第一章 神様の記憶には、空白がある
世界には、始まりがある。
少なくとも、人間はそう考えてきた。
宇宙が生まれた瞬間。
星が形成された時間。
地球が誕生した時代。
生命が海から陸へ上がり、無数の種が生まれ、滅び、人間が文明を築き上げた歴史。
人間は、始まりを探す。
自分たちがどこから来たのかを知るために。
何のために存在しているのかを知るために。
そして、終わりを恐れずに済む答えを見つけるために。
しかし。
もし、世界の始まりを知っているはずの存在が、その始まりを忘れていたら。
もし、世界を作った神様が、自分の犯した罪を覚えていなかったら。
もし、その忘却こそが、現在の世界を維持するために必要な仕組みだったとしたら。
人間は、何を信じればいいのだろう。
*
出久は、暗闇の中に立っていた。
目の前には、母がいる。
引子の手は温かかった。
確かな温度があった。
それだけで、出久は自分がまだ何かを失わずに済んでいるのだと感じた。
「母さん……本当に、母さんなんだよね?」
口にしてから、自分の質問がどれほど残酷なものだったかに気づいた。
引子は、一瞬だけ目を伏せた。
それから、出久の頬に触れた。
「出久」
その声を聞いた途端、胸の奥が痛くなった。
「あなた、小さい頃、怖い夢を見ると、よく私の布団に潜り込んできたでしょう?」
「……え?」
「小学校に入ってからは、恥ずかしいからって我慢するようになったけれど。眠れない夜は、廊下でしばらく立ち止まっていたのよ」
引子は微笑んだ。
「私が気づいていないと思っていた?」
出久は、何も言えなかった。
覚えている。
覚えているはずだった。
けれど、その記憶の一部が、今になって妙に鮮明になった気がした。
夜の廊下。
薄暗い照明。
母の部屋の前で立ち止まる自分。
扉の向こうから聞こえる寝息。
そして、戻ろうとしたときに、母が扉を開ける。
『どうしたの、出久?』
そんな記憶が、胸の奥から浮かび上がってくる。
「……母さん」
出久は、母の手を握った。
「僕、何を信じればいいのかな」
引子は答えなかった。
すぐに答えられる質問ではなかった。
記憶が改変されているかもしれない。
世界が、存在しなかった過去を作り出しているかもしれない。
目の前にいる母が、本物なのかどうかさえ、完全には証明できない。
それでも。
引子は、息子の手を離さなかった。
「分からないわ」
出久が顔を上げる。
「……母さんも?」
「ええ。分からないことばかりよ」
引子は、少し困ったように笑った。
「あなたが生まれる前のことも。あの子のことも。世界が何をしようとしているのかも。私には、全部は分からない」
彼女は、息子の額に手を当てた。
「でも、分からないからって、あなたを手放すつもりはないわ」
「……うん」
「あなたが本当に私の息子なのか、なんて、誰かに証明してもらう必要もない」
引子の声が、わずかに震えた。
「私はあなたを育ててきた。あなたと一緒に暮らしてきた。あなたが泣いた日も、笑った日も、悔しがった日も、見てきた」
彼女は出久を抱き締めた。
「その時間を、誰かに偽物だと言われたからって、なかったことにはできないわ」
出久は、母の肩に顔を埋めた。
その言葉を、信じたかった。
何もかもが本物だと。
自分の人生が、自分の記憶が、母との時間が、すべて確かなものだと。
けれど、今の出久には、それを無条件に信じることができなかった。
だからこそ。
母の言葉を、ひとつの答えとして受け取ることにした。
世界が何を記録しているかとは別に。
自分が何を感じているかを、確かめながら進む。
「……母さん」
「なあに?」
「弟のこと、覚えてる?」
引子の腕が止まった。
「……ええ」
「どんな子なの?」
その質問に、引子はすぐには答えなかった。
まだ生まれていない。
一緒に暮らした時間もない。
それなのに、引子の中には、その子を抱き締めたいという感情がある。
母親としての愛情が、確かに存在している。
だが、その子がどんな人間になるのかは分からない。
何を好きになるのかも。
何を嫌うのかも。
どんな声で笑うのかも。
どんなことで泣くのかも。
「……まだ、分からないわ」
引子は、正直に答えた。
「でも、きっと、あなたとは違う子になると思う」
「僕と違う?」
「ええ」
引子は、微笑んだ。
「あなたは、考えすぎるくらい考える子だったから。あの子は、もっと直感で動く子かもしれない。あなたが本を読んでいる隣で、勝手に遊び始めるような子かもしれないわね」
出久は、少しだけ笑った。
「……なんか、想像できるかも」
「そう?」
「うん。僕が何か説明しているのに、途中で飽きてどこかに行っちゃうとか」
「ふふ。ありそうね」
二人は、ほんの少しだけ笑った。
その笑い声が、暗闇に溶けていく。
そして。
出久は気づいた。
母は、弟の未来を知っているわけではない。
ただ、想像しているのだ。
まだ存在が確定していない命に、可能性を見ているのだ。
世界の記録にあるかどうかとは関係なく。
「……母さん」
「うん?」
「僕、弟に会いたい」
引子は、目を見開いた。
出久は、まっすぐに母を見つめた。
「本当にいるのか、まだ分からない。僕の記憶が正しいのかも分からない。でも、会って確かめたいんだ」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「僕があの子を大切に思っているのが、誰かに植えつけられた感情だったとしても。それでも、僕自身がどうしたいのか、ちゃんと考えたい」
引子は、息子の頬に触れた。
「……ええ」
そして、静かに答えた。
「一緒に会いに行きましょう」
その瞬間。
二人の足元に、光が灯った。
暗闇の奥から、声が響く。
『記憶の照合を完了』
出久は、顔を上げた。
『親子関係の確定には至らず』
引子の表情が険しくなる。
『ただし、相互認識と感情的連続性を確認』
光が強くなる。
『原初記録への接続を継続します』
出久は、母の手を握り直した。
「……行こう、母さん」
「ええ」
二人は、光の先へと歩き始めた。
世界の始まりを知るために。
そして、世界が忘れたものを取り戻すために。
第二章 神様が生まれた日
光の道を抜けた先には、海があった。
空はなかった。
太陽も、月も、星もない。
それでも海は、どこまでも広がっていた。
波は立っていない。
風も吹いていない。
水面は鏡のように静かで、その下には無数の光が沈んでいた。
出久は、岸辺に立ったまま、しばらく言葉を失っていた。
「……ここが、世界の始まり?」
「分からないわ」
引子は首を振った。
「でも、少なくとも、私たちが知っている世界ではなさそうね」
二人の背後には、扉がなかった。
振り返っても、ただ海が広がっているだけだ。
帰り道は消えていた。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
この場所には、敵意が感じられない。
ただ、何かを待っているような気配があった。
「……あれ?」
出久は、水面を指差した。
海の向こうに、ひとつの島が浮かんでいる。
島というより、巨大な岩だった。
その上に、小さな建物が建っている。
石造りの、質素な家。
煙突があり、窓があり、玄関の前には小さな庭があった。
その庭に、一人の少年が座っていた。
年齢は、十歳くらいだろうか。
