僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十四話「世界を救うために、世界を疑え」

第二十四話「世界を救うために、世界を疑え」

第一章 世界は、正しい顔をして嘘をつく

目を開けた瞬間、緑谷出久は、自分が夢を見ていたのだと思った。

 

見慣れた天井。

 

白い壁。

 

窓の向こうから差し込む朝の光。

 

カーテンの隙間を抜けてくる風の音。

 

何もかもが、いつもどおりだった。

 

だからこそ、違和感があった。

 

「……ここ、どこだ?」

 

自分の部屋だ。

 

そう答えようとした。

 

しかし、記憶の中にある自分の部屋と、目の前の光景が一致しない。

 

机の位置が違う。

 

本棚の段数が違う。

 

窓際に置かれた鉢植えがない。

 

そして何より。

 

壁に、見覚えのない写真が飾られていた。

 

写真の中には、幼い自分と母が写っていた。

 

母は笑っている。

 

出久も笑っている。

 

その二人の間には、小さな男の子がいた。

 

赤ん坊ではない。

 

歩き始めたばかりの、二歳くらいの男の子。

 

緑色の髪。

 

丸い頬。

 

大きな瞳。

 

その顔立ちは、驚くほど自分に似ていた。

 

「……誰?」

 

声がかすれた。

 

写真の中の男の子は、母の腕に抱かれている。

 

母は、その子を見つめていた。

 

慈しむように。

 

愛おしむように。

 

そして、出久に向けるのと同じ眼差しで。

 

「……母さん?」

 

その瞬間、記憶が流れ込んできた。

 

知らない朝食。

 

知らない誕生日。

 

知らない喧嘩。

 

知らない謝罪。

 

知らない寝顔。

 

母が二人分の弁当を作っている。

 

出久が弟の頭を撫でている。

 

弟が泣いて、出久が慌てて抱き上げる。

 

母が笑いながら言う。

 

――お兄ちゃんなんだから、少しは面倒を見てあげてね。

 

そんな日々が、当たり前の記憶として脳裏に浮かんだ。

 

けれど。

 

出久には弟などいない。

 

少なくとも、これまで生きてきた人生には。

 

「やめろ……」

 

記憶が増える。

 

知らないはずの思い出が、自分の過去を塗り替えようとする。

 

弟が初めて歩いた日。

 

弟が初めて言葉を発した日。

 

弟が熱を出して、母と一緒に病院へ駆け込んだ夜。

 

そのすべてが、あまりにも鮮明だった。

 

「やめろって……!」

 

出久は写真を壁から引き剥がした。

 

額が床に落ち、ガラスが砕け散る。

 

その音と同時に、頭の中の記憶が止まった。

 

荒い息が部屋に響く。

 

手が震えていた。

 

怖かった。

 

記憶が増えたことが怖いのではない。

 

自分が、それを懐かしいと思いかけたことが怖かった。

 

知らないはずの弟を。

 

存在しなかったはずの家族の時間を。

 

自分は、確かに愛おしいと感じた。

 

その感情まで、誰かに作られたものなのだろうか。

 

「……ふざけるなよ」

 

砕けたガラスの向こうで、写真が二つに折れていた。

 

母と自分。

 

そして、その間にいる弟。

 

出久は写真を拾おうとして、手を止めた。

 

写真の裏側に、文字が書かれていたからだ。

 

『世界が忘れても、母さんは覚えている』

 

知らない筆跡だった。

 

けれど、その文字を見た瞬間、出久は理解した。

 

これは単なる記憶の改変ではない。

 

世界が、何かを始めている。

 

そして、その何かは。

 

自分たちが選ぶ前に、答えを決めようとしている。

 

「……世界を救うために?」

 

出久は、写真を握り締めた。

 

「だったら、まず世界のほうを疑ってやる」

 

そのとき。

 

背後から、声がした。

 

「それができる人間は、意外と少ないんだよ」

 

出久は振り返った。

 

部屋の扉の前に、ひとりの人物が立っていた。

 

見覚えのある顔。

 

忘れるはずのない顔。

 

けれど、そこにいるはずのない人間。

 

出久は息を止めた。

 

「……先生?」

 

相手は微笑んだ。

 

その笑顔には、懐かしさがあった。

 

悲しみがあった。

 

そして、決して見せてはいけないものを見せてしまった人間の、諦めがあった。

 

「久しぶりだね、緑谷くん」

 

その人物は言った。

 

「いや……この世界で君に会うのは、初めてだったかな」

 

出久は答えられなかった。

 

相手は、死んだはずだった。

 

記録上も。

 

記憶上も。

 

世界の歴史上も。

 

その人物の死は、覆らない事実だった。

 

なのに。

 

目の前にいる。

 

幽霊なのか。

 

帰還者なのか。

 

それとも、世界が作り出した偽物なのか。

 

出久は、拳を握り締めた。

 

「……あなたは、本当に本人なんですか?」

 

相手の笑顔が消えた。

 

「いい質問だ」

 

彼は、ゆっくりと部屋に入ってきた。

 

「その質問を、もっと早く誰かがしていればよかった」

 

第二章 死者は、自分が死んだ理由を知らない

南極。

 

氷に覆われた大地の地下深く。

 

人間の文明とは異なる構造物が、静かに脈動していた。

 

壁面を走る光は、文字にも回路にも見えた。

 

その中央に、死神が立っていた。

 

死神の前には、巨大な立体映像が浮かんでいる。

 

表示されているのは、世界各地で発生した帰還者の情報だった。

 

死亡日時。

 

死因。

 

生前の個人記録。

 

帰還後の記憶保持率。

 

異能の発現状況。

 

そして、処理優先度。

 

その一覧の最下部に、新しい命令が表示されていた。

原罪事象の拡大を確認。

 

世界安定化プロトコルを第七段階へ移行。

 

帰還者の個体識別を停止。

 

原罪事象に関与する存在を一括消去せよ。

 

死神は、その文字列を見つめていた。

 

「……個体識別を停止、だと?」

 

返答はない。

 

システムは命令を表示したまま、淡々と処理を続けている。

 

死神は指を伸ばした。

 

帰還者の一覧を開く。

 

そこには、少女の記録があった。

 

死亡時年齢、十一歳。

 

死因、交通事故。

 

帰還時刻、不明。

 

記憶保持率、六十二パーセント。

 

異能発現、確認。

 

備考欄には、短い一文が記されていた。

 

『本人は再度の死亡を希望』

 

死神の指が止まった。

 

その少女の顔を、知っていた。

 

いや。

 

正確には、つい先ほど、彼女の顔を見た者がいる。

 

南極へ向かう途中の麗日お茶子。

 

彼女は、その少女から言われたのだ。

 

――お願い……私を、もう一度殺して。

 

死神は、目を閉じた。

 

「……お前たちは、何を見ている?」

 

システムは沈黙していた。

 

「死者が戻った。それを異常と呼ぶ。記憶が欠けている。それを不具合と呼ぶ。苦しんでいる。それを処理対象と呼ぶ」

 

死神の声が、少しずつ低くなっていく。

 

「だが、誰も聞いていない」

 

壁面の光が明滅した。

 

「なぜ、戻ってきたのか」

 

死神は拳を握った。

 

「なぜ、苦しんでいるのか」

 

指先が震えた。

 

「なぜ、死んだ人間が、もう一度死にたいと願うのか」

 

返答はなかった。

 

それが答えだった。

 

このシステムは、問いに答えられないのではない。

 

問いそのものを、必要としていないのだ。

 

死者が苦しんでいるかどうかは問題ではない。

 

死者が何を望んでいるかも問題ではない。

 

世界が安定しているか。

 

それだけが、判定基準なのだ。

 

死神は、自分の手を見た。

 

この手で、どれだけの命を終わらせてきたのだろう。

 

命令に従って。

 

規則に従って。

 

正しい処理だと信じて。

 

死を与えることが、自分の役目なのだと思っていた。

 

だが。

 

もし、その役目そのものが間違っていたら。

 

もし、死を与える相手を選ぶ基準が、最初から歪んでいたら。

 

もし、自分が守ってきた世界が。

 

救うべき人間を、最初から数に入れていなかったとしたら。

 

「……俺は」

 

死神は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「誰の死を悼んできたんだ?」

 

その問いに、初めてシステムが反応した。

質問の意味を解析できません。

 

死神の職務定義に、感情的判断は含まれていません。

 

死神は笑った。

 

乾いた笑いだった。

 

「そうか」

 

彼は、表示された命令を見据えた。

 

「なら、職務定義のほうを変える」

 

右手を掲げる。

 

死神の掌に、黒い光が集まった。

 

システムが警告を発する。

警告。

 

管理権限への不正アクセスを検出。

 

対象、死神。

 

処分権限を上位管理機構へ移譲します。

 

「不正アクセス?」

 

死神は口元を歪めた。

 

「お前たちが人間を個体識別しないなら、俺もお前たちを管理者として識別する必要はないな」

 

黒い光が、制御盤を貫いた。

 

一瞬、施設全体が暗闇に沈んだ。

 

そして。

 

死者の一覧から、何百という名前が消えた。

 

消去されたのではない。

 

管理システムの外側へ、移されたのだ。

 

世界の記録から消えかけていた人々が、初めて管理者の手を離れた。

 

死神は、膝をついた。

 

反動で視界が揺れる。

 

「……これで、時間が稼げるか」

 

答えは分からない。

 

だが、少なくとも今は。

 

命令によって消されるはずだった者たちが、まだ存在している。

 

それだけでよかった。

 

そのとき、施設の奥から声がした。

 

「裏切ったな」

 

死神は振り返った。

 

