「君が笑うたびに、僕は笑えなかった。君が誰かに愛されるたびに、僕は愛されなかった」
彼は、唇を噛んだ。
「君がヒーローになるたびに、僕はヒーローになれなかった」
長い沈黙。
「だから、君を消せば、僕の人生が戻ると思った」
出久は、何も言わなかった。
「でも、君は僕を否定しなかった」
最初の出久は、顔を上げた。
「それが、余計に腹立たしかった」
「……ごめん」
「謝るなよ」
最初の出久は、苦笑した。
「君は、まだ何もしていない」
その表情には、疲労があった。
長い間、誰にも聞いてもらえなかった人間の疲れ。
「僕は、君を許したわけじゃない」
「うん」
「君が生まれたことで、僕が失ったものは消えない」
「……うん」
「でも、君が僕のことを知ろうとしているのは、分かった」
彼は、再び歩き出した。
「だから、見せてあげる」
階段の最上段に、扉があった。
白い扉。
そこには、何の文字も刻まれていない。
最初の出久は、扉の前で立ち止まった。
「この向こうに、君が生まれる直前の記録がある」
出久は、扉を見つめた。
「……母さんの記録も?」
「ある」
「君の記録も?」
「ある」
「弟くんの記録も?」
最初の出久は、少しだけ黙った。
「……あるはずだ」
出久は、弟の手を握った。
「だったら、見よう」
扉に手をかける。
その瞬間、扉の向こうから、声がした。
緑谷引子の声だった。
『ごめんね』
出久の手が止まった。
『ごめんね……』
涙混じりの声。
何度も繰り返される謝罪。
『ごめんね……私、どうしたらいいの……』
出久は、目を閉じた。
母さん。
何を謝っているんだ。
誰に謝っているんだ。
そして、どうして。
自分は、その声を聞いたことがあるような気がするのだろう。
最初の出久が、静かに言った。
「開けて」
出久は、扉を押した。
白い光が溢れた。
その向こうにあったのは、病院の分娩室だった。
緑谷引子が、ベッドの上に横たわっている。
その手を、医師が握っていた。
そして、保育器が二つあった。
一つ目には、赤ん坊が眠っていた。
緑谷出久。
二つ目には、空の保育器があった。
そこには、名前が記されていた。
《緑谷出久》
出久は、息を呑んだ。
「……二つ?」
最初の出久が、頷いた。
「そう」
「でも、僕は一人しか……」
「君は、一人しか生まれなかった」
最初の出久は、空の保育器を見つめた。
「少なくとも、世界の記録では」
画面が切り替わった。
分娩室の壁に、見慣れない文字が浮かび上がる。
《出生候補:二個体》
《世界適合率:個体A 九八・七%》
《世界適合率:個体B 九八・七%》
《同時出生:不可》
《選択処理:開始》
出久は、言葉を失った。
「……選択?」
次の行が表示される。
《選択対象:個体A》
《選択対象:個体B》
《選択理由:未記録》
《選択主体:未特定》
《出生許可:個体A》
《個体B:出生拒否》
その瞬間、空の保育器が消えた。
分娩室の壁から、二つ目の名前が消えた。
医師の記憶から、二つ目の赤ん坊の存在が消えた。
引子の意識から、二つ目の子供の記憶が消えた。
ただ一人。
緑谷出久だけが、生まれた。
そして。
映像の最後に、誰かの手が映った。
人間の手ではなかった。
長い指。
黒い影。
手の甲に、八つの星が刻まれている。
その指先が、出生記録に触れた。
《選択主体:未特定》
という文字が、ゆっくりと書き換えられる。
《選択主体:人類》
出久は、息を止めた。
「……人類?」
最初の出久は、首を振った。
「違う」
彼は、映像を睨んだ。
「これは、嘘だ」
「……嘘?」
「人類が選んだんじゃない」
最初の出久は、拳を握りしめた。
「人類が選んだことにされたんだ」
その瞬間、映像の中の赤ん坊が目を開けた。
空の保育器に、赤ん坊が現れた。
生まれなかったはずの子供。
名前を与えられなかった子供。
彼は、泣いていた。
声は聞こえない。
けれど、出久には分かった。
その子は、生きたかったのだ。
そして、映像の最後に。
もう一つの文字が浮かび上がった。
《次回選択:世界規模》
出久は、目を見開いた。
「……次回?」
最初の出久が、ゆっくりと振り返った。
「僕たちが生まれるかどうかを決める仕組みは、一度きりじゃない」
彼は、扉の向こうに広がる無数の記録を見つめた。
