僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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 第八話 死者は何を望む

 

 死者は、何を望むのだろう。

 生きていた頃と同じものだろうか。

失った家族に会いたい。

 叶わなかった夢を叶えたい。

 自分を殺した相手に復讐したい。

 もう一度、誰かに愛されたい。

 あるいは。

 死んだという事実そのものを、なかったことにしたいのだろうか。

 緑谷出久は、朝のニュース画面を見つめながら、そんなことを考えていた。

 画面の中では、昨日帰還した人々の映像が繰り返し流れている。

 亡くなった妻を抱きしめる老人。

 生まれる前に死んだ父親と対面する少女。

 十三年ぶりに息子の名前を呼び、泣き崩れる母親。

 どの映像にも、涙があった。

 喜びの涙。

 悲しみの涙。

 信じられないものを前にした人間が、どうすればいいのか分からず流す涙。

 そして、画面の隅には、昨日の雄英高校正門で起きた異常現象の映像が映っていた。

 盾を構えるクラスト。

 その背後から立ち上がる黒い霧。

 空に開いた、黒い円。

 映像は途中で乱れ、音声も途切れている。

 それでも、世界中の人々が見た。

 死者が帰ってきた。

 そして、帰ってきた死者の中には、何かがおかしい者がいる。

 奇跡は、必ずしも優しい顔をしていない。

『政府は本日、帰還者に関する緊急合同対策会議を開催する方針です。また、専門家の間では、帰還者の本人性をどのように確認するかについて――』

 緑谷は、リモコンでテレビを消した。

 静寂が戻る。

 窓の外から、車の走る音が聞こえた。

 世界は今日も動いている。

 死者が帰ってきても。

 空に何かが開いても。

 人間は朝になれば目を覚まし、食事をし、仕事へ向かう。

 それは、あまりにも当たり前で。

 だからこそ、緑谷には少し怖かった。

 昨日まで、死は取り消せないものだった。

 失ったものは戻らない。

 その事実を受け入れながら、人々は前へ進んできた。

 ところが今、世界はその前提を失いかけている。

 死者が戻ってくるのなら、死とは何なのか。

 死者が本人かどうか分からないのなら、人間とは何なのか。

 そして、死者を返す何かが存在するのなら。

 それは、なぜ今になって人類に手を差し伸べたのか。

 緑谷は、テーブルの上に置かれた自分の手を見た。

 かつて、そこには力があった。

 誰かを救うための力。

 何度も自分の身体を壊しながら、それでも前へ進むための力。

 今は、もうない。

 けれど、力を失ったあとも、救わなければならないものはなくならなかった。

 むしろ、増えたのかもしれない。

 自分一人で戦えないからこそ、仲間と考える。

 自分一人で救えないからこそ、誰かに手を伸ばす。

 そして今度は、死者にさえ手を伸ばそうとしている。

 それが正しいのかどうか。

 緑谷には、まだ分からなかった。

 ただ。

 昨日、クラストが盾を構えた姿が、頭から離れなかった。

 彼は、自分が本物なのかどうかさえ分からないまま、誰かを守ろうとした。

 自分が何者であるかという問いに答えるより先に。

 目の前の人間を守ることを選んだ。

 その行動は、少なくとも緑谷には、紛れもなくヒーローのものに見えた。

 だからこそ、知りたい。

 彼らは、なぜ帰ってきたのか。

 そして。

 帰ってきた彼らは、何を望んでいるのか。

     *

 午前七時四十分。

 雄英高校、臨時対策本部。

 会議室の壁一面に、帰還者に関する情報が表示されていた。

 氏名。

 死亡日時。

 死亡原因。

 帰還確認日時。

 記憶の状態。

 身体的異常。

 個性の再現状況。

 そして、危険度。

 項目は増え続けていた。

 帰還者の数が増えるたび、分類は見直される。

 昨日までは、協力的な帰還者、異常な帰還者、敵対的な帰還者という大まかな区分しかなかった。

 しかし、それだけでは不十分だった。

 協力的であっても、身体に異常が現れる者がいる。

 記憶が欠けていても、危険な行動を取らない者がいる。

 敵対的な行動を見せた者が、直後に正気を取り戻し、泣きながら助けを求める事例もあった。

 危険かどうかと、本人かどうか。

 この二つは、同じ基準では測れない。

「……厄介だな」

 相澤消太は、画面を見つめたまま呟いた。

「厄介どころではないでしょう」

 八百万百が、手元の資料をめくる。

「帰還者の中には、生前の遺伝情報と完全に一致する者もいます。一方で、死亡時の損傷が残っているにもかかわらず、生命活動が正常な者もいる。さらには、死亡記録と一致する身体的特徴を持ちながら、生前には存在しなかった能力を発現した事例まであります」

