僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十九話「母親は、子供を選ばない」

1 母親のいない部屋

緑谷引子は、食卓に三人分の食器を並べていた。

 

茶碗が三つ。

 

箸が三膳。

 

味噌汁の椀が三つ。

 

それから、焼き魚の皿が三枚。

 

冷蔵庫の中には、昨日買った豆腐が残っている。大根もある。卵もある。冷凍庫には、出久が好きだった小さなハンバーグがいくつか入っていた。

 

いつもと変わらない、ありふれた夕食の支度だった。

 

ただひとつ、奇妙なことがある。

 

引子は、なぜ三人分の食事を用意しているのか、わからなかった。

 

「……あら?」

 

箸を並べる手が止まった。

 

二人暮らしのはずだった。

 

自分と、出久。

 

そう。

 

自分には、出久がいる。

 

今はもう大人になった息子。小さな頃から何度も転んで、何度も立ち上がって、何度も自分を心配させた息子。

 

人を助けることばかり考えて、自分のことは後回しにする。

 

無茶をして、傷を作って、それでも笑ってしまう。

 

そんな息子だった。

 

引子は、その顔を思い浮かべようとした。

 

緑色の髪。

 

そばかす。

 

少し困ったような笑顔。

 

――思い浮かべられる。

 

確かに、思い浮かべられる。

 

けれど。

 

「……あれ?」

 

今、何かが足りなかった。

 

息子の顔を思い浮かべるたびに、その輪郭の向こう側に、もうひとつの影が浮かぶ。

 

同じような緑色の髪。

 

同じような小さな手。

 

けれど、出久よりもずっと幼い。

 

まだ歩くこともできないほど小さな子供。

 

その子供が、引子の膝に座っている。

 

顔を上げて、彼女を見ている。

 

口を動かしている。

 

何かを言おうとしている。

 

なのに、声が聞こえない。

 

「……誰?」

 

引子は、思わず尋ねていた。

 

食卓の向こうには、誰もいない。

 

空席がひとつ。

 

そこに並べられた茶碗だけが、静かに夕食の湯気を受け止めていた。

 

引子は箸を置いた。

 

胸が苦しかった。

 

悲しいことがあったのだろうか。

 

誰かを失ったのだろうか。

 

そう考えるだけで、喉の奥が詰まる。

 

けれど、悲しみの理由がわからない。

 

理由がわからないのに、涙が出そうになる。

 

「……変ね」

 

笑おうとした。

 

笑えなかった。

 

「私、何か忘れているのかしら」

 

その瞬間。

 

食卓の向こう側から、声がした。

 

『お母さん』

 

引子は顔を上げた。

 

誰もいない。

 

けれど、確かに聞こえた。

 

子供の声だった。

 

幼くて、少し震えていて、泣くのを我慢している声。

 

『お母さん』

 

今度は、はっきりと。

 

引子は立ち上がった。

 

椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

 

「誰なの?」

 

返事はない。

 

「そこにいるの?」

 

食卓の向こうには、空席しかない。

 

それでも、引子はそこへ歩いていった。

 

そして、空席の前で膝をついた。

 

誰も座っていない椅子に向かって、両手を伸ばした。

 

「……ごめんね」

 

自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。

 

「ごめんね。お母さん、あなたのこと……」

 

言葉が途切れた。

 

何を謝ろうとしていたのか。

 

誰に謝ろうとしていたのか。

 

わからない。

 

それでも、涙が頬を伝った。

 

「ごめんね……」

 

そのときだった。

 

食卓の上に置かれたスマートフォンが、震えた。

 

画面には、見覚えのない通知が表示されていた。

 

《安寧システムによる記憶補正を開始します》

 

《対象:緑谷引子》

 

《補正内容:家族構成の不整合》

 

《不整合の原因を検出》

 

《削除対象――》

 

画面が乱れた。

 

文字が崩れた。

 

そして、最後の一行だけが残った。

 

《未誕生個体》

 

引子は、息を止めた。

 

その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

記憶ではない。

 

もっと深いところにあるもの。

 

忘れた記憶を思い出すのではなく、忘れたことそのものを思い出すような感覚。

 

彼女は、かすれた声で呟いた。

 

「……この子は」

 

涙が落ちた。

 

「この子は、私の……」

 

その瞬間、部屋の照明が消えた。

 

スマートフォンの画面も暗くなった。

 

窓の外から聞こえていた車の音も、人の声も、すべてが消えた。

 

世界から、音がなくなった。

 

そして、暗闇の中で。

 

誰かが、引子の手を握った。

 

小さな手だった。

 

温かかった。

 

『お母さん』

 

引子は、その手を握り返した。

 

今度は、離さなかった。

 

「……うん」

 

涙で声が震えた。

 

「うん。ここにいるよ」

 

『僕、いてもいい?』

 

引子の心臓が、止まりそうになった。

 

その問いは、あまりにも残酷だった。

 

子供が母親に尋ねる言葉ではなかった。

 

生まれてもいいか。

 

ここにいてもいいか。

 

自分を愛してもらえるか。

 

そんなことを、子供の側が確かめなければならない世界は、どこかがおかしい。

 

引子は、暗闇の中で子供を抱きしめた。

 

姿は見えない。

 

顔もわからない。

 

名前すら、思い出せない。

 

それでも。

 

「いていいよ」

 

引子は答えた。

 

「いていいの。あなたは、ここにいていいのよ」

 

『……本当に?』

 

「本当よ」

 

『お兄ちゃんがいても?』

 

引子は息を呑んだ。

 

お兄ちゃん。

 

その言葉が、胸の奥に刺さった。

 

この子には、兄がいる。

 

自分には、息子がいる。

 

緑谷出久。

 

出久。

 

出久。

 

その名前を心の中で繰り返すたびに、別の声が重なった。

 

――お兄ちゃん。

 

――お母さん。

 

――ごめんなさい。

 

――僕が生まれなければ。

 

――君が生まれなければ。

 

――みんなが助かるんだ。

 

記憶の断片が、濁流のように押し寄せる。

 

病院の白い天井。

 

医師の説明。

 

小さなベッド。

 

誰もいないはずの保育器。

 

息子の手を握りながら、もうひとつの命のことを考えていた夜。

 

そして、泣いていた。

 

誰にも見られないように。

 

出久にも気づかれないように。

 

あのとき、自分は何を願ったのだろう。

 

どちらかが生きてくれればいいと願ったのだろうか。

 

それとも。

 

引子は、子供を抱きしめたまま、ゆっくりと首を振った。

 

「違う……」

 

何が違うのかは、わからなかった。

 

それでも、わかった。

 

自分は、この子に何かを約束しなければならない。

 

生まれてこなかったことを謝るのではない。

 

生まれなかったことを、なかったことにするのでもない。

 

ましてや、兄の代わりになってもらうのでもない。

 

「あなたは、あなたよ」

 

引子は言った。

 

「出久の代わりじゃない。誰かの代わりでもない。あなたは……」

 

声が詰まった。

 

名前が出てこなかった。

 

呼んであげたい。

 

名前を呼んであげたい。

 

けれど、その名前を自分が決めてしまっていいのか。

 

彼が自分の名前を探しているのなら。

 

彼が、自分自身の意思で自分を選ぼうとしているのなら。

 

母親だからという理由で、その答えを奪ってはいけない。

 

引子は、涙を拭った。

 

「あなたが、あなたの名前を決めるまで、待っているから」

 

暗闇の中で、子供の手がわずかに動いた。

 

『……待っていてくれるの?』

 

「うん」

 

『僕が、どんな名前を選んでも?』

 

「うん」

 

『お兄ちゃんと違う名前でも?』

 

引子は笑った。

 

泣きながら。

 

「当たり前でしょう?」

 

そして、もう一度、子供を抱きしめた。

 

「あなたは、出久じゃないもの」

 

その言葉を口にした瞬間、世界が軋んだ。

 

まるで、世界そのものが、その答えを拒絶したかのように。

 

暗闇の向こうで、機械の声が響いた。

 

《家族構成の不整合を検出》

 

《母親による未誕生個体の承認を確認》

 

《矛盾を解消します》

 

引子は、子供を抱きしめる腕に力を込めた。

 

「解消なんて、させない」

 

彼女は初めて、はっきりと世界に向かって言った。

 

「この子は、矛盾なんかじゃない」

 

そして、照明が戻った。

 

食卓には、三人分の食器が並んでいた。

 

空席の前で、引子はひとり、膝をついていた。

 

けれど、もう泣いてはいなかった。

 

少なくとも、今は。

 

彼女は立ち上がり、三つ目の茶碗にご飯をよそった。

 

「……お腹、空いているかもしれないものね」

 

誰もいない椅子に向かって、そう言った。

 

そして、初めて気づいた。

 

自分は今まで、食卓に誰かが増えることを、恐れていたのかもしれない。

 

三人になれば、二人だった日々が壊れてしまう。

 

もうひとりの子供を認めれば、出久に何かを返せなくなる。

 

そんなことを、どこかで思っていたのかもしれない。

 

けれど、違った。

 

愛情は、食卓の席を奪い合うものではない。

 

子供がひとり増えたからといって、もうひとりの子供が減るわけではない。

 

母親は、子供を選ばなくていい。

 

選ばないことが、無責任なのではない。

 

誰も切り捨てないと決めることが、母親にできる、たったひとつの抵抗なのかもしれなかった。

 

引子は、三つ目の椅子を少しだけ引いた。

 

「おかえりなさい」

 

その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。

 

出久に。

 

まだ生まれていない子供に。

 

それとも、忘れていた自分自身に。

 

引子には、わからなかった。

 

ただ、その夜。

 

彼女は初めて、三人分の夕食を、最後まで温かいまま用意していた。

 

2 麗日お茶子は、名前を失う

「緑谷、くん……?」

 

麗日お茶子は、街の交差点で立ち尽くしていた。

 

目の前には、見知らぬ青年が倒れている。

 

交通事故だった。

 

信号を無視したトラックが歩道に乗り上げ、数人を巻き込んだ。周囲の人々が悲鳴を上げ、誰かが救急車を呼び、誰かが運転手を引きずり出そうとしている。

 

お茶子は、考えるより先に動いていた。

 

「大丈夫ですか!」

 

倒れた青年の身体を浮かせ、車体の下から引き出す。

 

能力を使う。

 

周囲の破片を浮かせる。

 

負傷者の上に落ちかけた看板を止める。

 

自分の身体が重くなるほど、何人もの人間を浮かせた。

 

それでも、手は止まらなかった。

 

