僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

83 / 183
第三話「悲しみを食べる者は、なぜ満たされないのか」

第一節 死者は、帰ってきてはいけないのか

北海道、郊外。

 

小さな家の玄関には、子供用の黄色い長靴が置かれていた。

 

左右の大きさが、ほんの少しだけ違う。

 

右足の長靴には、青い星のシール。

 

左足には、赤いウサギのシール。

 

どちらも、もう何年も使われていない。

 

それでも、家の持ち主は捨てることができなかった。

 

「……あの子、右足から履くんです」

 

居間で、女性が言った。

 

三十代の終わりに差しかかった母親だった。

 

彼女の名前は、佐伯美和。

 

夫とは数年前に別居し、現在は一人で暮らしている。

 

娘の名前は、佐伯ひより。

 

七歳で亡くなった。

 

交通事故だった。

 

横断歩道を渡っていたひよりは、道路に飛び出した幼い男の子を見つけた。

 

自分が走れば間に合うと思ったのだろう。

 

ひよりは男の子を押し出した。

 

そして、自分は戻れなかった。

 

事故の詳細は、警察の記録にも残っている。

 

救助された男の子は生きていた。

 

ひよりは、その場で命を落とした。

 

それから三年。

 

美和は、娘のいない家で暮らしていた。

 

「朝になると、つい二人分の食器を出してしまうんです。おかしいでしょう?」

 

美和は笑った。

 

お茶子は、すぐには答えられなかった。

 

「おかしくないです」

 

ようやく出た言葉は、それだけだった。

 

「……そうですか」

 

「はい」

 

美和は、テーブルの上に置かれた写真立てを撫でた。

 

そこには、ひよりが写っていた。

 

少し大きすぎる黄色い帽子。

 

口の周りについたチョコレート。

 

ピースサインをしようとして、指が三本になってしまっている。

 

ひよりは、カメラに向かって笑っていた。

 

「昨日、あの子が帰ってきたんです」

 

美和は、もう一度言った。

 

「夜中に目が覚めたら、台所から音がして。最初は泥棒かと思ったんですけど……」

 

「台所に、誰かいたんですか?」

 

お茶子が尋ねる。

 

「いました」

 

美和は頷いた。

 

「ひよりが」

 

部屋の空気が、わずかに変わった。

 

「……どんな様子でしたか?」

 

死神が尋ねた。

 

美和は、死神の顔を見た。

 

「あなたは、信じてくれるんですか?」

 

「信じるかどうかを決める前に、あなたが見たものを聞きたい」

 

「……」

 

「あなたが見たものを、最初から嘘だと決めつけるつもりはない」

 

美和の唇が震えた。

 

「ひよりは、冷蔵庫を開けていました」

 

「冷蔵庫?」

 

「そうです。牛乳を探していたんです」

 

美和は、小さく笑った。

 

「ひより、牛乳が好きだったんです。でも、牛乳を飲むとお腹が痛くなることがあって。だから、いつも少しだけ温めて飲ませていたんです」

 

「……」

 

「昨日も、同じでした。私が起きてきたら、ひよりが冷蔵庫の前に立っていて」

 

美和の目に、涙が浮かんだ。

 

「『ママ、牛乳、あっためて』って」

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「私、何も考えられなかったんです。夢だと思いました。夢でもいいと思いました。だから、牛乳を温めて……」

 

美和は、両手で顔を覆った。

 

「飲ませたんです」

 

長い沈黙。

 

「ひよりは、笑っていました」

 

美和の声は、かすれていた。

 

「おいしいって。いつものように。……それから、私の顔を見て」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「『ママ、どうして泣いてるの?』って」

 

お茶子の目から、涙が落ちた。

 

「私、泣いていたんです。嬉しくて。怖くて。何が起きているのかわからなくて。でも、あの子が目の前にいるから……」

 

美和は、胸元を握った。

 

「抱きしめようとしたんです」

 

「……」

 

「そしたら、ひよりが言ったんです」

 

美和は、目を閉じた。

 

『ママ、あの子のこと、覚えてる?』

 

お茶子は顔を上げた。

 

「……あの子?」

 

「事故で助かった、男の子です」

 

美和は答えた。

 

「ひよりは、あの子を助けたでしょう?」

 

「はい」

 

「ひより、事故の前に、その男の子を見たことがあったそうなんです。学校の近くで、何度か」

 

美和は、膝の上で手を握った。

 

「でも、ひよりは、その子の名前を知らなかった。だから、最後まで名前を呼べなかった」

 

「……」

 

「それで、昨日のひよりは、私に聞いたんです」

 

美和の声が、震えた。

 

『ママ。あの子は、今、笑ってる?』

 

お茶子は、答えられなかった。

 

死神が、静かに尋ねる。

 

「あなたは、何と答えましたか?」

 

美和は、涙を拭った。

 

「……笑ってるよ、って」

 

「本当のことを知っていたんですか?」

 

「いいえ」

 

美和は、首を振った。

 

「でも、そう答えたかったんです」

 

彼女は、写真立てを見た。

 

「ひよりが死んだことを、あの子のせいにしたくなかった。ひよりが助けた子が、生きていてくれてよかったって……そう思いたかった」

 

「……」

 

「だから、笑ってるよって言いました」

 

美和の声が、かすれた。

 

「そしたら、ひよりは笑ったんです」

 

彼女は、泣きながら笑った。

 

「よかった、って」

 

お茶子は、唇を噛んだ。

 

美和の願いは、娘を取り戻すことだけではない。

 

娘がしたことに意味があったと信じたい。

 

娘が死んだことを、無意味な悲劇にしたくない。

 

助かった少年が、生きていてよかったと思いたい。

 

そのすべてが、彼女の中で絡み合っていた。

 

死神は、部屋の隅に置かれた黄色い長靴を見た。

 

「……美和さん」

 

「はい」

 

「ひよりさんが、今夜も来ると言ったら、どうしますか?」

 

美和は、即答した。

 

「会います」

 

「何日でも?」

 

「はい」

 

「何年でも?」

 

「……はい」

 

死神は、それ以上尋ねなかった。

 

ただ、ひとつだけ告げた。

 

「では、今夜、私たちもここにいます」

 

美和は、顔を上げた。

 

「ひよりに、会えるんですか?」

 

死神は答えなかった。

 

会えると約束することはできない。

 

会えないと断言することもできない。

 

死者を取り戻すことが、救いになるのか。

 

それとも、失ったものを手放せなくなる呪いになるのか。

 

まだ、誰にもわからなかった。

 

そして、窓の外。

 

誰にも見えない場所で。

 

黒い影が、ゆっくりと首を傾けた。

 

「……ああ」

 

声がした。

 

「なんて、おいしい悲しみだろう」

 

第二節 悲しみを食べる者

その存在は、最初からそこにいた。

 

世界の誕生よりも前から存在していたのか。

 

死者が初めて生まれた瞬間に生まれたのか。

 

あるいは、人間が最初に失ったものを悼んだとき、初めて形を得たのか。

 

その答えを知る者はいない。

 

ただ、彼は死者のそばにいた。

 

人間が大切な誰かを失ったとき。

 

もう一度会いたいと願ったとき。

 

最後に言えなかった言葉を、何度も何度も胸の中で繰り返したとき。

 

彼は、そこにいた。

 

悲しみの匂いを嗅ぎつけて。

 

泣き声を聞きつけて。

 

失われた名前が、誰かの口からこぼれる瞬間を待っていた。

 

彼の名前は、デス。

 

死そのものなのか。

 

死を見届ける者なのか。

 

死によって残された悲しみの化身なのか。

 

それすら、確定していない。

 

だが、ひとつだけ確かなことがあった。

 

デスは、悲しみを食べる。

 

人間の悲しみを。

 

死者を求める願いを。

 

叶わなかった約束を。

 

そして、どれほど食べても、満たされない。

 

「……なぜだろうね」

 

デスは、美和の家の屋根に腰掛けていた。

 

細長い指先で、空中に漂う光をつまむ。

 

それは、美和の記憶だった。

 

ひよりが生まれた日の記憶。

 

初めて歩いた日の記憶。

 

初めて「ママ」と呼んだ日の記憶。

 

初めて一人で靴を履いた日の記憶。

 

そして、最後の日。

 

横断歩道。

 

ブレーキ音。

 

飛び出した男の子。

 

ひよりが伸ばした手。

 

美和が、病院の廊下で膝から崩れ落ちた瞬間。

 

デスは、それらをひとつずつ味わった。

 

「甘い」

 

彼は呟いた。

 

「とても、甘い」

 

悲しみは、愛の形をしている。

 

愛していたから、失うことが痛い。

 

失ったから、思い出が痛い。

 

思い出が痛いから、もう一度会いたいと願う。

 

そして、もう一度会いたいと願うほど、今ここにいないという現実が鋭くなる。

 

デスにとって、それは食事だった。

 

けれど。

 

「……足りない」

 

彼は、自分の胸元に手を当てた。

 

何もない。

 

そこには心臓も、肺も、胃もない。

 

人間のように食べるための器官すらない。

 

それでも、空腹がある。

 

ひよりが笑った記憶を食べても。

 

美和が泣いた記憶を食べても。

 

母親が娘の名前を呼び続ける声を食べても。

 

空腹は消えない。

 

むしろ、食べれば食べるほど、空腹は大きくなる。

 

「どうして、みんな、悲しみを手放そうとするんだろう」

 

デスは、不思議そうに呟いた。

 

悲しみは、美しい。

 

悲しみは、温かい。

 

悲しみは、誰かを愛していた証拠だ。

 

ならば、それを手放さなければいい。

 

悲しみが消えなければ、愛も消えない。

 

失ったものを思い出すたびに、愛は蘇る。

 

デスは、そう考えた。

 

だから、彼は悲しみを食べる。

 

人間が悲しみを忘れてしまわないように。

 

悲しみが薄れてしまわないように。

 