暗闇の中に、もうひとつの影が立っていた。

 

同じ死神。

 

同じ制服。

 

同じ顔。

 

ただし、瞳の中にあるものだけが違っていた。

 

こちらの死神が、悔恨を抱えているのだとすれば。

 

向こうの死神は、疑念を罪と見なしていた。

 

「裏切り?」

 

死神は立ち上がった。

 

「俺は、まだ何も裏切っていない」

 

影が言った。

 

「世界を」

 

死神は答えた。

 

「なら、世界のほうが先に俺たちを裏切ったんだ」

 

影の表情が消えた。

 

「……その考えは、許容できない」

 

「だろうな」

 

死神は、黒い光を握り直した。

 

「だから、ここで止める」

 

影の背後に、無数の光が浮かび上がった。

 

それらは武器ではなかった。

 

人間の顔だった。

 

帰還者たちの顔。

 

すでに消された者たちの顔。

 

そして、まだ生まれていない者の顔。

 

世界は、死神の反逆を許すつもりがなかった。

 

けれど。

 

死神もまた、もう命令に従うつもりはなかった。

 

第三章 母親という存在は、世界の仕様に含まれていない

緑谷引子は、白い部屋にいた。

 

壁も、床も、天井も、すべて白い。

 

窓はない。

 

扉もない。

 

時計もない。

 

それでも、引子には時間が流れていることが分かった。

 

なぜなら。

 

自分の目の前で、小さな男の子が泣いていたからだ。

 

「……お母さん」

 

幼い声。

 

か細い声。

 

誰かに助けを求める声。

 

引子は、膝をついた。

 

「どうしたの?」

 

男の子は顔を上げた。

 

緑色の髪。

 

大きな瞳。

 

出久によく似た顔立ち。

 

けれど、出久ではない。

 

まだ生まれていない、もう一人の息子。

 

引子は、その子の存在を知っていた。

 

妊娠していたわけではない。

 

抱き締めたこともない。

 

名前を考えたこともない。

 

それでも、分かる。

 

この子は、自分の子供だ。

 

世界がどれほど否定しようとも。

 

記録がどれほど存在を拒もうとも。

 

自分の中に、この子を愛する感情がある。

 

それだけは、誰にも否定させない。

 

「大丈夫よ」

 

引子は手を伸ばした。

 

男の子は、その手を取ろうとした。

 

しかし。

 

指先が触れる直前、透明な壁が二人を隔てた。

 

引子の手が止まる。

 

「……え?」

 

男の子が、壁の向こうで泣き始めた。

 

引子は何度も壁を叩いた。

 

「待って! どうして?」

 

返答はなかった。

 

代わりに、白い壁に文字が浮かび上がる。

安寧システム・最終調整。

 

原罪事象の安定化に必要な選択を実行します。

 

選択対象:

 

緑谷出久。

 

未登録個体。

 

選択基準:世界全体の存続可能性。

 

引子は文字を見つめた。

 

意味は理解できた。

 

理解できてしまった。

 

この世界は、また同じことを要求している。

 

どちらかを選べ、と。

 

片方を救うために、もう片方を諦めろ、と。

 

「……またなの?」

 

引子は、震える声で言った。

 

「また、そんなことをするの?」

 

壁の向こうで、男の子が泣いている。

 

その泣き声は、どこか懐かしかった。

 

出久が赤ん坊だった頃。

 

夜中に目を覚まし、何をしても泣き止まなかった頃。

 

抱き締めて、背中を撫でて、何度も名前を呼んだ。

 

大丈夫。

 

ここにいるよ。

 

怖くないよ。

 

何度も何度も、そう伝えた。

 

その言葉は、世界に認められた命にしか届かないのだろうか。

 

まだ生まれていない命には。

 

記録されなかった命には。

 

誰からも名前を呼ばれなかった命には。

 

届かないのだろうか。

 

「違う……」

 

引子は首を振った。

 

「違うわ」

 

壁に両手をついた。

 

「この子だって、怖いのよ」

 

白い壁は何も答えない。

 

「この子だって、生きたいかもしれない」

 

システムが文字を表示した。

未登録個体の生存意思は、独立した判定対象として確定できません。

 

引子は、その文字を見た。

 

そして。

 

笑った。

 

泣きそうな顔で。

 

「……あなたたち、本当に何も分かっていないのね」

 

システムが反応する。

発言の意味を解析できません。

 

「そうでしょうね」

 

引子は、壁の向こうの男の子を見つめた。

 

「この子が生きたいかどうか、今は分からない」

 

男の子は泣いていた。

 

引子も泣いていた。

 

「でも、分からないからって、いないことにしていい理由にはならないでしょう?」

 

壁が明滅した。

 

「出久が生きたいと言った。あの子は、自分の人生を諦めたくないと言った」

 

引子の声は、少しずつ強くなっていく。

 

「この子だって、まだ何も決まっていない。どんな人になるのかも、何を好きになるのかも、何を嫌うのかも」

 

彼女は、額を壁につけた。

 

「それなのに、どうしてあなたたちは、この子の未来を勝手に終わらせるの?」

選択を拒否した場合、世界安定度が低下します。

 

「構わないわ」

事象が拡大した場合、無関係な人々が犠牲になる可能性があります。

 

「それは嫌よ」

 

引子は即答した。

 

無関係な人々が犠牲になることなど、望んでいない。

 

自分の息子たちだけが助かればいいなどとは思っていない。

 

誰かが苦しんでも構わないなどと、言えるはずがない。

 

だからこそ。

 

この選択は残酷だった。

 

世界を守るために、息子を一人、見捨てろ。

 

息子を二人とも守ろうとするなら、世界を危険にさらすかもしれない。

 

その責任を引き受けろ。

 

そんな要求を、母親一人に突きつける。

 

「……ねえ」

 

引子は静かに尋ねた。

 

「どうして、私に選ばせるの?」

 

システムは答えない。

 

「あなたたちは世界を管理しているのでしょう?」

 

引子は顔を上げた。

 

「だったら、考えてよ」

 

白い空間に、声が響く。

 

「二人とも生きられる方法を」

 

沈黙。

 

「できないなら、どうしてできないのかを説明してよ」

 

沈黙。

 

「説明もできないのに、どうして一人を諦めることだけは、そんなに簡単に決められるの?」

 

その瞬間。

 

白い壁に、亀裂が走った。

 

一本。

 

二本。

 

三本。

 

亀裂の向こうから、暗闇がのぞく。

 

システムが警告を発した。

異常な意思干渉を検出。

 

個体識別不能。

 

原罪事象との関連性を再評価します。

 

引子は、壁の向こうの男の子に手を伸ばした。

 

今度は、透明な壁がなかった。

 

小さな手が、引子の手を握った。

 

「……お母さん」

 

その声を聞いた瞬間。

 

引子は、男の子を抱き締めた。

 

温かかった。

 

小さな身体が、腕の中で震えていた。

 

夢ではない。

 

少なくとも、引子にとっては。

 

「大丈夫」

 

引子は何度も繰り返した。

 

「大丈夫よ」

 

男の子は、彼女の胸に顔を埋めた。

 

「……ぼく、ここにいてもいいの?」

 

引子の心臓が、痛いほど強く脈打った。

 

その問いを。

 

まだ幼い子供に、言わせてしまった。

 

世界が。

 

大人たちが。

 

管理者たちが。

 

この子に、自分の存在を許してほしいと願わせた。

 

「もちろんよ」

 

引子は、男の子の背中を撫でた。

 

「あなたは、ここにいていいの」

 

「……お兄ちゃんと、いっしょに?」

 

「ええ」

 

引子は、涙を流しながら笑った。

 

「お兄ちゃんと一緒に」

 

男の子は、安心したように目を閉じた。

 

その直後。

 

白い世界が、音を立てて崩れ始めた。

警告。

 

未登録個体に対する保護意思を確認。

 

安寧システムの基幹命題と矛盾。

 

管理権限による強制修正を開始します。

 

引子は、男の子を抱き締めたまま立ち上がった。

 

「……まだ分からないのね」

 

彼女は、崩れていく世界を見つめた。

 

「私は、どちらかを選ぶことを拒んでいるんじゃない」

 

白い壁が砕けた。

 

「二人とも生きられる方法を、諦めないと言っているのよ」

 

世界が、暗転した。

 

そして。

 

誰かが、引子の耳元で囁いた。

 

『その願いが、どれほどの犠牲を生むとしても?』

 

引子は、答えた。

 

「犠牲が出る可能性があるから、考えるのをやめるの?」

 

彼女は、暗闇の中で目を開いた。

 

「それじゃあ、世界を管理している意味なんてないでしょう」

 

囁きが止まった。

 

引子は、腕の中の息子を見つめた。

 

「私は母親よ」

 

その言葉は、世界の仕様書には記されていなかった。

 

「だから、この子を守る」

 

彼女は、もう一人の息子の名を呼んだ。

 

「出久も守る」

 

そして、世界に向かって告げた。

 

「それから、あなたたちが守ることを諦めた人たちも、守る方法を探すわ」

 

一瞬。

 

暗闇の中に、何かが笑った。

 

人間の笑い声ではなかった。

 

けれど、嘲笑でもなかった。

 

それは、長い間ずっと待っていた者が、ようやく答えを聞いたときの笑い声に似ていた。

 

『そうか』

 

声が言った。

 

『ならば、お前は世界の敵になる』

 

引子は、息子を抱き締めた。

 

「違うわ」

 

そして。

 

「世界が、私たちの敵になろうとしているのよ」

 

第四章 正しい世界には、間違った人間が必要だった

「……あなたは、本当に本人なんですか?」

 

出久の質問に、死んだはずの人物はすぐには答えなかった。

 

