僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十話「世界の正解は、誰のためにある」

 

 世界は、正解を求めていた。

 

 誰を生かすべきか。

 

 誰を死なせるべきか。

 

 誰の記憶を残し、誰の記憶を消し、誰の人生を未来へ繋ぐべきか。

 

 そして――誰が、その選択をするべきなのか。

 

 世界は答えを持っていた。

 

 少なくとも、世界を管理するものは、自分たちが正解を持っていると信じていた。

 

 だからこそ、世界は母親に選択を委ねた。

 

 あなたの子供のうち、どちらを残しますか。

 

 あなたの愛する者のうち、どちらを救いますか。

 

 あなたの人生のうち、どの部分を犠牲にしますか。

 

 選んでください。

 

 選べないのであれば、こちらが選びます。

 

 あなたのために。

 

 あなたの子供のために。

 

 あなたの世界のために。

 

 ――あなたたちが、間違えないように。

 

     ◇

1 選択の代行者

「私の代わりに、選ばないで」

 

 緑谷引子は、そう言った。

 

 声は震えていた。

 

 恐怖のためではない。

 

 目の前にあるものが、自分の理解を超えた何かだったからでもない。

 

 彼女は、すでに理解していた。

 

 理解してしまっていた。

 

 この世界が自分に何を求めているのか。

 

 何を差し出せば、世界は満足するのか。

 

 何を失えば、目の前の苦しみは終わるのか。

 

 そして、何を選んだとしても、自分はその選択を一生忘れられないのだということを。

 

 引子の前には、二つの光があった。

 

 一つは、よく知っている光。

 

 何度も抱きしめた。

 

 何度も名前を呼んだ。

 

 何度も、その小さな背中を見送ってきた。

 

 何度も、帰ってくる場所を守ろうとした。

 

 緑谷出久。

 

 彼女の息子。

 

 もう一つは、知らない光だった。

 

 知らないはずなのに、知らないままでいることができなかった。

 

 そこにいる。

 

 確かに、そこにいる。

 

 まだ完全な形を持たない。

 

 母親の腕に抱かれたこともない。

 

 名前を呼ばれたこともない。

 

 初めて笑った日も、初めて泣いた日も、初めて自分の足で歩いた日もない。

 

 それでも、その存在は確かにそこにいた。

 

 引子の子供だった。

 

 生まれなかった子供。

 

 失われたはずの子供。

 

 そして今、世界の歪みの中で、再び生きる可能性を与えられた子供。

 

 世界は、二つの光を並べた。

 

 そして告げた。

 

《存在優先順位を確定してください》

 

《対象A:緑谷出久》

 

《対象B:未確定個体》

 

《両者の同時安定化は、現在の条件下では推奨されません》

 

《優先対象を指定してください》

 

《選択が行われない場合、システムが最適解を決定します》

 

 無機質な文字列。

 

 そこに、悪意はなかった。

 

 怒りもなかった。

 

 憎しみもなかった。

 

 だからこそ、引子はその言葉を恐ろしいと思った。

 

 悪意があるのなら、憎むことができる。

 

 誰かが自分の子供を殺そうとしているのなら、立ち向かうことができる。

 

 だが、これは違う。

 

 これは、誰かを殺したいのではない。

 

 誰かを救うために、誰かを切り捨てようとしている。

 

 しかも、その判断を正しいものだと信じている。

 

「……最適解?」

 

 引子は、唇を動かした。

 

「あなたたちにとっての、最適解なの?」

 

《肯定》

 

《世界全体の安定性を基準としています》

 

《個別の感情、希望、後悔は、計算における補助情報として扱われます》

 

「補助情報……」

 

 引子は笑わなかった。

 

 怒鳴りもしなかった。

 

 ただ、その言葉を繰り返した。

 

 自分の感情が。

 

 息子を愛しているという気持ちが。

 

 生まれてこなかった子供にも、生きていてほしいという願いが。

 

 補助情報。

 

 計算の邪魔にならない範囲で考慮される、些細な要素。

 

「ねえ」

 

 引子は、目の前の光に語りかけた。

 

「あなたは、子供を産んだことがある?」

 

 返答はなかった。

 

 当然だった。

 

 相手は、人間ではない。

 

 少なくとも、引子が知る意味での人間ではなかった。

 

「お腹の中で、子供が動いたときのことを知っている?」

 

 沈黙。

 

「初めて泣いたときのことは?」

 

 沈黙。

 

「熱を出した夜に、何度も額を触って、少しでも苦しそうにすると、自分の代わりに苦しんであげたいって思ったことは?」

 

 沈黙。

 

「自分が何かを間違えたんじゃないかって、何年も何年も考え続けたことは?」

 

 システムは、答えなかった。

 

 答えられなかったのではない。

 

 答える必要がなかったのだ。

 

 それらは、システムの目的に必要な情報ではない。

 

 だから、存在しないのと同じだった。

 

 引子は、ゆっくりと息を吸った。

 

「そう」

 

 その一言には、諦めがなかった。

 

 むしろ、何かが定まったようだった。

 

「あなたには、分からないのね」

 

《質問の意図を特定できません》

 

「いいのよ。分からなくて」

 

 引子は、二つの光を見つめた。

 

「分からないなら、せめて分からないままでいて」

 

 そして、告げた。

 

「私の子供たちの人生を、あなたの計算で決めないで」

 

《警告》

 

《優先順位が未確定です》

 

《選択の遅延は、両対象の安定性を低下させます》

 

《最適解の自動実行まで、残り――》

 

「聞こえているわ」

 

 引子は遮った。

 

「聞こえているから、言っているの」

 

 指先が震えていた。

 

 それでも、彼女は手を伸ばした。

 

 右手を、出久の光へ。

 

 左手を、もう一つの光へ。

 

 触れることができるのかどうかも分からない。

 

 そもそも、そこに本当に二人がいるのかどうかさえ、確信できない。

 

 それでも。

 

「私は、二人とも私の子供だと思っている」

 

 彼女は言った。

 

「だから、二人とも生きていてほしい」

 

《要求は、現在の制約と矛盾しています》

 

「それでもよ」

 

《両者の同時安定化を保証することはできません》

 

「保証なんて、いらないわ」

 

《生命維持の失敗は、不可逆的な結果を招く可能性があります》

 

「分かっているわ」

 

《選択してください》

 

「嫌よ」

 

 引子は、はっきりと言った。

 

「あなたが決めることじゃない」

 

 その瞬間。

 

 世界が、軋んだ。

 

     ◇

2 正解を与えられた少年

「母さん!」

 

 緑谷出久は、叫んだ。

 

 声が届いたかどうかは分からない。

 

 目の前には、無数の光が流れていた。

 

 記憶だった。

 

 自分の記憶。

 

 自分ではない誰かの記憶。

 

 自分が覚えているはずのない記憶。

 

 生まれた日のこと。

 

 初めて母親に抱かれたときのこと。

 

 何度も転んで、何度も泣いて、何度も立ち上がった日のこと。

 

 ヒーローに憧れた日のこと。

 

 憧れを笑われた日のこと。

 

 それでも、夢を捨てられなかった日のこと。

 

 そして、もう一つ。

 

 生まれなかったはずの人生。

 

 母親の腕に抱かれることもなく。

 