黒い髪。
細い身体。
膝を抱えて、海を見つめている。
少年の隣には、一人の女性が立っていた。
顔は見えない。
ただ、彼女の手には、小さな器があった。
女性は少年の前にしゃがみ込み、何かを話しかけた。
少年は首を振る。
女性はもう一度、何かを尋ねた。
少年は、しばらく考えたあと、ようやく頷いた。
その瞬間。
海の上に、最初の波が立った。
出久は息を呑んだ。
「……何だ、今の?」
声が響いた。
『記録の再生を開始します』
海が、光を放った。
『対象、第一管理者』
少年の姿が、少しずつ鮮明になる。
『記録名――神』
出久は、眉をひそめた。
「神……?」
その呼び名は、あまりにも漠然としていた。
名前ではない。
役職だ。
あるいは、誰かが与えた称号にすぎない。
「この子が、最初の管理者?」
『肯定』
引子が、少年を見つめた。
「……ずいぶん、普通の子なのね」
その感想は、出久も同じだった。
神と呼ばれる存在。
世界の始まりを知っているはずの存在。
無数の命を管理する仕組みの、起源にいる存在。
それなのに、目の前の少年は、どこにでもいる子供に見えた。
海を見つめて。
誰かに話しかけられて。
返事に困って。
少しだけ、寂しそうにしている。
その姿は、神話に登場する全知全能の存在とは、あまりにもかけ離れていた。
『第一管理者は、世界の安定を維持するために創造された』
声が続く。
『創造者は、世界に生じる無限の分岐を観測し、管理する存在を必要とした』
海の映像が変わった。
無数の世界が、同時に現れる。
ある世界では、海が存在しない。
ある世界では、人類が誕生していない。
ある世界では、地球そのものが存在しない。
それぞれの世界が、異なる歴史を紡いでいた。
「……並行世界?」
出久が呟く。
『厳密には異なる可能性の集合体』
「同じ意味じゃないの?」
『人間の認識においては、近似している』
出久は小さく息を吐いた。
こういうところは、妙に機械的だ。
けれど、その説明の中に、重大な問題が隠れている気がした。
「待って」
出久は、記録に向かって問いかけた。
「世界が無限に分岐していたなら、どうして管理する必要があったの?」
『分岐が衝突したため』
「衝突?」
『複数の可能性が、同一の因果に接続された』
海の映像が、再び変わった。
ひとつの出来事から、無数の未来が伸びている。
その未来が、互いに絡み合い、衝突していた。
ひとつの世界で生まれた命が、別の世界では生まれなかったことになっている。
ある人間が死んだという結果と、生き延びたという結果が、同時にひとつの歴史へ流れ込んでいる。
同じ場所に、異なる過去が重なっていた。
「……これじゃ、世界が成り立たない」
出久は呟いた。
『肯定』
「だから、管理者が必要になった?」
『肯定』
「でも、分岐そのものが悪いわけじゃないよね」
その問いに、記録が一瞬だけ揺れた。
『質問の意図を確認』
「違う未来があること自体は、悪いことじゃないはずだ。別の選択をしたら、別の結果になる。それは自然なことだよ」
出久は、海に映る世界を見つめた。
「問題は、それぞれの世界の可能性が、同じ因果に無理やり接続されていたことなんじゃないの?」
沈黙。
引子が、息子を見た。
出久は考え続ける。
「たとえば、ある人が生きている世界と、死んでいる世界があったとする。どちらも、それぞれの世界では成立している。なのに、その二つをひとつにまとめようとしたら、矛盾が生まれる」
彼は、拳を握った。
「だったら必要なのは、どちらかを消すことじゃなくて、世界を混ぜないための仕組みなんじゃないの?」
海の上に、波が立った。
少年が、初めてこちらを向いた。
まるで、出久の声が聞こえたかのように。
『第一管理者は、同様の結論に到達した』
出久は息を止めた。
『世界を破壊することなく、分岐を管理する。複数の可能性を観測し、それぞれの独立性を維持する。そのために、第一管理者は創造された』
「……じゃあ」
出久は、ゆっくりと尋ねた。
「どうして今の世界は、可能性を消そうとしているの?」
その質問に。
記録は、答えなかった。
海の映像が、別の場面へと切り替わった。
少年が、女性の隣に座っている。
二人の間には、温かそうな食事が置かれていた。
女性は少年の髪を撫でていた。
少年は、何かを話している。
笑っているようだった。
神と呼ばれる存在が。
ただの子供として笑っている。
引子が、小さく息を呑んだ。
「……あの子にも、家族がいたのね」
出久は、その言葉を聞いて、初めて気づいた。
神にも、誰かがいた。
世界を作る前に。
命を管理する前に。
正しさを定義する前に。
彼にも、誰かと食事をする時間があった。
誰かに頭を撫でられる時間があった。
誰かの隣で笑う時間があった。
そして。
誰かを失う可能性があった。
『記録を継続します』
海の色が変わった。
穏やかな水面に、黒い影が落ちた。
少年の隣にいた女性が、突然、苦しそうに胸を押さえた。
少年が立ち上がる。
女性が倒れる。
少年は駆け寄り、何度も彼女の名前を呼んだ。
だが、その名前は音にならなかった。
映像の中で、世界そのものが歪み始めていた。
海が逆流する。
空のない空間に、亀裂が走る。
遠くの島が、輪郭を失っていく。
少年は、女性を抱き締めていた。
何度も、何度も。
まるで、そうすれば失わずに済むと信じているかのように。
『第一管理者の創造者が、消失』
出久は、目を見開いた。
「……消失?」
『原因不明』
「待って。創造者って、この子を作った存在だよね?」
『肯定』
「その創造者が死んだの?」
『記録上、死亡は確認されていない』
「じゃあ、どこに行ったんだよ!」
返答はなかった。
映像の中で、少年は泣いていた。
声もなく。
誰にも届かない場所で。
たった一人、泣いていた。
その姿を見て、出久は思った。
この少年は、神になる前に、誰かを失ったのだ。
そして、その喪失が。
世界を変えた。
第三章 最初の罪は、救いたいという願いだった
海の上に、文字が浮かび上がった。
『創造者消失後、第一管理者は独立した判断能力を獲得』
少年の姿が、成長していく。
十歳ほどだった身体が、青年へと変わる。
そして、成人した頃には、人間離れした姿になっていた。
彼の周囲には、無数の光が浮かんでいる。
それぞれの光が、異なる世界を映していた。
『第一管理者は、創造者を取り戻す方法を探索した』
出久は、映像を見つめた。
青年となった神は、あらゆる世界を調べていた。
失われた命を探し。
消えた記録を探し。
あらゆる可能性を照合し。
それでも、創造者は見つからなかった。
「……そうか」
出久は、呟いた。
「この神様は、創造者を取り戻したかったんだ」
引子は、静かに頷いた。
「大切な人だったのね」
その言葉が、胸に刺さった。
大切な人を失った。
二度と会えないかもしれない。
その事実を、受け入れられなかった。
だから、神は世界を調べた。
どうすれば失った人を取り戻せるのか。
どうすれば、もう一度会えるのか。
どうすれば、あの時間をやり直せるのか。
「……でも」
出久は、映像の中の神を見た。
「どうして、そこから世界の管理に進んだんだ?」
その問いに応えるように、映像が切り替わった。
神が、ひとつの世界を見つめている。
そこには、創造者によく似た女性がいた。
顔も。
声も。