「つまり、身体の一致だけでは本人と断定できない」

 飯田天哉が言った。

「そういうことですわ」

「記憶はどうだ?」

 相澤が尋ねる。

 八百万は、資料を一枚差し出した。

「記憶についても、一貫性がありません。生前の記憶をほぼ完全に保持している者。死亡直前の記憶だけが欠けている者。特定の人物に関する記憶を失っている者。そして――」

 彼女は、一瞬だけ言葉を切った。

「生前には知り得なかった情報を、記憶として持っている者がいます」

 会議室の空気が変わった。

「……どういうことだ?」

 爆豪勝己が、壁にもたれたまま尋ねた。

「たとえば、死亡時には生まれていなかった人物の名前を知っていたり、死亡後に起きた出来事について、断片的な知識を持っていたりする事例です」

「未来を見たってことか?」

「現時点では、そう断定できません。死後の記憶なのか、外部から与えられた情報なのか、それとも別の要因なのか……」

「本人の記憶じゃないものが、本人の頭に入ってる可能性があるってことだろ」

 爆豪は舌打ちした。

「クソ面倒な話だな」

「その認識で間違いありません」

 八百万は否定しなかった。

 相澤は、別の資料に目を落とした。

 そこには、帰還者の一人が描いた絵が添付されていた。

 暗い空間。

 無数の光。

 その中心に、巨大な目のようなもの。

 絵の下には、本人の証言が記されている。

 ――死んでいた間、ずっと見られていた気がする。

 ――声は聞こえなかった。

 ――でも、こちらが何を考えているのか、全部知られている気がした。

 ――最後に、誰かが言った。

 ――「まだ早い」と。

 相澤は、目を細めた。

「……死後の世界を見た、ということか」

「その可能性はあります」

 八百万が答えた。

「ただし、本人が実際に死後の世界を経験したのか。それとも、帰還に際して何かを見せられたのか。その区別はできません」

「どちらにしても、死者が戻ってくる仕組みが分からない以上、断定はできない、か」

「はい」

 会議室の隅で、プレゼント・マイクが腕を組んだ。

 普段なら、こうした重苦しい空気を吹き飛ばすように軽口を叩く男だ。

 しかし、今日は違った。

「なあ、相澤」

「何だ」

「俺たちは、帰ってきた連中を調べてる。身体も、記憶も、能力も。そりゃ必要なことだって分かってる」

 マイクは、壁の資料を見た。

「でもさ。あいつらが本当に本人だったら、俺たちは何をしてることになる?」

 相澤は、答えなかった。

「死んだはずの仲間が戻ってきた。家族が戻ってきた。なのに、俺たちはそいつらに向かって、お前は本物なのかって聞かなきゃいけない」

 マイクの声が、少しだけ低くなる。

「……それって、あいつらが死んでたときより、残酷なんじゃねえのか」

 誰も、すぐには反論しなかった。

 八百万も、飯田も、爆豪も。

 それぞれが、何かを考えていた。

 帰還者が本物なら、疑われる苦しみがある。

 帰還者が偽物なら、愛する人を失った者たちが、偽物を本人だと思って抱きしめていることになる。

 どちらであっても、誰かが傷つく。

 そして、最も残酷なのは。

 今のところ、そのどちらなのかを確かめる方法がないことだった。

 会議室の扉が開いた。

 緑谷出久と麗日お茶子が入ってくる。

「遅くなりました」

「いや、ちょうどいい」

 相澤が言った。

「緑谷。昨日、クラストと接触したときのことを、もう一度詳しく聞かせろ」

「はい」

 緑谷は、昨日の出来事を説明した。

 クラストの様子。

 黒い霧の動き。

 声の変化。

 そして、彼が自分の意志で盾を構え、霧を押し返したこと。

「最後に、クラストさんは『俺はヒーローだ』と言いました」

 緑谷は、ゆっくりと話した。

「その直後、霧が一時的に弱まりました。僕たちが避難誘導を進めていたことも、関係していたと思います」

「本人の意志が、霧の動きに影響していた可能性があるわけか」

「はい。ただ、断定はできません」

 緑谷は、自分の言葉を慎重に選んだ。

「僕たちが声をかけたから反応したのか。周囲の状況が変わったからなのか。それとも、別の条件があったのか。まだ分かりません」

「だが、少なくとも」

 相澤が言った。

「お前たちが接触したことで、状況が悪化したわけではない」

「……はい」

「その点は記録しておく」

 相澤は、画面を切り替えた。

 そこに映し出されたのは、ミッドナイトの医療記録だった。

「もうひとつ、確認したいことがある」

 緑谷は、画面を見た。

「ミッドナイト先生……?」

「今朝、彼女の手首に一時的な黒い線が確認された」

 緑谷の顔から血の気が引いた。

「そんな……先生は大丈夫なんですか?」

「現時点では、身体に異常はない。ただし、本人は昨夜、何らかの声を聞いたと証言している」

「声……」

「内容は断片的だ。本人も、幻聴なのか、何らかの外部干渉なのか、判断できていない」

 相澤は、緑谷を見た。

「黒い霧は、帰還者の外側に現れるとは限らない。身体の内部、あるいは意識に直接干渉している可能性がある」

 緑谷は、唇を噛んだ。

 昨日、ミッドナイトに会ったとき。

 彼女は笑っていた。

 昔と同じ声で、彼の成長を喜んでくれた。

 自分が帰ってきてよかったのかと、不安そうに尋ねた。

 あのとき、彼女の手首に黒い線が現れていたことに、緑谷は気づかなかった。

 彼女自身も、気づいていなかった。

 もし、あの線が何かの兆候だったなら。

 自分は、何を見落としたのだろう。

「……先生に、会いに行ってきます」

「待て」

 相澤が止めた。

「今は検査中だ。許可なく接触するな」

「でも……」

「心配なのは分かる。だが、お前が焦っても状況は改善しない」

 相澤は、緑谷の目を見た。

「昨日、自分で言ったことを忘れるな。救うことと、勝手に動くことは違う」

 緑谷は、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと頷いた。

「……はい」

 そのとき、会議室の通信端末が鳴った。

 画面に、医療区画の担当者が映る。

『相澤先生。帰還者の一人が、面会を希望しています』

「誰だ」

『クラスト氏です』

 会議室の空気が、変わった。

『本人から、緑谷出久氏に話があると』

 緑谷は顔を上げた。

 相澤は、しばらく考えた。

 そして、短く答えた。

「分かった。俺も同席する」

 通信が切れる。

 緑谷は、拳を握った。

 クラストが、何を話そうとしているのか。

 自分が、彼に何を聞くべきなのか。

 まだ分からない。

 それでも。

 昨日、彼が盾を構えた理由を、知りたかった。

     *

 午前八時二十分。

 特別隔離室。

 クラストは、ベッドの上で上半身を起こしていた。

 身体には複数のセンサーが取り付けられ、腕には点滴がつながれている。

 首筋にあった黒い亀裂は、昨日よりも薄くなっていた。

 ただし、完全には消えていない。

 肌の下に、細い影のような線が残っている。

 緑谷が部屋に入ると、クラストは顔を向けた。

「……緑谷くん」

「クラストさん。具合はどうですか?」

「悪くない。少なくとも、昨日よりは」

 クラストは、少しだけ笑った。

「それにしても、申し訳ないな。帰ってきて早々、世話になってしまって」

「そんな、謝らないでください」

「いや。助けてもらったことには、礼を言わなければならない」

 クラストは、緑谷を見つめた。

「ありがとう」

 緑谷は、言葉に詰まった。

 昨日、黒い霧に侵されながらも、彼は人々を守ろうとしていた。

 そして今、彼は自分が助けられたことを、当然のように感謝している。

 それが、彼の生前の人格と一致するのか。

 緑谷には、まだ分からない。

 しかし、目の前の男は、確かに誰かの無事を喜んでいた。

「……クラストさん。ひとつ、聞いてもいいですか?」

「ああ。私に答えられることなら」

「昨日、黒い霧に襲われていたとき……あなたは、何と戦っていたんですか?」

 クラストは、黙った。

 しばらくして、彼は自分の手を見下ろした。

「……正直に言うと、よく分からない」

「分からない?」

「ああ。何かが、私の中にいた」

 クラストは、言葉を探すようにゆっくり話した。

「最初は、ただ暗かった。上下も、前後も分からない場所だった。自分が立っているのか、横になっているのかも分からない」

 彼は、目を閉じた。

「そこに、声が聞こえた」

「どんな声ですか?」

「私の声だった」

 緑谷が息を呑む。

「……あなた自身の?」

「ああ。少なくとも、私にはそう聞こえた」

 クラストは、苦笑した。

「もっとも、死者の声というものがどんなものなのか、私には分からない。あれが本当に自分の声だったのかも、今となっては確信が持てない」

 彼は、天井を見上げた。

「その声は、ずっと同じことを言っていた」

「何と?」

「――まだ守れる、と」

 緑谷は、黙って聞いた。

「――まだ間に合う、と」

 クラストの指が、シーツを握った。

「――だから、戻れ、と」

 その言葉に、緑谷は昨日の光景を思い出した。

 クラストが叫んでいた言葉。

 逃げろ。

 守る。

 俺はヒーローだ。

 すべてが、つながっているように思えた。

「……その声に従ったんですか?」

「分からない」

 クラストは首を振った。

「従ったのかもしれない。あるいは、声を聞いたからこそ、逆らおうとしたのかもしれない」

 彼は、ゆっくりと息を吐いた。

「ただ、暗闇の中で、ひとつだけ思い出したことがあった」

「何ですか?」

「盾を持っていたことだ」

 クラストの目に、遠い記憶が浮かんだ。

「私は、何のために戦っていたのか。誰を守ろうとしていたのか。最初は、何も思い出せなかった」