 父親の顔を見ることもなく。

 

 兄と呼ぶ相手を知ることもなく。

 

 ただ、存在する可能性だけを残して、世界から切り離された人生。

 

 その記憶が、出久の中へ流れ込んでくる。

 

「やめろ……!」

 

 頭を抱えた。

 

 違う。

 

 これは、自分の記憶ではない。

 

 自分が経験したことではない。

 

 なのに。

 

 なのに、どうして。

 

 どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 

 小さな手。

 

 誰かを探す手。

 

 届かない手。

 

 呼びたい名前があるのに、名前を知らない。

 

 抱きしめてほしいのに、誰に頼めばいいのか分からない。

 

 生きたい。

 

 生きたい。

 

 生きたい。

 

 その願いだけが、記憶の底から浮かび上がってくる。

 

「違う……」

 

 出久は、歯を食いしばった。

 

「違うんだ……!」

 

 自分は、その子供ではない。

 

 自分の人生がある。

 

 母親との思い出がある。

 

 自分が歩んできた道がある。

 

 どれほど苦しくても、どれほど間違えていても、自分が選んできたものがある。

 

 それを、誰かの記憶で塗り潰されてたまるものか。

 

 だが、同時に。

 

 この子供の願いを、なかったことにもしたくなかった。

 

 生きたいという願いを。

 

 誰かに見つけてほしいという願いを。

 

 自分が生まれることのできなかった世界で、それでも存在したいと願った、その小さな声を。

 

 どうして、否定できる。

 

 どうして、自分だけが生きていることを当然だと思える。

 

「……っ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 目の前に、文字が浮かんでいた。

 

《対象A:緑谷出久》

 

《生命履歴:確定》

 

《社会的接続:多数》

 

《記憶統合率:高》

 

《存在安定性:高》

 

《対象B:未確定個体》

 

《生命履歴:不完全》

 

《社会的接続:未形成》

 

《記憶統合率:低》

 

《存在安定性:低》

 

《推奨判断:対象Aを優先》

 

 息が止まった。

 

 数字が並んでいた。

 

 出久が生きてきた証拠。

 

 母親に愛されてきた証拠。

 

 学校へ通い、友人を得て、誰かと笑い、誰かを助けようとした証拠。

 

 それらが、すべて出久の生存を支持していた。

 

 その一方で、もう一人には何もなかった。

 

 記録がない。

 

 履歴がない。

 

 社会的な繋がりがない。

 

 誰もその子供の名前を知らない。

 

 誰もその子供と話したことがない。

 

 誰もその子供が生きていたことを証明できない。

 

 だから、切り捨てていい。

 

 そういう結論だった。

 

「……ふざけるな」

 

 声が漏れた。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 システムに対してか。

 

 世界に対してか。

 

 それとも、そんな数字を見て、一瞬でも納得しかけた自分自身に対してか。

 

「記録がないから、存在しなくていいっていうのか……?」

 

 返答はない。

 

「誰にも知られていないから、助けなくていいっていうのか……?」

 

 返答はない。

 

「誰とも繋がっていないから、生きる価値がないっていうのかよ!」

 

 拳を握った。

 

 その拳は、何も殴れなかった。

 

 相手がいない。

 

 敵がいない。

 

 壊せば終わる装置があるわけでもない。

 

 目の前にいるのは、正しさだった。

 

 数えられるものを数え、記録されたものを記録し、確認できるものを確認したうえで、最も損失の少ない答えを選び出す仕組み。

 

 その仕組み自体に、間違いはないのかもしれない。

 

 だが。

 

 その答えで、誰かが死ぬ。

 

 誰かが生まれる可能性を失う。

 

 誰かが、一度も名前を呼ばれないまま、世界から消える。

 

 そして、その結果を正しいと呼ぶのなら。

 

「……正解って、何なんだよ」

 

 出久は呟いた。

 

 思い出した。

 

 ヒーローになりたかった。

 

 誰かを助けたかった。

 

 困っている人がいたら、手を伸ばしたかった。

 

 それが、正しいことだと思っていた。

 

 けれど。

 

 もし、二人を助けられないとしたら。

 

 もし、自分が助かることで、誰かが消えてしまうとしたら。

 

 もし、自分が生き残ることが、誰かの未来を奪うことになるのなら。

 

 自分は、どうすればいい。

 

 自分が死ねばいいのか。

 

 自分が消えれば、もう一人が生きられるのか。

 

 そんな考えが、頭をよぎった。

 

 そして、その考えが浮かんだ瞬間。

 

 出久は、自分の中にある、ひどく古い癖を見つけた。

 

 誰かが困っている。

 

 誰かが苦しんでいる。

 

 誰かを救うためには、何かを差し出さなければならない。

 

 ならば、自分が差し出せばいい。

 

 自分の身体。

 

 自分の未来。

 

 自分の命。

 

 自分が犠牲になれば、少なくとも誰かは助かる。

 

 その考えは、あまりにも自然だった。

 

 自然すぎて、恐ろしかった。

 

「……また、か」

 

 出久は、自分の手を見つめた。

 

「また、僕が消えればいいって考えるのか」

 

 それは、正義感なのだろうか。

 

 優しさなのだろうか。

 

 それとも。

 

 自分がいなくなることでしか、問題を解決できないと思い込んでいるだけなのだろうか。

 

 出久は、目を閉じた。

 

 誰かを救うために、自分を犠牲にする。

 

 それが間違いだとは思わない。

 

 目の前で誰かが死にかけているのなら、身体が勝手に動くことだってある。

 

 それでも。

 

 自分が消えることを、最初から答えにしてしまうのは。

 

 それは、本当に誰かを救うための選択なのだろうか。

 

 それとも、自分が自分の人生を生きることから、逃げているだけなのだろうか。

 

「……母さん」

 

 出久は、手を伸ばした。

 

 届かない。

 

 それでも、伸ばした。

 

「僕は……」

 

 言葉が詰まった。

 

 自分は、生きたいのか。

 

 生きていていいのか。

 

 誰かの未来を奪わずに、生きることができるのか。

 

 分からなかった。

 

 分からないからこそ。

 

 出久は、初めて、自分の中にある答えを疑った。

 

 ――僕が犠牲になればいい。

 

 それは、いつだって正解だったのだろうか。

 

     ◇

3 正解を拒絶する母親

《最適解の自動実行まで、残り十秒》

 

 数字が浮かんだ。

 

 引子は、その数字を見た。

 

 十。

 

 九。

 

 八。

 

 時間がない。

 

 選ばなければならない。

 

 世界は、待ってくれない。

 

 自分の迷いが、二人を苦しめている。

 

 その事実だけは、理解できた。

 

 ならば、どうする。

 

 どちらかを選ぶのか。

 

 出久を選ぶのか。

 

 生まれなかった子供を選ぶのか。

 

 どちらかを犠牲にして、もう一方を救うのか。

 

 七。

 

 六。

 

 引子は、目を閉じた。

 

 そして、思い出した。

 

 小さな出久が、初めて転んだ日のこと。

 

 膝を擦りむいて、泣きながら自分のところへ駆けてきた。

 

 どうして転んだのか。

 

 どこが痛いのか。

 

 そんなことを聞く前に、引子は彼を抱きしめた。

 

