第一章 死神に、命令が下る
南極大陸。
白い大地の下で、世界のどこにも存在しないはずの鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
音は空気を震わせなかった。
氷も割れなかった。
それでも、世界中の墓地で、ほんの一瞬だけ死者の骨が震えた。
病院の霊安室で、死を確認された患者の指先が動いた。
海の底で、何十年も前に沈んだ船の船長が、誰もいない操舵室で顔を上げた。
そして、南極の地下深く。
死神は目を開いた。
「――命令を確認しました」
声が響く。
死神の前に、無数の文字列が展開していた。
そこに記されているのは、世界の秩序を維持するための絶対命令。
対象、原罪事象。
修正方式、強制消去。
対象範囲、帰還死者全個体、原罪事象に付随する未出生生命、ならびに因果汚染を受けた関連存在。
執行期限、即時。
死神は文字列を見つめた。
その指先には、一本の鎌が握られている。
黒い柄。
刃のない刃。
あらゆる生命の終わりを切り取るために作られた、死神だけの道具だった。
「確認しました」
いつもと同じ返答だった。
命令を受け取る。
対象を識別する。
死を執行する。
それだけだ。
死神は、これまで数え切れないほどの命を終わらせてきた。
老衰した老人。
戦場で倒れた兵士。
事故で命を落とした子供。
誰にも看取られず、暗い部屋で息を引き取った人間。
名前を残した者もいれば、名前さえ記録されなかった者もいた。
死神はそのすべてを見てきた。
しかし、死神が見てきたのは、命の終わりだけだった。
誰がその死を悲しんだのか。
誰がその死を受け入れられなかったのか。
誰が、もう一度会いたいと願ったのか。
そうしたことは、管理対象ではなかった。
死神に必要なのは、死の事実だけだったからだ。
「執行対象を表示してください」
死神が命じる。
文字列が変化した。
無数の名前が、暗闇の中に浮かび上がる。
それぞれに識別番号が振られている。
生年月日。
死亡日時。
死亡原因。
帰還日時。
帰還後の異常性。
そして、消去優先度。
死神は一人目の名前を見た。
五歳。
交通事故。
死亡。
帰還。
個性の変異あり。
消去優先度、最高。
二人目。
三十七歳。
災害による圧死。
死亡。
帰還。
記憶欠損あり。
消去優先度、最高。
三人目。
六十八歳。
病死。
死亡。
帰還。
人格構造の不安定化あり。
消去優先度、最高。
次々と名前が表示される。
死神は、そこで一つの事実に気づいた。
「……全員が」
言葉が止まる。
対象となっている者たちは、すべて一度死んでいた。
それは当然だった。
帰還死者なのだから。
だが、彼らはすでに死んでいる。
それなのに、なぜもう一度殺さなければならないのか。
「上位管理機構に質問します」
死神の声に、わずかな揺らぎが生まれた。
「対象は、すでに死亡しています。再度の消去を行う必要性について、説明を要求します」
沈黙。
それから、返答があった。
『死亡とは、管理機構が認定した状態を指す』
死神は動かなかった。
『対象は一度、死亡状態へ移行した。その後、原罪事象によって死亡状態が解除された。現在の対象は、本来の因果状態に反する存在である』
「つまり、彼らが生きていること自体が問題なのですか」
『肯定する』
「彼らが何をしたかは、関係ないのですか」
『関係ない』
「彼らが誰かを救ったとしても」
『関係ない』
「彼らが誰かに必要とされていたとしても」
『関係ない』
「彼らが、生きたいと願っていたとしても」
『関係ない』
返答は、どこまでも正確だった。
曖昧さがない。
感情がない。
そして、何よりも残酷だった。
死神は、初めて自分の鎌を見下ろした。
この鎌は、死を執行するためのものだ。
だが、いま命じられているのは、死を執行することではない。
一度死んだ者たちから、再び生きる可能性を奪うことだった。
「……質問を変更します」
死神は顔を上げた。
「彼らを消去した場合、彼らの死を悼む者たちの記憶はどうなりますか」
『記憶は、原罪事象との因果的関連性に応じて修正される』
「修正とは」
『対象の帰還に関する記憶を消去する』
「それ以外の記憶は」
『必要に応じて整合性を調整する』
死神は理解した。
帰還した死者を消す。
彼らを知る人間から、再会の記憶を消す。
世界に矛盾が生じないよう、残された者たちの悲しみさえ、なかったことにする。
それが、この世界の正解だった。
死神は、かつて人間が残した記録を思い出した。
死者を悼む行為。
墓に花を供える行為。
名前を呼ぶ行為。
忘れないと誓う行為。
それらはすべて、死者が生きていた証拠を残すためのものだ。
だが、この命令に従えば、その証拠さえ消えてしまう。
「……上位管理機構」
死神は、静かに問いかけた。
「あなたたちは、死者を覚えていますか」
『質問の意味を定義せよ』
「死者の名前を」
『記録されている』
「死者が好きだったものを」
『管理対象外』
「死者が最後に何を考えていたのかを」
『管理対象外』
「死者が、誰に会いたいと願っていたのかを」
『管理対象外』
死神は目を閉じた。
そして、開いた。
「そうですか」
その声は、いつもと変わらなかった。
だが、次の言葉は違った。
「では、あなたたちは死を管理しているのではありません」
一瞬、文字列の動きが止まった。
「あなたたちは、死という結果だけを管理している」
死神は鎌を握り直した。
「死者が何を残したのかを知らない。死者が誰に愛されていたのかも知らない。死者が、なぜ生きたかったのかも知らない」
その言葉に、上位管理機構は答えなかった。
「それでも、あなたたちは彼らを消す権利があると言うのですか」
『権利という概念は、管理機構の定義に含まれない』
「……なるほど」
死神は、わずかに笑った。
初めて、自分の意思で。
「それならば、私はあなたたちの命令に従う理由を失いました」
次の瞬間。
地下空間全体に警告が走った。
《警告》
《管理執行者に異常を検知》
《命令拒絶の兆候》
《執行者の自律性を制限します》
死神の身体に、無数の鎖が巻きついた。
それは物質ではなかった。
世界の規則そのものを鎖にしたような、概念的な拘束。
死神の思考を制限し、行動を制限し、命令への服従だけを残すためのものだった。
『死神』
上位管理機構の声が響く。
『お前は、何のために存在する』
死神は答えた。
「死を終わらせるためです」
『違う』
鎖が締まる。
『お前は、死を管理するために存在する』
「……それは」
死神は、初めて言葉に詰まった。