 彼は、緑谷を見た。

「だが、盾を握った瞬間、思い出したんだ」

 その声が、わずかに強くなる。

「誰かが、私の後ろにいた」

 緑谷は、息を止めた。

「顔は分からない。名前も分からない。何人いたのかも分からない。それでも、私は知っていた」

 クラストは、静かに言った。

「私が盾を下ろせば、彼らは死ぬ」

 沈黙。

「だから、私は盾を構えた」

 彼は、少しだけ笑った。

「それだけだ」

 緑谷は、何も言えなかった。

 クラストの話には、説明がない。

 死後の世界がどこにあったのか。

 なぜ戻ってきたのか。

 声の正体は何なのか。

 何ひとつ、明らかになっていない。

 それでも。

 彼が盾を構えた理由だけは、分かった気がした。

 誰かを守りたいと思ったからだ。

 それは、彼が生きていた頃の記憶に由来するのかもしれない。

 死の直前に抱いた感情が残っていたのかもしれない。

 あるいは、何かが彼の記憶を利用しているだけなのかもしれない。

 それでも、今の彼は、その理由を自分のものとして語っていた。

「……クラストさん」

 緑谷は、ゆっくりと尋ねた。

「あなたは、戻ってきたいと思っていたんですか?」

 クラストの表情が止まった。

 その問いは、彼自身も避けていたものだったのだろう。

 長い沈黙のあと、彼は答えた。

「……分からない」

 緑谷は、頷いた。

「死んだことを、覚えているんですか?」

「ああ」

「死ぬ前のことは?」

「断片的になら」

 クラストは、自分の手を見た。

「私は、死んだ。そこまでは分かっている。だが、死ぬ瞬間に何を考えていたのかは、はっきりしない」

「……」

「戻りたいと思ったのかもしれない。誰かを守りたいと思ったのかもしれない。あるいは、何も考えていなかったのかもしれない」

 彼は、目を伏せた。

「死ぬというのは、思っていたよりも……分からないことだらけだった」

 緑谷は、その言葉を胸に刻んだ。

 死者は、何を望むのか。

 その問いに、簡単な答えはない。

 帰ってきた本人でさえ、分からないのだから。

 クラストは、しばらく黙っていた。

 そして、今度は彼の方から尋ねた。

「緑谷くん」

「はい」

「君は……私が本物だと思うか?」

 緑谷の心臓が、強く打った。

 昨日から、何度も考えていた問いだった。

 彼が本物かどうか。

 彼が、かつてのクラストなのかどうか。

 緑谷は、すぐには答えなかった。

 簡単に「本物です」と言えば、彼は安心するかもしれない。

 しかし、それは無責任な断定になる。

 反対に、「分かりません」とだけ答えれば、彼を突き放すことになるかもしれない。

 どちらも、違う気がした。

「……僕には、まだ分かりません」

 クラストは、静かに頷いた。

「そうか」

「でも」

 緑谷は、続けた。

「あなたが昨日、誰かを守ろうとしたことは、見ました」

 クラストが顔を上げた。

「あなたは、何が起きているのか分からない状態で、それでも盾を構えた。自分の身体がどうなっているのかも分からないのに、逃げろって叫んでいた」

 緑谷は、まっすぐに彼を見た。

「その行動が、あなたのすべてを証明するとは思いません。でも、僕は、あれをなかったことにはしたくない」

 クラストは、黙っていた。

「だから、僕はあなたを調べます。何が起きているのか、何があなたの中にいるのか、どうすれば助けられるのか。ちゃんと知りたいです」

 緑谷は、深く息を吸った。

「でも、調べるからといって、あなたを最初から偽物だと決めつけたりはしません」

 クラストの目が揺れた。

「……そうか」

 彼は、顔を伏せた。

 しばらくして、その肩が小さく震え始めた。

 緑谷は、何も言わなかった。

 クラストは、泣いていた。

 声を上げず。

 顔を覆うこともせず。

 ただ、十三年間の空白を抱えたまま、静かに涙を流していた。

「……ありがとう」

 彼は、もう一度言った。

「君に、そう言ってもらえて……よかった」

 その瞬間。

 緑谷は、クラストの首筋にあった黒い亀裂が、わずかに薄くなったことに気づいた。

 気のせいかもしれない。

 光の加減かもしれない。

 だが、相澤もそれを見ていた。

 彼は何も言わず、記録端末に目を落とした。

 黒い亀裂の変化。

 感情の変化。

 会話の内容。

 それらを記録する。

 希望的な解釈をするつもりはない。

 しかし、見逃すつもりもなかった。

 クラストが落ち着いたあと、相澤は緑谷に目配せした。

「もう少し、話を聞かせてもらう」

「はい」

 緑谷は立ち上がりかけた。

 そのとき。

「……待ってくれ」

 クラストが、呼び止めた。

 緑谷は振り返った。

「どうしました?」

 クラストは、迷うように口を開いた。

「ひとつ、伝えておきたいことがある」

「何ですか?」

「私は、暗闇の中で……自分以外の誰かを見た」

 相澤の目が鋭くなる。

「誰だ?」

「分からない」

 クラストは首を振った。

「顔も、姿も、はっきりとは覚えていない。ただ……」

 彼は、言葉を探した。

「その人は、私に尋ねたんだ」

「何と?」

 クラストは、緑谷を見た。

「――お前は、何を守るために戻るのか、と」

 部屋の空気が、凍りついた。

「……戻る?」

 緑谷が尋ねる。

「はい」

 クラストは、ゆっくりと頷いた。

「そのとき、私は答えられなかった。何を守りたいのか。なぜ戻りたいのか。そもそも、戻ることを望んでいたのか」

 彼は、自分の手を握りしめた。

「ただ、その人は……最後に、こう言った」

 クラストの声が、かすれる。

「――お前が望まなくても、世界はお前を必要とするかもしれない」

 緑谷の背筋に、冷たいものが走った。

 それは、死神の言葉なのか。

 あるいは、別の存在の言葉なのか。

 クラストは、首を振った。

「……すまない。これ以上は、思い出せない」

「いえ」

 相澤が、静かに答えた。

「十分だ。重要な情報だ」

 彼は、端末に記録を残した。

 そして、緑谷を見た。

「緑谷。少し、外へ出るぞ」

「……はい」

 部屋を出る直前。

 緑谷は、もう一度クラストを振り返った。

 クラストは、目を閉じていた。

 眠っているのか。

 疲れ果てているのか。

 それは分からない。

 ただ、その顔には、わずかな安堵があった。

 誰かに話を聞いてもらえたこと。

 自分が何者なのか分からないという不安を、否定されなかったこと。

 それだけでも、彼にとっては意味があったのかもしれない。

 廊下に出ると、相澤が足を止めた。

「……どう思う?」

 緑谷は、すぐには答えなかった。

「僕には、まだ分かりません」

「そうか」

「でも、クラストさんは……本当に、何かと戦っているんだと思います」

 相澤は、黙って聞いていた。

「自分の中にいるものと。自分が誰なのか分からないことと。戻ってきた理由が分からないことと」

 緑谷は、手を握った。

「それに、彼は……自分が戻りたいと思っていたかどうかさえ、分からないんです」

「……」

「だから、僕たちが決めつけちゃいけないと思います。彼は戻りたかったはずだとか。死者はみんな生き返りたいはずだとか。そういうふうに」

 相澤は、少しだけ目を細めた。

「その通りだ」

 彼は、短く答えた。

「死者が望んでいることと、生者が望んでいることは、必ずしも同じじゃない」

 その言葉は、重かった。

 死者に帰ってきてほしいと願う生者。

 しかし、帰ってきた死者が、本当に戻りたかったとは限らない。

 死者が戻ることを望んでいたとしても、その先に待っている世界が、彼らの望んだ世界とは限らない。

 そして。

 もし、誰かが死者を選んで戻しているのなら。

 その選択基準は、いったい何なのか。

 なぜ、この人が戻ってきたのか。

 なぜ、あの人は戻ってこなかったのか。

 誰かが、その問いに答えなければならない。

 だが、その答えを持っているのは、人間ではないのかもしれなかった。

    *

 午前九時十五分。

 雄英高校、臨時医療区画。

 クラストとの面会を終えた緑谷たちは、別の帰還者の記録を確認することになった。

 その人物は、昨夜から雄英の保護下に置かれている。

 死亡時の年齢は十七歳。

 死亡から十三年。

 帰還時の外見年齢は、死亡当時とほぼ一致。

 記憶は不安定。

 個性は未確認。

 身体には、黒い亀裂が確認されている。

 そして、彼女は目を覚ますたびに、同じ言葉を口にしていた。

 ――お母さんに、会いたかっただけなのに。

「……彼女は、今もその状態なんですか?」

 緑谷が尋ねると、医療スタッフは頷いた。

「はい。意識はあります。ただし、質問への応答が安定しません。会話が成立することもありますが、突然、強い恐怖反応を示すことがあります」

「恐怖反応?」

「自分の身体が、自分のものではないと感じるそうです」

 緑谷は、足を止めた。

「……自分の身体が?」

「本人の証言では、手を動かそうとしても、別の誰かが先に動かすことがある。自分が話そうとしていない言葉が口から出ることもある、と」

 相澤の目が険しくなった。

「クラストと同じか」

「類似点はあります。ただし、彼女の場合は、外部から確認できる黒い霧が出現していません」

「本人の内側だけで起きている可能性があるわけだな」

「はい」

 医療スタッフが、隔離室の扉を開いた。

 白い部屋の中央に、少女が座っていた。

 ベッドの上で膝を抱え、両手を強く握りしめている。

 黒い髪。

 細い肩。

 まだ大人になりきっていない顔。

 彼女は、扉が開いても顔を上げなかった。

「……こんにちは」

 緑谷が、できるだけ穏やかな声で話しかけた。