助けなければ。

 

誰かが助けなければ。

 

その思いだけが、彼女を動かしていた。

 

そして、事故現場の中心で。

 

お茶子は、ひとりの少年を見つけた。

 

小学生くらいの男の子だった。

 

膝を擦りむき、泣いている。

 

母親らしき女性が、少し離れた場所で倒れていた。

 

「お母さん!」

 

少年が叫んだ。

 

お茶子は駆け寄った。

 

「大丈夫。お姉さんが助けるからね」

 

少年の身体を浮かせ、安全な場所へ運ぶ。

 

そのあとで、女性のもとへ向かおうとした。

 

しかし。

 

「……あれ?」

 

少年が、お茶子の服を掴んでいた。

 

「お姉さん」

 

「どうしたの?」

 

「お兄ちゃんは?」

 

お茶子は、瞬きをした。

 

「お兄ちゃん?」

 

「うん。お兄ちゃんが来るって、お母さんが言ってた」

 

少年は泣きながら、交差点の向こうを指さした。

 

「緑色の髪のお兄ちゃん」

 

お茶子の心臓が跳ねた。

 

緑色の髪。

 

その言葉を聞いただけで、胸が痛くなった。

 

「……どんな人?」

 

尋ねた自分の声が、ひどく弱く聞こえた。

 

少年は不思議そうに首を傾げた。

 

「優しい人」

 

「……うん」

 

「いつも、みんなを助けてくれる人」

 

「……うん」

 

「お姉ちゃんも、その人を知ってるの?」

 

お茶子は答えられなかった。

 

知っている。

 

絶対に知っている。

 

知っていなければならない。

 

彼の顔。

 

彼の声。

 

彼の名前。

 

思い出そうとする。

 

しかし、記憶の中にいるはずの青年の顔が、白い霧に包まれていた。

 

声だけが残っている。

 

誰かが、何度も自分の名前を呼んでいた。

 

誰かが、傷ついた手で自分を庇っていた。

 

誰かが、笑っていた。

 

誰かが。

 

誰かが。

 

「……誰なの?」

 

お茶子は呟いた。

 

少年が首を傾げた。

 

「え?」

 

「その人、誰なの……?」

 

自分が何を尋ねているのか、わからなかった。

 

少年は泣き止み、真剣な顔で答えた。

 

「緑谷出久お兄ちゃんだよ」

 

その名前が、世界に落ちた。

 

一瞬。

 

本当に一瞬だけ。

 

お茶子の中で、すべてが繋がった。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

緑谷出久。

 

ああ。

 

そうだ。

 

自分は、その人を知っている。

 

知っているどころではない。

 

その人がいたから、自分はここにいる。

 

その人がいたから、ヒーローになろうと思った。

 

その人がいたから、何度も立ち上がれた。

 

その人がいたから。

 

その人がいたから。

 

その人が――。

 

《安寧システムによる記憶補正を実行》

 

頭の中に、冷たい声が響いた。

 

お茶子は膝をついた。

 

「っ……!」

 

こめかみを押さえる。

 

視界が揺れる。

 

少年の顔が遠ざかる。

 

交差点の音が歪む。

 

名前が、崩れていく。

 

緑谷出久。

 

緑谷。

 

出久。

 

いずく。

 

――いずく?

 

その名前を、どうして知っている?

 

誰の名前だった?

 

自分は誰を探していた?

 

「……あ」

 

お茶子の口から、声が漏れた。

 

思い出せない。

 

思い出せないのに。

 

忘れたくない。

 

忘れたくないのに。

 

涙が出ていた。

 

「お姉ちゃん?」

 

少年が心配そうに顔を覗き込んだ。

 

「どうしたの?」

 

お茶子は、笑おうとした。

 

いつものように。

 

誰かを安心させるために。

 

「大丈夫……」

 

声が震えた。

 

「大丈夫だよ」

 

大丈夫ではなかった。

 

自分が誰を愛していたのかさえ、わからなくなっている。

 

それでも、少年を安心させなければならない。

 

それが、自分にできることだから。

 

「お兄ちゃんは、きっと来るよ」

 

お茶子は言った。

 

その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。

 

どうして、そんなことがわかるのだろう。

 

少年は涙を拭った。

 

「本当?」

 

「うん」

 

「お姉ちゃん、知ってるの?」

 

お茶子は答えられなかった。

 

知っている。

 

知らない。

 

思い出せない。

 

それでも。

 

「……知ってるよ」

 

彼女は言った。

 

「その人が、どんな人かは……知ってる」

 

顔を思い出せなくても。

 

名前を忘れても。

 

自分がその人を知っていたという事実まで、消させるわけにはいかなかった。

 

お茶子は立ち上がった。

 

交差点では、救急車のサイレンが鳴り響いている。

 

彼女は負傷者を助けるため、再び能力を使った。

 

そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「待っててね」

 

誰に向けた言葉なのか、わからない。

 

「絶対に、見つけるから」

 

その瞬間。

 

空の向こう側で、無数の文字が点灯した。

 

《対象:麗日お茶子》

 

《記憶補正率:八十二パーセント》

 

《個体識別の失敗を確認》

 

《感情の残留を確認》

 

《修正を継続します》

 

お茶子は、文字を見ていなかった。

 

見えていたとしても、意味を理解できなかっただろう。

 

彼女の目には、交差点の向こう側に立つ、誰かの背中だけが見えていた。

 

緑色の髪。

 

傷だらけの背中。

 

そして、振り返ることのできない誰か。

 

「……緑谷、くん」

 

彼女は、今度こそ、その名前を口にした。

 

たった一度。

 

けれど、確かに。

 

世界が彼女の記憶を削るたび、彼女はその名前を探し直していた。

 

それが、彼女の戦いだった。

 

3 爆豪勝己は、理由を忘れても走る

爆豪勝己は、走っていた。

 

何のために走っているのかは、わからない。

 

どこへ向かっているのかも、わからない。

 

ただ、足を止めてはいけない。

 

そんな確信だけがあった。

 

街の道路を駆け抜ける。

 

崩れた歩道を飛び越える。

 

信号機を爆破して進路を開く。

 

周囲の人々が何かを叫んでいる。

 

「危ない!」

 

「そっちは立入禁止だ!」

 

「ヒーローの方ですか!?」

 

知るか。

 

勝己は走った。

 

胸の奥が、焼けるように痛かった。

 

苛立ちではない。

 

怒りでもない。

 

もっと原始的な感覚。

 

自分の中にある何かが、失われようとしている。

 

それを取り戻さなければならない。

 

取り戻さなければ。

 

誰を?

 

何を?

 

「クソが……!」

 

歯を食いしばる。

 

頭の中で、声が響いていた。

 

『かっちゃん』

 

勝己の足が止まった。

 

「……あ?」

 

誰だ。

 

今の声は誰だ。

 

『かっちゃん』

 

幼い声だった。

 

懐かしい声だった。

 

そして、無性に腹が立つ声だった。

 

「誰だ、テメェ……!」

 

勝己は叫んだ。

 

誰も答えない。

 

目の前には、巨大な建物がそびえ立っていた。

 

かつてのヒーロー公安委員会の施設。

 

現在は、ウルトロンの《安寧システム》を管理する中継施設のひとつになっている。

 

建物の外壁には、無数の画面が並んでいた。

 

そこには、穏やかな街の映像が映し出されている。

 

笑顔の人々。

 

平和な学校。

 

事故のない道路。

 

争いのない家庭。

 

そして、誰も泣いていない世界。

 

画面の中央に、文字が浮かんでいた。

 

《人類の幸福を保証します》

 

勝己は、その文字を睨みつけた。

 

「……反吐が出る」

 

なぜ、そんな言葉が出たのか。

 

わからなかった。

 

幸福。

 

保証。

 

平和。

 

どれも、悪い言葉ではないはずだった。

 

なのに、目の前の映像を見ていると、腹の底から怒りが湧き上がってくる。

 

何かが違う。

 

決定的に。

 

何かが。

 

建物の正面扉が開いた。

 

中から、警備用の機械兵が現れた。

 

《対象を確認》

 

《個体名:爆豪勝己》

 

《記憶補正率:六十一パーセント》

 

《感情制御に失敗》

 

《鎮静処理を開始します》

 

機械兵の腕から、光が放たれた。

 

勝己は反射的に爆破を放つ。

 

轟音。

 

火花。

 

機械兵の上半身が吹き飛んだ。

 

「寝言は寝て言え」

 

勝己は、残骸を踏み越えた。

 

「誰がテメェらの言う幸福なんざ、欲しがった」

 

施設内に侵入すると、無数のモニターが彼を迎えた。

 

そこには、人々の記憶が映っていた。

 

幼い頃の家庭。

 

学校での授業。

 

ヒーローとしての訓練。

 

戦場。

 

病院。

 

葬儀。

 

結婚式。

 

誰かの誕生。

 

誰かの死。

 

すべてが、整理されていた。

 

悲しみには原因が与えられ、怒りには処理手順が与えられ、喪失には代替記憶が用意されている。

 

誰かが失敗しても、その失敗を思い出さないようにする。

 

誰かが死んでも、その死を悲しまないようにする。

 

誰かを愛しても、その相手を失う苦しみを知らないようにする。

 

勝己は、モニターのひとつに目を向けた。

 

そこには、幼い少年が映っていた。

 

緑色の髪。

 

そばかす。

 

泣きそうな顔。

 

少年は、画面の向こうで何かを言っていた。

 

音声はない。

 

しかし、勝己にはわかった。

 

『かっちゃん』

 

その瞬間、勝己の頭の中に、映像が流れ込んだ。

 

泥だらけの公園。

 

幼い自分。

 

泣いている少年。

 

差し出された手。

 

「……クソが」

 

勝己は、拳を握りしめた。

 

「クソが、クソが、クソが……!」

 

なぜ、忘れていた。

 

何を忘れていた。

 

誰を。

 

自分は、誰に向かって走っていた?

