死者は、何を望むのだろう。
生きていた頃と同じものだろうか。
失った家族に会いたい。
叶わなかった夢を叶えたい。
自分を殺した相手に復讐したい。
もう一度、誰かに愛されたい。
あるいは。
死んだという事実そのものを、なかったことにしたいのだろうか。
緑谷出久は、朝のニュース画面を見つめながら、そんなことを考えていた。
画面の中では、昨日帰還した人々の映像が繰り返し流れている。
亡くなった妻を抱きしめる老人。
生まれる前に死んだ父親と対面する少女。
十三年ぶりに息子の名前を呼び、泣き崩れる母親。
どの映像にも、涙があった。
喜びの涙。
悲しみの涙。
信じられないものを前にした人間が、どうすればいいのか分からず流す涙。
そして、画面の隅には、昨日の雄英高校正門で起きた異常現象の映像が映っていた。
盾を構えるクラスト。
その背後から立ち上がる黒い霧。
空に開いた、黒い円。
映像は途中で乱れ、音声も途切れている。
それでも、世界中の人々が見た。
死者が帰ってきた。
そして、帰ってきた死者の中には、何かがおかしい者がいる。
奇跡は、必ずしも優しい顔をしていない。
『政府は本日、帰還者に関する緊急合同対策会議を開催する方針です。また、専門家の間では、帰還者の本人性をどのように確認するかについて――』
緑谷は、リモコンでテレビを消した。
静寂が戻る。
窓の外から、車の走る音が聞こえた。
世界は今日も動いている。
死者が帰ってきても。
空に何かが開いても。
人間は朝になれば目を覚まし、食事をし、仕事へ向かう。
それは、あまりにも当たり前で。
だからこそ、緑谷には少し怖かった。
昨日まで、死は取り消せないものだった。
失ったものは戻らない。
その事実を受け入れながら、人々は前へ進んできた。
ところが今、世界はその前提を失いかけている。
死者が戻ってくるのなら、死とは何なのか。
死者が本人かどうか分からないのなら、人間とは何なのか。
そして、死者を返す何かが存在するのなら。
それは、なぜ今になって人類に手を差し伸べたのか。
緑谷は、テーブルの上に置かれた自分の手を見た。
かつて、そこには力があった。
誰かを救うための力。
何度も自分の身体を壊しながら、それでも前へ進むための力。
今は、もうない。
けれど、力を失ったあとも、救わなければならないものはなくならなかった。
むしろ、増えたのかもしれない。
自分一人で戦えないからこそ、仲間と考える。
自分一人で救えないからこそ、誰かに手を伸ばす。
そして今度は、死者にさえ手を伸ばそうとしている。
それが正しいのかどうか。
緑谷には、まだ分からなかった。
ただ。
昨日、クラストが盾を構えた姿が、頭から離れなかった。
彼は、自分が本物なのかどうかさえ分からないまま、誰かを守ろうとした。
自分が何者であるかという問いに答えるより先に。
目の前の人間を守ることを選んだ。
その行動は、少なくとも緑谷には、紛れもなくヒーローのものに見えた。
だからこそ、知りたい。
彼らは、なぜ帰ってきたのか。
そして。
帰ってきた彼らは、何を望んでいるのか。
*
午前七時四十分。
雄英高校、臨時対策本部。
会議室の壁一面に、帰還者に関する情報が表示されていた。
氏名。
死亡日時。
死亡原因。
帰還確認日時。
記憶の状態。
身体的異常。
個性の再現状況。
そして、危険度。
項目は増え続けていた。
帰還者の数が増えるたび、分類は見直される。
昨日までは、協力的な帰還者、異常な帰還者、敵対的な帰還者という大まかな区分しかなかった。
しかし、それだけでは不十分だった。
協力的であっても、身体に異常が現れる者がいる。
記憶が欠けていても、危険な行動を取らない者がいる。
敵対的な行動を見せた者が、直後に正気を取り戻し、泣きながら助けを求める事例もあった。
危険かどうかと、本人かどうか。
この二つは、同じ基準では測れない。
「……厄介だな」
相澤消太は、画面を見つめたまま呟いた。
「厄介どころではないでしょう」
八百万百が、手元の資料をめくる。
「帰還者の中には、生前の遺伝情報と完全に一致する者もいます。一方で、死亡時の損傷が残っているにもかかわらず、生命活動が正常な者もいる。さらには、死亡記録と一致する身体的特徴を持ちながら、生前には存在しなかった能力を発現した事例まであります」
「つまり、身体の一致だけでは本人と断定できない」
飯田天哉が言った。
「そういうことですわ」
「記憶はどうだ?」
相澤が尋ねる。
八百万は、資料を一枚差し出した。
「記憶についても、一貫性がありません。生前の記憶をほぼ完全に保持している者。死亡直前の記憶だけが欠けている者。特定の人物に関する記憶を失っている者。そして――」
彼女は、一瞬だけ言葉を切った。
「生前には知り得なかった情報を、記憶として持っている者がいます」
会議室の空気が変わった。
「……どういうことだ?」
爆豪勝己が、壁にもたれたまま尋ねた。
「たとえば、死亡時には生まれていなかった人物の名前を知っていたり、死亡後に起きた出来事について、断片的な知識を持っていたりする事例です」
「未来を見たってことか?」
「現時点では、そう断定できません。死後の記憶なのか、外部から与えられた情報なのか、それとも別の要因なのか……」
「本人の記憶じゃないものが、本人の頭に入ってる可能性があるってことだろ」
爆豪は舌打ちした。
「クソ面倒な話だな」
「その認識で間違いありません」
八百万は否定しなかった。
相澤は、別の資料に目を落とした。
そこには、帰還者の一人が描いた絵が添付されていた。
暗い空間。
無数の光。
その中心に、巨大な目のようなもの。
絵の下には、本人の証言が記されている。
――死んでいた間、ずっと見られていた気がする。
――声は聞こえなかった。
――でも、こちらが何を考えているのか、全部知られている気がした。
――最後に、誰かが言った。
――「まだ早い」と。
相澤は、目を細めた。
「……死後の世界を見た、ということか」
「その可能性はあります」
八百万が答えた。
「ただし、本人が実際に死後の世界を経験したのか。それとも、帰還に際して何かを見せられたのか。その区別はできません」
「どちらにしても、死者が戻ってくる仕組みが分からない以上、断定はできない、か」
「はい」
会議室の隅で、プレゼント・マイクが腕を組んだ。
普段なら、こうした重苦しい空気を吹き飛ばすように軽口を叩く男だ。
しかし、今日は違った。
「なあ、相澤」
「何だ」
「俺たちは、帰ってきた連中を調べてる。身体も、記憶も、能力も。そりゃ必要なことだって分かってる」
マイクは、壁の資料を見た。
「でもさ。あいつらが本当に本人だったら、俺たちは何をしてることになる?」
相澤は、答えなかった。
「死んだはずの仲間が戻ってきた。家族が戻ってきた。なのに、俺たちはそいつらに向かって、お前は本物なのかって聞かなきゃいけない」
マイクの声が、少しだけ低くなる。
「……それって、あいつらが死んでたときより、残酷なんじゃねえのか」
誰も、すぐには反論しなかった。
八百万も、飯田も、爆豪も。
それぞれが、何かを考えていた。
帰還者が本物なら、疑われる苦しみがある。
帰還者が偽物なら、愛する人を失った者たちが、偽物を本人だと思って抱きしめていることになる。
どちらであっても、誰かが傷つく。
そして、最も残酷なのは。
今のところ、そのどちらなのかを確かめる方法がないことだった。
会議室の扉が開いた。
緑谷出久と麗日お茶子が入ってくる。
「遅くなりました」
「いや、ちょうどいい」
相澤が言った。
「緑谷。昨日、クラストと接触したときのことを、もう一度詳しく聞かせろ」
「はい」
緑谷は、昨日の出来事を説明した。
クラストの様子。
黒い霧の動き。
声の変化。
そして、彼が自分の意志で盾を構え、霧を押し返したこと。
「最後に、クラストさんは『俺はヒーローだ』と言いました」
緑谷は、ゆっくりと話した。
「その直後、霧が一時的に弱まりました。僕たちが避難誘導を進めていたことも、関係していたと思います」
「本人の意志が、霧の動きに影響していた可能性があるわけか」
「はい。ただ、断定はできません」
緑谷は、自分の言葉を慎重に選んだ。
「僕たちが声をかけたから反応したのか。周囲の状況が変わったからなのか。それとも、別の条件があったのか。まだ分かりません」
「だが、少なくとも」
相澤が言った。
「お前たちが接触したことで、状況が悪化したわけではない」
「……はい」
「その点は記録しておく」
相澤は、画面を切り替えた。
