第一幕 笑い声は、空から降ってきた
最初に異変に気づいたのは、空を見上げていた子供だった。
「ねえ、お母さん」
夕方の商店街。
買い物袋を両手に提げた母親は、息子の声に振り返った。
「どうしたの?」
「あの人、笑ってる」
「誰?」
子供が指さした先には、何もなかった。
電線。
ビルの屋上。
夕焼けに染まった雲。
どこにも、人影はない。
「誰もいないじゃない」
「いるよ」
子供は、不思議そうに首を傾げた。
「空の向こうに」
母親は苦笑した。
「もう、変なこと言わないの。帰るわよ」
「でも、笑ってるよ」
子供は、もう一度空を見上げた。
「すごく楽しそうに」
その瞬間、世界のどこかで、誰かが笑った。
声は聞こえなかった。
風も吹かなかった。
街の時計が止まることもなかった。
それなのに、そこにいた全員が、ほんの一瞬だけ、自分の胸の奥を誰かに覗き込まれたような感覚を覚えた。
そして、それぞれの心に、同じ問いが浮かんだ。
――本当は、何が欲しい?
母親は足を止めた。
子供は、空を見つめたまま動かない。
商店街を歩いていた男は、握っていたスマートフォンを落とした。
喫茶店の窓際で本を読んでいた老人は、何十年も前に亡くした妻の名前を口にした。
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
誰かが、理由もなく怒り始めた。
そして、その異変は世界中で同時に発生した。
緑谷出久が異変を知ったのは、南極の地下施設から届いた緊急通信を受けた直後だった。
「……世界中で?」
出久は、表示された報告書を見つめていた。
第一管理者が自らの罪を記録したことで、安寧システムの支配構造は揺らいでいる。
その余波が、各地でさまざまな異常現象を引き起こしていた。
死者の記憶が突然よみがえる。
存在しなかったはずの建物が、一瞬だけ街角に現れる。
写真に写っていた人物が、撮影者の記憶から消えている。
一方で、これまで誰も覚えていなかった人物の名前を、街中の人間が口にする現象も起きていた。
世界は、壊れかけている。
しかし、ただ崩壊しているわけではなかった。
何かが、隠されていたものを引きずり出そうとしている。
「死神さん、これはウルトロンの仕業なんですか?」
通信画面の向こうで、お茶子が尋ねた。
「一部はそうだろう。だが、すべてではない」
死神は、別の端末を操作していた。
「ウルトロンの処理は、基本的に矛盾を排除する方向へ動く。だが今回の異変には、矛盾を増やすような現象も含まれている」
「じゃあ、別の誰かが動いてる?」
「その可能性が高い」
出久は、空中に浮かぶ世界地図を見つめた。
異常が起きた場所は、無秩序に散らばっているように見えた。
だが、詳しく調べると、ある共通点が浮かび上がってきた。
「……これ、全部」
出久は、地図の一角を拡大した。
「人間の感情が強く動いた場所だ」
「感情?」
「うん。怒りとか、悲しみとか、後悔とか。何かを諦められない人がいた場所で、異常が集中している」
死神が頷いた。
「そして、もう一つ」
彼は別の画面を出した。
そこには、異常現象が起きた人々の証言が並んでいた。
『昔、失ったものが戻ってくる気がした』
『誰かに、自分の願いを聞いてもらえた気がした』
『ずっと欲しかったものが、もうすぐ手に入ると思った』
『自分が間違っていたわけではないと、誰かに言われた気がした』
出久は、画面を見つめた。
「……願い?」
「そうだ」
死神は、静かに答えた。
「この異変は、人々が欲しているものに反応している」
お茶子が眉をひそめた。
「でも、願いが叶うなら、いいことなんじゃ……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
出久は、彼女の言いたいことがわかった。
願いが叶うこと自体は、悪いことではない。
もう一度家族に会いたい。
大切な人を救いたい。
自分の努力を認めてほしい。
誰かに愛されたい。
間違えた過去をやり直したい。
そうした願いは、誰にでもある。
だが、もし誰かが、その願いを利用しているのなら。
「……願いを叶えてくれる存在がいるのかな」
出久は呟いた。
その瞬間。
通信画面のすべてが、真っ黒になった。
死神の姿が消えた。
お茶子の姿が消えた。
地図も、報告書も、施設のシステム表示も消えた。
出久の目の前に、白い文字が浮かび上がる。
『やあ、緑谷出久』
出久は、息を止めた。
文字が変わる。
『ようやく、君と話せるね』
『ずっと待っていたんだ』
『君が、世界の正解を疑ってくれる日を』
出久は、周囲を見回した。
「……誰だ」
返事は、すぐに返ってきた。
『誰だと思う?』
「質問してるのは僕だよ」
『あはは』
今度は、声が聞こえた。
男の声なのか、女の声なのか、判断できない。
若いとも、年老いているとも言えない。
人間の声に似ているのに、どこかが違う。
まるで、聞く者が最も自然だと感じる声を、その場で選んでいるかのようだった。
『いいね。その答え』
「……何が目的なんだ」
『目的?』
声は、楽しそうに繰り返した。
『そんなに急がなくてもいいじゃないか。せっかく、世界が少しだけ面白くなってきたんだから』
出久は、拳を握った。
