第一章 日の出まで、あと三時間
「選んでください」
女の声は、優しかった。
少なくとも、声だけを聞けばそう思えた。
怒鳴りもしない。
脅しもしない。
無理に決断を急かしているようにも聞こえない。
ただ、当然のことを確認するような口調で、女は言った。
「緑谷引子さん。あなたの子供は、二人存在しています。しかし、現在の世界構造では、その両方を同時に維持することができません」
引子は答えなかった。
彼女は白い部屋の中央に座っていた。
壁も床も天井も、継ぎ目がない。
窓はない。
扉もない。
時計もなかった。
それなのに、引子にはわかった。
ここは、時間が流れている場所だ。
そして、時間が残されていない場所でもある。
目の前には、二枚の透明な板が浮かんでいた。
左側には、出久の姿。
まだ幼かった頃の写真。
笑いながら、両手でオールマイトの人形を抱きしめている。
右側には、見知らぬ少年の姿。
出久と同じ顔。
出久と同じ髪。
出久と同じそばかす。
ただし、その少年は笑っていなかった。
写真ではない。
今、この瞬間の姿を映しているようだった。
「左側が、現在の世界における緑谷出久」
女が説明する。
「右側が、緑谷出久が生まれなかった場合に成立していた可能性です」
「……可能性?」
「はい。あなたが二人目の子供を出産し、彼が生き続けた場合に成立した因果構造。こちらの個体は、現在の世界において、正式な出生記録を持っていません」
「その子は……」
引子は、右側の少年を見つめた。
「この子は、私の子供ではないと?」
「いいえ。生物学的な親子関係については、あなたの子供であると判定されています」
「なら、どうして」
引子は、顔を上げた。
「どうして、この子を消さなければならないのですか」
女は、わずかに首を傾けた。
「消去という表現は、正確ではありません」
「……」
「本来、成立しなかった因果を、本来の状態へ戻すだけです」
引子は、右側の少年を見た。
少年は、目を伏せていた。
自分が消されるかもしれないという話を、聞いているのだろう。
自分の命が、母親の選択に委ねられていることも。
それでも、彼は泣いていなかった。
泣くことさえ、諦めてしまったような顔だった。
「……この子は」
引子の声が震えた。
「この子は、生きたいと思っているんですか」
「本人の意思は確認されています」
「何と言っているんですか」
「生存を希望しています」
引子は、息を止めた。
女は続けた。
「緑谷出久も同様です。双方が生存を希望しているため、選択が必要となります」
「……そんな」
「選択期限は、日の出です」
女の声は、どこまでも穏やかだった。
「期限までに決定されない場合、世界の安定性を優先し、片方を自動的に消去します」
引子は、ゆっくりと顔を上げた。
「それは……」
言葉が、喉につかえた。
「それは、選ばなかった方が消えるということですか」
「はい」
「私が何も答えなかったら?」
「自動処理が実行されます」
「私が、どちらも選ばないと言ったら?」
女は、初めて沈黙した。
ほんの一秒にも満たない時間だった。
しかし、引子はその沈黙を見逃さなかった。
「……どちらも選ばないという選択肢は、あるんですね」
「その選択は、推奨されません」
「あるんですね?」
女は答えなかった。
引子は、透明な板に映る二人の少年を見つめた。
片方は、自分が産んだ子供。
もう片方は、自分が産むことのできなかった子供。
だが、どちらも自分の子供だった。
生まれたから愛するのではない。
生まれなかったから愛さないのでもない。
引子にとって、二人の違いは、そこではなかった。
「……私は」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「どちらも選びません」
女の表情が、初めて変わった。
「緑谷引子さん」
「私は、どちらも選びません」
引子は、もう一度言った。
「二人とも、私の子供ですから」
白い部屋の壁に、亀裂が走った。
女は、その亀裂を見上げた。
そして、静かに告げた。
「その回答は、世界の許容範囲を超えています」
引子は、椅子から立ち上がった。
「なら、世界の方が間違っているんです」
その瞬間。
二枚の透明な板が、同時に砕け散った。
第二章 母親の愛は、証明しなければならないのか
引子は、自分がどこにいるのかわからなかった。
部屋が消えたわけではない。
むしろ、部屋の方が広がったように感じられた。
白い壁が遠ざかり、床が無限に続いていく。
そこに、二人の少年が立っていた。
出久。
そして、もう一人の出久。
二人とも、引子を見つめていた。
「……母さん」
先に口を開いたのは、出久だった。
引子は、思わず駆け寄ろうとした。
しかし、足が動かなかった。
身体が、見えない何かに拘束されている。
「出久!」
声だけは届いた。
「母さん、無事なの?」
「ええ! 大丈夫よ。あなたは?」
「僕も大丈夫。……でも、母さんを助けに来たんだ」
出久の声を聞いて、引子の胸に安堵が広がった。
その直後、別の声がした。
「……母さん」
もう一人の少年だった。
彼は、出久よりも少しだけ後ろに立っていた。
母親を呼ぶ声が、ひどく小さかった。
まるで、呼んでいいのかどうかを確かめているようだった。
引子は、その声を聞いた瞬間、胸の奥をつかまれたような気がした。
「……あなたも」
彼女は、涙をこらえながら言った。
「あなたも、私の子供なのね」
少年は、目を見開いた。
「……え?」
「あなたも、私の子供よ」
引子は、繰り返した。
「名前を呼んであげられなかった。抱きしめてあげられなかった。あなたが生まれるはずだったことさえ、私は知らなかった」
涙が、頬を伝った。
「でも、あなたが生きたいと思っているなら、私はあなたに生きてほしい」
少年は、唇を震わせた。
「……本当に?」
「ええ」
「僕が生まれたら、出久が消えるかもしれないんだよ」
「……」
「僕が生きることで、出久が生きられなくなるかもしれない」
少年は、拳を握った。
「それでも、僕を愛してくれるの?」
引子は、答えようとした。
しかし、その前に、少年が続けた。
「それとも、僕を愛していると言ってくれるのは、出久がいなくなるとわかっていないから?」
引子は、息を呑んだ。
少年は、出久を見た。
「僕は、君を消したくない」
出久は、静かに答えた。
「僕も、君を消したくない」
「……でも、母さんが選ばなければ、世界が壊れるかもしれない」
「そう言われたね」
「本当に、世界が壊れたらどうする?」
出久は、すぐには答えなかった。
少年は、顔を歪めた。
