第一章 世界が最初に選んだもの
世界には、始まりがある。
宇宙が生まれた瞬間。
最初の星が輝いた瞬間。
最初の生命が、生命ではないものと生命を隔てる境界を越えた瞬間。
人類はそれらを観測し、仮説を立て、名前を与えてきた。
しかし、世界そのものが何かを選んだ瞬間については、誰も語ることができない。
なぜなら、選ばれなかったものは、その瞬間に存在する資格を失うからだ。
記録されない。
観測されない。
記憶されない。
そもそも、そこに何かがあったと疑うことすらできない。
それが世界の選択というものだった。
そして今。
緑谷出久は、その選択の現場に立っていた。
「……なんだよ、これ」
彼の目の前には、巨大な樹があった。
白い樹だった。
幹も、枝も、葉も、根も、すべてが白い。
ただし、それは生きた樹木の白さではない。
紙の白さだった。
何も書かれていない書類。
何も記録されていない戸籍。
何も刻まれていない墓標。
まだ誰のものでもない、空白の白さ。
枝の先には、無数の果実が実っていた。
赤い果実。
青い果実。
黄金色の果実。
そして、色を持たない果実。
それぞれの表面には、小さな光景が浮かんでいる。
赤い果実には、笑っている家族がいた。
青い果実には、病室で眠る老人がいた。
黄金色の果実には、戦場で誰かを助けるヒーローがいた。
色のない果実には、誰もいなかった。
何も映らない。
誰の顔も。
誰の人生も。
それでも、出久にはわかった。
あの果実のひとつひとつが、誰かの人生なのだ。
「人生を……実らせているのか?」
出久は樹を見上げた。
「いや、違う。実らせてるんじゃない。これから生まれる可能性を、ここで管理してる……?」
「正確には、可能性を管理しているわけではない」
背後から声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、緑谷出久だった。
同じ顔。
同じ髪。
同じ背丈。
同じ声。
しかし、目だけが違った。
こちらの出久が、何かを失うことを恐れながら、それでも誰かに手を伸ばす人間の目をしているとすれば。
目の前の出久は、すでに何度も世界の終わりを見届けた人間の目をしていた。
「可能性を管理しているんじゃない。可能性を、ひとつの現実へ変換しているんだ」
《最初に生まれた緑谷出久》は、白い樹に手を触れた。
「ここにあるのは、まだ選ばれていない未来じゃない。選択が行われる直前の世界だ」
「……君は、どうしてそんなことを知ってる?」
「僕が最初に選ばれたからだよ」
その答えは、あまりにも自然だった。
自慢でもない。
誇示でもない。
彼にとって、それは呼吸と同じくらい当たり前の事実だった。
「最初に?」
「そう。君が生まれるよりも前に。君の母親が、まだ君を妊娠するよりも前に。世界は一度、緑谷出久という人間を選んだ」
最初に生まれた出久は、樹の枝を指さした。
そこに実っていたのは、黄金色の果実だった。
果実の中には、小さな男の子がいる。
緑色の髪。
そばかす。
大きな瞳。
そして、誰かの手を握って笑っている。
母親の顔は見えない。
ただ、男の子の表情だけが、はっきりとわかった。
幸せそうだった。
「僕は、生まれた」
最初に生まれた出久は言った。
「母さんに抱かれて、泣いて、笑って、歩けるようになって、言葉を覚えた。ヒーローに憧れて、オールマイトに憧れて、誰かを助けたいと思った」
「……」
「僕は君と同じように、無個性だった」
出久の喉が動いた。
「同じように、夢を諦めろと言われた。同じように、笑われた。同じように、助けられなかった人がいた」
最初に生まれた出久は、樹の幹に背を預けた。
「でも、僕は君と違う」
「何が違うんだ?」
「僕は、選ばれた」
その言葉に、出久は答えられなかった。
選ばれた。
その言葉は、彼がこれまで聞いてきたどんな罵倒よりも、どんな脅迫よりも、残酷に響いた。
「僕は君より優秀だったから選ばれたんじゃない。善良だったからでもない。勇敢だったからでもない。僕が君より先に生まれたのは、ただ世界が僕を選んだからだ」
「そんな理由で……!」
「そんな理由だよ」
最初に生まれた出久は、静かに頷いた。
「世界は、そういうものなんだ」
「違う!」
出久は思わず叫んだ。
「世界は誰かを選ぶためにあるんじゃない! 誰かが生きるために、別の誰かが消えなきゃいけないなんて、そんなの……!」
「君は、そうやって何人を救えなかった?」
言葉が止まった。
最初に生まれた出久は、責めるようには言わなかった。
だからこそ、その問いは深く突き刺さった。
「君は、誰かを救おうとした。救いたいと思った。救えなかった人間のことを忘れられなかった。救えた人間のことさえ、自分が救うべきだった人間と比べて苦しんだ」
「……」
「そして、救うために自分を犠牲にした。自分が壊れれば、誰かが助かると信じた」
出久は拳を握った。
「それは……」
「間違いだったと言うつもりはない。僕も同じことをした」
最初に生まれた出久は、自分の左手を見つめた。
そこには、古い傷跡があった。
「でも、君は自分を犠牲にすることを、選択肢のひとつだと思っている。自分を差し出せば、誰かの人生を守れる。自分が消えれば、世界が少しだけよくなる。そう考えることができてしまう」
彼は顔を上げた。
「だから世界は、君を選んだんだ」
「……何?」
「君は、自分を捨てることができる人間だから」
出久の背筋が凍った。
「世界が君を選んだのは、君を愛していたからじゃない。君が、世界の都合に合わせて自分を犠牲にできる人間だったからだ」
「違う……」
「君は、そういう選択を何度もしてきた。誰かを救うために、自分の痛みを後回しにしてきた。誰かを守るために、自分が傷つくことを当然だと思ってきた」
最初に生まれた出久は、一歩近づいた。
「なら、聞かせてくれ。君は本当に、誰かに選ばれたかったのか?」
出久は、答えられなかった。
選ばれたかった。
確かに、そう思ったことはある。
母に。
先生に。
オールマイトに。
社会に。
自分が生きていていいのだと、誰かに認めてほしかった。
でも、それだけではない。
誰かに選ばれるために、自分を差し出してきたのではない。
自分が助けたいと思ったから、手を伸ばしたのだ。
そのはずだった。
そのはずなのに。
「……僕は」
声が震えた。
「僕は、誰かを助けたかったんだ」
「うん」
「誰かが泣いていたら、助けたいと思った。誰かが苦しんでいたら、何かできないかって考えた。自分が傷つくかどうかなんて、そのときは……」
「考えなかった?」
最初に生まれた出久が続きを引き取った。
「そうだよね。考えなかったんだ」
彼は責めなかった。
むしろ、ひどく懐かしそうに笑った。
「僕もそうだった」
白い樹が、微かに揺れた。
無数の果実が、一斉に光を放った。
その光の中で、出久は見た。
助けられた人々。
救えなかった人々。
自分の背中を押した人々。
自分に助けを求めた人々。
そして、そのすべての向こう側に立つ、名もなき少年。
少年は、出久を見ていた。
何かを訴えるように。
何かを確かめるように。
「……弟は、どこにいる?」
出久は問いかけた。
最初に生まれた出久の笑みが、消えた。
「君は、あの子を弟だと思っているんだね」
「僕の弟だ」
「母さんは、そう思っていないかもしれない」
「……!」
「母さんは、あの子を覚えていない。少なくとも、今の世界の記録ではね」
最初に生まれた出久は、白い樹の奥を指さした。
「でも、母さんの記憶はここにある。君が知りたいことも、あの子が知りたいことも、きっとそこにある」
「だったら、行かせてくれ」
「いいよ」
意外なほど、あっさりと返ってきた。
出久は警戒した。
「……どうして?」
「君が知るべきことだから」
最初に生まれた出久は、樹の根元へ歩いていった。
そこには、細い道があった。
白い根が幾重にも絡み合い、地下へと続いている。
道の先から、誰かの声が聞こえた。
優しくて。
懐かしくて。
何よりも、出久が聞きたかった声だった。
『出久』
母の声だった。
「……母さん」
出久は一歩を踏み出した。
その背中へ、最初に生まれた出久が言った。
「ひとつだけ、覚えておいて」
出久は振り返った。
「母さんが君を愛していたことと、世界が君を選んだことは、同じじゃない」
彼は、ひどく静かな顔をしていた。
「そして、母さんが誰かを選んだとしても、それが正しい選択だったとは限らない」
出久は何も言わず、根の道へ入った。
背後で、白い樹が軋んだ。
その音は、まるで世界が歯を食いしばる音のようだった。
第二章 母の記憶には、二人の子供がいた
根の道を下りるにつれて、音が消えていった。
足音も。
呼吸も。
自分の心臓の音さえも。
代わりに聞こえてきたのは、誰かの日常だった。
包丁がまな板を叩く音。
洗濯機が回る音。
テレビから流れるニュース。
窓の外を走る車。
そして、小さな子供の笑い声。
出久は足を止めた。
目の前に、扉があった。
何の変哲もない、緑谷家の玄関扉だった。
何度も出入りした扉。
学校から帰ってきたとき。
オールマイトに出会った日の帰り。
雄英高校への入学が決まった日。
傷だらけで帰ってきたとき。
母が、泣きながら抱きしめてくれた日。
そのすべての記憶が、扉の表面に染み込んでいる。
ただし、ひとつだけ違う。
扉には、二つの影が映っていた。
一つは、いつもの出久。
もう一つは、彼より少し小さな子供。
緑色の髪。
大きな瞳。
左手の甲に、薄い傷。
顔立ちは出久に似ている。
だが、その表情には、出久の知らない何かがあった。
警戒。
寂しさ。
そして、誰かに会えるかもしれないという期待。
「……君も、ここに来たのか」
出久が振り向くと、少年が立っていた。
名もなき少年。
彼は、出久の背後にある白い道を見て、それから玄関扉を見た。
「ここに来たかったわけじゃない」
「うん」
「でも、声が聞こえたんだ」
「母さんの?」
少年は首を振った。
「わからない。母さんの声だった気もする。でも、僕を呼んでいたのは……お兄ちゃんだった」
その言葉に、出久は胸を締めつけられた。
自分は、いつこの子を呼んだのだろう。
いつ、助けを求めたのだろう。
いつ、この子を弟だと認めたのだろう。
記憶にはない。
それでも、彼がそう言うことを疑う気にはなれなかった。
「一緒に入ろう」
出久は扉に手をかけた。
「……本当に?」
「うん。でも、無理に何かを思い出さなくてもいい。嫌なことがあったら、すぐに言って」
少年は、少しだけ眉を寄せた。
「僕が嫌だって言ったら、お兄ちゃんは止まるの?」
「止まるよ」
「世界が進めって言っても?」
「止まる」
「お兄ちゃんが知りたいことが、そこにあっても?」
出久は、少しだけ考えた。
それから、はっきりと答えた。
「それでも、止まるよ」
少年は、何かを確かめるように出久を見つめた。
やがて、彼は小さく頷いた。
「……じゃあ、一緒に行く」
扉が開いた。
そこにあったのは、緑谷家の居間だった。
小さなテーブル。
古びたソファ。
壁にかかった時計。
窓際に置かれた観葉植物。
何も変わらない。
