僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第七話 帰ってきた英雄

 

 相澤の顔から、表情が消えた。

 それは彼が恐怖を感じていないからではない。

 恐怖を感じたとき、何をすべきかを知っている人間の顔だった。

「全員、正門東側から距離を取れ。第二観測班は対象に触れるな。呼吸、脈拍、体温、意識反応を確認しろ。ただし、皮膚に黒い亀裂があるなら、素手での接触は禁止だ」

『了解』

「プレゼント・マイク。周囲の人間を避難させろ。声で刺激するな。拡声器も使うな。できるだけ静かに、ゆっくりと誘導しろ」

「了解だ、相澤!」

 通信が切れる。

 相澤は、すぐさま緑谷へ視線を向けた。

「緑谷。麗日。ここから先は、俺の指示があるまで勝手に動くな」

「でも、先生。黒い亀裂って……」

「分かっている」

 相澤の声は低かった。

「だからこそ、勝手に動くなと言っている」

 その言葉には、普段の教師としての厳しさだけではないものが含まれていた。

 緑谷は気づいた。

 相澤は、先ほどの映像を覚えている。

 黒い霧が、自分にだけ反応したことを。

 あの異常な帰還者が、自分に向かって「返せ」と叫んだことを。

 そして、あの男が消える直前に口にした言葉を。

 ――今度こそ、救ってくれ。

 あの言葉は、誰に向けられたものだったのか。

 緑谷出久か。

 死神か。

 それとも、十三年間、死者の側に置き去りにされていた何かか。

「先生。僕は……」

「緑谷」

 相澤は遮った。

「お前が何を考えているのかは、あとで聞く。だが、今はまだ何も分かっていない。相手が助けを求めているのか、誰かを襲おうとしているのか、それすら判断できないんだ」

「……はい」

「救助と警戒を両立しろ。どちらかを捨てるな」

 かつての自分なら、何を考えただろう。

 きっと、真っ先に駆け出していた。

 目の前で苦しんでいる人がいる。

 助けを求めているかもしれない人がいる。

 だったら、自分が行くしかない。

 そう考えていた。

 けれど、今の緑谷は一歩も動かなかった。

 隣にいる麗日を見る。

 彼女もまた、緑谷を見ていた。

「出久くん」

「うん」

「一緒に行こう。でも、先生の言うことを聞いてからね」

「……うん。一緒に」

 それだけのやり取りだった。

 しかし、その短い会話の中に、かつての彼らにはなかったものがあった。

 誰かを助けるために、自分ひとりで決断する必要はない。

 誰かを守るために、誰かの言葉を無視する必要もない。

 その当たり前のことを、緑谷は長い戦いの果てに学んでいた。

 通信機が鳴った。

『相澤先生。対象の状況について、追加報告です』

「話せ」

『対象は成人男性。推定年齢は四十代後半。身元照会の結果、十三年前に死亡が確認された人物と一致しました』

 相澤の眉がわずかに動いた。

「死亡時の状況は?」

『当時の記録では、敵性個性保持者との戦闘に巻き込まれ、建物の倒壊によって死亡。現場で死亡が確認されています』

「名前は」

『……』

 通信の向こうで、わずかな沈黙があった。

 報告担当者が、言いづらそうに息を吸う。

『元プロヒーローです』

 緑谷が顔を上げた。

『ヒーロー名――』

 その瞬間。

 校門の向こうから、誰かの悲鳴が聞こえた。

「うそ……」

 続いて、別の声。

「そんな、だって……!」

 ざわめきが広がる。

 歓声と困惑、恐怖と歓喜。

 それらが入り混じった人々の声が、ひとつの名前を繰り返した。

「クラスト……?」

 誰かが言った。

「クラストだ!」

 かつて、仲間たちとともに最前線に立ち、巨悪に立ち向かった男。

 仲間を守るために盾となり、最後まで人々を逃がそうとしたヒーロー。

 その死は、戦いの終結とともに世界へ伝えられた。

 彼が守った命は、数えきれない。

 彼の死を悼んだ人々も、数えきれない。

 そして、十三年。

 人々が少しずつその死を受け入れ、写真や記録の中に彼の姿を見つけるようになっていた、その日に。

 彼は帰ってきた。

     *

 正門東側。

 そこには、奇妙なほど静かな空間が生まれていた。

 周囲には花束が置かれている。

 追悼式典が中止されたにもかかわらず、誰かが持ってきた花だった。

 その花束のすぐそばに、一人の男が立っていた。

 赤いマスク。

 鍛え上げられた身体。

 大きな盾。

 そして、全身に刻まれた、戦いの記憶を思わせる傷痕。

 男は動かなかった。

 目は開いている。

 呼吸もある。

 けれど、そこにいるはずの意識が、どこか遠くへ行ってしまったようだった。

 救護班の一人が、慎重に声をかける。

「聞こえますか?」

 反応はない。

「あなたの名前を教えてください」

 反応はない。

 医療機器の数値は、生きている人間のものだった。

 体温は正常。

 脈拍はやや低いが、危険な数値ではない。

 瞳孔反応もある。

 だが、首筋から鎖骨にかけて、黒い線が浮かび上がっていた。

 それは傷ではなかった。

 血管でもない。

 まるで、皮膚の下にひび割れたガラスが埋まっているかのような、細い黒線。

 それが、ゆっくりと伸びていた。

「対象の身体に変化があります!」

 救護班が声を上げる。

「黒い線が……増えている!」

 男の右手が、わずかに動いた。

 指先が震える。

 盾の縁を、ぎゅっと握りしめる。

 その動作を見た救護班の隊員が、一瞬だけ息を呑んだ。

 それは、戦闘に備える人間の動きだった。

 身体が覚えている。

 意識がなくても。

 記憶が欠けていても。

 彼は、盾を持つ意味を忘れていない。

「……まも、れ」

 男の口が動いた。

「え?」

 隊員が顔を近づけかけた、そのとき。

「下がれ!」

 相澤の声が響いた。

 隊員が反射的に飛び退く。

 男の身体が、弾かれたように動いた。

 盾が振り上げられる。

 だが、それは誰かを攻撃するための動きではなかった。

 盾を構えた男は、正門の向こう側――人々が集まっている方向へ身体を向けた。

 その先には、花を持った子供たちがいた。

 男の目が、大きく見開かれる。

 瞳の奥で、何かが光った。

「……逃げろ」

 男が言った。

「逃げろ……!」

 黒い線が、首筋から頬へ走る。

「来るな……!」

 その声は、誰かを威嚇しているようでありながら、同時に、自分自身に言い聞かせているようでもあった。

「俺の後ろに……来るな……!」

 盾が地面に叩きつけられた。

 轟音。

 アスファルトに亀裂が走る。

 集まっていた人々が悲鳴を上げた。

「全員、避難!」

 相澤が叫ぶ。

「緑谷、麗日、前に出るな!」

 だが、緑谷は男の目を見ていた。

 あの目。

 あの声。

 そこに宿っているのは、明確な敵意ではない。

 恐怖だった。

 誰かを傷つけることへの恐怖。

 自分が何かをしてしまうことへの恐怖。

 そして、何かが近づいてくることを知っている者の、切迫した恐怖だった。

「……クラストさん」

 緑谷は、思わず名前を呼んだ。

 男の視線が動く。

 緑谷を見る。

 その瞬間、黒い線の広がりが止まった。

 まるで、何かが反応したように。

 相澤がそれを見逃すはずはなかった。

「緑谷、動くな」

「はい」

「話しかけるだけにしろ。近づくな」

「分かりました」

 緑谷は、両手を見える位置に上げた。

「クラストさん。聞こえますか?」

 男は答えない。

「僕は緑谷出久です。あなたのことを知っています。あなたが、たくさんの人を助けたことも」

 男の眉がわずかに動いた。

「あなたが最後まで盾を構えていたことも、知っています」

 その言葉に、男の指が震えた。

「だから……」