そして、いつか誰もが、失ったものを永遠に求め続ける世界を作ろうとしていた。

 

それが、彼にとっての救いだった。

 

「……なのに」

 

デスは、美和の家を見下ろした。

 

「どうして、僕は、まだお腹が空いているんだろう」

 

答えは、どこにもなかった。

 

そのとき。

 

背後から、声がした。

 

「お前は、食べ方を間違えている」

 

デスは振り返った。

 

そこに立っていたのは、死神だった。

 

その隣には、お茶子がいる。

 

「……死神」

 

デスは、楽しそうに笑った。

 

「久しぶりだね」

 

「お前が姿を現すのは、いつ以来だ?」

 

「覚えていないよ」

 

「そうか」

 

「君は覚えている?」

 

死神は、答えなかった。

 

デスは、笑みを深めた。

 

「人間が初めて死んだ日。最初の母親が、子供を失って泣いた日。最初の戦争で、誰かが帰らない人を待った日。君は、そのすべてを覚えているのかな?」

 

「……」

 

「僕は覚えているよ」

 

デスは、胸元を撫でた。

 

「だって、僕は、その悲しみを全部食べてきたんだから」

 

お茶子は、デスを睨んだ。

 

「だったら、どうして、その人たちを苦しめるんですか?」

 

デスは、きょとんとした。

 

「苦しめる?」

 

「あなたが悲しみを増やしているんでしょう?」

 

「違うよ」

 

デスは、穏やかに答えた。

 

「僕は、悲しみをなくさないようにしているんだ」

 

「……え?」

 

「人間は、忘れるだろう?」

 

デスは、美和の家を指差した。

 

「いつか、彼女も笑うようになる。ひよりのことを思い出しても、今ほど泣かなくなる。誕生日を迎えても、以前ほど苦しくなくなる。ひよりが好きだった食べ物を見ても、胸が痛まなくなる日が来る」

 

彼は、微笑んだ。

 

「それは、いいことなのかな?」

 

お茶子は、言葉を失った。

 

「悲しみが薄れるということは、愛が薄れるということだ。思い出す回数が減るということは、その子が世界から少しずつ消えていくということだ」

 

「そんなこと……!」

 

「違うの?」

 

デスは、首を傾けた。

 

「君たちは、死者を忘れることで、生きていくんじゃないのかな?」

 

お茶子の胸が、痛んだ。

 

かつて、自分も家族のために金を稼ごうとした。

 

家族が苦しむ姿を見たくなかった。

 

笑っていてほしかった。

 

だから、誰かを救えるヒーローになろうと思った。

 

しかし、救うことと、悲しみを消すことは同じではない。

 

死神が口を開いた。

 

「違う」

 

デスの笑みが、止まった。

 

「悲しみが薄れても、愛が薄れたことにはならない」

 

死神は、静かに続けた。

 

「人間は、失った者を思い出しながら、笑うことができる」

 

「……」

 

「思い出して泣きながら、食事をすることもできる」

 

「……」

 

「死者の誕生日に、ケーキを買って、一人で食べることもできる」

 

死神は、デスを見た。

 

「そして、いつか、泣かずに名前を呼べる日が来る」

 

デスは、眉をひそめた。

 

「それは、忘れたということだろう?」

 

「違う」

 

死神は、即答した。

 

「悲しみが、人生のすべてではなくなったということだ」

 

デスの表情から、笑みが消えた。

 

「……そんなことが、許されるのかい?」

 

その声には、初めて、怒りではない何かが混じっていた。

 

「愛していたのに?」

 

死神は、答えた。

 

「愛していたからこそ、許される」

 

デスは、何も言わなかった。

 

そして、ゆっくりと笑った。

 

「……ああ」

 

彼は、両手を広げた。

 

「だから、僕は、君たちが嫌いなんだ」

 

空気が凍りついた。

 

「君たちは、悲しみを終わらせようとする」

 

デスの足元から、黒い霧が広がる。

 

「死者を送り出そうとする」

 

霧が、家の屋根を覆う。

 

「残された者が、いつか笑うことを望む」

 

霧が、窓から室内へと染み込んでいく。

 

「それは、死者への裏切りだ」

 

死神が、鎌を構えた。

 

「……やめろ」

 

「嫌だよ」

 

デスは、微笑んだ。

 

「だって、僕は、まだ食べ足りないんだから」

 

第三節 戻ってきた娘

深夜、午前二時十三分。

 

美和は、目を覚ました。

 

台所から、音が聞こえた。

 

コップを置く音。

 

冷蔵庫を開ける音。

 

小さな足音。

 

「……ひより?」

 

返事はない。

 

美和は、布団から起き上がった。

 

心臓が、激しく鳴っている。

 

怖い。

 

そう思った。

 

でも、それ以上に。

 

会いたかった。

 

美和は、廊下を歩いた。

 

台所の明かりがついている。

 

そこに、少女が立っていた。

 

黄色いパジャマ。

 

短い髪。

 

頬にある、小さな傷。

 

事故のときについたものではない。

 

公園で転んだときについた傷だ。

 

ひよりは、冷蔵庫を開けていた。

 

「……ママ?」

 

少女が振り返った。

 

「起きちゃったの?」

 

美和は、立ち尽くした。

 

「ひより……」

 

「どうしたの?」

 

少女は、不思議そうに首を傾けた。

 

「ママ、また泣いてる」

 

美和は、走った。

 

少女を抱きしめた。

 

腕の中に、温もりがあった。

 

小さな体。

 

柔らかい髪。

 

懐かしい匂い。

 

「ひより……ひより……!」

 

美和は、何度も名前を呼んだ。

 

「会いたかった……!」

 

「うん」

 

ひよりは、母親の背中に腕を回した。

 

「ひよりも、ママに会いたかったよ」

 

その瞬間。

 

世界が、止まった。

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

死神は、目を細めた。

 

少女の姿は、確かに存在していた。

 

体温がある。

 

呼吸がある。

 

脈拍もある。

 

だが、その存在記録は、ひどく不安定だった。

 

死者の記録と、生者の記録が、ひとつの体の中で重なっている。

 

そして、その周囲から。

 

何かが流れ出していた。

 

美和の記憶。

 

美和の悲しみ。

 

美和の願い。

 

それらが、少女の存在を支えている。

 

ひよりは、母親の頬を撫でた。

 

「ママ」

 

「……なあに?」

 

「今日は、学校に行かなくていいの?」

 

美和は、笑った。

 

「うん。今日は、お休みでいいよ」

 

「やった!」

 

ひよりは、両手を上げた。

 

「じゃあ、公園に行こう!」

 

美和の笑顔が、止まった。

 

「……公園?」

 

「うん!」

 

ひよりは、嬉しそうに頷いた。

 

「ブランコに乗りたい! あと、すべり台!」

 

「……」

 

「それから、アイスも食べたい!」

 

ひよりは、母親の手を握った。

 

「ママ、今日は一緒にいてくれる?」

 

美和は、少女を見つめた。

 

三年前。

 

事故の前日。

 

ひよりは、同じことを言っていた。

 

『ママ、明日、一緒に公園に行こう?』

 

美和は、仕事が忙しかった。

 

だから、こう答えた。

 

『ごめんね。今度ね』

 

その「今度」は、来なかった。

 

美和は、唇を噛んだ。

 

「……うん」

 

彼女は、少女を抱きしめた。

 

「今日は、ずっと一緒にいる」

 

ひよりは、笑った。

 

「ほんと?」

 

「ほんとだよ」

 

「約束?」

 

「約束」

 

少女は、小指を差し出した。

 

美和は、その指に自分の小指を絡めた。

 

その瞬間。

 

お茶子の視界が、揺れた。

 

何かが、美和から抜け落ちていく。

 

彼女の記憶の一部が、少女へと流れている。

 

それだけではない。

 

部屋の中に置かれた写真の色が、薄くなっていた。

 

美和のスマートフォンに残された、ひよりの動画。

 

誕生日の記録。

 

学校の運動会。

 

初めて自転車に乗った日。

 

それらの記録から、少しずつ、ひよりの存在が失われていく。

 

死神が、声を上げた。

 

「美和さん! その子から離れてください!」

 

美和は、振り返った。

 

「……何を言っているんですか?」

 

「その子は、あなたの記憶を食べています!」

 

「違います!」

 

美和は、少女を抱きしめた。

 

「この子は、ひよりです!」

 

「……」

 

「私の娘です!」

 

美和の声が、響いた。

 

「やっと帰ってきたんです!」

 

ひよりは、母親の背中に隠れた。

 

「ママ……?」

 

その声を聞いた瞬間、美和の表情が崩れた。

 

「……大丈夫」

 

彼女は、少女を撫でた。

 

「大丈夫だからね」

 

お茶子は、拳を握りしめた。

 

「……死神さん」

 

「ああ」

 

「この子、本当にひよりちゃんなんですか?」

 

死神は、答えなかった。

 

答えられなかった。

 

少女の中には、確かにひよりの記憶がある。

 

牛乳を温めてほしいと頼む癖。

 

右足から靴を履く習慣。

 

母親の泣き顔を見ると、必ず「大丈夫?」と尋ねる優しさ。

 

だが、それらは、記録から再現できる。

 

記憶を模倣することはできる。

 

言葉を再現することもできる。

 

愛されていた子供の姿を、精巧に作り出すこともできる。

 

それでも。

 

目の前の少女が、本物ではないと断言することはできなかった。

 

なぜなら、人間だって同じだからだ。

 

誰かの記憶を受け継ぎ。

 

誰かの言葉を覚え。

 

誰かの愛情によって形作られていく。

 

記憶が同じなら、同じ人間なのか。

 

体が違えば、別人なのか。

 

その答えを、死神は持っていなかった。

 

ただ、確かなことがひとつあった。

 

このままでは、美和が壊れてしまう。

 

少女の存在を支えるために、美和の記憶が消えていく。

 

ひよりを覚えている母親が。

 

ひよりと過ごした日々を。

 