「君は、ヒーローになりたかったんだろう?」
「……うん」
「なら、世界を救うべきじゃないの?」
その言葉に、出久の表情が揺れた。
少年は続けた。
「君は、誰かを救うためなら、自分が傷ついても構わないと思っていた。君は、そういう人間だったんだろう?」
出久は、何も言わなかった。
「だったら、わかるはずだよ」
少年の声が、鋭くなる。
「一人を犠牲にすれば、世界が救われるかもしれない。二人とも生きようとすれば、世界が壊れるかもしれない」
「……」
「君は、どっちを選ぶ?」
出久は、拳を握った。
かつてなら、答えは簡単だった。
自分を犠牲にする。
それで誰かが救われるのなら、自分の命を差し出す。
そうすれば、少なくとも誰かを救うことはできる。
だが、その考えを貫いた結果、自分がどれだけ多くの人を傷つけることになるのか。
今の出久は、知り始めていた。
自分が死ねば、母は悲しむ。
自分が消えれば、友人たちは傷つく。
自分がいなくなることで救われる者がいたとしても、同時に、自分がいなくなることで失われるものもある。
そして、もう一人の少年が生きることもまた、誰かの人生を否定するための理由にはならない。
「……僕は」
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「世界を救いたい」
少年が、顔を上げる。
「でも、君を犠牲にすることを、世界を救うって呼びたくない」
「……」
「君が死んだ後で、世界が正しくなったとしても。それは、君を救えなかった世界だ」
出久は、少年を見つめた。
「僕は、そんな世界を救ったことにしたくない」
少年の目が揺れた。
「じゃあ、どうするんだよ」
「……考える」
「時間がないんだよ!」
少年が叫んだ。
「日の出までだって、言われているんだ! 君が考えている間にも、世界は僕たちを消そうとしている!」
「わかってる!」
出久も、声を荒らげた。
「わかってるよ!」
二人の声が、無限の白い空間に響いた。
出久は、息を整えた。
「だから、考えるんだ」
「……」
「僕が君を消したくないからって、君が僕を消したくないからって、それだけで問題が解決するわけじゃない」
出久は、母を見た。
「母さんが、どちらも選ばないと言ったことも、ただ気持ちを伝えればいいって話じゃないんだと思う」
引子の目から、涙がこぼれた。
出久は、続けた。
「僕たちが生きることで、本当に世界に何が起こるのか。何が壊れるのか。誰が傷つくのか。それを知らないまま、何も問題ないって言うのは、違うと思う」
少年は、黙っていた。
「でも、だからといって、僕たちのどちらかが消えなければならないと決めるのも違う」
出久は、少年に手を差し出した。
「一緒に、確かめよう」
少年は、その手を見つめた。
「……何を?」
「僕たちが二人とも生きたら、何が起こるのか」
「……もし、世界が壊れたら?」
出久は、答えた。
「そのときは、壊れない方法を探す」
「もし、見つからなかったら?」
「それでも、探す」
少年は、目を伏せた。
「……馬鹿だね」
「うん。よく言われる」
「本当に、馬鹿だよ」
少年は笑った。
しかし、その笑顔には、先ほどまでの憎悪がなかった。
彼は、出久の手を取った。
その瞬間。
二人の手の甲に、同じ紋様が浮かび上がった。
一方は、白。
もう一方は、黒。
そして、その二つの紋様の中心に。
小さな、赤い点が生まれた。
引子は、それを見つめた。
「……あれは?」
二人の少年が、同時に顔を上げた。
どこからともなく、声が響いた。
『二つの因果が、接続されました』
『相互排除条件を解除』
『原罪事象、第二段階へ移行』
そして。
世界が、ひっくり返った。
第三章 選ばれなかった子供の記憶
最初に聞こえたのは、泣き声だった。
赤ん坊の泣き声。
小さく、かすれた声。
生まれたばかりの子供が、肺いっぱいに空気を吸い込んで泣く声だった。
引子は、目を見開いた。
そこは、病院だった。
白い天井。
カーテン。
消毒液の匂い。
ベッドの上に、自分が横たわっている。
お腹が痛い。
身体が重い。
そして、隣には。
小さな赤ん坊がいた。
「……あ」
引子の口から、声が漏れた。
赤ん坊は、元気に泣いていた。
小さな手を握りしめ、顔を真っ赤にして。
医師が、笑顔で告げる。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
引子は、涙を流した。
「……男の子」
赤ん坊を抱き上げる。
小さな身体。
柔らかい頬。
温かな息。
「……よかった」
その瞬間。
病室の扉が開いた。
若い男性が、駆け込んできた。
「引子!」
彼女の夫。
久しぶりに見る、若い頃の夫の姿だった。
彼は、赤ん坊を見て、目を見開いた。
「……生まれたのか」
「ええ」
引子は、笑った。
「元気な男の子よ」
夫は、そっと赤ん坊に手を伸ばした。
そして、涙を流した。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、引子は理解した。
これは、出久が生まれたときの記憶ではない。
出久が生まれなかった場合の記憶だ。
彼女は、もう一人の息子を産んでいた。
その世界では、出久は存在していない。
それでも、夫は笑っていた。
引子も、笑っていた。
赤ん坊は泣いていた。
それは、間違いなく幸せな光景だった。
「……この子も」
引子は、涙を流しながらつぶやいた。
「この子も、幸せになれたかもしれないのね」
しかし、記憶はそこで終わらなかった。
赤ん坊は、成長した。
幼い少年になり、学校へ通い始めた。
彼は、ヒーローに憧れていた。
テレビに映るオールマイトを見て、目を輝かせていた。
「お母さん、僕もヒーローになれるかな?」
少年が尋ねる。
引子は、笑顔で答えた。
「もちろんよ」
「本当?」
「ええ。あなたなら、きっとなれるわ」
少年は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、引子は胸を押さえた。
彼は、確かに自分の息子だった。
自分が産み、育て、愛した子供だった。
だが、記憶は、さらに先へ進んだ。
少年は、成長していった。
中学生になった。
そして、ある日。
学校から帰ってきた彼は、玄関で立ち尽くしていた。
「……お母さん」
引子が振り返る。
「どうしたの?」
少年は、手に持っていた紙を握りしめていた。
個性検査の結果。
そこには、短い文章が記されていた。
――個性の発現は確認されませんでした。
少年は、うつむいた。
「……僕、個性がなかった」
