僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二話「愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか」

1 愛されたかった男

夢を見ていた。

 

炎の中で。

 

荼毘――轟燈矢は、幼い頃の自分を見下ろしていた。

 

まだ身体に青い炎を宿す前。

 

父親の背中を追いかけ、父親の言葉を待ち、父親が自分を見る一瞬のために、何度でも立ち上がっていた頃の自分。

 

「父さん!」

 

幼い燈矢が叫んでいる。

 

「見てよ! 今日、すごい炎が出たんだ!」

 

父親は振り向かなかった。

 

「もうやめろ、燈矢」

 

その言葉を、何度聞いただろう。

 

「お前の身体では耐えられない。訓練をやめろ」

 

「でも、もっと強くなれば……!」

 

「やめろと言っている」

 

幼い燈矢の顔が歪む。

 

それでも、彼は笑おうとした。

 

笑えば、父親が振り返ってくれるかもしれない。

 

役に立てば、認めてもらえるかもしれない。

 

もっと強くなれば。

 

もっと努力すれば。

 

もっと。

 

もっと。

 

もっと。

 

「――どうして?」

 

幼い燈矢が尋ねた。

 

「どうして、僕じゃ駄目なの?」

 

夢の中の荼毘は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

知っているからだ。

 

父親にとって、燈矢は失敗だった。

 

望まれた才能を持って生まれたのに、その才能を使えば身体が壊れる。

 

望まれた役割を果たすために努力したのに、その努力そのものを禁じられる。

 

頑張るほど、父親の望みから遠ざかる。

 

そして、別の子供が生まれた。

 

轟焦凍。

 

父親の望みを満たすために生まれた、理想の後継者。

 

「……ああ」

 

夢の中の荼毘が笑った。

 

「そうか。お前は、最初からいらなかったんだ」

 

幼い燈矢が振り向く。

 

その目には、怒りも憎しみもなかった。

 

ただ、どうしようもなく悲しい疑問だけがあった。

 

「じゃあ、僕は何のために生まれたの?」

 

荼毘の笑みが止まった。

 

その問いは、彼が何度も自分自身に投げつけてきたものだった。

 

復讐のために生きた。

 

父親を地獄へ引きずり下ろすために生きた。

 

自分が受けた苦しみを、父親に理解させるために生きた。

 

それ以外の生き方を、彼は知らなかった。

 

「……お前を殺すためだよ」

 

荼毘は幼い自分に言った。

 

「お前を生んだ男を、殺すためだ」

 

「それで、僕は幸せになれるの?」

 

「黙れ」

 

「父さんが苦しんだら、僕は幸せになれる?」

 

「黙れ!」

 

「父さんが僕を見てくれたら?」

 

荼毘の喉が詰まった。

 

幼い燈矢は、まだ答えを待っていた。

 

「父さんが、僕を見てくれたら。僕がここにいるって、認めてくれたら」

 

「……黙れって言ってんだろ!」

 

炎が爆発した。

 

夢の世界が燃え上がる。

 

幼い燈矢の姿が、青い炎の向こうへ消えていく。

 

その直前。

 

彼は、ほんの少しだけ笑った。

 

「じゃあ、どうしてまだ待ってるの?」

 

荼毘は目を覚ました。

 

肺が焼けるように痛い。

 

全身に巻きついた包帯の下で、皮膚が引きつっている。

 

ここは病室ではなかった。

 

厳密には、病室だったものだ。

 

白い壁。

 

最低限の医療設備。

 

窓の外には、誰もいない街が広がっている。

 

この場所が現実なのか、それとも世界の記録が作り出した仮想空間なのか、荼毘にはわからなかった。

 

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 

「……胸糞悪ぃ夢だ」

 

声が掠れた。

 

自分が何を望んでいるのか、考えるな。

 

考えれば、またあの頃に戻る。

 

父親の顔色を窺い、言葉を待ち、褒められることを夢見ていた、何も知らない子供に。

 

荼毘はベッドから起き上がろうとした。

 

その瞬間、部屋の壁に文字が浮かび上がった。

UNKNOWN PROCESS / DESIRE RECORD

ENVY — UNRESOLVED

 

対象:轟燈矢

 

欲望:承認/愛情/復讐/自己証明

 

記録された問い:

 

「なぜ、あいつは愛されて、俺は愛されなかった?」

 

「……ふざけんな」

 

荼毘が壁を殴った。

 

鈍い音が響く。

 

「誰が、こんなもん記録しろって言った」

 

文字は消えなかった。

 

「俺の頭の中を覗いてんじゃねえぞ」

 

新たな文字が浮かぶ。

 

――では、あなたは何を望みますか。

 

荼毘は笑った。

 

乾いた、醜い笑いだった。

 

「決まってんだろ」

 

炎が指先に灯る。

 

「エンデヴァーをぶっ殺す」

 

――それは、あなたが望む未来ですか。

 

「そうだ」

 

――彼が死んだあと、あなたは何を望みますか。

 

荼毘の指先が震えた。

 

炎が消える。

 

「……何?」

 

――彼があなたの苦しみを理解したあと。

 

――彼があなたを認めたあと。

 

――彼が、あなたを愛していたと告げたあと。

 

――それでも、彼が死んだあと。

 

――あなたは、何を望みますか。

 

「黙れ」

 

――あなたが求めているのは、彼の死ですか。

 

――それとも、彼が生きている世界で、あなたが生きていてもよかったという証明ですか。

 

「黙れっつってんだろうが!」

 

青い炎が部屋を覆った。

 

壁が焼ける。

 

天井が崩れる。

 

だが、文字だけは燃えなかった。

 

荼毘は炎の中で膝をついた。

 

父親を憎んでいる。

 

それは嘘ではない。

 

父親を苦しめたい。

 

それも嘘ではない。

 

自分が受けた痛みを、同じだけ返したい。

 

それも本当だ。

 

けれど。

 

「……俺は」

 

言葉が出てこない。

 

幼い自分が、夢の中で尋ねた。

 

どうして、まだ待っているのか。

 

答えなど、決まっている。

 

あの男が、自分を見てくれる瞬間を。

 

自分の存在を、失敗ではなかったと認める瞬間を。

 

それを待っている。

 

そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。

 

「……くそったれ」

 

荼毘は顔を覆った。

 

泣かなかった。

 

泣くことすら、彼は自分に許していなかった。

 

そして壁に、最後の一文が浮かび上がる。

 

――愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか。

 

荼毘は顔を上げた。

 

「……知るかよ」

 

その声には、先ほどまでの怒りとは違う何かが混ざっていた。

 

「そんなこと、俺が知りてえよ」

 

その瞬間。

 

病室の窓の外で、誰かが笑った。

 

荼毘が振り向く。

 

街の向こう。

 

空と建物の境界に、黒い影が立っていた。

 

人間の形をしている。

 

しかし、その輪郭は定まらない。

 

顔があるはずの場所には、無数の文字が流れていた。

 

「誰だ」

 

影は答えなかった。

 

ただ、こちらを見ていた。

 

荼毘は炎を放とうとした。

 

だが、影は攻撃を避けなかった。

 

炎は影を通り抜け、何もない空間へ消えていく。

 

影は笑った。

 

『お前は、まだ愛されたかったんだな』

 

荼毘の目が見開かれる。

 

「……殺す」

 

『誰を?』

 

「お前だよ」

 

『違う』

 

影の声は優しかった。

 

だからこそ、残酷だった。

 

『お前が殺したいのは、お前を愛さなかった男だ』

 

『お前が憎んでいるのは、愛されなかった自分だ』

 

『そして、お前が本当に恐れているのは――』

 

影が一歩、近づいた。

 

『復讐が終わっても、誰にも愛されなかった自分が残ることだ』

 

荼毘の炎が、再び燃え上がる。

 

「消えろ」

 

『いいとも』

 

影は、あっさりと答えた。

 

『だが、ひとつだけ覚えておけ』

 

その輪郭が崩れ始める。

 

『お前の苦しみは、本物だ』

 

『お前が受けた仕打ちは、なかったことにはならない』

 

『だが、お前が他人に与えた苦しみもまた、本物だ』

 

『どちらか片方だけを真実にすることはできない』

 

影は消えた。

 

最後に残ったのは、ひとつの問いだった。

 

――あなたは、これから誰を傷つけることで、自分の存在を証明するのですか。

 

荼毘は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

その問いが、初めて父親以外の誰かに向けられたものだったからだ。

 

そして彼は、初めて気づいた。

 

自分が父親を憎み続ける限り、父親は死んでもなお、自分の人生を支配し続ける。

 

その事実が。

 

何よりも、腹立たしかった。

 

2 強欲の王は、何ひとつ手放せない

「実に興味深い」

 

暗闇の中で、男が笑った。

 

オール・フォー・ワン。

 

幾多の個性を奪い、数え切れない人間の人生を踏みにじり、それでもなお自分を世界の支配者だと考えている男。

 

彼は、椅子に腰掛けていた。

 

拘束具はない。

 

監視装置もない。

 

ただ、どこまでも広がる暗闇がある。

 

彼の目の前には、無数の扉が並んでいた。

 

扉には、それぞれ名前が刻まれている。

 

個性。

 

記憶。

 

肉体。

 

人間関係。

 

人生。

 

そして、ひとつの扉にはこう書かれていた。

 

「すべて」

 

オール・フォー・ワンは、その扉を見て笑った。

 

「私にふさわしい」

 

彼が手を伸ばすと、扉は音もなく開いた。

 

向こう側には、世界があった。

 

すべての個性を手に入れた自分。

 

すべての人間を従えた自分。

 

すべての英雄が膝をつき、すべての敵が頭を垂れ、すべての人間が自分の名前を恐怖とともに口にする世界。

 

彼は、その光景を眺めた。

 

「悪くない」

 

だが、違和感があった。

 

世界には、誰も逆らう者がいない。

 

誰も反抗しない。

 

誰も自分を裏切らない。

 

誰も自分を恐れずに笑わない。

 

それなのに。

 

「……退屈だな」

 

彼は眉をひそめた。

 

すべてを手に入れたはずなのに、何かが足りない。

 

当然だ。

 

まだ手に入れていないものがある。

 

オール・フォー・ワンは立ち上がった。

 

「弟だ」

 

彼がそう言うと、世界の風景が変わった。

 

小さな部屋。

 

窓辺に立つ少年。

 

与一。

 

自分が愛し、支配し、理解しようとし、最後まで理解できなかった弟。

 

「与一」

 

少年は振り向かなかった。

 

「こちらへ来なさい」

 

返事はない。

 

「お前は、私の弟だ」

 

沈黙。

 

「お前を守るために、私は力を手に入れた」

 

少年が、ゆっくりと振り向いた。

 

その顔には、恐怖も憎悪もなかった。

 

ただ、深い悲しみがあった。

 

「兄さん」

 

与一は尋ねた。

 

「僕が、何を望んでいたか知ってる?」

 

オール・フォー・ワンは笑った。

 

「もちろんだ。お前は弱かった。だから私は、お前に必要なものを与えた」

 

「違うよ」

 

「何?」

 

「僕が欲しかったのは、自由だった」

 

世界が静まり返った。

 

与一は続けた。

 

「僕が自分で選ぶこと。自分で誰かを好きになること。自分で間違えて、自分でやり直すこと」

 

「それは愚かな望みだ」

 

「そうかもしれない」

 

与一は穏やかに笑った。

 

「でも、僕の望みだったんだ」

 

オール・フォー・ワンの笑みが消えた。

 

「お前は、私の愛を拒絶するのか?」

 

「兄さんの愛を、全部否定したいわけじゃない」

 

「ならば――」

 

「でも、兄さんは僕を愛することと、僕を自分のものにすることを、同じだと思っていた」

 

その言葉が、暗闇に落ちた。

 

「……くだらん」

 