ひよりが生まれた日のことを。

 

ひよりが初めて笑った日のことを。

 

ひよりが、自分の娘だったという事実を。

 

失っていく。

 

娘を取り戻すために、娘を愛していた自分を失っていく。

 

それは、あまりにも残酷な循環だった。

 

そして、台所の隅で。

 

デスが、静かに笑った。

 

「……そうだ」

 

彼は呟いた。

 

「そうすれば、ずっと一緒にいられる」

 

第四節 ヒーローは、誰のために笑うのか

同じ頃。

 

東京。

 

深夜の高架下。

 

ホークスは、ひとりの男と向かい合っていた。

 

男は、五十代ほど。

 

目の下には濃い隈があり、手には古い写真を握っている。

 

写真に写っているのは、若い女性だった。

 

「……娘さんですか?」

 

ホークスが尋ねると、男は頷いた。

 

「三年前に死んだ」

 

「……そうですか」

 

「事故だった」

 

男は、写真を見つめた。

 

「俺は、あの子と喧嘩していた」

 

ホークスは、黙って聞いていた。

 

「くだらないことでな。進路のことだった。俺は、あの子に安定した仕事に就いてほしかった。でも、あの子は絵を描きたかった」

 

男は、笑った。

 

「俺は、絵なんかで食えるわけがないって言った」

 

「……」

 

「それが最後の会話になった」

 

風が吹いた。

 

男は、写真を握りしめた。

 

「もし、もう一度会えたら、謝りたい」

 

ホークスは、男の手元を見た。

 

「……会えたら、何を話したいですか?」

 

「謝りたい」

 

男は、即答した。

 

「謝って、許してもらいたい」

 

「……」

 

「それから、絵を描けばよかったって言いたい。お前の好きなことを、もっと応援してやればよかったって」

 

男の声が、震えた。

 

「それだけでいい」

 

ホークスは、目を伏せた。

 

彼は、よく知っていた。

 

誰かのために生きること。

 

誰かの期待に応えること。

 

誰かが望む自分でいること。

 

それが、いつの間にか、自分自身の願いを見失うことにつながる場合がある。

 

ホークスは、幼い頃から、周囲の大人に利用されてきた。

 

期待されることが、救いだった。

 

必要とされることが、自分の価値を証明する方法だった。

 

だから、彼は笑った。

 

どんなときでも。

 

辛くても。

 

怖くても。

 

自分が何を望んでいるのかわからなくなっても。

 

誰かが安心できるように、笑ってきた。

 

「……わかりますよ」

 

ホークスは、言った。

 

男が顔を上げた。

 

「俺も、誰かに謝りたいと思ったことがあります」

 

「……」

 

「でも、謝ることができないまま、会えなくなった人もいる」

 

ホークスは、空を見上げた。

 

「その人に、もう一度会えたら。今度こそ、本当のことを話したい。そう思うことは、あります」

 

男は、黙っていた。

 

「でも」

 

ホークスは、男を見た。

 

「もし、娘さんが帰ってきたら、あなたは、娘さんに何を望みますか?」

 

「……何を?」

 

「許してほしいですか?」

 

男は、頷いた。

 

「そうだ」

 

「それとも、許せないと言ってほしいですか?」

 

男の表情が、固まった。

 

ホークスは、静かに続けた。

 

「娘さんが、あなたを許せなかったとしたら。それでも、もう一度会いたいですか?」

 

男は、答えられなかった。

 

ホークスは、急かさなかった。

 

「……俺は」

 

男が、ようやく口を開いた。

 

「俺は、許してほしい」

 

「……」

 

「でも、あの子が俺を許せなかったとしても」

 

男の目から、涙が落ちた。

 

「会いたい」

 

ホークスは、目を閉じた。

 

それは、矛盾している。

 

許してほしい。

 

それでも、許せなくても会いたい。

 

相手の願いを尊重したい。

 

それでも、自分の願いを叶えてほしい。

 

人間の欲望は、いつも整然としているわけではない。

 

善意と身勝手さが、同じ胸の中にある。

 

愛と執着が、同じ言葉を使う。

 

そして、本人ですら、その境界を見失うことがある。

 

「……なら、まずは」

 

ホークスは、男に言った。

 

「娘さんが好きだった絵を、見に行きませんか?」

 

「……え?」

 

「今からでも、遅くないと思います」

 

ホークスは、笑った。

 

いつもの、軽い笑顔だった。

 

でも、今回は、少し違った。

 

「娘さんに会えなくても、娘さんが好きだったものに触れることはできる」

 

「……」

 

「それで、悲しみが消えるわけじゃないですけど」

 

ホークスは、続けた。

 

「あなたが、娘さんの好きだったものを好きになることまで、諦めなくてもいいんじゃないですか」

 

男は、しばらく黙っていた。

 

やがて、写真を胸に抱いた。

 

「……そうだな」

 

その瞬間。

 

高架下の影が、わずかに揺れた。

 

ホークスは、すぐに振り返った。

 

誰もいない。

 

だが、そこに何かがいた。

 

彼の翼の羽が、一枚だけ、黒く変色していた。

 

ホークスは、それを指先でつまんだ。

 

「……何だ、これ」

 

羽は、粉のように崩れた。

 

その奥から、かすかな声が聞こえた。

 

――悲しみを手放してはいけない。

 

ホークスの顔から、笑みが消えた。

 

――悲しみこそが、あなたが愛していた証なのだから。

 

彼は、羽を握りしめた。

 

「……誰だ」

 

返事はない。

 

ただ、遠くで。

 

誰かが、泣いていた。

 

第五節 求められる女と、愛されたい女

雄英高校の旧校舎。

 

使われなくなった訓練室で、ミッドナイトはひとり、椅子に座っていた。

 

机の上には、古い新聞記事が置かれている。

 

かつての活動記録。

 

インタビュー記事。

 

ヒーローランキング。

 

そして、彼女自身の写真。

 

ミッドナイトは、写真を見つめた。

 

「……変な話ね」

 

彼女は、呟いた。

 

「こんなにたくさんの人が、私を見ていたのに」

 

写真の中の彼女は、笑っていた。

 

明るく。

 

自信に満ちて。

 

誰から見ても、魅力的なヒーローとして。

 

だが、写真の外にいる彼女は、笑っていなかった。

 

「……誰も、私が何を怖がっているのか、知らなかった」

 

誰かに求められること。

 

誰かの期待に応えること。

 

自分の魅力を武器にして、仕事をすること。

 

それらを、彼女は否定しない。

 

自分が選んだ道だった。

 

自分の力だった。

 

しかし。

 

「求められることと、愛されることは、違うのよね」

 

彼女は、机の上の写真を裏返した。

 

「……私、何が欲しかったのかしら」

 

その瞬間。

 

訓練室の鏡が、白く曇った。

 

鏡の中に、もうひとりのミッドナイトが立っていた。

 

若い頃の姿。

 

ヒーローとして注目され始めた頃の、自分。

 

鏡の中の彼女は、笑っていた。

 

「何を今さら」

 

鏡の中のミッドナイトが言った。

 

「あなたは、愛されたかったんでしょう?」

 

ミッドナイトは、顔を上げた。

 

「……誰に?」

 

「みんなに」

 

鏡の中の彼女は、笑った。

 

「綺麗だと言われたかった。魅力的だと言われたかった。必要だと言われたかった。誰かの特別になりたかった」

 

「……」

 

「違う?」

 

ミッドナイトは、答えられなかった。

 

鏡の中の彼女は、近づいてきた。

 

「あなたは、求められることで、自分が存在していると確認していた」

 

「……」

 

「でも、求められることは、永遠じゃない」

 

鏡の表面に、ひびが入った。

 

「若さも、人気も、注目も。いつか失われる」

 

「……やめなさい」

 

「だから、あなたは怖かった」

 

鏡の中のミッドナイトは、囁いた。

 

「誰にも見てもらえなくなったら、自分には何も残らないんじゃないかって」

 

ミッドナイトは、立ち上がった。

 

「……やめなさい!」

 

声が、訓練室に響いた。

 

鏡が、砕けた。

 

破片が床に散らばる。

 

そのひとつひとつに、彼女の顔が映っていた。

 

笑っている顔。

 

怒っている顔。

 

泣いている顔。

 

そして、何も感じていない顔。

 

ミッドナイトは、膝をついた。

 

「……違う」

 

彼女は、震える手で破片を拾った。

 

「私は……それだけじゃない」

 

誰かに見てもらいたかった。

 

愛されたかった。

 

必要とされたかった。

 

その気持ちを、否定するつもりはない。

 

でも、それだけではなかった。

 

誰かを守りたかった。

 

生徒たちに、生きていてほしかった。

 

自分が知っている世界よりも、少しだけ優しい世界を、次の世代に渡したかった。

 

そして。

 

自分自身も、生きたかった。

 

誰かに愛されるためだけではなく。

 

誰かに必要とされるためだけでもなく。

 

自分の人生を、自分のものとして。

 

「……そうよ」

 

ミッドナイトは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私は、まだ生きたかった」

 

その言葉が、訓練室に響いた。

 

鏡の破片が、ひとつずつ消えていく。

 

しかし、最後の破片だけは、消えなかった。

 

そこには、彼女ではない誰かの顔が映っていた。

 

黒い影。

 

細長い指。

 

そして、悲しそうな目。

 

「……あなたは、誰?」

 

ミッドナイトが尋ねた。

 

影は、答えた。

 

「僕は、君の悲しみを知っている」

 

「……」

 

「君が、本当は何を欲しかったのかも」

 

影は、微笑んだ。

 

「だから、君の悲しみを食べてあげよう」

 

ミッドナイトは、破片を握りしめた。

 

「……いらないわ」

 

影の笑みが、止まった。

 

「何?」

 

「あなたに、私の悲しみを渡すつもりはない」

 

ミッドナイトは、立ち上がった。

 

「悲しいことも、怖いことも、失ったものも、私の人生の一部よ」

 

