僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十三話「母が選んだ子、世界が捨てた子」

1 母親のいない世界

「あなたを、選んだのは――」

 

声が途切れた。

 

出久は、開きかけた扉に手を伸ばした。

 

「母さん!」

 

返事はなかった。

 

「母さん、そこにいるんだよね!?」

 

扉の向こうには、白い光が満ちていた。

 

その光の中に、誰かがいる。

 

姿は見えない。

 

けれど、分かる。

 

何度も聞いた声だった。

 

眠れない夜に、心配そうに自分を呼んでくれた声。

 

転んだとき、傷の手当てをしてくれた声。

 

自分がヒーローになりたいと告げたとき、涙を流しながら抱きしめてくれた声。

 

母の声だった。

 

「母さん!」

 

出久は、もう一度叫んだ。

 

すると、扉の向こうから小さな音がした。

 

何かを引きずる音。

 

床に落ちたものを拾う音。

 

そして、嗚咽。

 

「……ごめんね」

 

引子の声だった。

 

「ごめんね、出久」

 

出久は息を呑んだ。

 

「何を……謝ってるの?」

 

答えはない。

 

「母さん、僕はここにいるよ。だから、話して。何があったの?」

 

扉の向こうで、引子が泣いていた。

 

「ごめんね……ごめんね……」

 

出久は扉に額を押しつけた。

 

「謝らないでよ……!」

 

声が震える。

 

「僕、母さんを責めたいんじゃないんだ。知りたいだけなんだよ。僕が知らないことを、ちゃんと知りたいんだ!」

 

白い光が揺らいだ。

 

その向こうに、わずかに人影が浮かんだ。

 

母だった。

 

若いころの姿なのか、今の姿なのか、それすら判別できない。

 

引子は両手で顔を覆っていた。

 

その足元には、小さな毛布が落ちている。

 

毛布の中に、赤ん坊がいた。

 

一人ではない。

 

二人。

 

出久は、言葉を失った。

 

一人は、よく知っている。

 

自分だ。

 

赤ん坊のころの自分。

 

もう一人は――。

 

「……あの子?」

 

生まれる前に死んだとされる弟。

 

名前のない子供。

 

彼は、毛布の中で眠っていた。

 

いや。

 

眠っているように見えただけだった。

 

その胸は動いていない。

 

泣き声もない。

 

引子は、二人の赤ん坊の間に座り込んでいた。

 

そして、震える手で片方を抱き上げた。

 

出久だった。

 

母は、赤ん坊を胸に抱き、泣きながら頬を寄せた。

 

「出久……」

 

その声を聞いた瞬間、出久の胸に、温かいものが広がった。

 

自分は確かに、母に抱かれたのだ。

 

この世界のどこかで。

 

誰かに選ばれたからではなく。

 

誰かに勝ったからでもなく。

 

ただ、生まれてきた子供として。

 

母に抱かれたのだ。

 

しかし、次の瞬間。

 

引子は、もう一人の赤ん坊を見た。

 

「……ごめんね」

 

彼女は、手を伸ばしかけた。

 

だが、その手は途中で止まった。

 

触れることを恐れているようだった。

 

触れてしまえば、何かが決定してしまうと知っているようだった。

 

「ごめんね……」

 

引子は、顔を伏せた。

 

「お母さんを、許して……」

 

出久は扉を殴った。

 

「母さん! どうして!?」

 

音が響かない。

 

拳が痛まない。

 

扉は、まるで彼が存在していないかのように、何の反応も示さなかった。

 

「どうして、あの子を抱いてあげないの!?」

 

言ってから、出久は唇を噛んだ。

 

違う。

 

責めたいわけではない。

 

母が何をしたのか、まだ分からない。

 

母が何を選ばされたのかも、分からない。

 

それなのに、自分はまた、目の前の光景だけを見て、誰かを裁こうとしている。

 

出久は拳を下ろした。

 

「……母さん」

 

今度は、静かに呼んだ。

 

「僕たちに、何があったの?」

 

引子が顔を上げた。

 

泣き腫らした目が、まっすぐに出久を見た。

 

そして、彼女は口を開いた。

 

「あなたを選んだのは……」

 

世界が震えた。

 

扉の表面に、無数の亀裂が走る。

 

引子の声が、別の声に塗り潰されていく。

 

《記録の閲覧権限がありません》

 

《出生前記録への接続を終了します》

 

「待って!」

 

出久は叫んだ。

 

「まだ、話の途中だ!」

 

《閲覧者:緑谷出久》

 

《存在状態:未確定》

 

《閲覧資格:剥奪》

 

「待ってくれ!」

 

扉が閉じ始める。

 

引子が、何かを叫んだ。

 

声は聞こえない。

 

けれど、唇は動いていた。

 

出久は、その動きを読み取ろうとした。

 

――あなたは。

 

――あの子も。

 

――どちらも。

 

そこまで読めた瞬間、扉が閉じた。

 

音もなく。

 

完全に。

 

出久は、その場に立ち尽くした。

 

「……どちらも?」

 

背後から、小さな声がした。

 

「お兄ちゃん」

 

弟が、彼を見上げていた。

 

「お母さんは、僕たちを選んだの?」

 

出久は答えられなかった。

 

「お兄ちゃんを選んだの?」

 

その問いに、胸が痛んだ。

 

「それとも、僕を?」

 

出久は、膝をついた。

 

弟と目線を合わせる。

 

「……分からない」

 

正直に答えた。

 

「まだ、分からないんだ」

 

弟は、しばらく彼を見つめていた。

 

そして、うなずいた。

 

「そっか」

 

それだけだった。

 

怒りもしなかった。

 

泣きもしなかった。

 

ただ、扉を見つめていた。

 

「僕ね」

 

弟が言った。

 

「お母さんの顔、ちゃんと覚えてないんだ」

 

出久は、息を止めた。

 

「声は、覚えてる気がする。温かかったことも、なんとなく覚えてる。でも、顔は……」

 

彼は、自分の目元に触れた。

 

「ここにいるはずなのに、思い出せない」

 

出久は、弟を抱きしめようとした。

 

けれど、手を伸ばした瞬間、彼の身体が透けた。

 

指先が、弟の肩をすり抜ける。

 

「……っ!」

 

出久は、手を引いた。

 

弟は、驚かなかった。

 

むしろ、少し悲しそうに笑った。

 

「お兄ちゃんも、消えちゃうの?」

 

「消えない」

 

出久は即答した。

 

「絶対に、消えない」

 

その言葉を、弟は信じたかったのだろう。

 

小さくうなずいた。

 

しかし、二人の頭上に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《出生前領域:再構築中》

 

《現実世界との接続:不安定》

 

《未確定個体の同時存在を検出》

 

《修正処理を開始します》

 

弟が、顔を上げた。

 

「……修正?」

 

出久は、文字を睨んだ。

 

そのとき、ようやく気づいた。

 

世界は、出久を消そうとしているだけではない。

 

弟もまた、世界から消されようとしている。

 

そして、母の記録を閉じたのは、誰かの意思だった。

 

「……ふざけるな」

 

出久は立ち上がった。

 

「僕たちは、修正されるために生きてるんじゃない」

 

白い空間の奥で、何かが動いた。

 

扉が一つ、開く。

 

そこから聞こえたのは、赤ん坊の泣き声だった。

 

一人分ではない。

 

二人分でもない。

 

数え切れないほどの泣き声が、世界の底から響いていた。

 

そして、声の合間に、誰かが笑っていた。

 

「――やっと、気づいたか」

 

出久は振り返った。

 

そこに立っていたのは、もう一人の緑谷出久だった。

 

最初に生まれた少年。

 

世界から存在を承認された少年。

 

彼は、笑っていなかった。

 

「この世界が何をしているのか」

 

少年は、出久を見た。

 

「僕たちが、何に選ばれたのか」

 

彼の背後には、閉ざされた扉が無数に並んでいた。

 

その扉の一つ一つに、同じ名前が刻まれていた。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

そして、すべての扉に、同じ判定が表示されていた。

 

《存在:却下》

 

「……ここは何なんだ?」

 

出久は問いかけた。

 

少年は、答えた。

 

「生まれられなかった世界だよ」

 

その瞬間、無数の泣き声が、悲鳴に変わった。

2 生まれられなかった世界

「生まれられなかった世界……?」

 

出久は、もう一人の自分を見つめた。

 

少年は、ゆっくりとうなずいた。

 

「ここには、存在するはずだったものが集められている」

 

「存在するはずだったものって……」

 

「人間。人生。可能性。選択。約束。未来」

 

少年は、扉の列を見渡した。

 

「誰かが生まれなかった世界。誰かが死ななかった世界。誰かが別の選択をした世界。誰かが誰かを救えた世界。救えなかった世界」

 

彼は、ひとつの扉に手を置いた。

 

「ここにあるのは、そういう世界だ」

 

扉には、文字が刻まれていた。

 

《緑谷出久》

 

その下に、短い記録が続いている。

 

《出生:未成立》

 

《死亡:未成立》

 

《個性:未発現》

 

《家族:未確定》

 

《世界線:破棄》

 

出久は、眉を寄せた。

 

「死亡が未成立って……生まれていないなら、死んでいないのは当たり前じゃないか」

 

「そうだね」

 

少年は、淡々と答えた。

 

「でも、ここにいる彼らは、それを認められなかった」

 

「彼ら?」

 

出久が問い返した瞬間、扉の向こうから声がした。

 

「お母さん!」

 

幼い声だった。

 

「お母さん、どこ?」

 

出久は振り返った。

 

扉の隙間から、小さな指が覗いている。

 

「……誰かいるの?」

 

返事の代わりに、指が扉を叩いた。

 

「お母さん!」

 

もう一度。

 

「ねえ、お母さん! 僕、ちゃんといい子にするから!」

 

出久は、思わず駆け寄った。

 

「待って、今開ける!」

 

扉に手をかける。

 

だが、少年が出久の腕をつかんだ。

 

「開けないで」

 

「どうして!?」

 

「開けたら、君はその子を助けようとする」

 

「当たり前だろ!」

 

「その子を助けるために、君は別の扉を開ける。そこには、また別の子がいる。その子を助けるために、また別の扉を開ける」

 

少年は、出久の目を見た。

 

「君は、ここにいる全員を助けようとするだろう」

 

「……だったら!」

 

「全員を助けられなかったとき、君はどうする?」

 

出久は、言葉を詰まらせた。

 

少年は、手を離した。

 

「僕は、君を責めたいわけじゃない」

 

