1 失くしたことに、気づけない
最初に異変が起きたのは、小さな病院だった。
都市部から少し離れた、古い総合病院。
外壁にはひびが入り、廊下の床には何度も塗り直された跡がある。最新式の医療設備が導入されているわけでもない。
それでも、近隣住民にとっては大切な場所だった。
ここで生まれた子供がいる。
ここで命を救われた人がいる。
そして、ここで最期を迎えた人もいる。
その病院の三階に、一人の少女が入院していた。
年齢は十二歳。
名前は、白石真帆。
難病を患い、長い間、病室で生活していた少女だった。
その日、真帆は母親と話していた。
「お母さん」
「なあに?」
「私、前に何になりたいって言ってたっけ?」
母親は笑った。
「覚えてないの?」
「うん。なんか、すごく大事なことだった気がするんだけど」
「……そうね」
母親は少しだけ考えてから、答えた。
「真帆は、お医者さんになりたいって言ってたわ」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。病気の人を助けたいって」
「へえ……」
少女は、困ったように笑った。
「私、そんな立派なこと言ってたんだ」
母親は何も言わなかった。
娘が忘れた夢を、自分は覚えている。
娘が忘れた言葉を、自分は覚えている。
娘が忘れてしまった、小さな約束を。
その一つひとつが、母親にとっては宝物だった。
「お母さん」
「なあに?」
「私が死んだら、悲しい?」
母親の手が止まった。
病室の窓から、午後の日差しが差し込んでいる。
外では、誰かが笑っていた。
どこか遠くで、車のクラクションが鳴った。
世界はいつもどおりだった。
いつもどおりだからこそ、母親は答えなければならなかった。
「……悲しいわ」
真帆は首をかしげた。
「どうして?」
その質問に、母親はすぐには答えられなかった。
悲しいに決まっている。
あなたは私の娘だから。
あなたを産んだから。
あなたと出会ったから。
あなたが笑うと嬉しかったから。
あなたが泣くと胸が痛かったから。
あなたが初めて歩いた日を覚えているから。
あなたが初めて名前を呼んでくれた日を覚えているから。
あなたが、ここにいるから。
けれど、それらの言葉をすべて並べても、娘が死ぬことへの悲しみを、完全に説明できるとは思えなかった。
だから母親は、娘の手を握った。
「真帆が大好きだからよ」
少女は、安心したように笑った。
「そっか」
そして。
「じゃあ、悲しくなくしてあげるね」
母親の指先が、冷たくなった。
「……え?」
真帆は母親の手を握り返した。
その瞬間、病室の時計が止まった。
窓の外を飛んでいた鳥が、空中で静止した。
廊下を歩いていた看護師が、足を踏み出した姿勢のまま動かなくなった。
音が消える。
風が消える。
光が、わずかに薄くなる。
そして母親の胸の奥から、何かが引き抜かれた。
「……あ」
母親は、自分の胸に手を当てた。
痛くはない。
苦しくもない。
むしろ、楽になった気さえした。
胸の奥にあった重たいものが、消えている。
娘が病気になったと告げられた日の恐怖。
治療がうまくいかなかった日の絶望。
夜中に何度も目を覚まし、娘の呼吸を確認した記憶。
もしも明日、娘が目を覚まさなかったら。
もしも明日、娘の声を聞けなくなったら。
もしも明日、娘の名前を呼ぶことさえできなくなったら。
そうした恐怖が、きれいさっぱり消えていた。
母親は目を見開いた。
「……ああ」
涙が止まった。
娘を抱きしめたくなった。
だが、抱きしめなければならない理由が分からなかった。
「お母さん?」
真帆が不安そうに顔をのぞき込む。
母親は微笑んだ。
「どうしたの?」
「……ううん」
真帆は、母親の手を離した。
そして、少し寂しそうに言った。
「なんでもない」
母親は首をかしげた。
娘は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
その瞳から、少しずつ光が失われていく。
病室の時計が動き始めた。
鳥が羽ばたいた。
看護師が廊下を歩き、遠くからナースコールの音が聞こえてきた。
世界は元に戻った。
ただし、一つだけ。
母親は、娘を失うことを恐れなくなっていた。
そして少女は、自分が母親から何かを奪ったことに気づいていなかった。
いや。
気づいていたのかもしれない。
けれど、もう、それを悲しいと思うことさえできなかった。
病室の隅。
誰もいないはずの椅子に、一人の男が座っていた。
黒い服。
白い肌。
年齢も、性別も、どこか曖昧に感じられる顔立ち。
その男は、母親の胸から抜き取られたものを、指先で転がしていた。
小さな黒い雫だった。
涙に似ている。
だが、涙ではない。
男はそれを口元へ運び、静かに呟いた。
「……違う」
雫は、口の中へ消えた。
「これも、違う」
男は微笑んだ。
「どうして、満たされないんだろう」
その問いに答える者はいなかった。
ただ、男の足元に、影が伸びた。
影は床を這い、壁を伝い、病室の扉の下から廊下へと染み出していく。
影が触れた人間は、誰もが一瞬だけ足を止めた。
そして、何かを忘れた。
大切な人の誕生日。
昔交わした約束。
二度と会えない誰かの名前。
忘れても生活に困らないものばかりだった。
少なくとも、その瞬間は。
男は立ち上がった。
「次は、もっと深いところを」
その顔から、笑みが消えた。
「……僕は、何を探しているんだろう?」
2 デスは、悲しみを食べる
「ここか」
緑谷出久は、病院の前で足を止めた。
隣には麗日お茶子。
そして、二人の背後には、死神がいた。
「……嫌な感じがするね」
お茶子が呟いた。
「うん」
出久は頷いた。
病院の周囲には、異常なほど人が多かった。
救急車が止まっているわけではない。
火災が発生したわけでもない。
それなのに、病院の入口には人だかりができていた。
誰もが不安そうな顔をしている。
「母親が、娘を見ても泣かなくなったらしい」
死神が言った。
「泣かなくなった?」
「娘は重い病気を患っている。母親は長い間、娘を失うことを恐れていた。だが、今朝から、その恐怖が消えた」
「それって……」
「恐怖が消えただけなら、悪いこととは限らない」
死神は、病院の窓を見上げた。
「だが、彼女は娘を愛しているという事実まで、遠ざけられている」
出久は眉を寄せた。
「愛情が消えたんですか?」
「完全には消えていない。だからこそ、異常なんだ」
死神は続けた。
「彼女は娘を愛している。娘を大切に思っている。娘の世話も続けるだろう。けれど、娘を失うことへの恐怖が消えた結果、娘を失う可能性を現実として受け止める感覚まで薄れている」
「……悲しみを、感じなくなった?」
「それだけではない」
死神は首を横に振った。
「悲しみを感じる理由が、少しずつ削られている」
出久の胸に、嫌な予感が広がった。
「それは、安寧システムと同じ……?」
「似ている。だが、違う」
死神は病院へ歩き始めた。
「安寧システムは、人間が悲しまない世界を作ろうとした。今回の現象は、人間が悲しむ理由を奪っている」
「どう違うんですか?」
「結果が同じに見えても、過程が違う。前者は世界の仕組みを変えようとする。後者は人間の内側を食い荒らす」
出久は息を呑んだ。
「食い荒らす……」
「そうだ」
死神が振り返った。
「悲嘆は、デスが担う」
その言葉は、説明というよりも、確認だった。
「悲しみそのものを、デスと同一視してはいけない。デスは悲嘆に関わる存在だ。悲しみを抱く者の代わりに、その悲しみを食べることもある」
「じゃあ、今回の犯人はデスなんですか?」
「違う」
即答だった。
「デスが悲しみを食べることと、悲しみを奪うことは同じではない」
「……」
「食べるという行為は、相手の内側にあるものを引き受けることでもある。少なくとも、デスがそうする時はな」
死神は病院の扉を見つめた。
「今回の何者かは、悲しみを食べているように見える。だが、食べた後に残されるものが違う」
「何が残るんですか?」
「空白だ」
死神は答えた。
「悲しみを受け止めた後には、悲しみを抱いていた人間が残る。悲しみを奪った後には、悲しみを抱いていた理由さえ分からなくなった人間が残る」
出久は、拳を握った。
「そんなの……」
言葉が続かなかった。
悲しみがなくなれば、楽になる人もいる。
耐えがたい記憶から解放され、ようやく前へ進める人もいる。
出久だって、苦しみから逃れたいと思ったことはある。
自分の無力さを忘れたい。
自分が救えなかった人々の顔を忘れたい。
もう、誰かの命を天秤にかけたくない。
そう願ったことが、一度もないとは言えなかった。
だが。
「本人が望んでいないのに、奪うのは違う」
出久は言った。
「その人が何を失って、何を抱えて生きるのか。それを勝手に決めるのは……救うことじゃない」
「そうだ」
死神は頷いた。
「だから、確認する必要がある」
「何を?」
「今回の何者かが、何を恐れているのか」
その時だった。
病院の奥から、声が聞こえた。
「……探しているものが、あるんだ」
低く、静かな声。
「ずっと、探している」
三人が振り返る。
廊下の奥。
非常灯の下に、一人の男が立っていた。
黒い服。
白い肌。
そして、顔の中央に浮かぶ、ひどく疲れたような微笑み。
男は三人を見た。
「君たちなら、分かるかな」
その声には、敵意がなかった。
怒りも、憎悪もなかった。
ただ、長い間、同じ場所を歩き続けてきた人間のような疲労があった。
「僕が何を失ったのか」
出久は、一歩前へ出た。
「あなたが、みんなの悲しみを奪っているんですか?」
男は首を傾げた。
「悲しみ?」
そして、困ったように笑った。
「そう呼ぶんだね。君たちは」
「質問に答えてください」
「答えたいんだけど……」
男は、自分の胸に手を当てた。
「僕にも、分からないんだ」
その瞬間。
死神の目が、細くなった。
「……お前」
男が顔を上げる。
死神は、静かに告げた。
「お前は、悲嘆を食べているのではない」
男の笑みが、わずかに歪んだ。
「そうなの?」
「お前は、悲嘆の奥にある何かを探している」
「奥に?」
「そうだ」
死神の声が、廊下に響いた。
「悲しみを取り除いても、失ったものは戻らない。悲しみを奪っても、失われた事実は消えない。それでもお前は、悲しみを食べ続けている」
男は黙った。
死神は一歩近づいた。
「ならば、お前が本当に欲しいものは、悲しみではない」
沈黙。
男は俯いた。
そして、笑った。
今度の笑みには、先ほどまでなかったものが混じっていた。
「……そうか」
男は顔を上げた。
「君は、優しいんだね」
「違う」
死神は答えた。
「私は、お前を理解したつもりはない」
「それでも、僕のことを見てくれた」
男は、ひどく嬉しそうに笑った。
「だから、君から食べてみよう」
次の瞬間、廊下の照明が一斉に消えた。
3 奪われる側の痛み
闇の中で、出久は反射的にお茶子の腕を掴んだ。
「麗日さん!」
「大丈夫!」
声が返ってくる。
だが、その声は遠かった。
まるで、何枚もの壁を隔てた場所から聞こえているようだった。
「死神さん!」
返事がない。
出久は歯を食いしばった。
視界が暗い。
音が遠い。
自分の手が、何かを握っている感触さえ曖昧になっていく。
その時、目の前に光景が浮かんだ。
雄英高校。
教室。
机。
窓。
クラスメイトたち。
自分の席。
そして、笑っている少年の姿。
――緑谷。
声が聞こえた。
――お前は、何になりたいんだ?