彼女は、鏡の破片を机に置いた。

 

「それをどうするかは、私が決める」

 

影は、長い沈黙のあと、笑った。

 

「……そうか」

 

その声には、ほんの少しだけ、失望が混じっていた。

 

「君も、僕を満たしてくれないんだね」

 

そして、消えた。

 

ミッドナイトは、しばらく鏡を見つめていた。

 

やがて、深く息を吐いた。

 

「……本当に、面倒な相手ね」

 

彼女は、苦笑した。

 

それから、机の上の写真を表に戻した。

 

写真の中の彼女は、相変わらず笑っていた。

 

今度は、その笑顔を、少しだけ違う気持ちで見ることができた。

 

第六節 星を食べる者

宇宙の境界。

 

そこには、星があった。

 

生まれたばかりの星。

 

死にかけた星。

 

すでに光を失った星。

 

それらが、果てしなく広がっている。

 

その中を、巨大な影が歩いていた。

 

ギャラティカ。

 

彼は、ひとつの星を手に取った。

 

指先ほどの大きさに見えるその星は、実際には惑星よりも大きい。

 

ギャラティカは、口を開けた。

 

星が、喉の奥へと消えていく。

 

光が走る。

 

重力が揺らぐ。

 

遠くの銀河が、わずかに歪んだ。

 

ギャラティカは、目を閉じた。

 

「……うまい」

 

そう言って、次の星を探した。

 

彼は、長い間、食べ続けてきた。

 

星を食べれば、空腹が満たされる。

 

星を食べれば、力が増す。

 

星を食べれば、自分が何者なのかを忘れずに済む。

 

だが、食べるほどに、空腹は深くなっていった。

 

彼は、すでに数えきれないほどの星を食べている。

 

それでも、足りない。

 

どれほど巨大な存在になっても。

 

どれほど強大な力を手に入れても。

 

彼の中には、埋まらない穴があった。

 

「……次は、どこだ」

 

彼が手を伸ばした先に、小さな青い星が見えた。

 

地球だった。

 

ギャラティカは、地球を見つめた。

 

そこには、無数の生命がいる。

 

喜び。

 

怒り。

 

愛情。

 

憎しみ。

 

希望。

 

絶望。

 

そして、悲しみ。

 

ギャラティカの喉が鳴った。

 

「……おいしそうだ」

 

彼は、地球へ手を伸ばしかけた。

 

そのとき。

 

「食べるの?」

 

声がした。

 

ギャラティカは、振り返った。

 

そこには、デスが立っていた。

 

「……お前か」

 

「久しぶりだね」

 

「何の用だ」

 

デスは、地球を見た。

 

「君も、満たされないんだね」

 

ギャラティカは、眉をひそめた。

 

「……何?」

 

「食べれば食べるほど、空腹になる。手に入れれば入れるほど、足りなくなる」

 

デスは、微笑んだ。

 

「僕たちは、似ている」

 

「ふざけるな」

 

ギャラティカの声が、宇宙を震わせた。

 

「俺は、食べているだけだ」

 

「そうだね」

 

「悲しみなど、食っていない」

 

「本当に?」

 

デスは、静かに尋ねた。

 

「君が最初に食べた星のことを、覚えている?」

 

ギャラティカは、黙った。

 

「君が最初に食べた星には、生命がいた」

 

「……」

 

「君は、その星を救えなかった」

 

ギャラティカの表情が、変わった。

 

デスは、続けた。

 

「だから、君は食べた」

 

「……違う」

 

「失われる前に、自分の中に取り込めば、なくならないと思った」

 

「違う!」

 

ギャラティカの拳が、震えた。

 

「俺は、ただ……」

 

言葉が、止まった。

 

彼は、何を言おうとしていたのだろう。

 

最初の星。

 

最初の命。

 

最初に感じた空腹。

 

それらを、思い出せない。

 

食べてしまったからだ。

 

自分の中に取り込んだからだ。

 

失われることを恐れて、失われないようにした結果。

 

彼は、何もかもを自分の中に閉じ込めた。

 

星の光も。

 

生命の記憶も。

 

その星で生きていた者たちの願いも。

 

そして、最後には。

 

自分自身が、何を失ったのかさえ、わからなくなった。

 

「……俺は」

 

ギャラティカは、手を見つめた。

 

「……何を、食べたんだ?」

 

デスは、答えなかった。

 

ギャラティカの前に、青い星が浮かんでいる。

 

地球。

 

その星には、数えきれないほどの命がある。

 

彼は、手を伸ばした。

 

そして。

 

止めた。

 

「……食べたら」

 

ギャラティカは、呟いた。

 

「こいつらも、俺の中に入るのか?」

 

「そうだね」

 

「……そうしたら、なくならないのか?」

 

デスは、微笑んだ。

 

「少なくとも、君の外側からはね」

 

ギャラティカは、目を閉じた。

 

「……違う」

 

彼は、手を引いた。

 

「違うんだ」

 

初めてだった。

 

彼が、自分の空腹を満たすために、食べることをやめたのは。

 

「……俺は、こいつらを残したい」

 

ギャラティカは、地球を見つめた。

 

「俺の中に閉じ込めるんじゃなくて」

 

彼は、拳を握った。

 

「こいつらが、こいつらのままで、そこにいてほしい」

 

デスは、何も言わなかった。

 

ギャラティカの空腹は、消えていない。

 

むしろ、以前よりも強くなっていた。

 

それでも。

 

彼は、手を伸ばさなかった。

 

「……どうしてだろうな」

 

ギャラティカは、呟いた。

 

「食べなかったら、こんなに苦しいのに」

 

デスは、静かに答えた。

 

「それが、悲しみだからだよ」

 

ギャラティカは、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「失いたくないものがあるとき、人は苦しくなる」

 

デスは、地球を見つめた。

 

「その苦しみを消すために、何かを手に入れようとする」

 

彼は、微笑んだ。

 

「でも、苦しみが消えないこともある」

 

ギャラティカは、しばらく黙っていた。

 

やがて、低い声で言った。

 

「……お前は、何を食べているんだ?」

 

デスは、答えた。

 

「悲しみだよ」

 

「……それで、満たされるのか?」

 

デスは、笑った。

 

「いいや」

 

その笑顔は、どこか寂しかった。

 

「だから、食べ続けているんだ」

 

第七節 壊したい子供

廃墟。

 

かつて、人々が暮らしていた街。

 

今は、崩れた建物と、錆びた看板だけが残っている。

 

死柄木弔は、その中央に立っていた。

 

彼の指先には、ひび割れた玩具が握られている。

 

古い、木製の人形だった。

 

誰が作ったのか。

 

誰が持っていたのか。

 

どこから流れ着いたのか。

 

死柄木には、わからなかった。

 

ただ、それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 

「……何だ、これ」

 

人形を握る。

 

壊れない。

 

もう一度、握る。

 

木が軋む。

 

死柄木は、手を離した。

 

「……チッ」

 

彼は、舌打ちした。

 

壊したい。

 

目の前のものを、全部。

 

建物も。

 

道路も。

 

街も。

 

人間も。

 

自分が見てきたもの。

 

自分を苦しめたもの。

 

自分を見捨てたもの。

 

全部、壊してしまいたかった。

 

そうすれば、少しは楽になると思っていた。

 

壊せば、終わる。

 

壊せば、黙る。

 

壊せば、もう何も考えなくて済む。

 

だが。

 

壊したあとに残るのは、いつも同じだった。

 

瓦礫。

 

静寂。

 

そして、消えない空虚。

 

「……何でだよ」

 

死柄木は、呟いた。

 

「何で、まだ足りねえんだ」

 

その声に、返事があった。

 

「君が、壊したいものを、まだ間違えているからだよ」

 

死柄木は、振り返った。

 

そこには、デスが立っていた。

 

「……誰だ、お前」

 

「悲しみを食べる者」

 

「……は?」

 

「君の中にある悲しみを、食べてあげよう」

 

死柄木は、笑った。

 

「……ふざけんな」

 

指先が、白くなる。

 

「俺の中にあるもんを、勝手に決めるな」

 

「そうだね」

 

デスは、あっさり頷いた。

 

「君の中にあるものを、僕が決めることはできない」

 

死柄木は、眉をひそめた。

 

「……何だと?」

 

「でも、君は悲しいんだろう?」

 

死柄木の表情が、凍った。

 

「……」

 

「誰かに助けてほしかった」

 

「黙れ」

 

「誰かに、手を伸ばしてほしかった」

 

「黙れ!」

 

「誰かに、君を見つけてほしかった」

 

死柄木の指先が、震えた。

 

「……黙れって、言ってんだろうが!」

 

崩れた建物が、音を立てて崩壊した。

 

瓦礫が舞い上がる。

 

砂塵が広がる。

 

それでも、デスは立っていた。

 

「……君は、まだ子供なんだね」

 

その言葉が、死柄木の胸に突き刺さった。

 

子供。

 

その言葉を、彼は嫌っていた。

 

守られるべき存在。

 

助けられるべき存在。

 

誰かが、手を伸ばすべき存在。

 

そんなものになりたかった自分を、彼は認めたくなかった。

 

だから、壊した。

 

子供だった自分を。

 

助けを求めた自分を。

 

誰かに愛されたかった自分を。

 

全部、憎しみに変えた。

 

「……俺は、もう子供じゃねえ」

 

死柄木は、低く言った。

 

「俺は、壊す側だ」

 

「そうだね」

 

デスは、微笑んだ。

 

「君は、たくさんのものを壊してきた」

 

「……」

 

「それは、なくならない」

 

死柄木は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「君が傷つけた人間の痛みも。君が奪った命も。君が壊した人生も」

 

デスは、静かに続けた。

 

「君の悲しみが本物だからといって、君がしたことが正しくなるわけじゃない」

 

死柄木の表情が、歪んだ。

 

「……わかってるよ」

 

その声は、小さかった。

 

「そんなこと、わかってんだよ……!」

 