「僕は緑谷出久です。少し、お話を聞かせてもらってもいいかな?」

 少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目は、ひどく疲れていた。

「……ヒーロー?」

「うん」

「私を……捕まえに来たの?」

「違うよ」

 緑谷は首を振った。

「君が困っていることを知りたいんだ。何か、つらいことがあるなら、教えてほしい」

 少女は、緑谷を見つめた。

 しばらくして、小さく笑った。

「……変なの」

「え?」

「だって、みんな同じことを聞くんだもの」

 少女は、自分の手を見下ろした。

「何があったのか。どこで死んだのか。どうして戻ってきたのか。自分のことを覚えているか。何か変なものが見えたか」

 指先が震える。

「でも、私が本当に聞いてほしいことは、誰も聞いてくれない」

 緑谷は、椅子を引いて、彼女から少し離れた場所に座った。

「……何を聞いてほしいの?」

 少女の顔が歪んだ。

「私、帰りたい」

 その声は、あまりにも小さかった。

「お母さんのところに、帰りたい」

 緑谷は、黙っていた。

「私が死んだとき、お母さんは一人だったの。お父さんは、私が小さい頃に死んじゃってたから」

 少女は、ゆっくりと話し始めた。

「だから、私が死んだら、お母さんは一人になるって分かってた。でも、どうしようもなかった。事故だったから」

 彼女の視線が、遠くへ向いた。

「最後に、お母さんに電話したの。帰りが遅くなるって。ご飯はいらないって」

 唇が震える。

「……それが、最後だった」

 緑谷は、息を呑んだ。

「お母さんは、私が死んだことを知らされて、泣いたと思う。何日も、何か月も。もしかしたら、何年も」

 少女は、自分の膝に額を押しつけた。

「私は、それを見ていない」

 声が震えた。

「私が死んだあと、お母さんがどうやって生きてきたのか。どんなふうに朝を迎えて、どんなふうにご飯を食べて、どんなふうに眠っていたのか」

 彼女は、顔を上げた。

「何も知らないの」

 その目に、涙が浮かんでいた。

「だから、帰りたかった」

 緑谷は、静かに頷いた。

「……うん」

「お母さんに会いたかった。謝りたかった。最後に、ちゃんとありがとうって言いたかった」

 少女は、両手で顔を覆った。

「それだけだったのに」

 彼女の肩が震え始めた。

「なのに、私の身体の中に、何かがいるの」

 空気が変わった。

「……最初は、夢だと思った。暗いところで、ずっと声が聞こえていた。私のことを知っているみたいな声だった」

 少女は、ゆっくりと顔を上げた。

「そいつは、私に言ったの」

 その瞳の奥に、恐怖が戻る。

「――お前は、帰りたいのか?」

 緑谷は、身を乗り出しかけて、踏みとどまった。

 少女の呼吸が速くなっていた。

「私は、うんって答えた。帰りたいって。お母さんに会いたいって」

「……うん」

「そしたら、そいつが言ったの」

 少女の唇が動く。

「――ならば、返してやろう」

 その瞬間。

 彼女の右手が、勝手に持ち上がった。

 少女自身が、悲鳴を上げた。

「いやっ!」

 手首に黒い線が浮かぶ。

 一本。

 二本。

 指先から腕へ。

 皮膚の下に、黒い亀裂が広がっていく。

「やめて! やめてよ!」

 少女は左手で右腕を押さえた。

 だが、右手は止まらない。

 ゆっくりと指が開き、緑谷の方へ伸びる。

 彼女の口が動いた。

「……お前は、帰りたいのだろう?」

 声が違った。

 先ほどまでの少女の声ではない。

 低くも、高くもない。

 ただ、感情がなかった。

「ならば、邪魔をするものを取り除けばいい」

「やめて!」

 少女が叫ぶ。

「私はそんなこと言ってない!」

 黒い線が、首筋へ伸びた。

 相澤が一歩前に出る。

「全員、距離を取れ!」

 医療スタッフが後退する。

 緑谷も、少女から一定の距離を保った。

 だが、彼は目を逸らさなかった。

「君の名前は?」

 少女の動きが止まった。

「……え?」

「君の名前を教えてほしい」

 少女は、苦しそうに顔を歪めた。

「……小野寺、真帆」

「真帆さん」

 緑谷は、彼女の名前を繰り返した。

「僕は、君のことを助けたい。でも、君の身体を無理に押さえつけたり、君の気持ちを無視したりしたくない」

 黒い線が、わずかに脈打つ。

「だから、教えてほしい。今、君は何をしたい?」

 真帆は、緑谷を見つめた。

「……お母さんに」

「うん」

「お母さんに、会いたい」

「分かった」

 緑谷は、頷いた。

「そのために、どうすればいいのか、一緒に考えよう」

 その瞬間。

 真帆の右手が、ぴたりと止まった。

 黒い線が、ほんのわずかに薄くなる。

 相澤は、その変化を見逃さなかった。

 緑谷も気づいた。

 彼女の身体に入り込んでいる何かは、彼女の願いを利用している。

 だが、彼女の願いそのものが、彼女を支配するための道具になっているとは限らない。

 彼女が本当に望んでいることを、自分自身の言葉で語るとき。

 彼女は、ほんの少しだけ、自分を取り戻している。

「……真帆さん」

 緑谷は、続けた。

「お母さんに会いたいんだよね」

「……うん」

「だったら、会う方法を探そう」

「でも……」

 真帆の目に、涙が浮かぶ。

「でも、私の中にいるものが……」

「そのことも、一緒に考える」

 緑谷は、はっきりと言った。

「君が怖いと思っていることを、無視したりしない。君が何かをしたくないと思っているなら、それもちゃんと聞く」

 真帆は、彼を見つめた。

「……本当に?」

「うん」

「私が、私じゃなくなっても?」

 緑谷は、すぐには答えなかった。

 その問いは、簡単に否定できるものではなかったからだ。

 彼女の中にいる何かが、いつか彼女を完全に支配するかもしれない。

 彼女自身の記憶が、別の何かによって書き換えられるかもしれない。

 そして、そのとき、自分たちは彼女を助けられるのか。

 分からない。

 それでも。

「……君が君でいられるように、できることを探すよ」

 緑谷は答えた。

「約束はできない。でも、最初から諦めたりはしない」

 真帆は、目を見開いた。

 その言葉を聞いて、彼女は初めて、少しだけ笑った。

「……変な人」

「よく言われるよ」

「そうなの?」

「うん」

 ほんの短い会話だった。

 けれど、その瞬間。

 真帆の身体から、黒い線が一本、消えた。

 医療スタッフが息を呑む。

 相澤の視線が鋭くなった。

 緑谷は、何も言わなかった。

 まだ、原因は分からない。

 彼女が自分の願いを言葉にしたからなのか。

 緑谷の言葉が、何らかの影響を与えたのか。

 それとも、単なる一時的な変化なのか。

 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

 真帆は、まだ戦っている。

 自分の身体を奪おうとする何かに。

 自分が何者なのか分からなくなる恐怖に。

 そして、十三年間の空白に。

 彼女は、まだ自分自身であろうとしていた。

     *

 午前十時三十分。

 雄英高校、臨時対策本部。

 真帆の状態について報告を受けた相澤は、しばらく黙っていた。

「……本人の意志が、侵食の進行を抑えている可能性がある」

 八百万が言った。

「ただし、症例が少なすぎます。現段階では、仮説にすぎません」

「分かっている」

 相澤は、腕を組んだ。

「だが、仮説を立てなければ、検証もできない」

 画面に、真帆の身体の状態が表示される。

 黒い線の分布。

 変化した時刻。

 会話の内容。

 心拍数。

 脳波。

 すべてが記録されていた。

「興味深いのは、侵食が強まったのが、本人の願いを利用するような発言があったときだ」

 八百万が言った。

「反対に、本人が自分の意志を明確にしたときには、一時的に侵食が弱まっています」

「つまり、侵食している何かは、本人の願望を利用している?」

「可能性はあります」

 相澤は、画面を見つめた。

 死者が帰ってくる。

 その際、彼らは何かを求められている。

 戻る理由。

 生きる理由。

 自分が何者であるかという認識。

 そして、帰ってきたあとに何を望むのか。

 それらが、単なる本人確認の問題ではないとしたら。

 死者の帰還そのものが、何らかの選別なのだとしたら。

「……帰還者を選んでいる存在がいる」

 相澤は呟いた。

「しかも、ただ生き返らせるだけじゃない。彼らの記憶や感情、望みを何らかの形で利用している可能性がある」

「その存在が、死神なのでしょうか?」

 八百万が尋ねた。

「分からん」

 相澤は即答した。

「だが、昨日の空に現れたものは、少なくとも死神と同一の存在だと断定できない」

 黒い円。

 あの声。

 人間に問いを投げかける、何か。

 死神が人類の前に現れた理由と、死者を帰還させている現象が、完全に同じ目的から生じているとは限らない。

 死神は、死者を戻している。

 だが、その死者の中に何が入り込んでいるのかまで、死神が理解しているとは限らない。

 あるいは。

 死神自身が、別の何かに利用されている可能性さえある。

「……緑谷」

 相澤は、部屋の隅に立っていた少年に声をかけた。

「はい」

「お前は、昨日の空に現れたものを見て、どう思った?」

 緑谷は、少し考えた。

「……あれは、僕たちを脅しているようには感じませんでした」

「脅していない?」

「はい。もちろん、あの声は怖かったです。言っていることも、すごく……」

 彼は言葉を探した。

「でも、あれは僕たちを攻撃するために現れたというより、僕たちが何をするのかを見ているように感じました」

「試している、と?」

「……そうかもしれません」