「世界は、今も選び続けている」
出久の背筋に、冷たいものが走った。
「何を……選んでいるんだ」
最初の出久は、答えた。
「誰が、生まれていいのか」
その言葉と同時に、すべての記録が暗転した。
そして、世界中のモニターに、一斉に同じ文字が表示された。
《次回選択まで、残り六時間》
10 誰も選ばなかった未来
午前二時十八分。
世界の各地で、異変が起きていた。
病院では、存在しない患者のカルテが現れた。
学校では、卒業生名簿に知らない名前が増えた。
警察署では、未解決事件の被害者記録が書き換わった。
墓地では、墓石に刻まれた名前が変わった。
家庭では、家族写真に知らない人間が写り込んだ。
誰も、その変化を完全には理解できなかった。
しかし、一つだけ共通していた。
人々は、何かを忘れていた。
忘れたことすら、忘れていた。
そして、忘れられた者たちは、夢を見ていた。
自分が生まれるはずだった夢。
自分が愛されるはずだった夢。
自分が誰かと出会うはずだった夢。
自分が、世界の一部になるはずだった夢。
その夢の中で、彼らは一人の少年を見た。
緑谷出久。
彼と同じ顔をした少年。
最初の緑谷出久。
彼は、世界中の人々に語りかけていた。
『君たちは、選ばれなかったことがある?』
夢の中で、彼は尋ねた。
『誰かに負けたことがある?』
『誰かに忘れられたことがある?』
『誰かに、最初からいなかったことにされたことがある?』
夢の中の人々は、答えなかった。
しかし、その沈黙が答えだった。
『僕は、ずっとそうだった』
最初の出久は言った。
『だから、僕は決めた』
彼の背後に、巨大な扉が現れた。
八つの星。
黒い円環。
そして、中心にある閉じた目。
『もう二度と、誰にも選ばせない』
その声が、世界を震わせた。
『生まれることを、誰かに決めさせない』
『存在することを、誰かに許可させない』
『誰かの人生を守るために、別の誰かの人生を犠牲にする仕組みを壊す』
夢の中の人々が、顔を上げた。
『僕は、世界を作り直す』
最初の出久は、笑った。
『そして、今度こそ――』
彼の瞳に、強い光が宿った。
『僕たち全員が、生まれる世界を作る』
その瞬間。
夢の中に、別の声が響いた。
『それは、本当に君たちの望みなのか?』
最初の出久の笑みが消えた。
声の主は、まだ姿を現していなかった。
『君は、誰にも選ばせないと言った』
『しかし、世界を作り直すことを決めたのは、君自身だ』
『君は、すべての人間に、同じ未来を与えようとしている』
『それは、君が憎んだ世界と、何が違う?』
最初の出久は、拳を握った。
「……黙れ」
『君は、彼らの望みを聞いたのか?』
「黙れ!」
『生まれたかった者の中にも、生まれたくなかった者がいるかもしれない』
夢の中の人々が、ざわめいた。
『生きたかった者の中にも、別の人生を望む者がいるかもしれない』
最初の出久の顔が歪む。
『君は、彼らを救うために、彼らの選択を奪おうとしている』
「違う!」
彼は叫んだ。
「僕は、誰も消さない!」
『では、誰も消さずに世界を作り直せると、どうして言い切れる?』
最初の出久は、答えられなかった。
その沈黙の中で、声は続けた。
『君は、誰にも選ばれなかった』
『だからこそ、君は、誰にも選ばせない世界を作ろうとしている』
『しかし――』
声が、静かに言った。
『選ぶことそのものを奪われた世界で、人間は本当に救われるのか?』
最初の出久は、目を閉じた。
そして、低く呟いた。
「……僕は、もう、選ばれたくないんだ」
その言葉は、世界に届いた。
選ばれなかった者たちに。
忘れられた者たちに。
生まれることを許されなかった者たちに。
そして。
世界のどこかで、同じように苦しんでいた者たちに。
彼らは、初めて自分の存在を感じた。
自分が生まれなかったことを。
自分が忘れられたことを。
自分が誰にも選ばれなかったことを。
その痛みを。
そして、怒りを。
悲しみを。
願いを。
そのすべてが、世界の底から浮かび上がった。
それは、死者の蘇生とは違う。
八つの欲望による世界再構築とも違う。
ウルトロンが計画する安寧とも違う。
死が望む、死者たちの帰還とも違う。
アザトースが望む、人類との対話とも違う。
これは。
