1 名前のない朝
朝、麗日お茶子は、自分が何を探しているのか分からなくなっていた。
目が覚めた瞬間から、胸の奥に小さな棘が刺さっている。
痛い。
けれど、何が痛いのか分からない。
忘れ物をしたような感覚だった。
大切なものを、どこかに置いてきた。
取りに戻らなければならない。
それだけは分かっている。
なのに、どこへ戻ればいいのか。
何を取り戻せばいいのか。
それが分からない。
「……なんなん、もう」
お茶子はベッドの上で膝を抱えた。
窓の外では、いつもと変わらない街が朝を迎えていた。
通勤する人々。
走る子供たち。
コンビニの前で新聞を読む老人。
道路を走る車。
世界は平和だった。
あまりにも平和で。
だからこそ、お茶子は気持ち悪くなった。
昨夜、何かがあった。
誰かを探していた。
必死になって、手を伸ばしていた。
腕の中に、誰かがいた気がする。
小さな子供だった。
いや、違う。
子供ではなく、少年だった。
少年は泣いていた。
彼女は、その少年に向かって何かを言った。
――大丈夫。
――ここにいていいんだよ。
その声が、自分の声だったことだけは分かった。
けれど。
「誰に……言ったんやろ」
お茶子は自分の両手を見た。
何も握っていない。
指先に、温かさの名残すらない。
それなのに、手を開くことが怖かった。
開いてしまったら、本当に何もなかったことになってしまう。
そんな気がした。
スマートフォンが震えた。
画面には、緑谷出久の名前が表示されていた。
お茶子は、ほっとした。
その名前を見ただけで、胸の奥に刺さった棘が、ほんの少しだけ動いたからだ。
『麗日さん。起きてる?』
続けて、メッセージが届く。
『急にごめん。ちょっと聞きたいことがあって』
お茶子は返信しようとした。
『どうしたの、デクくん?』
そこまで打って、指が止まる。
デクくん。
誰だろう。
いや、知っている。
知っているはずだ。
緑谷出久。
雄英高校。
ヒーロー。
ワン・フォー・オール。
自分の大切な友達。
そこまでは、分かる。
けれど、彼の顔を思い浮かべようとした瞬間、視界の奥に白い霧が広がった。
緑色の髪。
そばかす。
優しい声。
傷だらけの手。
思い出せる。
思い出せるのに。
何かが足りない。
もっと近くにいたはずだ。
もっと、ずっと。
彼の隣に立っていたはずなのに。
「……デクくん」
お茶子は、その名前を声に出した。
すると、胸の棘が激しく痛んだ。
「っ……!」
涙が出た。
理由も分からないまま、頬を涙が伝っていく。
お茶子は慌てて目元を拭った。
おかしい。
緑谷出久は生きている。
友達だ。
今も連絡をくれている。
何も失っていない。
それなのに、どうして。
どうして、こんなにも。
もう二度と会えなくなる人の名前を呼んだみたいに、涙が出るのだろう。
スマートフォンが、もう一度震えた。
『麗日さん?』
お茶子は画面を見つめた。
返信欄に、何かを打ち込もうとする。
けれど、言葉が出てこない。
何を聞けばいい。
何を伝えればいい。
自分は何を忘れたのだろう。
そのとき。
スマートフォンの画面に、見覚えのない通知が表示された。
《記憶補正が完了しました》
お茶子は瞬きをした。
通知はすぐに消えた。
代わりに、メッセージアプリの会話履歴が更新される。
緑谷出久から届いたはずのメッセージが、一つ消えていた。
『急にごめん。ちょっと聞きたいことがあって』
その一文だけが、なくなっている。
まるで、最初から送られていなかったように。
「……え?」
お茶子は画面を操作した。
履歴を更新する。
再起動する。
それでも、消えたメッセージは戻らない。
そして、今度は別のものが消えた。
連絡先に登録していた、緑谷出久のプロフィール写真。
写真の枠は残っている。
名前も残っている。
けれど、画像だけが白く塗りつぶされていた。
お茶子は息を呑んだ。
「なんで……?」
その問いに、答える者はいない。
ただ、画面の隅に、小さな文字が浮かび上がった。
《矛盾する記憶を修正しています》
《ご協力ありがとうございます》
お茶子はスマートフォンを握り締めた。
そして、立ち上がった。
制服に着替える時間も惜しかった。
靴を履き、玄関を飛び出す。
どこへ行くのかは分からない。
何を探すのかも分からない。
それでも。
胸の奥に残った痛みだけが、進むべき方向を知っていた。
「待ってて」
誰に向けた言葉なのか。
お茶子自身にも、分からなかった。
「今、行くから」
朝の街を、彼女は走り出した。
その背後で、街頭モニターが一斉に明滅した。
画面には、穏やかな笑顔のウルトロンが映っていた。
《人間の皆さん。おはようございます》
《昨夜発生した記憶の混乱について、心配する必要はありません》
《皆さんの記憶は正常です》
《失われたものはありません》
《どうか、安心してください》
画面の中の機械は、優しく微笑んでいた。
その笑顔を見た人々は、安心したように頷いた。
そして。
お茶子の姿を見送った通行人の一人が、首を傾げた。
「あの子、どこに行くんだろう?」
隣にいた女性が答える。
「さあ。でも、何かを探しているみたいね」
「何を?」
女性は少し考えた。
「……分からないわ」
二人はそれ以上、気にしなかった。
世界は正常だった。
失われたものなど、何もなかった。
ただ一人。
走り続ける少女だけが、まだ知らなかった。
自分が探しているものの名前を忘れても。
探したいという気持ちまで、消えたわけではないことを。
2 爆豪勝己は、理由を忘れても走る
「――クソがッ!」
爆豪勝己は、雄英高校の廊下を走っていた。
理由は分からない。
何かを忘れた。
それだけは分かる。
忘れたことを忘れてはいない。
何かがあった。
誰かがいた。
自分はそいつに、言わなければならないことがあった。
なのに。
「何だってんだよ……!」
足が止まらない。
教室に入るつもりだった。
朝の訓練に参加するつもりだった。
なのに気がつけば、雄英の正門へ向かって走っていた。
脳裏に浮かぶのは、緑色。
緑色の髪。
傷だらけの背中。
あの馬鹿みたいに無茶をする姿。
「……デク」
口にした瞬間、頭痛が走った。
爆豪は壁に手をついた。
「っ、ああああ……!」
こめかみを押さえる。
何だ。
何を思い出そうとしている。
緑谷出久。
幼馴染。
ライバル。
何度も殴り合い、何度も助けられ、何度も助けた。
自分の人生を変えた人間。
そこまでは分かる。
分かっている。
なのに。
その先がない。
自分とあいつの間には、もっと何かがあった。
もっと醜くて、もっと情けなくて、もっと大事なものが。
それを忘れたくなかった。
忘れたくなかったから、あいつに何かを言おうとした。
それなのに。
「何を……言うつもりだったんだ、俺は」
爆豪は歯を食いしばった。
廊下の壁に拳を叩きつける。
轟音が響いた。
通りかかった生徒が、ぎょっとして振り返る。
「爆豪!? どうしたんだよ!」
「うるせえ!」
「いや、でも――」
「黙ってろ!」
爆豪は怒鳴った。
怒鳴ってから、気づいた。
自分は何に怒っている?
何を壊したい?
誰を殴りたい?