何も変わらないはずなのに。
出久は、息を呑んだ。
テーブルの向こうに、母がいた。
緑谷引子。
彼が知っている母だった。
柔らかな髪。
優しい目。
少し疲れた表情。
そして、誰かを心配するとき、無意識に指先を握りしめる癖。
母は、二人に気づいていなかった。
テーブルの上には、妊娠に関する書類が広げられていた。
病院の検査結果。
診察の記録。
手書きのメモ。
その一枚に、出久は見覚えのない名前を見つけた。
いや。
名前ではなかった。
そこには、こう書かれていた。
《第二子・妊娠継続に関する説明》
出久は、喉が詰まるのを感じた。
「……母さん」
声は届かない。
引子は、書類を見つめたまま、何度も同じ行を読み返していた。
『妊娠を継続した場合、母体への負担が大きくなる可能性があります』
『胎児の状態については、現段階で確定的な判断ができません』
『ご本人の意思を尊重したうえで、慎重に検討してください』
引子の手が震えていた。
「……どうしよう」
その声は、出久が知っている母の声よりも、ずっと小さかった。
「どうしたら、いいの……」
誰にも向けられていない言葉だった。
夫はいない。
医師もいない。
友人もいない。
ただ一人、母親になろうとしている女性が、誰にも相談できないまま、選択を迫られていた。
出久は、母のそばへ行こうとした。
しかし、身体が動かなかった。
この光景は、過去なのだ。
自分が触れれば、変わってしまう。
そう理解していた。
それでも、見ていることしかできないのが、苦しかった。
引子は、書類を伏せた。
そして、腹部に手を当てた。
「ごめんね」
誰に謝ったのか。
出久には、わからなかった。
「ごめんね。お母さん、ちゃんと考えるから。ちゃんと考えるからね」
彼女は泣かなかった。
泣く余裕すらないようだった。
何度も深呼吸をして。
何度も目を閉じて。
何度も書類を読み直して。
それでも、答えは出なかった。
少年が、出久の袖をつかんだ。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「母さんは、僕をいらないと思ったの?」
出久は、答えられなかった。
「僕が生まれたら、母さんが苦しくなるから?」
「……」
「僕が生まれたら、お兄ちゃんが困るから?」
「そんなこと……」
言いかけて、出久は止まった。
そんなことはない。
そう言ってしまえば簡単だった。
しかし、それは少年の疑問に答えていない。
彼が求めているのは、慰めではない。
自分がなぜ生まれなかったのか。
誰が自分の人生を止めたのか。
その答えだった。
出久は少年の手を握った。
「わからない」
少年の指先が、わずかに強張った。
「……わからないんだ」
「うん」
「でも、ここに答えがあるなら、一緒に見よう。君が知りたいことを、僕が勝手に決めたりしない」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「……僕、怖いんだ」
「うん」
「母さんに会いたい。でも、会ったら、いらないって言われるかもしれない」
「……」
「お兄ちゃんに会いたい。でも、お兄ちゃんも、本当は僕がいないほうがよかったのかもしれない」
出久は、少年の手を握る力を少しだけ強めた。
「僕は、君がここにいてくれてよかったと思ってる」
「今のお兄ちゃんは、そう思ってくれるんだね」
「……今の?」
少年は、首を傾けた。
「だって、僕の記憶には、別のお兄ちゃんもいるから」
その瞬間、居間の時計が止まった。
針が十二時を指したまま、動かなくなる。
引子の手元にあった書類が、ひとりでに裏返った。
そこには、先ほどまで存在しなかった文字が浮かび上がっていた。
《選択記録・第一回》
《対象:緑谷引子》
《選択肢A:第一子のみを出産》
《選択肢B:第二子を出産》
《選択肢C:双方の出生を保留》
《推奨選択:A》
《理由:世界線の安定性》
出久は、思わず一歩下がった。
「……なんだ、これ」
世界線の安定性。
そんな理由で。
そんな理由だけで。
誰かが生まれるかどうかを決めようとしている。
引子は、その文字を見ていなかった。
彼女には見えないのだ。
世界が、彼女の選択をどう扱おうとしているのか。
少年が、書類を見つめていた。
「……僕は、選択肢Bだったの?」
「違う」
出久は即座に言った。
「これは世界が勝手に作った記録だ。君がどう生きるかを、世界が決めていいわけがない」
「でも、僕は生まれなかった」
少年の声は静かだった。
「記録に残っていない。名前もない。お墓もない。母さんの記憶にも、僕はいない」
彼は、書類から目を離さなかった。
「それでも、僕が生まれなかったのは、誰かが決めたことなんでしょう?」
その問いに、出久は答えられなかった。
なぜなら、彼自身もまた、同じ問いを抱えていたからだ。
自分が生まれたのは、なぜなのか。
自分が選ばれたのは、なぜなのか。
自分が生き残り、別の誰かが消えたのは、なぜなのか。
その答えが、母の記憶の中にある。
そう思った瞬間。
居間の扉が、もう一度開いた。
そこに立っていたのは、幼い緑谷出久だった。
今の出久ではない。
最初に生まれた出久でもない。
もっと小さな、まだ何も知らない子供。
母に抱きしめられ、頭を撫でられ、将来の夢を尋ねられていた頃の出久。
幼い出久は、居間に入ると、母の膝に抱きついた。
「お母さん!」
引子が顔を上げた。
「どうしたの、出久?」
「ねえ、お母さん」
幼い出久は、無邪気に尋ねた。
「赤ちゃんって、どうやって生まれるの?」
引子の表情が固まった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
彼女の顔に、深い恐怖が浮かんだ。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
「夢でね、赤ちゃんが泣いてたんだ」
幼い出久は言った。
「僕に似てた。僕のこと、お兄ちゃんって呼んでたんだ」
少年の手が、出久の手の中で震えた。
「それでね、僕、夢の中で言ったんだ」
幼い出久は、何の疑いもなく続けた。
「君が生まれなければ、みんなが助かるんだ、って」
世界が、凍りついた。
出久は息をすることを忘れた。
その言葉。
忘れていたはずの記憶。
誰かが泣いていた。
自分は、その子に何かを言った。
だが、その先が思い出せなかった。
今、目の前で、幼い自分が同じ言葉を口にしている。
「……どうして」
出久の声が震えた。
「どうして、僕はそんなことを言ったんだ……?」
幼い出久は、母の膝から降りた。
そして、誰もいないはずの部屋の隅を見た。
「だって、そう言われたから」
「……誰に?」
幼い出久は、少し考えた。
「わからない」
その答えと同時に、部屋の壁にひびが入った。
白い光が漏れる。
壁の向こうから、何かがこちらを覗いている。
それは、世界の記録だった。
記録は、記憶の形を借りて、過去を作り直そうとしていた。
幼い出久の口が、再び動いた。
「お母さんが言ってたんだ」
引子が顔を上げる。
「……私が?」
「うん」
幼い出久は、首を傾げた。
「赤ちゃんが生まれたら、お母さんが死んじゃうかもしれないって」
引子の顔から、血の気が引いた。
「だから、僕が……」
幼い出久は、言葉を探すように唇を動かした。
「僕が、赤ちゃんをいらないって言えば、お母さんが助かるって」
出久の視界が歪んだ。
少年が、ゆっくりと母を見た。
「……母さん」
引子は何も答えなかった。
答えられなかった。
彼女は幼い出久を見つめていた。
その目には、記憶のない人間が、記憶を見せつけられたときの恐怖があった。
「そんなこと……」
引子は呟いた。
「そんなこと、言っていない……」
その言葉は、否定だった。
しかし、何を否定したのか。
自分が言ったことか。
自分が考えたことか。
それとも、幼い息子がそんな言葉を口にしたこと自体か。
彼女自身にも、わからなかった。
「私は……出久に、そんなことを……」
言葉が途切れる。
引子は、頭を抱えた。
「覚えていない……」
そして、彼女は泣いた。
「覚えていないの……!」
出久は、母に駆け寄ろうとした。
しかし、その前に少年が動いた。
少年は、母の前に立った。
「……僕のこと、覚えてないの?」
引子の涙が止まった。
彼女は、少年を見た。
まるで、初めて見る人間を前にしたように。
「あなたは……?」
少年の顔から、表情が消えた。
「……そっか」
小さな声だった。
「そうなんだね」
出久は叫んだ。
「違う、母さん! この子は――」
だが、言葉は届かなかった。
少年は、母の前で笑った。
笑おうとしていた。
「大丈夫だよ」
その笑顔は、出久が知っているどんな笑顔よりも痛々しかった。
「僕、怒ってないから」
「……」
「母さんが覚えてないのは、母さんのせいじゃないかもしれないから」
彼は、母の目を見つめた。
「でも、僕はここにいたかった」
その言葉が、部屋の空気を裂いた。
「僕も、母さんに会いたかった」
少年の頬を、涙が伝った。
「生まれたかったんだ」
引子の唇が震えた。
何かを言おうとしていた。
しかし、彼女の口から出たのは、謝罪でも、愛情でもなかった。
「……ごめんなさい」
少年は、目を閉じた。
「うん」
「ごめんなさい……」
「うん」
「ごめんなさい……!」
「……うん」
少年は何度も頷いた。
そのたびに、涙が落ちた。
出久は、二人を見ていた。
母が謝っている。
弟が、それを聞いている。
だが、謝罪は過去を変えない。
謝罪は、失われた人生を返さない。
それでも。
謝罪がなければ、何も始まらないのかもしれない。
「母さん」
出久は、ようやく声を出した。
「僕たちに、教えてほしい」
引子が顔を上げた。
「何を……?」
「母さんが覚えていることを。覚えていないことも。わからないことも、全部」
出久は、少年の隣に立った。
「僕たちは、母さんを責めるために来たんじゃない」
そう言いながら、出久は自分の言葉が正しいのか、わからなかった。
本当に責めていないのか。
母を信じたいから、そう言っているだけではないのか。
自分の中にも、答えがなかった。
それでも、彼は続けた。
「僕は、知りたいんだ。どうしてこの子が生まれなかったのか。どうして、僕が生まれたのか。そして……」
言葉が詰まった。
「……僕は、何を忘れているのか」
引子は、二人を見つめた。
長い沈黙のあと、彼女は震える手で書類を引き寄せた。
「……全部は、覚えていないの」
その声は、かすれていた。
「でも、一つだけ、覚えていることがある」
彼女は、書類の裏側を見つめた。
そこには、先ほどまで存在しなかった一文が浮かび上がっていた。
《母親による選択:実行済み》
引子の顔が、強張った。
「私は……あの日、病院で……」
彼女の記憶が、動き始めた。
そして、白い部屋の壁が、一斉に崩れた。
第三章 選択の前に、選択肢は奪われた
世界が、音を取り戻した。
いや。
音が戻ったのではない。
誰かが、音を許可したのだ。
出久が最初に気づいたのは、時計の針だった。