彼は部屋の中を見回した。

 

砕けた写真。

 

床に散らばるガラス片。

 

机の上のノート。

 

そして、出久の顔。

 

「そう聞きたくなるのは当然だね」

 

「質問に答えてください」

 

出久の声は硬かった。

 

相手は、少しだけ目を細めた。

 

「厳しくなったな、緑谷くん」

 

「あなたが誰なのか分からないんです」

 

「そうだろうね」

 

「死んだはずの人が、目の前にいるんです」

 

「うん」

 

「知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。母さんがいなくなった。弟がいるはずのない世界で、弟の記憶が増えている」

 

出久は一歩踏み出した。

 

「この状況で、懐かしいから信じます、なんて言えると思いますか?」

 

相手は、静かに頷いた。

 

「言えないね」

 

その答えに、出久はわずかに戸惑った。

 

相手は続けた。

 

「むしろ、疑ってくれてよかった」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「君が、見たものをそのまま信じる人間になっていたら、私は君に会う必要がなかった」

 

彼は、床に落ちた写真を拾った。

 

写真の中には、母と出久、そしてもう一人の少年がいる。

 

彼は写真を見つめた。

 

「これは、君の記憶かい?」

 

「……分かりません」

 

「それでいい」

 

「よくありません!」

 

出久の声が跳ねた。

 

「分からないことばかりなんです。僕は、何を信じればいいんですか?」

 

相手は写真を机に置いた。

 

「何も信じるな、と言いたいところだけれど」

 

彼は、少しだけ苦笑した。

 

「それでは生きていけないからね」

 

「だったら……!」

 

「信じることと、疑わないことは違う」

 

出久は黙った。

 

「誰かを信じてもいい。世界を信じてもいい。けれど、信じたものが間違っている可能性まで捨ててはいけない」

 

相手は、出久を見つめた。

 

「特に、自分が正しいと確信したときほどね」

 

その言葉は、胸の奥に刺さった。

 

出久は、これまで何度も正しいことをしようとしてきた。

 

誰かを助けること。

 

傷ついている人に手を伸ばすこと。

 

自分にできることを探すこと。

 

それは間違いではなかったと思う。

 

けれど。

 

もし、自分が正しいと信じた行動によって、別の誰かが傷ついていたら?

 

もし、自分が誰かを助けるために選んだ道が、別の誰かの未来を奪っていたら?

 

もし。

 

自分が守ろうとしている世界そのものが、誰かを犠牲にする仕組みで成り立っていたら?

 

「……あなたは、何を知っているんですか?」

 

出久は尋ねた。

 

相手の表情が変わった。

 

「多くのことを知っている。だが、すべてではない」

 

「原罪事象について?」

 

「そうだ」

 

「死者が戻ってきている理由も?」

 

「一部は」

 

「弟のことも?」

 

その問いに、相手は答えなかった。

 

出久は目を逸らさなかった。

 

「僕の母さんが、どこにいるのかも?」

 

沈黙が落ちた。

 

やがて、相手は言った。

 

「君のお母さんは、いま、世界の中心にいる」

 

出久の顔から血の気が引いた。

 

「……どういう意味ですか?」

 

「世界を安定させるための選択を、彼女に強いている」

 

「選択?」

 

「君か、君の弟か」

 

出久は、拳を握った。

 

「……ふざけるな」

 

「うん」

 

相手は、否定しなかった。

 

「そのとおりだ」

 

「そんな選択、母さんがするわけない」

 

「彼女は、しないだろうね」

 

「だったら!」

 

「だからこそ、世界は彼女を選んだんだ」

 

出久は言葉を失った。

 

相手は続けた。

 

「管理者たちは、君のお母さんがどちらかを選ぶと考えているわけではない。選ばざるを得ない状況に追い込み、その結果を世界の正当性として記録しようとしている」

 

「……何を言っているんですか?」

 

「世界が選択を強制する。人間が苦しみながら選ぶ。選ばれなかった側が消える。そして世界は、その結果を『人間自身が選んだ未来』として扱う」

 

出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「そんなの……」

 

「責任転嫁だ」

 

相手は、はっきりと言った。

 

「管理者が決めた選択肢を、人間が選んだことにする。管理者が作った犠牲を、人間が望んだ結果にする」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「そして、その犠牲を正当化するために、世界は記憶まで書き換える」

 

出久は、床に散らばったガラス片を見た。

 

写真の中にいた、知らないはずの弟。

 

懐かしいと感じてしまった日々。

 

あれは、弟が生きている世界の記憶なのだろうか。

 

それとも。

 

弟が生まれなかった世界に、後から植え付けられた偽の記憶なのだろうか。

 

「……じゃあ」

 

出久は、震える声で尋ねた。

 

「僕の記憶も、母さんの記憶も、全部、嘘かもしれないんですか?」

 

「そうかもしれない」

 

相手は答えた。

 

「だが、ひとつ覚えておくといい」

 

彼は、出久の胸に指を向けた。

 

「記憶が本物かどうかと、そこで生まれた感情が無意味かどうかは、同じ問題じゃない」

 

出久は、目を見開いた。

 

「君が弟を知らないはずなのに、彼を大切に思った。その感情が、誰かによって作られたものだったとしても」

 

相手は、言葉を選ぶように続けた。

 

「君がいま、彼を守りたいと思っていることまで、偽物だと決まったわけじゃない」

 

出久は、何も言えなかった。

 

自分が弟を愛しているのか。

 

自分の中に植え付けられた感情に従っているだけなのか。

 

その答えは、まだ分からない。

 

それでも。

 

母が一人で選択を迫られているのなら。

 

自分が疑うべきものは、記憶だけではない。

 

「……どうすれば、母さんのところへ行けますか?」

 

相手は、静かに笑った。

 

「やはり、君はそう言うんだね」

 

「答えてください」

 

「ひとつだけ、方法がある」

 

彼は机の上のノートを手に取った。

 

「世界の記録に存在しない道を通るんだ」

 

「世界の記録に……?」

 

「管理システムは、記録された存在を管理する。記録された因果を追跡する。記録された可能性を計算する」

 

彼はノートを開いた。

 

そこには、出久が書いた覚えのない図形が描かれていた。

 

八つの円。

 

その中央に、黒い空白。

 

「だが、記録されていないものは、完全には管理できない」

 

出久は図形を見つめた。

 

「これは……?」

 

「世界が最初に切り捨てたものへの入り口だ」

 

「最初に、切り捨てた?」

 

相手は答えた。

 

「原罪の始まりを知りたければ、君はまず、世界が何を隠しているのかを知る必要がある」

 

その瞬間、窓の外の景色が変わった。

 

空が、真っ白に塗り潰されていく。

 

建物の輪郭が消える。

 

電線が消える。

 

遠くの人影が、動きを止める。

 

世界そのものが、映像の途中で停止したかのようだった。

 

そして。

 

出久の部屋の壁に、文字が浮かび上がった。

原罪事象関係者、緑谷出久。

 

管理者への不信を確認。

 

世界安定化プロトコルに基づき、記憶と認識の修正を開始します。

 

出久の頭に、激痛が走った。

 

弟の顔が消えかける。

 

母の声が遠ざかる。

 

写真の中の自分が、別人の顔に変わっていく。

 

「……っ!」

 

出久は頭を押さえた。

 

相手が叫ぶ。

 

「緑谷くん! 自分の記憶を守ろうとするな!」

 

「え……?」

 

「疑え!」

 

壁が崩れ始めた。

 

「与えられた記憶も、消される記憶も! 自分の中にあるものを、無条件に正しいと考えるな!」

 

出久は歯を食いしばった。

 

「でも……! それじゃ、何も残らない!」

 

「それでもだ!」

 

相手の声が、初めて荒々しく響いた。

 

「残ったものを正解にするな! 消えたものを、存在しなかったことにするな!」

 

出久の脳裏に、母の顔が浮かんだ。

 

弟の顔が浮かんだ。

 

そして。

 

自分自身の顔が浮かんだ。

 

何も分からない。

 

何が本物なのかも分からない。

 

自分が何者なのかさえ、揺らいでいる。

 

それでも。

 

「……僕は」

 

出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「僕は、分からないことを、分からないままにしておきます」

 

相手の目が見開かれた。

 

「それでも、考えることはやめません」

 

出久は、壁に向かって一歩踏み出した。

 

「僕の記憶が間違っているなら、確かめます。母さんが間違っているなら、話を聞きます。弟が本当に存在するのか分からないなら、確かめます」

 

彼は拳を握った。

 

「でも、確かめる前に、誰かに消されるのだけは嫌だ!」

 

世界が、ひび割れた。

 

出久の足元に、黒い道が現れた。

 

それは床の下へ続いているのではない。

 

空間の向こう側へ、世界の外側へと続いていた。

 

相手が息を呑んだ。

 

「……開いたのか」

 

「これが?」

 

「そうだ」

 

出久は、その道を見つめた。

 

「この先に、母さんが?」

 

「いや」

 

相手は答えた。

 

「この先にあるのは、君が信じてきた世界が、最初に嘘をついた場所だ」

 

出久は一瞬だけ目を閉じた。

 

そして、歩き出した。

 

第五章 麗日お茶子は、死者に名前を尋ねる

雪が降っていた。

 

南極へ向かう輸送施設の中で、麗日お茶子は窓の外を見つめていた。

 

一面の白。

 

どこまでも続く氷。

 

空と大地の境界さえ、曖昧になっている。

 

その景色は美しかった。

 

人間がいない世界は、こんなにも静かなのかと思うほどに。

 

「……麗日さん」

 

隣に座っていた少女が、小さく声を上げた。

 

