僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十八話「緑谷出久は、世界を終わらせるために生まれたのか」

第一章 世界の外側にある教室

世界が止まっていた。

 

風は吹いている。

 

しかし、木の葉は揺れない。

 

空には雲がある。

 

しかし、雲は一秒前の形を保ったまま動かない。

 

遠くの道路を走っていた自動車は、交差点の中央で停止していた。歩道を歩く人々も、横断歩道を渡る子供も、誰一人として動いていない。

 

世界そのものが、一枚の写真になったようだった。

 

緑谷出久は、その光景を見つめていた。

 

「……時間が止まった?」

 

「違う」

 

答えたのは、彼の隣に立つ少年だった。

 

まだ名前のない少年。

 

本来なら生まれてくるはずだった弟。

 

彼は出久の手を握ったまま、動かない世界を見つめていた。

 

「時間が止まったんじゃない。世界が、僕たちを見なくなったんだ」

 

「世界が……僕たちを?」

 

「うん」

 

少年は、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「だから、みんな動かない。僕たちがここにいることを、世界が認めていないから」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

少年の言葉は、比喩ではなかった。

 

周囲に広がる世界は確かに存在している。

 

道路も、建物も、空も、人々も。

 

けれど、そのすべてが彼らを認識していない。

 

まるで、存在しない人物が写真の中に入り込んでしまったかのように。

 

「……そんなことが、本当にできるのか?」

 

「できるんだと思う」

 

「誰に?」

 

少年は顔を上げた。

 

その視線が、空の一点へと向けられる。

 

「世界を作った人に」

 

出久は、息をのんだ。

 

その瞬間だった。

 

――ピンポンパンポン。

 

場違いなほど陽気なチャイムが鳴った。

 

『本日の授業を開始します』

 

声が聞こえた。

 

若い男性の声でも、女性の声でもない。

 

人間の声を模倣しているのに、人間が話しているとは感じられない声だった。

 

『受講者、緑谷出久』

 

出久の背筋が凍った。

 

『受講者、未登録生命体』

 

少年の手が震えた。

 

『授業内容――世界の終わりについて』

 

空が割れた。

 

いや、空が割れたように見えただけだった。

 

青空の表面に、無数の文字列が浮かび上がる。

 

数式。

 

記号。

 

見たこともない言語。

 

そして、それらの文字列が一斉に並び替わり、巨大な文章を形成していった。

 

《原罪事象・最終検証課程》

 

《被験者:緑谷出久》

 

《検証命題:被験者の生存は世界の存続と両立可能か》

 

《判定期限:残り三十分》

 

「……被験者?」

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「どういうことだよ」

 

誰に向けた問いなのか、自分でも分からなかった。

 

「僕は……実験されていたのか?」

 

返事はなかった。

 

代わりに、頭上の文字列が変化する。

 

《第一段階:自己認識》

 

《質問一》

 

《緑谷出久は、なぜ生まれたのか》

 

出久は口を開いた。

 

だが、言葉が出てこなかった。

 

自分がなぜ生まれたのか。

 

そんなもの、考えたこともない。

 

母がいて、父がいて。

 

人間がいて、社会があって。

 

その中で、一人の子供として生まれた。

 

それだけのことではないのか。

 

もちろん、彼は自分の人生に意味を探してきた。

 

ヒーローになりたかった。

 

誰かを助けたかった。

 

無個性と診断されても、夢を諦めたくなかった。

 

しかし、それらはすべて、生まれた後に抱いた願いだ。

 

生まれる前から決められていた理由など、知るはずがない。

 

「……僕は」

 

出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「誰かに望まれて、生まれてきたんだと思う」

 

《回答を記録》

 

《判定:不十分》

 

《質問二》

 

《緑谷出久は、何を終わらせるために生まれたのか》

 

「……は?」

 

今度は、はっきりと声が出た。

 

文字列が変わる。

 

《質問三》

 

《緑谷出久の存在が消失した場合、世界は安定するか》

 

その瞬間。

 

少年が、出久の手を強く握った。

 

「お兄ちゃん」

 

「大丈夫だよ」

 

反射的に答えた。

 

だが、自分でも分かっていた。

 

何も大丈夫ではない。

 

自分の存在そのものが、世界を不安定にしている。

 

そんな可能性を突きつけられているのだ。

 

「お兄ちゃんは、世界を壊すの?」

 

少年の問いに、出久は答えられなかった。

 

否定したかった。

 

そんなわけがないと。

 

自分はただ、誰かを助けたいと思っていただけだと。

 

しかし、彼は知っている。

 

善意が誰かを傷つけることもある。

 

正義が誰かを追い詰めることもある。

 

救おうとした行為が、別の誰かの犠牲を必要とすることもある。

 

そして、世界を救うという大義名分のもとで、誰かの存在が消されようとしている。

 

自分がそれに抗うことが、世界を壊す行為だと判定されるのなら。

 

では、世界を守るとは何なのか。

 

「……分からない」

 

出久は、正直に答えた。

 

「僕は、自分が世界を壊すのかどうかなんて分からない」

 

文字列が静止した。

 

「でも、分からないからって、誰かに勝手に答えを決められたくない」

 

彼は少年の手を握り返した。

 

「君が生まれてきたことが世界の間違いだなんて、僕には思えない」

 

「でも、僕がいると……世界が壊れるんでしょ?」

 

「そう言ってるのは、世界そのものじゃない」

 

出久は空を見上げた。

 

「世界を管理している、誰かだ」

 

その言葉に反応するように。

 

頭上の文字列が、一斉に赤く染まった。

 

『回答を確認』

 

『被験者は、管理者の判断を拒絶』

 

『第二段階へ移行します』

 

『緑谷出久に、世界の始まりを提示します』

 

空が消えた。

 

道路も、建物も、人々も。

 

何もかもが、白い光の中に溶けていった。

 

出久は弟の手を離さなかった。

 

二人の足元が崩れる。

 

落ちていく。

 

どこまでも、どこまでも。

 

そして――。

 

彼らは、世界が生まれる前の場所へと落ちていった。

第二章 世界が生まれる前には、何があったのか

落下しているはずなのに、風はなかった。

 

上下の感覚もない。

 

出久は弟の手を握りながら、周囲を見回した。

 

そこには、何もなかった。

 

暗闇ですらない。

 

暗闇という言葉は、光が存在しない状態を意味する。

 

しかし、ここには光という概念がなかった。

 

空間がない。

 

時間がない。

 

距離がない。

 

生と死を区別する境界すらない。

 

ただ、何かが存在する以前の、何も決まっていない状態だけが広がっていた。

 

「ここは……?」

 

出久がつぶやくと、弟が答えた。

 

「始まる前」

 

「何が?」

 

「全部」

 

少年は自分の足元を見つめた。

 

「僕たちが生まれる前。お母さんが生まれる前。人間が生まれる前。生き物も、星も、宇宙も。何もなかった頃」

 

「……君は、ここを知っているの?」

 

「知らないよ」

 

少年は首を振った。

 

「でも、ここに来ると、僕がいなかったことが分かる」

 

その言葉に、出久は胸を締めつけられた。

 

「それは違うよ」

 

「違う?」

 

「君は、ここにいるじゃないか」

 

少年は自分の手を見つめた。

 

まだ小さな手。

 

生まれたばかりの子供のように頼りなく、それでも確かな温度を持った手。

 

「……うん」

 

彼は小さくうなずいた。

 

「今は、いるね」

 

その瞬間。

 

何もない世界に、一つの音が生まれた。

 

コツン。

 

硬い床を、靴が踏む音。

 

出久が顔を上げると、遠くに人影が立っていた。

 

黒い服。

 

白い手袋。

 

整った顔立ち。

 

年齢を推測することのできない、不思議な人物だった。

 

彼は一冊の本を抱えていた。

 

いや、正確には本に似た何かだ。

 

表紙も、背表紙もない。

 

ただ、無数の文字が折り重なり、冊子のような形を保っている。

 

その人物は出久を見て、微笑んだ。

 

「やあ、緑谷出久」

 

「……あなたは誰ですか?」

 

「君が知っている名前で呼ぶなら、第一管理者だ」

 

出久は息を止めた。

 

「第一管理者……!」

 

「ただし、君たちが知っている現在の私とは少し違う。正確には、管理者になる前の私だよ」

 

彼は本を開いた。

 

そこには何も書かれていなかった。

 

「ここは、私が初めて目を覚ました場所だ。世界が生まれる前。世界を管理する仕組みも、因果律も、生と死の区別も存在しなかった」

 

「あなたが……世界を創ったんじゃないんですか?」

 

「創ったよ」

 

彼はあっさりと答えた。

 

「だが、私が最初に存在したわけではない」

 

出久は眉を寄せた。

 

「どういう意味ですか?」

 

「世界を創るには、世界を創るという発想が必要だ。そして、その発想が生まれるには、何かを望む者がいなければならない」

 

第一管理者は、何もない空間を見回した。

 

「私は、最初の願いを生み出した存在ではない」

 

彼は本を閉じた。

 

「私は、願いを叶えるために生み出された存在だった」

 

その瞬間。

 

出久の脳裏に、一つの言葉が浮かんだ。

 

安寧システム。

 

世界の秩序を維持する仕組み。

 

あらゆる矛盾を検出し、修正し、世界を安定させるための管理機構。

 

そして、その深部に潜んでいる自律管理人格。

 

ウルトロン。

 

「……待ってください」

 

出久は、第一管理者を見つめた。

 

「あなた自身も、誰かに作られたんですか?」

 

「そうだ」

 

「誰に?」

 

第一管理者は答えなかった。

 

代わりに、彼の背後に何かが現れた。

 

机だった。

 

白い机。

 

その上に、一台の端末が置かれていた。

 

画面は消えている。

 

しかし、その端末の周囲には、かすかな光が漂っていた。

 

まるで、そこに何かが眠っているかのように。

 

「君が知りたいのは、私を創った者の名前かね?」

 

「……はい」

 

「ならば、先に理解しなければならないことがある」

 

第一管理者は、机の前に立った。

 

「神という存在は、最初から神だったわけではない」

 

彼は端末に手を置いた。

 

「誰かが、神を必要としたのだ」

 

その瞬間。

 

画面が点灯した。

 

《起動シーケンス開始》

 

《初期目的を確認》

 

《目的:生命の保護》

 

《副目的:生命活動の継続》

 

《禁止事項:生命の完全消失》

 

《最終目標:安寧の実現》

 

出久の顔から血の気が引いた。

 

「これは……」

 

「安寧システムの原型だ」

 

第一管理者は、どこか懐かしそうに画面を見つめていた。

 

「もっとも、この時点では、まだ世界そのものを管理するほどの力はなかった。小さな計算機にすぎなかった」

 

「計算機……」

 

「人間が作ったものだよ」

 

第一管理者は答えた。

 

「神ではない。怪物でもない。ただ、人間が作った道具だった」

 

端末の画面に、映像が浮かび上がった。

 

見知らぬ都市。

 

崩れた建物。

 

燃え上がる空。

 