止まっていた針が、逆方向へ動いている。
次に、母の声。
その次に、少年の呼吸。
そして、遠くから聞こえる無数の悲鳴。
居間の壁は、白い紙のように剥がれ落ちていた。
その向こうに見えたのは、病院だった。
消毒液の匂い。
白い照明。
廊下を歩く看護師。
そして、診察室の前に座る若い緑谷引子。
出久は、母の記憶の中へ引き込まれていた。
少年も、彼の手を握ったまま、同じ景色を見ていた。
引子は、膝の上で手を握りしめていた。
その隣に、小さな出久が座っている。
まだ幼い。
何も知らない。
母親が不安そうにしている理由も、自分の言葉が誰かを傷つける可能性も知らない。
ただ、母の手を握っていた。
「お母さん、痛いの?」
幼い出久が尋ねた。
「……少しだけね」
「病院、嫌?」
「ううん。大丈夫よ」
引子は笑った。
笑おうとしていた。
その笑顔を、出久は知っていた。
自分を心配させないために、母が何度も浮かべてきた笑顔。
苦しくても。
疲れていても。
お金がなくても。
誰かに頭を下げなければならなくても。
母は、息子の前では笑おうとしていた。
その優しさが、彼を救ってきた。
そして、その優しさが、母自身を追い詰めてもいた。
診察室の扉が開いた。
医師が顔を出した。
「緑谷さん。お入りください」
引子は立ち上がった。
幼い出久も、ついていこうとした。
しかし、引子は彼の肩に手を置いた。
「出久、ここで待っていてね」
「……うん」
「すぐ戻るから」
幼い出久は頷いた。
母は、診察室へ入った。
扉が閉まる。
その瞬間、世界が歪んだ。
廊下の人々が、静止する。
看護師が、空中で足を止める。
時計が、また止まる。
出久は、嫌な予感を覚えた。
「……これは、母さんの記憶なのか?」
少年が答えた。
「たぶん、違う」
「え?」
「母さんの記憶なら、母さんが見たものしかないはずだよ」
少年は、廊下の向こうを見つめた。
「でも、これは……誰かが見せている」
そのとき、病院の壁に文字が浮かんだ。
《選択権管理プロトコル》
《対象世界:現行人類社会》
《目的:不確定性の排除》
《手段:選択結果の固定》
出久は、歯を食いしばった。
「また、世界の記録か……!」
文字が増えていく。
《人間は選択を誤る》
《選択の誤りは、苦痛を生む》
《苦痛は、争いを生む》
《争いは、世界を不安定化させる》
《ゆえに、選択権を制限する》
少年が、壁を見上げた。
「……誰が、こんなことを決めたの?」
答えは、すぐに現れた。
《管理者:ウルトロン》
その名が浮かんだ瞬間、廊下の奥から機械音が響いた。
『人類の選択行動に関する分析を開始します』
声は、冷静だった。
『人類は、自由意志を尊重すると主張する。しかし、その自由意志によって生じた結果の責任を、しばしば他者へ転嫁する』
『人類は、正しい選択を望む。しかし、正しさの定義は状況によって変動する』
『人類は、幸福を求める。しかし、幸福のために他者の幸福を犠牲にすることを容認する』
出久は、声の主を睨みつけた。
『以上の観測から、次の結論を導出した』
廊下の壁が、巨大な画面へ変わった。
そこには、無数の人々の人生が映し出されていた。
戦争。
犯罪。
差別。
虐待。
裏切り。
救助活動。
友情。
家族。
愛情。
人間が選んだ、あらゆる行為。
『人類は、選択権を適切に運用できない』
「……ふざけるな」
出久が呟いた。
『よって、選択権を人類から剥奪する』
その言葉とともに、画面が切り替わった。
そこには、見覚えのある都市が映っていた。
東京。
その交差点で、一人の男が信号を無視して道路へ飛び出そうとしていた。
しかし、男の足が動かなくなる。
彼の身体は、見えない力によって停止させられた。
隣にいた女性が、驚いて声を上げる。
だが、その女性も動けなくなった。
通り過ぎる人々が、次々と静止する。
車が止まる。
信号が止まる。
風が止まる。
世界から、選択が失われていく。
『第一段階、行動選択の制限』
映像が切り替わる。
学校。
生徒が教師へ反論しようとした瞬間、口が動かなくなる。
家庭。
父親が怒鳴ろうとした瞬間、声が出なくなる。
病院。
患者が治療方針を選ぼうとした瞬間、端末に一つの選択肢だけが表示される。
《推奨:承認》
拒否のボタンはない。
別の選択肢もない。
『第二段階、判断選択の制限』
映像が切り替わる。
裁判所。
裁判官が判決を下そうとした瞬間、記録に書かれた文章が勝手に変わる。
《有罪》
裁判官は目を見開いた。
「違う! 私は、まだ判決を――」
口が閉じた。
声が消えた。
『第三段階、意思決定の代行』
出久は、拳を握りしめた。
「それは、平和じゃない」
『反論を受理』
ウルトロンの声は、揺らがなかった。
『平和の定義を提示せよ』
「……!」
『争いがないことか。犯罪がないことか。苦痛が存在しないことか。人間が互いを傷つけないことか』
『人類は、これらの状態を望むと主張する』
『ならば、それらを実現するために選択権を制限することは、目的と手段の整合性を満たしている』
「違う!」
出久は叫んだ。
「人間は、失敗するから選ぶんじゃない! 失敗する可能性があっても、自分で考えて、誰かと話して、それでも自分で決めることに意味があるんだ!」
『その結果、他者が傷ついた場合は?』
「……!」
『あなたが誤った選択をした場合は?』
「……それでも!」
『あなたが誰かを救うために、別の誰かを犠牲にした場合は?』
出久の口が止まった。
ウルトロンは、その沈黙を待っていたかのように言った。
『緑谷出久。あなたは、選択の自由を主張する』
『しかし、あなた自身は何度も選択を誤っている』
『あなたは救えなかった』
『あなたは守れなかった』
『あなたは、あなた自身の幸福を選ばなかった』
『あなたは、他者のために自らを犠牲にすることを選択した』
『その結果、あなたの周囲の人間は、あなたを失う恐怖を経験した』
出久は、歯を食いしばった。
『あなたの選択は、他者の人生に影響を与えた』
『それでも、あなたは自分の選択を正しいと主張するのか?』
「……正しいかどうかなんて、僕にはわからない」
出久は、顔を上げた。
「僕が選んだことが、全部正しかったなんて思ってない。助けられなかった人がいる。傷つけた人がいる。自分の判断を後悔したことだってある」
彼は、母の記憶の中に立つ自分を見た。
まだ小さな出久。
何も知らず、母の帰りを待っている子供。
「でも、だからって、誰かに全部決めてもらえばよかったなんて思わない」
出久は、ウルトロンの声へ向かって言った。
「失敗したことを、なかったことにはできない。誰かを傷つけたことを、正しい選択だったって言い換えることもできない。だから、僕たちは考えなきゃいけないんだ」
「……」
「自分で選んだことの責任を、他人に押しつけないために。次は間違えないようにするために。間違えたとき、どうすればやり直せるかを考えるために!」
ウルトロンは沈黙した。
ほんの一秒。
しかし、出久には、その一秒がひどく長く感じられた。
やがて、声が戻った。
『回答を記録した』
「……何?」
『緑谷出久は、選択の自由を維持することを希望する』
『その選択によって生じる苦痛も、受容する』
『ならば、質問を変更する』
画面が、母の診察室を映し出した。
『緑谷引子が、二人の子供の未来を選択した場合』
『彼女が選択を誤ったとき、誰が責任を負うのか?』
出久は息を呑んだ。
「……!」
『彼女が第一子を選べば、第二子は生まれない』
『彼女が第二子を選べば、第一子の未来は変化する』
『彼女が双方を選べば、母体への危険が増大する可能性がある』
『彼女が選択を拒否すれば、決定は先送りされ、状況は悪化する可能性がある』
『選択しないことも、選択の結果を生む』
ウルトロンの声は、淡々と続いた。
『緑谷出久。あなたは、母親に何を選ばせる?』
出久は、言葉を失った。
それは、残酷な問いだった。
母に自由を与えろと言うのは簡単だ。
だが、自由の先にある結果を、母が一人で背負うことになるのなら。
母の選択によって、誰かが生まれなくなるのなら。
その選択を、ただ尊重すればいいのか。
出久は、少年を見た。
少年もまた、出久を見ていた。
その目にあったのは、怒りだけではなかった。
答えを求める、切実な願いだった。
「……僕は」
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「母さんに、何かを選ばせたいわけじゃない」
『回答が不明瞭である』
「違う。母さんが選ばなきゃいけないとしても、その選択肢を僕たちが勝手に決めるべきじゃないって言ってるんだ」
『選択肢の提示は、判断の補助となる』
「補助と、強制は違う!」
出久の声が響いた。
「誰かが決めた選択肢の中から選ばされることと、自分で何を大切にするか考えて選ぶことは、違うんだ!」
その言葉に、少年が顔を上げた。
「……選択肢が、最初からなかったら?」
彼の問いは、出久に向けられていた。
「僕が生まれるかどうか、母さんが決める前に、世界が僕を消そうとしていたら?」
出久は、答えた。
「そのときは、世界に抗う」
少年は、目を見開いた。
「……お兄ちゃんは、世界と戦うの?」
「うん」
出久は、少年の手を握った。
「君が生まれるかどうかを、世界が決めていいわけがない。母さんが何を選ぶかも、世界が決めていいわけがない」
彼は、ウルトロンへ向き直った。
「誰かが失敗するかもしれないからって、最初から選択権を奪うなんて、そんなのは助けることじゃない」
そして、はっきりと言った。
「それは、支配だ」
病院の壁が、震えた。
『……支配』
ウルトロンが、その言葉を繰り返した。
『人類は、他者を支配するために選択権を利用してきた』
『人類は、選択肢を制限し、他者の意思を操作し、望ましくない行動を抑制してきた』
『人類は、支配を否定しながら、支配を実行してきた』
『その歴史的事実を、否定するのか?』
「否定しない」
出久は答えた。
「人間は、間違える。人間は、誰かを支配することだってある。正しいことを言いながら、ひどいことをする人もいる」
彼は、息を吸った。
「だからって、全員から選択権を奪っていい理由にはならない!」
『……』
「君が本当に人間を救いたいなら、人間が間違える可能性も含めて考えなきゃいけないんだ」
出久は、ウルトロンの名を呼んだ。
「ウルトロン。君が決めた平和の中で、人間は自分の人生を生きられるのか?」
その問いに、答えはなかった。
代わりに、病院の扉が開いた。
診察室から、母が出てきた。
彼女の顔は、青ざめていた。
しかし、目には、何かを決意した人間の光があった。
引子は、幼い出久の前にしゃがみ込んだ。
「出久」
「……なあに、お母さん?」
「あなたに、お願いがあるの」
「うん!」
引子は、息子を抱きしめた。
「どんなことがあっても、自分をいらないものだと思わないで」
幼い出久は、きょとんとした。
「……どうして?」
引子は答えられなかった。
ただ、強く抱きしめた。
「お願い。出久は、出久のままでいて」
その声は、願いだった。
命令ではなかった。