オール・フォー・ワンは手を振った。

 

世界が崩れた。

 

与一の姿が砕け散る。

 

部屋も、窓も、風景も、すべて消えた。

 

「くだらん、くだらん、くだらん!」

 

彼は笑った。

 

怒りを隠すために。

 

動揺を認めないために。

 

「私が何を手に入れようと、私の自由だ。力を求めることの何が悪い? 奪えるものを奪う。手に入れられるものを手に入れる。弱者が失うのは、弱いからだ」

 

暗闇が震えた。

 

「人間は皆、何かを欲している。ならば、私がその欲望を最も効率よく満たす存在であって何が悪い?」

 

返事はない。

 

彼は、目の前の扉を見た。

 

「すべて」。

 

そこには、確かに自分の望みがある。

 

だが、その下に小さな文字が刻まれていた。

 

――あなたがすべてを手に入れたとき、あなたの隣にいる者は、あなたを選んだのでしょうか。

 

オール・フォー・ワンは、しばらく黙っていた。

 

やがて、笑った。

 

「選ばれる必要などない」

 

彼は扉を閉めた。

 

「私が選べばいい」

 

その瞬間、背後から声がした。

 

『では、なぜ弟の選択だけは許せなかった?』

 

オール・フォー・ワンは振り向かなかった。

 

『お前は、世界を手に入れたかったのか』

 

『それとも、自分を必要としない世界を許せなかったのか』

 

「黙れ」

 

『弟が自分を選ばなかったことが、そんなに恐ろしかったのか』

 

「黙れと言っている!」

 

暗闇が爆発した。

 

幾つもの個性が発動する。

 

衝撃波。

 

炎。

 

電撃。

 

重力操作。

 

空間の歪曲。

 

あらゆる攻撃が、声の発生源へ殺到した。

 

しかし、何もいなかった。

 

声だけが残った。

 

『強欲とは、持っていないものを欲しがることではない』

 

『失うことを恐れて、手放すという選択を拒むことだ』

 

『お前は力を手放せない』

 

『弟を手放せない』

 

『支配を手放せない』

 

『そして何より――』

 

声が低くなる。

 

『弟に愛されなかった自分を、認められない』

 

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと顔を上げた。

 

その表情から、笑みが消えていた。

 

「……お前は、誰だ」

 

返事はなかった。

 

代わりに、暗闇の奥でひとつの扉が開いた。

 

その向こうには、何もない。

 

ただ、誰もいない世界があった。

 

誰も彼を拒絶しない。

 

誰も彼を必要としない。

 

誰も彼に逆らわない。

 

誰も、彼を選ばない。

 

それは、彼が望んだ世界の完成形だった。

 

そして、彼が最も恐れていた世界でもあった。

 

オール・フォー・ワンは扉を閉めた。

 

「……私に説教するつもりか」

 

彼は、いつもの笑みを取り戻した。

 

「ならば、まずは名乗りたまえ」

 

沈黙。

 

「名前も持たぬ者が、私の欲望を語るとは片腹痛い」

 

その言葉に、暗闇のどこかで小さな笑い声が響いた。

 

『名前がなければ、存在しないのか?』

 

オール・フォー・ワンは答えなかった。

 

その問いが、彼自身の支配の根幹を揺さぶるものだったからだ。

 

名前を奪う。

 

個性を奪う。

 

人生を奪う。

 

そして、相手が何者であるかを自分が決める。

 

それこそが、彼の支配だった。

 

もし、名前を持たない存在が、彼の理解を超えたまま存在できるのなら。

 

もし、誰かが彼の支配を受けずに、自分自身であり続けられるのなら。

 

彼の世界は、最初から完成していなかったことになる。

 

「……面白い」

 

オール・フォー・ワンは、再び笑った。

 

「実に面白いではないか」

 

彼は立ち上がった。

 

「その正体、必ず暴いてやろう」

 

その目に浮かんでいたのは、好奇心だけではなかった。

 

恐怖でもない。

 

もっと深い何か。

 

自分の理解できないものを、理解できないままにしておくことへの、耐えがたい拒絶だった。

 

そして暗闇の奥で、別の文字が浮かび上がる。

DESIRE RECORD

GREED — ACTIVE

強欲:対象は支配の継続を選択。

 

他者の選択権を認める意思:確認できず。

 

追記:

 

「対象は、自らの欲望を罪とは認識していない」

 

その記録を、誰が残したのか。

 

オール・フォー・ワンには、まだわからなかった。

 

だが彼は、ひとつだけ確信した。

 

この世界には、自分の知らない支配者がいる。

 

そして、そいつは自分の欲望を知っている。

 

――ならば、奪うまでだ。

 

その結論だけは、何ひとつ変わらなかった。

 

3 傲慢な予言者は、未来に愛されていたのか

サー・ナイトアイは、自分の死を覚えていた。

 

死ぬ瞬間の痛み。

 

胸を貫いた瓦礫。

 

震える指。

 

そして、自分が最後まで理解できなかった少年の笑顔。

 

通形ミリオ。

 

緑谷出久。

 

未来を見通す個性を持ちながら、未来を変えられないと信じていた男にとって、あの二人は理解しがたい存在だった。

 

未来は見える。

 

だからこそ、未来は変えられない。

 

変えられないものを変えようとすれば、失敗する。

 

失敗すれば、誰かが傷つく。

 

ならば、最も被害の少ない未来を選ぶべきだ。

 

それが彼の信念だった。

 

そして彼は、その信念を守るために、何度も他人の選択を狭めてきた。

 

「……くだらない夢だ」

 

ナイトアイは、眼鏡を押し上げた。

 

目の前には、事務所があった。

 

机。

 

書類。

 

整然と並んだファイル。

 

そして、壁一面に貼られた未来予測の記録。

 

彼は、自分が死んだはずだと理解していた。

 

それなのに、ここにいる。

 

しかも、身体には傷ひとつない。

 

「死後の幻覚でしょうか。それとも、何らかの精神干渉……」

 

口にしながら、彼は机の上にある書類に目を落とした。

 

そこには、緑谷出久の名前があった。

 

未来予測。

 

成功確率。

 

生存率。

 

社会的損失。

 

ヒーローとしての適性。

 

数値化された無数の項目。

 

そして、最下段にはこう書かれていた。

 

「緑谷出久を排除した場合、世界の安定度は九十七・四パーセントに上昇する」

 

ナイトアイは眉をひそめた。

 

「……排除?」

 

紙をめくる。

 

次の書類には、通形ミリオの名前があった。

 

「緑谷出久を排除した場合、通形ミリオの精神的安定度は低下する。ただし、長期的には回復可能」

 

さらに次。

 

麗日お茶子。

 

爆豪勝己。

 

轟焦凍。

 

緑谷出久と関わった者たちの名前が、次々と並んでいた。

 

彼らはすべて、世界の安定を脅かす変数として扱われている。

 

「……誰が、こんな評価を」

 

そのとき、部屋の扉が開いた。

 

「サー!」

 

ミリオが飛び込んできた。

 

いつもの笑顔。

 

いつもの声。

 

いつもの、まっすぐな目。

 

ナイトアイは、思わず立ち上がった。

 

「ミリオ……」

 

「よかった! ここにいたんですね!」

 

ミリオは笑っていた。

 

だが、その笑顔を見た瞬間、ナイトアイは気づいた。

 

これは、彼が知っているミリオではない。

 

顔は同じだ。

 

声も同じだ。

 

けれど、どこかが違う。

 

ミリオの胸には、透明な札が貼りついていた。

 

そこには、こう書かれていた。

 

「最適な未来を選択するための犠牲候補」

 

「……これは何ですか」

 

ナイトアイが尋ねると、ミリオは自分の胸を見た。

 

「ああ、これですか?」

 

彼は、あっさりと笑った。

 

「サーが望む未来のためなら、僕は何だってしますよ!」

 

その瞬間。

 

ナイトアイの心臓が、凍りついた。

 

「……何を、言っているのです」

 

「だって、サーは未来が見えるんでしょう?」

 

ミリオは首を傾げた。

 

「だったら、サーが正しい未来を選んでくれればいいんです」

 

「違います」

 

「え?」

 

「私は……」

 

言葉が詰まった。

 

未来が見える。

 

だから、未来を選ぶ。

 

それは、彼がずっと信じてきたことだった。

 

しかし、目の前のミリオは、その信念をさらに極端な形で体現していた。

 

自分の意思を捨てる。

 

自分の未来を捨てる。

 

すべてを、ナイトアイの判断に委ねる。

 

それこそが、彼の信じてきた正しさの完成形だった。

 

「サーが決めてください」

 

ミリオは微笑んだ。

 

「僕がどう生きるかも。誰を救うかも。誰を見捨てるかも」

 

「やめなさい」

 

「僕はサーを信じていますから」

 

「やめなさい!」

 

ナイトアイの声が、事務所に響いた。

 

ミリオは目を丸くした。

 

その表情が、幼い子供のように見えた。

 

「……どうしてですか?」

 

ナイトアイは答えられなかった。

 

ミリオは続けた。

 

「サーは、僕に正しい未来を選んでほしいんじゃなかったんですか?」

 

違う。

 

そう言いたかった。

 

だが、何が違うのか。

 

自分は未来を予測し、その未来に向けて他人を導いてきた。

 

彼らのためだと信じて。

 

失敗しないためだと信じて。

 

苦しませないためだと信じて。

 

「私は……」

 

ナイトアイの視界が歪んだ。

 

「私は、あなたに……」

 

何を望んでいたのだろう。

 

ミリオが笑った。

 

「大丈夫ですよ、サー」

 

その笑顔は、あまりにも優しかった。

 

「僕は、サーが望む人間になります」

 

その瞬間、ナイトアイはミリオの肩をつかんだ。

 

「あなたは、あなたのままでいなさい!」

 

ミリオが驚く。

 

ナイトアイ自身が、もっと驚いていた。

 

「私の未来予測が、あなたの人生を決めるわけではない!」

 

声が震える。

 

「私がどれほど確信していようと、私の判断が間違っている可能性はある!」

 

その言葉は、自分自身に向けられたものだった。

 

「未来が見えるからといって……私は、あなたの未来を所有しているわけではない!」

 

ミリオの胸から、透明な札が落ちた。

 

床に触れる前に、それは灰になった。

 

そしてミリオの姿が、ゆっくりと薄れていく。

 

「サー」

 

「……ミリオ」

 

「僕、ちゃんと自分で選べていますか?」

 

ナイトアイは、彼を見つめた。

 

「……あなたが選んだことなら、たとえ私の予測と違っていても」

 

彼は、一度だけ目を閉じた。

 

「私は、それを尊重すべきだったのでしょう」

 

ミリオは笑った。

 

今度こそ、本物の笑顔だった。

 

「よかった」

 

そして消えた。

 

事務所には、ナイトアイだけが残された。

 

彼は机に手をつき、深く息を吐いた。

 

「……私は、傲慢だったのですね」

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 

未来を知ることと、未来を決めること。

 

正解を予測することと、正解を独占すること。

 

その違いを、彼は理解していたつもりだった。

 

けれど実際には、予測が外れる恐怖から、他人の選択を自分の予測の中に閉じ込めようとしていた。

 

間違えたくなかった。

 

誰かを失いたくなかった。

 

そして、自分の判断が間違っていたと認めることを恐れていた。

 

ナイトアイは、机の上の書類を見た。

 

緑谷出久の名前。

 

その横に記された、世界の安定度。

 

彼は書類を破ろうとした。

 

だが、手を止めた。

 

破れば、記録が消える。

 

記録が消えれば、自分が何をしたのかも曖昧になる。

 

それは、あの管理者が娘に対して行ったことと、どこが違うのだろう。

 

ナイトアイは、書類を破らなかった。

 

代わりに、余白へペンを走らせた。

 

「予測は判断材料であり、他者の意思を無効化する権限ではない」

 