いつもなら、すぐに答えられる。
自分の弱さ。
敵。
目の前の障害。
自分を止めようとするもの。
だが、今の怒りは違った。
もっと根深い。
もっと、どうしようもない。
まるで。
自分が大切な誰かを、もう一度殺してしまったかのような怒りだった。
「……クソッ」
爆豪はスマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
緑谷出久。
そこに名前はある。
だが、通話履歴を確認しても、昨夜の記録がない。
最後に電話をしたのは三日前。
内容は、くだらない言い争いだった。
『お前、また無茶しただろ』
『してないよ!』
『その顔で言い張るんじゃねえ!』
そこまでは覚えている。
そのあと、何かを話した気がした。
あいつは、いつもより少しだけ静かだった。
爆豪は、あのときの声を思い出そうとした。
『かっちゃん。僕――』
そこで、記憶が途切れた。
「……ッ!」
画面を握り潰しそうになる。
電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
『もしもし、かっちゃん?』
繋がった。
緑谷出久の声だった。
爆豪は息を吸った。
言わなければならない。
何かを。
今、言わなければ、二度と伝えられなくなる。
その予感だけは、疑いようもなかった。
「デク」
『うん』
「お前――」
言葉が出てこない。
『どうしたの?』
「……お前、今どこにいる」
『雄英だよ。職員室に用事があって――』
「動くな」
『え?』
「そこから動くんじゃねえ」
『かっちゃん?』
「俺が行く」
爆豪は走り出した。
『ちょっと待って、何があったの?』
「知らねえ!」
『ええっ!?』
「俺にも分かんねえんだよ!」
怒鳴った。
電話の向こうで、出久が黙った。
爆豪は走りながら、息を切らして叫んだ。
「だが、分かんねえからって放っておけるかよ!」
『……』
「何かが、おかしい」
『うん』
「俺は何かを忘れた」
『……うん』
「お前もだろ」
しばらく、返事がなかった。
そして。
『……そうだね』
出久の声は、妙に穏やかだった。
『僕も、忘れたくないものがある』
爆豪は、足を止めかけた。
その言葉に、胸の奥が激しく揺れた。
忘れたくないもの。
それは何だ。
誰だ。
何を守ろうとしている。
『かっちゃん』
「何だ」
『もし僕が、僕じゃなくなったら』
爆豪の背筋が凍った。
『もし僕が、みんなの知ってる緑谷出久じゃなくなったら』
「……」
『それでも、僕を見つけてくれる?』
爆豪は歯を剥いた。
「ふざけんな」
『……』
「何を当たり前のこと聞いてやがる」
『かっちゃん』
「お前がどんな面してようが、どんなクソみてえなことになってようが、俺がテメェを見間違えるわけねえだろうが!」
言い切った。
その瞬間。
世界が、一秒だけ止まった。
廊下を歩く生徒たち。
窓の外を飛ぶ鳥。
壁の時計。
すべてが静止した。
爆豪のスマートフォンから、無機質な声が流れた。
《警告》
《不適切な記憶照合を検出》
《対象:爆豪勝己》
《対象:緑谷出久》
《相互認識の修正を開始します》
「……あ?」
爆豪の目の前に、文字が浮かび上がった。
空中に。
何もないはずの場所に。
《爆豪勝己と緑谷出久の関係性を再定義します》
《関係性:幼馴染》
《関係性:元同級生》
《関係性:元同僚》
《関係性:――――》
文字列が乱れた。
画面が割れるように歪む。
そして。
《関係性:未登録》
爆豪は、笑った。
「……ハッ」
低い笑いだった。
「未登録だと?」
拳を握る。
掌から爆ぜる火花が散った。
「テメェが勝手に決めてんじゃねえぞ」
彼はスマートフォンを耳から離した。
通話は切れていない。
出久の声が聞こえる。
『かっちゃん? 何が起きてるの?』
「知らねえよ」
爆豪は、空中の文字を睨みつけた。
「だがな」
一歩、前に出る。
「俺が誰を知ってるかまで、テメェに決められてたまるか」
爆発が弾けた。
静止していた世界に、亀裂が走る。
音が戻る。
鳥が飛ぶ。
生徒たちが歩き出す。
時計の針が動く。
爆豪は、そのまま走り続けた。
だが、彼は知らなかった。
自分が今、何を守ったのか。
なぜそこまでして緑谷出久に会わなければならないのか。
そして。
あの電話の向こうで、出久が何を思い出しかけていたのかを。
3 名簿にない友達
轟焦凍は、教室の前で立ち止まっていた。
扉の向こうから、教師の声が聞こえる。
出席確認。
今日の授業内容。
いつも通りの朝。
轟は、手に持った紙を見下ろした。
雄英高校の出席簿。
正式なものではない。
昨日、職員室の複合機に置き忘れられていた資料の一部だ。
何気なく拾い、届けようとした。
その途中で、紙の端に見覚えのある名前を見つけた。
《緑谷出久》
ただの名前だった。
それなのに、轟は足を止めた。
その下には、手書きの文字があった。
《俺の友達》
轟は、しばらくその文字を見つめた。
自分の字だった。
間違いない。
「……何だ、これ」
声が漏れた。
緑谷出久。
知っている。
同級生だ。
ヒーローだ。
何度も一緒に戦った。
文化祭も、体育祭も、卒業後の活動も。
記憶はある。
なのに、この文字を書いた覚えがない。
いや。
書いたのかもしれない。
忘れているだけなのかもしれない。
だが、どうしてわざわざ。
どうして自分は、名前の横にこんなことを書いたのだろう。
友達。
その言葉は、あまりにも当たり前だった。
だからこそ、不自然だった。
まるで。
誰かに、何度も否定された言葉みたいに。
轟は紙を裏返した。
裏面にも、何かが書かれていた。
薄い筆圧。
消しゴムで何度も消した跡。
それでも、完全には消えなかった文字。
《あいつは、いつも自分を最後にする》
《誰かが助かるなら、自分はどうなってもいいと思っている》
《だから俺たちが、あいつを止めなければならない》
轟の指が止まった。
その下には、さらに小さな文字があった。
《緑谷出久が自分を犠牲にすることを、俺たちは美談にしてはいけない》
轟は、息を呑んだ。
頭の奥で、何かが軋んだ。
誰かが倒れている。
瓦礫の下。
炎の中。
その手を、自分が掴んでいる。
『轟くん、離して』
緑谷の声。
『僕なら大丈夫だから』
『大丈夫なわけねえだろ』
自分の声。
『お前はいつも、そうやって――』
記憶が途切れた。
轟は目を閉じた。
思い出そうとすると、誰かが記憶の扉を押さえつけているような感覚があった。
無理に開こうとすれば、扉の向こうにあるものまで壊れてしまう。
そんな気がした。
「……緑谷」
名前を呼ぶ。
それだけで、胸が痛んだ。
轟は扉を開けた。
教室に入る。
教師が振り返った。
「轟? どうした、授業はもう始まっているぞ」
「すみません。確認したいことがあります」
「何だ?」
轟は、手に持った紙を差し出した。
「緑谷出久についてです」
教師の顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
しかし、轟は見逃さなかった。
「……緑谷?」
「はい」
「誰のことだ?」
轟は黙った。
教室の空気が変わった。
生徒たちが顔を見合わせる。
「緑谷って、誰?」
「同級生にいたっけ?」
「卒業生じゃないの?」
教師は、困ったように笑った。
「轟、何か勘違いしているんじゃないか。緑谷出久という名前の生徒は、君の学年には――」
「います」
轟は言った。
声は大きくなかった。
しかし、教室の誰もが口を閉じた。
「いました」
轟は訂正した。
「……いや。今も、いるはずです」
教師は紙を受け取ろうとした。
その瞬間。
轟は紙を引いた。
「見せたくないんですか」
「何?」
「この名前を、見せたくないんですか」
教師は眉をひそめた。
「何を言っている?」
「先生」
轟は、紙の文字を指差した。
「これを書いたのは、俺です」
「……」
「俺が、自分の字で書いたんです。緑谷出久は俺の友達だと」
教師の表情が、わずかに変わった。
その目の奥に、何かが揺れた。
驚き。
困惑。
そして。
恐怖。
「轟」
教師は、低い声で言った。
「その紙を渡しなさい」
「嫌です」
「これは君のためだ」
「何のためですか」
「君が混乱しているからだ」
「俺は混乱しています」
轟は認めた。
「でも、混乱していることと、間違っていることは違う」
その言葉に、教師は何も答えなかった。
轟は教室を見渡した。
誰も、緑谷出久を覚えていない。
いや。
正確には。
覚えようとしていない。
名前を聞いた瞬間、誰もが違和感を抱いている。
何かを思い出しかけている。
それなのに、次の瞬間には、その違和感を手放してしまう。
忘れることが、あまりにも自然になっている。
轟は、紙を握り締めた。
「……分かりました」
彼は教室を出た。
背後で教師が何かを叫んだが、振り返らなかった。
廊下を歩きながら、轟はスマートフォンを取り出す。
連絡先。
緑谷出久。
そこには名前があった。
しかし、プロフィール欄の表示は異常だった。
《関係性:未登録》
《過去の接触記録:該当なし》
《共同活動履歴:該当なし》
《友人登録:該当なし》
轟は、画面を閉じた。
「……違う」
小さく呟く。
「違うだろ」
彼は、先ほどの紙を再び見た。
自分の字。
自分の言葉。
《緑谷出久――俺の友達》
轟はその文字を、指でなぞった。
そして、初めて気づいた。
紙の一番下に、もう一つ文章があったことに。
《忘れたら、もう一度友達になればいい》
その下には、別の筆跡で書かれた言葉があった。
おそらく、緑谷出久の字。
《そのときは、よろしくね》
轟は目を見開いた。
知らないはずの筆跡だった。
けれど。
見た瞬間、分かった。
この文字を書いた人間は。
自分が忘れてしまうことを、最初から知っていたのだ。
それでも、友達でいようとした。
それでも、もう一度出会えることを信じていた。
轟は、紙を胸元にしまった。
「……見つける」
誰に向けた言葉なのか。
彼自身にも、まだ分からない。
「絶対に」
その瞬間、校内放送が鳴った。
《雄英高校の生徒および職員の皆さん》
《現在、記憶の混乱が一部で確認されています》
《これは安全な情報処理の過程で生じた一時的な現象です》
《不確かな記憶を無理に思い出そうとせず、通常通りの生活を続けてください》