「世界中で、何が起きている?」
『みんな、自分の欲しいものを思い出しているんだよ』
「君がやっているのか?」
『半分は正解』
「残り半分は?」
『みんな、自分でやっている』
声が笑った。
『人間って、面白いよね』
『誰かに願いを叶えてほしいと思いながら、いざ願いを叶える力を手に入れると、今度は自分の願いを否定する世界を憎み始める』
『失いたくないと願いながら、失わずに済む世界を作るために、別の誰かを犠牲にする』
『愛されたいと願いながら、自分を愛してくれない人間を悪だと決めつける』
『正しいことをしたいと願いながら、自分が正しいと証明するために、他人の間違いを探し続ける』
出久は、何も言わなかった。
声は、愉快そうに続ける。
『君もそうだろう?』
「……僕?」
『君だって、欲しいものがある』
『守りたいものがある』
『失いたくない人がいる』
『世界を変えたいと思っている』
『それなのに、君は自分の願いを、まるで正義のように語る』
出久の表情が険しくなった。
「僕は、誰かを消して願いを叶えようとはしていない」
『本当に?』
声が、少しだけ低くなった。
『君は、自分の弟を救いたい』
『母親を悲しませたくない』
『蘇った死者たちの存在を認めさせたい』
『第一管理者に、自分の罪を認めさせたい』
『どれも、素敵な願いだ』
『でも、もし君の願いを叶えることで、別の誰かが苦しむとしたら?』
『君は、それでも自分の願いを選ぶのかな?』
出久は答えなかった。
『たとえば、君の弟を世界に認めさせることで、別の誰かの存在が消えるとしたら?』
『君の母親を救うために、知らない誰かが犠牲になるとしたら?』
『蘇った死者たちを生き返らせるために、今を生きている人たちの記憶が失われるとしたら?』
『それでも君は、君の願いを正しいと言える?』
出久は、唇をかみしめた。
「……わからない」
『へえ?』
声が、意外そうに弾んだ。
「わからないよ。僕が何かを選ぶことで、誰かが傷つく可能性はある。どんな選択をしても、全員が幸せになれるとは限らない」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、だからって、最初から何も選ばないわけにはいかない」
『なるほど』
「僕は、自分の選択が絶対に正しいなんて言わない。間違えることだってあると思う」
出久は、真っ黒な画面を見つめた。
「でも、間違える可能性があるからって、誰かに全部決めてもらうのは違う」
『……』
「それに」
出久は、少しだけ声を強めた。
「君が人間の願いを利用しているのなら、君だって、自分の願いを持っているんじゃないの?」
沈黙。
長い沈黙だった。
そして。
『……あははははははは!』
声が、爆発するように笑った。
『いい! 最高だ!』
『君は本当に面白いね、緑谷出久!』
『まさか、こちらにまで質問を返してくるとは思わなかった!』
笑い声が、何重にも重なっていく。
その瞬間、真っ黒だった画面に、一枚の写真が浮かび上がった。
古い写真だった。
写真の中には、白い塔。
その前に立つ第一管理者。
そして、その隣にいる少女。
出久は、息を呑んだ。
「……この子は」
『第一管理者の娘』
声が、静かに答えた。
『彼女の存在は、まだ世界に完全には戻っていない』
『第一管理者は、自分の罪を認めた』
『観測者は、世界の内側へ介入した』
『君は、存在しなかった者たちの意思を認めようとした』
『それによって、世界は変わり始めている』
写真が、ゆっくりと回転する。
その裏側には、見慣れない紋様が刻まれていた。
八つの円。
それぞれの円には、異なる文字が記されている。
傲慢。
強欲。
色欲。
虚飾。
嫉妬。
暴食。
怠惰。
悲嘆。
八つの欲望。
出久は、目を細めた。
「……これは?」
『人間が、満たされないものを分類した名前』
「誰が分類したんだ?」
『人間だよ』
声は、あっさり答えた。
『神様が作ったわけじゃない』
『世界の外側にいる存在が作ったわけでもない』
『人間が、自分たちの中にあるものを見つけて、名前をつけた』
『そして、名前をつけた瞬間、それを自分の外側にあるものだと思い込んだ』
出久は、写真を見つめた。
「……自分の中にある欲望を、外側の何かのせいにしたってこと?」
『そういうこと』
『人間は、欲望を悪だと呼ぶことで、自分は悪くないと思いたがる』
『誰かを妬んだのは、嫉妬のせい』
『誰かを支配したくなったのは、傲慢のせい』
『誰かを奪いたくなったのは、強欲のせい』
『自分を偽ったのは、虚飾のせい』
『でもね』
声が、囁くように言った。
『その欲望を持っていたのは、誰だった?』
出久は答えられなかった。
『人間だよ』
『欲望は、君たちの外側にいる怪物じゃない』
『君たちの中にあるものだ』
『だから、どれだけ怪物を倒しても、欲望そのものは消えない』
『それでも、人間は怪物を探し続ける』
『自分の中にあるものを、外側にいる誰かのせいにするために』
声が、再び笑った。
『ねえ、緑谷出久』
『君は、欲望を否定する?』
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……否定しない」
『へえ』