 緑谷は、黒い円を思い出した。

 あの声は、問いかけていた。

 死者を本人と呼ぶのか。

 それでも愛せるのか。

 何を信じるのか。

 そして、何を選ぶのか。

「ただ……」

 緑谷は、続けた。

「もし、あれが僕たちを試しているのだとしても、僕たちがその問いに答えるために、誰かを犠牲にしていい理由にはならないと思います」

 相澤は、目を細めた。

「そうだな」

 短い返事だった。

 しかし、その声には、確かな同意があった。

「俺たちが何を選ぶかは、あいつに決めてもらうことじゃない」

 相澤は、机の上に資料を置いた。

「……ただし、これから先、同じようなことが起きる可能性は高い」

「はい」

「帰還者の中には、本人の意志で侵食を抑えられる者もいるかもしれない。だが、そうでない者もいるだろう」

 相澤は、緑谷を見た。

「助けを求めているからといって、近づけば救えるとは限らない。本人の意志が残っているからといって、安全とも限らない」

「……はい」

「それでも、俺たちは見極める必要がある」

 相澤は、静かに言った。

「誰を止めるべきなのか。誰を助けるべきなのか。誰を、どうやって守るべきなのか」

 その言葉を、緑谷は深く受け止めた。

 ヒーローは、いつだって選択を迫られる。

 助けるか。

 止めるか。

 戦うか。

 逃がすか。

 だが、今回の相手は、敵か味方かさえ明確ではない。

 死者は、帰ってきた。

 彼らは、かつて人間だった。

 今も人間なのかもしれない。

 それでも、その中に何かが潜んでいる。

 その何かを取り除けば、彼らを救えるのか。

 それとも、取り除いた瞬間に、彼ら自身が消えてしまうのか。

 誰にも分からなかった。

 そのとき。

 会議室の通信端末が鳴った。

『相澤先生。新たな帰還者が確認されました』

「場所は?」

『東京湾岸地区です。死亡記録との照合が完了しています』

「名前は」

 通信の向こうで、担当者が息を呑んだ。

『……エッジショットです』

 相澤の表情が変わった。

 緑谷も、目を見開く。

 かつて忍のように戦い、仲間を守るために自分の身体を極限まで変化させた男。

 最終決戦で大きな代償を払い、命を懸けて戦ったヒーロー。

 その名が、今、再び記録に現れた。

『現在、意識はあります。ただし、身体の状態が特殊です。通常の医療機器では、生命活動を正確に測定できません』

「……何が起きている?」

『本人の身体が、糸状に変化しています』

 会議室が静まり返った。

『本人は、自分の身体を元に戻せないと話しています』

 相澤は、すぐに指示を出した。

「現場を封鎖。周辺住民の避難を優先しろ。本人を刺激するな。医療班と抹消持ちを派遣する」

『了解』

 通信が切れる。

 緑谷は、相澤を見た。

「先生……」

「分かっている」

 相澤は、資料をまとめた。

「行くぞ」

     *

 東京湾岸地区。

 高層ビルの間を、冷たい風が吹き抜けていた。

 警戒線の向こうには、数十人の人々が集まっている。

 スマートフォンを構える者。

 泣きながら誰かの名前を呼ぶ者。

 ただ、呆然と立ち尽くす者。

 その中心に、一人の男がいた。

 黒い衣服。

 細く、長い身体。

 そして、足元に広がる、無数の糸。

 エッジショット。

 彼は、立っているのか、崩れかけているのか、判別できない姿でそこにいた。

 身体の輪郭が、ところどころ糸状にほどけている。

 腕は細く伸び、指先は何本もの糸に分かれていた。

 それでも、顔は彼のものだった。

 目も。

 鼻も。

 口も。

 緑谷が記憶しているエッジショットの顔と、ほとんど変わらない。

「……エッジショットさん」

 緑谷が呼びかけた。

 男が、顔を上げた。

「……緑谷くん」

 声は、確かに彼のものだった。

「久しぶりだね」

 その一言に、緑谷の胸が締めつけられた。

 久しぶり。

 それは、生きている者同士なら、何気なく交わす言葉だ。

 しかし、彼らの間には十三年の空白がある。

 エッジショットにとって、最後に緑谷を見たときから、どれほどの時間が経ったのだろう。

 彼は、ゆっくりと笑った。

「……ずいぶん、大きくなった」

「エッジショットさん……!」

「君も、もう立派な大人だね」

 彼は、周囲を見回した。

「……ここは、どこだい?」

「東京湾岸地区です。今、あなたの身体に何が起きているのか、確認しています」

「そうか」

 エッジショットは、自分の腕を見た。

 その腕は、肘から先が糸状にほどけていた。

 風が吹くたび、細い糸が揺れる。

「……困ったな」

 彼は、困惑したように笑った。

「どうやら、戻り方を忘れてしまったらしい」

 緑谷は、近づこうとした。

 だが、相澤が手で制した。

「まずは状態を確認する。エッジショット、痛みはあるか?」

「痛みは……ないね」

 エッジショットは、少し考えた。

「いや、違うな」

 彼は、自分の身体を見下ろした。

「痛みがないことが、かえって怖い」

 その声には、隠しきれない不安があった。

「身体がほどけていくのに、何も感じない。まるで、私という存在が、少しずつ世界から解かれているようだ」

 相澤は、目を細めた。

「……何か、思い当たることはあるか?」

 エッジショットは、しばらく黙っていた。

 そして、静かに答えた。

「私は、死んだはずだ」

 誰も、口を挟まなかった。

「自分が死んだことは覚えている。身体を変化させ、仲間を救うために、自分のすべてを使った」

 彼は、緑谷を見た。

「君たちが戦っている間、私は……自分の命が尽きることを、理解していた」

 緑谷の喉が詰まった。

 彼は、仲間を救うために命を懸けた。

 その事実は、記録に残っている。

 しかし、今、目の前にいる彼は、その死を覚えている。

 自分が何を選んだのか。

 何を犠牲にしたのか。

 そして、何を失ったのか。

「……それなのに、私は戻ってきた」

 エッジショットは、自分の手を見た。

「なぜだろうね」

 彼は、困ったように笑った。

「私は、もう十分に生きたと思っていたんだが」

 その言葉に、緑谷は息を呑んだ。

「……戻りたくなかったんですか?」

 エッジショットは、すぐには答えなかった。

 そして、少しだけ目を伏せた。

「戻りたいか、戻りたくないか。その二つだけで答えるのは、難しいね」

 風が吹く。

 彼の身体から、糸が一本、ほどけた。

「私は、仲間を守りたかった。それは確かだ。だが、仲間を守るために命を使うことと、死んだあとにもう一度生きたいと願うことは、同じではない」

 エッジショットは、緑谷を見つめた。

「君なら、分かるだろう?」

 緑谷は、言葉を失った。

 かつての自分なら、きっと分からなかった。

 誰かを救うために命を使うこと。

 自分の命を惜しまず、前へ進むこと。

 それが正しいと信じていた。

 しかし、今は違う。

 誰かを救うことと、自分を犠牲にすることは、同じではない。

 死者が帰ってくることと、死者が帰りたいと願うことも、同じではない。

「……はい」

 緑谷は、答えた。

「少しだけ、分かる気がします」

 エッジショットは、穏やかに頷いた。

「なら、ひとつ頼みがある」

「何ですか?」

「私が、私でなくなったとき」

 彼の声が、少しだけ低くなる。

「そのときは、止めてほしい」

 緑谷は、目を見開いた。

「エッジショットさん……」

「私は、自分が何者なのか、まだ分かっているつもりだ。だが、身体は変化し続けている。記憶も、少しずつ曖昧になっている」

 彼は、目を閉じた。

「もし、この身体が私のものではなくなったら。もし、私の意志が、別の何かに奪われたら」

 その瞳が、再び開かれる。

「私が誰かを傷つける前に、止めてくれ」

 緑谷は、すぐには答えられなかった。

 彼は、帰ってきた。

 それなのに、自分が再び消える可能性を理解している。

 そして、自分が誰かを傷つける可能性さえ、受け入れようとしている。

「……分かりました」

 緑谷は、ゆっくりと答えた。

「でも、エッジショットさん」

「何だい?」

「止める方法を探すのと、あなたを諦めるのは、別のことです」

 エッジショットの目が、わずかに揺れた。

「僕は、あなたを助ける方法も探します」

 緑谷は、はっきりと言った。

「あなたが望んでいないことを、無理に押しつけるつもりはありません。でも、あなたがまだ何かを望んでいるなら、それを聞かせてほしいです」

 エッジショットは、長い沈黙のあと、笑った。

「……君は、本当に変わったね」

「そうでしょうか」

「以前の君なら、私を助けると決めた時点で、自分の身体が壊れるまで走っていた気がする」

 緑谷は、苦笑した。

「……否定できません」

「だが、今は違う」

 エッジショットは、周囲を見た。

 相澤。

 医療スタッフ。

 警戒に当たるヒーローたち。

 誰もが、彼を警戒している。

 同時に、誰もが、彼を救うために動いている。

「……いい仲間を持ったね」

 緑谷は、頷いた。

「はい」

 そのときだった。

 エッジショットの身体が、大きく揺れた。

 糸状にほどけていた腕が、突然、地面へ伸びる。

「……っ!」

 緑谷が反応する。

 相澤が叫んだ。

「全員、下がれ!」

 糸が、地面を這った。

 一本。

 十本。

 百本。

 無数の細い糸が、道路を覆い尽くしていく。

 エッジショットは、苦しそうに顔を歪めた。

「……違う」

 彼は、自分の身体を押さえようとした。

「これは……私の意志じゃない!」

 糸が跳ね上がる。

 警戒線の向こうにいた人々が、悲鳴を上げた。

 糸の先端が、無数の刃のように変化する。

 そのすべてが、人々へ向けられていた。

「エッジショットさん!」