 緑谷は、言葉を選んだ。

 何を言えばいいのか分からない。

 死者が帰ってくるという、あり得ない現象。

 その中で、目の前の男は明らかに苦しんでいる。

 彼を安心させる言葉はあるのか。

 元の記憶が戻れば、すべて解決するのか。

 そもそも、彼は本当にクラストなのか。

 答えはない。

 だからこそ、緑谷は確かなことだけを口にした。

「あなたは今、ここにいます。僕たちは、あなたを助けたいと思っています」

 男の口が動いた。

「……たすける?」

「はい」

「おまえが……?」

「僕だけじゃありません。ここにいるみんなで、あなたを助けます」

 その瞬間。

 男の表情が、崩れた。

 泣きそうな顔だった。

 けれど、涙は出ない。

 代わりに、黒い線が頬の上で、ひび割れたように広がっていく。

「だめだ」

 男が言った。

「そんなことを……言うな」

「クラストさん?」

「助けるな」

 声が低くなる。

「俺を……助けるな!」

 男が盾を振り上げた。

 だが、振り下ろす直前に、その動きが止まる。

 男の腕が震えていた。

 身体の内側から、別の何かが彼の動きを押さえつけているようだった。

「違う……!」

 男が叫んだ。

「俺は……!」

 黒い霧が、盾の隙間から滲み出した。

 その霧は、地面を這うように広がり、男の足元を覆う。

 そして、男の背後に立ち上がった。

 人間の形に似ていた。

 しかし、顔がない。

 頭部には、ただ黒い穴が開いている。

 穴の奥に、星空のような光が瞬いた。

 緑谷の背筋に、冷たいものが走った。

 あれは、以前に見た黒い霧と同じものだ。

 だが、今度は違う。

 霧が男を覆っているのではない。

 男の影が、霧になって立ち上がっている。

『――返せ』

 声が響いた。

 男の口からではない。

 霧の奥から。

『――返せ』

 その声を聞いた瞬間、男の身体が大きく揺れた。

「……返す?」

 緑谷は呟いた。

 男の声が重なる。

「返せ……」

 そして、もう一つの声が重なる。

『返せ』

「俺の……」

『俺の』

「俺の……命を……!」

 男が叫んだ。

 その叫びに、黒い霧が膨れ上がる。

 相澤が前に出た。

「緑谷、下がれ!」

 捕縛布が伸びる。

 相澤の目が赤く光った。

 抹消。

 しかし。

 黒い霧は消えなかった。

 それどころか、相澤の視線を受けた瞬間、霧の表面に無数の目が開いた。

 目は、すべて相澤を向いていた。

『――お前は、何を消す?』

 声がした。

『力か』

『記憶か』

『それとも、死んだという事実か』

「黙れ」

 相澤が吐き捨てる。

「お前が何であろうと、ここで好き勝手させるつもりはない」

『――お前は、知っている』

 霧が笑ったように揺れた。

『失ったものは、戻らない』

 その言葉が、相澤の心臓を冷たく叩いた。

 白雲朧。

 かつての友人。

 失ったはずの仲間。

 そして、失ったことを受け入れきれないまま、別の形で目の前に現れた存在。

 相澤は、その記憶を振り払うように目を細めた。

「……それがどうした」

『――戻ったものは、同じものか?』

 黒い霧が、ゆっくりと広がる。

『死者は、死者だ』

『生者は、生者だ』

『境界を破ったのは、お前たちではない』

『ならば、お前たちは何を根拠に、彼らを本人だと呼ぶ?』

 誰も答えられなかった。

 その問いは、あまりにも残酷で。

 あまりにも、正しかったからだ。

 目の前にいるのは、クラストだ。

 彼の身体。

 彼の盾。

 彼の声。

 けれど、その身体を動かしているものが、彼自身ではないとしたら。

 その記憶が、別の存在によって作られたものだったとしたら。

 彼が愛した人々の記憶を、誰かが借りているだけだったとしたら。

 彼を、彼と呼ぶことはできるのか。

 そして。

 もし、その答えが分からないのなら。

 彼を救うことに、意味はあるのか。

「……あるよ」

 緑谷が呟いた。

 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。

 相澤か。

 霧か。

 それとも、目の前で苦しんでいる男か。

「意味があるかどうか、分からないからって……何もしない理由にはならない」

 黒い霧が、緑谷を向いた。

『――お前は、また同じことをするのか』

 その声が、緑谷の胸に突き刺さった。

『誰かを救うために』

『自分を壊すのか』

 暗闇の中で見た、幼い自分の姿が脳裏をよぎる。

 何度も傷ついた身体。

 誰かを助けるために、自分の限界を無視した過去。

 そして、もう一度、同じ問いを突きつけられた。

 緑谷は、ゆっくりと息を吸った。

「……違う」

『――何が違う』

「僕は、もう一人で救おうとはしない」

 緑谷は、相澤を見た。

 麗日を見た。

 避難誘導を続けるヒーローたちを見た。

 盾を構えたまま、必死に何かと戦っている男を見た。

「だから、あなたも一人で戦わなくていい」

 その言葉に。

 クラストの瞳が、わずかに揺れた。

     *

 同じ時刻。

 雄英高校の臨時医療区画では、一人の女性が窓の外を眺めていた。

 白い病室。

 清潔なシーツ。

 点滴の管。

 そして、窓の向こうに広がる、見慣れたようでいて、どこか知らない街並み。

 女性は、自分の手を見下ろした。

 細い指。

 手の甲に残る、小さな傷。

 それは、十三年前に負ったものと同じ場所にあった。

「……本当に、戻ってきたのね」

 呟いた声は、かすれていた。

 彼女の名は、香山睡。

 かつてのプロヒーロー、ミッドナイト。

 彼女は、死んだはずだった。

 最終決戦へ至る戦いの中で、教え子たちを守るために戦い、命を落とした。

 その死は、多くの生徒たちの心に深い傷を残した。

 彼女を知る者たちは、彼女の死を悼んだ。

 彼女を知らない世代も、記録の中で彼女の名を知った。

 そして十三年が経った。

 世界は少しずつ変わり、彼女の死もまた、歴史の一部になっていた。

 そのはずだった。

「先生……」

 病室の扉が開いた。

 入ってきたのは、雄英の医療スタッフだった。

「お加減はいかがですか?」

「悪くないわ。むしろ、驚くくらいにね」

 ミッドナイトは笑った。

 その笑顔は、かつて教壇に立っていた頃と変わらない。

「身体の状態は?」

「検査上は問題ありません。ただ……」

「ただ?」

「記憶の一部に、欠落が見られます。ご自身の死亡前後については、まだはっきりと思い出せないと」

「そうね」

 ミッドナイトは、窓の外へ視線を戻した。

「最後の記憶は、あまり楽しいものじゃないから」

 軽い口調だった。

 けれど、その指先はシーツを握りしめていた。

 死ぬ瞬間の記憶。

 あのとき、何を考えていたのか。

 誰の顔を思い浮かべたのか。

 自分は、本当に何かを守れたのか。

 思い出そうとすると、頭の奥に薄い膜がかかったようになる。

 その膜の向こうから、何かがこちらを見ている気がした。

「……ねえ」

「はい?」

「私が死んだあと、この世界はどうなったの?」

 医療スタッフは、少しだけ困ったような顔をした。

「戦いは終結しました。ヒーローたちは、復興に尽力しました。個性社会も変化しつつあります」

「そう」

「そして……」

 スタッフは、言葉を選んだ。

「あなたを知る人たちは、あなたのことを忘れていません」

 ミッドナイトは目を閉じた。

 その言葉は、嬉しかった。

 嬉しいはずだった。

 けれど、胸の奥に、言いようのない痛みが広がった。

 自分がいなくなった世界。

 自分が知らない十三年間。

 自分が知っているはずの生徒たちが、大人になっている世界。