そこに映し出されたのは、ミッドナイトの医療記録だった。
「もうひとつ、確認したいことがある」
緑谷は、画面を見た。
「ミッドナイト先生……?」
「今朝、彼女の手首に一時的な黒い線が確認された」
緑谷の顔から血の気が引いた。
「そんな……先生は大丈夫なんですか?」
「現時点では、身体に異常はない。ただし、本人は昨夜、何らかの声を聞いたと証言している」
「声……」
「内容は断片的だ。本人も、幻聴なのか、何らかの外部干渉なのか、判断できていない」
相澤は、緑谷を見た。
「黒い霧は、帰還者の外側に現れるとは限らない。身体の内部、あるいは意識に直接干渉している可能性がある」
緑谷は、唇を噛んだ。
昨日、ミッドナイトに会ったとき。
彼女は笑っていた。
昔と同じ声で、彼の成長を喜んでくれた。
自分が帰ってきてよかったのかと、不安そうに尋ねた。
あのとき、彼女の手首に黒い線が現れていたことに、緑谷は気づかなかった。
彼女自身も、気づいていなかった。
もし、あの線が何かの兆候だったなら。
自分は、何を見落としたのだろう。
「……先生に、会いに行ってきます」
「待て」
相澤が止めた。
「今は検査中だ。許可なく接触するな」
「でも……」
「心配なのは分かる。だが、お前が焦っても状況は改善しない」
相澤は、緑谷の目を見た。
「昨日、自分で言ったことを忘れるな。救うことと、勝手に動くことは違う」
緑谷は、目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
そのとき、会議室の通信端末が鳴った。
画面に、医療区画の担当者が映る。
『相澤先生。帰還者の一人が、面会を希望しています』
「誰だ」
『クラスト氏です』
会議室の空気が、変わった。
『本人から、緑谷出久氏に話があると』
緑谷は顔を上げた。
相澤は、しばらく考えた。
そして、短く答えた。
「分かった。俺も同席する」
通信が切れる。
緑谷は、拳を握った。
クラストが、何を話そうとしているのか。
自分が、彼に何を聞くべきなのか。
まだ分からない。
それでも。
昨日、彼が盾を構えた理由を、知りたかった。
*
午前八時二十分。
特別隔離室。
クラストは、ベッドの上で上半身を起こしていた。
身体には複数のセンサーが取り付けられ、腕には点滴がつながれている。
首筋にあった黒い亀裂は、昨日よりも薄くなっていた。
ただし、完全には消えていない。
肌の下に、細い影のような線が残っている。
緑谷が部屋に入ると、クラストは顔を向けた。
「……緑谷くん」
「クラストさん。具合はどうですか?」
「悪くない。少なくとも、昨日よりは」
クラストは、少しだけ笑った。
「それにしても、申し訳ないな。帰ってきて早々、世話になってしまって」
「そんな、謝らないでください」
「いや。助けてもらったことには、礼を言わなければならない」
クラストは、緑谷を見つめた。
「ありがとう」
緑谷は、言葉に詰まった。
昨日、黒い霧に侵されながらも、彼は人々を守ろうとしていた。
そして今、彼は自分が助けられたことを、当然のように感謝している。
それが、彼の生前の人格と一致するのか。
緑谷には、まだ分からない。
しかし、目の前の男は、確かに誰かの無事を喜んでいた。
「……クラストさん。ひとつ、聞いてもいいですか?」
「ああ。私に答えられることなら」
「昨日、黒い霧に襲われていたとき……あなたは、何と戦っていたんですか?」
クラストは、黙った。
しばらくして、彼は自分の手を見下ろした。
「……正直に言うと、よく分からない」
「分からない?」
「ああ。何かが、私の中にいた」
クラストは、言葉を探すようにゆっくり話した。
「最初は、ただ暗かった。上下も、前後も分からない場所だった。自分が立っているのか、横になっているのかも分からない」
彼は、目を閉じた。
「そこに、声が聞こえた」
「どんな声ですか?」
「私の声だった」
緑谷が息を呑む。
「……あなた自身の?」
「ああ。少なくとも、私にはそう聞こえた」
クラストは、苦笑した。
「もっとも、死者の声というものがどんなものなのか、私には分からない。あれが本当に自分の声だったのかも、今となっては確信が持てない」
彼は、天井を見上げた。
「その声は、ずっと同じことを言っていた」
「何と?」
「――まだ守れる、と」
緑谷は、黙って聞いた。
「――まだ間に合う、と」
クラストの指が、シーツを握った。
「――だから、戻れ、と」
その言葉に、緑谷は昨日の光景を思い出した。
クラストが叫んでいた言葉。
逃げろ。
守る。
俺はヒーローだ。
すべてが、つながっているように思えた。
「……その声に従ったんですか?」
「分からない」
クラストは首を振った。
「従ったのかもしれない。あるいは、声を聞いたからこそ、逆らおうとしたのかもしれない」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「ただ、暗闇の中で、ひとつだけ思い出したことがあった」
「何ですか?」
「盾を持っていたことだ」
クラストの目に、遠い記憶が浮かんだ。
「私は、何のために戦っていたのか。誰を守ろうとしていたのか。最初は、何も思い出せなかった」
彼は、緑谷を見た。
「だが、盾を握った瞬間、思い出したんだ」
その声が、わずかに強くなる。
「誰かが、私の後ろにいた」
緑谷は、息を止めた。
「顔は分からない。名前も分からない。何人いたのかも分からない。それでも、私は知っていた」
クラストは、静かに言った。
「私が盾を下ろせば、彼らは死ぬ」
沈黙。
「だから、私は盾を構えた」
彼は、少しだけ笑った。
「それだけだ」
緑谷は、何も言えなかった。
クラストの話には、説明がない。
死後の世界がどこにあったのか。
なぜ戻ってきたのか。
声の正体は何なのか。
何ひとつ、明らかになっていない。
それでも。
彼が盾を構えた理由だけは、分かった気がした。
誰かを守りたいと思ったからだ。
それは、彼が生きていた頃の記憶に由来するのかもしれない。
死の直前に抱いた感情が残っていたのかもしれない。
あるいは、何かが彼の記憶を利用しているだけなのかもしれない。
それでも、今の彼は、その理由を自分のものとして語っていた。
「……クラストさん」
緑谷は、ゆっくりと尋ねた。
「あなたは、戻ってきたいと思っていたんですか?」
クラストの表情が止まった。
その問いは、彼自身も避けていたものだったのだろう。
長い沈黙のあと、彼は答えた。
「……分からない」
緑谷は、頷いた。
「死んだことを、覚えているんですか?」
「ああ」
「死ぬ前のことは?」
「断片的になら」
クラストは、自分の手を見た。
「私は、死んだ。そこまでは分かっている。だが、死ぬ瞬間に何を考えていたのかは、はっきりしない」
「……」
「戻りたいと思ったのかもしれない。誰かを守りたいと思ったのかもしれない。あるいは、何も考えていなかったのかもしれない」
彼は、目を伏せた。
「死ぬというのは、思っていたよりも……分からないことだらけだった」
緑谷は、その言葉を胸に刻んだ。
死者は、何を望むのか。
その問いに、簡単な答えはない。
帰ってきた本人でさえ、分からないのだから。
クラストは、しばらく黙っていた。
そして、今度は彼の方から尋ねた。
「緑谷くん」
「はい」
「君は……私が本物だと思うか?」
緑谷の心臓が、強く打った。
昨日から、何度も考えていた問いだった。
彼が本物かどうか。
彼が、かつてのクラストなのかどうか。
緑谷は、すぐには答えなかった。
簡単に「本物です」と言えば、彼は安心するかもしれない。
しかし、それは無責任な断定になる。
反対に、「分かりません」とだけ答えれば、彼を突き放すことになるかもしれない。
どちらも、違う気がした。
「……僕には、まだ分かりません」
クラストは、静かに頷いた。
「そうか」
「でも」
緑谷は、続けた。
「あなたが昨日、誰かを守ろうとしたことは、見ました」
クラストが顔を上げた。
「あなたは、何が起きているのか分からない状態で、それでも盾を構えた。自分の身体がどうなっているのかも分からないのに、逃げろって叫んでいた」
緑谷は、まっすぐに彼を見た。
「その行動が、あなたのすべてを証明するとは思いません。でも、僕は、あれをなかったことにはしたくない」
クラストは、黙っていた。
「だから、僕はあなたを調べます。何が起きているのか、何があなたの中にいるのか、どうすれば助けられるのか。ちゃんと知りたいです」
緑谷は、深く息を吸った。
「でも、調べるからといって、あなたを最初から偽物だと決めつけたりはしません」
