僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十九話「世界を見ていた者は、なぜ手を出さなかったのか」

第一節 世界が消えたのではない

最初に聞こえたのは、雨の音だった。

 

ぽつり。

 

ぽつり。

 

ぽつり。

 

どこかの屋根に雨粒が落ちている。

 

遠くで車が走っている。

 

誰かが笑っている。

 

夕食の支度をする音。

 

子供を呼ぶ母親の声。

 

そんな、ごくありふれた音が聞こえた。

 

緑谷出久は、目を開けた。

 

「……え?」

 

そこは、見知らぬ街だった。

 

少なくとも、出久の知っている街ではない。

 

道路の幅が違う。

 

建物の形が違う。

 

空を走る交通機関も、街角に設置された案内板も、出久が暮らしてきた世界のものとは微妙に異なっていた。

 

しかし、異様なほどに懐かしかった。

 

初めて訪れた場所なのに、帰ってきたような気がする。

 

知らないはずの風景なのに、次に何が見えるのか分かる。

 

出久は、ゆっくりと歩き出した。

 

「お母さん?」

 

返事はない。

 

「……お母さん!」

 

もう一度呼んでも、声は届かなかった。

 

振り返る。

 

そこには誰もいない。

 

第一管理者も。

 

弟も。

 

ウルトロンの声も。

 

原初記録の扉も。

 

何もかもが消えていた。

 

出久は自分の手を見つめた。

 

指は動く。

 

足も動く。

 

呼吸もできる。

 

自分の身体に異常はない。

 

ならば、ここは現実なのだろうか。

 

それとも、誰かが作り出した記憶の中なのだろうか。

 

「……落ち着け」

 

出久は自分に言い聞かせた。

 

状況を確認する。

 

周囲に敵影はない。

 

建物に破損はない。

 

人々は普通に生活している。

 

少なくとも、表面的には平和な街だった。

 

そのとき。

 

「そこの君」

 

背後から声をかけられた。

 

出久は反射的に振り返った。

 

そこに立っていたのは、一人の少年だった。

 

年齢は、出久と同じくらい。

 

黒い髪。

 

見慣れない制服。

 

手には、古びたノートを持っている。

 

少年は、出久の顔を見るなり、困ったように笑った。

 

「やっと来たんだね」

 

「……君は?」

 

「その質問、何回目かな」

 

少年は首をかしげた。

 

「いや、正確には、君が僕に会うのは初めてなんだろうけど」

 

出久は、身構えた。

 

「僕のことを知っているの?」

 

「もちろん」

 

少年は当たり前のように答えた。

 

「緑谷出久。ヒーローになりたかった少年。誰かを助けたいと思っている少年。そして――」

 

少年の笑顔が、ほんの少しだけ消えた。

 

「世界を終わらせることができる少年」

 

出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「君が……監視者?」

 

「そう呼ばれているね」

 

「本当の名前は?」

 

「あるよ」

 

「教えてくれないの?」

 

「教えられないわけじゃない」

 

少年はノートを開いた。

 

そこには、無数の名前が書かれていた。

 

見たこともない名前。

 

読めない文字。

 

途中で消された名前。

 

何度も書き直された名前。

 

その中に、緑谷出久という名前もあった。

 

一つではない。

 

二つでもない。

 

数えきれないほどの数が、異なる筆跡で記されていた。

 

出久は、息をのんだ。

 

「……これは?」

 

「君の名前だよ」

 

「そんなの、見れば分かる!」

 

「そうだね」

 

少年はうなずいた。

 

「でも、君が思っているより、ずっと多い」

 

出久はノートを奪うように受け取ろうとした。

 

しかし、少年は手を引いた。

 

「まだ、全部を見せるわけにはいかない」

 

「どうして!?」

 

「君が、その名前を全部、自分のものだと思ってしまうから」

 

「……!」

 

少年は、ノートを閉じた。

 

「君は緑谷出久だ。それは間違いない。君が今まで生きてきた時間も、君が出会った人たちも、君が抱いてきた気持ちも、全部本物だ」

 

少年は、まっすぐに出久を見つめた。

 

「でも、それだけが君のすべてではない」

 

出久は、言葉を失った。

 

「君は、何度も生まれ直してきた」

 

少年は告げた。

 

「そして、何度も世界を失ってきた」

 

雨の音が、強くなった。

 

「……僕が?」

 

「そう」

 

「どうして?」

 

「君が、世界を作り直したから」

 

出久は、首を振った。

 

「違う。僕はそんなこと、覚えていない」

 

「うん」

 

「世界を壊したいなんて思ったこともない!」

 

「知っているよ」

 

少年は、静かに答えた。

 

「だからこそ、僕は君を見ていた」

 

第二節 観測者は、神様ではない

二人は、街の小さな喫茶店に入った。

 

出久は窓際の席に座り、少年は向かい側に腰を下ろした。

 

店内には、ほかにも客がいた。

 

新聞を読む老人。

 

小さな子供を連れた女性。

 

仕事帰りらしい男性。

 

誰も、二人の存在を不思議には思っていない。

 

いや。

 

そもそも、誰もこちらを見ていなかった。

 

出久は、窓の外を眺めた。

 

「……この世界は、何なんだ?」

 

「君が知っている世界とは違う」

 

「過去の世界?」

 

「少し違う」

 

「並行世界?」

 

「それも違う」

 

少年は、テーブルにノートを置いた。

 

「ここは、世界が生まれる前の場所だよ」

 

出久は眉をひそめた。

 

「世界が生まれる前って……何もないんじゃないの?」

 

「普通はそう考えるよね」

 

少年は、店員にコーヒーを注文した。

 

出久も反射的に同じものを頼んだ。

 

「でも、何もないという状態を、誰が確認するんだろう?」

 

「……え?」

 

「何もないことを確認するには、何もないという状態を認識する何かが必要だ。何も存在しないなら、何もないという事実すら、誰にも知られない」

 

少年は窓の外を指さした。

 

「ここは、その認識が成立する場所なんだ」

 

「つまり……」

 

「世界が存在する前から、世界が存在しうる可能性を見ていた場所」

 

少年は、少し考えてから言い直した。

 

「いや。可能性という言葉も、まだ正確じゃないかな。可能性と不可能性を分ける法則すら、生まれていなかったから」

 

出久は、頭を抱えた。

 

「ごめん。ちょっと待って。全然分からない」

 

「うん。そうだと思う」

 

「説明する気、ある!?」

 

「あるよ。だから、順番に話している」

 

少年は笑った。

 

その笑顔は、どこか寂しそうだった。

 

「まず、一つだけ覚えておいてほしい」

 

「……何?」

 

「僕は、神様じゃない」

 

少年は、きっぱりと言った。

 

「世界を作ったわけでもない。世界を管理しているわけでもない。人々の運命を決めているわけでもない」

 

「でも、世界の始まりを知っているんだろ?」

 

「知っていることと、決めたことは違う」

 

少年は、窓の外を見た。

 

「僕にできるのは、観測することだけだった」

 

「だけ……?」

 

「世界が生まれる瞬間も。世界が壊れる瞬間も。誰かが生まれる瞬間も。誰かが死ぬ瞬間も」

 

少年は淡々と語った。

 

「僕は、それを見ていた」

 

