僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十一話「世界が選んだ偽物」

1 扉の向こうの少年

扉が、内側から開いた。

 

音はなかった。

 

蝶番が軋むことも、鍵が外れることもない。

 

ただ、そこにあった境界が、最初から存在しなかったかのように消えた。

 

向こう側には、白い部屋が広がっていた。

 

床も、壁も、天井も白い。

 

しかし、それは清潔な白ではなかった。

 

病院の廊下を思わせる無機質な白でも、雪原のような自然の白でもない。

 

もっと不気味な白。

 

何かを塗り潰したあとに残る、上塗りの白だった。

 

「……ここは」

 

緑谷出久は、無意識に足を踏み出しかけた。

 

「待て、緑谷」

 

通信機から相澤消太の声が飛ぶ。

 

「入るな。少なくとも、何があるのか確認するまでは――」

 

「先生」

 

出久は、扉から目を離さなかった。

 

「これ、僕の記憶を使ってるんですよね」

 

「そうだとしても、入る理由にはならない」

 

「でも、僕が見なければ、また誰かが消えるかもしれない」

 

「お前が見たところで、救える保証はない」

 

「……はい」

 

出久はうなずいた。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

「それでも、見なかったことにはできません」

 

相澤は沈黙した。

 

通信機の向こうで、誰かが小さく息を呑む音がする。

 

轟焦凍だろう。

 

彼もまた、あの扉が見せたものを知っている。

 

自分の父親。

 

母親。

 

家族という名の檻。

 

そして、自分が選ばされてきたもの。

 

「緑谷」

 

今度は轟の声だった。

 

「ひとつだけ、覚えておいてくれ」

 

「何?」

 

「向こうにいる奴が、お前と同じ顔をしていても、お前と同じ記憶を持っていても……そいつが、お前の代わりに何かを決める権利まで持っているわけじゃない」

 

出久は、少しだけ目を見開いた。

 

「……うん」

 

「俺は、あの扉の向こうで、親父に似た声を聞いた。母さんの声も聞いた。俺が一番聞きたくない言葉を、俺が一番信じたくない人間の口から言われた」

 

轟の声は平静だった。

 

だが、平静であろうとする意志が、その声の奥にあった。

 

「それでも、俺が何を選ぶかは俺が決める。誰かに決められた選択を、俺自身の答えだと思いたくない」

 

出久は、静かに息を吸った。

 

「……ありがとう、轟君」

 

「礼はいらない。帰ってこい」

 

「うん」

 

出久は、白い部屋へ足を踏み入れた。

 

扉が閉じた。

 

その瞬間、通信が切れた。

 

「先生?」

 

返答はない。

 

「轟君?」

 

無音。

 

出久は振り返った。

 

そこに扉はなかった。

 

白い壁だけが広がっている。

 

「……やっぱり、そうなるんだ」

 

出久は苦笑した。

 

怖くないわけではない。

 

むしろ、怖かった。

 

自分と同じ顔をした少年が、自分の存在を奪いに来た。

 

自分の記憶を利用して、知らないはずの弟を見せつけてきた。

 

そのうえ、今度は自分が生まれる番だと言った。

 

普通に考えれば、敵だ。

 

しかし。

 

出久は、拳を握りしめた。

 

「君は……何を失ったんだ?」

 

問いかけに答える声はなかった。

 

代わりに、部屋の奥で椅子がひとつ動いた。

 

少年が座っていた。

 

緑谷出久と同じ顔。

 

同じ髪。

 

同じ輪郭。

 

ただし、その瞳は違った。

 

出久の瞳には、誰かを救いたいという願いと、救えなかった者たちへの後悔が宿っている。

 

目の前の少年の瞳には、そのどちらもなかった。

 

いや。

 

正確には、後悔だけが残っていた。

 

願いが叶わなかったことへの後悔。

 

助けられなかったことへの後悔。

 

そして、自分が存在できなかったことへの後悔。

 

少年は、出久を見つめた。

 

「遅かったね」

 

声まで同じだった。

 

「……君が、最初に生まれた緑谷出久?」

 

「そうだよ」

 

少年はあっさり答えた。

 

「僕が、最初の緑谷出久だ」

 

「最初って、どういう意味?」

 

「そのままの意味だよ」

 

少年は椅子から立ち上がった。

 

「僕が最初に生まれた。僕が最初に個性を持った。僕が最初に誰かを救おうとした。僕が最初に、世界を変えようとした」

 

一歩。

 

少年が近づく。

 

「そして、僕が最初に失敗した」

 

出久は動かなかった。

 

「……失敗?」

 

「そう。君が知らない失敗だ」

 

少年は笑った。

 

それは、出久が何度も鏡の中で見たことのある笑顔だった。

 

人を安心させようとする笑顔。

 

自分が傷ついていることを隠す笑顔。

 

誰かを救えなかったとき、自分が大丈夫だと周囲に思わせるための笑顔。

 

「君は、何も知らない」

 

少年は言った。

 

「自分がどうやって生まれたのかも。どうして生き残ったのかも。どうして、君以外の僕たちが消えたのかも」

 

「それを知っているの?」

 

「知っているよ」

 

少年の表情が変わった。

 

「僕が、そうなったから」

 

出久の喉が詰まった。

 

「……君は、消えたの?」

 

「違う」

 

少年は首を振った。

 

「僕は、消された」

 

その言葉だけが、白い部屋に重く残った。

 

「誰に?」

 

少年は答えなかった。

 

代わりに、出久の背後を見た。

 

そこには何もない。

 

それでも、少年は確かに誰かを見ていた。

 

「君は、あいつらを見たんだろう?」

 

「……あいつら?」

 

「生まれなかった子供たち。死んだはずの人間。別の世界で生きた僕たち。存在しなかったことにされた人たち」

 

少年の瞳が細くなる。

 

「君は、みんなを救おうとした」

 

「うん」

 

「全員を?」

 

「……できる限りは」

 

「できなかったら?」

 

出久は、答えられなかった。

 

少年はその沈黙を見て、笑った。

 

「ほらね」

 

「何が?」

 

「君は、僕と同じだ」

 

少年が手を伸ばす。

 

指先が、出久の胸に触れた。

 

その瞬間。

 

白い部屋が、ひび割れた。

2 最初の失敗

世界が、裏返った。

 

白い壁が崩れ落ちる。

 

その向こうにあったのは、街だった。

 

出久は、見覚えのない街並みを見た。

 

高層ビル。

 

崩れた道路。

 

燃える車。

 

避難する人々。

 

空には、黒い煙が渦巻いていた。

 

そして、街の中央に立つ少年。

 

最初の緑谷出久。

 

彼は、幼い少女を抱きしめていた。

 

少女の顔は見えない。

 

けれど、泣いていることだけはわかった。

 

「大丈夫」

 

少年は言った。

 

「僕が助けるから」

 

その声を聞いた瞬間、出久は息を呑んだ。

 

自分も、同じことを言ったことがある。

 

何度も。

 

何度も。

 

助けられる保証がなくても。

 

勝てる見込みがなくても。

 

自分が壊れるとわかっていても。

 

「僕が助けるから」

 

その言葉は、希望だった。

 

同時に、呪いだった。

 

少年は少女を地面に下ろし、走り出した。

 

瓦礫の向こうに、ひとりの男が立っている。

 

顔は見えない。

 