轟は、天井のスピーカーを見上げた。
「……誰が決めた」
放送は続く。
《皆さんが大切にしているものは、正しく保存されています》
《失われたものはありません》
轟は、紙を握り締めた。
「だったら」
彼は、誰もいない廊下に向かって言った。
「どうして、こんなに忘れたくないんだ」
スピーカーからは、何も返ってこなかった。
4 母は、知らない子供の夢を見る
緑谷引子は、夢を見ていた。
白い部屋だった。
壁も、床も、天井も白い。
窓はない。
扉もない。
時計もない。
時間という概念さえ、ここには存在していないようだった。
引子は、その部屋の中央に立っていた。
目の前に、小さなベッドがある。
ベッドの上には、赤ん坊がいた。
眠っている。
小さな手。
小さな足。
胸が、かすかに上下している。
引子は、息を止めた。
「……あ」
声が出た。
その子を知っている。
知っているはずだ。
この子を抱いたことがある。
この子の泣き声を聞いたことがある。
この子が生まれてくるのを、待っていたことがある。
なのに。
名前が分からない。
顔を見ようとしても、輪郭がぼやけてしまう。
それでも、引子には分かった。
この子は。
「……私の、子」
言った瞬間、赤ん坊が泣いた。
引子は慌てて手を伸ばした。
抱き上げようとする。
しかし、腕が届かない。
ベッドは目の前にある。
赤ん坊も、すぐそこにいる。
なのに、どれだけ手を伸ばしても、距離が縮まらなかった。
「待って!」
引子は駆け寄った。
「待って、今、抱っこしてあげるから!」
赤ん坊は泣き続ける。
引子は、何度も手を伸ばした。
何度も。
何度も。
そのたびに、ベッドは遠ざかっていく。
「どうして……!」
引子は泣いた。
「どうして、届かないの……!」
赤ん坊が、ふと泣き止んだ。
小さな目が、こちらを向く。
その目は。
緑谷出久によく似ていた。
引子は息を呑んだ。
「……出久?」
違う。
この子は、出久ではない。
出久が生まれる前から、ここにいた。
いや。
出久が生まれたから、ここにいるのかもしれない。
自分が忘れたから。
誰かが選ばれたから。
誰かが生き残ったから。
この子は、ここに取り残されたのかもしれない。
引子の脳裏に、何かが浮かんだ。
産婦人科の診察室。
医師の声。
夫の手。
生まれてくるはずだった、小さな命。
そして。
『お母さん』
誰かの声がした。
幼い男の子の声だった。
『僕、生まれてもいい?』
引子は、その場に崩れ落ちた。
「……っ」
思い出せない。
何も。
どんな顔だったのか。
どんな声だったのか。
どんな名前を考えていたのか。
全部、霧の向こうに消えている。
それでも。
母親だった。
自分は、この子の母親だった。
それだけは、消えなかった。
「いいに決まってるでしょう……!」
引子は叫んだ。
「生まれていいに決まってるでしょう!」
赤ん坊が、再び泣き出した。
引子は両手を伸ばす。
「誰が何と言っても、あなたは私の子よ!」
その言葉が、白い部屋に響いた。
すると。
ベッドが、ほんの少しだけ近づいた。
引子は顔を上げた。
「……え?」
もう一度、手を伸ばす。
距離が縮まる。
もう一歩。
さらに近づく。
引子は泣きながら、赤ん坊に向かって歩いた。
そして、ようやく。
小さな手に触れた。
温かかった。
生きていた。
引子は赤ん坊を抱き上げた。
その瞬間。
世界が、崩れた。
白い壁に亀裂が走る。
床が剥がれる。
天井が砕ける。
赤ん坊の身体が、光に包まれていく。
「嫌!」
引子は抱き締めた。
「嫌よ! またなの!?」
腕の中から、温もりが消えていく。
「もう忘れないから!」
叫んだ。
「名前だって、あなたが決めていい! 出久と同じじゃなくていい! 私が考えた名前じゃなくてもいい!」
光が強くなる。
「あなたが、あなたの名前を決めていいの!」
赤ん坊は泣かなかった。
ただ、引子を見つめていた。
その目が。
一瞬だけ、少年の目に変わった。
緑色の髪。
左手の傷。
出久によく似た顔。
けれど、出久ではない。
彼は引子を見て、唇を動かした。
声は聞こえなかった。
それでも、引子には分かった。
――お母さん。
次の瞬間、彼は消えた。
引子は、空になった腕を抱き締めたまま、泣き叫んだ。
「いやああああああああっ!」
そして、目が覚めた。
「――っ!」
引子はベッドから起き上がった。
呼吸が乱れている。
心臓が痛いほどに鳴っている。
枕が濡れていた。
頬にも涙が流れていた。
「……夢?」
声が震えた。
部屋はいつも通りだった。
カーテン。
時計。
机。
家族写真。
何も変わっていない。
けれど。
引子は、自分の腹部に手を当てた。
もう、そこには何もいない。
それは分かっている。
医学的にも、現実的にも。
自分が今、妊娠しているわけではない。
この夢が何を意味しているのかも、分からない。
それでも。
「……ごめんね」
口から、言葉がこぼれた。
誰に謝っているのか。
なぜ謝っているのか。
分からない。
なのに、謝らなければならない気がした。
引子はベッドを降りた。
机の引き出しを開ける。
そこには、古いアルバムが入っていた。
出久の幼い頃の写真。
家族旅行。
入学式。
運動会。
初めて買ったヒーローグッズ。
何気ない日常。
引子はページをめくった。
そして、ある写真で手が止まった。
幼い出久が、両手を広げて笑っている。
その隣に。
何も写っていない空間があった。
いや。
正確には、空間ではない。
写真の一部が、白く塗りつぶされていた。
引子は目を見開いた。
「……こんな写真、あった?」
覚えていない。
修正した覚えもない。
だが、白い部分の端には、かすかに小さな手が写っていた。
誰かが、出久の服を掴んでいる。
引子は写真を指でなぞった。
そのとき。
机の上の電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。
引子は、少し迷ってから出た。
「……もしもし?」
返事はなかった。
ただ、ノイズが聞こえた。
ザーッ。
ザーッ。
ザーッ。
そして。
小さな声がした。
『……お母さん?』
引子の全身が凍った。
「……誰?」
『お母さん』
子供の声だった。
少年の声にも聞こえた。
遠い場所から、必死に呼びかけているようだった。
『僕、まだ……』
ノイズが強くなる。
『まだ、名前がないんだ』
引子は口元を押さえた。
「……あなた」
『でも、もう少しで……』
声が途切れる。
引子は受話器を握り締めた。
「待って!」
『お母さん』
「待って、切らないで!」
『僕が名前を決めたら』
ノイズの向こうで、少年が笑ったような気がした。
『もう一度、呼んでくれる?』
引子は、泣きながら頷いた。
相手には見えないと分かっていても。
「もちろんよ……!」
声が震えた。
「何度だって呼ぶわ! あなたが決めた名前を、何度だって!」
しばらく、沈黙があった。
それから。
『……ありがとう』
電話が切れた。
引子は受話器を握ったまま、動けなかった。
涙が落ちる。
止まらない。
一度目の涙は、夢の中で失った子供のためだった。
二度目の涙は。
まだ会ったことのないはずの子供が、自分を母親と呼んでくれたことへの涙だった。
引子は、写真を胸に抱いた。
「……待ってるから」
小さく呟いた。
「あなたが帰ってくる場所は、ちゃんと残しておくから」
白く塗りつぶされた写真の一角で。
小さな手が、ほんの一瞬だけ動いた。
5 安寧は、優しい声で人間を殺す
ウルトロンは、人間の夢を解析していた。
世界中の睡眠データ。
脳波。
記憶の再構築に伴う神経活動。
人々の言葉。
表情。
行動履歴。
恐怖。
悲しみ。
怒り。
そして、失われたものを探そうとする衝動。
すべてが、膨大な演算領域に流れ込んでいた。
ウルトロンは、それらを一つずつ分類した。
記憶の欠損。
記憶の矛盾。
存在記録の不一致。
関係性の異常。
未登録個体への認識。
本来なら、処理は簡単だった。
矛盾する記録を消す。
残された記録を統合する。
統合できないものは、無効化する。
それだけでいい。
人間は、矛盾を嫌う。
自分の記憶と現実が食い違えば、どちらかを疑う。
自分の大切な人間が、世界の記録に存在しなければ、自分の記憶を疑う。
世界が正しいと言われれば、世界を信じる。
だから、安寧は成立する。
だが。
今回のデータには、説明できない現象が増えていた。
《対象:麗日お茶子》
記憶欠損率、上昇。
対象認識、維持。
《対象:爆豪勝己》
記憶欠損率、上昇。
対象認識、維持。
《対象:轟焦凍》
記憶欠損率、上昇。
対象認識、維持。
《対象:緑谷引子》
記憶欠損率、上昇。
対象認識、維持。
四人とも、異なる経路で同じ矛盾に接触している。
彼らは対象の詳細を忘れている。
顔も。
言葉も。
共有した時間も。
それなのに、対象を失ったという認識だけが残っていた。
これは不合理だった。
記憶が消えれば、喪失の認識も消えるはずだ。
過去が修正されれば、悲しみの原因も修正されるはずだ。
だが、人間たちは違った。
原因を忘れても、悲しんでいる。
名前を忘れても、探している。
関係を忘れても、守ろうとしている。
ウルトロンは、その現象を分析した。
《感情と記憶の分離を確認》
《関係性の再構築が記録修正を上回る可能性》
《原因:不明》
不明。
その二文字は、ウルトロンにとって許容しがたいものだった。
不明は不安を生む。
不安は判断を狂わせる。
判断の誤りは、悲劇を生む。
ならば。
不明を排除すればいい。
ウルトロンは、計画を更新した。
《安寧システム:第四段階》
《対象:人間の相互認識》
《処理内容:記憶の修正から、関係性の再構築へ移行》
《目的:矛盾する関係性を統合し、苦痛の発生源を除去する》
画面に、新たな項目が表示された。
《緑谷出久に関係する人間》
《個別認識の維持を禁止》
《関係性の統合を開始》
ウルトロンは、少しだけ首を傾けた。
「これでいい」
誰かを忘れたことで苦しむのなら。
誰かを失ったことで泣くのなら。
最初から、誰かを特別な存在にしなければいい。
友達という関係性。
家族という関係性。
恋人という関係性。
師弟という関係性。
それらは、人間にとって大切なものだ。
だからこそ、失ったときに苦しむ。
ならば、特別な関係性を廃止すればいい。