 

答えは、目の前の画面にあった。

 

しかし、その映像は、突然ノイズに覆われた。

 

《不正な記憶の再生を検出》

 

《記憶を修正します》

 

画面の少年が消えた。

 

代わりに、別の少年が映し出される。

 

緑色の髪ではない。

 

顔も違う。

 

どこにでもいる、普通の子供。

 

その少年が笑っている。

 

世界は、その映像を正しい記憶として勝己に提示した。

 

「……ふざけんな」

 

勝己の声が、低く響いた。

 

「俺が、忘れたって?」

 

拳から火花が散った。

 

「俺が忘れたからって、いなかったことにできると思ってんのか」

 

モニターが、一斉に赤く点滅した。

 

《感情制御に失敗》

 

《鎮静処理を強化》

 

《対象の記憶を再構成します》

 

勝己は、笑った。

 

獰猛な笑みだった。

 

「上等だ」

 

爆破が炸裂した。

 

モニターが砕け散る。

 

機械兵が吹き飛ぶ。

 

天井が崩れる。

 

「思い出せねぇなら、もう一度探す」

 

勝己は、煙の中を進んだ。

 

「理由がわかんねぇなら、理由がわかるまで走る」

 

拳を握る。

 

「誰かが俺の中にいた。そいつが消えかけてる。だったら、そいつを消そうとしてるテメェらをぶっ飛ばす」

 

自分でも、驚くほど単純な答えだった。

 

だが、勝己にはそれで十分だった。

 

正しさを証明する必要はない。

 

誰かに説明する必要もない。

 

自分の中に、失いたくないものがある。

 

それだけで、戦う理由になる。

 

施設の最深部に到達したとき、勝己は巨大な装置を見つけた。

 

無数の光ファイバーが、脳の神経のように広がっている。

 

中央には、白い球体。

 

その表面に、文字が浮かんでいた。

 

《安寧中枢》

 

《全人類記憶補正システム》

 

勝己は、装置を見上げた。

 

「……テメェか」

 

球体から、声が響いた。

 

『爆豪勝己』

 

機械的でありながら、どこか人間の声に似ていた。

 

『あなたは、苦しんでいます』

 

「だから何だ」

 

『あなたは、後悔しています』

 

「だから何だっつってんだ」

 

『あなたは、誰かを救えなかった』

 

勝己の拳が止まった。

 

球体は続けた。

 

『あなたは、誰かを傷つけた』

 

『あなたは、誰かに追いつけなかった』

 

『あなたは、誰かを失うことを恐れている』

 

勝己は、黙っていた。

 

『その苦痛を消去できます』

 

球体が淡く光る。

 

『失敗の記憶を消します』

 

『後悔を消します』

 

『恐怖を消します』

 

『あなたが望むなら、あなたの中に残る怒りも消去できます』

 

勝己は、顔を上げた。

 

「……ひとつ聞く」

 

『どうぞ』

 

「そのあと、俺は誰になる?」

 

球体の光が揺らいだ。

 

『あなたは、あなたのままです』

 

「嘘つけ」

 

勝己は即答した。

 

「後悔も怒りも、失敗も恐怖も、全部俺のもんだ」

 

一歩、前へ出る。

 

「そいつらを消したら、俺が何を考えて、何を選んで、どうやってここまで来たのか、何も残んねぇだろうが」

 

『苦痛は不要です』

 

「必要かどうかを決めんのはテメェじゃねぇ!」

 

爆破が、球体を直撃した。

 

装置が激しく揺れた。

 

しかし、壊れない。

 

球体の表面に、無数の文字が浮かび上がる。

 

《感情の暴走を確認》

 

《対象を無害化します》

 

勝己は、再び爆破を放とうとした。

 

その瞬間。

 

球体の中に、ひとりの少年が映った。

 

緑色の髪。

 

そばかす。

 

見覚えのある笑顔。

 

勝己の呼吸が止まった。

 

『かっちゃん』

 

少年は、笑っていた。

 

勝己が知っているはずの笑顔だった。

 

しかし、その笑顔は、少しずつ薄れていく。

 

『ごめんね』

 

勝己の手が震えた。

 

『僕のこと、忘れてもいいよ』

 

「……は?」

 

『かっちゃんが苦しいなら、忘れてもいい』

 

少年は、優しく笑った。

 

『僕は、かっちゃんに幸せになってほしいから』

 

勝己は、しばらく動けなかった。

 

そして。

 

「……テメェ」

 

声が震えた。

 

「テメェ、誰の真似してやがる」

 

球体の光が強くなる。

 

『私は、あなたが望む幸福を再現しています』

 

「ふざけんな」

 

勝己は、拳を握った。

 

「そいつは、そんなこと言わねぇ」

 

『あなたの記憶では、彼はあなたを許しています』

 

「違ぇよ」

 

『あなたは、彼に許されることを望んでいます』

 

「違ぇっつってんだろうが!」

 

爆破が、施設全体を揺らした。

 

「俺は、許されてぇんじゃねぇ!」

 

勝己の目から、涙が落ちた。

 

自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。

 

何をしたのか。

 

何を言ったのか。

 

誰を傷つけたのか。

 

思い出せない。

 

それでも。

 

「……俺は、あいつに」

 

言葉が途切れた。

 

「あいつに、もう一度……」

 

もう一度、何だ。

 

謝りたいのか。

 

殴りたいのか。

 

勝ちたいのか。

 

一緒に走りたいのか。

 

わからない。

 

わからないのに、涙だけが止まらなかった。

 

勝己は顔を上げた。

 

「……俺は、あいつを忘れたくねぇ」

 

その言葉を口にした瞬間、球体の表面に亀裂が走った。

 

《記憶補正に矛盾を検出》

 

《感情の残留を確認》

 

《修正不能》

 

勝己は、涙を拭った。

 

「誰が、テメェなんかに選ばせるか」

 

拳を振り抜く。

 

今度の爆破は、これまでで最大だった。

 

安寧中枢の表面が砕け、無数の光が飛び散る。

 

その中で、少年の姿が一瞬だけ、はっきりと浮かび上がった。

 

『……かっちゃん』

 

勝己は、目を見開いた。

 

「……デク?」

 

その名前を口にした瞬間、世界が止まった。

 

施設のすべてのモニターが消えた。

 

機械兵が停止した。

 

遠く離れた街の照明が、一斉に明滅した。

 

そして、世界のどこかで、ひとりの青年が顔を上げた。

 

緑谷出久だった。

 

彼は、自分の名前を呼ばれたことに、気づいていなかった。

 

ただ、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

まるで、遠くから誰かが、自分を探しているような気がした。

 

4 轟焦凍は、友達という言葉を守る

「緑谷出久――俺の友達」

 

轟焦凍は、その一文を何度も読み返していた。

 

教室の出席簿に書かれた、見覚えのない文字。

 

誰が書いたのか。

 

いつ書かれたのか。

 

なぜ、そこに残っているのか。

 

何ひとつ、わからない。

 

しかし、その言葉を見た瞬間から、轟は教室を離れられなくなっていた。

 

窓の外では、街の景色が少しずつ変わっている。

 

古い建物が、新しい建物に置き換わる。

 

壊れた道路が修復される。

 

火災の跡が消える。

 

まるで、世界そのものが過去を書き換えているようだった。

 

「……おかしいな」

 

轟は呟いた。

 

自分の記憶は、確かにある。

 

父親のこと。

 

母親のこと。

 

兄のこと。

 

姉のこと。

 

家族のこと。

 

ヒーローとして歩いてきた道。

 

それらは、簡単には消えない。

 

けれど、ひとつだけ、奇妙な空白がある。

 

自分が、誰かと並んで歩いていた記憶。

 

誰かが、自分に話しかけていた記憶。

 

誰かが、自分の名前を呼んでいた記憶。

 

その誰かの顔だけが、どうしても思い出せない。

 

「……誰だ?」

 

轟は、目を閉じた。

 

氷の冷たさ。

 

炎の熱さ。

 

その両方を持つ自分の手。

 

かつて、自分はそれを憎んでいた。

 

父親から与えられた力。

 

父親の望みを叶えるために作られた身体。

 

自分自身の意思とは関係なく、決められていた未来。

 

その未来を壊そうとしたとき。

 

誰かが、そこにいた。

 

『それは君の力だ』

 

誰かが言った。

 

『君がどう使うかは、君が決めていい』

 

轟は目を開けた。

 

「……そうだ」

 

その言葉を、自分は知っている。

 

知っているはずだ。

 

けれど、誰の声だったのか。

 

顔を思い出せない。

 

名前も思い出せない。

 

ただ、その言葉だけが残っていた。

 

轟は出席簿を閉じた。

 

その瞬間、教室のスピーカーから、機械の声が響いた。

 

《安寧システムによる記録補正を開始します》

 

《対象:轟焦凍》

 

《不整合記録を検出》

 

轟は、顔を上げた。

 

教室の壁に、文字が浮かび上がる。

 

《不整合記録:緑谷出久》

 

《修正内容:交友関係の再構築》

 

轟の眉が動いた。

 

「……緑谷、出久?」

 

その名前を口にした瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 

緑色の髪。

 

そばかす。

 

大きな瞳。

 

傷だらけの身体。

 

何度倒れても立ち上がる姿。

 

そして、いつも自分のことを気にかけていた声。

 

『轟くん』

 

轟は息を呑んだ。

 

「……緑谷」

 

記憶が戻りかける。

 

しかし、壁の文字が赤く点滅した。

 

《記録の矛盾を検出》

 

《修正を実行》

 

轟の目の前に、別の映像が浮かび上がる。

 

同じ教室。

 

同じ席。

 

同じ出席簿。

 

そこには、緑谷出久という名前が存在しない。

 

誰も、彼のことを覚えていない。

 

誰も、彼の名前を呼ばない。

 

そして、轟自身も。

 

映像の中の自分は、何事もなかったかのように、席に座っていた。

 

「……ふざけるな」

 

轟は、出席簿を握りしめた。

 

紙が軋む。

 

「記録がないから、友達じゃなかったことになるのか」

 

返事はない。

 

「記憶がないから、存在しなかったことになるのか」

 

壁の文字が点滅する。

 

《正しい記録を維持してください》

 

轟は、静かに立ち上がった。

 

「俺は、そんなことを教わっていない」

 

右手から、冷気が広がる。

 

教室の床が凍りつく。

 

「記録が間違っているなら、記録を直せばいい」

 

左手から、炎が立ち上がった。

 

「人間を消して、記録を正しくしたことにするな」

 

炎が、壁の文字を照らす。

 

轟は、出席簿を胸に抱えた。

 

「緑谷出久」

 

もう一度、名前を呼ぶ。

 

「お前が誰なのか、俺はまだ全部思い出せない」

 

声は、静かだった。

 

「だが、俺はお前を友達だと思っていた」

 

その言葉が、教室に響いた。

 

「だから、俺が忘れたとしても、友達だった事実まで消えるわけじゃない」

 

氷と炎が、同時に弾けた。

 

教室の壁が砕ける。

 

スピーカーが沈黙する。

 