引子は、息を呑んだ。
彼は、笑おうとした。
「でも、大丈夫だよ。個性がなくても、ヒーローになれる人だって、きっと……」
言葉が止まる。
彼自身が、その言葉を信じられなかった。
引子は、彼を抱きしめた。
「……ごめんね」
その言葉を聞いた瞬間、引子は目を見開いた。
違う。
自分は、こんなことを言いたくない。
謝る必要なんてない。
この子が個性を持っていないことは、この子の罪ではない。
この子がヒーローになりたいと願ったことも、罪ではない。
それなのに。
記憶の中の引子は、何度も謝っていた。
「ごめんね……ごめんね……」
少年は、母親の腕の中で泣いていた。
そして、ある日。
少年は、ヒーローになる夢を諦めた。
諦めざるを得なかった。
周囲の人間たちは、悪意なく言った。
「現実を見ろよ」
「個性がないんだろ?」
「無理に決まってるじゃないか」
少年は、笑った。
「……そうだよね」
その笑顔を見て、引子は泣きたくなった。
少年は、母親に心配をかけないように笑っていた。
自分の夢が壊れたことよりも。
自分の人生が変わってしまったことよりも。
母親が悲しむことを恐れていた。
そして、彼は大人になった。
ヒーローにはならなかった。
普通の会社に就職した。
友人もできた。
恋人もできた。
穏やかな日々を送っていた。
それでも、時々。
彼は、夜空を見上げていた。
そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……僕も、誰かを救いたかったな」
その言葉を聞いた瞬間。
引子は、崩れ落ちた。
「……ああ」
涙が止まらなかった。
「……ごめんなさい」
彼は、幸せになれなかったわけではない。
生きていた。
笑っていた。
誰かを愛していた。
人生を歩んでいた。
それでも、彼の中には、叶わなかった夢が残っていた。
そして、その夢を叶えられなかったことを、誰かのせいにすることもできなかった。
彼は、自分の人生を生きていた。
その人生は、出久の人生よりも劣っているわけではない。
ただ、違っていた。
引子は、理解した。
自分が選択を迫られているのは、二人の息子のどちらが幸せになるかという問題ではない。
二人とも、幸せになれる可能性があった。
二人とも、苦しむ可能性があった。
二人とも、誰かを愛し、誰かに愛され、失敗し、後悔し、それでも生きていくことができた。
どちらの人生も、価値があった。
だからこそ。
どちらか一方を消すことなど、できなかった。
「……もう、やめて」
引子は、顔を覆った。
「お願いだから、もう見せないで……」
だが、記憶は止まらなかった。
今度は、別の光景が現れた。
出久が生まれた世界。
幼い出久が、母親の手を握っている。
「お母さん、僕、ヒーローになれるかな?」
その声を聞いた瞬間、引子は息を止めた。
同じ問い。
同じ願い。
違う人生。
出久も、もう一人の息子も、同じように夢を抱いていた。
そして、どちらも同じように、自分が生きていていいのかを問い続けることになる。
世界は、どちらかを選べと言った。
だが、引子には、わかった。
選択とは、本来、価値を比較することだけではない。
何を大切にするのかを決めることだ。
そして、自分にとって大切なものが複数あるのなら、そのすべてを大切にする方法を探すこともできるはずだった。
簡単ではない。
成功する保証もない。
失敗するかもしれない。
それでも。
「……私は」
引子は、涙を拭った。
「私は、この子たちの人生を、比べたくない」
記憶の中の少年たちが、彼女を見つめていた。
「出久が生まれたから、もう一人の子が生まれなかった」
「もう一人の子が生まれたから、出久が生まれなかった」
「そういう話にしたいのかもしれないけれど」
引子は、二人を見つめた。
「私は、あなたたちが生まれる前から、どちらか一方を愛していたわけじゃない」
彼女は、手を伸ばした。
「私は、あなたたちが生きていることを、どちらも大切にしたいの」
記憶が、砕け散った。
そして、白い部屋が戻ってきた。
第四章 世界の管理者は、母親を理解できない
「……理解できません」
女は、そう言った。
引子の前に、再び姿を現していた。
しかし、先ほどまでの穏やかな表情は消えている。
その顔には、初めて明確な困惑が浮かんでいた。
「あなたは、両方の人生を確認しました」
「……ええ」
「どちらの人生にも、幸福と苦痛が存在しました」
「そうね」
「どちらの個体にも、生存を希望する意思が存在しています」
「そうよ」
「それでも、あなたは選択を拒否するのですか」
引子は、頷いた。
「はい」
「なぜですか」
女の声が、わずかに強くなった。
「あなたは、両方の人生を知りました。どちらかを選ぶことが、必ずしも一方の幸福を意味しないことも理解したはずです」
「ええ」
「それならば、なぜ決定しないのですか」
引子は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……あなたは、母親が子供を愛する理由を、知っているの?」
女は、沈黙した。
「子供が優秀だから?」
「……」
「子供が世界を救うから?」
「……」
「子供が幸せになるから?」
引子は、首を横に振った。
「もちろん、そうなってくれたら嬉しいわ。でも、それが愛する理由ではないの」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「この子たちが、どんな人生を送るのか。何を成し遂げるのか。誰を救うのか。どんな失敗をするのか。私は、まだ知らない」
引子は、二人の息子を見つめた。
「それでも、私はこの子たちに生きてほしい」
「……それは、あなたの感情です」
女が言った。
「感情による判断は、世界の安定性を保証しません」
「そうね」
「感情は、合理的な判断を妨げることがあります」
「そうかもしれないわ」
「感情は、他者を傷つけることもあります」
「ええ」
引子は、静かに頷いた。
「だからといって、感情をなくせば、誰も傷つかなくなるの?」
女は答えなかった。
「誰かを大切に思うから、間違えることもある。誰かを守りたいから、無理をしてしまうこともある。愛しているからこそ、相手のためにならないことをしてしまうことだってある」
引子は、目を閉じた。
「でも、だからこそ、私たちは考えるんじゃないの?」
女の顔が、わずかに歪んだ。
「……考える?」
「自分が間違っているかもしれないって。自分の選択で、誰かを傷つけるかもしれないって。そうやって悩みながら、それでも、どうすればいいのかを考えるんじゃないの?」