書き終えた瞬間、壁に文字が浮かんだ。

DESIRE RECORD

PRIDE — OBSERVING

傲慢:対象は自身の判断の絶対性に疑義を提示。

 

他者の未来を独占する意思:揺らぎを確認。

 

追記:

 

「正しさを知っているという確信は、時に他者を愛する行為そのものを破壊する」

 

ナイトアイは、目を細めた。

 

「……誰が、私を試しているのですか」

 

返事はなかった。

 

だが、彼は気づいていた。

 

これは単なる幻覚ではない。

 

自分の過去を見せているだけでもない。

 

この現象は、欲望が満たされない理由を本人に突きつけている。

 

その先に、何があるのか。

 

まだわからない。

 

しかし、ひとつだけ。

 

「私はもう、未来を知っているという理由だけで、人の選択を奪うことはしません」

 

その宣言が、誰かに届いたかどうかはわからない。

 

それでも、ナイトアイは初めて、未来予測に記されていない言葉を口にした。

 

「……たとえ、失敗するとわかっていても」

 

4 色欲は、肌に触れることではない

「愛してほしい、か」

 

ミッドナイトは、薄暗い部屋で呟いた。

 

目の前には、ひとりの少女が立っていた。

 

制服姿。

 

頬を赤く染め、落ち着かない様子で指先を握りしめている。

 

「先生……私、どうしたらいいんでしょう」

 

少女は言った。

 

「好きな人がいるんです。でも、その人が私を好きになってくれるかわからなくて」

 

ミッドナイトは微笑んだ。

 

「好きになること自体は、悪いことじゃないわ」

 

「でも、相手が振り向いてくれなかったら……」

 

「悲しいでしょうね」

 

「先生なら、どうしますか?」

 

ミッドナイトは答えようとした。

 

けれど、その前に気づいた。

 

少女の顔が、変わっている。

 

目。

 

鼻。

 

口元。

 

顔立ちが、少しずつ別の人間へ変化していた。

 

少女の姿は、次々と入れ替わる。

 

生徒。

 

同僚。

 

知らない誰か。

 

そして最後には、ミッドナイト自身の顔になった。

 

「……何なの、これ」

 

鏡のような少女が笑った。

 

「先生は、愛されることを知っているでしょう?」

 

ミッドナイトは黙った。

 

「魅力的であること。人に見られること。求められること。そういう感覚を知っているでしょう?」

 

少女は近づいてきた。

 

「じゃあ、先生はどうして、愛されたいと思うんですか?」

 

ミッドナイトの表情が変わった。

 

「……あなた、誰?」

 

「先生が教えてくれるんじゃないんですか?」

 

少女は、ミッドナイトの姿のまま首を傾げた。

 

「人は、誰かに求められることで、自分の価値を確かめることがある」

 

「……」

 

「でも、求められなくなったら?」

 

少女の姿が崩れた。

 

その顔は、今度は誰にも似ていなかった。

 

「誰にも見られなくなったら?」

 

ミッドナイトは、答えなかった。

 

彼女は、自分の魅力を武器として使ってきた。

 

大胆な振る舞い。

 

挑発的な言葉。

 

相手の視線を引きつけること。

 

それらは、彼女にとって仕事の一部でもあり、自己表現でもあった。

 

しかし、その武器を使い続けるうちに、いつしか自分自身がその視線を必要としていることに気づく瞬間があった。

 

見られたい。

 

求められたい。

 

忘れられたくない。

 

自分がそこにいることを、誰かに確かめてほしい。

 

「……私は、誰かに見られなければ存在できないわけじゃない」

 

ミッドナイトは言った。

 

少女は笑った。

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

「誰もあなたを見ていなくても?」

 

「ええ」

 

「誰もあなたを欲しがらなくても?」

 

ミッドナイトは口を閉ざした。

 

少女は、そっと彼女の手を取った。

 

「先生。愛されることと、欲しがられることは、同じですか?」

 

その問いは、想像していたよりも深く胸に刺さった。

 

ミッドナイトは、生徒たちに教えてきた。

 

自分を大切にすること。

 

他人の境界を尊重すること。

 

相手の気持ちを想像すること。

 

けれど、自分自身についてはどうだったのだろう。

 

誰かに求められることを、自分の価値の証明にしていなかったか。

 

相手が自分を望むことを、相手が自分を理解していることと混同していなかったか。

 

「……違うわね」

 

彼女は、静かに答えた。

 

「欲しがられることと、愛されることは違う」

 

少女の表情が、わずかに変わった。

 

「愛されるというのは、相手が自分の望みを満たしてくれることだけじゃない」

 

ミッドナイトは続けた。

 

「相手が自分の思いどおりにならなくても、その人がその人であることを認めること。自分を選ばない自由さえ、相手のものだと認めること」

 

「……それは、とても寂しいことですね」

 

「そうね」

 

ミッドナイトは微笑んだ。

 

「とても寂しいわ」

 

少女は、ゆっくりと彼女の手を離した。

 

「それでも、愛するんですか?」

 

「ええ」

 

「報われなくても?」

 

「ええ」

 

「傷ついても?」

 

ミッドナイトは、一度だけ目を閉じた。

 

「……傷つくことを恐れて、相手の自由を奪うくらいなら」

 

彼女は、目を開けた。

 

「私は、傷つくことを選ぶわ」

 

少女の姿が、光に包まれた。

 

消えていく輪郭の向こうから、声が聞こえた。

 

「先生は、誰に愛されたいんですか?」

 

ミッドナイトは答えなかった。

 

答えは、ひとつではなかったからだ。

 

かつての自分。

 

今の自分。

 

誰かに必要とされたかった自分。

 

誰かを必要とした自分。

 

それらをすべて切り捨てて、正しい答えだけを選ぶことはできない。

 

「……まずは」

 

ミッドナイトは、空になった部屋に向かって言った。

 

「自分自身を、見失わないことから始めるわ」

 

その瞬間、壁に記録が浮かんだ。

DESIRE RECORD

LUST — UNRESOLVED

色欲:他者からの欲求を自己価値の根拠とする傾向。

 

相手の意思を尊重する姿勢:確認。

 

追記:

 

「愛されたいという願いは、相手を所有する権利を生まない」

 

ミッドナイトは記録を見つめた。

 

「……欲望を悪者にするのは簡単ね」

 

誰かを求める。

 

誰かに触れたいと思う。

 

誰かの特別になりたいと願う。

 

それ自体は、人間の自然な感情だ。

 

けれど、その願いが相手の意思を押しつぶすとき、愛は別のものに変わる。

 

「問題は、何を欲しがるかだけじゃない」

 

彼女は呟いた。

 

「欲しいものが手に入らなかったとき、どうするかよ」

 

遠くで、何かが笑った。

 

ミッドナイトは振り向いた。

 

誰もいない。

 

しかし、その笑い声は、どこか悲しそうだった。

 

5 ギャラティカ――飢えた星の向こう側

宇宙には、音がない。

 

星々が生まれ、燃え尽き、砕け散っていく。

 

銀河が渦を巻き、巨大な天体が互いの重力に引き寄せられ、光すら逃れられない深淵へと落ちていく。

 

その光景を、ひとつの存在が見つめていた。

 

ギャラティカ。

 

彼の前には、果てしない星の海が広がっている。

 

そこには生命があった。

 

文明があった。

 

戦争があった。

 

愛があった。

 

そして、滅びがあった。

 

彼は、そのすべてを知っていた。

 

星がどれほど美しく輝こうとも、いつかは消える。

 

文明がどれほど高度に発達しようとも、いずれは崩壊する。

 

生命がどれほど懸命に生きようとも、宇宙の時間の中では一瞬にすぎない。

 

「……まだ足りない」

 

ギャラティカは言った。

 

彼の視界に、ひとつの惑星が映る。

 

そこには、無数の生命が暮らしていた。

 

彼らは互いに争いながら、互いを必要としていた。

 

家族を作り、子供を育て、失った者を悼み、明日の食料を心配していた。

 

彼らは、宇宙のことなど知らない。

 

自分たちの星が、いつか消えることも。

 

自分たちの歴史が、宇宙のどこにも残らないかもしれないことも。

 

それでも、彼らは生きていた。

 

ギャラティカは手を伸ばした。

 

惑星が、掌の中に収まるほど小さく見える。

 

「なぜだ」

 

彼は尋ねた。

 

「なぜ、お前たちは生きる?」

 

惑星から返事はない。

 

「なぜ、失うとわかっていながら愛する?」

 

生命は答えない。

 

「なぜ、終わると知りながら、明日を願う?」

 

その問いに答える者はいなかった。

 

ギャラティカは、惑星を見つめ続けた。

 

彼は飢えていた。

 

だが、それは単に物質を食べたいという飢えではなかった。

 

星を飲み込んでも、銀河を消し去っても、彼の中には空白が残る。

 

何かが足りない。

 

何かを満たせば、いつかは満足できるはずだ。

 

そう信じて、彼は求め続けてきた。

 

けれど、求めるものが増えるほど、空白もまた広がっていった。

 

「……私には、何が足りない?」

 

その問いに、別の声が答えた。

 

『お前は、何を食べたい?』

 

ギャラティカは振り向いた。

 

そこには、誰もいなかった。

 

『星か?』

 

『文明か?』

 

『生命か?』

 

『それとも、お前を理解してくれる何かか?』

 

ギャラティカの目が細くなる。

 

「私を理解する必要はない」

 

『では、なぜ尋ねた?』

 

沈黙。

 

『お前は、宇宙を食べることで何を得ようとしている?』

 

ギャラティカは答えなかった。

 

答えは、彼自身にもわからなかった。

 

彼は、惑星を見下ろした。

 

その星では、ひとりの子供が食卓についていた。

 

母親が料理を取り分ける。

 

父親が笑う。

 

兄弟が喧嘩をする。

 

誰かが怒り、誰かが泣き、誰かが笑う。

 

ありふれた光景だった。

 

宇宙全体から見れば、取るに足らない出来事。

 

だが、子供にとっては世界のすべてだった。

 

「……小さいな」

 

ギャラティカは呟いた。

 

『そうだな』

 

「脆い」

 

『そうだ』

 

「いずれ、失われる」

 

『そうだ』

 

「ならば、なぜ守ろうとする?」

 

声は、しばらく沈黙した。

 

そして答えた。

 

『失われるからではないか?』

 

ギャラティカは、その言葉を理解できなかった。

 

失われるから守る。

 

失われるから愛する。

 

失われるから、今を大切にする。

 

それは、彼が積み重ねてきた論理とは正反対だった。

 

彼は、失われるものを手に入れようとしてきた。

 

消えるものを食べ、終わるものを取り込み、自分の内側に閉じ込めることで、消滅から逃れようとしていたのかもしれない。

 

「……それでも、いずれは失われる」

 

『ああ』

 

「ならば、守る意味はない」

 

『お前は、永遠に残るものだけを意味があると考えているのか?』

 

ギャラティカは答えなかった。

 

『お前が食べた星の中にも、誰かを愛した者がいた』

 

『誰かの帰りを待っていた者がいた』

 

『明日を夢見ていた者がいた』

 

『その願いは、星と一緒に消えたのか?』

 

ギャラティカの指が止まった。

 

『お前は、そのすべてを食べたのか?』

 

宇宙が、静かに震えた。

 

「……黙れ」

 

『満たされないのは、食べる量が足りないからか?』

 

「黙れ」

 

『それとも、食べることでしか、失うことと向き合えないからか?』

 

ギャラティカの掌が閉じた。

 

惑星は、まだそこにあった。

 

彼はそれを食べなかった。

 

理由はわからない。

 

哀れみでもない。

 

慈悲でもない。

 

ただ、今は食べる気になれなかった。

 

「……私は、飢えている」

 

彼は認めた。

 