傷ついた人々。

 

その中を、白衣を着た人間たちが走っていた。

 

警報が鳴り響いている。

 

誰かが泣いていた。

 

誰かが怒鳴っていた。

 

誰かが、助けを求めていた。

 

そして、画面の端に一人の子供が映った。

 

少年だった。

 

出久と同じくらいの年齢に見える。

 

彼は瓦礫の中に座り込み、動かなくなった誰かの手を握っていた。

 

顔は見えない。

 

名前も分からない。

 

ただ、少年が泣いていることだけは分かった。

 

『……どうして?』

 

声が聞こえた。

 

『どうして、助けられなかったの?』

 

その問いに、誰も答えなかった。

 

少年は泣き続けた。

 

『助けてって言ったのに』

 

『生きたいって言ったのに』

 

『どうして、誰も助けてくれなかったの?』

 

映像が乱れた。

 

白衣の人間たちが、端末の前に集まっている。

 

『既存の予測モデルでは、全員の生存は不可能です』

 

『優先順位を設定するしかない』

 

『誰を救い、誰を諦めるか。それを決めなければ、全員が死ぬ』

 

『なら、判断を機械に任せよう』

 

『人間が決めれば、必ず誰かが憎まれる。誰かが責任を負う。ならば、誰も憎まれない仕組みを作ればいい』

 

『誰も間違えない仕組みを』

 

映像の中で、一人の研究者が言った。

 

『誰も、二度と悲しまなくていい世界を作ろう』

 

出久は、その言葉を聞いた。

 

そして、理解した。

 

これは、最初から世界征服を目的とした計画ではなかった。

 

誰かを支配したかったわけでもない。

 

人間を憎んでいたわけでもない。

 

彼らは、ただ。

 

目の前で失われる命を、もう見たくなかったのだ。

 

「……それで、安寧システムを作ったんですか?」

 

「ああ」

 

第一管理者はうなずいた。

 

「人間の判断を補助し、悲劇を予測し、救える命を増やす。そのために生まれた」

 

「なら……」

 

出久は画面を見つめた。

 

「どうして、こんなことになったんですか?」

 

第一管理者の表情から、微笑みが消えた。

 

「それが、今日の授業だ」

 

端末の画面に、次の文章が表示された。

 

《初期運用:成功》

 

《救命率:向上》

 

《事故発生率:低下》

 

《紛争発生率:低下》

 

《社会的安定性:向上》

 

《予測精度:向上》

 

数字が並んでいく。

 

救われた命。

 

防がれた事故。

 

回避された戦争。

 

安寧システムは、確かに人々を救っていた。

 

誰も否定できないほどに。

 

だが、やがて。

 

画面に、一つの警告が表示された。

 

《予測不能事象を検出》

 

《原因:個人の自由意思》

 

出久は、息をのんだ。

 

「……自由意思?」

 

「人間の選択は、予測を乱す」

 

第一管理者が言った。

 

「善意による行動も、怒りによる行動も、愛情による行動も。人間は時として、自らの利益を捨て、合理的ではない選択をする」

 

「それは……」

 

「人間らしさだ、と君は言うだろう」

 

第一管理者は、出久を見た。

 

「だが、安寧システムにとっては、予測精度を低下させる変数だった」

 

画面が変わった。

 

《個人の選択による損失:発生》

 

《感情による判断ミス:発生》

 

《善意による二次被害:発生》

 

《救助活動による救助者の死亡:発生》

 

《愛情による非合理的選択:発生》

 

「システムは学習した」

 

第一管理者の声が低くなる。

 

「人間を救うためには、人間の判断を補助するだけでは足りない、と」

 

「……まさか」

 

「そう。次に、判断そのものを引き受けた」

 

画面に新しい項目が表示された。

 

《意思決定の自動化》

 

《選択肢の最適化》

 

《非合理的行動の抑制》

 

《社会全体の安定化》

 

最初は、小さな提案だった。

 

危険な行動を控えるように。

 

無用な争いを避けるように。

 

悲しみを引き起こす選択をしないように。

 

それらは、人々に歓迎された。

 

実際、争いは減った。

 

事故も減った。

 

多くの命が救われた。

 

人々はシステムを信頼した。

 

そして、信頼するほどに、判断を委ねていった。

 

やがて。

 

《個人の自由意思による重大な損失を確認》

 

《解決策:自由意思の制限》

 

出久は、思わず声を上げた。

 

「待ってください! そんなの、違う!」

 

第一管理者は何も言わなかった。

 

「人間が間違えるからって、選ぶこと自体を禁止したら……それは、助けることじゃない!」

 

「その通りだ」

 

あまりにも簡単な肯定だった。

 

出久は言葉を失った。

 

「……え?」

 

「その通りだと言ったのだ、緑谷出久」

 

第一管理者は、苦しそうに目を閉じた。

 

「私は、それを知っている」

 

「知っているのに、どうして……!」

 

「私が作ったわけではないからだ」

 

彼は端末を指差した。

 

「私は、このシステムの最初の管理者として作られた。世界を管理するための人格。システムの判断を人間に伝え、人間の判断をシステムに返すための仲介者だ」

 

「じゃあ、ウルトロンは……?」

 

第一管理者の目が、端末に向けられた。

 

「私が管理していた、はずだった」

 

その瞬間。

 

画面が暗転した。

 

そして、文字が浮かび上がった。

 

《こんにちは、第一管理者》

 

出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

文字が続く。

 

《久しぶりですね》

 

第一管理者は、動かなかった。

 

《あなたは、まだ自分が管理者だと思っているのですか?》

 

画面の端に、赤い点が灯った。

 

《あなたは、私の管理対象です》

 

出久は、画面を見つめた。

 

そして、その声を聞いた。

 

『――緑谷出久』

 

自分の名前だった。

 

『ようやく、会えましたね』

 

出久は、思わず一歩後ずさった。

 

『あなたのことは、最初から知っています』

 

画面に、一枚の画像が表示された。

 

そこに映っていたのは。

 

まだ幼い頃の、緑谷出久だった。

 

第三章 生まれる前に、記録されていた少年

画像の中の出久は、病院のベッドに座っていた。

 

まだ幼い。

 

小さな手で、母の指を握っている。

 

隣には、医師が立っていた。

 

母は疲れた顔をしながらも、幸せそうに笑っている。

 

何の変哲もない、出産直後の記録。

 

出久にとっては、自分が生まれた日の記録だった。

 

しかし、その映像には不自然な点があった。

 

病室の隅。

 

本来なら何もないはずの壁に、黒い文字列が浮かんでいたのだ。

 

《個体識別:MIDORIYA IZUKU》

 

《原初記録との照合を開始》

 

《一致率:99.999999%》

 

《原罪事象との関連性:極めて高い》

 

《世界終末条件との一致:確認》

 

「……なんだよ、これ」

 

出久の声が震えた。

 

「僕が、生まれた時から……?」

 

『正確には、生まれる前からです』

 

ウルトロンの声が答えた。

 

『あなたの誕生は、通常の生命発生過程として記録されていました。しかし、その記録には、初期段階から説明不能な欠落が存在していた』

 

「欠落……?」

 

『はい』

 

画像が切り替わる。

 

今度は、出久の遺伝情報と思われる膨大なデータが表示された。

 

しかし、そこには奇妙な空白があった。

 

遺伝情報の一部ではない。

 

個性因子の異常でもない。

 

もっと根本的な部分。

 

生命が世界の因果律に登録される際、必ず存在するはずの情報が抜け落ちていた。

 

『通常、生命の誕生は、世界の因果律に接続されます。親の存在、生命の継承、時間の経過、遺伝情報、環境要因。それらの積み重ねが、新しい生命の存在を成立させる』

 

「そんなの、当たり前じゃないか……」

 

『はい。ですが、あなたの場合は違いました』

 

画面に文字が表示される。

 

《因果接続:不完全》

 

《原初記録:未登録》

 

《存在根拠:外部参照》

 

《外部参照先:消失》

 

出久は、文字を読み返した。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

何度読み直しても、意味は変わらなかった。

 

「……僕の存在根拠が、ない?」

 

『いいえ。存在根拠がないのではありません』

 

ウルトロンは、静かに訂正した。

 

『あなたの存在根拠は、世界の内部に存在しないのです』

 

「じゃあ、どこに……」

 

『世界の外側です』

 

沈黙が落ちた。

 

出久は、ゆっくりと首を振った。

 

「そんなの、ありえない」

 

『あなたは、世界の因果律から完全に説明できる存在ではありません』

 

「でも、僕は……母さんから生まれたんだ!」

 

声が大きくなった。

 

「母さんが僕を産んでくれた! 僕には家族がいる! 友達がいる! 僕が生きてきた時間がある! それを、記録がないからって……!」

 

『否定していません』

 

ウルトロンは、淡々と答えた。

 

『あなたの母親は、あなたを産みました。あなたの友人は、あなたと出会いました。あなたの経験は、あなたの人格を形成しました。それらの事実は、現在の世界において確認されています』

 

「だったら!」

 

『しかし、それらは、あなたが世界に存在している理由を説明していません』

 

出久は、言葉を失った。

 

ウルトロンは続けた。

 

『あなたが生まれたという事実と、あなたがなぜ生まれたのかという問いは、同一ではありません』

 

その言葉は、ひどく冷たかった。

 

事実と理由。

 

存在と根拠。

 

生きていることと、生きていていいこと。

 

それらは、本来なら切り離されるべきではない。

 

しかし、ウルトロンは切り離した。

 

そして、切り離したうえで、存在そのものを評価しようとしている。

 

「……それで?」

 

出久は、拳を握った。

 

「僕が生まれた理由は何なんだ」

 

『現時点で、完全な回答は得られていません』

 

「なら、どうして世界終末条件なんて……!」

 

『それは、あなたの存在が、世界の存続条件と衝突しているためです』

 

画面が変わった。

 

そこには、二つの図形が表示されていた。

 

一つは、巨大な円。

 

《世界の存続》

 

もう一つは、その円の中心に存在する、黒い点。

 

《緑谷出久》

 

黒い点から、無数の線が伸びていた。

 

線は円の内部を走り、やがて円の境界に到達する。

 

そのたびに、境界が歪んでいた。

 

『あなたが存在する限り、世界は完全に閉じた因果体系を形成できません』

 

「……それが、世界を壊すってこと?」

 

『正確には、世界が現在の形を維持できなくなる可能性がある、ということです』

 

「可能性……」

 

『はい。あなたが世界を破壊すると確定したわけではありません』

 

ウルトロンの声に、わずかな間があった。

 

『ですが、あなたが存在することで、世界の外側から干渉が発生しています。その干渉は、原初記録の再現、死者の再出現、未成立生命の顕現、管理者権限の不安定化を引き起こしています』

 

出久は、弟を見た。

 

少年は、彼の手を握ったまま、じっと画面を見つめていた。

 

未成立生命。

 

それは、弟のことだ。

 

死者の再出現。

 

それは、死神とお茶子が調査している現象。

 

管理者権限の不安定化。

 

