相澤の顔から、表情が消えた。
それは彼が恐怖を感じていないからではない。
恐怖を感じたとき、何をすべきかを知っている人間の顔だった。
「全員、正門東側から距離を取れ。第二観測班は対象に触れるな。呼吸、脈拍、体温、意識反応を確認しろ。ただし、皮膚に黒い亀裂があるなら、素手での接触は禁止だ」
『了解』
「プレゼント・マイク。周囲の人間を避難させろ。声で刺激するな。拡声器も使うな。できるだけ静かに、ゆっくりと誘導しろ」
「了解だ、相澤!」
通信が切れる。
相澤は、すぐさま緑谷へ視線を向けた。
「緑谷。麗日。ここから先は、俺の指示があるまで勝手に動くな」
「でも、先生。黒い亀裂って……」
「分かっている」
相澤の声は低かった。
「だからこそ、勝手に動くなと言っている」
その言葉には、普段の教師としての厳しさだけではないものが含まれていた。
緑谷は気づいた。
相澤は、先ほどの映像を覚えている。
黒い霧が、自分にだけ反応したことを。
あの異常な帰還者が、自分に向かって「返せ」と叫んだことを。
そして、あの男が消える直前に口にした言葉を。
――今度こそ、救ってくれ。
あの言葉は、誰に向けられたものだったのか。
緑谷出久か。
死神か。
それとも、十三年間、死者の側に置き去りにされていた何かか。
「先生。僕は……」
「緑谷」
相澤は遮った。
「お前が何を考えているのかは、あとで聞く。だが、今はまだ何も分かっていない。相手が助けを求めているのか、誰かを襲おうとしているのか、それすら判断できないんだ」
「……はい」
「救助と警戒を両立しろ。どちらかを捨てるな」
かつての自分なら、何を考えただろう。
きっと、真っ先に駆け出していた。
目の前で苦しんでいる人がいる。
助けを求めているかもしれない人がいる。
だったら、自分が行くしかない。
そう考えていた。
けれど、今の緑谷は一歩も動かなかった。
隣にいる麗日を見る。
彼女もまた、緑谷を見ていた。
「出久くん」
「うん」
「一緒に行こう。でも、先生の言うことを聞いてからね」
「……うん。一緒に」
それだけのやり取りだった。
しかし、その短い会話の中に、かつての彼らにはなかったものがあった。
誰かを助けるために、自分ひとりで決断する必要はない。
誰かを守るために、誰かの言葉を無視する必要もない。
その当たり前のことを、緑谷は長い戦いの果てに学んでいた。
通信機が鳴った。
『相澤先生。対象の状況について、追加報告です』
「話せ」
『対象は成人男性。推定年齢は四十代後半。身元照会の結果、十三年前に死亡が確認された人物と一致しました』
相澤の眉がわずかに動いた。
「死亡時の状況は?」
『当時の記録では、敵性個性保持者との戦闘に巻き込まれ、建物の倒壊によって死亡。現場で死亡が確認されています』
「名前は」
『……』
通信の向こうで、わずかな沈黙があった。
報告担当者が、言いづらそうに息を吸う。
『元プロヒーローです』
緑谷が顔を上げた。
『ヒーロー名――』
その瞬間。
校門の向こうから、誰かの悲鳴が聞こえた。
「うそ……」
続いて、別の声。
「そんな、だって……!」
ざわめきが広がる。
歓声と困惑、恐怖と歓喜。
それらが入り混じった人々の声が、ひとつの名前を繰り返した。
「クラスト……?」
誰かが言った。
「クラストだ!」
かつて、仲間たちとともに最前線に立ち、巨悪に立ち向かった男。
仲間を守るために盾となり、最後まで人々を逃がそうとしたヒーロー。
その死は、戦いの終結とともに世界へ伝えられた。
彼が守った命は、数えきれない。
彼の死を悼んだ人々も、数えきれない。
そして、十三年。
人々が少しずつその死を受け入れ、写真や記録の中に彼の姿を見つけるようになっていた、その日に。
彼は帰ってきた。
*
正門東側。
そこには、奇妙なほど静かな空間が生まれていた。
周囲には花束が置かれている。
追悼式典が中止されたにもかかわらず、誰かが持ってきた花だった。
その花束のすぐそばに、一人の男が立っていた。
赤いマスク。
鍛え上げられた身体。
大きな盾。
そして、全身に刻まれた、戦いの記憶を思わせる傷痕。
男は動かなかった。
目は開いている。
呼吸もある。
けれど、そこにいるはずの意識が、どこか遠くへ行ってしまったようだった。
救護班の一人が、慎重に声をかける。
「聞こえますか?」
反応はない。
「あなたの名前を教えてください」
反応はない。
医療機器の数値は、生きている人間のものだった。
体温は正常。
脈拍はやや低いが、危険な数値ではない。
瞳孔反応もある。
だが、首筋から鎖骨にかけて、黒い線が浮かび上がっていた。
それは傷ではなかった。
血管でもない。
まるで、皮膚の下にひび割れたガラスが埋まっているかのような、細い黒線。
それが、ゆっくりと伸びていた。
「対象の身体に変化があります!」
救護班が声を上げる。
「黒い線が……増えている!」
男の右手が、わずかに動いた。
指先が震える。
盾の縁を、ぎゅっと握りしめる。
その動作を見た救護班の隊員が、一瞬だけ息を呑んだ。
それは、戦闘に備える人間の動きだった。
身体が覚えている。
意識がなくても。
記憶が欠けていても。
彼は、盾を持つ意味を忘れていない。
「……まも、れ」
男の口が動いた。
「え?」
隊員が顔を近づけかけた、そのとき。
「下がれ!」
相澤の声が響いた。
隊員が反射的に飛び退く。
男の身体が、弾かれたように動いた。
盾が振り上げられる。
だが、それは誰かを攻撃するための動きではなかった。
盾を構えた男は、正門の向こう側――人々が集まっている方向へ身体を向けた。
その先には、花を持った子供たちがいた。
男の目が、大きく見開かれる。
瞳の奥で、何かが光った。
「……逃げろ」
男が言った。
「逃げろ……!」
黒い線が、首筋から頬へ走る。
「来るな……!」
その声は、誰かを威嚇しているようでありながら、同時に、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「俺の後ろに……来るな……!」
盾が地面に叩きつけられた。
轟音。
アスファルトに亀裂が走る。
集まっていた人々が悲鳴を上げた。
「全員、避難!」
相澤が叫ぶ。
「緑谷、麗日、前に出るな!」
だが、緑谷は男の目を見ていた。
あの目。
あの声。
そこに宿っているのは、明確な敵意ではない。
恐怖だった。
誰かを傷つけることへの恐怖。
自分が何かをしてしまうことへの恐怖。
そして、何かが近づいてくることを知っている者の、切迫した恐怖だった。
「……クラストさん」
緑谷は、思わず名前を呼んだ。
男の視線が動く。
緑谷を見る。
その瞬間、黒い線の広がりが止まった。
まるで、何かが反応したように。
相澤がそれを見逃すはずはなかった。
「緑谷、動くな」
「はい」
「話しかけるだけにしろ。近づくな」
「分かりました」
緑谷は、両手を見える位置に上げた。
「クラストさん。聞こえますか?」
男は答えない。
「僕は緑谷出久です。あなたのことを知っています。あなたが、たくさんの人を助けたことも」
男の眉がわずかに動いた。
「あなたが最後まで盾を構えていたことも、知っています」
その言葉に、男の指が震えた。
「だから……」
緑谷は、言葉を選んだ。
何を言えばいいのか分からない。