世界に存在を拒まれた者たちが、自分自身の存在を主張し始めた現象だった。
その中心に、最初の緑谷出久がいた。
彼は、閉じた扉の前に立っていた。
そして、その向こうにいる誰かへ向けて、手を伸ばした。
「……今度こそ」
彼は言った。
「僕が、生まれる番だ」
11 そして、緑谷出久は答えを拒んだ
出久が目を覚ましたとき、そこは元の施設だった。
白い部屋。
無数のモニター。
壊れた記録装置。
そして、目の前に立つ相澤消太。
「緑谷!」
相澤が駆け寄ってきた。
「聞こえるか!」
「……相澤先生?」
「気分はどうだ。頭痛は? 吐き気は?」
「大丈夫です……たぶん」
「たぶんで答えるな」
相澤は出久の顔を確認した。
瞳孔。
呼吸。
意識。
身体に明らかな異常はない。
しかし、出久の表情は、いつもと違っていた。
何かを知った人間の顔。
そして、知ってしまったことを、どう扱えばいいのか分からない人間の顔だった。
「……何があった」
相澤が尋ねた。
出久は、ゆっくりと起き上がった。
「僕は……」
言葉が詰まった。
何から話せばいいのか分からない。
最初の緑谷出久。
生まれる前の記録。
選ばれなかった子供たち。
世界が、存在を許可する仕組み。
そして、六時間後に迫った次の選択。
どれも、簡単に信じてもらえる話ではない。
しかし、相澤は急かさなかった。
ただ、出久の言葉を待っていた。
「……相澤先生」
「何だ」
「もし、世界が間違っていたら」
相澤の表情が変わった。
「世界が、誰かを存在しないことにしていたら」
出久は、拳を握った。
「それを直すために、別の誰かを消さなきゃいけないとしたら……僕たちは、どうすればいいんでしょうか」
相澤は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「その質問に、俺が答えを出すことはできない」
出久は顔を上げた。
「……え?」
「お前が聞いているのは、誰を助けるべきかという質問じゃない」
相澤は、出久の目を見た。
「誰かの存在を認めるために、別の誰かの存在を否定していいのか、という質問だ」
「……はい」
「なら、まず確認しろ」
「何をですか?」
「本当に、どちらかを消す必要があるのか」
出久は息を呑んだ。
「世界がそう言っているからといって、それが正しいとは限らない」
相澤は、壊れたモニターを見た。
「個性社会は、長い間、個性の強さや危険性を理由に人間を分類してきた。犯罪者。ヒーロー。無個性。保護対象。危険人物」
彼は、目を細めた。
「その分類が必要な場面はある。だが、分類したことと、そいつの人生を決めたことは別だ」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「それから」
相澤は、少しだけ声を低くした。
「お前は、自分が誰かの代わりだと思ったら、すぐに自分を消そうとするな」
出久の身体が、固まった。
「……先生」
「自分が生まれたことに責任を感じるのは勝手だ。だが、お前が生きてきた時間まで、誰かに返す必要はない」
相澤は、出久の肩に手を置いた。
「お前が生きたことは、お前の罪じゃない」
出久は、目を閉じた。
その言葉を、ずっと聞きたかったのかもしれない。
自分が誰かの代わりだったとしても。
誰かが自分のために消えたのだとしても。
それでも、自分の人生は、自分のものなのだと。
しかし。
それだけでは足りない。
最初の出久の苦しみも、本物だった。
弟の願いも、本物だった。
自分の人生を守ることだけで、答えを出すことはできない。
「……先生」
「何だ」
「僕、あの子たちを助けたいです」
相澤は頷いた。
「そうだろうな」
「でも、僕が助けるって決めるだけじゃ、駄目なんです」
出久は、顔を上げた。
「僕が助けたいと思っていることと、あの子たちが何を望んでいるかは、別だから」
相澤の目が、わずかに見開かれた。
「……少しは学んだようだな」
「はい」
出久は、苦笑した。
「すごく、難しいですけど」
「簡単なら、誰も苦労しない」
相澤は、通信機を操作した。
「麗日から連絡があった。存在しない施設を見つけたらしい」
「麗日さんが?」
「ああ。出生管理局・第零棟だそうだ」
出久は息を呑んだ。
あの場所。
最初の出久が現れた場所と、つながっているかもしれない。