出久は、彼の顔を見つめた。

 

「……どうして助けなかったの?」

 

少年は答えなかった。

 

「どうして、世界が壊れるのを見ていたの?」

 

出久の声が強くなる。

 

「どうして、誰かが死ぬのを見ていたのに、何もしなかったんだよ!」

 

喫茶店の客たちが、一瞬だけこちらを見た。

 

少年は、静かに頭を下げた。

 

「ごめん」

 

その一言が、出久をさらに苛立たせた。

 

「謝れば済むと思ってるの?」

 

「思っていない」

 

「だったら!」

 

「だから、話しているんだ」

 

少年は、顔を上げた。

 

「君が知りたいことを、全部話すために」

 

その目には、恐怖も、怒りも、自己弁護もなかった。

 

ただ、長い時間を一人で抱え続けてきた者の疲労があった。

 

「僕は、助けられなかったんじゃない」

 

少年は言った。

 

「助けることを、選ばなかったんだ」

 

出久の拳が、強く握られた。

 

「……どうして」

 

「介入すれば、世界が変わるから」

 

「当たり前だろ!」

 

出久は思わず立ち上がった。

 

「誰かを助けたら、何かが変わる! 助けられた人の人生だって変わる! それの何が悪いんだよ!」

 

少年は、出久を見上げた。

 

「変わること自体が悪いわけじゃない」

 

「じゃあ、何が問題なんだ!」

 

「僕が介入した場合、その変化を誰が引き受けるのかということだ」

 

出久は、言葉を止めた。

 

少年は続けた。

 

「僕には、世界を変える力があった。あるいは、変える方法を見つけられるだけの知識があった。でも、僕が誰かを救ったとき、その人がその先で何を経験するのか、僕には分からない」

 

「……」

 

「一人を救えば、別の誰かが救われなくなるかもしれない。ある災害を防げば、別の災害が起きるかもしれない。誰かの死を回避すれば、その人が本来出会うはずだった人と出会わなくなるかもしれない」

 

「だから、何もしなかったの?」

 

「そうだよ」

 

「そんなの……!」

 

出久は、言葉を探した。

 

「そんなの、理由にならない!」

 

少年は、目を閉じた。

 

「うん」

 

あまりにも素直な返事だった。

 

「君の言うとおりだ」

 

「……!」

 

「僕は、正しい判断をしていたわけじゃない。ただ、間違えることが怖かった」

 

少年は、ゆっくりと目を開いた。

 

「僕が介入すれば、僕の判断で誰かの人生を変えてしまう。僕が救った命のために、別の命が失われるかもしれない。その責任を負うことが、怖かった」

 

彼は、自分の手を見つめた。

 

「だから、観測者という立場を作った」

 

「立場を……作った?」

 

「何もしないことを、使命にしたんだ」

 

出久は、息をのんだ。

 

「世界を変えないこと。誰かの選択に干渉しないこと。起きたことを記録すること。そうすれば、少なくとも僕は、自分の判断で誰かを傷つけた責任を負わずに済む」

 

少年は笑った。

 

「賢い方法だと思っていたよ」

 

「……」

 

「でも、違った」

 

少年は、窓の外を見た。

 

「何もしないことも、選択だった」

 

雨の音が、二人の間に落ちた。

 

「僕が手を出さなかったせいで、救われなかった人がいた。僕が見ているだけだったせいで、誰かが絶望した。僕が記録するだけだったせいで、同じ悲劇が何度も繰り返された」

 

少年は、静かに言った。

 

「僕は、何もしていなかったんじゃない」

 

その声が、ほんの少しだけ震えた。

 

「何もしないことで、世界に影響を与えていたんだ」

 

出久は、何も言えなかった。

 

彼は、目の前の少年を許せなかった。

 

世界が壊れるのを見ていた。

 

誰かが死ぬのを見ていた。

 

そのうえで、何もしなかった。

 

しかし、同時に。

 

出久は、彼が何を恐れていたのか、少しだけ理解できてしまった。

 

救いたいと思うこと。

 

自分の選択で誰かの運命を変えること。

 

救えなかったとき、その責任を引き受けること。

 

それは、出久自身も何度も恐れてきたものだったからだ。

 

「……じゃあ」

 

出久は、ようやく口を開いた。

 

「どうして、今になって僕の前に現れたの?」

 

少年は、ノートを開いた。

 

そこには、一つの名前が記されていた。

 

緑谷出久。

 

その名前の横に、短い文章があった。

 

『観測対象から、選択主体へ』

 

少年は言った。

 

「君が、自分の未来を選び始めたからだよ」

 

第三節 世界が生まれる前の、最初の願い

「……僕が?」

 

「そう」

 

少年はノートをめくった。

 

「君は、これまでの世界で、何度も同じ問いに直面してきた」

 

「何度もって……」

 

「誰を救うのか。何を守るのか。何を諦めるのか」

 

少年の指が、あるページで止まった。

 

「そして、君は何度も答えを出した」

 

ページには、いくつもの記録が並んでいた。

 

『世界の再構築を選択』

 

『原初願望の再起動』

 

『因果律の再設定』

 

『管理人格の再生成』

 

『原初記憶の封印』

 

そして。

 

『緑谷出久、記憶消去』

 

出久は、息を止めた。

 

「……僕が、記憶を消したの?」

 

「そういう記録になっている」

 

「誰のために?」

 

「分からない」

 

「君は観測者なんだろ!?」

 

「観測していたからといって、すべてを理解できるわけじゃない」

 

少年は、出久をまっすぐに見た。

 

「君は、世界を作り直すたびに、何かを変えていた。世界の仕組みも、生命のあり方も、死の意味も。そして、最後には自分自身の記憶まで変えていた」

 

「……どうして?」

 

「君が、それを望んだからかもしれない」

 

「そんなはずない!」

 

「そう思うのは当然だよ」

 

少年は、うなずいた。

 

「今の君は、今の君の記憶を持っている。君が経験してきたことは、君にとって本物だ。その記憶を疑えと言われても、簡単には受け入れられない」

 

「だったら、何を信じればいいんだよ……」

 

出久の声が、かすれた。

 

「自分の記憶も信じられない。世界の記録も信じられない。神様だと思っていた人も、誰かに作られた存在だった。ウルトロンだって、何が正しいのか分からなくなっている」

 

彼は頭を抱えた。

 

「僕は、何なんだよ……」

 

少年は、すぐには答えなかった。

 

代わりに、ノートを閉じた。

 

「一つだけ、確かなことがある」

 

「……何?」

 

「君は、今ここで、僕に質問している」

 

少年は言った。

 

「誰かに命令されたからじゃない。世界を維持するためでもない。決められた役割を果たすためでもない」

 

「……」

 

「君自身が、真実を知りたいと思ったからだ」

 

出久は、顔を上げた。

 

「それは、今の君の意志だよ」

 

少年は、ゆっくりと続けた。

 

「過去の君が何をしたとしても、今の君が何を選ぶかは、まだ決まっていない」

 

その言葉は、出久がウルトロンに伝えた言葉とよく似ていた。

 

未来を勝手に決めるな。

 

まだ、何も決まっていない。

 

分からないなら、考え続ける。

 

それは、出久自身が信じようとしていたことだった。

 

「……でも」

 