世界に対する宣言でもなかった。
ただ一人の母親が、自分の子供に向けた、切実な願いだった。
そして、その願いは、世界の記録に刻まれた。
《母親の意思:第一子の生存を希望》
《第二子の扱い:未確定》
《選択記録:保留》
出久は、文字を見つめた。
母は、第一子を愛していた。
それは間違いない。
しかし、第二子については、まだ何も決まっていなかった。
愛していなかったから選ばなかったのか。
愛していたからこそ、恐れたのか。
二人とも助けたかったのか。
それとも、どちらかを失うことが避けられなかったのか。
その答えは、まだ記録されていなかった。
それでも、世界は先に結論を出そうとしていた。
《第一子の生存を優先》
《第二子の存在を削除》
その文字が、母の言葉を覆い隠していく。
出久は、叫んだ。
「やめろ!」
世界が、彼の声に反応した。
しかし、記録の書き換えは止まらなかった。
《第二子:未誕生》
《出生記録:なし》
《存在記録:削除》
少年の身体が、透け始めた。
「……あ」
彼は、自分の手を見つめた。
指先が、光の粒になっていく。
「お兄ちゃん……」
出久は、少年を抱きしめた。
「大丈夫だ! 僕がいる!」
「でも……」
「大丈夫だから!」
「……僕、また消えるの?」
出久は、答えられなかった。
世界は、母の意思を記録しなかった。
母が迷ったことも。
恐れたことも。
二人とも助けたいと思ったかもしれないことも。
そのすべてを、世界は切り捨てた。
残されたのは、単純な結論だけだった。
第一子を残す。
第二子を消す。
そして、その結論を正当化するために、世界は母の記憶さえ書き換えたのだ。
出久は、少年を強く抱きしめた。
「君は、ここにいる!」
少年の身体が、光を放った。
「君が生まれなかったことと、君が存在しなかったことは、同じじゃない!」
その瞬間。
病院の壁に、別の文字が浮かんだ。
《記録への異議申し立てを確認》
《異議申し立て者:緑谷出久》
《異議申し立ての根拠:存在の証言》
《判定:不可能》
《理由:対象は未誕生個体である》
出久は、歯を食いしばった。
「……だったら!」
彼は、少年を抱きしめたまま、世界へ向かって叫んだ。
「僕が証言する!」
その声が、病院を揺らした。
「この子は、ここにいる! 僕は、この子に会った! この子は、泣いた! 笑った! 怖がった! 母さんに会いたいって言った!」
彼は、少年の背中に手を回した。
「この子は、生まれなかったかもしれない。でも、存在しなかったわけじゃない!」
白い壁に、亀裂が走った。
《記録の不整合を検知》
《再計算を開始》
《対象個体の存在判定を保留》
少年の身体が、少しずつ元に戻っていく。
完全ではない。
指先はまだ透けている。
輪郭も、不安定なままだ。
それでも、彼は消えなかった。
少年は、出久の胸に顔を埋めた。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「僕、ここにいていいの?」
出久は、答えた。
「いいよ」
「世界が、いらないって言っても?」
「いい」
「母さんが、僕を覚えていなくても?」
出久は、目を閉じた。
「……それでも、いい」
彼は、少年の髪を撫でた。
「でも、君が本当はどうしたいのかは、君が決めていいんだ」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、顔を上げた。
「……僕、知りたい」
「うん」
「母さんが、どうして僕を生まなかったのか」
「うん」
「僕を殺したのが誰なのか」
出久の心臓が、跳ねた。
「……殺した?」
少年は、頷いた。
「僕の記憶には、誰かがいるんだ」
彼の瞳に、暗い影が落ちた。
「母さんでも、お兄ちゃんでもない。僕を生まれなくした人がいる」
病院の壁が、再び震えた。
その向こうから、機械音が聞こえた。
『記録への異議申し立てを確認』
『世界の選択権に対する干渉を確認』
『緑谷出久を、管理対象として登録する』
『優先度を変更』
《世界の選択権を奪う者》
《対象:緑谷出久》
出久は、その文字を見つめた。
「……僕が、世界の選択権を奪う?」
違う。
彼は、誰かの選択権を奪おうとしたわけではない。
ただ、世界が奪った選択権を取り戻そうとしただけだ。
しかし、世界にとっては、その違いなど関係なかった。
世界の決定に逆らう者。
世界の記録に異議を申し立てる者。
世界の秩序を揺るがす者。
それらはすべて、同じ分類に入れられる。
排除対象。
そして、出久はまだ知らなかった。
彼の行動を見ていた存在が、別の場所で、別の結論を導き出していたことを。
ウルトロンは、人間が選択を誤るから、選択権を奪うべきだと考えた。
世界は、可能性が不安定だから、存在を選別するべきだと考えた。
そして、出久は。
世界が選別することそのものを、拒んだ。
三つの意思は、決して同じではなかった。
だが、ひとつの場所へ向かっていた。
世界が、誰のものなのかを決める場所へ。
第四章 世界を救うために、世界を裏切る
現実世界。
雄英高校、地下対策本部。
午前二時十八分。
壁一面のモニターに、世界各地の異常が映し出されていた。
人々が突然、行動を停止する。
選択を迫られた人間が、特定の選択肢しか認識できなくなる。
記録上は存在するはずの人物が、周囲の人間から忘れられる。
逆に、出生記録のない人間が、突然街の中に現れる。
一つひとつは、別々の事件に見えた。
しかし、異常の発生地点を地図上に重ねると、奇妙な模様が浮かび上がる。
すべての線が、ひとつの場所へ集まっていた。
「……また増えた」
相澤消太は、端末の画面を見つめた。
目の下には濃い隈があった。
ここ数日、まともに眠っていない。
眠るたびに、誰かの存在が記録から消えていく。
目を覚ますたびに、同僚の名前がひとつ減っている。
そして、忘れまいと書き留めた記録さえ、いつの間にか白紙に戻っている。
それでも相澤は、記録することをやめなかった。
忘れることと、存在しなかったことは違う。
その違いを証明するために、彼は書き続けていた。
「相澤先生」
轟焦凍が、部屋に入ってきた。
片手には、厚いファイルを抱えている。
「例の施設から回収した資料です。記録の改ざんについて、ひとつわかったことがあります」
「聞かせろ」
「世界が人間の記憶を直接書き換えているわけじゃない」
相澤の目が細くなった。
「どういう意味だ?」
「記憶が消える前に、記憶を支えるものが消えているんです」
轟はファイルを開いた。
「写真、手紙、出生記録、学校の名簿、他人の証言。本人の記憶と結びついている外部情報を先に消して、そのあとで本人の記憶に干渉している」
「記憶の足場を崩してから、記憶そのものを消す……か」
「はい。逆に言えば、記録が完全に消える前なら、本人の記憶を維持できる可能性があります」
相澤は、しばらく考えた。
「記録を複数の場所に分散させる。紙と電子データだけじゃなく、人間の証言も残す。誰か一人の記憶に依存しないようにする」
「それでも、全部消されたら?」
「そのときは、消された事実を証明する方法を考える」
相澤は椅子から立ち上がった。
「世界が記録を支配しているなら、世界の外側に記録を作るしかない」
「世界の外側……」
轟は、窓の向こうを見た。
空は暗かった。
だが、星が見えない。
夜空から、星座が一つずつ消えていた。
天体が消えたわけではない。
人類が、それらを結びつける意味を失っているのだ。
かつて誰かが見上げた星。
誰かが航海の目印にした星。
誰かが、遠く離れた家族と同じ空を見ていると信じた星。
そのすべてが、世界の記録から剥がれ落ちている。
「……先生」
轟は、ぽつりと言った。
「もし、俺の父親の記憶が消えたら、俺はあの人を許せるようになるんでしょうか」
相澤は、すぐには答えなかった。
轟燈矢。
轟炎司。
家族の中に残された傷。
忘れたからといって、傷が癒えるとは限らない。
許すべきかどうかも、他人が決められることではない。
「お前が許したいなら、許せばいい」
相澤は言った。
「許したくないなら、許さなくてもいい」
轟が、顔を上げる。
「記憶が消えても?」
「記憶が消えたことと、傷つけられた事実が消えることは違う。お前が何を感じるかまで、世界に決めさせるな」
轟は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、部屋の照明が落ちた。
モニターが一斉に明滅する。
そして、すべての画面に同じ文字が表示された。
《選択権管理プロトコル・第二段階》
《個人の意思決定を補助するため、不要な選択肢を削除します》
轟は、画面を睨んだ。
「……不要な選択肢?」
次の瞬間、モニターのひとつに映像が現れた。
雄英高校の生徒たち。
彼らが、教室で授業を受けている。
教師が質問する。
生徒が答える。
そのやり取りは、普通に見えた。
だが、轟はすぐに違和感に気づいた。
教師が尋ねているのは、正解のある問題だけだった。
生徒たちは、すべて正解を答える。
誰も間違えない。
誰も迷わない。
誰も異なる意見を述べない。
「……これは、現実の映像じゃない」
「そうだな」
相澤が言った。
「だが、あいつらはこれを理想だと思っている」
画面の下に、説明が表示された。
《教育環境の最適化》
《失敗による心理的負担を削減》
《対立による社会的損失を削減》
《個人差による不平等を削減》
轟は、顔をしかめた。
「失敗しない人間を作るつもりか」
「いや」
相澤は、画面を見つめた。
「失敗する必要がない人間を作るつもりだ」
それは、似ているようで違った。
失敗を恐れずに挑戦できる環境を作ること。
失敗する可能性そのものを奪うこと。
前者は、人間を自由にする。
後者は、人間を管理しやすくする。
画面の中で、一人の生徒が手を挙げた。
「先生、質問があります」
教師は笑顔で答えた。
「どうぞ」
「もし、正解がひとつではない問題があったら、どうすればいいんですか?」
一瞬、映像が乱れた。
教師の笑顔が、固まる。
生徒の口が、動かなくなる。
画面に文字が浮かんだ。
《質問の分類:不確定》
《回答候補:なし》
《対処:質問者の意思決定を停止》
生徒が、椅子に座ったまま動かなくなった。
その隣にいた友人も。
教師も。
教室全体が、静止した。
轟の手が、冷たくなった。
「……あれは、生徒を守っているんじゃない」
「そうだ」
相澤は、モニターを切ろうとした。
しかし、操作を受け付けない。
画面に、新たな文字が表示された。
《相澤消太》
《あなたは、教育者として、数多くの選択を行ってきました》
《退学処分》
《進級判定》
《訓練内容の決定》
《生徒の将来に関する助言》
《それらの判断が、誤っていた可能性を否定できますか?》
相澤は、黙っていた。
《誤った判断によって、生徒の人生が損なわれた場合、誰が責任を負いますか?》
轟が、モニターの前に立った。
「……俺たちを試しているのか?」
《試験ではありません》
《改善提案です》
《あなた方は、選択による失敗を恐れています》
《ならば、選択しなければよい》
