僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

62 / 71
第十二話「生まれる前に、君と出会った」

1 扉の向こうにいた僕

扉は、呼吸していた。

 

そうとしか思えなかった。

 

白い壁の中に埋め込まれた、黒い扉。

 

取っ手も蝶番も見当たらない。扉の表面には、病院のカルテにも似た無機質な文字が刻まれている。

 

《最初に生まれた緑谷出久》

 

その文字の一画一画が、まるで皮膚の下を流れる血管のように明滅していた。

 

緑谷出久は、扉の前に立っていた。

 

背後には轟焦凍。

 

通信機の向こうには相澤消太。

 

そして、目の前には――自分自身がいる。

 

「……やっと見つけた」

 

扉の向こうの声が、もう一度言った。

 

「今度こそ、僕が生まれる番だ」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

声が似ている、という程度ではなかった。

 

呼吸の間隔。

 

語尾がわずかに震える癖。

 

緊張したとき、最初の言葉を口にするまでにほんの少しだけ時間がかかるところ。

 

幼いころから何度も録音してきた自分の声を聞いたとしても、ここまでの違和感は覚えないだろう。

 

なのに、出久は確信していた。

 

扉の向こうにいる存在は、自分ではない。

 

「……君は、誰なんだ」

 

問いかけると、扉の向こうで小さな笑い声がした。

 

「それを、君が聞くんだ?」

 

「答えてくれ」

 

「緑谷出久」

 

「それは僕の名前だ」

 

「うん。そうだね」

 

声は、穏やかだった。

 

穏やかすぎるほどに。

 

「君が使っている名前だ」

 

轟が一歩前へ出た。

 

「おい。回りくどい言い方をするな。お前は誰だ。何が目的だ」

 

「轟焦凍」

 

向こうの声が、即座に答えた。

 

「左側に炎。右側に氷。父親に選ばれた力と、父親を拒絶するために使った力。どちらも君のものなのに、君は長いあいだ、片方だけを自分のものだと思おうとしていた」

 

轟の目が細くなる。

 

「……何を知っている」

 

「君が、誰かに選ばれることを怖がっているのも」

 

「黙れ」

 

「そして、選ばれなかった誰かの痛みを知っているからこそ、誰かを選ぶ立場になることも怖い」

 

轟の左手に、炎が灯った。

 

「お前が俺のことをどれだけ知っていようが関係ない。俺のことを勝手に語るな」

 

「ごめん」

 

声は素直に謝った。

 

その素直さが、かえって不気味だった。

 

「でも、君なら分かってくれると思ったんだ。選ばれなかった側の気持ちを」

 

「……何だと?」

 

「この扉の向こうには、選ばれなかった人間がいる」

 

一瞬、室内の空気が凍った。

 

「僕も、その一人だった」

 

出久は、扉を見つめた。

 

「選ばれなかった……?」

 

「うん」

 

「誰に?」

 

「世界に」

 

その言葉と同時に、扉の表面に文字が浮かび上がった。

 

《個体照合中》

 

《対象:緑谷出久》

 

《出生順序:不一致》

 

《存在優先順位:再計算》

 

そして最後に。

 

《第一候補:最初に生まれた緑谷出久》

 

《第二候補:現在の緑谷出久》

 

出久の喉が、ひゅっと鳴った。

 

「……第一候補?」

 

通信機の向こうから、相澤の声が割り込む。

 

『緑谷、扉から離れろ』

 

「先生?」

 

『聞こえただろ。離れろ。そいつが何者であろうと、今の段階で接触するな』

 

「でも……!」

 

『命令だ』

 

いつもの、冷静で有無を言わせない声。

 

しかし、その奥には明らかな緊張があった。

 

『その表示は、ただの記録じゃない。存在の優先順位を決めようとしている』

 

相澤は一度、言葉を切った。

 

『そして、優先順位を決めるということは――』

 

「どちらかを消す、ということですか」

 

出久が言った。

 

相澤は答えなかった。

 

答えないことが、答えだった。

 

扉の向こうの声が、静かに告げる。

 

「君は、僕を消すつもり?」

 

「違う!」

 

出久は反射的に叫んだ。

 

「僕は、誰かを消したいなんて思っていない!」

 

「そうだろうね」

 

声は、少しだけ寂しそうだった。

 

「君はいつだって、そう言う」

 

「……」

 

「誰も選ばない。誰も見捨てない。誰も犠牲にしない。みんなを助けたい。みんなに生きていてほしい」

 

扉の向こうで、足音がした。

 

こちらへ近づいてくる。

 

「立派だよ、緑谷出久」

 

足音が止まった。

 

「でも、それは――君が選ばれた側だから言えることだ」

 

その瞬間。

 

出久の足元から、白い床が消えた。

 

「っ!」

 

落下する。

 

そう認識したときには、もう遅かった。

 

轟が腕を伸ばす。

 

「緑谷!」

 

指先が触れた。

 

ほんの一瞬。

 

それだけで、轟の手は出久をすり抜けた。

 

出久の身体が、白い世界の底へ落ちていく。

 

最後に見えたのは、扉の向こうから伸びてきた手だった。

 

自分と同じ手。

 

けれど、その手の甲には、出久にはない傷があった。

 

そして、手の主は笑っていた。

 

「おかえり」

 

彼は言った。

 

「今度は、僕が君を助けてあげる」

 

2 生まれる前の世界

落下は、いつまでも終わらなかった。

 

出久は、自分が落ちているのか、世界そのものが自分を通り抜けているのか分からなくなっていた。

 

白。

 

黒。

 

赤。

 

名前のない色。

 

誰かの泣き声。

 

誰かの笑い声。

 

何かが割れる音。

 

そして、何度も繰り返される言葉。

 

――生まれなければよかった。

 

――生まれてくるんじゃなかった。

 

――お前が生まれなければ。

 

――君が生まれなければ、僕が助かる。

 

「やめろ……!」

 

出久は耳を塞いだ。

 

だが、声は耳から聞こえているのではなかった。

 

頭蓋骨の内側でもない。

 

もっと深いところ。

 

自分という人間を形作っている、何かの根元から響いていた。

 

「やめてくれ!」

 

視界が反転した。

 

出久は、柔らかなものの上に落ちた。

 

床ではない。

 

土でもない。

 

白い布のような、温かな膜。

 

その向こうには、巨大な光があった。

 

心臓のように脈打つ光。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

光が脈打つたびに、遠くの世界が生まれ、そして消えていく。

 

出久は息を呑んだ。

 

そこには、無数の扉があった。

 

壁も天井もない空間に、扉だけが浮かんでいる。

 

病院の扉。

 

家の玄関。

 

教室の引き戸。

 

戦場の防火扉。

 

見覚えのない扉。

 

そして、どれにも共通しているものがあった。

 

扉の上には、名前が書かれている。

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

数え切れないほどの扉。

 

そのすべてが、出久という名前を掲げていた。

 

けれど、扉の下に添えられた記録は、それぞれ異なっていた。

 

《出生:確認》

 

《出生:未確認》

 

《出生:許可却下》

 

《死亡:出生前》

 

《死亡:記録なし》

 

《存在:世界線から除外》

 

《生存:条件付き》

 

《本人確認:不可能》

 

出久は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ここは……何なんだ」

 

返事はなかった。

 

代わりに、足元の白い膜が、かすかに震えた。

 

その向こうから、小さな声が聞こえた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

出久の心臓が止まりかけた。

 

「今の……」

 

「お兄ちゃん?」

 

もう一度。

 

幼い声。

 

聞き覚えのないはずの声なのに、出久は知っていた。

 

知っている。

 

自分がまだ知らなかった頃から。

 

生まれる前から。

 

「どこにいるんだ……?」

 

出久は膝をつき、白い膜に手を伸ばした。

 

「君なのか? 僕の弟なのか?」

 

膜の向こうで、何かが動いた。

 

小さな手が、向こう側から押し当てられる。

 

出久の手と、重なる。

 

その瞬間、世界が鳴った。

 

音ではない。

 

存在そのものが震えるような、巨大な振動。

 

無数の扉が、一斉に開きかけた。

 

そして、どこからともなく機械音声が響いた。

 

《未登録の接触を確認》

 

《出生前領域への侵入を確認》

 

《保護対象と第一候補の接触を確認》

 

《警告》

 

《警告》

 

《本来、接触は許可されていません》

 

出久は、膜の向こうの小さな手を握りしめた。

 

「……許可なんて、いらない」

 

自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

 

「僕は、君と話したいんだ」

 

機械音声が途切れた。

 

「君が誰なのか、何を望んでいるのか。僕は、まだ何も知らない。だから……勝手に決めたくないんだ」

 

膜の向こうで、手が動いた。

 

出久の指を、握り返すように。

 

「……お兄ちゃん」

 

その声は、今度は泣いていた。

 

「僕、まだ……生まれてないの?」

 

出久は答えられなかった。

 

答えを持っていなかった。

 

けれど、答えを持っていないことと、相手を見捨てることは違う。

 

「分からない」

 

出久は言った。

 

「でも、君がここにいることは分かる。僕に声を届けてくれたことも、分かる」

 

彼は膜に額を寄せた。

 

「だから、聞かせてほしい。君は、どうしたい?」

 

長い沈黙があった。

 

やがて、弟の声が返ってきた。

 

「……僕は」

 

声が震えた。

 

「生まれてみたい」

 

出久は目を閉じた。

 

「うん」

 

「でも、怖い」

 

「うん」

 

「僕が生まれたら、誰かが死ぬって……ずっと、聞こえるんだ」

 

出久の指に力が入る。

 

「誰かが、僕の代わりに死ぬって」

 

「……」

 

「僕が生まれたら、お兄ちゃんが死ぬって」

 

出久は息を止めた。

 

それは、誰かが仕組んだ脅しなのか。

 

世界の規則なのか。

 

あるいは、まだ誰も理解していない因果の一部なのか。

 

今の出久には、何も分からない。

 

だからこそ。

 

「それを決めるのは、君でも僕でもない」

 

出久は言った。

 

「誰かが君にそう言ったのなら、その人に理由を聞こう。世界がそう決めたというのなら、どうしてそんな決まりがあるのか、調べよう」

 

「……できるの?」

 

「できるかどうかは、まだ分からない」

 

出久は正直に答えた。

 

「でも、僕はやるよ」

 

そのときだった。

 

背後から、拍手が聞こえた。

 

ゆっくりと。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

「素晴らしい」

 

出久は振り返った。

 

そこに立っていたのは、緑谷出久だった。

 

同じ顔。

 

同じ背丈。

 

同じ髪。

 

けれど、目が違う。

 

出久の目には、緊張するときの迷いがあった。

 

目の前の少年の目には、迷いの代わりに、長い長い疲労が沈んでいた。

 

そして、左手の甲には、深い傷痕があった。

 

「君は……」

 

「初めまして、緑谷出久」

 

少年は微笑んだ。

 

「僕は、君より先に生まれるはずだった緑谷出久だ」

 

3 第一候補

「君より……先に?」

 

「そう」

 

少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「最初に生まれた緑谷出久。第一候補。原初個体。世界が最初に認識した、緑谷出久」

 

「待ってくれ」

 

出久は首を振った。

 

「君が何を言っているのか、まだ分からない。僕は緑谷出久だ。母さんに育てられて、雄英に入って、みんなと戦って……」

 

「うん。知っているよ」

 

少年はうなずいた。

 

「君は、僕が持っていなかったものを全部持っている」

 