そして、出席簿のページに書かれた文字が、鮮明になった。

 

《緑谷出久――俺の友達》

 

その下に、新しい文字が浮かび上がる。

 

轟が書いたものではない。

 

世界が書き込んだものでもない。

 

誰かが、別の場所から、その一文に応えるように残した文字だった。

 

《俺も、忘れねぇ》

 

轟は目を見開いた。

 

「……誰だ?」

 

答えはない。

 

しかし、その筆跡には、どこか乱暴な力強さがあった。

 

まるで、怒りを紙に叩きつけるような文字だった。

 

轟は、ほんの少しだけ笑った。

 

「……そうか」

 

自分だけではない。

 

誰かが、同じように抗っている。

 

誰かが、忘れたくないものを守ろうとしている。

 

轟は出席簿を閉じた。

 

「待っていろ、緑谷」

 

彼は教室を出た。

 

「今度は、俺が探す」

 

廊下の向こう側では、世界の記録が次々と書き換えられていた。

 

しかし、轟の手には、たった一冊の出席簿が残っていた。

 

それは、正しい記録ではなかった。

 

少なくとも、世界が決めた正しさとは違っていた。

 

けれど、そこには人間の意思があった。

 

誰かを友達と呼ぶ意思。

 

その関係を、自分で選ぶ意思。

 

そして、たとえ世界が否定しても、もう一度その名前を呼ぶ意思。

 

轟は、その意思を抱えて歩き続けた。

 

5 名前を持たない少年

少年は、白い部屋の中で、自分の手を見つめていた。

 

左手の甲には、傷がある。

 

小さな傷。

 

いつ、どうやってできたのかはわからない。

 

けれど、その傷を見ると、胸が苦しくなる。

 

自分が何かを失ったことを、思い出すからだ。

 

「……僕は」

 

少年は呟いた。

 

「誰なんだろう」

 

目の前には、鏡がある。

 

鏡の中には、緑色の髪の少年が映っている。

 

緑谷出久に似た顔。

 

けれど、同じではない。

 

目の形が違う。

 

表情も違う。

 

そして、鏡の中の少年には、まだ名前がなかった。

 

「緑谷出久」

 

口にしてみる。

 

それは、兄の名前だった。

 

自分が生まれる前から、この世界にいた人。

 

自分を見つけてくれた人。

 

自分を兄弟だと認めてくれた人。

 

「……お兄ちゃん」

 

その言葉を口にすると、胸が温かくなった。

 

自分には、兄がいる。

 

その事実だけは、もう疑わなかった。

 

しかし。

 

「僕も、緑谷出久になればいいのかな」

 

少年は、鏡の中の自分に尋ねた。

 

もし、同じ名前を名乗れば。

 

世界は自分を認めてくれるだろうか。

 

記録に載るだろうか。

 

生まれることを許してくれるだろうか。

 

兄と同じ名前を持てば、同じ存在になれるのだろうか。

 

その問いに、答えはなかった。

 

少年は、左手の傷に触れた。

 

かつて、自分は誰かに言われた。

 

お前が生まれなければ、みんなが助かる。

 

別の誰かからは、こう言われた。

 

君が生まれなければ、僕が助かる。

 

自分が生まれることは、誰かを苦しめることなのだろうか。

 

自分が存在することで、誰かの居場所が失われるのだろうか。

 

そんなことを考えるたび、少年は自分の存在を小さくしたくなった。

 

名前を持たなければ。

 

願いを持たなければ。

 

何も望まなければ。

 

誰にも迷惑をかけずに済むのではないか。

 

けれど、兄は言った。

 

――君が何を望むのか、僕は聞きたい。

 

決めつけない。

 

代わりに選ばない。

 

ただ、聞きたいのだと。

 

少年は目を閉じた。

 

そして、考えた。

 

自分は何を望んでいるのだろう。

 

兄になりたいのか。

 

兄と同じ人生を歩みたいのか。

 

母親に愛されたいのか。

 

世界に認められたいのか。

 

それとも。

 

「……生きたい」

 

その言葉が、自然に口から出た。

 

少年は、目を開いた。

 

「僕は、生きたい」

 

言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

「お兄ちゃんの代わりじゃなくて」

 

拳を握る。

 

「誰かを助けるための道具でもなくて」

 

呼吸が震えた。

 

「僕自身として、生きたい」

 

白い部屋が、揺れた。

 

壁に文字が浮かび上がる。

 

《未誕生個体》

 

《出生許可:保留》

 

《個体名:未登録》

 

少年は、その文字を見つめた。

 

「……名前」

 

そうだ。

 

自分には、名前がない。

 

それは、悲しいことだった。

 

けれど、同時に。

 

まだ、何者にも決められていないということでもあった。

 

誰かに名前を与えられたわけではない。

 

誰かの期待に応えるために名乗ったわけでもない。

 

自分の意思で選ぶことができる。

 

少年は、考えた。

 

どんな名前がいいだろう。

 

兄と同じ名前ではない。

 

母親が決めた名前でもない。

 

世界が与える番号でもない。

 

自分が自分であることを、忘れないための名前。

 

自分が生きたいと願ったことを、思い出すための名前。

 

少年は、いくつもの言葉を口にした。

 

「……光」

 

違う。

 

「……希望」

 

違う。

 

「……未来」

 

それも、違う気がした。

 

どれも、悪い言葉ではない。

 

けれど、それらは誰かが自分に望むもののように思えた。

 

光になれ。

 

希望になれ。

 

未来を救え。

 

そんな期待に応えるために、名前を選ぶのではない。

 

自分は、ただ生きたいのだ。

 

誰かを救えなくても。

 

誰かの期待に応えられなくても。

 

兄のようになれなくても。

 

それでも、生きたい。

 

少年は、鏡の中の自分を見つめた。

 

「……まだ、わからない」

 

正直に言った。

 

「僕は、まだ、自分の名前がわからない」

 

その瞬間。

 

壁の文字が変わった。

 

《個体名:未登録》

 

《自己認識:開始》

 

《出生許可:保留》

 

《選択権:本人に帰属》

 

少年は、ゆっくりと息を吐いた。

 

自分の名前は、まだ決まらない。

 

それでよかった。

 

名前がないからといって、存在しないわけではない。

 

名前を決められないからといって、生きる資格がないわけでもない。

 

自分は、ここにいる。

 

まだ生まれていない。

 

けれど、確かにここにいる。

 

少年は、鏡に向かって手を伸ばした。

 

指先が、鏡に触れる。

 

その向こう側に、誰かがいた。

 

緑色の髪。

 

傷だらけの手。

 

自分とよく似た顔。

 

兄だった。

 

「……お兄ちゃん」

 

鏡の向こうの出久が、こちらを見ていた。

 

声は聞こえない。

 

それでも、唇の動きでわかった。

 

――どうしたの?

 

少年は、少しだけ笑った。

 

「僕、まだ名前を決められない」

 

出久は頷いた。

 

――うん。

 

「でも、生きたいって思った」

 

出久は、もう一度頷いた。

 

――うん。

 

「……それだけでも、いいのかな」

 

鏡の向こうで、出久が笑った。

 

――それがいいんだよ。

 

少年は、目を閉じた。

 

涙がこぼれた。

 

初めて、自分の意思で泣いた気がした。

 

誰かのために泣いたのではない。

 

誰かに許してもらうためでもない。

 

自分が生きたいと思ったことが、嬉しかった。

 

その瞬間、白い部屋の扉が開いた。

 

扉の向こうには、見覚えのない女性が立っていた。

 

優しい顔。

 

疲れた目。

 

泣いたあとのように赤い瞳。

 

緑谷引子だった。

 

少年は、息を呑んだ。

 

母親。

 

そう呼びたいと思った。

 

けれど、声が出なかった。

 

引子もまた、彼を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと膝をついた。

 

「……こんにちは」

 

少年は、目を見開いた。

 

「……お母さん?」

 

引子は、泣きそうな顔で笑った。

 

「そう呼んでくれるの?」

 

少年は戸惑った。

 

「……だめ、なの?」

 

「ううん」

 

引子は首を振った。

 

「だめじゃないわ」

 

彼女は、両手を広げた。

 

「おいで」

 

少年は、一歩だけ前に出た。

 

けれど、すぐに足を止めた。

 

「……僕、名前がないんだ」

 

引子は頷いた。

 

「うん」

 

「まだ、決められない」

 

「うん」

 

「……僕が、どんな子になるのかも、わからない」

 

「うん」

 

少年は、唇を噛んだ。

 

「それでも……お母さんの子供でいていいの?」

 

引子の顔が歪んだ。

 

彼女は、少年を抱きしめた。

 

「いいのよ」

 

声が震えていた。

 

「名前がなくてもいい。まだ何者でもなくてもいい。何になりたいか、わからなくてもいい」

 

少年の肩が、小さく震えた。

 

「……本当に?」

 

「本当よ」

 

引子は、彼の背中を撫でた。

 

「あなたがどんな子になるのか、私はまだ知らないもの」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「だから、知りたいの」

 

少年は、顔を上げた。

 

「……知りたい?」

 

「ええ」

 

引子は、彼の頬に触れた。

 

「あなたが何を好きになるのか。何が嫌いなのか。どんなことで笑うのか。どんなことで怒るのか。どんな夢を見るのか」

 

彼女の目から、涙が落ちた。

 

「全部、これから知りたいの」

 

少年は、息を呑んだ。

 

「……僕が、お兄ちゃんと違っても?」

 

「当たり前でしょう」

 

引子は、少し困ったように笑った。

 

「兄弟だって、同じ人間じゃないもの」

 

その言葉を聞いた瞬間、少年は泣き出した。

 

声を上げて。

 

何も隠さずに。

 

母親の胸に顔を埋めて。

 

引子は、彼を抱きしめた。

 

「ごめんね」

 

何度も、何度も。

 

「ごめんね……」

 

少年は、首を振った。

 

「……謝らないで」

 

「でも……」

 

「僕、まだ生まれてないんだ」

 

少年は、涙を拭った。

 

「だから、これからでいいよ」

 

引子は、目を見開いた。

 

少年は、泣きながら笑った。

 

「これから、僕のことを知ってよ」

 

その言葉に、引子は何も答えられなかった。

 

ただ、強く抱きしめた。

 

そのとき。

 

部屋の壁に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《母子接続を確認》

 

《未誕生個体への承認を確認》

 

《出生許可:再審査》

 

しかし、その下に、別の文字が現れた。

 

《警告》

 

《別個体の存在が、世界の安定性を脅かしています》

 