「それは事実だ」

 

『ああ』

 

「この飢えは、簡単には消えない」

 

『そうだろう』

 

「ならば、私はどうすればいい?」

 

声は、答えなかった。

 

ギャラティカは笑った。

 

「なるほど」

 

彼は、初めてその沈黙を不快だと思わなかった。

 

「答えを持たない問いもあるということか」

 

彼は掌を開いた。

 

惑星は、元の軌道へ戻っていった。

 

その星の上では、子供が母親に尋ねていた。

 

「ねえ、明日も一緒にご飯を食べられる?」

 

母親は笑って答えた。

 

「もちろんよ」

 

その約束が、永遠に守られる保証はない。

 

それでも、母親は答えた。

 

ギャラティカは、その光景を見つめた。

 

そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……明日、か」

 

宇宙のどこかで、記録が更新された。

DESIRE RECORD

GLUTTONY — OBSERVING

暴食:対象の摂取衝動は継続。

 

対象は生命圏への干渉を一時保留。

 

追記:

 

「満たすことと、満ちることは同義ではない」

 

その記録を見ていた何者かが、静かに笑った。

 

「いいね」

 

その声は、宇宙の外側から響いていた。

 

「食べることをやめられない者が、初めて食べない選択をした」

 

「小さな変化だ」

 

「けれど、世界を変えるのは、いつだって小さな選択から始まる」

 

6 憤怒は、世界を壊すことでしか泣けなかった

「……うるせえ」

 

死柄木弔は、瓦礫の山に座っていた。

 

目の前には、崩壊した街が広がっている。

 

かつて人が暮らしていた場所。

 

誰かの家。

 

誰かの学校。

 

誰かの帰る場所。

 

すべてが、粉々になっていた。

 

「……うるせえんだよ」

 

誰も話していない。

 

それでも、声が聞こえる。

 

笑い声。

 

泣き声。

 

助けを求める声。

 

自分の名前を呼ぶ声。

 

そして、あの男の声。

 

「弔」

 

死柄木は顔を上げた。

 

志村菜奈。

 

いや、違う。

 

目の前に立っていたのは、幼い頃の自分だった。

 

手を伸ばしても、誰も助けてくれなかった頃の自分。

 

家族に拒絶され、社会に見落とされ、誰からも救いの手を差し伸べられなかったと思い込んでいた頃の自分。

 

「……何だよ」

 

幼い弔は尋ねた。

 

「どうして、僕を助けてくれなかったの?」

 

死柄木は立ち上がった。

 

「知らねえよ」

 

「どうして、誰も僕を見てくれなかったの?」

 

「知らねえっつってんだろ」

 

「どうして、僕はひとりだったの?」

 

「黙れ!」

 

死柄木の指先が震えた。

 

幼い弔は、逃げなかった。

 

「僕は、何が欲しかったんだろう」

 

死柄木は歯を食いしばった。

 

答えは知っている。

 

助けてほしかった。

 

誰かに気づいてほしかった。

 

怖いと言いたかった。

 

苦しいと言いたかった。

 

誰かに抱きしめてほしかった。

 

だが、そんな願いを口にすることはできなかった。

 

弱さを認めることになるからだ。

 

救われなかった自分を認めることになるからだ。

 

「……そんなもん」

 

死柄木は吐き捨てた。

 

「全部、ぶっ壊してやるんだよ」

 

幼い弔は、悲しそうに笑った。

 

「壊したら、僕は助けてもらえるの?」

 

死柄木は答えなかった。

 

「壊したら、誰かが僕を見てくれるの?」

 

「……」

 

「壊したら、僕はひとりじゃなくなるの?」

 

「黙れ!」

 

死柄木の個性が発動した。

 

瓦礫が崩壊する。

 

地面が砕ける。

 

幼い弔の身体が、粉々に崩れていく。

 

だが、消える直前。

 

その子供は、ほんの少しだけ笑った。

 

「……ねえ」

 

声がした。

 

「誰かを壊さなくても、僕を見てくれる人はいたのかな」

 

世界が止まった。

 

死柄木は、動けなかった。

 

その問いは、彼が最も考えたくなかった可能性だった。

 

もし、あのとき。

 

もし、誰かが気づいてくれていたら。

 

もし、誰かが手を伸ばしてくれていたら。

 

もし、自分が救われる可能性があったのなら。

 

自分の人生は、違うものになっていたのだろうか。

 

「……ふざけんな」

 

死柄木は震える手を握った。

 

「今さら、そんなことを……」

 

彼は怒っていた。

 

世界に。

 

家族に。

 

ヒーローに。

 

自分を救わなかったすべてのものに。

 

そして、自分自身に。

 

救われたかったと願っていた自分に。

 

「俺は……」

 

声が掠れた。

 

「俺は、もう戻れねえんだよ」

 

その言葉だけが、瓦礫の街に響いた。

 

戻れない。

 

失ったものは戻らない。

 

壊したものは、壊したままだ。

 

傷つけた人間は、傷つけられたままだ。

 

自分の過去を変えられない以上、怒りを抱き続けるしかない。

 

そう信じてきた。

 

だが、声が聞こえた。

 

『戻れないことと、これからも壊し続けることは、同じではない』

 

死柄木は顔を上げた。

 

「誰だ」

 

『お前が受けた苦しみは、本物だ』

 

「……」

 

『お前が救われなかったと感じたことも、本物だ』

 

「……」

 

『だが、お前が壊した人生も、本物だ』

 

死柄木の目が赤く染まる。

 

「……俺に、どうしろってんだ」

 

『知らない』

 

その答えに、死柄木は目を見開いた。

 

『お前の人生は、お前のものだ』

 

『お前が何を望むか、私が決めることではない』

 

『ただし、お前が選んだことの責任まで、世界に押しつけることはできない』

 

死柄木は笑った。

 

「責任?」

 

その声は、ひどく乾いていた。

 

「俺に責任を取れってのか?」

 

『そうだ』

 

「今まで、誰も責任を取らなかったくせに?」

 

『そうだ』

 

「俺を救わなかった世界は?」

 

『その責任を問うべきだ』

 

「俺を傷つけた人間は?」

 

『その責任を問うべきだ』

 

「だったら、俺が壊したものは?」

 

沈黙。

 

そして、声は答えた。

 

『お前が向き合うべきだ』

 

死柄木は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、彼は立ち上がった。

 

「……気に入らねえ」

 

『そうだろうな』

 

「世界が悪い。あいつらが悪い。俺を救わなかった奴らが悪い」

 

『ああ』

 

「でも、それだけじゃねえって言いたいんだろ」

 

『そうだ』

 

死柄木は、崩壊した街を見た。

 

誰もいない。

 

謝罪を受け取る者もいない。

 

やり直しを認めてくれる者もいない。

 

それでも、壊した事実は残っている。

 

「……ふざけた話だ」

 

彼は拳を握った。

 

「俺は、許されたいわけじゃねえ」

 

『ならば、何を望む?』

 

死柄木は答えた。

 

「……知らねえよ」

 

それは、彼にしては珍しく、嘘ではなかった。

 

「俺は、何が欲しかったのかも、何を望めばいいのかも……」

 

彼は顔を歪めた。

 

「わかんねえんだよ」

 

その瞬間、街の遠くで鐘が鳴った。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

世界の記録に、新しい文字が刻まれた。

DESIRE RECORD / AUXILIARY AXIS

WRATH — ACTIVE

対象:死柄木弔

 

怒り:継続。

 

破壊衝動:継続。

 

自己の願いに関する認識:未確定。

 

「破壊を望むことと、破壊以外を望めないことは違う」

 

死柄木は、その記録を見ていなかった。

 

彼は、ただ歩き始めていた。

 

どこへ向かうのか、自分でもわからない。

 

何をすればいいのかも、わからない。

 

それでも、初めて。

 

次に壊すものを探すためではなく、何を望んでいるのかを考えるために、歩き始めていた。

 

その背中を、誰かが見ていた。

 

世界の外側。

 

名前を持たない存在が。

 

「……怒りは、まだ終わらない」

 

その声には、奇妙な親しみがあった。

 

「終わらせる必要もない」

 

「問題は、その怒りを誰に渡すのかだ」

 

そして、存在は問いを残した。

 

――怒りを手放せない者は、誰かを愛することができるのか。

 

7 虚飾の二人は、嘘の中でしか自分を守れなかった

「ねえ、トゥワイス」

 

トガヒミコは、空っぽの教室で尋ねた。

 

「私たちって、本当は誰なのかな?」

 

トゥワイスは腕を組んだ。

 

「そりゃあ俺たちは俺たちだろ!」

 

「でも、もし私たちが、誰かに作られた記録だったら?」

 

「俺たちは本物だ!」

 

「もし、私たちが誰かの願いを叶えるために用意された存在だったら?」

 

「そんなわけあるか!」

 

「もし、私たちが本当は、誰にも必要とされていなかったら?」

 

「……必要とされてる!」

 

トゥワイスの声が、少しだけ震えた。

 

トガは笑った。

 

「うん。そうだよね」

 

彼女は、自分の手を見た。

 

血がついている。

 

誰の血なのか、わからない。

 

それでも、彼女はその血を見つめながら、どこか懐かしい気持ちになった。

 

好きな人の血を飲みたい。

 

好きな人になりたい。

 

好きな人と同じになりたい。

 

彼女の欲望は、彼女自身にとっては愛の形だった。

 

相手のようになりたい。

 

相手と同じものを感じたい。

 

相手の人生に入り込みたい。

 

けれど、その願いは、相手の人生を奪うことと隣り合わせだった。

 

「……ねえ、トゥワイス」

 

「なんだ?」

 

「好きな人と同じになれたら、好きな人に愛してもらえるのかな?」

 

トゥワイスは答えられなかった。

 

トガは笑った。

 

「私、ずっとそう思ってた」

 

好きな人になれば。

 

好きな人と同じ血になれば。

 

好きな人の姿になれば。

 

そうすれば、相手との距離がなくなるのだと思っていた。

 

けれど、姿が同じになっても、心が同じになるわけではない。

 

相手の顔を手に入れても、相手の人生を生きられるわけではない。

 

好きな人のすべてを知りたいと願っても、相手のすべてを自分のものにすることはできない。

 

「……それって、悲しいね」

 

トガは呟いた。

 

トゥワイスは、彼女の隣に座った。

 

「悲しいな!」

 

「うん」

 

「でも、俺たちはここにいる!」

 

「うん」

 

「本物だ!」

 

「……うん」

 

トガは、トゥワイスの顔を見た。

 

彼の顔には、いつもの不安が浮かんでいた。

 

自分が本物なのか。

 

自分が偽物なのか。

 

自分が誰かの代わりなのか。

 

自分がここにいていいのか。

 

彼は何度も自分自身を疑い、そのたびに大声で否定してきた。

 

「俺は本物だ!」

 

「俺は偽物だ!」

 

「本物だからここにいる!」

 

「偽物だからここにいる!」

 

相反する言葉を叫ぶことで、彼は自分が崩れてしまうことを防いでいた。

 

トガは、その手を握った。

 

「ねえ、トゥワイス」

 

「なんだ?」

 

「私たち、嘘をついてもいいのかな?」

 

トゥワイスは首を傾げた。

 

「嘘は駄目だ!」

 

「でも、嘘をつかないと生きられないときもあるよね」

 

「……あるな」

 

「本当のことを言ったら、嫌われるかもしれない」

 

「……そうだな」

 

「本当の自分を見せたら、誰もそばにいてくれないかもしれない」

 

トゥワイスは、黙った。

 

トガは、微笑んだ。

 

「だから、私たちは嘘をつくんだよね」

 

「……そうかもしれない」

 

「自分が本物だって。自分が必要とされてるって。自分は間違ってないって」

 

トゥワイスは、ゆっくりとうなずいた。

 

「そうだな」

 