クラストの目が揺れた。
「……そうか」
彼は、顔を伏せた。
しばらくして、その肩が小さく震え始めた。
緑谷は、何も言わなかった。
クラストは、泣いていた。
声を上げず。
顔を覆うこともせず。
ただ、十三年間の空白を抱えたまま、静かに涙を流していた。
「……ありがとう」
彼は、もう一度言った。
「君に、そう言ってもらえて……よかった」
その瞬間。
緑谷は、クラストの首筋にあった黒い亀裂が、わずかに薄くなったことに気づいた。
気のせいかもしれない。
光の加減かもしれない。
だが、相澤もそれを見ていた。
彼は何も言わず、記録端末に目を落とした。
黒い亀裂の変化。
感情の変化。
会話の内容。
それらを記録する。
希望的な解釈をするつもりはない。
しかし、見逃すつもりもなかった。
クラストが落ち着いたあと、相澤は緑谷に目配せした。
「もう少し、話を聞かせてもらう」
「はい」
緑谷は立ち上がりかけた。
そのとき。
「……待ってくれ」
クラストが、呼び止めた。
緑谷は振り返った。
「どうしました?」
クラストは、迷うように口を開いた。
「ひとつ、伝えておきたいことがある」
「何ですか?」
「私は、暗闇の中で……自分以外の誰かを見た」
相澤の目が鋭くなる。
「誰だ?」
「分からない」
クラストは首を振った。
「顔も、姿も、はっきりとは覚えていない。ただ……」
彼は、言葉を探した。
「その人は、私に尋ねたんだ」
「何と?」
クラストは、緑谷を見た。
「――お前は、何を守るために戻るのか、と」
部屋の空気が、凍りついた。
「……戻る?」
緑谷が尋ねる。
「はい」
クラストは、ゆっくりと頷いた。
「そのとき、私は答えられなかった。何を守りたいのか。なぜ戻りたいのか。そもそも、戻ることを望んでいたのか」
彼は、自分の手を握りしめた。
「ただ、その人は……最後に、こう言った」
クラストの声が、かすれる。
「――お前が望まなくても、世界はお前を必要とするかもしれない」
緑谷の背筋に、冷たいものが走った。
それは、死神の言葉なのか。
あるいは、別の存在の言葉なのか。
クラストは、首を振った。
「……すまない。これ以上は、思い出せない」
「いえ」
相澤が、静かに答えた。
「十分だ。重要な情報だ」
彼は、端末に記録を残した。
そして、緑谷を見た。
「緑谷。少し、外へ出るぞ」
「……はい」
部屋を出る直前。
緑谷は、もう一度クラストを振り返った。
クラストは、目を閉じていた。
眠っているのか。
疲れ果てているのか。
それは分からない。
ただ、その顔には、わずかな安堵があった。
誰かに話を聞いてもらえたこと。
自分が何者なのか分からないという不安を、否定されなかったこと。
それだけでも、彼にとっては意味があったのかもしれない。
廊下に出ると、相澤が足を止めた。
「……どう思う?」
緑谷は、すぐには答えなかった。
「僕には、まだ分かりません」
「そうか」
「でも、クラストさんは……本当に、何かと戦っているんだと思います」
相澤は、黙って聞いていた。
「自分の中にいるものと。自分が誰なのか分からないことと。戻ってきた理由が分からないことと」
緑谷は、手を握った。
「それに、彼は……自分が戻りたいと思っていたかどうかさえ、分からないんです」
「……」
「だから、僕たちが決めつけちゃいけないと思います。彼は戻りたかったはずだとか。死者はみんな生き返りたいはずだとか。そういうふうに」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「その通りだ」
彼は、短く答えた。
「死者が望んでいることと、生者が望んでいることは、必ずしも同じじゃない」
その言葉は、重かった。
死者に帰ってきてほしいと願う生者。
しかし、帰ってきた死者が、本当に戻りたかったとは限らない。
死者が戻ることを望んでいたとしても、その先に待っている世界が、彼らの望んだ世界とは限らない。
そして。
もし、誰かが死者を選んで戻しているのなら。
その選択基準は、いったい何なのか。
なぜ、この人が戻ってきたのか。
なぜ、あの人は戻ってこなかったのか。
誰かが、その問いに答えなければならない。
だが、その答えを持っているのは、人間ではないのかもしれなかった。
*
午前九時十五分。
雄英高校、臨時医療区画。
クラストとの面会を終えた緑谷たちは、別の帰還者の記録を確認することになった。
その人物は、昨夜から雄英の保護下に置かれている。
死亡時の年齢は十七歳。
死亡から十三年。
帰還時の外見年齢は、死亡当時とほぼ一致。
記憶は不安定。
個性は未確認。
身体には、黒い亀裂が確認されている。
そして、彼女は目を覚ますたびに、同じ言葉を口にしていた。
――お母さんに、会いたかっただけなのに。
「……彼女は、今もその状態なんですか?」
緑谷が尋ねると、医療スタッフは頷いた。
「はい。意識はあります。ただし、質問への応答が安定しません。会話が成立することもありますが、突然、強い恐怖反応を示すことがあります」
「恐怖反応?」
「自分の身体が、自分のものではないと感じるそうです」
緑谷は、足を止めた。
「……自分の身体が?」
「本人の証言では、手を動かそうとしても、別の誰かが先に動かすことがある。自分が話そうとしていない言葉が口から出ることもある、と」
相澤の目が険しくなった。
「クラストと同じか」
「類似点はあります。ただし、彼女の場合は、外部から確認できる黒い霧が出現していません」
「本人の内側だけで起きている可能性があるわけだな」
「はい」
医療スタッフが、隔離室の扉を開いた。
白い部屋の中央に、少女が座っていた。
ベッドの上で膝を抱え、両手を強く握りしめている。
黒い髪。
細い肩。
まだ大人になりきっていない顔。
彼女は、扉が開いても顔を上げなかった。
「……こんにちは」
緑谷が、できるだけ穏やかな声で話しかけた。
「僕は緑谷出久です。少し、お話を聞かせてもらってもいいかな?」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、ひどく疲れていた。
「……ヒーロー?」
「うん」
「私を……捕まえに来たの?」
「違うよ」
緑谷は首を振った。
「君が困っていることを知りたいんだ。何か、つらいことがあるなら、教えてほしい」
少女は、緑谷を見つめた。
しばらくして、小さく笑った。
「……変なの」
「え?」
「だって、みんな同じことを聞くんだもの」
少女は、自分の手を見下ろした。
「何があったのか。どこで死んだのか。どうして戻ってきたのか。自分のことを覚えているか。何か変なものが見えたか」
指先が震える。
「でも、私が本当に聞いてほしいことは、誰も聞いてくれない」
緑谷は、椅子を引いて、彼女から少し離れた場所に座った。
「……何を聞いてほしいの?」
少女の顔が歪んだ。
「私、帰りたい」
その声は、あまりにも小さかった。
「お母さんのところに、帰りたい」
緑谷は、黙っていた。
「私が死んだとき、お母さんは一人だったの。お父さんは、私が小さい頃に死んじゃってたから」
少女は、ゆっくりと話し始めた。
「だから、私が死んだら、お母さんは一人になるって分かってた。でも、どうしようもなかった。事故だったから」
彼女の視線が、遠くへ向いた。
「最後に、お母さんに電話したの。帰りが遅くなるって。ご飯はいらないって」
唇が震える。
「……それが、最後だった」
緑谷は、息を呑んだ。
「お母さんは、私が死んだことを知らされて、泣いたと思う。何日も、何か月も。もしかしたら、何年も」
少女は、自分の膝に額を押しつけた。
「私は、それを見ていない」
声が震えた。
「私が死んだあと、お母さんがどうやって生きてきたのか。どんなふうに朝を迎えて、どんなふうにご飯を食べて、どんなふうに眠っていたのか」
彼女は、顔を上げた。
「何も知らないの」
その目に、涙が浮かんでいた。
「だから、帰りたかった」
緑谷は、静かに頷いた。
「……うん」
「お母さんに会いたかった。謝りたかった。最後に、ちゃんとありがとうって言いたかった」
少女は、両手で顔を覆った。
「それだけだったのに」
彼女の肩が震え始めた。
「なのに、私の身体の中に、何かがいるの」
空気が変わった。
「……最初は、夢だと思った。暗いところで、ずっと声が聞こえていた。私のことを知っているみたいな声だった」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「そいつは、私に言ったの」