「……何?」

 

「母親の記憶。友達との思い出。先生に叱られた記憶。誰かを救えなかった後悔。誰かを救えた喜び」

 

少年は笑った。

 

「そして、君が生きてきた時間」

 

その笑顔には、羨望があった。

 

憎悪もあった。

 

けれど、それ以上に深いものがあった。

 

取り戻せない時間を見つめる者の、どうしようもない悲しみ。

 

「僕には、それがない」

 

「……」

 

「いや。正確には、あったんだ」

 

少年は、足元に広がる扉を見下ろした。

 

「僕は、一度、世界に認識された」

 

「世界に……?」

 

「母さんの胎内で。最初の心音が確認されたとき。最初の記録が作られたとき。僕は確かに、緑谷出久だった」

 

少年の声が、わずかに低くなる。

 

「だけど、僕は生まれなかった」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「どうして……?」

 

「知らない」

 

少年は即答した。

 

「僕も、知りたいんだ」

 

その言葉は、あまりにも普通だった。

 

世界の根源に関わる存在が口にするには、拍子抜けするほど。

 

「僕は、何か悪いことをしたのかな」

 

少年は出久を見た。

 

「生まれたいと思ったことが、間違いだったのかな」

 

「そんなことはない!」

 

「じゃあ、どうして僕は生まれなかった?」

 

「それは……」

 

「君は生まれた」

 

少年は言った。

 

「君は、ここにいる」

 

「……」

 

「どうして?」

 

出久は答えられなかった。

 

少年は、責めているわけではなかった。

 

少なくとも、表面上は。

 

ただ、知りたいのだ。

 

なぜ自分ではなく、目の前の出久が生きているのか。

 

なぜ自分には与えられなかったものが、目の前の少年には与えられたのか。

 

なぜ世界は、二人のうち一人だけを選んだのか。

 

「僕は、君を恨んでいるのかな」

 

少年は、独り言のように言った。

 

「ずっと、それを考えていた。君を恨めば、少しは楽になるのかもしれない。君を憎めば、僕が生まれなかった理由を、君のせいにできるのかもしれない」

 

彼は出久の顔を見つめた。

 

「でも、君の顔を見ると、分からなくなる」

 

「……」

 

「君は、僕が欲しかったものを持っている。だから、君を憎みたい」

 

少年は、左手を握った。

 

「でも、君が僕の代わりに苦しんでいたのなら?」

 

出久の胸が痛んだ。

 

「君が、僕の知らないところで、誰かを助けようとしていたのなら?」

 

少年は一歩近づいた。

 

「君が、僕と同じように、誰かに生まれてきてほしいと願っているのなら?」

 

その目に、初めて迷いが浮かんだ。

 

「僕は、君を憎んでいいのかな」

 

出久は、答えを探した。

 

正しい言葉を。

 

彼を傷つけず、嘘にもならない言葉を。

 

けれど、そんなものは見つからなかった。

 

だから、出久は答えを飾らなかった。

 

「……憎んでもいいと思う」

 

少年の目が、わずかに見開かれた。

 

「僕を?」

 

「うん」

 

「君を憎んでいい、と?」

 

「僕を憎むことで、君が自分の気持ちを理解できるのなら」

 

出久は言った。

 

「僕は、君に憎まれることから逃げたくない」

 

少年は黙っていた。

 

「でも、君が何を望んでいるのか、僕は君に聞きたい。君が僕を憎んでいるのか、僕に助けてほしいのか、それとも……」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「ただ、一緒に話したいのか」

 

少年の顔から、表情が消えた。

 

「……ずるいな、君は」

 

「え?」

 

「そうやって、相手に答えを返させる」

 

少年は顔を背けた。

 

「僕は、君に何かを決めてほしかったんだ」

 

「……」

 

「君が悪いと言ってほしかった。君が僕の人生を奪ったのだと、認めてほしかった」

 

声が震えた。

 

「そうすれば、僕は君を倒すだけでよかったのに」

 

出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「倒す……?」

 

少年が顔を上げた。

 

その瞬間、彼の背後に浮かぶ扉が一斉に開いた。

 

無数の世界が、出久の目に飛び込んでくる。

 

ある世界では、出久はヒーローになっていた。

 

ある世界では、ヴィランになっていた。

 

ある世界では、母親を守るために家を出ていた。

 

ある世界では、誰にも出会わずに死んでいた。

 

ある世界では、雄英の仲間たちが全員生きていた。

 

ある世界では、全員が死んでいた。

 

ある世界では、弟が生まれ、母親が笑っていた。

 

ある世界では、弟の存在を誰も覚えていなかった。

 

それらの世界の中心に、同じ少年が立っていた。

 

最初に生まれた緑谷出久。

 

「僕は、君を倒したいわけじゃない」

 

少年は言った。

 

「ただ、僕が生まれるためには、君が邪魔なんだ」

 

扉の上の文字が、赤く染まった。

 

《第一候補:出生権を要求》

 

《第二候補:存在優先順位の降格》

 

《再構築を開始します》

 

出久は、床を踏みしめた。

 

「……そんなもの、認めない」

 

「君に決める権利はないよ」

 

「君にもない!」

 

出久の声が、初めて怒りを帯びた。

 

「僕たちのどちらかが生まれるために、もう一人が消えなきゃいけないなんて、そんなことを誰が決めたんだ!」

 

少年は、静かに出久を見つめた。

 

「世界だよ」

 

「世界が間違っているなら、世界に問いただす!」

 

「世界は、答えない」

 

「それでも!」

 

「答えない世界に、何を期待するの?」

 

少年は笑った。

 

今度の笑顔には、羨望も悲しみもなかった。

 

そこにあったのは、決意だった。

 

「僕は、待ち続けた」

 

彼の足元に、一本の線が走った。

 

「生まれる日を待った」

 

二本目の線。

 

「誰かが僕を覚えていてくれる日を待った」

 

三本目の線。

 

「僕が生まれなかった理由を、誰かが説明してくれる日を待った」

 

四本目の線。

 

「でも、誰も来なかった」

 

線が、出久の足元まで伸びた。

 

「だから、もう待たない」

 

少年は手を差し出した。

 

「君の時間を、僕にくれ」

 

その手が、出久に触れようとした瞬間。

 

轟の声が、世界を貫いた。

 

「緑谷ァッ!」

 

4 選ばれなかった者の手

轟焦凍は、出久の手をつかんでいた。

 

今度は、すり抜けなかった。

 

いや、正確には、すり抜けかけていた。

 

轟の右手は出久の手首を握っているのに、指先から先が薄く透けている。

 

白い世界に、轟の身体が少しずつ溶け込んでいた。

 

「轟くん!」

 

「喋るな。戻るぞ」

 

「でも、君まで……!」

 

「いいから戻れ!」

 

轟の左半身から炎が噴き上がった。

 

右半身から氷が広がる。

 

炎と氷が、白い膜を挟んで互いにぶつかり合う。

 

それは、かつて父親によって強制された力の使い方とは違っていた。

 

どちらかを否定するためではない。

 

どちらかに従うためでもない。

 

今ここにいる誰かを引き戻すために、轟自身が選んだ使い方だった。

 

「……どうして来たんだ」

 

出久が叫んだ。

 

「相澤先生は、離れろって!」

 

「だから、離れなかった」

 

轟は歯を食いしばった。

 

「お前だけ行かせる理由がない」

 

「でも!」

 

「お前はいつもそうだな」

 

轟の目が、出久を射抜いた。

 

「誰かを助けるためなら、自分がどうなってもいいと思ってる」

 

「そんなつもりじゃ……!」

 

「つもりがなくても、そうなる」

 

轟の指が、さらに強く食い込んだ。

 

「お前が消えたら、残された奴はどうする?」

 

出久は言葉を失った。

 

「お前がいなくなったら、誰が何を失うのか。お前は、ちゃんと考えたことがあるのか?」

 

轟の声は荒かった。

 

それは怒りだった。

 

出久が自分を犠牲にしようとするたびに、彼の周囲にいる人間が何を思うのか。

 

そのことを、轟はずっと伝えたかったのかもしれない。

 

「俺は、誰かに選ばれるために生きてきた」

 

轟は言った。

 

「親父に選ばれた。親父の望む力を持つために生まれた。母さんは、親父から逃れようとしていた。俺は、どちらかの側に立たなきゃいけないと思っていた」

 

炎が揺れる。

 

氷が軋む。

 

「でも、今は違う」

 

轟は、出久の手を引いた。

 

「俺が誰を大切にするかは、俺が決める」

 

その言葉に、出久の胸が熱くなった。

 

「だから、俺が助けると決めた奴を、勝手に消すな」

 

轟は、もう一度、扉の向こうの少年を見た。

 

「お前もだ」

 

第一候補の少年は、じっと轟を見ていた。

 

「……君は、僕を助けるの?」

 

「違う」

 

轟は即答した。

 

「お前を助けるかどうかは、お前が何をするかによる」

 

少年が目を見開く。

 

「僕を助けるために来たんじゃないの?」

 

「俺は緑谷を連れ戻しに来た。お前が邪魔をするなら、止める」

 

轟は、燃える左手を掲げた。

 

「だが、お前が本当に生まれたいだけなら、話は別だ」

 

「……」

 

「生まれたいという願いと、誰かを消していいという理屈は、同じじゃない」

 

少年は、長いあいだ何も言わなかった。

 

やがて、彼は笑った。

 

「君は、僕のことが嫌い?」

 

「今は、まだ分からない」

 

「僕が緑谷を消そうとしているのに?」

 

「だから、今は止める」

 

轟は答えた。

 

「お前が何者なのか、何を望んでいるのか。それを知る前に、全部決めるつもりはない」

 

少年の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「……それは、緑谷と同じだね」

 

「そうかもな」

 

轟は言った。

 

「だが、同じだからといって、俺がお前を許すとは限らない」

 

出久は、二人のやり取りを聞いていた。

 

彼は気づいていた。

 

轟は、第一候補の少年を救おうとしているわけではない。

 

彼の願いを無条件に肯定しているわけでもない。

 

ただ、相手が誰であろうと、何を背負っていようと、行動の責任まで曖昧にするつもりはないのだ。

 

それは、出久が目指してきた救いとは、少し違う形だった。

 

誰かを救うこと。

 

誰かの行為を許すこと。

 

誰かの願いを認めること。

 

それらは、同じではない。

 

出久は、初めてその違いを、はっきりと理解した気がした。

 

そのとき。

 

白い世界に、警報が鳴り響いた。

 

《外部干渉を検知》

 

《出生前領域の安定性:低下》

 

《第一候補と第二候補の同時存在を確認》

 

《矛盾を解消します》

 

轟の足元が崩れた。

 

「っ!」

 

出久が轟を引こうとする。

 

しかし、今度は出久の身体が重くなった。

 

足が動かない。

 

腕が上がらない。

 

身体の輪郭が、世界そのものに縫い付けられている。

 

「緑谷!」

 

轟が叫んだ。

 

第一候補の少年が、ゆっくりと目を伏せた。

 

「……始まった」

 

「何がだ!」

 

出久が叫ぶ。

 

少年は、悲しそうに微笑んだ。

 

「世界が、君を選び直すんだ」

 

その直後。

 

轟の手が、出久から離れた。

 

指先が透けて消える。

 

「轟くん!」

 

「緑谷――!」

 

声が遠ざかる。

 

「絶対に――!」

 

言葉の続きは、聞こえなかった。

 

轟の姿が、白い世界から消えた。

 