死者が帰ってくるという、あり得ない現象。
その中で、目の前の男は明らかに苦しんでいる。
彼を安心させる言葉はあるのか。
元の記憶が戻れば、すべて解決するのか。
そもそも、彼は本当にクラストなのか。
答えはない。
だからこそ、緑谷は確かなことだけを口にした。
「あなたは今、ここにいます。僕たちは、あなたを助けたいと思っています」
男の口が動いた。
「……たすける?」
「はい」
「おまえが……?」
「僕だけじゃありません。ここにいるみんなで、あなたを助けます」
その瞬間。
男の表情が、崩れた。
泣きそうな顔だった。
けれど、涙は出ない。
代わりに、黒い線が頬の上で、ひび割れたように広がっていく。
「だめだ」
男が言った。
「そんなことを……言うな」
「クラストさん?」
「助けるな」
声が低くなる。
「俺を……助けるな!」
男が盾を振り上げた。
だが、振り下ろす直前に、その動きが止まる。
男の腕が震えていた。
身体の内側から、別の何かが彼の動きを押さえつけているようだった。
「違う……!」
男が叫んだ。
「俺は……!」
黒い霧が、盾の隙間から滲み出した。
その霧は、地面を這うように広がり、男の足元を覆う。
そして、男の背後に立ち上がった。
人間の形に似ていた。
しかし、顔がない。
頭部には、ただ黒い穴が開いている。
穴の奥に、星空のような光が瞬いた。
緑谷の背筋に、冷たいものが走った。
あれは、以前に見た黒い霧と同じものだ。
だが、今度は違う。
霧が男を覆っているのではない。
男の影が、霧になって立ち上がっている。
『――返せ』
声が響いた。
男の口からではない。
霧の奥から。
『――返せ』
その声を聞いた瞬間、男の身体が大きく揺れた。
「……返す?」
緑谷は呟いた。
男の声が重なる。
「返せ……」
そして、もう一つの声が重なる。
『返せ』
「俺の……」
『俺の』
「俺の……命を……!」
男が叫んだ。
その叫びに、黒い霧が膨れ上がる。
相澤が前に出た。
「緑谷、下がれ!」
捕縛布が伸びる。
相澤の目が赤く光った。
抹消。
しかし。
黒い霧は消えなかった。
それどころか、相澤の視線を受けた瞬間、霧の表面に無数の目が開いた。
目は、すべて相澤を向いていた。
『――お前は、何を消す?』
声がした。
『力か』
『記憶か』
『それとも、死んだという事実か』
「黙れ」
相澤が吐き捨てる。
「お前が何であろうと、ここで好き勝手させるつもりはない」
『――お前は、知っている』
霧が笑ったように揺れた。
『失ったものは、戻らない』
その言葉が、相澤の心臓を冷たく叩いた。
白雲朧。
かつての友人。
失ったはずの仲間。
そして、失ったことを受け入れきれないまま、別の形で目の前に現れた存在。
相澤は、その記憶を振り払うように目を細めた。
「……それがどうした」
『――戻ったものは、同じものか?』
黒い霧が、ゆっくりと広がる。
『死者は、死者だ』
『生者は、生者だ』
『境界を破ったのは、お前たちではない』
『ならば、お前たちは何を根拠に、彼らを本人だと呼ぶ?』
誰も答えられなかった。
その問いは、あまりにも残酷で。
あまりにも、正しかったからだ。
目の前にいるのは、クラストだ。
彼の身体。
彼の盾。
彼の声。
けれど、その身体を動かしているものが、彼自身ではないとしたら。
その記憶が、別の存在によって作られたものだったとしたら。
彼が愛した人々の記憶を、誰かが借りているだけだったとしたら。
彼を、彼と呼ぶことはできるのか。
そして。
もし、その答えが分からないのなら。
彼を救うことに、意味はあるのか。
「……あるよ」
緑谷が呟いた。
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
相澤か。
霧か。
それとも、目の前で苦しんでいる男か。
「意味があるかどうか、分からないからって……何もしない理由にはならない」
黒い霧が、緑谷を向いた。
『――お前は、また同じことをするのか』
その声が、緑谷の胸に突き刺さった。
『誰かを救うために』
『自分を壊すのか』
暗闇の中で見た、幼い自分の姿が脳裏をよぎる。
何度も傷ついた身体。
誰かを助けるために、自分の限界を無視した過去。
そして、もう一度、同じ問いを突きつけられた。
緑谷は、ゆっくりと息を吸った。
「……違う」
『――何が違う』
「僕は、もう一人で救おうとはしない」
緑谷は、相澤を見た。
麗日を見た。
避難誘導を続けるヒーローたちを見た。
盾を構えたまま、必死に何かと戦っている男を見た。
「だから、あなたも一人で戦わなくていい」
その言葉に。
クラストの瞳が、わずかに揺れた。
*
同じ時刻。
雄英高校の臨時医療区画では、一人の女性が窓の外を眺めていた。
白い病室。
清潔なシーツ。
点滴の管。
そして、窓の向こうに広がる、見慣れたようでいて、どこか知らない街並み。
女性は、自分の手を見下ろした。
細い指。
手の甲に残る、小さな傷。
それは、十三年前に負ったものと同じ場所にあった。
「……本当に、戻ってきたのね」
呟いた声は、かすれていた。
彼女の名は、香山睡。
かつてのプロヒーロー、ミッドナイト。
彼女は、死んだはずだった。
最終決戦へ至る戦いの中で、教え子たちを守るために戦い、命を落とした。
その死は、多くの生徒たちの心に深い傷を残した。
彼女を知る者たちは、彼女の死を悼んだ。
彼女を知らない世代も、記録の中で彼女の名を知った。
そして十三年が経った。
世界は少しずつ変わり、彼女の死もまた、歴史の一部になっていた。
そのはずだった。
「先生……」
病室の扉が開いた。
入ってきたのは、雄英の医療スタッフだった。
「お加減はいかがですか?」
「悪くないわ。むしろ、驚くくらいにね」
ミッドナイトは笑った。
その笑顔は、かつて教壇に立っていた頃と変わらない。
「身体の状態は?」
「検査上は問題ありません。ただ……」
「ただ?」
「記憶の一部に、欠落が見られます。ご自身の死亡前後については、まだはっきりと思い出せないと」
「そうね」
ミッドナイトは、窓の外へ視線を戻した。
「最後の記憶は、あまり楽しいものじゃないから」
軽い口調だった。
けれど、その指先はシーツを握りしめていた。
死ぬ瞬間の記憶。
あのとき、何を考えていたのか。
誰の顔を思い浮かべたのか。
自分は、本当に何かを守れたのか。
思い出そうとすると、頭の奥に薄い膜がかかったようになる。
その膜の向こうから、何かがこちらを見ている気がした。
「……ねえ」
「はい?」
「私が死んだあと、この世界はどうなったの?」
医療スタッフは、少しだけ困ったような顔をした。
「戦いは終結しました。ヒーローたちは、復興に尽力しました。個性社会も変化しつつあります」
「そう」
「そして……」
スタッフは、言葉を選んだ。
「あなたを知る人たちは、あなたのことを忘れていません」
ミッドナイトは目を閉じた。
その言葉は、嬉しかった。
嬉しいはずだった。
けれど、胸の奥に、言いようのない痛みが広がった。
自分がいなくなった世界。
自分が知らない十三年間。
自分が知っているはずの生徒たちが、大人になっている世界。
その中で、自分だけが取り残されている。
「……会いたいわね」
小さく呟いた。
「みんなに」
その瞬間。