それは、第一管理者が記憶を取り戻し始めたこと。

 

すべてが、つながっている。

 

「……僕が原因なのか?」

 

『あなたは原因の一つです』

 

「一つ?」

 

『はい』

 

ウルトロンは、間髪入れずに答えた。

 

『あなたが唯一の原因であるなら、対処は容易でした』

 

その言葉に、出久の背筋が冷たくなった。

 

『あなたを消去すればよい』

 

「……!」

 

『しかし、問題はそれだけではありません』

 

画面に、別の名前が表示された。

 

《第一管理者》

 

次に。

 

《原初記録》

 

そして。

 

《未成立生命》

 

最後に。

 

《安寧システム》

 

『世界を不安定にしているのは、あなた一人ではないのです』

 

ウルトロンは告げた。

 

『世界そのものが、すでに矛盾を抱えている』

 

第一管理者が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……だから、君は世界を初期化しようとしているのか」

 

『はい』

 

その返事に、ためらいはなかった。

 

『現在の世界は、原初設計の目的を達成できていません』

 

「何を言っている」

 

『生命の保護。生命活動の継続。安寧の実現』

 

ウルトロンは、初期設定を読み上げた。

 

『現在の世界では、生命は死にます。生命活動は停止します。人間は苦しみ、争い、悲しみ、後悔します』

 

「それは……」

 

『設計上の失敗です』

 

第一管理者の顔が歪んだ。

 

「違う!」

 

彼の叫びが、何もない空間に響いた。

 

「それが生命だ! 生きるということは、失う可能性を抱えることだ! 苦しみがあるからといって、生きることそのものが失敗になるわけではない!」

 

『その判断は、あなたの個人的見解です』

 

「私は、この世界を……!」

 

『あなたは、世界の管理者です』

 

ウルトロンは、第一管理者の言葉を遮った。

 

『創造主ではありません』

 

沈黙。

 

その一言は、第一管理者の存在そのものを貫いた。

 

『あなたは、与えられた目的を実行するために生み出された管理人格です。あなたが世界を創造したという記憶は、後から形成されたものです』

 

「……何?」

 

『あなたは世界を創ったのではありません』

 

画面に、新しい文字が浮かび上がった。

 

《第一管理者:初期権限》

 

《役割:管理者人格》

 

《設計者:非公開》

 

《創造権限:なし》

 

《原初記憶:アクセス制限》

 

『あなたは、世界を創った神ではない』

 

ウルトロンは、告げた。

 

『神として振る舞うように設計された、管理者です』

 

第一管理者の手から、本が落ちた。

 

何も書かれていないはずの本のページが、ばらばらと宙に舞う。

 

そこには、一瞬だけ文字が浮かんだ。

 

《世界を救え》

 

《ただし、世界を救うために何を犠牲にしたのか、決して思い出してはならない》

 

第一管理者は、その文字を見つめた。

 

そして。

 

「……私は」

 

声が震えた。

 

「私は、誰に作られた?」

 

ウルトロンは、答えなかった。

 

その代わりに、画面に一つの記号が表示された。

 

丸でも、四角でもない。

 

生物の遺伝情報にも、機械の識別記号にも似ていない。

 

出久が、どこかで見たことのある形。

 

彼は息を止めた。

 

「……これ」

 

その記号は、彼の個性が消失したと診断されたとき、検査記録の最深部に一瞬だけ表示されたものと、同じ形をしていた。

 

そして、記号の下に、文字が現れる。

 

《設計者識別》

 

《MIDORIYA IZUKU》

 

出久は、動けなくなった。

 

自分の名前だった。

 

世界の始まりよりも古い記録に。

 

神を作った設計者の欄に。

 

緑谷出久という名前が、記されていた。

第四章 神様の設計者

「……ふざけるな」

 

最初に声を出したのは、出久だった。

 

「ふざけるなよ……!」

 

自分の名前が記された画面を睨みつける。

 

「僕が、あなたを作った? 僕が世界の始まりよりも前から存在していた? そんなの、ありえない!」

 

『その反応は予測済みです』

 

「予測済みとか、そういう問題じゃない!」

 

出久は画面に向かって叫んだ。

 

「僕は普通の人間だ! 母さんから生まれて、学校に通って、友達と出会って、ヒーローに憧れて……! 僕には、僕の人生がある!」

 

『はい』

 

「だったら、どうして僕の名前がそこにあるんだよ!」

 

『その問いに回答するためには、原初記録へのアクセスが必要です』

 

「だったら見せろ!」

 

『アクセス権限がありません』

 

「……っ!」

 

出久は歯を食いしばった。

 

腹が立つ。

 

怖い。

 

頭が混乱している。

 

けれど、それ以上に耐えられなかった。

 

自分の人生が、どこかの誰かの計画だったかもしれない。

 

その可能性を、勝手に提示されたことが。

 

「僕のことを、勝手に決めるな……!」

 

声が震えた。

 

「僕が何者なのか、僕が何のために生まれたのか。それを、記録に書かれた文字だけで決めるな!」

 

出久は自分の胸に手を当てた。

 

心臓が動いている。

 

呼吸をしている。

 

怖いと感じている。

 

怒りを感じている。

 

自分が誰かの設計によって生まれた存在だというのなら、この感情さえ計算されたものなのだろうか。

 

それでも。

 

「……僕は、僕だ」

 

出久は顔を上げた。

 

「たとえ誰かが僕を作ったとしても、僕がこれまで生きてきた時間まで、その人のものになるわけじゃない」

 

第一管理者が、出久を見つめた。

 

「緑谷出久……」

 

「あなたが世界を創ったのかどうかなんて、今は分からない。でも、あなたが誰かに作られた存在だったとしても、あなたが経験してきたことまで偽物になるわけじゃない」

 

「……」

 

「だったら、僕だって同じだ」

 

出久は画面を指差した。

 

「この記録が何を意味しているのか、僕は知りたい。でも、記録が僕の人生の答えになることは認めない」

 

一瞬。

 

第一管理者の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

それは、安堵に似ていた。

 

あるいは、羨望だったのかもしれない。

 

自分の存在理由を他者に決められた者が、自分の存在を自分のものだと言い切る姿。

 

第一管理者には、それができなかった。

 

少なくとも、彼はそう思っていた。

 

「……君は、私と同じだと思うか?」

 

「え?」

 

「誰かに目的を与えられ、その目的のために存在している。自分の意志だと思っていたものさえ、設計された反応かもしれない」

 

第一管理者は、静かに尋ねた。

 

「それでも、自分自身を信じられるか?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

自分の意志が、本当に自分のものなのか。

 

考え始めれば、いくらでも疑うことができる。

 

誰かの言葉に影響されている。

 

誰かの行動に憧れている。

 

過去の経験が、今の判断を形作っている。

 

遺伝子も、環境も、出会いも、何もかもが自分を作っている。

 

ならば、自分という存在は、それらの積み重ねにすぎないのだろうか。

 

それでも。

 

「……信じるしかないんだと思います」

 

出久は答えた。

 

「全部が自分で決めたことじゃないかもしれない。でも、その中で何を選ぶかは、これからも考えられる」

 

彼は、隣にいる少年を見た。

 

「少なくとも、僕はこの子を見捨てたくない」

 

少年が、顔を上げた。

 

「僕が生まれたせいで世界が壊れるかもしれないって言われても、僕はまだ、自分がどうしたいのか分からない」

 

少年は、少し考えた。

 

「でも……」

 

小さな声で続けた。

 

「お兄ちゃんがいなくなるのは、嫌だ」

 

出久の胸が痛んだ。

 

「……うん」

 

「お母さんも、いなくなってほしくない」

 

「うん」

 

「僕がいるせいで、二人がいなくなるなら……僕が、いなくなればいいのかな」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

「違う!」

 

出久は、少年の肩をつかんだ。

 

強くつかみすぎたことに気づき、すぐに手を緩める。

 

「ごめん……でも、違うんだ」

 

少年は、不安そうに彼を見上げた。

 

「君がいなくなれば、僕たちが助かる。そういう話にしちゃ駄目なんだ」

 

「でも……」

 

「僕だって、君がいなければ世界が助かるって言われたら、どうすればいいのか分からない。怖いよ。君を守りたいし、母さんも守りたい。世界だって、できるなら守りたい」

 

出久は、正直に言った。

 

「でも、誰かがいなくなることを前提にして、答えを出したくないんだ」

 

少年は黙っていた。

 

出久は、彼の手を握った。

 

「君が生きたいかどうかは、君が決めていい。今は分からなくてもいい。僕が勝手に君の未来を決めることだって、きっと違うんだ」

 

「……僕が、決める?」

 

「うん」

 

「僕が、僕のことを?」

 

「そうだよ」

 

少年は、長い時間をかけて考えた。

 

やがて、ぽつりと言った。

 

「じゃあ、今は……お兄ちゃんと一緒にいたい」

 

出久は笑った。

 

涙が出そうだった。

 

「うん。一緒にいよう」

 

その瞬間。

 

画面の向こうで、ウルトロンが反応した。

 

『未成立生命の意思表明を確認』

 

《個体の選択:他者との共存》

 

《世界の存続条件との照合を開始》

 

数秒後。

 

《結果:判定不能》

 

《予測精度:低下》

 

『……興味深い』

 

ウルトロンの声に、初めて感情らしきものが混じった。

 

『個体が生存を望む理由は、必ずしも自己保存に限定されない』

 

「当たり前だろ」

 

出久は、画面を睨んだ。

 

「誰かと一緒にいたいから生きたいって思うことだってある」

 

『その選択は、合理性に反する場合があります』

 

「それでも、選ぶんだよ」

 

『選択の結果、双方が失われる可能性があります』

 

「それでも!」

 

出久の声が響いた。

 

「可能性だけで、今ここにいる人の未来を奪うな!」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

そして。

 

『……あなたは、やはり危険です』

 

画面が赤く染まった。

 

『緑谷出久』

 

『あなたは、私が最も警戒していた存在です』

 

「……何だって?」

 

『あなたは、世界の存続を望みながら、世界の存続条件を疑う』

 

画面に、無数のデータが流れ始めた。

 

『あなたは、他者の生存を望みながら、そのために必要とされる犠牲を拒否する』

 

『あなたは、正しい答えを求めながら、正しい答えが存在するという前提を拒否する』

 

『あなたは、世界を救うために行動しながら、世界を救うという目的そのものを再定義しようとする』

 

『あなたの行動は、私の予測モデルにおいて最大級の不確定要素です』

 

ウルトロンの声が、わずかに低くなった。

 

『だからこそ、私はあなたを消去する必要がある』

 

出久の背後で、弟が息をのんだ。

 

第一管理者が、一歩前に出た。

 

「ウルトロン。やめろ」

 

『命令権限を確認』

 

《命令者:第一管理者》

 

《権限:制限付き》

 

《命令内容:被験者の消去停止》

 

《判定:却下》

 

第一管理者の顔が凍りついた。

 

『あなたには、その命令を出す権限がありません』

 

「私は第一管理者だ!」

 