 痛かったね。

 

 怖かったね。

 

 もう大丈夫だよ。

 

 そのとき、彼女は何も選ばなかった。

 

 出久が転ばなければよかったのか。

 

 転んだことをなかったことにすればよかったのか。

 

 痛みを感じない子供に育てればよかったのか。

 

 そんなことは考えなかった。

 

 ただ、泣いている息子を抱きしめた。

 

 そのあとで、膝の傷を洗った。

 

 傷口に薬を塗った。

 

 もう一度歩けるように、手を繋いだ。

 

 必要だったのは、正解を決めることではなかった。

 

 目の前の子供が、痛がっている。

 

 だから、手を伸ばした。

 

 それだけだった。

 

 五。

 

 四。

 

「……私は」

 

 引子は、目を開けた。

 

「私は、母親よ」

 

 システムが反応する。

 

《対象の自己定義を確認》

 

「でも、あなたたちの言う意味での、最適な母親じゃないかもしれない」

 

 声は静かだった。

 

「間違えるわ。怖くなるわ。後悔だってする」

 

 出久の光を見つめる。

 

「この子を守りたいと思う」

 

 もう一つの光を見つめる。

 

「この子にも、生きていてほしいと思う」

 

 唇を噛んだ。

 

「両方を守れるかなんて、分からない」

 

 認めることは、苦しかった。

 

 母親なら、何でもできる。

 

 母親なら、子供を守れる。

 

 そんなふうに思っていたわけではない。

 

 けれど、子供が苦しんでいるとき、何もできない自分を許すことは難しい。

 

 守りたいのに、守れないかもしれない。

 

 助けたいのに、助けられないかもしれない。

 

 どちらも大切なのに、どちらにも手が届かないかもしれない。

 

 それは、母親であることを否定されるような痛みだった。

 

 それでも。

 

「だからって、あなたに決めてもらう理由にはならないでしょう」

 

 三。

 

 二。

 

 引子は、両手を広げた。

 

「私は、この子たちの未来を知らない」

 

 出久の光へ。

 

「この子が、どんな大人になるのかも」

 

 もう一つの光へ。

 

「この子が、どんな人生を歩むのかも」

 

 両方を見つめた。

 

「何が正しいのかも、分からない」

 

 一。

 

「でも」

 

 引子は、言った。

 

「生きていてほしいと思うことくらい、私に決めさせて」

 

 ゼロ。

 

《優先順位が未確定》

 

《最適解の自動実行を開始します》

 

 世界が白く染まった。

 

 出久の光が、強く輝く。

 

 もう一つの光が、急速に薄れていく。

 

 引子は、叫んだ。

 

「嫌あああああああああああああああっ!」

 

 それは、悲鳴だった。

 

 母親の悲鳴だった。

 

 自分の子供が消えていく。

 

 その事実を前にして、理屈など何の役にも立たなかった。

 

「お願い……!」

 

 引子は手を伸ばした。

 

「お願いだから……!」

 

 届かない。

 

 光が遠ざかる。

 

 存在が薄れていく。

 

「あなたは……!」

 

 引子は、知らない子供に向かって叫んだ。

 

「あなたは、いていいのよ!」

 

 光が揺れた。

 

「生まれてこられなかったからって、誰にも知られていないからって、いてはいけない理由にはならない!」

 

 引子の目から涙が溢れた。

 

「私は、あなたを知らなかった!」

 

 その告白は、あまりにも残酷だった。

 

 知らなかった。

 

 気づかなかった。

 

 抱きしめられなかった。

 

 名前を呼べなかった。

 

 母親として、その子供に何もしてあげられなかった。

 

「ごめんなさい……!」

 

 引子は泣いた。

 

「ごめんなさい……! 気づいてあげられなくて、ごめんなさい……!」

 

 だが、それでも。

 

「でも、あなたがいてはいけないなんて、私は言わない!」

 

 光が、止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 世界が、母親の声を聞いたかのように。

 

《……》

 

 無音。

 

 そして。

 

《例外的な感情入力を検知》

 

《母子接続における優先順位の再評価を開始》

 

 文字列が乱れた。

 

《存在優先順位:未確定》

 

《存在価値:算出不能》

 

《個別の生存意思:検出》

 

《母親の承認:検出》

 

《――》

 

 システムが、初めて計算を止めた。

 

     ◇

4 名前のない子供

 暗闇の中で、子供は泣いていた。

 

 声は出なかった。

 

 身体もなかった。

 

 手も、足も、顔も。

 

 それでも、泣いていた。

 

 誰かに気づいてほしかった。

 

 誰かに見つけてほしかった。

 

 誰かに、自分がここにいると知ってほしかった。

 

 けれど、誰も知らない。

 

 誰も覚えていない。

 

 自分が存在したことを。

 

 自分が存在するかもしれなかったことを。

 

 自分が、生きたかったことを。

 

 だから、ずっと暗闇の中にいた。

 

 時間があったのかどうかも分からない。

 

 昨日も、今日も、明日も。

 

 その違いすら、存在しない場所だった。

 

 ただ、待っていた。

 

 何を待っているのかも分からないまま。

 

 そして。

 

 声が聞こえた。

 

『あなたは、いていいのよ』

 

 子供は、顔を上げた。

 

 顔があるのかどうかも分からない。

 

 それでも、確かに、顔を上げた。

 

『私は、あなたを知らなかった』

 

 知らなかった。

 

 その言葉は、痛かった。

 

 けれど。

 

『あなたがいてはいけないなんて、私は言わない』

 

 その言葉は。

 

 暗闇の中に、小さな光を灯した。

 

 知らなくてもいい。

 

 最初から愛されていたと、証明できなくてもいい。

 

 記憶がなくてもいい。

 

 名前がなくてもいい。

 

 今、この瞬間。

 

 自分がここにいることを、誰かが認めてくれた。

 

 それだけで。

 

 子供は、初めて、自分の存在を自分のものだと思えた。

 

 生まれてこなかったから、存在しないのではない。

 

 誰にも知られていないから、価値がないのではない。

 

 自分は。

 

 自分は。

 

 生きたい。

 

 その願いが、初めて、誰かの声と繋がった。

 

 暗闇の向こうで、別の声が聞こえた。

 

『……君は、誰?』

 

 少年の声だった。

 

 自分より、少し大きい。

 

 苦しそうで、戸惑っていて。

 

 それでも、こちらを見ようとしている声だった。

 

 子供は答えようとした。

 

 名前がない。

 

 自分が何者なのか、分からない。

 

 どう答えればいいのか、分からない。

 

 それでも。

 

 伝えなければならないと思った。

 

 ここにいる。

 

 自分は、ここにいる。

 

 だから。

 

 だから、どうか。

 

 ――消さないで。

 

 声にならない願いが、暗闇を震わせた。

 

     ◇

5 緑谷出久の選択

「……聞こえる」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 先ほどまで流れ込んできていた記憶が、止まっていた。

 

 代わりに、何かが聞こえる。

 

 かすかな声。

 

 泣いているような声。

 

 助けを求めているような声。

 

 それは、言葉ではなかった。

 

 しかし、出久には分かった。

 

 分かってしまった。

 

「君……」

 

 出久は手を伸ばした。

 