彼は、人形を握りしめた。

 

「でも、だから何だよ!」

 

木が、軋む。

 

「俺が苦しかったことは、なくならねえだろ!」

 

「……」

 

「俺が助けてほしかったことも! 誰も助けてくれなかったことも! 俺が、何をしてほしかったのかさえ、誰も聞かなかったことも!」

 

死柄木は、叫んだ。

 

「それを、どうすりゃよかったんだよ!」

 

デスは、答えなかった。

 

その問いには、簡単な答えがない。

 

死柄木が受けた傷を、なかったことにはできない。

 

死柄木が他人に与えた傷も、なかったことにはできない。

 

彼の過去を認めることと、彼の行為を正当化することは違う。

 

だが、その二つを同時に見つめることは、あまりにも苦しい。

 

「……俺は」

 

死柄木は、震える声で言った。

 

「……誰かに、止めてほしかったのか?」

 

その問いは、誰にも届かなかった。

 

ただ、彼の手の中で。

 

木製の人形が、わずかに音を立てた。

 

死柄木は、指を緩めた。

 

壊れかけた人形が、手のひらに残っている。

 

彼は、それを見つめた。

 

「……チッ」

 

そして、ポケットにしまった。

 

壊さなかった。

 

それが救いだったのかは、わからない。

 

死柄木は、まだ憎しみを捨てていない。

 

破壊衝動も、消えていない。

 

ただ、一度だけ。

 

壊すこと以外の選択肢を、手放さなかった。

 

デスは、その背中を見送った。

 

「……やっぱり」

 

彼は、呟いた。

 

「悲しみは、食べるだけじゃ、消えないんだね」

 

第八節 本物になりたい女と、誰かでありたかった男

廃ビルの一室。

 

トガヒミコは、鏡の前に立っていた。

 

鏡の中には、彼女がいる。

 

いつもの笑顔。

 

いつもの目。

 

いつもの顔。

 

でも、トガは、その顔を見つめながら、首を傾けた。

 

「……ねえ」

 

隣に座っていたトゥワイスに話しかける。

 

「トゥワイスくんは、自分のこと、好き?」

 

トゥワイスは、少し考えた。

 

「好きだぜ! 大嫌いだ!」

 

「どっちですか?」

 

「両方だ! 片方だけじゃない!」

 

トガは、笑った。

 

「ふふっ。変なの」

 

「お前もだろ!」

 

トゥワイスは、笑い返した。

 

だが、その笑顔は長く続かなかった。

 

トガは、鏡を見つめていた。

 

「……私、好きな人になりたいんです」

 

トゥワイスは、黙った。

 

「好きな人の血を飲むと、その人になれるでしょう?」

 

「……ああ」

 

「その人の顔になって、その人の声で話して、その人の姿で歩ける」

 

トガは、鏡に指を当てた。

 

「でも、私がその人になったら、私はどこに行くんでしょう?」

 

トゥワイスは、答えられなかった。

 

「……私が好きなのは、その人なのに」

 

トガは、笑った。

 

「私がその人になったら、その人を好きな私は、どこにいるんでしょうね?」

 

鏡の表面が、揺れた。

 

そこに映っていたのは、トガではなかった。

 

血に染まった少女。

 

泣いている少女。

 

笑っている少女。

 

そして、誰かの顔をした少女。

 

トガは、息を呑んだ。

 

「……あれ?」

 

鏡の中の少女が、口を開いた。

 

『あなたは、誰になりたいの?』

 

トガは、答えられなかった。

 

好きな人。

 

憧れの人。

 

愛される人。

 

自分を好きでいてくれる人。

 

そのすべてになりたかった。

 

でも、本当は。

 

「……私を」

 

トガは、呟いた。

 

「私を、好きになってほしかったんです」

 

その声は、あまりにも小さかった。

 

「私のままで、好きになってほしかった」

 

トゥワイスが、顔を上げた。

 

トガは、泣いていた。

 

「……でも、私のままだと、好きになってもらえないと思ったんです」

 

彼女は、鏡に手を伸ばした。

 

「だから、好きな人になろうとした」

 

指先が、鏡に触れる。

 

「その人になれば、その人の気持ちがわかると思った」

 

トガの目から、涙が落ちた。

 

「……でも、本当は」

 

彼女は、震える声で言った。

 

「その人に、私のことをわかってほしかったんです」

 

トゥワイスは、立ち上がった。

 

「……トガちゃん」

 

「はい?」

 

「俺も、同じかもしれない」

 

トガは、振り返った。

 

トゥワイスは、自分の手を見つめていた。

 

「俺は、誰かでいたかった」

 

「……」

 

「誰かの役に立つ人間。誰かを笑わせる人間。誰かに必要とされる人間」

 

彼は、笑った。

 

「俺は、俺のままだと、誰にも必要とされないと思ってた」

 

トガは、何も言わなかった。

 

「だから、誰かの役に立とうとした。誰かに必要とされる自分を作ろうとした」

 

トゥワイスは、顔を上げた。

 

「……でも、誰かに必要とされるために、自分をなくしたら」

 

彼は、自分の胸を叩いた。

 

「最後に残るのは、誰なんだろうな」

 

トガの目が、揺れた。

 

「……トゥワイスくん」

 

「俺は、俺でいたかったのかもしれない」

 

彼は、笑った。

 

「でも、俺が俺でいることが、怖かったんだ」

 

トガは、ゆっくりと近づいた。

 

そして、トゥワイスの手を握った。

 

「……じゃあ」

 

彼女は、言った。

 

「私たち、練習しましょう」

 

「何を?」

 

「自分のままでいる練習です」

 

トゥワイスは、目を見開いた。

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「好きな人にならなくても、好きって言ってみる練習」

 

「……」

 

「誰かの役に立たなくても、ここにいていいって思う練習」

 

トガは、トゥワイスの手を握りしめた。

 

「……私、まだ、自分のことが好きじゃないです」

 

「俺もだ!」

 

「でも」

 

トガは、笑った。

 

「自分のことを好きになれるまで、自分をなくさないでみたいです」

 

トゥワイスは、しばらく黙っていた。

 

やがて、彼も笑った。

 

「……いいな、それ」

 

その瞬間。

 

鏡の中に、黒い影が映った。

 

デスだった。

 

「……君たちは、悲しみを手放すつもりなのかい?」

 

トガは、鏡を見た。

 

「手放すんじゃありません」

 

「……」

 

「悲しいことも、好きだったことも、忘れたくないです」

 

彼女は、トゥワイスの手を握った。

 

「でも、それだけで生きるのは、嫌なんです」

 

トゥワイスも頷いた。

 

「俺たちは、まだ、これからのことを決められる」

 

デスは、しばらく二人を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと笑った。

 

「……そうか」

 

その笑みは、少しだけ歪んでいた。

 

「君たちも、僕を満たしてくれないんだね」

 

鏡が、暗くなった。

 

トガは、しばらくそれを見つめていた。

 

「……ねえ、トゥワイスくん」

 

「何だ?」

 

「私、今、ちょっとだけ、自分のことが好きになれた気がします」

 

トゥワイスは、笑った。

 

「俺もだ!」

 

「でも、まだ怖いです」

 

「俺もだ!」

 

「……じゃあ」

 

トガは、手を差し出した。

 

「一緒に怖がりましょう」

 

トゥワイスは、その手を握った。

 

「おう!」

 

二人は、笑った。

 

それは、まだ完全な救いではない。

 

二人の過去は消えていない。

 

二人が傷つけた人間の痛みも、消えていない。

 

それでも。

 

自分自身をなくさずに生きるという選択肢が、初めて、二人の目の前に現れていた。

 

第九節 未来を知る者の罪

同じ頃。

 

ナイトアイは、事務所の奥にある部屋で、ひとつの記録を見つめていた。

 

未来予知の記録。

 

そこには、彼がかつて見た未来が記されている。

 

避けられなかった死。

 

救えなかった命。

 

そして、予知したことで変えられなかった運命。

 

ナイトアイは、眼鏡を外した。

 

「……未来を知ることは、救いになると思っていた」

 

彼は、呟いた。

 

未来がわかれば、準備できる。

 

危険を避けられる。

 

誰かを救うための選択ができる。

 

そう信じていた。

 

だが、未来を知ることは、同時に、その未来を他人に押しつける危険も孕んでいる。

 

「……私は」

 

ナイトアイは、目を閉じた。

 

「人々に、未来を選ばせていたのだろうか」

 

それとも。

 

自分が見た未来を、正しい未来として扱っていたのだろうか。

 

彼は、予知の結果を伝えたことがある。

 

危険を避けるために。

 

命を守るために。

 

しかし、その言葉を受け取った相手は、どう感じただろう。

 

未来を知ったことで、希望を失った者もいたかもしれない。

 

自分の意思で選ぶことを、諦めた者もいたかもしれない。

 

「……私は、正しい未来を知っていると思っていた」

 

ナイトアイは、机に手をついた。

 

「だが、正しい未来とは、何だ?」

 

そのとき。

 

部屋の扉が開いた。

 

ホークスが立っていた。

 

「……お邪魔でしたか?」

 

「いや」

 

ナイトアイは、眼鏡をかけ直した。

 

「何かあったのか?」

 

「妙な現象が起きています」

 

ホークスは、机に資料を置いた。

 

「亡くなった人間の声を聞いたという報告が増えています。単なる幻聴とは思えません」

 

「……死者の帰還か」

 

「まだ断定できません。ただ、共通点があります」

 

ホークスは、資料を開いた。

 

「現象を体験した人間は、例外なく、強い後悔を抱えています」

 

ナイトアイは、資料を見つめた。

 

「後悔……」

 

「はい。謝れなかった。会えなかった。伝えられなかった。救えなかった」

 

ホークスは、続けた。

 

「そして、死者が現れたあと、本人の記憶に異常が起きています」

 

「……どのような?」

 

「生きていた頃の記憶が、少しずつ失われている」

 