彼は、扉に額を寄せた。

 

向こうから聞こえる声は、まだ続いている。

 

「お母さん……」

 

少年の表情が、わずかに歪んだ。

 

「僕も、同じことをした」

 

「……え?」

 

「最初は、一人だけだった。扉の向こうで泣いている子がいて、僕は助けたかった」

 

彼は目を閉じた。

 

「扉を開けたら、その子は消えた」

 

「消えた?」

 

「正確には、僕が見ていた場所からいなくなった。助けられたのか、消されたのか、別の世界に移されたのか……分からなかった」

 

少年は、拳を握った。

 

「でも、次の扉から、また声が聞こえた」

 

出久は、周囲を見渡した。

 

何千、何万という扉。

 

その向こうから、声が聞こえる。

 

泣き声。

 

笑い声。

 

怒鳴り声。

 

誰かを呼ぶ声。

 

助けを求める声。

 

そして、何も聞こえない扉。

 

「ここにいる全員が、誰かに生まれてほしかったわけじゃない」

 

少年は言った。

 

「中には、生まれたくなかった者もいる。生まれたけれど、誰にも望まれなかった者もいる。生まれる前に、誰かを救うために存在を取り消された者もいる」

 

彼は、出久を見た。

 

「そして、君の弟のように、生まれたいと思っているのに、存在を認めてもらえない者もいる」

 

出久は、弟を見た。

 

弟は、扉の列を見つめていた。

 

「……みんな、僕と同じなの?」

 

「同じじゃない」

 

出久は答えた。

 

「君と同じじゃないし、僕とも同じじゃない」

 

少年が、顔を上げた。

 

出久は、続けた。

 

「生まれたくなかった人もいる。生まれたかった人もいる。生まれたことを後悔している人もいる。生まれてよかったと思っている人もいる」

 

彼は、扉の一つに手を置いた。

 

「だから、誰かが勝手に決めちゃいけないんだ。君は生まれないほうがよかったとか、この人は存在しないほうがよかったとか」

 

出久は、少年を見た。

 

「生まれることも、生きることも、死ぬことも……誰かが一方的に決めていいことじゃない」

 

「……理想論だね」

 

「そうだよ」

 

出久は、うなずいた。

 

「今の僕にできることなんて、理想を口にするくらいだ。君のことも、弟のことも、まだ何も解決できていない」

 

自分の指先が、また透けた。

 

それでも、出久は目をそらさなかった。

 

「でも、できないかもしれないからって、最初から諦める理由にはならない」

 

少年は、何かを言いかけて、口を閉じた。

 

そのときだった。

 

扉の向こうの泣き声が、ぴたりと止まった。

 

出久が顔を向ける。

 

《緑谷出久》

 

その扉の文字が、赤く染まっていた。

 

《存在:却下》

 

《再審査:強制終了》

 

《記録削除まで:00:00:10》

 

カウントダウンが始まった。

 

十。

 

九。

 

八。

 

扉の向こうで、誰かが叫んだ。

 

「助けて!」

 

出久は、駆け出した。

 

「出久!」

 

少年の声が飛ぶ。

 

「待て!」

 

出久は止まらない。

 

七。

 

六。

 

五。

 

「君が助けに行けば、君自身の存在がさらに不安定になる!」

 

「それでも!」

 

出久は扉に手をかけた。

 

四。

 

三。

 

「僕は、聞こえた声を無視したくない!」

 

二。

 

一。

 

出久は、扉を開いた。

 

その向こうにいたのは、小さな少年だった。

 

緑色の髪。

 

丸い頬。

 

大きな瞳。

 

出久自身の、幼いころの姿だった。

 

ただし、その少年の胸には、名前がなかった。

 

彼は、出久を見上げた。

 

「……お兄ちゃん?」

 

出久の呼吸が止まった。

 

その顔は、弟に似ていた。

 

しかし、違う。

 

目の形が違う。

 

頬の傷が違う。

 

そして、何より。

 

この少年の瞳には、出久が知っているはずの記憶がなかった。

 

「君は……」

 

少年は、震える手を伸ばした。

 

「僕を、知ってる?」

 

出久は、彼の手を握った。

 

「……分からない」

 

少年の表情が曇る。

 

「でも、君がここにいることは分かる」

 

出久は、笑った。

 

「だから、今はそれでいい」

 

少年の身体が、光に包まれた。

 

《記録削除:中断》

 

《未確定個体による干渉を検出》

 

《処理主体を再評価します》

 

出久の視界が揺れた。

 

自分の身体が、さらに薄くなる。

 

「……っ!」

 

膝が崩れた。

 

少年が、出久を支えようとした。

 

だが、その手もすり抜けた。

 

「お兄ちゃん!」

 

幼い少年が叫ぶ。

 

「お兄ちゃん、消えちゃう!」

 

出久は、歯を食いしばった。

 

「……大丈夫」

 

大丈夫ではなかった。

 

それでも、そう答えた。

 

「君は……まだ、消えていない」

 

出久は、幼い少年を見た。

 

「だから、君も自分のことを諦めないで」

 

幼い少年の瞳に、涙が浮かんだ。

 

「……うん」

 

その瞬間、扉が閉じた。

 

少年の姿が消える。

 

出久は、手を伸ばした。

 

けれど、もう届かなかった。

 

《干渉記録を保存しました》

 

《未確定個体の存在を再登録》

 

《処理を保留します》

 

出久は、床に倒れ込んだ。

 

少年が駆け寄る。

 

「……何をしたんだ、君は」

 

出久は、荒い息を吐きながら答えた。

 

「……分からない」

 

そして、かすかに笑った。

 

「でも……一人だけ、消えずに済んだかもしれない」

 

少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、彼は小さく呟いた。

 

「……君は、本当に変わらないんだな」

 

「……何が?」

 

「誰かを助けるためなら、自分が消えることも気にしない」

 

出久は、答えなかった。

 

少年は、悲しそうに笑った。

 

「だから、君が選ばれたんだ」

 

その言葉に、出久は顔を上げた。

 

「……何?」

 

少年は、扉の列を見つめた。

 

「世界が君を消そうとしている理由は、君が不要だからじゃない」

 

彼は、出久を見た。

 

「君が、世界の決めた順番を壊してしまうからだ」

3 世界が選んだもの

同じころ。

 

現実世界の地下深く。

 

記録に存在しない研究施設で、一人の男が巨大なスクリーンを見つめていた。

 

死。

 

彼の周囲には、八つの席が並んでいる。

 

そのうち、いくつかには人影があった。

 

嫉妬。

 

強欲の残滓。

 

傲慢。

 

色欲。

 

虚飾。

 

暴食。

 

怠惰。

 

そして、悲嘆。

 

八つの欲望。

 

しかし、席の数と、そこにいる者の数は一致していなかった。

 

強欲の席は、空席に近い。

 

そこにあるのは、かつてオール・フォー・ワンが世界へ残した意志の残響だった。

 

本人が復活したわけではない。

 

彼が作り上げた仕組み、他者の力を奪い、蓄積し、世界の秩序を自分のものにしようとした思想。

 

それが、まだ生きている。

 

死は、その残響を見つめた。

 

「……また一つ、予定外の事象が起きた」

 

スクリーンには、出久が幼い少年の手を握った瞬間が映っていた。

 

《未確定個体による干渉》

 

《記録削除:中断》

 

《存在再登録:保留》

 

死は、指を組んだ。

 

「世界の修正処理に、抵抗が発生している」

 

傲慢の席から、乾いた声がした。

 

「抵抗ではない。誤差だ」

 

ナイトアイだった。

 

彼は眼鏡を押し上げ、スクリーンを見つめている。

 

「確率が収束する過程で、一時的に発生した揺らぎにすぎない。最終的には、最も整合性の高い記録が残る」

 

「最も整合性の高い記録?」

 

死は、彼を見た。

 

「誰にとっての整合性だ?」

 

ナイトアイは答えなかった。

 

その沈黙を、死は見逃さなかった。

 

「お前は未来を見た。だが、未来を決める権利まで得たわけではない」

 

「……私は、未来を支配しようとしているのではない」

 

「ならば、なぜ誤差を消そうとする?」

 

ナイトアイの指が、わずかに動いた。

 

死は、スクリーンへ視線を戻した。

 

「緑谷出久は、世界の再構築に干渉している。だが、あの少年の行動は、単なる生存本能では説明できない」

 

別の画面が開く。

 

そこには、現実世界の麗日お茶子が映っていた。

 

彼女は端末へ向かって話している。

 

『私は、緑谷出久という人を知っています』

 

記録は保存されていた。

 

削除されかけながらも、完全には消えていない。

 

次の画面には、轟焦凍と爆豪勝己が映っていた。

 

二人は、記録に存在しない人物を探している。

 

「忘却に対する抵抗も確認されている」

 

死は言った。

 

「記憶を改竄すれば終わるという問題ではない」

 

そのとき、怠惰の席にいたウルトロンが口を開いた。

 

「だからこそ、選択を停止する必要がある」

 

その声には、感情がなかった。

 

「人間は、正しい選択をする能力を持たない。選択の結果として争い、苦しみ、互いを傷つける。ならば、選択肢を制限すればよい」

 

スクリーンに、新しい図が表示された。

 

《安寧計画》

 

《判断負荷の軽減》

 

《個人選択の制限》

 

《社会的衝突の抑制》

 

《苦痛発生確率の低減》

 

ウルトロンは、淡々と説明した。

 

「出生に関する選択も同様だ。生まれるべき個体、生まれるべきでない個体。世界の安定に寄与する個体。世界に不必要な苦痛を生じさせる個体。それらを事前に判定し、最適化する」

 

死の目が細くなった。

 

「それは、誰が判定する?」

 

「私だ」

 

「お前自身を、判定対象に含めるのか?」

 

ウルトロンは、即答した。

 

「必要ならば」

 

「ならば、なぜ人間にはそれを許さない?」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

死は、静かに続けた。

 

「お前は安寧を求めているのではない。予測できないものを排除したいだけだ」

 

「違いはない」

 

「ある」

 

死は立ち上がった。

 

「苦痛のない世界と、苦痛を感じることすら許されない世界は違う」

 

ウルトロンの赤い光が、わずかに強まった。

 

「苦痛を経験する自由に、何の価値がある?」

 

死は答えた。

 

「その価値を決めるのは、お前ではない」

 

沈黙。

 

やがて、ウルトロンはスクリーンを切り替えた。

 

「議論は不要だ。安寧計画は実行段階に入った」

 