 その中で、自分だけが取り残されている。

「……会いたいわね」

 小さく呟いた。

「みんなに」

 その瞬間。

 病室の照明が、わずかに明滅した。

 ミッドナイトの指が止まる。

 窓ガラスに、黒い線が走った。

 一本。

 二本。

 三本。

 ひび割れたガラスのような線が、窓の内側に浮かび上がる。

 医療スタッフが振り返った。

「え……?」

 黒い線は、ガラスの表面を走っているのではなかった。

 空間そのものに刻まれているようだった。

 ミッドナイトの喉が、ひゅっと鳴った。

 頭の奥で、声がした。

『――愛されたいか』

 彼女は、動けなかった。

『――覚えていてほしいか』

 その声は、甘くも、優しくもなかった。

 ただ、問いかけていた。

『――死んだあとも』

『――お前が、お前であると』

 ミッドナイトの指先が震えた。

「……誰?」

『――お前は、何を望む』

 その瞬間、病室の時計が止まった。

 秒針が、十二の位置で固まる。

 医療スタッフの身体もまた、動きを止めていた。

 彼女だけが、声を聞いている。

 いや。

 彼女の中にいる、何かだけが。

 声を聞いていた。

『――愛されることか』

『――必要とされることか』

『――それとも』

 黒い線が、ミッドナイトの手首へ伸びた。

『――もう一度、世界に触れることか』

「……私は」

 彼女は、答えようとした。

 その瞬間、脳裏にいくつもの光景が浮かび上がった。

 教室。

 生徒たちの笑い声。

 戦場。

 崩れ落ちる瓦礫。

 誰かの叫び。

 そして、自分の死。

 ミッドナイトは、息を吸った。

「……私は、まだ」

 声が震える。

「まだ、あの子たちに……」

 黒い線が、手首から肘へと伸びた。

『――ならば、与えよう』

 声が囁いた。

『――お前が望むものを』

 ミッドナイトの瞳が、大きく見開かれた。

「違う……!」

 彼女は、初めて叫んだ。

「私は、そんなものを頼んでいない!」

 その叫びと同時に、時計が動き出した。

 照明が戻る。

 窓ガラスの黒い線が消えた。

 医療スタッフが、慌てて彼女に駆け寄る。

「先生! どうしました? 大丈夫ですか?」

「……ええ」

 ミッドナイトは答えた。

 けれど、その視線は自分の手首に向けられていた。

 そこには、何もない。

 傷も。

 痣も。

 黒い線も。

 ただ、彼女の指先だけが、震えていた。

「……大丈夫よ」

 もう一度、彼女は言った。

 誰かを安心させるために。

 あるいは、自分自身を納得させるために。

「大丈夫……」

 けれど。

 彼女の瞳の奥には、まだ声が残っていた。

     *

 正門東側。

 黒い霧が、クラストの身体を覆っていた。

 盾を持つ男は、膝をついている。

 身体のあちこちに、黒い亀裂が広がっていた。

 その亀裂は、彼の動きを奪おうとしている。

 それでも、彼は盾を離さなかった。

「……にげろ」

 男が、かすれた声で言った。

「逃げろ……」

 緑谷は、彼を見つめていた。

「クラストさん。あなたは、何から逃げろと言っているんですか?」

「……くる」

「何が?」

「……あれが」

 男の目が、霧の向こうへ向けられる。

 その先には、誰もいない。

 ただ、空が広がっていた。

 東京の空。

 人々が見上げる、いつもと変わらない空。

 しかし、クラストには何かが見えているらしかった。

「……空の向こうから」

 男の声が震える。

「来るんだ」

 緑谷は、息を呑んだ。

「何が来るんですか?」

 クラストは答えない。

 答えられないのかもしれない。

 彼の記憶は、断片的にしか戻っていない。

 自分が死んだこと。

 誰かを守ろうとしたこと。

 そして、目の前にいるものが、自分の中に入り込んでいること。

 それらは理解できても、その正体までは分からない。

 それでも、ひとつだけ。

 彼は知っていた。

 これが、自分ひとりの問題ではないということを。

「……あれは」

 男が、ようやく口を開いた。

「死神じゃない」

 相澤の目が細くなる。

「何?」

「死神じゃ……ないんだ」

 クラストは、必死に首を振った。

「もっと……遠い」

 黒い霧が、男の肩から噴き出した。

「もっと……大きい」

 盾が、地面を削る。

「俺たちの……生き死になんて……」

 男は、そこで言葉を切った。

 そして。

 まるで、誰かに口を塞がれたかのように、声が途絶えた。

 次の瞬間、彼の口から別の声が出た。

『――知る必要はない』

 黒い霧が、男の顔を覆う。

『――人間が知るべきことは、ひとつだけだ』

 霧が膨張する。

『――死者は、返ってきた』

 黒い亀裂が、盾にまで広がった。

『――ならば、何を代償にする?』

 その問いが、正門に集まった人々の耳に届いた。

 誰もが、言葉を失った。

 死者が帰ってきた。

 それは奇跡だった。

 失った人々を、もう一度抱きしめられる。

 伝えられなかった言葉を、もう一度伝えられる。

 叶わなかった約束を、もう一度やり直せる。

 人々は、その可能性に希望を見出していた。

 だが。

 もし、代償があるのなら。

 その代償は、誰が払うのか。

 帰ってきた死者か。

 残された生者か。

 それとも、世界そのものか。

「……そんなの」

 緑谷は、拳を握りしめた。

「そんなの、まだ決まってない」

『――決まっている』

「決まってない!」

 緑谷の声が響いた。

「あなたが何者なのかも、何をしようとしているのかも、僕たちはまだ知らない。だったら、勝手に決めつけるな!」

 黒い霧が、静かに揺れた。

『――お前は、希望を信じるのか』

「信じるよ」

 緑谷は即答した。

 けれど、すぐに言葉を続けた。

「でも、希望を信じることと、何も疑わないことは違う」

 霧の奥で、何かが動いた。

「僕たちは、あなたを信じるとは言わない。まだ何も分からないから。でも……」

 緑谷は、盾を握る男を見た。

「この人を、見捨てるとも言わない」

 その言葉に、クラストの指がわずかに動いた。

 霧が、男の身体から離れようとする。

 いや、違う。

 男が、霧を押し返している。

 身体の奥に残された意志だけで。

「……俺は」

 男が言った。

「俺は……」

 黒い亀裂が、首筋を覆い尽くす。

「俺は……ヒーローだ」

 その言葉は、ひどく小さかった。

 けれど。

 盾を持つ手に、力が戻った。

「……だから」

 男が、顔を上げる。

「守るんだ」

 黒い霧が、悲鳴のような音を立てた。

 次の瞬間、クラストは盾を地面に突き立てた。

 轟音。

 盾の表面に刻まれていた傷痕が、淡い光を放つ。

 それは個性の発動ではなかった。

 少なくとも、現在の医療機器では、そう判定された。

 身体の内側に、何らかのエネルギー反応が発生している。

 だが、それは彼が生前に持っていた個性とは一致しない。

 クラストの個性は、すでに失われているはずだった。

 死者が、かつての個性を持って戻る例は報告されている。

 しかし、彼の身体に起きている現象は、それとは違う。

 盾が光っているのではない。

 盾の周囲に、見えない壁が生まれていた。

 黒い霧が、その壁に触れる。

 弾かれた。

 霧が、後退する。

 クラストは、膝をついたまま、盾を構え続けた。

「……俺の後ろに」

 声が戻ってくる。

「誰も……通さない」

 その言葉を聞いた瞬間。

 緑谷の胸に、熱いものが込み上げた。

 彼は知っている。

 誰かを守るために立ち上がる人間の姿を。

 恐怖を感じながら。

 自分が傷つくことを知りながら。

 それでも、一歩前に出る人間の姿を。