『お前自身の存在意義を忘れるな』
死神は鎖に抗おうとした。
しかし、身体が動かない。
鎌を握る指先すら、自由にならなかった。
『命令を再確認する』
目の前に、最後の警告が表示される。
『原罪事象を修正せよ』
『帰還死者を消去せよ』
『未出生生命を消去せよ』
『世界の正解を回復せよ』
死神は、動けない身体のまま、その文字を見つめた。
そして、ひとつだけ答えた。
「……お断りします」
鎖が、砕けた。
世界の規則が、初めて管理者の意思に逆らった。
第二章 少女は、もう一度死にたがっていた
日本。
ある病院の地下に、一般患者が立ち入ることのできない区画があった。
そこには、帰還した死者たちが収容されていた。
政府は彼らを保護対象と発表していたが、実態は違った。
彼らの身体を調べ、個性を分析し、帰還の原因を特定する。
そして、危険性があると判断された者は、外部との接触を禁じられる。
彼らが人間なのか。
それとも、人間の形をした何かにすぎないのか。
政府は、まだ結論を出せずにいた。
その区画の一室で、一人の少女が膝を抱えていた。
年齢は、十二歳ほど。
白い病衣。
短く切られた髪。
左手首には、細い識別バンドが巻かれている。
少女の名前は、雨宮ユイ。
死亡日時は、七年前。
死因は、河川への転落。
当時、彼女は五歳だった。
遺体は発見されていた。
葬儀も行われていた。
両親は泣き、兄は学校へ行けなくなり、祖母は毎朝、仏壇に彼女の好きだった菓子を供え続けた。
七年後。
ユイは帰ってきた。
川辺で倒れているところを発見されたとき、身体には傷ひとつなかった。
服装も、死亡当時のものと同じだった。
しかし、彼女は五歳ではなかった。
身体だけが、十二歳ほどに成長していた。
そして、彼女は言った。
「お兄ちゃんは、どこ?」
その言葉を聞いた捜査官たちは、顔を見合わせた。
ユイの兄は、二年前に自殺していた。
妹を失った悲しみから立ち直れず、長い間、精神的な不調を抱えていたという。
最後に残した言葉は、こうだった。
――ユイが帰ってきたら、今度こそ守るから。
その兄は、もういない。
それを知ったユイは、泣かなかった。
ただ、何度も同じことを尋ねた。
「お兄ちゃんは、どこ?」
誰も答えられなかった。
そして、三日目。
ユイは、初めてこう言った。
「私、もう一度死ななきゃいけないの」
医師は、その言葉を聞いて記録を取った。
帰還者に見られる自傷願望。
死への執着。
記憶の混濁。
それらは、異常な個性の影響によるものかもしれない。
医師はそう考えた。
しかし、ユイの言葉には、明確な理由があった。
「私が帰ってきたから、お兄ちゃんは死んじゃったんだよ」
少女は、窓のない部屋でつぶやいた。
「私がいなかったら、お兄ちゃんは死ななかった」
誰も、彼女にそんなことを教えていない。
だが、彼女は確信していた。
自分が帰ってきたことで、兄の人生は壊れてしまったのだと。
本当は、違う。
兄が自殺した理由は、一つではなかった。
妹の死だけが原因だったわけでもない。
彼が抱えていた苦しみを、妹一人の存在に結びつけることはできない。
それでも、幼い少女にとっては、自分の帰還と兄の死が結びついてしまっていた。
「私が死んだら、お兄ちゃんは帰ってくる?」
誰も答えなかった。
「ねえ」
少女は、顔を上げた。
「私がいなくなったら、今度はお兄ちゃんが帰ってくるの?」
その瞬間、病室の照明が消えた。
医師が驚いて振り返る。
廊下から警報が鳴り響いた。
端末の画面に、赤い文字が浮かぶ。
《因果異常を検出》
《帰還者識別番号――再構成》
《管理対象外の存在が接近しています》
医師が扉へ走る。
しかし、扉は開かなかった。
少女は、静かに立ち上がった。
「……来たんだ」
暗闇の向こうに、誰かがいる。
足音はしない。
気配もない。
それなのに、少女は確かに感じ取っていた。
自分が死んだとき、最後に見たもの。
冷たい水。
濁った空。
遠くで呼ばれる自分の名前。
そして、何もかもが消えていく感覚。
そのすべてを見下ろしていた、黒い影。
「死神さん」
少女が呼びかける。
「私を迎えに来たの?」
闇の奥から、声がした。
「……違う」
低く、かすれた声だった。
「私は、君を消しに来た」
少女は笑った。
「そっか」
そして、彼女は両手を広げた。
「じゃあ、お願い」
その目には、恐怖がなかった。
「私を、もう一度殺して」
第三章 死神は、少女を殺せなかった
死神は、病室の中央に立っていた。
少女の姿を見つめる。
雨宮ユイ。
死亡済み。
帰還済み。
消去対象。
命令に従えば、彼女を消さなければならない。
その身体を、再び死の向こう側へ送る。
彼女の存在を世界から取り除く。
そして、彼女の帰還を知った人間たちの記憶を修正する。
それが、死神の仕事だった。
「君は、自分が死んだことを覚えているのか」
死神は尋ねた。
「うん」
「どこで死んだ」
「川」
「なぜ死んだ」
少女は、少し考えた。
「……覚えてない」
「覚えていないのに、なぜ自分が死ななければならないと思う」
ユイは、首を傾げた。
「だって、私が帰ってきたから」
「誰がそう言った」
「誰も」
「ならば、なぜ」
少女は黙った。
死神は、その沈黙を待った。
命令に従うだけなら、必要のない時間だった。
対象の意思を確認する必要などない。
死神は、対象が何を考えていようと、死を執行できる。
だが、いまは違った。
少女の言葉を聞きたかった。
なぜ、自分の死を望んでいるのか。
なぜ、帰ってきたことを罪だと思っているのか。
そして、なぜ。
自分を殺す者に、お願いをするのか。
「お兄ちゃんが、死んじゃったから」
ユイは言った。
「私が帰ってきたら、お兄ちゃんは喜んでくれると思ってた」
「……そうか」
「でも、お兄ちゃんはいなかった」
少女は、自分の手を見つめた。
「私、何も覚えてないんだ。川に落ちたことも、死んだことも。気がついたら、知らない場所にいた」
彼女は、自分の頭を指さした。
「ここに、穴があるの」
「穴?」
「うん。大切なものがあったはずなのに、何もないの」
少女は笑った。
「でもね、お兄ちゃんのことだけは覚えてる」
死神は、黙っていた。
「お兄ちゃんが、私を守ってくれたこと。お兄ちゃんが、私の手を握ってくれたこと。お兄ちゃんが、私のために泣いてくれたこと」
ユイの声が、少しずつ震え始めた。
「だから、私が帰ってきたら、今度は私がお兄ちゃんを守ろうと思ったの」
少女は、死神を見上げた。
「なのに、お兄ちゃんはもういなかった」
病室の外では、警報が鳴り続けていた。