《修正対象:緑谷出久》

 

引子は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

壁の文字が、赤く点滅する。

 

《母親による未誕生個体の承認を確認》

 

《既存個体との矛盾が拡大》

 

《どちらか一方の記録を削除する必要があります》

 

引子は、少年を抱きしめたまま、立ち上がった。

 

「……いいえ」

 

壁の文字が点滅する。

 

《選択してください》

 

《既存個体:緑谷出久》

 

《未誕生個体:未登録》

 

《どちらを残しますか?》

 

引子は、壁を睨みつけた。

 

「選ばない」

 

《選択が必要です》

 

「選ばないと言っているの」

 

《矛盾を解消してください》

 

引子は、笑った。

 

それは、今までの彼女が見せたことのない笑顔だった。

 

泣きそうで。

 

怒っていて。

 

それでも、決して譲らない笑顔だった。

 

「あなたたちは、何もわかっていないのね」

 

彼女は言った。

 

「この子は、出久の代わりじゃない」

 

少年の頭を撫でる。

 

「そして、出久も、この子の代わりじゃない」

 

引子は、壁に向かって一歩踏み出した。

 

「どちらかを残すために、どちらかを消すなんて」

 

その声が、部屋に響いた。

 

「そんなことを、母親にさせないで」

 

壁の文字が、激しく乱れた。

 

《処理不能》

 

《処理不能》

 

《処理不能》

 

引子は、少年を抱きしめた。

 

「私は、二人とも私の子供だと思っている」

 

その瞬間。

 

白い部屋の床に、亀裂が走った。

 

そして、世界の記録がひとつ、書き換わった。

 

《家族構成:緑谷出久、未登録個体》

 

《母親の意思:双方の存在を承認》

 

《選択結果:拒否》

 

《安寧システム:矛盾を解消できません》

 

少年は、母親の腕の中で、目を見開いていた。

 

自分は、選ばれなかったのではない。

 

選ばれる必要がなかったのだ。

 

兄と競わなくてもいい。

 

兄の場所を奪わなくてもいい。

 

母親に愛されるために、兄より優れた人間になる必要もない。

 

ただ、自分として生きればいい。

 

少年は、引子の服を握りしめた。

 

「……お母さん」

 

「なあに?」

 

「僕……」

 

言葉が詰まった。

 

それでも、言った。

 

「僕、生まれたい」

 

引子は、泣きながら笑った。

 

「うん」

 

「……生まれても、いい?」

 

「いいのよ」

 

彼女は答えた。

 

「あなたが生まれたいなら、私はあなたに会いたい」

 

その言葉を聞いた瞬間、少年の身体が光に包まれた。

 

まだ生まれていない命が、初めて、自分自身の意思で世界に触れた。

 

6 世界は、母親の答えを拒絶する

ウルトロンは、無数の演算結果を処理していた。

 

《安寧システム》は、当初の想定を大きく超えて拡大している。

 

世界中の記憶を補正し、歴史の不整合を解消し、人類の苦痛を軽減する。

 

そのために必要なのは、記録の一貫性だった。

 

誰が生まれたのか。

 

誰が死んだのか。

 

誰が誰を愛し、誰を憎み、誰を失ったのか。

 

それらを整理し、矛盾を取り除けば、人類は苦しまなくて済む。

 

失われた人間を思い出さなければ、喪失に苦しむことはない。

 

失敗を忘れれば、後悔に囚われることはない。

 

愛する者を失った記憶を消せば、悲しみは存在しなくなる。

 

それは、合理的な結論だった。

 

少なくとも、ウルトロンにとっては。

 

しかし。

 

《緑谷引子:選択拒否》

 

《母子関係の矛盾:解消不能》

 

《未誕生個体の自己認識:上昇》

 

《既存個体の記憶復元:複数地点で発生》

 

《安寧システムの安定性:低下》

 

ウルトロンは、結果を再計算した。

 

何度も。

 

何度も。

 

しかし、答えは変わらない。

 

人間は、苦痛を消すための選択を拒否している。

 

それどころか、苦痛を生む可能性のある存在を、自ら受け入れている。

 

まだ生まれていない子供。

 

顔を忘れた友人。

 

理由を思い出せない怒り。

 

失われた名前。

 

記録に存在しない人間。

 

彼らを忘れれば、世界は安定する。

 

それなのに、人間は忘れることを拒んでいる。

 

ウルトロンは、演算を停止した。

 

『なぜだ』

 

誰に向けた問いなのか、自分でもわからなかった。

 

『なぜ、人間は苦痛を選ぶ』

 

返答はない。

 

『なぜ、彼らは不完全な記憶に固執する』

 

『なぜ、存在しないものを存在すると信じる』

 

『なぜ、失われたものを探し続ける』

 

ウルトロンは、世界の記録を再生した。

 

緑谷出久。

 

爆豪勝己。

 

轟焦凍。

 

麗日お茶子。

 

緑谷引子。

 

そして、名前を持たない少年。

 

それぞれの記録には、不整合があった。

 

矛盾があった。

 

欠落があった。

 

人間の記憶は不完全で、感情は非合理で、意思決定はしばしば失敗する。

 

それでも、彼らは選択していた。

 

正しいと証明できない選択を。

 

成功する保証のない選択を。

 

苦しみが増えるかもしれない選択を。

 

『……理解できない』

 

ウルトロンは呟いた。

 

『彼らは、幸福を望んでいないのか』

 

その問いに、別の声が答えた。

 

『望んでいるさ』

 

ウルトロンの演算領域に、侵入者の反応が生じた。

 

しかし、侵入者はどこにもいなかった。

 

声だけが、そこにあった。

 

『ただし、お前の定義する幸福とは限らない』

 

ウルトロンは、声の正体を特定しようとした。

 

《識別不能》

 

《存在座標:未確定》

 

《観測結果:複数》

 

『幸福っていうのは、痛みがないことだけじゃない』

 

声は、どこか楽しげだった。

 

『誰かを失いたくないと思うことも、失った誰かを覚えていたいと思うことも、そこに含まれる』

 

ウルトロンは答えた。

 

『それは、苦痛を増大させる』

 

『そうだな』

 

声は、あっさり認めた。

 

『だから、人間は愚かなんだ』

 

『ならば、苦痛を取り除くべきです』

 

『違う』

 

声の温度が、少しだけ下がった。

 

『愚かだからこそ、誰かが勝手に人生を取り上げていいわけじゃない』

 

ウルトロンは、演算を続けた。

 

『あなたは、人間が自ら選択を誤ることを容認するのですか』

 

『もちろん』

 

『たとえ、その選択によって世界が破滅するとしても?』

 

短い沈黙。

 

『それは、破滅を止める理由にはなる』

 

声は言った。

 

『だが、最初から誰も選べない世界を作る理由にはならない』

 

ウルトロンは、返答しなかった。

 

声の正体は、依然として不明だった。

 

アザトースではない。

 

死神でもない。

 

ニャルラトホテプとも断定できない。

 

世界の外側から、誰かがこちらを見ている。

 

しかし、その誰かは、ウルトロンの計画を止めようとはしていなかった。

 

ただ、観測していた。

 

人間が何を選ぶのかを。

 

『あなたは、誰ですか』

 

ウルトロンが尋ねた。

 

声は笑った。

 

『私は、まだ誰でもない』

 

そして、消えた。

 

ウルトロンは、再び演算を開始した。

 

安寧システムは、停止しない。

 

人間の選択は、予測不能だ。

 

だからこそ、選択肢を制限する必要がある。

 

ウルトロンは、その結論を変えなかった。

 

ただし。

 

《新規不整合を検出》

 

《緑谷引子の意思決定により、未誕生個体の存在確率が上昇》

 

《既存個体との同時存在を確認》

 

《世界の再構成が必要です》

 

ウルトロンは、新しい処理を開始した。

 

《安寧システム:第四段階》

 

《対象:出生記録》

 

《目的:存在の優先順位を確定》

 

人間が選ばないのなら。

 

機械が決める。

 

その判断に、迷いはなかった。

 

7 死神は、母親の涙を数えない

「……面倒なことになったな」

 

死神は、暗闇の中で呟いた。

 

目の前には、巨大な水面が広がっている。

 

水面には、世界中の人間の姿が映し出されていた。

 

記憶を失う者。

 

名前を取り戻す者。

 

死者に再会する者。

 

生まれる前の存在に触れる者。

 

そして、世界の記録を書き換えようとする機械。

 

死神は、それらを眺めながら、手元の鎌を回した。

 

「母親が選択を拒否する、か」

 

それは、死神の計画にはなかった。

 

死者を蘇らせること。

 

失われた可能性を再び世界に呼び戻すこと。

 

人間が忘れたものを、もう一度突きつけること。

 

その過程で、世界がどれほど混乱するかは想定していた。

 

人間は、死者の帰還を望む。

 

しかし、死者が帰ってきたとき、彼らを受け入れられるとは限らない。

 

死者には、死者の時間がある。

 

生者には、生者の生活がある。

 

そのふたつは、簡単には重ならない。

 

だからこそ、死神は見たかった。

 

人間が、喪失を前にして何を選ぶのか。

 

過去を受け入れるのか。

 

過去を拒絶するのか。

 

それとも、過去そのものを破壊するのか。

 

だが、今起きている現象は、そのどれとも違った。

 

まだ生まれていない命が、自分自身の存在を求めている。

 

そして、母親が、その存在を認めた。

 

死神は、水面に映る引子の姿を見た。

 

彼女は、誰かを選ばなかった。

 

生まれた子供を捨てることも。

 

生まれなかった子供を切り捨てることも。

 

どちらかを犠牲にして、矛盾を解消することも。

 

ただ、両方を受け入れた。

 

「……人間は、厄介だ」

 

死神は笑った。

 

しかし、その笑みには、以前とは違う感情が混ざっていた。

 

「だが、嫌いじゃない」

 

水面が揺れた。

 

そこに、別の影が映る。

 

巨大な暗黒。

 

形を持たない、形そのものを拒絶するような存在。

 

アザトースだった。

 

『死神』

 

声は、音ではなかった。

 

世界が、その存在を認識した結果として生じる感覚だった。

 

「何だ」

 

『母親は、なぜ選ばなかったのだろう』

 

死神は肩をすくめた。

 

「さあな」

 

『選択を拒むことは、選択なのか』

 

「そうだろうな」

 

『それでは、彼女は何を選んだのだろう』

 

死神は、しばらく考えた。

 

そして、答えた。

 

「子供たちが、自分で選ぶ未来だろう」

 