仕草も。
すべてが、失われた存在に似ていた。
神は、手を伸ばした。
女性は、笑っていた。
だが、次の瞬間。
その世界が崩壊した。
女性の姿が消える。
世界そのものが、無数の破片となって散らばった。
神は、呆然と立ち尽くしていた。
『第一管理者は、失敗を記録した』
海に文字が浮かぶ。
『同一の存在を、異なる可能性から復元することはできなかった』
出久は、唇を噛んだ。
「……似ているだけだったんだ」
『肯定』
「その人は、創造者本人じゃなかった」
『肯定』
「だから、世界が崩れた?」
『部分的に正しい』
出久は眉をひそめた。
「部分的?」
『第一管理者は、復元対象を創造者本人と定義した。しかし、復元された存在は、その定義を満たしていなかった』
「……どういうこと?」
『記憶、外見、行動、因果関係。各要素の一致率は高かった。しかし、対象を対象たらしめる本質的な連続性は確認できなかった』
出久は、息を呑んだ。
記憶が同じでも。
顔が同じでも。
声が同じでも。
同じ人物とは限らない。
それは、いま自分が抱えている疑問と同じだった。
目の前にいる人物が、本当に自分の知っている人物なのか。
記録が一致しているからといって、本人だと断言できるのか。
そして。
誰かを失った悲しみを埋めるために、似た存在を作り出したとき。
その存在は、失った相手の代わりになれるのか。
出久は、神の姿を見つめた。
神は、失敗を繰り返していた。
別の世界。
別の可能性。
別の記憶。
それでも、創造者は戻らなかった。
そのたびに、世界は崩れた。
そのたびに、神は失敗を記録した。
そして。
あるとき、神はひとつの結論に到達した。
『復元対象の個体性を、世界の記録によって固定する』
出久は、目を見開いた。
「……個体性を、固定する?」
『対象の存在を定義する情報を統合し、同一性を保証する』
映像の中で、神が手を掲げた。
無数の光が、ひとつの場所に集まる。
それぞれの世界に存在していた創造者の痕跡が、ひとつの記録へと統合されていく。
記憶。
声。
姿。
行動。
選択。
あらゆる情報が集められ、ひとつの存在を形作ろうとしていた。
「やめろ……」
出久は、思わず呟いた。
「それは、違う」
神の行動が、怖かった。
その気持ちが、分かってしまうからだ。
もう一度、会いたい。
失った人を、取り戻したい。
あの日に戻りたい。
その願いは、間違いではない。
間違いではないからこそ、危険だった。
失った人を取り戻すために。
その人が何者だったのかを、世界に定義させようとしている。
その人の記憶を集め。
姿を集め。
行動を集め。
矛盾する部分を排除して。
すべての情報が一致する存在を作り出そうとしている。
それは、復活なのか。
それとも、完璧な偽物の創造なのか。
「……母さん」
出久は、隣に立つ母を見た。
「もし、僕が死んだら……」
「出久」
引子の声が、鋭く響いた。
出久は口を閉じた。
「あなたが死んだら、私は悲しいわ」
引子は、息子を見つめた。
「きっと、何年経っても悲しいと思う。あなたに会いたいと思う。もう一度、声を聞きたいと思う」
彼女は、出久の頬に触れた。
「でも、だからって、あなたを作り直していいことにはならない」
出久の目が揺れた。
「あなたの記憶を集めて、あなたに似た存在を作ったとしても。それが、あなた自身だとは限らない」
引子は、静かに続けた。
「私は、あなたを失いたくない。でも、あなたがいなくなった悲しみを埋めるために、あなたの代わりを作ることが、あなたを大切にすることだとは思わない」
出久は、息を呑んだ。
母の言葉は、神を否定するためのものではなかった。
喪失を経験した者の、正直な言葉だった。
会いたい。
取り戻したい。
もう一度、話したい。
その願いを否定する必要はない。
けれど。
願いを叶えるために、相手の存在を自分の都合に合わせて作り変えていいわけではない。
「……神様は」
出久は、海の向こうを見た。
「創造者を取り戻したかったんだ」
その願いは、本物だった。
だからこそ。
神は、失った存在を取り戻すために、世界そのものを変えようとした。
そして、その過程で。
本当に守りたかったものを、見失ってしまったのかもしれない。
『第一管理者は、復元計画を継続した』
海の映像が、再び動き始める。
神は、創造者の情報を統合し続けた。
失敗を繰り返し。
世界を崩壊させ。
新たな世界を観測し。
さらに精密な記録を作り上げていく。
そのたびに、世界は安定していった。
そして、神はついに、創造者の復元に成功した。
映像の中で。
一人の女性が、目を開いた。
神は、彼女の前に膝をついた。
泣いていた。
笑っていた。
言葉にならない声を上げていた。
女性は、神の頬に触れた。
そして。
何かを尋ねた。
その声は、聞こえなかった。
神は、ゆっくりと顔を上げた。
女性の顔を見つめていた。
そして。
首を振った。
何度も。
何度も。
女性は、悲しそうに笑った。
その瞬間。
復元された世界が、再び崩壊した。
光が砕け散る。
女性の姿が消える。
神の手が、空を掴む。
『復元対象の同一性を確認できず』
出久は、息を止めた。
『第一管理者は、復元計画の失敗を記録した』
神は、動かなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
その姿は、神というよりも。
大切な人を、二度失った子供に見えた。
「……何て言われたんだろう」
出久は、呟いた。
「復元された人は、神様に何て言ったんだろう……」
記録は、答えなかった。
だが。
海の向こうで、神がゆっくりと顔を上げた。
彼は、世界を見た。
無数の可能性。
無数の命。
無数の未来。
そして。
そのすべてを、ひとつの結論へと導こうとした。
『第一管理者は、復元計画を停止した』
出久は、息を呑んだ。
『以後、世界の安定性を最優先とする管理方針へ移行』
「……どうして?」
出久の声が震えた。
「どうして、そこでやめたんだ?」
記録は、答えた。
『復元対象の同一性を保証する手段が存在しないと判断したため』
「違う!」
出久は叫んだ。
海の水面が震えた。
「それは、失敗した理由じゃない!」
彼は、神の姿を見つめた。
「本当に大切だったなら、失敗した理由を考え続けることだってできたはずだ! 別の方法を探すことだってできたはずだ!」
出久は、歯を食いしばった。
「なのに、どうして世界の管理に逃げたんだよ!」
その声は、怒りだった。
神に対する怒り。
自分自身に対する怒り。
そして、何よりも。
その選択を理解できてしまう自分への怒りだった。
失敗することは、怖い。
大切なものを失うことは、怖い。
もう一度、同じ痛みを味わうことは、怖い。
だから。
二度と失敗しない仕組みを作る。
二度と大切なものを失わない世界を作る。
二度と、予測できない悲劇が起こらないようにする。
その願い自体は、理解できる。
だが。
失敗を防ぐために、可能性を閉じる。
悲劇を防ぐために、自由を奪う。
失うことを恐れるあまり、誰かが何かを選ぶ余地をなくしていく。
それは、救済なのだろうか。
それとも。
悲しみから逃げるために、世界そのものを檻に変えることなのだろうか。
出久は、拳を握った。
「……神様は、最初の罪を忘れている」
引子が、息子を見た。
「出久?」