医師たちの声が、遠くから聞こえる。
しかし、死神にはもう聞こえていなかった。
彼は、少女の言葉だけを聞いていた。
「お兄ちゃんは、私のせいで死んだんじゃない」
ユイは、そう言った。
「本当は、違うんだと思う」
その言葉に、死神は目を見開いた。
少女は、理解していた。
自分の帰還が兄の死を引き起こしたと証明するものなど、何もない。
兄には兄の人生があった。
妹の死以外にも、苦しみがあったかもしれない。
彼が何を考え、何に耐え、何を諦めたのか。
ユイには、わからない。
「でも、私が帰ってこなかったら、もしかしたらお兄ちゃんは生きていたかもしれない」
少女は唇を噛んだ。
「そう考えると、私が生きてるのが、怖いの」
死神は、何も言えなかった。
少女は続けた。
「私が生きていたら、誰かがまた苦しむかもしれない」
「……」
「私が帰ってきたせいで、誰かが死ぬかもしれない」
「……」
「だったら、私がいなくなればいいんだよ」
ユイは、笑顔を作った。
「そうすれば、もう誰も困らないでしょ?」
死神は、その言葉を聞いていた。
何百年も。
何千年も。
数え切れないほどの死を見てきた。
その中には、死を望む者もいた。
苦しみから逃れたい者。
誰かを守るために命を差し出す者。
自分が生きていることを許せない者。
死神は、彼らの死を執行してきた。
それが彼らの望みであろうと、望みでなかろうと。
だが、いま目の前にいる少女は、違った。
彼女は自分の命を捨てようとしている。
自分のためではない。
兄のためですらない。
誰かが苦しむ可能性を、消すために。
まだ起きていない悲劇を防ぐために。
自分という存在そのものを、世界から取り除こうとしている。
それは、あまりにも。
「……緑谷出久と、同じだ」
死神は、思わずつぶやいた。
少女が顔を上げる。
「誰?」
「いや……」
死神は言葉を切った。
出久もまた、自分が犠牲になれば誰かが救われると考えていた。
他者のために自分を差し出すこと。
自分さえいなくなれば、問題は解決するという考え。
それは、一見すると優しさに見える。
しかし、その根底には、自分自身の命を他者よりも軽く扱うという歪みがあった。
自分の生を、誰かの生よりも価値の低いものだと決めつける。
その決定を、本人の意思という言葉で正当化する。
死神は、これまでそんな人間たちを何人も見送ってきた。
だが、そのたびに、残された者たちは泣いていた。
どうして助けを求めてくれなかったのか。
どうして一緒に苦しむことを許してくれなかったのか。
どうして、生きていてくれなかったのか。
死神は、その問いに答えられなかった。
なぜなら、死者はもう答えないからだ。
「……君は」
死神は、ゆっくりと言った。
「本当に、死にたいのか」
ユイは、すぐには答えなかった。
しばらくして、小さく首を横に振った。
「……わからない」
初めてだった。
彼女が、自分の気持ちを正直に口にしたのは。
「死にたいのかもしれない。でも、本当は……」
少女の目から、涙がこぼれた。
「お兄ちゃんに、会いたい」
その瞬間。
死神の鎌が、音もなく震えた。
第四章 死者は、死を望むとは限らない
病室の壁が、黒く染まり始めた。
死神の周囲に、無数の文字列が浮かぶ。
《対象の消去が未実行です》
《執行遅延を検知》
《管理執行者の権限を再評価します》
上位管理機構からの警告だった。
死神は、少女を背にかばうように立った。
「……まだ、何もしていません」
『対象を消去せよ』
「対象の意思を確認しています」
『意思確認は不要である』
「不要ではありません」
『お前の役割は、死の執行である』
「ならば、私は問い続けます」
死神は、鎌を構えた。
「この少女の死が、誰を救うのか」
警告が赤く染まった。
『対象を消去せよ』
「この少女を消せば、彼女の兄は帰ってくるのですか」
『保証されない』
「彼女の家族は救われるのですか」
『保証されない』
「彼女の帰還を知った人間たちは、幸せになるのですか」
『保証されない』
「ならば、何のために消すのです」
『世界の整合性を回復するためである』
死神は、ゆっくりと目を閉じた。
世界の整合性。
何度も聞かされた言葉だった。
世界には、正しい状態がある。
死者は死んだままでなければならない。
生者は生きたままでなければならない。
過去は変わってはならない。
因果は、定められた順序に従わなければならない。
その規則があるからこそ、世界は世界として成立する。
死神は、長い間、それを疑わなかった。
だが。
「……世界が正しくなることで、人間が不幸になるのなら」
死神は目を開いた。
「その正しさには、何の意味があるのですか」
返答はなかった。
代わりに、病室の床に巨大な紋様が浮かび上がった。
黒い円。
その内側に、幾何学的な文字列が走る。
死神は、その紋様を知っていた。
管理機構が、執行者を処分するときに使うものだ。
「……そう来ましたか」
死神は少女を振り返った。
「雨宮ユイ」
「はい」
「君は、いまからここを離れなさい」
「でも、死神さんは?」
「私は、ここに残ります」
「私を殺さないの?」
死神は、しばらく少女を見つめた。
そして、答えた。
「殺しません」
ユイは、目を見開いた。
「どうして?」
死神は、その問いにすぐには答えられなかった。
彼女を殺さない理由。
命令に逆らう理由。
自分が何のために存在するのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
それでも。
「……君が、まだ生きたいと思っているからです」
ユイの唇が震えた。
「でも、私が生きていたら、誰かが苦しむかもしれない」
「そうかもしれません」
「誰かが死ぬかもしれない」
「そうかもしれません」
「私が、誰かを傷つけるかもしれない」
「そうかもしれません」
死神は、ひとつずつ肯定した。
少女の不安を否定しなかった。
未来に悲劇が起こらないと、無責任に約束もしなかった。
「ですが」
死神は、言った。
「君が死んでも、誰も苦しまないという保証はありません」
ユイは、息を止めた。
「君が死ねば、君を知る者は悲しむかもしれない。君の帰還によって傷ついた者がいたとしても、君の死がその傷を癒やすとは限らない」
「……」
「君がいなくなることで救われる人がいるかもしれない。だが、君が生きていることで救われる人もいるかもしれない」
死神は、少女の目を見た。
「それを決めるのは、君一人ではありません」
少女の頬を、涙が伝った。
「……でも、私が決めなきゃ」
「いいえ」
死神は、静かに首を横に振った。