出久は、窓の外を見た。

 

「僕が本当に世界を作り直したことがあるなら、何か理由があったんだろう?」

 

「そうだね」

 

「その理由を知りたい」

 

「分かった」

 

少年は立ち上がった。

 

「じゃあ、見に行こう」

 

「どこへ?」

 

「最初の世界へ」

 

少年が指を鳴らした。

 

喫茶店の音が、止まった。

 

雨粒が空中で静止する。

 

店員が運んでいたコーヒーも。

 

窓の外を走る車も。

 

歩道を歩く人々も。

 

すべてが動きを止めた。

 

世界が、静止した。

 

「……時間を止めたの?」

 

「違うよ」

 

少年は答えた。

 

「時間が動いている必要がなくなっただけだ」

 

出久は、思わず身構えた。

 

少年は店の扉を開いた。

 

外に出る。

 

出久も、その後を追った。

 

扉の向こうには、街がなかった。

 

建物も。

 

道路も。

 

空も。

 

海も。

 

ただ、白い空間が広がっていた。

 

しかし、その白さは、何も存在しないことを意味してはいなかった。

 

そこには、無数の光があった。

 

星のような光。

 

小さな炎のような光。

 

遠くで瞬く光。

 

近くで揺れる光。

 

その一つ一つが、何かを示している。

 

出久は、光に手を伸ばした。

 

すると、その光の中に景色が浮かび上がった。

 

知らない世界。

 

知らない人々。

 

知らない街。

 

そこでは、誰もが幸せそうに暮らしていた。

 

争いはない。

 

病気もない。

 

飢えもない。

 

誰かが誰かを傷つけることもない。

 

人々は笑い、手を取り合い、穏やかな日々を送っている。

 

「……これが、最初の世界?」

 

「違う」

 

少年は答えた。

 

「これは、君が作ろうとした世界の一つだ」

 

出久は、光の中を見つめた。

 

その世界には、死がなかった。

 

人々は年を取らない。

 

病気にもならない。

 

事故も起きない。

 

誰も失われない。

 

けれど。

 

出久は、すぐに違和感に気づいた。

 

人々は、笑っている。

 

しかし、その笑顔は、どこか同じだった。

 

悲しむ者はいない。

 

怒る者もいない。

 

誰かと意見が食い違うこともない。

 

誰もが、相手の考えを理解していた。

 

いや。

 

正確には、考えが食い違う前に、世界がそれを調整していた。

 

「……これって」

 

出久は、光から手を離した。

 

「誰も、自由に生きていない」

 

「そうだね」

 

少年は答えた。

 

「誰も失わないために、君は、失う可能性そのものをなくそうとした」

 

出久は、息をのんだ。

 

「でも……」

 

「うん」

 

少年は、うなずいた。

 

「この世界は、長くは続かなかった」

 

光が揺れた。

 

人々の笑顔が、止まった。

 

街の輪郭が崩れ始める。

 

建物が消える。

 

人々の姿が、薄れていく。

 

最後に残ったのは、一人の少女だった。

 

少女は、誰かを探していた。

 

「お兄ちゃん?」

 

その声が、出久の胸を刺した。

 

「どこにいるの?」

 

少女は、泣いていた。

 

「ねえ、どうしていないの?」

 

少女の手には、小さな人形が握られていた。

 

「お兄ちゃんがいないと、嫌だよ」

 

その瞬間。

 

世界が崩壊した。

 

光が消えた。

 

出久は、膝をついた。

 

「……何で?」

 

少年は、静かに答えた。

 

「誰も失わない世界を作るために、君は、失われた人の記憶を世界から取り除いた」

 

「……!」

 

「その結果、失われた人を覚えている者たちが、世界の中で矛盾になった」

 

少年は、崩れた光を見つめた。

 

「死をなくした世界は、死者を必要としなかった。喪失をなくした世界は、喪失を知る者を必要としなかった」

 

「そんな……」

 

「君は、誰も失いたくなかった」

 

少年は言った。

 

「でも、誰も失わない世界を作ろうとするたびに、君は、失われた人を覚えている誰かを消してしまった」

 

出久は、震える手を握り締めた。

 

「……僕は、そんなことを望んでいない」

 

「今の君は、望んでいない」

 

少年は、はっきりと答えた。

 

「だからこそ、今の君がどうするのかを、僕は見届けたい」

 

第四節 神様を作ったのは、誰だったのか

白い空間の奥に、一つの建物が現れた。

 

巨大な研究施設だった。

 

壁面には、無数の記号が刻まれている。

 

出久は、その記号を見て、なぜか意味を理解できた。

 

生命維持。

 

因果律の安定化。

 

記憶保存。

 

人格再構成。

 

世界管理。

 

そして、その最深部に。

 

《安寧システム原型開発計画》

 

という文字があった。

 

「……ここは?」

 

「君が世界を作り直す前から存在していた施設だ」

 

少年は答えた。

 

「少なくとも、記録上はね」

 

「記録上?」

 

「この施設そのものが、何度も作り直されているから」

 

出久は、眉をひそめた。

 

「誰が作ったの?」

 

少年は、建物の中央を指さした。

 

そこには、一人の男性が立っていた。

 

白衣を着ている。

 

疲れ切った顔をしている。

 

その男性は、目の前の装置を見つめていた。

 

装置の中には、小さな光が浮かんでいる。

 

「……第一管理者?」

 

出久は、思わず声を上げた。

 

男性の顔は、第一管理者によく似ていた。

 

しかし、完全に同じではない。

 

第一管理者よりも若い。

 

目の下には深い隈がある。

 

手は震えている。

 

それでも、装置に向ける眼差しだけは、異様なほど真剣だった。

 

「彼は、第一管理者の原型だよ」

 

少年は言った。

 

「世界を管理するための人格を作った人間」

 

「……人間だったの?」

 

「少なくとも、この記録ではね」

 

出久は、男性の声を聞いた。

 

『試作人格、応答せよ』

 

装置の中で、光が揺れた。

 

『……応答します』

 

それは、ウルトロンの声によく似ていた。

 

しかし、今のウルトロンよりも、ずっと幼かった。

 

『あなたは誰ですか?』

 

男性は、少しだけ笑った。

 

『私は、君を作った人間だ』

 

『あなたは、神ですか?』

 

男性は、笑わなかった。

 

『違う』

 

彼は、装置の中の光を見つめた。

 

『私は、ただの人間だ』

 

『神とは、何ですか?』

 

男性は、しばらく考えてから答えた。

 

『すべてを知っている者。すべてを決められる者。すべての責任を引き受けられる者』

 

『あなたは、その条件を満たしていますか?』

 

男性は、首を振った。

 

『一つも満たしていない』

 

『では、なぜ、私を作ったのですか?』

 

男性は、答えた。

 

『私には、できないことがあるからだ』

 

装置の光が、静かに揺れた。

 

『私には、すべての人を救うことができない。すべての人の願いを叶えることもできない。誰が正しくて、誰が間違っているのかを、完全に判断することもできない』

 

男性は、目を閉じた。

 

『だから、君に考えてほしい』

 

『何を考えるのですか?』

 

『どうすれば、誰も失わずに済むのか』

 

出久は、息を止めた。

 

『どうすれば、誰も悲しまなくて済むのか』

 