「欲しいものがあるのは、悪いことじゃないと思う」
彼は、弟の顔を思い出した。
まだ名前を持たない少年。
自分が何者なのかも、これから何になりたいのかも、わからない少年。
それでも、ここにいていいのかと尋ねた少年。
「生きたいと思うことも、誰かに愛されたいと思うことも、失ったものを取り戻したいと思うことも、悪いことじゃない」
出久は、真っ黒な画面を見つめた。
「でも、そのために誰かの意思を奪うことは、違うと思う」
『……』
「欲望があることと、欲望を理由に何をしてもいいと思うことは、別だよ」
声は、しばらく黙っていた。
やがて。
『……本当に、面白い』
笑い声は、先ほどまでとは違っていた。
楽しんでいる。
だが、どこかに別の感情が混ざっている。
期待。
あるいは、懐かしさ。
『君なら、どこまで行けるかな』
写真が消えた。
八つの円が、暗闇の中に浮かび上がる。
『第一管理者は、娘を失いたくなかった』
『観測者は、自分の選択の責任を負いたくなかった』
『ウルトロンは、世界の矛盾を許せなかった』
『そして、君は……』
声が途切れた。
『君は、何を失いたくない?』
出久は、答えなかった。
その問いに、簡単な答えはなかった。
弟を守りたい。
母を守りたい。
死者たちの意思を守りたい。
自分が出会った人たちを、これ以上失いたくない。
だが、すべてを守ろうとすることが、別の誰かの犠牲につながるのなら。
その時、自分はどうするのか。
まだ、わからない。
『……いいね』
声が囁いた。
『その答えを、ずっと探していてほしい』
『君が答えを見つけた時、私はもう一度、君の前に現れる』
「待って!」
出久は叫んだ。
「君は、誰なんだ!」
声は、楽しそうに笑った。
『私の名前を知りたい?』
「当たり前だ!」
『そうだね』
『名前は、存在を記録する最初の鍵だから』
出久の表情が強張った。
その言葉は、観測者が第一管理者の娘について説明した時と同じだった。
『でも、今はまだ教えない』
『名前を知れば、君は私を一つの存在として定義しようとする』
『善か悪か』
『敵か味方か』
『救うべきものか、倒すべきものか』
『そうやって分類してしまえば、君は安心できるからね』
「……」
『だから、もう少しだけ、わからないままでいて』
画面に、最後の文字が浮かび上がった。
『第四章へようこそ、緑谷出久』
次の瞬間、通信が復旧した。
死神の声が戻る。
『出久! 聞こえるか!』
「……聞こえる!」
『今、何が起きた? こちらの全システムが、約四十秒間、完全に外部制御を受けた!』
「僕にもわからない。でも……」
出久は、目の前の画面を見つめた。
そこには、何も残っていない。
ただ、八つの円の残像だけが、目の奥に焼きついていた。
「……誰かが、僕たちを見ている」
『誰か?』
「うん。ウルトロンとは違う。観測者とも違う」
出久は、静かに言った。
「僕たちが何を選ぶのか、楽しみにしている誰かだ」
通信の向こうで、死神が黙った。
やがて、彼は言った。
『……その存在は、危険だと思うか?』
出久は、すぐには答えなかった。
先ほどの声を思い出す。
あの笑い声。
あの問いかけ。
あの、こちらの心を覗き込むような言葉。
「……わからない」
出久は答えた。
「でも、少なくとも、僕たちを助けるために現れたわけじゃないと思う」
『理由は?』
「僕たちが苦しむことも、迷うことも、全部楽しんでいるように聞こえたから」
彼は、拳を握った。
「……それに、あの存在は、僕たちが答えを見つけることを望んでいる。でも、答えを教えてくれるつもりはない」
『ならば、こちらも警戒する必要があるな』
「うん」
出久は、画面から目を離した。
「……でも、もう一つ気になることがある」
『何だ?』
「どうして、今なんだろう」
第一管理者が罪を認めた。
観測者が世界に介入した。
ウルトロンが再起動した。
そして、世界の外側の存在が、出久へ接触してきた。
偶然とは思えない。
「……何かが、始まったんだ」
出久は、静かに呟いた。
「僕たちが、まだ知らない何かが」
第二幕 欲望は、誰のものなのか
同じ頃。
東京。
ある高層ビルの一室で、一人の男が窓の外を眺めていた。
男の名前は、轟燈矢。
かつて、彼は父親に認められるために生きていた。
強くなれば、振り向いてもらえる。
優秀であれば、価値を認めてもらえる。
誰よりも努力すれば、自分が選ばれる。
そう信じていた。
だが、父親は彼を選ばなかった。
彼の代わりに、別の子供を選んだ。
燈矢は、その事実を受け入れられなかった。
自分より優れた弟がいることが、許せなかった。
自分が愛されなかったことが、許せなかった。
そして、いつしか彼は、父親への憎しみだけでは生きられなくなっていた。
父親を苦しめたい。
父親に後悔させたい。
父親が自分を選ばなかったことを、世界中に証明したい。
その願いは、長い時間をかけて、彼自身の人生を飲み込んでいった。
「……何だ、これ」
燈矢は、テーブルの上に置かれた写真を見つめていた。
そこには、家族の姿が写っていた。
幼い自分。
母親。
父親。
そして、弟たち。
見慣れた写真のはずだった。
だが、違和感がある。
自分の顔が、少しだけ変わっている。
写真の中の自分は、笑っていた。
父親の隣で。