幼い頃の記憶だった。
まだ、個性がないと診断される前。
まだ、夢を諦めるという言葉を知らなかった頃。
少年は、笑っていた。
出久は思わず手を伸ばした。
だが、記憶の中の少年は、遠ざかっていく。
「待って……!」
何を失おうとしているのか。
分からなかった。
ただ、失ってはいけないものだと思った。
「待ってくれ!」
その声を聞いた瞬間、光景が砕けた。
出久は床に膝をついた。
息が荒い。
心臓が痛い。
「……今のは」
何を見せられた?
誰を失いかけた?
答えは、分かっていた。
自分自身だ。
かつて夢を抱いていた少年。
誰かを救いたいと願った少年。
何も持っていなくても、何もできなくても、それでもヒーローになりたいと願っていた自分。
その自分を、忘れかけていた。
「……ふざけるな」
出久は立ち上がった。
「僕から、勝手に奪うな!」
暗闇の向こうで、男が笑った。
「どうして?」
「どうしてって……!」
「そんなものを持っていたら、苦しいでしょう?」
男の声は、穏やかだった。
「君は、救えなかった人を覚えている。間に合わなかった瞬間を覚えている。自分が選ばなかった道を覚えている。もしも、あの時、別の選択をしていたら。もしも、もっと強かったら。もしも、誰かの手を離さなかったら」
男が一歩近づいた。
「そういうものを、全部、忘れられたらいいのに」
出久は息を呑んだ。
それは、出久が何度も考えたことだった。
誰にも言わなかった。
言えなかった。
忘れたいと思う自分が、嫌だったから。
救えなかった人を忘れることは、その人を見捨てることではないのか。
苦しみから逃げたいと思うことは、自分がヒーローを目指した理由を裏切ることではないのか。
その問いに、答えを出せないまま歩いてきた。
男は、その迷いを見抜いていた。
「君も、望んでいるんだ」
「……違う」
「本当に?」
「違う!」
「なら、どうして泣きそうな顔をしているの?」
出久は、言い返せなかった。
男は優しく手を差し伸べた。
「大丈夫。僕が食べてあげる」
「……」
「君の悲しみを。君の後悔を。君が自分を許せない理由を」
男の手が、出久の額に触れようとした。
「そうすれば、君はもう、自分を責めなくて済む」
その瞬間。
出久の手が、男の腕を掴んだ。
「……僕は」
声が震えた。
「僕は、自分を許せないことがある」
男が目を見開いた。
「忘れたいと思うこともある。もう苦しみたくないと思うこともある。誰かに、代わりに背負ってほしいと思うことだってある」
出久は、男を見据えた。
「でも、それを決めるのは僕だ」
手に力がこもる。
「僕が苦しみながら覚えているのか。誰かに話して、少しずつ整理していくのか。それとも、いつか自分の中で別の形に変えていくのか」
出久は続けた。
「あなたが決めることじゃない!」
暗闇に、ひびが入った。
男の顔から、笑みが消えた。
「……君は」
「僕は、苦しみたくない。でも、苦しみがあるからって、僕が大切にしてきたものまで、勝手に決めつけないでください」
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「僕の痛みは、あなたのものじゃない」
その言葉と同時に、暗闇が砕け散った。
廊下の照明が戻る。
病院の時計が動いている。
お茶子は出久のすぐ隣にいた。
そして死神は、男の背後に立っていた。
男の手首を、黒い指が掴んでいる。
「……そこまでだ」
死神の声は、低かった。
男は振り返った。
「デス」
死神は、男を見つめていた。
「お前は、私の領分に踏み込んだ」
「君の領分?」
男は首を傾げた。
「悲嘆は君のものなの?」
「違う」
死神は即座に答えた。
「悲嘆は、誰かの所有物ではない」
そして、男の手を離させた。
「だからこそ、誰かの悲嘆を勝手に奪うことも許されない」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「君は、難しいことを言うんだね」
「お前が簡単な答えを欲しがっているからだ」
「簡単な答え?」
「悲しみを消せば、苦しみが消える。苦しみが消えれば、幸福になれる。幸福になれば、すべてが満たされる」
死神は男の胸を指差した。
「お前は、その答えを信じている」
男は何も言わなかった。
「だが、悲しみを消したところで、失ったものは戻らない。苦しみを取り除いたところで、失われた関係が修復されるわけでもない」
死神の目が、わずかに細くなる。
「お前は、奪うことでしか、何かを得る方法を知らないのか?」
その問いに。
男は、初めて明確な反応を示した。
肩が震えた。
顔が歪んだ。
そして、唇が動いた。
「……だって」
声が掠れた。
「だって、僕には」
そこで、言葉が途切れた。
まるで、その先にある言葉だけが、世界から切り取られているかのように。
男は自分の喉を押さえた。
「……言えない」
出久は、男を見つめた。
「どうして?」
男は首を振った。
「分からない」
「何が?」
「分からないんだ」
男は、必死に胸を押さえた。
「僕が何を失ったのか。何を奪われたのか。誰が僕から奪ったのか。そもそも、僕には何かがあったのか」
男の目から、涙がこぼれた。
「分からないのに、足りないんだ」
その言葉は、ひどく静かだった。
「何を食べても、何を奪っても、足りない」
男は、涙を拭おうともしなかった。
「僕は、何を失ったことを恐れているんだろう」
死神は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えを与えることが、今は正しくないと知っていた。
男は、まだ何も思い出していない。
そして、思い出していないことそのものが、彼を苦しめている。
「……僕は」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「君たちなら、僕を満たしてくれると思ったんだ」
次の瞬間、男の身体が、影の中へ沈んだ。
死神が手を伸ばす。
しかし、掴めなかった。
男の姿は、廊下の床へ溶け込むように消えていった。
残されたのは、小さな黒い雫が一つ。
出久が拾い上げようとした瞬間、死神が止めた。
「触るな」
「これは……?」
「まだ、分からない」
死神は雫を見つめた。
「だが、これだけは言える」
その声に、初めて明確な警戒が混じった。
「これは、悲嘆ではない」
4 教師は、子供の沈黙を見逃さない
同じ頃。
雄英高校では、別の異変が起きていた。
「……以上が、今朝から確認されている事例よ」
相澤消太が映し出した資料を見つめながら、ミッドナイトは腕を組んでいた。
彼女の表情は、普段の余裕を失っている。
「感情の欠落、記憶の断絶、本人も説明できない喪失感。しかも、身体的な異常は確認されない……」
「そうだ」
相澤は頷いた。
「一部の生徒にも、似た兆候が出始めている」
「生徒に?」
ミッドナイトの声が鋭くなった。
「なぜ、すぐに報告しなかったの?」
「報告したところで、原因が分からなければ対応できない」
「原因が分からないからこそ、対応するのが教師でしょう」
相澤は反論しなかった。
ミッドナイトは資料を閉じた。
「具体的には?」
「一人は、家族の名前を聞いても、以前ほど感情が動かない。もう一人は、幼少期の記憶を話そうとすると、途中で言葉が止まる」
「本人たちは?」
「自分がおかしくなったと思っている」
ミッドナイトは目を閉じた。
それが、一番危険だった。
異常を感じているのに、周囲に説明できない。
苦しいのに、何が苦しいのか分からない。
助けを求めようとしても、自分が何を失ったのかさえ分からない。
そして、誰かに「気にしすぎだ」と言われれば、自分の感覚そのものを疑い始める。
「……一番やってはいけないことがあるわね」
ミッドナイトが言った。
「何だ?」
「本人に、失ったものを無理に思い出させること」
相澤が彼女を見た。
「記憶が戻れば、原因が分かる可能性がある」
「ええ。でも、本人の心が耐えられるとは限らない」
ミッドナイトは資料の一枚を取り出した。
そこには、ある生徒の聞き取り記録があった。
『家族のことを考えると、何かが足りない気がする』
『でも、何が足りないのか分からない』
『分からないのに、思い出そうとすると怖い』
『先生、僕は何かを忘れたんでしょうか』
ミッドナイトは、その最後の一文を見つめた。
「この子に必要なのは、答えを押しつけることじゃない」
彼女は顔を上げた。
「安心して、分からないと言える場所よ」
相澤は、しばらく沈黙した。
そして、静かに頷いた。
「……そうだな」
「それに」
ミッドナイトは、いつもの強気な笑みを浮かべた。
ただし、その瞳は真剣だった。
「誰かがこの子たちの心に手を伸ばしているなら、教師が黙って見ているわけにはいかないわ」
彼女は立ち上がった。
「調査に参加する」
「危険だぞ」
「知ってる」
「相手の能力も分かっていない」
「だから、私が行くのよ」
ミッドナイトは、扉に手をかけた。
「子供たちが、自分の心を疑い始めている。そんな時に大人が何もしなかったら……」
一瞬、彼女の表情が曇った。
「その子たちは、いつか自分の苦しみまで、なかったことにしてしまう」
彼女は振り返った。
「それだけは、絶対にさせない」
扉が開く。
その先には、ギャラティカが立っていた。
「……話は聞かせてもらった」
ミッドナイトは眉を上げた。
「盗み聞き?」
「必要な情報を集めていただけだ」
「便利な言い方ね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ギャラティカは、手に持った端末を差し出した。
画面には、世界各地で発生した異常現象の分布が表示されている。
「これは、単なる感情異常ではない」
ミッドナイトは画面を覗き込んだ。
「……何、この分布」
「現象が発生した地点を結んだものだ」
赤い点が、地図上に散らばっている。
病院。
学校。
避難所。
戦闘で破壊された街区。