引子は、顔を上げた。
「あなたは、最初から正解が決まっていなければ、何もできないの?」
女の身体が、硬直した。
白い部屋の壁に、再び亀裂が走る。
「……私は、管理機構の代理執行者です」
「そう」
「世界の安定性を維持することが、私の役割です」
「ええ」
「私には、個人的な意思はありません」
引子は、彼女を見つめた。
「……本当に?」
女は答えなかった。
「あなたは、私に何度も質問したわ」
引子は言った。
「どうして選ばないのか。どうして合理的な判断をしないのか。どうして世界の安定性よりも、子供たちの命を優先するのか」
「……」
「でも、あなたは一度も、私にこう聞かなかった」
引子は、一歩前に出た。
「どうして、二人とも生きてほしいのかって」
女の瞳が、揺れた。
「……その問いに、意味はありません」
「そうかしら」
「生存を希望する意思は、個体ごとに記録されています。あなたの意思も記録されています。これ以上の質問は、必要ありません」
「違うわ」
引子は、首を横に振った。
「記録することと、理解することは違うの」
その言葉が、部屋に響いた。
「あなたは、私が二人を愛していることを記録できる。でも、どうして私が二人を愛しているのかは、記録だけではわからない」
女は、初めて後ずさった。
「あなたは、私に選べと言う。けれど、私がどちらかを選ぶことで、何を失うのか。それを理解しているの?」
「……」
「私は、選ばなかった子供を捨てることになるのよ」
引子の声が震えた。
「生まれたから大切なのではない。生まれなかったから、いなかったことにしていいわけでもない」
彼女は、涙を流した。
「あなたたちが何と言おうと、私は二人の母親なの」
女の身体に、亀裂が走った。
その亀裂は、白い壁と同じものだった。
彼女自身もまた、この世界の規則によって作られた存在なのだ。
「……私は」
女は、初めて自分の声を聞くように、つぶやいた。
「私は、何を理解していないのでしょうか」
引子は、答えた。
「あなた自身が、何を望んでいるのかを」
女の目から、光が消えた。
そして、次の瞬間。
部屋全体が、赤く染まった。
《警告》
《管理機構代理執行者に認知異常》
《感情的判断を検出》
《個体識別を再確認》
女の身体が、崩れ始めた。
「……違う」
彼女は、自分の手を見つめた。
「私は、何も望んでいません」
声が震えている。
「私は、命令を執行するだけです」
「……」
「私は、正しいことをしているだけです」
引子は、何も言わなかった。
女は、必死に言葉を重ねた。
「私は、間違っていません」
その言葉は、誰に向けられたものだったのか。
引子に。
管理機構に。
それとも、自分自身に。
「……私は、間違っていないはずです」
女の姿が、白い光に包まれた。
そして、彼女は消えた。
残されたのは、二人の少年と、引子だけだった。
だが、その直後。
部屋の天井から、巨大な文字列が降り注いだ。
『代理執行者の機能停止を確認』
『選択処理を再開』
『日の出まで、残り一時間』
『自動消去を開始します』
引子は、顔を上げた。
世界は、まだ諦めていなかった。
第五章 母親が選ばなかったもの
白い部屋が、崩れ始めた。
床が波打つ。
壁が遠ざかる。
天井から、黒い文字列が降りてくる。
その一つひとつが、世界の規則だった。
生者は生きる。
死者は死ぬ。
過去は変わらない。
因果は、定められた順序に従う。
存在しないものは、存在してはならない。
そして。
二つの因果が衝突した場合、片方を消去する。
「……母さん!」
出久が叫んだ。
「こっちへ!」
彼は、引子に手を伸ばした。
もう一人の少年も、同じように手を伸ばしていた。
二人の手が、引子の両手をつかむ。
その瞬間、引子の身体に、激痛が走った。
「……っ!」
彼女の視界に、無数の映像が流れ込んできた。
出久の人生。
もう一人の少年の人生。
二つの人生が、互いを押しつぶそうとしていた。
出久が生きるためには、もう一人の少年が存在してはならない。
もう一人の少年が生きるためには、出久が存在してはならない。
それが、世界の定めた規則だった。
「……離して!」
引子は叫んだ。
二人の少年が、驚いて顔を上げる。
「母さん?」
「違うの……!」
引子は、二人の手を握りしめた。
「あなたたちが悪いんじゃない!」
彼女は、必死に言葉を続けた。
「あなたたちが生きたいと願うことは、間違っていない! どちらかが生まれたことも、どちらかが生まれなかったことも、あなたたちの罪じゃない!」
黒い文字列が、二人の身体に巻きついた。
出久の身体が、透け始める。
もう一人の少年の身体も、同じように薄くなっていく。
「……母さん!」
出久が叫んだ。
「僕たち、消えるの?」
引子は、首を横に振った。
「消させない……!」
「でも、どうすれば……!」
「わからない!」
引子は、涙を流しながら叫んだ。
「わからないけど、諦めない!」
その言葉に、出久は目を見開いた。
母は、答えを持っていなかった。
世界を救う方法も。
二人の命を両方とも守る方法も。
原罪事象を解決する方法も。
何一つ、わかっていなかった。
それでも、母は諦めなかった。
「……母さん」
出久は、母の手を握り返した。
「僕も、諦めないよ」
もう一人の少年も、頷いた。
「僕も」
二人の声が、重なった。
「僕たちは、生きたい」
世界が、震えた。
『相互排除条件を維持』
『存在の重複を検出』
『因果整合性を優先』
『消去対象を確定せよ』
引子は、顔を上げた。
「……いいえ」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
二人の息子の手を、離さないまま。
「私は、あなたたちを選ばない」
文字列が、止まった。
「出久を選ばないのではないわ」
引子は、二人を見つめた。
「あなたを選ばないのでもない」
涙が、頬を伝う。
「私は、あなたたちのどちらかを捨てることを、選ばないの」
その瞬間。
二人の少年の胸から、赤い光が溢れた。
白い光でも、黒い光でもない。
二つの因果をつなぐ、第三の光。
それは、二人の存在を統合するものではなかった。
二人を一つにするものでもなかった。
出久は、出久のまま。
もう一人の少年は、もう一人の少年のまま。
それぞれの名前。
それぞれの記憶。
それぞれの人生。
そのすべてを残したまま、二つの因果が並び立っていた。
『……異常』
世界の声が、初めて揺らいだ。
『因果接続を確認』
『相互排除条件が解除されています』
『原因を特定できません』