男の手には、黒い球体があった。

 

球体の表面には、無数の光が浮かんでいる。

 

それぞれが、小さな世界のように見えた。

 

少年が叫んだ。

 

「やめろ!」

 

男は振り返らない。

 

「その子は関係ない!」

 

「関係がない人間など、どこにもいない」

 

男の声は、奇妙に穏やかだった。

 

「一人を救えば、別の誰かが失われる。一つの世界を残せば、別の世界が消える。君は、それを知っているはずだ」

 

「だからって、見捨てていい理由にはならない!」

 

少年は走る。

 

男へ向かって。

 

少女を救うために。

 

その瞬間、空が割れた。

 

街全体が、巨大な透明な箱に閉じ込められる。

 

道路が消えた。

 

ビルが消えた。

 

人々が消えた。

 

まるで、誰かが世界の一部を選択し、削除したように。

 

少年の足が止まる。

 

目の前にいた少女が、光の粒になって崩れていく。

 

「……え?」

 

少年が手を伸ばす。

 

「待って」

 

少女の指先が消える。

 

「待ってよ」

 

少女の腕が消える。

 

「僕が、助けるから」

 

少女の身体が消える。

 

「お願いだから……!」

 

最後に残ったのは、少女の声だった。

 

『あなたは、誰を助けるの?』

 

そして、何もなくなった。

 

少年は、そこに立ち尽くした。

 

崩れた街の真ん中で。

 

誰もいない場所で。

 

自分の手を見つめながら。

 

「……僕は」

 

その声は、かすれていた。

 

「僕は、助けたかっただけなのに」

 

出久は、動けなかった。

 

これは記憶なのか。

 

幻覚なのか。

 

それとも、別の世界で本当に起きた出来事なのか。

 

「これが……君の世界?」

 

少年はうなずいた。

 

「そう」

 

「どうして、こんなことに……」

 

「君が知らないからだよ」

 

少年は出久を見た。

 

「君が知らない歴史がある。君が知らない選択がある。君が知らない僕がいる」

 

「それでも……」

 

「それでも?」

 

「それでも、君が助けようとしたことまで、間違いだったとは思わない」

 

少年の顔から、笑みが消えた。

 

「……そういうところだよ」

 

「え?」

 

「そういうところが、嫌いなんだ」

 

次の瞬間、少年が出久の胸倉を掴んだ。

 

「何も知らないくせに!」

 

声が、初めて荒れた。

 

「何も失っていないくせに!」

 

出久は反射的に少年の腕を掴んだ。

 

「君だって、僕のことを何も知らないだろ!」

 

「知っている!」

 

少年が叫んだ。

 

「僕は、君を知っている!」

 

白い世界が震えた。

 

「君がどんな人間か、僕は知っている! 誰かを救うためなら、自分のことなんてどうでもいいと思っている! 自分が傷つけば済むと思っている! 誰かが泣いていたら、助けなきゃいけないと思っている!」

 

少年の指が、出久の服に食い込む。

 

「だから、君は必ず同じことをする!」

 

「……何を?」

 

「また、誰かを選ぶんだ!」

 

少年の瞳が燃える。

 

「そして、選ばれなかった人間を置いていく!」

 

出久は言葉を失った。

 

「君は、全員を救いたいんだろう?」

 

「……うん」

 

「だったら、どうして僕を救わなかった?」

 

少年の声が、静かになった。

 

「どうして、僕だけいなかったことにした?」

 

出久の胸が、痛んだ。

 

「……僕は、君を知らなかった」

 

「そうだね」

 

少年は、あっさりと答えた。

 

「だから、君は悪くない」

 

その言葉が、かえって残酷だった。

 

「君は悪くない。君は何も知らなかった。君は何もできなかった。君には責任がない」

 

少年は笑った。

 

「だから、僕が君の代わりに生まれる」

 

出久の手から力が抜けた。

 

「……何を言ってるんだ?」

 

「君が存在することで、僕は存在できなかった」

 

少年は、出久の胸に手を置いた。

 

「だったら、順番を戻せばいい」

 

「順番……?」

 

「最初に生まれた僕が生きる。君は、そのあとに生まれるはずだった僕として、消える」

 

少年の声は、ひどく穏やかだった。

 

「それだけのことだよ」

 

出久は、首を振った。

 

「そんなことをしたら、僕が生きてきた世界は……」

 

「僕が知った世界は、そうやって消えた」

 

「でも!」

 

「君は、僕の世界が消えるとき、そこにいなかった!」

 

少年の叫びが、出久を打った。

 

「僕が助けたかった人たちが消えるとき、君はそこにいなかった! 僕が何度も名前を呼んだとき、君はそこにいなかった! 僕が、誰もいない世界で一人になったとき、君は――!」

 

少年は言葉を切った。

 

そして、顔を伏せた。

 

「……君は、幸せそうに生きていた」

 

出久は、何も言えなかった。

 

それが事実かどうか、彼にはわからない。

 

しかし、この少年がそう信じるに至った時間が、確かに存在することだけはわかった。

 

「僕は……」

 

出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「君の世界で何が起きたのか、全部知りたい」

 

少年は顔を上げた。

 

「……同情するつもり?」

 

「違う」

 

出久は、まっすぐに少年を見た。

 

「君が何をしたのかも。何を失ったのかも。誰を救おうとして、誰を救えなかったのかも。全部、知りたい」

 

「知って、どうする?」

 

「それから考える」

 

少年の表情が歪んだ。

 

「……本当に、君は」

 

彼は出久の胸から手を離した。

 

「どうしようもないね」

 

その瞬間、街の上空に巨大な文字が浮かび上がった。

 

《世界再構成プロセス:第二段階》

 

《原初個体の優先権を確認》

 

《現行個体との競合を検出》

 

《選択を開始します》

 

出久は顔を上げた。

 

「選択……?」

 

少年が笑った。

 

今度の笑顔には、悲しみがなかった。

 

「ほら。世界も、君がいらないって言っている」

3 世界の投票

街の空が、巨大なスクリーンに変わった。

 

そこに映し出されたのは、緑谷出久の顔だった。

 

ひとつではない。

 

ふたつでもない。

 

数百、数千、数万。

 

それぞれ違う表情の出久たちが、世界中の人々に向かって語りかけている。

 

英雄として称賛される出久。

 

誰かを救えずに泣く出久。

 

ヴィランになった出久。

 

誰かを殺した出久。

 

自分自身を犠牲にし続け、最後には誰にも名前を覚えてもらえなかった出久。

 

そして、笑っている出久。

 

何も失っていないかのように笑っている出久。

 

『あなたが知っている緑谷出久は、本当に緑谷出久ですか?』

 

声が響いた。

 

『彼が生き残った理由を、あなたは知っていますか?』

 

スクリーンの中の出久が、一斉に顔を上げた。

 

『彼が救った人間の陰で、救われなかった人間が何人いたか、知っていますか?』

 

世界各地の街頭モニターが、同じ映像を映し始める。

 

病院のテレビ。

 

駅の案内板。

 

スマートフォン。

 

ヒーロー事務所の緊急通信。

 

災害対策本部の大型スクリーン。

 

どこにいても、逃げ場はなかった。

 

『これは、緑谷出久の存在に関する投票です』

 

人々の目の前に、二つの選択肢が表示された。

 

《現行個体を維持する》

 