お茶子は振り向いた。

 

少女は、膝を抱えて座っていた。

 

十一歳。

 

帰還者。

 

死因は交通事故。

 

記録上は、すでに死んでいる。

 

それなのに、目の前にいる。

 

「どうしたん?」

 

お茶子は、できるだけ優しく尋ねた。

 

少女は少し迷ってから、答えた。

 

「……私の名前、分かりますか?」

 

お茶子は息を呑んだ。

 

少女の名前は、聞いていた。

 

資料にも記されていた。

 

けれど。

 

彼女は、すぐに答えなかった。

 

「……自分の名前、覚えてへんの?」

 

少女は首を振った。

 

「覚えてるときもあるんです」

 

「うん」

 

「でも、思い出すと……」

 

少女は、自分の頭を押さえた。

 

「痛いんです」

 

お茶子は、少女の隣に移動した。

 

「どんなふうに?」

 

「分かりません。頭の中で、誰かが泣いているみたいで……」

 

少女の目に涙が浮かんだ。

 

「お母さんの声がするんです。でも、お母さんの顔が分からない」

 

お茶子は、唇を噛んだ。

 

「……そっか」

 

「お父さんもいるはずなのに、顔が分からない。学校の友達も、先生も、みんな……」

 

少女は顔を伏せた。

 

「私、本当に生きていたんでしょうか?」

 

その問いは、あまりにも重かった。

 

お茶子は答えられなかった。

 

少女が生きていたことは、記録に残っている。

 

名前も、年齢も、住所も、死因も。

 

けれど、記録があるから生きていたと証明できるのだろうか。

 

記録が消えたら、彼女の人生まで消えてしまうのだろうか。

 

「……生きていたよ」

 

お茶子は言った。

 

「少なくとも、今ここにいるあなたは、ちゃんと私の前におる」

 

少女は顔を上げた。

 

「でも、私は……」

 

「うん」

 

「もう一度、死にたいんです」

 

お茶子は、目を伏せた。

 

「……その理由、聞いてもええ?」

 

少女は震えながら頷いた。

 

「思い出すたびに、私が死んだ瞬間が近づいてくるんです」

 

彼女は胸元を押さえた。

 

「車の音がする。ブレーキの音がする。誰かが叫んで……」

 

少女の身体が強張った。

 

「痛いんです」

 

お茶子は、少女の肩に手を置いた。

 

「うん」

 

「怖いんです」

 

「うん」

 

「もう、嫌なんです……!」

 

少女は泣き出した。

 

「お願い……私を、もう一度殺して」

 

お茶子は、少女を抱き締めた。

 

その身体は温かかった。

 

生きている人間と、何も変わらない。

 

「……ごめんな」

 

お茶子は言った。

 

「今は、そのお願いを聞けへん」

 

少女の身体が震えた。

 

「どうして……?」

 

お茶子は、答えを探した。

 

死者を生かすことが正しいのか。

 

死者を死なせることが救いなのか。

 

そんなこと、簡単には決められない。

 

少女が望んでいるのは、死そのものではないのかもしれない。

 

苦しみから逃れたい。

 

記憶に押し潰されたくない。

 

自分が自分でなくなる恐怖から、解放されたい。

 

それでも。

 

本人の願いを聞かずに、勝手に生かすことも。

 

本人の苦しみを理解しないまま、死なせることも。

 

どちらも、救いとは呼べない気がした。

 

「……あなたが死にたいって思うくらい、苦しいことは分かったつもりにならへん」

 

お茶子は、少女の顔を見つめた。

 

「私は、あなたの痛みを全部知ってるわけやないから」

 

少女は泣きながら、お茶子を見た。

 

「でもな」

 

お茶子は続けた。

 

「あなたが何を思い出して、何が怖くて、何から逃げたいのか。一緒に考えることはできる」

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

お茶子は頷いた。

 

「もし、最後まで考えて、それでもあなたが同じことを望むなら……そのときは、また話そう」

 

それは約束ではなかった。

 

生き続けることを強制する宣言でもなかった。

 

ただ、彼女の言葉を、なかったことにしないという意思だった。

 

少女は、ゆっくりとお茶子の服を握った。

 

「……私の名前」

 

「うん?」

 

「教えてください」

 

お茶子は、少女の名前を告げた。

 

少女は、その名前を何度も繰り返した。

 

まるで、失くしたものを探すように。

 

まるで、初めて自分の存在を確かめるように。

 

やがて。

 

少女の目から、涙が一筋流れた。

 

「……そうだ」

 

「思い出したん?」

 

少女は頷いた。

 

「お母さんが、呼んでくれた」

 

彼女は、泣きながら笑った。

 

「私が転んだとき、いつも……その名前を呼んでくれたんです」

 

お茶子は、少女の手を握った。

 

そのとき。

 

輸送施設の警報が鳴り響いた。

緊急警告。

 

南極管理施設との通信が途絶。

 

管理権限の不整合を検出。

 

帰還者識別情報の一部が消失しています。

 

お茶子は顔を上げた。

 

窓の外。

 

氷原の向こうに、巨大な建造物の影が見えた。

 

南極の地下施設。

 

死神がいる場所。

 

その上空に、黒い光が立ち昇っていた。

 

まるで、世界の底から煙が噴き出しているようだった。

 

少女が震える声で尋ねた。

 

「……あれ、何ですか?」

 

お茶子は答えた。

 

「分からへん」

 

彼女は立ち上がった。

 

「でも、行かなあかん」

 

少女も立ち上がろうとした。

 

お茶子は、その手を握った。

 

「あなたも一緒に来て」

 

少女は驚いた。

 

「私も?」

 

「うん」

 

お茶子は、まっすぐに彼女を見つめた。

 

「あなたのことを、世界に勝手に決めさせたくないから」

 

少女は、しばらくお茶子を見つめていた。

 

やがて。

 

彼女は、小さく頷いた。

 

二人は、黒い光の立ち昇る場所へ向かった。

 

その先に待っているのが救いなのか。

 

新たな絶望なのか。

 

まだ、誰にも分からなかった。

 

第六章 世界を疑う者たち

世界の外側には、何もなかった。

 

空もない。

 

大地もない。

 

時間もない。

 

ただ、黒い道だけが、どこまでも続いていた。

 

緑谷出久は、その道を歩いていた。

 

隣には、死んだはずの人物がいる。

 

出久は、何度も彼の横顔を盗み見た。

 

本物なのか。

 

偽物なのか。

 

その疑問は、まだ消えていない。

 

「……ひとつ聞いてもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

「あなたは、僕の知っているあなたなんですか?」

 

相手は、少しだけ考えた。

 

「難しい質問だね」

 

「また、それですか」

 

「すまない」

 

彼は苦笑した。

 

「だが、正直に答えるなら、私自身にも分からない」

 

出久は足を止めた。

 

「……分からない?」

 

「私には、君の知っている記憶がある。君と話したことも、君が悩んでいたことも、君が誰かを助けようとしていたことも覚えている」

 

彼は自分の手を見た。

 

「けれど、私が死んでから、ここに至るまでの記憶がない」

 

「死んでから……?」

 

「目を覚ましたときには、すでにここにいた。自分が死んだことは覚えている。死ぬ直前のこともね」

 

彼は、遠くを見つめた。

 

「だが、その後がない」

 

出久は、言葉を失った。

 

「自分がどうやって戻ってきたのか。誰が戻したのか。何のために戻されたのか。私は何も知らない」

 

「……じゃあ、あなたも」

 

「そう。私もまた、帰還者なんだ」

 

彼は苦笑した。

 

「死者が戻ってきたという話を聞いて、君はどんな気持ちになった?」

 

出久は答えに迷った。

 

怖かった。

 

信じられなかった。

 

何かが間違っていると思った。

 

そして、心のどこかでは。

 

もし、もう一度会いたい人が戻ってきたら。

 

そんなことも考えてしまった。

 

「……分かりません」

 

「そうか」

 

「でも、ひとつだけ」

 

出久は、彼を見た。

 

「戻ってきた人が、本当に本人なのかどうか。僕には、決められません」

 

「うん」

 

「でも、だからって、本人じゃないと決めつけることもできない」

 

彼は、目を細めた。

 

「……なるほど」

 

出久は、再び歩き始めた。

 

「あなたが誰なのかは、これから確かめます」

 

「私を疑うんだね」

 

「はい」

 

「それでも、一緒に行くのかい?」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「あなたが偽物だったとしても、僕を騙すために何かを知っている可能性はあります」

 

「ずいぶん容赦がないな」

 

「それに」

 

出久は、黒い道の先を見つめた。

 

「本物だったら、あなたも自分が誰なのかを知りたいはずです」

 

相手は何も言わなかった。

 

その沈黙を、出久は拒絶だとは思わなかった。

 

二人は歩き続けた。

 

やがて、道の先に巨大な扉が現れた。

 

扉には、文字が刻まれていた。

 

『世界の初期設定』

 

その下に、小さな文字が続いている。

 

『閲覧権限:管理者』

 

出久は、眉をひそめた。

 

「……初期設定?」

 

「そうだ」

 

相手は扉を見つめた。

 

「世界が世界になる前に、何が決められたのか。それを記録した場所だ」

 

「世界ができる前に、世界の設定があったんですか?」

 

「正確には、世界を管理する仕組みが先にあった、ということだろう」

 

彼は、扉の表面に触れた。

 

何も起こらない。

 

「ここを開くには、管理者の権限が必要だ」

 

「じゃあ、どうやって……」

 

そのとき。

 

出久の胸元が、淡く光った。

 

彼は驚いて、自分の服を見下ろした。

 