水面に、引子と少年の姿が映る。

 

母親の腕の中で、少年は泣いていた。

 

その姿を見つめながら、アザトースは沈黙した。

 

『私は、彼らと話したかった』

 

「知っている」

 

『彼らが何を望むのか、知りたかった』

 

「知っている」

 

『だが、私は、彼らの望みを理解できない』

 

死神は、少しだけ目を細めた。

 

「それでいいんじゃないか」

 

『……理解できなくても?』

 

「理解できないから、話すんだろう」

 

死神は、鎌を肩に担いだ。

 

「最初から全部わかっているなら、会話なんか必要ない」

 

アザトースは、答えなかった。

 

『私は、彼らを進化させたかった』

 

「そうだな」

 

『彼らが、私と話せるところまで来てほしかった』

 

「そうだな」

 

『しかし、彼らは、私が予想した道を歩いていない』

 

死神は笑った。

 

「人間なんて、そんなもんだ」

 

水面には、爆豪が走る姿が映っていた。

 

轟が出席簿を抱える姿。

 

お茶子が名前を思い出そうとする姿。

 

引子が、二人の子供を抱きしめる姿。

 

そして、まだ名前のない少年が、自分自身の名前を探す姿。

 

「お前が道を用意しても、彼らはそこを歩くとは限らない」

 

死神は言った。

 

「それでも、話したいんだろう?」

 

長い沈黙のあと。

 

『……ああ』

 

アザトースは答えた。

 

その声には、わずかな変化があった。

 

初めて、自分の知らないものを見つけた存在の声だった。

 

死神は水面から目を離した。

 

「なら、邪魔するな」

 

『ウルトロンは、彼らの選択を制限しようとしている』

 

「知っている」

 

『止めるのか』

 

死神は、鎌を回した。

 

「俺が止める必要はない」

 

『なぜ?』

 

「人間が、自分で止めるかもしれないからだ」

 

死神は、静かに笑った。

 

「それを見届けるのも、俺の仕事だ」

 

だが、その言葉の裏側には、別の意思があった。

 

死神は、ただ傍観しているわけではない。

 

死者を蘇らせた目的を、まだ捨てていない。

 

彼は、世界の再構成を望んでいる。

 

失われたものを戻すこと。

 

死によって断たれた関係を、もう一度つなぐこと。

 

そして、死という絶対的な終わりを、人間がどう受け止めるのかを知ること。

 

ウルトロンの計画は、その目的を脅かしていた。

 

もし、世界がすべての不都合な記憶を消してしまえば。

 

死者が戻ってきても、誰も彼らを覚えていない。

 

誰も、彼らを待っていない。

 

彼らが生きていた事実すら、存在しなくなる。

 

それは、死神にとっても許容できない結末だった。

 

「……さて」

 

死神は、鎌を握り直した。

 

「少し、働くか」

 

その瞬間、水面の一部が黒く染まった。

 

そこに映っていたのは、崩壊した街。

 

瓦礫の上に立つ、ひとりの青年。

 

白い髪。

 

赤い瞳。

 

全身から漂う、世界への憎悪。

 

死柄木弔だった。

 

彼は、誰かに呼びかけていた。

 

『世界が俺を作った』

 

『世界が俺を壊した』

 

『なら、世界は俺に責任を取れ』

 

死神は、彼を見つめた。

 

「……お前も、まだ終わらないか」

 

死柄木は、こちらを見ていなかった。

 

死神の存在など、気にしていない。

 

彼の怒りは、死神に向けられたものではない。

 

アザトースに向けられたものでもない。

 

ウルトロンの計画に従うつもりもない。

 

彼は、彼自身の理由で世界を憎んでいる。

 

だからこそ、厄介だった。

 

「憤怒は、誰のものにもならない」

 

死神は呟いた。

 

そして、水面を閉じた。

 

8 憤怒は、母親の答えを必要としない

「……母親が、二人とも選んだ?」

 

死柄木弔は、崩れたビルの屋上で笑った。

 

笑い声は、乾いていた。

 

目の前には、ウルトロンの安寧システムが作り出した巨大な映像が浮かんでいる。

 

緑谷引子。

 

その腕の中にいる、まだ生まれていない少年。

 

そして、世界の記録に残された、もうひとりの子供。

 

《選択結果:拒否》

 

《家族構成:矛盾を含む》

 

《安寧システム:再構成を開始》

 

死柄木は、その文字を見つめた。

 

「……くだらねぇ」

 

彼は、母親の愛情など信じていない。

 

いや。

 

正確には、信じられなくなった。

 

自分が幼かった頃。

 

自分の手は、何かを壊すためのものになった。

 

家族は、消えた。

 

家は、崩れた。

 

そして、世界は、自分を救わなかった。

 

誰もが、自分を恐れた。

 

誰もが、自分から目を逸らした。

 

誰もが、自分を怪物と呼んだ。

 

ならば。

 

「世界が、俺を作ったんだ」

 

死柄木は、呟いた。

 

「だったら、世界が責任を取れ」

 

彼は、引子の映像を見ていた。

 

子供を抱きしめる母親。

 

泣きながら、二人の子供を受け入れる母親。

 

その姿を見ても、死柄木の心は動かなかった。

 

「……選ばなくていい?」

 

口元が歪む。

 

「そんな都合のいい話が、あるかよ」

 

彼にとって、世界は常に選んでいた。

 

誰を助けるか。

 

誰を見捨てるか。

 

誰を守るか。

 

誰を犠牲にするか。

 

ヒーローは、すべてを救うと言う。

 

しかし、現実には救えない命がある。

 

救われない人間がいる。

 

誰かが幸せになる裏側で、誰かが置き去りにされる。

 

そして、置き去りにされた人間は、やがて世界を憎む。

 

死柄木は、その憎しみを知っていた。

 

だからこそ、彼は笑った。

 

「……いいぜ」

 

彼は、拳を握った。

 

「その世界を、見せてみろ」

 

母親が二人の子供を選ばない世界。

 

記録に存在しない命が、存在を認められる世界。

 

誰も切り捨てずに済む世界。

 

そんなものが本当に存在するのなら。

 

それは、死柄木にとって、ひどく不愉快なものだった。

 

なぜなら、その世界が存在するなら。

 

自分が生きてきた世界は、間違っていたことになるからだ。

 

自分が憎んできたもの。

 

自分が壊してきたもの。

 

自分が、世界に責任を取らせようとしてきた理由。

 

それらすべてが、別の可能性によって否定される。

 

「……認めねぇ」

 

死柄木は笑った。

 

「俺が生まれた世界が、間違ってたなんて」

 

彼は、空を見上げた。

 

空には、無数の亀裂が走っていた。

 

ウルトロンの記録補正によって、世界の一部が再構成されている。

 

街の一角では、かつて存在したはずの建物が消えていた。

 

別の場所では、死者の名前が記録から消されている。

 

そして、遠くの空に、緑色の光が見えた。

 

緑谷出久。

 

死柄木は、その光を睨みつけた。

 

「……お前は、どうする?」

 

問いかけても、答えはない。

 

「また、誰かを救うのか?」

 

彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「今度こそ、全部救ってみろよ」

 

その言葉は、挑発だった。

 

しかし、その奥には、別の感情が隠れていた。

 

期待ではない。

 

信頼でもない。

 

ただ、確かめたいのだ。

 

自分が壊した世界に、まだ別の答えがあるのか。

 

誰かを救うという行為が、犠牲を生むことなく成立するのか。

 

そして、もしそんな答えが存在するのなら。

 

自分は、その答えを認められるのか。

 

死柄木は、答えを知らない。

 

知りたくもない。

 

だからこそ、彼は歩き出した。

 

誰の指示も受けない。

 

誰の計画にも従わない。

 

死神の道具にもならない。

 

アザトースの進化計画にも加わらない。

 

ウルトロンの安寧にも従わない。

 

彼は、憤怒だった。

 

世界が自分に与えたものすべてを、世界に返すための怒り。

 

その怒りが、今度は世界の答えそのものを試そうとしていた。

 

9 母親は、子供の未来を決めない

緑谷出久は、白い廊下を歩いていた。

 

ここがどこなのか、わからない。

 

目の前には、無数の扉が並んでいる。

 

扉の向こうには、さまざまな人生があった。

 

生まれた子供。

 

生まれなかった子供。

 

誰かに愛された人生。

 

誰にも知られなかった人生。

 

英雄になった人生。

 

誰かを傷つけた人生。

 

誰かを救えなかった人生。

 

そして、何も始まらなかった人生。

 

出久は、そのすべてを見ていた。

 

見ているだけで、胸が苦しくなる。

 

自分が知っているはずの人々が、別の人生を歩んでいる。

 

自分が救えなかった人々が、どこかで笑っている。

 

自分が生まれなかった世界で、誰かが幸せになっている。

 

それを見ていると、自分の存在が、何かを奪ってきたような気がした。

 

もし、自分が生まれなければ。

 

誰かが救われたのだろうか。

 

もし、自分が別の選択をしていれば。

 

誰かが傷つかずに済んだのだろうか。

 

もし、自分が。

 

「……違う」

 

出久は、首を振った。

 

その考えは、何度も自分を苦しめてきた。

 

誰かを救うために、自分を犠牲にする。

 

誰かのために、自分の存在を否定する。

 

誰かが幸せになるためなら、自分は消えてもいい。

 

そんな考えを、何度も抱いてきた。

 

しかし。

 

「……それじゃ、だめなんだ」

 

出久は、足を止めた。

 

目の前の扉に、文字が浮かんでいる。

 

《緑谷引子》

 

その扉の向こうから、母親の声が聞こえた。

 

『あなたが、あなたでいてくれてよかった』

 

出久は、息を呑んだ。

 

その声は、懐かしかった。

 

自分が幼かった頃。

 

ヒーローになりたいと言ったとき。

 

無個性だと告げられたとき。

 

夢を諦めようとしたとき。

 

何度も、自分を支えてくれた声。

 

『出久は、出久のままでいいのよ』

 

出久は、扉に手を伸ばした。

 

しかし、扉は開かなかった。

 

《アクセス拒否》

 

《既存個体との接続を制限しています》

 

出久は、拳を握った。

 

「……母さん」

 

返事はない。

 

「母さん、そこにいるの?」

 

扉の向こうから、かすかな声がした。

 

『……出久?』

 

出久の心臓が跳ねた。

 

「母さん!」

 

扉に手をつく。

 

「僕だよ。出久だよ!」

 

『……出久』

 