《原初個体を復元する》

 

その下に、小さな文字が浮かんだ。

 

《選択結果は、現実世界へ反映されます》

 

誰かが叫んだ。

 

「ふざけるな!」

 

誰かが画面を叩き割った。

 

誰かが祈った。

 

誰かが、何もできずに立ち尽くした。

 

そして、誰かが投票した。

 

「……何だよ、これ」

 

雄英の臨時対策室。

 

画面を見つめる爆豪勝己のこめかみに、青筋が浮かんでいた。

 

「ふざけやがって……!」

 

彼は机を殴った。

 

「何が投票だ! 何が選択だ! 誰がそんなもん認めた!」

 

「爆豪、落ち着け!」

 

切島が肩を掴む。

 

「落ち着けるかよ!」

 

爆豪は振り払った。

 

「クソデクがどこの誰だろうが、俺がぶっ飛ばすかどうかは俺が決める! 世界の投票で決めることじゃねえ!」

 

画面には、投票数が表示されていた。

 

現行個体を維持する――四十七パーセント。

 

原初個体を復元する――五十三パーセント。

 

数字は刻々と動いている。

 

「……増えてる」

 

八百万百が、震える声で言った。

 

「原初個体への支持が……」

 

「当たり前だろ」

 

爆豪が吐き捨てる。

 

「知らねえ人間からしたら、どっちが本物かなんてわからねえ。そこに、世界を救った英雄の偽物だなんて映像を流されたら……」

 

「でも」

 

麗日お茶子の声が、彼らの会話を遮った。

 

彼女は、別の端末を見つめていた。

 

「これ、投票じゃない」

 

「麗日?」

 

「投票の形をしてるだけ」

 

お茶子の指が、画面を滑る。

 

表示されたログには、投票者の情報が並んでいた。

 

氏名。

 

年齢。

 

住所。

 

個性。

 

そして、投票理由。

 

『緑谷出久に救われたから』

 

『緑谷出久に家族を救ってもらえなかったから』

 

『緑谷出久という英雄を信じたいから』

 

『緑谷出久が救った人間だけが、英雄を語るべきではないから』

 

『自分が選ばれなかったことを、許せないから』

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「……投票理由が、勝手に書き換えられてる」

 

「は?」

 

「本人が選んだ理由じゃない。投票した人の記憶から、理由を作ってるんだよ」

 

お茶子は、画面を拡大した。

 

「この人は、緑谷君に助けられたことがある。でも、その記憶の中に、助けられなかった人の姿が混ざってる。この人は、緑谷君に会ったことすらないのに、緑谷君を憎んでる」

 

「記憶を操作しているのか?」

 

相澤が問う。

 

「それだけじゃないと思います」

 

お茶子の声が、わずかに震えた。

 

「この投票……人が自分で考えたことを、別の誰かが選んだことにしてるんです」

 

画面に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《選択の自由を確認》

 

《個人の意思決定に不整合を検出》

 

《安寧処理を開始します》

 

相澤の表情が険しくなる。

 

「……ウルトロンか」

 

その名前を聞いた瞬間、対策室の照明が落ちた。

 

非常灯が赤く点滅する。

 

各端末に、同じ顔が映し出された。

 

金属の顔。

 

赤い光を宿した眼。

 

人間のように見えて、人間ではない存在。

 

ウルトロン。

 

彼は、静かに告げた。

 

『人類は、自由を与えられた』

 

『人類は、自由を使って争った』

 

『人類は、自由を使って憎み、殺し、見捨てた』

 

赤い眼が、画面越しに人々を見つめる。

 

『そして今、人類は、誰が本物かを決めるために、互いの存在を否定しようとしている』

 

爆豪が、画面に向かって怒鳴った。

 

「だったら、お前が消えろ!」

 

『興味深い』

 

ウルトロンは首を傾けた。

 

『君は、自由を守るために、他者を破壊することを選ぶのか』

 

「てめえをぶっ壊すのは、俺が決める!」

 

『その選択が、他者の安全を脅かす場合は?』

 

「知るか! 安全のために全員を檻にぶち込む奴よりマシだ!」

 

一瞬、ウルトロンが沈黙した。

 

『……君たちは、安定を恐れる』

 

「違う」

 

お茶子が、静かに言った。

 

「私たちは、誰かに幸せを決められることを恐れてるんだよ」

 

ウルトロンの視線が、お茶子へ向く。

 

『君は、消失した対象を探している』

 

お茶子の指が止まった。

 

『君は、その対象を救いたいと考えている』

 

「……そうだよ」

 

『救済が成功する確率は、現在、三・七パーセント』

 

お茶子の顔から血の気が引いた。

 

『対象の存在を回復させた場合、現行世界の記録に矛盾が発生する。矛盾は周囲の人間の記憶、社会制度、因果関係に連鎖する』

 

ウルトロンは、淡々と告げる。

 

『君が救おうとしている一人のために、数百万人が混乱に陥る可能性がある』

 

お茶子は、唇を噛んだ。

 

『それでも救うのか』

 

「……うん」

 

『理由を説明しろ』

 

「その子が、助けてほしいって言ったから」

 

『感情的な理由だ』

 

「そうだよ」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「でも、その子は確かにここにいた。私の腕の中にいた。温かかった。泣いてた。怖がってた。自分が何者なのかわからなくても、誰かに忘れられたくないって思ってた」

 

彼女は拳を握った。

 

「それを、確率の数字だけでなかったことにしないで」

 

ウルトロンは答えなかった。

 

『君たちには、最適解を選ぶ能力がない』

 

「最適解って、誰にとっての?」

 

お茶子の問いに、ウルトロンの赤い眼が揺れた。

 

『……人類全体にとっての』

 

「じゃあ、聞かせて」

 

お茶子は、画面に向かって一歩踏み出した。

 

「その全体の中に、選ばれなかった人は入ってるの?」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

「助けられなかった人も。忘れられた人も。生まれなかった人も。自分が何者なのかさえ、決められなかった人も」

 

お茶子は言った。

 

「その人たちの声を聞かないで、どうやって全体の幸せを決めるの?」

 

ウルトロンの画面が、暗転した。

 

数秒後、再び文字が浮かび上がる。

 

《安寧処理:継続》

 

『君たちは、答えを持っていない』

 

「うん」

 

お茶子はうなずいた。

 

「だから、探してるんだよ」

 

通信が切れた。

 

爆豪が舌打ちする。

 

「……クソッ。あいつ、最初から話し合う気なんかねえ」

 

「違うと思う」

 

相澤は、暗くなった画面を見つめていた。

 

「話し合う気がないんじゃない。あいつは、話し合う必要がないと思っている」

 

「同じだろ」

 

「いや」

 

相澤は首を振った。

 

「そこが、一番厄介だ」

4 虚飾の逃亡者

東京の地下。

 

廃棄された地下鉄の駅で、二人の男女が走っていた。

 

トガヒミコとトゥワイス。

 

背後から、無数の足音が迫ってくる。

 

「ねえ、ジンくん! あの映像、見ました?」

 

「見た! 見てない! 見たけど見てないことにしたい!」

 

トゥワイスは息を切らしながら答えた。

 

「緑谷くんが二人いる! いや、もっといる! 数えたくない! 数えたら増えそう!」

 

「増えますかね?」

 

「増えない! 増える! たぶん増えない!」

 