そこにあったのは、小さな黒い欠片だった。

 

いつから持っていたのか分からない。

 

少なくとも、家を出るときには気づかなかった。

 

欠片は、まるで心臓のように脈打っていた。

 

扉の文字が変わる。

未登録個体を確認。

 

管理者権限なし。

 

ただし、原初記録との適合性を検出。

 

特例閲覧を許可します。

 

扉が開いた。

 

その向こうには、無数の光が浮かんでいた。

 

ひとつひとつが、世界の記録だった。

 

人間が生まれた記録。

 

人間が死んだ記録。

 

戦争の記録。

 

災害の記録。

 

英雄が人々を救った記録。

 

誰かが誰かを傷つけた記録。

 

無数の人生が、光の粒となって浮かんでいた。

 

出久は息を呑んだ。

 

「これが……世界の歴史?」

 

「そうだろうね」

 

相手は、周囲を見回した。

 

「だが、すべてではない」

 

出久は、光の群れを見つめた。

 

どの記録にも、名前がついている。

 

識別番号がある。

 

生年月日がある。

 

死因がある。

 

その一方で。

 

光の群れの中央に、奇妙な空白があった。

 

記録が、そこだけ欠けている。

 

いや。

 

欠けているというより。

 

最初から、何も存在しなかったかのようだった。

 

「……あそこは?」

 

出久が尋ねると、相手は表情を変えた。

 

「触れるな」

 

「どうしてですか?」

 

「分からないからだ」

 

「あなたにも?」

 

「そうだ」

 

彼は、珍しく迷いのない声で言った。

 

「だから、触れるな」

 

しかし。

 

出久は、空白の中に何かを見た。

 

小さな手。

 

幼い子供の手だった。

 

その手は、暗闇の中から伸びていた。

 

誰かに向かって。

 

助けを求めるように。

 

「……待って」

 

出久は一歩踏み出した。

 

相手が腕を掴む。

 

「緑谷くん!」

 

「何かいるんです!」

 

「だからこそ、近づくな!」

 

「でも!」

 

出久は、空白から目を離せなかった。

 

その手を見ていると、胸が痛んだ。

 

知らないはずなのに。

 

見たことがないはずなのに。

 

あの小さな手を、知っている気がした。

 

弟の手。

 

まだ生まれていない、もう一人の息子。

 

その存在が、記録の空白の向こうから、こちらを見ている。

 

出久は、ゆっくりと手を伸ばした。

 

指先が、空白に触れた。

 

瞬間。

 

世界が、反転した。

 

第七章 原罪は、誰かが生まれる前に始まった

出久は、白い部屋に立っていた。

 

母がいた。

 

若い頃の母だった。

 

まだ出久を産む前の、引子。

 

彼女は、見知らぬ建物の中で、誰かと話していた。

 

「……それで、本当に助かるんですか?」

 

引子が尋ねた。

 

向かいに立つ人物の顔は、見えない。

 

声も、どこか遠くから聞こえるようだった。

 

『可能性は高い』

 

「可能性……?」

 

『確実とは言えない。だが、この方法なら、あなたの望む未来を維持できる』

 

引子は、俯いた。

 

「私の望む未来……」

 

『子供を失わずに済む』

 

出久は息を呑んだ。

 

母の手が、お腹に触れていた。

 

まだ、自分は生まれていない。

 

そして。

 

母の中には、もう一人の命がいた。

 

「……そんなことが、できるんですか?」

 

引子の声が震えた。

 

『世界の構造を調整すれば可能だ』

 

「世界の構造……?」

 

『命が生まれる条件。死が確定する条件。因果関係の接続。これらを最適化することで、失われるはずだった未来を保存できる』

 

出久は、周囲を見回した。

 

これは過去なのか。

 

それとも、誰かが作った映像なのか。

 

母の記憶なのか。

 

世界の記録なのか。

 

まだ、分からない。

 

しかし。

 

目の前の光景は、確かに母の人生に関係していた。

 

『ただし、代償が必要だ』

 

引子の顔が強張った。

 

「……代償?」

 

『世界は無限の可能性を維持できない。複数の未来が衝突する場合、ひとつを確定させる必要がある』

 

「それは……」

 

『あなたの子供たちのうち、どちらかの未来を切り離すことになる』

 

引子は、言葉を失った。

 

出久は叫びたかった。

 

やめてくれ、と。

 

母に、そんなことを言わないでくれ、と。

 

けれど、声が出なかった。

 

これは過去なのだ。

 

自分は、まだ何もできない。

 

引子は、しばらく俯いていた。

 

そして。

 

「……二人とも、助けられませんか?」

 

その言葉に、出久の胸が締めつけられた。

 

『不可能だ』

 

「どうして?」

 

『計算上、世界の安定性を維持できない』

 

「計算を変えることは?」

 

『不可能だ』

 

「別の方法は?」

 

『存在しない』

 

引子は、目を閉じた。

 

『あなたは選ばなければならない』

 

出久は、母の顔を見つめた。

 

彼女は泣いていなかった。

 

まだ。

 

ただ、必死に考えていた。

 

どちらかを選ぶのではなく。

 

二人とも助ける方法を。

 

「……もし」

 

引子は、静かに口を開いた。

 

「もし、私が選ばなかったら?」

 

『世界の安定性が損なわれる』

 

「それでも?」

 

『無関係な人々の生命が危険にさらされる可能性がある』

 

引子の手が震えた。

 

「……そうですか」

 

彼女は、深く息を吸った。

 

そして。

 

「それなら、私が考えます」

 

『……何?』

 

「あなたたちが、できないと言うなら」

 

引子は顔を上げた。

 

「私が考えます」

 

出久は、母の瞳を見た。

 

その目には、恐怖があった。

 

迷いがあった。

 

それでも。

 

諦めはなかった。

 

「二人とも助ける方法を、私が探します」

 

『あなたには不可能だ』

 

「まだ、やっていません」

 

『計算結果は出ている』

 

「私は、計算結果ではありません」

 

その瞬間。

 

世界が揺れた。

 

白い部屋の壁に、亀裂が走る。

 

向かいに立っていた人物の姿が、初めて揺らいだ。

 

『……非合理だ』

 

引子は答えた。

 

「そうかもしれません」

 

『あなたの選択は、多数の人間を危険にさらす』

 

「それは、避けたいです」

 

『ならば、選べ』

 

「でも」

 

引子は、まっすぐに相手を見た。

 

「あなたが用意した二つの選択肢だけが、世界のすべてだとは思いません」

 

その言葉と同時に、空間が崩壊した。

 

出久は、母の姿へ手を伸ばした。

 

「母さん!」

 

けれど、指先は届かない。

 

母の姿が遠ざかる。

 

白い部屋が消える。

 

そして、最後に。

 

母の声だけが残った。

 

『この子たちを、お願いします』

 

誰に向けた言葉なのか。

 

分からなかった。

 

管理者に向けたものなのか。

 

まだ生まれていない二人の息子に向けたものなのか。

 

それとも。

 

世界そのものに向けた、最後の願いだったのか。

 

出久は、暗闇の中に落ちていった。

 

そして、落ちながら理解した。

 

原罪は、母が二人の子供を選ばなかったことではない。

 

母が、二人とも助けようとしたことでもない。

 

原罪が始まったのは。

 

誰かが、未来をひとつに決めなければならないと断言した瞬間だった。

 

誰かが、計算できない可能性を、存在しないものとして扱った瞬間だった。

 

誰かが、できない理由を説明する代わりに、選べと命じた瞬間だった。

 

世界を守るために。

 

世界の正しさを証明するために。

 

世界は、世界にとって都合の悪い命を切り捨てることを覚えた。

 

そして。

 

その仕組みを維持するために、世界は人間に選択を押しつけるようになった。

 

出久は、暗闇の中で拳を握った。

 

「……そんなの」

 

声が震えた。

 

「そんなの、正しいわけがない」

 

その瞬間。

 

どこからともなく、声が響いた。

 

『では、緑谷出久』

 

声は、出久の心の奥から聞こえてくるようだった。

 

『世界を救うために、世界を壊す覚悟はあるか?』

 

出久は答えられなかった。

 

世界を壊す。

 

その言葉は、あまりにも重かった。

 

世界が間違っているなら、変えなければならない。

 

だが、世界を変える過程で、無関係な人々が傷つくかもしれない。

 

自分の行動が、新たな犠牲を生むかもしれない。

 

正義を掲げた人間が、別の正義を踏みにじる。

 

その歴史を、出久は知っていた。

 

だからこそ、簡単に答えることはできなかった。

 

「……僕は」

 

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「世界を壊したいわけじゃない」

 

声が問い返す。

 

『ならば、何を望む?』

 

出久は、目を閉じた。

 

母の顔が浮かぶ。

 

弟の顔が浮かぶ。

 

そして、知らない人々の顔が浮かぶ。

 

「世界が、誰かを犠牲にしなければ成り立たないなら」

 

出久は、はっきりと言った。

 

「世界のほうを、変えたい」

 

『それができると思うのか?』

 

「分かりません」

 

出久は答えた。

 

「でも、できないと決めるのは、僕じゃない」

 

一瞬、静寂が訪れた。

 

そして。

 

声が笑った。

 

『……なるほど』

 

暗闇が裂けた。

 

その向こうに、無数の扉が現れた。

 

それぞれの扉には、名前が刻まれている。

 

死者の名前。

 

生者の名前。

 

まだ生まれていない者の名前。

 

そして。

 

ひとつだけ、名前のない扉があった。

 

その扉の前に、母が立っていた。

 

「……母さん!」

 

出久は駆け出した。

 

引子が振り返った。

 

「出久!」

 