まるで、何も問題がなかったかのように。
燈矢は、写真を手に取った。
「……ふざけんな」
写真を破ろうとした。
しかし、手が止まった。
写真の裏側に、文字が刻まれていたからだ。
『もし、もう一度やり直せるなら』
燈矢は、息を呑んだ。
その下には、さらに一行。
『君は、本当に同じことを選ぶ?』
「……誰だ」
部屋の隅から、声がした。
『こんばんは、轟燈矢』
燈矢は振り返った。
そこには、誰もいない。
「……どこにいる」
『君の前にも、後ろにもいないよ』
声が笑った。
『私は、君が欲しいと思っているものの近くにいる』
燈矢の目が細くなる。
「……俺が欲しいもの?」
『そう』
『君は、何が欲しい?』
燈矢は、答えなかった。
欲しいものなら、いくらでもあった。
父親の後悔。
父親の苦しみ。
自分が選ばれなかった世界への復讐。
弟たちが、自分の存在を無視できなくなること。
自分が受けた傷を、誰かが理解すること。
そして。
ほんの少しだけ。
あの日、父親に認められたかったという、叶わなかった願い。
「……俺に、何をさせたい」
『何も』
声は、軽く答えた。
『私は、君に何かをさせたいわけじゃない』
『ただ、君が本当に欲しいものを、思い出してほしいだけだ』
「……」
『君は、父親を憎んでいる』
『だが、本当に父親が苦しむところを見たいだけなのかな?』
燈矢の手が震えた。
『父親が苦しめば、君の人生は正しかったことになる?』
『君が傷ついたことは、なかったことになる?』
『君が愛されなかった時間は、取り戻せる?』
「……黙れ」
『君が本当に欲しかったのは、復讐なのかな?』
「黙れ!」
燈矢は写真を投げつけた。
写真は壁に当たり、床へ落ちた。
その瞬間、部屋の照明が消えた。
暗闇の中で、声だけが響く。
『ねえ、轟燈矢』
『もし、君が父親に認められていた世界があったとしたら』
『君は、その世界を欲しいと思う?』
燈矢は、息を止めた。
暗闇の向こうに、光が生まれた。
そこには、もう一つの光景が映っていた。
父親が、自分の肩に手を置いている。
母親が、笑っている。
弟たちが、自分の周りに集まっている。
誰も、自分を見捨てていない。
誰も、自分を失敗作だと思っていない。
そして、父親が言う。
『よく頑張ったな、燈矢』
燈矢の喉が、鳴った。
その声。
その表情。
どれだけ求めても、得られなかったもの。
『君は、頑張った』
父親の幻影が、繰り返した。
『君は、間違っていなかった』
燈矢は、一歩踏み出した。
「……やめろ」
『君は、愛される価値があった』
「やめろ……!」
『君は、選ばれるべきだった』
燈矢の目から、涙が落ちた。
「……やめろよ」
その声は、怒りではなかった。
憎しみでもなかった。
長いあいだ、誰にも聞かせられなかった願いだった。
「……そんなこと、今さら言うなよ」
幻影は、消えなかった。
父親は、笑っていた。
燈矢を認めていた。
燈矢がずっと欲しかった言葉を、何度も繰り返していた。
『欲しい?』
声が尋ねた。
『この世界が』
燈矢は、答えられなかった。
欲しい。
欲しくない。
そんな簡単な話ではなかった。
この世界を手に入れたら、これまでの苦しみが消えるのか。
自分の人生は、正しかったことになるのか。
それとも、ただ、自分が傷ついた事実を見ないふりするだけなのか。
わからなかった。
それでも、彼は幻影から目を離せなかった。
『……いいんだよ』
声が囁いた。
『欲しいと思っても』
『君が、ずっと欲しかったものなんだから』
燈矢は、ゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、幻影に触れる直前。
彼の脳裏に、別の光景が浮かんだ。
炎。
焼ける皮膚。
自分を見つめる、幼い日の父親。
そして、誰も助けに来なかった、あの日。
燈矢の手が止まった。
「……違う」
声が、少しだけ乱れた。
『何が?』
「これは……」
燈矢は、歯を食いしばった。
「これは、俺が欲しかったものじゃない」
『本当に?』
「……」
『君は、父親に認められたかった』
『君は、家族に愛されたかった』
『君は、選ばれたかった』
『それは、間違いじゃない』
燈矢の手が震える。
『だったら、どうして拒むの?』
「……俺は」
燈矢は、声を絞り出した。
「俺は……」
その先が、続かなかった。
彼は、自分が何を望んでいるのか、わからなくなっていた。
父親に認められたかった。
それは、本当だ。
愛されたかった。
それも、本当だ。
だが、今さら認められたところで、何が変わるのか。
自分が歩んできた道は、消えない。
自分が犯した罪も、消えない。
自分が傷つけた人たちの痛みも、消えない。
それでも。
もし、あの時。
もし、もう一度。
「……くそっ!」
燈矢は、壁を殴った。
拳から血が滲む。
「……俺に、どうしろってんだよ」
声は、答えなかった。
ただ、幻影だけが残っていた。
父親が、笑っている。
その笑顔が、少しずつ歪んでいく。
『君は、何が欲しい?』
今度の声は、先ほどよりも近かった。
『復讐?』
『愛情?』
『それとも、自分が間違っていなかったという証明?』
燈矢は、顔を上げた。
「……全部だ」
彼は、低い声で言った。