ナイトアイの表情が、険しくなった。

 

「記憶を代償に、死者を現世へ引き戻しているのか?」

 

「その可能性があります」

 

ナイトアイは、しばらく考え込んだ。

 

「……もし、それが本当なら」

 

「はい」

 

「その現象を止めることは、死者に会いたいと願う者の望みを、否定することになる」

 

ホークスは、頷いた。

 

「そうですね」

 

「だが、放置すれば、生者の記憶が失われる」

 

「はい」

 

「……厄介だな」

 

ナイトアイは、目を閉じた。

 

未来が見えたなら、どちらを選ぶべきか、判断できるかもしれない。

 

だが、今の彼には、未来が見えない。

 

予知は、まだ戻っていない。

 

それでも。

 

「……ホークス」

 

「はい」

 

「未来がわからないということは、何も選べないという意味ではない」

 

ホークスは、顔を上げた。

 

「……」

 

「むしろ、未来がわからないからこそ、我々は、選択の責任を引き受けなければならない」

 

ナイトアイは、資料を閉じた。

 

「死者を帰すことができるとしても、それを望む者が何を失うのか、本人が理解できるようにする必要がある」

 

「……はい」

 

「そして、理解したうえで選ぶことができるようにしなければならない」

 

ナイトアイは、静かに言った。

 

「我々が、本人の代わりに決めるのではなく」

 

ホークスは、頷いた。

 

「……そうですね」

 

彼は、ふと窓の外を見た。

 

「でも、本人が、それでも死者に会いたいと言ったら?」

 

ナイトアイは、答えた。

 

「その願いを、最初から間違いだと決めつけることはできない」

 

「……」

 

「だが、その願いを叶えるために、他の誰かの人生を奪っていいことにもならない」

 

ホークスは、静かに息を吐いた。

 

「……難しいですね」

 

「簡単な問題なら、我々が悩む必要もない」

 

ナイトアイは、立ち上がった。

 

「行こう」

 

「どこへ?」

 

「その現象が起きている場所だ」

 

彼は、扉へ向かった。

 

「未来が見えなくても、目の前にいる人間の話を聞くことはできる」

 

ホークスは、微笑んだ。

 

「……了解です」

 

二人は、部屋を出た。

 

その背後で。

 

机の上の資料に、黒い文字が浮かんだ。

 

GRIEF RESPONSE: ACTIVE

 

MEMORY EXCHANGE: IN PROGRESS

 

DEATH PROTOCOL: UNCONFIRMED

 

そして、最後に。

 

OBSERVATION TARGET: SIR NIGHTEYE

 

第十節 奪う者は、何を恐れているのか

地下深く。

 

光の届かない場所。

 

オール・フォー・ワンは、椅子に座っていた。

 

彼の前には、ひとつの装置がある。

 

安寧システムの旧式端末。

 

第一管理者が隠した記録の断片。

 

そして、世界の外側から届いた、奇妙な信号。

 

「……興味深い」

 

オール・フォー・ワンは、笑った。

 

「実に、興味深い」

 

彼は、指先で画面を撫でた。

 

世界の外側にいる存在。

 

世界の始まりよりも前に、問いを残した存在。

 

その存在は、願いを持てなかったという。

 

「……願いを持てなかった、か」

 

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ならば、簡単な話だ」

 

彼は、笑った。

 

「願いを与えてやればいい」

 

端末が、警告音を発した。

 

ACCESS DENIED

 

UNREGISTERED EXISTENCE

 

IDENTITY: UNKNOWN

 

オール・フォー・ワンは、目を細めた。

 

「名前がないから、記録できない。記録できないから、支配できない」

 

彼は、楽しそうに笑った。

 

「……なるほど。面白い」

 

彼は、指先を画面に当てた。

 

「だが、名前がないなら、こちらで与えてやればいい」

 

端末が、激しく点滅した。

 

WARNING

 

FORCED IDENTIFICATION MAY CAUSE EXISTENCE COLLAPSE

 

「存在が崩壊する?」

 

オール・フォー・ワンは、笑った。

 

「それは、それで構わない」

 

彼は、椅子に座り直した。

 

「私が手に入れられないものなど、存在する必要がない」

 

その声には、迷いがなかった。

 

彼は、長い間、他人の個性を奪ってきた。

 

力を奪う。

 

可能性を奪う。

 

人生を奪う。

 

そして、奪ったものを自分の中に蓄積する。

 

彼は、何も失わないために、すべてを手に入れようとしてきた。

 

誰にも負けないために。

 

誰にも支配されないために。

 

誰にも見捨てられないために。

 

だが。

 

彼が何を手に入れても。

 

その手は、空っぽだった。

 

彼は、何かを奪うたびに、次の何かを探した。

 

もっと強い個性。

 

もっと大きな支配。

 

もっと完全な力。

 

そして、今。

 

彼は、世界の外側にいる存在を欲していた。

 

「……お前は、何を恐れている?」

 

オール・フォー・ワンは、画面に向かって尋ねた。

 

「存在することか?」

 

返事はない。

 

「願うことか?」

 

画面が、わずかに揺れた。

 

「それとも、願った結果、誰かを失うことか?」

 

沈黙。

 

オール・フォー・ワンは、微笑んだ。

 

「……答えなくてもいい」

 

彼は、指先を組んだ。

 

「いずれ、お前は私の前に現れる」

 

端末に、最後の文字が浮かんだ。

 

UNAUTHORIZED CLAIM DETECTED

 

IDENTIFICATION ATTEMPT REJECTED

 

オール・フォー・ワンは、目を細めた。

 

「……拒絶したか」

 

彼は、笑った。

 

「いいだろう」

 

その笑みは、ひどく冷たかった。

 

「ならば、奪う価値がある」

 

彼は、端末の電源を落とした。

 

暗闇の中で、彼の声だけが響いた。

 

「私は、何も失わない」

 

その言葉は、宣言だった。

 

同時に、祈りでもあった。

 

誰にも聞かせるつもりのない、孤独な祈り。

 

彼自身が、そのことに気づいているのかどうか。

 

それは、まだわからなかった。

 

第十一節 悲嘆の王

南極地下施設。

 

死神は、美和の家から戻ったあと、ひとりで古い記録を調べていた。

 

お茶子は、医療区画で美和の状態を確認している。

 

ひよりの存在は、いったん消えた。

 

美和は、娘の名前を呼び続けていた。

 

その記憶は、まだ残っている。

 

だが、少しずつ薄れていた。

 

「……間に合わなかった」

 

死神は、呟いた。

 

彼は、何度も同じことを考えていた。

 

もっと早く気づいていれば。

 

もっと早くデスを見つけていれば。

 

もっと早く、あの母親を止めていれば。

 

結果は違ったのだろうか。

 

死神は、答えを知らなかった。

 

彼は、死者を見送る者だ。

 

死者が帰ってくることを、望まないわけではない。

 

もう一度会いたいと思う気持ちを、否定するつもりもない。

 

ただ、死者を帰すために、生者が自分自身を失っていく光景を、見過ごすことはできなかった。

 

「……死神さん」

 

お茶子が、部屋に入ってきた。

 

「美和さんは?」

 

「眠っています」

 

「そうか」

 

「……ひよりちゃんのことを、忘れ始めています」

 

死神は、目を閉じた。

 

「……そうか」

 

「でも」

 

お茶子は、続けた。

 

「美和さんは、最後まで、ひよりちゃんを抱きしめていました」

 

「……」

 

「たとえ、記憶がなくなっても、あの人は、ひよりちゃんを愛していたんだと思います」

 

死神は、静かに頷いた。

 

「……ああ」

 

そのとき。

 

施設の照明が、一斉に消えた。

 

警報が鳴り響く。

 

端末に、黒い文字が浮かぶ。

 

GRIEF RESPONSE: CRITICAL

 

DEATH PROTOCOL: ACTIVE

 

MEMORY EXCHANGE: GLOBAL

 

お茶子が、息を呑んだ。

 

「……何、これ?」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「……デスが、動き始めた」

 

「世界中で?」

 

「そうだ」

 

端末に、次々と映像が表示された。

 

病院。

 

墓地。

 

学校。

 

駅。

 

住宅街。

 

そこにいる人々が、死者の声を聞いている。

 

亡くなった家族。

 

亡くなった友人。

 

亡くなった恋人。

 

そして、かつて自分が救えなかった人々。

 

死者たちは、笑っていた。

 

泣いていた。

 

生者に向かって、手を伸ばしていた。

 

人々は、その手を握った。

 

その瞬間、記憶が流れ込む。

 

死者と過ごした日々。

 

最後に交わした言葉。

 

叶えられなかった約束。

 

それらが、鮮明に蘇る。

 

同時に、生者の記憶が、少しずつ失われていく。

 

「……止めなきゃ」

 

お茶子が、立ち上がった。

 

「でも、どうやって?」

 

死神は、答えなかった。

 

デスの能力は、単純な攻撃ではない。

 

人々の願いを利用している。

 

死者に会いたい。

 

もう一度話したい。

 

謝りたい。

 

許してほしい。

 

その願いそのものを、否定することはできない。

 

「……死神さん」

 

お茶子が、声を落とした。

 

「私たちは、死者を取り戻すことが、間違いだって言わなきゃいけないんでしょうか?」

 

死神は、首を振った。

 

「いや」

 

「……」

 

「間違いだと決めつけることはできない」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「だが、死者を取り戻すために、生者が自分自身を失うことを、救いと呼ぶわけにはいかない」

 

お茶子は、頷いた。

 

「……はい」

 

死神は、立ち上がった。

 

「行こう」

 

「どこへ?」

 

「デスのところへ」

 

その瞬間。

 

端末が、再び明滅した。

 

画面の中央に、ひとつの文字が浮かぶ。

 

DEATH

 

その下に、文章が表示された。

 

――悲しみを手放すことは、死者を二度殺すことだ。

 

――忘れることは、愛を裏切ることだ。

 