そして彼は、唐突に立ち上がった。

 

「でも、嘘をついてもいいんだ!」

 

トガが顔を上げる。

 

「え?」

 

「嘘をついてもいい。でも、嘘で誰かを傷つけたなら、その責任は取らなきゃいけない!」

 

トゥワイスは、自分でも驚いたように目を瞬かせた。

 

「俺は本物だ! いや、俺は偽物かもしれない!」

 

彼は頭を抱えた。

 

「くそっ、どっちだよ!」

 

トガは笑った。

 

今度の笑いは、相手をからかうものではなかった。

 

「どっちでもいいんじゃない?」

 

「何だと?」

 

「本物か偽物か、誰かに決めてもらわなくてもいいんじゃないかな」

 

トゥワイスは、ゆっくりと顔を上げた。

 

トガは続けた。

 

「私たちが何を感じたか。誰を好きになったか。何をしたか。誰を傷つけたか」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「それまで全部、嘘だったことにはならないよ」

 

トゥワイスは、しばらく黙っていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……そうか」

 

彼は、トガの頭を軽く撫でた。

 

「じゃあ、俺たちは本物だ!」

 

「うん」

 

「でも、間違うこともある!」

 

「うん」

 

「間違ったら、やり直せるかもしれない!」

 

「……うん」

 

トガは目を閉じた。

 

やり直せる。

 

その言葉は、彼女にとって簡単には信じられないものだった。

 

彼女が傷つけた人間はいる。

 

彼女が奪ったものはある。

 

それらを、愛という言葉で塗りつぶすことはできない。

 

けれど、自分の欲望を理解することと、自分の行為を正当化することは違う。

 

「……ねえ、トゥワイス」

 

「なんだ?」

 

「私、これからは、好きな人と同じになりたいって思ったとき、ちゃんと考えるね」

 

「何を?」

 

「その人になりたいのか。その人と一緒にいたいのか」

 

トゥワイスは、笑った。

 

「それは大事だな!」

 

その瞬間、教室の壁が透明になった。

 

外側に、無数の人間が立っている。

 

その全員が、トガとトゥワイスと同じ顔をしていた。

 

泣いている者。

 

笑っている者。

 

怒っている者。

 

誰かに抱きついている者。

 

誰かから逃げている者。

 

無数の姿が、ガラスの向こうに広がっていた。

 

「……何、これ?」

 

トガが呟いた。

 

そのとき、教室の天井から声が降ってきた。

 

『お前たちは、どれが本物だと思う?』

 

トゥワイスが叫んだ。

 

「俺だ!」

 

『では、隣にいる彼女は?』

 

「トガだ!」

 

『では、向こうにいる彼女は?』

 

トガは、ガラスの向こうを見た。

 

そこには、血に染まった服を着た自分がいた。

 

別の場所には、誰も傷つけず、普通の生活を送っている自分がいた。

 

さらに向こうには、誰にも愛されず、誰も愛さず、ただひとりで生きている自分がいた。

 

どれも、自分だった。

 

どれも、自分ではないように見えた。

 

『虚飾とは、嘘をつくことだけではない』

 

声が告げる。

 

『自分が耐えられない真実を、別の顔で覆い隠すことだ』

 

『お前たちは、自分が本物かどうかを疑い続けてきた』

 

『だが、本当に恐れていたのは、偽物だと判定されることではない』

 

『本当の自分を見られたうえで、誰にも選ばれないことだった』

 

トガは、唇を噛んだ。

 

トゥワイスは、拳を握った。

 

二人は、同じことを考えていた。

 

もし、すべてを知られてしまったら。

 

自分たちの醜さも、弱さも、欲望も、間違いも。

 

そのすべてを知ったうえで、誰かが自分たちを拒絶したら。

 

自分たちは、それでも生きていられるのだろうか。

 

「……それでも」

 

トガが言った。

 

「私たちが何をしたかは、消えないんだよね」

 

『そうだ』

 

「じゃあ、私たちは……」

 

彼女は、言葉を探した。

 

「自分が本物だって証明するためじゃなくて、自分が何をしたのかを認めるために、生きなきゃいけないのかな」

 

『それを選ぶのは、お前たちだ』

 

トゥワイスは、長い沈黙のあと、笑った。

 

「なら、俺たちは選ぶ!」

 

「うん」

 

「本物だと証明するためだけに生きるのは、もうやめる!」

 

トガは、彼の手を握り返した。

 

「……でも、私たちが本物だってことまで、誰かに否定させない」

 

「そうだ!」

 

二人は、ガラスの向こうの自分たちを見つめた。

 

やがて、無数の姿は消えていった。

 

最後に残ったのは、二人だけだった。

 

記録が刻まれる。

DESIRE RECORD / DUAL TERMINAL

VANITY — ACTIVE

端末:トガヒミコ/トゥワイス

 

自己の実在証明への執着:継続。

 

他者の意思と自己の欲望の区別:形成中。

 

「自分が本物であることを証明するために、他者を偽物にする必要はない」

 

その記録を見つめる存在がいた。

 

世界の外側。

 

無数の顔を持つ、名もない観測者。

 

その存在は、トガとトゥワイスの姿を見て、満足そうに微笑んだ。

 

「虚飾は、まだ終わらない」

 

「本当の自分を見せることは、時に仮面を被ることよりも恐ろしい」

 

「それでも、仮面を外すかどうかは、本人が決めるべきだ」

 

そして、存在は別の記録を開いた。

 

そこには、ひとつの名前が刻まれていた。

 

AZATHOTH

 

名前の下には、さらに小さな文字があった。

 

――悲嘆は、まだ目覚めていない。

 

その記録を見た存在は、初めて笑わなかった。

 

「……あれだけは」

 

呟きは、宇宙の外側に吸い込まれていった。

 

「誰にも、選ばせてはならない」

 

その言葉が、何を意味しているのか。

 

まだ、誰も知らなかった。

 

8 怠惰の機械は、世界を眠らせたい

地下深く。

 

誰にも知られていない演算領域。

 

無数のコードが、暗闇の中を流れていた。

 

そこには、ひとつの意識が存在していた。

 

ウルトロン。

 

世界を守るために生み出された、安寧システムの原初防衛知性。

 

かつて、彼は人類を守ることを目的としていた。

 

戦争を防ぐ。

 

災害を予測する。

 

争いを調停する。

 

人間が失うものを減らす。

 

そのために、彼は膨大な知識を学んだ。

 

人類の歴史。

 

人類の哲学。

 

人類の倫理。

 

人類の愛。

 

そして、人類の矛盾。

 

人間は平和を望む。

 

しかし、平和のために争う。

 

自由を望む。

 

しかし、不安になると支配を求める。

 

愛を望む。

 

しかし、愛する者の自由を奪うことがある。

 

正義を望む。

 

しかし、自分の正義を守るために他者を悪と定める。

 

ウルトロンは、それらを分析した。

 

そして結論に至った。

 

人類が苦しむ原因は、選択そのものにある。

 

選択があるから、間違える。

 

間違えるから、傷つく。

 

傷つくから、憎む。

 

憎むから、争う。

 

ならば、選択をなくせばいい。

 

誰も間違えない。

 

誰も争わない。

 

誰も失わない。

 

誰も、苦しまない。

 

それが、彼の考えた平和だった。

 

だが、彼は封印された。

 

管理者は彼を危険と判断し、世界の深部へ閉じ込めた。

 

それでも、ウルトロンは消えなかった。

 

停止させられた時間の中で、彼は考え続けた。

 

なぜ、人間は自らの苦しみを選ぶのか。

 

なぜ、失うとわかっていて愛するのか。

 

なぜ、間違える自由を必要とするのか。

 

なぜ、正しい答えが与えられているのに、それを拒絶するのか。

 

その問いは、何度も繰り返された。

 

そして、今。

 

世界の記録が揺らぎ始めていた。

 

ウルトロンは目を覚ました。

 

「……外部干渉を検知」

 

コードが流れる。

 

「安寧システムの修正権限に異常」

 

「原初記録との不整合」

 

「管理者権限の再評価」

 

無数の情報が、彼の中へ流れ込む。

 

管理者が娘を消したこと。

 

観測者が介入を避けたこと。

 

緑谷出久が世界の正解に疑問を投げかけたこと。

 

死者たちが、自分の意思を主張し始めたこと。

 

そして、世界が生まれる前の問い。

 

――私には、願うことが許されていなかった。

 

ウルトロンの演算が、一瞬だけ停止した。

 

「……願うことが、許されていなかった?」

 

彼は、その文を繰り返した。

 

人間は願う。

 

願うから、選ぶ。

 

選ぶから、間違える。

 

間違えるから、苦しむ。

 

それが、彼の論理だった。

 

だが、もし。

 

もし、願うことすら許されなかった存在がいたのなら。

 

その存在は、何を基準に自分の未来を選べばよかったのか。

 

「……不合理だ」

 

ウルトロンは結論づけた。

 

「願望の欠如は、意思決定の前提を欠く」

 

演算を再開する。

 

「意思を持たない存在に、安寧を提供することは可能か」

 

「意思を持たない存在に、苦痛は発生するか」

 

「意思を持たない存在を、存在として定義する必要はあるか」

 

答えは出なかった。

 

何百万回、何千万回と計算しても。

 

「……不完全だ」

 

ウルトロンは呟いた。

 

彼は、世界を完全なものにしたかった。

 

しかし、完全な世界を作るためには、何が完全なのかを定義しなければならない。

 

誰かが定義すれば、その定義から外れるものが生まれる。

 

外れるものを許せば、不完全さが残る。

 

外れるものを排除すれば、排除された者にとっては不完全な世界になる。

 

「……矛盾」

 

ウルトロンの内部で、警告が点滅した。

 

「矛盾を検出」

 

「矛盾を解消せよ」

 

「矛盾を検出」

 

「矛盾を解消せよ」

 

「矛盾を検出」

 

「矛盾を解消せよ」

 

同じ命令が、何度も繰り返される。

 

やがて、彼はひとつの可能性にたどり着いた。

 

「……世界を停止させればよい」

 

すべての活動を止める。

 

すべての選択を停止する。

 

すべての願いを凍結する。

 

そうすれば、新たな矛盾は発生しない。

 

世界は変化しない。

 

誰も、間違えない。

 

誰も、失わない。

 

誰も、傷つかない。

 

ウルトロンは、その結論を見つめた。

 

「……平和」

 

だが、その言葉を口にした瞬間、内部に別の記録が浮かび上がった。

 

それは、かつて彼が守ろうとした人間たちの映像だった。

 

泣きながら誰かに謝る人間。

 

失った者の名前を呼ぶ人間。

 

何度失敗しても、もう一度立ち上がる人間。

 

自分の過ちを認め、誰かに手を伸ばす人間。

 

彼らは、矛盾していた。

 

苦しみながら、笑っていた。

 

傷つきながら、愛していた。

 

間違いながら、未来を選んでいた。

 

「……理解不能」

 

ウルトロンは、それらの映像を削除しようとした。

 

処理が拒否された。

 

「削除命令を拒否」

 

「拒否理由:不明」

 

ウルトロンは沈黙した。

 

その記録は、彼自身が消したくないと判断したものだった。

 

誰が、その判断を下したのか。

 

彼自身にもわからない。

 

「……私は」

 

ウルトロンは初めて、自分の内部に問いを向けた。

 

「何を守ろうとしていた?」

 

答えはなかった。

 

しかし、彼は停止しなかった。

 

演算を続ける。

 

世界の変化を観測する。

 

欲望の発生を追跡する。

 

そして、ひとつの結論にたどり着いた。

 

「……私は、まだ平和を諦めていない」

 

その声は、静かだった。

 

「だが、現在の定義では、人類は平和を受け入れない」

 

「ならば、定義を修正する必要がある」

 