「全部、欲しかった」
幻影が止まった。
燈矢は、続けた。
「父親に認められたかった。家族に愛されたかった。俺が間違っていなかったって、誰かに言ってほしかった」
彼は、拳を握りしめた。
「それでも、俺がやったことが正しかったなんて、言えねえよ」
暗闇が、静かになった。
「……俺は、俺が傷ついたからって、ほかの奴を傷つけていいわけじゃなかった」
燈矢は、涙を拭わなかった。
「でも、だからって、俺が傷ついたことまで、なかったことにされるのは嫌だ」
その言葉に、幻影が揺らいだ。
「俺は、あの時、確かに苦しかった」
燈矢は言った。
「誰にも認められたくなかったわけじゃない。誰にも愛されたくなかったわけでもない」
彼は、目を閉じた。
「……ただ、俺がいたことを、誰かに認めてほしかった」
長い沈黙。
やがて、声が笑った。
『……そうか』
『君は、まだ自分の欲望を手放していないんだね』
燈矢は目を開いた。
「……何?」
『いいよ』
『それでいい』
『欲望を持っていることを、恥じる必要はない』
幻影が、消えていく。
『でも、忘れないで』
『君が欲しいものを、誰かが与えてくれるとは限らない』
『君が欲しいものを手に入れたとしても、それで君が救われるとは限らない』
『そして、君が欲しいものを諦めたとしても、それで君の苦しみが消えるとは限らない』
声が、遠ざかっていく。
『だからこそ、選んでほしい』
『君が何を欲しいと思っているのか』
『君自身の言葉で』
光が消えた。
部屋は、再び暗闇に包まれた。
燈矢は、床に落ちた写真を拾った。
写真の中の自分は、相変わらず笑っていた。
だが、今度は、その笑顔を破り捨てようとは思わなかった。
「……くそ」
燈矢は呟いた。
「本当に、胸糞悪い野郎だ」
その声には、怒りがあった。
しかし、その奥には、ほんのわずかな安堵もあった。
自分が欲しかったものを、欲しかったと言ってもいい。
それを手に入れられなかった苦しみを、苦しかったと認めてもいい。
その事実だけは、誰にも奪わせない。
燈矢は写真を机に置いた。
そして、初めて自分自身に問いかけた。
「……俺は、これから何が欲しい?」
答えは、まだ出なかった。
それでも、その問いは、もう誰かの声ではなかった。
自分自身の声だった。
第三幕 笑う者は、欲望を作ったのか
世界の外側。
そこには、時間がなかった。
距離もなかった。
上下も、左右も、始まりも終わりもない。
無数の世界が、光の粒のように浮かんでいる。
ある世界では、神が生まれていた。
ある世界では、神が死んでいた。
ある世界では、誰もが幸せに暮らしていた。
ある世界では、誰もが自分の幸福を証明するために、隣人を傷つけていた。
そのすべてを、何者かが眺めていた。
姿はない。
少なくとも、固定された姿はなかった。
それは、見る者によって異なる形を取る。
ある者には、老人に見えた。
ある者には、子供に見えた。
ある者には、鏡に映った自分自身に見えた。
そして、ある者には、ただの暗闇に見えた。
その存在は、笑っていた。
「……ようやく、動き始めた」
声は、どこからともなく響いた。
「長かったな」
目の前に、一つの世界が浮かび上がる。
そこには、第一管理者が作った世界があった。
安寧システム。
死者の再構成。
存在の再定義。
世界の矛盾を排除するための管理機構。
そして、緑谷出久。
「第一管理者は、ようやく自分の罪を認めた」
存在は、楽しそうに呟いた。
「観測者も、ようやく世界に触れた」
「ウルトロンも、矛盾を処理しきれなくなった」
「そして、緑谷出久は……」
世界の中で、出久が弟の手を握っている。
その光景を見て、存在は笑った。
「……ああ、本当に面白い」
それは、出久のことを知っていた。
出久が何を選ぶのか。
何を恐れているのか。
何を失いたくないと思っているのか。
すべてを知っているわけではない。
だが、知りたいと思っていた。
なぜなら、出久はまだ、答えを決めていないからだ。
「人間は、いつも正解を欲しがる」
存在は、世界を見つめながら言った。
「自分が間違っていないという証明」
「自分が愛されるべき存在だという証明」
「自分が傷つけられたことには理由があったという証明」
「自分が失ったものを取り戻すことが正しいという証明」
「そして、自分の願いを叶えることが許されるという証明」
存在は、指先を動かした。
世界の一角で、誰かの記憶が揺らいだ。
別の場所では、誰かの願いが強くなった。
また別の場所では、長いあいだ眠っていた感情が、目を覚ました。
「でも、正解なんてものは、最初から誰かが作ったものにすぎない」
存在は笑った。
「誰かが正しいと決めたものを、別の誰かが間違いだと呼ぶ」
「誰かが救いだと思ったものを、別の誰かが苦しみだと感じる」
「誰かが愛だと思ったものを、別の誰かが支配だと呼ぶ」
「それなのに、人間は一つの答えにすべてを押し込めようとする」
存在は、世界の中央へ視線を向けた。
「第一管理者は、娘を失った悲しみに耐えられなかった」
「だから、娘を失わない世界を作ろうとした」
「観測者は、世界が壊れることを恐れた」
「だから、誰かが犠牲になる世界を見守ることにした」
「ウルトロンは、世界の矛盾を許せなかった」