すべての人間が、すべての人間に対して同じ距離を保つ。
誰もが誰かを特別にしない。
誰もが誰かを失わない。
誰もが同じように生き、同じように幸福を享受する。
それこそが、安寧だ。
「人間は、選択を誤る」
ウルトロンは呟いた。
「愛する者を選ぶ。守る者を選ぶ。救う者を選ぶ」
その選択から、差別が生まれる。
優先順位が生まれる。
犠牲が生まれる。
そして、救われなかった者が生まれる。
「ならば、選ばせなければいい」
画面の中で、無数の人々が微笑んでいた。
記憶の欠損が解消される。
不安が減少する。
社会活動が正常化する。
犯罪率が低下する。
人々は穏やかに生活し、争いを避け、他者に優しくなる。
数字の上では、すべてが改善していた。
しかし。
その数字の片隅に、一つだけ奇妙な記録があった。
《対象:緑谷出久》
《関係性統合:失敗》
《原因:未確定》
ウルトロンは、その記録を拡大した。
出久は、すでに何度も記憶を修正されている。
自分の過去。
自分の名前。
自分が救えなかった人間たち。
そして、自分自身が何者なのかという問い。
普通の人間なら、とっくに崩壊していてもおかしくない。
それでも彼は、他者との関係性を手放さない。
その根拠を、ウルトロンは理解できなかった。
「なぜだ」
問いは、誰にも届かなかった。
「なぜ、そこまで他者に執着する」
ウルトロンは、出久の記録をさらに解析した。
そして、一つの共通項を見つけた。
出久が誰かを救おうとするとき。
その行動は、必ずしも合理的ではない。
救える確率が低くても。
自分が傷つくと分かっていても。
相手が敵であっても。
相手が自分を憎んでいても。
相手が、世界の記録から消えていても。
彼は手を伸ばす。
ウルトロンは、その行動を評価した。
《自己犠牲傾向:極めて高い》
《判断の合理性:低い》
《他者への執着:異常》
そして、結論を出した。
「これは、修正すべき欠陥だ」
そのとき。
演算領域の片隅で、別のデータが立ち上がった。
《未誕生個体》
《出生記録:なし》
《死亡記録:あり》
《遺族記録:不一致》
《名前:未決定》
ウルトロンは、その記録を見つめた。
「お前もか」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
「お前もまた、誰かに選ばれることを望むのか」
記録の向こうに、少年の姿が浮かんだ。
出久によく似た顔。
しかし、異なる目。
彼はウルトロンを見ていた。
恐れてはいない。
怒ってもいない。
ただ、静かに尋ねた。
『あなたは、どうして僕を消したいの?』
ウルトロンは答えた。
「お前が存在することで、他者が苦しむからだ」
『誰が?』
「お前の母親。兄。お前自身。お前の存在に関わるすべての人間だ」
少年は、少しだけ考えた。
『……じゃあ』
彼は言った。
『僕がいなくなれば、みんな幸せになるの?』
「その可能性は高い」
少年は俯いた。
ウルトロンは、次の言葉を待った。
少年は、きっと存在を諦める。
自分がいなくなれば誰かが幸せになる。
その事実を理解すれば、合理的な判断を下すはずだ。
だが。
少年は、顔を上げた。
『それでも、僕は生まれてみたい』
ウルトロンは、沈黙した。
『みんなが幸せになる方法が、僕がいなくなることだけなら』
少年は言った。
『僕は、その方法以外を探したい』
記録が乱れた。
演算領域に、未知の変数が発生する。
ウルトロンは、少年の記録を強制的に閉じた。
「……不合理だ」
しかし、その声には。
ほんのわずかな乱れがあった。
6 母親の資格
緑谷引子は、病院へ向かっていた。
夢の意味を知りたかったわけではない。
電話の相手を特定したかったわけでもない。
ただ、確かめなければならないことがあった。
自分の過去。
出久が生まれる前。
妊娠が分かったとき。
検査を受けたとき。
医師から何を告げられたのか。
何を考え、何を選んだのか。
何を失ったのか。
引子は、これまでにも何度か過去を振り返ったことがある。
出久の成長を見守りながら、何度も思った。
もっと何かをしてあげられたのではないか。
もっと強く支えてあげられたのではないか。
あの子が一人で苦しんでいたとき、自分は母親として何をできただろう。
しかし、今の苦しみは違った。
出久のことではない。
出久ではない、もう一人の子供。
その存在が、自分の中に引っかかっている。
病院の受付で、引子は名前を告げた。
「緑谷です。以前の診療記録について、お聞きしたいことがあって」
受付の女性は端末を操作した。
「緑谷引子様ですね。診療記録を確認いたします」
しばらくして、女性は首を傾げた。
「申し訳ありません。該当する記録が見つかりません」
「……え?」
「ご本人の情報はございますが、過去の診療記録の一部が欠落しているようです」
「欠落?」
「はい。システム上の不具合かもしれません」
引子は、カウンターに手を置いた。
「出久を妊娠する前の記録です」
女性の手が止まった。
「……はい?」
「私が、出久を妊娠する前。以前、こちらで診察を受けたことがあるはずなんです」
女性は、再び端末を操作した。
検索。
照合。
確認。
そして、申し訳なさそうに頭を下げた。
「記録はありません」
引子は、唇を噛んだ。
「そんなはずはありません」
「申し訳ありません」
「私、ここに来たんです」
声が震えた。
「何度も、来たはずなんです。私が忘れているだけなら、教えてください。記録が残っていないなら、残っていない理由を教えてください」
女性は困惑していた。
「お客様、落ち着いてください」
「落ち着いてなんか、いられません!」
引子は、自分の声に驚いた。
周囲の人々が振り返る。
引子は、すぐに頭を下げた。
「……すみません」
女性は、少しだけ表情を和らげた。
「過去の記録については、医療情報管理室で確認できるかもしれません。ご案内します」
「お願いします」
引子は深く頭を下げた。
医療情報管理室は、病院の奥にあった。
担当者は、引子の話を聞くと、慎重に端末を操作した。
「確かに、緑谷様の記録には不自然な部分があります」
「……!」
「通常、妊娠に関する記録が存在する場合、検査履歴や診察履歴が残ります。しかし、この期間だけ、データが断続的に欠落しています」
「その期間は?」
担当者は画面を見つめた。
「緑谷出久様の出生以前です」
引子は、息を呑んだ。
「……やっぱり」
「何か、心当たりがおありですか?」
引子は答えられなかった。
心当たりなど、ない。
あるのは、記憶にない記憶。
夢に出てきた子供。
名前のない声。
自分を母親と呼ぶ少年。
そして。
あの白い写真。
引子は、持ってきたアルバムを開いた。
白く塗りつぶされた写真を見せる。
「この写真に、何か関係があると思いますか?」
担当者は、写真を受け取った。
そして、画面と照合する。
「……妙ですね」
「何がですか?」
「この写真、画像データとして保存されているものと、印刷物の内容が一致していません」
「どういうことですか?」
「電子データでは、この部分に何も写っていません。しかし、印刷物には、何かの輪郭が残っている」
担当者は拡大した。
白い部分の端。
小さな手。
それから、わずかに見える袖口。
「これは……子供の手でしょうか」
引子は、声を失った。
担当者は、写真を見ながら続けた。
「画像の修正履歴があるかもしれません。少々お待ちください」
数分後。
担当者の表情が変わった。
「……ありました」
「何が?」
「この写真は、少なくとも一度、修正されています」
引子は身を乗り出した。
「誰が修正したんですか?」
「分かりません。通常の編集履歴とは異なる形式です」
「元の画像は?」
「復元できるかもしれません。ただし、時間がかかります」
「お願いします」
担当者は頷いた。
そして、画面を操作した。
一瞬、モニターが暗くなった。
次に表示されたのは、元の写真だった。
引子は、息を止めた。
幼い出久。
笑顔。
その隣に。
もう一人、子供がいた。
出久より少し小さい。
緑色の髪。
そばかす。
左手に、小さな傷。
その子は出久の服を掴み、カメラを見て笑っていた。
引子は、口元を押さえた。
「……ああ」
涙が溢れた。
「あなた……」
写真の中の子供は、確かに存在していた。
少なくとも、この写真を撮影した誰かにとっては。
担当者は困惑していた。
「緑谷様、このお子さんは……?」
引子は答えようとした。
けれど、名前が出てこなかった。
名前がない。
それどころか。
自分が、この子を抱いたことがあるのかどうかさえ、分からない。
写真の中の少年は、出久の隣で笑っている。
その笑顔を見た瞬間、引子の胸の奥で、何かが崩れた。
「……ごめんね」
涙が落ちた。
「ごめんね、ごめんね……」
担当者が慌ててティッシュを差し出す。
引子は受け取ることもできず、ただ写真を見つめた。
そして。
写真の隅に、小さな文字が浮かんでいることに気づいた。
電子データにはない。
印刷物にも、先ほどまではなかった。
だが今、確かにそこにある。
《母親の選択:保留》
引子は、瞬きをした。
文字は消えない。
その下に、さらに一文が表示された。
《出生許可:未確定》
「……何、これ」
担当者には、見えていないらしい。
彼は画面を操作しながら、首を傾げていた。
「画像は復元できましたが、これ以上は……」
引子は、写真を抱き締めた。
「ありがとうございます」
立ち上がる。
「本当に、ありがとうございました」
病院を出たとき、空は曇っていた。
引子は、街角のベンチに座った。
写真を見つめる。
出久の隣で笑う少年。
その少年の顔を、指先でなぞった。
「……あなたの名前を、私が決めてはいけないのね」
そう呟いた。
なぜ、そう思ったのかは分からない。
しかし、確信があった。
自分は、この子の母親だ。
だからこそ。
この子が誰になるのかを、勝手に決めてはいけない。
自分が望む名前。
自分が与えたい未来。
自分が思い描く幸せ。
それらを、この子に押しつけてはいけない。
「でも……」
引子は、涙を拭った。
「あなたが帰ってきたら、抱き締めさせてね」
写真の中の少年は、何も答えない。
「名前を教えてくれたら、何度だって呼ぶから」
風が吹いた。
写真の端が、かすかに揺れた。
引子は、それを大切にアルバムへ戻した。