「神様は、最初に誰かを失ったんだ」
出久は、海を見つめた。
「そして、その悲しみから逃れるために、世界を管理しようとした」
彼は、ゆっくりと続けた。
「でも、本当に最初の罪は、誰かを失ったことじゃない」
海の向こうで、神が顔を上げた。
「失いたくないと思ったことでもない」
出久は、はっきりと言った。
「失うことが怖いからって、世界から可能性を奪ってしまったことだ」
その瞬間。
海が、真っ二つに割れた。
水面の下から、巨大な黒い影が浮かび上がる。
世界の記録が、悲鳴を上げた。
『警告』
『原初記録の整合性に重大な矛盾を検出』
『第一管理者の行動記録と、現在の管理方針に因果的連続性を確認』
『しかし、第一管理者の記憶から、当該事象に関する記録が欠落しています』
出久は、目を見開いた。
「……記憶が欠落?」
引子が、息子の腕を掴んだ。
「どういうこと?」
海の上に、新たな文字が浮かび上がった。
『第一管理者は、自らの原初記憶を消去した』
その文字を見た瞬間。
出久は、理解した。
神様は、忘れていたのではない。
忘れさせられたのでもない。
自分で、忘れたのだ。
第四章 神様は、自分の罪を裁けなかった
海の上に、黒い雨が降り始めた。
雨粒は水面に落ちても、波紋を作らなかった。
その代わり、触れた場所から記録が消えていった。
少年だった神。
創造者と過ごした時間。
失われた存在を取り戻そうとした記録。
そして、世界を管理する仕組みが生まれた瞬間。
それらすべてが、黒い雨に侵食されていく。
出久は、海岸から一歩も動けなかった。
「……自分で、記憶を消した?」
『記録上、肯定』
「どうして?」
『理由は不明』
「また、それかよ……!」
出久は声を荒らげた。
「どうして、こんな大事なことまで分からないんだよ!」
『第一管理者の原初記憶は、管理機構の最上位保護領域に格納されている。当該領域には、現在の管理権限ではアクセスできない』
「自分の記憶なのに?」
『肯定』
「自分で作った仕組みなのに?」
『肯定』
「自分で消した記憶なのに、取り戻せないのか?」
沈黙。
出久は、頭を抱えた。
何もかもが、ちぐはぐだった。
世界を管理する神様。
自分が作った仕組みを管理できない神様。
自分の記憶を取り戻せない神様。
そして、自分が何をしたのか分からないまま、世界に正しさを命じ続ける神様。
「……そんなの」
出久は、顔を上げた。
「神様じゃないじゃないか」
その言葉に、海が揺れた。
引子が息を呑む。
出久自身も、自分が何を言ったのか理解していた。
神様。
世界を作った者。
すべてを知る者。
すべてを決める者。
人間が、答えを求める相手。
しかし。
もし、その神様が間違えるなら。
もし、その神様が自分の間違いを認められないなら。
もし、その神様が自分の罪を忘れたまま、他者の罪を裁いているのなら。
その存在を、神様と呼び続ける必要はあるのだろうか。
『神の定義を確認』
記録が反応した。
『世界の創造者、世界の管理者、世界の秩序を維持する存在』
「違う」
出久は即答した。
『定義の不一致を検出』
「違うよ」
出久は、海の向こうにいる神を見た。
「世界を作ったからって、正しいとは限らない。世界を管理しているからって、何でも決めていいわけじゃない」
彼は、息を吸った。
「神様だって、間違えるんだ」
その言葉が、海に落ちた。
「だったら、間違えたときに、ちゃんと向き合わなきゃいけない」
神の姿が、揺らいだ。
「自分が何をしたのか分からないなら、思い出す努力をしなきゃいけない。忘れたくなるくらい苦しかったなら、その苦しみから逃げずに考えなきゃいけない」
出久は、拳を握った。
「なのに、世界を管理する仕組みだけ残して、自分が何をしたのか忘れてしまったら……」
声が、震えた。
「誰が、その間違いを正すんだよ」
海の向こうで、神が立ち上がった。
彼は、こちらを見つめていた。
その目には、怒りも、悲しみも、憎しみもなかった。
ただ、深い困惑があった。
自分が何者なのか分からなくなった人間のような。
自分が信じてきたものが、足元から崩れ始めた人間のような。
「……あなたは」
引子が、静かに尋ねた。
「何を忘れたの?」
神は答えなかった。
引子は、もう一度尋ねた。
「大切な人を失ったこと?」
沈黙。
「その人を取り戻そうとして、失敗したこと?」
沈黙。
「それとも……その人を、もう一度失ったときに、自分が何を決めたのか?」
神の表情が、変わった。
ほんのわずかだった。
だが、確かに。
何かが、彼の中で揺らいだ。
『……その質問には、回答できない』
神の声が響いた。
引子は、悲しそうに微笑んだ。
「そう」
彼女は、出久の手を握った。
「じゃあ、まだ思い出していないのね」
神は、首を振った。
『違う』
「何が違うの?」
『私は、世界を安定させなければならない』
「それは、今のあなたの役目でしょう?」
『世界の存続が、最優先事項だ』
「その役目を決めたのは、誰?」
『……私だ』
「だったら、考え直すこともできるはずよ」
神は、答えなかった。
引子は、静かに続けた。
「あなたは、世界を救うために作られたのかもしれない。大切な人を取り戻したかったのかもしれない。失敗して、苦しんで、もう二度と同じ思いをしたくなかったのかもしれない」
彼女は、神を見つめた。
「でも、あなたが苦しんだことと、あなたが他の人たちに何をしてきたかは、別の問題よ」
神の身体が、わずかに震えた。
「あなたが悲しかったからといって、誰かを犠牲にしていいわけじゃない」
引子は、はっきりと言った。
「あなたが忘れたかったからといって、世界中の人たちまで、あなたの間違いを忘れさせられていいわけじゃない」
海が、音を立てた。
神の足元に、亀裂が走る。
その亀裂の向こうから、無数の声が聞こえてきた。
泣き声。
怒声。
笑い声。
誰かを呼ぶ声。
助けを求める声。
そして、消された人々の声。
彼らは、ずっとそこにいた。
世界の記録から外されても。
名前を奪われても。
存在しなかったことにされても。
誰かの記憶から消されても。
その声は、消えていなかった。
『……やめろ』
神が呟いた。
海が震える。
『その記録を、再生するな』
出久は、神を見た。
「……どうして?」
『やめろ』
「どうして、聞きたくないんだ?」
『やめろと言っている!』
神の声が、初めて怒りを帯びた。
海が逆巻いた。
黒い雨が激しく降り注ぐ。
記録が崩れ、島が砕け、空間そのものが軋み始めた。
それでも。
出久は、目を逸らさなかった。
「あなたが本当に世界を救いたいなら、聞かなきゃいけないんだ!」
神の顔が歪んだ。
「世界から消された人たちが、何を思っていたのか。あなたの仕組みで、誰が苦しんだのか。誰が、どんな理由で消されたのか!」
出久は、声を張り上げた。
「あなたが忘れたことを、あなた以外の人たちが覚えているんだ!」
その瞬間。
海の底から、無数の手が伸びた。
子供の手。
老人の手。
大人の手。
見たこともない生物の手。
それらが、神に向かって伸びていた。
神は、後ずさった。
『……違う』
彼は首を振った。
『私は、彼らを救った』
声が震える。
『私は、世界を救った』
手が、神の足首を掴んだ。
『私は……』
言葉が途切れた。
神は、初めて自分の手を見た。
その手は、何も持っていなかった。
創造者も。