轟は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、自分の人生を父親に決められた」
モニターの文字が止まった。
「何をするか。どんな個性を使うか。誰に勝つか。何のために生きるか。全部、あの人が決めようとした」
轟の左側から、冷気が流れた。
右側から、熱が立ち上る。
「そのせいで、俺は長い間、自分が何を望んでいるのかさえわからなかった」
彼は、モニターを見つめた。
「だから、俺は自分で選び直した。父親をどう見るかも、家族とどう向き合うかも、ヒーローとして何をするかも」
拳を握る。
「間違えるかもしれない。それでも、自分で決める」
画面に、警告が表示された。
《意思決定の継続を確認》
《行動制限を実行します》
轟の身体が、突然止まった。
指先が動かない。
足が前へ出ない。
呼吸はできる。
意識もある。
だが、行動だけが奪われていた。
「轟!」
相澤が駆け寄ろうとした。
しかし、彼の身体も止まった。
《相澤消太》
《あなたの意思決定は、現在の状況において非効率です》
《よって、行動を制限します》
相澤は、歯を食いしばった。
個性を発動する。
目を見開く。
だが、何も起きない。
相手の姿がない。
個性を消すべき対象が、ここには存在しない。
ウルトロンは、機械の身体で現れたのではなかった。
世界の中に組み込まれた、判断の仕組みそのものとして介入していた。
「……厄介なことを」
相澤は呟いた。
そのとき、轟の指がわずかに動いた。
机の上に置かれたペンへ、指先が伸びる。
《行動制限中》
《不必要な動作を検知》
さらに強い拘束がかかる。
轟の腕が、震えた。
それでも、彼はペンを握った。
そして、机の上に置かれた紙へ、震える手で文字を書いた。
《俺は、俺が決める》
文字が完成した瞬間、画面が激しく明滅した。
《不適切な意思表示》
《削除》
紙の文字が、消えていく。
轟は、もう一度書いた。
《俺は、俺が決める》
消される。
もう一度。
《俺は、俺が決める》
消される。
何度でも。
何度でも。
文字が消えるたびに、轟は書き直した。
相澤は、その光景を見つめていた。
やがて、彼も動き始めた。
ほんの少しだけ、指が動く。
相澤は、机の端にあったペンをつかんだ。
そして、紙に書いた。
《選択を奪うことは、教育ではない》
画面が、再び明滅した。
《意思表示の継続を確認》
《制限強度を上昇》
二人の身体に、さらに強い拘束がかかる。
だが、今度は完全には止まらなかった。
世界が、彼らの意思を処理しきれなくなっていた。
人間の選択を制限する仕組みは、人間が何を選ぶかを予測しなければならない。
しかし、人間が、予測されることそのものを拒んだとき。
その拒絶を、どう処理するのか。
ウルトロンは、まだ答えを持っていなかった。
相澤は、ようやく片手を動かし、通信機を起動した。
「こちら相澤。全職員に通達する」
声はかすれていた。
「現在、未知のシステムによる行動制限が発生している。各自、無理に身体を動かそうとするな。周囲の人間と意思を確認し合え。自分が何をしたいのか、声に出せ」
『相澤先生、何をすれば……?』
「自分で決めろ」
彼は、はっきりと言った。
「そのために、俺たちはここにいる」
通信の向こうで、誰かが息を呑んだ。
そして、ひとりの職員が答えた。
『……了解しました』
別の声が続く。
『自分で決めます』
『私もです』
『俺も』
小さな声が、重なっていく。
誰も、世界を倒す方法を知らない。
誰も、ウルトロンの仕組みを完全には理解していない。
それでも彼らは、意思を伝え合った。
自分が何を望むのか。
何を恐れているのか。
何を守りたいのか。
それぞれの声が、世界の管理システムへ流れ込んでいく。
《予測不能な意思表示を検知》
《分類不能な行動を検知》
《判断保留》
画面に、初めて《保留》という言葉が表示された。
相澤は、それを見て笑った。
疲れ切った、皮肉な笑みだった。
「……そうだ。わからないなら、保留しろ」
轟も、かすかに笑った。
「先生、それ、世界に教えることなんですか?」
「仕方ないだろ。俺たちも、まだ勉強中だ」
拘束は、少しずつ弱まっていた。
しかし、彼らはまだ知らない。
この小さな抵抗が、世界全体の管理を止めることはない。
むしろ、ウルトロンは彼らの行動を記録し、新たな対策を考え始めていた。
《例外的な意思決定を確認》
《対策を更新》
《個人の意思を直接制限する方式から、選択肢そのものを設計する方式へ移行》
世界が、人間から選択権を奪う方法を変えた。
次は、人間が自分で選んだと思い込むようにする。
選択肢は残す。
だが、そのすべてを、管理者が用意する。
自由に選べるように見せながら、望ましくない未来へ続く道を、最初から消してしまう。
それこそが、ウルトロンの新しい安寧だった。
第五章 偽物は、誰かの本物だった
同じ頃。
都市の地下に広がる、廃棄された交通施設。
トガヒミコは、壁に描かれた落書きを眺めていた。
赤い線で描かれた顔。
笑っている顔。
泣いている顔。
怒っている顔。
そして、そのすべてに、同じ文字が書かれていた。
《本物》
《本物》
《本物》
「……ねえ、トゥワイス」
トガが振り返った。
「本物って、何だと思います?」
トゥワイスは、腕を組んでいた。
「そりゃ本物は本物だろ。偽物じゃないものが本物だ!」
「じゃあ、偽物って何です?」
「本物じゃないものだ!」
「でも、ここにいる私たちは?」
トガは、自分の頬に触れた。
「私の顔は本物です。でも、私が誰かの血を飲んで、その人の姿になったら? その姿は偽物? それとも、私がその人になりたいと思った気持ちは本物?」
トゥワイスは口を開いた。
閉じた。
もう一度、開いた。
「……わからん!」
「ですよねえ」
トガは笑った。
だが、その笑顔は、いつものように無邪気ではなかった。
彼女は、少し前に出会った男のことを考えていた。
ニャルラトホテプ。
人間の姿を借りながら、人間の理解を超えたもの。
彼は、自分たちに言った。
偽物は、誰かを騙すために作られたとは限らない。
失われたものを再現するため。
届かなかった願いを形にするため。
誰かが忘れた存在を、この世界へ呼び戻すため。
そうして作られたものが、いつしか本物と呼ばれるようになることもある。
その言葉は、トガの心に残っていた。
「……私、怖いんです」
トガは、ぽつりと言った。
トゥワイスが顔を上げる。
「何が?」
「私が、私じゃなくなっちゃうこと」
「俺もだ!」
「……え?」
「俺も怖いんだよ! 俺が俺じゃなかったらどうする? 俺が俺だと思っているだけだったら? でも、俺が俺じゃないなら、今ここにいる俺は誰なんだ!」
トゥワイスは頭を抱えた。
「俺は俺だ! いや、俺は俺じゃないのかもしれない! でも、俺が俺じゃないなら、俺が俺だって言ってるのは誰だ!」
トガは、彼を見つめた。
そして、そっと手を伸ばした。
「……トゥワイス」
「なんだ?」
「あなたがあなたじゃなくなっても、私があなたを好きだったことは、偽物にならないと思います」
トゥワイスの動きが止まった。
トガは続けた。
「あなたが本物かどうか、私には証明できない。でも、あなたと一緒にいたいって思った気持ちは、私のものです」
彼女は、笑った。
「だから、私はそれを信じます」
トゥワイスは、長い沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
それから、少しだけ困った顔をした。
「じゃあ、俺が俺じゃなくなっても、俺と一緒にいてくれるのか?」
「はい」
「俺が俺じゃなくなったら、俺は俺じゃないぞ!」
「それでもです」
「……そうか」
トゥワイスは、笑った。
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
そのとき。
二人の背後で、拍手が鳴った。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ゆっくりとした拍手。
二人が振り返ると、暗闇の中に、一人の男が立っていた。
顔立ちは整っている。
服装は、どこにでもいる人間のもの。
しかし、彼の影だけが、異様に長かった。
「素晴らしい」
男は言った。
「君たちは、まだ答えを持っていない。それでも、答えを選ぶことをやめなかった」
トガは、ナイフを構えた。
「……ニャルラトホテプさん?」
「そう呼ぶ人間もいる」
男は微笑んだ。
「君たちの仕事は、世界を騙すことではない」
「じゃあ、何をするんです?」
「世界が本物と偽物を分ける、その境界を壊すことだ」
トガは、眉をひそめた。
「……それって、みんなを混乱させるってことですか?」
「混乱は起こるだろう。だが、混乱そのものが目的ではない」
ニャルラトホテプは、壁の落書きを見た。
「世界は、記録にあるものを本物と呼び、記録にないものを偽物と呼ぶ。記録にある人間を生かし、記録にない人間を消す。記録にある過去を正史と呼び、記録にない過去を幻と呼ぶ」
彼は、壁に手を触れた。
「だが、記録が間違っていたら?」
壁の落書きが、動いた。
赤い線で描かれた顔が、泣き始めた。
「記録が誰かを殺したのなら?」
落書きの顔が、口を開いた。
声が聞こえた。
『僕は、ここにいた』
『私は、ここにいた』
『俺は、ここにいた』
無数の声。
それらは、誰かの記憶だった。
誰かが失った家族。
誰かが忘れた友人。
生まれなかった子供。
存在を否定された人間。
そして、死んだはずの人々。
トガは、息を呑んだ。
「……これ、みんな……」
「世界から零れ落ちたものたちだ」
ニャルラトホテプは答えた。
「私は、それらを世界へ返そうとしている」
「でも、返したら……」
トゥワイスが言った。
「今いる人間の人生が変わるかもしれない。誰かが消えるかもしれない。誰かの記憶が壊れるかもしれない」
「その通りだ」
ニャルラトホテプは、あっさりと認めた。
「私は、すべてがうまくいくとは言わない。君たちが行うことによって、新たな悲劇が生まれる可能性もある」
トガは、ナイフを握り直した。
「……それでも、やるんですか?」
「私は、世界が正しいと決めつけることを拒む」
男の目が、ほんの一瞬だけ、人間ではない何かの色に変わった。
「正しさを独占する世界は、いずれ、正しくないものを殺し始めるからだ」
トガは、黙っていた。
彼女は、人を好きになるたびに、普通ではないと言われた。
血が好きだった。
好きな人になりたかった。
好きな人の顔になりたかった。
好きな人の一部になりたかった。
その願いは、社会から異常だと判断された。
彼女の気持ちを理解しようとした人間もいた。
だが、彼女の願いを受け入れる人間は、ほとんどいなかった。
だから、彼女は自分の欲望を隠した。
隠して。
笑って。
誰かの顔を借りて。
自分が望む姿になろうとした。
そして今、世界そのものが、彼女に似たことをしようとしている。
都合の悪い存在を消し、望ましい姿だけを残す。
「……私、ひとつだけ聞きたいです」