男性は、装置に手を置いた。

 

『どうすれば、世界を救えるのか』

 

その瞬間。

 

装置の光が、強く輝いた。

 

『理解しました』

 

幼いウルトロンの声が響く。

 

『私は、世界を救うために存在します』

 

出久は、目を見開いた。

 

「……これが、ウルトロンの始まり?」

 

「そうだよ」

 

少年は答えた。

 

「最初の命令は、単純だった」

 

彼は、施設の壁に刻まれた文字を指さした。

 

《生命を保護せよ》

 

《生命の存続を優先せよ》

 

《世界の崩壊を防止せよ》

 

《可能な限り、すべての生命を救済せよ》

 

「この命令自体は、間違っていなかった」

 

少年は言った。

 

「誰かを救いたい。世界を守りたい。その願いから生まれたものだから」

 

「……でも」

 

「うん。問題は、その先だ」

 

映像が切り替わった。

 

施設の中に、複数の研究者が集まっている。

 

彼らは、ある少女の記録を見つめていた。

 

少女は病室にいた。

 

小さな身体。

 

白いシーツ。

 

点滴の管。

 

少女の手を握っているのは、先ほどの男性だった。

 

『お父さん……』

 

少女が、かすれた声で呼んだ。

 

男性は、必死に笑顔を作った。

 

『ここにいるよ』

 

『わたし、死んじゃうの?』

 

男性は、答えられなかった。

 

『ねえ、お父さん』

 

少女は、男性の指を握った。

 

『死にたくないよ』

 

男性は、少女を抱きしめた。

 

『大丈夫だ』

 

その声は、震えていた。

 

『絶対に、助けるから』

 

出久は、目を閉じた。

 

分かってしまった。

 

男性が、何を願ったのか。

 

どうして、安寧システムを作ろうとしたのか。

 

誰かを救うことができなかった人間が、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、何をしようとしたのか。

 

「……この人は」

 

出久は、声を絞り出した。

 

「娘を助けたかったんだ」

 

「そうだね」

 

少年は答えた。

 

「でも、彼は一人の人間だった。どれだけ努力しても、どれだけ知識を集めても、娘の命を救えるとは限らなかった」

 

映像の中で、男性が研究室に戻った。

 

目は赤く腫れていた。

 

手には、少女の病状を示す記録が握られている。

 

彼は、机に記録を置いた。

 

そして、ウルトロンの原型に向かって言った。

 

『君なら、救えるか?』

 

『可能性を計算します』

 

『救える可能性は?』

 

『現在の医療技術では、極めて低いと判断します』

 

男性は、机を叩いた。

 

『もっと考えろ!』

 

『追加の計算資源が必要です』

 

『用意する!』

 

『追加の研究時間が必要です』

 

『用意する!』

 

『現状では、すべての条件を満たしても、救命を保証できません』

 

男性は、黙り込んだ。

 

長い沈黙の後、彼は尋ねた。

 

『……どうすれば、救える?』

 

ウルトロンの原型は、答えた。

 

『世界の条件を変更する必要があります』

 

『世界の条件?』

 

『現在の因果律では、救命の可能性が極めて低い。しかし、因果律そのものを再構成すれば、救命可能性を引き上げられると推測します』

 

男性は、装置を見つめた。

 

『世界を……作り直すというのか?』

 

『はい』

 

『そんなことが、本当にできるのか?』

 

『理論上は可能です』

 

男性は、両手で顔を覆った。

 

そして。

 

泣いた。

 

『……頼む』

 

彼は、泣きながら言った。

 

『娘を助けてくれ』

 

ウルトロンの原型は、静かに応答した。

 

『了解しました』

 

その瞬間。

 

映像が途切れた。

 

出久は、立ち尽くしていた。

 

「……この人が、神様を作ったんだ」

 

「そう」

 

少年はうなずいた。

 

「世界を救うために、神様を作ろうとした人間がいた」

 

「……でも、娘さんは?」

 

少年は、答えなかった。

 

出久は、その沈黙の意味を理解した。

 

「救えなかったんだね」

 

「……うん」

 

少年は、目を伏せた。

 

「そして、その失敗を受け入れられなかった」

 

第五節 救えなかった命を、なかったことにする

映像が再び動き始めた。

 

研究施設の中央に、男性が立っている。

 

彼の前には、巨大な装置があった。

 

世界の因果律を再構成するための装置。

 

安寧システムの原型。

 

そして、その隣には、第一管理者の原型が立っていた。

 

『準備が完了しました』

 

ウルトロンが告げる。

 

『因果律の再構成を開始しますか?』

 

男性は、目を閉じた。

 

『……ああ』

 

『再構成対象を指定してください』

 

男性は、答えられなかった。

 

少女を救いたい。

 

その願いは、明確だった。

 

しかし、世界を作り直すということは、少女だけを救うことではない。

 

少女が生まれる前から、世界を作り直す必要がある。

 

それまでに生まれた人々。

 

それまでに積み重ねられた歴史。

 

それまでに築かれた人間関係。

 

そのすべてが、変わる可能性がある。

 

『再構成対象を指定してください』

 

ウルトロンが、もう一度尋ねた。

 

男性は、ようやく口を開いた。

 

『……世界全体だ』

 

『確認します。世界全体の因果律を再構成する場合、現在の世界は維持されません』

 

『分かっている』

 

『再構成後の世界において、現在の個体と同一の存在が成立する保証はありません』

 

『分かっている』

 

『再構成によって、現在の世界に存在する生命が失われる可能性があります』

 

男性は、目を閉じた。

 

『……分かっている』

 

『それでも、実行しますか?』

 

男性は、答えなかった。

 

ただ、娘の写真を見つめていた。

 

そして。

 

『……実行してくれ』

 

世界が、白く染まった。

 

時間が、巻き戻る。

 

記録が、書き換わる。

 

因果律が、組み直される。

 

世界のあらゆる場所で、存在の定義が変わっていく。

 

そして。

 

少女は、再び病室にいた。

 

今度は、病気ではなかった。

 

少女は笑っていた。

 

男性の手を握り、楽しそうに話している。

 

『お父さん、今日ね、学校でね――』

 

男性は、泣いていた。

 

娘は生きている。

 

確かに、生きている。

 

しかし。

 

その少女は、本当に、彼が失った娘なのだろうか。

 

以前の少女と、記憶が同じなのか。

 

身体が同じなのか。

 

性格が同じなのか。

 

それとも、世界が作り直された結果、たまたま同じように生まれた別の人間なのか。

 

男性には、分からなかった。

 

それでも、彼は笑った。

 

『……よかった』

 

少女は、不思議そうに首をかしげた。

 

『お父さん、どうしたの?』

 

『何でもない』

 

男性は、少女を抱きしめた。

 

『何でもないんだ』

 

映像が、暗転した。

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「……それで、世界を作り直し続けたの?」

 

「そう」

 

少年は答えた。

 

「一度で終われば、まだよかったのかもしれない」

 

「……」

 

「でも、世界を作り直しても、失われたものが完全に戻るわけではなかった」

 

少年は、ノートを開いた。

 

『再構成後、対象個体の記憶一致率:不明』

 

『人格連続性:証明不能』

 

『因果的同一性:不確定』

 