そして、かつて多くの人々が命を落とした場所。
「人が強い感情を抱いた場所に集中している?」
「正確には違う」
ギャラティカは指先で画面を操作した。
赤い点が消え、別の色の点が浮かび上がる。
「悲しみが強い場所だけではない。怒り、嫉妬、執着、空虚感。種類はさまざまだ」
「八つの欲望……」
ミッドナイトが呟いた。
ギャラティカは頷いた。
「傲慢、強欲、色欲、虚飾、嫉妬、暴食、怠惰、悲嘆。人間の内側にあるものが、外側へ漏れ出している」
「それを誰かが利用している?」
「可能性はある」
ギャラティカは、画面の中央に指を置いた。
そこには、ほとんど何も表示されていない領域があった。
「だが、これを一人の犯人が引き起こしていると考えるのは危険だ」
「どういう意味?」
「現象の一部には、明確な意思がある。だが、別の一部は意思そのものが確認できない。誰かの行動に反応しているようでいて、誰の命令にも従っていない」
ギャラティカは言葉を選んだ。
「世界そのものが、何かに答えようとしているようにも見える」
ミッドナイトの背筋に、冷たいものが走った。
「世界が……答える?」
「そうだ」
ギャラティカは画面を閉じた。
「問題は、何を問われているのか、誰にも分からないことだ」
5 ホークスは、翼を失う夢を見る
九州の空。
ホークスは、ビルの屋上に降り立った。
風が吹いている。
街は動いている。
人々は歩き、車は走り、店の看板には明かりが灯っている。
平和な光景だった。
だからこそ、ホークスは違和感を覚えていた。
「……静かすぎる」
彼は耳を澄ませた。
街の音がある。
人の声も、車の音も、遠くの工事現場から聞こえる金属音もある。
それなのに、何かが足りない。
ホークスは翼を広げた。
羽根が風を受ける。
いつもなら、それだけで世界の輪郭をつかめた。
だが、今は違った。
自分の羽根が、どこへ向かえばいいのか分からない。
「……何だ、これ」
その瞬間、視界が歪んだ。
屋上が消えた。
街が消えた。
代わりに、炎が見えた。
燃え盛る建物。
崩れる壁。
逃げ惑う人々。
そして、炎の中に立つ男。
荼毘。
ホークスの身体が硬直した。
「……っ!」
過去の記憶が、鮮明によみがえる。
自分の選択。
自分が下した判断。
相手を止めるために、何をしたのか。
そして、自分が何を見落としたのか。
炎の向こうから、荼毘が歩いてくる。
「よう」
その声は、記憶の中のものと同じだった。
「また会ったな、ヒーロー」
ホークスは身構えた。
「幻覚か?」
「さあな」
荼毘は笑った。
「お前にとって、俺は幻覚であってほしいんだろ?」
「……」
「俺がいなければ、お前は自分の選択を正しかったことにできる。俺がいなければ、お前は自分の手が汚れたことを忘れられる」
荼毘が一歩近づいた。
「違うか?」
ホークスは答えなかった。
答えられなかった。
荼毘は、彼の翼を見た。
「その羽根、まだ残ってるんだな」
ホークスの背中が強張る。
「……何が言いたい」
「別に」
荼毘は、炎の中で笑った。
「ただ、羨ましいと思っただけだ」
「何?」
「自分の大事なものを、まだ大事だと思えるんだろ?」
荼毘の声が変わった。
「お前は、自分の羽根を失うことが怖いか?」
ホークスは、即答できなかった。
ヒーローとしての能力。
空を飛ぶ自由。
人を救うために必要な力。
それらを失うことは、怖い。
だが、それだけではなかった。
ホークスは、自分の翼を見つめた。
この翼があるから、救えた命がある。
この翼があるから、間に合った場所がある。
この翼があるから、自分はヒーローとして存在できた。
だが。
この翼があるから、命令に従わなければならなかったこともある。
この翼があるから、自由に選べなかったこともある。
そして、この翼を持つ自分が、誰かの人生を傷つけたこともある。
「……怖いさ」
ホークスは答えた。
荼毘の笑みが止まった。
「意外だな」
「自分の大切なものを失うのは、誰だって怖いだろ」
ホークスは、ゆっくりと息を吐いた。
「でも、失うのが怖いからって、何もかも抱え込んでいいわけじゃない」
「へえ」
「自分が失いたくないものを守るために、誰かの大切なものを踏みにじったなら……それは、守ったことにはならない」
荼毘の顔から、笑みが消えた。
「お前がそれを言うのか?」
「そうだよ」
ホークスは目を逸らさなかった。
「俺が言うんだ」
沈黙。
炎が揺れる。
荼毘は、しばらくホークスを見つめていた。
そして、吐き捨てるように言った。
「……気に食わねえな」
「知ってる」
「お前は、自分が間違っていたと認めれば、それで終わりだと思ってるのか?」
「思ってない」
ホークスの声が、低くなった。
「認めたところで、取り返しがつかないことはある。謝ったところで、戻らないものもある」
彼は一歩前へ出た。
「だから、終わりにしないんだよ」
荼毘が目を細めた。
「……何?」
「自分が何をしたのか、忘れない。何を失わせたのか、都合よく解釈しない。そのうえで、これから何をするのかを考える」
ホークスは、荼毘を見据えた。
「お前の人生を、俺が勝手に決めるつもりはない。でも、お前が誰かを傷つけることまで、見逃すつもりもない」
炎が、一瞬だけ弱まった。
荼毘の姿が揺らぐ。
「……ふざけんな」
その声は、怒りに満ちていた。
「俺の人生を決めるな」
「決めてない」
「俺の痛みを、分かったような顔で語るな」
「分かったなんて言ってない」
ホークスは、静かに答えた。
「だから、聞いてるんだ」
荼毘の顔が歪んだ。
「……何を」
「お前が、本当は何を望んでいたのか」
炎が、消えた。
荼毘の姿も、消えた。
ホークスは、現実の屋上へ戻っていた。
呼吸が乱れている。
背中の翼が、ひどく重かった。
「……っ、はあ」
ホークスは膝に手をついた。
今のは、ただの幻覚ではない。
記憶を利用した精神干渉。
それだけなら、まだ対処できる。
だが、問題は。
「……俺の知らない記憶まで、触られてる?」
ホークスは、自分の胸に手を当てた。
そこに、何かが残っている。
悲しみではない。
罪悪感とも違う。
もっと曖昧で、もっと深いもの。
自分が何かを失ったという感覚だけが、残されていた。
「……何だよ、これ」
その時、通信機が鳴った。
『ホークス、聞こえる?』
ミッドナイトの声だった。
『こちらでも異常を確認したわ。精神干渉の可能性がある。無理に記憶を掘り起こさないで』
「了解」
ホークスは立ち上がった。
「……先生」
『何?』
「一つ、確認したいことがあるんです」
『どうぞ』
「誰かが、俺たちの記憶を奪っているんだとしたら……」
ホークスは、空を見上げた。
「奪われた記憶って、どこへ行くんでしょうね?」
通信の向こうで、ミッドナイトが黙った。
やがて、彼女は答えた。
『……それを、今から調べるところよ』
ホークスは頷いた。
そして、再び空へ飛び立った。
彼の羽根が、一枚だけ落ちた。
羽根は地面に触れる前に、黒い雫へ変わった。
その雫は、風に逆らって空へ昇っていった。
6 荼毘は、許されることを望んでいない
炎の消えた場所。
荼毘は、薄暗い廃ビルの中で目を覚ました。
「……チッ」
舌打ちをする。
胸の奥が、不快なほどざわついていた。
ホークスの声が、頭から離れない。
――本当は何を望んでいたのか。
「……知るかよ」
荼毘は壁を蹴った。
コンクリートが砕ける。
「何を望んでたかだと?」
笑いが漏れた。
「そんなもん、決まってんだろ」
認めてほしかった。
見てほしかった。
自分が、そこにいることを。
自分が、努力していることを。
自分が、父親の期待に応えようとしていたことを。
そして、期待に応えられなかった時でさえ、自分が家族の一員であることを。
それだけだった。
たった、それだけのことだった。
だが、それを望んだ自分は、いつしか自分自身を焼き尽くすまで止まれなくなった。
父親への憎悪。
家族への執着。
自分が受けた傷を、相手にも味わわせたいという願い。
それらが絡み合い、いつしか、何を望んでいたのかさえ分からなくなっていた。
「……俺は」
荼毘は、自分の手を見た。
「俺は、何を失いたくなかったんだ?」
答えは出ない。
ただ、胸の奥に空洞がある。
そこを埋めるために、彼は多くのものを燃やしてきた。
だが、燃やせば燃やすほど、空洞は大きくなった。
「……くだらねえ」
荼毘は顔を背けた。
「今さら、そんなこと考えたって……」
その時。
背後から声がした。
「今さら、だからじゃないか?」
荼毘は振り返った。
そこには、オール・フォー・ワンがいた。
「……何の用だ」
「君の様子を見に来ただけだよ」
「帰れ」
「つれないな」
オール・フォー・ワンは、穏やかに笑った。
「君は、自分の過去に囚われている。自分が失ったものを取り戻すために、今も燃え続けている」
「黙れ」
「だが、今回の現象は興味深い」
荼毘は目を細めた。
「……現象?」
「人間の内側から、感情や記憶が抜き取られている。しかも、本人が何を失ったのか、完全には認識できない形でね」
オール・フォー・ワンは、指を組んだ。
「これは、単純な個性の作用ではない。少なくとも、私が知る限りではね」
「お前が知らないことなんて、あるのかよ」
「もちろん」
その答えは、意外なほどあっさりしていた。
「自分が知らないことを認められない者は、未知を利用することもできない」
荼毘は鼻で笑った。
「で? それを利用するつもりか?」
「当然だ」
オール・フォー・ワンは、微笑んだ。
「未知は危険だ。だが、危険であるという理由だけで放置するには、あまりにも価値がある」
「……お前らしいな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてねえよ」
オール・フォー・ワンは、荼毘の顔を見つめた。
「君は、あの現象に触れたのだろう?」
荼毘は答えなかった。
「何かを見た?」
「……さあな」
「何かを思い出した?」
「うるせえ」