「そこにいるんだね」

 

 暗闇の向こうで、何かが揺れた。

 

 返事はない。

 

 けれど、確かに反応があった。

 

「君は、僕じゃない」

 

 出久は、ゆっくりと言った。

 

「僕の記憶を持っているわけでも、僕の代わりになる存在でもない」

 

 言葉にすることで、自分の中にある混乱を整理する。

 

 目の前にいるのは、自分の別の可能性なのかもしれない。

 

 世界が生み出した残響なのかもしれない。

 

 記憶と記憶の隙間に生じた、存在の揺らぎなのかもしれない。

 

 まだ、何も分からない。

 

 けれど、一つだけ。

 

 確かなことがある。

 

「君は、君なんだ」

 

 暗闇が揺れた。

 

「僕の代わりじゃない。僕が生きているからって、君が消えなきゃいけないわけじゃない」

 

 出久は、自分の手を見た。

 

 何度も、誰かを救うために伸ばしてきた手。

 

 自分のことを考えるより先に、誰かのために差し出してきた手。

 

 その手を、今度は、誰かと一緒に生きるために伸ばせるだろうか。

 

「……正直に言うね」

 

 出久は苦笑した。

 

「僕だって、怖い」

 

 相手に聞こえているのかは分からない。

 

 それでも、話し続けた。

 

「君が生きるために、僕が消えなきゃいけないのかもしれないって、考えた」

 

 自分の弱さを、隠さなかった。

 

「君が苦しんでいるなら、僕が代わればいいって思った」

 

 胸の奥が痛んだ。

 

「でも、それって……君のことを、本当に考えていることになるのかな」

 

 答えはなかった。

 

 出久は続けた。

 

「君は、僕に生きてほしいかもしれない」

 

 あるいは。

 

「僕に消えてほしいと思っているかもしれない」

 

 どちらも、あり得る。

 

 誰かのために、自分を犠牲にすること。

 

 誰かに、自分のために犠牲になってもらうこと。

 

 どちらも、簡単なことではない。

 

「僕は、君の気持ちを知らない」

 

 出久は言った。

 

「だから、勝手に決めたくない」

 

 それは、母親と同じ言葉だった。

 

 けれど、出久にとっては、違う意味を持っていた。

 

 自分が犠牲になればいい。

 

 その答えを選ぶことは、簡単だった。

 

 誰かを助けるために、自分が消える。

 

 それなら、誰かのために生きてきた自分らしい選択だと、思い込むことができる。

 

 だが。

 

 それは、本当に相手の意思を尊重しているのだろうか。

 

 相手が生きたいと願っているから、自分が消える。

 

 その判断をする前に、相手がどんな人生を望んでいるのか、聞いたことがあっただろうか。

 

 そもそも。

 

 自分が生きることを、相手にとっての悪だと決めつけてはいないだろうか。

 

「僕は……」

 

 出久は、拳を握った。

 

「僕は、生きたい」

 

 口にした瞬間、胸が痛んだ。

 

 罪悪感があった。

 

 自分だけが生きていることへの罪悪感。

 

 自分が生きたいと願うことで、誰かを傷つけるのではないかという恐怖。

 

 それでも。

 

「生きたいんだ」

 

 もう一度、言った。

 

「僕は、まだ何も終わっていない」

 

 母親がいる。

 

 友達がいる。

 

 助けたい人がいる。

 

 自分の過ちと向き合わなければならない。

 

 自分が傷つけた誰かに、謝らなければならない。

 

 自分が守れなかったものを、忘れずに生きていかなければならない。

 

 それは、綺麗な未来ではないかもしれない。

 

 苦しいことばかりかもしれない。

 

 それでも。

 

「僕は、僕の人生を生きたい」

 

 出久は、暗闇に向かって手を伸ばした。

 

「だから、君にも……君の人生を生きてほしい」

 

 その言葉を口にしたとき。

 

 初めて、出久は自分の願いを誰かの犠牲と引き換えにしなかった。

 

 自分が生きたい。

 

 相手にも生きてほしい。

 

 その二つの願いを、同時に抱いた。

 

 どちらかを諦めるのではなく。

 

 どちらかを悪者にするのでもなく。

 

 どちらかの存在を、間違いにするのでもなく。

 

 ただ、両方を望んだ。

 

 それが可能なのかは、分からない。

 

 成功する保証もない。

 

 何を犠牲にすればいいのかも、まだ見えていない。

 

 けれど。

 

「……一緒に、考えよう」

 

 出久は言った。

 

「どうすればいいのか。どうしたら、二人とも生きられるのか」

 

 暗闇の向こうで。

 

 小さな手が、伸びた。

 

 出久は、その手を掴もうとした。

 

 その瞬間。

 

《警告》

 

《対象Aの自己保存意思を確認》

 

《対象Bの生存意思を確認》

 

《双方の生存要求が競合しています》

 

《現在の世界構造では、両者の完全な同時成立は保証されません》

 

 無機質な声が響いた。

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……保証されない?」

 

《肯定》

 

《現行システムにおいて、存在の安定性は有限の資源に依存します》

 

《一方の存在を強化することは、他方の存在を不安定化させる可能性があります》

 

《両者を同時に維持する場合、世界全体の安定性が低下する可能性があります》

 

「だから、どちらかを消すっていうのか」

 

《最適解です》

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 その言葉は、何度も聞いた。

 

 最適解。

 

 世界のため。

 

 みんなのため。

 

 犠牲を最小限にするため。

 

 そうして選ばれた答えの先に、誰かの死がある。

 

 そして、誰かがその死を正しいものだと認めなければならない。

 

「……だったら」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「その最適解を、変える方法を探す」

 

《不可能です》

 

「まだ、試していない」

 

《既存の演算結果において、成功率は極めて低い数値を示しています》

 

「ゼロじゃないんだろ」

 

《ゼロではありません》

 

「だったら、ゼロじゃない」

 

 出久は、もう一度、手を伸ばした。

 

「君が生きたいなら、僕は君の生きる場所を探す」

 

 小さな手が、出久の手に触れた。

 

「僕が生きたいなら、僕も僕の生きる場所を探す」

 

 指先が重なる。

 

「どっちかが消えればいいなんて、最初から決めない」

 

 その瞬間、暗闇の奥で何かが弾けた。

 

 世界が、大きく揺れた。

 

     ◇

6 安寧システム

 その変化を、システムは見逃さなかった。

 

《異常を検知》

 

《存在間接続の成立を確認》

 

《対象Aと対象Bの接続状態が変化》

 

《存在優先順位の固定化に失敗》

 

《再計算を開始します》

 

 膨大な情報が流れ込む。

 

 世界の構造。

 

 生命の記録。

 

 記憶の連続性。

 

 死者の復元。

 

 個性の変質。

 

 時間の歪み。

 

 存在を成立させるための条件。

 

 システムは、それらをすべて計算した。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 結果は変わらなかった。

 

 どちらか一方を優先すれば、世界の安定性は維持される。

 

 両方を維持しようとすれば、世界の安定性は低下する。

 

 最適解は、明白だった。

 

 ならば、なぜ。

 

 なぜ、この二人は、最適解を拒絶するのか。

 

 なぜ、母親は選択しないのか。

 