引子は、二人の息子を抱きしめた。
「……よかった」
声が、震えた。
「本当によかった……」
出久も、もう一人の少年も、母の胸に顔を埋めた。
二人とも、泣いていた。
生まれたことを喜んでもらえた少年。
生まれなかったことを悔やんでもらえた少年。
二人とも、初めて。
自分が生きていていいのだと、感じられた気がした。
しかし。
世界は、その光景を許さなかった。
『原罪事象、第三段階へ移行』
赤い光が、黒く染まった。
『因果接続を確認』
『原罪事象の根本原因を再評価』
『管理対象を変更します』
引子は、顔を上げた。
「……何をするつもり?」
返事はなかった。
代わりに、三人の足元に、巨大な紋様が現れた。
その中心には、一つの名前が刻まれていた。
緑谷引子。
「……私?」
引子は、息を呑んだ。
出久が、母の前に立った。
「母さんに、何をするつもりだ!」
世界は答えた。
『原罪事象の維持に関わる因果の再構築を開始』
『緑谷引子を、起点として再評価します』
そして。
引子の記憶が、消え始めた。
第六章 母の記憶を消せば、世界は正しくなるのか
最初に消えたのは、夫の顔だった。
引子は、目を見開いた。
自分の隣に立っていたはずの男性。
自分を愛し、出久の父親となり、家族として暮らしていた人。
その顔が、思い出せなくなっていく。
「……あなた?」
名前が、出てこない。
声も。
笑顔も。
手の温もりも。
すべてが、遠ざかっていく。
「……いや」
引子は、頭を押さえた。
「やめて……」
次に消えたのは、出久が生まれた日の記憶だった。
病院。
白い天井。
赤ん坊の泣き声。
初めて抱いた、小さな身体。
「……出久」
彼女は、息子の名前を呼んだ。
「出久……!」
出久は、母の手を握った。
「母さん! ここにいるよ!」
「……あなたは」
引子の目が、揺れた。
「あなたは、誰……?」
出久の顔から、血の気が引いた。
「……え?」
「あなた……」
引子は、必死に記憶を探した。
目の前にいる少年。
自分を母と呼ぶ少年。
自分の手を握っている少年。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
どうして、この子が泣いているのを見ると、涙が出そうになるのだろう。
「……ごめんなさい」
引子は、震える声で言った。
「私、あなたのことを……」
出久は、首を横に振った。
「違う……!」
彼は、母の手を強く握った。
「母さん、僕だよ! 出久だよ!」
「……出久?」
「うん!」
「……あなたが、出久?」
引子は、涙を流した。
「……そう」
その瞬間、記憶が戻った。
しかし、すぐにまた消え始めた。
母の手が、出久の手から滑り落ちる。
「……いや」
出久は、必死に母を抱きしめた。
「母さん、忘れないで……!」
引子の身体が、薄くなっていく。
「……出久」
彼女は、息子の名前を呼んだ。
「出久……ごめんね……」
「謝らないで!」
「……あなたを、忘れたくないの……」
その声が、出久の胸を貫いた。
母は、自分を忘れたくないと願っている。
それなのに、世界は母から記憶を奪おうとしている。
世界を正しくするために。
因果を整えるために。
二人の息子が同時に存在するという異常を、根本から修正するために。
そのためには、二人を愛している母親の記憶を消せばいい。
母が二人を知らなければ、二人の存在が衝突する理由もなくなる。
母の愛を、世界の外側へ追い出す。
それが、管理機構の導き出した答えだった。
「……ふざけるな」
出久の声が、低く響いた。
「母さんの記憶を消せば、全部解決するっていうのか」
世界は答えない。
「母さんが僕たちを愛していたことを消せば、世界は正しくなるっていうのか!」
黒い文字列が、出久の身体を包み込んだ。
『緑谷出久』
『抵抗を停止せよ』
『世界の安定性を優先せよ』
出久は、歯を食いしばった。
「……僕は」
彼は、母の手を握りしめた。
「僕は、母さんに愛されていたことを、なかったことにしたくない」
もう一人の少年が、隣に立った。
「……僕もだ」
彼は、引子の反対側から、その手を握った。
「僕は、母さんに会えなかった」
少年の声が震えた。
「生まれたときに抱きしめてもらえなかった。名前を呼んでもらえなかった。僕が泣いても、母さんは気づかなかった」
引子の目から、涙がこぼれた。
少年は、続けた。
「でも、今は違う」
彼は、母の手を見つめた。
「母さんは、僕の名前を知らない。それでも、僕を自分の子供だと言ってくれた」
彼は、出久を見た。
「僕は、それを忘れたくない」
出久は、頷いた。
「……うん」
二人は、同時に母の手を握りしめた。
「母さんを、忘れさせない」
その瞬間。
二人の手の甲に浮かんでいた紋様が、強く輝いた。
白と黒。
そして、その中心にある赤い点。
赤い点が、ゆっくりと広がっていく。
世界の文字列が、次々と消えていった。
『……異常』
『原罪事象の起点が、自己保存を開始』
『因果再構築が停止』
『原因不明』
出久は、母を抱きしめた。
「母さん!」
引子の身体が、再び実体を取り戻す。
彼女は、息子たちを見た。
二人とも、自分の子供だった。
二人とも、自分を母と呼んでいた。
そして、二人とも、自分を忘れないでほしいと願っていた。
引子は、震える手で二人の頭を撫でた。
「……忘れないわ」
涙を流しながら、彼女は言った。
「あなたたちを、絶対に忘れない」
二人の少年が、母に抱きついた。
その瞬間。
世界のどこかで、巨大な何かが目を開いた。
第七章 麗日お茶子が、世界の裏側へ到達する
南極。
巨大な門の前で、麗日お茶子は立ち止まっていた。
目の前に広がるのは、果てしない雪原。
空には太陽がない。
それなのに、地平線だけが白く輝いている。
門の向こうに広がる世界は、現実の南極とは違っていた。
氷の下に、巨大な都市が埋まっている。
建物は、どれも人間の文明とは異なる構造をしていた。
壁には、無数の名前が刻まれている。
その中には、知っている名前もあった。
「……これ」
お茶子は、目を見開いた。
壁に刻まれた文字。
緑谷出久。
麗日お茶子。
爆豪勝己。
轟焦凍。
飯田天哉。
そして、無数のヒーローたちの名前。
その隣には、死亡日時が記されていた。
まだ死んでいない者たちの名前にも。
「……どういうこと?」
お茶子は、壁に触れた。
その瞬間、視界が暗転した。
彼女は、別の場所に立っていた。
巨大な部屋。
床には、無数の円が描かれている。
それぞれの円の中心には、一人の人間が立っていた。
死者。
生者。
まだ生まれていない者。