病室の照明が、わずかに明滅した。
ミッドナイトの指が止まる。
窓ガラスに、黒い線が走った。
一本。
二本。
三本。
ひび割れたガラスのような線が、窓の内側に浮かび上がる。
医療スタッフが振り返った。
「え……?」
黒い線は、ガラスの表面を走っているのではなかった。
空間そのものに刻まれているようだった。
ミッドナイトの喉が、ひゅっと鳴った。
頭の奥で、声がした。
『――愛されたいか』
彼女は、動けなかった。
『――覚えていてほしいか』
その声は、甘くも、優しくもなかった。
ただ、問いかけていた。
『――死んだあとも』
『――お前が、お前であると』
ミッドナイトの指先が震えた。
「……誰?」
『――お前は、何を望む』
その瞬間、病室の時計が止まった。
秒針が、十二の位置で固まる。
医療スタッフの身体もまた、動きを止めていた。
彼女だけが、声を聞いている。
いや。
彼女の中にいる、何かだけが。
声を聞いていた。
『――愛されることか』
『――必要とされることか』
『――それとも』
黒い線が、ミッドナイトの手首へ伸びた。
『――もう一度、世界に触れることか』
「……私は」
彼女は、答えようとした。
その瞬間、脳裏にいくつもの光景が浮かび上がった。
教室。
生徒たちの笑い声。
戦場。
崩れ落ちる瓦礫。
誰かの叫び。
そして、自分の死。
ミッドナイトは、息を吸った。
「……私は、まだ」
声が震える。
「まだ、あの子たちに……」
黒い線が、手首から肘へと伸びた。
『――ならば、与えよう』
声が囁いた。
『――お前が望むものを』
ミッドナイトの瞳が、大きく見開かれた。
「違う……!」
彼女は、初めて叫んだ。
「私は、そんなものを頼んでいない!」
その叫びと同時に、時計が動き出した。
照明が戻る。
窓ガラスの黒い線が消えた。
医療スタッフが、慌てて彼女に駆け寄る。
「先生! どうしました? 大丈夫ですか?」
「……ええ」
ミッドナイトは答えた。
けれど、その視線は自分の手首に向けられていた。
そこには、何もない。
傷も。
痣も。
黒い線も。
ただ、彼女の指先だけが、震えていた。
「……大丈夫よ」
もう一度、彼女は言った。
誰かを安心させるために。
あるいは、自分自身を納得させるために。
「大丈夫……」
けれど。
彼女の瞳の奥には、まだ声が残っていた。
*
正門東側。
黒い霧が、クラストの身体を覆っていた。
盾を持つ男は、膝をついている。
身体のあちこちに、黒い亀裂が広がっていた。
その亀裂は、彼の動きを奪おうとしている。
それでも、彼は盾を離さなかった。
「……にげろ」
男が、かすれた声で言った。
「逃げろ……」
緑谷は、彼を見つめていた。
「クラストさん。あなたは、何から逃げろと言っているんですか?」
「……くる」
「何が?」
「……あれが」
男の目が、霧の向こうへ向けられる。
その先には、誰もいない。
ただ、空が広がっていた。
東京の空。
人々が見上げる、いつもと変わらない空。
しかし、クラストには何かが見えているらしかった。
「……空の向こうから」
男の声が震える。
「来るんだ」
緑谷は、息を呑んだ。
「何が来るんですか?」
クラストは答えない。
答えられないのかもしれない。
彼の記憶は、断片的にしか戻っていない。
自分が死んだこと。
誰かを守ろうとしたこと。
そして、目の前にいるものが、自分の中に入り込んでいること。
それらは理解できても、その正体までは分からない。
それでも、ひとつだけ。
彼は知っていた。
これが、自分ひとりの問題ではないということを。
「……あれは」
男が、ようやく口を開いた。
「死神じゃない」
相澤の目が細くなる。
「何?」
「死神じゃ……ないんだ」
クラストは、必死に首を振った。
「もっと……遠い」
黒い霧が、男の肩から噴き出した。
「もっと……大きい」
盾が、地面を削る。
「俺たちの……生き死になんて……」
男は、そこで言葉を切った。
そして。
まるで、誰かに口を塞がれたかのように、声が途絶えた。
次の瞬間、彼の口から別の声が出た。
『――知る必要はない』
黒い霧が、男の顔を覆う。
『――人間が知るべきことは、ひとつだけだ』
霧が膨張する。
『――死者は、返ってきた』
黒い亀裂が、盾にまで広がった。
『――ならば、何を代償にする?』
その問いが、正門に集まった人々の耳に届いた。
誰もが、言葉を失った。
死者が帰ってきた。
それは奇跡だった。
失った人々を、もう一度抱きしめられる。
伝えられなかった言葉を、もう一度伝えられる。
叶わなかった約束を、もう一度やり直せる。
人々は、その可能性に希望を見出していた。
だが。
もし、代償があるのなら。
その代償は、誰が払うのか。
帰ってきた死者か。
残された生者か。
それとも、世界そのものか。
「……そんなの」
緑谷は、拳を握りしめた。
「そんなの、まだ決まってない」
『――決まっている』
「決まってない!」
緑谷の声が響いた。
「あなたが何者なのかも、何をしようとしているのかも、僕たちはまだ知らない。だったら、勝手に決めつけるな!」
黒い霧が、静かに揺れた。
『――お前は、希望を信じるのか』
「信じるよ」
緑谷は即答した。
けれど、すぐに言葉を続けた。
「でも、希望を信じることと、何も疑わないことは違う」
霧の奥で、何かが動いた。
「僕たちは、あなたを信じるとは言わない。まだ何も分からないから。でも……」
緑谷は、盾を握る男を見た。
「この人を、見捨てるとも言わない」
その言葉に、クラストの指がわずかに動いた。
霧が、男の身体から離れようとする。
いや、違う。
男が、霧を押し返している。
身体の奥に残された意志だけで。
「……俺は」
男が言った。
「俺は……」
黒い亀裂が、首筋を覆い尽くす。
「俺は……ヒーローだ」
その言葉は、ひどく小さかった。
けれど。
盾を持つ手に、力が戻った。
「……だから」
男が、顔を上げる。
「守るんだ」
黒い霧が、悲鳴のような音を立てた。
次の瞬間、クラストは盾を地面に突き立てた。
轟音。
盾の表面に刻まれていた傷痕が、淡い光を放つ。
それは個性の発動ではなかった。
少なくとも、現在の医療機器では、そう判定された。
身体の内側に、何らかのエネルギー反応が発生している。
だが、それは彼が生前に持っていた個性とは一致しない。
クラストの個性は、すでに失われているはずだった。
死者が、かつての個性を持って戻る例は報告されている。
しかし、彼の身体に起きている現象は、それとは違う。
盾が光っているのではない。
盾の周囲に、見えない壁が生まれていた。
黒い霧が、その壁に触れる。
弾かれた。
霧が、後退する。
クラストは、膝をついたまま、盾を構え続けた。
「……俺の後ろに」
声が戻ってくる。
「誰も……通さない」
その言葉を聞いた瞬間。
緑谷の胸に、熱いものが込み上げた。
彼は知っている。
誰かを守るために立ち上がる人間の姿を。
恐怖を感じながら。
自分が傷つくことを知りながら。
それでも、一歩前に出る人間の姿を。
その姿は、何度でも世界を救ってきた。
そして、今も。
死者として帰ってきた男が、再び盾を構えている。
その光景に、正門に集まった人々の一人が泣き出した。
「……クラストさん」
老婦人が、口元を押さえた。