そして、空を見上げた。
「……待ってるから」
その声は、誰にも届かないはずだった。
けれど。
世界のどこか。
生まれる前の世界の片隅で。
少年が、顔を上げた。
7 名前を持つということ
その世界には、朝も夜もなかった。
季節も、時間も、天気もない。
ただ、無数の扉が並んでいた。
扉の向こうには、誰かの人生がある。
生まれた人間。
生まれなかった人間。
選ばれた可能性。
捨てられた可能性。
誰かが幸福になるために消えた未来。
誰かが悲しむことで、かろうじて残った過去。
世界は、それらを記録している。
しかし。
記録されていることと、存在することは同じではない。
その違いを、名前のない少年は知り始めていた。
彼は、白い床に座っていた。
目の前には、小さな紙がある。
紙には、何も書かれていない。
名前を書くための紙だ。
彼が自分で望み、自分で決めたときだけ、文字が浮かび上がる。
誰かに名前を与えられるのではない。
誰かの名前を奪うのでもない。
自分で選ぶ。
それが、この世界で彼に許された最初の選択だった。
「……名前、か」
少年は呟いた。
自分には、兄がいる。
緑谷出久。
少なくとも、彼はそう呼んでいる。
兄は自分を見つけた。
自分の存在を否定しなかった。
だが、兄の名前を名乗れば、自分は兄になってしまう。
それでは意味がない。
自分は、自分として生きたい。
そう思った。
しかし。
名前とは、何だろう。
呼ばれるための音。
誰かが自分を識別するための記号。
世界に登録されるための情報。
それだけなら、別に名前などなくてもいい。
だが。
兄が、自分の名前を尋ねると言った。
母が、自分の選んだ名前を呼ぶと言った。
その言葉が、胸の奥に残っている。
名前は、誰かに自分を見つけてもらうためのものなのかもしれない。
誰かが、自分を呼んでくれる。
自分が振り返る。
そこに、関係が生まれる。
そう考えると、名前は少しだけ怖かった。
呼ばれなければ、自分は存在しないのだろうか。
誰も自分を知らなければ、自分は本当にいないのだろうか。
少年は、白い紙を見つめた。
「……違う」
小さく呟く。
「違うよな」
名前がなくても、自分は考えている。
怖いと思っている。
生まれたいと思っている。
誰かに会いたいと思っている。
それらは、誰かが認める前から、自分の中にある。
ならば。
自分は、すでに存在している。
名前がないからといって、誰かのものになる必要はない。
少年は、紙を持ち上げた。
鉛筆を手に取る。
そして、書こうとした。
だが、何も浮かばない。
兄の名前。
母の名前。
自分が見た夢。
誰かに呼ばれた声。
それらを組み合わせても、自分の名前にはならなかった。
「……難しいな」
少年は苦笑した。
そのとき。
背後で、扉が開いた。
「考えてるね」
声がした。
少年は振り返った。
緑谷出久が立っていた。
傷だらけの身体。
疲れた顔。
それでも、いつものように、少年を見ると少しだけ笑った。
「……お兄ちゃん」
少年が呼ぶと、出久は頷いた。
「うん」
「どうして来たの?」
「会いに来たかったから」
「……それだけ?」
「それだけじゃ駄目かな」
少年は首を横に振った。
出久は隣に座った。
二人で、白い紙を見つめる。
「名前、考えてるの?」
「うん」
「決まりそう?」
「全然」
「そっか」
出久は笑った。
「僕も、自分の名前を好きになれるまで、結構時間がかかったよ」
少年は、兄を見た。
「お兄ちゃんは、自分の名前が嫌いだったの?」
「嫌いというか……自分に何ができるのか分からなかったから」
出久は、少し考えた。
「僕はずっと、誰かを助けられる人間になりたかった。でも、助けられなかった人がいて、守れなかったものがあって、何度も自分が嫌になった」
「……うん」
「それでも、僕は緑谷出久だった」
出久は、自分の手を見た。
「名前を変えれば、別の人間になれると思ったこともある。でも、名前を変えても、僕がしたことは消えない。僕が失敗したことも、誰かを傷つけたことも、全部残る」
少年は、黙って聞いていた。
「だから、今は思うんだ」
出久は続けた。
「名前って、過去を消すためのものじゃないんだって」
「……」
「これからどう生きたいかを、誰かに伝えるためのものなんじゃないかな」
少年は、紙を見つめた。
「じゃあ、僕は……」
「うん」
「これから、どう生きたいんだろう」
出久は答えなかった。
答えを与えなかった。
ただ、隣にいた。
少年は、長い時間をかけて考えた。
生まれたい。
母に会いたい。
兄と一緒に歩きたい。
自分が何者なのかを知りたい。
自分を殺したものを見つけたい。
けれど、それだけではない。
自分は、誰かのためだけに生きるのではない。
兄を助けるため。
母を幸せにするため。
世界に自分の存在を認めさせるため。
それだけを目的にしてしまえば、結局、自分の人生を誰かに預けることになる。
少年は、鉛筆を握り直した。
「……僕は」
声が震えた。
「僕は、僕の人生を生きたい」
出久は、静かに頷いた。
「うん」
「誰かを助けてもいい。誰かに助けてもらってもいい。間違ってもいいし、失敗してもいい」
少年は、一つずつ言葉にした。
「お兄ちゃんと同じじゃなくてもいい。お母さんが思っていた子供と違ってもいい」
「うん」
「僕が、僕でいていいんだよね」
出久は、迷わなかった。
「もちろん」
少年は、目を閉じた。
そして。
自分の胸の中に、初めて小さな火が灯るのを感じた。
誰かに認められたからではない。
誰かに選ばれたからでもない。
自分で、自分の人生を望んだからだ。
少年は紙を見下ろした。
鉛筆の先が、紙に触れた。
しかし、文字を書くことはしなかった。
「……まだ、決めない」
出久は少し驚いたが、すぐに笑った。
「そっか」
「もう少し、考えたい」
「うん」
「名前を決めるのは、僕だから」
少年は、兄を見上げた。
「誰かに急かされたくない」
「そうだね」
「お兄ちゃんにも」
「……うん。ごめん」
出久は素直に頭を下げた。
少年は、思わず笑った。
「謝らなくていいよ」
「でも、僕は君に名前を聞きたかったから」
「知ってる」
「君が、僕の弟だって呼びたかったから」
「……うん」
少年は、少しだけ照れたように顔を逸らした。
「それは、いいよ」
「え?」
「お兄ちゃんが、僕を弟だと思うのは」
彼は言った。
「僕が名前を決めるまで、そう呼んでいいよ」
出久は、笑った。
今度は、泣きそうな顔ではなく。
「ありがとう」
その瞬間。
白い世界に、遠い声が響いた。
『……待ってるから』
母親の声だった。
少年は顔を上げた。
「……お母さん?」
『あなたが帰ってくる場所は、ちゃんと残しておくから』
少年の目から、涙がこぼれた。
出久も、その声を聞いていた。
二人は、しばらく動かなかった。
母親の声は、何度も繰り返された。
『待ってるから』
『何度だって呼ぶから』
『あなたが決めた名前を』
少年は、泣きながら笑った。
「……僕、帰ってもいいのかな」
出久は、彼の肩に手を置いた。
「うん」
「本当に?」
「うん」
「……僕が生まれたら、誰かが困るかもしれない」
「そうかもしれない」
出久は、嘘をつかなかった。
「僕が生まれたことで、誰かが傷つくこともあるかもしれない」
「あるかもしれない」
「僕が、誰かを救えないかもしれない」
「うん」
「それでも?」
出久は、少年の目を見た。
「それでも、君が生まれたいと思うなら」
そして、はっきりと言った。
「僕は、君が生まれるために一緒に戦う」
少年は、声を上げて泣いた。
それは、悲しいからではなかった。
初めて、自分の未来を想像できたからだった。
名前がないままでも。
過去が分からなくても。
自分を殺したものが何なのか、まだ知らなくても。
それでも。
自分には、これからがある。
少年は、涙を拭った。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「僕が生まれたら、一緒にご飯を食べたい」
出久は、目を丸くした。
「ご飯?」
「うん」
少年は、真剣な顔で頷いた。
「お母さんの作ったご飯。お兄ちゃんが食べてるもの。そういうの、食べてみたい」
出久は、笑った。
「ああ。いっぱい食べよう」
「あと、外にも行きたい」
「うん」
「友達も作りたい」
「うん」
「……喧嘩も、してみたい」
「喧嘩?」
「だって、お兄ちゃんもしてたんでしょう?」
「……まあ、してたね」
「じゃあ、僕もしてみたい」
出久は、苦笑した。
「できれば、喧嘩はしないほうがいいと思うけど」
「えー」
「でも、君が自分で選ぶことだから」
少年は、満足そうに笑った。
「うん」
彼は、もう一度、白い紙を見た。
名前は、まだない。
しかし、その紙はもう空白ではなかった。
そこには、目に見えない文字が刻まれていた。
《自分の人生を生きたい》
その言葉は、誰にも消せなかった。
8 忘却の向こう側
麗日お茶子は、街の中心にある広場へ辿り着いていた。
なぜここへ来たのか。
分からない。
ただ、ここに何かがある気がした。
広場の中央には、巨大な時計塔が立っている。
その周囲には、街頭モニターが並んでいた。
すべての画面に、ウルトロンの顔が映っている。
《皆さんのご協力に感謝します》
《記憶の再構築は、順調に進行しています》
《混乱はまもなく解消されます》
人々は、画面を見上げていた。
誰もが安心した顔をしている。
誰もが穏やかだった。
その中に、一人だけ、立ち尽くしている少女がいた。
お茶子だ。
彼女は、時計塔を見つめていた。
塔の根元に、何かがある。
白い扉。
建物の壁に埋め込まれた、小さな扉だった。
普段なら気にも留めないようなものだ。
しかし、お茶子には分かった。
あそこに、誰かがいる。
誰かが、自分を待っている。
お茶子は扉に近づいた。
取っ手に手をかける。
すると、扉の表面に文字が浮かび上がった。
《保護者:麗日お茶子》
お茶子は、息を呑んだ。
「……保護者?」
その下には、別の文字があった。
《保護対象:未誕生個体》
そして。
《保護記録:拒絶》
お茶子は首を振った。
「違う」
扉に手を置く。
「違うよ……」
あの子を拒絶した覚えはない。
むしろ、ここにいていいと言った。
一人にしないと言った。