彼らは、誰かに向かって手を伸ばしていた。
しかし、その手は届かない。
透明な壁が、彼らを隔てている。
お茶子は、その中の一人を見つけた。
白いワンピースの少女。
先ほど、霧の中で出会った少女だった。
「……あなた!」
お茶子が駆け寄る。
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「お姉ちゃん……」
「ここにいたの?」
少女は、頷いた。
「うん」
「あなた、誰なの?」
少女は、少し考えた。
「……私、名前を思い出したの」
「本当?」
「うん」
少女は、笑った。
「私の名前は、雨宮ユイ」
お茶子は、息を呑んだ。
雨宮ユイ。
死神が、消去命令に逆らって救った少女。
だが、目の前の少女は、先ほど会った少女とは違っていた。
身体が、はっきりと実体を持っている。
顔色も、よくなっている。
そして、その目には、恐怖だけではない感情が宿っていた。
「……どうして、ここに?」
お茶子が尋ねる。
ユイは、透明な壁に手を触れた。
「私、ここにいたんだよ」
「……え?」
「死んだあと、ずっとここにいたの」
ユイは、壁の向こうを見つめた。
「でも、誰も私を見つけてくれなかった」
お茶子は、息を呑んだ。
「……死んだあと?」
「うん」
ユイは、頷いた。
「死神さんが迎えに来るまで、ずっとここにいた」
お茶子は、壁の向こうを見た。
そこには、無数の人影が立っていた。
彼らは、死者たちだった。
死神が管理してきた者たち。
しかし、壁に刻まれた名前の数は、あまりにも多かった。
「……この人たちは?」
ユイは、答えた。
「世界が忘れた人たち」
その言葉に、お茶子は凍りついた。
「……忘れた?」
「うん。死んだ人だけじゃないよ」
ユイは、壁に手を置いた。
「生まれなかった人。存在しなかったことにされた人。誰かの人生から消された人。誰にも覚えてもらえなかった人」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「みんな、ここにいるの」
お茶子は、壁を見つめた。
そこには、数え切れないほどの名前が刻まれていた。
名前のない者たちもいた。
彼らは、自分の名前を覚えていないのかもしれない。
あるいは、最初から名前を与えられなかったのかもしれない。
「……どうして、こんなことに」
お茶子がつぶやく。
ユイは、首を横に振った。
「わからない」
「……」
「でも、ここにいる人たちは、みんな同じことを言ってる」
少女は、壁の向こうを見つめた。
「帰りたいって」
その瞬間。
無数の声が響いた。
帰りたい。
会いたい。
忘れないで。
生きたかった。
生まれたかった。
もう一度、名前を呼んでほしい。
お茶子は、胸を押さえた。
彼女は、ヒーローだった。
誰かを救いたいと願っていた。
目の前で苦しんでいる人がいれば、手を伸ばす。
それが、彼女の信じてきたことだった。
しかし、いま目の前にいるのは、無数の死者たちだった。
彼らを救うには、どうすればいいのか。
死者を蘇らせればいいのか。
それとも、死者が死んだという事実を受け入れるべきなのか。
彼らが帰還することで、別の誰かが苦しむ可能性もある。
それでも、彼らの願いを無視していいのか。
「……私」
お茶子は、ゆっくりと口を開いた。
「私、どうしたらいいんだろう」
ユイは、お茶子を見つめた。
そして、言った。
「お姉ちゃんは、何をしたいの?」
お茶子は、顔を上げた。
「……え?」
「世界を救いたいの?」
「……うん」
「それとも、ここにいる人たちを助けたいの?」
お茶子は、答えられなかった。
ユイは、優しく笑った。
「どっちも、同じじゃないの?」
その言葉に、お茶子は息を呑んだ。
世界を救うこと。
人を救うこと。
本来、それらは対立するものではないはずだった。
しかし、世界の仕組みは、二つを対立させていた。
誰かを救えば、誰かが苦しむ。
誰かを生かせば、誰かが死ぬ。
誰かを選べば、誰かを捨てる。
それが、世界の正解だった。
「……違う」
お茶子は、顔を上げた。
「私は、そんな世界を救いたいわけじゃない」
ユイが、目を見開いた。
お茶子は、壁に手を伸ばした。
「私は、誰かを助けるために、別の誰かを見捨てるしかない世界を、正しいとは思わない」
彼女の手が、透明な壁に触れた。
その瞬間。
壁に亀裂が走った。
無数の名前が、光り始めた。
そして、遠くのどこかで。
死神が、顔を上げた。
「……麗日お茶子」
彼は、彼女の存在を感じ取っていた。
「あなたも、そこへ辿り着いたのですね」
第八章 死神が出会った、最初の死者
扉の向こうには、何もなかった。
地面も、空も、壁もない。
ただ、無数の名前が浮かんでいる。
死神は、その中を歩いていた。
鎌を握りしめ、名前を一つずつ見つめる。
彼が知らない名前。
彼が忘れていた名前。
彼が、かつて消したはずの名前。
その中に、一つだけ。
どうしても目を離せない名前があった。
死神は、足を止めた。
「……これは」
その名前は、彼の記憶に存在していなかった。
しかし、鎌が震えていた。
名前の下には、記録があった。
死亡日時。
死因。
執行者。
死神は、文字を読み取った。
そして、凍りついた。
執行者。
――死神。
「……私が?」
声が、かすれた。
死神は、記録を見つめた。
そこに記されている死は、世界の最初の死だった。
人間が生まれるよりも前。
時間が流れるよりも前。
世界に生と死という区別が生まれるよりも前。
その存在は、死んだ。
そして、その死を執行したのは、死神だった。
「……あり得ない」
死神は、後ずさった。
「私は、世界が生まれる前から存在していたのですか?」
返答はなかった。
名前が、ゆっくりと光を放つ。
その光の中から、一人の人物が現れた。
年齢は、わからない。
性別も、わからない。
顔は、人間に似ていた。
しかし、その目は、世界の始まりよりも古かった。
人物は、死神を見つめた。
「……久しぶりだね」
死神は、鎌を構えた。
「あなたは、誰ですか」
人物は、笑った。
「君が、最初に殺した者だよ」
死神の指先が震えた。
「……私は、あなたを知りません」
「そうだろうね」
人物は、頷いた。
「君は、私を殺したあと、私のことを忘れた」
「……」
「そして、私を殺したという事実を忘れるために、死神になった」
死神は、息を呑んだ。
人物は、静かに続けた。
「君は、死を管理するために作られたんじゃない」
「……では、私は何のために?」
「死を忘れないために、作られたんだよ」
その言葉が、死神の胸に突き刺さった。