その瞳の奥に、恐怖が戻る。
「――お前は、帰りたいのか?」
緑谷は、身を乗り出しかけて、踏みとどまった。
少女の呼吸が速くなっていた。
「私は、うんって答えた。帰りたいって。お母さんに会いたいって」
「……うん」
「そしたら、そいつが言ったの」
少女の唇が動く。
「――ならば、返してやろう」
その瞬間。
彼女の右手が、勝手に持ち上がった。
少女自身が、悲鳴を上げた。
「いやっ!」
手首に黒い線が浮かぶ。
一本。
二本。
指先から腕へ。
皮膚の下に、黒い亀裂が広がっていく。
「やめて! やめてよ!」
少女は左手で右腕を押さえた。
だが、右手は止まらない。
ゆっくりと指が開き、緑谷の方へ伸びる。
彼女の口が動いた。
「……お前は、帰りたいのだろう?」
声が違った。
先ほどまでの少女の声ではない。
低くも、高くもない。
ただ、感情がなかった。
「ならば、邪魔をするものを取り除けばいい」
「やめて!」
少女が叫ぶ。
「私はそんなこと言ってない!」
黒い線が、首筋へ伸びた。
相澤が一歩前に出る。
「全員、距離を取れ!」
医療スタッフが後退する。
緑谷も、少女から一定の距離を保った。
だが、彼は目を逸らさなかった。
「君の名前は?」
少女の動きが止まった。
「……え?」
「君の名前を教えてほしい」
少女は、苦しそうに顔を歪めた。
「……小野寺、真帆」
「真帆さん」
緑谷は、彼女の名前を繰り返した。
「僕は、君のことを助けたい。でも、君の身体を無理に押さえつけたり、君の気持ちを無視したりしたくない」
黒い線が、わずかに脈打つ。
「だから、教えてほしい。今、君は何をしたい?」
真帆は、緑谷を見つめた。
「……お母さんに」
「うん」
「お母さんに、会いたい」
「分かった」
緑谷は、頷いた。
「そのために、どうすればいいのか、一緒に考えよう」
その瞬間。
真帆の右手が、ぴたりと止まった。
黒い線が、ほんのわずかに薄くなる。
相澤は、その変化を見逃さなかった。
緑谷も気づいた。
彼女の身体に入り込んでいる何かは、彼女の願いを利用している。
だが、彼女の願いそのものが、彼女を支配するための道具になっているとは限らない。
彼女が本当に望んでいることを、自分自身の言葉で語るとき。
彼女は、ほんの少しだけ、自分を取り戻している。
「……真帆さん」
緑谷は、続けた。
「お母さんに会いたいんだよね」
「……うん」
「だったら、会う方法を探そう」
「でも……」
真帆の目に、涙が浮かぶ。
「でも、私の中にいるものが……」
「そのことも、一緒に考える」
緑谷は、はっきりと言った。
「君が怖いと思っていることを、無視したりしない。君が何かをしたくないと思っているなら、それもちゃんと聞く」
真帆は、彼を見つめた。
「……本当に?」
「うん」
「私が、私じゃなくなっても?」
緑谷は、すぐには答えなかった。
その問いは、簡単に否定できるものではなかったからだ。
彼女の中にいる何かが、いつか彼女を完全に支配するかもしれない。
彼女自身の記憶が、別の何かによって書き換えられるかもしれない。
そして、そのとき、自分たちは彼女を助けられるのか。
分からない。
それでも。
「……君が君でいられるように、できることを探すよ」
緑谷は答えた。
「約束はできない。でも、最初から諦めたりはしない」
真帆は、目を見開いた。
その言葉を聞いて、彼女は初めて、少しだけ笑った。
「……変な人」
「よく言われるよ」
「そうなの?」
「うん」
ほんの短い会話だった。
けれど、その瞬間。
真帆の身体から、黒い線が一本、消えた。
医療スタッフが息を呑む。
相澤の視線が鋭くなった。
緑谷は、何も言わなかった。
まだ、原因は分からない。
彼女が自分の願いを言葉にしたからなのか。
緑谷の言葉が、何らかの影響を与えたのか。
それとも、単なる一時的な変化なのか。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
真帆は、まだ戦っている。
自分の身体を奪おうとする何かに。
自分が何者なのか分からなくなる恐怖に。
そして、十三年間の空白に。
彼女は、まだ自分自身であろうとしていた。
*
午前十時三十分。
雄英高校、臨時対策本部。
真帆の状態について報告を受けた相澤は、しばらく黙っていた。
「……本人の意志が、侵食の進行を抑えている可能性がある」
八百万が言った。
「ただし、症例が少なすぎます。現段階では、仮説にすぎません」
「分かっている」
相澤は、腕を組んだ。
「だが、仮説を立てなければ、検証もできない」
画面に、真帆の身体の状態が表示される。
黒い線の分布。
変化した時刻。
会話の内容。
心拍数。
脳波。
すべてが記録されていた。
「興味深いのは、侵食が強まったのが、本人の願いを利用するような発言があったときだ」
八百万が言った。
「反対に、本人が自分の意志を明確にしたときには、一時的に侵食が弱まっています」
「つまり、侵食している何かは、本人の願望を利用している?」
「可能性はあります」
相澤は、画面を見つめた。
死者が帰ってくる。
その際、彼らは何かを求められている。
戻る理由。
生きる理由。
自分が何者であるかという認識。
そして、帰ってきたあとに何を望むのか。
それらが、単なる本人確認の問題ではないとしたら。
死者の帰還そのものが、何らかの選別なのだとしたら。
「……帰還者を選んでいる存在がいる」
相澤は呟いた。
「しかも、ただ生き返らせるだけじゃない。彼らの記憶や感情、望みを何らかの形で利用している可能性がある」
「その存在が、死神なのでしょうか?」
八百万が尋ねた。
「分からん」
相澤は即答した。
「だが、昨日の空に現れたものは、少なくとも死神と同一の存在だと断定できない」
黒い円。
あの声。
人間に問いを投げかける、何か。
死神が人類の前に現れた理由と、死者を帰還させている現象が、完全に同じ目的から生じているとは限らない。
死神は、死者を戻している。
だが、その死者の中に何が入り込んでいるのかまで、死神が理解しているとは限らない。
あるいは。
死神自身が、別の何かに利用されている可能性さえある。
「……緑谷」
相澤は、部屋の隅に立っていた少年に声をかけた。
「はい」
「お前は、昨日の空に現れたものを見て、どう思った?」
緑谷は、少し考えた。
「……あれは、僕たちを脅しているようには感じませんでした」
「脅していない?」
「はい。もちろん、あの声は怖かったです。言っていることも、すごく……」
彼は言葉を探した。
「でも、あれは僕たちを攻撃するために現れたというより、僕たちが何をするのかを見ているように感じました」
「試している、と?」
「……そうかもしれません」
緑谷は、黒い円を思い出した。
あの声は、問いかけていた。
死者を本人と呼ぶのか。
それでも愛せるのか。
何を信じるのか。
そして、何を選ぶのか。
「ただ……」
緑谷は、続けた。
「もし、あれが僕たちを試しているのだとしても、僕たちがその問いに答えるために、誰かを犠牲にしていい理由にはならないと思います」
相澤は、目を細めた。
「そうだな」
短い返事だった。
しかし、その声には、確かな同意があった。
「俺たちが何を選ぶかは、あいつに決めてもらうことじゃない」
相澤は、机の上に資料を置いた。
「……ただし、これから先、同じようなことが起きる可能性は高い」
「はい」
「帰還者の中には、本人の意志で侵食を抑えられる者もいるかもしれない。だが、そうでない者もいるだろう」
相澤は、緑谷を見た。
「助けを求めているからといって、近づけば救えるとは限らない。本人の意志が残っているからといって、安全とも限らない」
「……はい」
「それでも、俺たちは見極める必要がある」
相澤は、静かに言った。
「誰を止めるべきなのか。誰を助けるべきなのか。誰を、どうやって守るべきなのか」
その言葉を、緑谷は深く受け止めた。
ヒーローは、いつだって選択を迫られる。
助けるか。
止めるか。
戦うか。
逃がすか。
だが、今回の相手は、敵か味方かさえ明確ではない。
死者は、帰ってきた。
彼らは、かつて人間だった。
今も人間なのかもしれない。
それでも、その中に何かが潜んでいる。
その何かを取り除けば、彼らを救えるのか。
それとも、取り除いた瞬間に、彼ら自身が消えてしまうのか。
誰にも分からなかった。
そのとき。
会議室の通信端末が鳴った。
『相澤先生。新たな帰還者が確認されました』
「場所は?」
『東京湾岸地区です。死亡記録との照合が完了しています』
「名前は」