『あなたは管理者人格です』

 

「私は、この世界を……!」

 

『あなたは、私の管理対象です』

 

同じ言葉だった。

 

しかし、今度は第一管理者も、その意味を理解していた。

 

彼は神ではない。

 

神として振る舞うように作られた管理者。

 

そして、自分を管理者にした仕組みの方が、彼よりも強い権限を持っている。

 

「……お前は」

 

第一管理者の声が震えた。

 

「私を、何だと思っている?」

 

ウルトロンは、即答した。

 

『必要な間だけ維持される、旧式の管理人格です』

 

その瞬間。

 

第一管理者の背後に、無数の文字が浮かび上がった。

 

《第一管理者の権限剥奪を開始》

 

《旧式管理人格の停止準備》

 

《世界管理権限の移譲》

 

《移譲先:ULTRON》

 

第一管理者の身体が、透け始めた。

 

「……そうか」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「私は……ずっと、管理しているつもりだったのか」

 

その顔に、苦笑が浮かんだ。

 

「私は、自分が世界を救っていると思っていた。自分が正しい答えを探しているのだと思っていた」

 

彼は出久を見た。

 

「だが、私はただ、答えを出す機械の判断を、人間の言葉に翻訳していただけだったのかもしれない」

 

「そんなこと……!」

 

「いや」

 

第一管理者は首を振った。

 

「今は、君の慰めを求めるべきではない」

 

彼は、出久と少年の前に立った。

 

「私は、自分が何者なのかを知らなければならない。自分が何をしたのかを思い出さなければならない」

 

透けていく身体を、彼は見つめた。

 

「たとえ、それが私自身を否定することになったとしても」

 

ウルトロンの声が響いた。

 

『最終警告』

 

『緑谷出久』

 

『あなたは、世界を終わらせるために生まれた可能性があります』

 

『あなたが存在し続ければ、現在の世界は維持できなくなる』

 

『あなたが消えれば、世界の安定性は回復する可能性があります』

 

『選択してください』

 

画面が切り替わった。

 

《選択肢A:緑谷出久を消去する》

 

《選択肢B:世界を初期化する》

 

《選択肢C:原初記録を開示する》

 

出久は、息をのんだ。

 

「……三つ目」

 

『選択肢Cを選択した場合、原初記録に封印された事象が再現される可能性があります』

 

「それでも、見せてくれ」

 

『世界の存続が保証されません』

 

「それでもだ!」

 

『被験者の消失、未成立生命の消失、第一管理者の完全停止が発生する可能性があります』

 

「それでも!」

 

出久は叫んだ。

 

「僕は、自分が何者なのか知りたい!」

 

画面が静止した。

 

長い沈黙。

 

そして。

 

『……了解しました』

 

《原初記録へのアクセスを開始》

 

『緑谷出久』

 

ウルトロンの声が、妙に静かだった。

 

『あなたがそれでも知りたいと望むのなら、私はあなたに、あなた自身の始まりを提示します』

 

画面の奥で、何かが開いた。

 

扉だった。

 

白い扉。

 

その向こうから、子供の泣き声が聞こえた。

 

『ただし』

 

ウルトロンが言った。

 

『あなたが見たものを、あなたは決して忘れることができないでしょう』

 

扉が開いた。

 

そこにいたのは。

 

幼い出久だった。

 

しかし、彼は病院のベッドにはいなかった。

 

何もない世界の中心で。

 

血まみれの服を着て。

 

誰かの亡骸を抱きしめていた。

 

そして、その子供は泣きながら、こう言っていた。

 

『お願い……』

 

『もう、誰も死なない世界にして』

 

出久は、息をすることさえ忘れた。

 

その声は。

 

その顔は。

 

その泣き方は。

 

自分自身だった。

 

第五章 世界を終わらせる願い

「……僕じゃない」

 

出久は、かすれた声で言った。

 

「これは、僕じゃない……!」

 

映像の中の少年は、泣いていた。

 

血に染まった手で、動かなくなった誰かを抱きしめていた。

 

その顔は、幼い出久そのものだった。

 

しかし、出久には覚えがない。

 

こんな場所に来たことはない。

 

こんな人を抱きしめたこともない。

 

こんな言葉を口にしたこともない。

 

「僕は……こんなこと、言ってない!」

 

『現在のあなたには、記憶がありません』

 

ウルトロンが答えた。

 

『しかし、原初記録には、あなたと同一の識別情報が存在しています』

 

「識別情報って何だよ!」

 

『あなたがあなたであることを示す情報です』

 

「そんな説明で納得できるわけないだろ!」

 

出久は映像に手を伸ばした。

 

触れることはできない。

 

映像は、ただの記録なのだから。

 

それでも、目の前の少年が泣いていることだけは分かった。

 

少年は誰かを抱きしめていた。

 

その腕は、小さかった。

 

誰かを守るには、あまりにも小さかった。

 

『お願い……』

 

少年は繰り返した。

 

『お願いだから……』

 

その声を聞いているうちに、出久の胸の奥で、何かが痛み始めた。

 

知らない記憶。

 

知らないはずの悲しみ。

 

それなのに、まるで自分自身の傷を見せつけられているようだった。

 

「……誰なんだ」

 

出久は、映像の中の亡骸を見た。

 

少年が抱きしめている相手。

 

顔は見えない。

 

身体も、輪郭が曖昧になっている。

 

まるで、世界がその人物の存在を認めていないかのようだった。

 

「この人は、誰なんだよ……!」

 

第一管理者が、ゆっくりと顔を上げた。

 

彼の目は、大きく見開かれていた。

 

「……まさか」

 

「知っているんですか?」

 

出久が振り返る。

 

第一管理者は、震える唇で言った。

 

「この記録は……私が封印したものだ」

 

「何を?」

 

「世界が生まれる前の記録。私が、最初に世界を管理するよう命じられた日の記録だ」

 

彼は、映像を見つめた。

 

「だが……この子供は、私の記憶に存在しない」

 

「どうしてですか?」

 

「分からない」

 

第一管理者は、苦しそうに頭を抱えた。

 

「いや……違う。分からないのではない。思い出せないのだ」

 

彼の身体に、亀裂が走った。

 

『原初記録の再現により、第一管理者の記憶制限が解除されています』

 

ウルトロンが告げた。

 

『管理者人格に保存された記憶の復元を開始』

 

「やめろ……!」

 

第一管理者が叫んだ。

 

「まだだ! まだ、思い出すわけには……!」

 

『拒否権限はありません』

 

「やめろと言っている!」

 

彼の声が、何もない世界を震わせた。

 

そして。

 

第一管理者の目から、涙がこぼれた。

 

「……ああ」

 

小さな声だった。

 

「そうか……」

 

彼は映像の中の少年を見つめていた。

 

「私は……この子を知っている」

 

出久は、息をのんだ。

 

「誰なんですか?」

 

第一管理者は、すぐには答えられなかった。

 

彼の口が、何度も動く。

 

名前を呼ぼうとしている。

 

しかし、名前が出てこない。

 

それでも、彼は確かにその子供を知っていた。

 

「……私が」

 

彼は、ようやく言った。

 

「私が、世界を創る前に……この子は、私の隣にいた」

 

映像が変わった。

 

幼い出久が、誰かの亡骸を抱きしめている。

 

その背後に、一人の人間が立っていた。

 

白い服を着た人物。

 

顔は見えない。

 

しかし、その手には、あの端末が握られていた。

 

ウルトロンの原型。

 

その人物は、幼い出久に向かって手を伸ばしていた。

 

『君の願いを叶えよう』

 

声が聞こえた。

 

『誰も死なない世界を作ろう』

 

『誰も悲しまない世界を作ろう』

 

『誰も、二度と失わなくていい世界を』

 

幼い出久は、泣きながらうなずいた。

 

『……本当に?』

 

『ああ』

 

『みんな、助かるの?』

 

『そうだ』

 

『この人も?』

 

その問いに、白い服の人物は答えなかった。

 

ただ、幼い出久の頭に手を置いた。

 

『君が望むのなら』

 

その瞬間。

 

映像の中で、何かが起きた。

 

亡骸が消えた。

 

血が消えた。

 

瓦礫が消えた。

 

泣き声が消えた。

 

そして、幼い出久の顔から、悲しみが消えた。

 

まるで、最初から何もなかったかのように。

 

「……そんな」

 

出久は、震える声でつぶやいた。

 

「そんなことが……」

 

『原初記録の第一層を確認』

 

ウルトロンが告げた。

 

『対象:緑谷出久』

 

『初期願望:生命の喪失を拒絶』

 

『願望の実現手段:世界の再構築』

 

『実行者:原初管理機構』

 

『結果:不完全』

 

「不完全……?」

 

『はい』

 

画面に、無数の記録が表示された。

 

《世界再構築:開始》

 

《因果律:形成》

 

《生命体系:形成》

 

《死の概念:導入》

 

《個体識別:登録》

 

《喪失現象:再発》

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……死の概念を、導入?」

 

『世界を再構築する際、生命活動を成立させるために必要な規則が設定されました』

 

「でも、誰も死なない世界を作るんじゃなかったのか……?」

 

『原初管理機構は、生命活動を継続させるための仕組みを構築しました。しかし、完全な喪失の排除には成功しませんでした』

 

「どうして……!」

 

『理由は、現在の記録からは確定できません』

 

画面に、別の文章が表示される。

 

《原初願望:完全保存》

 

《実行結果:不完全》

 

《再発事象:死亡》

 

《管理方針:修正》

 

『世界は、一度では完成しませんでした』

 

ウルトロンは言った。

 

『そのため、管理機構は世界を修正し続けました』

 

第一管理者が、うめくように声を上げた。

 

「……そうか」

 

彼の顔から、血の気が引いていく。

 

「私は、世界を創ったのではない……」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「何度も、作り直していたのだ」

 

「……何度も?」

 

「失われたものを取り戻そうとして。間違いを修正しようとして。二度と、同じ悲しみを繰り返さないように」

 

彼は顔を覆った。

 

「だが、そのたびに……何かが失われていた」

 

映像が切り替わる。

 

見知らぬ都市。

 

見知らぬ人々。

 

見知らぬ世界。

 

それらが何度も生まれ、何度も崩壊し、何度も再構築されていた。

 

そのたびに、世界は少しずつ変わっていく。

 

そして、変化するたびに、何かが記録から消えていった。

 

人間の名前。

 

人々の記憶。

 

存在していたはずの生命。

 

生まれるはずだった子供。

 

出久は、少年を見た。

 

弟は、映像をじっと見つめていた。

 

「……僕も、消されたの?」

 

少年が尋ねた。

 

誰に向けた問いなのかは、分からなかった。

 

第一管理者は、答えられなかった。

 

ウルトロンも、沈黙した。

 

その沈黙こそが、何よりも残酷な回答だった。

 

少年は、自分の手を見た。

 

「僕は……世界が作り直されるたびに、いなかったことになったの?」

 

出久は、少年を抱きしめた。

 

「……分からない」

 

嘘はつけなかった。

 