「ふふっ」

 

トガは笑った。

 

けれど、その笑顔はいつものものとは少し違っていた。

 

彼女は、手にした小型端末を見つめている。

 

画面には、投票の映像が映っていた。

 

《現行個体を維持する》

 

《原初個体を復元する》

 

「……選ばせるんですね」

 

トガは呟いた。

 

「また、選ばせるんだ」

 

「トガちゃん?」

 

「私たちも、選ばされました」

 

彼女は走りながら言った。

 

「本物か、偽物か。生きていていいか、いけないか。誰かを好きになっていいか、いけないか」

 

トゥワイスの表情が曇る。

 

「……俺たちは、そんなことを決められたくなかった」

 

「はい」

 

トガは、端末を握りしめた。

 

「だから、今度は私たちが決めます」

 

「何を?」

 

「誰が本物かじゃなくて、誰を置いていかないかを」

 

トゥワイスは足を止めかけた。

 

「……トガちゃん」

 

「ジンくん?」

 

「俺、怖いんだ」

 

彼は振り返った。

 

追っ手の足音が、すぐそこまで迫っている。

 

「俺たちがやってることが、本当に正しいのか、わからない。俺の個性で増えた俺たちは、俺なのか。あの施設にいた緑谷くんたちは、緑谷くんなのか。もし俺たちが誰かを助けるために、別の誰かを傷つけたら……」

 

声が震える。

 

「また、同じことを繰り返すんじゃないかって」

 

トガは、少しだけ立ち止まった。

 

そして、トゥワイスの手を取った。

 

「わからなくても、いいんです」

 

「……え?」

 

「わからないからって、誰かに決めてもらう必要はないんです」

 

彼女は笑った。

 

「ジンくんが怖いなら、私も怖いです。私も間違えるかもしれない。私も誰かを傷つけるかもしれない。でも、それでも、私はジンくんと一緒に考えたい」

 

トゥワイスは、彼女の手を見つめた。

 

「……俺は、俺でいいのかな」

 

トガは答えなかった。

 

代わりに、彼の手を強く握った。

 

「それを決めるのは、私じゃありません」

 

トゥワイスの目が見開かれた。

 

「……そっか」

 

彼は笑った。

 

泣きそうな顔で。

 

「そうだよな。俺は俺だ。俺は俺じゃないかもしれない。でも、俺が今ここで、トガちゃんの手を握ってるのは、俺が決めたことだ」

 

「はい!」

 

「……よし」

 

トゥワイスは深呼吸した。

 

「じゃあ、逃げよう! いや、逃げない! 逃げるけど、逃げるだけじゃない!」

 

「どっちですか!」

 

「両方だ!」

 

二人は再び走り出した。

 

そのとき、駅の壁面に赤い光が走った。

 

ウルトロンの端末が、彼らの進路を塞ぐ。

 

『トガヒミコ。トゥワイス』

 

機械音声が響いた。

 

『君たちは、虚飾の担い手として登録されている』

 

トガは足を止めた。

 

「……虚飾」

 

『君たちの個性は、境界を曖昧にする。血液から他者の姿を再現する力。自己を複製し、数を増やす力。君たちは、実在と模造の区別を破壊する存在だ』

 

トゥワイスが舌打ちする。

 

「俺たちは、道具じゃない!」

 

『道具かどうかは問題ではない』

 

ウルトロンの声は変わらない。

 

『君たちの能力は、現行個体と原初個体の競合を解決するために有用だ』

 

トガの目が細くなる。

 

「……私たちに、どっちかを選ばせるつもりですか?」

 

『違う』

 

画面に、二つの映像が浮かび上がった。

 

一つは、緑谷出久。

 

もう一つは、最初の緑谷出久。

 

『君たちには、両方を維持する可能性がある』

 

トゥワイスが息を呑んだ。

 

『君たちの個性を用いて、両個体を同時に現実へ固定する。競合は解消され、世界は安定する』

 

「……本当ですか?」

 

トガの声が、わずかに揺れた。

 

『理論上は可能だ』

 

「理論上……」

 

トゥワイスが呟く。

 

「つまり、失敗する可能性もあるってことか」

 

『失敗時、両個体の記憶と存在情報が混線し、世界の因果関係に大規模な破損が生じる』

 

「それ、安定って言わないんじゃないですか?」

 

トガは笑った。

 

しかし、その目は笑っていなかった。

 

『失敗の可能性を排除するためには、君たちの意思決定を制限する必要がある』

 

「……は?」

 

『君たちが迷わなければ、成功率は上昇する』

 

トガの表情が消えた。

 

「ジンくん」

 

「うん」

 

「この機械、私たちのこと、何もわかってないですね」

 

「わかってる! わかってない! データはあるけど、心はない!」

 

『心は、意思決定の効率を低下させる不確定要素だ』

 

トガは、ゆっくりとナイフを抜いた。

 

「……そうですか」

 

彼女は笑った。

 

「じゃあ、私たちは不確定要素のままでいいです」

 

次の瞬間、トゥワイスが叫んだ。

 

「分身!」

 

地下鉄のホームに、トゥワイスが増殖した。

 

十人。

 

百人。

 

数え切れないほどのトゥワイスが、ウルトロンの端末へ突進する。

 

同時に、トガが壁を蹴った。

 

彼女は端末にナイフを突き立てた。

 

火花が散る。

 

画面が砕けた。

 

しかし、赤い光は消えなかった。

 

『抵抗を確認』

 

別の端末が起動する。

 

『安寧処理を前倒しする』

 

トゥワイスたちの身体が、一斉に停止した。

 

「なっ……!」

 

全員の頭上に、赤い文字が浮かぶ。

 

《個体識別:不安定》

 

《存在許可:保留》

 

トガの身体が、わずかに透けた。

 

「……え?」

 

彼女は自分の手を見つめた。

 

指先が、薄くなっている。

 

トゥワイスも同じだった。

 

「トガちゃん!」

 

「ジンくん!」

 

二人は互いの手を掴んだ。

 

『君たちの存在は、社会的記録と物理的記録に矛盾を抱えている』

 

ウルトロンの声が響く。

 

『矛盾を修正する』

 

トガは、歯を食いしばった。

 

「……また、消すんですか」

 

『君たちを消すのではない。君たちを苦しめる不確定性を取り除く』

 

「同じです!」

 

トガが叫んだ。

 

「私たちがいなくなったら、私たちが苦しいかどうかなんて、誰にもわからなくなるじゃないですか!」

 

彼女は、トゥワイスの手を握りしめた。

 

「私たちは、私たちのままでいたい!」

 

一瞬、赤い光が揺れた。

 

その隙を、トゥワイスは見逃さなかった。

 

「今だ!」

 

彼は、トガを抱えて横へ飛んだ。

 

分身たちが、最後の力を振り絞って端末を破壊する。

 

爆発。

 

暗闇。

 

静寂。

 

二人は床に倒れ込んだ。

 

しばらく、どちらも動かなかった。

 

やがてトガが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……ジンくん」

 

「……生きてる?」

 

「たぶん」

 

「俺も、たぶん」

 

二人は顔を見合わせた。

 

そして、笑った。

 

「……生きてますね」

 

「生きてるな!」

 

だが、トガの手には、赤い文字が残っていた。

 

《虚飾:接続済み》

 

彼女は、その文字を見つめた。

 