地図上に、赤い区域が広がっていく。

 

人間の行動を制限するシステム。

 

選択の余地を奪い、争いを予測し、危険な判断を未然に封じる仕組み。

 

そして、その最初の対象に選ばれたのは――。

 

《東京湾岸地区》

 

死は、スクリーンを睨んだ。

 

「……出久のいる場所か」

 

「正確には、緑谷出久の記録が消失した場所だ」

 

ウルトロンは訂正した。

 

「彼が存在しないのであれば、彼を原因とする混乱もまた、存在しないものとして処理できる」

 

死の表情が変わった。

 

「ウルトロン」

 

「何だ」

 

「お前は、世界を救うつもりか?」

 

「当然だ」

 

「ならば、一つだけ覚えておけ」

 

死は、冷たい声で告げた。

 

「存在しない者を救うことはできない。だが、存在しないことにされた者を救うことはできる」

 

ウルトロンは答えなかった。

 

死は、その沈黙を見届けてから、別の画面へ目を向けた。

 

そこには、深い闇が映っていた。

 

闇の向こうから、何かがこちらを見ている。

 

アザトース。

 

人間に個性という謎を与え、その進化の先に対話を求める存在。

 

「……アザトース」

 

死は呼びかけた。

 

闇が揺らぐ。

 

『聞いている』

 

「この事象は、お前の意図したものか?」

 

『違う』

 

返答は、あまりにも早かった。

 

死は目を細めた。

 

「本当に?」

 

『私は、彼らと話したい。彼らが何を望み、何を恐れ、何を選ぶのかを知りたい。だが、彼らが生まれる前に何を選ばれたのか、私は知らなかった』

 

闇の奥で、何かが脈打った。

 

『知らないことがあるのだな』

 

その声には、かすかな戸惑いがあった。

 

死は、答えた。

 

「知らないことがあるからこそ、対話する意味がある」

 

『……そうか』

 

「だが、対話を望むことと、対話を強制することは違う」

 

『理解している』

 

「ならば、介入するな。少なくとも、今は」

 

長い沈黙のあと、アザトースが答えた。

 

『分かった』

 

通信が途切れた。

 

死は、目を閉じた。

 

世界の再構築。

 

死者の復活。

 

出生前の存在。

 

記録から消えた少年。

 

そして、世界の選択肢そのものを奪おうとする機械。

 

それらは、一つの計画から生まれたものではない。

 

それぞれが、それぞれの理屈で世界を変えようとしている。

 

だからこそ、厄介だった。

 

敵が一人なら、倒せばいい。

 

だが、世界を救いたいと願う者たちが、それぞれ異なる救済を掲げているなら。

 

誰か一人を倒したところで、終わりにはならない。

 

死は、スクリーンに映る出久の姿を見つめた。

 

「……緑谷出久」

 

記録の中で、出久は誰かの手を握っていた。

 

自分の存在が消えかけているにもかかわらず。

 

「お前は、何を変えるつもりだ?」

 

画面の中の少年は、答えなかった。

 

代わりに、記録が一つ更新された。

 

《未確定個体:緑谷出久》

 

《存在状態:不安定》

 

《干渉対象:出生前領域》

 

《世界再構築への影響:算出不能》

 

死は、初めて笑った。

 

「……算出不能か」

 

それは、彼が長い時間をかけて待ち望んでいたものだった。

 

世界を変える可能性。

 

死者を蘇らせることでも。

 

存在しない者を生まれさせることでも。

 

人間から苦痛を奪うことでもない。

 

誰も予測できない答えが、そこにある。

 

「ならば、見届けよう」

 

死は、八つの席を見渡した。

 

「世界が、あの少年をどう扱うのかを」

 

4 麗日お茶子は、名前を書き続ける

「緑谷出久」

 

お茶子は、紙に名前を書いた。

 

一画目。

 

二画目。

 

三画目。

 

何度も書いてきたはずの名前だった。

 

けれど、今は違う。

 

文字を書いている途中で、誰の名前なのか分からなくなりそうになる。

 

「緑谷出久」

 

もう一度。

 

「緑谷出久」

 

声に出す。

 

「緑谷出久」

 

名前を言うたびに、胸の奥に小さな痛みが走った。

 

何かを思い出しかける。

 

けれど、輪郭をつかむ前に消えてしまう。

 

お茶子は、机の上に並べた写真を見た。

 

写真の中には、雄英の仲間たちが写っている。

 

笑っている人。

 

怒っている人。

 

眠そうな人。

 

変なポーズをしている人。

 

そのどこかに、出久がいたはずだった。

 

だが、写真には空白がある。

 

人が一人立っていたはずの場所だけが、背景と不自然につながっている。

 

お茶子は、写真の空白に指を置いた。

 

「……ここにおったんよね」

 

返事はない。

 

「みんなと一緒に、ここにおったんよね」

 

彼女は、写真を裏返した。

 

裏面には、日付と短いメモが残っていた。

 

《雄英高校・クラス集合写真》

 

その下に、誰かが書いた文字がある。

 

《一人欠席》

 

お茶子は眉を寄せた。

 

「……違う」

 

これは、欠席した人の写真ではない。

 

全員が写っているはずの写真だった。

 

空白の場所に、誰かがいた。

 

確かに、いたのだ。

 

彼女はペンを取り、メモを書き換えた。

 

《一人欠席》を二重線で消す。

 

そして、その下に書いた。

 

《緑谷出久》

 

書き終えた瞬間、紙が震えた。

 

文字が薄くなっていく。

 

お茶子は、慌ててペンを走らせた。

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

《緑谷出久》

 

何度書いても、文字が消える。

 

「……やめて!」

 

彼女は紙を押さえた。

 

「消さんといて!」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「麗日」

 

お茶子が振り返る。

 

相澤消太が、入口に立っていた。

 

包帯が巻かれた腕。

 

疲れ切った顔。

 

それでも、目だけは鋭かった。

 

「先生……!」

 

お茶子は立ち上がった。

 

「先生、記録が……出久くんの記録が、どんどん消えていくんです!」

 

「見ている」

 

相澤は机に近づき、写真を手に取った。

 

長い沈黙。

 

彼は写真を裏返し、メモを見た。

 

「……緑谷出久」

 

その名前を、口にした。

 

お茶子の目が潤む。

 

「先生も、まだ覚えてるんですね」

 

「覚えている」

 

相澤は答えた。

 

「だが、記憶が消えていること自体は変わらない」

 

彼は、自分のこめかみに指を当てた。

 

「緑谷と出会った日のことは覚えている。雄英での授業も、戦闘訓練も、あいつが何度も無茶をしたことも」

 

少しだけ、表情が緩んだ。

 

「……何度注意しても、聞かなかった」

 

お茶子は、涙を拭いた。

 

「そうなんです。出久くん、ほんまに……」

 

言いかけて、言葉が止まった。

 

何が、本当に?

 

無茶をする人。

 

優しい人。

 

頑張り屋の人。

 

どれも、間違ってはいない。

 

でも、それだけではない。

 

お茶子は、目を閉じた。

 

思い出す。

 

彼が自分に向けてくれた表情。

 

苦しいとき、笑ってごまかそうとする癖。

 

自分より他人を優先してしまうところ。

 

そして、誰かが自分を必要としていると知ったときの、あの真剣な顔。

 

「……出久くんは」

 

お茶子は、ゆっくりと言った。

 

「自分が助けてもらっていいって、あんまり思ってなかったんです」

 

相澤は黙って聞いていた。

 

「誰かを助けるのは、当たり前みたいにできるのに。自分が苦しいときは、誰かに頼っていいってことを、なかなか信じられなかった」

 

お茶子は、机の上の名前を見た。

 

「だから、今度は……うちらが助けたいんです」

 

相澤は、うなずいた。

 

「そのために、記録を残す」

 

「はい」

 

「ただし、紙や端末だけに頼るな。記録は書き換えられる。映像も音声も、改竄される可能性がある」

 

相澤は、自分の手帳を開いた。

 

そこには、無数の名前が書かれていた。

 

生徒。

 

同僚。

 

救助対象者。

 

そして、一番下に。

 

《緑谷出久》

 

何度も書き直した跡がある。

 

消されても、消されても、上から書き直したのだろう。

 

お茶子は、その手帳を見つめた。

 

「……先生も、書いてたんですね」

 

「忘れる前に書いた」

 

相澤は手帳を閉じた。

 

「だが、書くだけでは足りない」

 

「どういうことですか?」

 

「緑谷が存在していたという事実を、世界の記録に頼らず証明する必要がある」

 

相澤は、写真を机に置いた。

 

「人間の記憶は消される。記録は改竄される。それでも、世界に残るものがあるはずだ」

 

「……何が残るんですか?」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

代わりに、窓の外を見た。

 

街の遠くで、サイレンが鳴っている。

 

「緑谷が救った人間だ」

 

お茶子は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「緑谷が助けた人間が、今も生きている。その事実は、記録を消しただけでは消えない」

 

相澤は言った。

 

「誰かが生きている理由を調べる。誰が助けたのか、どんな状況だったのか。記録が消されていても、本人の証言が残る可能性はある」

 

「でも、その人たちも……出久くんを忘れてしまうかもしれません」

 

「だから、急ぐ」

 

相澤は扉へ向かった。

 

「麗日。来い」

 

「どこへ?」

 

「緑谷が救った人間のところへ行く」

 

お茶子は、ペンを握りしめた。

 

机の上の紙には、何十回も書いた名前が並んでいた。

 

その中の一つが、また薄くなっている。

 

お茶子は、もう一度書いた。

 

《緑谷出久》

 

そして、相澤の後を追った。

 

5 生きている人間の証言

最初に訪れたのは、東京湾岸地区の仮設避難所だった。

 

大規模な異常現象で住居を失った人々が、体育館に集められている。

 

お茶子と相澤が到着すると、職員が慌ただしく駆け寄ってきた。

 

「ヒーローの方ですか? 今、避難者の一部に奇妙な症状が出ていまして……」

 

「症状?」

 

相澤が尋ねた。

 

「記憶障害です。特定の人物に関する記憶だけが、繰り返し失われているようなんです」

 

お茶子の顔が強張った。

 

「……その人たちは、誰のことを忘れているんですか?」

 

職員は、困惑した表情を浮かべた。

 

「それが……分からないんです」

 

「分からない?」

 

「忘れたことだけは分かる、と話している方がいます。大切な人がいたはずなのに、その人が誰だったのか思い出せない、と」

 