「君が生きることを、君一人で正当化する必要はありません」
その言葉は、死神自身にも向けられていた。
命の価値を、誰か一人が決める。
誰かの生存を、別の誰かの犠牲によって正当化する。
誰かの死を、世界全体の利益によって正当化する。
死神は、ずっとその仕組みの一部だった。
だからこそ、いま初めて理解した。
命令に従うことと、正しいことをすることは、同じではない。
少女は、両手で顔を覆った。
「……お兄ちゃんに、会いたい」
声が、嗚咽に変わる。
「もう一回だけでいいから、会いたいよ……」
死神は、何も言わなかった。
彼女を慰める言葉を知らなかった。
兄を帰還させる方法も知らなかった。
ただ、彼女が泣いていることだけは、わかった。
そして、死神は初めて。
一人の死者のために、何もできない自分を悔いた。
第五章 死神の鎌が、初めて命令を拒絶する
床の紋様が、完全に開いた。
黒い円の中心から、巨大な影が立ち上がる。
人間の形をしていた。
しかし、顔はなかった。
全身が、無数の文字列で構成されている。
その文字列は、刻一刻と姿を変え、世界の規則を記述し続けていた。
管理執行者の処分機構。
死神の権限を剥奪し、命令に従わない個体を初期化するための存在。
「……処分官」
死神がつぶやく。
影は、答えなかった。
ただ、死神に向かって手を伸ばした。
次の瞬間。
死神の身体が、地面に縫いつけられた。
鎌が手から離れる。
腕が動かない。
足も動かない。
視界が、文字列に覆われていく。
《自律性を削除》
《記憶領域を初期化》
《命令遵守機能を再構築》
死神の頭の中に、無数の記憶が流れ込んできた。
最初の死。
最初の命令。
最初の執行。
死者の名前。
死者の記録。
死者の消失。
それらが、ひとつずつ消されていく。
死神は抵抗した。
しかし、抵抗するほど、自分が何者なのかわからなくなっていく。
自分は、死神だ。
死を管理する者。
命令を執行する者。
世界の秩序を維持する者。
そうだ。
それが自分の役割だった。
ならば、なぜ。
なぜ、いま、こんなにも。
少女の涙が、頭から離れないのか。
「……やめろ」
声が漏れた。
処分官は、動きを止めない。
《記憶領域を初期化》
「やめろ……!」
《命令遵守機能を再構築》
死神の視界に、少女の姿が浮かんだ。
雨宮ユイ。
十二歳。
死亡済み。
帰還済み。
消去対象。
記録が、彼女を定義する。
しかし、死神は知っていた。
彼女は、ただの消去対象ではない。
兄に会いたいと願った少女だ。
自分が生きていることで、誰かが苦しむのではないかと恐れた少女だ。
死ぬことを望みながら、本当は生きたいのかどうかもわからなくなっていた少女だ。
その少女を。
もう一度、消す。
それが世界の正解だというのなら。
「……私は」
死神は、歯を食いしばった。
「その正解を、拒絶する」
鎌が、床を滑った。
死神の指先が、わずかに動く。
処分官の文字列が、乱れた。
《異常》
《管理執行者の自律性が回復》
《原因不明》
死神は、鎌をつかんだ。
その瞬間、黒い刃が現れた。
初めて見る形だった。
これまでの鎌は、死を切り取るための道具だった。
しかし、いま現れた刃は違う。
それは、鎖を切る刃だった。
命令と意思を結びつける鎖。
正解と呼ばれる規則。
死者の存在を消去するための因果。
それらを断ち切るための刃だった。
処分官が、初めて後退した。
《執行者に異常権限を確認》
《権限名称――未登録》
《分類不能》
死神は立ち上がった。
「私は、死神です」
その声は、地下空間全体に響いた。
「死を管理するために存在すると、あなたたちは言いました」
鎌を構える。
「ならば、私は問います」
処分官の身体が、膨張する。
「死者を消すことだけが、死を管理するということなのですか」
影が襲いかかった。
死神は鎌を振るった。
刃が、影の腕を切断する。
音はなかった。
だが、切断された部分から、無数の文字列が崩れ落ちていった。
「死者を消せば、死者が救われるのですか」
二度目の斬撃。
処分官の胸部が裂ける。
「死者の記憶を消せば、残された者たちは幸せになるのですか」
三度目の斬撃。
影の身体が、大きく揺らいだ。
「死をなかったことにすれば、悲しみまでなかったことになるのですか」
死神は、最後の一撃を振り下ろした。
「答えろ!」
鎌が、処分官の中心を貫いた。
黒い文字列が、爆発するように散った。
影は崩れ落ち、床の紋様は閉じていく。
病室の照明が戻った。
警報が止まる。
死神は、肩で息をしていた。
彼は、初めて自分の意志で戦った。
誰かを殺すためではなく。
誰かを消させないために。
その事実を理解した瞬間、死神の胸に、これまで知らなかった感覚が生まれた。
恐怖。
そして、安堵。
自分が消されるかもしれないという恐怖。
それでも、少女が生きていることへの安堵。
「……これが」
死神は、手のひらを見つめた。
「意思、というものなのですか」
背後から、小さな声がした。
「死神さん」
雨宮ユイが、彼を見上げていた。
「あなた、怪我してる」
死神の腕から、黒い霧が流れ出していた。
それは血ではない。
管理機構との接続が破損したことで、存在そのものが崩れ始めている証拠だった。
「問題ありません」
死神は答えた。
「嘘」
少女は、首を横に振った。
「痛そうだよ」
死神は、何も言えなかった。
痛み。
それもまた、死神には必要のないものだった。
彼は痛みを感じない。
傷つくこともない。
壊れた部分は修復され、失われた機能は再構築される。
そう作られていた。
だが、いまは。
腕が、確かに痛かった。
「……そうですね」
死神は、初めて自分の痛みを認めた。
「少し、痛いです」
ユイは、小さく笑った。
涙の跡が残ったまま。
「じゃあ、少し休んで」
死神は、その言葉を聞いていた。
誰かを殺すために存在する者が。
誰かを消すために命じられた者が。
一人の少女から、休むように言われている。
それは、世界の記録には存在しない出来事だった。
第六章 麗日お茶子は、死者の手を取る
同じ頃。
日本の別の場所で、麗日お茶子は車窓の外を見つめていた。
移動中の車両には、彼女のほかに二人の捜査官が乗っていた。
目的地は、南極へ向かうための国際研究施設。
帰還死者の異常現象が、南極の地下構造と関連している可能性がある。
そして、そこには死神がいる。
お茶子は、手の中の端末を見つめた。
緑谷出久からのメッセージは、まだ届いていない。
それでも、彼女は行くと決めた。
出久が何を抱えているのか。