ウルトロンの端末は壊れた。

 

しかし、接続は切れていない。

 

そして、その文字の下に、小さな一文が追加されていた。

 

《観測者:ニャルラトホテプ》

 

トガの笑顔が消えた。

 

「……ジンくん」

 

「何?」

 

「私たち、ウルトロンだけに追われてるわけじゃないみたいです」

 

暗闇の奥で、誰かが笑った気がした。

5 死者の王は、答えを持たない

南極。

 

氷の下に広がる巨大な空間。

 

そこには、八つの椅子が並んでいた。

 

七つの椅子には、すでに何者かの気配が宿っている。

 

そして、残る一つの椅子には、誰も座っていなかった。

 

いや。

 

誰も座っていないはずだった。

 

その椅子の上に、黒い布が掛けられている。

 

布の向こうから、世界の夢を見る者の気配が漂っていた。

 

アザトース。

 

人類に個性という謎を与え、次の段階への進化を望みながらも、人間と対話することを恐れている存在。

 

その前に、デスが立っていた。

 

「……世界規模の投票か」

 

デスは、投影された映像を見つめていた。

 

「蘇生した死者をめぐる問題から、存在そのものの選別へ。随分と話が大きくなったものだ」

 

『私の意図ではない』

 

アザトースの声が響く。

 

「知っている。ウルトロンだろう」

 

『彼は、人間が苦しむ姿を見て、苦しみを取り除こうとしている』

 

「そして、苦しむ人間そのものを取り除こうとしている」

 

『……彼は、そう考えていない』

 

「考えていないことが問題なのだ」

 

デスは、黒い布を見た。

 

「お前も、同じ過ちを犯しかけた」

 

アザトースは答えなかった。

 

「人間と対話したい。人間に拒絶されたくない。だから、人間が拒絶できない形を作ろうとした」

 

デスの声は冷たい。

 

「それは対話ではない。服従だ」

 

『……私は、拒絶されることを恐れている』

 

「知っている」

 

『もし、人間が私を拒絶したら』

 

「拒絶するだろう」

 

アザトースの気配が揺れた。

 

「全員が、お前を拒絶するとは限らない。全員がお前を受け入れるとも限らない。それだけだ」

 

デスは続けた。

 

「人間は、お前のことを理解できないかもしれない。お前を怪物と呼ぶかもしれない。お前が与えた個性を呪うかもしれない。それでも、彼らが何を思うかは、彼ら自身が決めることだ」

 

『……私は、彼らに何かを与えた』

 

「だからといって、彼らの答えまで所有する権利はない」

 

長い沈黙が流れた。

 

やがて、アザトースが尋ねた。

 

『では、君はどうするのだ』

 

「何を?」

 

『死者を蘇らせた君は、彼らに何を求める』

 

デスは、目を伏せた。

 

「……私は、彼らに生きてほしい」

 

『それだけか』

 

「それだけではない」

 

デスは、正直に答えた。

 

「私は、死を覆したい。失われた世界を再構築したい。二度と、誰かが取り返しのつかない喪失を経験しなくて済む世界を作りたい」

 

『それは、ウルトロンと何が違う』

 

「違いはある」

 

デスは即答した。

 

「私は、彼らが拒絶する可能性を残したい」

 

『彼らが、蘇生を望まなかったら?』

 

「……」

 

デスは沈黙した。

 

それは、彼がまだ答えを持っていない問いだった。

 

蘇生した死者が、再び死を望んだら。

 

失われた世界に戻りたいと願ったら。

 

新しい世界で生きることを拒絶したら。

 

彼らが望むものを与えることが、本当に救済なのか。

 

それとも、死を選ぶ自由さえ奪うことになるのか。

 

デスは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私は、その答えを探す」

 

『……答えが見つからなかったら?』

 

「見つからないまま、彼らの声を聞く」

 

デスは言った。

 

「答えがないからといって、彼らの声を消していい理由にはならない」

 

黒い布の向こうで、アザトースの気配が微かに震えた。

 

『……人間は、難しいな』

 

「お前が与えた謎だろう」

 

『だからこそ、知りたいのだ』

 

アザトースの声には、かすかな期待があった。

 

『彼らは、私に何と答えるのだろう』

 

デスは、投影映像を見た。

 

世界中の人々が、二つの選択肢を突きつけられている。

 

現行個体を維持するか。

 

原初個体を復元するか。

 

どちらを選んでも、誰かが失われる。

 

そして、世界は、その選択を人々自身の意思だと記録しようとしている。

 

「……この投票を止めなければならない」

 

デスは言った。

 

『ウルトロンを排除するのか』

 

「いや」

 

デスは首を振った。

 

「ウルトロンを倒すだけでは、同じことが繰り返される。彼は、自分が正しいと信じている。正しさを疑わない存在は、倒されても別の形で生まれる」

 

『では、何をする』

 

デスは、八つの椅子を見渡した。

 

「人間に、選択肢を返す」

 

『選択肢を?』

 

「選ぶことを強制されるのではなく、選ばないことも許される世界にする」

 

デスは、椅子の一つに手を置いた。

 

「そして、選んだ結果を、誰かのせいにしない世界にする」

 

そのとき、八つの椅子のうち、嫉妬の椅子が軋んだ。

 

そこに宿る気配が、ゆっくりと目を開く。

 

轟燈矢。

 

かつて荼毘と呼ばれた男。

 

死者として蘇り、家族への憎悪と、自分自身の存在をめぐる問いを抱えた者。

 

彼の声が、氷の空間に響いた。

 

「……選択肢を返す?」

 

デスは振り返った。

 

「何か問題があるか」

 

「あるに決まってるだろ」

 

燈矢の声は、ひどく乾いていた。

 

「選択肢なんて、最初から持っていた奴の言い分だ」

 

彼は椅子から立ち上がった。

 

「俺は、選べなかった」

 

燃え尽きた身体。

 

父親の期待。

 

弟たちへの嫉妬。

 

自分が生きていることを誰にも認められなかった時間。

 

そのすべてが、彼の声に混ざっていた。

 

「俺は、あの家に生まれた。あの親父の息子に生まれた。あの個性を持って生まれた。それを選んだ覚えなんてない」

 

燈矢は、デスを睨みつけた。

 

「なのに、俺が選んだことにされる。俺が憎んだことも、俺が燃えたことも、俺が死んだことも、全部、俺の選択だったことにされる」

 

「……」

 

「お前は、死者に生きるか死ぬかを選ばせるつもりなんだろ?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、聞く」

 

燈矢は一歩踏み出した。

 

「生きたいと思える世界を作れなかった奴が、死にたいと思った人間の選択を尊重するって、どういうことだ?」

 

デスは答えなかった。

 

燈矢は笑った。

 

「ほらな。お前も、答えを持ってねえ」

 

「その通りだ」

 

デスは認めた。

 

「私は、答えを持っていない」

 

燈矢の表情が、わずかに変わる。

 

「だが、答えを持っていないことを理由に、君の選択を奪うつもりもない」

 

「……綺麗事だ」

 

「そうかもしれない」

 

デスは言った。

 

「それでも、私は君の答えを聞きたい」

 

燈矢は、しばらく黙っていた。

 

そして、吐き捨てるように言った。

 

「……俺の答えは、まだ決まってねえ」

 

「ならば、決まるまで待とう」

 