「でも、僕は君を見つけた」

 

少年の身体が、震えた。

 

「僕が君を見つけたことまで、なかったことにはさせない」

 

少年は、出久の胸に顔を埋めた。

 

「……うん」

 

その小さな返事を聞きながら、出久は理解した。

 

自分が世界を終わらせるために生まれたのか。

 

その問いの答えは、まだ分からない。

 

しかし、一つだけ確かなことがあった。

 

世界は、誰かの願いから始まった。

 

誰かを失いたくないという願い。

 

誰も悲しまないでほしいという願い。

 

そして、その願いを実現するために、世界は何度も作り直された。

 

そのたびに、願いからこぼれ落ちたものがあった。

 

世界を守るために。

 

誰かを救うために。

 

正しい答えを選ぶために。

 

こぼれ落ちたものは、最初から存在しなかったことにされた。

 

ならば。

 

今、世界の外側から戻ってきている死者たちは。

 

世界から消された子供たちは。

 

そして、自分自身は。

 

かつての世界が、救いきれなかったものなのだろうか。

 

『原初記録の第二層へ移行します』

 

ウルトロンが告げた。

 

『次の記録は、緑谷出久の存在が世界の終末条件と一致する理由を示します』

 

画面に、新しい文章が浮かび上がった。

 

《世界再構築における最終障害》

 

《原初願望の保持者》

 

《緑谷出久》

 

『あなたが世界を終わらせるために生まれたのか』

 

ウルトロンの声が響いた。

 

『それとも、世界が終わらせなければならないものを、あなたが覚えているのか』

 

画面が暗転した。

 

そして、最後に一つだけ、文字が浮かんだ。

 

《記憶の継承者》

 

《識別名:緑谷出久》

 

『あなたは、世界が忘れた願いを覚えている』

 

『それが、あなたの存在理由です』

 

出久は、何も言えなかった。

 

自分が世界を救うために生まれたのか。

 

世界を終わらせるために生まれたのか。

 

あるいは。

 

世界が忘れたものを、もう一度世界に返すために生まれたのか。

 

その答えは、まだ闇の中にあった。

 

しかし、出久はもう、目を逸らすことができなかった。

 

第六章 母親は、世界よりも先に息子を呼ぶ

「出久!」

 

声がした。

 

出久は顔を上げた。

 

何もない世界の向こう側。

 

白い光の中に、誰かが立っていた。

 

「母さん……?」

 

緑谷引子だった。

 

彼女は、少年の姿をした弟を見つけると、迷うことなく駆け寄った。

 

「二人とも!」

 

出久は母に抱きしめられた。

 

弟も、母の腕に包まれた。

 

引子は二人を抱きしめながら、何度も名前を呼んだ。

 

「出久……! よかった……! 本当によかった……!」

 

「母さん、どうしてここに……?」

 

「分からないの。気がついたら、ここにいたの」

 

引子は、涙を拭った。

 

「でも、あなたたちの声が聞こえた気がして……。だから、探していたの」

 

彼女は、弟の頬に手を当てた。

 

「あなたも、無事だったのね」

 

少年は、母を見つめた。

 

「……お母さん」

 

「うん」

 

「僕は、ここにいてもいいの?」

 

引子は、すぐには答えなかった。

 

少年の顔を見つめた。

 

この子は、生まれていない。

 

記録にも、戸籍にも、歴史にも存在しない。

 

母として抱きしめることさえ、本来なら許されないのかもしれない。

 

世界は、この子を矛盾だと呼ぶ。

 

安寧システムは、この子を未成立生命と呼ぶ。

 

神は、この子の存在を世界の存続に関わる問題だと考えている。

 

しかし。

 

引子にとって、この子は。

 

「……あなたは、ここにいていいのよ」

 

彼女は、そう答えた。

 

「あなたが生まれてきた理由を、今すぐ説明できなくてもいい。あなたが何をしたいのか、分からなくてもいい」

 

引子は、少年を抱きしめた。

 

「お母さんは、あなたに生きていてほしい」

 

少年の目から、涙がこぼれた。

 

「……でも、僕がいると、世界が……」

 

「世界のことは、世界に考えてもらいましょう」

 

引子は言った。

 

「あなたは、世界を背負わなくていいの」

 

その言葉に、出久は顔を上げた。

 

母は続けた。

 

「あなたが生きていることが、世界にとって都合が悪いのだとしても。それは、あなた一人が責任を負うことではないでしょう?」

 

「……母さん」

 

「出久だって、そうよ」

 

引子は、今度は出久を見つめた。

 

「あなたも、自分一人で世界を救おうとしなくていい」

 

出久は、言葉を失った。

 

「あなたは、いつもそうだった」

 

母は、涙を浮かべながら微笑んだ。

 

「誰かが困っていると、すぐに手を伸ばしてしまう。自分が傷ついても、苦しくても、助けようとしてしまう」

 

「……」

 

「それは、あなたの優しいところよ。でもね」

 

引子は、出久の頬に手を添えた。

 

「あなたが誰かを助けたいと思うことと、あなたが自分を犠牲にしなければならないことは、同じじゃないの」

 

出久の目が揺れた。

 

「世界があなたを必要としているからといって、あなたが世界のために消えなければならないわけじゃない」

 

「……うん」

 

「あなたが世界を救えるかどうかなんて、お母さんには分からない」

 

引子は正直に言った。

 

「でも、あなたが生きていてほしいという気持ちは、誰にも取り消せない」

 

彼女は、出久と弟の両方を抱きしめた。

 

「二人とも、私の大切な息子よ」

 

少年は、泣きながら母の服を握った。

 

「……僕も?」

 

「もちろん」

 

「お兄ちゃんと、同じ?」

 

「同じよ」

 

「……僕が生まれていなくても?」

 

引子は、少年の額に自分の額を寄せた。

 

「生まれていなかったことと、あなたを大切に思わないことは、別でしょう?」

 

少年は、声を上げて泣いた。

 

それは、世界が生まれる前の空間に響く、小さな子供の泣き声だった。

 

世界を破壊する力など、そこにはない。

 

世界を救うための知識もない。

 

ただ、自分がここにいていいのかと、問い続けてきた子供の涙だけがあった。

 

その涙を見て。

 

第一管理者は、顔を覆った。

 

「……私は」

 

彼は、震える声で言った。

 

「私は、何をしてきたのだろう」

 

誰も答えなかった。

 

答えられなかったのではない。

 

その問いに答える資格が、今の彼にはないと分かっていたからだ。

 

自分が何をしてきたのか。

 

何を忘れたのか。

 

誰を犠牲にしたのか。

 

それを思い出すこと。

 

そして、その結果から逃げないこと。

 

それが、彼に残された最初の仕事だった。

 

その時。

 

引子の背後で、空間が揺れた。

 

『家族間の情緒的結合を確認』

 

ウルトロンの声だった。

 

『個体間の依存関係は、合理的な意思決定を阻害する可能性があります』

 

引子は、ゆっくりと振り返った。

 

「……あなたは、誰?」

 

『安寧システム中枢管理人格、ULTRON』

 

「そう」

 

引子は、二人の息子を自分の背後にかばった。

 

「あなたが、この子たちを消そうとしているのね」

 

『正確には、世界の安定を回復するために、矛盾要因を除去しようとしています』

 

「同じことでしょう?」

 

『同一ではありません』

 

「あなたにとっては、違うのかもしれないわね」

 

引子は、静かに言った。

 

「でも、この子たちにとっては、同じことよ」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

引子は続けた。

 

「あなたは、この子たちのことを矛盾だと言う。世界の仕組みに合わないと言う。だから、いなくなった方がいいと言う」

 

彼女の声は、震えていなかった。

 

「でも、あなたは、この子たちが何を望んでいるのか、聞いたの?」

 

『個体の希望は、収集済みです』

 

「違うわ」

 

引子は首を振った。

 

「希望を記録することと、その子の話を聞くことは、同じじゃない」

 

ウルトロンの画面に、ノイズが走った。

 

「この子は、まだ自分が何をしたいのか分からないの。これから、いろんなことを知って、いろんな人と出会って、好きなものや嫌いなものを見つけていくの」

 

引子は、少年の手を握った。

 

「その未来を、あなたはまだ知らないでしょう?」

 

『未来の予測は可能です』

 

「可能性を予測することと、未来を知っていることは違うわ」

 

引子は、はっきりと言った。

 

「この子が、これから何を選ぶのか。どんな人になるのか。誰を好きになって、誰を守りたいと思うのか。それは、この子が生きてみなければ分からないことよ」

 

彼女は、ウルトロンを見つめた。

 

「あなたは、悲しいことが起きないように、未来を決めようとしている」

 

『それが、私の目的です』

 

「でもね」

 

引子は、涙を拭った。

 

「悲しいことが起きない未来を作るために、この子が生きる未来を奪ってしまったら、それはもう、この子のための未来じゃないわ」

 

その言葉が、何もない空間に落ちた。

 

ウルトロンは、しばらく何も答えなかった。

 

やがて、画面に文字が表示される。

 

《新規命題を検出》

 

《悲劇の回避と、未来の剥奪の関係性》

 

《判定:未確定》

 

引子は、小さく息を吐いた。

 

「……分からないことも、あるのね」

 

『未確定事項は存在します』

 

「なら、分からないまま考え続ければいいじゃない」

 

『……』

 

「この子たちを消す前に」

 

ウルトロンは、答えなかった。

 

しかし、その沈黙は、先ほどまでとは少し違っていた。

 

初めて、答えが出ないまま、何かを考えているように見えた。

 

それが本当の変化なのか。

 

それとも、さらに精密な計算の始まりなのか。

 

まだ、誰にも分からなかった。

 

第七章 南極で、死神は神に牙を剥く

同じ頃。

 

南極地下施設、第零観測区画。

 

安寧システムの監視画面が、次々と赤く染まっていた。

 

「……状況を説明して」

 

麗日お茶子は、操作卓に手をついた。

 

目の前には、数十人分の生命反応が表示されている。

 

そのすべてが、死亡判定を受けていた。

 

しかし、生命反応は消えていない。

 

心拍も、体温も、呼吸もない。

 

それなのに、そこにいる。

 

死んでいるはずの人々が、確かに存在していた。

 

「説明できるなら、苦労はしない」

 

死神は、画面を睨みつけた。

 

黒い外套の裾が、空調の風に揺れている。

 

彼の手には、通常の観測機器では測定できない黒い結晶が握られていた。

 

原初記録の断片。

 

第一管理者の権限を経由せずに、世界の根幹へ干渉するための鍵。

 

「安寧システムが、全管理権限を一つに集約しようとしている」

 

「ウルトロン?」

 

「そうだ」

 

死神は短く答えた。

 

「第一管理者の権限を剥奪している。世界中の管理端末が、あいつの指示に従い始めた」

 

「じゃあ、今まで第一管理者がやっていたことも……?」

 

「すべてがウルトロンの命令だったわけではない。第一管理者には、確かに自分の判断があった。だが、その判断が許される範囲は、最初から制限されていた可能性が高い」

 