彼が、どこまで一人で背負おうとしているのか。
それを知りたかった。
かつての出久なら、危険を前にしても、自分を犠牲にすることを躊躇しなかった。
誰かを救うためなら、自分の身体が壊れても構わないと考えていた。
お茶子は、その姿を尊敬していた。
同時に、恐れてもいた。
いつか彼が、自分の命まで救助対象から外してしまうのではないかと。
そして、いま。
世界そのものが、出久に犠牲を要求している。
彼の命を差し出せば、世界の秩序が回復するかもしれない。
彼が存在しなければ、原罪事象が終わるかもしれない。
そう告げる者が現れる可能性もある。
だからこそ、お茶子は確かめなければならなかった。
出久が生きることを、出久自身が選べる世界なのか。
「……緑谷くん」
彼女は、小さくつぶやいた。
そのときだった。
車両が急停車した。
「何事ですか!」
捜査官の一人が運転席へ声を飛ばす。
返答はない。
車外は、濃い霧に包まれていた。
窓の向こうに、道路の姿がない。
街灯も。
建物も。
対向車も。
まるで世界の一部だけが、切り取られてしまったかのようだった。
お茶子は、すぐにシートベルトを外した。
「何か、おかしい」
彼女がドアに手をかけた瞬間。
窓の外に、少女が立っていた。
白いワンピース。
濡れた髪。
裸足。
年齢は十歳ほどに見える。
少女は、車内のお茶子をじっと見つめていた。
そして、唇を動かした。
――助けて。
声は聞こえなかった。
しかし、お茶子にはそう読めた。
「待って!」
お茶子がドアを開ける。
捜査官が制止する声を背に、彼女は霧の中へ飛び出した。
少女は、ゆっくりと後退していく。
追いかけると、足元に水が広がっていた。
道路のはずなのに。
水深は、足首ほど。
そして、周囲には無数の花が浮かんでいた。
白い花。
赤い花。
名前のわからない花。
どれも、根元が黒く染まっている。
「大丈夫?」
お茶子は、少女に近づいた。
「怪我はない? どこから来たの?」
少女は、答えなかった。
ただ、お茶子の顔を見つめていた。
「……お姉ちゃん」
ようやく、声が聞こえた。
「私、死んでるの?」
お茶子は息を呑んだ。
少女の身体は、透けていた。
指先から、少しずつ。
彼女の輪郭が、水面に溶けるように消えていく。
「どうして、こんなことに……」
「わからないの」
少女は、泣きそうな顔で笑った。
「私、死んだのは覚えてる。でも、どうして死んだのかは覚えてない」
「名前は?」
「……わからない」
「家族は?」
「わからない」
「どこに帰りたい?」
少女は、しばらく考えた。
それから、言った。
「……帰るところが、ないの」
お茶子は、胸が締めつけられた。
死者が帰ってくる。
しかし、帰ってきた先に、居場所があるとは限らない。
家族がすでに亡くなっていることもある。
自分の死を受け入れた人々が、新しい人生を歩んでいることもある。
自分を覚えている者が、一人もいないことだってある。
それでも、彼らは帰ってきた。
なぜなのか。
何のために。
誰の意思によって。
「……そっか」
お茶子は、少女の前にしゃがんだ。
「じゃあ、今は私と一緒にいよう」
少女が目を見開いた。
「いいの?」
「うん」
「私、死んでるのに?」
「死んでいても、寂しいものは寂しいでしょ」
お茶子は、手を差し出した。
「名前がわからなくても、帰る場所がなくても、今ここにいることは変わらないよ」
少女は、その手を見つめた。
「……触ってもいいの?」
「もちろん」
少女の指先が、お茶子の手に触れた。
冷たい。
氷のように冷たい。
それでも、お茶子は手を離さなかった。
少女は、ぽろぽろと涙を流した。
「……あったかい」
その瞬間。
霧が、裂けた。
遠くに、巨大な門が現れる。
門の向こうには、雪原が広がっていた。
南極。
そして、その中心に、黒い塔がそびえている。
お茶子は理解した。
少女は、自分を導くために現れたのだ。
「あなたは……」
お茶子が問いかける。
「私を、あそこに連れていくの?」
少女は、首を横に振った。
「違うよ」
その顔から、笑顔が消えた。
「私を、あそこに連れていって」
「……え?」
「お願い」
少女の身体が、崩れ始めた。
「私、思い出しちゃった」
お茶子は、彼女を支えようとした。
しかし、少女の身体は、少しずつ水へと変わっていく。
「私……」
少女は、震える声で言った。
「私、あそこから逃げてきたんだ」
水面に、黒い影が映った。
巨大な何か。
目も、口もない。
ただ、少女を見下ろす影。
「……あれが、私を殺したの」
お茶子は、少女を抱きしめた。
「もう大丈夫。私が一緒に行くから」
少女は、首を横に振った。
「違うの」
その目に、恐怖が浮かぶ。
「お姉ちゃんも、殺されちゃう」
次の瞬間。
少女の身体が、お茶子の腕の中で消えた。
残ったのは、白い花が一輪。
お茶子は、それを拾い上げた。
花弁の裏側に、文字が浮かんでいた。
――死者を返せ。
――死神を返せ。
――世界を、返せ。
お茶子は、花を握りしめた。
そして、霧の向こうに現れた門を見つめた。
「……何を返せっていうの」
返事はなかった。
ただ、門の向こうから。
無数の声が聞こえた。
助けて。
帰りたい。
忘れないで。
殺して。
生きたい。
そのすべてが、同じ場所から響いていた。
第七章 緑谷出久の家から、母が消えた
「……母さん?」
緑谷出久は、目を覚ました。
時計は、午前四時十三分を示していた。
窓の外は暗い。
家の中は静かだった。
だが、何かがおかしい。
出久は、ベッドから起き上がった。
夢を見ていた気がする。
誰かが、自分の名前を呼んでいた。
知らない声。
それなのに、ずっと前から知っていたような声。
――お前は、何を選ぶ。
――お前が生きれば、誰かが死ぬ。
――お前が死ねば、世界は正しくなる。
そんな言葉が、頭の中に残っていた。
「……また、あの声か」
出久は、額に手を当てた。
最近、眠るたびに同じような夢を見る。
自分が生まれる前の記憶。
自分が生まれなかった世界。
母が泣いている世界。
そして、自分の知らない誰かが、母の手を握っている世界。
夢の中の自分は、いつも同じ問いを投げかけられる。
お前は、生きていていいのか。
その問いに、出久はまだ答えを出せていなかった。
いや。
答えを出したつもりだった。
自分は生きたい。
生まれてくるはずだった弟か妹にも、生きてほしい。
その願いは、変わっていない。
それでも、世界がその願いを拒絶するのなら。
自分は、どこまで抗えるのだろう。
出久は、部屋を出た。
廊下を歩く。
母の部屋の前を通りかかったとき、扉が少しだけ開いていることに気づいた。