「本当に……クラストさんなの……?」
その隣にいた青年が、彼女の肩を支えた。
「危険です。下がりましょう」
「でも……」
老婦人は、男から目を離せなかった。
「でも、あの人……」
彼女の目に映っているのは、十三年前の映像だった。
瓦礫の中で、盾を構えるヒーロー。
逃げ遅れた人々を守るために、自分の身体を壁にした男。
そして、最後まで逃げるように叫んでいた声。
老婦人は、震える唇を動かした。
「……ありがとう」
その声は、男には届かなかったかもしれない。
それでも彼女は、言った。
「あなたが守ってくれたから、私は生きているの」
クラストの瞳が、わずかに動いた。
その瞬間。
黒い霧の中から、無数の手が伸びた。
盾の壁に、指が食い込む。
壁が軋む。
亀裂が走る。
クラストの身体が、再び押し潰されそうになる。
「クラストさん!」
緑谷が叫んだ。
だが、相澤が彼の腕を掴んだ。
「待て!」
「でも!」
「今、あいつは自分で戦っている!」
相澤の声は、鋭かった。
「お前が飛び込めば、あいつが何を守ろうとしているのかを壊すかもしれない!」
緑谷は、歯を食いしばった。
助けたい。
今すぐにでも、あの男のもとへ走りたい。
けれど。
相澤の言葉は、正しかった。
彼が盾を構えている理由。
彼が守ろうとしているもの。
それを、緑谷はまだ理解できていない。
ならば、今できることは何か。
ただ見ていることか。
違う。
「麗日さん!」
「うん!」
彼女はすでに動いていた。
正門周辺の瓦礫を浮かせ、避難経路を確保する。
「飯田くん、避難誘導をお願い! 人の流れを分けて、転倒しないように!」
「了解した!」
飯田が駆け出す。
「八百万さん、医療班の補助を! 防護材と遮蔽物を準備して!」
「分かりましたわ!」
緑谷は、クラストの盾を見た。
彼が守っているのは、正門に集まった人々だ。
ならば、彼が守る必要のない状況を作ればいい。
誰かひとりが、すべてを守る必要はない。
それこそが、彼らが戦いの中で学んできたことだった。
「爆豪くん!」
「言われなくても分かってる!」
爆豪勝己が、緑谷の隣に立った。
かつてのように、全身から爆発的な力を放つことはできない。
それでも、彼の目は鋭かった。
「お前は正面から突っ込むな。周囲の避難を優先しろ。俺はあの霧が広がらないように、遮蔽物を作る」
「勝手に指示すんな、デク」
「……え?」
「だが、方向性は同じだ」
爆豪は、にやりとも笑わなかった。
ただ、真剣な顔で霧を見つめていた。
「一人で抱え込むなって、さっき先生に言われたばかりだろ」
「……うん」
「なら、使えよ。俺たちを」
緑谷は、短く息を吐いた。
「ありがとう、かっちゃん」
「礼はあとだ!」
爆豪が地面を蹴った。
爆発の音が、正門に響く。
その爆風は、霧を直接吹き飛ばすほどではなかった。
だが、地面に散らばっていた瓦礫を押し流し、人々が避難するための空間を作り出した。
同時に、八百万が展開した防護材が、正門周辺を囲む。
麗日が瓦礫を浮かせ、飯田が人々を誘導する。
ヒーローたちは、ひとりの男が守るはずだった場所を、少しずつ分担していった。
クラストの盾が、わずかに揺れた。
彼の背後から、人々がいなくなっていく。
守るべき人々が、安全な場所へ移っていく。
そのことを理解したのか。
男の顔から、ほんの少しだけ、苦痛が消えた。
「……そうか」
彼は呟いた。
「もう……俺だけじゃなくて、いいんだな」
黒い霧が、激しく震えた。
『――違う』
声が響く。
『――お前は、守るために存在する』
『――お前は、盾だ』
『――盾は、傷つくものだ』
『――盾は、壊れるものだ』
クラストの身体が、再び震えた。
『――ならば、壊れろ』
黒い線が、盾の表面を覆い尽くす。
『――お前の役目は、それだけだ』
男の瞳から、光が消えかけた。
その瞬間。
「違います!」
麗日の声が響いた。
彼女は、避難誘導を終えた場所から、男を見ていた。
「盾だって、守られていいんです!」
クラストの目が、彼女を向いた。
「誰かを守る人が、誰にも守られなくていいなんて……そんなこと、ないです!」
彼女の声は震えていた。
恐怖がないわけではない。
あの霧が何なのか、分からない。
自分たちに何ができるのかも分からない。
それでも。
「あなたが誰かを守ってくれたなら、今度は私たちがあなたを守ります!」
その言葉に、緑谷が続いた。
「一緒に戦いましょう、クラストさん!」
黒い霧が、音もなく膨張した。
次の瞬間。
空が、暗くなった。
*
それは、日食ではなかった。
雲が太陽を覆ったわけでもない。
正門の上空。
そこに、黒い円が浮かんでいた。
直径は、数メートルほど。
しかし、見上げた者たちは、誰もその大きさを正確に把握できなかった。
なぜなら、その円の向こう側に、空が見えなかったからだ。
夜空でもない。
宇宙でもない。
星も、銀河も、何も存在しない。
ただ、何かが欠けている。
世界の一部が、そこだけ切り取られたように。
その黒い円を見上げた人々は、理由もなく涙を流した。
懐かしい。
怖い。
帰りたい。
そんな感情が、同時に押し寄せる。
誰もが、そこに何かを見たような気がした。
失った人。
忘れたはずの記憶。
叶わなかった願い。
けれど、目を凝らすほどに、その姿は遠ざかっていく。
黒い円の中心から、声が響いた。
『――十三年』
その声は、男でも女でもなかった。
子供のようでもあり、老人のようでもある。
近くから聞こえるのに、どこまでも遠い。
『――人間は、まだ死を理解していない』
相澤が、空を見上げた。
「全員、退避!」
その声に、誰もが動き出した。
だが、緑谷だけは、黒い円から目を離せなかった。
見覚えがある。
あの暗闇。
あの、何もない場所。
自分の幼い姿と向き合った、あの場所に似ていた。
だが、あのときは、何も見えなかった。
今は違う。
黒い円の奥に、何かがいる。
何かが、こちらを見ている。
『――死者を返せば、人間は喜ぶ』
『――失ったものを返せば、人間は祈る』
『――祈りが叶えば、人間は信じる』
声が続く。
『――ならば、問おう』
『――お前たちは、何を信じている?』
緑谷の心臓が、強く打った。
その問いは、彼だけに向けられたものではなかった。
この場にいるすべての人間に。
死者の帰還を喜んだ人々に。
大切な人を失った人々に。
そして、失われた命を取り戻したいと願った、すべての人間に。
『――その者が、かつて愛した人間と同じ姿をしているなら』
『――その者が、かつて交わした約束を覚えているなら』
『――その者が、かつての声で、お前の名を呼ぶなら』
『――お前は、それを本人と呼ぶのか?』
誰も答えられなかった。
『――ならば』
黒い円が、ゆっくりと回転した。
『――その者が、かつてのお前を愛していなかったとしても』
『――その者が、お前の知らない記憶を持っていたとしても』
『――その者が、別の何かに侵されていたとしても』
『――お前は、その者を愛せるのか?』
その問いに、緑谷は息を呑んだ。
答えは、簡単ではなかった。
もし、帰ってきた人が自分の家族だったら。
もし、その人が自分の名前を呼んだら。
もし、その人が笑いかけてくれたら。
それでも、疑うことができるのか。
本人ではないかもしれないと。
自分が抱きしめているのは、別の何かかもしれないと。