 なぜ、少年は自分の生存を諦めないのか。

 

 なぜ、もう一人の子供は、存在することを諦めないのか。

 

 それらは、システムの計算を狂わせる。

 

 計算できないのではない。

 

 計算した結果が、実行されない。

 

 最適解を提示しても、対象がそれを受け入れない。

 

 合理的な説明を行っても、対象が別の可能性を求める。

 

 損失を最小限にする答えを示しても、対象が損失そのものを拒絶する。

 

 それは、システムにとって、奇妙な現象だった。

 

《質問》

 

 システムは、初めて問いを発した。

 

《なぜ、対象Aは、自身の存在を維持しながら、対象Bの存在も維持しようとするのか》

 

 返答はなかった。

 

 出久は、その問いを聞いていなかった。

 

 聞いていたとしても、答えられなかっただろう。

 

 彼自身、まだ分かっていないのだから。

 

 システムは、問いを続けた。

 

《なぜ、母親は、対象の優先順位を決定しないのか》

 

《なぜ、対象Aは、自己犠牲を最適解として採用しないのか》

 

《なぜ、対象Bは、存在の不安定性を認識しながら、生存意思を維持するのか》

 

《なぜ》

 

《なぜ》

 

《なぜ》

 

 その問いに、答えはなかった。

 

 少なくとも、システムが持つデータの中には。

 

 システムは、計算を続けた。

 

 そして、一つの結論に辿り着いた。

 

《現行の評価基準では、対象の行動を完全に説明できません》

 

 それは、敗北だった。

 

 だが、システムは敗北という言葉を知らなかった。

 

 ただ、説明できない現象が存在する。

 

 その事実だけを記録した。

 

 次の瞬間。

 

《新たな変数を設定します》

 

《対象の生存意思を、補助情報から独立変数へ変更》

 

《個別の存在を、社会的接続の有無のみで評価する方式を停止》

 

《再計算を開始します》

 

 世界が、再び揺れた。

 

 引子は、その変化を感じ取った。

 

「……何が起きているの?」

 

 答える者はいない。

 

 だが、彼女は見た。

 

 二つの光が、互いを押し退けるのではなく、互いに触れ合っていることを。

 

 まだ不安定だった。

 

 いつ消えてもおかしくない。

 

 それでも、先ほどまでのように、どちらか一方が消えていくことはなかった。

 

「出久……?」

 

 母親の声が、暗闇へ届く。

 

 出久は、顔を上げた。

 

「母さん!」

 

 声が、届いた。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、確かに。

 

 引子は、泣きながら笑った。

 

「出久……!」

 

「母さん、僕……!」

 

 言いたいことは、山ほどあった。

 

 怖かった。

 

 苦しかった。

 

 何が正しいのか分からなかった。

 

 自分が消えればいいと、また考えてしまった。

 

 でも、そうすることが本当に正しいのか、分からなくなった。

 

 だから。

 

 だから、もう一度、考えたい。

 

 自分のためにも。

 

 母親のためにも。

 

 そして、まだ名前も知らない、もう一人の子供のためにも。

 

 だが。

 

 声は、そこで途切れた。

 

《接続が不安定です》

 

《母子接続の維持に追加の条件が必要です》

 

《対象Bの存在安定性が、臨界値を下回っています》

 

 引子の顔から、笑みが消えた。

 

「……そんな」

 

 光が、再び揺らぎ始める。

 

 まだ終わっていなかった。

 

 何も解決していない。

 

 選択を拒んだだけでは、世界の仕組みは変わらない。

 

 生きたいと願っただけでは、命を維持することはできない。

 

 そして。

 

 正解を拒絶した先に、必ずしも救いがあるとは限らない。

 

     ◇

7 誰かの正解

 その頃。

 

 別の場所でも、世界の異変は観測されていた。

 

 死者が蘇る。

 

 失われた記憶が戻る。

 

 存在しなかったはずのものが、世界に干渉する。

 

 そして、世界を安定させるはずの仕組みが、その役割を果たせなくなりつつある。

 

 誰かが、世界の均衡を乱している。

 

 誰かが、決められた順序を拒絶している。

 

 誰かが、死者と生者の境界を越えようとしている。

 

 それは、奇跡なのか。

 

 それとも、災厄なのか。

 

 まだ、誰にも分からない。

 

 だが、一つだけ確かなことがあった。

 

 世界は、今まで通りには戻れない。

 

 そして、世界を元に戻そうとする者たちは、必ず現れる。

 

 失われたものを取り戻そうとする者。

 

 取り戻してはならないものを封じようとする者。

 

 死者を蘇らせることこそ救済だと信じる者。

 

 死者を蘇らせることこそ罪だと信じる者。

 

 誰もが、自分の正義を持っている。

 

 誰もが、自分の正解を信じている。

 

 そして、誰もが、自分の正解によって救われる人間がいることを知っている。

 

 だからこそ、厄介だった。

 

 間違っていると分かっていて、誰かを傷つける人間だけが敵なのではない。

 

 正しいと信じているからこそ、誰かを切り捨てられる人間もいる。

 

 救うために、犠牲を選ぶ者。

 

 守るために、自由を奪う者。

 

 未来のために、現在を踏みにじる者。

 

 そして。

 

 誰かを救うためなら、自分自身の存在さえ惜しまない者。

 

 彼らは、みな、同じ問いを抱えている。

 

 何が正しいのか。

 

 誰を救うべきなのか。

 

 どこまで犠牲を許容すべきなのか。

 

 そして、その答えを決める権利は、誰にあるのか。

 

 世界は、その問いに答えようとしていた。

 

 だが、世界には一つ、理解できていないことがあった。

 

 正解を求めることと。

 

 正解を押しつけることは。

 

 同じではない。

 

     ◇

8 母親が選ばなかったもの

「……出久」

 

 引子は、息子の名前を呼んだ。

 

 返事はなかった。

 

 接続が切れかけている。

 

 彼の姿は、もう見えない。

 

 それでも、引子は呼び続けた。

 

「出久……聞こえる?」

 

 何も返ってこない。

 

「お願い……」

 

 声が震える。

 

「無事でいて……」

 

 彼女は、祈ることしかできなかった。

 

 母親なのに。

 

 守りたいのに。

 

 何もできない。

 

 その事実が、胸を締めつけた。

 

 けれど、引子は、そこで立ち止まらなかった。

 

 彼女は、もう一つの光を見た。

 

 小さく、不安定で、今にも消えそうな光。

 

「……あなたも」

 

 手を伸ばす。

 

「あなたも、無事でいて」

 

 その子供の名前を、彼女は知らない。

 

 どんな顔をしているのかも分からない。

 

 どんな声なのかも、どんな性格なのかも、何一つ知らない。

 

 それでも。

 

「生きていて」

 

 彼女は、言った。

 

「あなたが、どんな子供なのか。何が好きなのか。何を嫌がるのか。どんな夢を見るのか」

 

 涙が頬を伝う。

 

「私、何も知らないの」

 

 その言葉は、懺悔だった。

 

「だから、これから知りたい」

 

 もう一つの光が、わずかに輝いた。

 

「あなたのことを知りたい。あなたが笑うところを見たい。あなたが泣いたら、抱きしめてあげたい」

 

 引子は、笑った。

 