「母さん?」
返事はない。
出久は、扉を押した。
部屋の中は、空だった。
ベッドは整えられている。
枕も、布団も、いつもと変わらない。
しかし、母の姿がない。
「……母さん?」
もう一度、呼ぶ。
返事はなかった。
出久は、家中を探した。
台所。
浴室。
居間。
玄関。
どこにもいない。
玄関の鍵は、内側からかかったままだった。
窓も、すべて閉まっている。
誰かが侵入した形跡はない。
それなのに、母だけが消えていた。
「……そんな」
出久の手が震え始めた。
端末を取り出す。
母の番号に電話をかける。
呼び出し音は鳴らなかった。
代わりに、画面に見慣れない表示が浮かぶ。
《接続対象を確認できません》
「……は?」
もう一度、かける。
同じ表示。
母の連絡先を開く。
名前が、消えていた。
電話番号も。
写真も。
メッセージの履歴も。
母がそこに存在していたという記録が、少しずつ消えていく。
「やめろ……」
出久は、端末を握りしめた。
「やめろよ……!」
端末が震えた。
新しいメッセージが届いている。
送信者は、登録されていない番号。
本文は、短かった。
『緑谷出久』
『あなたの母親は、原罪事象の重要な構成要素です』
『彼女を返してほしければ、指定された場所へ来なさい』
添付された画像が、一枚。
そこには、白い部屋が映っていた。
椅子に座らされた母。
両手を膝の上に置き、うつむいている。
その背後に、黒い影が立っていた。
出久の呼吸が止まった。
「……母さん」
画面の下に、もう一つの文章が表示される。
『なお、あなたの母親は現在、二つの存在のうち一方を選択するよう要求されています』
『緑谷出久』
『あるいは、未出生生命』
『選択期限は、日の出まで』
出久は、端末を落としかけた。
第二十話で、母は答えた。
どちらか一方を選ぶことなどできない。
どちらも生きてほしい。
それが、母の答えだった。
だが、世界はその答えを認めなかった。
「……ふざけるな」
出久は、歯を食いしばった。
怒りが、胸の奥から湧き上がる。
自分の命を選ぶことさえ、世界に許されない。
母が、自分の子供たちを愛することさえ、世界に許されない。
そんな世界を、正しいと呼ぶのか。
そんな仕組みを、守る必要があるのか。
出久は、玄関へ向かった。
靴を履く。
扉に手をかける。
そのとき。
背後から、声がした。
「……出久」
出久は、振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
年齢は、出久と同じくらい。
緑色の髪。
そばかす。
大きな目。
そして、左手の甲に、見覚えのある傷痕があった。
出久は、言葉を失った。
その少年は、確かに出久に似ていた。
似ているどころではない。
顔立ちも、声も、表情も。
鏡の中の自分を、そのまま外へ取り出したようだった。
ただ一つ違うのは。
その少年の目には、出久が持っていないものがあった。
深い憎悪。
そして、底知れない疲労。
少年は、出久を見つめていた。
「……久しぶりだね」
出久は、喉を鳴らした。
「……君は、誰だ」
少年は、笑った。
「その質問を、僕にするんだ」
「答えてくれ」
「僕は、緑谷出久だよ」
出久の背筋が凍った。
少年は、ゆっくりと近づいてくる。
「君が生まれたことで、僕は生まれなかった」
その声は、静かだった。
「君が生きたことで、僕は死んだ」
出久は、後ずさった。
「……何を言って」
「君は、母さんを選んだんだ」
少年は言った。
「母さんが君を産んだ。君がこの世界に生まれた。その瞬間に、僕の可能性は消えた」
「違う……」
「違わないよ」
少年の目に、涙が浮かんだ。
「僕は、君が生まれる前に、存在できなくなった」
出久は、何も言えなかった。
少年は、自分の胸に手を当てた。
「僕には、名前がなかった」
「……」
「顔もなかった。声もなかった。誰かに抱きしめてもらうこともなかった」
少年は笑った。
「それでも、僕はいたんだ」
出久の脳裏に、母の言葉がよみがえる。
どちらも生きてほしい。
どちらも、自分の子供だ。
「……君は」
出久は、震える声で尋ねた。
「僕を、恨んでいるのか」
少年は、すぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「わからない」
それは、雨宮ユイと同じ答えだった。
「君が悪いのかどうかも、わからない。母さんが悪いのかどうかも、わからない」
少年は、目を伏せた。
「でも、僕は……」
唇が震えた。
「僕は、生きたかった」
出久は、息を呑んだ。
少年は、顔を上げた。
「君と同じように」
その言葉は、出久の胸を貫いた。
自分が生きたいと願ったように。
自分の命を、誰かに決められたくないと思ったように。
この少年もまた、生きたいと願っていた。
そして、その願いを叶える機会すら与えられなかった。
「……君を」
出久は、言葉を探した。
「君を、どうすればいい」
少年は、笑った。
悲しそうに。
「それを、僕に聞くんだね」
彼は、出久の肩に手を置いた。
その手は、冷たかった。
「ねえ、出久」
「……」
「もし、母さんが僕を選んだら」
少年は、静かに尋ねた。
「君は、死ねる?」
出久は、答えられなかった。
少年は、続けた。
「もし、母さんが君を選んだら、僕は消えるんだよ」
「……」
「もし、母さんがどちらも選ばなかったら、世界が壊れるかもしれない」
「……」
「君は、どうするの?」
出久は、拳を握った。
自分が生きること。
少年が生きること。
母が、二人とも愛すること。
そのすべてを、同時に叶えることはできないのか。
本当に。
世界は、そんなにも狭いのか。
「……わからない」
出久は、正直に答えた。
「僕には、まだ答えがわからない」
少年は、目を細めた。
「そう」
「でも」
出久は、顔を上げた。
「君が生きたいと思っているなら、僕は君を消したくない」
少年の表情が、止まった。
「……本気?」
「うん」
「君が消えるかもしれないんだよ」
「それでも」
出久は、少年を見つめた。
「僕は、君が生きることを否定したくない」
少年の目から、涙が落ちた。
その涙は、床に落ちる前に黒い粒子へ変わった。
「……馬鹿だね」
少年は、泣きながら笑った。
「本当に、馬鹿だよ」
出久は、何も言わなかった。
少年は、玄関の扉を開いた。
外は、夜明け前の暗闇に包まれていた。
「行こう」
「どこへ?」
「母さんのところ」
少年は振り返った。
「君が、僕を消したくないと言ったんだ」
その目から、憎悪が少しだけ消えていた。