――だから、僕は、誰も忘れさせない。

 

そして、最後に。

 

――すべての悲しみを、僕にください。

 

お茶子は、画面を見つめた。

 

「……そんなの」

 

彼女の拳が、震えた。

 

「そんなの、救いじゃない」

 

死神は、頷いた。

 

「……ああ」

 

彼は、静かに言った。

 

「だが、デスは、本気でそう信じている」

 

第十二節 死者を愛すること、生者を愛すること

世界の外側。

 

そこには、時間も、距離も、明確な境界もなかった。

 

ただ、ひとつの存在が立っていた。

 

デス。

 

彼の周囲には、無数の光が浮かんでいる。

 

死者たちの記憶。

 

生者たちの悲しみ。

 

失われた名前。

 

叶わなかった願い。

 

それらが、彼の体に流れ込んでいた。

 

デスは、目を閉じた。

 

「……美しい」

 

彼は、呟いた。

 

人間の悲しみは、美しい。

 

愛した者を失った悲しみ。

 

愛されなかった悲しみ。

 

間に合わなかった悲しみ。

 

言えなかった悲しみ。

 

それらは、すべて、誰かを大切に思った証拠だ。

 

だから、デスは、それらを消したくなかった。

 

誰も忘れない世界。

 

誰も悲しみを手放さない世界。

 

誰も、失ったものを失ったままにしなくていい世界。

 

それが、彼の望みだった。

 

「……どうして、誰もわかってくれないんだろう」

 

デスは、胸元に手を当てた。

 

「僕は、みんなを救いたいだけなのに」

 

そのとき。

 

背後から、声がした。

 

「それは、救いではない」

 

デスは、振り返った。

 

そこに立っていたのは、死神とお茶子だった。

 

「……また君たちか」

 

デスは、笑った。

 

「どうして、邪魔をするんだい?」

 

死神は、答えた。

 

「お前が、悲しみを終わらせる権利を、誰からも奪おうとしているからだ」

 

「終わらせる権利?」

 

デスは、首を傾けた。

 

「悲しみを終わらせることが、そんなに大切なのかい?」

 

「大切かどうかを決めるのは、本人だ」

 

死神は、静かに言った。

 

「悲しみを抱え続けたい者もいる。思い出を手放したくない者もいる。死者のために、毎年同じ場所へ花を供える者もいる」

 

「……」

 

「だが、いつか笑えるようになりたいと願う者もいる」

 

デスは、黙っていた。

 

「悲しみを抱えて生きることも、悲しみから少しずつ離れていくことも、どちらも本人が選ぶことだ」

 

死神は、続けた。

 

「お前が、その選択を奪うな」

 

デスの表情が、歪んだ。

 

「……選択?」

 

彼は、笑った。

 

「人間は、選択を間違える」

 

「……」

 

「大切なものを忘れてしまう。失ったものを、どうでもいいものにしてしまう。いつか、死者の名前を呼ばなくなる」

 

デスの声が、震えた。

 

「それは、本当に、いいことなのか?」

 

お茶子は、一歩前に出た。

 

「……いいことかどうかは、私にもわかりません」

 

デスは、彼女を見た。

 

「でも」

 

お茶子は、続けた。

 

「悲しみが薄れても、その人を愛していたことまで、なくなるわけじゃないと思います」

 

「……」

 

「私は、誰かを失った人が、いつか笑えるようになることを、悪いことだとは思いません」

 

お茶子は、拳を握った。

 

「それは、忘れたからじゃない。失った人と一緒に生きていく方法を、見つけたからだと思うんです」

 

デスは、長い間、彼女を見つめていた。

 

「……君は、死者を忘れることを、許すんだね」

 

「違います」

 

お茶子は、首を振った。

 

「忘れることを許すんじゃありません」

 

彼女は、静かに言った。

 

「忘れないことだけを、愛の証拠にしないんです」

 

デスの顔から、笑みが消えた。

 

お茶子は、続けた。

 

「泣き続けることだけが、愛じゃない」

 

「……」

 

「苦しみ続けることだけが、愛じゃない」

 

「……」

 

「その人がいなくなったあとも、生きていくことだって、愛の形なんです」

 

デスは、何も言わなかった。

 

周囲の光が、揺れた。

 

死者たちの記憶が、彼の体から流れ出し始めている。

 

デスは、慌てて手を伸ばした。

 

「……待って」

 

光が、遠ざかる。

 

「待ってくれ!」

 

デスは、叫んだ。

 

「行かないで!」

 

その声は、あまりにも必死だった。

 

死神が、目を見開いた。

 

お茶子も、息を呑んだ。

 

デスは、光を追いかけた。

 

「……どうして?」

 

彼は、震える声で言った。

 

「どうして、みんな、僕から離れていくんだ?」

 

光は、彼の指先をすり抜けていく。

 

「僕は、みんなの悲しみを食べてきた!」

 

彼は、叫んだ。

 

「誰も忘れないように! 誰も、失ったものを失ったままにしなくていいように!」

 

声が、ひび割れた。

 

「なのに、どうして……!」

 

彼は、膝をついた。

 

「……どうして、僕は、まだ空っぽなんだ?」

 

沈黙が落ちた。

 

死神は、ゆっくりと近づいた。

 

「……デス」

 

「来るな!」

 

デスは、顔を上げた。

 

「僕に近づくな!」

 

彼の目から、黒い涙が落ちた。

 

「……僕は、死者を見送ることができなかった」

 

死神は、足を止めた。

 

「……何?」

 

デスは、震える声で続けた。

 

「僕は、最初に失われたものを、覚えている」

 

周囲の光が、ひとつだけ、強く輝いた。

 

「……小さな命だった」

 

デスは、その光を見つめた。

 

「誰にも名前を呼ばれなかった。誰にも、存在を知られなかった。生まれたことさえ、記録されなかった」

 

死神の表情が、変わった。

 

それは。

 

世界の外側に残された、最初の問いと同じだった。

 

願うことを許されなかった存在。

 

名前を与えられなかった存在。

 

誰にも知られないまま、失われた存在。

 

デスは、続けた。

 

「僕は、その存在を、覚えていたかった」

 

彼の声が、震えた。

 

「だから、悲しみを食べた」

 

「……」

 

「誰かが失ったものを、僕の中に残せば、消えないと思った」

 

デスは、胸元を握りしめた。

 

「でも、どれだけ食べても、その存在の名前だけは、見つからなかった」

 

彼は、顔を伏せた。

 

「……僕は、何を残したかったんだろう」

 

死神は、何も言えなかった。

 

デスが悲しみを食べ続けてきた理由。

 

それは、単なる食欲ではなかった。

 

彼は、最初に失われた存在を、忘れたくなかったのだ。

 

世界の記録に残らなかった存在。

 

誰にも愛されたと証明できなかった存在。

 

その存在が、確かにいたことを。

 

その存在が、失われたことを。

 

そして、その存在が、願うことさえ許されなかったことを。

 

忘れたくなかった。

 

だから、彼は悲しみを食べた。

 

誰かの悲しみを自分の中に取り込めば、失われた存在の悲しみも、いつか見つかると思った。

 

だが。

 

悲しみは、どれだけ集めても、ひとつの名前にはならなかった。

 

記憶は、どれだけ蓄積しても、失われた存在そのものにはならなかった。

 

そして、デスは、いつしか。

 

悲しみを残すことと、悲しみを終わらせないことの違いを、見失ってしまった。

 

「……デス」

 

死神が、もう一度呼んだ。

 

デスは、顔を上げなかった。

 

「……僕は」

 

彼は、呟いた。

 

「……あの存在を、忘れたくなかったんだ」

 

お茶子は、ゆっくりと膝をついた。

 

「……忘れなくても、いいんです」

 

デスの肩が、震えた。

 

「……何?」

 

「忘れなくても、いいんです」

 

お茶子は、もう一度言った。

 

「でも、だからといって、他の人たちまで、ずっと悲しみ続けなきゃいけないわけじゃない」

 

デスは、顔を上げた。

 

「……」

 

「あなたが、その存在を忘れたくないなら、あなたが覚えていてもいい」

 

お茶子は、続けた。

 

「その存在のことを、あなた自身が、忘れずにいればいいんです」

 

デスは、彼女を見つめた。

 

「……僕ひとりで?」

 

「はい」

 

お茶子は、頷いた。

 

「誰かの悲しみを奪わなくても、あなたが覚えていることはできる」

 

「……」

 

「誰かを苦しめなくても、その存在がいたことを伝えることはできる」

 

デスは、しばらく黙っていた。

 

そして。

 

初めて、泣いた。

 

黒い涙ではなかった。

 

光のような、透明な涙だった。

 

彼は、両手で顔を覆った。

 

「……僕は」

 

声が、震える。

 

「……ずっと、ひとりだったんだ」

 

死神は、静かに目を閉じた。

 

デスが食べていたのは、悲しみだけではなかった。

 

誰にも知られないまま失われた存在を、忘れないための孤独。

 

その孤独を、誰にも渡せなかった。

 

だから、他人の悲しみを食べ続けた。

 

自分と同じように、誰かを失った人間がいると知るたびに。

 

自分だけではないと思いたかった。

 

そして、その悲しみを自分の中に閉じ込めれば、いつか空腹が満たされると信じていた。

 

だが。

 

悲しみは、孤独を埋めることはできても、孤独そのものを消すことはできない。

 

なぜなら。

 

悲しみを共有することと、誰かに自分の存在を知ってもらうことは、違うからだ。

 

デスは、ようやく、その違いに気づき始めていた。

 

第十三節 悲嘆は、終わらない

世界各地で、死者の姿が消え始めた。

 

病院で、母親が抱きしめていた息子の姿が、光となって消える。

 

墓地で、亡くなった妻と話していた男が、膝をつく。

 

駅で、死んだ友人を見つけた少女が、涙を流す。

 

だが、今度は、彼らの記憶が消えていくことはなかった。

 

死者の姿が消えても、思い出は残った。

 