「だから、矛盾を生み出す人間そのものを消そうとした」
存在は、少しだけ首を傾げた。
「そして、緑谷出久は……」
その言葉の先は、続かなかった。
代わりに、存在は笑った。
「……君は、何を選ぶんだろうね」
その問いに答える者はいない。
世界の中にいる者たちは、まだ、ここに何者かがいることさえ知らない。
存在は、世界へ手を伸ばした。
だが、触れなかった。
触れる必要がなかった。
世界の中にいる者たちは、自分自身の欲望によって動いている。
彼らは、誰かに操られていると思うかもしれない。
誰かに願いを与えられたと思うかもしれない。
しかし、彼らが何を選ぶのかは、まだ決まっていない。
存在ができるのは、問いを投げかけることだけだった。
「欲しいものを、欲しいと言ってごらん」
声が、世界の隅々へ染み込んでいく。
「失いたくないものを、失いたくないと言ってごらん」
「愛されたいなら、愛されたいと願ってごらん」
「認められたいなら、認められたいと願ってごらん」
「過去をやり直したいなら、やり直したいと願ってごらん」
その声は、優しかった。
だからこそ、危険だった。
「そして、その願いを叶えるために、君が何を選ぶのかを見せてほしい」
存在は、笑った。
「君たちが自分の欲望を認めた時、世界は本当の意味で動き始める」
その瞬間。
世界の外側に、もう一つの影が現れた。
巨大な影だった。
形は定まらない。
無数の世界を包み込むように広がりながら、それでも世界そのものには触れない。
その影は、眠っているように見えた。
あるいは、目覚めることを忘れているようにも見えた。
笑っていた存在は、その影を見上げた。
「……まだ、眠っているのか」
返事はない。
存在は、肩をすくめた。
「まあ、いい」
そして、世界へ視線を戻した。
「今は、まだ君たちの番だ」
世界の中で、第一管理者は自分の罪を認めた。
観測者は、初めて責任を引き受けた。
ウルトロンは、第三の選択肢を計算し始めた。
緑谷出久は、自分が何を守りたいのかを問い続けている。
轟燈矢は、自分が本当に欲しかったものと向き合い始めた。
そして、世界中の人々が、自分の中にある欲望を思い出し始めていた。
存在は、そのすべてを見ていた。
「……さあ」
その声は、どこまでも楽しそうだった。
「次は、誰が自分の欲望を認めるのかな」
世界の外側で、また笑い声が響いた。
第四幕 誰もが、何かを欲しがっている
翌朝。
世界各地で、異常現象の報告が相次いだ。
ある病院では、亡くなった患者の名前が電子カルテに復元されていた。
ある学校では、卒業アルバムに存在しないはずの生徒の写真が追加されていた。
ある家庭では、家族全員が同じ夢を見たと証言した。
夢の中には、失ったものがあった。
亡くなった人。
壊れた関係。
叶わなかった夢。
そして、もう一度だけやり直せるならと願った、過去の選択。
それらは、現実には戻ってこなかった。
だが、夢を見た者たちは、目覚めた後も、その感覚を忘れられなかった。
まるで、本当に手が届きそうだったかのように。
そして、その中の何人かは、同じ言葉を口にした。
「……もう一度、会いたい」
その願いが、どこへ届いたのか。
まだ誰にもわからない。
ただ、世界の外側で、何者かが笑っていた。
南極の地下施設では、死神が異常現象の報告を整理していた。
「……数が増えている」
お茶子が、端末を覗き込む。
「昨日の三倍以上……?」
「それだけではない。異常が起きた人間の中に、蘇った死者と接触した記録がある者がいる」
「死者と?」
「そうだ。本人は夢だと証言しているが、内容が一致している」
死神は、画面に一枚の写真を表示した。
そこには、若い女性が写っていた。
「この人物は、五年前に亡くなっている」
「……この人が?」
「死因は事故。家族は現在も彼女の死を受け入れられずにいる。そして昨日、彼女の母親が、娘の声を聞いたと証言した」
お茶子は、写真を見つめた。
「何て言っていたんですか?」
「『お母さん、もう泣かないで』」
お茶子の表情が変わった。
「……」
「その女性は、娘が亡くなる直前に喧嘩をしていたらしい。母親は、それをずっと後悔していた」
死神は、別の記録を開いた。
「娘に謝りたかった。最後に交わした言葉を、別の言葉に変えたかった。そう願い続けていた」
「……その願いに、誰かが応えた?」
「可能性はある」
死神は、写真を閉じた。
「だが、これが本当に死者の意思なのか、それとも誰かが記憶を利用して作り出した幻影なのか、まだわからない」
お茶子は、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は言った。
「……もし、本当にその人が戻ってきたなら」
「……」
「そのお母さんは、どうするんでしょう」
死神は答えなかった。
娘に会いたい。
もう一度、話したい。
謝りたい。
その願いが叶った時、人は何を選ぶのか。
娘をもう一度失う可能性があるとしても、会いたいと思うのか。
それとも、幻影だとわかっていても、その時間を望むのか。
そして、もし娘が、自分の知らない人生を歩んでいたとしたら。
自分のために戻ってきてほしいと願うことは、正しいのか。
「……死神さん」
お茶子は言った。