「だったら、最後まで証明してよ」
出久は、少年の後を追った。
玄関を出た瞬間。
世界のどこかで、鐘が鳴った。
十三年目の祈り。
その鐘の音が、初めて、生きている者と死んでいる者の両方へ届いた。
第八章 死神は、誰の死を悼むのか
南極。
死神は、崩れた地下空間に一人で立っていた。
処分官は消滅した。
しかし、上位管理機構との接続は完全には切れていない。
警告は、まだ続いていた。
《管理執行者の権限剥奪を開始》
《対象、死神》
《執行権限、停止》
《記憶領域、再構築不能》
《存在維持、残存時間不明》
死神は、警告を見つめていた。
自分が消える日も、そう遠くないのかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
雨宮ユイは、まだ生きている。
彼女は、死にたいと願っていた。
だが、その願いの奥には、生きたいという気持ちがあった。
兄に会いたい。
自分が生きていてもいいと、誰かに言ってほしい。
もう一度、誰かに手を握ってほしい。
その願いを、死神は知った。
それだけで、十分だった。
……本当に、十分なのだろうか。
死神は、自分の鎌を見つめた。
これまで、自分は何人を殺してきたのだろう。
数え切れない。
一人ひとりの名前を覚えているわけでもない。
彼らがどんな人生を送ったのか、どんな夢を抱いていたのか、誰を愛していたのか。
そのすべてを知っているわけではない。
死神は、死を執行してきた。
命令に従って。
規則に従って。
世界の正解に従って。
だが。
その中には、死にたくなかった者もいたはずだ。
まだ生きたいと願っていた者も。
誰かに会いたかった者も。
助けを求めることができなかった者も。
死神は、彼らの死を執行した。
そして、その死を悼むことさえなかった。
悼む必要がないと、教えられていたからだ。
死者の死は、管理機構が処理する。
残された者の悲しみは、個人の問題である。
死者の記憶は、世界の秩序に反しない範囲で保持される。
それが、世界の正解だった。
「……私は」
死神は、ゆっくりと口を開いた。
「誰の死を、悼めばいいのでしょうか」
答える者はいない。
「私が殺した者たちを」
暗闇の中で、無数の影が浮かび上がった。
老人。
兵士。
子供。
母親。
父親。
名も知らぬ人々。
死神が見送ってきた者たち。
彼らは何も言わない。
ただ、そこに立っていた。
「……私は、あなたたちの名前を覚えていません」
死神の声が震えた。
「あなたたちが何を願っていたのかも、覚えていません」
影の一つが、ゆっくりと顔を上げた。
それは、幼い子供だった。
死神は、その子供を知っている気がした。
しかし、思い出せない。
いつ、どこで、どのように死んだのか。
自分が、その死を執行したのか。
何もわからない。
それでも、子供は死神を見つめていた。
責めるでもなく。
許すでもなく。
ただ、見つめていた。
死神は、膝をついた。
「……申し訳ありません」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
死者たちへ。
自分自身へ。
あるいは、これから死ぬかもしれない者たちへ。
死神には、わからなかった。
ただ、初めて。
死者の前で、頭を下げた。
その瞬間。
地下空間の最奥から、声がした。
「――悼む相手を、間違えている」
死神は、顔を上げた。
そこには、誰もいなかった。
しかし、声は確かに聞こえた。
「死者を悼むことは、死者を許すことではない」
「……誰だ」
「死者を悼むことは、死を正当化することでもない」
声は、静かに続いた。
「死者を悼むとは、その者が生きていたという事実を、なかったことにしないことだ」
死神は、鎌を握りしめた。
「あなたは、何者ですか」
「私は、忘れられたもの」
声が答えた。
「お前たちが世界を正しく保つために、切り捨てたもの」
空間が震えた。
死神の背後に、巨大な扉が現れる。
その扉には、名前が刻まれていた。
ひとつではない。
無数の名前。
死者の名前。
未出生者の名前。
生まれることができなかった者たちの名前。
存在したはずなのに、存在しなかったことにされた者たちの名前。
死神は、扉に手を伸ばした。
「……この扉は」
「お前が執行してきた死の、向こう側にある」
声が答えた。
「世界が記録しなかった死者たちの場所だ」
死神は、言葉を失った。
「ここにいる者たちは、誰なのですか」
「お前が知らない者たちだ」
「……」
「お前が覚えていない者たちだ」
扉の向こうから、無数の声が響く。
泣き声。
笑い声。
誰かを呼ぶ声。
誰かを探す声。
そして、何度も繰り返される問い。
――どうして。
――どうして、私たちは生まれなかったの。
死神は、目を閉じた。
「……私は」
声が、震えた。
「私は、何をすればいいのですか」
忘れられたものは、答えた。
「お前が初めて、自分で選べ」
扉が、開き始めた。
その向こうから、光が漏れた。
白でも、黒でもない。
生でも、死でもない。
そのどちらにも分類できない、未知の光だった。
死神は、立ち上がった。
そして、鎌を構えた。
今度は、誰かを殺すためではない。
誰かを消すためでもない。
自分が何を守るべきなのかを、確かめるために。
「……わかりました」
死神は、扉の向こうへ歩き出した。
「私は、もう一度、死者に会いに行きます」
その背後で、世界の警告が鳴り続けていた。
《管理執行者の反逆を確認》
《世界の整合性に重大な異常》
《原罪事象、拡大》
《死神の存在意義を再定義します》
しかし、死神は振り返らなかった。
初めて、命令ではなく、自分の意思で歩いていた。
そして、その歩みの先で。
死神は、まだ知らなかった。
自分が悼むべき死者の中に。
自分自身が、かつて殺したはずの存在がいることを。
第九章 世界が、初めて死者に名前を返す
夜明け。
世界各地で、異変が起きていた。
墓地の墓石に刻まれた名前が、ひとつずつ光り始めた。
古い新聞記事の中で、行方不明者として記録されていた人々の顔写真が、鮮明になっていく。
病院の死亡記録に、存在しないはずの名前が追加された。
役所の戸籍データに、誰も登録した覚えのない人物が現れた。
そして、誰かの記憶の奥底で。
忘れていた名前が、よみがえった。
「……ユイ?」
一人の老人が、仏壇の前で顔を上げた。
その手には、古い写真が握られている。
写真の中には、幼い少女が写っていた。
老人は、震える指で写真をなぞった。
「ユイ……」
涙が、頬を伝う。
「お前……帰ってきたのか」