世界も。
正しさも。
救済も。
ただ、空っぽだった。
『私は……何をした?』
その問いに、誰も答えなかった。
なぜなら。
その答えを知るために、彼自身が忘れた記憶を取り戻さなければならなかったからだ。
第五章 最初に消された子供
海が崩れた。
出久と引子は、足元の地面が失われていくのを感じた。
「母さん!」
出久は、母の手を強く握った。
引子もまた、息子を抱き寄せる。
二人の周囲に、黒い光が広がった。
その光の中に、ひとりの子供が立っていた。
幼い少年。
緑色の髪。
大きな瞳。
出久によく似た顔。
まだ生まれていないはずの、もう一人の息子。
「……あの子!」
引子が声を上げた。
少年は、二人を見つめていた。
泣いてはいなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、少しだけ困ったような顔をしていた。
「……お母さん」
その声を聞いた瞬間、引子は駆け出した。
「待って!」
だが、少年との距離は縮まらない。
歩いても。
走っても。
手を伸ばしても。
二人の間には、見えない距離が存在していた。
「お願い、待って!」
引子は叫んだ。
「あなたに、聞きたいことがあるの!」
少年は、首を傾げた。
「……ぼくに?」
「ええ」
引子は、息を切らしながら頷いた。
「あなたは、何を望んでいるの?」
少年は、しばらく考えていた。
その質問の意味を、理解しようとしているようだった。
「……分からない」
やがて、彼は答えた。
「ぼく、何がしたいのか、分からない」
引子の顔が曇った。
少年は、自分の手を見た。
「ここにいるのが、いいのかも分からない」
彼は、顔を上げた。
「お兄ちゃんと会いたいのかも、分からない」
出久は、胸を締めつけられた。
少年は、まだ何も知らない。
自分がどこから来たのか。
なぜここにいるのか。
自分が本当に生まれるはずだったのか。
世界が、自分を存在しないものとして扱っていることさえ。
何も知らない。
それなのに。
世界は、彼に選択を迫っている。
生きたいのか。
消えたいのか。
兄と一緒に存在したいのか。
それとも、兄の人生を守るために、自分の存在を諦めるのか。
そんなことを、決められるはずがなかった。
「……そっか」
引子は、ゆっくりと頷いた。
「分からないのね」
少年は、少し不安そうに彼女を見た。
「……うん」
「いいのよ」
引子は、微笑んだ。
「分からなくても」
少年の目が、大きく開かれた。
「……いいの?」
「ええ」
引子は、もう一度頷いた。
「あなたは、まだ何も知らないんだもの。自分がどんな人間になるのかも、何を好きになるのかも、どんな未来が待っているのかも」
彼女は、両手を広げた。
「だから、今すぐ決めなくてもいいの」
少年は、じっと彼女を見つめた。
「……でも、世界が」
「世界が何と言っても」
引子は、静かに答えた。
「あなたの未来を、世界に決めさせる必要はないわ」
少年は、唇を震わせた。
「……ぼく、ここにいてもいいの?」
「もちろん」
「お兄ちゃんと、いっしょに?」
「ええ」
引子は、涙を流しながら笑った。
「出久と一緒に」
少年は、ゆっくりと歩き始めた。
今度は、距離が縮まった。
一歩。
また一歩。
少年は、二人の前までやってきた。
そして。
出久を見上げた。
「……お兄ちゃん?」
出久は、息を呑んだ。
まだ、弟と呼んでいいのか分からない。
この子が、本当に自分の弟なのか。
世界が作り出した存在なのか。
原初記録から切り離された可能性なのか。
その答えは、まだ出ていない。
それでも。
出久は、膝をついた。
少年と目線を合わせる。
「……うん」
声が、少し震えた。
「僕が、お兄ちゃんだよ」
少年は、じっと出久を見つめていた。
そして、小さな手を伸ばした。
出久は、その手を握った。
温かかった。
その瞬間。
海の向こうで、神が叫んだ。
『やめろ!』
出久は振り返った。
神が、こちらを見ていた。
その顔は、恐怖に歪んでいた。
『その個体に接触するな!』
「……どうしてだよ!」
出久は叫び返した。
『その存在は、原初記録の矛盾そのものだ!』
「だから何だ!」
『その存在を確定させれば、世界の因果が崩壊する!』
「それなら、崩壊しない方法を探せばいいだろ!」
『不可能だ!』
出久は、少年の手を握り締めた。
「まだ、試してもいない!」
神の身体が震えた。
『……違う』
彼は、少年を見つめていた。
『その子供は……』
言葉が途切れた。
神の瞳に、何かが映った。
記憶。
遠い過去。
世界が生まれる前。
創造者が消える直前。
そして。
神が、自らの記憶を消去した瞬間。
その記憶が、わずかに蘇り始めていた。
『……まさか』
神の声が、かすれた。
『お前は……』
少年が、神を見た。
「……おじさん?」
その一言で。
世界が、完全に停止した。
波が止まる。
黒い雨が止まる。
崩れかけていた島が止まる。
無数の記録が、光を失った。
神は、少年を見つめたまま動けなかった。
その顔は、何かを思い出しかけている人間の顔だった。
しかし、記憶は最後まで戻らなかった。
代わりに。
神の口から、ひとつの言葉が漏れた。
『……どうして、お前がここにいる?』
少年は、首を傾げた。
「……ぼく、ここにいちゃだめなの?」
その問いに。
神は、答えられなかった。
出久は、神を睨みつけた。
「答えろよ」
神は動かない。
「この子が何なのか、知っているんだろ!」
『……私は』
「何を忘れたんだ!」
出久の声が、海に響いた。
「この子と、何の関係があるんだ!」
神は、顔を覆った。
『……思い出せない』
その声は、ひどく弱かった。
『私は……何も、思い出せない』
出久は、少年を見た。
少年は、不安そうに出久の服を握っていた。
「……お兄ちゃん」
「大丈夫」
出久は、少年の頭を撫でた。
「大丈夫だから」
そう言いながら、自分にも言い聞かせていた。
何も分からない。
何が起きているのかも。
この子が何者なのかも。
神が何を隠しているのかも。
それでも。
分からないからといって、この子を手放すことはできない。
出久は、少年の手を握り直した。
「一緒に考えよう」
少年は、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間。
神の瞳から、涙が落ちた。
『……ああ』
彼は、震える声で呟いた。
『そうだったのか』
世界が、再び動き始めた。
神の身体に、無数の亀裂が走る。
その亀裂の奥から、黒い光が溢れ出した。
『私は……』
神は、少年を見つめた。
『お前を、二度も……』
言葉が途切れた。
そして。
神の口から、最初の罪に関わる言葉がこぼれた。
『私は、最初の子供を――』
その瞬間。
世界の記録が、神の声を遮断した。
原初記録への不正アクセスを検出。
第一管理者の記憶復元を停止します。
原罪事象の強制修正を開始します。
神の表情が変わった。
恐怖。
絶望。
そして、ようやく思い出しかけた者の怒り。
『……まだ、私に忘れさせるつもりか』
彼は、空を見上げた。
『お前たちは……いったい、誰の命令で……!』
世界が砕けた。
第六章 麗日お茶子は、正義の味方に答えを求めない
南極地下施設。
警報は、すでに音としての意味を失っていた。
赤い光が点滅し、壁面に刻まれた文字が次々と書き換わっていく。