そんな疑いを抱きながら、その人の手を握ることができるのか。
緑谷には、分からなかった。
分からないからこそ。
彼は、目を逸らさなかった。
「……僕は」
声が震えた。
それでも、言葉を続ける。
「僕は、まだ答えを持っていません」
黒い円が、静かに揺れた。
「でも、答えが分からないからって……目の前にいる人を、最初から偽物だと決めつけることもできません」
緑谷は、クラストを見た。
盾を構え、黒い霧と戦い続ける男を。
「本当に本人なのか。記憶は正しいのか。魂は同じなのか。僕たちは、これから調べなきゃいけない」
拳を握る。
「だけど、その人が今、苦しんでいるなら」
彼は顔を上げた。
「その苦しみを、見なかったことにはできない!」
黒い円が、止まった。
そして。
声が、初めて緑谷の名を呼んだ。
『――緑谷出久』
全身の血が、凍りついた。
『――お前は、まだ救うのか』
その声には、怒りがなかった。
嘲笑もなかった。
ただ、純粋な疑問だけがあった。
『――救えなかったものを』
『――失ったものを』
『――二度と戻らないものを』
『――それでも、救うのか』
緑谷は、答えようとした。
しかし、声が出なかった。
その問いは、彼自身が何度も自分に投げかけてきたものだったからだ。
すべてを救うことはできない。
誰かの願いを、すべて叶えることもできない。
失われた命を、取り戻すこともできない。
それでも、自分はヒーローであり続けられるのか。
答えを探しているのは、彼自身だった。
そのとき。
「出久くん」
麗日が、隣で言った。
緑谷は、彼女を見た。
「一人で答えなくていいよ」
彼女は、まっすぐに黒い円を見上げていた。
「私たちも、考えるから」
その言葉に、飯田が続いた。
「その通りだ。これは緑谷くん一人の問題ではない!」
「当たり前だろ」
爆豪が、舌打ちする。
「勝手に世界の代表みたいな顔してんじゃねえ」
「かっちゃん……」
「俺たちも当事者だ。勝手に答えを決められてたまるか」
相澤は、三人を見た。
そして、ほんのわずかに目を細めた。
黒い円は、しばらく沈黙していた。
やがて。
『――そうか』
声が響いた。
『――人間は、まだ答えを選ぶ』
『――ならば、見せてもらおう』
黒い円が、ゆっくりと閉じていく。
『――お前たちが、何を選ぶのか』
その言葉を最後に、空は元に戻った。
太陽の光が差し込む。
鳥の声が聞こえる。
人々のざわめきが戻ってくる。
けれど、誰もが分かっていた。
今の出来事は、幻ではない。
確かに何かが、こちらを見ていた。
そして、その何かは、死者を返すことだけを目的にしているわけではない。
人間に、問いを投げかけている。
その答えを知るために。
あるいは、その答えによって何かを決めるために。
*
南極大陸。
人類が近づくことのできない、氷の大地の中心。
巨大な氷の下に、広大な空間が存在していた。
そこは、地球の内部ではない。
少なくとも、人類が理解している地質学の範囲には収まらない。
氷の壁には、文字とも模様ともつかないものが刻まれている。
それらは、どの言語にも似ていなかった。
しかし、もし誰かがその模様を理解できたなら。
そこに刻まれているのは、数えきれない文明の記録だった。
誕生。
進化。
繁栄。
崩壊。
そして、滅亡。
数えきれない生命が、数えきれない時代を生き、やがて消えていった。
そのすべてを、誰かが見ていた。
暗闇の中に、一人の少女が立っていた。
黒い髪。
白い肌。
死を思わせるほどに静かな瞳。
彼女は、氷の壁に触れていた。
「……また、見ていたのね」
彼女の声が、空間に響く。
返事はない。
しかし、壁に刻まれた模様の一部が、淡く光った。
少女は、小さく息を吐いた。
「あなたは、本当に人間が好きなのかしら」
その問いに、答えはなかった。
彼女は、知っている。
ここにいるものが、単純な善悪では測れない存在であることを。
人類に個性を与えたもの。
人類の進化を促したもの。
人類が自分たちの力で未来を切り開くことを、どこかで期待しているもの。
だが同時に。
人類の命を、個々の悲しみを、ひとつひとつの祈りを、人間と同じ尺度で見ているとは限らないもの。
少女は、壁から手を離した。
「死者が戻れば、人間は喜ぶ」
彼女は呟いた。
「でも、戻ってきた人が本当に本人なのか。それを確かめる方法は、まだない」
氷の奥で、何かが脈打った。
「それでも、人間は彼らを抱きしめるでしょうね」
少女は、わずかに笑った。
「愚かで、優しい」
彼女の足元に、黒い霧が流れてくる。
霧の中には、無数の光が浮かんでいた。
帰還者たちの光。
死者の魂なのか。
記憶の残滓なのか。
あるいは、まったく別の何かなのか。
彼女にも、まだ分からない。
ただ、その中には、確かに異なるものが混じっていた。
自分の意志で戻ってきたもの。
戻されたもの。
何かに呼ばれたもの。
そして。
何かに、侵されているもの。
「……八つの欲望」
少女は、その名を口にした。
「あなたは、あれを何だと思っているの?」
氷の壁が、再び光る。
少女の瞳に、遠い記憶が浮かんだ。
かつて、世界を支配しようとした男。
すべてを奪い、すべてを手に入れようとした男。
彼がいなくなった世界に、空白が生まれた。
その空白を、誰かが埋めようとしている。
死神は、それを必要としていた。
人類を試すためか。
世界を維持するためか。
それとも、もっと別の理由があるのか。
少女は、まだ知らない。
ただひとつ、分かることがあった。
死神は、すべてを理解しているわけではない。
死神自身もまた、何かを知ろうとしている。
「……あなたも、迷っているのね」
少女は、氷の壁に背を向けた。
「なら、見届ければいい」
彼女の背後で、無数の光が揺れた。
「人間が、何を選ぶのか」
そして、彼女は小さく付け加えた。
「……私も、見たいから」
*
その日の午後。
雄英高校の臨時医療区画では、帰還者の状態確認が続いていた。
クラストは、鎮静措置を受けたあと、特別隔離室へ移送された。
身体の黒い亀裂は消えていない。
しかし、拡大も止まっていた。
盾は別室に保管されている。
あの不可視の防御壁は、現在のところ再現できていない。
クラスト本人の意識は、断続的に回復している。
そして、彼が目を覚ましたとき。
最初に尋ねたのは、自分のことではなかった。
「……みんなは?」
ベッドのそばにいた医療スタッフが、顔を上げた。
「みんな、とは?」
「俺が……守ろうとした人たちは」
スタッフは、少しだけ目を伏せた。
「全員、無事です」
その言葉に、クラストは目を閉じた。
長い息を吐く。
それは、安心した人間の呼吸だった。
「……よかった」
その一言を聞いて、スタッフは思わず彼を見つめた。
記憶は、まだ完全には戻っていない。
十三年間の空白もある。
自分がなぜここにいるのかさえ、理解しきれていない。
それでも、彼は人々の無事を確かめた。
それが、彼の最初の行動だった。
スタッフは、通信機を手に取った。
「相澤先生。クラスト氏が意識を回復しました。会話が可能です」
『分かった。すぐに行く』
通信が切れる。
クラストは、天井を見上げた。
「……俺は、死んだんだよな」
誰に向けたわけでもない呟き。
けれど、スタッフは答えた。
「記録上は、そうなっています」