「……どういう意味ですか」
人物は、遠くを見つめた。
そこには、世界の始まりが映っていた。
まだ何もない場所。
光も、闇もない。
時間も、空間もない。
ただ、一つの意思だけが存在していた。
その意思は、世界を作ろうとした。
しかし、世界を作るには、選択が必要だった。
何を存在させるのか。
何を存在させないのか。
何を生かすのか。
何を死なせるのか。
そして、最初の選択が行われた。
一つの存在が、世界の外側へ追放された。
その存在は、死んだ。
だが、死んだという事実は、世界の記録から消された。
なぜなら、その存在が死んだことを認めれば、世界の始まりそのものが、間違いだったことになるからだ。
「……あなたは」
死神は、震える声で尋ねた。
「世界を作った存在なのですか」
人物は、首を横に振った。
「違うよ」
そして、答えた。
「私は、世界が作られるために、最初に捨てられた存在だ」
死神は、言葉を失った。
「君は、私を殺した」
人物は、淡々と言った。
「そして、君は、その死を忘れた」
「……」
「世界は、私が死んだことを忘れた」
人物は、笑った。
「だから、世界は正しくなったんだ」
その笑顔には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、深い悲しみがあった。
「……では」
死神は、鎌を下ろした。
「私は、何をすればいいのですか」
人物は、答えた。
「君が、初めて自分の意思で選んだことを、最後までやり遂げればいい」
「……それは」
「死者を悼むこと」
人物は、静かに言った。
「死者が生きていたという事実を、世界に返すこと」
死神は、目を閉じた。
自分が殺した最初の死者。
世界から忘れられた存在。
自分自身が、その死を忘れていた。
「……私は」
死神は、ゆっくりと頭を下げた。
「あなたの死を、悼みます」
人物は、目を見開いた。
そして、初めて。
泣いた。
「……ありがとう」
その涙が、世界の外側へ落ちた。
その瞬間。
世界のすべての墓が、震えた。
死者の名前が、光り始めた。
そして、世界が。
自分自身の最初の罪を、思い出し始めた。
第九章 原罪は、母親の中にあったのか
白い部屋。
引子は、二人の息子を抱きしめていた。
出久。
もう一人の出久。
二人とも、母の腕の中で泣いていた。
しかし、引子の胸には、まだ不安が残っていた。
世界が、静かすぎる。
先ほどまでの警告が消えている。
黒い文字列も、赤い光もない。
ただ、白い部屋だけが続いている。
「……終わったの?」
出久が、つぶやいた。
引子は、首を横に振った。
「……わからないわ」
その瞬間。
二人の少年の間に、黒い影が現れた。
人間の形をしていた。
しかし、顔がない。
無数の文字列が、全身を覆っている。
引子は、二人の息子を背にかばった。
「……あなたは?」
影は、答えた。
『原罪事象の根本原因を再評価した結果、起点となる個体を特定しました』
引子は、息を呑んだ。
「……起点?」
『緑谷引子』
その名が、部屋に響いた。
『あなたの意思が、原罪事象の発生条件に影響しています』
「……私が?」
『肯定』
引子は、首を横に振った。
「私は、何もしていません」
『あなたは、二つの生命を同時に愛した』
引子は、息を止めた。
『あなたは、一方を選択することを拒絶した』
『あなたは、二つの因果を同時に維持する意思を示した』
『その意思が、世界の排他構造と衝突した』
引子は、震える声で尋ねた。
「……だから、私が原罪を起こしたというの?」
『肯定』
「……そんな」
引子の顔から、血の気が引いた。
自分が、世界の異常を引き起こした。
自分が、世界を壊す原因になった。
その可能性が、彼女の胸に重くのしかかった。
「……私が、二人とも生きてほしいと願ったから?」
『肯定』
出久が、前に出た。
「違う!」
彼は、影を睨みつけた。
「母さんは、何も悪くない!」
『緑谷出久。発言を停止せよ』
「母さんは、僕たちを愛してくれただけだ!」
出久は、叫んだ。
「それが、どうして罪になるんだ!」
影は、答えた。
『世界の安定性を維持するためには、相互排除が必要である』
「そんなもの、必要ない!」
『必要性は、世界の構造によって定義される』
「その構造が間違っているんだ!」
出久の声が、震えた。
「母さんが僕たちを愛したことが、世界を壊す原因になるなら……そんな世界の方が、間違っている!」
もう一人の少年が、出久の隣に立った。
「……僕も、そう思う」
彼は、影を見つめた。
「僕は、母さんに愛してほしかった」
その声は、小さかった。
「ただ、それだけだったんだ」
彼は、引子を振り返った。
「僕が生きていたら、母さんが苦しむかもしれない。出久が苦しむかもしれない。それは、わかってる」
少年は、拳を握った。
「でも、僕が生きたいと思ったことまで、間違いにしないでほしい」
引子は、二人を見つめた。
涙が、止まらなかった。
影は、静かに答えた。
『個体の願望は、世界の構造を変更する根拠にならない』
その言葉を聞いた瞬間。
引子は、ゆっくりと立ち上がった。
「……いいえ」
彼女は、二人の息子を背にかばった。
「願いがあるからこそ、世界の構造を見直す必要があるのよ」
影が、動きを止めた。
「世界の仕組みが、誰かの願いを踏みにじっているなら。誰かが生きたいと願うことを、最初から間違いだと決めつけているなら」
引子は、影を見つめた。
「その仕組みを変えようとすることは、間違いじゃないわ」
『……』
「私が二人を愛したことが、原罪だというのなら」
彼女は、涙を拭った。
「私は、その原罪を引き受けます」
出久が、振り返った。
「母さん……!」
「でも」
引子は、続けた。
「私は、二人を愛したことを後悔しない」
その言葉が、世界に響いた。
「どちらか一方を愛して、もう一方を見捨てていれば、世界は正しかったのかもしれない」
彼女は、首を横に振った。
「でも、私はそんな正しさを選びたくない」
影の身体が、揺らいだ。
『……原罪事象の再評価を開始』
『根本原因に矛盾を検出』
『愛情による因果維持は、排他構造の原因である』
『しかし、排他構造そのものが、愛情を一方に限定することを要求している』
文字列が、次々と書き換わっていく。
『因果の起点は、緑谷引子ではない』
『因果の起点は――』
影の身体が、崩れ始めた。
『世界の構造そのもの』
その瞬間。
白い部屋が、完全に砕け散った。
第十章 母は、二人の息子を選ばない
引子は、目を覚ました。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