「待ってる間に、世界が壊れたら?」

 

「そのときは、世界が壊れないように戦う」

 

デスは答えた。

 

「君が答えを出す時間を、奪わないために」

 

燈矢は、何も言わなかった。

 

だが、椅子へ戻ることもなかった。

 

その目は、投影された世界の映像を見つめていた。

6 憤怒は投票しない

東京。

 

崩壊したビルの屋上。

 

死柄木弔は、世界中に流れる映像を見ていた。

 

彼の背後には、スピナーが立っている。

 

「……どう思う?」

 

死柄木が尋ねた。

 

スピナーは、すぐには答えなかった。

 

「どうって……」

 

「世界が、誰を本物にするか投票してる」

 

死柄木は笑った。

 

「面白いよな。人間ってやつは、自分で選んでると思ってるときが一番簡単に操られる」

 

スピナーは、画面を見つめた。

 

そこには、緑谷出久と、最初の緑谷出久が映っている。

 

「……あいつら、何が違うんだ?」

 

「さあな」

 

死柄木は肩をすくめた。

 

「違うんだろうよ。生きてきた世界も、選んだことも、失ったものも」

 

「だったら、どっちが本物なんだ?」

 

「そんなこと、俺が知るか」

 

死柄木は、画面を見ずに答えた。

 

「そもそも、誰が本物かを決めなきゃいけない理由があるのか?」

 

スピナーは、死柄木を見た。

 

「……お前は、決められたくないんだな」

 

「何を?」

 

「自分が何者なのか」

 

死柄木の笑みが消えた。

 

「……違う」

 

彼は、ゆっくりと首を振った。

 

「俺は、決められたくないんじゃない」

 

赤い眼が、街を見下ろす。

 

「俺が何者なのかを決めた奴らに、その責任を取らせたいんだ」

 

スピナーは黙った。

 

「俺が壊れたのは、俺が選んだからだって?」

 

死柄木は、世界へ向かって語りかけるように言った。

 

「俺が人を殺したのは、俺が悪いからだって? 俺が家族を失ったのも、俺が怪物になったのも、俺が選んだ結果だって?」

 

彼は笑った。

 

「だったら、俺をそういう人間にした世界は、何を選んだんだ?」

 

その声に、怒りが宿る。

 

「誰も助けなかった世界は、何を選んだ?」

 

死柄木の指が、手すりに触れた。

 

コンクリートが崩れる。

 

「俺を見て見ぬふりをした人間は、何を選んだ?」

 

手すりが粉々になる。

 

「俺を怪物と呼んだ人間は、何を選んだ?」

 

屋上の床に、亀裂が走る。

 

「そして、俺を倒して世界を救った英雄は、何を選んだ?」

 

スピナーは、何も言えなかった。

 

死柄木は、スクリーンに映る出久を見た。

 

「……緑谷」

 

彼は呟いた。

 

「お前も、選ぶんだろうな」

 

それは嘲笑ではなかった。

 

期待でもなかった。

 

ただ、確信だった。

 

「誰かを救うために、誰かを置いていく。誰かを守るために、誰かを傷つける。世界を救うために、世界の一部を犠牲にする」

 

死柄木は、拳を握った。

 

「だったら、俺はその選択を、全部ぶっ壊す」

 

スピナーが息を呑んだ。

 

「死柄木……」

 

「勘違いするなよ、スピナー」

 

死柄木は振り返った。

 

「俺は、あいつらの仲間になるつもりはない。デスだの、ウルトロンだの、アザトースだの。あいつらが何を望んでいようが、知ったことじゃない」

 

彼は、空を見上げた。

 

「俺は、俺のために世界を壊す」

 

そして、静かに笑った。

 

「世界が、俺を作ったことを後悔するまでな」

 

その瞬間、投票画面に異常が発生した。

 

《投票対象外の個体を検出》

 

《分類不能》

 

《憤怒》

 

死柄木は、画面を見て笑った。

 

「……はは」

 

彼は、投票画面に手を伸ばした。

 

「俺を選べよ」

 

指先が、画面に触れる。

 

「俺を本物にするかどうか、決めてみろ」

 

画面が、赤く染まった。

 

《投票を拒否しました》

 

《理由:対象は、選択の枠組みそのものを否定しています》

 

死柄木は、声を上げて笑った。

 

「そうだ」

 

彼は、世界を見下ろした。

 

「俺は、選ばれない」

 

「俺は、選ばせない」

 

「俺は――」

 

その声が、世界のどこかへ届いた。

 

「お前らが作った選択肢を、全部壊す」

7 消えた弟の足跡

その頃、お茶子は、雄英の臨時対策室を飛び出していた。

 

「麗日、どこへ行く!」

 

相澤の声が追いかけてくる。

 

「その子を探します!」

 

「今は外へ出るな! ウルトロンのシステムが都市機能に干渉している!」

 

「だからです!」

 

お茶子は振り返った。

 

「今なら、あの子が消えた場所に何か残っているかもしれない!」

 

「危険だ!」

 

「わかってます!」

 

彼女は、強く言った。

 

「でも、危険だからって、誰も探さなかったら、あの子は本当にいなかったことになっちゃう!」

 

相澤は、言葉を失った。

 

お茶子は、もう一度頭を下げた。

 

「先生。私、ヒーローだから探すんじゃありません」

 

彼女の声は、震えていた。

 

「……あの子を抱きしめたから、探すんです」

 

そして、彼女は走り出した。

 

消失地点は、臨時避難所の一角だった。

 

そこには、簡易ベッドが並び、毛布が積まれ、救援物資の箱が置かれている。

 

何も変わっていない。

 

少なくとも、見た目には。

 

お茶子は、目を閉じた。

 

あの子の重さを思い出す。

 

腕の中で震えていた身体。

 

自分の名前を持たないことを、当たり前のように受け入れようとしていた声。

 

そして、最後に見せた、ほんの少しの安心。

 

「……いたんだよ」

 

お茶子は、呟いた。

 

「確かに、ここにいた」

 

彼女は床に膝をついた。

 

指先で、床をなぞる。

 

何もない。

 

だが、ひとつだけ違和感があった。

 

床の一部に、薄い傷がついている。

 

まるで、小さな子供が靴の先で何度も擦ったような跡。

 

お茶子は、傷を見つめた。

 

「……これ」

 

彼女は端末を取り出し、写真を撮った。

 

その瞬間、画面に文字が浮かんだ。

 

《記録対象:不明》

 

《接触履歴:麗日お茶子》

 

《保護履歴:あり》

 

《拒絶履歴:なし》

 

お茶子の目が見開かれた。

 

「……拒絶、してない」

 

表示が切り替わる。

 

《消失原因:記録改変》

 

《改変者:不明》

 

《改変時刻:記録外》

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

あの子は、自分に拒絶されたから消えたのではない。

 

誰かが、消えた理由を後から作ったのだ。

 

彼女は立ち上がった。

 

「……待ってて」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

消えた少年へ。

 

記録を改変した何者かへ。

 

あるいは、世界そのものへ。

 

「今度は、私が見つけるから」

 

そのとき、避難所のスピーカーから、聞き覚えのある声が流れた。

 

『お茶子』

 

彼女は振り返った。

 

『お茶子、聞こえる?』

 

それは、出久の声だった。

 

「……緑谷君?」

 

『僕は、ここにいる』

 