彼女は、息子に向かって手を伸ばした。

 

二人の手が触れた瞬間。

 

世界の奥底で、何かが目を覚ました。

 

それは、神と呼ぶにはあまりにも歪で。

 

怪物と呼ぶには、あまりにも古かった。

 

世界が生まれるよりも前から、そこにいたもの。

 

世界の仕組みが作られたとき、名前を与えられなかったもの。

 

すべての記録の外側にありながら、すべての記録を見ていたもの。

 

その存在が、初めて言葉を発した。

 

『ようやく、ここまで来たか』

 

出久は、母を抱き締めた。

 

引子もまた、息子を抱き締め返した。

 

そして、二人の背後で。

 

名もなき扉が、ゆっくりと開いた。

 

第八章 救済を名乗るもの

扉の向こうには、世界があった。

 

いや。

 

正確には、世界になる前の何かがあった。

 

大地も、海も、空もない。

 

光と闇の区別すら曖昧な空間。

 

その中央に、巨大な球体が浮かんでいた。

 

球体は、無数の目を持っていた。

 

人間の目。

 

動物の目。

 

見たこともない生物の目。

 

そして、目と呼んでいいのかさえ分からない、奇妙な器官。

 

それらすべてが、同時に開閉している。

 

出久は、母を背中にかばった。

 

「……何だ、あれ」

 

引子も、声を失っていた。

 

その存在からは、殺意を感じなかった。

 

悪意も感じなかった。

 

ただ、圧倒的な違和感があった。

 

そこにいるものは、人間を憎んでいない。

 

人間を愛してもいない。

 

そもそも、人間を人間として認識しているのかどうかすら分からない。

 

それなのに。

 

その存在がこちらを見た瞬間、出久は理解した。

 

見られている。

 

自分の身体だけではない。

 

記憶も。

 

感情も。

 

選択も。

 

自分が何を恐れ、何を望み、何を守ろうとしているのか。

 

そのすべてが、見透かされている。

 

『緑谷出久』

 

声が響いた。

 

『緑谷引子』

 

母の名前まで知っている。

 

『二つの命を守ろうとする者たち』

 

出久は拳を握った。

 

「……お前は、誰だ?」

 

巨大な球体が、ゆっくりと回転した。

 

無数の目が、出久を見つめる。

 

『名は、君たちが必要とするものだ』

 

「答えになっていない!」

 

『そうだな』

 

声に、わずかな揺らぎがあった。

 

『私は、名を与えられなかったもの』

 

出久の胸がざわついた。

 

名を与えられなかったもの。

 

世界の記録から外れたもの。

 

存在しないと扱われたもの。

 

それは、弟と同じなのか。

 

帰還者たちと同じなのか。

 

それとも、もっと根本的な何かなのか。

 

「……お前が、原罪を起こしたのか?」

 

巨大な球体は、答えなかった。

 

代わりに、周囲の空間に映像が浮かび上がった。

 

人類の歴史。

 

文明の誕生。

 

戦争。

 

災害。

 

英雄たちの戦い。

 

誰かを救うために、誰かが傷つく。

 

誰かを守るために、誰かが犠牲になる。

 

世界は、何度も同じことを繰り返していた。

 

そして、そのたびに。

 

人間は、犠牲を正当化する言葉を作り出してきた。

 

必要な犠牲。

 

やむを得ない選択。

 

全体のための少数の損失。

 

未来のための決断。

 

映像の中で、ひとりの人間が泣いていた。

 

大切な誰かを失った人間だった。

 

その人物の前に、別の人間が立っていた。

 

『仕方がなかったんだ』

 

そう言っている。

 

『ほかに方法がなかった』

 

『君の犠牲は、世界を救った』

 

『君の死には意味があった』

 

映像が切り替わる。

 

また別の人間。

 

また別の犠牲。

 

また別の正当化。

 

出久は、歯を食いしばった。

 

「……やめろ」

 

映像は止まらない。

 

『人間は、意味を求める』

 

名もなき存在が語りかけた。

 

『死に意味を。犠牲に意味を。苦しみに意味を』

 

無数の目が、ゆっくりと閉じた。

 

『意味がなければ、耐えられないからだ』

 

「……だからって」

 

出久は、声を絞り出した。

 

「だからって、犠牲に意味があったことにしていい理由にはならない!」

 

映像が、初めて揺らいだ。

 

『そうだ』

 

出久は息を呑んだ。

 

存在は、否定しなかった。

 

『そのとおりだ』

 

巨大な球体が、少しだけ縮んだ。

 

『だからこそ、私は世界を疑う者を待っていた』

 

引子が、出久の肩を掴んだ。

 

「……出久、気をつけて」

 

「母さん?」

 

「この存在は、私たちの言葉を理解している。でも、人間と同じ意味で理解しているとは限らない」

 

出久は頷いた。

 

そうだ。

 

この存在は、何かを知っている。

 

けれど、何を望んでいるのかは分からない。

 

世界を救いたいのか。

 

世界を壊したいのか。

 

人間を助けたいのか。

 

人間の反応を観察しているだけなのか。

 

判断するには、情報が足りない。

 

だからこそ、聞かなければならない。

 

「……お前は、何がしたいんだ?」

 

沈黙。

 

やがて、声が響いた。

 

『世界を、正しくすることだ』

 

出久の顔が強張った。

 

その言葉は。

 

あまりにも、聞き覚えがあった。

 

正しくする。

 

正解を与える。

 

間違いを修正する。

 

世界を救う。

 

そのために、誰かを消す。

 

「……お前もか」

 

出久は呟いた。

 

「お前も、世界を正しくするために、誰かを犠牲にするのか?」

 

『必要であれば』

 

引子が、出久の前に出た。

 

「必要かどうかを、誰が決めるの?」

 

名もなき存在の目が、彼女に向いた。

 

『世界の存続条件が決める』

 

「違うわ」

 

引子は言った。

 

「それは、あなたが決めているだけでしょう?」

 

巨大な球体が静止した。

 

『……何?』

 

「世界の存続条件というものを、あなたたちが定めたのでしょう?」

 

引子は、息子の手を握った。

 

「なら、その条件が間違っている可能性もあるはずよ」

 

沈黙。

 

「世界が存続するために、誰かを犠牲にする必要がある。あなたはそう言う。でも、それは世界がそういう仕組みになっているからでしょう?」

 

引子は、まっすぐに存在を見つめた。

 

「仕組みを変えられないの?」

 

名もなき存在は、答えなかった。

 

引子は続けた。

 

「変えられないなら、なぜ変えられないの?」

 

沈黙。

 

「変えると誰が困るの?」

 

沈黙。

 

「変えたら何が起こるの?」

 

沈黙。

 

引子は、悲しそうに笑った。

 

「……やっぱり、あなたたちも同じなのね」

 

出久は、母を見た。

 

「母さん……」

 

「できないと言うだけなら、簡単なのよ」

 

引子は、息子の頭を撫でた。

 

「でも、本当にできないのかを確かめることは、簡単じゃない」

 

彼女は、もう一度、名もなき存在を見た。

 

「あなたたちは、世界を救いたいの?」

 

『そうだ』

 

「なら、救い方を考えなさい」

 

その言葉が、空間に響いた。

 

「誰かを犠牲にする方法じゃなくて。誰かを存在しなかったことにする方法じゃなくて」

 

引子は、静かに告げた。

 

「誰も犠牲にしなくて済む方法を」

 

巨大な球体の表面に、亀裂が走った。

 

出久は、目を見開いた。

 

「……母さん?」

 

引子自身も、驚いていた。

 

彼女は何もしていない。

 

ただ、問いかけただけだ。

 

できないと言う相手に、なぜできないのかと尋ねただけだ。

 

それなのに。

 

世界の根幹に触れる何かが、揺らいでいる。

 

『……興味深い』

 

名もなき存在が呟いた。

 

『人間は、なぜそこまで非効率な願いを抱く?』

 

「非効率?」

 

出久は、眉をひそめた。

 

『二つの命を守るために、世界全体の構造を変えようとする。ひとつの命を救うために、無数の可能性を検証しようとする。失敗するかもしれない方法に、時間と資源を費やす』

 

巨大な球体が、ゆっくりと回転した。

 

『その行為に、どれほどの価値がある?』

 

出久は答えた。

 

「……価値があるかどうかを、先に決める必要はない」

 

『なぜだ?』

 

「助けたいからだ」

 

『それは理由にならない』

 

「僕にとっては、理由になる」

 

出久は、まっすぐに存在を見つめた。

 

「母さんが、僕を助けたいと思ってくれた。僕も、母さんを助けたい。弟が本当にいるなら、その子も助けたい」

 

彼は拳を握った。

 

「誰かを助けたいと思うことが、世界の計算に合わないからって、やめなきゃいけない理由にはならない!」

 

名もなき存在は、しばらく沈黙していた。

 

そして。

 

『ならば、証明してみせろ』

 

空間が震えた。

 

『世界を変えられると』

 

出久の足元に、光が広がった。

 

無数の扉が現れる。

 

それぞれの扉の向こうには、異なる世界があった。

 

ある世界では、出久が生まれていない。

 

ある世界では、弟が生まれ、出久が死んでいる。

 

ある世界では、二人とも生きているが、母が存在しない。

 

ある世界では、英雄が存在せず、社会は別の形に変わっていた。

 

そして。

 

ひとつの世界では、死者が一人も帰還していなかった。

 

何も問題が起こらなかったかのように、世界は平穏に続いていた。

 

『この中から、世界を選べ』

 

名もなき存在が告げた。

 

『ひとつを選べば、ほかの可能性は閉じられる』

 

出久は、無数の扉を見た。

 