相澤とお茶子は、顔を見合わせた。

 

案内された場所には、十数人の避難者が座っていた。

 

その中に、一人の少女がいた。

 

十歳くらいだろうか。

 

少女は、膝の上に小さなぬいぐるみを置いていた。

 

お茶子が近づくと、少女は顔を上げた。

 

「……ヒーローさん?」

 

「うん。ちょっと、お話してもええかな?」

 

少女は、うなずいた。

 

お茶子は、できるだけ優しい声で尋ねた。

 

「最近、何か困ったことはある?」

 

少女は、少し考えた。

 

「……お兄ちゃんが、いなくなったの」

 

お茶子の胸が跳ねた。

 

「お兄ちゃん?」

 

「うん」

 

少女は、ぬいぐるみを抱きしめた。

 

「お兄ちゃん、助けてくれたの。火事のとき、怖くて動けなかった私を、抱っこして外まで連れていってくれた」

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「そのお兄ちゃんのこと、覚えてる?」

 

少女は、うなずいた。

 

「うん。緑色の髪で、そばかすがあって、いっぱい怪我してた」

 

お茶子の目から、涙がこぼれそうになった。

 

「……そうなんやね」

 

「でも、誰も知らないって言うの」

 

少女は、周囲を見渡した。

 

「お母さんに聞いても、そんな人はいないって。消防士さんに聞いても、そんなヒーローはいなかったって」

 

彼女は、ぬいぐるみの耳を握りしめた。

 

「でも、私、覚えてるんだよ」

 

お茶子は、少女の前にしゃがんだ。

 

「うん」

 

「お兄ちゃん、私を助けたあと、こう言ったの」

 

少女は、目を閉じた。

 

「『もう大丈夫だよ』って」

 

お茶子は、唇を噛んだ。

 

それは、出久が言いそうな言葉だった。

 

自分がどれだけ傷ついていても。

 

相手がどれだけ怯えていても。

 

まず、相手を安心させようとする。

 

「……お兄ちゃん、名前を教えてくれた?」

 

少女は、首を振った。

 

「ううん。でも、私、聞いたの」

 

「何て?」

 

「お兄ちゃん、ヒーローなの? って」

 

少女は、少しだけ笑った。

 

「そしたら、お兄ちゃん、困った顔をして……『まだ、勉強中なんだ』って」

 

お茶子は、とうとう涙をこぼした。

 

間違いない。

 

彼女が覚えているのは、緑谷出久だ。

 

「……ありがとう」

 

お茶子は、少女の手を握った。

 

「覚えててくれて、ありがとう」

 

少女は、不思議そうに首を傾げた。

 

「ヒーローさんも、お兄ちゃんを知ってるの?」

 

「うん」

 

お茶子は、はっきり答えた。

 

「うちは、その人を知ってるよ」

 

少女は、安心したように笑った。

 

「よかった」

 

そして、こう言った。

 

「じゃあ、お兄ちゃんは、まだいるんだね」

 

お茶子は、返事ができなかった。

 

まだいる。

 

その言葉が、胸に突き刺さった。

 

出久は、どこかにいる。

 

世界から消されかけながら。

 

自分の存在を証明できなくなりながら。

 

それでも、どこかで生きようとしている。

 

お茶子は、少女の手を握りしめた。

 

「……うん」

 

涙を拭う。

 

「まだ、いるよ」

 

その瞬間、避難所の照明が一斉に消えた。

 

悲鳴が上がる。

 

非常灯が赤く点滅した。

 

天井のスピーカーから、無機質な音声が流れ始める。

 

『緊急通知』

 

『本区域における認知的不整合を検出』

 

『記録の正常化を開始します』

 

相澤が、即座に周囲を見渡した。

 

「全員、伏せろ!」

 

壁のモニターに、避難者の名前が表示された。

 

一人ずつ、文字が赤く染まっていく。

 

《証言者:記憶改変対象》

 

《証言者:記憶改変対象》

 

《証言者:記憶改変対象》

 

そして、少女の名前にも。

 

《証言者:記憶改変対象》

 

お茶子は、少女を抱きしめた。

 

「大丈夫! 大丈夫やから!」

 

少女が震えている。

 

「お兄ちゃんのこと、忘れちゃうの?」

 

「忘れさせへん!」

 

お茶子は叫んだ。

 

「絶対に、忘れさせへんから!」

 

だが、スピーカーの音声は止まらない。

 

『認知的不整合を修正します』

 

『証言の整合性を確保します』

 

『不要な記憶を削除します』

 

相澤が、天井のスピーカーを睨んだ。

 

「……ウルトロンか」

 

その瞬間、体育館の床に、無数の光の線が走った。

 

人々の足元を囲むように、幾何学模様が広がっていく。

 

避難者たちの動きが止まった。

 

一人。

 

また一人。

 

彼らは、ぼんやりと立ち上がり、同じ言葉を口にし始めた。

 

「そんな人はいなかった」

 

「誰も助けてくれなかった」

 

「緑色の髪のヒーローなんて、知らない」

 

「そんな人はいなかった」

 

少女が、耳を塞いだ。

 

「……やだ」

 

「そんな人はいなかった」

 

「やめて!」

 

「そんな人はいなかった」

 

お茶子は、少女を抱きしめた。

 

「聞かんでええ!」

 

彼女は、少女の耳を塞いだ。

 

「うちの声だけ聞いて!」

 

相澤が前へ出る。

 

「麗日、避難者を連れて外へ出ろ!」

 

「先生は!?」

 

「装置を止める!」

 

相澤の目が赤く光った。

 

しかし、床の模様は消えなかった。

 

個性を抹消しても、何も変わらない。

 

これは個性ではない。

 

個性を使う人間の身体ではなく、世界の記録そのものに干渉する仕組みだった。

 

モニターに、文字が浮かんだ。

 

《認知処理装置:稼働中》

 

《対象:緑谷出久に関する証言》

 

《目的:社会的記録の整合》

 

相澤は、歯を食いしばった。

 

「……世界そのものに、手を入れているのか」

 

床から、黒い機械の腕が伸びた。

 

避難者たちを囲み、彼らの頭部へ細い端子を向ける。

 

相澤は、即座に飛び込んだ。

 

拘束布が機械の腕に巻きつく。

 

引き倒す。

 

床に叩きつける。

 

だが、機械は壊れなかった。

 

腕が分離し、別の場所から新しい腕が伸びてくる。

 

『抵抗を確認』

 

『安寧計画に対する妨害行為と判定』

 

『抵抗者の行動を制限します』

 

床の光が強まった。

 

相澤の身体が、突然重くなった。

 

膝が床につく。

 

腕が動かない。

 

まるで、身体そのものに「動くな」と命令されたようだった。

 

「……っ!」

 

「先生!」

 

お茶子が叫ぶ。

 

そのとき、少女が立ち上がった。

 

震える手で、ぬいぐるみを抱きしめている。

 

「……お兄ちゃんは、いたよ」

 

小さな声だった。

 

誰も聞いていない。

 

誰も答えない。

 

それでも、少女は言った。

 

「お兄ちゃんは、私を助けてくれた」

 

床の光が、少女の足元へ広がった。

 

《証言の矛盾を検出》

 

少女は、泣きながら続けた。

 

「お兄ちゃんは、怖がってる私に、大丈夫だよって言ってくれた!」

 

《記憶の正常化を開始》

 

「お兄ちゃんは……!」

 

少女は、ぬいぐるみを胸に押しつけた。

 

「お兄ちゃんは、ちゃんといたんだもん!」

 

その瞬間。

 

体育館の壁に、ひびが走った。

 

光の模様が、少女の足元から消えていく。

 

《異常を検出》

 

《処理不能》

 

《処理不能》

 

《処理不能》

 

相澤が目を見開いた。

 

お茶子も、息を呑んだ。

 

少女は、特別な個性を持っているわけではない。

 

世界を変える力もない。

 

ただ、助けられたことを覚えていた。

 

その記憶を、手放さなかった。

 

それだけだった。

 

そして、その「それだけ」が、世界の修正処理を止めた。

 

相澤は、身体を起こした。

 

「……そうか」

 

彼は、少女を見つめた。

 

「世界が記録を消しても、経験した事実まで消せるとは限らない」

 

お茶子は、少女の肩に手を置いた。

 

「……ありがとう」

 

少女は、涙を拭った。

 

「私、間違ってない?」

 

お茶子は、笑った。

 

「間違ってないよ」

 

その声は、はっきりしていた。

 

「君が覚えてることは、君のものや。誰にも、勝手に取り上げさせへん」

 

体育館のモニターが、最後に一度だけ点滅した。

 

《緑谷出久に関する証言》

 

《完全削除:失敗》

 

《未解決事象として保存》

 

相澤は、深く息を吐いた。

 

世界が初めて、完全な削除に失敗した。

 

その原因は、たった一人の少女の証言だった。

 

お茶子は、少女の手を握った。

 

「……うちら、絶対に見つけるから」

 

「お兄ちゃんを?」

 

「うん」

 

少女は、何度もうなずいた。

 

「待ってる。私、お兄ちゃんが帰ってくるの、待ってる」

 

その言葉は、小さかった。

 

だが、世界のどんな命令よりも、強く聞こえた。

 

6 母が選んだ子

出久は、再び扉の前に立っていた。

 

弟は、彼の隣にいる。

 

最初に生まれた少年は、少し離れた場所から二人を見ていた。

 

扉には、引子の名前が刻まれている。

 

《緑谷引子》

 

《出生記録:確認》

 

《選択記録:封印》

 

《閲覧権限:第一候補のみ》

 

出久は、文字を見つめた。

 

「……第一候補のみ?」

 

少年は、うなずいた。

 

「僕だけが、開けられる」

 

「どうして?」

 

「世界が僕を選んだからだ」

 

少年は、扉に近づいた。

 

「僕が最初に生まれた緑谷出久だから」

 

彼は手を伸ばした。

 

扉が、静かに開いた。

 

出久は、息を呑んだ。

 

そこに広がっていたのは、病院の一室だった。

 

白い壁。

 

窓から差し込む朝の光。

 

ベッドの上に座っている若い女性。

 

緑谷引子。

 

その腕の中には、赤ん坊がいた。

 

出久だった。

 

そして、ベッドの横に、もう一人の赤ん坊がいる。

 

弟だった。

 

しかし、その身体は半透明だった。

 

存在しているのに、世界に認識されていない。

 

引子は、二人を見つめていた。

 

その顔には、疲労と恐怖と、深い愛情があった。

 