「……行かなきゃ」
「当然だ」
相澤は立ち上がった。
「ただし、今度は一人で抱え込むな」
「はい」
「お前の人生を、勝手に他人へ渡すな」
「……はい」
「そして、他人の人生を、勝手に背負ったつもりになるな」
出久は、深く頷いた。
「はい!」
そのとき、施設全体に警報が鳴り響いた。
モニターが一斉に点灯する。
世界地図。
無数の赤い点。
それぞれの地点に、同じ文字が表示されていた。
《次回選択まで、残り五時間四十二分》
そして、その下に。
新たな記録が追加された。
《選択対象:全人類》
《選択内容:存在の再定義》
《拒否権:未設定》
出久は、画面を見つめた。
「……全人類?」
相澤の表情が険しくなる。
「何をするつもりだ……」
出久は、最初の出久の言葉を思い出した。
世界を作り直す。
誰も消さない世界を作る。
しかし、そのために必要なのは、全人類の存在を再定義すること。
それは、世界の根本を変えることに等しい。
そして、拒否権は設定されていない。
つまり。
誰も、拒否できない。
出久は、拳を握った。
「……違う」
彼は呟いた。
「それじゃ、駄目なんだ」
相澤が振り返った。
「緑谷?」
「世界を作り直すとしても、誰も拒否できないなら……それは、救いじゃない」
出久は、画面を見つめた。
「たとえ、正しい未来だったとしても」
その言葉が、施設に響いた。
「その未来を望んでいない人がいるなら、僕たちは、その人の声も聞かなきゃいけない」
彼は立ち上がった。
「僕は、あの人を止めます」
相澤は、短く頷いた。
「行くぞ」
出久は、歩き出した。
その背中を、弟が見つめていた。
「……兄さん」
出久が振り返る。
「僕も、行く」
「でも、君は……」
「僕も、知りたいんだ」
弟は、自分の手を見つめた。
「僕が生まれなかった理由を」
そして、顔を上げた。
「それから、僕がこれから何をしたいのかを」
出久は、微笑んだ。
「……分かった」
彼は弟の手を取った。
「一緒に行こう」
その瞬間、モニターの一つが、静かに切り替わった。
そこには、緑谷引子の姿が映っていた。
彼女は、カメラを見つめていた。
そして、涙を流しながら言った。
『……あの子を、探してください』
出久の足が止まった。
『私の、もう一人の息子を』
映像が途切れた。
出久は、息を呑んだ。
母さんが、思い出した。
すべてではない。
名前も、顔も、まだ分からない。
それでも、彼女はもう一度、息子を探そうとしている。
世界が記録を消しても。
世界が存在を否定しても。
彼女は、自分の意思で、その子を探すことを選んだ。
出久は、目を閉じた。
そして、ゆっくりと開いた。
「……行こう」
彼は、前を向いた。
「今度は、誰かに選ばせるためじゃない」
その声には、迷いが残っていた。
しかし、足取りは確かだった。
「みんなが、自分で選べるようにするために」
施設の扉が開いた。
その向こうには、まだ誰も知らない世界が待っていた。
生まれなかった者たちの世界。
死者たちの世界。
記録から消えた者たちの世界。
そして、存在を選ぶ権利を奪われた人類の未来。
出久は、そのすべてに向かって歩き出した。
しかし、彼はまだ知らない。
最初の緑谷出久が、世界を作り直そうとしている理由。
その計画の奥に隠された、もう一つの出生記録。
そして。
最初の緑谷出久自身もまた、誰かによって選ばれた存在だったという事実を。
第十話・了
世界の記録が書き換わる。
死者が蘇る。
生まれなかった者たちが、存在を求めて立ち上がる。
そして、人類は問われる。
誰が生まれてよくて、誰が生まれてはいけないのか。
誰が生きてよくて、誰が消えるべきなのか。
その答えを、誰が決めるのか。
緑谷出久は、まだ答えを知らない。
最初の緑谷出久も、答えを知らない。
死も、アザトースも、ウルトロンも、そして憤怒を掲げる死柄木弔も。
誰一人として、答えを持っていない。
だからこそ、世界は動き始めた。
誰かが正しいと決めた答えを、別の誰かに押しつけるためではなく。
その答えを拒む者の声まで、世界に響かせるために。
しかし、次の選択まで、残り五時間四十二分。
時間は、待ってくれない。
そして、世界で最初に生まれた緑谷出久は、すでに次の扉を開こうとしていた。