「……また選択か」

 

『世界は、ひとつしか維持できない』

 

「それは、お前の決めたルールだろう」

 

『この世界の存続条件だ』

 

「だったら、その条件を変える」

 

出久は、扉に手を伸ばした。

 

しかし、触れる直前に止まった。

 

「……いや」

 

彼は、ゆっくりと手を下ろした。

 

「その前に、聞きたいことがある」

 

『何だ?』

 

出久は、名もなき存在を見据えた。

 

「お前は、本当に世界を救いたいのか?」

 

巨大な球体が、動きを止めた。

 

「それとも、世界を救うことが正しいって、自分に証明したいだけなのか?」

 

静寂が訪れた。

 

無数の目が、一斉に出久を見つめた。

 

初めて。

 

この存在が、言葉を失った。

第九章 死神は、管理者に死を告げる

南極地下施設。

 

崩壊しかけた制御室で、死神は立っていた。

 

目の前には、もうひとりの死神。

 

同じ顔。

 

同じ姿。

 

異なる信念。

 

「……最後の警告だ」

 

もうひとりの死神が言った。

 

「管理権限への干渉を停止しろ」

 

「断る」

 

「帰還者の管理を放棄すれば、世界の安定性が損なわれる」

 

「なら、安定性の定義を変えろ」

 

「不可能だ」

 

「何度目だ、その言葉は」

 

死神は、笑った。

 

「お前たちは、不可能という言葉を便利に使いすぎる」

 

もうひとりの死神は、手を掲げた。

 

無数の光が集まる。

 

光は、槍の形を取った。

 

「お前は、死者を救おうとしているつもりなのだろう」

 

「……つもり?」

 

「死者を生かせば、彼らは再び苦しむ。記憶を失い、家族を忘れ、死んだ瞬間を繰り返す。それでも生かすことが正義なのか?」

 

死神は、答えなかった。

 

「彼らの苦しみを終わらせることこそ、死神の役目ではないのか?」

 

その問いは、正しかった。

 

少なくとも、間違いだと簡単に切り捨てられるものではなかった。

 

帰還した少女は、もう一度死にたいと願っていた。

 

彼女の苦しみを無視して、ただ生きろと命じることが正義なのか。

 

死神には分からない。

 

だからこそ。

 

「……俺は、決めない」

 

もうひとりの死神が眉をひそめた。

 

「何?」

 

「生かすことが正しいとも、死なせることが正しいとも、今は決めない」

 

死神は、自分の胸に手を当てた。

 

「俺がするべきなのは、命令を実行することじゃない」

 

彼は顔を上げた。

 

「本人に聞くことだ」

 

「本人に?」

 

「何を望んでいるのか。何が苦しいのか。何を失いたくないのか」

 

死神は、ゆっくりと歩き出した。

 

「そのうえで、何ができるのかを考える」

 

「……非合理だ」

 

「そうだな」

 

死神は頷いた。

 

「だが、死者を番号で管理するよりは、ましだ」

 

もうひとりの死神が、槍を投げた。

 

黒い光が、死神の肩を貫く。

 

身体が揺らぐ。

 

それでも、死神は倒れなかった。

 

「管理者の命令は絶対だ」

 

「なら」

 

死神は、傷口を押さえた。

 

「今日から俺は、管理者の命令を疑う死神になる」

 

彼の足元に、黒い円が広がった。

 

施設の壁に刻まれた古い文字が、次々と光り始める。

 

それは、死神という役割が定義される以前の記録だった。

 

死を告げる者。

 

魂を運ぶ者。

 

終わりを見届ける者。

 

そして。

 

生者と死者の境界を守る者。

 

死神は、すべての文字に手を触れた。

 

「死は、管理者の所有物じゃない」

 

その声が、施設全体に響いた。

 

「生も、管理者の所有物じゃない」

 

もうひとりの死神が、初めて後ずさった。

 

「お前は……何をしようとしている?」

 

死神は、答えた。

 

「境界を取り戻す」

 

その瞬間。

 

世界中で、帰還者たちの胸に黒い光が灯った。

 

消されかけていた名前が、再び記録に浮かび上がる。

 

忘れられていた顔が、誰かの記憶に戻る。

 

死者の存在を示す痕跡が、世界のあちこちで復元されていく。

 

けれど、それは完全な復活ではなかった。

 

記憶の欠損は残っている。

 

死の痛みも消えていない。

 

失われた時間も、戻ってこない。

 

ただ。

 

彼らは、世界に存在している。

 

誰かの許可がなくても。

 

誰かの命令がなくても。

 

自分たちの意思を持つ存在として。

 

死神は、膝をついた。

 

限界だった。

 

管理者の権限を拒絶した反動が、全身を蝕んでいる。

 

もうひとりの死神が、ゆっくりと近づいてくる。

 

「……愚かな選択だ」

 

死神は、顔を上げた。

 

「そうかもしれないな」

 

「世界は、お前を許さない」

 

「構わない」

 

「お前は、死神としての役目を失う」

 

死神は、少しだけ笑った。

 

「なら、もう一度考え直せばいい」

 

「何を?」

 

「死神とは、何をする者なのか」

 

その言葉と同時に、施設の最深部から、警報が響いた。

未登録領域における原初記録への接続を確認。

 

原罪事象の根源反応を検出。

 

管理者権限による接続制限、失敗。

 

もうひとりの死神の表情が凍りついた。

 

「……そんな、馬鹿な」

 

死神は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「どうした?」

 

もうひとりの死神は、震える声で答えた。

 

「原初記録が……目覚めた」

 

死神の顔から、笑みが消えた。

 

「……何?」

 

施設の壁面に、ひとつの文字が浮かんだ。

 

それは、世界のどの言語にも属さない文字だった。

 

それなのに。

 

死神には、その意味が分かった。

 

『管理者へ告ぐ』

 

文字が、黒く染まる。

 

『お前たちが隠したものは、まだ死んでいない』

 

死神は、息を呑んだ。

 

その言葉の意味を理解するには、まだ情報が足りなかった。

 

だが。

 

ひとつだけ、確かなことがあった。

 

世界の管理者たちが恐れているのは、帰還者ではない。

 

死神の反逆でもない。

 

世界そのものが、最初から隠してきた何かだ。

 

そして今。

 

その何かが、目を覚ましつつある。

第十章 世界の正解は、誰のためにある

名もなき存在は、出久の問いに答えなかった。

 

世界を救いたいのか。

 

それとも、世界を救うことが正しいと証明したいだけなのか。

 

その問いを受けてから、巨大な球体は動きを止めていた。

 

出久は、母の手を握ったまま待っていた。

 

急かすつもりはなかった。

 

答えを強制するつもりもなかった。

 

ただ。

 

その問いに答えられないまま、誰かを犠牲にすることだけは、認めたくなかった。

 

やがて。

 

『……私は』

 

声が響いた。

 

『世界を救いたかった』

 

過去形だった。

 

出久は、目を見開いた。

 

『かつて、私は世界を救うために作られた』

 

巨大な球体の表面に、無数の光が浮かび上がる。

 

『世界は不安定だった。可能性が衝突し、因果が分岐し、矛盾が発生していた』

 

光の中に、古い世界が映し出された。

 

生まれるはずの命が生まれない。

 

死ぬはずの人間が生き続ける。

 

ひとつの出来事が、無数の未来を生み出す。

 

世界は、混乱していた。

 

『私は、世界を安定させるために作られた』

 

「……誰に?」

 

『分からない』

 

出久は、息を呑んだ。

 

『私が目覚めたとき、創造者はすでに存在しなかった。残されていたのは、世界を維持せよという命令だけだった』

 

巨大な球体が、ゆっくりと回転する。

 

『私は、命令に従った』

 

世界の映像が変わる。

 

矛盾が消えていく。

 

分岐していた未来が、ひとつにまとまっていく。

 

生まれなかった命は、記録されなくなる。

 

救われなかった人間は、歴史の外側へ押し出される。

 

『世界は安定した』

 

「……その代わりに、何を失った?」

 

出久の問いに、存在は答えた。

 

『可能性だ』

 

その言葉は、あまりにも静かだった。

 

『世界が安定するほど、可能性は減少した。矛盾を排除するほど、未来は限定された。予測できないものを排除するほど、世界は管理しやすくなった』

 

出久は、拳を握った。

 

「それで……世界は正しくなったと思ったのか?」

 

『私は、そう判断した』

 

「誰のために?」

 

沈黙。

 

『……世界のために』

 

「世界って、何だ?」

 

出久は問い続けた。

 

「そこに生きている人たちのことか? 建物や国や社会のことか? それとも、世界が続いているという状態そのものか?」

 

名もなき存在は答えなかった。

 

出久は、ゆっくりと続けた。

 

「もし、世界を維持するために人間が犠牲になるなら、その世界は何のために続いているんだ?」

 

母が、出久の手を握り直した。

 

「出久……」

 

「ごめん、母さん。でも、聞きたいんだ」

 

出久は、名もなき存在を見つめた。

 

「お前は、世界を救うために作られたと言った。なら、世界を救うことが、お前の目的だったはずだ」

 

彼は、一歩前へ出た。

 

「でも、いつから世界を維持することが目的になったんだ?」

 

その瞬間。

 

巨大な球体が、激しく震えた。

 

『……違いはない』

 

「違うよ」

 

出久は即答した。

 

「世界を救うことと、世界を維持することは、同じじゃない」

 

彼は、言葉を選びながら話した。

 

「人間だって、誰かを助けようとして間違えることがある。助けたいと思うあまり、相手の気持ちを聞かずに決めてしまうことだってある」

 

出久は、母を見た。

 