「それとも、何かを失った?」
その言葉に。
荼毘の表情が、一瞬だけ変わった。
オール・フォー・ワンは、それを見逃さなかった。
「なるほど」
「……何が、なるほどだ」
「君は、失うことを恐れている」
荼毘は、殺気を放った。
「殺すぞ」
「構わないよ」
オール・フォー・ワンは動じなかった。
「だが、その前に考えてみるといい。君は、本当に何もかも失ったのかな?」
「……」
「家族への期待。父親への愛情。自分自身への誇り。かつて夢見た未来。君は、それらを失ったと思っている」
オール・フォー・ワンは、一歩近づいた。
「しかし、失ったものを失ったと認めるためには、かつてそれを持っていたという事実が必要だ」
荼毘の目が、細くなる。
「……何が言いたい」
「君は、まだそれらを手放していないのではないか?」
沈黙。
オール・フォー・ワンは続けた。
「手放せないから、燃やしている。手放せないから、憎んでいる。手放せないから、相手に自分と同じ痛みを味わわせようとしている」
「黙れ」
「君が本当に何もかも諦めているなら、そこまで執着する必要はない」
荼毘の拳が震えた。
オール・フォー・ワンは、静かに言った。
「君が恐れているのは、失うことそのものではない」
彼は荼毘の胸元を指差した。
「失ったものを、もう一度望んでしまうことだ。」
荼毘は、何も言えなかった。
その沈黙を、オール・フォー・ワンは満足そうに見つめた。
「君が何を望んでいたのか。それを、私は否定しない」
「……」
「だが、望みを認めることと、その望みを叶えるために何をしてもいいということは違う」
荼毘が顔を上げた。
「……お前が、それを言うのか?」
「私は、自分の行為を善行だと偽るつもりはないよ」
オール・フォー・ワンは笑った。
「私は、欲しいものを手に入れるために行動する。必要なら奪う。必要なら壊す。それが私だ」
彼は、薄暗い廃ビルの奥へ歩き始めた。
「だが、今回の存在は違う」
「……何が違う」
「奪っているのに、目的が分からない」
オール・フォー・ワンは振り返った。
「何を得たいのかも、何を失ったのかも、何を恐れているのかも分からない。それでも奪い続けている」
彼は、楽しそうに笑った。
「実に興味深い」
荼毘は、その背中を睨みつけた。
「……お前は、あいつを利用できると思ってるのか?」
「もちろん」
オール・フォー・ワンは答えた。
「だが、その前に一つ、確かめなければならない」
「何を?」
彼は、暗闇の向こうを見つめた。
「その存在は、本当に何かを失ったのか。それとも……」
一瞬、言葉が途切れた。
「最初から、何も与えられていなかったのか。」
荼毘の顔から、表情が消えた。
その言葉が、あまりにも自分自身の傷に近かったからだ。
7 死柄木弔は、壊した後に残るものを知らない
別の場所。
薄暗い地下施設で、死柄木弔は壁にもたれていた。
目の前には、壊れた端末が散乱している。
その周囲には、黒い染みのようなものが広がっていた。
「……気に入らねえ」
死柄木は呟いた。
何が気に入らないのか。
自分でも、よく分からなかった。
世界が壊れることは、嫌いではない。
むしろ、壊すことは自分にとって、ひどく自然な行為だった。
不愉快なものを壊す。
自分を縛るものを壊す。
自分が憎んだものを壊す。
壊せば、そこには何も残らない。
少なくとも、そう思っていた。
だが、今は違った。
壊れた端末の画面に、自分の顔が映っている。
死柄木は、その顔を見つめた。
「……誰だ、こいつ」
自分の顔だ。
分かっている。
それなのに、どこか違う。
自分の顔なのに、自分のものではないような感覚がある。
指先が、無意識に首元へ伸びた。
かつて、自分の身体を覆っていた手。
自分を抱きしめた手。
自分を恐怖で縛りつけた手。
その記憶が、胸の奥を引っ掻いた。
「……やめろ」
死柄木は頭を振った。
「思い出させるな」
だが、記憶は止まらない。
泣いていた自分。
助けを求めていた自分。
誰も来なかった時間。
そして、自分が壊してしまったもの。
死柄木の呼吸が荒くなった。
「……俺は」
声が震える。
「俺は、壊したかったんだ」
何もかも。
自分を苦しめたもの。
自分を見捨てた世界。
自分が生きていることを、許してくれなかったすべて。
「……なのに」
死柄木は、壁を殴った。
コンクリートにひびが入る。
「何で、まだ残ってるんだよ!」
壊したはずなのに。
終わらせたはずなのに。
消し去ったはずなのに。
どうして、まだ胸の奥に残っている?
どうして、まだ自分を苦しめる?
どうして、何もかも壊した後に、何も解決していないのだ?
「……クソが」
死柄木は、顔を覆った。
その時。
「弔」
声がした。
振り返ると、トガヒミコが立っていた。
その隣には、トゥワイス。
トガはいつものように笑っていた。
だが、その目は死柄木を注意深く見つめている。
「大丈夫ですか?」
「……何がだ」
「なんだか、苦しそうだったから」
死柄木は舌打ちした。
「気のせいだ」
「そうですか?」
トガは首を傾げた。
「でも、さっきからずっと、同じところを見てますよ」
死柄木は答えなかった。
トゥワイスが、彼の前に立った。
「無理するなよ、弔! いや、無理しろ! ……いや、やっぱり無理すんな!」
「……うるせえ」
「すまん! 黙る! 黙らない!」
トゥワイスは自分の頭を抱えた。
「何か変なんだよ、俺も!」
死柄木が顔を上げた。
「……何?」
トゥワイスは、落ち着かない様子で自分の手を見つめた。
「さっきから、誰かがいなくなった気がするんだ」
「誰が?」
「分からない」
トゥワイスは笑おうとした。
だが、笑顔は途中で崩れた。
「分からないんだよ。誰がいなくなったのかも、いついなくなったのかも。そもそも、本当に誰かがいたのかも分からない」
彼は、自分の胸を叩いた。
「なのに、ここが空っぽなんだ」
トガの笑みが消えた。
「……ジン?」
トゥワイスは、彼女を見た。
「何だ?」
「私のこと、分かりますか?」
「当たり前だろ!」
トゥワイスは即答した。
「トガちゃんだ! 俺たちの仲間だ! かわいいし、怖いし、血が好きで……いや、それは今言わなくていい!」
トガは、少しだけ笑った。
だが、すぐに真剣な顔になった。
「じゃあ、私がいなくなったら?」
「……は?」
「私が、どこかへ行っちゃったら?」
トゥワイスは、言葉を失った。
「……そんなの」
彼の顔が、歪んだ。
「そんなの、嫌に決まってるだろ」
トガは頷いた。
「私もです」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「私、好きな人のことを考えると、すごく嬉しいんです。好きな人の血をもらうと、その人に近づけた気がするんです」
死柄木は、黙って聞いていた。
「でも、好きな人がいなくなったら、どうしたらいいんでしょう?」
トガの声が、小さくなる。
「好きだった気持ちまで、なくなっちゃったら?」
彼女は、自分の手を見つめた。
「その人を好きだった私は、どこへ行っちゃうんですか?」
沈黙が落ちた。
死柄木は、何も答えられなかった。
彼女の問いは、あまりにも自分自身の問いに似ていたからだ。
自分が憎んだものをすべて壊したら。
自分を苦しめた記憶がすべて消えたら。
自分が破壊を望んだ理由まで消えてしまったら。
その時、自分は何者になるのだろう。
「……弔」
トガが呼んだ。
「私、忘れたくないです」
その言葉に、死柄木の指先が動いた。
「好きだった人のことも、嫌いだった人のことも。嬉しかったことも、苦しかったことも」
トガは笑った。
「だって、それが私だから」
トゥワイスが、彼女の肩に手を置いた。
「そうだ! 忘れるな! いや、忘れてもいい! ……いや、本人が決めろ!」
トガは、小さく吹き出した。
死柄木は、二人を見つめていた。
その光景が、ひどく不愉快だった。
誰かを失うことを恐れている。
それを口にしている。
自分が怖いと認めている。
それなのに、彼らはその恐怖を理由に、互いの存在を否定してはいない。
死柄木は、歯を食いしばった。
「……くだらねえ」
トガが、彼を見た。
「弔?」
「失うのが怖いなら、最初から持たなきゃいい」
その言葉は、冷たかった。
だが、死柄木自身が、それを信じ切れていないことは明らかだった。
トゥワイスが首を振った。
「違うぞ、弔!」
「……何がだ」
「持たなきゃ失わない! でも、持たなきゃ何も始まらない!」
彼は自分の胸を叩いた。
「俺は、仲間を失うのが怖い! 怖いけど、仲間がいなきゃ、もっと怖い!」
死柄木は、黙っていた。
トガが続けた。
「弔は、何が怖いんですか?」
「……」
「壊せなくなること?」
死柄木の顔が強張った。
「それとも……壊したくないものが、できちゃうこと?」
空気が凍った。
死柄木は、彼女を睨みつけた。
「……黙れ」
トガは、目を逸らさなかった。
「私は、弔が何を考えているのか、全部は分かりません」
彼女は、静かに言った。
「でも、弔が何も感じていないふりをしている時は、分かります」
死柄木の手が震えた。
彼は、壁に背を預けた。
「……俺は」
言葉が出ない。
自分は何を恐れているのか。
壊せなくなることか。
失うことか。
それとも。
誰かを大切に思ってしまった自分が、その相手を失った時、再びあの頃の自分に戻ってしまうことか。
死柄木は目を閉じた。
「……俺は、もう二度と」
そこから先は、言えなかった。
トガは、何も聞かなかった。
トゥワイスも、何も言わなかった。
ただ、二人はそこにいた。
死柄木の答えが出るまで、待つように。
その時、壁に広がっていた黒い染みが、ゆっくりと動き始めた。
トガが振り返った。
「……あれ?」
黒い染みは、床を這い、死柄木の足元へ近づいていた。
トゥワイスが叫ぶ。
「弔、危ない!」
死柄木が手を伸ばす。
黒い染みが、彼の指先に触れた。
瞬間。
死柄木の頭の中に、声が響いた。
――君は、何を失うことを恐れている?