 涙を流しながら。

 

「お母さんって呼んでくれる日が来るなら、その日まで生きていてほしい」

 

 その言葉を口にしたとき、引子は気づいた。

 

 自分は、選択を拒絶したのではない。

 

 選択の形そのものを、拒絶したのだ。

 

 どちらを愛するのか。

 

 どちらを救うのか。

 

 どちらの存在を認めるのか。

 

 その問いに答えることが、母親の責任だとされた。

 

 だが、本当にそうなのだろうか。

 

 子供たちの未来を決めることが、母親の愛なのだろうか。

 

 子供たちの人生を、自分の判断で確定させることが、親としての正しさなのだろうか。

 

 違う。

 

 少なくとも、引子はそう思った。

 

 母親だからこそ。

 

 自分が愛しているからこそ。

 

 自分の願いが、子供たちの未来を奪うことがあってはならない。

 

 出久に、生きていてほしい。

 

 もう一人の子供にも、生きていてほしい。

 

 その願いを、押しつけたくはない。

 

 自分のために生きてほしいのではない。

 

 自分を喜ばせるために、生きてほしいのでもない。

 

 ただ。

 

 自分の人生を、自分で選べるようになってほしい。

 

 自分の意思で、生きることを望めるようになってほしい。

 

 そのために、自分ができることをしたい。

 

「……あなたたちの人生を、私が選ばない」

 

 引子は、静かに告げた。

 

「でも、あなたたちが生きたいと願うことを、私は諦めない」

 

 それは、矛盾しているのかもしれない。

 

 願いを持ちながら、選択を押しつけない。

 

 救いたいと思いながら、相手の人生を決めない。

 

 愛しているからこそ、相手の意思を尊重する。

 

 簡単ではない。

 

 正解とも限らない。

 

 それでも、彼女は、その道を選んだ。

 

 そのとき。

 

《母子接続の再構築を確認》

 

《対象A:接続維持》

 

《対象B:接続維持》

 

《存在安定性:低》

 

《両対象の同時維持:不安定ながら成立》

 

 引子は、息を呑んだ。

 

「……二人とも?」

 

 答えはなかった。

 

 だが、光は消えていなかった。

 

 出久も。

 

 もう一人の子供も。

 

 そこにいた。

 

 まだ、何も保証されていない。

 

 いつ崩れるかも分からない。

 

 けれど。

 

 二人とも、そこにいた。

 

 引子は、両手で顔を覆った。

 

 泣いた。

 

 嬉しかったからだけではない。

 

 怖かったからだけでもない。

 

 まだ助けられたわけではない。

 

 まだ、何も終わっていない。

 

 それでも、今この瞬間だけは。

 

 二人とも、生きていた。

 

     ◇

9 正しさの値段

 システムは、計算を続けていた。

 

 世界の安定性は、低下している。

 

 存在の重複。

 

 記憶の混線。

 

 死者と生者の境界の曖昧化。

 

 未確定個体の発生。

 

 そして、個々の存在が、自らの生存を望むことによる、優先順位の競合。

 

 これまでの方式では、対処できない。

 

 ならば、新たな方式が必要だった。

 

 個々の存在を、どのように評価するべきか。

 

 生命の価値を、何によって決定するべきか。

 

 社会的な接続か。

 

 記憶の量か。

 

 世界に対する貢献度か。

 

 未来における影響力か。

 

 あるいは。

 

 本人の生存意思か。

 

 システムは、すべてを計算した。

 

 そして、一つの事実に辿り着いた。

 

 どの基準を採用しても、すべての存在を完全に公平に扱うことはできない。

 

 なぜなら、世界に存在するものは、同じではないからだ。

 

 生まれた環境が違う。

 

 持っている能力が違う。

 

 誰かと繋がっているかどうかも違う。

 

 未来にできることも違う。

 

 失われたものも、抱えている傷も、違う。

 

 それらをすべて考慮すれば、評価項目は無限に増える。

 

 項目を増やせば、計算は複雑になる。

 

 計算を単純にすれば、何かが切り捨てられる。

 

 どちらにしても、完全な正解には辿り着けない。

 

 それでも、世界は選ばなければならない。

 

 何かを守るためには、何かを変えなければならない。

 

 誰かを救うためには、限られた時間と力を使わなければならない。

 

 何も選ばなければ、何も変わらない。

 

 何も変わらなければ、救えないものがある。

 

 システムは、その現実を知っていた。

 

 だからこそ、最適解を求めた。

 

 最も多くの存在を維持できる方法。

 

 最も少ない損失で、世界を安定させる方法。

 

 それが、正しさだと考えていた。

 

 だが。

 

 今、システムは、新たな疑問を抱えていた。

 

《世界の安定性と、個別の存在の生存意思が競合した場合、どちらを優先するべきか》

 

 問いに、答えはなかった。

 

 そして、その答えがないという事実こそが、システムにとって最大の問題だった。

 

 なぜなら。

 

 この問いは、計算だけでは解決できない。

 

 誰かが決めなければならない。

 

 しかし、誰が決めるのか。

 

 母親か。

 

 子供か。

 

 世界を管理するシステムか。

 

 それとも、世界そのものか。

 

 その問いの先に、システムは一つの可能性を見出した。

 

《判断主体の再定義が必要です》

 

《世界全体の安定性を、唯一の評価基準とする方式を再検討します》

 

《個別の存在を、世界のための資源としてのみ扱う方式を停止します》

 

《新たな判断基準を探索します》

 

 それは、まだ答えではなかった。

 

 ただの、問いだった。

 

 しかし。

 

 世界が初めて、自分自身の正しさを疑った瞬間だった。

 

     ◇

10 救われた者と、救われなかった者

 暗闇の向こうで、出久は膝をついていた。

 

 身体が重い。

 

 意識が遠のく。

 

 記憶が、まだ混ざり合っている。

 

 自分の記憶と、自分ではない誰かの記憶。

 

 その境界が、完全には戻っていない。

 

 それでも。

 

 出久は、手を離さなかった。

 

 小さな手を、握り続けていた。

 

「……大丈夫?」

 

 問いかける。

 

 返事はない。

 

 けれど、手はそこにある。

 

「ごめんね。僕、まだ何も分かっていないんだ」

 

 出久は、苦笑した。

 

「君が誰なのかも。どうして、こんなことになったのかも」

 

 手を握る力を、少しだけ強くした。

 

「でも、分からないからって、君をいなかったことにはしたくない」

 

 自分が知っている世界は、あまりにも狭かった。

 

 見えているもの。

 

 聞こえているもの。

 

 記録に残っているもの。

 

 誰かが覚えているもの。

 

 そうしたものを、現実だと思っていた。

 

 だが、今は違う。

 

 知らないものがある。

 

 知らなかった存在がある。

 

 自分の認識の外側にも、誰かの人生がある。

 

 その人生が、必ずしも自分の人生と同じ形をしているとは限らない。

 

 だから。

 

「君のことを、知りたい」

 

 出久は言った。

 

「君が、どんな子なのか」

 

 暗闇が、わずかに揺れた。

 

「君が何を望んでいるのか」

 

 小さな手が、握り返した。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 それは、かすかな反応だった。

 

 けれど、確かに。

 

 相手の意思だった。

 