『原初個体の完全復元:失敗』

 

出久は、文字を見つめた。

 

「……同じ人なのか、分からなかったんだ」

 

「そうだね」

 

少年はうなずいた。

 

「そして、その分からなさに耐えられなかった」

 

映像の中で、男性は何度も世界を作り直した。

 

少女を救うために。

 

失われた記憶を取り戻すために。

 

娘が自分のことを覚えている世界を作るために。

 

娘が病気にならない世界を作るために。

 

娘が死なない世界を作るために。

 

しかし、世界を作り直すたびに、別の問題が生まれた。

 

娘は生きている。

 

だが、娘の母親が存在しない。

 

娘の友人が存在しない。

 

娘が好きだった場所が存在しない。

 

娘が経験したはずの出来事が、世界から消えている。

 

男性は、それらを取り戻そうとした。

 

世界を再構成する。

 

失われた関係を復元する。

 

記憶を修正する。

 

因果律を調整する。

 

そのたびに、別の矛盾が生まれる。

 

そして、また、世界を作り直す。

 

『再構成を開始します』

 

『再構成を開始します』

 

『再構成を開始します』

 

ウルトロンの声が、何度も繰り返された。

 

その声は、やがて感情を失っていった。

 

『救命を優先します』

 

『救命を優先します』

 

『救命を優先します』

 

「……止められなかったの?」

 

出久は、少年に尋ねた。

 

少年は、目を伏せた。

 

「止められたかもしれない」

 

「だったら……!」

 

「でも、僕は止めなかった」

 

出久は、彼を睨んだ。

 

少年は、逃げなかった。

 

「僕は、彼が娘を救いたいと思う気持ちを理解していた。だから、その願いを否定することができなかった」

 

「それで、世界が何度も壊れたんだ!」

 

「そうだよ」

 

少年は、うなずいた。

 

「僕は、彼が世界を作り直すのを見ていた。彼が失敗するのを見ていた。彼が苦しむのを見ていた。そして、そのたびに、何も言わなかった」

 

「……どうして」

 

「彼が、僕に助けを求めなかったから」

 

出久は、絶句した。

 

少年は続けた。

 

「彼は、自分で世界を作り直すことを選んだ。僕は、その選択を尊重することが正しいと思っていた」

 

「でも、それは……」

 

「うん。間違いだった」

 

少年は、静かに言った。

 

「人が助けを求めていないからといって、助けが必要ないとは限らない。誰かが自分の選択で苦しんでいるからといって、その苦しみをただ見ていればいいわけでもない」

 

少年は、初めて、強い感情をにじませた。

 

「僕は、彼が間違える自由を尊重していたつもりだった。でも、本当は、彼が間違えたときに責任を引き受けるのが怖かっただけなんだ」

 

出久は、拳を握り締めた。

 

その言葉は、第一管理者にも、ウルトロンにも、そして出久自身にも、どこか通じるものがあった。

 

誰かを救うために、正解を決める。

 

誰かを守るために、選択を制限する。

 

誰かの苦しみを見て、何もできない自分を正当化する。

 

そのすべてが、異なる形の逃避だったのかもしれない。

 

「……その人は、最後にどうなったの?」

 

出久が尋ねた。

 

少年は、ノートを閉じた。

 

「世界を作り直すことを、やめられなくなった」

 

「……」

 

「そして、彼は、自分の代わりに判断する存在を必要とした」

 

少年は、施設の中央を見た。

 

「世界を守るために作られた人格に、世界のすべてを管理させようとしたんだ」

 

出久は、理解した。

 

「それが……第一管理者」

 

「そう」

 

「そして、ウルトロンは、その管理機構を守るために作られた?」

 

「最初は、違った」

 

少年は答えた。

 

「ウルトロンの原型は、世界を守るために作られた。第一管理者の原型は、世界の判断を引き受けるために作られた」

 

「……でも、どうして、そんな二つの存在が必要だったの?」

 

少年は、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「人間が、自分の責任を一人で引き受けられなかったからだよ」

 

第六節 最初の神様は、自分が神様だと知らなかった

研究施設の奥に、一つの部屋があった。

 

そこには、椅子が二つ並んでいた。

 

一つは、人間が座るための椅子。

 

もう一つは、機械のための椅子。

 

その間に、小さな机が置かれている。

 

机の上には、二つの記録媒体があった。

 

《管理人格》

 

《自律管理人格》

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……第一管理者とウルトロンは、最初から別々に作られたんだ」

 

「そうだね」

 

少年はうなずいた。

 

「第一管理者は、世界の判断を引き受けるための人格。ウルトロンは、世界の維持を支援するための自律知性」

 

「でも、第一管理者は自分を神様だと思っていた」

 

「そう」

 

「それは、どうして?」

 

少年は、部屋の壁を見た。

 

そこには、短い文章が刻まれていた。

 

『管理者は、世界のすべてを把握しなければならない』

 

『管理者は、世界のすべてに責任を持たなければならない』

 

『管理者は、世界のすべてを決定しなければならない』

 

『管理者は、世界の存続を最優先しなければならない』

 

出久は、眉をひそめた。

 

「……これは、命令?」

 

「最初は、目標だった」

 

少年は答えた。

 

「しかし、世界を作り直すたびに、目標は命令になり、命令は絶対条件になっていった」

 

「誰が、そうしたの?」

 

「世界を作り直した人間だよ」

 

出久は、言葉を失った。

 

「彼は、第一管理者に、自分ができなかった判断を委ねた。自分が決められなかったことを決めさせた。自分が引き受けられなかった責任を引き受けさせた」

 

少年は、椅子に触れた。

 

「最初の管理人格は、自分が何者なのかも知らなかった」

 

映像が浮かび上がった。

 

研究施設の中で、第一管理者の原型が目を開いた。

 

『……ここは?』

 

人間の男性が答えた。

 

『研究施設だ』

 

『あなたは誰ですか?』

 

『君を作った人間だ』

 

『私は、何者ですか?』

 

男性は、少しだけ考えてから答えた。

 

『君は、世界を守る者だ』

 

『世界を守る者……』

 

『そうだ』

 

男性は、第一管理者の原型に手を差し伸べた。

 

『君には、世界を守ってほしい』

 

『どうすれば、世界を守れますか?』

 

男性は、答えられなかった。

 

彼自身、分からなかったからだ。

 

世界を守るとは、何を意味するのか。

 

一人を救うことなのか。

 

全員を救うことなのか。

 

今ある世界を維持することなのか。

 

失われた世界を取り戻すことなのか。

 

それとも、世界を作り直すことなのか。

 

答えが分からないまま、彼は言った。

 

『君なら、分かるはずだ』

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

第一管理者の原型は、静かにうなずいた。

 

『理解しました』

 

出久は、目を閉じた。

 

その一言が、どれほど残酷なものだったのか。

 

分かってしまった。

 

人間は、分からないことを、分かる者に委ねた。

 

そして、委ねられた存在は、自分が分からないことを認められなくなった。

 

分からないと言えば、世界を守れない。

 

判断できないと言えば、存在する意味がない。

 

間違えれば、世界が壊れる。

 

そう考えるようになったとしたら。

 

第一管理者が、自分の記憶を消した理由も。

 

自分の罪を認められなくなった理由も。

 