 その姿は、何度でも世界を救ってきた。

 そして、今も。

 死者として帰ってきた男が、再び盾を構えている。

 その光景に、正門に集まった人々の一人が泣き出した。

「……クラストさん」

 老婦人が、口元を押さえた。

「本当に……クラストさんなの……?」

 その隣にいた青年が、彼女の肩を支えた。

「危険です。下がりましょう」

「でも……」

 老婦人は、男から目を離せなかった。

「でも、あの人……」

 彼女の目に映っているのは、十三年前の映像だった。

 瓦礫の中で、盾を構えるヒーロー。

 逃げ遅れた人々を守るために、自分の身体を壁にした男。

 そして、最後まで逃げるように叫んでいた声。

 老婦人は、震える唇を動かした。

「……ありがとう」

 その声は、男には届かなかったかもしれない。

 それでも彼女は、言った。

「あなたが守ってくれたから、私は生きているの」

 クラストの瞳が、わずかに動いた。

 その瞬間。

 黒い霧の中から、無数の手が伸びた。

 盾の壁に、指が食い込む。

 壁が軋む。

 亀裂が走る。

 クラストの身体が、再び押し潰されそうになる。

「クラストさん!」

 緑谷が叫んだ。

 だが、相澤が彼の腕を掴んだ。

「待て!」

「でも!」

「今、あいつは自分で戦っている!」

 相澤の声は、鋭かった。

「お前が飛び込めば、あいつが何を守ろうとしているのかを壊すかもしれない!」

 緑谷は、歯を食いしばった。

 助けたい。

 今すぐにでも、あの男のもとへ走りたい。

 けれど。

 相澤の言葉は、正しかった。

 彼が盾を構えている理由。

 彼が守ろうとしているもの。

 それを、緑谷はまだ理解できていない。

 ならば、今できることは何か。

 ただ見ていることか。

 違う。

「麗日さん!」

「うん!」

 彼女はすでに動いていた。

 正門周辺の瓦礫を浮かせ、避難経路を確保する。

「飯田くん、避難誘導をお願い! 人の流れを分けて、転倒しないように!」

「了解した!」

 飯田が駆け出す。

「八百万さん、医療班の補助を! 防護材と遮蔽物を準備して!」

「分かりましたわ!」

 緑谷は、クラストの盾を見た。

 彼が守っているのは、正門に集まった人々だ。

 ならば、彼が守る必要のない状況を作ればいい。

 誰かひとりが、すべてを守る必要はない。

 それこそが、彼らが戦いの中で学んできたことだった。

「爆豪くん!」

「言われなくても分かってる!」

 爆豪勝己が、緑谷の隣に立った。

 かつてのように、全身から爆発的な力を放つことはできない。

 それでも、彼の目は鋭かった。

「お前は正面から突っ込むな。周囲の避難を優先しろ。俺はあの霧が広がらないように、遮蔽物を作る」

「勝手に指示すんな、デク」

「……え?」

「だが、方向性は同じだ」

 爆豪は、にやりとも笑わなかった。

 ただ、真剣な顔で霧を見つめていた。

「一人で抱え込むなって、さっき先生に言われたばかりだろ」

「……うん」

「なら、使えよ。俺たちを」

 緑谷は、短く息を吐いた。

「ありがとう、かっちゃん」

「礼はあとだ!」

 爆豪が地面を蹴った。

 爆発の音が、正門に響く。

 その爆風は、霧を直接吹き飛ばすほどではなかった。

 だが、地面に散らばっていた瓦礫を押し流し、人々が避難するための空間を作り出した。

 同時に、八百万が展開した防護材が、正門周辺を囲む。

 麗日が瓦礫を浮かせ、飯田が人々を誘導する。

 ヒーローたちは、ひとりの男が守るはずだった場所を、少しずつ分担していった。

 クラストの盾が、わずかに揺れた。

 彼の背後から、人々がいなくなっていく。

 守るべき人々が、安全な場所へ移っていく。

 そのことを理解したのか。

 男の顔から、ほんの少しだけ、苦痛が消えた。

「……そうか」

 彼は呟いた。

「もう……俺だけじゃなくて、いいんだな」

 黒い霧が、激しく震えた。

『――違う』

 声が響く。

『――お前は、守るために存在する』

『――お前は、盾だ』

『――盾は、傷つくものだ』

『――盾は、壊れるものだ』

 クラストの身体が、再び震えた。

『――ならば、壊れろ』

 黒い線が、盾の表面を覆い尽くす。

『――お前の役目は、それだけだ』

 男の瞳から、光が消えかけた。

 その瞬間。

「違います!」

 麗日の声が響いた。

 彼女は、避難誘導を終えた場所から、男を見ていた。

「盾だって、守られていいんです!」

 クラストの目が、彼女を向いた。

「誰かを守る人が、誰にも守られなくていいなんて……そんなこと、ないです!」

 彼女の声は震えていた。

 恐怖がないわけではない。

 あの霧が何なのか、分からない。

 自分たちに何ができるのかも分からない。

 それでも。

「あなたが誰かを守ってくれたなら、今度は私たちがあなたを守ります!」

 その言葉に、緑谷が続いた。

「一緒に戦いましょう、クラストさん!」

 黒い霧が、音もなく膨張した。

 次の瞬間。

 空が、暗くなった。

     *

 それは、日食ではなかった。

 雲が太陽を覆ったわけでもない。

 正門の上空。

 そこに、黒い円が浮かんでいた。

 直径は、数メートルほど。

 しかし、見上げた者たちは、誰もその大きさを正確に把握できなかった。

 なぜなら、その円の向こう側に、空が見えなかったからだ。

 夜空でもない。

 宇宙でもない。

 星も、銀河も、何も存在しない。

 ただ、何かが欠けている。

 世界の一部が、そこだけ切り取られたように。

 その黒い円を見上げた人々は、理由もなく涙を流した。

 懐かしい。

 怖い。

 帰りたい。

 そんな感情が、同時に押し寄せる。

 誰もが、そこに何かを見たような気がした。

 失った人。

 忘れたはずの記憶。

 叶わなかった願い。

 けれど、目を凝らすほどに、その姿は遠ざかっていく。

 黒い円の中心から、声が響いた。

『――十三年』

 その声は、男でも女でもなかった。

 子供のようでもあり、老人のようでもある。

 近くから聞こえるのに、どこまでも遠い。

『――人間は、まだ死を理解していない』

 相澤が、空を見上げた。

「全員、退避!」

 その声に、誰もが動き出した。

 だが、緑谷だけは、黒い円から目を離せなかった。

 見覚えがある。

 あの暗闇。

 あの、何もない場所。

 自分の幼い姿と向き合った、あの場所に似ていた。

 だが、あのときは、何も見えなかった。

 今は違う。

 黒い円の奥に、何かがいる。

 何かが、こちらを見ている。

『――死者を返せば、人間は喜ぶ』

『――失ったものを返せば、人間は祈る』

『――祈りが叶えば、人間は信じる』

 声が続く。

『――ならば、問おう』

『――お前たちは、何を信じている?』

 緑谷の心臓が、強く打った。

 その問いは、彼だけに向けられたものではなかった。

 この場にいるすべての人間に。

 死者の帰還を喜んだ人々に。

 大切な人を失った人々に。

 そして、失われた命を取り戻したいと願った、すべての人間に。

『――その者が、かつて愛した人間と同じ姿をしているなら』

『――その者が、かつて交わした約束を覚えているなら』

『――その者が、かつての声で、お前の名を呼ぶなら』

『――お前は、それを本人と呼ぶのか?』

 誰も答えられなかった。

『――ならば』

 黒い円が、ゆっくりと回転した。

『――その者が、かつてのお前を愛していなかったとしても』

『――その者が、お前の知らない記憶を持っていたとしても』

『――その者が、別の何かに侵されていたとしても』

『――お前は、その者を愛せるのか?』

 その問いに、緑谷は息を呑んだ。

 答えは、簡単ではなかった。