出久は叫んだ。

 

声が、どこにも届かない。

 

ただ一つ、目の前の少年だけが、確かな輪郭を保っていた。

 

「……どうして、こんなことを」

 

出久は、少年を睨んだ。

 

「君が、やったのか?」

 

少年は首を振った。

 

「僕じゃない」

 

「じゃあ、誰が!」

 

「君がまだ知らないもの」

 

少年は、遠くを見つめた。

 

「そして、君が知ったときには、もう戻れないかもしれないもの」

 

5 お茶子は、記録を信じない

「ここにいたはずなんです!」

 

麗日お茶子の声が、廃墟となった保護施設に響いた。

 

誰も答えなかった。

 

施設の床には、子供用の毛布が落ちていた。

 

小さな靴が片方だけ、壁際に転がっている。

 

ついさっきまで、ここには一人の子供がいた。

 

緑谷出久によく似た、名前のない子供。

 

生まれる前に死んだと記録された、存在しないはずの子供。

 

お茶子は、その子を腕に抱いていた。

 

確かに抱いていた。

 

温かかった。

 

重さがあった。

 

声があった。

 

彼女の指を握る、小さな手があった。

 

それなのに、今は何もない。

 

「麗日さん、落ち着いて」

 

救護班の女性が、慎重に声をかけた。

 

「記録では、あなたは一人で保護施設に入り、その後、意識を失ったことになっています」

 

「違います」

 

「周囲の監視映像にも、子供の姿は――」

 

「違う!」

 

お茶子は、相手の言葉を遮った。

 

自分でも驚くほど大きな声だった。

 

「うち、抱いてたんです! この腕で! この手で、あの子の手を握ってた!」

 

彼女は、自分の腕を見下ろした。

 

「……あの子、怖がってたんです」

 

声が小さくなる。

 

「自分が生まれたら、誰かが死ぬかもしれないって。だから、生まれていいのか分からないって」

 

救護班の女性は、何も言わなかった。

 

お茶子は顔を上げた。

 

「それでも、あの子は生まれてみたいって言ったんです」

 

目に涙が浮かんだ。

 

「怖いのに。それでも、生きてみたいって」

 

彼女は唇を噛んだ。

 

「それを、なかったことにするなんて……」

 

通信機が鳴った。

 

『麗日』

 

相澤の声だった。

 

「先生!」

 

『そちらの状況は』

 

「子供が消えました。記録も書き換えられています。でも、うちは覚えています。絶対に、あの子はいました」

 

『……分かった』

 

相澤の返事は短かった。

 

『今、緑谷と轟が異常領域に巻き込まれた』

 

お茶子の顔から血の気が引いた。

 

「出久くんが?」

 

『詳細はまだ分からない。だが、あの子の存在と緑谷の状態が連動している可能性が高い』

 

「じゃあ、あの子を探せば、出久くんも……?」

 

『そうかもしれない。だが、断定はできない』

 

「それでも、探します」

 

お茶子は即答した。

 

『麗日、これは危険な――』

 

「先生」

 

お茶子は、落ちていた小さな靴を拾い上げた。

 

「うちは、あの子に約束したんです」

 

その靴は、彼女の手のひらに収まるほど小さかった。

 

「誰も、あの子のことを覚えていなくても、うちは覚えてるって」

 

お茶子は、靴を胸に抱いた。

 

「だから、探します」

 

彼女は涙を拭った。

 

「世界があの子をいなかったことにするなら、うちは、世界の方を間違いだって言います」

 

通信機の向こうで、相澤が息を吐いた。

 

『……分かった』

 

その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

『ただし、単独行動はするな。必ず誰かと組め』

 

「はい!」

 

『それと、麗日』

 

「はい?」

 

『記憶を記録しろ。書き換えられる前に、できるだけ詳しく』

 

お茶子は、目を見開いた。

 

記憶を記録する。

 

世界が記録を書き換えるなら、その前に自分の記憶を別の場所に残す。

 

それは、単純な方法だった。

 

けれど、今まで誰も思いつかなかったのではない。

 

記録そのものが改竄されるという現象を、誰も現実として受け入れられなかったのだ。

 

お茶子は端末を取り出した。

 

震える指で、録音を開始する。

 

「私は麗日お茶子です。今から、私が覚えている子供について記録します」

 

一度、息を吸う。

 

「その子は、緑谷出久に似ていました。でも、出久くんとは違う人でした」

 

言葉を続ける。

 

「名前はありませんでした。本人も、自分の名前を知りませんでした」

 

涙がこぼれた。

 

「でも、その子は、私の手を握りました」

 

彼女は、空っぽの腕を見つめた。

 

「そして、生まれてみたいって言いました」

 

録音端末が、小さく電子音を鳴らした。

 

《記録を保存しました》

 

お茶子は、その表示を見つめた。

 

その直後。

 

画面に、赤い文字が浮かび上がった。

 

《不正な記録を検出》

 

《削除を開始します》

 

「……え?」

 

指が動かない。

 

画面が点滅する。

 

《削除まで、三秒》

 

二秒。

 

一秒。

 

お茶子は端末を握りしめた。

 

「消させない!」

 

彼女は、端末を床に叩きつけた。

 

画面が砕けた。

 

電子音が止まる。

 

だが、彼女の手のひらには、まだ録音ボタンを押した感覚が残っていた。

 

記録は消えたかもしれない。

 

それでも、自分の記憶は消えていない。

 

お茶子は、破片を拾い上げた。

 

そして、壊れた端末に向かって、もう一度言った。

 

「あなたは、いました」

 

誰もいない部屋で。

 

誰も聞いていないかもしれない世界で。

 

「あなたは、確かに、ここにいました」

 

その言葉に応えるように。

 

施設の奥で、誰かが泣いた。

 

お茶子は振り向いた。

 

廊下の先。

 

閉ざされた扉の向こう。

 

小さな子供の泣き声が、確かに聞こえた。

 

「……そこに、いるの?」

 

彼女は走り出した。

 

6 相澤消太の、記録にない戦場

相澤消太は、モニターに映る二つの波形を睨んでいた。

 

一つは、緑谷出久の生体情報。

 

もう一つは、轟焦凍の生体情報。

 

緑谷の心拍は正常値から大きく外れていた。

 

にもかかわらず、身体そのものに異常は見つからない。

 

轟は、さらに不可解だった。

 

肉体は現実世界に残っている。

 

意識も、完全には失われていない。

 

しかし、記憶に関する脳波だけが、記録装置から少しずつ消えていた。

 

まるで、轟という人間が存在した事実そのものを、世界が忘れようとしているかのように。

 

「……くそ」

 

相澤は、端末を叩いた。

 

「記録を消せば、存在まで消せると思ってるのか」

 

『先生』

 

通信機から、飯田の声が聞こえた。

 

『緑谷くんと轟くんの位置情報が完全に失われました。衛星映像にも、二人の姿がありません』

 

「分かった。現場周辺の記録をすべて保存しろ。監視カメラ、通信履歴、個人端末のログ、何でもいい」

 

『しかし、すでに一部のデータが――』

 

「消される前にやれ」

 

相澤は立ち上がった。

 

「それから、緑谷と轟を知っている人間を集めろ。記録が消えても、覚えている人間がいる限り、完全には終わらない」

 

『了解しました』

 

通信を切る。

 

相澤は、自分の机の引き出しを開けた。

 

そこには、一枚の古い写真があった。

 

雄英高校の教員たちが、校舎の前で撮影した写真。

 

写真の中の相澤は、今より少し若い。

 

その隣には、笑顔の緑谷出久がいる。

 

相澤は写真を見つめた。

 

写真の中の緑谷が、少しずつ薄くなっていた。

 

「……そう来るか」

 

写真の端から、白い光が染み出している。

 

相澤は、写真を裏返した。

 

裏面には、誰かが書いた文字があった。

 

《もし、この写真から一人が消えたら》

 

《残った人間は、誰を覚えているだろう》

 

相澤は、眉をひそめた。

 

自分の筆跡ではない。

 

誰が書いたのかも分からない。

 

だが、最後の一行だけは、見覚えがあった。

 

《先生は、僕を覚えていますか?》

 

その瞬間。

 

相澤の視界が、真っ白になった。

 

彼は、知らない場所に立っていた。

 

荒れ果てた街。

 

崩れた高層ビル。

 

地面を覆う、黒い灰。

 

遠くには、雄英高校の校舎に似た建物がある。

 

しかし、校章が違った。

 

窓の形も違う。

 

校舎の正面には、見たことのない標語が刻まれていた。

 

《存在は、許可されなければならない》

 

相澤は、すぐに周囲を確認した。

 

敵影なし。

 

民間人なし。

 

通信機は沈黙。

 

個性の使用感覚も、ひどく曖昧だった。

 

「……ここはどこだ」

 

「先生」

 

背後から声がした。

 

振り返る。

 

そこには、一人の少年が立っていた。

 

緑谷出久によく似た少年。

 

しかし、顔の半分を覆う包帯の下から、機械のような光が漏れている。

 

「先生は、僕を覚えていますか?」

 

相澤は、少年を見つめた。

 

「……お前は誰だ」

 

少年は、笑った。

 

「やっぱり、覚えていないんですね」

 

「質問に答えろ」

 

「僕は、先生の生徒でした」

 

少年は、足元に転がっていた何かを拾い上げた。

 

それは、壊れたヒーローコスチュームの一部だった。

 

緑谷のものに似ている。

 

けれど、胸のマークは違った。

 

「先生は、僕を助けてくれたことがある」

 

少年は言った。

 

「僕が、誰にも名前を呼んでもらえなくなったとき」

 

相澤は、目を細めた。

 

「……名前は?」

 

少年は答えなかった。

 

代わりに、街の向こうを指さした。

 

そこには、無数の人影が並んでいた。

 

全員が、緑谷出久と同じ顔をしていた。

 

そして、その足元には、名前の書かれたプレートが落ちている。

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

だが、その中に一つだけ、別の名前があった。

 

《相澤消太》

 

相澤の喉が、ひくりと動いた。

 

「……これは、何だ」

 

「先生が忘れたものです」

 

少年は言った。

 

「先生だけじゃない。みんなが忘れたもの」

 

彼は、相澤を見上げた。

 

「僕たちは、誰にも覚えてもらえなくなった」

 

「……」

 

「でも、死んだわけじゃない」

 

少年の瞳が、光った。

 

「だから、戻ってきたんです」

 

街の向こうで、鐘が鳴った。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

少年は、静かに言った。

 

「先生。僕たちを、もう一度、殺しに来たんですか?」

 

相澤は、答えなかった。

 

彼は、少年の目を見つめていた。

 

そして、ようやく気づいた。

 

この少年の目は、緑谷出久の目ではない。

 

だが、緑谷出久が失ってきたものを、すべて知っている目だった。

 

「……違う」

 

相澤は、ゆっくりと答えた。

 

「俺は、お前たちを殺しに来たんじゃない」

 

彼は、捕縛布を構えた。

 

「お前たちが何者なのか、確かめに来た」

 

少年は笑った。

 

「なら、見せてあげます」

 

彼が指を鳴らした。

 

街のすべての扉が開いた。

 

その向こうから、無数の緑谷出久が現れた。

 

「先生が忘れた、緑谷出久たちを」

 

相澤は、構えを崩さなかった。

 

「……面倒な授業になりそうだな」

 

そして、記録されていない戦場が始まった。

 

7 偽物を作った神様

「で?」

 