死柄木は、目を見開いた。
――壊せば、失わずに済むのかな?
「……っ!」
――失う前に、すべてを壊せば。
死柄木の指先が、黒く染まった。
――君は、もう二度と、悲しまなくていい。
死柄木は、笑った。
「……ふざけるな」
その笑みは、ひどく歪んでいた。
「俺に、そんなことを言うな」
黒い染みが、彼の手から逃れようとする。
死柄木は、それを握り潰した。
「壊すかどうかは、俺が決める」
黒い染みが砕けた。
床に、小さな黒い雫が落ちる。
死柄木は、それを踏み潰した。
「……俺の恐怖まで、勝手に利用するな」
トガは、彼の横顔を見つめていた。
トゥワイスは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……弔も、怖いんだな」
死柄木は聞こえないふりをした。
だが、その拳は、しばらく開かなかった。
8 ギャラティカが見つけた、世界に存在しない座標
ギャラティカは、研究施設の中央に立っていた。
目の前には、立体投影された世界地図。
赤い点。
青い点。
黒い点。
そして、そのどれにも分類できない、白い空白。
「……やはり、ここか」
ミッドナイトが隣に立つ。
「何が分かったの?」
「異常現象の発生地点を、時間軸に沿って並べ直した」
ギャラティカは画面を操作した。
点と点が結ばれ、複雑な線が浮かび上がる。
「これまでは、各地で発生した現象を独立した事件として扱っていた。だが、発生時刻と規模を補正すると、一定の順序が見えてくる」
「順序?」
「誰かが何かを奪った後、別の場所で別の現象が起きる。さらにその後、最初の地点で別の異常が発生する」
ミッドナイトは画面を見つめた。
「連鎖しているのね」
「それだけではない」
ギャラティカは、画面を拡大した。
「現象が発生した場所には、必ず何らかの欠落が残されている」
「欠落……」
「記憶の欠落。感情の欠落。名前の欠落。場合によっては、個人の存在に関する記録そのものが不安定になっている」
ミッドナイトの顔が険しくなった。
「まさか、存在そのものを消している?」
「断定はできない」
ギャラティカは慎重に答えた。
「ただし、世界がその人物を認識するための情報が、少しずつ失われている可能性はある」
「それが進めば?」
「本人が生きていても、周囲がその人物を正しく認識できなくなる」
ミッドナイトは、言葉を失った。
人間が忘れられる。
それだけでも恐ろしい。
だが、忘れられるだけではない。
自分を知っていた人々が、自分を知らない人間になっていく。
自分の存在を証明するものが、次々と消えていく。
その時、人は何を失うのか。
名前か。
記憶か。
それとも、自分が確かにここにいたという確信か。
「……そんなことが起きたら」
ミッドナイトは呟いた。
「その人は、自分が消えかけていることにも気づけないかもしれない」
「そうだ」
ギャラティカは、画面の中心を指した。
「そして、これが問題の場所だ」
地図上の一角が拡大される。
そこには、何もなかった。
山もない。
海もない。
建物もない。
地名さえ、表示されない。
「……ここは?」
「座標上では存在する」
「座標上では?」
「地理的には空白だ。だが、観測記録を調べると、過去に何度もこの地点へ向けて情報が送信されている」
「誰が?」
「分からない」
ギャラティカは答えた。
「送信元の記録は残っている。だが、送信先だけが存在しない」
ミッドナイトは画面に手を伸ばした。
指先が空白に触れた瞬間、端末が警告音を鳴らした。
『参照対象を確認できません』
『座標情報が矛盾しています』
『参照対象を確認できません』
『座標情報が矛盾しています』
同じ警告が繰り返される。
ギャラティカは、すぐに端末を切断した。
「……触れないほうがいい」
「今のは?」
「分からない」
ギャラティカは、初めて明確に不快そうな顔をした。
「だが、こちらから情報を取得しようとした瞬間、情報を取得するという行為そのものが矛盾した」
ミッドナイトは、ゆっくりと息を吐いた。
「世界の外側……」
「その可能性はある」
ギャラティカは頷いた。
「ただし、注意しなければならない。世界の外側にあるものが、すべて同じ存在とは限らない」
その言葉に、ミッドナイトは顔を上げた。
「……デスのこと?」
「それも含めてだ」
ギャラティカは、別の資料を表示した。
そこには、死神が確認した情報が記録されていた。
悲嘆。
デス。
そして、もう一つ。
憂鬱。
アザトース。
「悲嘆は、失ったものを悲しむことに関わる。憂鬱は、それとは別の領域にある」
ギャラティカは、慎重に言葉を選んだ。
「少なくとも、今ある情報では、デスとアザトースを同一の存在として扱う根拠はない」
「つまり、今回の事件はデスの仕業ではない?」
「それも、まだ断定できない」
ギャラティカは首を横に振った。
「ただ、悲嘆を担うデスが存在するからといって、悲しみに関係する異常をすべてデスの責任にするのは誤りだ」
彼は、空白の座標を見つめた。
「そして、アザトースが憂鬱に結びつくからといって、今回の存在がアザトースだと決めつけることもできない」
ミッドナイトは頷いた。
「分かっていることと、分からないことを分ける必要があるわね」
「そうだ」
ギャラティカは画面を閉じた。
「今回の敵が何者なのか。それを特定する前に、まずは、何が起きているのかを理解しなければならない」
その時、端末が再び鳴った。
新しい警告が表示される。
『異常座標へのアクセスを検出』
『アクセス元:不明』
『アクセス先:不明』
『アクセス対象:あなた』
ミッドナイトは息を呑んだ。
「……あなた?」
ギャラティカは、画面を凝視した。
そして、静かに呟いた。
「……見られている」
端末の画面に、一文が浮かび上がった。
――あなたは、何を失うことを恐れていますか?
ミッドナイトは、画面を睨みつけた。
「……答える義務はないわ」
その瞬間、文字が消えた。
代わりに、別の一文が表示される。
――それでは、あなたが失ったものを教えてください。
ミッドナイトの表情が、凍りついた。
ギャラティカが端末を叩き落とそうとした。
だが、その前に、画面が暗くなった。
そして。
二人の耳元で、誰かが囁いた。
――あなたは、まだ失っていないのですね。
ミッドナイトは、反射的に振り返った。
誰もいない。
それなのに、彼女の胸の奥に、冷たい何かが残った。
まるで、いつか失うものを、すでに見せられたかのように。
9 オール・フォー・ワンは、空白を欲しがる
「実に面白い」
オール・フォー・ワンは、報告書を読み終えた。
机の上には、複数の資料が並べられている。
記憶障害。
感情の欠落。
存在記録の矛盾。
そして、特定できない座標。
「個性の奪取とは、まったく違う」
彼は指先で資料を叩いた。
個性を奪うことは、オール・フォー・ワンにとって、ある意味で理解しやすい行為だった。
対象が持っている能力を認識し、奪い、別の場所へ移す。
そこには、明確な構造がある。
奪うものがある。
奪われるものがある。
そして、奪う者がいる。
だが、今回の現象は違う。
何が奪われたのか、本人にも分からない。
奪われたものがどこへ行ったのかも分からない。
そして、奪った存在自身も、何を得たのか分かっていない。
「……君は、いったい何を欲しがっている?」
彼は、画面に映った空白の座標を見つめた。
その空白には、奇妙な魅力があった。
何もない。
だからこそ、何でも置ける。
何も決まっていない。
だからこそ、何でも決められる。
オール・フォー・ワンは、笑った。
「もしも、そこに何かが隠されているのなら……」
彼は、端末へ手を伸ばした。
「私が手に入れない理由はない」
アクセスを開始する。
最初の数秒は、何も起きなかった。
次に、警告が表示された。
『アクセス先を確認できません』
オール・フォー・ワンは、操作を続けた。
『参照対象が存在しません』
さらに操作する。
『参照対象を定義できません』
彼は笑みを深めた。
「なるほど。存在しないのではなく、存在するという定義そのものが成立していないのか」
さらに深く、アクセスを試みる。
その瞬間、画面が暗転した。
そして、文字が浮かび上がった。
――あなたは、何を手に入れたいのですか?