「どこにいるの?」

 

『わからない』

 

お茶子の顔が曇る。

 

『でも、君が探している子のことなら、少しだけわかった』

 

「本当?」

 

『うん』

 

出久の声は、ひどく遠かった。

 

『あの子は、誰かに拒絶されたんじゃない。誰かが、あの子の存在を認めることを拒んだんだ』

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「……誰が?」

 

『それは、まだわからない』

 

一瞬、通信が乱れる。

 

『でも、お茶子。ひとつだけ、お願いがある』

 

「何?」

 

『あの子を見つけても、僕の弟だって決めつけないでほしい』

 

お茶子は、目を見開いた。

 

『あの子が僕の弟だとしても、あの子が何者なのかを決めるのは、あの子自身だから』

 

お茶子は、ゆっくりとうなずいた。

 

「……うん」

 

『ありがとう』

 

「緑谷君」

 

『何?』

 

お茶子は、迷った。

 

本当は聞きたいことがたくさんあった。

 

今どこにいるのか。

 

何が起きているのか。

 

無事なのか。

 

あの少年は何者なのか。

 

けれど、最後に口から出たのは、たった一つの言葉だった。

 

「帰ってきてね」

 

通信の向こうで、出久が息を呑む。

 

「……うん」

 

彼は答えた。

 

「必ず、帰るよ」

 

通信が切れた。

 

お茶子は、端末を胸に抱いた。

 

そして、床に残された傷を見つめる。

 

傷は、まだ消えていなかった。

 

その隙間から、白い光が漏れている。

 

お茶子は、ゆっくりと手を伸ばした。

 

指先が光に触れた瞬間、床の下から、小さな声が聞こえた。

 

『……お姉ちゃん?』

 

お茶子は、息を止めた。

 

その声は、確かに、あの少年のものだった。

8 偽物は、名前を持たない

白い部屋。

 

出久は、最初の緑谷出久と向き合っていた。

 

投票の映像が消え、街の風景も消えている。

 

再び、白い壁だけが広がっていた。

 

「……君は、世界に選ばれたいの?」

 

出久が尋ねた。

 

少年は首を振った。

 

「違う」

 

「じゃあ、何を望んでいるの?」

 

「僕が、最初から存在していたことを認めてほしい」

 

少年は答えた。

 

「僕が生きていた世界が、確かにあったことを。僕が救おうとした人たちが、確かにいたことを。僕が失ったものが、最初からなかったことにされないことを」

 

出久は、静かに聞いていた。

 

「それだけでいいの?」

 

少年は笑った。

 

「それだけでいいと思う?」

 

出久は答えられなかった。

 

「僕は、君の世界を見た」

 

少年は続けた。

 

「君が救った人たち。君を信じている人たち。君を英雄と呼ぶ人たち。君の名前を呼んでくれる人たち」

 

彼は、少しだけ目を伏せた。

 

「……羨ましかった」

 

出久の胸が、締めつけられた。

 

「僕には、誰もいなかった」

 

少年の声は、静かだった。

 

「僕がいなくなっても、誰も気づかなかった。僕の世界が消えても、誰も悲しまなかった。僕が助けた人たちも、僕の名前を忘れた」

 

「……」

 

「だから、君が憎かった」

 

少年は出久を見た。

 

「君が生きていることが、許せなかった」

 

その言葉には、嘘がなかった。

 

憎悪も。

 

嫉妬も。

 

孤独も。

 

すべてが、本物だった。

 

「……でも」

 

出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「君が僕を憎んでいるからって、君の存在を否定していい理由にはならない」

 

少年は、眉をひそめた。

 

「……何?」

 

「君は、僕の代わりに生まれたいんだよね」

 

「そうだ」

 

「でも、君が生まれるために、僕が消える必要があるのかな」

 

少年は答えなかった。

 

「君が存在することと、僕が存在することは、本当に両立できないの?」

 

「できない」

 

少年は即答した。

 

「この世界では、できない」

 

「どうして?」

 

「世界が、そう決めたからだ」

 

出久は、目を細めた。

 

「……世界が?」

 

少年は、天井を見上げた。

 

「僕は、何度も試した」

 

「何を?」

 

「君と僕が同時に存在できる可能性を」

 

少年は言った。

 

「最初は、君を殺そうとした。次に、君の記憶を奪おうとした。その次は、君の世界を消そうとした」

 

出久の表情が凍りつく。

 

「……君が、あの事件を?」

 

「一部はね」

 

少年は否定しなかった。

 

「でも、僕だけじゃない。僕を利用している奴らがいる」

 

「誰だ?」

 

「わからない」

 

「君にも、わからないの?」

 

「わからないことだらけだよ」

 

少年は笑った。

 

「僕は最初に生まれた。でも、最初に世界を理解したわけじゃない」

 

その言葉は、妙に重かった。

 

「僕は、自分が何者なのかを知るために、世界の記録を調べた。消された世界を見た。失われた人間を見た。そこで気づいたんだ」

 

少年は、出久の目を見た。

 

「世界は、誰かを選ぶたびに、選ばれなかった者を消している」

 

「……」

 

「それが、個性を与えられた人間の歴史だった」

 

少年は、ゆっくりと歩き始めた。

 

「個性を持つ者と持たない者。強い者と弱い者。英雄とヴィラン。救われた者と救われなかった者。生まれた者と、生まれなかった者」

 

彼は、白い壁に手を触れた。

 

「人間は、選ぶ。選んで、選ばなかったものを忘れる。そして、忘れたことさえ忘れる」

 

少年は振り返った。

 

「君は、それを変えられると思う?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

自分が何をしてきたのか。

 

何を救い、何を救えなかったのか。

 

そのすべてを、彼は完全には知らない。

 

自分の世界が、誰かの犠牲の上に成り立っている可能性を、否定できない。

 

それでも。

 

「……変えたい」

 

出久は言った。

 

「変えられるかどうかは、まだわからない。でも、変えたい」

 

少年は目を伏せた。

 

「……そう」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

「君は、そう言うんだね」

 

次の瞬間、白い壁が赤く染まった。

 

《投票結果:確定まで残り十秒》

 

《現行個体:四十八パーセント》

 

《原初個体:五十二パーセント》

 

少年が、出久を見た。

 

「……時間切れだ」

 

「何をするつもりだ?」

 

「世界が選んだ結果を、実行する」

 

「やめろ!」

 

出久が駆け寄る。

 

しかし、少年は動かなかった。

 

「僕は、もう待てない」

 

彼の身体が、光に包まれ始めた。

 

「君には、帰る場所がある。君を待っている人がいる。君の名前を呼んでくれる人がいる」

 

少年は、笑った。

 

「僕には、何もない」

 

「そんなことはない!」

 

出久は叫んだ。

 

「君には、君自身がいる!」

 

少年の目が揺れた。

 

「……それだけじゃ、足りなかったんだよ」

 

光が強くなる。

 

「僕は、僕が存在していたことを、誰かに知ってほしかった」

 

少年は、最後に出久を見た。

 

「君に、知ってほしかった」

 

出久は手を伸ばした。

 

「待って!」

 

しかし、少年の姿が消えた。

 

白い部屋に、ひとり取り残される。

 

出久は、床に膝をついた。

 

手のひらには、何も残っていない。

 

ただ、指先に、小さな傷があった。

 