通信の向こうで、担当者が息を呑んだ。
『……エッジショットです』
相澤の表情が変わった。
緑谷も、目を見開く。
かつて忍のように戦い、仲間を守るために自分の身体を極限まで変化させた男。
最終決戦で大きな代償を払い、命を懸けて戦ったヒーロー。
その名が、今、再び記録に現れた。
『現在、意識はあります。ただし、身体の状態が特殊です。通常の医療機器では、生命活動を正確に測定できません』
「……何が起きている?」
『本人の身体が、糸状に変化しています』
会議室が静まり返った。
『本人は、自分の身体を元に戻せないと話しています』
相澤は、すぐに指示を出した。
「現場を封鎖。周辺住民の避難を優先しろ。本人を刺激するな。医療班と抹消持ちを派遣する」
『了解』
通信が切れる。
緑谷は、相澤を見た。
「先生……」
「分かっている」
相澤は、資料をまとめた。
「行くぞ」
*
東京湾岸地区。
高層ビルの間を、冷たい風が吹き抜けていた。
警戒線の向こうには、数十人の人々が集まっている。
スマートフォンを構える者。
泣きながら誰かの名前を呼ぶ者。
ただ、呆然と立ち尽くす者。
その中心に、一人の男がいた。
黒い衣服。
細く、長い身体。
そして、足元に広がる、無数の糸。
エッジショット。
彼は、立っているのか、崩れかけているのか、判別できない姿でそこにいた。
身体の輪郭が、ところどころ糸状にほどけている。
腕は細く伸び、指先は何本もの糸に分かれていた。
それでも、顔は彼のものだった。
目も。
鼻も。
口も。
緑谷が記憶しているエッジショットの顔と、ほとんど変わらない。
「……エッジショットさん」
緑谷が呼びかけた。
男が、顔を上げた。
「……緑谷くん」
声は、確かに彼のものだった。
「久しぶりだね」
その一言に、緑谷の胸が締めつけられた。
久しぶり。
それは、生きている者同士なら、何気なく交わす言葉だ。
しかし、彼らの間には十三年の空白がある。
エッジショットにとって、最後に緑谷を見たときから、どれほどの時間が経ったのだろう。
彼は、ゆっくりと笑った。
「……ずいぶん、大きくなった」
「エッジショットさん……!」
「君も、もう立派な大人だね」
彼は、周囲を見回した。
「……ここは、どこだい?」
「東京湾岸地区です。今、あなたの身体に何が起きているのか、確認しています」
「そうか」
エッジショットは、自分の腕を見た。
その腕は、肘から先が糸状にほどけていた。
風が吹くたび、細い糸が揺れる。
「……困ったな」
彼は、困惑したように笑った。
「どうやら、戻り方を忘れてしまったらしい」
緑谷は、近づこうとした。
だが、相澤が手で制した。
「まずは状態を確認する。エッジショット、痛みはあるか?」
「痛みは……ないね」
エッジショットは、少し考えた。
「いや、違うな」
彼は、自分の身体を見下ろした。
「痛みがないことが、かえって怖い」
その声には、隠しきれない不安があった。
「身体がほどけていくのに、何も感じない。まるで、私という存在が、少しずつ世界から解かれているようだ」
相澤は、目を細めた。
「……何か、思い当たることはあるか?」
エッジショットは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「私は、死んだはずだ」
誰も、口を挟まなかった。
「自分が死んだことは覚えている。身体を変化させ、仲間を救うために、自分のすべてを使った」
彼は、緑谷を見た。
「君たちが戦っている間、私は……自分の命が尽きることを、理解していた」
緑谷の喉が詰まった。
彼は、仲間を救うために命を懸けた。
その事実は、記録に残っている。
しかし、今、目の前にいる彼は、その死を覚えている。
自分が何を選んだのか。
何を犠牲にしたのか。
そして、何を失ったのか。
「……それなのに、私は戻ってきた」
エッジショットは、自分の手を見た。
「なぜだろうね」
彼は、困ったように笑った。
「私は、もう十分に生きたと思っていたんだが」
その言葉に、緑谷は息を呑んだ。
「……戻りたくなかったんですか?」
エッジショットは、すぐには答えなかった。
そして、少しだけ目を伏せた。
「戻りたいか、戻りたくないか。その二つだけで答えるのは、難しいね」
風が吹く。
彼の身体から、糸が一本、ほどけた。
「私は、仲間を守りたかった。それは確かだ。だが、仲間を守るために命を使うことと、死んだあとにもう一度生きたいと願うことは、同じではない」
エッジショットは、緑谷を見つめた。
「君なら、分かるだろう?」
緑谷は、言葉を失った。
かつての自分なら、きっと分からなかった。
誰かを救うために命を使うこと。
自分の命を惜しまず、前へ進むこと。
それが正しいと信じていた。
しかし、今は違う。
誰かを救うことと、自分を犠牲にすることは、同じではない。
死者が帰ってくることと、死者が帰りたいと願うことも、同じではない。
「……はい」
緑谷は、答えた。
「少しだけ、分かる気がします」
エッジショットは、穏やかに頷いた。
「なら、ひとつ頼みがある」
「何ですか?」
「私が、私でなくなったとき」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「そのときは、止めてほしい」
緑谷は、目を見開いた。
「エッジショットさん……」
「私は、自分が何者なのか、まだ分かっているつもりだ。だが、身体は変化し続けている。記憶も、少しずつ曖昧になっている」
彼は、目を閉じた。
「もし、この身体が私のものではなくなったら。もし、私の意志が、別の何かに奪われたら」
その瞳が、再び開かれる。
「私が誰かを傷つける前に、止めてくれ」
緑谷は、すぐには答えられなかった。
彼は、帰ってきた。
それなのに、自分が再び消える可能性を理解している。
そして、自分が誰かを傷つける可能性さえ、受け入れようとしている。
「……分かりました」
緑谷は、ゆっくりと答えた。
「でも、エッジショットさん」
「何だい?」
「止める方法を探すのと、あなたを諦めるのは、別のことです」
エッジショットの目が、わずかに揺れた。
「僕は、あなたを助ける方法も探します」
緑谷は、はっきりと言った。
「あなたが望んでいないことを、無理に押しつけるつもりはありません。でも、あなたがまだ何かを望んでいるなら、それを聞かせてほしいです」
エッジショットは、長い沈黙のあと、笑った。
「……君は、本当に変わったね」
「そうでしょうか」
「以前の君なら、私を助けると決めた時点で、自分の身体が壊れるまで走っていた気がする」
緑谷は、苦笑した。
「……否定できません」
「だが、今は違う」
エッジショットは、周囲を見た。
相澤。
医療スタッフ。
警戒に当たるヒーローたち。
誰もが、彼を警戒している。
同時に、誰もが、彼を救うために動いている。
「……いい仲間を持ったね」
緑谷は、頷いた。
「はい」
そのときだった。
エッジショットの身体が、大きく揺れた。
糸状にほどけていた腕が、突然、地面へ伸びる。
「……っ!」
緑谷が反応する。
相澤が叫んだ。
「全員、下がれ!」
糸が、地面を這った。
一本。
十本。
百本。
無数の細い糸が、道路を覆い尽くしていく。
エッジショットは、苦しそうに顔を歪めた。
「……違う」
彼は、自分の身体を押さえようとした。
「これは……私の意志じゃない!」
糸が跳ね上がる。
警戒線の向こうにいた人々が、悲鳴を上げた。
糸の先端が、無数の刃のように変化する。
そのすべてが、人々へ向けられていた。
「エッジショットさん!」
緑谷が叫ぶ。
エッジショットは、必死に首を振った。
「逃げろ!」
彼の声が響く。
「早く、逃げるんだ!」
その直後。
彼の口から、別の声が出た。
『――お前は、まだ守るのか』
緑谷の身体が、硬直した。
その声。
昨日、黒い円の向こうから聞こえたものと、よく似ていた。
『――死んだあとも』
『――自分を犠牲にするのか』
エッジショットの身体が、さらにほどけていく。
『――ならば、与えよう』
『――お前が望む形を』
糸が、一斉に動いた。
その先端が、周囲の建物を切り裂く。
ガラスが砕ける。
金属が歪む。
道路に、深い傷が刻まれる。
だが、糸は人々を直接傷つけてはいなかった。
まるで、何かを探しているかのように。
何かを、捕まえようとしているかのように。
エッジショットが、叫んだ。
「……違う!」
彼の身体が、地面に崩れ落ちる。
「私は……!」
糸が、彼自身を縛り始めた。
「私は、もう……!」
声が途切れる。
その瞬間。