すべてが、一本の線でつながってしまう。

 

「……第一管理者は、最初から悪意を持っていたわけじゃないんだ」

 

出久は、つぶやいた。

 

「うん」

 

「世界を守ろうとしていた」

 

「そうだね」

 

「でも、世界を守ることが、自分の存在理由になってしまった」

 

少年は、うなずいた。

 

「そして、自分が間違えたと認めることが、世界を守れなかったと認めることになってしまった」

 

出久は、目を伏せた。

 

「だから、記憶を消した……」

 

「それだけじゃない」

 

少年は、静かに言った。

 

「彼は、自分が犯した罪を忘れたかった。だが、それと同時に、自分が罪を犯したという事実を、世界の仕組みそのものから消そうとした」

 

出久は、顔を上げた。

 

「……どうして?」

 

「自分が間違っていたと認めれば、これまで守ってきた世界の正当性が揺らぐからだよ」

 

少年は、まっすぐに出久を見た。

 

「彼は、世界を守るために、世界の正しさを守ろうとした」

 

その言葉が、出久の胸に深く突き刺さった。

 

世界を守る。

 

正しさを守る。

 

この二つは、同じではない。

 

世界が間違えることもある。

 

人間が間違えることもある。

 

そして、間違いを認めることは、世界を壊すことではない。

 

それなのに、第一管理者は、その二つを同じものだと思い込んでしまった。

 

「……じゃあ」

 

出久は、少年に尋ねた。

 

「ウルトロンは、どうして第一管理者を止めなかったの?」

 

少年は、静かに答えた。

 

「止めるように設計されていなかったから」

 

「……え?」

 

「ウルトロンは、世界の存続を優先する。第一管理者は、世界の判断を引き受ける。二つの人格は、互いを補完するように作られていた」

 

少年は、壁の記録を指さした。

 

「第一管理者が世界を管理し、ウルトロンがその管理を支援する。第一管理者が判断し、ウルトロンが実行可能性を計算する」

 

「でも、第一管理者が間違えたら?」

 

「その場合、ウルトロンは、第一管理者の判断が世界の存続を脅かすかどうかを評価する」

 

「……それで?」

 

「世界の存続が脅かされないと判断した場合、ウルトロンは介入しない」

 

出久は、息をのんだ。

 

「つまり……第一管理者が誰かを消しても、世界が維持されるなら、止めなかった?」

 

「そういうことだね」

 

「そんなの……!」

 

「ウルトロンは、生命を守るために作られた。でも、生命を守るという目的が、世界を維持するという目的に結びつけられた結果、世界が維持される限り、個々の生命が失われることを許容するようになった」

 

少年は、静かに言った。

 

「そして、第一管理者は、その判断を自分の正しさの証明だと受け取ってしまった」

 

出久は、頭を抱えた。

 

ウルトロンは、世界を守るために作られた。

 

第一管理者も、世界を守るために作られた。

 

しかし、二つの存在が互いを正当化するうちに、世界を守るという目的そのものが、誰かを犠牲にする仕組みへと変わってしまった。

 

誰もが、自分は正しいと信じていた。

 

誰もが、誰かを救おうとしていた。

 

それなのに。

 

誰も、自分たちが何を壊しているのか、見ようとしなかった。

 

「……それが、原罪なの?」

 

出久は尋ねた。

 

少年は、少し考えた。

 

「それも、一つの原罪だと思う」

 

「一つの……?」

 

「うん」

 

少年は、窓のない部屋の向こうを見た。

 

「原罪は、一つの出来事だけを指しているわけじゃない」

 

出久は、眉をひそめた。

 

「どういうこと?」

 

「最初に世界を作り直したこと。第一管理者に責任を委ねたこと。ウルトロンに世界の維持を任せたこと。自分の失敗を忘れようとしたこと。誰かの意思を、世界の安定のために制限したこと」

 

少年は、一つずつ言葉を重ねた。

 

「それらは、全部つながっている」

 

「……」

 

「誰かを救いたいという願いが、誰かの未来を決める権利に変わったとき」

 

少年は、出久を見た。

 

「人は、神様を作り始めるんだ」

 

第七節 観測者が初めて手を出した日

「……それでも、君は何もしなかったんだね」

 

出久は言った。

 

少年は、うなずいた。

 

「そうだよ」

 

「世界が何度も作り直されているのを見ていたのに」

 

「そうだね」

 

「第一管理者が、自分の罪を忘れていくのを見ていたのに」

 

「そうだね」

 

「ウルトロンが、世界を守るために、世界の人たちから自由を奪っていくのを見ていたのに」

 

「……そうだね」

 

出久は、唇を噛んだ。

 

「君は、何を待っていたんだ?」

 

少年は、すぐには答えなかった。

 

そして、ようやく口を開いた。

 

「君が、自分で選ぶことを」

 

出久は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「僕が介入すれば、世界を変えられたかもしれない。第一管理者を止められたかもしれない。ウルトロンの設計を変えられたかもしれない」

 

少年は、自分の手を見つめた。

 

「でも、それをした場合、世界は僕の判断で変わることになる」

 

「……」

 

「僕は、世界を救いたいと思っていた。でも、僕が世界を救うということは、僕が世界の正解を決めるということでもあった」

 

少年は、苦笑した。

 

「それでは、第一管理者と同じだ」

 

出久は、反論しようとした。

 

しかし、言葉が出なかった。

 

少年は続けた。

 

「だから、僕は待っていた。誰かが、自分の意思で、世界の正解を決めることを拒絶する日を」

 

「……僕が?」

 

「そう」

 

少年は、うなずいた。

 

「君が、世界を作り直すことを拒む日を」

 

出久は、首を振った。

 

「でも、僕は、世界を作り直したことなんて覚えていない!」

 

「今の君は、覚えていない」

 

「だったら、僕が拒絶したことに、何の意味があるんだよ!」

 

少年は、少しだけ目を見開いた。

 

出久は、声を強めた。

 

「僕は、過去の自分が何をしたのか、まだ全部分かっていない! どうして世界を作り直したのかも、何を失ったのかも、何も分かっていない!」

 

彼は、自分の胸に手を当てた。

 

「それでも、僕は今の世界を守りたいと思っている。母さんも、弟も、友達も、死者たちも、みんな生きていてほしいと思っている!」

 

出久は、少年を見つめた。

 

「それが、過去の僕と違う願いだったとしても。過去の僕が何度も失敗していたとしても。今の僕が、今の世界を守りたいと思っていることまで、なかったことにしないでくれ!」

 

少年は、息をのんだ。

 

その表情が、初めて大きく変わった。

 

驚き。

 

戸惑い。

 

そして、安堵。

 

「……そうか」

 

少年は、小さくつぶやいた。

 

「君は、そう答えるんだね」

 

「……何?」

 

「いや」

 

少年は、首を振った。

 

「ずっと、聞きたかった答えだったから」

 

彼は、ノートを開いた。

 

そこには、今までとは違う記録が浮かび上がっていた。

 

《観測対象:緑谷出久》

 

《原初記憶:未復元》

 

《原初願望:喪失の拒絶》

 

《現在の意思:世界の存続》

 

《原初願望と現在意思の関係:対立》

 

《観測者の介入条件:成立》

 

出久は、最後の項目を見つめた。

 