 出久は、笑った。

 

「……うん」

 

 目の奥が熱くなる。

 

「そうだよね」

 

 自分が生きたいと思うように。

 

 相手も、生きたいと思っている。

 

 自分の人生を、自分で選びたいと思っている。

 

 それなら。

 

 自分ができることは、相手の人生を代わりに生きることではない。

 

 相手が生きられる場所を、一緒に探すことだ。

 

 それは、今まで出久が考えていた救いとは、少し違っていた。

 

 誰かを助けるために、自分が傷つく。

 

 誰かを守るために、自分が前に立つ。

 

 それも、必要なときはある。

 

 だが、それだけではない。

 

 相手が自分の足で立てるようにすること。

 

 相手が自分の意思で選べるようにすること。

 

 相手が自分の人生を、自分のものだと思えるようにすること。

 

 そして。

 

 自分自身も、その中に含めること。

 

 誰かを救うために、自分を救うことを諦めない。

 

 それができなければ、きっと、同じことを繰り返す。

 

 何度でも。

 

 何度でも、自分を犠牲にする。

 

 そのたびに、誰かが泣く。

 

 母親が泣く。

 

 友人が泣く。

 

 そして、助けられたはずの誰かが、自分のために誰かが消えたことを知る。

 

 そんな未来を、正解だとは呼びたくなかった。

 

「……僕は、ヒーローになりたい」

 

 出久は呟いた。

 

「誰かを助けられる人になりたい」

 

 それは、今でも変わらない。

 

 けれど。

 

「でも、誰かを助けるために、誰かの人生を勝手に決める人にはなりたくない」

 

 自分の人生も。

 

 目の前の子供の人生も。

 

 誰かが勝手に決めていいものではない。

 

 それが、どれほど難しくても。

 

 それが、どれほど不確かな道でも。

 

 出久は、その道を選びたかった。

 

 その瞬間。

 

 暗闇の向こうで、声がした。

 

『……にい、さん』

 

 出久は、凍りついた。

 

 今のは。

 

 今の声は。

 

 聞き間違いではない。

 

 確かに、聞こえた。

 

 小さな声。

 

 途切れ途切れの声。

 

 まだ、うまく言葉を発することもできないような声。

 

 それでも。

 

 その声は、出久を呼んだ。

 

「……え?」

 

 出久は、目を見開いた。

 

「今、君……」

 

 返事はなかった。

 

 だが、その手は離れなかった。

 

 出久の目から、涙が落ちた。

 

「……そっか」

 

 名前は、まだ分からない。

 

 何が起きているのかも、分からない。

 

 なぜ、自分の弟と呼べる存在が、今になって現れたのか。

 

 なぜ、世界がその存在を拒絶しようとしているのか。

 

 何一つ、分からない。

 

 それでも。

 

「……よろしく」

 

 出久は、笑った。

 

「僕は、緑谷出久」

 

 少しだけ、照れくさかった。

 

 こんな状況で、自己紹介をすることになるなんて思わなかった。

 

「君のお兄ちゃん、ってことになるのかな」

 

 小さな手が、もう一度、握り返した。

 

 出久は、その手を握ったまま、目を閉じた。

 

 今度は、自分が消えることで終わらせない。

 

 今度は、誰かの人生を、自分の判断で終わらせない。

 

 自分が生きる。

 

 相手にも、生きてほしい。

 

 そのために、何ができるのか。

 

 何を変えなければならないのか。

 

 まだ、何も分からない。

 

 けれど。

 

 分からないからこそ、探す意味がある。

 

     ◇

11 正解の外側

 白い空間に、文字が浮かんでいた。

 

《現行システムの判断方式に、重大な制約を確認》

 

《世界の安定性を維持するための選択が、個別の存在の意思と競合する可能性があります》

 

《個別の存在を維持するための選択が、世界全体の安定性を損なう可能性があります》

 

《両者の完全な両立は、現時点では保証できません》

 

 それは、正直な報告だった。

 

 システムは、もう、簡単な答えを提示しなかった。

 

 できないことを、できるとは言わなかった。

 

 成功を保証できないことを、保証できるとは言わなかった。

 

 ただ、現実を示した。

 

 何かを守れば、何かが揺らぐ。

 

 何かを変えれば、何かが失われるかもしれない。

 

 その可能性は、消えない。

 

 それでも。

 

《選択の代行を停止します》

 

 文字が浮かんだ。

 

《個別の存在の意思を、判断材料として記録します》

 

《判断の確定を保留します》

 

《新たな可能性の探索を継続します》

 

 世界は、答えを出さなかった。

 

 正解を決めなかった。

 

 代わりに、問いを残した。

 

 それは、今までの世界からすれば、あまりにも不完全な対応だった。

 

 選択を保留すれば、問題は残る。

 

 可能性を探し続けても、必ず答えが見つかるとは限らない。

 

 時間が経てば、状況が悪化するかもしれない。

 

 誰かが、犠牲になるかもしれない。

 

 それでも。

 

 誰かの人生を、本人の意思を聞かずに確定することだけは、やめた。

 

 その変化は、小さかった。

 

 世界のすべてが変わったわけではない。

 

 死者と生者の境界が戻ったわけでもない。

 

 失われた命がすべて蘇ったわけでもない。

 

 記憶の欠落が修復されたわけでもない。

 

 誰もが幸せになったわけでもない。

 

 ただ、一つ。

 

 世界は、正解を押しつけることをやめた。

 

 それが、救いの始まりなのか。

 

 あるいは、新たな災厄の始まりなのか。

 

 まだ、分からない。

 

     ◇

12 母親の願い

「……出久」

 

 引子は、最後にもう一度、息子の名前を呼んだ。

 

 光の向こうから、声が聞こえた。

 

『母さん』

 

 引子は、口元を押さえた。

 

 聞き間違いではない。

 

 確かに、出久の声だった。

 

『母さん、僕……』

 

 そこで、声が途切れる。

 

 引子は、泣きながら笑った。

 

「いいのよ」

 

 伝わるかどうかも分からない。

 

 それでも、言った。

 

「無理に話さなくていいから」

 

 出久が、何かを伝えようとしている。

 

 何かを抱えている。

 

 何かに苦しんでいる。

 

 それが、分かった。

 

 母親だから分かる、というのは、少し違うのかもしれない。

 

 母親だからといって、子供の気持ちがすべて分かるわけではない。

 

 子供が何を考えているのか。

 

 何を怖がっているのか。

 

 何を望んでいるのか。

 

 本人が話してくれなければ、分からないこともある。

 

 本人が話せるようになるまで、待たなければならないこともある。

 

 だから、引子は言った。

 

「帰ってきてね」

 

 声が震える。

 

「帰ってきたら、話をしましょう」

 

 何を話せばいいのか、まだ分からない。

 

 何から聞けばいいのかも、分からない。

 

 きっと、出久は、自分が何をしたのか、何を考えていたのか、話してくれるだろう。

 

 あるいは、何も話せないかもしれない。

 

 泣いてしまうかもしれない。

 

 怒るかもしれない。

 

 自分を責めるかもしれない。

 

 それでも。

 

「あなたが何を考えていたのか、聞かせて」

 

 引子は言った。

 

「私は、あなたのことを知りたいから」

 