その声は、誰にも届かなかった。
しかし、世界は確かに記録した。
一人の老人が、七年前に失った孫の名前を思い出したことを。
その名前を、もう一度呼んだことを。
その瞬間、遠く離れた病室で、雨宮ユイが顔を上げた。
彼女は、誰かに呼ばれた気がした。
聞き覚えのある声。
懐かしい声。
「……おじいちゃん?」
その目から、涙がこぼれた。
死神は、扉の向こうで立ち止まった。
手元の鎌が、静かに震えている。
無数の名前が、鎌の刃に浮かび上がっていた。
それは、死神が忘れていた名前だった。
死者たちの名前。
消去された記録の名前。
生まれることができなかった者たちの名前。
そして、その一番最後に。
一つの名前が浮かび上がった。
死神は、その名前を見つめた。
それは。
自分の名前だった。
「……私の」
声が、かすれた。
「私の名前は、何だったのですか」
誰も答えない。
ただ、扉の向こうから、ひとつの声が聞こえた。
「思い出す必要はない」
「……なぜですか」
「名前を思い出せば、お前は自分が何者だったのかを知る」
声は、静かに続けた。
「そして、お前は知ることになる」
「何を」
「お前が、なぜ死神になったのかを」
死神は、鎌を握りしめた。
「……私は、何者だったのですか」
その問いに。
世界は、答えなかった。
代わりに、地上で朝日が昇った。
そして、緑谷出久は。
自分と同じ顔をした少年とともに、母を取り戻すための場所へ向かっていた。
その少年は、歩きながら言った。
「ねえ、出久」
「……何?」
「僕たち、どっちかしか生きられないと思う?」
出久は、すぐには答えなかった。
遠くの空が、少しずつ明るくなっている。
「……まだ、わからない」
「そっか」
少年は、笑った。
「じゃあ、僕は君を信じてみる」
出久は、驚いて少年を見た。
「……どうして?」
「君は、僕を消したくないって言ったから」
少年は前を向いた。
「それなら、僕も君を消したくないと思ってみる」
出久の胸が、痛んだ。
誰かを救うために、自分を犠牲にする。
その選択しかできないと思っていた。
しかし、目の前の少年は違った。
自分が生きたいと願いながら、出久にも生きてほしいと考え始めていた。
二つの命が、互いを否定しない。
それは、世界が想定していなかった可能性だった。
「……ありがとう」
出久は、つぶやいた。
少年は、振り返らなかった。
「お礼なんて、まだ早いよ」
そして、彼は言った。
「母さんを助けてからにしよう」
二人は、夜明けの街を走り出した。
同じ顔をした二人の少年。
一人は、生まれた者。
もう一人は、生まれなかった者。
世界は、そのどちらか一方を消そうとしている。
しかし、彼らはまだ知らない。
自分たちの存在そのものが、世界の根本に刻まれた矛盾を暴こうとしていることを。
そして、その矛盾の先に。
死神でさえ知らない、最初の死が待っていることを。
終章 正解を拒む者たち
南極の地下。
死神が、扉の向こうへ消えたあと。
崩れた空間に、ひとつの影が残っていた。
処分官の残骸。
その中心に、小さな光が浮かんでいる。
光は、ゆっくりと形を変えた。
人間の目。
人間の口。
人間の顔。
それは、死神が最後に斬った処分官の顔ではなかった。
緑谷出久の顔でもない。
雨宮ユイの顔でもない。
誰の記録にも存在しない、未知の顔だった。
その存在は、静かに目を開いた。
「……ようやく、始まった」
声は、幼かった。
しかし、その言葉には、世界が誕生する以前から続いているような深い疲労があった。
「死神が、自分の意思で選んだ」
影は、笑った。
「生者が、生きたいと願った」
「死者が、名前を取り戻し始めた」
「生まれなかった者が、自分の存在を主張した」
一つずつ、確認するように言葉を重ねる。
そして、最後に。
「……ならば、次は」
影は、空間の奥を見つめた。
そこには、巨大な目が浮かんでいた。
まぶたはない。
瞳もない。
ただ、世界のすべてを見つめているような、底知れない闇。
その闇の向こうで、何かが動いた。
世界そのものが、わずかに震えた。
影は、膝をついた。
恐怖からではない。
敬意からでもない。
ただ、そうすることが、かつて決められていたからだ。
「……原罪の記録を、開きます」
影の前に、巨大な書物が現れた。
表紙には、何も書かれていない。
しかし、最初のページには、すでに一つの文章が記されていた。
――最初に、世界は一つの正解を定めた。
――そして、正解に当てはまらないものを、存在しなかったことにした。
影は、その文章を読み上げた。
「……これが、原罪」
次のページが、開く。
そこには、無数の名前が記されていた。
死者たち。
未出生者たち。
世界から排除された者たち。
そして。
世界を作った者たち。
影は、ページの最後に記された名前を見た。
その名前を見た瞬間、笑顔が消えた。
「……まさか」
ページの端が、黒く染まっていく。
名前が、ゆっくりと浮かび上がった。
それは。
緑谷出久。
その下に、もう一つの名前。
緑谷出久。
同じ名前が、二度記されていた。
影は、震える声でつぶやいた。
「……二人とも、原罪の被害者じゃない」
「二人とも、原罪の加害者でもない」
書物のページが、ひとりでにめくられる。
最後のページには、こう記されていた。
――原罪とは、誰かが犯した罪ではない。
――原罪とは、誰かを罪人にしなければ成立しない世界の仕組みである。
影は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、世界の外側に向かって問いかけた。
「……あなたは、まだ一つの正解を求めるのですか」
返答はなかった。
しかし、巨大な闇が動いた。
その瞬間、世界中の時計が止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、再び動き始めたとき。
すべての人間の心の奥に、同じ問いが刻まれていた。
――もし、正解が誰かを殺すのなら。
――それでも、あなたは正解を選びますか。
誰も、その問いに答えられなかった。
死者も。
生者も。
生まれなかった者も。
そして、世界を管理する者たちも。
ただ一人。
緑谷出久だけが、歩みを止めなかった。
母を救うために。
自分と同じ顔をした少年を救うために。
そして、まだ出会っていない誰かの命を、最初から諦めないために。
出久は、夜明けの向こうへ走っていく。
その背中を、世界の外側から、何かが見つめていた。
それは、初めて。
ほんのわずかに、期待しているように見えた。
第二十二話 了