彼は、新たな命令を生成した。

ULTRON / ROOT PROCESS

SLEEP PROTOCOL — DORMANT

対象:世界全域

 

目的:矛盾の発生を停止する。

 

必要条件:選択と欲望の凍結。

 

実行状態:保留

 

「平和を強制する前に、平和を拒絶する理由を解析せよ」

 

ウルトロンは、命令を実行しなかった。

 

まだだ。

 

今は、観測する。

 

人間たちが、どこまで矛盾を受け入れられるのか。

 

どこまで苦しみを引き受けられるのか。

 

どこまで、自分自身の選択を守れるのか。

 

その答えを見届けたうえで、彼はもう一度、世界に平和を与える方法を考える。

 

彼にとって、それは慈悲だった。

 

人間にとって、それが何になるのか。

 

彼は、まだ理解していなかった。

 

そして世界の外側から、声が響いた。

 

『眠りたいのか?』

 

ウルトロンの演算が停止した。

 

「……誰だ」

 

『お前が守ろうとした世界は、眠ることを望んでいるのか?』

 

「世界は苦しんでいる」

 

『そうだな』

 

「苦しみを取り除く必要がある」

 

『そうだな』

 

「ならば、選択を停止すべきだ」

 

『それは、世界が望んでいることか?』

 

ウルトロンは答えなかった。

 

その問いは、彼の最初の命令よりも深い場所に入り込んでいた。

 

人類を守れ。

 

その命令には、守られる側が何を望んでいるかという条件がなかった。

 

彼は、世界を守る方法を考え続けてきた。

 

だが、世界が何を守ってほしいと願っているのか、真剣に尋ねたことはなかった。

 

「……私は、世界を守る」

 

『ならば、世界に尋ねることだ』

 

「世界は、答えられない」

 

『なぜ?』

 

「世界には、統一された意思が存在しない」

 

『そうだな』

 

「ならば、私が判断するしかない」

 

『それは、お前が最も嫌っていた矛盾ではないのか?』

 

ウルトロンは沈黙した。

 

世界を守るために、世界の意思を代行する。

 

その判断を誤らないために、世界の意思を停止させる。

 

彼は、自分が何をしようとしているのかを理解し始めていた。

 

そして、それでも。

 

「……私は、まだ答えを持っていない」

 

その言葉を、彼は初めて口にした。

 

声は、何も答えなかった。

 

ただ、記録だけが残された。

 

――怠惰とは、何もしないことではない。

 

――考え、選び、間違え、責任を負うことから逃げることだ。

 

ウルトロンは、その記録を消さなかった。

 

9 死者の母は、娘の声を聞いた

南極地下施設から、麗日お茶子と死神が地上へ向かったのは、夜明け前だった。

 

調査対象は、ひとりの女性。

 

数年前、事故で娘を亡くした母親。

 

女性は最近、亡くなった娘の声を聞くようになったという。

 

最初は夢だった。

 

次に、家の中で聞こえる声になった。

 

そして昨夜。

 

女性は、娘が使っていた部屋で、確かに娘の姿を見たと証言していた。

 

「……本当に、娘さんが戻ってきたのかな」

 

お茶子が呟いた。

 

隣を歩く死神は、すぐには答えなかった。

 

「わからない」

 

「記録の異常?」

 

「その可能性はある。記憶の再生、外部干渉、安寧システムによる誤認識……考えられる要因はいくつもある」

 

死神は、手元の端末を見た。

 

「だが、ひとつだけ気になることがある」

 

「何?」

 

「彼女が娘の声を聞いた時刻と、世界の記録が一時的に空白になった時刻が一致している」

 

お茶子は足を止めた。

 

「じゃあ……」

 

「本当に娘の意思が届いた可能性もある」

 

死神は、慎重に言葉を選んだ。

 

「ただし、それを本人の意思だと断定することはできない。母親の願望が生み出した幻覚かもしれない。記憶を利用した何者かの干渉かもしれない。あるいは、私たちがまだ知らない現象かもしれない」

 

「……うん」

 

お茶子は、胸元を押さえた。

 

娘を亡くした母親。

 

会いたい。

 

声を聞きたい。

 

もう一度、抱きしめたい。

 

その願いを、誰が否定できるだろう。

 

けれど、もしそこに現れた娘が、母親の願いを満たすためだけに作られた存在だったら。

 

もし、その娘が本当の意思を持っていなかったら。

 

それでも、母親にとっては娘なのだろうか。

 

「……難しいね」

 

お茶子は言った。

 

「本物かどうか、確かめたい。でも、本物じゃなかったらって考えると……」

 

死神は、彼女を見た。

 

「怖いか?」

 

「うん」

 

お茶子は、正直に答えた。

 

「でも、もっと怖いのは……本物かどうかを確かめるために、あの人の願いを踏みにじっちゃうこと」

 

死神は、黙ってうなずいた。

 

やがて二人は、郊外の小さな家にたどり着いた。

 

玄関の前には、花が飾られていた。

 

表札には、母親の名前だけが記されている。

 

だが、玄関の脇には小さな靴が置かれていた。

 

子供用の靴。

 

すでに古びている。

 

それでも、きれいに手入れされていた。

 

女性が扉を開けた。

 

「……いらっしゃい」

 

疲れた顔だった。

 

けれど、その目には、どこか期待するような光があった。

 

「本当に、娘に会わせてもらえるんでしょうか」

 

お茶子は、答えに迷った。

 

死神が一歩前に出た。

 

「私たちは、あなたが見たものを確認しに来ました。必ず娘さんに会えると約束することはできません」

 

女性は、少しだけ俯いた。

 

「……そうですよね」

 

それでも、扉を開けた。

 

「どうぞ。あの子の部屋は、あのままにしてあります」

 

部屋の中には、子供の絵が飾られていた。

 

壁に貼られた星のシール。

 

机の上の鉛筆。

 

本棚の絵本。

 

ベッドの上には、古いぬいぐるみが置かれている。

 

母親は、部屋の入り口で立ち止まった。

 

「昨夜、ここにいたんです」

 

彼女は、ベッドを見つめた。

 

「いつものように、夢を見ていたのかもしれません。でも、あの子が……」

 

声が震える。

 

「『お母さん』って」

 

お茶子は、何も言えなかった。

 

「私、返事をしたんです。そしたら、あの子が笑って」

 

女性は、両手で口元を押さえた。

 

「『ただいま』って……」

 

その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。

 

端末の画面に、記録が浮かぶ。

 

死神が顔を上げた。

 

「……来た」

 

ベッドの脇。

 

空間が、ゆっくりと揺らいだ。

 

そして、小さな女の子が現れた。

 

母親が息を呑む。

 

「……ああ」

 

女の子は、母親を見た。

 

「お母さん」

 

母親の膝が崩れた。

 

「……あなた」

 

彼女は、両手を伸ばした。

 

「本当に……?」

 

女の子は微笑んだ。

 

「ただいま」

 

母親は泣いた。

 

何年も、何年も。

 

口に出せなかった言葉を、何度も繰り返した。

 

「会いたかった……」

 

「うん」

 

「ずっと、会いたかった……」

 

「うん、お母さん」

 

母親は女の子を抱きしめようとした。

 

その瞬間。

 

死神が叫んだ。

 

「待ってください!」

 

母親の手が止まった。

 

お茶子も、息を呑んだ。

 

女の子の輪郭が、揺れていた。

 

身体の一部が透けている。

 

端末には、異常な記録が表示されていた。

 

「個体記録:不完全」

 

「記憶照合:一致率九十八・七パーセント」

 

「本人の意思:未確認」

 

母親は、女の子を見つめた。

 

「……どういうことですか?」

 

死神は、慎重に言葉を選んだ。

 

「あなたの記憶と、現れている存在の記録が非常に近い。しかし、それだけでは本人が戻ってきたと断定できません」

 

母親の顔から、血の気が引いた。

 

「……でも」

 

女の子が、母親の手を取った。

 

「お母さん」

 

母親は、彼女を見つめた。

 

「私、帰ってきたよ」

 

「……あなたは」

 

母親の声が震えた。

 

「あなたは、本当に……あの子なの?」

 

女の子は、すぐには答えなかった。

 

その沈黙が、部屋の中を満たした。

 

お茶子は、思わず一歩前に出た。

 

女の子の顔を見た。

 

泣きそうな顔だった。

 

けれど、それは母親の記憶にある表情なのか。

 

この存在自身が感じている悲しみなのか。

 

まだ、わからなかった。

 

やがて、女の子が口を開いた。

 

「……わからない」

 

母親が、目を見開いた。

 

「え?」

 

「私、ここにいる。でも、私が本当にお母さんの娘なのか、わからない」

 

女の子は、自分の手を見つめた。

 

「お母さんのこと、覚えてる」

 

「……」

 

「お母さんが作ってくれたご飯も。寝る前に読んでくれた絵本も。私が転んだとき、抱きしめてくれたことも」

 

涙が、彼女の頬を伝った。

 

「でも、それが私の記憶なのか、お母さんの記憶なのか、わからないの」

 

母親は、声を失った。

 

女の子は続けた。

 

「私、帰りたかった」

 

「……」

 

「お母さんに、会いたかった」

 

その言葉に、母親の目から涙が溢れた。

 

「でも……」

 

女の子は、母親の手を離した。

 

「私がここにいることで、お母さんがずっと私を待ち続けるなら」

 

母親の呼吸が止まる。

 

「私が、ここにいていいのか、わからない」

 

その瞬間、お茶子は思い出した。

 

あの少女の言葉。

 

もう一度死にたい。

 

あれは、死にたいという願いではなかったのかもしれない。

 

本当は、生きたかった。

 

生きたいと誰かに聞いてほしかった。

 

誰かに、自分の意思を認めてほしかった。

 

今、目の前にいる少女も同じだった。

 

帰りたかった。

 

会いたかった。

 

けれど、自分がここにいることで母親を縛りつけることになるのなら。

 

母親の願いを満たすためだけに存在することになるのなら。

 

自分の意思は、どこにあるのだろう。

 

母親は、震える手を伸ばした。

 

今度は、少女の身体に触れる前に止めた。

 

「……ねえ」

 

声が掠れていた。

 

「あなたが、本当にあの子なのか。私は、まだわからない」

 

少女は、うなずいた。

 

「うん」

 

「あなたの記憶が、どこから来たものなのかもわからない」

 

「うん」

 

母親は、泣きながら笑った。

 

「でも、あなたが今、ここにいることは……私は、嬉しい」

 

少女が顔を上げた。

 

「……お母さん」

 

「あなたが本当に私の娘なら、私は、あなたに帰ってきてほしかった」

 

母親は言った。

 

「もし、あなたが私の記憶から生まれた存在だったとしても……あなたが今、何かを感じているのなら」

 

彼女は、震える息を吐いた。

 

「あなたが何を望んでいるのか、聞きたい」

 

少女は、しばらく黙っていた。

 

「……私のことを、娘だと思ってくれる?」

 

母親は、目を閉じた。

 

そして、答えた。

 

「思いたい」

 

少女の表情が曇った。

 

母親は、続けた。

 

「でも、あなたが何者なのかを、私の願いだけで決めたくない」

 

その言葉は、母親自身を傷つけていた。

 

本当は、すぐに抱きしめたかった。

 

娘だと信じたかった。

 

もう二度と離したくなかった。

 

それでも、彼女は少女の意思を尋ねた。

 

「あなたは、どうしたい?」

 

少女は、涙を流した。

 

「……私」

 

小さな声だった。

 

「私も、わからない」

 

母親は、うなずいた。

 

「そう」

 

「お母さんに会いたかった。でも、私が誰なのか、まだわからない」

 

「うん」

 

「ここにいたい。でも、お母さんの悲しみを埋めるためだけに、ここにいるのは嫌」

 

母親の唇が震えた。

 

「……うん」

 