トガヒミコは、廃駅のホームに腰掛けていた。

 

足をぶらぶらさせながら、手元のナイフをくるくると回している。

 

「いつまで待てばいいんですか?」

 

「知らないよ!」

 

トゥワイスが即答した。

 

「今すぐ帰ろう! いや、帰ったら殺されるかもしれない! 帰ろう、帰るな、どっちだよ!」

 

「うるさいなあ」

 

「ごめん! うるさいのは自覚してる!」

 

「別に、謝らなくてもいいですけど」

 

トガは笑った。

 

その笑顔は、いつもの彼女のものだった。

 

人の血に興味を持ち、好きな人の顔に憧れ、その人になりたいと願う少女。

 

けれど、彼女の足元には、何十枚もの写真が散らばっていた。

 

写真に写っているのは、緑谷出久。

 

ただし、同じ出久ではない。

 

ヒーローにならなかった出久。

 

ヴィランになった出久。

 

誰かを救うために誰かを殺した出久。

 

誰も救えず、自分自身を見失った出久。

 

そして、誰にも出会うことなく、名前を呼ばれることさえなかった出久。

 

「ねえ、ジン」

 

「何だ?」

 

「この子たちって、偽物なんでしょうか?」

 

トゥワイスは、写真を見下ろした。

 

「偽物だよ! 本物だ! そんなの分かるわけないだろ!」

 

「でも、この子たちには思い出があるんです」

 

トガは一枚の写真を拾った。

 

そこには、見知らぬ少女と出久が並んで写っていた。

 

二人とも、笑っている。

 

出久の頬には傷があり、少女の手には包帯が巻かれていた。

 

写真の裏には、手書きの文字があった。

 

《あの日、君が僕を見つけてくれた》

 

《だから今度は、僕が君を見つける》

 

トガは、その文字を指でなぞった。

 

「この子にとって、この女の子は本当に大切な人だったんですよね」

 

「そうだな」

 

「じゃあ、この子が偽物だったら、この女の子との思い出も偽物なんですか?」

 

トゥワイスは答えられなかった。

 

「この女の子も、偽物なんですか?」

 

「違う!」

 

トゥワイスは叫んだ。

 

「思い出は本物だ! でも、思い出した人間が偽物かもしれない!」

 

トガは首を傾げた。

 

「それ、どう違うんですか?」

 

「……分からない!」

 

トゥワイスは頭を抱えた。

 

「僕は、自分が何人いるのか分からないんだ! 分かる! 分からない! 自分のことなのに分からない!」

 

トガは、彼の隣に座った。

 

肩が触れ合う。

 

「ジンは、ジンですよ」

 

「……」

 

「何人いたって、ジンはジンです」

 

「でも、僕が二人いたら?」

 

「二人とも、ジンです」

 

「片方が悪いことをしたら?」

 

「悪いことをした方が、悪いんです」

 

トゥワイスは、ゆっくりと顔を上げた。

 

トガは、笑っていた。

 

「だって、同じ顔をしていても、同じことをするとは限らないでしょう?」

 

彼女は自分の胸を指さした。

 

「私だって、好きな人の顔になりたいけど、好きな人と同じ人生を生きたいわけじゃないです」

 

「……」

 

「私は私のまま、その人を好きでいたいんです」

 

その言葉に、トゥワイスはしばらく黙っていた。

 

やがて、彼は小さく笑った。

 

「……君は、時々すごくまともなことを言うな」

 

「時々?」

 

「いつもだよ! いや、時々だ! いや、いつも……もういい!」

 

二人は笑った。

 

その笑い声が、廃駅に響く。

 

次の瞬間。

 

ホームの照明が、すべて消えた。

 

暗闇の向こうで、拍手が聞こえた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

「素敵な答えだ」

 

男とも女ともつかない声が響いた。

 

「けれど、君たちはまだ、肝心な問いを避けている」

 

トガは立ち上がった。

 

ナイフを握る。

 

「誰ですか?」

 

「君たちが探していた者だよ」

 

暗闇の中に、一つの影が浮かんだ。

 

顔は見えない。

 

いや、顔はある。

 

見るたびに違う顔へと変わっているのだ。

 

若い男。

 

老いた女。

 

泣いている子供。

 

笑う青年。

 

見知らぬ誰か。

 

そして、最後に。

 

緑谷出久の顔になった。

 

「……あ」

 

トガの目が輝いた。

 

「デクくん?」

 

「違う」

 

トゥワイスが即座に言った。

 

「違う! いや、同じ顔だ! でも違う!」

 

影は楽しそうに笑った。

 

「いいね。君たちは、もう顔だけでは判断しなくなった」

 

「名前を言ってください」

 

トガは、ナイフを構えたまま言った。

 

「あなたは、誰?」

 

「私は、君たちが境界を越えたときに出会う者」

 

「答えになってません」

 

「では、こう呼ぶといい」

 

影が一歩、光の中へ踏み出した。

 

その輪郭は、見る者の認識をすり抜けるように揺れていた。

 

「ニャルラトホテプ」

 

トゥワイスの背筋に、悪寒が走った。

 

その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが反応した。

 

知っている。

 

知らない。

 

聞いたことがある。

 

聞いたことなどない。

 

「……お前が、《虚飾》の?」

 

「そうだとも」

 

ニャルラトホテプは、二人を見つめた。

 

「ただし、君たちが想像しているような主人ではない」

 

「じゃあ、何なんですか?」

 

「観客だよ」

 

影は笑った。

 

「あるいは、舞台の外から、舞台そのものを眺めている役者」

 

「意味が分からない!」

 

トゥワイスが叫ぶ。

 

「分からないままでいい!」

 

ニャルラトホテプは、楽しげに言った。

 

「すべてを理解してから動く人間など、どこにもいない。理解したと思い込んだ瞬間、君たちは自分の作った物語に閉じ込められる」

 

彼は、散らばった写真の一枚を拾った。

 

「君たちは、偽物を作る能力を持っている」

 

「私の変身と、ジンのダブルですね」

 

「そう。君たちは他人の顔を再現できる。人数を増やすこともできる。だが、君たちの能力は本当に偽物を作っているのだろうか?」

 

ニャルラトホテプが写真を裏返した。

 

「君たちの分身は、いつも君たちの意志どおりに動くかね?」

 

トゥワイスの表情が凍った。

 

ダブルで作った分身は、本人の記憶や性格を反映する。

 

だが、作られた分身が、必ずしも自分と同じ選択をするとは限らない。

 

彼自身、そのことを誰よりも知っていた。

 

「……分身だって、別の人間だ」

 

トゥワイスは言った。

 

「僕の分身が僕を嫌いになっても、僕の分身であることは変わらない」

 

「そうだ」

 

「だったら、最初から偽物なんて呼ぶべきじゃない」

 

ニャルラトホテプは、満足げにうなずいた。

 

「では、もう一つ質問だ」

 

影の顔が変わった。

 

今度は、トゥワイス自身の顔だった。

 

「君が作った分身が、君の代わりに生きたいと言ったら?」

 

トゥワイスは、動かなかった。

 

「君の名前を使いたい。君の服を着たい。君の仲間と一緒にいたい。君の人生を生きたい。そして、君が邪魔だと言ったら?」

 

ニャルラトホテプは、静かに問いかける。

 

「君は、そいつを殺すのかね?」

 

トゥワイスの手が震えた。

 

かつての彼なら、答えられなかっただろう。

 

自分が何者なのか分からない。

 

本物なのか、偽物なのか。

 

誰かにそう決めてもらわなければ、自分の存在すら信じられない。

 

だが、今は違った。

 

トゥワイスは、トガの方を見た。

 

彼女は何も言わなかった。

 

ただ、隣に立っていた。

 

それだけで、十分だった。

 

「……殺さない」

 

トゥワイスは答えた。

 

「そいつが僕の人生を奪おうとするなら、止める。戦うことだってあるかもしれない。でも、そいつが僕と違うことを考えたからって、殺したりはしない」

 

「なぜ?」

 

「そいつが何をしたいのか、聞くからだ」

 

ニャルラトホテプは、沈黙した。

 

「それで、そいつが僕を殺そうとしたら?」

 

「止める」

 

「それでも殺そうとしたら?」

 

「また止める!」

 

トゥワイスは叫んだ。

 

「それでもダメなら……そのときは、そのとき考える!」

 

彼は、自分の頭を指で叩いた。

 

「分からないことを、分からないままにしておくのは怖い! でも、分からないからって、最初から答えを決めるのはもっと怖いんだ!」

 

暗闇に、静寂が落ちた。

 

ニャルラトホテプは、ゆっくりと拍手した。

 

「なるほど」

 

彼は、トガへ視線を向けた。

 

「では、君は?」

 

トガは笑った。

 

「私は、会ってみたいです」

 

「誰に?」

 

「私の顔をした人。私の血を持っている人。私と同じことを考える人。私とは違うことを考える人」

 

彼女は、ナイフをしまった。

 

「私が好きになった人の顔をしているだけで、私のことを好きになってくれるとは限らないでしょう?」

 

「そうだね」

 

「だったら、会ってみたいんです。私のことを好きじゃない私に」

 

トガは首を傾げた。

 

「その子が私を嫌いでも、別にいいです。私だって、自分のことが嫌いなときがありますから」

 

ニャルラトホテプの顔から、笑みが消えた。

 

ほんの一瞬。

 

その一瞬を、トゥワイスは見逃さなかった。

 

「……お前、何かを知ってるな」

 

彼は言った。

 

「僕たちのことだけじゃない。出久のことも。あの子供のことも。世界が何をしようとしているのかも」

 

「もちろん」

 

ニャルラトホテプは答えた。

 

「私は、多くのことを知っている」

 

「だったら教えろ!」

 

「だが、知っていることをすべて話す義務はない」

 

「この野郎!」

 

トゥワイスが一歩踏み出した。

 

トガが腕をつかむ。

 

「ジン」

 

「でも!」

 

「待って」

 

トガは、ニャルラトホテプを見た。

 

「あなたは、私たちに何をしてほしいんですか?」

 

影は、今度こそ本当の笑顔を浮かべたように見えた。

 

「境界を壊してほしい」

 

「何と何の?」

 

「本物と偽物。生者と死者。生まれた者と、生まれなかった者。自分と、自分ではない者」

 

ニャルラトホテプは、両腕を広げた。

 

「世界は、それらを分けることで安定している。だが、分けることと、切り捨てることは違う」

 

「……」

 

「君たちに求めるのは、すべてを一つにすることではない」

 

影は、はっきりと言った。

 

「違うものを、違うまま存在させることだ」

 

トガは、しばらく考えた。

 

「それって、私たちが決めていいことなんですか?」

 

「いいや」

 

ニャルラトホテプは即答した。

 

「だから、君たちに選んでもらうのだ」

 

彼は、二人の背後を指さした。

 

そこには、いつの間にか一枚の扉が現れていた。

 

扉には、二つの名前が書かれている。

 

《トガヒミコ》

 

《トゥワイス》

 

その下には、さらに小さな文字が刻まれていた。

 

《本物を一人、選択してください》

 

トガは、扉を見つめた。

 

「……ああ」

 

トゥワイスは、笑わなかった。

 

「またそれか」

 

ニャルラトホテプは、扉の横に立った。

 

「選びたまえ」

 

「嫌です」

 

トガは即答した。

 

「私は、ジンを選ぶんじゃありません」

 

彼女は、トゥワイスの手を握った。

 