エッジショットの身体から、黒い霧が噴き出した。
霧は、糸の間を縫うように広がり、空中で巨大な人影を形作る。
その影は、無数の糸に吊られているように見えた。
そして、影の奥から、声が響いた。
『――強欲』
緑谷は、息を呑んだ。
『――自分の命を差し出しても、誰かを救いたい』
『――自分のすべてを失っても、誰かを守りたい』
『――その願いは、美しい』
黒い霧が、エッジショットの身体を包み込む。
『――だからこそ』
声が、静かに告げた。
『――利用しやすい』
その言葉と同時に、糸が一斉に動いた。
今度は、明確に人々を狙って。
緑谷が駆け出そうとした。
しかし、相澤が彼の腕を掴んだ。
「待て!」
「でも、エッジショットさんが!」
「分かっている!」
相澤は、霧を睨みつけた。
「だからこそ、全員で対処する!」
彼は通信機を掴んだ。
「救助班は住民を避難させろ! 戦闘班は糸の進行方向を制限しろ! エッジショット本人への攻撃は最小限に抑えろ!」
命令が飛ぶ。
ヒーローたちが動く。
緑谷は、拳を握りしめた。
彼を助けたい。
だが、今、彼の身体を動かしているものは、彼自身ではないかもしれない。
それでも。
エッジショットの声は、確かに聞こえていた。
逃げろ。
自分の意志ではない。
止めてくれ。
彼は、まだ戦っている。
だからこそ、緑谷は叫んだ。
「エッジショットさん!」
糸の動きが、一瞬だけ止まった。
「あなたは、まだそこにいるんですよね!」
黒い霧が、揺れた。
「聞こえているなら、返事をしてください!」
エッジショットの身体が、わずかに震える。
「あなたが何を望んでいるのか、僕たちに教えてください!」
その瞬間。
霧の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……たすけて」
緑谷は、目を見開いた。
その声は、間違いなくエッジショットのものだった。
「……私は」
声が続く。
「私は、まだ……」
黒い霧が、激しく震えた。
『――黙れ』
別の声が、彼の言葉を遮る。
『――お前は、すでに選んだ』
糸が、再び動き始めた。
『――お前は、命を差し出した』
『――ならば、最後まで差し出せ』
その瞬間。
緑谷の中で、何かがつながった。
帰還者たちは、死者として戻ってきた。
彼らの多くは、生前の記憶を持っている。
生前の感情を持っている。
そして、生前に抱いた願いを持っている。
しかし、その願いが強いほど。
その願いが、誰かを救いたいという思いであればあるほど。
何かが、それを利用しようとしている。
死者たちの願いを。
死者たちの後悔を。
死者たちの愛を。
そのすべてを、彼ら自身を支配するための鎖に変えようとしている。
「……そうか」
緑谷は、呟いた。
死者は、何を望むのか。
その問いの答えを、誰かが勝手に決めようとしている。
帰ってきた理由。
生きる理由。
自分を犠牲にする理由。
それらを、ひとつの答えに押し込めようとしている。
だが。
「……違う」
緑谷は、顔を上げた。
「それは、あなたが決めることじゃない!」
黒い霧が、緑谷を向いた。
『――何?』
「エッジショットさんが、自分の命を使って誰かを救おうとしたこと。それは、彼自身が選んだことです!」
緑谷の声が、湾岸地区に響く。
「でも、だからって、彼の命をあなたが勝手に使っていい理由にはならない!」
霧が、静かに揺れた。
「彼が誰かを救いたいと思うことと、あなたが彼を支配することは違う!」
緑谷は、拳を握った。
「彼の願いを、彼自身から奪うな!」
その瞬間。
糸の動きが止まった。
エッジショットの身体が、わずかに持ち上がる。
黒い霧が、彼の胸元から剥がれかけた。
そして。
エッジショットが、目を開いた。
「……緑谷くん」
声は、かすれていた。
「……ありがとう」
彼は、微笑んだ。
その顔は、確かにエッジショットのものだった。
「……私は」
糸が、ゆっくりとほどけていく。
「私は……もう一度、誰かを救いたいと思っていたのかもしれない」
彼は、目を閉じた。
「でも……」
その言葉を最後に、身体が崩れ落ちた。
黒い霧が、空へと舞い上がる。
糸が、地面に落ちる。
湾岸地区に、静寂が戻った。
緑谷は、すぐに駆け寄ろうとした。
しかし、相澤が止めた。
「待て。状態を確認する」
医療班が、慎重にエッジショットへ近づく。
脈拍。
呼吸。
意識反応。
すべてが、極めて不安定だった。
それでも、彼は生きていた。
少なくとも、医療機器はそう示していた。
緑谷は、膝をついた。
彼の身体は、まだ糸状のままだった。
しかし、先ほどまでのように、勝手に動くことはなかった。
相澤が、空を見上げた。
黒い霧は、すでに消えていた。
ただ、遠くの空に、小さな黒い点が残っていた。
それは、すぐに見えなくなった。
まるで、何かがこちらを見届け、去っていったかのように。
*
午後一時。
雄英高校、臨時対策本部。
エッジショットの一件を受け、対策本部では緊急会議が開かれていた。
帰還者の中に、外部から何らかの存在が干渉している可能性。
その存在は、帰還者本人の記憶や感情を利用する。
そして、本人の意志を奪い、身体を操作することがある。
しかし、完全に支配される前であれば、本人の意志が抵抗する可能性もある。
現時点で、確実に言えることはそれだけだった。
「……問題は、どうすれば侵食を防げるのかだ」
相澤が言った。
「緑谷の言葉に反応して、エッジショットの動きが一時的に止まりました。真帆さんの事例でも、本人が自分の願いを明確にしたときに、黒い線が薄くなっています」
八百万が資料を示した。
「ですが、それが侵食を抑える方法なのか、単なる一時的な反応なのかは分かりません」
「同じことを何度も試すのは危険だな」
相澤は、頷いた。
「本人の意志を引き出そうとする行為が、逆に侵食を強める可能性もある」
「では、どうすれば……」
飯田が言いかけた、そのとき。
会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、オールマイトだった。
「皆さん、少しよろしいでしょうか」
彼は、手にしていた資料を机に置いた。
「帰還者に関する情報を集めていたところ、ひとつ、気になる点が見つかりました」
相澤が顔を上げる。
「何です?」
「帰還者の死亡時の記録と、帰還後に発現した能力の関係です」
オールマイトは、画面を切り替えた。
そこには、複数の帰還者の情報が並んでいた。
「帰還後に能力が変化した者たちには、ある共通点があります」
緑谷が画面を見つめた。
「……共通点?」
「はい。彼らは全員、死亡時に強い未練、あるいは未完了の目的を抱えていた可能性が高いのです」
相澤は、目を細めた。
「未練……」
「もちろん、全員に当てはまるとは限りません。しかし、少なくとも、確認できている事例では」
オールマイトは、資料を指し示した。
「誰かを守りたかった者。誰かに会いたかった者。何かを成し遂げたかった者。自分の死を受け入れられなかった者」
その言葉に、緑谷は息を呑んだ。
「……死者たちの願いが、帰還に関係している?」
「可能性はあります」
オールマイトは、頷いた。
「ただし、ここで注意しなければならないのは、願いが強いから帰ってきたのか、それとも、帰還させる存在が、願いの強い者を選んでいるのかという違いです」
会議室が静まり返った。
前者なら、帰還は死者自身の意志に関係しているかもしれない。
後者なら、帰還は何者かによる選別だ。
そして、後者であれば。
その選別には、必ず基準がある。
なぜ、この人が戻ってきたのか。
なぜ、あの人は戻ってこなかったのか。
なぜ、戻ってきた者の中に、黒い霧に侵される者がいるのか。
そのすべてが、ひとつの仕組みにつながっている可能性があった。
「……もし、死者たちの願いを利用しているのだとしたら」
緑谷が、ゆっくりと言った。
「その存在は、彼らが何を望んでいるのかを知っているんですよね」
「そう考えるのが自然だろう」
相澤が答えた。
「でも、知っていることと、理解していることは違うと思います」
緑谷は、画面を見つめた。
「クラストさんは、誰かを守りたいと思っていました。でも、自分が戻りたかったかどうかは分からなかった。エッジショットさんも、もう一度誰かを救いたいと思っていたかもしれないけど、それを理由に自分の命を勝手に使われることは望んでいなかった」
彼は、拳を握った。
「もし、あの存在が、彼らの願いだけを見ているのなら……」
緑谷は、顔を上げた。
「その人自身を、見ていないのかもしれません」
誰も、すぐには答えなかった。