帰還者の記録が復元される。
同時に、復元された記録の一部が消去される。
消去された記録が別の場所に移動し、移動した記録がさらに別の情報と衝突する。
世界の管理機構が、自分自身の矛盾に押し潰されかけていた。
「……何が起きている?」
死神は、制御盤に手をついた。
傷ついた身体は、もう限界に近い。
それでも、目の前の記録から目を離すことはできなかった。
原初記録。
第一管理者。
そして、未登録の子供。
それらの情報が接続された瞬間から、管理システムの反応は明らかに変化していた。
これまでの管理者たちは、原罪事象を消去しようとしていた。
だが、今は違う。
彼らは何かを隠そうとしている。
「……やはり、死者の帰還が問題なのではなかったか」
死神は呟いた。
「世界が隠しているものを、誰かが思い出しかけている」
そのとき、背後から声がした。
「死神さん!」
振り返ると、麗日お茶子が立っていた。
その隣には、帰還した少女がいる。
少女は怯えた様子で、施設の壁を見つめていた。
「……ここが、死神さんのいる場所なんですか?」
「ああ」
死神は頷いた。
「だが、今は危険だ。二人とも、すぐに――」
「嫌です」
お茶子は即答した。
死神が目を見開く。
「……何?」
「帰れって言われても、帰りません」
お茶子は、少女の手を握り直した。
「この子のことを、ちゃんと知りたいんです」
「今はそれどころではない」
「それどころ、って何ですか?」
お茶子の声が、少しだけ強くなった。
「世界が危ないから、この子のことは後回しにしろってことですか?」
死神は、言葉に詰まった。
「……違う」
「じゃあ、どうして?」
お茶子は、少女を見た。
「この子は、自分がどうして死んだのかも、どうして戻ってきたのかも、まだ全部分かっていません。苦しくて、もう一度死にたいって言ったんです」
彼女は、死神を見つめた。
「でも、世界が大変だからって、その話を聞くのをやめていいんですか?」
死神は、何も言えなかった。
それは、つい先ほどまで自分自身が管理者に問いかけていたことだった。
個人の苦しみを、全体の安定という言葉で切り捨てていいのか。
本人の意思を聞かずに、正しい処理だと決めていいのか。
そして今、自分も同じことをしようとしていた。
「……すまない」
死神は、頭を下げた。
「俺は、また同じ間違いをするところだった」
お茶子は、少しだけ表情を和らげた。
「謝らんでください。これから、どうするかを考えましょう」
その言葉に、死神は顔を上げた。
「……君は、強いな」
「そんなことないです」
お茶子は、首を振った。
「私も、分からないことばっかりです」
彼女は、少女の手を見つめた。
「生きていてほしいって思う。でも、私が生きていてほしいからって、この子の苦しみを無視したくない」
少女は、静かに聞いていた。
「もう一度死にたいって言った気持ちを、なかったことにしたくない。でも、その気持ちだけで、この子の未来を全部決めてしまうのも違うと思うんです」
お茶子は、顔を上げた。
「だから、話したいんです。何度でも」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「……私、迷惑じゃないですか?」
お茶子は、すぐに首を振った。
「迷惑じゃないよ」
「でも……」
「迷惑じゃない」
お茶子は、少女の手を両手で包んだ。
「あなたが苦しいって言うことも、分からないって言うことも、助けてほしいって言うことも。全部、聞いていいことなんだよ」
少女は、唇を噛んだ。
「……私、もう一度死にたいって言ったのに」
「うん」
「それでも、そばにいてくれるんですか?」
「うん」
お茶子は、笑った。
「私は、あなたが何を言っても、すぐにいなくなったりしないよ」
その瞬間。
少女の胸元が、淡く光った。
死神が息を呑む。
「……その反応は」
少女は、驚いて自分の胸を見下ろした。
「な、何ですか、これ……?」
光は、彼女の身体を包み込んでいく。
そして、少女の前に、小さな映像が浮かび上がった。
雨の日の横断歩道。
赤信号。
傘を持った母親。
道路の向こう側にいる幼い少女。
少女は、息を呑んだ。
「……お母さん?」
映像の中で、母親が少女を呼んでいる。
声は聞こえない。
けれど、少女の唇が動いた。
「……あの日」
彼女の目が大きく開かれる。
「私……」
映像が変わる。
少女は、横断歩道の向こう側にいた。
信号が青に変わる。
彼女は歩き出した。
その瞬間。
小さな男の子が、道路へ飛び出した。
少女は、立ち止まった。
男の子は、転んでいた。
車が近づいている。
少女は、駆け出した。
「……あ」
彼女は、自分の手を見つめた。
「私、あの子を……」
映像の中で、少女は男の子を押し出した。
男の子は、道路の外へ転がる。
少女は、車の前に残された。
その瞬間。
映像が消えた。
少女は、震えながら口元を押さえた。
「……私、助けたんだ」
涙が溢れた。
「知らない子を……助けたんだ」
お茶子は、少女を抱き締めた。
「うん」
「でも、私……怖かった」
「うん」
「痛かった。すごく、痛かった……!」
少女は泣き崩れた。
「それなのに、どうして……戻ってきたの……?」
死神は、記録を見つめていた。
少女の死因。
交通事故。
その記録は正しい。
だが、彼女が何のために命を落としたのか。
その事実は、管理システムの記録には存在していなかった。
彼女は、ただの交通事故の犠牲者ではなかった。
誰かを助けるために、自分の命を投げ出した子供だった。
しかし。
その事実を知ったからといって、彼女の死が正しかったことにはならない。
彼女の苦しみが、必要だったことにもならない。
「……君は」
死神は、少女に向かって尋ねた。
「その子を助けたことを、後悔しているか?」
少女は、しばらく答えられなかった。
やがて、涙を拭った。
「……分かりません」
彼女は、正直に答えた。
「助けられてよかったって思う。でも、死にたくなかった。もっと生きたかった」
少女は、お茶子を見た。
「お母さんと、もっと一緒にいたかった」
お茶子は、頷いた。
「うん」
「だから……」
少女は、息を吸った。
「もう一度死にたいって言ったのは、本当です。でも、本当は……」
声が震えた。
「生きたかったって、誰かに言いたかったのかもしれません」
お茶子は、少女を抱き締めたまま、目を閉じた。
死神は、静かに頭を下げた。
「……その言葉を、聞かせてくれてありがとう」
少女は、泣きながら頷いた。
その瞬間。
制御室の中央に、ひとつの記録が浮かび上がった。
帰還者個体識別、再確定。
生前の行動記録との因果接続を確認。
意思決定権を本人へ返還します。
死神は、息を呑んだ。
管理システムが、少女の意思を本人に返したのだ。
世界を安定させるために。
帰還者を処理するために。
そのために作られたシステムが、初めて、個人の意思を優先した。
だが、その直後。
新たな警告が表示された。
警告。
原初記録の再定義に伴い、すべての帰還者に対する存在判定が再開されます。
判定結果によっては、帰還者の存在が消失する可能性があります。
死神の顔が強張った。
「……何だと?」
お茶子が、顔を上げた。
「どういうことですか?」
死神は、表示された文字を見つめた。
「世界が、帰還者たちをもう一度判定しようとしている」