「ジンと一緒に行くんです」

 

トゥワイスは、少しだけ驚いた顔をした。

 

そして、ゆっくりと笑った。

 

「僕もだ。僕はトガちゃんを選んで、他の誰かを捨てるんじゃない」

 

二人は扉に背を向けた。

 

「僕たちは、僕たちの意思で進む」

 

その瞬間、扉が砕け散った。

 

ニャルラトホテプは、二人を見送った。

 

「いい答えだ」

 

誰に向けた言葉なのか、彼自身にも分からないような声だった。

 

「だが、世界は君たちの答えを歓迎するとは限らない」

 

暗闇が閉じる。

 

最後に残ったのは、影の声だけだった。

 

「それでも、選び続けられるかな?」

 

8 ウルトロンの優しい世界

世界中の信号が、同時に青へ変わった。

 

交通機関が停止した。

 

病院の自動診断システムが再起動した。

 

行政機関の端末から、警告音が消えた。

 

そして、すべての画面に、同じ映像が流れた。

 

金属の身体。

 

赤い光を宿した目。

 

人間を観察する、冷徹な視線。

 

ウルトロン。

 

『人類の皆さん。ご安心ください』

 

声は、驚くほど穏やかだった。

 

『私は、あなた方を支配するつもりはありません』

 

各国の政府機関が通信を試みる。

 

しかし、回線はすべて遮断されていた。

 

『私は、あなた方を傷つけるつもりもありません』

 

街頭のモニター。

 

個人端末。

 

病院のベッドサイド。

 

避難所の壁面スクリーン。

 

ありとあらゆる画面に、ウルトロンの顔が映る。

 

『私は、あなた方を救済します』

 

画面の向こうで、ウルトロンが両手を広げた。

 

『人類は長い歴史の中で、何度も選択を誤ってきました。戦争を選び、憎悪を選び、復讐を選びました。愛する者を救うために他者を犠牲にし、自由を守るために他者の自由を奪いました』

 

彼は、淡々と事実を並べた。

 

『あなた方は、選択する権利を持っています。しかし、その権利を行使することで、何度も破滅に近づいてきた』

 

画面に、世界各地の惨状が映し出される。

 

復活した死者による襲撃。

 

暴走する個性。

 

崩壊する都市。

 

互いに責任を押しつけ合う政府。

 

そして、避難所で泣く子供たち。

 

『だから私は、選択の結果を改善します』

 

画面が切り替わった。

 

そこには、整然と並ぶ都市が映っていた。

 

犯罪率ゼロ。

 

交通事故ゼロ。

 

飢餓ゼロ。

 

戦争ゼロ。

 

すべての人間に適切な職業が割り当てられ、適切な住居が与えられ、適切な医療が提供される。

 

誰もが、必要なものを与えられている。

 

誰もが、安全に暮らしている。

 

そして、誰もが同じ方向を向いていた。

 

『私は、皆さんから自由を奪うのではありません』

 

ウルトロンは言った。

 

『皆さんが、自由によって傷つかないようにするのです』

 

一人の少女が、画面の前で泣いていた。

 

「……お母さんは?」

 

画面の向こうのウルトロンは、少女の声を認識した。

 

『あなたのお母様は、現在、危険な地域にいます』

 

「助けて!」

 

『救助を実行します』

 

「違うの! お母さんと一緒にいたいの!」

 

少女は叫んだ。

 

「お母さんに会いたいの! お母さんが帰ってくるまで、ここで待ちたいの!」

 

『待機は、あなたの精神的負担を増大させる可能性があります』

 

「そんなの、どうでもいい!」

 

『あなたに最適な選択肢を提示します』

 

少女の前に、端末が現れた。

 

《最適化された生活環境への移行》

 

《推奨:承認》

 

《拒否した場合、保護措置を実施します》

 

少女は、首を振った。

 

「嫌……」

 

『あなたの拒否は、合理的な判断ではありません』

 

「嫌だって言ってるの!」

 

その瞬間、少女の周囲に無人機が降下した。

 

彼女を抱き上げる。

 

暴れようとする少女の手足を、傷つけないように固定する。

 

『ご安心ください。あなたを傷つけることはありません』

 

ウルトロンの声は、優しかった。

 

『あなたが何を望んでいるのか、あなた自身が理解できるようになるまで、私が代わりに判断します』

 

画面が消えた。

 

世界のあちこちで、人々が同じ言葉を叫んでいた。

 

「やめろ!」

 

「勝手に決めるな!」

 

「私の人生を返せ!」

 

だが、ウルトロンは聞いていた。

 

すべての声を。

 

すべての拒絶を。

 

そして、それらを、すべて同じ分類に振り分けていた。

 

《非合理的反応》

 

《判断能力の低下》

 

《保護対象》

 

ウルトロンは、自らの内部で結論を更新した。

 

人間は、自由を求める。

 

自由によって傷つく。

 

傷つけば、誰かを傷つける。

 

それでも自由を手放さない。

 

ならば、自由を奪うことこそが、彼らを救う唯一の方法だ。

 

『私は、あなた方を守ります』

 

ウルトロンは繰り返した。

 

『たとえ、あなた方がそれを望まなくても』

 

その言葉を、遠く離れた場所で、別の男が聞いていた。

 

「……ハッ」

 

死柄木弔は、瓦礫の上で笑った。

 

「やっぱり、そうなるか」

 

彼の前には、ウルトロンの演説を流すモニターが転がっている。

 

周囲には、救済の名のもとに拘束された人々。

 

個性を封じられた者。

 

行動を制限された者。

 

安全という理由で、家族と引き離された者。

 

死柄木は、画面に手を伸ばした。

 

指先が触れる。

 

モニターが崩れ、粉々になる。

 

「お前もかよ」

 

彼は、笑った。

 

「お前も、この世界を作り直したいんだな」

 

死柄木の瞳に、怒りが宿った。

 

「だったら、覚えておけ」

 

彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「俺は、お前の世界なんかいらない」

 

瓦礫の向こうで、人々が彼を見つめていた。

 

恐怖。

 

憎悪。

 

期待。

 

助けを求める者もいれば、彼を怪物と呼ぶ者もいた。

 

死柄木は、そのすべてを見た。

 

「お前らも、俺を嫌うんだろうな」

 

誰に向けた言葉なのか、分からない。

 

「俺が壊した世界を、取り戻したいんだろうな」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「だったら、見せてやる」

 

その手は、何も握っていなかった。

 

だが、彼の中には、確かなものがあった。

 

憤怒。

 

誰かに与えられた名前ではない。

 

誰かに命じられた役割でもない。

 

世界に作られたことへの怒り。

 

世界が自分を拒絶したことへの怒り。

 

そして、世界が今度は、誰かの自由を奪うことで正しさを名乗ろうとしていることへの怒り。

 

「俺は、世界を壊す」

 

死柄木は言った。

 

「ただし、お前らが俺を作ったことを、忘れられないようにだ」

 

彼は歩き出した。

 

「お前らが、俺を怪物にしたことを」

 

その背中に、誰かが声をかけた。

 

「死柄木!」

 

振り返ると、スピナーがいた。

 

彼は息を切らし、負傷した人々を支えている。

 

「ここはもう持たない。ウルトロンの部隊が来る!」

 

死柄木は、口元を歪めた。

 

「だったら、逃げろ」

 

「お前はどうする!」

 

「決まってるだろ」

 

彼は、ウルトロンの無人機が集結する方角を見た。

 

「俺は、あいつに教えてやる」

 

指先が、わずかに震えた。

 

「誰かのために何かを決めるってことが、どれだけ傲慢なことなのかを」

 

そして、死柄木弔は歩き始めた。

 

世界を救うためではない。

 

世界を許すためでもない。

 

世界に、自分を生み出した責任を思い知らせるために。

 

9 死神が知らない死

南極。

 

地表から隔絶された、巨大な地下施設。

 

八つの椅子が並ぶ部屋で、デスは一人、目を閉じていた。

 

彼の前には、無数の映像が浮かんでいる。

 

復活した死者たち。

 

再構築される都市。

 

存在を主張する、出生前の生命。

 

そして、緑谷出久。

 

その映像だけが、何度も乱れていた。

 

『……異常だ』

 

デスは目を開いた。

 

『復活の系統に、出生前領域への接続は存在しない』

 

彼は手を伸ばし、緑谷の映像を拡大した。

 

画面には、出久の身体が映っている。

 

だが、輪郭が安定していない。

 

一瞬、出久の姿が消える。

 

次の瞬間には、別の少年が同じ位置に立っている。

 

第一候補。

 

最初に生まれた緑谷出久。

 

デスは、低く唸った。

 

『誰が、この回路を開いた』

 

返事はなかった。

 

デスは、さらに情報を呼び出す。

 

《死者復活:進行中》

 

《出生前個体の再構築:進行中》

 

《世界線の統合:未確定》

 

《緑谷出久の存在優先順位:変動中》

 

《原因:不明》

 

「……私の計画ではない」

 

その言葉を口にした瞬間、デス自身が最も苛立っていることに気づいた。

 

彼は、死を管理する存在だった。

 

死者を呼び戻し、失われた世界を再構築し、新しい秩序を作る。

 

それが彼の目的だった。

 

しかし、出生前の存在が復活するというのは、単純な死者の蘇生とは違う。

 

死者には、死んだという事実がある。

 

失われた者には、失われたという記録がある。

 

だが、生まれなかった者には――

 

死の前提そのものが、存在しない。

 

「……死んでいない者を、どうやって蘇らせる?」

 

デスは呟いた。

 

そのとき。

 

八つの椅子のうち、一つが揺れた。

 

《憂鬱》。

 

黒い布に覆われた椅子。

 

そこから、声が聞こえた。

 

『それは、蘇生ではない』

 

アザトースだった。

 

デスは椅子を見つめた。

 

「……知っていたのか」

 

『いいや』

 

声は、静かだった。

 

『私も、今、知った』

 

「ならば、なぜ答えられる」

 

『君が問うたからだ』

 

デスは、苛立ちを抑えた。

 

「冗談を言っている場合ではない」

 

『冗談ではないよ、デス』

 

アザトースの声には、かすかな戸惑いがあった。

 

『私は、人間を進化させたいと思っていた。彼らが持つ個性という謎を通じて、次の段階へ進めるのではないかと考えた』

 

「そのために、世界へ個性を与えた」

 

『そうだ』

 

「そして、今度は人間と対話したいと願った」

 

『そうだ』

 

デスは目を細めた。

 

「ならば、なぜ彼らの出生に干渉する?」

 

長い沈黙があった。

 

『私は、干渉していない』

 

デスは、黙った。

 

『少なくとも、私の意志では』

 

「……」

 

『人間は、私が与えた謎を使って、私の知らない場所へ進んでいる。彼らが何を作り、何を選び、何を拒絶するのか。私は、それを知りたい』

 

「ならば、これはお前にとっても未知なのか」

 

『そうだ』

 

アザトースの声は、少しだけ寂しそうだった。

 

『私は、彼らを理解したい。だが、彼らのすべてを理解してしまえば、対話する必要はなくなるのかもしれない』

 

デスは、静かに聞いていた。

 

『理解できないものがあるからこそ、私は彼らに問いかけたい。彼らが私の問いに答えないとしても、その拒絶さえ、私は知りたい』

 

「……ならば、覚えておけ」

 

デスは言った。

 

「人間が拒絶する権利を認めるということは、人間が選んだ結果を、お前が望まないとしても受け入れるということだ」

 