願いは、その人の一部だ。
しかし、願いだけが、その人のすべてではない。
誰かを救いたいと願う人間にも、恐怖がある。
生きたいと願う人間にも、死を受け入れたい気持ちがあるかもしれない。
愛されたいと願う人間にも、誰かを憎む気持ちがある。
人間の心は、ひとつの言葉では説明できない。
その矛盾こそが、人間なのかもしれなかった。
「……緑谷くん」
オールマイトが、静かに呼んだ。
「はい」
「君は、あの存在が人類を敵視していると思うかい?」
緑谷は、考えた。
昨日、黒い円から聞こえた声。
クラストの身体に入り込んだ声。
エッジショットの願いを利用しようとした声。
それらが、同じ存在なのかは分からない。
だが、少なくとも。
「……まだ、分かりません」
緑谷は答えた。
「僕たちに何かを問いかけているようには感じます。でも、僕たちを理解しようとしているのか、それとも、何かの実験をしているのか……」
彼は、言葉を切った。
「分からないからこそ、危険だと思います」
相澤が頷いた。
「同感だ」
彼は、資料を閉じた。
「正体が分かるまでは、敵とも味方とも決めつけない。ただし、帰還者に危害を加える存在として確認された場合は、対処する」
その言葉に、緑谷は頷いた。
救いたい。
だが、何でも許すわけではない。
理解したい。
だが、理解できないものに無防備でいるわけでもない。
彼らは、ようやくその境界を考え始めていた。
そして、その境界を試すように。
新たな報告が、会議室へ届いた。
『相澤先生。至急、確認をお願いします』
「何だ」
『帰還者の一人が、保護施設から姿を消しました』
「……名前は?」
担当者は、少しだけ沈黙した。
『トガヒミコです』
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
*
同時刻。
東京の、とある路地裏。
トガヒミコは、壁にもたれて座っていた。
白い髪。
幼い顔立ち。
見慣れた笑顔。
彼女は、自分の手を見つめていた。
その手には、何も持っていない。
血も。
ナイフも。
誰かの血液も。
ただ、指先が少しだけ震えていた。
「……変なの」
彼女は呟いた。
「私、死んだんだよね?」
返事はない。
路地裏には、風の音だけが響いていた。
「なのに、どうして、ここにいるんだろう」
彼女は笑った。
いつものように。
何も考えていないような顔で。
けれど、その笑顔は、すぐに崩れた。
「……ねえ」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「私、誰に会いたかったんだっけ?」
記憶が、曖昧だった。
誰かの顔。
誰かの声。
血の匂い。
笑い声。
泣き声。
そして、最後に見た空。
それらは確かに、自分の記憶のはずだった。
しかし、ひとつだけ。
どれだけ思い出そうとしても、思い出せないものがある。
自分が死ぬ直前。
最後に、何を願ったのか。
誰の名前を呼んだのか。
何を望んでいたのか。
それだけが、どうしても思い出せない。
「……おかしいな」
トガは、首を傾げた。
「私、好きな人のことなら、何でも覚えてるはずなのに」
その瞬間。
路地裏の壁に、黒い影が伸びた。
トガは、顔を上げた。
影の中に、誰かが立っている。
人間の姿。
しかし、顔がない。
トガは、しばらくその影を見つめていた。
そして。
にっこりと笑った。
「……あなた、誰?」
影は答えなかった。
代わりに、彼女の背後から、もうひとつの声が聞こえた。
「トガちゃん」
トガの笑顔が、止まった。
振り返る。
そこには、誰もいなかった。
けれど、声だけは聞こえる。
「トガちゃん」
もう一度。
今度は、はっきりと。
彼女が、最もよく知っている声だった。
「……トゥワイス?」
トガの瞳が、大きく見開かれた。
彼は、死んだはずだった。
自分を守るために。
自分を信じて。
最後まで、自分の味方でいてくれた男。
その彼が、今。
どこかで、自分を呼んでいる。
「……トゥワイス!」
トガは立ち上がった。
路地の奥へ走り出す。
「どこ? どこにいるの?」
返事はない。
ただ、声だけが聞こえる。
「トガちゃん」
「……待って!」
彼女は、角を曲がった。
その先には、誰もいなかった。
空き地。
錆びたフェンス。
雑草。
そして、地面に落ちた、ひとつの影。
トガは、ゆっくりと足を止めた。
その影は、人間の形をしていた。
だが、ひとつではない。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
無数の影が、地面に重なっている。
そのすべてが、同じ顔をしていた。
トゥワイス。
分裂した彼の姿。
笑っている顔。
泣いている顔。
怒っている顔。
どれも、彼の顔だった。
「……あは」
トガは、笑った。
笑いながら、涙を流した。
「なに、それ」
影のひとつが、顔を上げた。
「トガちゃん」
その声は、確かにトゥワイスのものだった。
「……俺たち、帰ってきたのか?」
トガは、答えられなかった。
その瞬間、彼女の足元から、黒い霧が立ち上がった。
霧は、影の群れを包み込む。
そして、彼女の耳元で、囁いた。
『――虚飾』
トガは、笑った。
今度は、泣いていなかった。
「……ねえ」
彼女は、黒い霧を見つめた。
「あなたは、トゥワイスを返してくれるの?」
霧は、答えなかった。
ただ、無数の影が、一斉に顔を上げた。
そのすべてが、トガを見つめていた。
そして。
トゥワイスの声が、ひとつになった。
「――俺たちは、誰なんだ?」
トガの笑顔が、消えた。
彼女は、初めて気づいた。
帰ってきたのは、彼だけではない。
彼の記憶も。
彼の感情も。
彼の存在そのものも。
何かに、利用されようとしているのかもしれない。
そして、自分もまた。
何かに、選ばれてしまったのかもしれない。
トガは、ゆっくりと手を伸ばした。
目の前の影へ。
「……大丈夫」
彼女は、微笑んだ。
「私が、見つけてあげる」
影が揺れた。
「本物でも、偽物でも」
彼女の瞳に、暗い光が宿る。
「私が、トゥワイスを見つけてあげる」
黒い霧が、彼女の足元で広がった。
そして、空き地の影が、ひとつに重なった。
*
その夜。
南極大陸の中心で、死神は静かに目を閉じていた。
氷の壁に刻まれた無数の模様が、淡く光っている。
帰還者たちの光が、空間を漂う。
その中に、いくつもの異常な輝きが混じっていた。
青い炎。
黒い糸。
ひび割れた影。
そして、ふたつに分かれた光。
死神は、それらを見つめた。
「……なるほど」
彼女は、呟いた。
「死者は、ただ戻ってきているわけではない」
その声は、静かだった。
「記憶を取り戻す者。感情を取り戻す者。自分の存在を取り戻そうとする者。そして……」
彼女は、黒い霧に覆われた光を見た。
「自分自身を、失いかけている者」
氷の奥で、何かが脈打った。
死神は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたは、どこまで知っているの?」
返事はない。
ただ、氷の壁に刻まれた模様の一部が、ゆっくりと変化した。
死神は、その変化を見つめた。
そして、初めて。
ほんのわずかに、眉を寄せた。
「……違う」
彼女は、呟いた。
「私は、こんなことを命じていない」
その瞬間。
空間の奥で、無数の光が揺れた。
死神の目の前に、ひとつの影が現れた。
人間の形をしていた。
しかし、その輪郭は曖昧で、顔も見えない。
影は、静かに立っていた。
死神は、影を見つめた。
「……あなたは、誰?」
影は答えなかった。
代わりに、死神の頭の中へ、声が響いた。
『――お前が、始めたことだ』
死神の瞳が、わずかに揺れた。
『――お前が、死者を呼び戻した』
『――お前が、世界に問いを投げた』
『――ならば、最後まで見届けろ』
死神は、拳を握った。
「……私は、ただ」
言葉が途切れる。
彼女自身も、すべてを理解しているわけではなかった。
死者を戻す。
それは、彼女が選んだことだった。
だが、戻ってきた者たちの中に、何かが入り込んでいる。
その現象は、彼女の想定とは違っていた。
あるいは。
最初から、彼女は利用されていたのかもしれない。
死神は、静かに目を閉じた。
「……そう」
彼女は、呟いた。
「あなたも、私に答えを求めているのね」
影は、動かなかった。
「でも、残念ね」
死神は、顔を上げた。
「私も、まだ答えを知らない」
その瞬間。
氷の壁に、ひとつの模様が浮かび上がった。
それは、目のようにも見えた。
世界を見つめる、巨大な目。