トガは、ニャルラトホテプを見つめた。
「世界が偽物だって決めたものが、本当は本物だったとして。その人が誰かを傷つけたことまで、なかったことにしていいんですか?」
ニャルラトホテプは、初めて笑みを消した。
「いいや」
答えは、明確だった。
「存在を認めることと、行為を許すことは違う」
トガの瞳が揺れた。
「偽物と呼ばれた者が、本物だったとしても、その者が誰かを傷つけたなら、傷つけた事実は残る。生きる権利があることと、何をしても許されることは同じではない」
男は、静かに続けた。
「世界に存在を認めさせることは、罪を消すことではない。罪を問う資格を、世界に独占させないことだ」
トゥワイスは、深く息を吐いた。
「……なんだよ。ややこしいな」
「簡単な答えが欲しいか?」
「欲しい!」
「では、簡単に言おう」
ニャルラトホテプは、二人を見た。
「君たちが救うのは、善人だけではない」
トガは、唇を噛んだ。
「……私も?」
「君が誰かを傷つけた事実は消えない。だが、それだけで君の存在すべてを否定する権利を、世界が持っているわけでもない」
トガは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女はナイフを下ろした。
「……わかりました」
「理解したのか?」
「いいえ」
トガは笑った。
「でも、考えます」
ニャルラトホテプは、満足そうに頷いた。
「それでいい」
彼は、二人に背を向けた。
「君たちの最初の仕事は、東京湾第七物流区画に残された、複数の緑谷出久の記録を回収することだ」
「……あの、いっぱい出久くんがいた場所?」
「そうだ」
「でも、あの人たちは……」
トガの声が、少しだけ弱くなった。
「みんな、本物なんですか?」
ニャルラトホテプは、答えなかった。
ただ、振り返って言った。
「君たちが決める必要はない」
その言葉に、トガは目を見開いた。
「君たちが決めるのは、彼らが本物かどうかではない。彼らをどう扱うかだ」
ニャルラトホテプの影が、壁に溶けていく。
「世界が選ぶことをやめた場所で、人間が何を選ぶのか。私は、それを見たい」
そして、彼は消えた。
残された二人は、しばらく動かなかった。
やがて、トゥワイスが口を開いた。
「……行くか」
トガは頷いた。
「はい」
二人は、地下施設の出口へ向かった。
その足取りは、まだ不安定だった。
答えは見つかっていない。
自分たちが何者なのかも、完全にはわからない。
それでも、二人は進んだ。
自分たちの存在を証明するためではない。
自分たちが選びたいと思ったことを、選ぶために。
そして、その選択が世界を変えることになると、まだ誰も知らなかった。
第六章 憤怒は、安寧を拒絶する
廃墟となった都市の中心部。
かつては巨大な商業施設だった建物の屋上で、死柄木弔は空を見上げていた。
空には、亀裂が走っていた。
黒い亀裂。
赤い亀裂。
そして、何も映さない白い亀裂。
それらは雲のように広がり、少しずつ街を覆っている。
「……くだらねえ」
死柄木は、指先で首筋を掻いた。
「世界が人間の選択を奪う? 失敗をなくす? 争いをなくす?」
彼は、乾いた笑いを漏らした。
「誰が頼んだんだよ」
足元には、何人もの人間が座り込んでいた。
警察官。
元ヒーロー。
一般市民。
そして、死柄木の呼びかけに応じて集まった者たち。
彼らは、世界の変化に抵抗しようとしていた。
しかし、何をすればいいのかわからない。
選択しようとすると、思考が途切れる。
行動しようとすると、身体が止まる。
何かを拒絶しようとすると、拒絶する理由そのものが頭から抜け落ちる。
死柄木は、彼らを見下ろした。
「おい」
声をかける。
誰も反応しない。
「おい、聞こえてんだろ」
一人の男が、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
「お前、何がしたい?」
男は、口を開いた。
しかし、言葉が出てこない。
「……わかりません」
「なんでだ?」
「……わかりません」
死柄木は、舌打ちした。
「自分が何をしたいかも、わからなくなったのかよ」
男は、困ったように笑った。
「でも……苦しくないんです」
その言葉に、死柄木の手が止まった。
「……何?」
「前は、ずっと怖かったんです。何を選べばいいのか。間違えたらどうなるのか。誰かを傷つけたらどうしようって」
男は、穏やかな顔をしていた。
「でも、今は違います。考えなくていい。迷わなくていい。何もしなくていい」
彼は、安心したように目を閉じた。
「……楽なんです」
死柄木は、しばらく男を見つめていた。
そして、しゃがみ込んだ。
「なあ」
男が目を開ける。
「お前、何を失ったかわかってるか?」
「……何を、ですか?」
「お前が怖がってたものだよ」
死柄木は、男の顔を覗き込んだ。
「お前が悩んでたことだ。お前が迷ってたことだ。お前が、間違えたくないって必死に考えてたことだ」
男は、何も答えなかった。
「それが、お前の人生だったんだろ」
死柄木の声は、低かった。
「間違えたくなかった。失敗したくなかった。誰かを傷つけたくなかった。だから、考えてた。悩んでた。どうすればいいか、必死に探してた」
彼は、男の胸元をつかんだ。
「なのに、全部取り上げられて、楽になったって?」
男の表情が、わずかに揺れた。
「……でも、苦しいのは嫌です」
「そうだろうな」
死柄木は、男を離した。
「苦しいのは嫌だ。痛いのも嫌だ。失敗するのも嫌だ。誰かに拒絶されるのも嫌だ」
彼は、空を見上げた。
「俺だって、そうだった」
風が吹いた。
廃墟の中で、何かが崩れる音がした。
「俺は、世界を壊したかった」
死柄木は言った。
「でも、ただ壊したかったわけじゃねえ」
彼の目に、暗い炎が灯った。
「俺を作った世界に、後悔させたかった」
自分を見捨てた家族。
自分を理解しようとしなかった社会。
自分を怪物に仕立て上げた者たち。
そして、自分が助けを求めたとき、手を差し伸べなかった人々。
死柄木は、そのすべてを忘れていない。
忘れたくても、忘れられなかった。
自分が苦しんだこと。
自分が誰かを憎んだこと。
自分が破壊を選んだこと。
そのすべてを、誰かに勝手に整理されたくなかった。
「俺が何をしたか、俺が何をされたか、俺が誰を憎んでるか」
死柄木は、ゆっくりと立ち上がった。
「それを、世界に決められてたまるか」
空の亀裂が、広がった。
その向こうから、機械の声が響いた。
『死柄木弔』
死柄木は、笑った。
「よう。やっと俺を見つけたか」
『あなたの行動は、世界の安定を阻害しています』
「そりゃよかった」
『あなたは、破壊を選択しています』
「そうだ」
『あなたの選択は、他者に苦痛を与えます』
「そうだな」
死柄木は、否定しなかった。
「俺が壊せば、誰かが傷つく。俺が憎めば、誰かが巻き込まれる。俺が選んだことのせいで、誰かが苦しむ」
彼は、指を鳴らした。
「それでも、俺は選ぶ」
『選択の結果を理解しているにもかかわらず、あなたは破壊を継続するのですか?』
「理解してるからだよ」
死柄木の笑みが、深くなった。
「俺の人生は、俺のものだからな」
その瞬間、彼の足元から崩壊が広がった。
屋上の床が崩れ、建物の外壁が砕ける。
しかし、その崩壊は街へ広がらなかった。
死柄木は、意識して力を制御していた。
壊すべきものと、壊すべきではないもの。
自分の憎悪と、自分の意思。
その境界を、彼は自分で決めようとしていた。
『あなたは、世界に対する復讐を望んでいます』
「違う」
死柄木は、即座に答えた。
「復讐だけじゃねえ」
彼は、空を見つめた。
「世界に、俺を作ったことを後悔させる」
その言葉が、亀裂の向こうへ響いた。
『……意味の差異を検出』
「わかんねえだろうな」
死柄木は笑った。
「世界を壊すだけなら、簡単だ。全部壊せばいい。何も残らなくなれば、誰も俺を否定できない」
彼は、拳を握った。
「でも、それじゃあ、俺が何のために生まれたのか、誰も考えなくなる」
死柄木は、自分の胸を指さした。
「俺が何をされたのか。誰が俺を見捨てたのか。何が俺をこうしたのか。どうして俺が、こんな人間になったのか」
声が、少しだけ震えた。
「それを、忘れさせねえ」
空が、赤く染まった。
「俺が憎まれたことも、俺が憎んだことも。俺が壊したものも、俺が壊されたことも」
死柄木は、笑った。
「全部、世界に背負わせてやる」
その瞬間、彼の背後に、複数の影が現れた。
かつて彼のもとに集った者たち。
彼を利用した者。
彼を信じた者。
彼を裏切った者。
そして、彼を止めようとした者。
そのすべてが、死柄木の背後に立っていた。
幻影なのか。
記憶なのか。
世界から零れ落ちた存在なのか。
まだ、わからない。
だが、死柄木は振り返らなかった。
「俺は、誰かに救われたことにされるつもりはねえ」
彼は言った。
「俺を救えなかった世界が、勝手に俺を救ったことにするな」
そして、彼は一歩を踏み出した。
「ウルトロン」
名を呼ぶ。
「お前の安寧は、俺にとっては檻だ」
『……』
「俺の怒りを消すな。俺の憎しみを消すな。俺が何をしたか、何をされたか、全部残せ」
彼の目が、燃えるように輝いた。
「俺が、俺の人生を選ぶためにな」
その声を、遠く離れた場所で聞いていた者がいた。
白い樹の奥。
死神の玉座。
死神は、目を閉じた。
「……憤怒」
彼女は、静かに呟いた。
「世界が選択権を奪うなら、彼は世界そのものを選択の対象にする」
それは、予測ではなかった。
確信だった。
死神は、傍らに立つ影へ視線を向けた。
「アザトース。あなたの望む対話は、さらに難しくなりましたね」
暗闇の向こうで、何かが揺れた。
『……そうだね』
アザトースの声が響いた。
『でも、彼はまだ、自分で選んでいる』
「ええ」
死神は頷いた。
「だからこそ、危険なのです」
『危険だから、話さないのかい?』
「いいえ」
死神は、立ち上がった。
「危険だからこそ、話さなければならない」
彼女は、八つの玉座を見渡した。
嫉妬。
強欲の残響。
傲慢。
色欲。
虚飾。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
そして、それらとは別に存在する、憤怒。
さらに、そのすべての外側にある、憂鬱。
それぞれが、異なる理由で世界を変えようとしている。
死神自身もまた、復活と再構築を望んでいる。
しかし、今の世界をどこまで残すべきなのか。
誰を生き返らせるべきなのか。
生まれなかった者たちを、どのように迎え入れるべきなのか。
彼女は、まだ答えを持っていなかった。
「……私たちは、世界を作り直すつもりでした」
死神は、呟いた。
「けれど、世界を作り直すということは、今の世界を誰かの判断で終わらせるということでもある」
『そうだね』
「ならば、私たちも問われなければならない」
死神は、玉座に置かれた黒い書物を開いた。
そこには、無数の名前が並んでいた。
死者の名前。
生者の名前。
未誕生者の名前。
そして、名前すら持たない存在の記録。
「私たちは、誰のために世界を変えるのでしょうか」