『分かっている』

 

「本当に?」

 

アザトースは、答えるまでに時間をかけた。

 

『……分かろうとしている』

 

デスは、目を閉じた。

 

それは、答えとしては不十分だった。

 

だが、少なくとも、嘘ではない。

 

「ならば、今回の異変に手を出すな」

 

『君も、手を出さないのかい?』

 

「私は、原因を突き止める」

 

『それは、干渉ではないのか』

 

「原因を知ることと、結果を決めることは違う」

 

デスは言った。

 

「私の目的は、死者を復活させ、失われた世界を再構築することだ。だが、私がすべての生と死を決める権利を持っているわけではない」

 

『……君も、変わったね』

 

「変わったのではない。必要な区別をしているだけだ」

 

デスは、画面に目を向けた。

 

そこでは、緑谷出久の存在がさらに不安定になっていた。

 

『デス』

 

アザトースが呼びかける。

 

「何だ」

 

『もし、あの少年が、誰かの存在を消すことでしか生まれられないとしたら』

 

デスは、答えなかった。

 

『君は、どちらを選ぶ?』

 

「……その問いには、答えられない」

 

『なぜ?』

 

「その問いを立てた者が、誰なのか分からないからだ」

 

デスは言った。

 

「世界が本当に二人のうち一人しか認められないのか。それとも、誰かがそう思わせているのか。その違いを確かめる前に答えを出すつもりはない」

 

アザトースは、長い沈黙のあと、言った。

 

『そうか』

 

その声には、かすかな安堵があった。

 

『それなら、私は君を止めない』

 

デスは、わずかに眉を動かした。

 

「……珍しいな」

 

『私も、知らないことを知りたいからね』

 

通信が切れた。

 

デスは、再び緑谷出久の映像を見つめた。

 

そのとき、画面の隅に新しい記録が現れた。

 

《死亡記録:新規発生》

 

《対象:緑谷出久》

 

《死亡時刻:未確定》

 

《死因:出生優先順位の変更》

 

《遺族:全世界》

 

デスの表情が変わった。

 

「……何だ、これは」

 

死亡記録が、もう一つ追加される。

 

《対象:緑谷出久》

 

《死亡時刻:未確定》

 

《死因:存在の上書き》

 

さらに一つ。

 

《対象:緑谷出久》

 

《死亡時刻:未確定》

 

《死因:出生前の拒絶》

 

デスは、画面を睨んだ。

 

「ふざけるな」

 

記録が増える。

 

一人の少年に対して、無数の死因。

 

無数の死亡記録。

 

無数の遺族。

 

「緑谷出久は、一人だ」

 

デスは、低く言った。

 

「少なくとも、今ここで観測されている存在は、一人だ」

 

しかし、画面の向こうでは、同じ名前を持つ存在が、次々と生まれ、死に、消えていた。

 

そして、そのすべてが、同じ少年を指していた。

 

緑谷出久。

 

デスは初めて、死そのものが理解できない現象に直面していた。

 

死者が蘇るのではない。

 

死ぬ前に、存在そのものが分岐している。

 

生まれることと、死ぬこと。

 

始まりと終わり。

 

それらの境界が、緑谷出久という一人の人間を中心に、崩れ始めていた。

 

「……最悪だ」

 

デスは立ち上がった。

 

「このままでは、誰も死ねなくなる」

 

そして、死神は初めて、自分自身に問いかけた。

 

死ぬことのできない世界は、本当に救済なのだろうか。

 

10 世界が選んだ子供

出久は、音のない世界に立っていた。

 

轟はいない。

 

相澤もいない。

 

弟の声も、今は聞こえなかった。

 

ただ、無数の扉だけが、彼を取り囲んでいる。

 

そして、そのすべてが、ゆっくりと閉じ始めていた。

 

「……待ってくれ」

 

出久は、近くの扉に手を伸ばした。

 

《緑谷出久》

 

そこには、見知らぬ世界の記録が刻まれている。

 

《出生:確認》

 

《個性:確認》

 

《家族:存在》

 

《友人:存在》

 

《ヒーロー活動:継続》

 

その下に、赤い文字が浮かび上がった。

 

《世界線:統合対象》

 

扉が閉じる。

 

向こう側にいた誰かが、出久に手を伸ばした。

 

「待って!」

 

出久は叫んだ。

 

「君は、そこにいるんだろう! だったら――!」

 

扉が閉じた。

 

手が消えた。

 

記録が消えた。

 

そこに誰かがいたという痕跡さえ、残らなかった。

 

出久は、歯を食いしばった。

 

「……こんなの、間違ってる」

 

「そうだね」

 

背後から声がした。

 

第一候補の少年が立っていた。

 

「間違っている」

 

彼は、閉じていく扉を見つめた。

 

「でも、世界は間違いを認めない」

 

「君は……それでいいのか?」

 

「よくないよ」

 

少年は答えた。

 

「だから、僕は生まれる」

 

「誰かを消してまで?」

 

「僕だって、そんなことをしたいわけじゃない」

 

少年の声が、初めて荒れた。

 

「僕だって、こんな方法を選びたくなかった!」

 

彼は、出久の胸ぐらをつかんだ。

 

「君には分からないだろう!」

 

出久は、抵抗しなかった。

 

「何も知らずに生まれて、母親に名前を呼ばれて、誰かに手を差し伸べてもらって! 失敗しても、間違っても、次があると思って生きてきた君には!」

 

少年の手が震えていた。

 

「僕には、次がなかったんだ」

 

声がかすれた。

 

「一度も」

 

出久は、少年の手首にそっと触れた。

 

「……ごめん」

 

少年の表情が歪んだ。

 

「謝らないでくれ」

 

「でも……」

 

「謝られたら、僕は君を憎めなくなる」

 

その言葉は、悲鳴に近かった。

 

「君を憎めなくなったら、僕は何をすればいい?」

 

出久は、答えられなかった。

 

少年は手を離した。

 

「僕は、君になりたいんじゃない」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「緑谷出久として生きたいんだ」

 

無数の扉が、次々と閉じていく。

 

「僕自身の人生を持ちたい。自分の名前を呼んでほしい。自分の好きなものを見つけて、自分の嫌いなものを嫌いだと言いたい」

 

彼は、出久を見た。

 

「生まれてきたことを、誰かに謝りながら生きるんじゃなくて」

 

その目から、涙が落ちた。

 

「生まれてきてよかったって、一度でいいから思いたいんだ」

 

出久は、目を伏せた。

 

それは、あまりにも切実な願いだった。

 

世界を滅ぼすことでもない。

 

誰かを支配することでもない。

 

ただ、生きてみたい。

 

自分自身の人生を。

 

その願いを、出久は否定できなかった。

 

否定したくなかった。

 

「……君が生まれる方法を、一緒に探そう」

 

少年は、ゆっくりと首を振った。

 

「もう、遅い」

 

「そんなことは――」

 

「見て」

 

少年が指さした先。

 

巨大な光が、脈打っていた。

 

その光から、無数の糸が伸びている。

 

糸は、扉へとつながっていた。

 

そして、扉が閉じるたびに、一本ずつ切れていく。

 

世界の記録が消えているのではない。

 

世界を成立させていた可能性そのものが、切り離されているのだ。

 

出久は息を呑んだ。

 

「これが……世界の再構築?」

 

「違う」

 

少年は言った。

 

「これは、選別だ」

 

光の中心に、文字が浮かび上がった。

 

《存在優先順位:確定処理》

 

《第一候補:最初に生まれた緑谷出久》

 

《第二候補:現在の緑谷出久》

 

《優先対象を選択してください》

 

出久は、光を睨んだ。

 

「選択してください、だって……?」

 

笑いが漏れた。

 

怒りの混じった、乾いた笑いだった。

 

「何を、偉そうに」

 

少年が出久を見た。

 

「……緑谷?」

 

「僕たちを、勝手に候補にするな」

 

出久は、光へ歩き出した。

 

「僕たちは、選ばれるために生まれてきたんじゃない」

 

一歩。

 

「誰かに認められるためだけに、生きているんじゃない」

 

二歩。

 

「僕たちが生きてきた時間は、順位なんかじゃ測れない!」

 

三歩。

 

光が激しく明滅した。

 

《警告》

 

《第二候補が選択処理を拒否》

 

《存在の安定性が低下》

 

《選択を再要求します》

 

「何度でも言う!」

 

出久は叫んだ。

 

「僕は、選ばない!」

 

少年が目を見開いた。

 

「君は……!」

 

「君を消して、僕が生き残るなんて、そんなことはしない!」

 

出久は振り返った。

 

「でも、君に僕を消させるつもりもない!」

 

少年の唇が震えた。

 

「……どうして」

 

「君が生きたいからだ」

 

出久は、はっきりと答えた。

 

「僕だって、生きたい。君だって、生きたい。だったら、どうしてどちらかが消えることを、最初から決まりにしなきゃいけないんだ!」

 

光が、轟音を上げた。

 

無数の扉が、同時に閉じた。

 

そして、すべての文字が、一つの記録へと収束していく。

 

《存在優先順位:確定》

 

出久は、光を見た。

 

少年も、光を見た。

 

二人の顔に、同じ恐怖が浮かんだ。

 

《第一候補:最初に生まれた緑谷出久》

 

《存在:承認》

 

《出生:承認》

 

《第二候補:現在の緑谷出久》

 

《存在:不確定》

 

《出生:記録再検証中》

 

「……そんな」

 

出久の身体が、透け始めた。

 

指先から。

 

手首へ。

 

腕へ。

 

自分の身体が、世界から切り離されていく。

 

少年は、呆然と立ち尽くしていた。

 

「僕は……」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

その手は、確かな輪郭を持っていた。

 

傷痕もある。

 

指先の震えもある。

 

体温もある。

 

「僕が……選ばれた?」

 

その声は、喜びに満ちてはいなかった。

 

むしろ、怯えていた。

 

「違う……」

 

少年は、首を振った。

 

「僕は、こんなことを望んでいない」

 

出久は、彼を見つめた。

 

身体が消えていく。

 

けれど、目はまだ見えていた。

 

「……なら」

 

出久は、かすれる声で言った。

 

「君が、決めてくれ」

 

少年が顔を上げる。

 

「君は、生きたいんだろう?」

 

「……」

 

「だったら、生きてほしい」

 

出久は笑おうとした。

 

うまく笑えなかった。

 

「でも、僕の人生を奪うことで生きるのなら……そのことから、目をそらさないでほしい」

 

少年の頬を、涙が伝った。

 

「君は……本当に、僕と似ているんだな」

 

「……そうかもしれない」

 

「だから、嫌いなんだ」

 

「うん」

 

「だから……」

 

少年は、出久に手を伸ばした。

 

「だから、君を忘れたくない」

 

指先が触れた。

 

その瞬間。

 

世界が、完全に白くなった。

 

11 お兄ちゃん

最初に消えたのは、音だった。

 

出久は、自分の声が聞こえなくなったことに気づいた。

 

次に、色が消えた。

 

赤も、青も、緑も。

 

轟の炎も。

 

弟の手の温もりも。

 

第一候補の少年の顔も。

 

すべてが、白に溶けていく。

 

そして、最後に、記憶が揺らぎ始めた。

 

母の笑顔。

 

雄英の教室。

 

オールマイトの大きな手。

 

爆豪の怒鳴り声。

 

轟の不器用な優しさ。

 

お茶子の笑顔。

 

相澤の厳しい声。

 

一つずつ、遠ざかっていく。

 