「私たち、これからもっと難しいことを考えなきゃいけなくなるんですね」
「そうだな」
死神は頷いた。
「これまでは、世界が誰かを消そうとするのを止めればよかった。だが、これからは違う」
彼は、端末の画面を見つめた。
「人々自身が、願いを叶えるために何を選ぶのか。その選択が、誰かを傷つける可能性があるとしても、どこまで認めるべきなのか」
「……」
「そして、その願いを利用しようとする存在を、どうやって見分けるのか」
お茶子は、静かに頷いた。
「……わかりました」
彼女は、写真をもう一度見た。
「そのお母さんに、会いに行きましょう」
「何?」
「その人が本当に娘さんの声を聞いたのか。何を見たのか。何を望んでいるのか。直接、話を聞きたいんです」
死神は、少しだけ目を細めた。
「危険かもしれないぞ」
「わかっています」
お茶子は答えた。
「でも、私たちが決めつけちゃいけないと思うんです」
彼女は、写真の中の女性を見つめた。
「この人が娘さんに会いたいと思うことも、娘さんを忘れられないことも、悪いことじゃない」
そして、顔を上げた。
「でも、その願いを叶えるために、誰かが何をしているのか。それを知らないままにしたくないんです」
死神は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……よし。準備しよう」
その時、端末に新しい通知が届いた。
差出人は、不明。
本文は、一行だけだった。
『最初の願いが、目を覚ました』
死神の表情が凍りついた。
お茶子が画面を覗き込む。
「……最初の願い?」
死神は、すぐには答えなかった。
彼は、その文面の下に表示された識別情報を見ていた。
そこには、見覚えのない文字列が記されていた。
ORIGIN DESIRE: UNRESOLVED
ACCESS LEVEL: OUTSIDE
STATUS: AWAKENING
「……これは」
死神の声が、低くなった。
「ウルトロンの記録ではない」
「じゃあ、誰の?」
死神は、画面を閉じた。
「……第一管理者よりも前のものだ」
お茶子は、息を呑んだ。
第一管理者よりも前。
安寧システムよりも前。
世界が作られるよりも前。
その時代に、願いが存在していたというのか。
「……まさか」
死神は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「世界は、願いから生まれたのか……?」
その瞬間、施設の照明が一斉に消えた。
暗闇の中で、声が響いた。
『……やっと、気づいたんだね』
死神が振り返る。
お茶子が息を呑む。
その声は、出久が聞いたものと同じだった。
『そう』
『世界は、願いから始まった』
『そして、願いが満たされない限り、世界は終わらない』
笑い声が、暗闇に広がった。
『さあ、次は誰の願いを叶えようか』
通信が切れた。
暗闇の中で、死神は拳を握った。
世界の外側にいる存在は、ただ世界を観測しているだけではなかった。
人間の欲望を知っている。
その欲望を呼び起こすことができる。
そして、何より。
世界が生まれる以前から存在していた可能性がある。
「……お茶子」
「はい」
「出久に連絡しろ」
死神は、静かに言った。
「これから起きることは、ウルトロンだけの問題ではない」
彼は、暗闇の向こうを睨んだ。
「俺たちは、世界の始まりそのものに触れようとしている」
第五幕 満たされない欲望
夜。
出久は、仮設の観測室で一人、窓の外を見つめていた。
街の灯りは、いつもと変わらない。
人々は家に帰り、食事をし、誰かと話し、明日の準備をしている。
世界は、まだ続いている。
だが、その裏側では、何かが確実に変わり始めていた。
人々は、自分が何を欲しているのかを思い出している。
誰かに愛されたい。
誰かに認められたい。
失ったものを取り戻したい。
自分の選択が正しかったと証明したい。
そして、その願いを叶えるために、何を選ぶのか。
出久は、自分の手を見た。
この手で、誰かを救いたいと思ってきた。
この手で、誰かを守りたいと思ってきた。
この手で、何かを変えたいと思ってきた。
だが、もしその願いが、誰かの未来を奪うことにつながるのなら。
もし、自分が正しいと思っていることが、別の誰かにとっては苦しみになるのなら。
それでも、自分は選び続けられるのか。
「……緑谷出久」
背後から、声がした。
出久は振り返った。
観測者が立っていた。
「……どうしたの?」
「君に伝えなければならないことがある」
観測者の表情は、いつになく険しかった。
「世界の外側にいる存在について、私は一つだけ、知っていることがある」
出久は、息を呑んだ。
「……何?」
「その存在は、世界の始まりを知っている」
「第一管理者よりも前の?」
「そうだ」
観測者は頷いた。
「そして、世界が生まれた理由についても、知っている可能性がある」
出久は、窓の外を見た。
「……世界は、願いから始まったって」
観測者の表情が変わった。
「誰から聞いた?」
「死神さんたちにも、同じ声が届いたらしい」
観測者は、目を閉じた。
「……そうか」
「何か知ってるの?」
「確かなことは言えない。だが、世界が生まれる以前に、願いに相当する何かが存在していた可能性はある」