 緑谷が叫ぶ。

 エッジショットは、必死に首を振った。

「逃げろ!」

 彼の声が響く。

「早く、逃げるんだ!」

 その直後。

 彼の口から、別の声が出た。

『――お前は、まだ守るのか』

 緑谷の身体が、硬直した。

 その声。

 昨日、黒い円の向こうから聞こえたものと、よく似ていた。

『――死んだあとも』

『――自分を犠牲にするのか』

 エッジショットの身体が、さらにほどけていく。

『――ならば、与えよう』

『――お前が望む形を』

 糸が、一斉に動いた。

 その先端が、周囲の建物を切り裂く。

 ガラスが砕ける。

 金属が歪む。

 道路に、深い傷が刻まれる。

 だが、糸は人々を直接傷つけてはいなかった。

 まるで、何かを探しているかのように。

 何かを、捕まえようとしているかのように。

 エッジショットが、叫んだ。

「……違う!」

 彼の身体が、地面に崩れ落ちる。

「私は……!」

 糸が、彼自身を縛り始めた。

「私は、もう……!」

 声が途切れる。

 その瞬間。

 エッジショットの身体から、黒い霧が噴き出した。

 霧は、糸の間を縫うように広がり、空中で巨大な人影を形作る。

 その影は、無数の糸に吊られているように見えた。

 そして、影の奥から、声が響いた。

『――強欲』

 緑谷は、息を呑んだ。

『――自分の命を差し出しても、誰かを救いたい』

『――自分のすべてを失っても、誰かを守りたい』

『――その願いは、美しい』

 黒い霧が、エッジショットの身体を包み込む。

『――だからこそ』

 声が、静かに告げた。

『――利用しやすい』

 その言葉と同時に、糸が一斉に動いた。

 今度は、明確に人々を狙って。

 緑谷が駆け出そうとした。

 しかし、相澤が彼の腕を掴んだ。

「待て!」

「でも、エッジショットさんが!」

「分かっている!」

 相澤は、霧を睨みつけた。

「だからこそ、全員で対処する!」

 彼は通信機を掴んだ。

「救助班は住民を避難させろ! 戦闘班は糸の進行方向を制限しろ! エッジショット本人への攻撃は最小限に抑えろ!」

 命令が飛ぶ。

 ヒーローたちが動く。

 緑谷は、拳を握りしめた。

 彼を助けたい。

 だが、今、彼の身体を動かしているものは、彼自身ではないかもしれない。

 それでも。

 エッジショットの声は、確かに聞こえていた。

 逃げろ。

 自分の意志ではない。

 止めてくれ。

 彼は、まだ戦っている。

 だからこそ、緑谷は叫んだ。

「エッジショットさん!」

 糸の動きが、一瞬だけ止まった。

「あなたは、まだそこにいるんですよね!」

 黒い霧が、揺れた。

「聞こえているなら、返事をしてください!」

 エッジショットの身体が、わずかに震える。

「あなたが何を望んでいるのか、僕たちに教えてください!」

 その瞬間。

 霧の奥から、かすかな声が聞こえた。

「……たすけて」

 緑谷は、目を見開いた。

 その声は、間違いなくエッジショットのものだった。

「……私は」

 声が続く。

「私は、まだ……」

 黒い霧が、激しく震えた。

『――黙れ』

 別の声が、彼の言葉を遮る。

『――お前は、すでに選んだ』

 糸が、再び動き始めた。

『――お前は、命を差し出した』

『――ならば、最後まで差し出せ』

 その瞬間。

 緑谷の中で、何かがつながった。

 帰還者たちは、死者として戻ってきた。

 彼らの多くは、生前の記憶を持っている。

 生前の感情を持っている。

 そして、生前に抱いた願いを持っている。

 しかし、その願いが強いほど。

 その願いが、誰かを救いたいという思いであればあるほど。

 何かが、それを利用しようとしている。

 死者たちの願いを。

 死者たちの後悔を。

 死者たちの愛を。

 そのすべてを、彼ら自身を支配するための鎖に変えようとしている。

「……そうか」

 緑谷は、呟いた。

 死者は、何を望むのか。

 その問いの答えを、誰かが勝手に決めようとしている。

 帰ってきた理由。

 生きる理由。

 自分を犠牲にする理由。

 それらを、ひとつの答えに押し込めようとしている。

 だが。

「……違う」

 緑谷は、顔を上げた。

「それは、あなたが決めることじゃない!」

 黒い霧が、緑谷を向いた。

『――何?』

「エッジショットさんが、自分の命を使って誰かを救おうとしたこと。それは、彼自身が選んだことです!」

 緑谷の声が、湾岸地区に響く。

「でも、だからって、彼の命をあなたが勝手に使っていい理由にはならない!」

 霧が、静かに揺れた。

「彼が誰かを救いたいと思うことと、あなたが彼を支配することは違う!」

 緑谷は、拳を握った。

「彼の願いを、彼自身から奪うな!」

 その瞬間。

 糸の動きが止まった。

 エッジショットの身体が、わずかに持ち上がる。

 黒い霧が、彼の胸元から剥がれかけた。

 そして。

 エッジショットが、目を開いた。

「……緑谷くん」

 声は、かすれていた。

「……ありがとう」

 彼は、微笑んだ。

 その顔は、確かにエッジショットのものだった。

「……私は」

 糸が、ゆっくりとほどけていく。

「私は……もう一度、誰かを救いたいと思っていたのかもしれない」

 彼は、目を閉じた。

「でも……」

 その言葉を最後に、身体が崩れ落ちた。

 黒い霧が、空へと舞い上がる。

 糸が、地面に落ちる。

 湾岸地区に、静寂が戻った。

 緑谷は、すぐに駆け寄ろうとした。

 しかし、相澤が止めた。

「待て。状態を確認する」

 医療班が、慎重にエッジショットへ近づく。

 脈拍。

 呼吸。

 意識反応。

 すべてが、極めて不安定だった。

 それでも、彼は生きていた。

 少なくとも、医療機器はそう示していた。

 緑谷は、膝をついた。

 彼の身体は、まだ糸状のままだった。

 しかし、先ほどまでのように、勝手に動くことはなかった。

 相澤が、空を見上げた。

 黒い霧は、すでに消えていた。

 ただ、遠くの空に、小さな黒い点が残っていた。

 それは、すぐに見えなくなった。

 まるで、何かがこちらを見届け、去っていったかのように。

     *

 午後一時。

 雄英高校、臨時対策本部。

 エッジショットの一件を受け、対策本部では緊急会議が開かれていた。

 帰還者の中に、外部から何らかの存在が干渉している可能性。

 その存在は、帰還者本人の記憶や感情を利用する。

 そして、本人の意志を奪い、身体を操作することがある。

 しかし、完全に支配される前であれば、本人の意志が抵抗する可能性もある。

 現時点で、確実に言えることはそれだけだった。

「……問題は、どうすれば侵食を防げるのかだ」

 相澤が言った。

「緑谷の言葉に反応して、エッジショットの動きが一時的に止まりました。真帆さんの事例でも、本人が自分の願いを明確にしたときに、黒い線が薄くなっています」

 八百万が資料を示した。

「ですが、それが侵食を抑える方法なのか、単なる一時的な反応なのかは分かりません」

「同じことを何度も試すのは危険だな」

 相澤は、頷いた。

「本人の意志を引き出そうとする行為が、逆に侵食を強める可能性もある」

「では、どうすれば……」

 飯田が言いかけた、そのとき。

 会議室の扉が開いた。

 入ってきたのは、オールマイトだった。

「皆さん、少しよろしいでしょうか」

 彼は、手にしていた資料を机に置いた。

「帰還者に関する情報を集めていたところ、ひとつ、気になる点が見つかりました」

 相澤が顔を上げる。

「何です?」

「帰還者の死亡時の記録と、帰還後に発現した能力の関係です」

 オールマイトは、画面を切り替えた。

 そこには、複数の帰還者の情報が並んでいた。

「帰還後に能力が変化した者たちには、ある共通点があります」

 緑谷が画面を見つめた。

「……共通点?」

「はい。彼らは全員、死亡時に強い未練、あるいは未完了の目的を抱えていた可能性が高いのです」

 相澤は、目を細めた。

「未練……」

「もちろん、全員に当てはまるとは限りません。しかし、少なくとも、確認できている事例では」

 オールマイトは、資料を指し示した。

「誰かを守りたかった者。誰かに会いたかった者。何かを成し遂げたかった者。自分の死を受け入れられなかった者」

 その言葉に、緑谷は息を呑んだ。

「……死者たちの願いが、帰還に関係している?」

「可能性はあります」

 オールマイトは、頷いた。

「ただし、ここで注意しなければならないのは、願いが強いから帰ってきたのか、それとも、帰還させる存在が、願いの強い者を選んでいるのかという違いです」

 会議室が静まり返った。

 前者なら、帰還は死者自身の意志に関係しているかもしれない。

 後者なら、帰還は何者かによる選別だ。

 そして、後者であれば。

 その選別には、必ず基準がある。

 なぜ、この人が戻ってきたのか。

 なぜ、あの人は戻ってこなかったのか。

 なぜ、戻ってきた者の中に、黒い霧に侵される者がいるのか。

 そのすべてが、ひとつの仕組みにつながっている可能性があった。

「……もし、死者たちの願いを利用しているのだとしたら」

 緑谷が、ゆっくりと言った。

「その存在は、彼らが何を望んでいるのかを知っているんですよね」

「そう考えるのが自然だろう」

 相澤が答えた。

「でも、知っていることと、理解していることは違うと思います」

 緑谷は、画面を見つめた。

「クラストさんは、誰かを守りたいと思っていました。でも、自分が戻りたかったかどうかは分からなかった。エッジショットさんも、もう一度誰かを救いたいと思っていたかもしれないけど、それを理由に自分の命を勝手に使われることは望んでいなかった」