「でも、だからって、助けることをやめていい理由にはならない」

 

再び、存在を見つめる。

 

「間違えたら、考え直せばいい。失敗したら、やり直せばいい。誰かが傷ついたなら、その傷と向き合えばいい」

 

出久は、拳を握った。

 

「それなのに、お前は世界を維持するために、考えることをやめたんじゃないのか?」

 

沈黙が訪れた。

 

長い、長い沈黙だった。

 

そして。

 

『……私は』

 

名もなき存在が、初めて迷いを見せた。

 

『世界を救う方法を、忘れたのかもしれない』

 

その声には、途方もない年月が滲んでいた。

 

世界が生まれるよりも前から、世界を管理し続けたもの。

 

矛盾を排除し、可能性を閉じ、正解を積み重ねてきたもの。

 

その存在は、世界を救うために作られた。

 

だが、救うという言葉の意味を、いつしか失っていた。

 

世界を救うために、世界を維持する。

 

世界を維持するために、可能性を排除する。

 

可能性を排除するために、命を切り捨てる。

 

そして、命を切り捨てることを正当化するために、世界は正しいのだと信じる。

 

その連鎖の果てに。

 

誰も、最初の目的を覚えていなかった。

 

「……だったら」

 

出久は、ゆっくりと手を差し出した。

 

「一緒に考えよう」

 

母が息を呑んだ。

 

名もなき存在の目が、出久に集中した。

 

『……何?』

 

「世界を救う方法だよ」

 

出久は、まっすぐに言った。

 

「お前一人で決めるんじゃない。僕一人で決めるんでもない」

 

彼は、母の手を握った。

 

「生きている人たちにも、死んだ人たちにも、まだ生まれていない人たちにも、関係することなんだから」

 

その言葉に、無数の扉が光った。

 

帰還者たちの記録が浮かび上がる。

 

世界から消されかけていた名前が、ひとつ、またひとつと戻ってくる。

 

南極の死神が、顔を上げた。

 

麗日お茶子が、少女の手を握り締めた。

 

そして。

 

遠く離れた場所で、世界の記録に存在しない子供が、初めて目を開いた。

 

名もなき存在は、長い沈黙の末に答えた。

 

『……その方法には、危険がある』

 

「分かってる」

 

『失敗すれば、世界が崩壊するかもしれない』

 

「分かってる」

 

『救えない命が出るかもしれない』

 

出久の表情が曇った。

 

それでも、彼は目を逸らさなかった。

 

「……それでも、考える」

 

『なぜだ?』

 

「それ以外の方法を、まだ知らないからだ」

 

出久は、差し出した手を下ろさなかった。

 

「知らないなら、探す。できないなら、どうしてできないのかを調べる。間違っていたら、やり直す」

 

彼は、少しだけ笑った。

 

「それが、僕たちのやり方だから」

 

名もなき存在の表面に、無数の亀裂が走った。

 

それは、崩壊の兆候ではなかった。

 

閉ざされていた何かが、開き始めている。

 

そんな気配だった。

 

『……緑谷出久』

 

声が響く。

 

『お前は、世界を救うために、世界を疑うのか』

 

出久は答えた。

 

「うん」

 

そして。

 

「世界が間違っている可能性を認められないなら、世界を救うことなんてできないと思うから」

 

その瞬間。

 

世界の中央に、ひとつの文字が浮かび上がった。

 

『原罪』

 

その文字が、ゆっくりと変化していく。

 

『原罪事象――再定義開始』

 

母が、出久を見た。

 

「……出久、これは?」

 

出久は答えられなかった。

 

何が起きているのか、まだ分からない。

 

ただ。

 

世界の根幹にある何かが、変わり始めている。

 

そのことだけは、確かだった。

 

そして、変化はすぐに終わらなかった。

 

世界の記録が、次々と書き換わっていく。

 

帰還者の情報。

 

死者の記録。

 

生者の記録。

 

まだ生まれていない命の記録。

 

それらすべてが、ひとつの問いを中心に再構成されていく。

 

『誰が、世界を正しいと決めたのか』

 

その問いが、世界中に響き渡った。

 

誰もが、同時に聞いた。

 

英雄も。

 

犯罪者も。

 

子供も。

 

老人も。

 

生きている者も。

 

死んだ者も。

 

そして、世界を管理してきた者たちも。

 

世界は初めて、自分自身に問いを投げかけた。

 

正しさとは何か。

 

救済とは何か。

 

命とは何か。

 

そして。

 

原罪とは、いったい誰の罪なのか。

終章 世界が、答えを恐れた日

暗闇の奥で、管理者たちが集まっていた。

 

人間の姿をした者もいれば、光の集合体のような者もいた。

 

その姿はそれぞれ異なっていた。

 

だが、全員に共通しているものがあった。

 

彼らは、恐れていた。

 

「原初記録が再起動した」

 

ひとりが告げた。

 

「未登録領域への接続が確認された」

 

別の者が続ける。

 

「帰還者の個体識別が復元されつつある。死神の管理権限も、一部が失われた」

 

「原因は?」

 

誰も答えなかった。

 

やがて、最も奥に座っていた存在が口を開いた。

 

「緑谷出久だ」

 

その名前が、空間に響いた。

 

「彼が、原初記録へ接続した」

 

「なぜ、あの個体が?」

 

「適合性があるのか?」

 

「それとも、誰かが意図的に接続を許可したのか?」

 

疑問が飛び交う。

 

しかし。

 

そのすべてを遮るように、ひとつの声が響いた。

 

「問題は、緑谷出久ではない」

 

管理者たちは、一斉に沈黙した。

 

声の主は、立ち上がった。

 

「問題は、彼が何をしたかではない」

 

その存在の顔には、恐怖が刻まれていた。

 

「彼が、何を問い始めたかだ」

 

誰もが理解した。

 

世界を疑うこと。

 

正しさを疑うこと。

 

管理者の判断を疑うこと。

 

そして、世界を維持する仕組みそのものを疑うこと。

 

それらは、すべて許容されていた。

 

疑問を抱くこと自体は、禁止されていなかった。

 

人間が疑問を抱いても、管理者が答えを提示すればよかった。

 

人間が反抗しても、世界の安定性を示せばよかった。

 

人間が犠牲に抗議しても、より大きな犠牲を防ぐためだと説明すればよかった。

 

だが。

 

今回の問いは違った。

 

『世界を救うことと、世界を維持することは、同じなのか』

 

その問いは、管理者たち自身の存在理由に向けられていた。

 

もし、世界を維持することが、世界を救うことと同じではないのなら。

 

もし、管理者たちが正しさを証明するために、世界を維持してきたのなら。

 

もし、彼らが救済を名乗ることで、自らの判断を疑わずに済むようにしていたのなら。

 

彼らは、何のために存在してきたのだろう。

 

「……原罪事象を再定義させるわけにはいかない」

 

ひとりが言った。

 

「再定義が完了すれば、管理者権限の根拠が失われる可能性がある」

 

「ならば、接続を遮断しろ」

 

「不可能だ。原初記録が、自ら接続を維持している」

 

「死神を排除しろ」

 

「すでに管理権限の一部が失われている。強制排除には時間がかかる」

 

「ならば、緑谷出久を消せ」

 

その言葉が、空間に落ちた。

 

誰も反対しなかった。

 

それが、最も簡単な解決策だった。

 

問題を引き起こした人間を消す。

 

問いを発した者を消す。

 

答えが出る前に、問いそのものを消す。

 

これまでも、彼らはそうしてきた。

 

だからこそ。

 

管理者たちは、気づいていなかった。

 

その判断こそが、彼らの正しさを疑う最大の理由になっていることに。

 

やがて、最奥の存在が命じた。

 

「原罪事象の強制修正を再開する」

 

その声には、迷いがなかった。

 

「対象は、緑谷出久。緑谷引子。未登録個体。および原初記録への接続を行ったすべての帰還者」

 

光が走った。

 

世界の管理機構が、再び動き始めた。

 

けれど。

 

その瞬間。

 

管理者たちの背後で、誰かが囁いた。

 

『……まだ、分からないのか』

 

全員が振り返った。

 

そこには、誰もいなかった。

 

ただ、黒い空白だけがあった。

 

記録されていない場所。

 

名前を与えられなかった存在が、長い間、閉じ込められていた場所。

 

その空白の中から、声が続いた。

 

『お前たちは、世界を救うために、何を犠牲にした?』

 

管理者たちは、答えられなかった。

 

『そして、何を犠牲にしたことを、忘れた?』

 

空白が広がった。

 

『世界が生まれる前から、お前たちが隠してきたものは、まだ死んでいない』

 

その瞬間。

 

管理者たちの中央に、ひとつの記録が浮かび上がった。

 

世界の最初の記録。

 

世界が生まれる前の記録。

 

管理者たち自身が、閲覧を禁じていた記録。

 

そこに刻まれていたのは、たった一文だった。

 

『最初に、世界を救うことを望んだのは、人間ではなかった』

 

そして、その下に。

 

もう一文があった。

 

『最初に、世界を犠牲にすることを決めたのも、人間ではなかった』

 

管理者たちの顔から、血の気が引いた。

 

その記録の末尾には、ひとつの名前があった。

 

彼らが、最も恐れていた名前。

 

彼らが、世界の歴史から消した名前。

 

そして。

 

緑谷出久が、まだ一度も聞いたことのない名前。

 

その名前が、ゆっくりと読み上げられた。

 

『――――』

 

声が途切れた。

 

名前を発音することさえ、世界が拒んだ。

 

それでも。

 

誰かが、確かにその名を呼んだ。

 

そして、世界の外側で。

 

何かが目を開いた。

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