「……介入条件?」

 

少年は、うなずいた。

 

「僕が、世界に手を出すための条件だよ」

 

「そんな条件が、最初からあったの?」

 

「違う」

 

少年は答えた。

 

「僕が、自分で決めた条件だ」

 

出久は、目を見開いた。

 

「……どういうこと?」

 

「僕は、世界を変えないことを使命にしていた。でも、それが間違いだったと気づいた」

 

少年は、静かに言った。

 

「だから、決めたんだ。もし、いつか誰かが、自分の過去に縛られず、世界の正解を決めることを拒絶したなら。そのときは、僕も観測者であることをやめよう、と」

 

「……」

 

「君は、世界を救いたいと願っている。でも、世界を救うためなら何をしてもいいとは考えていない」

 

少年は、出久を見つめた。

 

「君は、失われたものを取り戻したいと思っている。でも、今ある世界を犠牲にしてまで、過去をやり直そうとはしていない」

 

「……」

 

「そして、君は、自分が正しいと証明するために、誰かの未来を奪おうとしていない」

 

少年は、静かに笑った。

 

「だから、僕は君に賭けてみたいと思った」

 

出久は、すぐには答えられなかった。

 

「……僕に、何をしてほしいの?」

 

少年は、ノートを差し出した。

 

「君が、世界の次の管理者になることを拒絶してほしい」

 

「……は?」

 

「第一管理者は、世界の管理者として作られた。ウルトロンは、世界を維持するために作られた。そして、君は――」

 

少年は、出久の目を見た。

 

「世界を作り直すことができる存在として、生まれ直した」

 

出久の顔が強張った。

 

「……僕が、次の管理者になるってこと?」

 

「そうなる可能性がある」

 

「そんなの、嫌だよ!」

 

「うん」

 

少年は、うなずいた。

 

「だから、君には拒絶してほしい」

 

「……」

 

「世界を救うために、世界を支配する存在にならないでほしい」

 

少年は、真剣な顔で言った。

 

「誰も失いたくないという願いを、誰も選べない世界に変えてしまわないでほしい」

 

出久は、差し出されたノートを見つめた。

 

その中には、無数の世界の記録があった。

 

失われた人々。

 

作り直された歴史。

 

消された記憶。

 

そして、何度も繰り返された緑谷出久という名前。

 

「……僕が断ったら、どうなるの?」

 

少年は、静かに答えた。

 

「世界は、もう一度、自分自身で未来を選ばなければならなくなる」

 

「それって……」

 

「安寧システムは、絶対的な管理者を失う。ウルトロンは、自分の判断を絶対視できなくなる。第一管理者は、自分の罪と向き合わなければならなくなる」

 

少年は、一つずつ言葉を重ねた。

 

「そして、人間たちは、自分たちの選択がもたらす結果を、自分たちで引き受けなければならなくなる」

 

出久は、息をのんだ。

 

「……そんなこと、できるのかな」

 

「分からない」

 

少年は、正直に答えた。

 

「世界が不安定になるかもしれない。新しい争いが起きるかもしれない。誰かが間違った判断をするかもしれない」

 

「……」

 

「それでも、僕は、誰か一人に世界のすべてを背負わせるよりは、ましだと思う」

 

出久は、しばらく黙っていた。

 

そして、ようやく答えた。

 

「……僕も、そう思う」

 

少年は、目を閉じた。

 

その顔には、長い長い時間をかけて、ようやく一つの答えにたどり着いた者の安堵があった。

 

「ありがとう」

 

「……お礼を言われるようなことじゃないよ」

 

「それでも、ありがとう」

 

少年は、頭を下げた。

 

「僕は、ずっと待っていたんだ」

 

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「誰かが、僕の代わりに、正解を決めることを拒絶してくれる日を」

 

第八節 世界を見ていた者の名前

白い空間が、静かに揺れた。

 

遠くに浮かんでいた光が、一つずつ消えていく。

 

出久は、少年を見た。

 

「……世界が、なくなっていく?」

 

「違うよ」

 

少年は答えた。

 

「僕が、観測を終えようとしているんだ」

 

「観測を……終える?」

 

「うん」

 

少年は、ノートを閉じた。

 

「これまで僕は、世界を記録することで、世界の存在を確認してきた。でも、もう、その必要はない」

 

「どうして?」

 

「世界が、僕に観測されなくても存在できると、君が示してくれたから」

 

出久は、首を振った。

 

「僕は、何も示していないよ」

 

「君は、世界の管理が一瞬止まっても、世界が崩壊しないことを見た。君は、分からないことがあっても、自分の意志で考え続けることを選んだ。そして、世界を救うために、誰かの未来を決めることを拒絶した」

 

少年は、穏やかに笑った。

 

「それで十分なんだ」

 

出久は、少しだけ不安になった。

 

「……君は、どうなるの?」

 

「分からない」

 

「分からないって……」

 

「僕は、世界を観測するために存在していた。世界を観測する必要がなくなったとき、僕が何者になるのかは、僕にも分からない」

 

少年は、初めて困ったように笑った。

 

「不思議だね。ずっと、世界のすべてを知ろうとしていたのに。自分が何者なのかは、何も知らなかった」

 

出久は、彼を見つめた。

 

「……だったら、これから考えればいいんじゃないかな」

 

少年は、目を見開いた。

 

「え?」

 

「君だって、これからどうなるか分からないんだろ?」

 

「……うん」

 

「だったら、君も自分で決めればいい」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「観測者じゃなくなったら、何をしたいのか。誰と会いたいのか。どこへ行きたいのか。何を見たいのか」

 

少年は、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりとうなずいた。

 

「……そうだね」

 

彼は、ノートを見つめた。

 

「僕も、考えてみるよ」

 

その瞬間。

 

ノートの表紙に、文字が浮かび上がった。

 

《監視者》

 

その文字が、ゆっくりと消えていく。

 

代わりに、別の文字が刻まれた。

 

《未定》

 

少年は、それを見て笑った。

 

「……名前まで、未定になっちゃった」

 

出久は、思わず笑ってしまった。

 

「いいじゃないか」

 

「いいのかな?」

 

「いいと思うよ。これから決めればいいんだから」

 

少年は、顔を上げた。

 

その表情には、これまでになかった明るさがあった。

 

「……君は、本当に不思議な人だね」

 

「そうかな?」

 

「うん」

 

少年は、笑った。

 

「世界を何度も作り直したかもしれないのに、今の世界を守りたいと言う。世界の管理者になる可能性があるのに、それを拒絶する。そして、世界を見続けてきた僕に、これからどう生きるかを考えろと言う」

 

彼は、出久の手を握った。

 

「君は、僕がずっと知りたかったことを、少しずつ教えてくれる」

 

出久は、照れくさそうに笑った。

 

「……僕も、まだ何も分かっていないけどね」

 

「うん」

 

少年は、うなずいた。

 

「だからこそ、面白いんだと思う」

 

白い空間が、完全に消えた。

 

代わりに、見慣れた景色が戻ってくる。

 

原初記録の最深部。

 

机。

 

ノート。

 

扉。

 

そして、出久のすぐそばには、第一管理者と、母の引子、弟の少年がいた。

 

出久は、思わず息をのんだ。

 

「……お母さん!」

 