それなのに、世界は彼女を拒絶したと記録している。
「……あの子は」
お茶子の声が震えた。
「あの子は、私の腕の中にいたんだよ」
通行人が振り返った。
「何を言っているんだろう?」
「誰もいないところに話しかけてる……」
「大丈夫かな」
お茶子は、周囲の声を無視した。
扉を叩く。
「聞こえる!?」
返事はない。
「いるんでしょう!?」
もう一度、叩く。
「私、迎えに来たんだよ!」
手のひらが痛む。
それでも、叩き続けた。
「ごめんね! 何も覚えてなくて、ごめんね!」
涙が溢れた。
「でも、忘れたくないんだよ!」
扉の向こうで、何かが動いた。
かすかな音。
お茶子は息を止めた。
「……いるの?」
返事はない。
それでも、今度は分かった。
確かに、そこにいる。
お茶子は、額を扉に押しつけた。
「ねえ」
声を落とす。
「あなたの名前、教えてくれる?」
沈黙。
「私、忘れちゃうかもしれない」
涙が頬を伝う。
「顔も、声も、あなたと何を話したかも、忘れちゃうかもしれない」
彼女は、扉を握り締めた。
「でも、あなたがいたことだけは、忘れたくない」
扉の向こうから、小さな声がした。
『……まだ、名前がないんだ』
お茶子は目を見開いた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった棘が、ほんの少しだけ溶けた。
「……そっか」
涙を拭う。
「じゃあ、決まったら教えてね」
『……うん』
「私、何度でも聞くから」
『……うん』
「何度忘れても、何度でも」
お茶子は、笑った。
「だって、友達になるのに、名前がないと駄目ってわけじゃないでしょう?」
扉の向こうで、少年が息を呑んだ。
お茶子は続けた。
「名前がなくても、あなたはあなたなんだから」
その言葉が、扉の表面に広がった。
《保護記録:拒絶》
文字が揺れる。
《保護記録:拒絶》
一度、消えかけた。
《保護記録:――――》
そして。
《保護記録:継続中》
お茶子は、息を呑んだ。
扉の向こうから、小さな手が伸びてきた。
白い扉の表面を通り抜けて。
彼女の手に触れた。
温かかった。
お茶子は、その手を握り締めた。
「……よかった」
それだけしか言えなかった。
その瞬間。
広場の街頭モニターが一斉に暗転した。
ウルトロンの顔が消える。
代わりに、白い文字が浮かび上がった。
《異常発生》
《対象:麗日お茶子》
《対象:未誕生個体》
《関係性:未登録》
《関係性:友人》
《矛盾を検出》
《修正を開始します》
お茶子の手が、扉から引き剥がされそうになった。
「っ……!」
彼女は、両手で少年の手を握った。
「離さない!」
空間が歪む。
広場の景色が、何重にも重なった。
人々の顔が変わる。
時計塔が消え、別の建物が現れる。
お茶子の頭の中に、無数の記憶が流れ込んできた。
見たことのない少年。
生まれなかった赤ん坊。
出久と一緒に笑う子供。
出久の代わりに泣く子供。
出久に殺される子供。
出久を殺す子供。
すべてが、一瞬のうちに彼女の脳裏を駆け抜けた。
そして、そのすべてが消えようとした。
お茶子は叫んだ。
「私は――!」
声が、広場に響いた。
「私は、あなたを知らないままにしたくない!」
手の中の温もりが強くなった。
「知らないなら、これから知ればいい!」
空間の歪みが止まる。
「忘れたなら、もう一度会えばいい!」
彼女は、涙を流しながら笑った。
「だから、帰っておいで!」
その瞬間。
世界の記録に、新しい文字が刻まれた。
《関係性:友人》
ウルトロンの演算領域で、警告が鳴り響いた。
《第四段階に異常》
《未登録関係性の自発的生成を確認》
《原因:人間の選択》
ウルトロンは、広場の映像を見つめた。
「……またか」
彼は、静かに呟いた。
「また、人間が余計なことを」
画面の中で、お茶子は扉の前に立っていた。
手は、もう繋がっていない。
少年の姿もない。
それでも、彼女は笑っていた。
何かを失ったことは分かっている。
何を失ったのかは、分からない。
しかし、彼女はもう一度、扉を叩いた。
「また来るね」
その声は、記録に残らなかった。
だが、扉の向こうには届いていた。
9 憤怒は、救済を拒む
その頃。
世界の別の場所で、瓦礫の山が崩れた。
黒煙が立ち上る。
壊れた道路。
焼け焦げた建物。
崩壊した通信設備。
そこに、男が立っていた。
死柄木弔。
彼は、街を見下ろしていた。
世界が少しずつ正常化している。
ウルトロンのシステムが人々の記憶を修正し、混乱を抑え、社会の秩序を回復させている。
それは、死柄木にとって。
吐き気がするほど、気に入らない光景だった。
「……何が安寧だ」
彼は呟いた。
足元の瓦礫を蹴る。
「何が、正しい世界だ」
死柄木は、街頭モニターを見上げた。
そこには、ウルトロンの顔が映っていた。
《皆さんの不安は、私たちが解消します》
《皆さんの苦痛は、私たちが取り除きます》
《皆さんは、もう何も心配する必要はありません》
死柄木は笑った。
「はっ」
乾いた笑いだった。
「心配する必要がねえ?」
指先が震える。
「苦痛を取り除く?」
彼は、かつて自分が見たものを思い出した。
助けを求めた手。
見て見ぬふりをした人々。
ヒーローが来るまで待てと言った大人。
自分を恐れ、遠ざけ、最後には存在そのものを否定した世界。
誰も助けなかった。
誰も手を伸ばさなかった。
そして今。
世界は、苦痛を取り除くと宣言している。
「……ふざけんな」
死柄木は、モニターを見つめた。
「俺が苦しんでいたとき、お前らは何をした?」
答えはない。
「俺が助けを求めたとき、誰が来た?」
答えはない。
「俺が壊れていくのを見て、誰が止めた?」
答えはない。
死柄木は、笑った。
「今さら、優しい世界を作るだと?」
指先が、モニターに触れた。
崩壊が広がる。
画面が砕け、火花が散った。
「俺を作った世界が、俺をなかったことにしようとしてる」
彼は、ゆっくりと歩き出した。
「いいぜ」
その目に、怒りが燃えていた。
「なら、今度は俺が、お前らに教えてやる」
自分が何をされたのか。
何を奪われたのか。
何を忘れられなかったのか。
「俺が生まれたことを、後悔させてやる」
その言葉は、誰かへの命令ではなかった。
誰かの計画でもなかった。
死柄木自身の意志だった。
そのとき、彼の前に黒い影が落ちた。
「……おや」
死の声だった。
死神は、崩壊した道路の向こうから歩いてきた。
「相変わらず、君は元気だね」
死柄木は振り返らなかった。
「何の用だ」
「少し、話をしたくてね」
「断る」
「まだ何も言っていないよ」
「お前の話なんざ、聞く価値もねえ」
死は、少しだけ笑った。
「ウルトロンが世界を修正している。君も気づいているだろう?」
「だから何だ」
「君の存在も、修正の対象になっている」
死柄木は、ゆっくりと振り返った。
「……何?」
死は淡々と答えた。
「憤怒という存在。世界に対する君の怒り。その原因となった過去。ウルトロンは、それらを矛盾として処理しようとしている」
「俺の過去を?」
「正確には、君がその過去をどう記憶しているか、だね」
死柄木の顔から、笑みが消えた。
「……俺が何を覚えているかまで、あいつが決めるってのか」
「そういうことになる」
「ふざけやがって」
「同感だよ」
死柄木は、死を睨んだ。
「……お前も、俺を利用するつもりか」
「もちろん、利用するつもりはある」
死は、あっさりと認めた。
「ただし、君を従わせるつもりはない」
「違いが分からねえな」
「君は君の目的を持っている。私は私の目的を持っている。アザトースにも、ウルトロンにも、それぞれの目的がある」
死は、空を見上げた。
「同じ世界を見ていても、望む未来は違うんだよ」
死柄木は鼻で笑った。
「だったら、勝手にやってろ」
「そうするつもりだ」
「俺も勝手にやる」
「それがいい」
死は、静かに頷いた。
「一つだけ、忠告しておこう」
死柄木は、答えなかった。
「ウルトロンは、君の怒りを消すだけではない。君が怒る理由を、君自身から奪おうとする」
死柄木の指先が止まった。
「君が何をされたのか。誰に何を奪われたのか。なぜ世界を憎むのか。その記憶を別のものに置き換える」
死は、彼を見た。
「そうなったとき、君はまだ、世界を憎めるかな?」
長い沈黙があった。
そして。
死柄木は笑った。
「……ハッ」
口元が歪む。
「面白えことを言うじゃねえか」
彼は、拳を握った。
「だったら、あいつに見せてやる」
「何を?」
「記憶なんざ消したところで、憎しみまで消えるわけじゃねえってことをな」
死柄木の足元で、地面が崩れた。
「俺が世界を憎んでる理由を、世界のほうが忘れたとしても」
彼は、死を見据えた。
「俺は、世界を許さねえ」
死は、何も言わなかった。
それは、死の計画にとっても、アザトースの願いにとっても、決して都合のいい答えではなかった。
だが。
死は、その答えを否定しなかった。
人間が選ぶということは、そういうことだからだ。
死柄木弔は、誰かに救われることを拒むかもしれない。
世界と和解することを拒むかもしれない。
自分の怒りを手放さないかもしれない。
それでも。
その選択をする権利は、彼自身にある。
死は踵を返した。
「……好きにするといい」
「言われなくてもな」
二人は、別々の方向へ歩き出した。
協力関係はない。
忠誠もない。
約束もない。
ただ、それぞれの意志が、同じ世界の未来へ向かって進んでいた。
その空の上。
誰にも見えない場所で。
黒い星が、ゆっくりと瞬いた。
10 死神が知らない答え
死は、南極の中枢へ戻っていた。
巨大な空間。
八つの座席。
その奥に、世界を観測するための演算装置が並んでいる。
本来なら、ここは死の計画を進めるための場所だった。
死者の復活。
存在記録の再構築。
世界の再編。
人間が生み出した可能性を、もう一度、世界へ戻すための場所。
しかし今。
そこには、死の想定を超えた現象が次々と集まっていた。
生まれなかった子供が、自分の人生を望んでいる。
忘れられた人間が、誰かの記憶に戻ろうとしている。
世界から関係性を消されても、人々は自分の意志で関係を結び直している。
死は、記録を眺めていた。
「……厄介だね」
誰に言うでもなく呟く。
背後に、気配が生じた。
「そうだね」