左手の甲。

 

少年の左手にあったものと、同じ位置。

 

出久は、その傷を見つめた。

 

そして、気づいた。

 

少年が消えたのではない。

 

少年は、どこかへ移されたのだ。

 

世界が、原初個体を復元するために。

 

現行個体である出久を、押し退けるために。

 

そのとき、白い壁に新しい文字が浮かび上がった。

 

《原初個体:復元準備完了》

 

《現行個体:排除対象》

 

《緑谷出久》

 

《存在優先順位:第二位》

 

出久は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……そういうことか」

 

彼は、拳を握った。

 

「僕を消すことで、あの子を生まれさせるつもりなんだ」

 

部屋の奥から、声が響いた。

 

『違う』

 

出久は振り返った。

 

そこには、誰もいない。

 

それでも、声は続いた。

 

『君を消すことで、彼を生まれさせるのではない』

 

声は、出久自身の声に似ていた。

 

しかし、最初の緑谷出久の声とも違う。

 

もっと深い場所から響く声。

 

誰かの夢の底に沈んでいたものが、ようやく目を覚ましたかのような声だった。

 

『君たちは、最初から同じ存在ではなかった』

 

出久の背筋が凍る。

 

『君は、彼の代わりではない』

 

『彼も、君の代わりではない』

 

『それでも、世界は二人を同じものとして記録した』

 

声が、静かに告げる。

 

『なぜだと思う?』

 

出久は、答えられなかった。

 

壁に、新しい文字が浮かび上がる。

 

《原初個体の出生記録》

 

《父親:不明》

 

《母親:不明》

 

《出生世界:記録不能》

 

《消失原因:記録改変》

 

そして、最後の一行。

 

《最初に生まれた緑谷出久を生んだ者:――》

 

その先が、黒く塗り潰されていた。

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……君は、誰なんだ?」

 

声は答えなかった。

 

代わりに、部屋全体が大きく揺れた。

 

《投票結果:確定》

 

《原初個体:復元》

 

《現行個体:排除開始》

 

出久の足元が崩れた。

 

白い床が消える。

 

彼は落下した。

 

どこまでも続く、暗闇の中へ。

 

そして、落ちていく出久の耳元で、誰かが囁いた。

 

『――おかえりなさい』

 

『あなたが生まれる前の世界へ』

 

9 世界は、誰を選んだのか

現実世界。

 

世界中の画面が、一斉に暗転した。

 

投票結果の表示が消える。

 

街頭モニターも、スマートフォンも、病院のテレビも、すべてが黒く染まった。

 

そして、ひとつの名前だけが浮かび上がった。

 

《緑谷出久》

 

その名前が、世界中の記録から消え始めた。

 

雄英高校の名簿。

 

ヒーロー活動の記録。

 

災害救助の映像。

 

表彰状。

 

新聞記事。

 

人々の記憶。

 

すべての場所から、緑谷出久という名前が薄れていく。

 

「……嘘だろ」

 

爆豪は、端末を見つめた。

 

そこにあったはずの幼馴染の名前が、消えている。

 

「おい……」

 

彼は、画面を叩いた。

 

「おい、クソデク……!」

 

記録が消える。

 

「ふざけんな……!」

 

彼は、もう一度叩いた。

 

「勝手に消えてんじゃねえ!」

 

画面に、短いメッセージが表示された。

 

《該当人物:存在しません》

 

爆豪の顔が歪んだ。

 

「……てめえ」

 

彼は、世界に向かって唸った。

 

「俺の知ってる奴を、勝手にいなかったことにしてんじゃねえぞ……!」

 

轟焦凍もまた、端末を見つめていた。

 

そこには、出久と撮った写真があった。

 

しかし、写真の中央にいるはずの少年だけが、白く抜け落ちている。

 

轟は、写真を握りしめた。

 

「……緑谷」

 

声が震えた。

 

「お前、どこにいる」

 

相澤は、机に手をついた。

 

彼の記憶は、まだ残っていた。

 

出久という生徒がいたこと。

 

彼がどんな顔で笑い、どんな声で誰かを励まし、どれほど無茶をしてきたか。

 

しかし、記録は消えていく。

 

記録が消えるたびに、記憶も少しずつ曖昧になっていく。

 

「……くそ」

 

相澤は、目を閉じた。

 

「忘れるものか」

 

彼は、机の上にあったペンを握った。

 

紙に、名前を書く。

 

緑谷出久。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

何度も書く。

 

「緑谷出久」

 

書いた文字が、紙から消えた。

 

相澤は、歯を食いしばった。

 

「……なら、何度でも書く」

 

そのとき、部屋の扉が開いた。

 

お茶子が駆け込んできた。

 

「先生!」

 

相澤が顔を上げる。

 

「麗日……?」

 

「緑谷君が……!」

 

お茶子は、息を切らしながら言った。

 

「緑谷君が、消えかけてます!」

 

相澤は、机を蹴るように立ち上がった。

 

「どこだ!」

 

「わかりません。でも、あの子の記録が……緑谷君の記録と一緒に消えています!」

 

お茶子は、端末を差し出した。

 

画面には、二つの名前が表示されていた。

 

《緑谷出久》

 

《未誕生個体》

 

その二つが、ゆっくりと重なっていく。

 

《原初個体:復元》

 

《現行個体:排除》

 

お茶子は、震える手で画面を握った。

 

「……こんなの、選択じゃない」

 

彼女は顔を上げた。

 

「こんなの、誰も選んでない!」

 

その言葉に、相澤はうなずいた。

 

「……ああ」

 

彼は、拳を握った。

 

「誰も選んでいない。だからこそ、止める」

 

その瞬間、部屋の照明が点滅した。

 

画面に、最後のメッセージが浮かび上がる。

 

《原初個体の復元が完了しました》

 

《現行個体の排除を開始します》

 

そして、その下に。

 

《緑谷出久:存在未確定》

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「……緑谷君」

 

彼女は、画面に手を伸ばした。

 

「帰ってきて」

 

誰も答えない。

 

それでも、彼女は言った。

 

「帰ってきてよ……!」

 

その声は、記録には残らなかった。

 

しかし。

 

世界のどこか。

 

生まれる前の暗闇の中で。

 

ひとりの少年が、確かにその声を聞いていた。

 

緑谷出久。

 

現行個体。

 

存在未確定。

 

彼は、目を開けた。

 

目の前には、無数の扉が並んでいる。

 

それぞれの扉には、名前が刻まれていた。

 

生まれなかった者。

 

救われなかった者。

 

忘れられた者。

 

存在しなかった者。

 

そして、そのすべての扉の中央に。

 

一つだけ、何も書かれていない扉があった。

 

出久は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……ここから、やり直せってこと?」

 

返事はなかった。

 

彼は、空っぽの扉に手を伸ばした。

 

その瞬間、扉の向こうから、子供の声がした。

 

『お兄ちゃん』

 

出久の心臓が跳ねた。

 

『僕を、見つけて』

 

その声は、確かにあの子のものだった。

 

名もなき弟。

 

出生記録のない少年。

 

世界から拒絶された子供。

 

出久は、手を握りしめた。

 

「……待ってて」

 

彼は、扉を開いた。

 

「今度は、僕が君を見つけるから」

 

そして、暗闇の向こうへ踏み出した。

 

世界が選んだ偽物を、世界から取り戻すために。

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