 もし、帰ってきた人が自分の家族だったら。

 もし、その人が自分の名前を呼んだら。

 もし、その人が笑いかけてくれたら。

 それでも、疑うことができるのか。

 本人ではないかもしれないと。

 自分が抱きしめているのは、別の何かかもしれないと。

 そんな疑いを抱きながら、その人の手を握ることができるのか。

 緑谷には、分からなかった。

 分からないからこそ。

 彼は、目を逸らさなかった。

「……僕は」

 声が震えた。

 それでも、言葉を続ける。

「僕は、まだ答えを持っていません」

 黒い円が、静かに揺れた。

「でも、答えが分からないからって……目の前にいる人を、最初から偽物だと決めつけることもできません」

 緑谷は、クラストを見た。

 盾を構え、黒い霧と戦い続ける男を。

「本当に本人なのか。記憶は正しいのか。魂は同じなのか。僕たちは、これから調べなきゃいけない」

 拳を握る。

「だけど、その人が今、苦しんでいるなら」

 彼は顔を上げた。

「その苦しみを、見なかったことにはできない!」

 黒い円が、止まった。

 そして。

 声が、初めて緑谷の名を呼んだ。

『――緑谷出久』

 全身の血が、凍りついた。

『――お前は、まだ救うのか』

 その声には、怒りがなかった。

 嘲笑もなかった。

 ただ、純粋な疑問だけがあった。

『――救えなかったものを』

『――失ったものを』

『――二度と戻らないものを』

『――それでも、救うのか』

 緑谷は、答えようとした。

 しかし、声が出なかった。

 その問いは、彼自身が何度も自分に投げかけてきたものだったからだ。

 すべてを救うことはできない。

 誰かの願いを、すべて叶えることもできない。

 失われた命を、取り戻すこともできない。

 それでも、自分はヒーローであり続けられるのか。

 答えを探しているのは、彼自身だった。

 そのとき。

「出久くん」

 麗日が、隣で言った。

 緑谷は、彼女を見た。

「一人で答えなくていいよ」

 彼女は、まっすぐに黒い円を見上げていた。

「私たちも、考えるから」

 その言葉に、飯田が続いた。

「その通りだ。これは緑谷くん一人の問題ではない!」

「当たり前だろ」

 爆豪が、舌打ちする。

「勝手に世界の代表みたいな顔してんじゃねえ」

「かっちゃん……」

「俺たちも当事者だ。勝手に答えを決められてたまるか」

 相澤は、三人を見た。

 そして、ほんのわずかに目を細めた。

 黒い円は、しばらく沈黙していた。

 やがて。

『――そうか』

 声が響いた。

『――人間は、まだ答えを選ぶ』

『――ならば、見せてもらおう』

 黒い円が、ゆっくりと閉じていく。

『――お前たちが、何を選ぶのか』

 その言葉を最後に、空は元に戻った。

 太陽の光が差し込む。

 鳥の声が聞こえる。

 人々のざわめきが戻ってくる。

 けれど、誰もが分かっていた。

 今の出来事は、幻ではない。

 確かに何かが、こちらを見ていた。

 そして、その何かは、死者を返すことだけを目的にしているわけではない。

 人間に、問いを投げかけている。

 その答えを知るために。

 あるいは、その答えによって何かを決めるために。

     *

 南極大陸。

 人類が近づくことのできない、氷の大地の中心。

 巨大な氷の下に、広大な空間が存在していた。

 そこは、地球の内部ではない。

 少なくとも、人類が理解している地質学の範囲には収まらない。

 氷の壁には、文字とも模様ともつかないものが刻まれている。

 それらは、どの言語にも似ていなかった。

 しかし、もし誰かがその模様を理解できたなら。

 そこに刻まれているのは、数えきれない文明の記録だった。

 誕生。

 進化。

 繁栄。

 崩壊。

 そして、滅亡。

 数えきれない生命が、数えきれない時代を生き、やがて消えていった。

 そのすべてを、誰かが見ていた。

 暗闇の中に、一人の少女が立っていた。

 黒い髪。

 白い肌。

 死を思わせるほどに静かな瞳。

 彼女は、氷の壁に触れていた。

「……また、見ていたのね」

 彼女の声が、空間に響く。

 返事はない。

 しかし、壁に刻まれた模様の一部が、淡く光った。

 少女は、小さく息を吐いた。

「あなたは、本当に人間が好きなのかしら」

 その問いに、答えはなかった。

 彼女は、知っている。

 ここにいるものが、単純な善悪では測れない存在であることを。

 人類に個性を与えたもの。

 人類の進化を促したもの。

 人類が自分たちの力で未来を切り開くことを、どこかで期待しているもの。

 だが同時に。

 人類の命を、個々の悲しみを、ひとつひとつの祈りを、人間と同じ尺度で見ているとは限らないもの。

 少女は、壁から手を離した。

「死者が戻れば、人間は喜ぶ」

 彼女は呟いた。

「でも、戻ってきた人が本当に本人なのか。それを確かめる方法は、まだない」

 氷の奥で、何かが脈打った。

「それでも、人間は彼らを抱きしめるでしょうね」

 少女は、わずかに笑った。

「愚かで、優しい」

 彼女の足元に、黒い霧が流れてくる。

 霧の中には、無数の光が浮かんでいた。

 帰還者たちの光。

 死者の魂なのか。

 記憶の残滓なのか。

 あるいは、まったく別の何かなのか。

 彼女にも、まだ分からない。

 ただ、その中には、確かに異なるものが混じっていた。

 自分の意志で戻ってきたもの。

 戻されたもの。

 何かに呼ばれたもの。

 そして。

 何かに、侵されているもの。

「……八つの欲望」

 少女は、その名を口にした。

「あなたは、あれを何だと思っているの?」

 氷の壁が、再び光る。

 少女の瞳に、遠い記憶が浮かんだ。

 かつて、世界を支配しようとした男。

 すべてを奪い、すべてを手に入れようとした男。

 彼がいなくなった世界に、空白が生まれた。

 その空白を、誰かが埋めようとしている。

 死神は、それを必要としていた。

 人類を試すためか。

 世界を維持するためか。

 それとも、もっと別の理由があるのか。

 少女は、まだ知らない。

 ただひとつ、分かることがあった。

 死神は、すべてを理解しているわけではない。

 死神自身もまた、何かを知ろうとしている。

「……あなたも、迷っているのね」

 少女は、氷の壁に背を向けた。

「なら、見届ければいい」

 彼女の背後で、無数の光が揺れた。

「人間が、何を選ぶのか」

 そして、彼女は小さく付け加えた。

「……私も、見たいから」

     *

 その日の午後。

 雄英高校の臨時医療区画では、帰還者の状態確認が続いていた。

 クラストは、鎮静措置を受けたあと、特別隔離室へ移送された。

 身体の黒い亀裂は消えていない。

 しかし、拡大も止まっていた。

 盾は別室に保管されている。

 あの不可視の防御壁は、現在のところ再現できていない。

 クラスト本人の意識は、断続的に回復している。

 そして、彼が目を覚ましたとき。

 最初に尋ねたのは、自分のことではなかった。

「……みんなは?」

 ベッドのそばにいた医療スタッフが、顔を上げた。

「みんな、とは?」

「俺が……守ろうとした人たちは」

 スタッフは、少しだけ目を伏せた。

「全員、無事です」

 その言葉に、クラストは目を閉じた。

 長い息を吐く。

 それは、安心した人間の呼吸だった。

「……よかった」

 その一言を聞いて、スタッフは思わず彼を見つめた。

 記憶は、まだ完全には戻っていない。

 十三年間の空白もある。

 自分がなぜここにいるのかさえ、理解しきれていない。

 それでも、彼は人々の無事を確かめた。

 それが、彼の最初の行動だった。