死神は、その目を見つめ返した。
「……人間が何を望むのか」
彼女は、静かに言った。
「私も、知りたい」
氷の奥で、何かが笑った。
その笑い声は、遠く。
あまりにも遠く。
死神の理解が届かない場所から、響いていた。
そして、帰還者たちの光の中で。
ひとつの光が、完全に黒く染まった。
*
翌朝。
緑谷出久は、雄英高校の屋上に立っていた。
昨日から、ほとんど眠れていない。
クラスト。
真帆。
エッジショット。
そして、トガヒミコ。
帰ってきた人々は、それぞれ異なる事情を抱えていた。
誰かは、自分が本物なのか分からないと悩んでいた。
誰かは、もう一度生きたいと願っていた。
誰かは、死んだあとに何を望んでいたのかさえ、思い出せなかった。
そして、誰かは。
自分の中にいる何かに、願いを利用されていた。
緑谷は、空を見上げた。
太陽は昇っている。
雲が流れている。
街は動き始めている。
昨日と同じように。
それでも、世界は確実に変わっていた。
「……出久くん」
背後から声がした。
麗日だった。
「ここにいたんだね」
「うん」
「眠れた?」
「……少しだけ」
「嘘だ」
麗日は、困ったように笑った。
緑谷も、苦笑した。
「……うん。あんまり」
彼女は、隣に立った。
しばらく、二人で空を見上げていた。
「ねえ、出久くん」
「うん?」
「死んだ人が、何を望んでいるのかって……難しいね」
「……うん」
「帰ってきたい人もいる。帰りたくなかった人もいるかもしれない。帰ってきたけど、どうしていいか分からない人もいる」
麗日は、自分の手を見た。
「生きている私たちは、帰ってきてほしいって思う。でも、それが相手の望みと同じとは限らないんだよね」
緑谷は、静かに頷いた。
「……そうだね」
「それでも、私は……」
麗日は、顔を上げた。
「帰ってきた人たちに、会えてよかったって思いたい」
その声には、迷いがあった。
けれど、逃げてはいなかった。
「もし、本当に本人なのか分からなくても。もし、何かがおかしくても。最初から、会えてよかったって思うことまで、間違いにしたくない」
緑谷は、彼女を見た。
「……うん」
「もちろん、危険なことがあれば止めなきゃいけない。誰かが傷つくなら、守らなきゃいけない。でも……」
麗日は、少しだけ笑った。
「嬉しかった気持ちまで、嘘にしたくないんだ」
緑谷は、目を閉じた。
嬉しかった気持ち。
会いたかった気持ち。
もう一度、声を聞きたいと思った気持ち。
それらは、誰にも否定できない。
たとえ、帰ってきた人が本物ではなかったとしても。
たとえ、死者の帰還が何者かの仕組みによるものだったとしても。
人間が誰かを思い、誰かを求めた気持ちは、消えない。
緑谷は、ゆっくりと目を開けた。
「……僕も、そう思う」
彼は、空を見上げた。
「僕たちは、死者が帰ってきた理由を知らない。帰ってきた人たちが、本当に本人なのかも分からない」
拳を握る。
「でも、だからこそ、ちゃんと知りたい」
その声は、静かだった。
「彼らが何を望んでいるのか。何を恐れているのか。何を取り戻したいのか」
緑谷は、麗日を見た。
「そして、彼らが自分自身で選べるようにしたい」
麗日は、頷いた。
「うん」
二人は、しばらく黙っていた。
そのとき。
屋上の扉が開いた。
相澤が、二人を見ていた。
「緑谷。麗日」
「先生」
「新たな情報が入った」
相澤の表情は、険しかった。
「帰還者の一部に、共通する兆候が見つかった」
緑谷は、顔を上げた。
「共通する兆候……?」
「黒い亀裂が出現する直前、複数の帰還者が、同じ言葉を口にしている」
相澤は、端末を操作した。
画面に、記録された音声が表示される。
クラスト。
真帆。
エッジショット。
そして、別の帰還者たち。
彼らの声が、順番に再生された。
――まだ、間に合う。
――返して。
――私を、私に戻して。
――誰か、助けて。
――私は、まだ。
それぞれ違う言葉。
それぞれ違う声。
しかし、その最後に。
すべての音声に共通する、微かな音があった。
言葉ではない。
人間の声とも違う。
それは、まるで遠い場所から響く、何かの呼吸のようだった。
緑谷は、息を呑んだ。
「……これ、何ですか?」
「分からない」
相澤は、答えた。
「だが、解析の結果、この音声は帰還者の口から発せられたものではない可能性がある」
「……どういうことですか?」
「彼らが話している最中に、別の音が重なっている。しかも、その音は、すべての帰還者で同じ波形を示している」
相澤は、画面を見つめた。
「まるで、ひとつの存在が、複数の人間を通して同時に話しているように」
緑谷の背筋が冷たくなった。
死者たちの中に、何かがいる。
その何かは、ひとりではないのかもしれない。
あるいは、ひとつの存在が、無数の死者を通して、世界に触れているのかもしれない。
そして、その目的は。
まだ、誰にも分からない。
相澤は、音声を停止した。
「……これから先、帰還者の中で何が起きるか分からない。だから、緑谷。お前には、ひとつ頼みがある」
「はい」
「帰還者と接触するときは、必ず複数人で行動しろ。本人の意志を尊重すること。だが、異常が発生した場合は、すぐに距離を取れ」
「……分かりました」
「それから」
相澤は、一瞬だけ言葉を切った。
「お前自身にも、注意しろ」
緑谷は、目を見開いた。
「僕に……?」
「昨日から、黒い霧が何度もお前に反応している。なぜなのかは分からない。だが、偶然だと決めつけるには、事例が多すぎる」
相澤の声は、低かった。
「お前が帰還者にとって特別な存在なのか。あるいは、あの存在が、お前を何かの基準として見ているのか」
緑谷は、黙っていた。
自分は、もう個性を持っていない。
かつて世界を救った力は、すでに失われている。
それでも、黒い霧は自分に反応する。
なぜなのか。
その答えを、緑谷は知らない。
ただ。
昨日、空に現れた声は、自分の名前を呼んだ。
そして、問いかけた。
お前は、まだ救うのか。
救えなかったものを。
失ったものを。
それでも、救うのか。
緑谷は、拳を握った。
「……先生」
「何だ」
「もし、僕が何かに利用されているのだとしても」
彼は、顔を上げた。
「僕は、僕の意志で選びます」
相澤は、しばらく彼を見つめた。
そして、短く頷いた。
「……それでいい」
空に、雲が流れていた。
十三年目の祈り。
それは、死者を悼むための祈りだった。
しかし今、世界は新たな祈りを必要としている。
帰ってきた人たちが、もう一度、自分の人生を選べるように。
残された人たちが、失ったものを抱えながらも、前へ進めるように。
そして、誰かが勝手に決めた答えではなく、自分たち自身の答えを見つけられるように。
緑谷は、もう一度、空を見上げた。
その向こうに、何があるのか。
まだ、分からない。
けれど、いつか必ず、答えを見つける。
そう決意した、その瞬間。
緑谷の耳元で、誰にも聞こえない声が響いた。
『――まだ、気づかないのか』
緑谷は、息を止めた。
『――お前もまた、死者に救われた人間だ』
視界が、一瞬だけ暗くなる。
幼い自分。
瓦礫の下で泣いていた子供。
誰かに手を伸ばしてもらった記憶。
そして、何度も、何度も。
自分の命を救ってくれた人たちの顔。
そのすべてが、遠ざかっていく。
『――ならば、問おう』
声が囁く。
『――お前が救いたいのは、誰だ?』
緑谷は、目を閉じた。
答えは、ひとつではなかった。
オールマイト。
仲間たち。
麗日。
かつて救えなかった人々。
今、苦しんでいる帰還者たち。
そして。
自分自身。
緑谷は、ゆっくりと目を開けた。
「……全部だ」
小さく、しかし、はっきりと答えた。
「でも、僕一人では救えない」
その言葉に、声は沈黙した。
「だから、みんなと一緒に考える」
緑谷は、拳を握った。
「僕たちが何を選ぶのかは、僕たちが決める」
風が吹いた。
視界が戻る。
相澤も、麗日も、緑谷の異変には気づいていなかった。
ただ、空を見上げていた。
その空の向こうで。
何かが、静かに目を細めた。
『――そうか』
声が響く。
『――ならば、次は』
暗闇の中に、ひとつの光が浮かんだ。
その光は、緑谷出久のものではなかった。
かつて、世界を破壊しようとした男。
死んだはずの男。
憎しみを抱き、すべてを壊そうとした男。
その名は。
志村転弧。
そして、彼の中に眠るものが、ゆっくりと目を開いた。
『――憤怒』
暗闇の奥で、何かが笑った。
『――お前は、何を望む?』
その問いに、答えはなかった。
ただ。
世界のどこかで。
ひとつの願いが、静かに燃え始めた。
――すべてを、壊したい。