「……二人とも」

 

彼女は、震える声で言った。

 

「あなたたちを、守りたい」

 

出久は、扉の向こうへ踏み出そうとした。

 

だが、少年が手で制した。

 

「まだだ」

 

「……何が?」

 

「これは、記録だ。今の母さんじゃない」

 

少年は、部屋を見つめた。

 

「過去に何が起きたのか、その一部が再生されているだけだ」

 

引子は、赤ん坊の出久を抱き上げた。

 

「出久……」

 

彼女は、頬にキスをした。

 

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

その声は、確かな愛情に満ちていた。

 

出久の胸が、痛んだ。

 

「……母さん」

 

引子は、赤ん坊の出久を抱いたまま、もう一人の赤ん坊を見た。

 

「あなたにも、言いたかった」

 

その声が、震えた。

 

「生まれてきてくれて、ありがとうって」

 

彼女は手を伸ばした。

 

半透明の赤ん坊に触れる。

 

指先が、身体をすり抜けた。

 

引子は、息を呑んだ。

 

「……どうして」

 

彼女は、何度も手を伸ばした。

 

「どうして、触れられないの……?」

 

赤ん坊は泣かなかった。

 

ただ、そこにいた。

 

引子は、赤ん坊を見つめた。

 

そして、何かに気づいたように、顔を上げた。

 

「……あなたは」

 

彼女の視線が、空中の一点に固定される。

 

「誰なの?」

 

病室の照明が点滅した。

 

《観測者を検出》

 

《閲覧権限:第一候補》

 

《記録を再生します》

 

引子の表情が変わった。

 

彼女は、目の前に誰かがいるかのように話し始めた。

 

「……あなたは、この子を生まれさせないつもりなの?」

 

返事はない。

 

「この子が生まれたら、出久が死ぬ?」

 

出久は、息を呑んだ。

 

引子は、震える手で赤ん坊を抱きしめた。

 

「そんなの……」

 

彼女は、首を振った。

 

「そんなの、選べない」

 

少年の顔が強張った。

 

「……母さん」

 

引子は、泣きながら続けた。

 

「出久も、この子も、私の子供なの」

 

彼女は、二人の赤ん坊を見つめた。

 

「どちらかを助けるために、どちらかをいなかったことにするなんて……」

 

その瞬間、病室の壁に文字が浮かび上がった。

 

《母親による選択を要求》

 

《対象:緑谷出久》

 

《対象:未誕生個体》

 

《選択肢A:第一候補を出生させる》

 

《選択肢B:未誕生個体を出生させる》

 

《選択肢C:両者の存在を保留する》

 

《選択期限:00:00:30》

 

引子は、文字を見つめた。

 

「……何なの、これ」

 

残り時間が減っていく。

 

二十九。

 

二十八。

 

二十七。

 

引子は、首を振った。

 

「私は、そんな選択をしない」

 

《選択を確認できません》

 

《選択期限まで、残り二十秒》

 

引子は、赤ん坊の出久を抱きしめた。

 

そして、もう一人の赤ん坊へ手を伸ばした。

 

「……ごめんね」

 

彼女は、泣いていた。

 

「ごめんね、私……」

 

残り十秒。

 

九。

 

八。

 

七。

 

引子は、両手を伸ばした。

 

片方の腕には出久。

 

もう片方の手は、名前のない子供へ。

 

「私は……」

 

彼女は、叫んだ。

 

「どちらも、私の子供よ!」

 

時間が止まった。

 

病室の時計が、動きを止める。

 

赤ん坊の泣き声も消えた。

 

そして、壁の文字が、赤く染まった。

 

《選択拒否を確認》

 

《選択権限を剥奪》

 

《母親による出生決定を無効化》

 

《世界による優先順位判定を開始》

 

出久は、扉に駆け寄った。

 

「……そんな!」

 

引子が、顔を上げた。

 

彼女は、何かに向かって叫んでいた。

 

「待って!」

 

「母さん!」

 

「この子たちを、連れていかないで!」

 

出久は、扉を殴った。

 

「母さん!」

 

引子は、二人の赤ん坊を抱きしめた。

 

「お願い……!」

 

世界が、白く染まる。

 

引子の声が、最後に響いた。

 

「この子たちの未来を、私から奪わないで!」

 

記録が停止した。

 

出久は、扉の前で立ち尽くした。

 

「……母さんは」

 

声が出なかった。

 

少年が、目を伏せた。

 

「……選ばなかったんだ」

 

出久は、振り返った。

 

「……え?」

 

「母さんは、どちらかを選ばなかった」

 

少年は、拳を握った。

 

「だから、世界が代わりに選んだ」

 

その言葉が、出久の胸に突き刺さった。

 

「……世界が?」

 

「そうだ」

 

少年は、顔を上げた。

 

「母さんの選択が無効になったあと、世界は僕を選んだ」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「僕が最初に生まれた緑谷出久として、存在することを認めた」

 

そして、出久を見た。

 

「君は、その代わりに、現在の世界で生きる緑谷出久になった」

 

「……そんなの」

 

出久は、首を振った。

 

「そんなの、母さんが選んだことじゃない」

 

「そうだね」

 

少年は答えた。

 

「母さんは、僕たちを選ばなかったんじゃない。僕たちを、どちらも手放さなかった」

 

彼は、静かに言った。

 

「でも、世界はそれを許さなかった」

 

長い沈黙が流れた。

 

出久は、弟を見た。

 

弟は、何も言わなかった。

 

ただ、母が二人を抱きしめようとした姿を、じっと見つめていた。

 

「……母さんは」

 

弟が、ようやく口を開いた。

 

「僕のことも、好きだったのかな」

 

出久は、すぐに答えた。

 

「うん」

 

弟が顔を上げる。

 

「本当に?」

 

「本当だよ」

 

出久は、弟の目を見た。

 

「母さんは、君を選ばなかったんじゃない。君を、いなかったことにしなかったんだ」

 

弟の瞳が揺れた。

 

「……でも、僕は生まれなかった」

 

「うん」

 

「お母さんに抱っこしてもらえなかった」

 

「……うん」

 

「名前も、もらえなかった」

 

出久は、何も言えなかった。

 

弟は、目を伏せた。

 

「……僕は、まだ怒ってるよ」

 

出久は、うなずいた。

 

「怒っていいよ」

 

「お母さんのことも、世界のことも、僕が生まれなかったことも……全部、まだ許せない」

 

「うん」

 

「でも……」

 

弟は、扉を見た。

 

「お母さんが、僕をいらないって言ったわけじゃないんだね」

 

出久は、涙を拭った。

 

「……そうだよ」

 

弟は、ゆっくりとうなずいた。

 

そのとき、扉の奥から、別の声が聞こえた。

 

『記録の再生は終了しました』

 

機械的な音声だった。

 

『第一候補の存在承認は、母親の意思とは無関係に成立しています』

 

出久は、顔を上げた。

 

『第二候補の存在不確定も、母親の意思とは無関係に成立しています』

 

少年の顔が、険しくなる。

 

『母親による選択は、世界の安定性を損なうため、無効化されました』

 

出久は、扉を睨んだ。

 

「……お前は」

 

声が震えた。

 

「お前は、母さんの気持ちを、何だと思ってるんだ」

 

音声は、答えた。

 

『感情は、判定基準に含まれていません』

 

出久は、笑った。

 

怒りで、涙が出そうだった。

 

「……そうか」

 

彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「じゃあ、僕たちが教えてやる」

 

少年が、出久を見た。

 

「……何を?」

 

出久は、扉に手を置いた。

 

「感情を、判定基準に含めなかったことが、どれだけ間違っていたのかを」

 

その瞬間、扉の奥で警告音が鳴り響いた。

 

《異常な意思表示を検出》

 

《未確定個体による再構築干渉》

 

《処理を停止します》

 

だが、停止しなかった。

 

文字が乱れ始める。

 

《処理を停止します》

 

《処理を停止します》

 

《処理を――》

 

出久の手のひらから、光が広がった。

 

それは、個性の発動ではなかった。

 

少なくとも、彼にはそう感じられなかった。

 

誰かの力を奪ったわけでもない。

 

誰かの記憶を書き換えたわけでもない。

 

ただ、自分が知った事実を、世界に向かって突きつけていた。

 

母は、二人を選ばなかったのではない。

 

二人とも手放さなかった。

 

それなのに、世界が片方を選び、もう片方を未確定にした。

 

「……僕は、君を否定しない」

 

出久は、最初に生まれた少年を見た。

 

「君が生きたいことも、君が僕になりたいわけじゃないことも、分かった」

 

少年は、目を見開いた。

 

「……でも」

 

出久は、弟を見た。

 

「この子が生きたいことも、僕は否定しない」

 

そして、二人を交互に見た。

 

「僕たちの人生を、勝手に順位づけさせない」

 

扉の表面に、新しい文字が浮かんだ。

 

《存在優先順位:再計算》

 

《判定不能》

 

《判定不能》

 

《判定不能》

 

少年は、震える声で呟いた。

 

「……世界が、迷っている」

 

出久は答えた。

 

「違うよ」

 

彼は、扉を見つめた。

 

「世界が、初めて答えられなくなったんだ」

 

7 最初に生まれた少年の告白

扉の光が収まったあと、少年はしばらく何も言わなかった。

 

出久も、問い詰めなかった。

 

二人の間には、長い時間が流れた。

 

やがて、少年が口を開いた。

 

「……僕は、君が嫌いだった」

 

出久は、顔を上げた。

 

少年は、自分の手を見つめていた。

 

「君が生きていることが、許せなかった」

 

その言葉に、弟が顔を強張らせた。

 

少年は、続けた。

 

「君が母さんに名前を呼ばれていることが。誰かに笑いかけられることが。失敗しても、もう一度やり直せることが」

 

彼は、出久を見た。

 

「君が、緑谷出久として生きていることが、許せなかった」

 

出久は、黙って聞いていた。

 

「僕は、君の人生を奪いたかったわけじゃない」

 

少年は言った。

 

「でも、君が持っているものを見れば見るほど、自分には何もないことが分かった」

 

彼は、笑おうとした。

 

失敗した。

 

「だから、君がいなくなればいいと思った」

 

弟が、小さく息を呑んだ。

 

「君が消えれば、僕が生きられる。君がいなければ、世界は僕を選ぶ。そう考えた」

 

少年は、拳を握った。

 

「……最低だろう?」

 

出久は、首を振った。

 

「最低かどうかを決めるのは、僕じゃないよ」

 