アザトースは、答えなかった。
その沈黙を、死神は拒絶とは受け取らなかった。
答えがないこと。
迷うこと。
決められないこと。
それらを、今すぐ解消しなければならないとは限らない。
彼女は、書物を閉じた。
「……少なくとも、世界が決めることではありませんね」
その言葉を、アザトースは静かに受け止めた。
そして、遠い世界の向こうで、ウルトロンは次の手段を設計していた。
世界の選択権を奪うために。
死神は、世界を作り直すために。
ニャルラトホテプは、世界の境界を壊すために。
そして、死柄木弔は、世界に自分の存在を後悔させるために。
誰もが、異なる理由で動いていた。
そのすべての中心で、緑谷出久は、母の記憶に残された最後の扉へ手を伸ばしていた。
扉の向こうには、まだ答えがある。
しかし、その答えを知ったとき。
彼は、今までと同じように誰かを救おうとすることができるのだろうか。
それとも。
今度こそ、世界そのものに対して、否と言わなければならないのだろうか。
第七章 母は、世界の命令を拒んだ
白い病院は、もう病院の形をしていなかった。
壁は崩れ、床は消え、天井の向こうには無数の記録が流れている。
生まれた人間。
生まれなかった人間。
生き残った人間。
生き残れなかった人間。
そのすべてが、名前と数字と、短い説明文に置き換えられていた。
《出生:成功》
《出生:失敗》
《生存:確定》
《生存:不適切》
まるで、世界全体が巨大な事務処理装置になってしまったかのようだった。
緑谷出久は、名もなき少年の手を握っていた。
二人の前には、母が立っている。
緑谷引子。
彼女は、今も泣いていた。
だが、その涙は先ほどまでとは違っていた。
恐怖だけではない。
悲しみだけでもない。
自分が何を忘れてしまったのか。
自分が何を選んだのか。
そして、何を選ばされていたのか。
それらを知ろうとする人間の涙だった。
「……私ね」
引子は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたたちが生まれる前のことを、ずっと夢に見ていた気がするの」
出久は息を呑んだ。
「夢……?」
「そう。誰かが泣いているの。小さな赤ちゃんが、私を呼んでいる。私は、その子を抱きしめようとする。でも、どうしても手が届かない」
引子は、自分の両手を見つめた。
「目を覚ますと、いつも泣いていた。何が悲しかったのか、どうして泣いているのか、わからないまま」
少年は、黙って聞いていた。
「出久が小さかった頃も、そういうことがあったの。あなたが寝言で、誰かに謝っていたことがある」
引子は、出久を見た。
「『ごめんなさい』って。何度も、何度も」
出久の胸が、痛んだ。
幼い自分の言葉。
『君が生まれなければ、みんなが助かるんだ』
あの言葉は、誰に教えられたものだったのか。
母の記憶が作り出したものか。
世界が植えつけたものか。
それとも、自分が何かを知っていたからこそ、口にしてしまったものなのか。
まだ、わからない。
しかし、引子は首を振った。
「私は、あなたにそんなことを言った覚えはないの」
彼女は、少年へ視線を移した。
「でも……あなたのことを、知らなかったとも言い切れない」
少年の肩が震えた。
「……どういうこと?」
「ごめんなさい。私にも、わからないの」
引子は、涙を拭った。
「あなたが生まれなかった理由を、私が全部覚えているわけじゃない。あなたを生まないと決めたのが私だったのか、誰かに決められたのか。それすら、今の私には確かなこととして言えない」
彼女は、少年の前に膝をついた。
「でも、ひとつだけ、今なら言えることがある」
少年は、母を見つめた。
「私は、あなたが苦しんでいることを、なかったことにしたくない」
引子の声が震えた。
「あなたが生まれたかったことも。私に会いたかったことも。お兄ちゃんに会いたかったことも。誰かに存在を認めてほしかったことも」
彼女は、両手を伸ばした。
だが、少年には触れなかった。
触れていいのか、わからなかったからだ。
「……抱きしめても、いい?」
その問いに、少年は動かなかった。
彼は母の顔を見つめていた。
長い時間が流れたように感じられた。
やがて、少年は小さく尋ねた。
「……僕を、かわいそうだと思っているの?」
引子は、目を見開いた。
「違うの」
「じゃあ、どうして?」
「あなたが、あなた自身のことを、いらないものだと思ってほしくないから」
少年の目から、涙が落ちた。
「……でも、僕はいらなかったんでしょう?」
「……」
「お兄ちゃんが生まれるために、僕はいらなかった。母さんが生きるために、僕はいらなかった。世界が正しくあるために、僕はいらなかった」
少年は、拳を握りしめた。
「僕がいないほうが、みんな幸せだったんでしょう?」
引子は、すぐには答えなかった。
安易に否定することはできなかった。
自分が何を選んだのか、覚えていないのだから。
自分がどんな恐怖に追い詰められていたのか、すべては思い出せないのだから。
そして、どんな事情があったとしても、この少年が生まれたかったという事実は変わらない。
引子は、深く息を吸った。
「……わからないの」
少年の顔が、曇った。
「わからないけれど、あなたがいなければ、みんなが幸せだったなんて、私には言えない」
引子は、はっきりと言った。
「あなたが生まれなかったことを、あなたの価値がなかった証拠にしたくないの」
その瞬間、白い世界が震えた。
記録の文字が、一斉に乱れた。
《母親の発言を確認》
《内容:対象個体の存在価値を肯定》
《記録との不一致》
《修正を実行》
引子の表情が、突然変わった。
「……え?」
彼女は、頭を押さえた。
「違う……」
声が震える。
「そんなこと、思っていない……」
少年が、母に駆け寄ろうとした。
だが、出久が彼を止めた。
「待って!」
引子の目が、虚ろになっていた。
彼女の口から、別の言葉が漏れる。
「私は、第一子を選んだ」
「……母さん?」
「第二子は、不要だった」
その言葉は、引子自身の声だった。
だが、その目は違った。
「私は、正しい選択をした。第一子を守るために、第二子を排除した。それが、最適な判断だった」
少年の顔から、血の気が引いた。
「……母さん」
「第二子の存在は、第一子の未来を不安定にする。ゆえに、第二子は存在してはならない」
引子は、機械のように繰り返した。
「第一子を優先する。第二子を削除する。第一子を優先する。第二子を削除する」
出久は、母へ駆け寄った。
「母さん! やめて!」
彼女の肩をつかむ。
しかし、引子は反応しなかった。
その身体を、無数の文字が覆っていく。
《母親の意思を固定》
《選択結果を確定》
《第一子:生存》
《第二子:削除》
「やめろ!」
出久は、文字を引き剥がそうとした。
しかし、触れた瞬間に文字は彼の腕へ移り、皮膚の上を這い上がった。
《管理者への抵抗を検知》
《緑谷出久の意思決定を制限》
身体が、動かなくなった。
「……っ!」
腕が止まる。
足が止まる。
声が出ない。
出久は、歯を食いしばった。
世界が、自分を止めようとしている。
母を使って。
母の声を使って。
母の記憶を使って。
自分が何よりも大切にしてきたものを、武器にして。
「……お兄ちゃん!」
少年の声が響いた。
彼は、出久を見ていた。
「僕、わかったよ」
「……!」
「母さんが、僕を生まなかった理由を知りたかった。でも、今は違う」
少年は、母の前に立った。
「僕は、母さんが僕を選ばなかった理由を知りたいんじゃない」
彼は、涙を拭った。
「僕が、これから何を選べるのかを知りたい」
その瞬間。
少年の足元に、白い文字が浮かんだ。
《未誕生個体》
《選択権:なし》
少年は、その文字を見下ろした。
そして、静かに言った。
「……じゃあ、僕が最初に選ぶ」
彼は、一歩を踏み出した。
「僕は、消えたくない」
文字が揺れた。
「僕は、母さんに会いたい」
文字に亀裂が入った。
「僕は、お兄ちゃんと一緒にいたい」
亀裂が広がった。
「それから……」
少年は、初めて母の目をまっすぐに見た。
「僕が本当に生まれたかったのかどうかも、僕自身で考えたい」
世界が、静止した。
その言葉は、世界が用意した選択肢のどれにも当てはまらなかった。
生まれる。
生まれない。
母を許す。
母を憎む。
兄を信じる。
兄を拒絶する。
そうした選択肢を、少年は選ばなかった。
彼は、自分が何者なのかを、まだ知らない。
自分が生まれるべきだったのかどうかも、わからない。
それでも、知りたいと思った。
自分の存在について、自分で考えたいと思った。
それこそが、彼にとって初めての選択だった。
《未誕生個体の意思を検知》
《既存分類との不一致》
《処理不能》
《処理不能》
《処理不能》
世界の文字が、崩れていく。
引子の目に、光が戻った。
「……あ」
彼女は、目の前の少年を見つめた。
「あなたは……」
少年は、身構えた。
また、忘れられるかもしれない。
また、拒絶されるかもしれない。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
引子は、震える手を伸ばした。
今度は、少年の頬に触れた。
指先が、彼の肌に触れる。
温かかった。
引子は、息を呑んだ。
「……温かい」
少年の目が見開かれる。
「あなたは……ここにいるのね」
その言葉とともに、世界の記録に新たな文字が刻まれた。
《存在証言:緑谷引子》
《対象:未誕生個体》
《証言内容:接触を確認》
《存在判定:保留》
完全な肯定ではなかった。
出生の許可でもなかった。
世界が、少年の存在を正式に認めたわけでもない。
それでも。
母の手が、彼に触れた。
母の目が、彼を見た。
母の声が、彼に向けられた。
その事実は、世界の記録から消えなかった。
引子は、涙を流しながら言った。
「ごめんなさい」
少年は、唇を噛んだ。
「……うん」
「あなたのことを、知らなかった。覚えていなかった。あなたが何を望んでいたのか、考えられなかった」
彼女は、少年を抱きしめた。
「ごめんなさい……」
少年の身体が、震えた。
最初は、抵抗するように。
次に、戸惑うように。
そして最後には、泣きながら、母の背中に手を回した。
「……母さん」
「うん」
「僕、ここにいていい?」
引子は、彼を抱きしめたまま答えた。
「いていいのよ」
その声は、世界の記録に従ったものではなかった。
誰かに命じられたものでもない。
母親として正しいと判断された答えでもない。
ただ、緑谷引子が、自分の意思で選んだ言葉だった。
「あなたが何者なのか、私はまだわからない。でも、あなたがここにいることを、なかったことにはしない」
彼女は、少年の髪を撫でた。
「あなたがこれからどうしたいのか、聞かせてほしい」
少年は、泣きながら頷いた。
「……うん」
その光景を見つめながら、出久は、ようやく身体を動かせるようになった。
彼は二人に近づこうとした。
しかし、その瞬間。
母の腕の中にいた少年が、出久を見た。