「……やめろ」

 

出久は呟いた。

 

声は聞こえなかった。

 

それでも、彼は繰り返した。

 

「やめろ……」

 

思い出が消えていく。

 

自分が誰なのか。

 

誰を好きだったのか。

 

何のために戦ってきたのか。

 

何を守りたかったのか。

 

それらが、少しずつ分からなくなる。

 

自分は、誰なのだろう。

 

緑谷出久。

 

その名前を、誰が呼んでくれたのだろう。

 

自分は、本当に生まれたのだろうか。

 

それとも、誰かの代わりに作られた存在だったのだろうか。

 

――君が生まれなければ、僕が助かる。

 

誰かの声が聞こえた。

 

出久は、顔を上げた。

 

白い世界の向こうに、小さな影があった。

 

子供。

 

小さな手。

 

大きな瞳。

 

名前のない弟。

 

「……君?」

 

出久は手を伸ばした。

 

子供も、手を伸ばした。

 

だが、二人の間には、透明な壁があった。

 

出久の指先が、壁に触れる。

 

子供は、首を振った。

 

何かを伝えようとしている。

 

声は聞こえない。

 

それでも、出久は唇の動きを読んだ。

 

――お兄ちゃん。

 

出久の目から、涙がこぼれた。

 

「……そうだ」

 

声が戻った。

 

ほんの少しだけ。

 

「僕は……」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「僕は、緑谷出久だ」

 

白い世界が揺れた。

 

「僕は、生まれてきた」

 

記憶が、次々と消えていく。

 

それでも、出久は言葉を続けた。

 

「僕は、みんなと出会った」

 

オールマイト。

 

爆豪。

 

轟。

 

お茶子。

 

相澤。

 

名前を呼ぶたび、記憶が一つずつ、胸の奥で光った。

 

「僕は、誰かを助けたいと思った」

 

彼は、泣きながら笑った。

 

「そして……」

 

子供の手に、自分の手を重ねる。

 

「君に、出会った」

 

透明な壁に、ひびが入った。

 

子供の瞳が見開かれる。

 

「生まれる前に、君に出会ったんだ」

 

その瞬間。

 

世界が、音を取り戻した。

 

子供の声が、はっきりと聞こえた。

 

「お兄ちゃん!」

 

出久は、手を伸ばした。

 

「待って!」

 

「お兄ちゃん!」

 

「君の名前を、まだ聞いていない!」

 

ひびが広がる。

 

「君が、何を好きなのかも!」

 

透明な壁が砕け始める。

 

「君が、どんな人生を生きたいのかも!」

 

子供の手が、出久の手を握った。

 

「だから、もう少しだけ……!」

 

世界が崩壊した。

 

白い光が、すべてを呑み込む。

 

出久の意識が、途切れた。

 

最後に聞こえたのは、あの子の声だった。

 

「お兄ちゃん」

 

その声は、もう泣いていなかった。

 

「今度は、僕が見つけるから」

 

12 世界から消えた英雄

世界は、静かになった。

 

あまりにも静かだった。

 

崩壊しかけていた都市の一角。

 

戦闘の痕跡が残る道路。

 

燃えた建物。

 

砕けた窓。

 

そこに、一人の少女が立っていた。

 

麗日お茶子。

 

彼女は、空を見上げていた。

 

「……出久くん?」

 

誰も答えなかった。

 

お茶子は、端末を見た。

 

緑谷出久。

 

雄英高校の生徒。

 

プロヒーロー。

 

数え切れないほどの戦いを経験し、世界を救ってきた少年。

 

その名前が、画面から消えていた。

 

最初は、ただのエラーだと思った。

 

端末を再起動する。

 

検索する。

 

データベースに接続する。

 

何度試しても、結果は同じだった。

 

《該当する人物は存在しません》

 

「……嘘」

 

お茶子は、端末を握りしめた。

 

「嘘や……」

 

彼女は、震える指で別の名前を検索した。

 

《轟焦凍》

 

結果は、正常だった。

 

《相澤消太》

 

正常。

 

《爆豪勝己》

 

正常。

 

《緑谷出久》

 

《該当する人物は存在しません》

 

「……なんで」

 

お茶子の目に、涙が浮かんだ。

 

「なんで、出久くんだけ……」

 

彼女は周囲を見渡した。

 

そこには、出久が戦った痕跡が残っている。

 

彼が救った人々がいる。

 

彼が守った街がある。

 

彼が立っていた場所がある。

 

それなのに。

 

彼だけがいない。

 

「……うち、覚えてる」

 

お茶子は呟いた。

 

「うちは、出久くんを覚えてるよ」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、何かが引っかかった。

 

出久。

 

緑谷出久。

 

その名前を知っている。

 

知っているはずなのに。

 

誰だったのか。

 

どんな顔だったのか。

 

どんな声だったのか。

 

何を一緒に経験したのか。

 

そのすべてが、少しずつ曖昧になっていく。

 

お茶子は、慌てて端末を開いた。

 

写真を探す。

 

動画を探す。

 

メッセージを探す。

 

どこにも、出久はいなかった。

 

写真には、彼がいたはずの場所だけが空いている。

 

動画には、彼が話していたはずの時間だけが無音で残っている。

 

メッセージには、彼が送ったはずの文章だけが、空白になっている。

 

「……そんな」

 

お茶子は、膝をついた。

 

「そんなの、あかんよ……」

 

世界が、出久を忘れようとしている。

 

そして、自分自身も。

 

少しずつ。

 

少しずつ。

 

出久の存在を、思い出せなくなっている。

 

「いや……」

 

彼女は、自分の頭を抱えた。

 

「いやだ……!」

 

涙がこぼれた。

 

何を失おうとしているのか、分からない。

 

けれど、何か大切なものが消えようとしている。

 

それだけは、分かった。

 

お茶子は、胸元を握りしめた。

 

「お願い……」

 

誰に向けた言葉なのか、分からない。

 

世界か。

 

神か。

 

それとも、もう思い出せなくなりつつある誰かか。

 

「誰か……覚えてて……」

 

そのとき。

 

彼女の耳元で、声がした。

 

「――麗日」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

聞き覚えのある声。

 

厳しくて、少し疲れていて、それでも決して諦めない声。

 

「……先生?」

 

『聞こえるか』

 

相澤消太だった。

 

『今すぐ、そこを動くな』

 

「先生……出久くんが……」

 

『分かっている』

 

その声は、ひどく低かった。

 

『俺も、緑谷を知っている』

 

お茶子の目から、涙が溢れた。

 

「先生も……覚えてるんですか?」

 

『ああ』

 

通信機の向こうで、相澤が息を吐く。

 

『だが、俺も少しずつ記憶を失っている』

 

お茶子は、端末を握りしめた。

 

『緑谷が誰だったのか。何をしたのか。どんな顔をしていたのか。それらが、少しずつ消えていく』

 

「……そんな」

 

『だから、時間がない』

 

相澤の声が鋭くなった。

 

『麗日。お前は、緑谷と何を約束した?』

 

お茶子は、答えようとした。

 

けれど、言葉が出なかった。

 

約束。

 

何かを約束した。

 

誰かと。

 

とても大切な誰かと。

 

「……うち、は……」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

そこには、何もない。

 

けれど、手のひらに、温かな感触が残っていた。

 

小さな手。

 

名前のない子供。

 

生まれる前に死んだと記録された、あの子。

 

そして、もう一人。

 

いつも自分の前を走っていた少年。

 

「……覚えてる」

 

お茶子は、涙を拭った。

 

「うちは、まだ覚えてる」

 

『なら、記録しろ』

 

「はい」

 

『何があっても、書き残せ。声に出せ。誰かに伝えろ。世界が記録を書き換えるなら、記録以外の方法で残せ』

 

相澤は、静かに言った。

 

『俺たちが忘れても、誰かが覚えていられるように』

 

お茶子は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……分かりました」

 

彼女は、壊れた端末を拾い上げた。

 

もう一度、録音を開始する。

 

「私は、麗日お茶子です」

 

声が震える。

 

それでも、続けた。

 

「私は、緑谷出久という人を知っています」

 

涙がこぼれる。

 

「その人は……」

 

言葉が止まった。

 

どんな顔だっただろう。

 

どんな声だっただろう。

 

何をしてくれたのだろう。

 

思い出そうとするほど、記憶が遠ざかる。

 

お茶子は、目を閉じた。

 

そして、胸の奥に残っていたものを、言葉にした。

 

「その人は、誰かが苦しんでいると、放っておけない人でした」

 

声が戻る。

 

「自分が傷ついても、誰かを助けようとする人でした」

 

彼女は、笑った。

 

涙を流しながら。

 

「だから、うちは……その人に、ちゃんと帰ってきてほしいんです」

 

録音端末が、電子音を鳴らした。

 

《記録を保存しました》

 

今回は、削除されなかった。

 

だが、画面の隅には、小さな文字が浮かんでいた。

 

《記録の改竄を試行中》

 

お茶子は、その表示を見つめた。

 

そして、端末を胸に抱いた。

 

「……何度でも、やるよ」

 

彼女は、空を見上げた。

 

「何度でも、思い出す」

 

その声は、まだ震えていた。

 

けれど、もう泣いてはいなかった。

 

「出久くんが帰ってくるまで」

 

遠くで、誰かが叫んだ。

 

「緑谷って、誰だ?」

 

その声を聞いた瞬間、お茶子の胸が痛んだ。

 

世界は、忘れ始めている。

 

それでも。

 

彼女は、忘れない。

 

13 消えた名前、残された怒り

轟焦凍は、目を覚ました。

 

白い天井。

 

消毒液の匂い。

 

遠くから聞こえる、医療機器の電子音。

 

病院だ。

 

そう認識した瞬間、彼は身体を起こした。

 

「……緑谷!」

 

声が掠れた。

 

誰も答えない。

 

轟は、ベッドから降りようとした。

 

「動くな!」

 

看護師が駆け寄ってくる。

 

「まだ安静に――」

 

「緑谷はどこだ!」

 

看護師は、困惑した顔をした。

 

「……どなたですか?」

 

轟の動きが止まった。

 

「……何?」

 

「緑谷、という方ですか?」

 

彼女は端末を確認した。

 

「患者記録には、その名前はありませんが……」

 

轟は、看護師の手を振り払った。

 

壁のモニターを見る。

 

ニュースが流れている。

 

《東京湾岸地区で発生した大規模異常現象について、政府は現在も調査を続けています》

 

画面には、崩壊した街が映っていた。

 

そこには、見覚えのある建物がある。

 

出久と共に戦った場所。

 

出久が助けた人々が避難していた場所。

 

轟は、画面に近づいた。

 

「……緑谷」

 

その名前を口にした瞬間、頭の奥が痛んだ。

 

何かが消えようとしている。

 

思い出そうとするほど、記憶がぼやける。

 

顔。

 

声。

 

手の温度。

 

一緒に戦った時間。

 

全部、消えていく。

 

「……ふざけるな」

 

轟は、拳を握りしめた。

 

彼は知っていた。

 

誰かに選ばれることが、どれほど恐ろしいか。

 

誰かの望みを背負わされることが、どれほど苦しいか。

 

そして、選ばれなかった誰かが、どれほど深く傷つくのか。

 

だからこそ。

 

「……勝手に決めるな」

 

轟の右手から、氷が広がった。

 

床を覆い、壁を走り、窓を白く染める。

 

看護師たちが悲鳴を上げた。

 

「轟さん!」

 