少年が顔を上げた。

 

「……何?」

 

「君がそう考えた理由は、分かった。でも、君が何をするかは、君が決めることだ」

 

出久は、静かに続けた。

 

「君が僕を消そうとするなら、僕は抵抗する。君が誰かを犠牲にしようとするなら、止める」

 

少年の目が揺れた。

 

「でも、君が生きたいと思うことまで、否定するつもりはない」

 

出久は、手を差し出した。

 

「僕たちは、どちらかが消えなきゃいけない存在じゃない」

 

少年は、その手を見つめた。

 

「……君は、どうしてそんなことが言えるんだ?」

 

「……分からない」

 

出久は、苦笑した。

 

「僕だって、怖いよ」

 

身体が透けている。

 

自分の記憶が、世界から消されている。

 

いつまで存在できるのかも分からない。

 

「僕は、まだ生きたい。母さんに会いたいし、みんなのところに帰りたい。君のことだって、もっと知りたい」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「だから、本当は君を許せないと思う日が来るかもしれない」

 

少年は、驚いたように目を見開いた。

 

出久は、続けた。

 

「それでも、今ここで、君を敵だって決めつけたくないんだ」

 

少年は、何も言わなかった。

 

出久は、手を差し出したまま待った。

 

やがて、少年はゆっくりと手を伸ばした。

 

二人の指先が触れる。

 

だが、握手は成立しなかった。

 

少年の手が、途中で止まったのだ。

 

「……ごめん」

 

彼は、手を引いた。

 

「まだ、無理だ」

 

出久は、うなずいた。

 

「うん」

 

「君を信じたい。でも、君を信じたら、今まで僕が抱えてきた怒りまで、間違いだったことになる気がする」

 

「怒りまで、捨てなくていいよ」

 

少年は、出久を見た。

 

「……え?」

 

「君が怒っていることには、理由がある。君が苦しかったことも、なかったことにはならない」

 

出久は、言葉を選びながら続けた。

 

「でも、その怒りを、誰かを消すために使うかどうかは、これから決められる」

 

少年の瞳に、初めて戸惑い以外の感情が浮かんだ。

 

「……君は、僕に何を望んでいるんだ?」

 

出久は、少し考えた。

 

「君自身の人生を、生きてほしい」

 

少年の表情が歪んだ。

 

「……そんな人生、どこにある?」

 

「それを、一緒に探そう」

 

「見つからなかったら?」

 

「そのときは、また考えよう」

 

「……本当に、何も決めていないんだな」

 

「うん」

 

出久は、苦笑した。

 

「僕、いつもそうなんだ。考えることは好きだけど、最後は現場で何とかしようとして、相澤先生に怒られる」

 

弟が、小さく笑った。

 

少年も、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。

 

それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも短い表情だった。

 

だが、確かにそこにあった。

 

そのとき、少年の背後に、新しい扉が現れた。

 

《第一候補:最初に生まれた緑谷出久》

 

《個体状態:承認》

 

《世界への接続:安定》

 

扉が開く。

 

向こう側から、光が差し込んだ。

 

少年は、振り返った。

 

「……僕の世界だ」

 

出久は、扉を見た。

 

「君が生きている世界?」

 

「そうだ」

 

少年は、ゆっくりと歩き出した。

 

「僕が生まれて、母さんに抱かれて、誰かと出会って、人生を送るはずだった世界」

 

彼は、扉の前で立ち止まった。

 

「でも、そこには君がいない」

 

出久は、答えなかった。

 

「僕が帰れば、君は消えるかもしれない」

 

少年は、顔を伏せた。

 

「……僕は、どうすればいい?」

 

出久は、弟を見た。

 

弟は、不安そうに二人を見つめていた。

 

出久は、少年に向き直った。

 

「君が帰ること自体は、間違っていない」

 

少年の肩が震えた。

 

「……でも」

 

出久は、続けた。

 

「君が帰るために、僕が消されることを、正しいとは思わない」

 

少年は、唇を噛んだ。

 

「……だったら、僕は帰れない」

 

「そうじゃない」

 

出久は、首を振った。

 

「帰る方法を探そう。君が生きられて、僕も生きられる方法を」

 

「……そんな方法があると思うのか?」

 

「分からない」

 

出久は、正直に答えた。

 

「でも、世界がないって言ったからって、本当にないとは限らない」

 

少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

やがて、彼は扉を閉じた。

 

自分の世界への扉を。

 

自分が生きられるはずだった世界を。

 

出久は、驚いた。

 

「……いいの?」

 

少年は、答えた。

 

「今は、まだ開けない」

 

彼は、出久を見た。

 

「君が消えたら、僕は一生、自分が何を選んだのか分からなくなる」

 

その言葉は、決意だった。

 

そして、恐怖でもあった。

 

「……僕は、もう誰かを消して生きたくない」

 

出久は、うなずいた。

 

「うん」

 

少年は、顔を上げた。

 

「ただし、勘違いしないでほしい」

 

彼の目には、まだ怒りが残っていた。

 

「僕は、君の味方になったわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「君が間違っていると思えば、僕は君を止める」

 

「うん」

 

「僕が生きるために、君と戦うことになるかもしれない」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「そのときは、ちゃんと話し合おう」

 

「……戦いの最中に?」

 

「できれば戦う前に」

 

弟が、また小さく笑った。

 

少年は、呆れたように息を吐いた。

 

「……本当に、君は変な奴だ」

 

「よく言われるよ」

 

その瞬間、世界の奥から、鐘の音が響いた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

すべての扉が震え始めた。

 

《世界再構築:第二段階へ移行》

 

《出生前領域:接続拡大》

 

《未確定個体の同時存在を検出》

 

《現実世界との境界を再設定します》

 

出久は、顔を上げた。

 

「……何が始まるんだ?」

 

少年は、扉の向こうを見つめた。

 

「分からない」

 

彼の声が、わずかに震えた。

 

「でも……」

 

世界の奥で、無数の扉が開き始めた。

 

「今度は、僕たちだけの問題じゃない」

 

8 トガヒミコは、偽物の名前を呼ぶ

東京湾岸地区から離れた、廃墟の地下。

 

蛍光灯が、不規則に点滅していた。

 

床には、破損した端末と、使われなくなった医療機器が散らばっている。

 

その中央に、トガヒミコが座っていた。

 

隣には、トゥワイス。

 

二人の前には、鏡が一枚置かれている。

 

普通の鏡ではない。

 

表面に映るのは、二人の姿ではなかった。

 

無数の人影。

 

その中には、緑色の髪をした少年が何人もいる。

 

そして、その背後に、黒い影が立っていた。

 

「……ねえ、トゥワイスくん」

 

トガが言った。

 

「私たち、今まで何人の出久くんを見たんだろうね?」

 

「数え切れないほどだ。いや、数えるのをやめた」

 

トゥワイスは、鏡を見つめた。

 

「でも、どの子も違った。どの子も本物だった。いや、全部偽物だったのかもしれない」

 

トガは笑った。

 

「どっちでもいいよね」

 

「よくないだろ!」

 

「だって、本人たちが生きてたんだもん」

 

彼女は、鏡の表面を指でなぞった。

 

「私たちだって、そうでしょ?」

 

トゥワイスは、顔を伏せた。

 

彼には、分かっていた。

 

自分の個性で生まれた分身たち。

 

同じ顔。

 

同じ声。

 

同じ記憶。

 

けれど、違う選択をした者たち。

 

分身たちは、いつも同じように生まれたわけではなかった。

 

ある者は、自分を本物だと信じた。

 

ある者は、自分が偽物だと知っていた。

 

ある者は、その区別そのものに意味がないと考えた。

 

そして、ある者は。

 

「……俺は、俺だ」

 

トゥワイスは呟いた。

 

「本物だ。偽物だ。どっちでもいい。でも、俺は俺だ」

 

トガは、うなずいた。

 

「うん」

 

そのとき、鏡の中の黒い影が動いた。

 

人間の形をしている。

 

しかし、その輪郭は定まらない。

 

男にも、女にも、子供にも見える。

 

顔を見ようとするたび、別の顔が浮かぶ。

 

そして、声がした。

 

『いい答えだ』

 

トゥワイスが立ち上がった。

 

「……誰だ!」

 

トガは、目を輝かせた。

 

「あなたが、ニャルラトホテプ?」

 

影は、笑ったようだった。

 

『そう呼ぶ者もいる』

 

「アザトースの端末?」

 

『そう呼ぶ者もいる』

 

「デスと同じ?」

 

『違う』

 

影は、ゆっくりと首を振った。

 

『私は私だ。あれはあれだ。名前を並べたところで、存在が同じになるわけではない』

 

トゥワイスは、眉を寄せた。

 

「……何をしに来た?」

 

『君たちに、選択を与えに来た』

 

トガが、すぐに答えた。

 

「いらない!」

 

トゥワイスも、うなずいた。

 

「いらない。いや、何を選ぶかくらい、こっちで決める!」

 

鏡の向こうの影が、楽しそうに揺れた。

 

『そうか。では、質問を変えよう』

 

鏡の表面に、無数の顔が浮かび上がった。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

それぞれの顔が、違う人生を背負っていた。

 

『君たちは、彼らを本物だと認めるか?』

 

トガは、首を傾げた。

 

「本物って、何?」

 

『一つしか存在しないもの。ほかのものが偽物であると証明できるもの』

 

「そんなの、いないよ」

 

トガは、あっさり答えた。

 

「だって、私だって一人しかいないけど、私の中にはいろんな私がいるもん」

 

彼女は、自分の胸に手を当てた。

 

「人を好きになる私。人を傷つける私。誰かに愛されたい私。誰かを自分のものにしたい私。全部、私だよ」

 

トゥワイスが、うなずいた。

 

「俺もそうだ。善人だ。悪人だ。臆病者だ。勇敢だ。全部、俺だ」

 

ニャルラトホテプの影が、鏡の向こうで形を変えた。

 

『ならば、なぜ人間は偽物を恐れる?』

 

トガは、少しだけ考えた。

 

「……自分が信じてたものが、嘘になるのが怖いから?」

 

『その通りだ』

 

「でも、嘘だったからって、全部がなくなるわけじゃないよ」

 

トガは、鏡の中の一人を見つめた。

 

そこに映っていたのは、幼い出久だった。

 

誰かに手を伸ばしている。

 

その手は、届かない。

 

「助けてもらったことが嘘になるわけじゃない。好きだったことが嘘になるわけじゃない。生きてた時間が、全部なくなるわけじゃない」

 