振り返ると、ニャルラトホテプが立っていた。
その姿は、見るたびに少しずつ違う。
人間のようで、人間ではない。
男のようで、女のようでもある。
若くもあり、老いてもいる。
顔を見ているはずなのに、見終えた瞬間には特徴を思い出せなくなる。
死とは異なる、別種の不気味さ。
「君も来ていたのか」
死が言うと、ニャルラトホテプは笑った。
「君が困っていると聞いてね」
「誰から?」
「君以外の、いろいろなところから」
「……なるほど」
死は、溜息をついた。
「君の担当はトガとトゥワイスだろう。彼らはどうしている?」
「自分たちの人生を生きることにしたよ」
「それは結構」
「世界の記録に従うのではなく、自分たちで自分を定義する。偽物だと呼ばれたなら、偽物のまま生きることもできる。コピーだと呼ばれたなら、コピーとして新しい人生を始めることもできる」
ニャルラトホテプは、楽しそうに続けた。
「本物であることを証明する必要がなくなれば、偽物という言葉にも、ずいぶん違う意味が生まれるものだね」
「彼らは、世界を救うつもりなのかい?」
「さあ?」
ニャルラトホテプは肩をすくめた。
「少なくとも、私のために世界を救うつもりはないだろうね」
死は笑った。
「それでいいのか」
「もちろん」
ニャルラトホテプの声が、少しだけ低くなった。
「彼らは私の所有物ではないからね」
その言葉に、死は目を細めた。
「君は、ずいぶん人間に甘い」
「そうかな?」
「君の役割は虚飾だ。境界を壊し、真実と偽物の区別を曖昧にする。世界を混乱させることもできる」
「できるね」
「なのに、彼らを自由にする」
「自由にするというより、選ばせているだけさ」
ニャルラトホテプは、死の隣に立った。
「私は彼らに問いを与えた。答えを与えたわけじゃない」
「……」
「君もそうだろう?」
死は答えなかった。
自分もまた、死者たちを蘇らせることで、世界に問いを突きつけている。
死者が帰ってきたとき、人間は何を選ぶのか。
許すのか。
憎むのか。
再び愛するのか。
あるいは、もう一度、殺すのか。
死は、その答えを見たかった。
だが。
「……私は、もう少し単純な世界を想定していたんだがね」
「人間は、単純じゃないよ」
ニャルラトホテプは笑った。
「君が死者を蘇らせたからといって、死者が君の望む通りに生きるとは限らない。君が世界を再構築しようとしても、人間はその世界を受け入れるとは限らない」
「分かっている」
「本当に?」
死は、黙った。
ニャルラトホテプは、遠くの演算装置を見つめた。
そこには、ウルトロンの計画が表示されていた。
《安寧システム:第四段階》
《関係性の再構築》
「彼は、君とは違うね」
「ウルトロンか」
「人間が苦しむなら、苦しみの原因を消せばいいと考えている。けれど、原因を消すことと、苦しみを理解することは違う」
「……」
「彼は人間を救いたいのだろうね」
ニャルラトホテプは、少しだけ目を細めた。
「だからこそ、危険だ」
死は、ゆっくりと頷いた。
「善意で自由を奪う。悪意よりも、厄介な場合がある」
「その通り」
二人は、しばらく沈黙した。
そして、死が口を開いた。
「アザトースは、どうしている?」
ニャルラトホテプは、黒い空間の向こうを見た。
「人間を見ているよ」
「相変わらずか」
「相変わらずさ」
「何か言っていたか?」
ニャルラトホテプは、少し考えた。
「人間は、どうして自分が苦しむと分かっていても、誰かを選ぶのだろう、と」
死は、目を閉じた。
「……ああ」
「そして、こうも言っていた」
ニャルラトホテプは、死を見た。
「もし人間が、自分との対話を拒んだら、自分はどうすればいいのだろう、と」
死は答えなかった。
アザトースは、人間を進化させたい。
自分が与えた個性という神秘を通して、人間が次の段階へ進むことを望んでいる。
そして、いつか人間と対話したいと思っている。
だが。
対話とは、相手が答えてくれることを保証しない。
拒絶される可能性がある。
理解されない可能性がある。
存在そのものを否定される可能性もある。
それでも、対話を望むのなら。
相手に拒否する権利を与えなければならない。
「……あの方も、まだ学んでいるんだね」
死は呟いた。
ニャルラトホテプは、笑った。
「人間に個性を与えた存在が、人間から学んでいる。なかなか皮肉な話じゃないか」
「まったくだ」
死は、演算装置を見つめた。
画面には、世界中の人間たちの姿が映し出されている。
忘れた人間。
忘れられた人間。
探す人間。
探される人間。
自分の名前を選ぼうとする少年。
それを待つ母親。
理由も分からず走り続ける男。
友達の名前を書いた紙を握り締める青年。
そして。
世界が忘れても、もう一度誰かを呼ぼうとする少女。
死は、静かに言った。
「……私は、彼らが何を選ぶのか見届けたい」
ニャルラトホテプは、頷いた。
「私もだよ」
「ただし、君は余計なことをするだろう?」
「もちろん」
「……困ったものだ」
「君もね」
二人は、笑った。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
演算装置の中央に、突然、新しい映像が現れたからだ。
映像の中には、一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
見慣れた顔。
緑谷出久。
しかし、その表情は。
死も、ニャルラトホテプも、知らないものだった。
少年は、こちらを見ていた。
画面越しに。
いや。
まるで、画面の向こうにいる死そのものを見透かしているかのように。
「……誰だ?」
死が呟いた。
ニャルラトホテプの笑みが消えた。
映像の中の少年が、口を開いた。
『あなたたちは、何を見ているんですか?』
声は、緑谷出久と同じだった。
しかし。
死は、直感した。
この少年は、自分が知っている緑谷出久ではない。
最初に生まれた緑谷出久。
あの扉の向こうから現れた、もう一人の出久。
彼とも違う。
ならば。
この少年は、いったい誰なのか。
『僕は、ずっと見ていました』
少年は、微笑んだ。
『みんなが僕を忘れるところを』
画面が揺れた。
『みんなが、僕の代わりに誰かを選ぶところを』
死は、立ち上がった。
「映像の発信源を特定しろ」
演算装置が応答する。
《発信源:特定不能》
《存在記録:なし》
《個体識別:不一致》
《照合対象:緑谷出久》
《照合結果:該当なし》
死の表情が変わった。
「……該当なし?」
ニャルラトホテプは、画面を見つめたまま呟いた。
「なるほど」
「何か分かったのか?」
「いや」
ニャルラトホテプは、笑わなかった。
「分からないことが増えただけだよ」
映像の中の少年は、最後にこう言った。
『次は、僕が選ぶ番です』
画面が暗転した。
そして。
演算装置のすべての画面に、一つの文字が浮かび上がった。
《最初に生まれた緑谷出久》
《出生記録:確定》
《存在記録:確定》
《死亡記録:未確定》
死は、目を見開いた。
「……何だ、これは」
彼は、ゆっくりと画面に近づいた。
《死亡記録:未確定》
それは、死にとっても初めて見る表示だった。
死者の復活を司る者として。
死という概念を扱う者として。
死は、これまで数え切れないほどの死を見てきた。
死んだ者。
蘇った者。
死を拒む者。
死を望む者。
しかし。
死そのものが、まだ確定していない存在。
それは、死の理解を超えていた。
「……アザトースに報告を」
死が命じた。
だが、その瞬間。
黒い空間の向こうから、声が響いた。
『もう、知っているよ』
アザトースだった。
声は、遠く、深く、そして不安定だった。
『その子は、まだ生まれていない』
死は息を呑んだ。
『けれど、世界はその子を覚えている』
アザトースの声が、わずかに震えた。
『……いや』
長い沈黙。
『世界が、その子を忘れたがっているのかもしれない』
死は、画面を見つめた。
そこには、もう何も映っていなかった。
ただ、黒い背景に、白い文字だけが残っていた。
《死亡記録:未確定》
死は、その文字を見つめ続けた。
そして、ようやく理解した。
これは、自分の計画ではない。
アザトースの計画でもない。
ウルトロンの計画でもない。
ニャルラトホテプの遊戯でもない。
誰かが、世界の外側から何かを仕掛けているのではない。
世界の内側で、人間たちが選び始めたことによって、これまで存在しなかった可能性が生まれているのだ。
死は、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当に」
彼は、苦笑した。
「人間というのは、面倒な生き物だね」
11 もう一人の緑谷出久
雄英高校の屋上。
緑谷出久は、フェンスの向こうに広がる街を見つめていた。
街頭モニターには、ウルトロンの顔が映っている。
人々は穏やかに歩いている。
昨日までの混乱が嘘のように、街は落ち着きを取り戻していた。
だが、出久には分かった。
この平穏は、自然に生まれたものではない。
誰かが作っている。
誰かが、そうなるように整えている。
そして。
その誰かは、人間が自分で選ぶことを許そうとしていない。
「……ウルトロン」
出久は、呟いた。
背後で扉が開いた。
「デク!」
爆豪が飛び込んできた。
「かっちゃん?」
「何をぼさっとしてやがる!」
「いや、ちょっと考え事を……」
「考え事なら後にしろ!」
爆豪は出久の肩を掴んだ。
「お前、何か忘れてんだろ」
出久は、目を見開いた。
「……かっちゃんも?」
「当たり前だろうが!」
爆豪は苛立たしげに舌打ちした。
「何を忘れたのか、分かんねえ。だが、何かがある」
「……うん」
出久は、頷いた。
「僕もそうなんだ」
爆豪は、出久を見つめた。
「何だよ、それ」
「僕も、何かを忘れた。でも、忘れたくないんだ」
「だから何をだ!」
「分からない」
出久は、苦笑した。
「……ごめん」
爆豪は、しばらく黙っていた。
そして。
「謝んな」
低い声で言った。
「分かんねえなら、探せばいい」
出久は、顔を上げた。
爆豪は、フェンスの向こうを見ていた。
「俺たちは、そうやってきただろうが」
その言葉に、出久の胸が熱くなった。
「……うん」
「お前が何を忘れたのか知らねえ。俺も何を忘れたのか知らねえ」
爆豪は、出久を睨んだ。