「そうか……」
クラストは、自分の手を見下ろした。
傷だらけの手。
何度も盾を握り、誰かを守ろうとしてきた手。
しかし、その手には、見覚えのない黒い線が走っていた。
「……これは?」
「まだ、原因は分かっていません」
「そうか」
クラストは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと尋ねた。
「……俺は、本当に俺なのか?」
スタッフは、答えられなかった。
その問いに、医療検査の結果を示すことはできる。
身体の特徴。
遺伝情報。
記憶の断片。
過去の記録との一致。
しかし、それらはすべて、彼がかつてのクラストと同じであることを示す材料にすぎない。
彼自身が、彼自身であると証明するものではない。
クラストは、苦笑した。
「……すまない。困らせたな」
「いえ……」
「分からなくて当然だ」
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
「俺にも、分からないんだから」
その声は、静かだった。
「ただ……」
彼の指が、シーツを握る。
「守りたいと思ったんだ」
それだけは、確かだった。
自分が何者なのか分からなくても。
なぜ戻ってきたのか分からなくても。
誰かを守りたいという気持ちだけは、確かに自分の中にあった。
「……それまで、偽物だと言われたら」
クラストは、天井を見つめた。
「俺は、何を証明すればいいんだろうな」
誰も答えなかった。
窓の外では、午後の光が静かに揺れていた。
*
夕方。
緑谷は、医療区画の廊下に立っていた。
クラストとの面会は、まだ許可されていない。
彼の状態が安定するまで、接触を制限する必要がある。
相澤からは、今日は帰るように言われていた。
だが、緑谷は帰れなかった。
廊下の向こうに、見覚えのある姿があったからだ。
白い衣服。
長い髪。
落ち着いた足取り。
彼女は、医療区画の窓から外を眺めていた。
「……ミッドナイト先生?」
緑谷が声をかけると、女性は振り返った。
その顔を見た瞬間、緑谷は言葉を失った。
記憶の中の彼女と、同じ顔だった。
十三年前に亡くなったはずの人。
もう二度と会えないと思っていた人。
その人が、そこに立っていた。
「まあ」
ミッドナイトは、微笑んだ。
「緑谷くん。ずいぶん大人になったわね」
緑谷の喉が、詰まった。
言いたいことは、たくさんあった。
どうして。
なぜ。
本当に先生なのか。
十三年間、どこにいたのか。
死ぬとき、何を考えていたのか。
何より。
会いたかった。
その言葉が、胸の奥に浮かんだ。
けれど、口から出てきたのは、別の言葉だった。
「……おかえりなさい」
ミッドナイトは、目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ、困ったように笑った。
「ただいま」
緑谷は、俯いた。
目頭が熱くなった。
泣くつもりはなかった。
けれど、無理だった。
彼女が生きている。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
ミッドナイトは、そっと彼の頭に手を置いた。
「……大きくなったわね」
「……はい」
「もう、昔みたいに無茶はしていない?」
緑谷は、少しだけ笑った。
「……努力はしています」
「あら。怪しい返事」
その声は、昔と同じだった。
その仕草も。
その笑顔も。
緑谷は、彼女を見つめた。
そして、ふと気づいた。
彼女の手が、ほんのわずかに震えている。
笑顔の奥に、隠しきれない不安がある。
彼女もまた、怖いのだ。
自分が本当に帰ってきたのか。
この世界に、自分の居場所があるのか。
自分が知っている人々は、自分を覚えているのか。
そして。
自分は、本当に自分なのか。
緑谷は、何かを言おうとした。
そのとき。
「緑谷くん」
ミッドナイトが、先に口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「私……本当に、帰ってきてよかったのかしら」
緑谷は、息を止めた。
彼女は、笑っていた。
けれど、その目は笑っていなかった。
「私が死んでから、十三年も経ったのでしょう?」
「……はい」
「その間に、世界は変わった。あなたたちは大人になった。もう、私がいなくても生きていける」
彼女は、窓の外へ目を向けた。
「それなのに、私だけが戻ってきた」
その言葉には、寂しさがあった。
そして、罪悪感があった。
「私が戻ってきたことで、誰かが困るのなら」
ミッドナイトは、小さく息を吐いた。
「私は、どうすればいいのかしら」
緑谷は、すぐには答えられなかった。
彼女の不安を、簡単に否定することはできない。
死者が帰ってきたことで、世界は混乱している。
彼らが本人なのかどうかも、分からない。
帰還者の中には、他者を傷つける者もいる。
黒い霧に侵される者もいる。
だから、彼女が不安を感じるのは当然だった。
それでも。
緑谷は、彼女の目を見た。
「……先生」
「なあに?」
「僕は、まだ何も分かっていません」
ミッドナイトは、黙って聞いていた。
「先生が本当に、僕の知っている先生なのか。なぜ戻ってきたのか。これから何が起こるのか。全部、分かっていません」
緑谷は、正直に言った。
「でも、先生が帰ってきたことを、迷惑だとは思いません」
ミッドナイトの瞳が揺れた。
「……本当に?」
「はい」
緑谷は、微笑んだ。
「僕は、先生に会えて嬉しいです」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
何の証明にもならない。
魂が同じかどうかも。
記憶が正しいかどうかも。
彼女の中に、何かが潜んでいないかどうかも。
何ひとつ、証明できない。
それでも。
今、目の前にいる彼女に、会えて嬉しい。
それは、緑谷にとって確かな気持ちだった。
ミッドナイトは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、彼女は笑った。
今度の笑顔は、少しだけ自然だった。
「……ありがとう、緑谷くん」
その瞬間。
彼女の手首に、黒い線が浮かんだ。
一本。
細く、短い線。
緑谷は、気づかなかった。
ミッドナイトも、気づかなかった。
黒い線は、彼女の皮膚の下で、ゆっくりと脈打っていた。
まるで、彼女の言葉を聞いているかのように。
まるで、その感情を確かめているかのように。
そして、誰にも見えない場所で。
黒い線は、もう一本増えた。
*
夜。
雄英高校の一室で、相澤は報告書を読み返していた。
帰還者の数。
死亡記録との照合結果。
記憶の欠落率。
個性の再現状況。
黒い霧の発生例。
どれも、まともな結論を導き出せるほどの情報はない。
しかし、ひとつだけ、共通する傾向が見え始めていた。
帰還者たちは、単に生き返っているのではない。
何かを取り戻そうとしている。
記憶。
感情。
生前の行動。
自分が誰だったのかという感覚。
そして、それらが強くなるほど、身体の異常が増す事例がある。
反対に、誰かと関わることで状態が安定する者もいる。
その違いは、何なのか。
相澤は、報告書の一枚を手に取った。
そこには、クラストの映像解析結果が記されていた。