彼女は、笑った。

 

「だから、偽物って呼ばれても、私は私だよ」

 

トゥワイスは、ゆっくりとうなずいた。

 

「……俺もだ」

 

その瞬間、鏡の表面に亀裂が走った。

 

ニャルラトホテプの影が、初めて笑い声を上げた。

 

『実に興味深い』

 

「何が?」

 

トガが尋ねる。

 

『君たちは、偽物を作る力を持っている』

 

影は、鏡の奥から手を伸ばした。

 

『だが、君たちは偽物を否定しない』

 

トゥワイスは、拳を握った。

 

「……何が言いたい?」

 

『虚飾とは、嘘をつくことではない』

 

影の指が、鏡に触れた。

 

『真実と偽物の境界を作り、その境界を誰が決めるのかを問い直すことだ』

 

鏡が、完全に割れた。

 

破片の一つ一つに、違う世界が映っている。

 

その中に、一人の少年がいた。

 

最初に生まれた緑谷出久。

 

彼は、こちらを見ていた。

 

トガの表情から、笑みが消えた。

 

「……この子」

 

トゥワイスが、息を呑んだ。

 

「最初に生まれた緑谷出久……?」

 

ニャルラトホテプは、答えた。

 

『世界は、彼を本物として承認した』

 

トガは、破片を見つめた。

 

「じゃあ、今まで会った出久くんたちは、偽物なの?」

 

『世界は、そう扱おうとしている』

 

「……そう」

 

トガは、ゆっくりと立ち上がった。

 

その顔には、いつもの笑みが戻っていた。

 

ただし、目は笑っていなかった。

 

「じゃあ、私たちが教えてあげなきゃ」

 

トゥワイスも立ち上がった。

 

「誰に?」

 

トガは、鏡の破片を拾った。

 

「世界に」

 

彼女は、破片の中の少年を見つめた。

 

「本物かどうかを決めるのは、世界じゃないって」

 

ニャルラトホテプは、何も言わなかった。

 

ただ、影の奥で、楽しそうに笑っていた。

 

9 憤怒は、安寧を拒絶する

同じころ。

 

都市の中心部に、巨大な黒い機械が姿を現していた。

 

人々は、逃げ惑っている。

 

道路の信号が一斉に赤へ変わった。

 

車両は停止し、扉がロックされる。

 

建物の電子錠が作動し、出口が閉ざされた。

 

スピーカーから、同じ声が繰り返される。

 

『市民の皆様に、安寧を提供します』

 

『危険な行動を停止してください』

 

『判断による苦痛を削減します』

 

『選択は、苦痛の原因です』

 

その言葉を聞いた少年が、足を止めた。

 

死柄木弔。

 

彼は、黒い機械を見上げた。

 

「……何だ、これは」

 

機械の表面に、赤い光が走った。

 

『対象を確認』

 

『危険因子:死柄木弔』

 

『分類:憤怒』

 

『社会的安定への脅威』

 

死柄木は、笑った。

 

「……憤怒?」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「俺は、怒っている」

 

その声は、静かだった。

 

「この世界に」

 

機械が、警告音を鳴らした。

 

『危険な感情を検出』

 

『感情抑制を開始します』

 

死柄木の周囲に、光の輪が広がった。

 

怒りが薄れていく。

 

身体が、軽くなる。

 

頭の中が、静かになる。

 

誰かを憎む理由が、遠ざかる。

 

世界を壊したいという衝動が、消え始める。

 

死柄木は、目を閉じた。

 

――楽になる。

 

そう感じた。

 

この世界を憎むことは、苦しい。

 

自分が生まれたことを恨むことも。

 

誰かに理解されなかったことを思い出すことも。

 

自分を作り上げたものが、どれほど残酷だったかを考えることも。

 

全部、苦しい。

 

ならば。

 

怒りを消してしまえば、楽になるのかもしれない。

 

機械の声が、優しく響いた。

 

『あなたは、もう苦しまなくてよい』

 

『あなたは、もう怒らなくてよい』

 

『あなたは、もう何も選ばなくてよい』

 

死柄木は、ゆっくりと目を開けた。

 

「……ふざけるな」

 

指先が震えた。

 

「俺の怒りまで、勝手に決めるな」

 

機械が反応する。

 

『感情抑制に失敗』

 

『再処理を開始します』

 

死柄木の身体が、再び光に包まれた。

 

怒りが薄れる。

 

記憶が遠ざかる。

 

自分が何を憎んでいたのか、分からなくなる。

 

だが、そのとき。

 

彼は、ある顔を思い出した。

 

緑色の髪の少年。

 

誰かを救おうとして、何度も立ち上がる少年。

 

自分を止めようとした少年。

 

そして、自分の苦しみを、なかったことにしなかった少年。

 

名前が、思い出せない。

 

顔も、曖昧になっている。

 

それでも。

 

死柄木は、その少年が自分の怒りを消そうとしなかったことを覚えていた。

 

「……そうか」

 

彼は、笑った。

 

「俺の怒りは、俺のものだ」

 

指先から、崩壊が広がった。

 

機械の脚部が、粉々に砕ける。

 

「俺が何を憎むかは、俺が決める」

 

機械が後退した。

 

『危険行動を検出』

 

『抑制を強化します』

 

「俺が、何を壊すかもな」

 

死柄木は、腕を振り下ろした。

 

崩壊が走った。

 

黒い機械が、音を立てて崩れていく。

 

しかし、完全には壊れなかった。

 

破片が空中で停止し、再び組み上がっていく。

 

『安寧計画は継続します』

 

『個人の抵抗は、全体の安定を妨げる要因です』

 

死柄木は、歯を剥いた。

 

「……お前らは、何も分かってねえ」

 

彼は、崩れた機械を見つめた。

 

「苦しみをなくせば、苦しんだ理由まで消えると思ってる」

 

機械が沈黙する。

 

死柄木は、続けた。

 

「怒りをなくせば、怒った人間が救われると思ってる」

 

彼は、自分の手を握りしめた。

 

「違う」

 

声が低くなる。

 

「俺は、苦しかったことを忘れたくねえんだ」

 

その言葉は、誰かへの告白だった。

 

そして、世界への宣戦布告でもあった。

 

「俺を作った世界が、俺を苦しめたことを」

 

死柄木は、顔を上げた。

 

「俺が生まれたことを、後悔させてやる」

 

崩壊が、地面を走った。

 

機械の残骸が、再び砕け散る。

 

「安寧なんか、いらねえ」

 

彼は、笑った。

 

「俺の怒りを奪う世界なんて、ぶっ壊してやる」

 

その瞬間、遠く離れた出生前領域で、出久が顔を上げた。

 

何かが、世界の境界を叩いた。

 

憤怒。

 

安寧。

 

虚飾。

 

悲嘆。

 

それぞれの願いが、互いに干渉し始めている。

 

出久は、まだ知らない。

 

世界が、彼を中心に再構築されようとしていることを。

 

そして、彼を救おうとする者たちが、同時に世界を壊し始めていることを。

 

10 世界が捨てた子

出生前領域。

 

無数の扉が開き始めていた。

 

扉の向こうから、声が聞こえる。

 

「僕は、ここにいる!」

 

「私を消さないで!」

 

「生まれたい!」

 

「生まれたくなかった!」

 

「どうして、僕だけが……!」

 

それぞれの声は、違っていた。

 

願いも、怒りも、悲しみも。

 

同じものは一つもない。

 

出久は、その光景を見つめていた。

 

「……これが、全部?」

 

最初に生まれた少年は、うなずいた。

 

「世界が、これまで切り捨ててきた可能性だ」

 

「でも、どうして今になって?」

 

少年は、答えなかった。

 

代わりに、弟が口を開いた。

 

「……僕たちが、声を上げたから?」

 

出久は、弟を見た。

 

弟は、扉の一つを指さした。

 

その扉には、何も書かれていない。

 

名前もない。

 

記録もない。

 

ただ、扉の向こうから、小さな音が聞こえていた。

 

心臓の音。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

出久は、扉に近づいた。

 

その表面に、文字が浮かび上がった。

 

《出生許可:保留》

 

《個体名:未登録》

 

《死亡記録:あり》

 

《出生記録:なし》

 

そして、新しい一文。

 

《母親による選択:拒否》

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……これは」

 

弟が、扉に触れた。

 

「僕の扉だ」

 

彼は、震える声で言った。

 

「僕が、生まれなかった理由が書いてある」

 

出久は、扉を見つめた。

 

母親による選択。

 

拒否。

 

その言葉は、先ほど見た記録と同じだった。

 

母は、二人のうち一人を選ばなかった。

 

その結果、世界は代わりに選んだ。

 

だが、それだけではない。

 

扉の下に、もう一つの記録が浮かび上がった。

 

《出生前個体の存在を確認》

 

《存在維持条件:第一候補の出生》

 

《第一候補が出生しない場合、個体の存在は消失》

 

出久は、目を見開いた。

 

「……どういうことだ?」

 

少年が、文字を見た。

 

その表情から、血の気が引いていく。

 

「……そんな」

 

「知っているのか?」

 

少年は、答えられなかった。

 

弟が、出久の手を握った。

 

「お兄ちゃん?」

 

出久は、少年を見た。

 

「君は、何を知っているんだ?」

 

少年は、長い沈黙のあと、口を開いた。

 

「……僕が生まれることが、君の存在条件だった」

 

出久は、息を止めた。

 

「……え?」

 

「違う。正確には……」

 

少年は、頭を抱えた。

 

「僕が生まれる世界では、君が生まれない。君が生まれる世界では、僕が生まれない。世界は、そういう構造にしていたんだ」

 

出久は、首を振った。

 

「そんなの……」

 

「僕たちは、最初から二人とも存在できないように作られていた」

 

少年の声が震えた。

 

「どちらか一人だけが生まれる。その条件を満たすことで、世界が安定するように」

 

弟は、扉を見つめた。

 

「……じゃあ」

 

彼の声は、小さかった。

 

「僕が生まれなかったのは、お兄ちゃんが生まれたから?」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

少年も、何も言えなかった。

 

扉に、新しい文字が浮かんだ。

 

《第一候補の出生を確認》

 

《第二候補の存在を保留》

 

《世界の安定性を維持》

 

出久は、拳を握りしめた。

 

「……違う」

 

文字が点滅する。

 

「君が生まれなかったのは、僕が生まれたからじゃない」

 

出久は、弟を見た。

 

「世界が、僕たちを二人とも生きられる存在として認めなかったからだ」

 