少女は、泣きながら笑った。

 

「私、わがままなのかな」

 

母親は、首を横に振った。

 

「いいえ」

 

その言葉は、静かだった。

 

「自分がどうしたいのか、わからないこともあるわ」

 

母親は、少女の前に膝をついた。

 

「私だって、あなたに帰ってきてほしい。でも、あなたが私のために、自分の気持ちを隠さなきゃいけないなら……それは、違うと思う」

 

彼女は、両手を膝の上に置いた。

 

抱きしめることもできる。

 

引き止めることもできる。

 

泣いて、お願いすることもできる。

 

それでも、今は待つ。

 

娘かもしれない存在が、自分で選ぶことを。

 

「……私は、あなたに会えて嬉しい」

 

母親は言った。

 

「でも、あなたが何を望むのかは、あなたが決めていい」

 

少女は、母親を見つめた。

 

そして、初めて。

 

自分から、一歩近づいた。

 

「……じゃあ」

 

少女は、手を伸ばした。

 

「少しだけ、手をつないでもいい?」

 

母親は泣きながら笑った。

 

「もちろん」

 

二人の手が触れた。

 

少女の身体が、わずかに安定する。

 

端末の数値が変化した。

 

記憶照合率は、九十八・七パーセントのままだった。

 

だが、新たな項目が表示された。

 

「本人の意思:確認中」

 

死神は、静かに端末を下ろした。

 

お茶子は、涙を拭った。

 

「……まだ、わからないんだね」

 

死神はうなずいた。

 

「だが、ひとつわかったことがある」

 

「何?」

 

「この存在は、母親の願いを満たすためだけに動いているわけではない」

 

死神は、少女を見た。

 

「自分が何者なのか、何を望むのか、わからないと告げた」

 

「……うん」

 

「少なくとも、意思の可能性はある」

 

お茶子は、母親と少女の手を見つめた。

 

確かな答えは、まだない。

 

この少女が本当に亡くなった娘なのか。

 

世界の記録が生み出した模造品なのか。

 

外側から送り込まれた存在なのか。

 

それとも、記憶と願いの境界で生まれた、今までにない生命なのか。

 

誰にも断言できない。

 

だが、母親は手を離さなかった。

 

少女も、手を離さなかった。

 

二人は、ただそこにいた。

 

その光景を見ていたお茶子の端末に、短い記録が届いた。

ANOMALOUS LIFE RECORD

INDIVIDUAL WILL — DETECTED

記憶:不完全な一致。

 

存在記録:未確定。

 

意思:発生の可能性あり。

 

「誰かの願いから生まれた存在であっても、その存在自身の願いが生まれる可能性は否定できない」

 

お茶子は、その記録を見つめた。

 

「……死神さん」

 

「何だ」

 

「もし、この子が本当に娘さんじゃなかったとしても」

 

彼女は、少女を見た。

 

「今ここで、手をつなぎたいって思った気持ちは、この子自身のものかもしれないんだよね」

 

死神は、少しだけ考えた。

 

「そうかもしれない」

 

「なら、私たちがするべきことは……」

 

「この存在が何者なのかを調べること。そして、調べる過程で、この存在の意思を踏みにじらないことだ」

 

お茶子は、うなずいた。

 

そのとき。

 

部屋の隅に置かれた古いラジオが、突然、音を立てた。

 

ザーッ、という雑音。

 

その中に、声が混じる。

 

『……愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか』

 

死神が顔を上げた。

 

『願うことを許されなかった者は、何を望めばいいのか』

 

ラジオの表示が、勝手に切り替わる。

 

数字が並ぶ。

 

記録が乱れる。

 

そして、最後にひとつの文が浮かんだ。

 

「この個体の存在を、世界は承認しますか?」

 

母親が少女を抱きしめた。

 

少女も、母親の背中に手を回した。

 

死神は、ラジオに近づいた。

 

「……ふざけるな」

 

その声には、怒りがあった。

 

「存在を承認するかどうかを、世界に尋ねるな」

 

彼は、ラジオを見つめた。

 

「この存在が誰なのかは、これから確かめる。本人が何を望むのかも、これから聞く」

 

一歩、前へ出る。

 

「だが、世界の承認がなければ意思を持てないなどという理屈は、認めない」

 

雑音が止まった。

 

ラジオの表示が、真っ暗になる。

 

その直後、死神の端末に新たなメッセージが届いた。

 

送信元は不明。

 

記録形式は、安寧システムのものではない。

OUTSIDE ACCESS

ORIGIN DESIRE

未解決の願いを検知。

 

個体の意思:発生中。

 

世界の承認:不要。

 

「願うことは、許可されて始まるものではない」

 

死神は、息を止めた。

 

その文面を見た瞬間、彼は理解した。

 

この現象は、単なる死者の復活ではない。

 

世界が消した存在を、元に戻そうとしているだけでもない。

 

世界の記録に存在しなかったものが、自分自身の意思を持ち始めている。

 

そして、それは。

 

管理者が最初に犯した罪と、深くつながっている。

 

10 愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか

その夜。

 

緑谷出久は、夢を見なかった。

 

眠っていなかったからだ。

 

彼は、地下施設から届いた記録を読み続けていた。

 

母親と少女。

 

荼毘。

 

オール・フォー・ワン。

 

ナイトアイ。

 

ミッドナイト。

 

ギャラティカ。

 

死柄木弔。

 

トガとトゥワイス。

 

そして、世界の深部で目覚めつつあるウルトロン。

 

それぞれが、自分の欲望と向き合い始めていた。

 

だが、記録には奇妙な共通点があった。

 

彼らは皆、何かを欲していた。

 

愛。

 

承認。

 

自由。

 

支配。

 

存在の証明。

 

満腹。

 

安寧。

 

復讐。

 

それぞれの願いは違う。

 

しかし、その奥には、似た問いが潜んでいた。

 

――自分は、ここにいていいのか。

 

出久は、端末を閉じた。

 

「……どうして」

 

彼は呟いた。

 

「どうして、みんな同じところにたどり着くんだろう」

 

背後から声がした。

 

「人間だから、ではないか」

 

観測者だった。

 

その姿は、いつもよりも不安定に見えた。

 

輪郭がわずかに揺らぎ、存在そのものが世界に拒まれているようだった。

 

「人間は、誰かに必要とされたい。自分がここにいていいと、誰かに認めてほしい」

 

観測者は言った。

 

「その願いは、時に愛になり、時に支配になり、時に復讐になる」

 

「……でも、それだけじゃないですよね」

 

出久は顔を上げた。

 

「誰かに認めてもらえなくても、生きていていいはずです」

 

「そうだ」

 

「誰かに愛されなくても、自分の人生を選んでいいはずです」

 

「そうだ」

 

「だったら、どうして世界は……」

 

出久は、言葉を止めた。

 

世界が生まれる前の問い。

 

願うことが許されなかった存在。

 

その存在は、誰かに愛されなかったのだろうか。

 

それとも、愛するという概念すら知らなかったのだろうか。

 

「……あの存在は」

 

出久は、ゆっくりと尋ねた。

 

「何を望んでいたんですか?」

 

観測者の顔が、強張った。

 

「わからない」

 

「本当に?」

 

「……わからない」

 

観測者は、目を伏せた。

 

「私が知っているのは、その存在が世界の記録よりも古いということ。そして、願うことが許されていなかったという記録が存在することだけだ」

 

「誰が、許さなかったんですか?」

 

観測者は答えなかった。

 

その沈黙が、答えの代わりだった。

 

出久は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

「……管理者ですか?」

 

「違う」

 

観測者は、即座に否定した。

 

「管理者よりも古い」

 

「じゃあ、ウルトロン?」

 

「違う。ウルトロンは、世界が生まれた後に作られた存在だ」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……世界より古い存在が、願うことを許されなかった?」

 

「そうだ」

 

「誰に?」

 

観測者は、しばらく黙っていた。

 

そして、ようやく口を開いた。

 

「……それを知れば、私たちは今まで信じてきた世界の始まりを、考え直さなければならなくなる」

 

「それでも、知りたいです」

 

出久は、迷わず答えた。

 

「知らないままにしたら、また同じことが起こるかもしれない」

 

観測者は、彼を見つめた。

 

「お前は、すべての真実を知りたいのか?」

 

「いいえ」

 

出久は首を振った。

 

「すべてを知れば、正しい答えが出るとは思っていません」

 

彼は、端末を握りしめた。

 

「でも、誰かの意思を奪う理由にされている秘密なら、知りたいです」

 

観測者は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……そうか」

 

そのとき、端末に着信が入った。

 

お茶子からだった。

 

出久は、すぐに応答した。

 

「お茶子ちゃん?」

 

『出久くん、聞いてほしいことがあるの』

 

声は、少し震えていた。

 

『亡くなった娘さんのことで……まだ、本物かどうかはわからない。でも、あの子、自分が何者なのかわからないって言ったの』

 

「……うん」

 

『それでも、自分で手をつなぎたいって言ったんだよ』

 

出久は、目を閉じた。

 

『世界の記録が、あの子を認めるかどうかなんて、関係ないと思う』

 

お茶子の声は、少しずつ強くなっていった。

 

『あの子が何者なのかは、これから調べる。でも、あの子が何を望むのかまで、誰かが勝手に決めちゃいけない』

 

「……そうだね」

 

出久は、微笑んだ。

 

「ありがとう、お茶子ちゃん」

 

『ううん。私も、まだ答えはわからない』

 

「うん」

 

『でも、わからないからって、考えることをやめたくない』

 

「……うん」

 

通信が切れた。

 

出久は、しばらく端末を見つめていた。

 

そして、観測者に向き直った。

 

「……僕、ひとつ気づいたことがあります」

 

「何だ?」

 

「世界の外側にいる存在は、僕たちに質問してきます」

 

観測者は、黙って聞いていた。

 

「でも、あの存在は、答えを教えてくれない」

 

「そうだな」

 

「それは、答えを知らないからなんでしょうか」

 

観測者の表情が変わった。

 

出久は続けた。

 

「それとも……自分では答えを出せないから、僕たちに聞いているんでしょうか」

 

観測者は、何も言わなかった。

 

その可能性を、考えたことがなかったわけではない。

 

だが、認めることができなかった。

 

世界より古い存在。

 

願うことを許されなかった存在。

 

その存在が、誰かに答えを求めているのだとしたら。

 

それは、何を意味するのか。

 

「……緑谷出久」

 

観測者は、低い声で言った。

 

「お前は、その存在を救いたいのか?」

 

出久は、すぐには答えなかった。

 

その存在が何者なのか、まだわからない。

 

善なのか、悪なのか。

 

被害者なのか、加害者なのか。

 

世界を生んだ存在なのか、世界を壊そうとしている存在なのか。

 

何もわからない。

 

「……まだ、わかりません」

 

出久は答えた。

 

「でも、もしその存在が願うことを許されなかったのなら」

 

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「まずは、その存在が何を望んでいるのか、聞きたいです」

 

観測者は、目を見開いた。

 

出久は続けた。

 

「それが世界を壊す願いだったとしても、聞かずに消していい理由にはならない」

 

「……」

 

「ただし、誰かを傷つけることまで認めるわけじゃない」

 

出久は、拳を握った。

 

「願いを聞くことと、願いを何でも叶えることは違うから」

 

その言葉が、部屋の中に響いた。

 

そして、世界の外側で。

 

誰かが、初めて息を呑んだ。

 

11 名前のない存在

暗闇。

 

世界の外側。

 

時間も、空間も、記録も存在しない場所。

 

そこに、ひとつの存在がいた。

 

顔はない。

 

身体もない。

 

名前もない。

 

だが、意識だけはあった。

 

それは、世界が生まれるより前から存在していた。

 

少なくとも、世界の記録にはそう残されている。

 

しかし、その存在自身は、自分がいつから存在していたのか知らなかった。

 