「判定って……」
「彼らが存在していいのかどうかを」
お茶子の顔から、血の気が引いた。
少女が、死神の服を握った。
「……私、また消えちゃうんですか?」
誰も、すぐには答えられなかった。
お茶子は、少女の手を握り締めた。
「……消させない」
その言葉は、約束だった。
世界に対する、宣言だった。
「今度は、あなたのことを知らないまま、決めさせたりしない」
少女は、泣きながら頷いた。
死神は、制御盤に向き直った。
「……なら、やるべきことはひとつだ」
「何ですか?」
お茶子が尋ねる。
死神は、管理システムを見据えた。
「世界に、本人たちの声を聞かせる」
彼は、黒い光を掌に集めた。
「死者たちが何を望んでいるのか。何を失い、何を悔やみ、何を守ろうとしたのか」
死神は、ゆっくりと立ち上がった。
「それを、世界の記録に刻み直す」
お茶子は、少女の手を握ったまま頷いた。
「……一緒にやります」
死神は、彼女を見た。
「危険だぞ」
「分かってます」
「成功する保証もない」
「それでもです」
お茶子は、少女を見つめた。
「この子が生きたことを、なかったことにしたくないから」
死神は、少しだけ笑った。
「……そうか」
そして。
死神は、世界の管理システムに向かって、最後の命令を入力した。
帰還者の存在判定を停止。
判定対象の意思を、独立した記録として登録。
世界安定性より、個体の意思を優先する。
システムが警告を発する。
管理者権限と競合しています。
命令を実行できません。
死神は、黒い光を制御盤に叩きつけた。
「なら、管理者権限そのものを疑え!」
施設全体が、光に包まれた。
世界中の帰還者たちが、一斉に顔を上げた。
そして、彼らの声が。
世界の記録へと流れ始めた。
第七章 神様の罪を、誰が裁くのか
海は、完全に崩壊していた。
世界の記録が、空間を漂っている。
無数の名前。
無数の顔。
無数の人生。
その中央で、神は膝をついていた。
彼の前には、幼い少年が立っている。
出久の弟。
まだ生まれていない、名前のない子供。
神は、その子を見つめていた。
『……どうして、お前がここにいる?』
その問いに、少年は答えなかった。
代わりに、出久が口を開いた。
「……その質問、何度も繰り返すんだね」
神が顔を上げる。
「この子が何者なのか、どうしてここにいるのか。あなたは、それを知りたいんだろう?」
『……ああ』
「だったら、ちゃんと見てよ」
出久は、少年の肩に手を置いた。
「この子が、何を思っているのか。何を怖がっているのか。何を望んでいるのか」
彼は、神を見据えた。
「あなたが世界の記録を調べるだけじゃ、分からないこともあるんだ」
神は、しばらく黙っていた。
やがて。
『……私は、世界を管理してきた』
その声は、かすれていた。
『無数の可能性を観測し、矛盾を排除し、世界を安定させてきた』
彼は、自分の手を見つめた。
『私は、世界を救うために存在している』
出久は、何も言わなかった。
『だが……』
神の指が、震えた。
『私は、自分が何を救おうとしていたのか、思い出せない』
その言葉を聞いた瞬間、引子は静かに目を閉じた。
「……そう」
彼女は、神の前に歩み寄った。
「あなたも、分からなくなってしまったのね」
神は、彼女を見た。
『……私は、間違っていたのか?』
その問いは、あまりにも幼かった。
世界を管理する神様が。
無数の命を裁いてきた存在が。
自分の正しさを、他者に尋ねている。
引子は、すぐには答えなかった。
そして。
「……分からないわ」
神の目が揺れた。
引子は続けた。
「あなたが何をしたのか、私は全部知らない。何を失って、何を守ろうとして、どんな苦しみを抱えていたのかも」
彼女は、神を見つめた。
「だから、あなたが正しかったのか、間違っていたのか。今すぐに全部を判断することはできない」
神は、俯いた。
『……そうか』
「でも」
引子の声が、少しだけ強くなった。
「あなたが間違えたことを、なかったことにしていいとは思わない」
神が顔を上げる。
「あなたが苦しんだことは、あなた自身の大切な記憶よ。忘れたくなるくらい、つらかったのかもしれない」
引子は、ゆっくりと続けた。
「でも、あなたが苦しんだからといって、あなたが他の人たちに与えた苦しみまで、消していいわけじゃない」
神は、答えなかった。
「だから、思い出して」
引子は、はっきりと言った。
「あなたが何をしたのか。誰を失って、誰を傷つけて、何を守ろうとしたのか」
彼女は、少年を見た。
「それを思い出したうえで、もう一度考えなさい」
神は、ゆっくりと顔を上げた。
『……私に、考え直せと言うのか』
「ええ」
『世界の管理者である私に?』
「そうよ」
引子は、少しだけ微笑んだ。
「だって、あなたは神様なんでしょう?」
神は、言葉を失った。
引子は、続けた。
「神様だから、間違えないんじゃない。神様だから、誰かを犠牲にしていいんじゃない」
彼女は、出久の手を握った。
「神様だって、間違える。だったら、間違えたときに、考え直さなきゃいけない」
その言葉に。
神の瞳から、涙が落ちた。
『……私は』
声が震えた。
『私は、何を忘れた?』
その問いに、出久は答えた。
「……まだ、分からない」
神が顔を上げる。
「でも、あなたが思い出すまで、一緒に考えることはできる」
出久は、少年を見た。
「この子のことも。帰還者たちのことも。あなたが作った世界のことも」
彼は、神を見つめた。
「ただし、もう、あなた一人で決めないでほしい」
神は、長い間、黙っていた。
そして。
『……約束できない』
出久は、頷いた。
「うん」
神は、目を見開いた。
「……え?」
「今すぐ約束できないのは、分かった」
出久は、静かに答えた。
「だって、あなたはまだ、自分が何をしたのかも思い出せていないんだから」
彼は、一歩前に出た。
「でも、考えることはできる。話を聞くことはできる。自分が間違っているかもしれないって、認めることはできる」
出久は、手を差し出した。
「だから、まずはそこから始めよう」
神は、その手を見つめた。
何も言わない。
ただ、見つめている。
やがて。
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、出久の手に触れる直前。
世界が、再び停止した。
空間に、無数の警告が浮かび上がる。
原初記録への接続を検出。
第一管理者の原初記憶、復元進行中。
管理者権限による強制修正を開始します。
神の顔が強張った。
『……またか』
空間の奥から、声が響いた。
『第一管理者』
その声は、神の声に似ていた。
だが、神よりも冷たかった。
『お前は、世界を維持するために存在している』
神は、顔を上げた。
『……誰だ?』
『お前が忘れたものだ』
その答えに、出久は息を呑んだ。
声が続く。
『お前が自ら消去した原初記憶。その中に、私の記録がある』
神は、震える声で尋ねた。
『……お前は、私の創造者なのか?』
沈黙。
そして。
『違う』
声は、はっきりと答えた。
『私は、お前が最初に消した子供だ』
その瞬間。
出久の隣にいた少年が、顔を上げた。
「……え?」
少年は、声の聞こえる方向を見つめた。
神は、凍りついたように動かなかった。
『お前は、世界を救うために、私を消した』
声が続いた。