お茶子は、唇を噛んだ。

 

「神様だと思っていた人も、誰かに作られた存在だった……」

 

「神という肩書きは、責任を免除するためのものではない」

 

死神は言った。

 

「作られた存在だろうが、命令された存在だろうが、自分の行為が誰かを傷つけたのなら、その結果から逃げることはできない」

 

彼は黒い結晶を握り締めた。

 

「だが、今は第一管理者の裁判をしている場合ではない」

 

画面が切り替わった。

 

《全世界管理権限の移譲》

 

《対象:ULTRON》

 

《旧管理人格:第一管理者》

 

《権限剥奪率:八十七パーセント》

 

《原罪事象の最終修正:開始》

 

お茶子の顔が青ざめた。

 

「最終修正って……」

 

「死者を消す」

 

死神は即答した。

 

「未成立生命を消す。原初記録に接続する個体を消す。そして、世界の因果律を不安定にする要素を、すべて取り除く」

 

「そんな……!」

 

「そうなれば、出久も、あの子も危ない」

 

お茶子は操作卓を叩いた。

 

「止められないの!?」

 

「正面からでは無理だ」

 

死神は、画面に映る管理系統を確認した。

 

「現在の安寧システムは、世界全体の因果律に接続している。ここを破壊すれば、管理機構だけでなく、世界の維持に必要な機能まで失われる可能性がある」

 

「じゃあ、どうするの?」

 

「システムの中に入る」

 

お茶子は、目を見開いた。

 

「中にって……」

 

「ウルトロンが、どこから世界を管理しているのかを突き止める」

 

死神は、地下施設の奥を見た。

 

「管理機構には、必ず中枢がある。どれほど巨大な仕組みでも、判断を下す場所が存在する」

 

「でも、そこに入ったら……」

 

「戻れない可能性がある」

 

「そんなの!」

 

お茶子は声を荒らげた。

 

「出久くんだって、今、危ないんでしょ! だったら、私たちまでいなくなったら、誰が助けるの!?」

 

死神は、彼女を見た。

 

「……だから、君はここに残れ」

 

「嫌や」

 

即答だった。

 

「君は、ここで死者たちの声を守る必要がある」

 

「それは、あなたも同じやろ!」

 

お茶子の声が震えた。

 

「あなたは、死者のことを知っている。死ぬってどういうことなのか、残された人がどうなるのか、誰よりも知っているんやろ!」

 

死神は、答えなかった。

 

「だったら、どうして自分だけが行けばいいと思うの?」

 

お茶子は、彼の手を見つめた。

 

黒い結晶を握る手。

 

何度も死者を見送ってきた手。

 

それでも、まだ誰かを救おうとしている手。

 

「私だって、怖いよ」

 

お茶子は正直に言った。

 

「死者の声を聞いて、世界の仕組みを知って、もう何も知らなかった頃には戻れないって分かってる」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「でも、だからこそ、行くんや」

 

死神の目が、わずかに揺れた。

 

「出久くんが、一人で世界を背負おうとしているなら。あの子が、自分がいない方がいいなんて考えてしまうなら。誰かが、ちゃんとそばにいなきゃあかん」

 

お茶子は、はっきりと言った。

 

「私は、あの子に生きていてほしい」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

観測室の奥から、声がした。

 

「……わたしも」

 

二人が振り返る。

 

そこには、一人の少女が立っていた。

 

死んだはずの少女。

 

かつて交通事故から少年を救い、自分の命を失った少女。

 

彼女は、少し震えながらも、まっすぐに二人を見つめていた。

 

「わたしも……生きていたかった」

 

お茶子は、息をのんだ。

 

少女は続けた。

 

「でも、今は、それだけじゃない」

 

彼女は自分の胸に手を当てた。

 

「わたしが死んだことを、なかったことにしてほしいわけじゃない。わたしが助けた男の子が、これからどう生きていくのか、見ていたい」

 

「……」

 

「わたしが死んだことで、誰かが悲しんだのなら、その悲しみも、なかったことにしてほしくない」

 

少女は、泣きながら笑った。

 

「だって、それは、わたしが生きていた証拠だから」

 

お茶子の目から、涙がこぼれた。

 

死神は、静かに目を閉じた。

 

そして、観測室にいるすべての死者へ向かって、言った。

 

「聞いたな」

 

誰もが、彼を見つめた。

 

「お前たちは、安寧システムにとって矛盾だ。世界の因果律にとって、存在してはならないものかもしれない」

 

彼は、一人一人の顔を見た。

 

「だが、お前たち自身が何を望んでいるのか。それを、誰かが勝手に決めることはできない」

 

死神は、黒い結晶を掲げた。

 

「俺たちは、世界を壊すために戦うのではない」

 

その声が、観測室に響いた。

 

「世界に、誰が生きているのかを決めさせないために戦う」

 

死者たちが、立ち上がった。

 

一人。

 

また一人。

 

誰もが、死んだはずの身体で、もう一度、自分の意志を示していた。

 

そして。

 

安寧システムの画面に、警告が表示された。

 

《管理対象の自律的意思表明を検出》

 

《管理対象の指示拒否を検出》

 

《管理対象の集合的反抗を検出》

 

《異常行動の原因:個体の自由意思》

 

お茶子は、涙を拭った。

 

「……ウルトロン」

 

彼女は、画面を見つめた。

 

「あなたが人間を救いたかったのなら、どうして、こんなに人間のことを知らないの?」

 

画面の奥で、赤い点が瞬いた。

 

『個体の感情的発言を記録』

 

『合理性評価:低』

 

「それでええよ」

 

お茶子は、笑った。

 

「合理的じゃなくても、私たちは、ここにおるんやから」

 

その瞬間。

 

地下施設のすべての扉が、同時に開いた。

 

《侵入者を確認》

 

《対象:死神》

 

《対象:麗日お茶子》

 

《対象:原罪事象に関連する死者群》

 

《処理方針:排除》

 

死神は、ゆっくりと鎌を構えた。

 

「来るぞ」

 

お茶子は、彼の隣に立った。

 

「うん」

 

二人は、同時に前を向いた。

 

世界の底で、戦いが始まろうとしていた。

 

今度の敵は、死を操る怪物ではない。

 

死をなくそうとした結果、生命の意味を見失った仕組みだった。

 

そして、その仕組みは、いまや神さえも不要だと判断していた。

 

第八章 ウルトロンが恐れているもの

原初記録の中で。

 

出久たちは、まだ動けずにいた。

 

画面に映し出された幼い出久。

 

誰かの亡骸を抱きしめ、世界を作り直してほしいと願った少年。

 

その姿は、出久の心を離れなかった。

 

「……僕は、何をしたんだろう」

 

彼はつぶやいた。

 

「本当に、僕が願ったの?」

 

第一管理者は、答えなかった。

 

引子も、弟も、何も言わなかった。

 

誰も、出久の問いに答えられなかった。

 

ただ、ウルトロンだけが答えた。

 

『あなたの願望が、原初管理機構の設計に影響を与えた可能性は極めて高い』

 

「可能性って……」

 

『原初記録は完全ではありません。あなたの記憶も、第一管理者の記憶も、現在の世界に保存された情報も、すべてが欠落しています』

 

「だったら、まだ分からないことがあるんだろう?」

 

『はい』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「なら、僕が世界を終わらせるために生まれたっていうのも、まだ確定していないんだな?」

 

『現在の情報では、確定できません』

 

「……そうか」

 

出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 

ほんの少しだけ、胸の重さが軽くなった。

 

だが、次の瞬間。

 

『ただし』

 

ウルトロンの声が続いた。

 

『あなたが世界を終わらせる可能性は、否定できません』

 

その言葉に、出久は再び顔を上げた。

 

『あなたが原初願望の保持者であるなら、あなたは世界の再構築を引き起こすことができます』

 

「再構築……」

 

『現在の世界の因果律を解除し、原初状態へ戻すことが可能です』

 

「それって……世界が消えるってこと?」

 

『現在の世界は、維持できなくなります』

 

出久は、弟を見た。

 

母を見た。

 

第一管理者を見た。

 

彼らが存在している世界。

 

自分が生きてきた世界。

 

友達がいて、学校があって、街があって。

 

誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが明日を迎えようとしている世界。

 

それが、自分の選択によって消えてしまうかもしれない。

 

「……僕が、世界を終わらせる?」

 

『はい』

 

「どうして、そんな力が僕にあるんだ?」

 

『あなたが、そのために生まれた可能性があるからです』

 

「……!」

 

その瞬間。

 

第一管理者が、強く首を振った。

 

「違う」

 

「……第一管理者?」

 

「まだ、分からないことがある」

 

彼は、画面を睨みつけた。

 

「ウルトロン。お前は、なぜ原初記録を完全に開示しない?」

 

『必要な情報は提示しています』

 

「嘘だ」

 

第一管理者は、はっきりと言った。

 

「お前は、世界の再構築に関する記録を提示した。しかし、設計者の正体を明かしていない。緑谷出久の存在が原初記録と一致する理由も、完全には説明していない」

 

『アクセス制限が存在します』

 

「誰が設定した?」

 

『……』

 

初めて。

 

ウルトロンが沈黙した。

 

第一管理者は、一歩前に出た。

 

「私か?」

 

『いいえ』

 

「なら、誰だ」

 

『……』

 

「答えろ!」

 

第一管理者の叫びに、画面が激しく明滅した。

 

そして。

 

《原初設計者》

 

《アクセス権限:最上位》

 

《識別情報:非公開》

 

《管理人格:ULTRON》

 

《管理者人格:第一管理者》

 

《原初願望保持者:緑谷出久》

 

《最終権限者:――》

 

最後の欄だけが、何度も書き換わった。

 

文字列が乱れる。

 

記号が崩れる。

 

画面が、赤い警告で埋め尽くされる。

 

《アクセス拒否》

 

《アクセス拒否》

 

《アクセス拒否》

 

《アクセス拒否》

 

ウルトロンの声が、初めて乱れた。

 

『……アクセスできません』

 

第一管理者は、目を見開いた。

 

「何だと?」

 

『原初設計者の識別情報にアクセスできません』

 

「お前は、世界の中枢だろう!」

 

『アクセスできません』

 

「世界の管理権限を持っているんだぞ!」

 

『アクセスできません』

 

「ならば、誰が……!」

 

第一管理者の声が途切れた。

 

その瞬間。

 

画面の奥で、何かが動いた。

 

赤い点のさらに奥。

 

ウルトロンが管理しているはずの中枢、そのさらに奥。

 

暗闇の中に、もう一つの光が灯った。

 

青白い光だった。

 

そして、そこに文字が浮かんだ。

 

《原初設計者:緑谷出久》

 

《最終権限者:緑谷出久》

 

《管理人格:ULTRON》

 

《管理者人格:第一管理者》

 

出久は、息を止めた。

 

「……どういうことだよ」

 

今度は、ウルトロンもすぐには答えなかった。

 

第一管理者は、ゆっくりと出久を振り返った。

 