オール・フォー・ワンは、少しだけ目を細めた。
「すべてだよ」
即答だった。
「私が欲しいものは、私が決める。私が手に入れたいものを、他者が制限することはできない」
画面に、別の文字が浮かぶ。
――すべてを手に入れた後、あなたは何を望むのですか?
「次のすべてだ」
彼は笑った。
「欲望とは、満たせば終わるものではない。新たな対象を見つけ、次の段階へ進む。それが私の生き方だ」
しばらく、画面は沈黙していた。
やがて、文字が浮かぶ。
――では、あなたは何を失うことを恐れているのですか?
オール・フォー・ワンは、笑みを消した。
それは、彼にとって愚問だった。
失うことを恐れている?
もちろん、失うことを恐れている。
自分の力を。
自分の自由を。
自分が築き上げたものを。
自分が手に入れたものを。
だが、それは弱さではない。
失いたくないものがあるからこそ、守る。
守るために、奪う。
奪うために、力を手に入れる。
その循環こそが、彼の生き方だった。
「私は、失うことを恐れているのではない」
彼は、画面を見つめた。
「失うことを、他者に決められるのが嫌いなのだ」
画面が、明滅した。
――あなたは、自分で決めているのですか?
「当然だ」
――本当に?
オール・フォー・ワンの指が止まった。
画面に、次々と映像が浮かび上がる。
幼い頃の記憶。
弟。
自分が手を伸ばした時。
弟が拒絶した時。
自分が力を与えようとした時。
弟が、それを望んでいなかった時。
そして、自分が弟の意思を理解しようとしなかった時。
オール・フォー・ワンは、静かに画面を閉じた。
「……くだらない」
声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
「過去の記憶を見せたところで、私の意思は変わらない」
彼は立ち上がった。
「私は、自分の望みを捨てるつもりはない」
端末を踏み潰す。
画面が砕け、火花が散った。
だが、最後に一つだけ、文字が残った。
――あなたが守ろうとしているものは、本当にあなたのものですか?
オール・フォー・ワンは、その文字を見下ろした。
そして、笑った。
今度の笑みは、いつもの余裕に満ちたものではなかった。
「……そうか」
彼は呟いた。
「君は、私から何かを奪いたいわけではないのだね」
砕けた画面を踏み越え、部屋を出る。
「君は、私に自分自身を疑わせたいのか」
扉が閉じた。
その背後で、壊れた端末が再び光った。
そして、誰にも聞こえない声が響いた。
――違う。
――私は、あなたに何も求めていない。
――ただ、知りたいだけなのです。
――あなたたちは、なぜ。
――失うことを恐れながら、互いから奪い続けるのですか。
10 母親は、娘を忘れたくない
病院の病室。
白石真帆の母親は、窓の外を見つめていた。
「お母さん」
娘が呼ぶ。
「なあに?」
「今日、何かあった?」
「どうして?」
「なんだか、変な感じがするの」
母親は娘を見た。
少女は、自分の手を握っていた。
「私、何かを忘れた気がする」
母親の胸が、わずかに動いた。
「……そうなの?」
「うん」
真帆は俯いた。
「でも、何を忘れたのか分からないの」
母親は、娘の顔を見つめた。
自分も、何かを忘れている気がする。
だが、何を忘れたのか分からない。
娘が大切なことは分かる。
娘を守りたいことも分かる。
けれど、娘を失うことが怖いという感情が、以前ほど強くない。
それが異常なのだと、頭では理解できた。
だが、胸が動かない。
恐怖が戻らない。
「……お母さん」
真帆が、ぽつりと言った。
「私ね、怖いの」
母親は娘を見た。
「何が?」
「私が死んじゃったら、お母さんが悲しむでしょう?」
母親は答えられなかった。
「でも、もし、お母さんが悲しくなくなったら……」
真帆の目から、涙がこぼれた。
「私がいなくなっても、平気になっちゃったら……」
少女は、母親の手を握った。
「私、いなくなってもいい子になっちゃうのかな」
母親の胸に、痛みが走った。
それは、久しぶりに感じた痛みだった。
ほんの小さな痛み。
だが、確かにそこにあった。
「……真帆」
母親は、娘を抱きしめた。
「そんなこと、ないわ」
「でも……」
「あなたがいなくなっても平気になることと、あなたがいなくなってもいいということは、違うの」
母親は、娘の頭を撫でた。
「お母さんは、あなたを大切に思っている。あなたが生きていてくれることが嬉しい。あなたが笑ってくれることが嬉しい」
声が震えた。
「そして、あなたがいなくなることは……悲しい」
真帆が顔を上げた。
「……悲しい?」
「ええ」
母親は、涙を流した。
自分が何を失ったのか、まだ完全には分からない。
だが、今、自分が娘を抱きしめていることには理由がある。
娘が大切だからだ。
娘を失いたくないからだ。
そして、いつか娘を失うかもしれないという恐怖が、娘を大切に思う気持ちと切り離せないからだ。
「悲しいわ」
母親は、もう一度言った。
「悲しくないふりなんて、しなくていいの」
真帆は泣いた。
母親も泣いた。
その瞬間。
病室の隅に、黒い影が現れた。
先ほどの男だった。
彼は、二人を見つめていた。
その顔には、困惑が浮かんでいる。
「……どうして?」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
「どうして、また悲しむの?」
母親は、顔を上げた。
「……誰?」
男は答えなかった。
「あなたが、私から何かを奪ったの?」
男は、ゆっくりと首を傾げた。
「……そうなのかな」
「何を奪ったの?」
「分からない」
「どうして?」
男は、自分の胸を押さえた。
「……分からないんだ」
母親は、娘を抱きしめたまま、男を見つめた。
「あなたは、何が欲しいの?」
男は、答えようとした。
だが、言葉が出ない。
「……僕は」
「何が欲しいの?」
「……僕は」
男の顔が歪んだ。
「満たされたい」
その声は、あまりにも幼かった。
「何かが欲しいんだ。何かを手に入れれば、満たされると思うんだ。でも、何を手に入れればいいのか分からない」
母親は、男を見つめた。
「それで、他人から奪うの?」
男は黙った。
「あなたが何を失ったのか、私は知らない」
母親は、涙を拭った。
「あなたがどれほど苦しんでいるのかも、分からない」
男の顔が、わずかに歪んだ。
「でも」
母親は続けた。
「あなたが苦しいからって、私の娘から、私の悲しみまで奪っていいわけじゃない」
男は、俯いた。
「……そうだね」
その声には、初めて明確な後悔が混じっていた。
「そうなのかもしれない」
母親は、娘を抱きしめ直した。
「あなたも、誰かに助けてほしかったの?」
男は答えなかった。
その代わりに、涙がこぼれた。
一滴。
また一滴。
床に落ちた涙は、黒い雫へ変わった。
男は、それを見つめていた。
「……僕は」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「誰かに、僕のことを覚えていてほしかったのかな」
母親は、何も言わなかった。
その問いに、簡単な答えを与えることはできなかった。
男が何者なのか。
何を失ったのか。
そもそも、本当に何かを持っていたのか。
それすら分からない。
だから、母親はただ、言った。
「……それなら、あなた自身が、あなたのことを忘れないで」
男は目を見開いた。
「……僕が?」
「ええ」
母親は娘の手を握った。
「誰かに覚えていてほしいなら、まず、あなた自身が自分を見失わないで」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう」
その瞬間、彼の姿が薄くなった。
母親は、手を伸ばした。
「待って!」
男は振り返った。
「あなたの名前は?」
男は、口を開いた。
だが。
音が出なかった。
その顔が、苦痛に歪む。
「……僕は」
声が途切れる。
「僕は、誰……?」
病室の時計が止まった。
真帆が、母親の手を強く握った。
「お母さん!」
母親は、娘を抱きしめた。
男の姿が、影へ沈んでいく。
最後に残ったのは、黒い雫だった。
そして、その雫が床に落ちる前に。
病室の窓の外から、声が聞こえた。
「……それ以上は、いけない」
11 悲嘆と憂鬱は、同じものではない
病室の窓辺に、デスが立っていた。
黒い服の裾が、風もないのに揺れている。
男の姿は、すでに半分ほど影へ沈んでいた。
デスは、彼を見つめていた。
「お前は、名前を失ったのか」
男は答えなかった。
「それとも、名前を与えられなかったのか」
その言葉に、男の肩が震えた。
「……分からない」
「そうだろうな」
デスは、静かに言った。
「分からないことそのものが、お前の苦しみなのだから」
男は、必死に顔を上げた。
「君なら、分かるの?」
「何を?」
「僕が何者なのか」
デスは首を横に振った。
「分からない」
男は、絶望したように笑った。
「……そう」
「だが、分からないからといって、お前が何をしてもいいことにはならない」
デスは、一歩近づいた。
「お前は、他人から悲嘆を奪った。悲しむ理由を削り、失ったものを忘れさせようとした」
「……僕は、助けたかったんだ」
「誰を?」
男は黙った。
「悲しんでいる者をか?」
デスは問うた。
「それとも、悲しみを見ている自分自身をか?」
男の目が、揺れた。
「……分からない」
「ならば、分からないまま、他人の人生を変えるな」
その言葉は、厳しかった。
だが、デスの声には、憎しみはなかった。
「悲嘆は、私が担うものだ」
デスは、床に落ちた黒い雫を見つめた。
「だが、悲嘆は私の所有物ではない。誰かが悲しむことを、私が許可するわけではない。誰かが悲しまないことを、私が禁じるわけでもない」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……じゃあ、君は何をするの?」
「悲しみを抱えている者が、その悲しみに押し潰されないようにする」
デスは答えた。
「必要なら、その悲しみを食べる。だが、悲しみを抱いていた理由まで、勝手に奪うことはしない」
男は、困惑したように眉を寄せた。
「……どうして?」
「理由があるからだ」
「理由?」
「悲しみには、失ったものがある」
デスは、母親と娘を見た。
「失ったものが大切だったから、悲しい。失ったものを愛していたから、悲しい。もう会えない者がいるから、悲しい」
デスの声が、わずかに柔らかくなる。