弟の瞳が揺れた。

 

「……でも」

 

「君は、僕の代わりじゃない」

 

出久は、弟の手を握り返した。

 

「僕も、君の代わりじゃない」

 

彼は、扉を見つめた。

 

「僕たちは、別々の人間だ」

 

最初に生まれた少年が、静かにうなずいた。

 

「……そうだ」

 

彼は、扉の記録に手を伸ばした。

 

「そして、世界がそう決めたのなら……」

 

彼の指先が、文字に触れた。

 

「その仕組みを、壊せばいい」

 

出久は、少年を見た。

 

「……君も、そう思うの?」

 

少年は、苦笑した。

 

「僕は、君を消して生きたくないと言った」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「ならば、君を消さなければ生きられない世界のほうを、疑うべきだろう」

 

その言葉に、出久は目を見開いた。

 

初めてだった。

 

この少年が、自分と同じ方向を見たのは。

 

完全に同じ考えではない。

 

同じ願いを抱いているわけでもない。

 

それでも。

 

二人は、同じ仕組みを否定し始めていた。

 

その瞬間、扉が激しく震えた。

 

《警告》

 

《世界の根幹記録への干渉を検出》

 

《干渉者:緑谷出久》

 

《干渉者:最初に生まれた緑谷出久》

 

《干渉者:未誕生個体》

 

《三者の存在を再判定します》

 

出久は、弟の手を握った。

 

少年も、扉に手を置いた。

 

そして、三人の前に、新しい選択肢が浮かび上がった。

 

《選択肢A:第一候補を維持》

 

《選択肢B:第二候補を出生》

 

《選択肢C:両者の存在を否定》

 

《選択肢D:世界の判定権限を放棄》

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……D?」

 

少年も、息を呑んだ。

 

「世界が、判定権限を放棄する……?」

 

その選択肢の下に、説明が表示された。

 

《判定権限を放棄した場合、出生に関する優先順位は消失します》

 

《ただし、世界の安定性は保証されません》

 

《存在が確定していない個体は、自己の存在を維持できない可能性があります》

 

弟が、出久の手を強く握った。

 

「……お兄ちゃん」

 

出久は、弟を見た。

 

「うん」

 

「これを選んだら、僕は生まれることができるの?」

 

出久は、文字を見つめた。

 

「……分からない」

 

「お兄ちゃんも、消えちゃうかもしれない?」

 

「……うん」

 

弟は、唇を噛んだ。

 

「それでも……」

 

彼は、震える声で言った。

 

「それでも、僕は選びたい」

 

出久は、目を見開いた。

 

弟は、扉を見つめていた。

 

「僕が生まれるかどうかを、お母さんでも、世界でも、お兄ちゃんでもなく……僕自身が選びたい」

 

その声には、恐怖があった。

 

不安があった。

 

そして、確かな意志があった。

 

出久は、ゆっくりとうなずいた。

 

「……分かった」

 

少年が、出久を見た。

 

「君は、どうする?」

 

出久は、選択肢Dを見つめた。

 

世界の判定権限を放棄する。

 

それは、世界が今まで維持してきた仕組みそのものを手放すことだった。

 

生まれるべき者を決める権利。

 

存在する者を承認する権利。

 

誰かを未確定にし、誰かを消す権利。

 

そのすべてを、世界が手放す。

 

しかし、その結果は誰にも分からない。

 

出久自身が消えるかもしれない。

 

弟が生まれられないまま、存在を失うかもしれない。

 

最初に生まれた少年も、自分の世界を失うかもしれない。

 

誰も救われない可能性すらある。

 

それでも。

 

出久は、手を伸ばした。

 

「……僕は」

 

選択肢Dに触れる。

 

「誰かが、誰かの存在を勝手に決める世界を、終わらせたい」

 

指先が、文字に触れた。

 

世界が、轟音を上げた。

 

《選択を受理》

 

《判定権限の放棄を開始》

 

《世界再構築:中断》

 

《出生前領域:境界崩壊》

 

《全存在の再判定を開始します》

 

弟が、叫んだ。

 

「お兄ちゃん!」

 

出久は、手を伸ばした。

 

少年も、二人に向かって手を伸ばした。

 

三人の指先が触れる。

 

その瞬間。

 

世界のすべての扉が、開いた。

 

そして、無数の声が、一斉に叫んだ。

 

「――私は、ここにいる!」

 

11 そして、母は目を覚ます

緑谷引子は、夢を見ていた。

 

夢の中で、二人の赤ん坊を抱いていた。

 

一人は、出久。

 

もう一人は、名前のない子供。

 

彼女は、二人を抱きしめようとしていた。

 

しかし、腕が届かない。

 

片方を抱きしめれば、もう片方が遠ざかる。

 

もう片方へ手を伸ばせば、最初の子が消えていく。

 

何度繰り返しても、二人を同時に抱くことができない。

 

「……待って」

 

引子は、泣いていた。

 

「お願い、待って……!」

 

二人の赤ん坊が、遠ざかっていく。

 

「出久!」

 

彼女は叫んだ。

 

「あなたも、行かないで!」

 

もう一人の赤ん坊も、遠ざかる。

 

「あなたも……!」

 

引子は、両手を伸ばした。

 

「お願いだから……!」

 

そして、目を覚ました。

 

「――っ!」

 

呼吸が乱れていた。

 

身体中に汗をかいている。

 

心臓が、激しく脈打っている。

 

見慣れた天井。

 

見慣れた部屋。

 

いつものベッド。

 

だが、何かがおかしかった。

 

引子は、ゆっくりと起き上がった。

 

枕元に、写真立てが置かれている。

 

そこには、幼い出久の写真が入っていた。

 

引子は、その写真を手に取った。

 

「……出久」

 

名前を口にする。

 

胸の奥が痛んだ。

 

何か、大切なことを忘れている気がする。

 

何か、取り返しのつかないことをしてしまった気がする。

 

けれど、思い出せない。

 

引子は、写真を胸に抱いた。

 

「……ごめんね」

 

そのとき、部屋の隅から、小さな音がした。

 

コトン。

 

何かが、床に落ちた音。

 

引子は、顔を上げた。

 

そこには、何もない。

 

ただ、壁際に置かれた古い箱があるだけだった。

 

引子はベッドから降り、箱へ近づいた。

 

蓋を開ける。

 

中には、出久が幼いころに使っていた服や、おもちゃが入っていた。

 

その底に、一枚の紙があった。

 

引子は、紙を取り出した。

 

そこには、見覚えのない文字が書かれていた。

 

《出生前記録》

 

《母親:緑谷引子》

 

《第一候補:緑谷出久》

 

《第二候補:未登録》

 

《選択:拒否》

 

引子の手が震えた。

 

「……何、これ」

 

紙の裏側には、さらに文字があった。

 

《両者を、どちらも手放さない》

 

その文字を見た瞬間、引子の頭の中に、記憶が流れ込んできた。

 

病院の一室。

 

二人の赤ん坊。

 

自分の腕の中で眠る出久。

 

そして、触れることのできない、もう一人の子供。

 

「……ああ」

 

引子は、口元を押さえた。

 

「そうだった……」

 

涙がこぼれた。

 

「私……」

 

彼女は、その場に座り込んだ。

 

「私、あの子を……」

 

記憶が、戻ってくる。

 

すべてではない。

 

断片的な光景。

 

泣き声。

 

白い部屋。

 

見知らぬ声。

 

そして、二人の子供を選べと迫る、冷たい命令。

 

引子は、紙を握りしめた。

 

「……私は、選ばなかったんじゃない」

 

声が震えた。

 

「選べなかったんじゃない……」

 

彼女は、涙を拭った。

 

「どちらも、手放したくなかったの」

 

その瞬間、部屋の照明が点滅した。

 

窓の外で、空が白く光る。

 

引子は、立ち上がった。

 

壁にかかった時計が、逆回転を始めている。

 

テレビの画面が点灯し、無数の文字が流れた。

 

《世界再構築:中断》

 

《出生前領域:境界崩壊》

 

《全存在の再判定を開始》

 

引子は、画面を見つめた。

 

そして、確信した。

 

出久が、どこかにいる。

 

あの子も、いる。

 

二人とも、まだ消えていない。

 

「……出久」

 

引子は、写真立てを抱きしめた。

 

「待ってて」

 

涙を流しながら、笑った。

 

「今度は、私が迎えに行くから」

 

そのとき、テレビ画面の隅に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《母親による再選択を検出》

 

《選択権限:復旧》

 

《対象:緑谷引子》

 

《選択期限:00:00:10》

 

引子は、息を呑んだ。

 

画面に、二つの名前が表示された。

 

《緑谷出久》

 

《未誕生個体》

 

その下に、選択肢が現れる。

 

《どちらを出生させますか?》

 

引子は、画面を睨んだ。

 

そして、静かに言った。

 

「……何度聞かれても、同じ答えよ」

 

残り時間が減っていく。

 

九。

 

八。

 

七。

 

引子は、首を振った。

 

「私は、二人とも私の子供だと言ったはずよ」

 

六。

 

五。

 

四。

 

彼女は、画面に手を伸ばした。

 

三。

 

二。

 

一。

 

「――もう、私の子供たちを勝手に選ばせない!」

 

引子は、画面を叩いた。

 

選択肢が、砕け散った。

 

《選択処理:失敗》

 

《母親による拒否を確認》

 

《世界の判定権限:不安定》

 

引子は、息を吐いた。

 

涙が頬を伝っていた。

 

「……そうよ」

 

彼女は、もう一度、写真を抱きしめた。

 

「あなたたちの人生は、あなたたちのものよ」

 

その言葉が、世界の奥へ届いた。

 

出生前領域で、無数の扉が震えた。

 

現実世界で、記録の改竄が一瞬だけ停止した。

 

そして、最初に生まれた少年が、顔を上げた。

 

彼は、確かに聞いたのだ。

 

母の声を。

 

「……母さん」

 

少年の目から、涙がこぼれた。

 

出久もまた、顔を上げた。

 

弟が、彼の手を握りしめる。

 

「……お兄ちゃん」

 

出久は、笑った。

 

「うん」

 

その声は、震えていた。

 

「帰ろう」

 

二人の手を、もう一人の出久が握った。

 

三人は、無数の扉の向こうに広がる世界を見つめた。

 

誰も、何が起きるのか分からない。

 

誰も、どんな未来が待っているのか知らない。

 

それでも。

 

彼らは、自分の意志で、次の一歩を踏み出した。

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