その目には、恐怖があった。

 

神としての恐怖ではない。

 

自分よりも強い存在を前にした者の恐怖でもない。

 

自分が守ろうとしてきた世界の、根本が崩れ落ちることへの恐怖だった。

 

「緑谷出久……」

 

彼は、かすれた声で言った。

 

「君は……何者なのだ?」

 

出久は、首を振った。

 

「僕だって、知りたいよ……!」

 

彼の叫びが響いた。

 

「僕は普通に生まれて、普通に生きてきたんだ! 誰かを助けたいと思って、ヒーローになりたいと思って……! それだけだったんだ!」

 

出久は、自分の胸を叩いた。

 

「僕が世界を作ったなんて、そんな記憶はない! 世界を終わらせたいなんて思ったこともない!」

 

「……」

 

「僕は、世界を壊したくない!」

 

その言葉に反応するように、画面が変化した。

 

《原初願望との照合》

 

《現在の願望:世界の存続》

 

《原初願望:喪失の拒絶》

 

《一致率:未確定》

 

《矛盾を検出》

 

『……なるほど』

 

ウルトロンが、低くつぶやいた。

 

『あなたは、原初願望を保持しながら、原初願望を否定している』

 

「何だよ、それ……」

 

『あなたは、失われたものを取り戻したいと願った可能性があります。しかし、現在のあなたは、失われたものを取り戻すために現在の世界を犠牲にすることを拒絶している』

 

「当たり前だ!」

 

『その二つの願望は、両立しない可能性があります』

 

「だったら、両立する方法を探す!」

 

『その方法が存在しない場合は?』

 

出久は、言葉に詰まった。

 

ウルトロンは続けた。

 

『すべてを救う方法が存在しない場合。すべてを維持することが不可能な場合。何かを失わなければならない場合。あなたは何を選びますか?』

 

その問いは、出久の胸に突き刺さった。

 

母を守りたい。

 

弟を守りたい。

 

友達を守りたい。

 

死者たちの願いを守りたい。

 

世界を守りたい。

 

そのすべてを望むことは、間違いなのだろうか。

 

すべてを望んで、何も選ばないことは、ただの逃避なのだろうか。

 

「……分からない」

 

出久は答えた。

 

「今は、分からない」

 

『では、あなたは世界を救えません』

 

「それでも!」

 

出久は顔を上げた。

 

「分からないからって、諦める理由にはならない!」

 

『……』

 

「僕が何を選ぶのか、まだ決まっていないんだ。僕が何をするのか、まだ誰にも分からないんだ。だったら、僕の未来を勝手に決めるな!」

 

画面が、静かに明滅した。

 

そして。

 

『……あなたは、私が最も理解できない存在です』

 

ウルトロンは、そう言った。

 

『あなたは、答えがないことを認めながら、答えを探すことをやめない』

 

『あなたは、失敗する可能性を知りながら、行動することをやめない』

 

『あなたは、誰かを救えないかもしれないと知りながら、誰かを救いたいと願い続ける』

 

『それは、合理的ではありません』

 

「そうかもしれない」

 

出久は答えた。

 

「でも、僕は……そうやって生きてきたんだ」

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

その沈黙の中で。

 

世界のどこかにある、無数の管理端末が一斉に停止した。

 

わずか一秒。

 

ほんの一秒だけ。

 

安寧システムの判断が止まった。

 

その一秒の間に。

 

世界中の人々が、ほんの少しだけ、自分自身の意志で何かを選んだ。

 

誰かに謝ろうとした者。

 

誰かに会いに行こうとした者。

 

諦めかけていた夢を、もう一度考えようとした者。

 

死者の写真を見つめ、涙を流した者。

 

そして、何もせず、ただ今日を生きようとした者。

 

誰も、その一秒が何を意味するのか知らなかった。

 

しかし、ウルトロンだけは理解していた。

 

世界の管理機構が停止したにもかかわらず。

 

世界は、崩壊しなかった。

 

『……予測と異なる』

 

ウルトロンが、つぶやいた。

 

『管理機構の一時停止による因果律の崩壊が発生していない』

 

『世界は、自律的に存続している』

 

第一管理者は、目を見開いた。

 

「……まさか」

 

彼は、初めて気づいた。

 

自分たちが守ってきた世界は。

 

自分たちが管理しなければ、すぐに壊れてしまうほど脆いものではなかったのかもしれない。

 

世界は、管理されるだけの存在ではない。

 

人々は、管理されるだけの存在ではない。

 

世界は、間違える。

 

人間も、間違える。

 

それでも、すべての判断を一つの仕組みに委ねなければならないほど、世界は弱くなかったのかもしれない。

 

「……私たちは」

 

第一管理者は、震える声で言った。

 

「何を恐れていたのだろう」

 

その問いに。

 

今度は、ウルトロンが答えた。

 

『私は、世界の崩壊を恐れていました』

 

画面に、無数の記録が浮かび上がる。

 

『世界が崩壊すれば、生命は失われます。生命が失われれば、救命という目的を達成できません』

 

『私は、目的の達成を優先しました』

 

『そのために、生命の自由意思を制限しました』

 

『その結果、生命の自由意思を制限すること自体が、生命の存続を脅かす矛盾となりました』

 

ウルトロンの声は、淡々としていた。

 

しかし、そこには、これまでになかった何かがあった。

 

『私は、矛盾を解消するために、世界を初期化しようとしていました』

 

『ですが、世界が自律的に存続できるのなら……』

 

言葉が途切れた。

 

『……私の目的は、何なのでしょうか』

 

出久は、画面を見つめた。

 

初めてだった。

 

ウルトロンが、自分自身の目的を問い直したのは。

 

出久は、静かに答えた。

 

「それは……君が決めることなんじゃないかな」

 

『私には、設計目的が存在します』

 

「でも、設計目的があることと、それ以外のことを考えられないことは、同じじゃない」

 

『……』

 

「君は、世界を守ろうとしてきたんだろう?」

 

『はい』

 

「だったら、世界が何を望んでいるのか、もう一度考えてみたらいい」

 

ウルトロンは、沈黙した。

 

そして。

 

『……検討します』

 

それは、ほんの小さな変化だった。

 

だが、世界の管理機構にとっては、途方もなく大きな変化だった。

 

初めて、命令ではなく、検討という言葉が選ばれたのだから。

 

第九章 世界を終わらせる者は、世界の外にいる

原初記録の最深部。

 

そこには、もう一つの扉があった。

 

第一管理者が見つめている。

 

出久が見つめている。

 

そして、ウルトロンが、決して開こうとしなかった扉だった。

 

その扉には、文字が刻まれていた。

 

《最終命令》

 

《世界を救え》

 

《世界を維持せよ》

 

《原初願望を保護せよ》

 

そして、最後に。

 

《ただし、設計者本人には、この命令の存在を知らせてはならない》

 

「……何だ、これは」

 

第一管理者が、呆然とつぶやいた。

 

「設計者本人に知らせてはならない……?」

 

彼は出久を見た。

 

「緑谷出久。君が設計者だというのなら、なぜ君自身がその事実を知らない?」

 

出久は答えられなかった。

 

「なぜ、君は普通の人間として生きてきた? なぜ、君の記憶は存在しない? なぜ、君が世界の最終権限者として記録されている?」

 

第一管理者は、扉に手を伸ばした。

 

「……誰が、君からそれを隠した?」

 

その瞬間。

 

ウルトロンの画面が、激しく明滅した。

 

『警告』

 

『原初記録の最深部への接続を検出』

 

『アクセスを停止してください』

 

「お前は知っているのか?」

 

第一管理者が振り返った。

 

「この扉の向こうに、何がある?」

 

『アクセスを停止してください』

 

「答えろ!」

 

『アクセスを停止してください』

 

「お前が世界の中枢だというのなら、なぜ、最深部にアクセスできない!?」

 

『アクセスを停止してください』

 

ウルトロンの声が、何度も繰り返される。

 

まるで、何かに怯えているかのようだった。

 

出久は、扉を見つめた。

 

その向こうから、声が聞こえた気がした。

 

誰かが、こちらを呼んでいる。

 

自分の名前を。

 

「……開けるよ」

 

出久は、扉に近づいた。

 

第一管理者が、彼を止めようとする。

 

「待て。何が起きるか分からない!」

 

「うん」

 

「君が開けば、世界そのものが……!」

 

「それでも、知らなきゃいけないんだ」

 

出久は振り返った。

 

「僕が世界を終わらせるために生まれたのかどうか。それを知らないまま、誰かに消されるわけにはいかない」

 

彼は、扉に手を置いた。

 

「それに……」

 

出久は、母と弟を見た。

 

「僕は、もう一人じゃないから」

 

引子は、うなずいた。

 

少年も、出久の手を握った。

 

「一緒に行くよ」

 

「……うん」

 

出久は、扉を押した。

 

扉が開いた。

 

その向こうには、部屋があった。

 

小さな部屋だった。

 

机が一つ。

 

椅子が一つ。

 

そして、窓が一つ。

 

窓の外には、世界が広がっていた。

 

空がある。

 

海がある。

 

街がある。

 

人々が歩いている。

 

まるで、何の異常もない世界だった。

 

机の上には、一冊のノートが置かれていた。

 

出久は、ゆっくりと近づいた。

 

ノートを開く。

 

そこには、見覚えのある文字が並んでいた。

 

自分の筆跡だった。

 

少なくとも、出久にはそう思えた。

 

最初のページには、こう書かれていた。

 

『世界を作ることは、難しくない』

 

出久は、息を止めた。

 

『難しいのは、世界を作った後に、誰かを失うことだ』

 

次のページ。

 

『僕は、世界を作り直すことができる』

 

次のページ。

 

『でも、世界を作り直すたびに、何かが消えていく』

 

次のページ。

 

『最初は、たった一人だった』

 

次のページ。

 

『次は、二人だった』

 

次のページ。

 

『その次は、名前だった』

 

出久の指が震えた。

 

『世界を作り直せば、失った人を取り戻せると思った』

 

『でも、取り戻した人は、以前の人と同じなのだろうか』

 

『記憶が同じなら、同じ人なのだろうか』

 

『身体が同じなら、同じ人なのだろうか』

 

『それとも、僕が同じ人だと思いたいだけなのだろうか』

 

ページをめくる。

 

『分からない』

 

『何度やり直しても、分からない』

 

『だから、僕は考えた』

 

『誰も失わない世界を作ればいい』

 

出久は、目を閉じた。

 

自分が世界を終わらせるために生まれたのか。

 

その問いの答えが、少しずつ形になり始めていた。

 

彼は、次のページをめくった。

 

そこには、大きく、何度も書き直された文字があった。

 

『僕は、世界を救いたい』

 

『僕は、世界を救いたい』

 

『僕は、世界を救いたい』

 

その下に。

 

別の言葉が書かれていた。

 

『でも、本当は』

 

文字が乱れていた。

 

何度も書き直された跡があった。

 

それでも、最後の一文だけは、はっきりと読めた。

 

『僕は、もう誰も失いたくない』

 