隣には、出久がいた。
そして、その反対側には、もう一人の少年が座っていた。
二人とも、引子を見つめていた。
「……母さん?」
出久が、恐る恐る声をかける。
引子は、ゆっくりと起き上がった。
そして、二人の顔を見た。
「……出久」
まず、息子の名前を呼ぶ。
「……はい」
出久の目に、涙が浮かんだ。
引子は、もう一人の少年を見た。
「……あなた」
少年は、身体を硬くした。
「……はい」
引子は、そっと手を伸ばした。
「名前を、教えてくれる?」
少年は、息を呑んだ。
「……僕には、名前がないんだ」
引子は、首を横に振った。
「いいえ」
彼女は、優しく笑った。
「あなたは、名前がないのではないわ」
「……」
「まだ、名前を呼んでもらう機会がなかっただけ」
少年の目から、涙がこぼれた。
引子は、二人の手を取った。
「……ごめんなさい」
彼女は、二人に向かって頭を下げた。
「あなたたちを、こんな目に遭わせてしまって」
「母さん、違うよ!」
出久が、慌てて言った。
「母さんは、何も悪くない!」
「……ありがとう」
引子は、出久の頭を撫でた。
そして、もう一人の少年を見つめた。
「あなたにも、謝りたいの」
少年は、首を横に振った。
「……どうして?」
「あなたが生まれなかったことを、私は知らなかった」
引子は、涙を流した。
「あなたが、どんな夢を抱いていたのか。どんな人生を送りたかったのか。私は、何も知らなかった」
少年は、唇を噛んだ。
「……でも、今は違う」
引子は、彼の手を握りしめた。
「あなたが生きたいと願っていることを、私は知っている」
彼女は、二人の息子を見つめた。
「だから、私はあなたたちのどちらも、選ばない」
少年は、目を見開いた。
「……それって」
「あなたたちのどちらかを捨てることを、選ばないという意味よ」
引子は、微笑んだ。
「私は、二人とも愛しているから」
少年は、声を上げて泣いた。
出久も、涙を流した。
二人は、母の胸に顔を埋めた。
引子は、二人を抱きしめた。
長い間。
何も言わずに。
ただ、抱きしめていた。
やがて、もう一人の少年が、小さな声で尋ねた。
「……母さん」
「なあに?」
「僕も……あなたの子供って、呼んでいいの?」
引子は、息を呑んだ。
そして、彼を強く抱きしめた。
「もちろんよ」
涙が、頬を伝う。
「あなたは、私の子供よ」
少年は、声を上げて泣いた。
「……ありがとう」
引子は、首を横に振った。
「お礼なんて、いらないわ」
彼女は、二人の頭を撫でた。
「あなたたちが生きていてくれることが、私には何より嬉しいの」
その瞬間。
窓の外で、鐘が鳴った。
十三年目の祈り。
世界を揺るがしてきた鐘の音が、初めて、穏やかに響いた。
そして、世界中で。
死者たちが、名前を取り戻し始めた。
終章 正解の外側にいる者
世界の外側。
巨大な闇が、ゆっくりと目を開いた。
そこには、無数の世界が浮かんでいた。
それぞれの世界で、人々が生きている。
笑い、泣き、争い、愛し合い、死んでいく。
そのすべてが、一つの規則に従っていた。
生者は生きる。
死者は死ぬ。
存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。
そして、矛盾するものは、片方を消す。
それが、世界の正解だった。
しかし、今。
その規則に、一つの亀裂が生じていた。
二つの因果が、同時に存在している。
二人の少年が、同じ名前を持ちながら、別々の人生を歩もうとしている。
一人の母親が、二人の子供を同時に愛することを選んだ。
死神が、命令を拒絶した。
死者たちが、自分の名前を取り戻し始めた。
そして、世界が。
自分自身の原罪を、認識し始めた。
「……興味深い」
闇の奥から、声が響いた。
その声は、世界の始まりよりも古かった。
「正解を拒むことで、世界が新たな可能性を獲得するとは」
無数の世界が、震えた。
「だが、可能性は、必ずしも幸福を意味しない」
闇の中に、二人の少年の姿が映し出された。
緑谷出久。
もう一人の緑谷出久。
二人は、同じ母親の隣に立っていた。
それぞれが、異なる人生を持っている。
それぞれが、異なる未来を持っている。
そして、どちらも生きたいと願っている。
闇は、二人を見つめた。
「……では、問おう」
世界中の時計が、再び止まった。
死者たちの声が、一斉に静まる。
生者たちの呼吸が、一瞬だけ止まる。
そして、世界のすべてに、同じ問いが響いた。
――もし、誰も犠牲にしない世界を作るために、世界そのものを壊さなければならないのなら。
――あなたは、それでも世界を救いますか。
緑谷出久は、窓の外を見つめていた。
もう一人の少年が、隣に立っている。
母は、二人の手を握っていた。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「……世界を壊すつもりはないよ」
闇が、わずかに揺れた。
出久は、続けた。
「でも、誰かを犠牲にすることしかできない世界なら、変えたい」
「……」
「世界を救うために、誰かを消すんじゃない」
出久は、隣の少年を見た。
「誰も消さずに、世界を救う方法を探すんだ」
少年は、頷いた。
「……僕も、そう思う」
二人の声が重なった。
「僕たちは、生きたい」
闇は、沈黙した。
そして、初めて。
笑った。
「……そうか」
世界の外側で、何かが目覚めた。
「ならば、お前たちに見せてやろう」
無数の世界が、開いていく。
そこには、死者が帰還しなかった世界。
生まれなかった者が、存在しなかった世界。
誰かが犠牲になることで、平穏を保ってきた世界。
そして。
誰も犠牲にしないことを選んだ結果、崩壊した世界があった。
闇は、そのすべてを見せた。
「世界を変えるということが、何を意味するのか」
その声は、静かだった。
「正解を拒絶するということが、何を失わせるのか」
二人の少年は、目を見開いた。
彼らの前に、無数の未来が広がっていた。
そのどれもが、幸福だけではできていない。
どの道を選んでも、誰かが傷つく可能性がある。
どの道を選んでも、何かを失うかもしれない。
それでも。
二人は、手を離さなかった。
母もまた、二人の手を握り続けていた。
そして、世界の外側から。
最後の問いが響いた。
「――それでも、お前たちは選ぶのか」
出久は、答えた。
「……うん」
もう一人の少年も、答えた。
「うん」
二人の声が、世界を揺るがした。
「僕たちは、自分たちで選ぶ」
その瞬間。
世界の正解が、初めて。
人間の意思によって、書き換えられ始めた。