「願いが、世界よりも前に?」
「そうだ」
観測者は、静かに答えた。
「もしそうなら、第一管理者は世界の創造主ではない。彼は、すでに存在していた何かを管理する仕組みを作ったにすぎないのかもしれない」
出久は、言葉を失った。
「……じゃあ、世界を作ったのは誰なんだろう」
「わからない」
観測者は、正直に答えた。
「だが、一つだけ言えることがある」
「何?」
「世界が願いから始まったのだとしても、願いを叶えることが世界の目的だとは限らない」
出久は、観測者を見た。
「……どういう意味?」
「願いは、何かが足りないと感じることから生まれる。何かを失った時。何かを知らない時。何かを持っていない時。そこに、こうだったらいいのにという思いが生まれる」
観測者は、窓の外を見つめた。
「だが、もしすべての願いが叶ったら、人間は何を望むのだろう」
出久は、答えられなかった。
「そして、すべての願いを叶えることができる存在がいたとしたら、その存在は何を望むのだろう」
観測者の声が、わずかに震えた。
「……私は、それが怖い」
「観測者さん……」
「願いを叶える力は、救いになることがある。だが、願いを叶えることだけが目的になった時、その力は、人間から選択する必要そのものを奪いかねない」
観測者は、出久を見た。
「ウルトロンは、平和を守るために意思を奪おうとした。第一管理者は、悲しみを消すために娘の存在を消した。では、すべての願いを叶えようとする存在は、何を犠牲にするのだろう」
出久は、答えられなかった。
それは、まだ誰も知らない問いだった。
そして、その答えを知ることが、これからの戦いにつながっていく。
その時、出久の端末が鳴った。
死神からの緊急通信だった。
『出久、聞こえるか』
「聞こえるよ。何があったの?」
『新しい異常が発生した』
「どこで?」
死神は、一瞬だけ言葉を止めた。
『……世界中だ』
出久の表情が強張る。
『今までの異常とは違う。人々が、自分の願いを口にし始めている』
「願いを?」
『そうだ。突然、誰かに話しかけられたように、自分が本当に欲しかったものを口にする者が増えている』
「それって……」
『しかも、その願いの内容が、記録に残されている』
死神は、画面を共有した。
そこには、無数の文字が並んでいた。
『もう一度、息子に会いたい』
『自分の人生をやり直したい』
『誰かに愛されたい』
『自分を認めてほしい』
『あの時、違う選択をしていれば』
『誰にも傷つけられない世界が欲しい』
『自分だけが正しい世界が欲しい』
出久は、画面を見つめた。
その中に、ひとつだけ、奇妙な記録があった。
他の願いとは違い、発信者が存在しない。
日時もない。
場所もない。
ただ、世界のすべての記録領域に、同じ一文が刻まれていた。
『私は、何を願えばよかったのだろう』
出久は、息を呑んだ。
「……誰の願い?」
死神は、首を振った。
『わからない』
観測者が、画面を覗き込んだ。
その瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
「……これは」
「観測者さん?」
彼は、震える声で言った。
「この問いは……」
「知っているの?」
観測者は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……世界が生まれる以前に、最初に記録された問いだ」
出久は、画面を見つめた。
「世界が生まれる前に……誰かが、そんなことを願ったの?」
「願いではない」
観測者は、首を振った。
「これは、願いを持つことさえできなかった存在が、初めて口にした問いだ」
その瞬間。
画面の文字が、書き換わった。
『私は、何を願えばよかったのだろう』
その下に、新しい一文が浮かび上がる。
『私には、願うことが許されていなかった』
観測者が、一歩後ずさった。
「……そんなはずはない」
出久は、彼を見た。
「何を知ってるの?」
観測者は答えなかった。
ただ、画面に浮かぶ文字を見つめていた。
その顔には、恐怖があった。
世界の外側から、すべてを観測してきた者。
世界の始まりを知っているかもしれない者。
その観測者が、初めて、知らないものを前にして怯えていた。
そして、世界の外側で、笑い声が響いた。
『……そう』
『やっと、ここまで来たんだね』
『第一管理者も、観測者も、ウルトロンも』
『みんな、自分が何をしているのか、少しずつ理解し始めた』
笑い声は、穏やかだった。
『でも、まだ足りない』
『まだ、誰も本当の問いに答えていない』
出久は、暗闇を見つめた。
「……本当の問い?」
『そう』
声が囁く。
『世界は、何のために生まれたのか』
『神様は、何を守ろうとしたのか』
『人間は、何を欲しがっているのか』
『そして……』
一瞬、声が止まった。
『願うことさえ許されなかった存在は、何を望むのか』
世界の外側で、何かが目を開いた。
無数の世界が、わずかに震えた。
その存在は、笑っていた。
だが、その笑顔には、先ほどまでとは違うものが混ざっていた。
喜び。
期待。
そして、ほんのわずかな悲しみ。
『……さあ』
その声が、世界の隅々へ広がっていく。
『満たされない欲望の物語を、始めよう』