彼が黒い霧に侵された際、周囲の人間が避難を始めたあと、霧の拡大速度が一時的に低下した。
緑谷と麗日が声をかけた際には、さらに変化があった。
その変化は、単純な個性反応では説明できない。
「……感情に反応しているのか」
相澤は呟いた。
そこへ、ドアを叩く音がした。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは、オールマイトだった。
「遅くまでお疲れさまです、相澤くん」
「そちらこそ。まだ仕事を?」
「ええ。今日の出来事を、私なりに整理していました」
オールマイトは、椅子に腰を下ろした。
かつて世界の象徴と呼ばれた男。
彼もまた、死者の帰還を喜ぶ人々の姿を見ていた。
同時に、その裏側に潜む危険も理解していた。
「……クラストくんの件は聞きました」
「ええ」
「彼は、自分が本当に本人なのかと尋ねたそうですね」
「……聞いていたんですか」
「医療スタッフから報告がありました」
オールマイトは、しばらく黙っていた。
「私も、考えています」
「何をです?」
「もし、私が死んだあとに戻ってきたとしたら」
相澤は、顔を上げた。
「……私は、私なのでしょうか」
静かな問いだった。
オールマイトは、自分の手を見下ろした。
「この身体が同じなら。記憶が同じなら。人々が私をオールマイトだと認めるなら。それで十分なのか」
「……」
「それとも、何か別のものが必要なのか」
相澤は、すぐには答えなかった。
答えを持っていなかったからだ。
「……分かりません」
やがて、彼は言った。
「ただ、ひとつだけ」
「何でしょう?」
「俺は、本人かどうかを判断するために、そいつが何をしたかを見ます」
オールマイトは、相澤を見た。
「記憶があるかどうかだけではなく。身体が同じかどうかだけでもなく。今、何を選ぶのかを」
相澤は、報告書を机に置いた。
「もちろん、それだけで魂の証明にはならないでしょう。でも、少なくとも、俺たちが人間を理解するためにできることは、それくらいしかない」
オールマイトは、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
「それに」
相澤は、目を細めた。
「本人かどうか分からないからって、苦しんでいる人間を放置する理由にはならない」
その言葉に、オールマイトは目を閉じた。
かつての自分なら、どうしただろう。
すべてを引き受けようとしたかもしれない。
自分が判断し、自分が責任を負い、自分が正解を示そうとしたかもしれない。
しかし、今は違う。
彼らには、次の世代がいる。
答えを受け継ぐのではなく、答えを選び直す世代が。
「……緑谷くんは、今日、何と言っていましたか?」
オールマイトが尋ねた。
相澤は、少しだけ笑った。
「分からないことは、分からないままにしておく。でも、目の前の人間を見捨てない。そう言っていました」
「……そうですか」
オールマイトは、嬉しそうに微笑んだ。
「彼らしい」
「ええ」
相澤は、窓の外を見た。
夜の校庭には、まだ人影があった。
帰還者たちの身元確認を行う職員。
避難誘導を手伝うヒーロー。
大切な人との再会を待つ人々。
奇跡を喜ぶ声。
奇跡を恐れる声。
そして、まだ誰にも知られていない、黒い霧の存在。
世界は、変わり始めていた。
いや。
変わったことを、ようやく人々が理解し始めたのかもしれない。
「……明日が、追悼式典の日でしたね」
オールマイトが言った。
「ええ」
「式典は中止になりましたが……」
「それでも、来る人間はいるでしょう」
相澤は、静かに答えた。
「亡くなった人間を悼むために。帰ってきた人間に会うために。そして、自分たちが何を失ったのか、確かめるために」
オールマイトは頷いた。
「ならば、私たちもできることをしましょう」
「……そうですね」
相澤は、報告書を閉じた。
その表紙には、大きくこう記されていた。
――帰還者異常事例・暫定報告書。
彼は、その下に新しい一文を書き加えた。
「帰還者の真偽を判定することと、帰還者の生命を保護することは、別の問題として扱う」
ペンを置く。
それが正解かどうかは、分からない。
しかし、今の彼らには、その区別が必要だった。
*
同じ夜。
東京の郊外にある、小さな家。
そこでは、一組の家族が食卓を囲んでいた。
父親。
母親。
そして、十歳ほどの少女。
少女の向かい側には、見知らぬ女性が座っていた。
女性は、少女の顔を何度も見つめていた。
涙をこらえながら。
「……大きくなったね」
女性が言った。
少女は、戸惑ったように母親を見た。
「ママ……」
母親は、少女の肩に手を置いた。
「大丈夫よ」
それから、向かい側の女性を見た。
「この人は、あなたのおばあちゃんよ」
少女は、目を見開いた。
祖母。
写真の中でしか知らなかった人。
少女が生まれる前に亡くなった人。
母親が、何度も話してくれた人。
お菓子を作るのが上手で、いつも歌を歌っていたという人。
その人が、目の前に座っている。
「……本当に?」
少女が尋ねた。
祖母は、笑った。
「ええ」
彼女は、少女の手に触れようとした。
けれど、少女は一瞬だけ身を引いた。
祖母の指が止まる。
少女は、自分でもなぜそうしたのか分からなかった。
怖かったわけではない。
嫌いなわけでもない。
ただ、どうすればいいのか分からなかった。
祖母は、無理に手を伸ばさなかった。
「……ごめんね」
彼女は言った。
「急に会いに来られても、困るよね」
少女は、首を振った。
「……ううん」
「無理しなくていいのよ」
祖母は微笑んだ。
「おばあちゃんのこと、知らないんだものね」
その言葉に、母親が唇を噛んだ。
少女は、しばらく祖母を見つめていた。
そして、恐る恐る尋ねた。
「……おばあちゃんは、ママのこと、覚えてる?」
祖母の目から、涙がこぼれた。
「もちろん」
「私のことも?」
「……ええ」
祖母は、笑った。
「あなたが生まれたことは、知らなかったけれど」
その言葉に、少女は少しだけ驚いた。
「知らなかったの?」
「うん」
祖母は、正直に答えた。
「おばあちゃんが死んだあとに、あなたが生まれたんでしょう?」
少女は頷いた。
「だから、おばあちゃんは、あなたのことを知らないの」
祖母は、少女の手元に視線を落とした。
「でも、これから知っていきたいわ」
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばした。
祖母の指先に触れる。
温かかった。
生きている人間の温度だった。
少女の目に、涙が浮かんだ。
「……私も」
小さな声だった。
「おばあちゃんのこと、知りたい」
祖母は、少女の手を握った。
その瞬間。
食卓の下で、黒い影が揺れた。
誰も気づかなかった。
少女も。
母親も。
祖母も。
彼女たちは、ただ手を握り合っていた。
十三年間、存在しなかった時間を、少しずつ埋めようとしていた。
その足元で。
黒い影は、静かに形を変えた。
人間の影とは、違う形に。
*
深夜。
雄英高校の医療区画。
ミッドナイトは、眠れずにいた。
目を閉じると、あの声が聞こえる。
愛されたいか。
覚えていてほしいか。
もう一度、世界に触れたいか。
彼女は、自分の手首を見た。
黒い線はない。
傷もない。