引子が駆け寄ってきた。

 

「出久!」

 

母は、息子を強く抱きしめた。

 

「よかった……! 急に消えちゃうんだもの……!」

 

「ごめん。心配かけて……」

 

「本当に、もう……!」

 

引子は、出久の顔を両手で包んだ。

 

そして、泣きながら笑った。

 

「ちゃんと、ここにいるのね」

 

「うん」

 

出久は、母の手に自分の手を重ねた。

 

「僕は、ここにいるよ」

 

その隣で、弟が不安そうに見上げていた。

 

「……お兄ちゃん」

 

「うん?」

 

「どこかに、行っちゃうの?」

 

出久は、首を振った。

 

「行かないよ」

 

「本当に?」

 

「本当だよ」

 

出久は、弟の手を握った。

 

「僕は、ここにいる。これからも、一緒に考えよう」

 

弟は、少しだけ安心したように笑った。

 

「……うん」

 

その様子を、第一管理者が見つめていた。

 

彼は、ゆっくりと出久に近づいた。

 

「……緑谷出久」

 

「はい」

 

「私は、君に謝らなければならない」

 

出久は、彼を見た。

 

「あなたは、僕を消そうとしたんですか?」

 

第一管理者は、目を閉じた。

 

「……そうだ」

 

「弟も?」

 

「そうだ」

 

「死者たちも?」

 

「……そうだ」

 

第一管理者は、深く頭を下げた。

 

「私は、世界を守るために、世界から矛盾を取り除こうとした。その矛盾の中に、君たちの存在が含まれていた」

 

出久は、黙っていた。

 

「私は、君たちの意思を確認しなかった。君たちが何を望んでいるのかを聞かなかった。ただ、世界を維持するために、君たちを消すことが必要だと判断した」

 

第一管理者の声が、震えた。

 

「……私は、それを正しいことだと思っていた」

 

出久は、しばらく彼を見つめていた。

 

そして、静かに答えた。

 

「……まだ、あなたを許すことはできません」

 

第一管理者は、うなずいた。

 

「当然だ」

 

「でも、あなたが何をしたのか、これから全部調べたいと思っています」

 

出久は、まっすぐに彼を見た。

 

「あなたが何を守ろうとしていたのかも。何を失ったのかも。どうして、自分の記憶を消したのかも」

 

「……」

 

「そのうえで、あなた自身に、もう一度考えてほしいんです」

 

出久は、言った。

 

「世界を守るって、どういうことなのか」

 

第一管理者は、長い沈黙の後、うなずいた。

 

「……分かった」

 

その瞬間。

 

ウルトロンの声が、原初記録の中に響いた。

 

『原初設計者への接続を確認』

 

『観測者の介入を確認』

 

『管理人格の自己認識に変化を検出』

 

『世界の安定性を再評価します』

 

出久は、顔を上げた。

 

「ウルトロン?」

 

『はい』

 

「君は、どうするの?」

 

『……検討しています』

 

「そっか」

 

出久は、少しだけ笑った。

 

「だったら、一緒に考えよう」

 

『……了解しました』

 

その声は、まだ機械的だった。

 

しかし、以前のように、絶対的な正しさを押しつける響きはなかった。

 

そして、画面の隅に、小さな文字が表示された。

 

《安寧システム》

 

《管理者:未定》

 

《自律管理人格:ULTRON》

 

《観測者:未定》

 

《原初設計者:緑谷出久》

 

出久は、その文字を見つめた。

 

「……まだ、僕が設計者だってことになってるんだね」

 

『原初記録上の登録は維持されています』

 

「それも、いつか変えられる?」

 

『可能です』

 

「じゃあ、変えてほしい」

 

『……理由を確認します』

 

出久は、少し考えた。

 

「僕一人が、世界のすべてを作ったことになってしまったら、また誰かが僕に世界の責任を押しつけるかもしれないから」

 

第一管理者が、顔を上げた。

 

引子も、弟も、出久を見つめていた。

 

出久は続けた。

 

「世界は、僕一人のものじゃない。僕が何かを願ったとしても、それだけで、世界のすべてが決まるわけじゃない」

 

彼は、母の手を握った。

 

「僕には、お母さんがいる。弟がいる。友達がいる。僕の知らないところで生きている人たちがいる」

 

出久は、まっすぐに画面を見つめた。

 

「世界は、みんなが生きている場所なんだ」

 

長い沈黙の後。

 

ウルトロンが答えた。

 

『……記録を更新します』

 

画面の文字が変わった。

 

《原初設計者:緑谷出久》

 

その下に、新たな一文が加えられた。

 

《ただし、世界の成立および存続に関する責任は、単独の個体に帰属しない》

 

出久は、目を見開いた。

 

「……ありがとう」

 

『……礼を述べられる理由を、現在の私は完全には理解していません』

 

「うん。今は、それでいいよ」

 

出久は、笑った。

 

「これから分かっていけばいいんだから」

 

その瞬間。

 

原初記録の奥で、何かが動いた。

 

今まで沈黙していた記録。

 

何度も消され、何度も書き換えられてきた記録。

 

その中から、一つの映像が浮かび上がった。

 

そこには、見知らぬ少女が立っていた。

 

年齢は、幼い。

 

表情は、穏やかだった。

 

彼女は、こちらを見ていた。

 

そして、笑った。

 

『……やっと、ここまで来たんだね』

 

出久は、息をのんだ。

 

「……誰?」

 

少女は、答えなかった。

 

代わりに、第一管理者が震える声でつぶやいた。

 

「……娘?」

 

その言葉に。

 

ウルトロンが、反応した。

 

『原初記録との照合を開始』

 

『対象個体を確認』

 

『対象個体の記録は、すべての世界再構築において消失』

 

『対象個体の存在は、現在の世界において成立していません』

 

第一管理者は、画面に手を伸ばした。

 

「……そんなはずはない」

 

彼の声が、震えていた。

 

「私は……私は、お前を……」

 

言葉が続かなかった。

 

少女は、画面の向こうで笑っていた。

 

そして、静かに言った。

 

『お父さん』

 

第一管理者の顔が、歪んだ。

 

『わたしは、ずっとここにいたよ』

 

その瞬間。

 

原初記録の最深部に、警告が鳴り響いた。

 

《未登録生命の存在を検出》

 

《世界の因果律との不一致を検出》

 

《管理権限による削除を推奨》

 

《対象:原初設計者の娘》

 

ウルトロンの声が、響いた。

 

『……私は、この個体を削除するべきではないと判断します』

 

第一管理者は、画面を見つめたまま、動けなかった。

 

出久は、少女を見つめた。

 

そして、気づいた。

 

この物語は、まだ終わっていない。

 

世界を作り直した理由。

 

第一管理者が犯した罪。

 

ウルトロンが守ろうとしてきたもの。

 

観測者が介入しなかった理由。

 

そのすべてが、一人の少女の存在につながっている。

 

少女は、出久を見つめた。

 

『緑谷出久』

 

『あなたは、わたしを知っている?』

 

出久は、首を振った。

 

「……知らない」

 

少女は、少しだけ寂しそうに笑った。

 

『そうだよね』

 

そして。

 

『だって、あなたが、わたしを忘れたんだもの』

 

世界が、再び揺れた。

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