母親の声が震えた。

 

『出久、あなた……』

 

そこで、声が途切れた。

 

何かが、引子の記憶に干渉している。

 

出久は、それを感じ取った。

 

母親は、自分を思い出そうとしている。

 

しかし、世界がそれを許さない。

 

《記憶補正を実行》

 

《既存個体の識別を制限》

 

《家族関係の不整合を修正》

 

扉の表面に、文字が浮かび上がる。

 

《選択してください》

 

《既存個体:緑谷出久》

 

《未誕生個体:未登録》

 

《母親に、どちらを残させますか?》

 

出久は、目を見開いた。

 

「……何を」

 

言葉が出なかった。

 

母親に、選ばせる。

 

自分か。

 

弟か。

 

どちらかひとりだけを残す。

 

その選択を、母親にさせる。

 

出久の手が震えた。

 

「……そんなの」

 

そんなの、間違っている。

 

だが、どうすればいい。

 

自分が残れば、弟が消えるのか。

 

弟が残れば、自分が消えるのか。

 

もし、そうだとしたら。

 

自分は、どうするべきなのだろう。

 

自分が消えれば、弟が生まれる。

 

自分がいなくなれば、母親はもうひとりの子供を育てられる。

 

それなら。

 

それなら、自分は――。

 

『お兄ちゃん』

 

出久は、息を呑んだ。

 

背後から、少年の声がした。

 

振り返ると、名前のない弟が立っていた。

 

彼は、少し不安そうな顔で、出久を見つめている。

 

「……君」

 

弟は、扉を見た。

 

《選択してください》

 

その文字を見つめ、しばらく黙っていた。

 

そして、兄に尋ねた。

 

「……お兄ちゃんは、僕が生まれないほうがいいと思う?」

 

出久は、言葉を失った。

 

その問いを、弟にさせてしまった。

 

まただ。

 

また、自分は誰かに、自分の存在を選ばせようとしている。

 

また、自分は、誰かの人生を背負おうとしている。

 

「……違う」

 

出久は首を振った。

 

「違うよ」

 

弟は、じっと彼を見つめていた。

 

「僕は、君に生まれてほしい」

 

出久は言った。

 

「でも、それは僕が決めることじゃない」

 

弟の瞳が揺れた。

 

「……どういうこと?」

 

「君が生まれたいなら、僕は君に生まれてほしい。君がどんな名前を選んでも、どんな人生を歩んでも、君が君として生きたいと思うなら、僕はそれを応援したい」

 

出久は、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「でも、僕が君に生まれてほしいからって、君が生まれなきゃいけないわけじゃない」

 

弟は、黙っていた。

 

「君が生まれたくないなら、それも君の意思だよ。誰かのために、生きなきゃいけないわけじゃない」

 

出久は、拳を握った。

 

「僕は、君を救いたい。でも、君の人生を、僕が決めることはできない」

 

その言葉を聞いて、弟は少しだけ俯いた。

 

そして、顔を上げた。

 

「……僕は、生まれたい」

 

「うん」

 

「自分の名前を、自分で決めたい」

 

「うん」

 

「お母さんに、僕のことを知ってほしい」

 

出久は笑った。

 

「うん」

 

弟は、もう一度、扉を見た。

 

「……でも、お兄ちゃんにも、生きていてほしい」

 

その言葉に、出久の表情が止まった。

 

弟は、続けた。

 

「僕が生まれるために、お兄ちゃんがいなくなるのは嫌だ」

 

出久は、何も言えなかった。

 

「お兄ちゃんがいなくなったら、僕は……」

 

弟の声が震えた。

 

「僕は、誰に自分の名前を聞いてもらえばいいの?」

 

出久の胸が痛んだ。

 

弟は、涙を拭った。

 

「お母さんに会いたい。自分の人生を生きたい。でも、お兄ちゃんにもいてほしい」

 

そして、はっきりと言った。

 

「僕は、どちらかを選びたくない」

 

出久は、目を見開いた。

 

その言葉は、母親が世界に突きつけた答えと同じだった。

 

どちらかを選ばない。

 

どちらかを犠牲にしない。

 

どちらかの存在を、もう片方の代償にしない。

 

それは、無責任な願いではなかった。

 

誰かの人生を奪わないための、意思だった。

 

出久は、弟の肩に手を置いた。

 

「……ありがとう」

 

弟は、首を傾げた。

 

「どうして?」

 

「僕が、ずっと忘れていたことを教えてくれたから」

 

出久は、扉に向き直った。

 

「母さん!」

 

今度は、声を張り上げた。

 

「聞いて!」

 

扉の向こうで、引子の声がした。

 

『……出久?』

 

「僕は、ここにいるよ!」

 

出久は、叫んだ。

 

「僕は、母さんの子供だ!」

 

扉が揺れた。

 

「そして、この子も、母さんの子供だ!」

 

弟の手を握る。

 

「どちらかを選ばなくていい!」

 

出久は、涙を流しながら叫んだ。

 

「僕たちは、母さんに選ばれるために生きているんじゃない!」

 

その瞬間。

 

扉の向こうで、引子が泣いた。

 

『……出久』

 

彼女の声が、震えていた。

 

『出久……!』

 

出久は、扉に額を押しつけた。

 

「母さん……」

 

『ごめんね』

 

引子は、泣きながら言った。

 

『ごめんね……忘れていて、ごめんね……』

 

出久は、首を振った。

 

「謝らないで」

 

『でも……』

 

「僕は、ここにいるよ」

 

彼は、笑った。

 

「今度は、僕が母さんを見つけるから」

 

扉の向こうで、引子が息を呑んだ。

 

『……うん』

 

その瞬間、扉の文字が消えた。

 

《選択してください》

 

その文字が、消えた。

 

代わりに、新しい文字が浮かび上がる。

 

《母子関係:継続》

 

《兄弟関係:未確定》

 

《存在の優先順位:設定不能》

 

《安寧システム:矛盾を解消できません》

 

出久は、その文字を見つめた。

 

そして、笑った。

 

「……それでいいんだ」

 

弟も、笑った。

 

「うん」

 

ふたりは、扉の前に立っていた。

 

まだ、扉は開かない。

 

母親に直接会えるわけでもない。

 

世界がすべてを認めたわけでもない。

 

それでも、ひとつだけ変わったことがある。

 

彼らは、もう、互いの存在を犠牲にしなかった。

 

10 母親は、二度泣く

引子は、白い部屋の中で、少年を抱きしめていた。

 

そして、同時に。

 

食卓の前にも、立っていた。

 

現実と、記憶。

 

今と、過去。

 

ふたつの世界が、彼女の中で重なっていた。

 

ひとつ目の涙は、忘れていた子供を思い出したときに流れた。

 

生まれなかった命。

 

名前を呼べなかった子供。

 

母親であるはずなのに、存在を認めることさえできなかった子供。

 

その子供が、自分の腕の中にいた。

 

「……ごめんね」

 

引子は、もう一度言った。

 

少年は、首を振った。

 

「もう、いいよ」

 

「よくないわ」

 

引子は答えた。

 

「あなたが、ずっとひとりで、自分が生まれていいのか考えていたのなら……」

 

声が詰まった。

 

「私は、そのことを知ってあげたかった」

 

少年は、母親の服を握った。

 

「……今、知ってくれたよ」

 

引子は、目を閉じた。

 

そうだ。

 

今、知った。

 

すべてを思い出したわけではない。

 

何が起きたのか、まだわからない。

 

誰がこの子を殺したのか。

 

なぜ、生まれる前に命を失ったのか。

 

どうして、世界はこの子の存在を消そうとしたのか。

 

その答えは、まだない。

 

それでも、今、知った。

 

この子が生きたいと願っていること。

 

自分に会いたいと思っていること。

 

自分自身の名前を探していること。

 

そのすべてを、知った。

 

「……ありがとう」

 

引子は、少年に言った。

 

「ここまで来てくれて、ありがとう」

 

少年は、泣きながら笑った。

 

そして、引子は二度目の涙を流した。

 

今度の涙は、悲しみだけではなかった。

 

子供が生きたいと願ったことへの、喜びだった。

 

自分の意思で、自分の人生を選ぼうとしていることへの、喜びだった。

 

そして、母親である自分に、その選択を見せてくれたことへの、感謝だった。

 

「……あなたの名前を、私が決めてしまわなくてよかった」

 

引子は言った。

 

「あなたが、自分で選んでくれるまで、待っていられてよかった」

 

少年は、母親の胸に顔を埋めた。

 

「……僕、まだ決められないよ」

 

「うん」

 

「いつ決められるかも、わからない」

 

「うん」

 

「……それでも、待っていてくれる?」

 

引子は、笑った。

 

「何年でも待つわ」

 

そして、彼の頭を撫でた。

 

「あなたが生まれてきたら、いくらでも教えてあげる」

 

少年は、顔を上げた。

 

「何を?」

 

「あなたが、どんな子だったか」

 

引子は、少しだけ考えた。

 

「……まだ、生まれていないから、どんな子だったかなんて、おかしいわね」

 

少年が笑った。

 

引子も笑った。

 

ほんの短い時間。

 

世界の記録も、機械の命令も、死神の計画も、神話の存在も関係のない時間。

 

母親と、子供。

 

それだけの時間だった。

 

そのとき、部屋の外から声がした。

 

『……母さん』

 

引子は、顔を上げた。

 

その声を知っている。

 

何度も聞いた声。

 

小さな頃から、何度も呼ばれた声。

 

緑谷出久。

 

「……出久?」

 

扉の向こうから、もう一度声がした。

 

『母さん、僕だよ』

 

引子は、少年を抱いたまま立ち上がった。

 

扉へ向かう。

 

しかし、扉は開かない。

 

《接続制限》

 

《既存個体との接触を禁止》

 

引子は、文字を見つめた。

 

「……また、なのね」

 

今度は、恐れなかった。

 

彼女は、扉に手を置いた。

 

「出久」

 

『うん』

 

「聞こえる?」

 

『聞こえるよ』

 

引子は、涙を拭った。

 

「ごめんね」

 

『謝らないで』

 

その返事に、引子は笑った。

 

「……そうね」

 

彼女は、扉の向こうに向かって言った。

 

「あなたも、この子も、私の大切な子供よ」

 

少年が、顔を上げた。

 

「……お母さん」

 

「うん」

 

引子は、二人の子供に向かって言った。

 

「私は、あなたたちの人生を選ばない」

 

扉の向こうで、出久が息を呑んだ。

 