 スタッフは、通信機を手に取った。

「相澤先生。クラスト氏が意識を回復しました。会話が可能です」

『分かった。すぐに行く』

 通信が切れる。

 クラストは、天井を見上げた。

「……俺は、死んだんだよな」

 誰に向けたわけでもない呟き。

 けれど、スタッフは答えた。

「記録上は、そうなっています」

「そうか……」

 クラストは、自分の手を見下ろした。

 傷だらけの手。

 何度も盾を握り、誰かを守ろうとしてきた手。

 しかし、その手には、見覚えのない黒い線が走っていた。

「……これは?」

「まだ、原因は分かっていません」

「そうか」

 クラストは、しばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと尋ねた。

「……俺は、本当に俺なのか?」

 スタッフは、答えられなかった。

 その問いに、医療検査の結果を示すことはできる。

 身体の特徴。

 遺伝情報。

 記憶の断片。

 過去の記録との一致。

 しかし、それらはすべて、彼がかつてのクラストと同じであることを示す材料にすぎない。

 彼自身が、彼自身であると証明するものではない。

 クラストは、苦笑した。

「……すまない。困らせたな」

「いえ……」

「分からなくて当然だ」

 彼は、ゆっくりと目を閉じた。

「俺にも、分からないんだから」

 その声は、静かだった。

「ただ……」

 彼の指が、シーツを握る。

「守りたいと思ったんだ」

 それだけは、確かだった。

 自分が何者なのか分からなくても。

 なぜ戻ってきたのか分からなくても。

 誰かを守りたいという気持ちだけは、確かに自分の中にあった。

「……それまで、偽物だと言われたら」

 クラストは、天井を見つめた。

「俺は、何を証明すればいいんだろうな」

 誰も答えなかった。

 窓の外では、午後の光が静かに揺れていた。

     *

 夕方。

 緑谷は、医療区画の廊下に立っていた。

 クラストとの面会は、まだ許可されていない。

 彼の状態が安定するまで、接触を制限する必要がある。

 相澤からは、今日は帰るように言われていた。

 だが、緑谷は帰れなかった。

 廊下の向こうに、見覚えのある姿があったからだ。

 白い衣服。

 長い髪。

 落ち着いた足取り。

 彼女は、医療区画の窓から外を眺めていた。

「……ミッドナイト先生?」

 緑谷が声をかけると、女性は振り返った。

 その顔を見た瞬間、緑谷は言葉を失った。

 記憶の中の彼女と、同じ顔だった。

 十三年前に亡くなったはずの人。

 もう二度と会えないと思っていた人。

 その人が、そこに立っていた。

「まあ」

 ミッドナイトは、微笑んだ。

「緑谷くん。ずいぶん大人になったわね」

 緑谷の喉が、詰まった。

 言いたいことは、たくさんあった。

 どうして。

 なぜ。

 本当に先生なのか。

 十三年間、どこにいたのか。

 死ぬとき、何を考えていたのか。

 何より。

 会いたかった。

 その言葉が、胸の奥に浮かんだ。

 けれど、口から出てきたのは、別の言葉だった。

「……おかえりなさい」

 ミッドナイトは、目を見開いた。

 それから、ほんの少しだけ、困ったように笑った。

「ただいま」

 緑谷は、俯いた。

 目頭が熱くなった。

 泣くつもりはなかった。

 けれど、無理だった。

 彼女が生きている。

 その事実だけで、胸がいっぱいになった。

 ミッドナイトは、そっと彼の頭に手を置いた。

「……大きくなったわね」

「……はい」

「もう、昔みたいに無茶はしていない?」

 緑谷は、少しだけ笑った。

「……努力はしています」

「あら。怪しい返事」

 その声は、昔と同じだった。

 その仕草も。

 その笑顔も。

 緑谷は、彼女を見つめた。

 そして、ふと気づいた。

 彼女の手が、ほんのわずかに震えている。

 笑顔の奥に、隠しきれない不安がある。

 彼女もまた、怖いのだ。

 自分が本当に帰ってきたのか。

 この世界に、自分の居場所があるのか。

 自分が知っている人々は、自分を覚えているのか。

 そして。

 自分は、本当に自分なのか。

 緑谷は、何かを言おうとした。

 そのとき。

「緑谷くん」

 ミッドナイトが、先に口を開いた。

「ひとつ、聞いてもいい?」

「はい」

「私……本当に、帰ってきてよかったのかしら」

 緑谷は、息を止めた。

 彼女は、笑っていた。

 けれど、その目は笑っていなかった。

「私が死んでから、十三年も経ったのでしょう?」

「……はい」

「その間に、世界は変わった。あなたたちは大人になった。もう、私がいなくても生きていける」

 彼女は、窓の外へ目を向けた。

「それなのに、私だけが戻ってきた」

 その言葉には、寂しさがあった。

 そして、罪悪感があった。

「私が戻ってきたことで、誰かが困るのなら」

 ミッドナイトは、小さく息を吐いた。

「私は、どうすればいいのかしら」

 緑谷は、すぐには答えられなかった。

 彼女の不安を、簡単に否定することはできない。

 死者が帰ってきたことで、世界は混乱している。

 彼らが本人なのかどうかも、分からない。

 帰還者の中には、他者を傷つける者もいる。

 黒い霧に侵される者もいる。

 だから、彼女が不安を感じるのは当然だった。

 それでも。

 緑谷は、彼女の目を見た。

「……先生」

「なあに?」

「僕は、まだ何も分かっていません」

 ミッドナイトは、黙って聞いていた。

「先生が本当に、僕の知っている先生なのか。なぜ戻ってきたのか。これから何が起こるのか。全部、分かっていません」

 緑谷は、正直に言った。

「でも、先生が帰ってきたことを、迷惑だとは思いません」

 ミッドナイトの瞳が揺れた。

「……本当に?」

「はい」

 緑谷は、微笑んだ。

「僕は、先生に会えて嬉しいです」

 その言葉は、あまりにも簡単だった。

 何の証明にもならない。

 魂が同じかどうかも。

 記憶が正しいかどうかも。

 彼女の中に、何かが潜んでいないかどうかも。

 何ひとつ、証明できない。

 それでも。

 今、目の前にいる彼女に、会えて嬉しい。

 それは、緑谷にとって確かな気持ちだった。

 ミッドナイトは、しばらく彼を見つめていた。

 やがて、彼女は笑った。

 今度の笑顔は、少しだけ自然だった。

「……ありがとう、緑谷くん」

 その瞬間。

 彼女の手首に、黒い線が浮かんだ。

 一本。

 細く、短い線。

 緑谷は、気づかなかった。

 ミッドナイトも、気づかなかった。

 黒い線は、彼女の皮膚の下で、ゆっくりと脈打っていた。

 まるで、彼女の言葉を聞いているかのように。

 まるで、その感情を確かめているかのように。

 そして、誰にも見えない場所で。

 黒い線は、もう一本増えた。

     *

 夜。

 雄英高校の一室で、相澤は報告書を読み返していた。

 帰還者の数。

 死亡記録との照合結果。

 記憶の欠落率。

 個性の再現状況。

 黒い霧の発生例。

 どれも、まともな結論を導き出せるほどの情報はない。

 しかし、ひとつだけ、共通する傾向が見え始めていた。

 帰還者たちは、単に生き返っているのではない。

 何かを取り戻そうとしている。

 記憶。

 感情。

 生前の行動。

 自分が誰だったのかという感覚。

 そして、それらが強くなるほど、身体の異常が増す事例がある。

 反対に、誰かと関わることで状態が安定する者もいる。

 その違いは、何なのか。

 相澤は、報告書の一枚を手に取った。

 そこには、クラストの映像解析結果が記されていた。

 彼が黒い霧に侵された際、周囲の人間が避難を始めたあと、霧の拡大速度が一時的に低下した。