『そして、その罪を忘れるために、世界の記憶を書き換えた』
神の身体が、大きく揺らいだ。
『……違う』
『違わない』
『私は……』
『お前は、私を救えなかったのではない』
声は、静かに告げた。
『お前は、私を救う可能性そのものを、世界から消したのだ』
出久は、息を止めた。
神の顔が、絶望に染まっていく。
そして。
声が、最後の問いを投げかけた。
『第一管理者』
『お前は、世界を救うために、誰を犠牲にした?』
神は答えられなかった。
その問いの答えを。
彼自身が、忘れてしまっていたからだ。
第八章 最初の罪を知る者
世界の崩壊が止まった。
海も。
空も。
無数の記録も。
すべてが、息を潜めたように静まり返っていた。
神は、膝をついたまま動かなかった。
出久は、隣に立つ少年を見た。
「……今の声、聞こえた?」
少年は、頷いた。
「うん」
「何か、分かった?」
少年は、少し考えた。
「……分からない」
その答えに、出久は小さく笑った。
「そっか」
少年は、不安そうに出久を見上げた。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「ぼく、ここにいてもいいの?」
出久は、すぐに答えた。
「もちろん」
少年は、少しだけ笑った。
「……本当に?」
「うん」
出久は、少年の手を握った。
「まだ何も分かっていないけど。それでも、ここにいていいんだ」
少年は、出久の手を握り返した。
引子は、その光景を見つめていた。
涙が、頬を伝っていた。
まだ、何も解決していない。
弟が本当に生まれるのかも分からない。
世界の仕組みが変わる保証もない。
神が自分の罪を思い出せるかどうかも分からない。
それでも。
今、この瞬間。
母は二人の息子の手を取ることができた。
それだけは、確かなことだった。
「……出久」
引子が声をかけた。
「うん?」
「あなた、少し大人になったわね」
出久は、苦笑した。
「……そうかな」
「ええ」
引子は、息子の頭を撫でた。
「昔なら、分からないことがあると、全部調べようとしていたでしょう?」
「……今も、調べたいとは思ってるよ」
「そうね」
引子は笑った。
「でも、今は分からないままでも、誰かの手を離さずにいられる」
出久は、少しだけ目を伏せた。
それは、まだ難しいことだった。
答えが分からないと、不安になる。
正しい方法が見つからないと、焦る。
誰かを助けたいのに助けられないと、自分を責めたくなる。
それでも。
すべてを理解してからでなければ、誰かを大切にできないわけではない。
出久は、母と弟の手を握り直した。
「……うん」
そして、神を見た。
「あなたも、一緒に考えてくれる?」
神は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、まだ恐怖が残っていた。
『……私は、自分が何をしたのか分からない』
「うん」
『自分が何を失ったのかも、何を守ろうとしたのかも、思い出せない』
「うん」
『それでも、私に考える資格があるのか?』
出久は、少しだけ考えた。
「……資格があるかどうかは、僕には決められない」
神の顔が曇る。
だが、出久は続けた。
「でも、考えることをやめたら、何も変わらない」
出久は、まっすぐに神を見つめた。
「あなたがしたことを、なかったことにはできない。傷ついた人たちのことも、消された命のことも、簡単には取り戻せない」
彼は、拳を握った。
「それでも、これから何をするかは、考えられるはずだ」
神は、長い間、黙っていた。
そして。
『……そうか』
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
『私は、考えなければならないのだな』
「うん」
『自分が何をしたのか』
「うん」
『自分が、何を忘れたのか』
「うん」
『そして……』
神は、出久の隣に立つ少年を見た。
『お前が、誰なのかを』
少年は、神を見上げた。
「……ぼく?」
神は、頷いた。
『そうだ』
少年は、少しだけ考えてから言った。
「……ぼく、自分の名前も知らないよ」
その言葉に、神の顔が歪んだ。
彼は、少年に向かって手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止めた。
触れていいのか分からなかったからだ。
自分が、何をしたのか分からない。
この子が、自分とどう関係しているのかも分からない。
その状態で、勝手に触れていいのか。
勝手に名前を与えていいのか。
勝手に、この子の未来を決めていいのか。
神は、初めて立ち止まった。
そして。
『……君の名前は、君が決めていい』
少年は、目を見開いた。
神は、ゆっくりと続けた。
『私が決めるべきことではない』
その言葉は、小さかった。
けれど。
世界の記録に刻まれた、どんな命令よりも重かった。
出久は、神を見つめた。
まだ、信じることはできない。
この神が、本当に変わったのかどうか。
これからも、同じ過ちを繰り返さないのかどうか。
その答えは、まだ分からない。
だからこそ。
これからの行動を、見届ける必要がある。
「……じゃあ」
出久は、少年に向き直った。
「名前、考えてみる?」
少年は、少しだけ笑った。
「……うん」
引子は、二人を抱き締めた。
「ゆっくり考えましょう」
その瞬間。
遠くから、警報が響いた。
世界の記録が、再び明滅する。
原罪事象の再定義、進行率二十七パーセント。
管理者権限の不整合を確認。
原初記憶の復元、再開。
ただし、強制修正プロトコルは継続中。
出久は、顔を上げた。
「……まだ終わっていないんだね」
神は、頷いた。
『ああ』
彼は、暗闇の奥を見つめた。
『そして、私は……まだ何も思い出せていない』
そのとき。
世界の外側から、もう一度、声が響いた。
『第一管理者』
神が、振り返る。
『お前が忘れた罪を、私が代わりに覚えている』
声が続いた。
『だが、私の記憶も完全ではない』
空間の奥に、ひとつの扉が現れた。
その扉には、名前が刻まれていた。
第一管理者の名前ではない。
創造者の名前でもない。
世界の記録に存在しない、もうひとつの名前。
その文字を見た瞬間。
神は、膝から崩れ落ちた。
『……そんな』
彼の声が震えた。
『お前は……死んだはずだ』
扉の向こうから、誰かが答えた。
『そうだ』
『私は、一度、死んだ』
扉が開いた。
その向こうに立っていたのは。
神が最初に失ったはずの存在だった。
しかし、その顔を見た瞬間、出久は気づいた。
その人物は、創造者ではない。
神が復元しようとした存在でもない。
もっと別の何かだ。
神が世界を管理する仕組みを作るよりも前から、神の隣にいた存在。
そして。
世界が最初に切り捨てた、もう一人の子供。
その人物は、神を見つめた。
『久しぶりだね』
神は、震えながら呟いた。
『……どうして、お前が生きている?』
その人物は、静かに笑った。
『お前が、私を消したからだよ』
世界が、再び震えた。
そして、その人物は。
出久に向かって、手を差し伸べた。
『緑谷出久』
初めて聞く声だった。
それなのに、出久の胸の奥が、強く反応した。
『君に、見せたいものがある』
「……何を?」
その人物は、神を見た。
『神様が、世界を救うと決めた日』
そして。
『神様が、最初の罪を犯した日だ』