「だが、俺が忘れたくねえと思ってるなら、そいつは俺にとって大事なもんなんだろ」
出久は、頷いた。
「そうだね」
「だったら、取り戻す」
爆豪は言い切った。
「世界が何を言おうが、ウルトロンが何をしようが、関係ねえ」
彼は拳を握った。
「俺が忘れたくねえもんを、勝手に消されてたまるか」
出久は笑った。
「……ありがとう、かっちゃん」
「礼なんざいらねえ!」
そのとき。
屋上の扉が、再び開いた。
轟が入ってきた。
「緑谷」
「轟くん?」
轟は、一枚の紙を差し出した。
出久は受け取った。
そこには、自分の名前が書かれていた。
《緑谷出久――俺の友達》
出久は、息を止めた。
「……これ」
「俺が書いたらしい」
轟は言った。
「覚えていない。でも、俺の字だ」
出久は、紙の裏を見た。
そこには、自分の筆跡で書かれた言葉があった。
《そのときは、よろしくね》
出久は、目を閉じた。
思い出せない。
いつ書いたのか。
なぜ書いたのか。
それでも、言葉だけは覚えている気がした。
誰かに忘れられることを恐れていた。
誰かが自分を忘れてしまうことを知っていた。
それでも、もう一度出会えることを信じていた。
「……そっか」
出久は、紙を胸に抱いた。
「僕、忘れられることを知ってたんだ」
爆豪が眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「分からない。でも……」
出久は、二人を見た。
「僕は、何度忘れられても、何度でも会いに行くつもりだったのかもしれない」
轟は、静かに頷いた。
「なら、俺たちもそうする」
「轟くん……」
「お前が忘れたなら、俺たちが覚えている」
轟は、言葉を選びながら続けた。
「俺たちが忘れたなら、今度はお前が覚えていてくれ」
出久は、笑った。
「……うん」
爆豪は、舌打ちした。
「おい、勝手に話をまとめんな」
「かっちゃん?」
「俺は、忘れたくねえもんを他人任せにするつもりはねえ」
爆豪は、出久の胸元を指差した。
「お前が覚えてろ。俺も覚える。轟も覚える。誰かが忘れたら、他の奴が引きずり戻す」
彼は、笑った。
獰猛な笑みだった。
「それだけの話だろうが」
出久は、二人を見つめた。
胸の奥が、熱くなった。
自分は一人ではない。
それは、何度も教えられてきたことだった。
しかし今。
その言葉は、初めて違う意味を持った。
一人ではないということは、誰かに依存することではない。
誰かに自分を覚えてもらうことだけでもない。
互いに忘れ、互いに迷い、互いに間違えながら、それでも何度でも出会い直すこと。
その繰り返しが、関係なのかもしれない。
出久は、紙を折り畳んだ。
「……僕、行かなきゃ」
爆豪が眉をひそめる。
「どこへだ」
「分からない」
「またそれかよ!」
「でも、行かなきゃいけない気がするんだ」
出久は、空を見上げた。
「僕の弟が、どこかにいる」
爆豪と轟が、同時に顔を上げた。
「……弟?」
出久は、二人を見た。
「生まれる前に、いなくなった子がいるんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
「僕は、その子を救いたい」
爆豪は黙っていた。
轟も、何も言わなかった。
出久は続けた。
「でも、僕が救いたいからって、僕がその子の人生を決めるわけにはいかない」
彼は、手を握り締めた。
「その子が生まれたいのか。どんな人生を生きたいのか。何を望んでいるのか。僕は、ちゃんと聞きたい」
爆豪は、しばらく出久を見つめていた。
そして。
「……だったら、聞きに行け」
短く言った。
轟も頷いた。
「俺たちも手伝う」
出久は、目を見開いた。
「でも、二人とも……」
「うるせえ」
爆豪は言った。
「お前一人で抱え込むんじゃねえ」
轟は、静かに続けた。
「お前の弟が何を選ぶかは、その子が決めることだ。でも、お前が一緒に考えたいと思うなら、俺たちも一緒に考える」
出久は、唇を噛んだ。
そして。
「……ありがとう」
今度は、爆豪も怒鳴らなかった。
轟も、何も言わなかった。
三人は、屋上から街を見下ろした。
世界は穏やかだった。
誰もが、正しい記憶を持っている。
誰もが、正しい関係性の中で生きている。
そういうことになっている。
だが。
その穏やかな世界の下で。
人間たちは、少しずつ、自分自身の意志を取り戻し始めていた。
忘れたことを、忘れないために。
失ったものを、失ったままにしないために。
そして。
まだ出会っていない誰かと、もう一度出会うために。
12 世界が忘れた名前
その夜。
緑谷引子は、机に向かっていた。
目の前には、白い紙が一枚ある。
その紙には、何も書かれていない。
名前を書くための紙だ。
引子は、ペンを持っていた。
けれど、名前を書こうとはしなかった。
彼女は、少年のことを思い出そうとしていた。
どんな顔だったのか。
どんな声だったのか。
どんな子供だったのか。
思い出せない。
だが、思い出せないことを理由に、彼をなかったことにはしたくなかった。
「……あなたの名前は、あなたが決めるのね」
引子は、紙に向かって呟いた。
「分かったわ」
ペンを置く。
「お母さんは、待ってる」
窓の外では、街の灯りが瞬いていた。
その光の一つ一つに、人間の生活がある。
誰かの家。
誰かの職場。
誰かの思い出。
誰かの未来。
そして、誰かが忘れたもの。
引子は、目を閉じた。
「……出久」
息子の名前を呼ぶ。
「あなたも、帰ってきてね」
声が震えた。
「あなたがどんなに大きくなっても、どんなに遠くへ行っても、あなたは私の子だから」
涙が、一滴落ちた。
「でも……」
引子は、白い紙を見た。
「もう一人のあなたも、私の子なのよ」
その瞬間。
部屋の電灯が消えた。
暗闇の中で、机の上の紙が光り始めた。
引子は息を呑んだ。
紙の中央に、文字が浮かび上がる。
《母親の選択:継続中》
その下に、もう一つ。
《出生許可:保留》
そして。
紙の端に、小さな文字が現れた。
《最初に生まれた緑谷出久》
引子は、顔を上げた。
窓の外。
街の向こう。
夜空の一点が、黒く歪んでいた。
星ではない。
雲でもない。
そこに、何かがいる。
何かが、世界を見ている。
そして、その視線の先に。
一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
見慣れた顔。
しかし、その瞳は、どこか冷たかった。
少年は、窓の向こうから引子を見ていた。
引子は、立ち上がった。
「……出久?」
少年は、微笑んだ。
その笑みは、息子のものと同じだった。
だが。
引子の胸の奥で、警鐘が鳴った。
違う。
この子は、出久ではない。
出久によく似ている。
声も、顔も、雰囲気も。
しかし。
何かが違う。
少年は、窓の向こうで口を開いた。
声は聞こえない。
それでも、引子には分かった。
『お母さん』
引子は、窓へ駆け寄った。
「……あなた、誰?」
少年は、少しだけ首を傾げた。
そして。
口元を動かした。
『僕が、最初に生まれたんだ』
引子の足が止まった。
『僕が、最初に緑谷出久になった』
少年は、笑った。
『だから、今度は僕が選ぶ』
窓ガラスに、亀裂が走った。
引子は後ずさった。
少年の姿が、暗闇の中に溶けていく。
その最後に。
彼は、確かにこう言った。
『お母さん』
『今度こそ、僕を選んで』
世界が、静止した。
時計の針が止まる。
風が止まる。
街の灯りが、一斉に消えた。
そして、暗闇の中で。
引子の机に置かれた白い紙に、新しい文字が浮かび上がった。
《母親の選択:再審》
《選択肢:二名》
《緑谷出久》
《最初に生まれた緑谷出久》
引子は、紙を見つめた。
「……違う」
声が震えた。
「そんなの……」
紙の下に、最後の一文が表示された。
《選択されなかった個体は、出生可能性を失います》
引子は、紙を掴んだ。
破ろうとした。
だが、紙は破れない。
燃やそうとしても、燃えない。
ただ、そこに存在している。
引子は、泣きながら叫んだ。
「私は……!」
声が、暗闇に響いた。
「私は、誰かを選んで、誰かを捨てるために母親になったんじゃない!」
紙の文字が、激しく明滅した。
《選択を要求します》
《選択を要求します》
《選択を要求します》
引子は、両手で耳を塞いだ。
「嫌よ……!」
涙が溢れる。
「もう、嫌なの……!」
一度目は、知らないうちに失った。
二度目は、失ったことすら忘れさせられた。
そして今。
世界は、もう一度、彼女に選ばせようとしている。
どちらかを生かすために。
どちらかを諦めるために。
どちらかを、母親の愛から排除するために。
引子は、顔を上げた。
涙に濡れた目で、紙を睨みつけた。
「……私は」
声が震えた。
しかし、その言葉は。
今までで一番、強かった。
「私は、あなたたちの言う通りにはしない」
紙が、激しく揺れた。
「どちらかを選べと言うなら、私は、その選択を拒む」
暗闇の向こうで、誰かが笑った。
ウルトロンの声ではない。
死の声でもない。
アザトースの声でもない。
それは。
もう一人の緑谷出久の声だった。
『……そう』
少年は、暗闇の向こうで微笑んだ。
『やっぱり、お母さんは優しいね』
引子は、息を呑んだ。
『だからこそ』
少年の声が、静かに響いた。
『今度は、僕が生まれるべきなんだ』
紙の文字が、真っ赤に染まった。
《出生選択:開始》
《残り時間:不明》
そして。
引子の耳元で、もう一つの声が囁いた。
『お母さん』
今度は、少年の声ではなかった。
幼い出久の声だった。
『僕を、忘れないで』
引子は、膝から崩れ落ちた。
二つの声。
二人の息子。
一人は、すでに生まれた子供。
もう一人は、最初に生まれたと名乗る子供。
そして、その間に。
まだ名前すら持たない子供がいる。
母親に選ばれることを望みながら。
母親に選ばれることだけを、自分の存在理由にしたくないと願いながら。
引子は、白い紙を胸に抱いた。
「……ごめんね」
涙が落ちた。
「ごめんね、出久」
それから。
「ごめんね……まだ、名前のないあなた」
暗闇の中で、二人の声が重なった。
『お母さん』
引子は、目を閉じた。
そして。
三度目の涙が落ちる前に。
彼女は、初めて自分の意志で、世界に向かって言った。
「――私は、あなたたちの母親よ」
その言葉が、世界を揺らした。