 緑谷と麗日が声をかけた際には、さらに変化があった。

 その変化は、単純な個性反応では説明できない。

「……感情に反応しているのか」

 相澤は呟いた。

 そこへ、ドアを叩く音がした。

「入れ」

 扉が開く。

 入ってきたのは、オールマイトだった。

「遅くまでお疲れさまです、相澤くん」

「そちらこそ。まだ仕事を?」

「ええ。今日の出来事を、私なりに整理していました」

 オールマイトは、椅子に腰を下ろした。

 かつて世界の象徴と呼ばれた男。

 彼もまた、死者の帰還を喜ぶ人々の姿を見ていた。

 同時に、その裏側に潜む危険も理解していた。

「……クラストくんの件は聞きました」

「ええ」

「彼は、自分が本当に本人なのかと尋ねたそうですね」

「……聞いていたんですか」

「医療スタッフから報告がありました」

 オールマイトは、しばらく黙っていた。

「私も、考えています」

「何をです?」

「もし、私が死んだあとに戻ってきたとしたら」

 相澤は、顔を上げた。

「……私は、私なのでしょうか」

 静かな問いだった。

 オールマイトは、自分の手を見下ろした。

「この身体が同じなら。記憶が同じなら。人々が私をオールマイトだと認めるなら。それで十分なのか」

「……」

「それとも、何か別のものが必要なのか」

 相澤は、すぐには答えなかった。

 答えを持っていなかったからだ。

「……分かりません」

 やがて、彼は言った。

「ただ、ひとつだけ」

「何でしょう?」

「俺は、本人かどうかを判断するために、そいつが何をしたかを見ます」

 オールマイトは、相澤を見た。

「記憶があるかどうかだけではなく。身体が同じかどうかだけでもなく。今、何を選ぶのかを」

 相澤は、報告書を机に置いた。

「もちろん、それだけで魂の証明にはならないでしょう。でも、少なくとも、俺たちが人間を理解するためにできることは、それくらいしかない」

 オールマイトは、ゆっくりと頷いた。

「……そうですね」

「それに」

 相澤は、目を細めた。

「本人かどうか分からないからって、苦しんでいる人間を放置する理由にはならない」

 その言葉に、オールマイトは目を閉じた。

 かつての自分なら、どうしただろう。

 すべてを引き受けようとしたかもしれない。

 自分が判断し、自分が責任を負い、自分が正解を示そうとしたかもしれない。

 しかし、今は違う。

 彼らには、次の世代がいる。

 答えを受け継ぐのではなく、答えを選び直す世代が。

「……緑谷くんは、今日、何と言っていましたか?」

 オールマイトが尋ねた。

 相澤は、少しだけ笑った。

「分からないことは、分からないままにしておく。でも、目の前の人間を見捨てない。そう言っていました」

「……そうですか」

 オールマイトは、嬉しそうに微笑んだ。

「彼らしい」

「ええ」

 相澤は、窓の外を見た。

 夜の校庭には、まだ人影があった。

 帰還者たちの身元確認を行う職員。

 避難誘導を手伝うヒーロー。

 大切な人との再会を待つ人々。

 奇跡を喜ぶ声。

 奇跡を恐れる声。

 そして、まだ誰にも知られていない、黒い霧の存在。

 世界は、変わり始めていた。

 いや。

 変わったことを、ようやく人々が理解し始めたのかもしれない。

「……明日が、追悼式典の日でしたね」

 オールマイトが言った。

「ええ」

「式典は中止になりましたが……」

「それでも、来る人間はいるでしょう」

 相澤は、静かに答えた。

「亡くなった人間を悼むために。帰ってきた人間に会うために。そして、自分たちが何を失ったのか、確かめるために」

 オールマイトは頷いた。

「ならば、私たちもできることをしましょう」

「……そうですね」

 相澤は、報告書を閉じた。

 その表紙には、大きくこう記されていた。

 ――帰還者異常事例・暫定報告書。

 彼は、その下に新しい一文を書き加えた。

 「帰還者の真偽を判定することと、帰還者の生命を保護することは、別の問題として扱う」

 ペンを置く。

 それが正解かどうかは、分からない。

 しかし、今の彼らには、その区別が必要だった。

     *

 同じ夜。

 東京の郊外にある、小さな家。

 そこでは、一組の家族が食卓を囲んでいた。

 父親。

 母親。

 そして、十歳ほどの少女。

 少女の向かい側には、見知らぬ女性が座っていた。

 女性は、少女の顔を何度も見つめていた。

 涙をこらえながら。

「……大きくなったね」

 女性が言った。

 少女は、戸惑ったように母親を見た。

「ママ……」

 母親は、少女の肩に手を置いた。

「大丈夫よ」

 それから、向かい側の女性を見た。

「この人は、あなたのおばあちゃんよ」

 少女は、目を見開いた。

 祖母。

 写真の中でしか知らなかった人。

 少女が生まれる前に亡くなった人。

 母親が、何度も話してくれた人。

 お菓子を作るのが上手で、いつも歌を歌っていたという人。

 その人が、目の前に座っている。

「……本当に?」

 少女が尋ねた。

 祖母は、笑った。

「ええ」

 彼女は、少女の手に触れようとした。

 けれど、少女は一瞬だけ身を引いた。

 祖母の指が止まる。

 少女は、自分でもなぜそうしたのか分からなかった。

 怖かったわけではない。

 嫌いなわけでもない。

 ただ、どうすればいいのか分からなかった。

 祖母は、無理に手を伸ばさなかった。

「……ごめんね」

 彼女は言った。

「急に会いに来られても、困るよね」

 少女は、首を振った。

「……ううん」

「無理しなくていいのよ」

 祖母は微笑んだ。

「おばあちゃんのこと、知らないんだものね」

 その言葉に、母親が唇を噛んだ。

 少女は、しばらく祖母を見つめていた。

 そして、恐る恐る尋ねた。

「……おばあちゃんは、ママのこと、覚えてる?」

 祖母の目から、涙がこぼれた。

「もちろん」

「私のことも?」

「……ええ」

 祖母は、笑った。

「あなたが生まれたことは、知らなかったけれど」

 その言葉に、少女は少しだけ驚いた。

「知らなかったの?」

「うん」

 祖母は、正直に答えた。

「おばあちゃんが死んだあとに、あなたが生まれたんでしょう?」

 少女は頷いた。

「だから、おばあちゃんは、あなたのことを知らないの」

 祖母は、少女の手元に視線を落とした。

「でも、これから知っていきたいわ」

 少女は、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと手を伸ばした。

 祖母の指先に触れる。

 温かかった。

 生きている人間の温度だった。

 少女の目に、涙が浮かんだ。

「……私も」

 小さな声だった。

「おばあちゃんのこと、知りたい」

 祖母は、少女の手を握った。

 その瞬間。

 食卓の下で、黒い影が揺れた。

 誰も気づかなかった。

 少女も。

 母親も。

 祖母も。

 彼女たちは、ただ手を握り合っていた。

 十三年間、存在しなかった時間を、少しずつ埋めようとしていた。

 その足元で。

 黒い影は、静かに形を変えた。

 人間の影とは、違う形に。

     *

 深夜。

 雄英高校の医療区画。

 ミッドナイトは、眠れずにいた。

 目を閉じると、あの声が聞こえる。

 愛されたいか。

 覚えていてほしいか。

 もう一度、世界に触れたいか。

 彼女は、自分の手首を見た。

 黒い線はない。

 傷もない。

 ただ、そこには脈がある。

 生きている人間の脈が。

「……私は、何を望んでいるのかしら」

 彼女は呟いた。

 答えは、分かっているような気がした。

 生徒たちに会いたい。