声も。

 

笑顔も。

 

最後に交わした言葉も。

 

すべてが、本人の中に残っていた。

 

それは、完全な奇跡ではない。

 

失った人が帰ってくるわけではない。

 

言えなかった言葉を、伝えられるわけでもない。

 

ただ、死者の姿が消えたあとも、生者が自分自身を失わずにいられる。

 

その小さな変化が、世界に広がっていった。

 

しかし。

 

すべてが終わったわけではなかった。

 

南極地下施設。

 

死神は、端末の前に立っていた。

 

「……異常は、収束しつつある」

 

お茶子が、頷いた。

 

「よかった……」

 

だが、死神の表情は険しかった。

 

「……いや」

 

「え?」

 

「終わっていない」

 

画面に、ひとつの記録が浮かんでいた。

 

GRIEF RESPONSE: STABLE

 

DEATH PROTOCOL: SUSPENDED

 

MEMORY EXCHANGE: HALTED

 

そして、その下に。

 

UNRESOLVED SUBJECTS: 1

 

お茶子は、息を呑んだ。

 

「……一人?」

 

死神は、画面を見つめた。

 

「……デスだ」

 

「……」

 

「彼自身の悲しみだけは、まだ残っている」

 

お茶子は、目を伏せた。

 

デスは、他人の悲しみを食べることをやめた。

 

だが、自分の悲しみをどう扱えばいいのか、まだわかっていない。

 

彼が忘れたくない存在。

 

世界の始まりよりも前に、願うことを許されなかった存在。

 

その名前は、まだ見つかっていない。

 

そして、デスがその存在を忘れない限り。

 

世界の外側に残された問いも、消えることはない。

 

そのとき。

 

端末が、再び明滅した。

 

新たな記録が表示される。

 

ORIGIN DESIRE: UNRESOLVED

 

GRIEF: DEATH

 

MELANCHOLY: AZATHOTH

 

お茶子は、文字を見つめた。

 

「……アザトース?」

 

死神の表情が、凍りついた。

 

「……なぜ、その名前が」

 

画面の文字が、変わった。

 

THE FIRST QUESTION REMAINS UNANSWERED

 

その下に、文章が浮かぶ。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

死神は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……デスが抱えていた悲しみは、アザトースの憂鬱とは違う」

 

「……」

 

「だが、どこかで繋がっている」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「どういうことですか?」

 

死神は、答えた。

 

「デスは、失われた存在を忘れたくなかった」

 

「……はい」

 

「だが、アザトースは……」

 

彼は、言葉を止めた。

 

その先を、口にすることができなかった。

 

憂鬱。

 

それは、悲しみとは違う。

 

悲しみは、失ったものがあるから生まれる。

 

だが、憂鬱は。

 

失ったものが何なのかさえ、わからないまま、何かが足りないと感じ続けることがある。

 

何を望めばいいのか、わからない。

 

何を得れば満たされるのか、わからない。

 

何を失ったのかさえ、わからない。

 

それでも、心の奥に、空洞がある。

 

デスは、失われた存在を覚えていた。

 

アザトースは、そもそも、何を願うべきだったのかを知らない。

 

この違いは、決定的だった。

 

「……お茶子」

 

死神は、静かに言った。

 

「デスは、悲しみを食べることで、失われた存在を残そうとした」

 

「……」

 

「だが、アザトースは……」

 

彼は、画面を見つめた。

 

「何を残せばいいのかさえ、知らないのかもしれない」

 

その瞬間。

 

世界の外側で、ひとつの影が目を開けた。

 

そこには、光も闇もなかった。

 

ただ、無限に広がる空白があった。

 

その中心で、何かが揺れていた。

 

それは、眠っているようにも見えた。

 

泣いているようにも見えた。

 

あるいは、最初から何も感じていないようにも見えた。

 

誰にも、その姿を正確に捉えることはできない。

 

ただ、その存在の周囲では、世界の記録がわずかに歪んでいた。

 

星の誕生。

 

生命の誕生。

 

死の誕生。

 

願いの誕生。

 

それらが、すべて、ひとつの問いに結びついている。

 

――私は、何を願えばよかったのだろう。

 

そして。

 

その問いの奥から、かすかな声がした。

 

「……誰か」

 

それは、願いだった。

 

「……誰か、教えて」

 

世界が、生まれるよりも前。

 

誰にも名前を呼ばれなかった存在が。

 

初めて、誰かに助けを求めた。

 

第十四節 満たされないもの

夜明け。

 

美和は、目を覚ました。

 

病室の窓から、朝日が差し込んでいる。

 

彼女は、ゆっくりと体を起こした。

 

「……私」

 

何か、大切なものを忘れている気がした。

 

胸の奥が、痛い。

 

理由は、わからない。

 

涙が、頬を伝っていた。

 

「……どうして、泣いているんだろう」

 

彼女は、呟いた。

 

お茶子が、隣に座っていた。

 

「……美和さん」

 

美和は、顔を上げた。

 

「……あの」

 

彼女は、ためらいながら尋ねた。

 

「私、娘がいたんでしょうか?」

 

お茶子の胸が、締めつけられた。

 

「……はい」

 

美和は、目を見開いた。

 

「……やっぱり」

 

彼女は、胸元を握った。

 

「……私、何か、大切なものを失った気がするんです」

 

お茶子は、頷いた。

 

「……はい」

 

「でも、何を失ったのか、思い出せない」

 

美和は、涙を拭った。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝らなくていいんです」

 

お茶子は、静かに答えた。

 

「美和さんは、何も悪くありません」

 

美和は、しばらく黙っていた。

 

やがて、窓の外を見た。

 

「……私、これから、どうすればいいんでしょう」

 

お茶子は、少しだけ考えた。

 

「……まずは、生きていきましょう」

 

「……」

 

「何を失ったのか、すぐに思い出せなくても」

 

お茶子は、続けた。

 

「悲しい理由が、今はわからなくても」

 

美和は、涙を流した。

 

「……はい」

 

お茶子は、彼女の手を握った。

 

「いつか、思い出せるかもしれません」

 

「……」

 

「思い出せなくても、その悲しみが、なかったことになるわけじゃないと思います」

 

美和は、ゆっくりと頷いた。

 

そのとき。

 

彼女の枕元に、一枚の写真が置かれていることに気づいた。

 

黄色い帽子をかぶった少女。

 

チョコレートのついた口元。

 

三本になったピースサイン。

 

ひよりだった。

 

美和は、写真を手に取った。

 

長い間、見つめた。

 

そして。

 

「……ひより」

 

名前を呼んだ。

 

理由は、わからない。

 

どんな子だったのか。

 

どんな声だったのか。

 

どんな笑顔だったのか。

 

今は、思い出せない。

 

それでも。

 

その名前を呼んだ瞬間、胸の奥に、温かいものが広がった。

 

美和は、泣きながら笑った。

 

「……おはよう」

 

写真の中の少女は、何も答えない。

 

それでも、美和は、もう一度言った。

 

「……おはよう、ひより」

 

その声は、朝の光に溶けていった。

 

世界の外側。

 

デスは、ひとりで座っていた。

 

彼の周囲には、もう、無数の光は浮かんでいない。

 

ただ、ひとつだけ。

 

小さな光が、残っていた。

 

デスは、その光を見つめた。

 

「……君は、誰なんだろう」

 

光は、答えなかった。

 

デスは、手を伸ばしかけて、止めた。

 

今までなら、彼は食べていただろう。

 

自分の中に取り込んで、失われないようにしただろう。

 

だが、今は。

 

「……ごめんね」

 

彼は、手を引いた。

 

「僕は、君を、食べない」

 

光が、わずかに揺れた。

 

「……僕は、君を忘れたくない」

 

デスは、微笑んだ。

 

「でも、君を忘れないために、他の誰かを苦しめるのは、もうやめる」

 

彼は、光を見つめた。

 

「……君の名前がわからなくても」

 

その声は、静かだった。

 

「君が、確かにいたことを、覚えている」

 

光が、少しだけ明るくなった。

 

デスは、目を閉じた。

 

初めて。

 

空腹を満たすためではなく。

 

何かを奪うためでもなく。

 

ただ、誰かを覚えているために。

 

そこに、留まった。

 

しかし。

 

その光の奥で。

 

別の何かが、目を開けていた。

 

デスではない。

 

死神でもない。

 

第一管理者でもない。

 

そして、世界の外側から問いを投げかけていた、名もなき存在とも違う。

 

それは、悲しみではなかった。

 

怒りでもなかった。

 

愛でも、憎しみでもなかった。

 

ただ、深い憂鬱があった。

 

何を望めばいいのか、わからない。

 

何を失ったのか、わからない。

 

何を得れば満たされるのか、わからない。

 

それでも、何かが足りない。

 

その存在は、ゆっくりと、世界を見つめた。

 

そして、初めて、問いを発した。

 

「……もし」

 

その声は、宇宙の底で響いた。

 

「……もし、何も願わなければ」

 

世界の記録が、揺れた。

 

「……私は、苦しまなくて済むのだろうか」

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

ただ、世界のどこかで。

 

誰かが、静かに目を覚ました。

 

悲しみを抱えた者。

 

愛を求める者。

 

力を求める者。

 

自分自身でありたい者。

 

そして、何を望めばいいのかわからない者。

 

彼らは、まだ、答えを持っていない。

 

それでも。

 

願うことをやめた瞬間に、苦しみが消えるとは限らない。

 

悲しみを手放した瞬間に、愛が消えるとも限らない。

 

何かを得た瞬間に、満たされるとも限らない。

 

世界は、まだ、その答えを知らない。

 

そして、世界の外側で。

 

名もなき存在が、もう一度、問いかけた。

 

「……私は、願ってもよかったのだろうか」

 

今度は、誰かが答えるかもしれない。

 

今度は、誰かが、その声を聞くかもしれない。

 

そして、今度こそ。

 

誰も、その問いを記録から消さないかもしれない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。