「悲しみを消すことが、その者を救うことになる場合もある。だが、悲しみを抱えていること自体が、その者の愛を証明している場合もある」
男は、目を伏せた。
「……僕には、そんなものがない」
「そう決めつけるな」
デスは、即座に言った。
男が顔を上げる。
「お前が何を失ったのか、私は知らない。だが、何も分からないからといって、お前の過去が空白だったと決まったわけではない」
「……」
「そして、もしも本当に何も与えられていなかったのなら」
デスは、男を見つめた。
「それは、お前が他人から奪っていい理由にはならない」
男は、震える唇を開いた。
「……僕は、どうすればいい?」
デスは答えなかった。
答えを持っていないからではない。
男が、自分で考えなければならないからだ。
その時。
病室の外で、空気が変わった。
音が消えたわけではない。
光が消えたわけでもない。
ただ、世界に満ちていたものが、一瞬だけ遠ざかった。
出久は、廊下の入口で足を止めた。
お茶子も、死神も、その異変を感じ取っていた。
「……何だ?」
出久が呟く。
死神は、病室の窓を見つめていた。
「来るな」
その声は、出久に向けられたものだった。
「え?」
「ここから先へ、進むな」
死神は、出久を制した。
「これは、デスの気配ではない」
お茶子の顔が強張った。
「じゃあ……」
「憂鬱だ」
死神は答えた。
その瞬間、病室の窓ガラスに、黒い文字が浮かび上がった。
――なぜ、悲しむのですか。
文字は、ゆっくりと変化した。
――悲しんでも、失ったものは戻らない。
さらに、文字が変わる。
――失ったものが戻らないのなら、なぜ、まだそれを求めるのですか。
母親は、娘を抱きしめたまま、窓を見つめていた。
デスは、窓の外を見た。
「……お前か」
その声に、明確な警戒が混じった。
死神が、出久の隣に立つ。
「デス?」
「違う」
デスは、静かに答えた。
「これは、私ではない」
窓に、最後の文字が浮かび上がる。
――なぜ、満たされないのですか。
そして、その下に。
――アザトース。
名前だけが、残った。
出久は、息を呑んだ。
「……アザトース?」
死神は頷いた。
「憂鬱に結びつく名だ。だが、ここに現れたものが、アザトースそのものなのかは分からない」
デスは、窓を見つめていた。
「悲嘆と憂鬱は、同じではない」
その声は、誰に向けられたものでもなかった。
「悲嘆は、失ったものを悲しむことに関わる。憂鬱は、失ったものを求める力さえ薄れていくことに関わる」
デスは、ゆっくりと目を閉じた。
「悲しむことができる者は、まだ失ったものを覚えている。だが、憂鬱の底では、何を失ったのかさえ分からなくなることがある」
出久は、窓を見つめた。
文字が消えていく。
だが、最後の一文だけは、消えなかった。
――私は、何を願えばよかったのだろう。
その言葉を見た瞬間。
出久の脳裏に、世界の外側で聞いた声がよみがえった。
――私には、願うことが許されていなかった。
「……まさか」
出久は呟いた。
死神は、彼を見た。
「何か思い当たることがあるのか?」
「前に、聞いたんです」
出久は、震える声で答えた。
「世界の外側にいる何者かが、同じことを言っていた」
死神の目が細くなる。
「……同じ存在だと?」
「分かりません。でも……」
出久は、窓を見つめた。
「同じ問いを、何度も繰り返しているんです」
なぜ願うのか。
何を望むのか。
何を失うことを恐れているのか。
そして、なぜ満たされないのか。
「……世界は」
出久は、ゆっくりと呟いた。
「誰かに、何かを問い続けられているんでしょうか」
誰も答えなかった。
ただ、デスは窓の外を見つめていた。
その顔には、これまで見たことのない表情が浮かんでいた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
それは、長い間、死者の悲しみを見つめ続けてきた存在が、初めて理解できないものに出会った時の表情だった。
「……あれは」
デスが呟いた。
「悲しみを知らないのかもしれない」
出久は、顔を上げた。
「悲しみを、知らない?」
「あるいは」
デスは続けた。
「悲しむことが許されなかったのかもしれない」
その言葉が、病室に落ちた。
母親は、娘を抱きしめた。
真帆は、母親の胸に顔を埋めた。
そして、二人は泣いていた。
悲しいから。
怖いから。
失いたくないから。
それでも、互いを大切に思っているから。
窓に残っていた文字が、ゆっくりと消えていく。
最後に残ったのは、一つの問いだった。
――では、悲しむことを知らない者は、何を失うことを恐れているのだろう。
12 奪う者が、最後に奪うもの
その夜。
世界の各地で、異変が起きた。
ある街では、人々が家族の名前を忘れ始めた。
ある学校では、生徒たちが卒業アルバムを見ても、そこに写る友人たちのことを思い出せなくなった。
ある病院では、患者が自分の病気を恐れなくなった。
ある避難所では、亡くなった家族の写真を見ても、誰も涙を流さなくなった。
そして、ある場所では。
一人の男が、何もない空間を見つめていた。
男の姿は、先ほどまで病院にいた存在とよく似ていた。
黒い服。
白い肌。
疲れたような微笑み。
だが、今の彼の顔には、明確な感情が浮かんでいた。
恐怖。
「……違う」
男は、自分の手を見つめた。
「こんなはずじゃない」
手のひらには、黒い雫がいくつも浮かんでいた。
悲しみ。
後悔。
恐怖。
執着。
そして、名前を失った記憶。
それらは、すべて彼の中へ流れ込んでいた。
だが、どれだけ集めても、足りなかった。
何かが欠けている。
何かが、決定的に足りない。
「……どうして?」
男は、胸を押さえた。
「どうして、満たされないんだ?」
答えはなかった。
その代わりに、空間の奥から、声が聞こえた。
――あなたは、何を求めているのですか。
男は顔を上げた。
「……僕は」
――何を手に入れれば、満たされるのですか。
「僕は……」
――何を失ったことを、恐れているのですか。
男は、口を開いた。
そして。
初めて、はっきりと答えた。
「……僕は、忘れられることが怖い」
その声は、震えていた。
「僕が、誰かに忘れられることが」
男は、両手で顔を覆った。
「僕がいたことを。僕が何を願ったのかを。僕が何を失ったのかを。僕が、ここにいたことを……」
言葉が途切れた。
男は、泣いていた。
「……誰かに、覚えていてほしかった」
その瞬間。
彼の周囲に浮かんでいた黒い雫が、すべて砕け散った。
悲しみも。
後悔も。
恐怖も。
執着も。
それらが、一斉に消えていく。
男は、息を呑んだ。
「……あ」
胸の奥が、空っぽになった。
何もない。
何も感じない。
何も求めない。
何も失いたくないと思わない。
男は、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうか」
その顔から、涙が消えた。
「これが、満たされるということなんだ」
彼は笑った。
穏やかに。
静かに。
何の感情もなく。
「……何も欲しくなければ、何も失わない」
男は、空間の奥を見つめた。
「何も大切でなければ、何を失っても苦しくない」
その言葉は、まるで自分自身へ言い聞かせるようだった。
「そうだ」
彼は頷いた。
「僕は、もう何も失わない」
だが。
その瞬間。
男の足元に、一つの影が現れた。
黒い影。
長い影。
その輪郭は、人間のものに似ていた。
影は、男の足元からゆっくりと伸びていく。
そして、男の胸へと戻ってきた。
男は、影を見つめた。
「……君は、誰?」
影は答えなかった。
ただ、男の胸の中へ溶け込んでいった。
その瞬間、男の表情が凍りついた。
「……あ」
彼は、自分の胸を押さえた。
「……僕は」
声が震えた。
「僕は、何を……」
そこで、言葉が止まった。
男は、自分の名前を思い出そうとした。
思い出せない。
自分がどこから来たのか。
思い出せない。
自分が何を望んでいたのか。
思い出せない。
自分が何を失ったのか。
思い出せない。
男は、ゆっくりと膝をついた。
「……どうして?」
何も欲しくない。
何も悲しくない。
何も失いたくないと思わない。
それなのに。
「……どうして、こんなに……」
苦しいのか。
その言葉さえ、最後まで出てこなかった。
男は、泣こうとした。
だが、涙が出ない。
助けを求めようとした。
だが、誰に助けを求めればいいのか分からない。
名前を呼ぼうとした。
だが、誰の名前も思い出せない。
そして。
男は、最後に残ったものを失った。
自分が、何かを失ったことを恐れていたという事実。
それすらも、消えていった。
男は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、何もない空間を見つめた。
「……僕は」
彼は微笑んだ。
「……何も、失っていない」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
13 緑谷出久は、答えを拒む
病院を出た後、出久は夜空を見上げていた。
お茶子は隣にいる。
死神は、少し離れた場所で立ち止まっていた。
街の明かりが、夜空の下に広がっている。
人々は、まだ何も知らない。
自分の記憶が少しずつ削られていることも。
誰かが、自分の心の奥に手を伸ばしていることも。
そして、世界の外側で、何かが問い続けていることも。
「……緑谷くん」
お茶子が呼んだ。
「うん?」
「さっきの人……」
彼女は、言葉を探していた。
「かわいそうだって、思った?」
出久は、少しだけ考えた。
「……思ったよ」
お茶子は頷いた。
「うちも」
二人は、しばらく黙っていた。
「でも」
お茶子が言った。
「かわいそうだからって、何をしてもいいわけじゃないんだよね」
「うん」
出久は答えた。
「相手がどれだけ苦しんでいても、誰かの痛みを勝手に奪っていい理由にはならない」
彼は、自分の手を見つめた。
「でも、あの人が何を失ったのかは、まだ分からない」
「……うん」
「もしかしたら、本当に何も与えられていなかったのかもしれない。誰にも名前を呼ばれなかったのかもしれない。誰にも覚えていてもらえなかったのかもしれない」
出久は、拳を握った。
「それでも、僕たちは、あの人が何者なのかを決めつけちゃいけないと思う」
お茶子は、彼を見つめた。
「緑谷くんは、助けたいんだね」
出久は、答えられなかった。
助けたい。
そう思う。
だが、誰を?