 彼は、拳を握った。

「もし、あの存在が、彼らの願いだけを見ているのなら……」

 緑谷は、顔を上げた。

「その人自身を、見ていないのかもしれません」

 誰も、すぐには答えなかった。

 願いは、その人の一部だ。

 しかし、願いだけが、その人のすべてではない。

 誰かを救いたいと願う人間にも、恐怖がある。

 生きたいと願う人間にも、死を受け入れたい気持ちがあるかもしれない。

 愛されたいと願う人間にも、誰かを憎む気持ちがある。

 人間の心は、ひとつの言葉では説明できない。

 その矛盾こそが、人間なのかもしれなかった。

「……緑谷くん」

 オールマイトが、静かに呼んだ。

「はい」

「君は、あの存在が人類を敵視していると思うかい?」

 緑谷は、考えた。

 昨日、黒い円から聞こえた声。

 クラストの身体に入り込んだ声。

 エッジショットの願いを利用しようとした声。

 それらが、同じ存在なのかは分からない。

 だが、少なくとも。

「……まだ、分かりません」

 緑谷は答えた。

「僕たちに何かを問いかけているようには感じます。でも、僕たちを理解しようとしているのか、それとも、何かの実験をしているのか……」

 彼は、言葉を切った。

「分からないからこそ、危険だと思います」

 相澤が頷いた。

「同感だ」

 彼は、資料を閉じた。

「正体が分かるまでは、敵とも味方とも決めつけない。ただし、帰還者に危害を加える存在として確認された場合は、対処する」

 その言葉に、緑谷は頷いた。

 救いたい。

 だが、何でも許すわけではない。

 理解したい。

 だが、理解できないものに無防備でいるわけでもない。

 彼らは、ようやくその境界を考え始めていた。

 そして、その境界を試すように。

 新たな報告が、会議室へ届いた。

『相澤先生。至急、確認をお願いします』

「何だ」

『帰還者の一人が、保護施設から姿を消しました』

「……名前は?」

 担当者は、少しだけ沈黙した。

『トガヒミコです』

 会議室の空気が、一瞬で凍りついた。

     *

 同時刻。

 東京の、とある路地裏。

 トガヒミコは、壁にもたれて座っていた。

 白い髪。

 幼い顔立ち。

 見慣れた笑顔。

 彼女は、自分の手を見つめていた。

 その手には、何も持っていない。

 血も。

 ナイフも。

 誰かの血液も。

 ただ、指先が少しだけ震えていた。

「……変なの」

 彼女は呟いた。

「私、死んだんだよね?」

 返事はない。

 路地裏には、風の音だけが響いていた。

「なのに、どうして、ここにいるんだろう」

 彼女は笑った。

 いつものように。

 何も考えていないような顔で。

 けれど、その笑顔は、すぐに崩れた。

「……ねえ」

 彼女は、自分の胸に手を当てた。

「私、誰に会いたかったんだっけ?」

 記憶が、曖昧だった。

 誰かの顔。

 誰かの声。

 血の匂い。

 笑い声。

 泣き声。

 そして、最後に見た空。

 それらは確かに、自分の記憶のはずだった。

 しかし、ひとつだけ。

 どれだけ思い出そうとしても、思い出せないものがある。

 自分が死ぬ直前。

 最後に、何を願ったのか。

 誰の名前を呼んだのか。

 何を望んでいたのか。

 それだけが、どうしても思い出せない。

「……おかしいな」

 トガは、首を傾げた。

「私、好きな人のことなら、何でも覚えてるはずなのに」

 その瞬間。

 路地裏の壁に、黒い影が伸びた。

 トガは、顔を上げた。

 影の中に、誰かが立っている。

 人間の姿。

 しかし、顔がない。

 トガは、しばらくその影を見つめていた。

 そして。

 にっこりと笑った。

「……あなた、誰?」

 影は答えなかった。

 代わりに、彼女の背後から、もうひとつの声が聞こえた。

「トガちゃん」

 トガの笑顔が、止まった。

 振り返る。

 そこには、誰もいなかった。

 けれど、声だけは聞こえる。

「トガちゃん」

 もう一度。

 今度は、はっきりと。

 彼女が、最もよく知っている声だった。

「……トゥワイス?」

 トガの瞳が、大きく見開かれた。

 彼は、死んだはずだった。

 自分を守るために。

 自分を信じて。

 最後まで、自分の味方でいてくれた男。

 その彼が、今。

 どこかで、自分を呼んでいる。

「……トゥワイス!」

 トガは立ち上がった。

 路地の奥へ走り出す。

「どこ? どこにいるの?」

 返事はない。

 ただ、声だけが聞こえる。

「トガちゃん」

「……待って!」

 彼女は、角を曲がった。

 その先には、誰もいなかった。

 空き地。

 錆びたフェンス。

 雑草。

 そして、地面に落ちた、ひとつの影。

 トガは、ゆっくりと足を止めた。

 その影は、人間の形をしていた。

 だが、ひとつではない。

 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。

 無数の影が、地面に重なっている。

 そのすべてが、同じ顔をしていた。

 トゥワイス。

 分裂した彼の姿。

 笑っている顔。

 泣いている顔。

 怒っている顔。

 どれも、彼の顔だった。

「……あは」

 トガは、笑った。

 笑いながら、涙を流した。

「なに、それ」

 影のひとつが、顔を上げた。

「トガちゃん」

 その声は、確かにトゥワイスのものだった。

「……俺たち、帰ってきたのか?」

 トガは、答えられなかった。

 その瞬間、彼女の足元から、黒い霧が立ち上がった。

 霧は、影の群れを包み込む。

 そして、彼女の耳元で、囁いた。

『――虚飾』

 トガは、笑った。

 今度は、泣いていなかった。

「……ねえ」

 彼女は、黒い霧を見つめた。

「あなたは、トゥワイスを返してくれるの?」

 霧は、答えなかった。

 ただ、無数の影が、一斉に顔を上げた。

 そのすべてが、トガを見つめていた。

 そして。

 トゥワイスの声が、ひとつになった。

「――俺たちは、誰なんだ?」

 トガの笑顔が、消えた。

 彼女は、初めて気づいた。

 帰ってきたのは、彼だけではない。

 彼の記憶も。

 彼の感情も。

 彼の存在そのものも。

 何かに、利用されようとしているのかもしれない。

 そして、自分もまた。

 何かに、選ばれてしまったのかもしれない。

 トガは、ゆっくりと手を伸ばした。

 目の前の影へ。

「……大丈夫」

 彼女は、微笑んだ。

「私が、見つけてあげる」

 影が揺れた。

「本物でも、偽物でも」

 彼女の瞳に、暗い光が宿る。

「私が、トゥワイスを見つけてあげる」

 黒い霧が、彼女の足元で広がった。

 そして、空き地の影が、ひとつに重なった。

     *

 その夜。

 南極大陸の中心で、死神は静かに目を閉じていた。

 氷の壁に刻まれた無数の模様が、淡く光っている。

 帰還者たちの光が、空間を漂う。

 その中に、いくつもの異常な輝きが混じっていた。

 青い炎。

 黒い糸。

 ひび割れた影。

 そして、ふたつに分かれた光。

 死神は、それらを見つめた。

「……なるほど」

 彼女は、呟いた。

「死者は、ただ戻ってきているわけではない」

 その声は、静かだった。

「記憶を取り戻す者。感情を取り戻す者。自分の存在を取り戻そうとする者。そして……」

 彼女は、黒い霧に覆われた光を見た。

「自分自身を、失いかけている者」

 氷の奥で、何かが脈打った。

 死神は、ゆっくりと顔を上げた。

「……あなたは、どこまで知っているの?」

 返事はない。

 ただ、氷の壁に刻まれた模様の一部が、ゆっくりと変化した。

 死神は、その変化を見つめた。

 そして、初めて。

 ほんのわずかに、眉を寄せた。

「……違う」

 彼女は、呟いた。

「私は、こんなことを命じていない」

 その瞬間。

 空間の奥で、無数の光が揺れた。

 死神の目の前に、ひとつの影が現れた。

 人間の形をしていた。

 しかし、その輪郭は曖昧で、顔も見えない。

 影は、静かに立っていた。

 死神は、影を見つめた。

「……あなたは、誰?」

 影は答えなかった。

 代わりに、死神の頭の中へ、声が響いた。

『――お前が、始めたことだ』

 死神の瞳が、わずかに揺れた。

『――お前が、死者を呼び戻した』

『――お前が、世界に問いを投げた』

『――ならば、最後まで見届けろ』

 死神は、拳を握った。

「……私は、ただ」

 言葉が途切れる。

 彼女自身も、すべてを理解しているわけではなかった。

 死者を戻す。

 それは、彼女が選んだことだった。

 だが、戻ってきた者たちの中に、何かが入り込んでいる。

 その現象は、彼女の想定とは違っていた。

 あるいは。

 最初から、彼女は利用されていたのかもしれない。

 死神は、静かに目を閉じた。

「……そう」

 彼女は、呟いた。

「あなたも、私に答えを求めているのね」

 影は、動かなかった。

「でも、残念ね」

 死神は、顔を上げた。

「私も、まだ答えを知らない」

 その瞬間。

 氷の壁に、ひとつの模様が浮かび上がった。

 それは、目のようにも見えた。

 世界を見つめる、巨大な目。

 死神は、その目を見つめ返した。