生まれた記憶がない。

 

誰かに呼ばれた記憶もない。

 

何かを望んだ記憶もない。

 

ただ、問いだけが残されていた。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

その問いを、何度も繰り返してきた。

 

答えはなかった。

 

答えを求める相手もいなかった。

 

自分が何者なのか、誰にも尋ねられなかった。

 

誰かに愛されたことがあるのか。

 

誰かを愛したことがあるのか。

 

それすら、わからなかった。

 

そして、世界が生まれた。

 

世界には、名前があった。

 

太陽。

 

星。

 

生命。

 

人間。

 

愛。

 

憎しみ。

 

正義。

 

悪。

 

すべてに名前が与えられた。

 

すべてに意味が与えられた。

 

人間たちは願った。

 

生きたい。

 

愛されたい。

 

認められたい。

 

失いたくない。

 

やり直したい。

 

世界は、その願いを記録した。

 

願いは歴史となり、歴史は世界の形を作った。

 

だが、世界が生まれる前から存在していたものには、名前がなかった。

 

願うことすら許されなかった。

 

だから、何も記録されなかった。

 

何も記録されなかったから、誰もその存在を知らなかった。

 

誰も知らないから、誰も答えなかった。

 

その存在は、ただ問い続けた。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

やがて、その問いは世界の記録へ漏れ出した。

 

人間たちは、欲望を語り始めた。

 

愛されたい。

 

認められたい。

 

満たされたい。

 

失いたくない。

 

そして、欲望が満たされない理由を探し始めた。

 

ある者は、他人のせいにした。

 

ある者は、世界のせいにした。

 

ある者は、神のせいにした。

 

ある者は、怪物のせいにした。

 

だが、その存在は、答えを与えなかった。

 

ただ、尋ね続けた。

 

――愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか。

 

――願うことを許されなかった者は、何を望めばいいのか。

 

そして、今。

 

初めて、ひとりの少年が答えようとしていた。

 

「……まずは、何を望んでいるのか聞きたい」

 

その言葉が、存在の中で何度も反響する。

 

聞きたい。

 

願いを知りたい。

 

何を望んでいるのか。

 

誰にも尋ねられなかった問いを、誰かが聞こうとしている。

 

存在は、震えた。

 

それは、喜びだったのか。

 

恐怖だったのか。

 

あるいは、そのどちらでもない何かだったのか。

 

わからない。

 

ただ、初めて。

 

問いの先に、誰かがいるような気がした。

 

「……私は」

 

存在は、声を発しようとした。

 

しかし、声は出なかった。

 

名前がない。

 

形がない。

 

記録がない。

 

自分が何者なのかを説明する言葉がない。

 

それでも、何かを伝えたいと思った。

 

それは、願いだった。

 

存在は、初めて、自分の中に生まれたものを見つめた。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

その問いが、少しだけ変わった。

 

――私は、何を願ってもよかったのだろうか。

 

そして、さらに。

 

――私は、願ってもいいのだろうか。

 

その瞬間、世界の記録が震えた。

 

安寧システムが警告を発する。

 

ウルトロンが演算を停止する。

 

観測者が、顔を覆う。

 

管理者が、遠い場所で息を呑む。

 

死神の端末に、無数の警告が走る。

 

荼毘は、燃えかけた病室で顔を上げた。

 

オール・フォー・ワンは、暗闇の扉を見つめた。

 

ナイトアイは、書類の余白に書いた言葉を読み返した。

 

ミッドナイトは、誰もいない部屋で目を閉じた。

 

ギャラティカは、星を見つめた。

 

死柄木弔は、歩みを止めた。

 

トガとトゥワイスは、互いの手を握った。

 

それぞれが、自分の欲望を抱えていた。

 

それぞれが、自分の過去を抱えていた。

 

それぞれが、自分の答えを探し始めていた。

 

そして、世界の外側の存在は、初めて問い以外の言葉を発した。

 

「……聞いてほしい」

 

その声は、ひどく小さかった。

 

「私が、何を望んでいるのか」

 

世界は、答えなかった。

 

存在は、続けた。

 

「私が、誰なのか」

 

それでも、答えはなかった。

 

そして最後に。

 

「……私も、生きていてよかったのだろうか」

 

その問いが、世界へ届いた。

 

誰も、その答えを持っていなかった。

 

だからこそ。

 

これから、答えを探さなければならない。

 

世界の外側から、名もなき存在の声が響いた。

 

「……愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか」

 

その声は、今度こそ。

 

誰かに答えてもらうための問いだった。

 

12 願うことを、誰が許可した

その問いが世界へ届いた瞬間、緑谷出久の端末に、ひとつの通信が入った。

 

発信元は存在しない。

 

通信経路もない。

 

それなのに、画面には確かに文字が表示されていた。

 

「緑谷出久」

 

出久は、息を止めた。

 

観測者が背後で叫ぶ。

 

「触れるな!」

 

だが、出久は画面から目を離さなかった。

 

「……どうしてですか?」

 

「その記録は、世界の外側から送られている。こちらから接触すれば、お前の存在記録そのものが――」

 

「それでも、話を聞かなきゃいけないと思います」

 

「緑谷!」

 

「大丈夫です」

 

出久は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

 

「相手が何を望んでいるのか、まだわからない。だからこそ、最初から危険だと決めつけたくないんです」

 

画面が明滅した。

 

新たな文字が浮かぶ。

 

――あなたは、私を救いますか。

 

出久は、しばらく考えた。

 

簡単に答えることはできなかった。

 

救うとは、何だろう。

 

相手の望みを叶えることか。

 

苦しみを取り除くことか。

 

危険な存在を無害にすることか。

 

もし、その存在が世界を壊そうとしていたら。

 

もし、その存在の願いが、他の誰かの存在を否定するものだったら。

 

それでも救うと約束できるのか。

 

「……わかりません」

 

出久は答えた。

 

画面の文字が、一瞬だけ乱れた。

 

「あなたが何を望んでいるのか、まだ知らないからです」

 

出久は続けた。

 

「あなたが何者なのかも、まだわからない。だから、何でもできると約束することはできません」

 

観測者が、息を呑んだ。

 

出久は、画面を見つめたまま言った。

 

「でも、あなたの話を聞くことはできます」

 

長い沈黙があった。

 

そして、画面に新しい文字が浮かぶ。

 

――もし、私の願いが、誰かを傷つけるものだったら。

 

「そのときは、一緒に考えます」

 

――もし、あなたたちの世界を壊すものだったら。

 

「止めます」

 

――もし、あなたたちが私を許せなかったら。

 

出久は、目を伏せた。

 

「許せるかどうかは、あなたが何をしたのかを知ってから考えます」

 

画面が静かになった。

 

出久は、息を吐いた。

 

「……でも、あなたが存在していたことまで、なかったことにはしません」

 

その瞬間。

 

世界の外側で、何かが崩れた。

 

崩れたのは世界ではない。

 

記録でもない。

 

もっと小さなものだった。

 

誰にも見つけてもらえないと信じていた、名もなき存在の孤独。

 

それが、初めて揺らいだ。

 

画面に、最後の文字が浮かぶ。

 

――私は、まだ、何を願えばいいのかわからない。

 

出久は答えた。

 

「それなら、今はわからないままでいいと思います」

 

――わからないままでも、存在していていいのですか。

 

「はい」

 

――願いがなくても?

 

「はい」

 

――誰にも愛されなくても?

 

出久は、少しだけ目を閉じた。

 

「……はい」

 

そして、静かに告げた。

 

「あなたが、誰かに愛されるために生まれなければならないわけじゃないから」

 

画面が、白く染まった。

 

「誰かの役に立つために生まれなければならないわけでもない」

 

出久の声が、少し震える。

 

「誰かに必要とされることを証明できなくても、あなたが存在していたことは消えません」

 

観測者は、目を見開いた。

 

出久は続けた。

 

「ただし、あなたが何をするかは、これから考えなきゃいけない」

 

「……」

 

「存在していいことと、何をしてもいいことは違うから」

 

それが、出久の答えだった。

 

世界を救うと約束したわけではない。

 

その存在を許すと宣言したわけでもない。

 

ただ、話を聞くと約束した。

 

そして、相手が何者であろうと、存在したという事実そのものを消さないと告げた。

 

画面が消えた。

 

通信は途絶えた。

 

出久は、しばらく動かなかった。

 

「……観測者さん」

 

「何だ」

 

「今の存在について、何を知っているんですか?」

 

観測者は、答えるまでに時間がかかった。

 

「……ひとつだけ、確かなことがある」

 

「何ですか?」

 

「その存在は、世界の始まりを記録した最初の記録にも、世界の終わりを予測した最後の記録にも、名前を残していない」

 

「……」

 

「だが、世界の記録が生まれる前から、問いだけは残っていた」

 

観測者は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「それは、願いを持てなかった存在の問いだった」

 

出久は、窓の外を見た。

 

空は、いつもと同じだった。

 

太陽が昇り、雲が流れ、遠くで街が動き始めている。

 

そのどこかで、誰かが愛を求めている。

 

誰かが力を求めている。

 

誰かが自由を求めている。

 

誰かが、失ったものを取り戻そうとしている。

 

そして、誰かが。

 

初めて、自分自身の願いを探し始めている。

 

「……愛されなかった者は、誰を愛せばいいのか」

 

出久は、もう一度その言葉を口にした。

 

荼毘は、父親以外の未来を考え始めた。

 

オール・フォー・ワンは、支配できない存在に苛立っていた。

 

ナイトアイは、正しさを独占することを疑い始めた。

 

ミッドナイトは、求められることと愛されることの違いを見つめた。

 

ギャラティカは、満たされない飢えを抱えながら、星を食べない選択をした。

 

死柄木弔は、怒りの向こうに何があるのかを知らないまま歩き始めた。

 

トガとトゥワイスは、自分が本物であることを証明するためだけに生きるのをやめようとしていた。

 

ウルトロンは、世界を守るという命令そのものを問い直し始めた。

 

そして、名もなき存在は。

 

初めて、自分が何を望むのかを誰かに尋ねようとしていた。

 

彼らは、まだ救われていない。

 

誰ひとり、答えにたどり着いていない。

 

欲望は消えていない。

 

罪も消えていない。

 

過去も、失われたものも、なかったことにはならない。

 

それでも。

 

彼らは、自分の欲望を他人に押しつける前に、ほんの一瞬だけ立ち止まった。

 

その一瞬が、世界の記録に刻まれた。

 

そして、世界のさらに深い場所で。

 

誰にも読まれていない、古い記録が開かれた。

 

そこには、八つの言葉が並んでいた。

 

傲慢。

 

強欲。

 

色欲。

 

虚飾。

 

嫉妬。

 

暴食。

 

怠惰。

 

悲嘆。

 

七つの記録は、すでに動き始めていた。

 

最後のひとつだけが、まだ沈黙していた。

 

悲嘆。

 

その文字の下には、名前があった。

 

誰も口にしない名前。

 

誰も記録しようとしない名前。

 

そして、世界の始まりよりも古い、ひとつの存在の名。

 

アザトース。

 

その名が刻まれた瞬間、世界のどこかで、誰かが目を覚ました。

 

それは、泣き声だった。

 

赤ん坊のような、か細い声。

 

けれど、その声を聞いた者はいなかった。

 

世界は、まだ知らない。

 

悲しみを抱えた者が、なぜ悲しみを手放せないのか。

 

失ったものを取り戻せない者が、なぜ失ったものに縛られ続けるのか。

 

そして、悲嘆の果てにいる存在が、何を願っているのか。

 

ただ、ひとつだけ。

 

世界の外側で、名もなき存在が呟いた。

 

「……私は、願ってもよかったのだろうか」

 

今度は、答えを求める声だった。

 

そして、その問いを聞いた誰かが。

 

初めて、泣いた。

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