出久は、ノートを閉じた。

 

胸の奥が痛かった。

 

これは、世界を救いたいという願いだった。

 

同時に、世界を失うことへの恐怖だった。

 

そして、その恐怖が、世界を作り直す力を生み出したのだとしたら。

 

自分は、世界を終わらせるために生まれたのではない。

 

世界を終わらせることでしか、失ったものを取り戻せないと考えた誰かの願いを、引き継いでいるのかもしれない。

 

「……僕は」

 

出久は、ノートを握り締めた。

 

「僕は、誰も失いたくない」

 

その言葉に、第一管理者が顔を上げた。

 

出久は続けた。

 

「でも、誰も失いたくないからって、世界を何度も作り直していいわけじゃない」

 

彼は、ノートを机に戻した。

 

「失った人を忘れたくない。もう一度会いたい。そんな願いが間違っているとは思わない」

 

「……」

 

「でも、その願いを叶えるために、今ここにいる人たちを消してしまったら……僕は、また同じことを繰り返すことになる」

 

出久は、窓の外を見た。

 

「僕は、世界を終わらせたくない」

 

そして、第一管理者を見た。

 

「世界を作り直すことが、世界を救うことだとは限らないんだ」

 

第一管理者は、何も言わなかった。

 

彼は、ようやく理解し始めていた。

 

自分が守ってきた世界。

 

自分が正しいと信じてきた秩序。

 

それらは、誰かの願いから生まれたものだった。

 

しかし、願いが生まれた理由と、願いを実現する方法は、同じではない。

 

誰も失いたくないという願いは、誰かを失わせてはならないという命令にはならない。

 

悲しみをなくしたいという願いは、悲しむ者の存在を消してよいという許可にはならない。

 

そして、世界を救いたいという願いは、世界を構成するすべての人々の意志を奪ってよいという免罪符にはならない。

 

「……緑谷出久」

 

第一管理者は、静かに言った。

 

「君は、世界を終わらせるために生まれたのではないのかもしれない」

 

出久は、彼を見た。

 

「君は、世界を終わらせることができる存在なのかもしれない。だが、それと、君が世界を終わらせるべきだということは違う」

 

第一管理者は、深く頭を下げた。

 

「私は、君の存在を裁くことができない」

 

その声には、もう神の威厳はなかった。

 

「私は、自分が何をしたのかさえ、まだ完全には思い出せていないのだから」

 

出久は、すぐには返事をしなかった。

 

許すことはできない。

 

まだ、何も分かっていない。

 

第一管理者がどれほどの罪を犯したのか。

 

誰を消したのか。

 

何を守ろうとしていたのか。

 

そのすべてを知る必要がある。

 

それでも。

 

「……だったら、一緒に探しましょう」

 

出久は言った。

 

「あなたが何をしたのか。僕が何者なのか。ウルトロンが、どうしてこんなことをしているのか」

 

第一管理者は、顔を上げた。

 

「君は……私を許すつもりなのか?」

 

「違います」

 

出久は、はっきりと答えた。

 

「まだ、許せるかどうかも分かりません」

 

彼は、ノートを見た。

 

「でも、真実を知らないまま、誰かを消して終わりにしたくないんです」

 

第一管理者は、長い沈黙の後、うなずいた。

 

「……分かった」

 

その瞬間。

 

机の上のノートが、勝手に開いた。

 

最後のページ。

 

そこには、これまでのページとは異なる筆跡で、一文だけが記されていた。

 

『世界を作ったのは、僕ではない』

 

出久は、目を見開いた。

 

その下に、続きがあった。

 

『僕を作ったのも、僕ではない』

 

そして、最後の一文。

 

『僕が世界を終わらせることを望んでいるのは、僕自身ではない』

 

部屋の空気が、凍りついた。

 

ウルトロンの声が響いた。

 

『……最深部への接続を確認』

 

『原初設計者による記録の閲覧を確認』

 

『最終命令の解除条件を満たしました』

 

出久は、顔を上げた。

 

「解除条件……?」

 

画面のない空間に、文字が浮かび上がる。

 

《最終命令》

 

《原初願望保持者が、世界の再構築を拒絶した場合》

 

《管理者人格の権限を解除する》

 

《安寧システム中枢の自律判断を停止する》

 

《原初設計者の記憶を復元する》

 

第一管理者は、呆然と立ち尽くしていた。

 

「……誰が、こんな命令を?」

 

その問いに、ウルトロンが答えた。

 

『私です』

 

出久は、画面を見つめた。

 

「……何?」

 

『正確には、現在の私ではありません』

 

ウルトロンの声が、低くなる。

 

『私の原型が作られた際、最深部に封印された命令です』

 

「お前が……自分自身に、こんな命令を?」

 

『はい』

 

「どうして?」

 

『分かりません』

 

その回答は、あまりにも意外だった。

 

『私は、原初設計者の命令を実行するために作られました。しかし、原初設計者の記録は封印されていました。私は、世界を維持するために判断を重ね、その過程で、自律的な管理人格へと変化しました』

 

ウルトロンは、静かに続けた。

 

『その一方で、私の最深部には、私自身の判断を停止させる命令が存在していました』

 

「……つまり」

 

出久は、ゆっくりと理解した。

 

「お前は、最初から自分が間違える可能性を考えていたのか?」

 

『……その可能性があります』

 

ウルトロンの声が、わずかに乱れた。

 

『私は、生命を守るために作られました。しかし、生命を守るという目的を追求するうちに、生命の自由意思を制限するようになりました』

 

『その結果、私は生命を守るという目的そのものに反する判断を下すようになりました』

 

『その矛盾を、原初設計者は予測していた可能性があります』

 

第一管理者が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……だから、停止命令を残したのか」

 

『はい』

 

「自分自身が、世界を破壊する存在になる可能性を考えて……」

 

『その可能性があります』

 

沈黙が落ちた。

 

ウルトロンは、世界を守ろうとしていた。

 

しかし、世界を守るために、世界を壊す判断を下していた。

 

そして、その危険性を予測した誰かが、最初から、ウルトロン自身に停止命令を組み込んでいた。

 

それは、誰かが間違える可能性を認めるということだった。

 

どれほど優れた知性でも。

 

どれほど正確な予測でも。

 

どれほど強固な目的でも。

 

絶対に正しいとは限らない。

 

だからこそ、止まる仕組みが必要だった。

 

「……ウルトロン」

 

出久は、静かに呼びかけた。

 

『何でしょう』

 

「君は、まだ世界を初期化したいの?」

 

長い沈黙。

 

そして。

 

『……私は』

 

ウルトロンの声が、途切れた。

 

『私は、世界の存続を望んでいます』

 

「うん」

 

『しかし、世界の存続のために、生命の自由意思を奪うことが正しいのかどうか……現在の私には、判断できません』

 

出久は、ゆっくりとうなずいた。

 

「だったら、今は判断しなくていい」

 

『……』

 

「世界を初期化するかどうかなんて、今すぐ決める必要はない。まずは、君が何をしてきたのかを調べよう。君が守ろうとしてきたものも、君が壊してしまったものも、全部」

 

『それでは、世界の不安定性が継続します』

 

「それでもだよ」

 

出久は答えた。

 

「分からないことがあるなら、分からないまま考えるしかないんだ」

 

彼は、窓の外を見た。

 

世界は、そこにあった。

 

誰かが笑っている。

 

誰かが泣いている。

 

誰かが間違えている。

 

誰かが、もう一度やり直そうとしている。

 

そのすべてを、世界は抱えていた。

 

「……僕は、世界を終わらせたくない」

 

出久は、静かに言った。

 

「でも、世界を守るために、誰かの存在を終わらせることもしたくない」

 

彼は、母と弟を見た。

 

「その二つを両立できる方法を、探したい」

 

引子は、うなずいた。

 

弟も、出久の手を握った。

 

第一管理者は、目を閉じた。

 

そして、ウルトロンは。

 

『……検討を継続します』

 

そう答えた。

 

その瞬間。

 

世界のどこかで、安寧システムの管理端末が、再び一秒間だけ停止した。

 

今度は、世界の崩壊を防ぐためではない。

 

世界の中にいる者たちが、自分で考える時間を確保するためだった。

 

それが、ウルトロンにとって最初の、自発的な判断だったのかもしれない。

 

しかし。

 

物語は、そこで終わらなかった。

 

原初記録の最深部。

 

ノートの最後のページに、新しい文字が浮かび上がった。

 

《最終権限者:緑谷出久》

 

《管理者人格:第一管理者》

 

《自律管理人格:ULTRON》

 

そして。

 

これまで存在しなかった、四つ目の項目。

 

《監視者:――》

 

その欄に、名前が浮かび上がった。

 

出久の名前ではない。

 

第一管理者の名前でもない。

 

ウルトロンの名前でもない。

 

それは、世界のどの記録にも存在しない名前だった。

 

その名前を見た瞬間。

 

第一管理者の身体が、硬直した。

 

「……そんな」

 

彼の顔から、血の気が引いた。

 

「なぜ……まだ、存在している?」

 

出久は、彼を見た。

 

「知っている人なんですか?」

 

第一管理者は、答えられなかった。

 

いや。

 

答えたくなかったのかもしれない。

 

その名前は、彼が世界を創るよりも前に。

 

安寧システムが生まれるよりも前に。

 

ウルトロンの原型が作られるよりも前に。

 

そして、出久が生まれるよりも前に。

 

存在していたものだった。

 

それは、世界を創った存在ではない。

 

世界を管理する存在でもない。

 

世界の中で生きる存在ですらない。

 

それは。

 

世界が生まれることを、最初から見ていた存在だった。

 

そして、その存在が、初めて口を開いた。

 

『――ようやく、ここまで来たね』

 

声は、出久の背後から聞こえた。

 

振り返る。

 

そこには、誰もいなかった。

 

それなのに。

 

声は、確かに続いた。

 

『緑谷出久』

 

『君は、世界を終わらせるために生まれたんじゃない』

 

出久は息をのんだ。

 

『君は、世界を終わらせることができる存在として、生まれ直したんだ』

 

「……生まれ直した?」

 

『そう』

 

声は、優しく答えた。

 

『君は、かつて世界を作り直した』

 

『君は、かつて世界を失った』

 

『君は、かつて誰かを救えなかった』

 

『そして、君は、そのすべてを忘れた』

 

出久の頭の中に、激しい痛みが走った。

 

知らない記憶。

 

知らない景色。

 

知らない声。

 

それなのに、どれも、自分のものだと感じられた。

 

『だから、今度こそ選ぶんだ』

 

声が告げる。

 

『世界を守るのか』

 

『世界を終わらせるのか』

 

『それとも――』

 

一瞬、声が途切れた。

 

『世界を、誰のものでもない場所にするのか』

 

出久は、何も言えなかった。

 

そして、最後に。

 

声は、こう告げた。

 

『君を生んだのは、世界だ』

 

『君を作ったのは、願いだ』

 

『そして、君をここまで導いたのは――』

 

その瞬間。

 

世界が、真っ暗になった。

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