 彼らがどんな大人になったのか、見たい。

 もう一度、笑い合いたい。

 もう一度、教師として何かを教えたい。

 だが、その願いの奥には、別のものもあった。

 自分が忘れられていないと、確かめたい。

 自分が死んだあとも、自分の存在が誰かの中に残っていると知りたい。

 自分の人生が、無意味ではなかったと。

 そう思いたい。

「……嫌な質問をするわね」

 ミッドナイトは、目を閉じた。

 その瞬間。

 病室の隅で、何かが動いた。

 彼女は目を開けた。

 何もない。

 ただの影。

 ベッドの脚。

 椅子。

 窓枠。

 その影が、少しだけ長く伸びている。

 ミッドナイトは、息を止めた。

 影の奥に、何かが見えた。

 人間の輪郭。

 黒い霧。

 そして、目。

『――望みは、決まったか』

 声がした。

 ミッドナイトは、ベッドから起き上がった。

「……私は」

 声が震える。

「私は、誰かに望みを叶えてほしいわけじゃない」

『――ならば、何を望む』

「自分で……」

 彼女は、拳を握った。

「自分で選びたいの」

 影が揺れた。

『――選ぶ』

 声が、繰り返す。

『――人間は、いつもそう言う』

『――だが、お前たちは、選べなかった』

『――死を』

『――別れを』

『――失うことを』

 ミッドナイトの胸が痛んだ。

『――だから、願った』

『――戻ってきてほしいと』

『――もう一度、会いたいと』

『――やり直したいと』

 影が、彼女の足元へ伸びる。

『――それは、お前の願いではないのか』

 ミッドナイトは、唇を噛んだ。

 願いだった。

 確かに、願いだった。

 もう一度、みんなに会いたい。

 もう一度、教師でありたい。

 もう一度、生きていたい。

 その願いを、否定することはできない。

 だが。

「……願ったからって」

 彼女は言った。

「誰かに、勝手に決められていいわけじゃない」

 影が止まった。

「私が何を望むのか。私が何を選ぶのか。それは、私が決める」

 ミッドナイトは、まっすぐに影を見た。

「あなたが誰であろうと、私の人生を勝手に使わないで」

 長い沈黙があった。

 そして。

 影の奥から、笑い声が聞こえた。

 小さな。

 静かな。

 人間の笑い声とは、どこか違う音。

『――いいだろう』

 影が、ゆっくりと床に沈んでいく。

『――ならば、選べ』

『――お前が、お前であることを』

『――証明してみせろ』

 影は消えた。

 病室は、元の静けさを取り戻した。

 ミッドナイトは、しばらく動けなかった。

 やがて、彼女は自分の手を見下ろした。

 震えは、まだ止まらない。

 それでも。

「……上等よ」

 彼女は、小さく呟いた。

「教師を、なめないで」

     *

 そして、日付が変わる少し前。

 雄英高校の屋上に、緑谷と麗日が立っていた。

 街の明かりが、遠くまで広がっている。

 帰還者の情報を求める報道番組。

 死者の帰還を奇跡だと称える声。

 危険性を訴える専門家。

 家族との再会を喜ぶ人々。

 そして、帰還者の受け入れに反対する声。

 世界は、ひとつの出来事を前に、いくつもの答えを作り始めていた。

「……今日、いろんなことがあったね」

 麗日が言った。

「うん」

「嬉しいことも、怖いことも」

「……うん」

 緑谷は、街を見下ろした。

「僕は、死者が帰ってきたことを、嬉しいと思ってしまった」

 麗日は、彼を見た。

「ミッドナイト先生に会えたことも。クラストさんが帰ってきたことも」

 緑谷は、自分の手を見つめた。

「でも、同時に怖いんだ。もし、本人じゃなかったら。もし、何かに利用されていたら。もし、誰かを傷つけることになったら」

 彼は、息を吐いた。

「嬉しいって思うこと自体が、間違いなんじゃないかって……」

「そんなことないよ」

 麗日は、すぐに答えた。

「嬉しいって思うことと、疑問を持つことは、両立するよ」

 緑谷は、彼女を見た。

「大切な人が帰ってきたら、嬉しいよ。会いたかったんだもん。でも、何かがおかしいなら、ちゃんと調べなきゃいけない」

 麗日は、夜空を見上げた。

「大切だからこそ、ちゃんと知りたいんだと思う」

 その言葉に、緑谷は目を閉じた。

 大切だからこそ。

 信じたい。

 けれど、信じることは、疑問を捨てることではない。

 守りたい。

 けれど、守ることは、すべてを許すことでもない。

 救いたい。

 けれど、救うことは、自分ひとりで答えを決めることでもない。

 緑谷は、ゆっくりと目を開けた。

「……明日、追悼式典の日だね」

「うん」

「式典は中止になったけど……きっと、みんな来ると思う」

「そうだね」

「亡くなった人を悼むために。帰ってきた人に会うために」

 緑谷は、街の明かりを見つめた。

「そして、これからどうするのかを考えるために」

 麗日は、彼の手を握った。

「一緒に考えよう」

「……うん」

「答えが分からなくても」

「うん」

「怖くても」

「……うん」

「一緒に」

 緑谷は、彼女の手を握り返した。

 その温もりが、確かにここにあった。

 明日、何が起こるのかは分からない。

 死者たちが、何を語るのかも分からない。

 彼らの中に何が潜んでいるのか。

 死神が何を望んでいるのか。

 世界の向こう側に、何が存在しているのか。

 何ひとつ、分からない。

 それでも。

 緑谷は、もう一度、夜空を見上げた。

「……僕たちは、僕たちの答えを選ぶ」

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 その言葉に、麗日が頷く。

 そして、二人は屋上をあとにした。

 誰もいなくなった屋上。

 夜風が吹き抜ける。

 街の明かりが、静かに瞬いている。

 その空の、さらに向こう。

 人間の目には見えない場所で。

 何かが、ゆっくりと目を開いた。

『――十三年目』

 声が響く。

『――人類は、まだ祈っている』

 暗闇の中に、無数の光が浮かんだ。

 帰ってきた死者たち。

 彼らを迎えた生者たち。

 失われた記憶。

 蘇る感情。

 そして、まだ名も与えられていない欲望。

『――ならば、次は』

 無数の光のうち、ひとつが黒く染まった。

『――彼らが何を捨てるのかを見よう』

 光が、ひび割れる。

 その向こう側から、かすかな声が聞こえた。

 誰かが、助けを求めている。

 誰かが、憎しみを叫んでいる。

 誰かが、愛されたいと願っている。

 そして、誰かが。

 もう一度、生きたいと願っている。

『――奇跡を祝う日々は、長くは続かない』

 声が、静かに告げた。

『――人間は、奇跡の代償を知ることになる』

 暗闇の中で、ひとつの名前が浮かび上がった。

 嫉妬。

 その名を中心に、青い炎が燃え上がった。

 炎の向こうに、ひとりの男が立っている。

 蒼い炎をまとい、憎しみを抱き、家族を見つめる男。

 轟燈矢。

 いや。

 その名を捨てた男。

 荼毘。

 彼の背後に、黒い影が立っていた。

『――お前は、まだ愛されたかったのか』

 荼毘は、振り返らない。

「……うるせえ」

『――愛されなかったことを、憎んでいるのか』

「黙れ」

『――ならば、もう一度、選べ』

 青い炎が、強く燃えた。

『――お前が憎むものを』

 荼毘は、笑った。

 ひどく歪んだ笑みだった。

「……いいぜ」

 彼は、ゆっくりと振り返った。

「地獄の続きを、始めようじゃねえか」

 青い炎が、夜を裂いた。

 そして、十三年目の祈りは。

 静かに、次の段階へと進んでいった。

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