何を?
どうやって?
相手が他人の心を奪い続けるなら、止めなければならない。
それは、間違いない。
けれど、止めることと、救うことは同じではない。
そして、救うことと、相手の望みをすべて叶えることも同じではない。
「……僕は」
出久は、ゆっくりと言った。
「助けたい。でも、助けるために、何をしてもいいとは思わない」
彼は顔を上げた。
「その人が何を望んでいるのか、ちゃんと知りたい。何を失ったのか、何を恐れているのか、何を取り戻したいのか」
一度、言葉を切る。
「でも、その人の答えが、誰かを傷つけるものなら……僕は、それを止める」
お茶子は、静かに頷いた。
「うん」
彼女は、出久の手を握った。
「一緒に考えよう」
出久は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
その時。
死神が、二人のもとへ戻ってきた。
「話は終わったか」
「はい」
出久は頷いた。
「死神さん。あの存在について、何か分かったんですか?」
死神は、しばらく黙っていた。
「一つだけ」
「何ですか?」
「お前たちが見た存在は、悲嘆そのものではない」
死神は、夜空を見上げた。
「そして、憂鬱そのものとも限らない」
出久は眉を寄せた。
「……それは、どういう意味ですか?」
「デスは悲嘆を担う。アザトースは憂鬱に結びつく。だが、今回の存在は、そのどちらかに分類できるとは限らない」
死神は続けた。
「人間の感情は、八つの欲望という枠組みだけで、すべてを説明できるわけではない。欲望が重なり、矛盾し、形を変えることもある」
「……」
「今回の存在が奪っているものは、悲嘆だけではない。記憶だけでもない。感情だけでもない」
死神は、出久を見た。
「それは、失ったものを失ったと認識するための、最後のつながりだ」
出久の顔が強張った。
「最後の、つながり……」
「自分が何を大切にしていたのか。何を失ったのか。何を取り戻したいのか。それを知るためのつながりだ」
死神は、静かに言った。
「それを失えば、人間は、失ったものを取り戻そうとすることさえできなくなる」
出久は、言葉を失った。
それは、単に悲しみを奪うことではない。
人間から、過去を振り返る力を奪う。
未来を望む力を奪う。
自分が何者なのかを理解するための手がかりを奪う。
そして最後には。
自分が何かを失ったことさえ、分からなくなる。
「……そんなの」
出久は、震える声で言った。
「そんなの、生きているって言えるんですか?」
死神は、すぐには答えなかった。
「……分からない」
その答えは、出久にとって意外だった。
死神は、死を知っている。
悲嘆を知っている。
失われたものを知っている。
その死神が、分からないと言った。
「だが、一つだけ分かることがある」
死神は、出久を見据えた。
「生きているかどうかを、本人の意思を無視して決めていい者など、いない」
出久は、顔を上げた。
「……はい」
「そして、誰かが自分自身を見失いかけている時、その者に必要なのは、外側から与えられた正解ではない」
死神は、病院を振り返った。
「自分が何を望むのか、もう一度考えられるだけの時間だ」
その言葉を聞いて、出久は思い出した。
安寧システム。
第一管理者。
観測者。
世界の外側にいる、名もなき存在。
そして、あの問い。
――私は、何を願えばよかったのだろう。
もしかしたら。
世界を生み出した願いは、誰かを救いたいという願いだったのかもしれない。
誰も失いたくない。
誰も傷つけたくない。
誰も悲しませたくない。
その願い自体は、間違っていなかったのかもしれない。
だが、その願いが、誰かの意思を奪うものになった時。
誰かの痛みを、本人に断りなく消すものになった時。
誰かの存在を、本人が望んでいない形へ変えるものになった時。
その願いは、誰を救うためのものだったのか。
「……僕は」
出久は、静かに呟いた。
「誰かを救いたい」
お茶子が、彼を見た。
「でも、それだけじゃ足りないんだ」
出久は、夜空を見上げた。
「救いたいと思うことと、相手が何を望んでいるのかを知ること。その二つは、別なんだ」
彼は、ゆっくりと息を吸った。
「僕は、相手の望みを聞く。相手が何を失ったのかを知ろうとする。だけど、その人のために、別の誰かの人生を奪うことはしない」
その言葉は、自分自身への誓いでもあった。
「……誰かが失うことを恐れているなら」
出久は、拳を握った。
「その恐怖と向き合うための道を、一緒に探したい」
そして。
「でも、誰かが失うことを恐れているからって、世界中の人から何かを奪うことを、僕は認めない」
死神は、静かに頷いた。
「ならば、覚えておけ」
「はい」
「お前がこれから向き合うものは、単なる敵ではない」
死神は、夜空の向こうを見つめた。
「自分が何を失ったのかさえ分からなくなった存在だ」
出久は、唇を噛んだ。
「……はい」
「そして、その存在が本当に求めているものを見つけられなければ、世界は同じ問いを繰り返すことになる」
風が吹いた。
街の明かりが揺れた。
死神は、最後に一言だけ付け加えた。
「奪う者は、失うことを恐れている。だが、奪い続ける者は、いつか、自分が何を恐れていたのかさえ失う。」
出久は、その言葉を胸に刻んだ。
そして、歩き始めた。
世界のどこかで、今も誰かが何かを失っている。
その人が何を失ったのか、誰にも分からないまま。
14 誰もいない場所で、誰かが名前を呼ぶ
世界の外側。
そこには、空も海もなかった。
地面と呼べるものもない。
ただ、どこまでも続く空白があった。
その空白の中に、一つの影が浮かんでいた。
人間の姿に似ている。
だが、人間ではない。
輪郭は定まらず、顔は見えず、声さえ、どこから聞こえているのか分からない。
影は、静かに呟いた。
「……悲しみを奪えば、満たされると思ったのです」
返事はない。
「怒りを奪えば、争いがなくなると思ったのです」
空白が揺れた。
「欲望を奪えば、誰も傷つかなくなると思ったのです」
影は、自分の手を見つめた。
「それなのに」
その声が、少しだけ震えた。
「どうして、何もかも失ってしまうのでしょう」
沈黙。
影は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私は、何を失ったのですか?」
答える者はいない。
「私は、何を与えられていたのですか?」
答える者はいない。
「私は、何を願えばよかったのですか?」
その問いに、空白が揺れた。
遠くで、何かが目を覚ましたような気配がした。
影は、そちらを向いた。
「……ああ」
その声には、安堵が混じっていた。
「あなたも、そこにいたのですね」
空白の奥から、声が響いた。
それは、誰かの声に似ていた。
だが、誰の声でもなかった。
――あなたは、まだ、願うことを諦めていないのですね。
影は、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ」
そして、笑った。
「私は、願い方を忘れてしまったのです」
声が消えた。
空白が広がった。
影は、自分の胸に手を当てた。
そこには、何もなかった。
名前も。
記憶も。
願いも。
失ったものを失ったと認識するための、最後のつながりさえも。
それでも。
影は、誰かを呼ぼうとした。
「……ねえ」
声が掠れた。
「誰か……」
言葉が途切れる。
「……誰か、私のことを……」
その先は、音にならなかった。
影は、口を閉じた。
そして、ゆっくりと顔を伏せた。
その時。
空白の向こうから、別の声が響いた。
――あなたは、何を失うことを恐れているのですか?
影は、答えようとした。
だが、答えられなかった。
なぜなら。
その影は、もう、自分が何かを失うことを恐れていたという事実さえ、覚えていなかったからだ。
空白が、静かに広がっていく。
そして、世界のどこかで。
一人の人間が、突然、泣き出した。
何を失ったのか分からないまま。
誰を失ったのか分からないまま。
ただ、自分が何かを失ったという感覚だけを抱えて。
その涙を、誰かが見ていた。
黒い服を着た、死神が。
デスは、静かに目を閉じた。
「……まだ、終わっていない」
彼は、涙を見つめた。
「悲嘆は、まだここにある」
そして、その向こう側。
憂鬱の名を持つ、何かの気配が。
世界の外側で、ゆっくりと目を開いた。