「……人間が何を望むのか」

 彼女は、静かに言った。

「私も、知りたい」

 氷の奥で、何かが笑った。

 その笑い声は、遠く。

 あまりにも遠く。

 死神の理解が届かない場所から、響いていた。

 そして、帰還者たちの光の中で。

 ひとつの光が、完全に黒く染まった。

     *

 翌朝。

 緑谷出久は、雄英高校の屋上に立っていた。

 昨日から、ほとんど眠れていない。

 クラスト。

 真帆。

 エッジショット。

 そして、トガヒミコ。

 帰ってきた人々は、それぞれ異なる事情を抱えていた。

 誰かは、自分が本物なのか分からないと悩んでいた。

 誰かは、もう一度生きたいと願っていた。

 誰かは、死んだあとに何を望んでいたのかさえ、思い出せなかった。

 そして、誰かは。

 自分の中にいる何かに、願いを利用されていた。

 緑谷は、空を見上げた。

 太陽は昇っている。

 雲が流れている。

 街は動き始めている。

 昨日と同じように。

 それでも、世界は確実に変わっていた。

「……出久くん」

 背後から声がした。

 麗日だった。

「ここにいたんだね」

「うん」

「眠れた?」

「……少しだけ」

「嘘だ」

 麗日は、困ったように笑った。

 緑谷も、苦笑した。

「……うん。あんまり」

 彼女は、隣に立った。

 しばらく、二人で空を見上げていた。

「ねえ、出久くん」

「うん?」

「死んだ人が、何を望んでいるのかって……難しいね」

「……うん」

「帰ってきたい人もいる。帰りたくなかった人もいるかもしれない。帰ってきたけど、どうしていいか分からない人もいる」

 麗日は、自分の手を見た。

「生きている私たちは、帰ってきてほしいって思う。でも、それが相手の望みと同じとは限らないんだよね」

 緑谷は、静かに頷いた。

「……そうだね」

「それでも、私は……」

 麗日は、顔を上げた。

「帰ってきた人たちに、会えてよかったって思いたい」

 その声には、迷いがあった。

 けれど、逃げてはいなかった。

「もし、本当に本人なのか分からなくても。もし、何かがおかしくても。最初から、会えてよかったって思うことまで、間違いにしたくない」

 緑谷は、彼女を見た。

「……うん」

「もちろん、危険なことがあれば止めなきゃいけない。誰かが傷つくなら、守らなきゃいけない。でも……」

 麗日は、少しだけ笑った。

「嬉しかった気持ちまで、嘘にしたくないんだ」

 緑谷は、目を閉じた。

 嬉しかった気持ち。

 会いたかった気持ち。

 もう一度、声を聞きたいと思った気持ち。

 それらは、誰にも否定できない。

 たとえ、帰ってきた人が本物ではなかったとしても。

 たとえ、死者の帰還が何者かの仕組みによるものだったとしても。

 人間が誰かを思い、誰かを求めた気持ちは、消えない。

 緑谷は、ゆっくりと目を開けた。

「……僕も、そう思う」

 彼は、空を見上げた。

「僕たちは、死者が帰ってきた理由を知らない。帰ってきた人たちが、本当に本人なのかも分からない」

 拳を握る。

「でも、だからこそ、ちゃんと知りたい」

 その声は、静かだった。

「彼らが何を望んでいるのか。何を恐れているのか。何を取り戻したいのか」

 緑谷は、麗日を見た。

「そして、彼らが自分自身で選べるようにしたい」

 麗日は、頷いた。

「うん」

 二人は、しばらく黙っていた。

 そのとき。

 屋上の扉が開いた。

 相澤が、二人を見ていた。

「緑谷。麗日」

「先生」

「新たな情報が入った」

 相澤の表情は、険しかった。

「帰還者の一部に、共通する兆候が見つかった」

 緑谷は、顔を上げた。

「共通する兆候……?」

「黒い亀裂が出現する直前、複数の帰還者が、同じ言葉を口にしている」

 相澤は、端末を操作した。

 画面に、記録された音声が表示される。

 クラスト。

 真帆。

 エッジショット。

 そして、別の帰還者たち。

 彼らの声が、順番に再生された。

 ――まだ、間に合う。

 ――返して。

 ――私を、私に戻して。

 ――誰か、助けて。

 ――私は、まだ。

 それぞれ違う言葉。

 それぞれ違う声。

 しかし、その最後に。

 すべての音声に共通する、微かな音があった。

 言葉ではない。

 人間の声とも違う。

 それは、まるで遠い場所から響く、何かの呼吸のようだった。

 緑谷は、息を呑んだ。

「……これ、何ですか?」

「分からない」

 相澤は、答えた。

「だが、解析の結果、この音声は帰還者の口から発せられたものではない可能性がある」

「……どういうことですか?」

「彼らが話している最中に、別の音が重なっている。しかも、その音は、すべての帰還者で同じ波形を示している」

 相澤は、画面を見つめた。

「まるで、ひとつの存在が、複数の人間を通して同時に話しているように」

 緑谷の背筋が冷たくなった。

 死者たちの中に、何かがいる。

 その何かは、ひとりではないのかもしれない。

 あるいは、ひとつの存在が、無数の死者を通して、世界に触れているのかもしれない。

 そして、その目的は。

 まだ、誰にも分からない。

 相澤は、音声を停止した。

「……これから先、帰還者の中で何が起きるか分からない。だから、緑谷。お前には、ひとつ頼みがある」

「はい」

「帰還者と接触するときは、必ず複数人で行動しろ。本人の意志を尊重すること。だが、異常が発生した場合は、すぐに距離を取れ」

「……分かりました」

「それから」

 相澤は、一瞬だけ言葉を切った。

「お前自身にも、注意しろ」

 緑谷は、目を見開いた。

「僕に……?」

「昨日から、黒い霧が何度もお前に反応している。なぜなのかは分からない。だが、偶然だと決めつけるには、事例が多すぎる」

 相澤の声は、低かった。

「お前が帰還者にとって特別な存在なのか。あるいは、あの存在が、お前を何かの基準として見ているのか」

 緑谷は、黙っていた。

 自分は、もう個性を持っていない。

 かつて世界を救った力は、すでに失われている。

 それでも、黒い霧は自分に反応する。

 なぜなのか。

 その答えを、緑谷は知らない。

 ただ。

 昨日、空に現れた声は、自分の名前を呼んだ。

 そして、問いかけた。

 お前は、まだ救うのか。

 救えなかったものを。

 失ったものを。

 それでも、救うのか。

 緑谷は、拳を握った。

「……先生」

「何だ」

「もし、僕が何かに利用されているのだとしても」

 彼は、顔を上げた。

「僕は、僕の意志で選びます」

 相澤は、しばらく彼を見つめた。

 そして、短く頷いた。

「……それでいい」

 空に、雲が流れていた。

 十三年目の祈り。

 それは、死者を悼むための祈りだった。

 しかし今、世界は新たな祈りを必要としている。

 帰ってきた人たちが、もう一度、自分の人生を選べるように。

 残された人たちが、失ったものを抱えながらも、前へ進めるように。

 そして、誰かが勝手に決めた答えではなく、自分たち自身の答えを見つけられるように。

 緑谷は、もう一度、空を見上げた。

 その向こうに、何があるのか。

 まだ、分からない。

 けれど、いつか必ず、答えを見つける。

 そう決意した、その瞬間。

 緑谷の耳元で、誰にも聞こえない声が響いた。

『――まだ、気づかないのか』

 緑谷は、息を止めた。

『――お前もまた、死者に救われた人間だ』

 視界が、一瞬だけ暗くなる。

 幼い自分。

 瓦礫の下で泣いていた子供。

 誰かに手を伸ばしてもらった記憶。

 そして、何度も、何度も。

 自分の命を救ってくれた人たちの顔。

 そのすべてが、遠ざかっていく。

『――ならば、問おう』

 声が囁く。

『――お前が救いたいのは、誰だ?』

 緑谷は、目を閉じた。

 答えは、ひとつではなかった。

 オールマイト。

 仲間たち。

 麗日。

 かつて救えなかった人々。

 今、苦しんでいる帰還者たち。

 そして。

 自分自身。

 緑谷は、ゆっくりと目を開けた。

「……全部だ」

 小さく、しかし、はっきりと答えた。

「でも、僕一人では救えない」

 その言葉に、声は沈黙した。

「だから、みんなと一緒に考える」

 緑谷は、拳を握った。

「僕たちが何を選ぶのかは、僕たちが決める」

 風が吹いた。

 視界が戻る。

 相澤も、麗日も、緑谷の異変には気づいていなかった。

 ただ、空を見上げていた。

 その空の向こうで。

 何かが、静かに目を細めた。

『――そうか』

 声が響く。

『――ならば、次は』

 暗闇の中に、ひとつの光が浮かんだ。

 その光は、緑谷出久のものではなかった。

 かつて、世界を破壊しようとした男。

 死んだはずの男。

 憎しみを抱き、すべてを壊そうとした男。

 その名は。

 志村転弧。

 そして、彼の中に眠るものが、ゆっくりと目を開いた。

『――憤怒』

 暗闇の奥で、何かが笑った。

『――お前は、何を望む?』

 その問いに、答えはなかった。

 ただ。

 世界のどこかで。

 ひとつの願いが、静かに燃え始めた。

 ――すべてを、壊したい。

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