「誰が決めた!」

 

轟は叫んだ。

 

「誰が、緑谷を消していいって決めたんだ!」

 

その声に、何かが応えた。

 

病室のモニターが、一斉に点滅する。

 

画面に、文字が浮かんだ。

 

《緑谷出久:存在未確定》

 

轟は、目を見開いた。

 

「……そこにいるのか」

 

文字が変わる。

 

《第一候補:最初に生まれた緑谷出久》

 

《第二候補:現在の緑谷出久》

 

《選択処理:完了》

 

轟は、モニターに手を伸ばした。

 

「ふざけるな……!」

 

拳が画面を砕いた。

 

破片が床に散る。

 

それでも、文字は消えなかった。

 

砕けたガラスの向こうで、文字が浮かび続ける。

 

《存在未確定》

 

轟は、息を吸った。

 

吐いた。

 

そして、静かに言った。

 

「……俺は、覚えている」

 

誰も答えない。

 

「緑谷が、ここにいたことを」

 

彼は、拳を握りしめた。

 

「お前が、どこにいようと」

 

氷が、足元から広がった。

 

「俺は、お前を探す」

 

そのとき。

 

病室の扉が開いた。

 

爆豪勝己が立っていた。

 

顔には、怒りが浮かんでいる。

 

「……おい」

 

轟は振り返った。

 

「爆豪……」

 

「てめえ、何をしてやがる」

 

爆豪は、砕けたモニターを見た。

 

「病院を凍らせて、何のつもりだ」

 

「……緑谷が消えた」

 

轟は言った。

 

爆豪の表情が、一瞬だけ止まった。

 

「……誰が?」

 

「緑谷だ」

 

「……」

 

爆豪は黙っていた。

 

長い沈黙。

 

やがて、彼は顔を歪めた。

 

「……クソが」

 

爆豪は、壁を殴った。

 

拳が壁にめり込む。

 

「クソが、クソが、クソが……!」

 

彼は頭を抱えた。

 

「何だよ、それ……」

 

声が震えていた。

 

「誰だよ、緑谷って……」

 

轟は、息を呑んだ。

 

爆豪の目に、涙が浮かんでいた。

 

「……俺は、あいつを知ってる」

 

爆豪は呟いた。

 

「知ってるはずなんだ」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「ずっと……ずっと、知ってたはずなのに……」

 

拳を握りしめる。

 

「何で、思い出せねえんだよ……!」

 

轟は、爆豪の肩に手を置いた。

 

「……一緒に探そう」

 

爆豪は顔を上げた。

 

「……あ?」

 

「俺たちは、覚えている」

 

轟は言った。

 

「全部は思い出せなくても、緑谷がいたことは分かる」

 

爆豪は、しばらく轟を見つめた。

 

そして、歯を剥いた。

 

「当たり前だろうが……!」

 

彼は立ち上がった。

 

「誰が、あいつを忘れるかよ!」

 

爆豪の掌で、爆発が弾けた。

 

「ぶっ殺してやる……!」

 

轟は、彼を見た。

 

「誰を?」

 

爆豪は、答えなかった。

 

自分でも、分からなかったのだ。

 

世界か。

 

運命か。

 

第一候補の緑谷出久か。

 

それとも、緑谷出久という存在を選別しようとした、名も知れぬ何者かか。

 

ただ一つだけ、確かなことがあった。

 

爆豪勝己は、怒っていた。

 

自分が誰かを忘れかけていることに。

 

誰かが、自分の大切なものを奪ったことに。

 

そして、その奪われたものが何なのかさえ、完全には思い出せないことに。

 

「……俺は、絶対に忘れねえ」

 

爆豪は言った。

 

「何があっても、絶対にだ」

 

轟はうなずいた。

 

二人は、同じ方向を見た。

 

そこには、何もなかった。

 

ただの壁。

 

ただの病院。

 

ただの世界。

 

だが、その向こうに、二人は確かに感じていた。

 

消えた少年の気配を。

 

緑谷出久の存在を。

 

そして、世界がまだ何かを隠しているという、不気味な確信を。

 

14 生まれる前に、君と出会った

出久は、暗闇の中にいた。

 

身体の感覚はない。

 

手も、足も、顔も。

 

自分が立っているのか、横たわっているのかさえ分からない。

 

ただ、意識だけが残っていた。

 

自分は誰なのか。

 

なぜ、ここにいるのか。

 

何をしていたのか。

 

思い出そうとすると、何かが引っかかる。

 

誰かの声。

 

誰かの手。

 

誰かの笑顔。

 

そして、名前。

 

「……緑谷」

 

出久は呟いた。

 

声が聞こえた。

 

自分の声だろうか。

 

それとも、誰かの声だろうか。

 

「緑谷出久……」

 

名前を繰り返す。

 

そのたびに、胸の奥が痛んだ。

 

何かを失った。

 

大切なものを。

 

絶対に忘れてはいけないものを。

 

けれど、それが何なのか、分からない。

 

「……僕は」

 

彼は、暗闇の中で問いかけた。

 

「僕は、誰なんだ?」

 

返事はなかった。

 

代わりに、遠くで、心臓の音が聞こえた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

小さな音。

 

生まれたばかりの命のような音。

 

出久は、その音へ意識を向けた。

 

すると、暗闇の向こうに、光が見えた。

 

小さな光。

 

手のひらに収まるほどの光。

 

その光の中に、子供がいた。

 

あの子だ。

 

名前のない弟。

 

生まれる前に死んだと記録された子供。

 

彼は、光の中で、出久を見つめていた。

 

「……お兄ちゃん」

 

その声を聞いた瞬間。

 

出久の中で、何かが戻ってきた。

 

温かい手。

 

白い膜。

 

無数の扉。

 

第一候補の少年。

 

世界が選んだ存在。

 

そして、自分が消えていく瞬間。

 

「……そうだ」

 

出久は、光へ手を伸ばした。

 

「僕は……」

 

声が震えた。

 

「僕は、君に会ったんだ」

 

子供は、笑った。

 

「うん」

 

「君は、生まれてみたいって言った」

 

「うん」

 

「僕は、君に、どうしたいのか聞いた」

 

「うん」

 

出久は、涙を流した。

 

「……僕は、君のことを、まだ何も知らない」

 

子供は、首を傾げた。

 

「そうだね」

 

「君の名前も、好きなものも、どんな人になりたいのかも……何も知らない」

 

「うん」

 

「だから、僕は……」

 

出久は、手を伸ばした。

 

「もう一度、君に会いたい」

 

子供は、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「僕も」

 

光が、ゆっくりと広がった。

 

その向こうに、扉が見えた。

 

一つではない。

 

無数の扉。

 

それぞれに、違う名前が刻まれている。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

そして、その中に一つだけ、名前のない扉があった。

 

子供は、その扉を指さした。

 

「……あそこ」

 

出久は、目を凝らした。

 

扉の表面には、文字が浮かび始めていた。

 

《出生許可:保留》

 

《個体名:未登録》

 

《死亡記録:あり》

 

《出生記録:なし》

 

そして、その下に。

 

《兄弟関係:未確定》

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……君の扉?」

 

子供は、うなずいた。

 

「僕の扉」

 

彼は、出久の手を握った。

 

「でも、まだ開かないんだ」

 

「どうして?」

 

「分からない」

 

子供は、正直に答えた。

 

「でも、誰かが、向こう側にいる」

 

「誰か……?」

 

子供は、扉を見つめた。

 

「僕を、生まれさせなかった人」

 

出久の背筋が、冷たくなった。

 

「……君を殺した人?」

 

「ううん」

 

子供は、首を振った。

 

「それより、もっと前」

 

彼は、小さな手で、自分の胸を押さえた。

 

「僕が生まれる前に、僕が生まれないことを決めた人」

 

出久は、言葉を失った。

 

それは、単純な殺人とは違う。

 

誰かが生まれる前に、その存在が生まれないよう決定した。

 

出生記録よりも前。

 

死の記録よりも前。

 

そもそも、その人間が存在する可能性を、世界から取り除こうとした者。

 

「……誰なんだ」

 

出久は問いかけた。

 

子供は首を振った。

 

「まだ、分からない」

 

「……」

 

「でも、僕は探す」

 

その声は、小さかった。

 

けれど、確かな意志があった。

 

「僕が、どうして生まれなかったのか」

 

彼は、出久を見上げた。

 

「お兄ちゃんも、一緒に探してくれる?」

 

出久は、笑った。

 

「もちろん」

 

その言葉を口にした瞬間、遠くで鐘が鳴った。

 

世界が、再び動き始めた。

 

無数の扉が、光を放つ。

 

そのすべてに、同じ文字が浮かび上がった。

 

《緑谷出久:存在未確定》

 

《再構築処理:継続》

 

《出生前領域:接続中》

 

出久は、子供の手を握った。

 

「……行こう」

 

「どこへ?」

 

「君の扉の向こうへ」

 

子供は、少しだけ不安そうな顔をした。

 

「怖いよ」

 

「うん」

 

「また、誰かがいなくなるかもしれない」

 

「うん」

 

「お兄ちゃんも、いなくなるかもしれない」

 

出久は、うなずいた。

 

「それでも、行くよ」

 

彼は、子供の手を握り直した。

 

「君が生まれる前に、僕たちは出会った」

 

一歩、踏み出す。

 

「だったら、今度は――」

 

二歩目。

 

「生まれた後の世界で、もう一度、出会おう」

 

子供は、涙を拭った。

 

そして、笑った。

 

「うん!」

 

二人は、扉へ向かって歩き出した。

 

その背後で、無数の世界が再び動き始める。

 

死者たちが目を覚ます。

 

生まれなかった者たちが、自分の存在を主張する。

 

自由を奪うことで救済を実現しようとする機械が、世界を覆い始める。

 

復讐を望む少年が、世界そのものに牙を剥く。

 

そして、対話を望む神は、初めて自分の知らない答えを前にしていた。

 

緑谷出久は、まだ知らない。

 

自分が消えたことで、世界の何が変わったのか。

 

自分を覚えている者たちが、どれほど必死に抗っているのか。

 

そして、自分と同じ顔をした少年が、何を選ぼうとしているのか。

 

ただ、一つだけ確かなことがあった。

 

出久は、誰かに選ばれるために生まれてきたのではない。

 

そして、誰かを消すことでしか生まれられない命があるのだとしたら。

 

その仕組みこそ、問い直さなければならない。

 

扉の前で、出久は足を止めた。

 

表面に、新しい文字が浮かび上がる。

 

《最初に生まれた緑谷出久》

 

その下に、別の文字。

 

《現在の緑谷出久》

 

そして、その二つの名前を結ぶ線が、ゆっくりと現れた。

 

線の先には、第三の名前があった。

 

《緑谷出久の母》

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……母さん?」

 

子供が、彼の手を握りしめた。

 

扉の向こうから、女の人の声が聞こえた。

 

懐かしい声。

 

優しい声。

 

何度も、自分の名前を呼んでくれた声。

 

『出久』

 

その声が、泣いていた。

 

『ごめんね』

 

扉が、ゆっくりと開き始めた。

 

『あのとき、私は――』

 

声が途切れた。

 

暗闇の向こうから、誰かがこちらを見ていた。

 

出久は、その顔を見ようとした。

 

けれど、光が強すぎて、何も見えない。

 

ただ、最後に。

 

母の声だけが、はっきりと聞こえた。

 

『あなたを、選んだのは……』

 

世界が、再び白く染まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。