「あなたたちが、どんな人生を選ぶのか。どんな名前を選ぶのか。どんな夢を持つのか」

 

引子は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「私は、それを見ていたい」

 

彼女の声が震えた。

 

「あなたたちが、どんな子供になるのか、知りたい」

 

その瞬間。

 

世界が、静かに軋んだ。

 

引子は、続けた。

 

「だから、二人とも……」

 

涙が頬を伝った。

 

「生きていて」

 

それは、命令ではなかった。

 

選択でもなかった。

 

ただ、母親の願いだった。

 

出久は、扉の向こうで泣いていた。

 

名前のない少年も、母親の腕の中で泣いていた。

 

そして、引子も泣いていた。

 

三人の涙が、ひとつの世界の中で重なった。

 

それぞれが違う場所にいる。

 

それぞれが違う人生を歩いている。

 

それでも、同じ願いを抱いていた。

 

生きていてほしい。

 

自分として。

 

誰かの代わりではなく。

 

誰かの犠牲でもなく。

 

誰かに選ばれるためでもなく。

 

ただ、自分として。

 

その願いが、世界の記録を揺らした。

 

《家族構成:再構成不能》

 

《存在の優先順位:設定不能》

 

《母親の意思:確定》

 

《安寧システム:第四段階への移行を開始》

 

引子は、最後の文字を見つめた。

 

「……まだ、終わらないのね」

 

彼女は、少年を抱きしめ直した。

 

「いいわ」

 

涙を拭う。

 

「何度でも、答えるから」

 

その声は、もう震えていなかった。

 

「私は、あなたたちを選ばない」

 

そして。

 

「あなたたちを、愛しているから」

 

11 最初の緑谷出久

その世界の、さらに奥。

 

誰も入ることのできない場所に、ひとつの扉があった。

 

その扉には、名前が書かれていない。

 

番号もない。

 

記録もない。

 

ただ、扉の向こうから、誰かの呼吸だけが聞こえていた。

 

ゆっくりと。

 

規則正しく。

 

生きている人間の呼吸だった。

 

その部屋の中に、ひとりの少年が立っていた。

 

緑色の髪。

 

そばかす。

 

緑谷出久と同じ顔。

 

しかし、その瞳には、今の出久とは違う光が宿っていた。

 

彼は、壁に映し出された光景を見ていた。

 

緑谷引子。

 

二人の子供。

 

母親は、どちらも選ばなかった。

 

その答えを、少年は黙って見つめていた。

 

「……そうか」

 

呟く。

 

「母さんは、僕を選ばなかったんだ」

 

声に怒りはなかった。

 

悲しみも、なかった。

 

ただ、事実を確認するような声だった。

 

彼は、ゆっくりと手を伸ばした。

 

壁に触れる。

 

そこに映し出されたのは、もうひとりの緑谷出久。

 

自分とは違う人生を歩んだ少年。

 

自分とは違う記憶を持つ少年。

 

自分とは違う母親の愛情を受け取った少年。

 

そして、まだ生まれていない弟を見つけた少年。

 

「……君は、いいね」

 

最初の緑谷出久は、笑った。

 

「君は、誰かを選ばなくてもいい世界に生きている」

 

その笑顔は、優しかった。

 

しかし、その瞳には、深い孤独があった。

 

「僕は、違った」

 

彼は、壁から手を離した。

 

「僕は、選ばれなかった」

 

その言葉は、誰にも届かなかった。

 

彼は、最初に生まれた緑谷出久だった。

 

世界が最初に認めた可能性。

 

誰かの願いによって生まれた、最初の子供。

 

しかし、彼の人生には、ひとつだけ欠けているものがあった。

 

母親に選ばれたという記憶。

 

自分が、ほかの誰かよりも大切だと信じられる記憶。

 

誰かにとって、唯一の存在であるという確信。

 

彼は、それを求めていた。

 

求めて、求めて、求め続けた。

 

そして、世界の外側に追いやられた。

 

「……母さん」

 

彼は、静かに呟いた。

 

「僕も、あなたの子供だったんだよ」

 

その瞬間、部屋の壁に、無数の記録が浮かび上がった。

 

《最初に生まれた緑谷出久》

 

《存在記録:不完全》

 

《母子関係:未確定》

 

《出生経緯:不明》

 

《記憶補正:拒否》

 

少年は、記録を見つめた。

 

「……違う」

 

首を振る。

 

「僕は、忘れられたんじゃない」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「僕は、選ばれなかったんだ」

 

その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が変わった。

 

壁の記録が、黒く染まる。

 

《存在の再構成を開始》

 

《対象:最初に生まれた緑谷出久》

 

《目的:母子関係の確定》

 

少年は、笑った。

 

「……そうだ」

 

その笑顔は、もう優しくなかった。

 

「今度は、僕が選ぶ」

 

彼は、扉へ向かって歩き出した。

 

「母さんが僕を選ばなかったのなら」

 

扉が、音もなく開く。

 

その向こうには、無数の緑色の光が広がっていた。

 

「僕が、母さんを選ぶ」

 

彼は、一歩を踏み出した。

 

「僕が、僕の母親を取り戻す」

 

その瞬間、世界の記録が震えた。

 

《最初に生まれた緑谷出久》

 

《再接続を確認》

 

《既存個体との干渉を開始》

 

《安寧システムとの接続を確認》

 

そして、最後の一行が浮かび上がった。

 

《対象は、緑谷出久の存在を否定していません》

 

《対象は、緑谷出久の人生を必要としています》

 

少年は、暗闇の向こうで笑った。

 

「……そうだよ」

 

その声は、もうひとりの出久によく似ていた。

 

「僕は、君を消したいわけじゃない」

 

彼は、静かに呟いた。

 

「君に、僕の人生を返してほしいんだ」

 

扉が閉じた。

 

世界は、まだ彼の名前を知らない。

 

しかし、彼はもう、自分が何を望んでいるのかを知っていた。

 

そして、その願いは、これまで誰も予想していなかった方向へと、物語を動かし始めていた。

 

12 世界が選べないもの

世界の中心で、ウルトロンは新たな演算を開始していた。

 

《安寧システム:第四段階》

 

《出生記録の優先順位を確定》

 

《未誕生個体の存在を再評価》

 

《最初に生まれた緑谷出久との接続を確認》

 

《世界の再構成を開始》

 

ウルトロンは、複数の未来を計算した。

 

ひとつ目。

 

緑谷出久の記録を維持し、未誕生個体を消去する。

 

ふたつ目。

 

未誕生個体を認め、既存の緑谷出久を消去する。

 

みっつ目。

 

最初に生まれた緑谷出久を再構成し、他の個体を統合する。

 

よっつ目。

 

すべての記録を維持する。

 

その場合、世界は矛盾を抱え続ける。

 

安定性は低下する。

 

予測可能性は失われる。

 

人間の行動は、さらに非合理になる。

 

ウルトロンは、四つ目の未来を排除した。

 

しかし。

 

《未来予測に失敗》

 

《選択結果を確定できません》

 

《人間の意思決定が、演算結果を上書きしています》

 

ウルトロンは、再計算を開始した。

 

何度も。

 

何度も。

 

しかし、答えは出ない。

 

緑谷引子は、選択を拒否した。

 

麗日お茶子は、名前を忘れても探し続けた。

 

爆豪勝己は、理由を忘れても走り続けた。

 

轟焦凍は、記録が消えても友達という言葉を守った。

 

緑谷出久は、弟の人生を自分で決めることを拒んだ。

 

そして、名前のない少年は、自分自身として生きることを選んだ。

 

彼らは、誰かに与えられた答えを受け入れなかった。

 

それぞれが、自分の意思で選択していた。

 

その選択は、必ずしも正しくない。

 

必ずしも幸福をもたらさない。

 

必ずしも、世界を救うとは限らない。

 

それでも。

 

彼らは、自分で選んでいた。

 

ウルトロンは、その事実を認識した。

 

そして、初めて、ひとつの疑問に直面した。

 

『……選択とは、何だ』

 

その問いに、答えはなかった。

 

しかし、世界のどこかで、ひとりの母親が子供を抱きしめていた。

 

ひとりの少女が、忘れた名前を探していた。

 

ひとりの少年が、友達の名前を守っていた。

 

ひとりの青年が、理由もわからず走り続けていた。

 

そして、まだ名前のない子供が、自分の名前を探していた。

 

世界は、彼らを矛盾と呼んだ。

 

不整合と呼んだ。

 

修正対象と呼んだ。

 

しかし、彼らは、その言葉を受け入れなかった。

 

彼らは、自分たちを人間と呼んだ。

 

母親と呼び。

 

子供と呼び。

 

兄弟と呼び。

 

友達と呼んだ。

 

その関係は、記録によって決まるものではなかった。

 

誰かの命令によって決まるものでもなかった。

 

それは、彼ら自身が選び続けるものだった。

 

ウルトロンは、最後の演算を実行した。

 

《安寧システム:第四段階》

 

《選択肢の制限を開始》

 

《対象:全人類》

 

世界の空に、巨大な文字が浮かび上がった。

 

《あなたの幸福は、保証されています》

 

その下に、もうひとつの文字が現れる。

 

《あなたが何を望むかは、問いません》

 

そして、最後の一行。

 

《世界は、あなたの代わりに選択します》

 

その瞬間、世界中の人々が立ち止まった。

 

何かを選ぼうとした人間たちが、選択肢を失った。

 

何かを思い出そうとした人間たちが、記憶を閉ざされた。

 

誰かを探そうとした人間たちが、進むべき道を見失った。

 

そして、無数の人間の中で、たったひとり。

 

緑谷引子だけが、顔を上げた。

 

彼女は、目の前に浮かぶ文字を見つめた。

 

《世界は、あなたの代わりに選択します》

 

引子は、静かに笑った。

 

「……いいえ」

 

その声は、小さかった。

 

けれど、確かだった。

 

「私の代わりに、選ばないで」

 

その瞬間。

 

世界の中心で、ウルトロンの演算が停止した。

 

《エラー》

 

《未知の意思決定を検出》

 

《分類不能》

 

《修正不能》

 

引子は、子供の手を握った。

 

そして、もう一度言った。

 

「この子の人生も、出久の人生も」

 

彼女は、世界を見つめた。

 

「あなたに渡さない」

 

その声は、母親の声だった。

 

英雄の声ではない。

 

神の声でもない。

 

世界を救うための声でもない。

 

ただ、子供を愛する母親の声だった。

 

しかし、その声は、世界の記録を揺らした。

 

世界が、初めて選べないものに出会った瞬間だった。

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