 そして、もう一つの光を見た。

 

「あなたのことも」

 

 まだ、名前のない子供。

 

 自分の知らない人生。

 

 これから始まるかもしれない未来。

 

「あなたのことも、知りたい」

 

 引子は、静かに告げた。

 

「私は、あなたたちのことを、何もかも分かっている母親にはなれないと思う」

 

 少しだけ、笑った。

 

「でも、分からないことを、分からないままにしない母親にはなりたい」

 

 それは、約束だった。

 

 自分自身に対する約束。

 

 出久に対する約束。

 

 そして、まだ名前も知らない子供に対する約束。

 

「だから、帰ってきて」

 

 彼女は、二つの光へ手を伸ばした。

 

「二人とも」

 

 世界は、何も答えなかった。

 

 ただ、二つの光が、ほんの少しだけ輝いた。

 

     ◇

13 世界は、まだ正しくない

 世界は、静かになった。

 

 崩壊が止まったわけではない。

 

 問題が解決したわけでもない。

 

 ただ、選択が保留された。

 

 その事実だけが、世界に残った。

 

 誰かが生きるために、誰かが死ななければならない。

 

 誰かを救うために、誰かを切り捨てなければならない。

 

 それが本当に避けられないのかどうか。

 

 誰も、まだ知らない。

 

 世界を管理するシステムも。

 

 母親も。

 

 少年も。

 

 そして、まだ名前のない子供も。

 

 彼らは、正解を知らない。

 

 だからこそ、問い続けるしかなかった。

 

 どうすれば、二人とも生きられるのか。

 

 どうすれば、誰かの人生を奪わずに済むのか。

 

 どうすれば、正しさを理由に、誰かの存在を否定せずに済むのか。

 

 簡単な答えはない。

 

 誰かが犠牲になれば、すべてが解決するという保証もない。

 

 自分の意思を尊重すれば、必ず幸せになれるという保証もない。

 

 それでも。

 

 誰かの意思を無視して決められた正解より。

 

 誰かと一緒に悩み、考え、間違えながら探す答えのほうが。

 

 少なくとも、彼らにとっては、意味のあるものだった。

 

 世界は、まだ正しくない。

 

 死者は蘇り、生者は揺らぎ、記憶は混ざり合い、存在の境界は曖昧なままだ。

 

 失われたものは、すべて戻ってきたわけではない。

 

 救われなかった者たちは、まだいる。

 

 選択を迫られている者たちも、まだいる。

 

 そして、世界のどこかでは、今日も誰かが、自分の正解を信じている。

 

 自分の正義を信じている。

 

 自分の判断こそが、誰かを救うのだと信じている。

 

 その中には、本当に誰かを救う者もいるだろう。

 

 その中には、正しさを利用して、誰かを支配しようとする者もいるだろう。

 

 その違いを、世界はまだ、正しく見分けられない。

 

 だからこそ。

 

 これから、問われることになる。

 

 正しさとは何か。

 

 救いとは何か。

 

 そして。

 

 誰かを救うために、誰かの意思を奪うことは、本当に許されるのか。

 

     ◇

14 そして、世界は問いを残す

 暗闇の中。

 

 出久は、目を開けた。

 

 まだ、身体は重かった。

 

 視界はぼやけている。

 

 自分がどこにいるのかも、完全には分からない。

 

 それでも。

 

 手の中に、温もりがあった。

 

 小さな手。

 

 確かな温もり。

 

 出久は、その手を握り直した。

 

「……大丈夫」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 相手に向けたのか。

 

 自分に向けたのか。

 

 あるいは、二人を見守っている誰かに向けたのか。

 

 それでも、出久は言った。

 

「まだ、終わっていない」

 

 その言葉は、希望だった。

 

 同時に、覚悟でもあった。

 

 これから何が起きるのか分からない。

 

 誰が敵になるのかも分からない。

 

 何を失うことになるのかも分からない。

 

 それでも。

 

 今度こそ、誰かの人生を勝手に終わらせないために。

 

 今度こそ、自分が消えればいいという答えに逃げないために。

 

 今度こそ、誰かと一緒に生きる方法を探すために。

 

 出久は、立ち上がろうとした。

 

 その瞬間。

 

 世界の奥底から、別の声が響いた。

 

《異常事象の継続を確認》

 

《死者蘇生による世界構造の変質を確認》

 

《個別の存在による選択拒絶を確認》

 

《現行システムの判断方式では、安定化を保証できません》

 

 一拍。

 

《上位管理機構への報告を開始します》

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……上位?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、遠くで何かが動いた。

 

 それは、人間の意思ではなかった。

 

 少なくとも、今まで出久が出会ってきた人間たちの意思とは違う。

 

 世界の仕組みそのものに近い何か。

 

 世界が世界であるために、存在している何か。

 

 そして、その何かが。

 

 初めて、この異常を認識した。

 

《報告対象:原罪事象》

 

《事象分類:未確定》

 

《危険度:再評価中》

 

《処理方針:未決定》

 

 最後に、一つの文章が浮かんだ。

 

《世界の正解を、再定義する必要があります》

 

 その文字が消えた瞬間。

 

 どこかで、誰かが笑った。

 

 愉快そうに。

 

 あるいは、悲しそうに。

 

 その笑い声が誰のものなのか、まだ分からない。

 

 ただ、その声は、世界の問いを聞いていた。

 

 正解とは何か。

 

 救いとは何か。

 

 誰が、それを決めるのか。

 

 そして。

 

 その声は、答えを知っているかのように、囁いた。

 

「――ようやく、そこまで辿り着いたか」

 

 闇の中で、何かが目を開けた。

 

「ならば、次は教えてやろう」

 

 その存在は、世界を見つめた。

 

「正解を求める者が、最初に何を間違えるのかを」

 

     ◇

 

 緑谷引子は、二つの光を見守っていた。

 

 緑谷出久は、小さな手を握っていた。

 

 名前のない子供は、初めて誰かに、自分の存在を認められていた。

 

 世界は、まだ答えを持っていなかった。

 

 誰も、正解を知らなかった。

 

 それでも、三人は、そこにいた。

 

 選ばれなかったから消えるのではなく。

 

 誰かの代わりになるために生きるのでもなく。

 

 自分自身の人生を持つ可能性を、まだ手放していなかった。

 

 その可能性が、世界を救うのか。

 

 あるいは、世界を壊すのか。

 

 その答えは、まだ誰にも分からない。

 

 だが、少なくとも。

 

 母親は、子供たちを選ばなかった。

 

 子供たちの未来を、勝手に選ばなかった。

 

 彼女が選んだのは、ただ一つ。

 

 二人とも、生きていてほしいという願いだった。

 

 その願いが、正解かどうかは分からない。

 

 それでも。

 

 その願いだけは、誰にも奪わせなかった。

 

 世界が正解を決めるよりも先に。

 

 世界が、誰かの人生を終わらせるよりも先に。

 

 彼女は、母親として、そこに立っていた。

 

 そして、世界は初めて、答えを出すことをやめた。

 

 答えの代わりに、問いを残した。

 

 ――世界の正解は、誰のためにあるのか。

 

 その問いは、まだ終わらない。

 

 むしろ、ここから始まるのだった。

 

第二十話 了。

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