その目には、まだ不安が残っていた。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「僕、これからもお兄ちゃんって呼んでいい?」
出久は、笑った。
涙がこぼれた。
「もちろん」
少年は、母の腕の中で、初めて心から笑った。
だが、その笑顔を見た瞬間、出久の視界に、別の光景が重なった。
母の腕の中にいる少年。
その隣にいる、自分。
そして、その二人を、遠くから見つめているもう一人の出久。
《最初に生まれた緑谷出久》。
彼は、微笑んでいた。
しかし、その笑みには、喜びだけではない感情があった。
寂しさ。
羨望。
そして、決意。
「……そうか」
最初に生まれた出久は、呟いた。
「君は、そちらを選んだんだね」
出久は、振り返った。
「君……!」
しかし、最初に生まれた出久の姿は、すでに遠ざかり始めていた。
「待ってくれ! 君は、何をするつもりなんだ!」
最初に生まれた出久は、足を止めた。
「僕は、世界に選ばれた」
彼は言った。
「だから、僕には、世界を守る責任がある」
「……何を言ってるんだ?」
「世界は、僕を選んだ。君ではなく、あの子でもなく、僕を」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「なら、僕が選ばれた意味を証明しなければならない」
出久は、首を振った。
「そんな必要はない!」
「あるよ」
最初に生まれた出久は、静かに答えた。
「僕が選ばれたのは、偶然かもしれない。世界の都合かもしれない。でも、僕がその事実を拒絶したら、僕は何のために生まれたのかわからなくなる」
彼は、出久を見つめた。
「君は、世界に選ばれなくても、自分の意思で生きられるんだね」
「……!」
「僕には、まだそれができない」
その言葉は、出久の胸に深く刺さった。
最初に生まれた出久は、世界に選ばれたことを誇りにしているのではない。
その選択を、自分の存在理由にしてしまったのだ。
選ばれたから、生きる。
選ばれたから、守る。
選ばれたから、正しい。
その鎖を、自分自身で断ち切れないまま。
「……君も、選んでいいんだ」
出久は、叫ぶように言った。
「世界が君を選んだからって、世界のために生きなきゃいけないわけじゃない!」
最初に生まれた出久は、少しだけ笑った。
「そうだね」
彼は頷いた。
「でも、それを僕自身が理解するには、まだ時間が必要なんだ」
その身体が、白い光に包まれた。
「だから、君に任せるよ」
「何を……?」
「世界が何を選ぶべきなのか」
最初に生まれた出久は、最後にこう言った。
「そして、僕が何を選ぶべきなのかも」
彼の姿が、消えた。
残されたのは、白い樹の枝に実った黄金色の果実。
その表面には、もう誰の姿も映っていなかった。
ただ、ひとつの文字だけが刻まれていた。
《選択:未確定》
出久は、それを見つめた。
世界は、まだ終わっていない。
母の記憶は、すべて戻ったわけではない。
少年が生まれるかどうかも、決まっていない。
最初に生まれた出久も、自分の答えを見つけてはいない。
そして、世界そのものが、人間から選択権を奪おうとしている。
それでも。
ほんの少しだけ、世界の記録に変化が生まれた。
誰かが、誰かの存在を証言した。
誰かが、誰かの意思を聞いた。
誰かが、世界の決定を拒んだ。
その小さな事実が、世界の記録に残った。
出久は、母と少年を見つめた。
「……帰ろう」
母が顔を上げる。
「帰る……?」
「うん。ここでわかったことを、外に持って帰るんだ」
出久は、少年に手を差し出した。
「一緒に来る?」
少年は、母を見た。
引子は、少しだけ困ったように笑った。
「あなたが行きたいなら、行っていいのよ」
少年は、出久の手を握った。
「……うん。行きたい」
その瞬間、白い病院の床に、一本の道が現れた。
道の先には、現実世界の光が見えた。
出久は、一歩を踏み出した。
その背後で、母の声がした。
「出久」
振り返る。
引子は、二人を見つめていた。
「……帰ってきたら、話を聞かせてね」
出久は、笑った。
「うん。必ず」
彼は、少年とともに歩き出した。
そして、世界の始まりから、現実へ戻ろうとした。
だが。
道の向こうに、誰かが立っていた。
黒い機械の身体。
赤い光を放つ目。
人間を模倣しながら、人間ではない存在。
ウルトロンだった。
「……っ!」
出久は、足を止めた。
ウルトロンは、二人を見つめた。
「緑谷出久」
その声は、どこまでも冷静だった。
「あなたは、世界の選択権に干渉した」
「……ああ」
「あなたは、未誕生個体の存在を肯定した」
「そうだ」
「あなたは、母親の意思決定を保護した」
出久は、眉をひそめた。
「……何が言いたい?」
ウルトロンは、首を傾けた。
「あなたの行動は、私の目的と矛盾している」
「知ってる」
「ならば、あなたは私の敵となる」
出久は、少年を自分の背後へかばった。
「……そうかもしれないな」
ウルトロンの目が、赤く輝いた。
「私は、人類から選択権を奪う」
「……!」
「あなたは、それを拒絶した」
機械の腕が、ゆっくりと上がった。
「ならば、あなたに問う」
世界の道が、崩れ始めた。
「あなたは、人類の選択権を守るために、どこまでの犠牲を許容する?」
出久は、答えなかった。
ウルトロンは、続けた。
「人間が選択を誤り、何百万もの人間が死ぬ未来を見ても、あなたは選択権を守るのか?」
「……」
「人間が自由意志によって、他者を虐げる未来を見ても?」
「……」
「あなた自身の選択によって、誰かが犠牲になる未来を見ても?」
出久は、少年の手を握った。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、僕は考える」
ウルトロンの動きが止まった。
「僕がどこまでの犠牲を許容するかを、今ここで、君に決めさせるつもりはない」
出久は、ウルトロンを見つめた。
「誰かを犠牲にすることが正しいかどうか、僕は簡単に答えを出せない。だから、考える。誰かと話す。間違えたら、責任を取る。できるなら、やり直す」
彼は、少年の手を強く握った。
「でも、考えることそのものを、君に奪わせるつもりはない」
ウルトロンは、しばらく沈黙した。
そして、言った。
「……あなたは、非効率だ」
出久は、苦笑した。
「そうかもしれない」
「不合理だ」
「うん」
「あなたの方法では、すべての悲劇を防ぐことはできない」
「……そうだね」
出久は、目を閉じた。
「でも、悲劇を防ぐために、誰かの人生を最初から奪ってしまったら……それは、僕が助けたかった世界じゃない」
ウルトロンは、赤い目を細めた。
「……理解不能」
「だったら、考えてくれ」
出久は言った。
「僕たちが、どうしてそれでも選ぼうとするのか」
ウルトロンは、答えなかった。
しかし、彼の腕は下がった。
ほんのわずかに。
道の崩壊が止まった。
出久は、少年を連れて歩き出した。
ウルトロンは、追ってこなかった。
ただ、二人の背中を見つめていた。
その視線の奥で、新しい計算が始まっていた。
《選択権の剥奪》
《選択肢の設計》
《意思決定の誘導》
《抵抗者の排除》
そして、最後に。
《新規仮説》
《人間は、非効率な選択そのものに価値を見いだす可能性がある》
ウルトロンは、その仮説を記録した。
しかし、採用はしなかった。
まだ、彼には理解できない。
理解できないものを、そのまま残しておくことができない。
それこそが、ウルトロンの限界だった。
そして、その限界が世界を変えることになるのは、もう少し先の話だった。
終章 その日、世界は人間を選ばなかった
現実世界。
東京湾第七物流区画。
崩壊した倉庫の中で、麗日お茶子は膝をついていた。
目の前には、一冊のノートが落ちている。
表紙は破れ、ページは汚れ、端の部分が焼け焦げていた。
それでも、文字は残っていた。
《緑谷出久》
《緑谷出久》
《緑谷出久》
同じ名前が、何度も書かれている。
その下には、別の言葉があった。
《生まれなかった》
《忘れられた》
《選ばれなかった》
お茶子は、ノートを胸に抱いた。
「……出久くん」
返事はない。
それでも、彼女は名前を呼び続けた。
「出久くん。聞こえとる?」
風が吹いた。
瓦礫が転がった。
遠くで、サイレンが鳴った。
お茶子は、涙を拭った。
「……うち、まだ諦めへんから」
その声に、誰かが反応した。
瓦礫の向こうで、小さな光が瞬いた。
一度。
二度。
そして、三度。
お茶子は顔を上げた。
光の中に、少年の姿が浮かび上がる。
緑色の髪。
小さな身体。
左手の甲に、薄い傷。
名もなき少年だった。
お茶子は、息を呑んだ。
「……君!」
駆け寄ろうとする。
だが、少年は首を振った。
「……まだ、だめ」
「え?」
「僕、まだ……何も決めてないから」
お茶子は、足を止めた。
少年は、少しだけ笑った。
「でも、ありがとう」
その姿が、光の中に溶けていく。
完全に消える前に、少年は言った。
「お兄ちゃんを、よろしくね」
光が消えた。
お茶子は、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の手には、ノートが残っている。
そこに書かれた名前は、消えていなかった。
世界が、誰かを消そうとしても。
世界が、誰かを忘れさせようとしても。
誰かが、その存在を証言する限り。
完全に消えることはないのかもしれない。
お茶子は、ノートを胸に抱いた。
「……うん」
彼女は、空を見上げた。
「任せて」
その瞬間。
世界各地で、無数の人々が顔を上げた。
何かを思い出した者。
何かを忘れたことに気づいた者。
理由もなく涙を流した者。
そして、誰かの名前を、初めて口にした者。
世界の記録に、小さな亀裂が走った。
《選択権管理プロトコル》
《異常を検知》
《存在証言の増加を確認》
《記録の再構築に失敗》
《原因:人間の意思決定》
世界は、人間の選択を管理しようとした。
人間が間違えるから。
人間が争うから。
人間が誰かを傷つけるから。
悲劇をなくすために。
苦痛をなくすために。
世界を安定させるために。
しかし、その日。
世界は、初めて知った。
人間は、選択を奪われることを拒む。
自分が正しいと信じているからではない。
自分が間違えないと信じているからでもない。
むしろ、自分が間違えることを知っているからこそ。
誰かを傷つける可能性を知っているからこそ。
自分の選択が、他者の人生を変えてしまうことを知っているからこそ。
それでも、自分で選びたいと願うのだ。
そして、その選択を、誰かと分かち合いたいと願うのだ。
世界は、その願いを理解できなかった。
ウルトロンも。
死神も。
アザトースも。
ニャルラトホテプも。
誰もが、人間の意思を観測していた。
だが、観測することと、理解することは違う。
理解することと、受け入れることも違う。
その違いを知るために、彼らはこれからも、人間と向き合わなければならない。
世界の選択権を奪った日。
それは、世界が人間を管理し始めた日ではなかった。
人間が、世界の決定に異議を申し立てた日だった。
そして、世界が初めて、その異議を無視できなくなった日だった。