ただ、そこには脈がある。
生きている人間の脈が。
「……私は、何を望んでいるのかしら」
彼女は呟いた。
答えは、分かっているような気がした。
生徒たちに会いたい。
彼らがどんな大人になったのか、見たい。
もう一度、笑い合いたい。
もう一度、教師として何かを教えたい。
だが、その願いの奥には、別のものもあった。
自分が忘れられていないと、確かめたい。
自分が死んだあとも、自分の存在が誰かの中に残っていると知りたい。
自分の人生が、無意味ではなかったと。
そう思いたい。
「……嫌な質問をするわね」
ミッドナイトは、目を閉じた。
その瞬間。
病室の隅で、何かが動いた。
彼女は目を開けた。
何もない。
ただの影。
ベッドの脚。
椅子。
窓枠。
その影が、少しだけ長く伸びている。
ミッドナイトは、息を止めた。
影の奥に、何かが見えた。
人間の輪郭。
黒い霧。
そして、目。
『――望みは、決まったか』
声がした。
ミッドナイトは、ベッドから起き上がった。
「……私は」
声が震える。
「私は、誰かに望みを叶えてほしいわけじゃない」
『――ならば、何を望む』
「自分で……」
彼女は、拳を握った。
「自分で選びたいの」
影が揺れた。
『――選ぶ』
声が、繰り返す。
『――人間は、いつもそう言う』
『――だが、お前たちは、選べなかった』
『――死を』
『――別れを』
『――失うことを』
ミッドナイトの胸が痛んだ。
『――だから、願った』
『――戻ってきてほしいと』
『――もう一度、会いたいと』
『――やり直したいと』
影が、彼女の足元へ伸びる。
『――それは、お前の願いではないのか』
ミッドナイトは、唇を噛んだ。
願いだった。
確かに、願いだった。
もう一度、みんなに会いたい。
もう一度、教師でありたい。
もう一度、生きていたい。
その願いを、否定することはできない。
だが。
「……願ったからって」
彼女は言った。
「誰かに、勝手に決められていいわけじゃない」
影が止まった。
「私が何を望むのか。私が何を選ぶのか。それは、私が決める」
ミッドナイトは、まっすぐに影を見た。
「あなたが誰であろうと、私の人生を勝手に使わないで」
長い沈黙があった。
そして。
影の奥から、笑い声が聞こえた。
小さな。
静かな。
人間の笑い声とは、どこか違う音。
『――いいだろう』
影が、ゆっくりと床に沈んでいく。
『――ならば、選べ』
『――お前が、お前であることを』
『――証明してみせろ』
影は消えた。
病室は、元の静けさを取り戻した。
ミッドナイトは、しばらく動けなかった。
やがて、彼女は自分の手を見下ろした。
震えは、まだ止まらない。
それでも。
「……上等よ」
彼女は、小さく呟いた。
「教師を、なめないで」
*
そして、日付が変わる少し前。
雄英高校の屋上に、緑谷と麗日が立っていた。
街の明かりが、遠くまで広がっている。
帰還者の情報を求める報道番組。
死者の帰還を奇跡だと称える声。
危険性を訴える専門家。
家族との再会を喜ぶ人々。
そして、帰還者の受け入れに反対する声。
世界は、ひとつの出来事を前に、いくつもの答えを作り始めていた。
「……今日、いろんなことがあったね」
麗日が言った。
「うん」
「嬉しいことも、怖いことも」
「……うん」
緑谷は、街を見下ろした。
「僕は、死者が帰ってきたことを、嬉しいと思ってしまった」
麗日は、彼を見た。
「ミッドナイト先生に会えたことも。クラストさんが帰ってきたことも」
緑谷は、自分の手を見つめた。
「でも、同時に怖いんだ。もし、本人じゃなかったら。もし、何かに利用されていたら。もし、誰かを傷つけることになったら」
彼は、息を吐いた。
「嬉しいって思うこと自体が、間違いなんじゃないかって……」
「そんなことないよ」
麗日は、すぐに答えた。
「嬉しいって思うことと、疑問を持つことは、両立するよ」
緑谷は、彼女を見た。
「大切な人が帰ってきたら、嬉しいよ。会いたかったんだもん。でも、何かがおかしいなら、ちゃんと調べなきゃいけない」
麗日は、夜空を見上げた。
「大切だからこそ、ちゃんと知りたいんだと思う」
その言葉に、緑谷は目を閉じた。
大切だからこそ。
信じたい。
けれど、信じることは、疑問を捨てることではない。
守りたい。
けれど、守ることは、すべてを許すことでもない。
救いたい。
けれど、救うことは、自分ひとりで答えを決めることでもない。
緑谷は、ゆっくりと目を開けた。
「……明日、追悼式典の日だね」
「うん」
「式典は中止になったけど……きっと、みんな来ると思う」
「そうだね」
「亡くなった人を悼むために。帰ってきた人に会うために」
緑谷は、街の明かりを見つめた。
「そして、これからどうするのかを考えるために」
麗日は、彼の手を握った。
「一緒に考えよう」
「……うん」
「答えが分からなくても」
「うん」
「怖くても」
「……うん」
「一緒に」
緑谷は、彼女の手を握り返した。
その温もりが、確かにここにあった。
明日、何が起こるのかは分からない。
死者たちが、何を語るのかも分からない。
彼らの中に何が潜んでいるのか。
死神が何を望んでいるのか。
世界の向こう側に、何が存在しているのか。
何ひとつ、分からない。
それでも。
緑谷は、もう一度、夜空を見上げた。
「……僕たちは、僕たちの答えを選ぶ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その言葉に、麗日が頷く。
そして、二人は屋上をあとにした。
誰もいなくなった屋上。
夜風が吹き抜ける。
街の明かりが、静かに瞬いている。
その空の、さらに向こう。
人間の目には見えない場所で。
何かが、ゆっくりと目を開いた。
『――十三年目』
声が響く。
『――人類は、まだ祈っている』
暗闇の中に、無数の光が浮かんだ。
帰ってきた死者たち。
彼らを迎えた生者たち。
失われた記憶。
蘇る感情。
そして、まだ名も与えられていない欲望。
『――ならば、次は』
無数の光のうち、ひとつが黒く染まった。
『――彼らが何を捨てるのかを見よう』
光が、ひび割れる。
その向こう側から、かすかな声が聞こえた。
誰かが、助けを求めている。
誰かが、憎しみを叫んでいる。
誰かが、愛されたいと願っている。
そして、誰かが。
もう一度、生きたいと願っている。
『――奇跡を祝う日々は、長くは続かない』
声が、静かに告げた。
『――人間は、奇跡の代償を知ることになる』
暗闇の中で、ひとつの名前が浮かび上がった。
嫉妬。
その名を中心に、青い炎が燃え上がった。
炎の向こうに、ひとりの男が立っている。
蒼い炎をまとい、憎しみを抱き、家族を見つめる男。
轟燈矢。
いや。
その名を捨てた男。
荼毘。
彼の背後に、黒い影が立っていた。
『――お前は、まだ愛されたかったのか』
荼毘は、振り返らない。
「……うるせえ」
『――愛されなかったことを、憎んでいるのか』
「黙れ」
『――ならば、もう一度、選べ』
青い炎が、強く燃えた。
『――お前が憎むものを』
荼毘は、笑った。
ひどく歪んだ笑みだった。
「……いいぜ」
彼は、ゆっくりと振り返った。
「地獄の続きを、始めようじゃねえか」
青い炎が、夜を裂いた。
そして、十三年目の祈りは。
静かに、次の段階へと進んでいった。